枯木伝

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梗 概

枯木伝

 淡路島を巡る旅行をしている好事家が、日本書紀とは異なる香木の伝来の物語を知る。

 

 昔、瀬戸内海のとある島に、男の子と女の子が住んでいました。二人はまだ十歳になったばかりで、とても仲がよく、日が暮れるまで遊んでいました。ある日、二人が沖合の島まで泳ぎくらべをすると、島にはとてもいい香りのする木が生えていました。今までそんな木があったことなど知らなかったのですが、気づかなかったことが不思議なくらい、薫り高い木でした。。男の子は止めたのですが、女の子は好奇心旺盛だったので、そこになっていた木を食べてしまいました

 その日から、女の子の体からは、その木と同じようにいい香りがするようになりました。そのため、多くの人が結婚を申し込むようになりました。その様子を見て、女の子のお父さんは、都に連れていこうとしました。立派な人のお嫁さんにしようと考えたのです。男の子は香りを頼りに追いかけます。でも、男の子はこの間泳いだ時に足を怪我していたので、なかなか追いつけません。

 その上、都に向かう途中、役人たちに掴まってしまいました。女の子があまりにもいい匂いだったので、役人たちが不思議に思ったのです。役人は、女の子を帝のお世話係として献上し、出世しようとしたのです。

 女の子を助けられなかったので、男の子は道の真ん中で泣き出しました。すると、不思議な声がします。「あの木を切り倒し、それを帝に献上しなさい」と。

 男の子は訳も分からないまま、その木を必死で切り倒し、命がけで走って都まで運んでいきます。そして、帝の屋敷に忍び込むと、「この木を献上します」と大きな声で訴えました。

 この枝は、女の子よりもはるかにいい香りがしたので、人々は不思議がりました。女の子は言いました。「私は、あの木になっていた実を食べてから、体から香りがするようになったのです」と。

 帝の側近が言いました。「きっとあれが異国の書物の伝える香木というものに違いない。あれで遠い国の神様の像を作ろうではないか」と。

 途端に女の子の体が宙に浮き、光とともに昇天していきます。女の子は「私は新しい神さま、仏の化身です。この国に教えを伝えるために、漁師の娘の姿を取ったのです」といいながら、消えていきました。

 男の子が訳も分からないまま人々を見ていると、あたりのものすべてが光に包まれ、遠い国の花に囲まれまま、空へ登っていきます。ただ一人残された男の子は、気づくと女の子と泳いだ島に一人で立っていました。両手を見ると皺だらけになっていて、男の子はいつの間にかおじいさんになっていたのでした。

 

 好事家は、舞台の一つとされる島の前に立ち、歴史に思いをはせる。

 

■参考資料

「日本書紀 全現代語訳」(講談社学術文庫)宇治谷 孟

兵庫神社庁ウェブサイト http://www.hyogo-jinjacho.com/data/6328103.html

文字数:1191

内容に関するアピール

 好きになった女の子がどこか遠くに行ってしまう話です。いや、まだ好きだという感情や、恋を知る前なのかもしれません。

 淡路島を回ったときに、日本で初めて香木が流れ着いたとされる場所に小さな神社があって、そこから着想を得ました。聖徳太子は、その香木から仏像を作らせたそうです。なので、舞台は飛鳥時代になるはずなのですが、物語全体に、どことなく仏教説話的な印象を与えたいと思っています。つまり、語られる物語の成立は、もっと時代が下っており(平安以降?)、その時代の脚色が混じっているという想定です。

 実作段階では、淡路島を巡った好事家が、地元の図書館や資料館の古文書を閲覧し、イマジネーションを膨らませていく、という枠物語を考えています。

文字数:316

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枯木伝

 私の実家は淡路島の南にある小さな島だ。実家と言っても、父が若い頃に東京に出てしまっているので、私にとってはお盆やお正月に訪れる場所に過ぎず、本当なら父の実家と呼ぶべきで、こうして院生になった今となってはほとんど足を運んでいない。私たちの祖父母が特に保守的だというわけではないのだけれど、実家を訪れるたびに恋人の有無を尋ねられるのには少々閉口している。とはいえ、かわいがってくれるのは間違いないわけで、なんというか、早く結婚しろとせっつかれるわけではなく、それだけでは迷惑千万だと言って切って捨てる気にもなれない。そんなことを言いながらも、やや実家から遠ざかってしまったのも、別に気にしていないとは言いながらも、煩わしさを感じていたからだという証拠なのかもしれない。単純に私に彼氏ができる気配がなかったので、恋愛とか結婚とかの話題が出ることをうっとうしがっていたのだろう。

 たまたま実家の誰かの何周忌かなんかで、いい加減に顔を出せ、と言われたのは、去年の夏のことだった。確かにしばらく不義理をしたな、と思わなくもないので、何泊か厄介になることにした。これは、父も母も多忙で東京を離れらなかったからでもある。けれども、お盆丸ごとを実家で過ごすのも、息が詰まるとまではいわないまでも、娯楽の少なく、源平合戦からも離れていたために名所旧跡のない島では手持無沙汰になってしまうだろうと考えたので、何日かは、どのみち途中経由することになる淡路島を自転車で回ってみようと考えたのである。

 いつもなら、東京から明石まで新幹線で行き、そこからバスで島の南端の福良に向かう。で、フェリーとは言えない大きさの船で実家に行くのだけれど、今回は明石の対岸の岩屋までフェリーで向かい、島を反時計回りで半周する。実家で何日か過ごし、帰路は福良から反時計回りで岩屋に戻る。おおよそそんな計画を立てた。

 実際に回ってみて、これはかなりきつい旅程であったと気づいた。それほど自転車旅行に慣れていない人でも、淡路島を二日かければ一周できる、なんてパンフレットには書いていあったのだけれど、よく考えればそれは関西の人向けの案内だ。東京を早めに出たが、フェリーの接続や自転車のサイズの調整で思いがけず時間を取られ、岩屋を出たのは一時を少し回っていた。太陽が傾くにつれて、始発の新幹線に乗るべきだったと悟った。ついでにお尻が猛烈に痛くなって、きちんと坐り方を調べてくるんだったって後悔した。そういえば行きの船に折り畳み自転車を持ったレーシングパンツ姿の夫婦を見たのだけれど、やっぱりああいう格好をしないから痛いんだろうか。それと、全然関係ないんだけれど、男の人ってサドルに腰かけたとき、股間のものが邪魔にならなんだろうか、なんてことも気になった。本当は、研究テーマの方向性についてもっと考えたかったのだけれど、必死になって漕いでいるので頭の中は複雑なことを受け付けない。男兄弟がいればそういう疑問は兄か弟に聞けばいいんだけれど、残念ながら私は一人っ子だ。そういえば研究室にちょっとデリカシーがない男の子がいるけれど、その人も姉か妹がいればちょっとはマシだったのかな、彼から見れば私の別の意味でデリカシーがないのかな、と様々に考えたり首を傾げたりしたのである。

 なにかと悩んでいたからではないが、福良についたのは日が暮れてからになってしまった。途中で伊弉諾神宮に寄り道をしようとして道に迷ってしまったせいもある。そんな余裕はなかったはずなのだが、どこか一か所くらいは観光名所には立ち寄りたかったのだ。それと、枯木神社というのも横で通り過ぎた。なんでも、日本初の香木が流れ着いた場所だそうだが、島の西岸にどういう理屈で熱帯の植物が流れ着くのは、私にはわからなかった。

 福良で一泊してから、私は朝一番の便で実家に向かった。宿では温泉につかることができたので、私はお尻が痛いのはすっかり良くなった。それと、これは途中立ち寄った道の駅に言えることだったけれど、とにかく玉ねぎと淡路牛がおいしかった。

 島の北と南のレンタサイクル屋さんが提携してくれていたおかげで、私は自転車をここに置いたまま、しかも料金を払わずにいられたのだ。

 

 実家では、みんなあたたかく迎えてくれた。ただ、あまりなじみのない親戚と話すのも億劫だったので、祖父母に挨拶をした後は、食事時を除いて父の部屋に引っ込んでいることにした。雑然と物が置かれてはいたものの、本棚は父が東京に出たときそのままで、父がかつて読んだ、しかし東京に持って行くまでもないと考えた本が並んでいる。たとえば子ども向けにリライトされた世界文学全集だとか、明治の文豪のマイナ―な作品とかだ。文豪の全集はいくつか歯抜けになっていて、それは父の書斎にあるのだろう。父の読書歴の痕跡が面白かった。父も母も本を読む人間であったにもかかわらず、不思議なのは、父は母がここに挨拶に来たときに、頑なにこの部屋に母を立ち入らせなかったらしいことだ。今でも仲がいいほうなのだが、互いの読書の趣味は重なっておらず、おすすめの本を紹介しあっている様子もない。どうも夫婦というものの距離感が私にはわからない。わからないけれども、私がこうしてロシア文学を専攻することになる遠因がここにあるのだと考えるのは楽しい。いい機会なので再読しようと「未成年」を持ってきたのだが、昨晩は宿で倒れ込むように眠ったので、新幹線以来全然読めていない。

 そこでぼんやりしていると、いつの間にか近づいてきた祖父母からお小遣いをもらった。ありがたいことに、まだ私の世代ではまだ誰も子供がいないので、私は渡す側に回ることはなかった。そんなことを思ってにやにやしていると、そろそろ一族揃って夕飯だとのことだった。

 

 今回もやっぱり恋人の有無を聞かれたのにはうんざりした。

 同じ研究室の先輩が、実家に行くと女のくせに大学院に行っただのなんだのと、前世紀か前前世紀かと見まがう時代錯誤の繰り言をちくちくやられるから久しく帰っていない、ということを言っていたのだけれど、私のところではそこまで保守的どころか反動的なことを言わないだけましなのかな、いや、でも彼氏がいるかどうかも詮索されるのだけでも面倒だよな、別に結婚願望がないわけじゃないんだけれど、外野からいろいろ口を挟まれると、その意地だけで結婚なんてしないなんて言ってやりたくなることもあり、それではあまりにも大人げないかもしれないけれど、それが私なんだからしょうがない、なんてことをぐるぐる考えながら、でも明確な結論を出すことなくうんうんうなずいていると、隣に従兄が座ってきた。

 従兄はスマートに話題の方向転換してくれて、誰それが今どこで暮らしているとか相続がどうこうとかと、私からは話題が遠ざかっていった。噂話というのは、自分がターゲットにならない限りはそれなりに面白いもので、私は改めて家系図を頭の中で描き直した。とりあえず身内に弁護士と医師がいて、しかも都内にいるとわかったので、何かあったらそこに相談しようと思う。気楽に聴いていられる話になると、途端に目の前の魚のおいしさに気づいた。さすがに漁師の島だけのことはある。お酒も進む。

 で、この従兄、私よりも一つか二つ年上で、やっぱり文学部の大学院に進学したのだけれど、私と違って通っているのは関西の大学、専門は平安時代の日本文学で、ちょっとだけ奈良時代にも興味があるらしい。ただ、従兄によれば奈良時代ともなると残っている資料そのものが少ないらしく、大体同じような資料から用例を研究しているそうだ。関西だと研究には便利そうだ。聖地巡礼もやりやすそうだし。

 そういえば、と私は尋ねた。従兄なら日本史に詳しそうだからだ。ここに来る途中枯木神社ってあったんだけど。

 彼はうなずく。「日本書紀」によると、そこで日本に初めて香木が流れ着いたとされている。聖徳太子はそれで仏像を作ったんだそうだ。

 言われてみれば、そんなことが伊弉諾神宮の碑にも書いてあったなあ、と思い出したのだが、私は首を傾げ、従兄に見せるためにスマホで地図を呼び出す。枯木神社は淡路島の西にある。香木って、東南アジアかどこか、熱帯の植物だったはずだ。当然南から流れてくるわけで、そうなると淡路島の南岸にたどり着くのが道理だ。せめて東側だ。なんで西岸に神社があるのか、その理屈がわからない。海流の関係か、って考えて海上保安庁の地図を呼び出したのだけれど、どうも納得できるような感じではない。

 半ば酔っ払ったまま、私はそんなことを従兄に尋ねた。

 そうすると従兄は、私のアドレスに次のような話を送ってくれた。ちょうど僕が研究している話にそう言うのがある。「淡路国風土記」の抄訳だ。神話の島だからね。「枯木伝」、とも呼ばれる話だ。

 

* * *

 

 今となっては昔のことなのですが、この島は漁師たちがたくさん暮らしていました。

 都からそれほど離れていない島だということもあって、貴い身分の方たちが召し上がるお魚や貝なども献上していたのです。中には、雲の上の人々のお口に入るものもあるということでした。漁師たちは、そのことを知っていたからでしょうか、たいそうな働き者で、朝から晩まで海に出て魚を山ほどつかまえていたのでした。それでも、いくらとっても取り切れないほど海の幸に恵まれた島でした。

 さて、そのころこの島には、男の子と女の子が住んでいました。二人はまだ子供でした。男の子はまだ一人で漁に出られるほど大きくなっていませんでしたし、網を引くだけの力もありませんでした。船に乗っていたとしても、足手まといにならないように隅っこに座らされていることが多いのでした。女の子のほうも、網を繕うだけの年にはなっていませんでしたし、面倒を見ないといけないきょうだいもいませんでした。というのも、女の子の両親は亡くなっていたからです。なので、男の子のお父さんが女の子の面倒も見ていました。お父さんは奥さんを失くしていたのですが、腕のいい漁師だったので、子供が一人増えたくらいではそれほど困らなかったのです。それに、奥さんが亡くなったのも、女の子の両親が亡くなったのも、昨年のひどい野分のためだったため、同じ境遇の身としては、放っておけなかったのです。

 男の子も女の子も、こういうつらい目にはあっていたのですが、そんなことを感じさせないほど、二人は毎日楽しく遊んでおりました。まるで本当のきょうだいのように、どこに行くのも一緒でした。秋には紅葉狩りをしに山に入り、冬には雪で人の形を作りました。身分の高い方たちのお世話をする女官たちにも劣らず、季節の移ろいごとの遊びをたくさん知っていました。春の訪れを告げる梅や桜が二人は大好きでしたし、夏には水遊びをしました。特に、朝から晩まで海で泳ぐのが大好きで、天気のいい日には沖にある島まで競争するのでした。日が暮れるまで、海鳥の声を聴きながら遊んでいました。

 

 そんなある日のことです。今日もまた、二人は沖にある島まで泳いでいきました。体はすっかり冷えてしまいましたが、日向で寝そべっているととてもあたたかくて、すっかり気持ちがよくなりました。そのまま二人並んでうとうとしていると、もっと遠くに、別の島が見えました。女の子は、その島に行ってみたくてたまらなくなりました。男の子は心配になりました。確かに、女の子は元気いっぱいです。力こそ男の子のほうが強いですが、長く走ることにかけては男の子には負けません。頑張り屋さんなので、他の女の子と遊ぶときのように、手加減しなくていいのです。だから男の子は女の子と一緒にいるのが大好きだったのですが、それでも気がかりでした。というのも、ここからあの島までは、ここから浜辺よりも遠いように見えたからです。それに、もしも遊びすぎて日が暮れたら、帰れなくなってしまうかもしれません。でも、女の子はどうしても行きたいようでした。それに、遠くの島には海鳥がいっぱいいるようで、それも見たい、と言いました。女の子は海鳥が大好きだったのです。

 二人はまた海に飛び込みました。男の子が心配したほどには島は遠くないようでした。潮の流れもそれほどきついものではなく、気持ちよく泳ぐことができました。岩だらけの島でしたが、泳ぎ着いたところには体を預けられるところもあり、高いところまで登っていくのはそれほど難しいことではありませんでした。

 二人は、島の上に立って浜辺のほうを見やりました。集落の煙がたなびいているのが見えます。振り返ると、遠くで漁をしている舟も見えます。あれはお父さんの舟でしょうか。遠いのではっきりとはわかりませんが、二人は手を振ってみました。とはいえ、忙しいからでしょう、舟の上の人影は、こちらに気づいた様子はありません。さらに遠くには、きっと都に通うのでしょう、もっと立派な舟がすいすいと進んでいくのでした。

 することもなくなったので、二人は島を隅々まで探検することにしました。岩だらけの島ですが、不思議と歩きやすいところがあり、隅々まで探検することができました。道が入り組んでいたので、声は聞こえるのに姿の見えないところがたくさんあり、二人は面白がったり怖がったりしました。

 そうしているうちに、とてもいい香りがしてきました。今まで嗅いだことのない、不思議な甘い香りでした。どこから漂ってくるのかはっきりしませんでしたし、近づこうにも、道がぐるぐると遠回りをするようなものばかりだったので、なかなかたどりつけません。けれども、どれほど苦労してもいいので近づきたいほどいい匂いなのでした。

 二人はやっとのことで、その香りの源にたどり着きました。それは、島のてっぺんに生えた小さな木でした。海風に吹かれているからでしょうか、ねじくれて複雑な形をしています。それでも、真っ直ぐな樹にはない気品がどこかありました。そして、塩にまみれたその枝に、えもいわれぬ美味しそうな果物がなっていました。

 見たことがないものなので、食べていいのかどうか心配でしたが、それを考えるには、二人はあまりにもお腹が減っていました。いつもよりも遠くまで泳いだので、無理もありません。女の子がもぎ、男の子もそれに続きました。あまりにもおいしくて、いくらでも食べ続けることができました。二人はおなか一杯になると、そのまま眠ってしまいました。これも、きっと疲れていたからでしょう。泳いだばかりでなく、島の隅々まで歩き回ったのですから。

 

 二人が起きると、お日様が反対側から照っていました。先に目を覚ました男の子は、頭がはっきりすると青ざめました。お日様が東に出ています。二人とも寝過ごしてしまったのです。きっとお父さんは心配しているでしょう。村中で探しているかもしれません。きっと帰ったら大目玉を食らうに違いありません。

 それでも、帰らないわけにはいきませんでした。二人は慌てて海に飛び込みました。いつもの島で一休みするだけで、一息に泳いでいきました。これだけ早く泳げたのは、潮の流れが浜辺に向かっていたからでしょうか。

 二人は急いで村に向かいました。家に帰ると、ちょうどみんなが集まっていたところでした。男の子は、何回殴られるのだろう、と怯えていましたが、みんなは驚いた顔をしたまま動きません。それがますます怖くて、思わず女の子と顔を見合わせると、みんなが二人に聞きました。そのいい匂いはなにか、と。

 二人は自分やお互いの体を嗅いでみましたが、よくわかりませんでした。でも、かすかにあの木や果実の香りがするような気もします。大人たちは、何かうっとりするようにこちらを見つめています。それどころか、子供たちまでこちらをじっと見ているのでした。

 なんだか怖くなり、男の子は思わず女の子の手を握ります。女の子は、何が起きているのかわからない様子でした。男の子は、お父さんのこんな顔を始めて見ました。まるで、一年に一度しか取れないような大きな魚を釣り上げたか、もっといいものを手に入れたみたいです。でも、それはどこかねじまがったもので、あまり幸せそうではありませんでした。

 お父さんは村人と何事か話し合っています。そして、一人をお役人のところにおつかいにやりました。何の用事なのかはわかりません。でも、お父さんは嬉しそうな顔をしながら、疲れただろうから今日は早くお休み、と言い聞かせました。そして、二人に水を渡すと、それを一気に飲んで横になるように、とも言いました。水はおかしな味がしました。においも変です。こんなものを飲んだことなどありません。男の子は、本当はまったく眠くなかったのですが、そうしないわけにはいきませんでした。

 横になると途端に頭が痛くなりました。まるで日差しの強いところで遊びすぎたみたいです。体もぐらぐらします。目を閉じてくるくると回った後のようです。体がどこまでも下に落ちていくような怖い感じがするのですが、どうしても目を開けることができませんでした。夢だとわかっているのに体が動かないのです。そして気づきました。これがお酒というものなのだ、と。そういえば、年が明けたときに大人たちがこんなにおいをさせながらふらふらしていたのを思い出しました。

 

 やっとのことで起きられるようになると、日が暮れかけていました。男の子は、まず女の子の具合がどうかを知りたがりました。女の子もお酒で気分が悪くなったに違いありません。だから、きっと同じようにまだ隣で寝ているだろうと思ったのです。ですが、女の子はどこにも見当たりません。ふらふらしながら、家じゅうを歩き回りました。それでもどこにもいませんでした。慌ててお父さんを探しますが、お父さんもどこにもいません。

 男の子は、理由はわからないのですが、涙が出てきました。このまま女の子と二度と会えなくなってしまうのではないか、と心配になってしまったのです。心配というよりも、それは予感でした。そう思うと、さっきまで一緒に仲良く泳いでいたときの姿が、急に頭に浮かんできて、胸が痛くなってしまいました。

 村の人たちに会うたびに、女の子がどこに行ったのかを尋ねるのですが、みんな首を横に振ります。そのとき、必ず目をそらすようにしたのですが、男の子にはその意味がわかりませんでした。

 とうとう、村で一番のお年寄りに尋ねました。皆があまり軽々しく話しかけることはないですし、男の子も少し怖かったのですが、居ても立ってもいられなかったのです。

 男の子は、訴えている相手が男の人なのか女の人なのかもわからなかったのですが、どっちなのかを気にすることもできないほど焦っていました。お年寄りは黙って聞いてくれました。ひとしきり心配だということを訴えると、小さくうなずきました。その瞬間、男の子の頬を涙がまた一粒流れました。でも、お年寄りはこう告げたのです。女の子は、都に行った、と。

 男の子は耳を疑いました。今まで生きていて、都のことにかかわったことなどありません。おいしい魚が都まで運ばれるということは知っていましたが、それ以上のことは何もわかりません。この海の向こうのどっちに向かえばいいのかも知りませんし、都とは何をするための場所なのかも考えたことがありませんでした。ただ、人がいっぱいいることだけをかすかに耳にしただけでした。

 都まで何をしに、と尋ねると、一番のお年寄りは答えました。尊いお方にお仕えするためだ。

 男の子はよくわかりませんでした。女の子は、いつまでもこの村で暮らすと思っていたからです。男の子が漁師になったとき、そのための網を繕ったり、一緒に他の里に米や野菜と交換しに行ったりするものだとばかり思っていました。ずっと一緒のはずでした。それなのに、どうして遠くまで行かないといけないのでしょう。

 あれだけ人の心を和ませる香りをしているのだから、都でも多くの人に喜ばれるだろう。行儀作法を教えれば、いずれはとても尊い方のおそばにいられるに違いない。そういうことに決まった。みんなで話し合った結果なのだ。今、坊やのお父さんが都まで連れて歩いている。

 男の子は首を横に振りました。女の子は、この村で暮らすのが幸せに決まっています。知らない人のところに働きに行ったら、きっと寂しくなってしまうでしょう。帰りたくて泣き出してしまうに違いありません。

 男の子は頭を下げてお年寄りのところを離れると、家にあった食べ物をあるだけ集めて歩き出しました。都まで追いかける決意をしたのです。

 男の子はとても怒っていました。大切なことなのに、どうして話し合いに入れてくれなかったのでしょう。お酒を飲ませて眠らせてしまうなんて、まるで悪いことをこっそり企んでいるみたいです。もしも、女の子が本当に都に行きたいのだったら、男の子も寂しいですが、行ってらっしゃい、と素直に言えたでしょう。でも、これではまるで人さらいです。女の子は無理やり連れだされたに違いありません。

 男の子はもうお父さんのことは怖くありませんでした。いや、怖いのですが、掴みかかってやりたかったのです。子どもが悪いことをすると大人はげんこつをします。では、子供はどうすればいいのでしょう。

 

 舟のあるところまで出ると、都まで通う船がいつも向かっている方角に漕ぎ出しました。男の子はまだ一人で漁に出たことはないのですが、一度だけ、上機嫌だったお父さんに舟に漕がせてもらったことがあります。

 でも、潮の流れは強く、すぐに浜まで戻ってしまいます。泣きそうになりがなら櫂を動かしても、どうしても沖には出られません。

 がっかりしていると、遠くに立派な船がありました。駆け寄って近づくと、都に向かう船のようです。男の子は何とか乗せてもらえるように頼みました。船の持ち主は困ったようでした。この船は都に物を運ぶためのものです。知らない人を乗せたことがわかっては怒られてしまいます。それに、もしも心づけがあるのなら考えなくもないのですが、男の子は何か船の持ち主に渡せそうな高価な品を持っているわけでもなさそうです。

 男の子は言いました。僕は、さらわれてしまった友達を追いかけているんです。

 船の持ち主は立派な心掛けだと思ったのでしょう、少し手伝いをすることを条件に、快く乗せてもらいました。ちょっとした風にはびくともしない立派な船でした。それでも、男の子は船足を遅く感じてしまいました。周りには海しか見えません。進んでいるのかどうかも心配になってしまいます。慣れないことが多く、あまり役には立てませんでした。でも、船の持ち主は親切でした。男の子が食糧を持っていたのに、少し分けてくれることまでしたのです。

 仕事が終わり、休もうと思っても、船の上ではほとんど眠れませんでした。それでも、うとうとするうちに、向こう岸についていました。男の子はお礼を言うと、船の持ち主は優しく送り出してくれました。そればかりか、都まではどっちに向かって歩けばいいのか、そしてどれくらいかかるかも教えてくれたのです。男の子は何度もお礼を言いました。船の持ち主は、友達のためにそこまでできる子がいる限り、世の中はまだまだ捨てたもんじゃない、と笑いました。

 

 男の子は都に向かって歩きます。船の持ち主の分けてくれた食事のおかげで、何とか都までは持ちそうです。きっと追いつけることでしょう。なにせ、女の子は元気いっぱいだったとはいえ、男の子ほど早くは歩けなかったからです。仮にお父さんがおぶっていくとしても、それほど早くは歩けないでしょう。もう大きな子なのですから、長い道のりをおぶっていくのは大変です。

 男の子は、そうやって自分を励ましながら、前に進んでいきました。途中には大きな町がいくつかありました。男の子の育った里よりもずっと大きくて、都にはどれほどの人がいるのだろう、見つけられるのかな、道はあっているのかな、と心細くなってしまいました。そんなときには町の人に尋ねます。このあたりにいい香りのした女の子が通りませんでしたか、と。僕のにおいに似ているかもしれません、と。そうすると、人々は口々にうなずきながら、あっちに行ったよ、と都の方を指さすのでした。男の子はお礼を言って駆け出します。うちで働かないか、と親切に声をかけてくれる人もいましたが、男の子は断りました。女の子のところに行かなければならなかったからです。

 自分を励ましながら進んでいくと、あたりに人だかりができています。誰かが倒れているようです。無視して進めばいいのですが、男の子はとても優しかったので、苦しそうな声を放ってはおけませんでした。男の子が、何とか人垣を書き分けて進むと、そこにいたのはお父さんでした。思わず駆け寄ります。どうしたの、と尋ねますが、まるで獣の断末魔のような声しか返ってきません。実の子どもがそこにいるともわからないようすです。男の子もとてもお父さんの声とは思えませんでした。それほどつらそうな声だったのです。

 男の子は濡れた布で手当てをします。女の子がどこに行ったのかを聞き出したかったのもありますが、何よりたった一人の肉親なのです。確かに女の子と連れ出すという、ひどいこともしました。けれども、もしかしたら何か事情があったのかもしれません。それを知りたかったのです。

 ところが、もう手遅れでした。血をぬぐっているうちに、息が絶えてしまいました。

 男の子は呆然としました。あまりにもひどいことが続いて起きると、それが本当のことだとは思えなくなるものです。泣くこともできませんでした。はっと気づくと、隣に人がいました。このあたりの立派な人なのでしょう。事情を教えてくれました。なんでも、二人で旅をしていると、馬に乗ったお役人が女の子をさらっていったというのです。なんでも、女の子がいい香りだというので、都まで連れていき、帝に献上しようというのです。

 なんてひどい役人たちでしょう。里に取り立てにやってくる役人たちは、そんな人たちではありませんでした。税を集めるときには確かに厳しかったのですが、不正などしたことはなかったのです。馬で立ち去ったというのなら、どうやって追いつけばいいのでしょう。帝のものになったら、どうやって女の子を連れて帰ればいいのでしょう。

 男の子は思うのでした。悪いことをすれば、もっと悪い人がやってきて、ひどい目に合うのだ、と。でも、そう考えたとしても、これで男の子が天涯孤独になってしまったことは慰められません。女の子に会えなくなれば、もう本当に一人ぼっちです。男の子は、お父さんのお弔いを済ませると、必死になって都へ向かうのでした。

 

 とうとう都につきました。信じられないほどたくさんの人が集まっています。男の子は少しふらふらしましたが、女の子がここにいるとわかったので、ほっとしました。男の子は、女の子がどこにいるのかがわかる気がしました。うまく言葉で言い表すことはできないのですが、残り香のようなものがあるのです。それを追いかけていくと、都で立派な門にたどり着きました。ここが帝のお住まいなのでしょうか。多くの人が番をしていて、とても入れそうにありません。でも、とても優しい香りはここからしています。どうすればいいのでしょう。考えていると、なんだか周りの人たちがこちらをじっと見ているような気がします。男の子はそこを離れ、夜になるまで隠れていることにしました。

 やがて日が暮れ、月も沈みます。真っ暗になってしまいました。星明りを頼りに男の子はさっきの屋敷に近づきます。こっそりと壁の破れたところからのぞきました。見回っている屈強な男たちをさけて、女の子の香りがするところに向かいました。

 何かいい匂いがしないか、と男たちの一人が言いました。男の子は自分の体のにおいで見つかってしまったのかと思い、冷や汗をかきます。すると、もう一人の男が答えます。あれは、あの娘の匂いだ、と。今は女官たちに体を洗ってもらい、衣装を身につけさせてもらっているのだ。

 素晴らしい香りだ。そばに置いておきたい。このまま連れ去っていってしまいたい、と笑う者がいます。男の子はかっとなりましたが堪えます。この娘を献上すれば帝の覚えもめでたくなるので、そんなことをしたら主人に殺されてしまう、と別の見張りがあざけりました。

 どうやらここはまだ帝のお住まいではなかったようです。壁も破れていましたし、道理で変だと感じられていたのです。

 女の子のいる部屋のあたりは、特に入念に警護が固められていました。とても近づけません。でも、男の子は誓います。必ず助け出すから、と。帝に訴えれば、きっと何とかしてくれます。なにせ、たいそう立派な方だと聞いていたからです。

 

 屋敷の中にどれほど隠れていたのでしょう。朝になりました。立派な行列が屋敷を出立して帝のところまで進んでいきます。男の子はこっそりと近づきます。そして、帝のお屋敷の門の前で叫びます。僕の友達を返してください、と。それは、今までで一番大きな声でした。こんなことをしては、ただではすみそうにありません。でも、帝の前で、血を流すような真似ができるでしょうか。男の子はそれに賭けたのです。そして、男の子が呼ぶと、女の子も男の子を呼びました。

 二人は駆け寄ろうとしたのですが、周りの大人たちは無理やり引き離します。男の子に拳を挙げて躍りかかろうとする姿があります。男の子は思わず目を閉じます。でも、その人を止めてくれる人もいます。辺りはひどい騒ぎになりました。女の子は悲鳴を上げます。そのとき、甘い香りが強くなりました。

 男の子は女の子を連れてこっそり抜け出そうとしたのですが、うまくいきませんでした。捕まってしまったのです。でも、帝の前であまり手荒なことをするのもよくない。ここを血で汚してはいけない。皆がそう思ったようでした。もしかしたら、二人がよく似た匂いをしていたので、本当に友達が連れ戻しに来たのかもしれない、と考えたのかもしれません。

 二人とも縛られて王宮に連れていかれます。騒ぎを聞きつけたのでしょう、いろいろな身分の人があたりにいます。立派な武具を持っている人もいますし、様々に染められた冠をかぶっている人もいます。でも、あまり怖そうではありませんでした。なぜか、安らかで眠そうな顔をしています。もしかしたら、と男の子は考えました。女の子から出てくる香りのせいなのかもしれない、と。その証拠に、女の子からの香りが強くなったときに、争いをやめるように説得する人が現れましたし、皆がそれに従ったではありませんか。

 男の子は、自分もそんな匂いをさせているのかもしれない、と思いました。島に生えていた木には不思議な力があるのでしょうか。もしも、みんなであの実を食べていい香りになれば、きっと争いのない世になることでしょう。

 そう思いながら、王宮の奥にたどり着くと、今までとは比べ物にならないほど、立派な姿をした人がいました。さぞ身分の高い方なのでしょう。帝に直接お話ができる地位の人のように思われます。大臣なのでしょう。その方は尋ねました。この騒ぎは何事か。そして、縛られているこの二人は何者なのか、と。

 女の子をさっきからにらんでいた役人が口を開こうとしましたが、大臣はやんわりとたしなめました。そして、まずは女の子から話させました。私は、義理のお父さんから都に売られようとしていました。そして、この役人に連れ去られたのです。女の子は真っ直ぐ大臣を見て言いました。

 嘘だ、嘘だ、と叫ぶ役人を無視して、大臣は男の子にも尋ねます。男の子は、女の子が言ったことは正しい、と伝えました。そして、お父さんが女の子を売ろうとしたのは、体がとてもいい香りがするからだ、と付け加えました。

 確かにいい香りがしている。これはどうしたことなのか。そう大臣は尋ねます。男の子は、沖の島に生えた樹木になっていた実を食べたら、そうなってしまったのです、と答えました。

 そうか、それはきっと香木というものに違いない。大臣はうなずきました。最近、帝と私はこの国の民が幸せになるように、遠い国から新しい神さまをお迎えしようと思っている。それは仏と呼ばれている。その神さまにお供えしたらお喜びになるだろう。なぜなら、仏の国には香木がたくさん生えていると書いてあったからだ。これは吉兆だ。ぜひ種か苗木を持ってきてほしい。

 

 そういうわけで、男の子と女の子はふるさとに戻ることになりました。何人もの人にお供をしてもらえるので安全に行くことができましたが、男の子はまだ不安でした。女の子とは別々に連れて行かれたからです。確かに、あの役人は都で見張られていましたが、男の子も女の子もまた、見張られているも同然でした。二人は無実を訴えてはいましたが、それでも帝のおそばで騒ぎを起こしたことは変わりません。むしろ、こうして家まで連れて行ってもらえるだけ、ありがたいことなのでしょう。この香りに不思議な力があるのは本当かもしれません。人々の怒りを解き、穏やかな気持ちにさせる、そんな作用があるに違いありません。男の子の確信は強くなりました。

 海につくと、大臣のお使いもお乗りになるということで、立派な船も何隻か用意されていました。もしも、二人が見つけたのが香木だとしたら、恭しく持ち帰らなければなりません。そのために、たくさんの人が乗る船が用意されたのでした。船は二人の里のそばに一度とまり、人々に事情を説明すると、そのまま沖に漕ぎ出しました。子ども二人で泳いだ時には随分と遠くにある島だと思われたのですが、こうしてみるとそれほど遠くはなかったのです。

 何人もの人が、あの島にたどり着きました。すでにいい香りがしているような気までします。たくさんの人が島に上陸したので、そのまま島が沈んでしまうのではないかとまで思われました。

 男の子は、香木のところまで案内するように言われたのですが、あのときは遊びながら島中を探検していたので、どこにあるのかはわかりませんでした。そこで、皆で手分けをして探すことになりました。村では見られない高価な衣服を身に着けた大人たちが、一生懸命に島中をぐるぐると回ります。あちこちで鉢合わせるのですが、どうしても見つかりません。そろそろ日が暮れてしまう頃になって、やっとのことで男の子と女の子がそこにたどり着きました。いい香りはあのときのままです。

 でも、木は既に枯れてしまっていました。なんて残念なことでしょう。男の子がそっと手を触れると、根が腐っていたのでしょうか、海に落ちそうになります。慌てて幹を支えます。皆で話し合い、仕方がないので抜いて都に持ち帰ることにしました。大臣には何てお話すればいいでしょう。いや、帝ご自身もがっかりなさるかもしれないのです。豪華な旅の装束が、かえってみじめさをかきたてます。

 

 都につくと、さっそく大臣に枯木を献上します。絹に包まれたそれをご覧になった大臣は残念そうでした。でも、香りはまだかすかにしています。そんな大臣に、女の子は言いました。これを彫って、遠い国の神様の姿を作ったらどうでしょう、と。この尊い樹木から、新しい神さまの像を作ってお祀りしてください。

 女の子がいきなり大臣に話しかけたので、皆びっくりしてしまいました。無礼だと腹を立てた者もおりました。でも、大臣はそんな人たちを制止すると、女の子に、もっと話してごらん、とおっしゃったのです。

 私たちの里には、こんな種類の樹は生えていませんでした。きっとこれは外国の木です。遠い国の神様がおつかわしになったものだと思います。この香りの高貴さから考えて、間違いのないことです。

 大臣はうなずき、他の人たちと話し合うことにしました。しばらくして戻ってくると。この女の子の言うことはもっともだから、そのようにしよう、と皆に宣言したのです。そして、男の子と女の子には今までの冷たい扱いをお詫びし、歓待して、完成した神さまの像を見せてからまた里に返すように、と命じたのです。

 それからの何日かは、夢のようにすぎました。男の子と女の子の体からは、香りが薄くなってきました。あの香りは、香木になった実を食べたからなのでしょうか。

 ついに、像の完成する日が来ました。それをお披露目すると、男の子は驚きました。その像は女の子そっくりだったのです。大臣も驚き、木彫り職人に尋ねました。職人さんは答えます。私の夢に出てきた尊い神さまの姿そのままをお彫りしたのです、と。

 そこで女の子は立ち上がりました。辺りに、薄れていたはずの例の香りが満ち溢れます。女の子がいつになく上品に見えるのはどうしたことなのでしょう。都風の立ち居振る舞いなんて習ったことのない漁師の娘なのに、自然な動作一つ一つに人々は心惹かれます。

 これは私です。女の子は大人びた声で言いました。

 戸惑う周りの人たちに構わず、女の子は堂々としています。私は、遠い国の神様の顕現なのです。

 途端に、あたり一面に、見たことのない花が咲き乱れました。これが仏の国で咲くという、五色の花なのでしょうか。辺り一面が、金や銀、瑠璃色に輝いています。太陽や月よりも明るく、しかも眩しくない光があたりを包みます。楽の音が聞こえてきます。この国の楽器よりもはるかに細やかで、見事に調律されているのです。そこにあるものは五感のすべてを楽しませるのですが、それでいて飽きることがありません。

 皆が我を忘れていると、女の子の体がふわりと浮きました。そのまま天に昇っていきます。誰もが、そのことを当たり前のこととして受け入れて、ぼんやりと空を眺めています。天の遥かな高みから、女の子を迎えに来た人々の姿もあります。ただ一人、男の子だけが女の子を追いかけていきます。そして、女の子の名前を大声で呼びました。

 どうして僕を置いて行っちゃうの、と泣きながら訴えます。せっかくまた一緒に遊べるのに。

 女の子は、優しく答えました。また会えるから大丈夫です。あなたは、この国に新しい神さまをお迎えして、新しい学問を修めてください。あなたが人々を導いて、幸せな国を作ることができるなら、きっとまた会えるから、と。それがあなたの使命なのです。

 男の子は、遠くなっていく女の子に向かって叫びました。僕、また会いに行くよ。たくさん勉強して、みんなが幸せになるようにするよ。その声が届いたかどうかはわかりません。しかし、男の子の決意は固いものでした。

 女の子が消えた後、人々はぼんやりしていました。そして、そこに女の子がいたことなどすっかり忘れていたのです。ただ、取り残された神様の像をありがたそうに拝むばかりでした。

 

 その後男の子がどうなったといいますと、その新しい神さまの道を究めました。頭を剃り、危険をものともせずに大陸に渡り、尊い教えを持ち帰りました。そして、人々に、正しく生きるとはどういうことかを導いたのです。

 男の子は様々な知識を学びました。仏の国の言葉や教えだけではなく、礼儀作法や実用的なこまごまとしたことをわかりやすくまとめました。もちろん、悪いものごとから身を守るすべも人々に説きました。宮中を悩ませた悪霊を追い払い、国中にお寺を作りました。

 立派な僧侶になった男の子は、どれほど都から離れた所でも、仏の教えを知りたい人のために足を運んだのです。どんなに貧しく身分の低い人であっても、態度を変えるようなことはありませんでした。そして、官位を持たない人々であっても、知恵のある人には頭を下げて教えを乞うのでした。

 長い年月が経ち、男の子はもはやおじいさんになりました。国中に新しい教えと知識を説き続けて何十年も過ぎました。とうとう八十になって亡くなったとき、誰かを呼ぶようなことをつぶやいていましたが、その名前を聴きとれた人はいませんでした。

 ただ、とても大切な人に再会したときのような幸せなお顔をして、眠るように亡くなったということです。

 

* * *

 

 私は首を傾げた。

 そもそも、香木って、こういう木じゃないだろう。私がそれを指摘すると、従兄は、当時のことだから香木についての正確な知識が伝わっていなかったのだろう、と応じた。

 けれども、今となっては昔のことだが、という書き出しからして、何となく「今昔物語」っぽい。私の乏しい古典の知識を総動員すると、「風土記」なら奈良時代のものだが、「今昔物語」は平安の頃だ。そもそも、奈良時代にこうした物語というか説話のようなものが流布していたのかどうか、私にはわからない。物語の形式としてこういうのがあったのかも疑問だ。ただ、言いようのない疑わしさばかりが感じ取れる。だいたい、「今昔物語」の説話にしたって、これよりもずっと短い話だった気がする。高校の頃に現代語訳を読んだときには、何となくショートショートを読んだような印象だった。この話は、昔の話にしては長すぎる。

 一度疑われると、体からいい香りがする話は、「源氏物語」の薫だったか匂宮だったか、そんな人物がいた気がしてきて、偽書を読まされたような感じだ。都の描写も、なんとはなしに平安の頃を思わせて、飛鳥か奈良の素朴な印象は受けない。うまく言えないが、牛車なんかが出てきかねない感じなのだ。

 そんなことを私は問いただした。すると従兄は、でっち上げだから当然のことだ、と涼しい顔をしている。「淡路国風土記」は現存しない、と笑う。

 私はずっこけた。同時に、生真面目にそんなものを読んだのが馬鹿馬鹿しくなった。ついでに、従兄の心理がよくわからなくなった。だってそうだろう。自分の書いた小説を身内に読ませるのって、抵抗ある気がする。私は小説を書く人間じゃないのでわからないけれど、父と風呂場で鉢合わせるのとどっちが恥ずかしいかどうかは結構迷う。少なくとも朝一番に伸びをしておならが出てしまったのを聞かれるレベルで恥ずかしいと思うのだがどうなんだろう。論文を書いてそれを世に問おうとしている私が言うのも変だけど、でも創作と論文は全然違う。

 そういえばこの人、私にあることないこと吹き込んでからかうのが好きだったな、と思い出す。よくある話だけどスイカの種を飲み込んだら頭から木が生えるとかそんな類だ。夏休みに一緒にスイカを食べたときにそんなことを言われた私はそれでぴーぴー泣いた覚えがあるのだが、よく考えればスイカは木になるもんじゃない。従兄は昔から本当に適当な人だった。

 あほらしくなって私は寝た。酒が回っていたせいか、割と気持ちよく眠れた。

 

 翌日、皆はまだ寝ているか二日酔いと戦っている中、私は祖母の作ってくれたおにぎりを食べて海まで降りて行った。

 思っていたよりも楽しめている自分に私は驚いていた。そういえば、親戚が集まった席で、女だからって酌をさせられるみたいな経験がなかったと気づいた。私がまだ小さかった頃は、母が大叔父と歓談しながら継いでいた風景が、何となく記憶に残っているのだけれど、でも、それが本当のことだったのかははっきりしないし、母が酒を注いでいたかどうかも覚えていない。

 都会から離れたこの島でも、いろいろと変わって行くのだな、と思う。そうでもしないと若い世代は寄り付かなくなる、と誰かが脅してくれたのかもしれない。なんにせよ、人と打ち解けることの少ない私にとってはありがたいことだ。自分ではそう思っていないのだけれど、皆が私のことを偏屈だという。その辺りのことはよくわからない。

 そうやって、どちらかと言えば肯定的な気分で浜辺を散歩していると、沖合にも島が点在しているのが見えた。見覚えのある島影だな、と思った瞬間に、私は思いいたった。私はあの島まで泳いだことがある。従兄と何度も競争したはずだ、と。

 途端に私は悟った。「古木伝」は従兄が私を担ぐためにでっち上げた話ではない。私に対する思いをねちねちと綴ったものだ。あの物語で描かれた村は、私の実家そのものだ。私は鳥肌が立った。私の体からいい香りがするだなんて、どういうつもりでそんな話を書いたのだろう。私は、いやいや、なんですかそれ、変態ですか、というか私は仏じゃないです、と呟きながら語学で知り合った親友に電話した。夏休みなのに早朝に電話しては気の毒なはずだが、そんな配慮をできないほど私は気が動転していた。概して、ロシア語を選択する人は変わった人が多い、と言われるけれど、気のいい人がいるのは間違いのないことで、朝からの私の要領を得ない話を彼女は聞いてくれた。そして、優しい言葉をかけてくれた。嫌になったら帰っちゃえば、と。

 で、私は祖父母に手短に挨拶をし、フェリーに飛び乗って福良に舞い戻った。あとは自転車で淡路島の東側をずっと北上していった。おおよそ三角形をしている淡路島の、南側の辺には大きな町は少なくて、吹き付ける南からの潮風で私の眼鏡は塩まみれになった。東向きの辺の真ん中にあたる洲本で昼を済ませ、家族や研究室へのお土産を買うと、私は岩屋に戻り、明石へと渡った。両親から嫌みの一つや二つは言われるかな、と思ったけれど、構うもんか、って気分だった。淡路島を離れると、私はほっと息をつくことができた。去り際に見えた絵島が、ちょっと従兄の想像した島っぽかったけど、もう気にならなかった。

 

 帰路では、新幹線は新大阪から乗ることにした。「未成年」を読み終わりそうだったので、研究とは何の関係もない「夜想曲集」を買った。カズオ・イシグロは「日の名残り」しか読んだことなかったので、いい機会だと思ったのだ。短編集だし。はじめの一時間は集中できたんだけれど、掛川を通り過ぎる辺りから目で文字を追うだけになってしまったので、寝た。たぶん島の南東の坂がすごかったから疲れたんだと思う。あそこは勾配が十パーセントから十五パーセントはあって、かなりの標高を稼いでいた。電動アシストじゃなかったらたぶん倒れていた。

 で、東京でもう一度親友に電話した。両親に会う前に、彼女と夕飯を食べたかったのだ。彼女は捕まった。で、丸ビルでハワイ風ハンバーガーを頬張りながら、私は従兄のことをまた話した。今になって思えば、そこまでぞっとして逃げ出さなくてよかった気もしてきたし、でもわたし自身の直観が正しかったようにも思えるし、それと祖父母への罪悪感がないまぜになって、うまく話せなかった。でも、親友は私でもああいう状況なら逃げるから、と受け止めてくれたので良かった。

 で、気晴らしに親友の彼氏の話を聞いて、私も楽しい気分になったのだけれど、私に対する大きすぎる感情を気持ち悪がって、逃げだしてしまうような私には恋愛とかはまだ早い話なのか、とも感じられた。私の親友は笑った。相手の気持ち悪いところを気持ち悪く感じないのが、好きになるってことなんだよ、と。その辺りは私にはまだ分からない。だから、親友の彼氏の気持ち悪いところをたっぷり聞かせてもらうことにした。

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