マイ・ディア・ラーバ

印刷

梗 概

マイ・ディア・ラーバ

地球政府は、銀河系を巡回する医療惑星セラピスターと提携関係を結んだ。地球人類に適した医療機器を提供するために、医療機器幼生体(MDラーバ)の里親制度が開始された。里親の期限は1年。

医療機器メーカーに勤務する独身の瑞浪恵那は、その提携に反対である。様々な規格をクリアする必要がある医療機器を、簡単に「育てられる」はずがない。そんな恵那が、里親に任命された。MDラーバとの対面の朝、恵那は近所の保育園から聞こえる歓声に憤りさえ感じながら、会場へ向かった。白濁したスライム状のMDラーバが、30×30cmの透明な容器に入って手渡された。

ドロドロと形なく横たわるMDラーバを前に、恵那は育成マニュアルを読む。『里親制度の目的は、MDラーバの「社会化」です。名前を付ける、呼び掛ける、食事を与える、排せつの世話をする……。愛情を持って育てれば、人類に最適な医療機器として成長するでしょう』と記載されているが、子ども嫌いの恵那の心には響かない。恵那を動かしたのは『社会化がうまくいかなかった場合、あるいは、MDラーバが死亡してしまった場合は、里親に厳罰が科せられます。これは、セラピスターと地球との外交問題となることを避けるための処置です』という一文であった。

恵那は、MDラーバにキキという名をつける。マニュアル通り、3時間おきの食事と排せつの世話、30分に1回以上の語りかけを実行した。3週間後、不格好な雪だるま状になったキキは、恵那の語りかけに反応するようになり、2か月もたつと会話や自立歩行が可能となった。保育園で遊びたいと懇願するが、恵那は拒否する。

半年後、里親とMDラーバの交流会が催された。他のMDラーバは、ほとんど人間の子どもと変わらない姿をし、会話の内容も知的であった。雪だるま状のキキに嘲りの眼差しを向ける里親たち。恵那は里親失格の烙印を押されたように感じ、憤る。マニュアル通りなのに、なぜ、と。だが、キキに対して申し訳ない気持ちがわいてきたのは、不思議だった。

熟読していたマニュアルを捨て、恵那はキキに初めて真正面から向かい合った。必要なのは、人間とのふれあいと気づき、キキの念願だった保育園に連れて行く。保育士は嬉々として受け入れ、恵那に対しても、人間の育児では、と断って、子育てついて話を聞かせる。恵那の心配をよそに、キキは園児のすり傷やかすり傷を簡単に治した。

里親終了まで1か月となった日、恵那はキキをかばって事故にあう。瀕死の恵那を救おうと、キキは治療を申し出る。しかし、成長途中のキキでは出力が足りず、恵那を治療してキキは生死の境をさまよう。

キキを救ったのは、恵那の開発した地球製の医療機器であった。たくましく成長したキキとの別れを、恵那は誇らしく、それでいて悲しく迎えた。自宅への道を一人さびしく歩く恵那に、園児たちが駆け寄る。里親としての1年は、恵那の人生を豊かにしていた。

文字数:1198

内容に関するアピール

「何かを育てる」テーマを目にして、思い浮かぶのは「子育て」のみでした。子育ては(今さら私がいうまでもありませんが)親育てで、驚くほどの経験と感情を与えてくれます。文字通り、育てたつもりが育てられています。
また、現職は医療機器を世に出すことなので、これも育てると言えば育てる……。
というわけで、二つを合わせて、「医療機器を育てる」話としました。
主人公の恵那は、子どもが嫌いで仕事一辺倒の女性です。仕事の成功が人生の成功と考えていて、結婚や子育ては自分のキャリアの邪魔になると感じています。彼女に、子育てにもいいところがあるよ、と教えてあげられる作品にしたいと思います。
なお、MDラーバのMDは、Medical Deviceです(念のため)。タイトルでは、My Dearとしてみました。今回は、そこはかとなくよいタイトルになったのではないかと思っていますが、どうでしょう???

文字数:386

印刷

マイ・ディア・ラーバ

「お姉ちゃん、どうしたの? その顔!」
玄関のドアを開けた瞬間、涼香の大きく見開かれた目が飛び込んできた。
――実際は涼香が飛び込んできたんだけれど、びっくり目がそれほど印象的だったということで。
そんなことは言われなくてもわかっている。自分でも鏡を見て愕然としている。髪は乱れ、目の下に鎮座まします、クマ様。今までに見たことのない荒れ果てた自分の姿に、瑞浪恵那は茫然としたばかりだ。
「もう、全然連絡がつかないから、様子見に来たよ」
ぼうっとしている恵那の脇を抜け、涼香はずかずかと部屋に上がり込む。
「今日は仕事じゃないの? 雄太を保育園に連れてったんだろ?」
「お姉ちゃんが心配だから、仕事休んだの。雄太がいたら何もできないから、保育園には連れてったけど」
恵那はちらりとベランダに目をやる。涼香の子、雄太の通う保育園は、恵那のマンションの斜め前。ピンクの外壁に大きなパンダの絵が描かれ、一日中、子どもたちの歓声が絶えない。
一日中、子どもたちの歓声が?
気付いて恵那が大きくため息をついた。早朝に出勤して夜遅く帰宅する恵那は、知りもしなかった。
この一週間で世の中が変わった。さわやかな秋の気配があたりを包んでいるのに、外出することもなく自宅にこもったきり。外の空気に触れようと、窓を開ける。すると、子どもたちの歓声が、恵那の神経を逆なでするのだ。
原因は言うまでもなく、育児だ。三時間おきに要求される食餌と排泄の世話。しかも昼夜問わず。ピーピーと甲高く鳴る電子音が、恵那を悩ませる。手をかけるまで鳴りやまない。世話自体はだいぶ慣れた。だが、世話をしても一向に反応のないキキを前に、果たしてこれが正しいのかどうか、不安になる。
「で、お姉ちゃん、体調が悪いの?」
涼香の声で我に返った。
「体調? うーん、悪いかもしれないけど、悪くもないかも」
「なに、それ? 会社、行ってないの? 部屋もだいぶ荒れているけど。……あ、これはいつものことか」
山積みになった書類をどけ、涼香は勝手にソファに座った。
「あれ? これ、なに? 『MDラーバ、里親マニュアル』? ……え? お姉ちゃん、里親に当たってたの?!」
恵那は涼香の向かいに力なく腰を下ろし、両手で顔を覆った。もう少し、音量控えめでしゃべってほしい。睡眠不足の頭にキンキン響く。子どもを育てているのだから、涼香がいちばんわかっているだろうに。
恵那の心の声は、しかし、実際に発せられることはない。散々使い尽くされた体力は、すでにゼロに近い。それを知ってか知らずか(知らないのだろう。きっと)、涼香ははしゃいでいる。
「すごいよ、お姉ちゃん。日本で百体しかいないんだよ。すごい確率だよ! みんなに自慢しちゃう!」
――自慢するほどうれしいのなら、のしを付けて涼香に譲ってやる。
コーヒーでも入れるね! といってキッチンに立った涼香を、恵那は上目遣いで見ながら、今日何度目かのため息をついた。地球政府が、銀河系を周回している医療惑星セラピスターと提携関係を結んだ。星の名前からして安直だが、この際、それはおいておく。あらゆる星の生命体に適合する「医療」を提供するという触れ込みらしい。
聞けば、セラピスターの生物のようなもの(地球人の概念には、残念ながら、あてはまらない)は、育てようによっては、いかほどにも成長する。その過程で、どの星の生命体にも対応可能な治癒能力を発揮するのだとか。
地球人類に対しては、「医療機器」という概念が合致した。一年のお試し期間が設定された。一年もあれば人間に適した製品が提供できる、とセラピスター側の大使は言う。地球政府の担当者は半信半疑ながら、無下にも断れず、医療機器幼生体(MDラーバ、Medical Device Larva)の里親制度が開始された。

「それで、それで? どこにいるの? そのラーバとやらは」
二人分のカップを手に、スキップしそうな勢いで戻ってきた涼香が尋ねる。コーヒーが床に敷かれた白いラグにこぼれそうで、急いで受け取った。ボーナス月にかなり思い切って購入したものだ。育児中の家とは違うのだよ。気をつけなさい。と、声には出さないが目で抗議した。
部屋の中を勝手に歩き回って、リビングの隅っこに置かれた籐籠を覗き込んだ涼香が、素っ頓狂な声を出した。わかるよ。その気持ち。

『ようこそ、地球へ! MDラーバ×里親対面式』と銘打った仰々しい式典の後、30×30cmの透明な容器に入ったMDラーバを、恵那は受け取った。
『MDラーバは生きています。自宅に着いたらまず容器から出してあげてください』と朱書きされたマニュアルの表紙にせかされるように、床にぶちまけた。
ドロドロと床に横たわる白濁したスライム状の物体を前に、恵那は途方に暮れた。容器から出したのはいいが、果たして素手で触ってもいいものか。――医療機器になるというなら、生物学的安全性は確認済みに違いない。意を決して、人差し指でそうっと触れるまで、小一時間が経過していた。
なのに!
涼香は躊躇なく籐籠から抱き上げると、頬ずりまでしている。
「うわぁ、いいわぁ。この肌触り。つきたてのお餅みたい」
表面は弾性があり破れる恐れはないが、持ち上げられると、内容物がどろりと低いほうへ移動するのが見える。恵那にとっては薄気味悪いものだが、どうやら涼香には平気らしい。母は強し。
MDラーバを膝に乗せたまま、涼香が恵那の前でコーヒーをすする。
「これさ、すっごく気持ちいいよ。なんていうか、温熱治療器みたい? 冷え症にはもってこいだね。お姉ちゃんも使ってみたら? アイマスク代わりとかー、首から背中に乗せたら、きっと肩こりに効くよ」
好き勝手を言う。異星人から渡された、奇妙な幼生体をそこまで受け入れられる、その許容範囲の広さに驚かされる。
「で、お姉ちゃんは何でそんなに疲れてるわけ? 電話にも全くでないし。心配したよ」
姉らしい威厳を少しでも示そうとしながら、それも体力のいることで、恵那はぼそぼそと話し出した。MDラーバの里親に任命したその日から、誰にも言えなかった心のうちを。

里親に任命されるとはこれっぽっちも思わなかった、その日。
恵那は、出たばかりの性能試験のデータに目を走らせ、手が震えた。予想通りの数値が並んでいる。医療機器開発部に配属されてから、何年もかけてやっと出た成果だ。緩む頬を、必死で抑えた。
これで、手がけた製品がやっと日の目を見る可能性が出た。非臨床試験は完璧だ。臨床試験に向けて、この先も業務は山積みなのだが、とにかく大きな前進だ。既に承認をいくつも取得している同期がいる中で、恵那はなかなか成果を出すことができなかった。望んでいた大きな一歩。うれしさで飛び上がりたいほどだった。
――それなのに。
帰宅して開けたポストに、一通の封書が入っていた。
『MDラーバ里親制度関連書類在中』と大きく朱書きされていた。
MDラーバ?
忙しさにかまけて、新聞にもほとんど目を通していない。だが、数か月前に、たしか職場で。そう。あの、信じられないぐらい能天気な話だ。おせっかい医療惑星が、地球人に医療機器を育てさせてくれる、とか?
医療機器を一つ開発するのに、どれだけの労力がかかっていると思うの。いくつもの規格に適合させて、初めて臨床応用が可能になる。製造工程も規制にがんじがらめ。晴れて発売できても、市販後調査や副作用報告。心の休まる暇がない。それが、一年で医療機器に「育つ」という。医療機器業界にケンカを売っているとしか思えなかった。
封書をあけ、中から出てきた書類に目を通した瞬間、恵那は自分の目を疑った。
信じられない。どういうこと?
恵那の手からひらりと床に落ちた書類には、ゴシック体太字で、以下の文章が記載されていた。
『本年10月より1年間、瑞浪恵那を医療機器幼生体(MDラーバ)の里親に任命します。つきましては、10月1日、対面式を執り行い、MDラーバを1体、預けますので、ご参集ください。対面式の会場は……』
翌朝、恵那は会社に体調不良により休暇、とメールを入れた。
電話をする気力もなかった。夢であってほしいと心底望んでいたが、例の書類は昨日と寸分違わず、テーブルの足元に落ちたままだった。
日本国内に割り当てられたMDラーバは百体。里親は厳正なる抽選で選ばれた、と何気なくつけたニュースで、キャスターがにこやかに話していた。
一生分の運を使い果たした。
里親には、一年間の育児休暇を取得させられる。
恵那は、深いため息をつく。手塩にかけた製品に、やっと開発のめどが立った今、なぜ? 昨夜から、幾度となく繰り返した言葉を、再度、繰り返す。ほんとについていない。入社以来手がけてきたプロジェクトを、中断するのも、誰かに継続してもらうのも嫌だ。自分の手で、初めての医療機器を世に出したい。
――里親制度にあたったと、誰にも言わなかったら?
それは名案のように思えた。普通に仕事をこなして、夜だけ、世話をするとか。里親名は公表されないはずだし、それなら、開発もこのまま続けられる? 多少の無理はあるかもしれないけど、子育てしながら働いている人もたくさんいるわけだし……。
そうだよ。これはいい案だ!
と、恵那の携帯が震える。画面には「白鳥美雪」の名が。
同じ部署の、いつか彼女のようにと恵那がひそかに目標にしている上司だ。体調不良と連絡をしたから、心配で電話をくれた。なんて優しい人。
「瑞浪さん?」
美雪の端正な声が恵那に告げる。
――里親に選ばれたと会社に連絡がありました。全社を挙げてサポートしますので、安心して。今日はゆっくり休んで、元気になったら、今後の引き継ぎを打ち合わせましょう。
仕事だけが生きがいの恵那の前に、未知の世界が広がった瞬間だった。

「というわけで、今、育休中。うまい具合に行くと思ったプロジェクトも、同期に引き継いで、いいとこなし。そして、これだよ」
テーブルの上に無造作に置かれた里親マニュアルを指さす。
「三時間おきの食餌と排泄の世話、三〇分に一回以上の語りかけ、かぁ。それはお姉ちゃんには向いてないね。ご愁傷様」
食餌はマニュアルにレシピが書かれていた。ヒトでいえば離乳食のようなもの。通販で専用食も準備されていた。台所用品を揃えるつもりもなかった恵那にはうってつけだ。早速注文し、届くまでは砂糖水で代用した。
「口はどこにあるの?」
つきたて餅の表面をくまなくなでまわしながら涼香がきく。
「口は食事用の一点を決めるだけ。そこが勝手に口になる。場所は動かさないように、と注意書きがあった」
ああ、ここね。と涼香は小さなくちびるに見えなくもない裂け目を見つけた。かわいいお口でしゅね~、と指先でうにうにしているものだから、恵那は気が気ではない。
「食べるからには、出るものも出るんでしょ?」
「体表の一部が固く隆起してくると、排泄の合図。口とは反対側の体側に排泄口ができる」
食事の後、ほどなく排泄するが、気づかずにいると、妙に粘りのある液体が床に張り付き、きれいに拭き取れない。ペット用トイレシートを下に敷いてみたが吸収されず、結果的に掃除が大変になっただけだった。
ふーん。どれどれ? と涼香は楽しげにMDラーバをひっくり返すが、排泄時ではないから、何もない。まあ、そこまではいいとして……
「お姉ちゃん、この子に語りかけ、してる?」
ちらりと向けられた涼香の鋭い目に、一瞬凍りついた。
動かない物体に向かって、話しかける趣味はないのだよ。とかなんとか、適当に口を濁した。とりあえず、MDラーバの隣にスピーカーを置いて、ラジオをかけてはいる。
ふ~~~ん。そんなんでいいんだ。膝の上のMDラーバを肩に移動させ、いい感じ~と心底気持ちよさそうにうめいた。
「そういえば、名前、付いているんでしょ? マニュアルの最初のころに書いてあったよ」
「キキ」
恵那は明後日の方向を向いて、そっけなく言い放った。
「ええ~? それって、何? もしかして、医療機器だから、キキ? 安直過ぎない!?」
さんざん命名に文句をつけた挙句、涼香はキキを再び膝に乗せ、キキちゃん、涼香おばちゃんですよー、としばらく猫かわいがりをして、帰って行った。今度は雄太と来るね! と言い残して。来なくていいから。基本、子ども好きじゃないし。
涼香がいなくなって静かな部屋で、恵那はキキと改めて向かい合った。久しぶりに話し相手ができたせいか、気分も落ち着いていた。
なにが涼香をしてかわいいと言わせるのだろう。全体をくまなく観察した。顔とか頭とか、体節とか、脚とか、生物なら備えていそうなものは、全くない。医療機器どころか、水枕にさえならない。
また、悶々としてきた。これを「育てる」という意味が分からない。
ダイニングテーブルの上に放り投げておいた育成マニュアルを手に取った。
『里親制度の目的は、MDラーバの「社会化」です。名前を付ける、呼び掛ける、食事を与える、排泄の世話をする……。愛情を持って育てれば、人類に最適な医療機器として成長するでしょう』
理解不能。
日々開発をして現実を知る恵那には、医療機器を「愛情をもって育てる」という言葉が理解できない。心が拒絶する。
『社会化がうまくいかなかった場合、あるいは、MDラーバが死亡してしまった場合は、里親に厳罰が科せられます。これは、セラピスターと地球との外交問題となることを避けるための処置です』という一文だけが、妙に生々しく感じられた。
外交問題になるリスクがあるなら、里親は厳正なる審査のもとに決めればいい。くじ引きのように行き当たりばったりの人選をするなんて、ばっかじゃないの。ダイニングテーブルに突っ伏して、恵那は悶えた。最悪の人選だよ。
それにしても、仕事が気になる。
非臨床試験がうまくいったからには、早々にKOLと打ち合わせ、臨床試験のプロトコールを準備しなければならない。合わせて、試験実施施設の選定や、機器概要書の作成などなど、やらなければならない業務は山積みだ。
こんなことで休んでいる場合ではないのだけど。

日に日にキキの身体は流動性を失い、硬くなっていった。ほんのりと温かい身体は、恵那が触れば少しずつ動いた。両の手をそっと添えれば、じんわりと癒され、もしや、と一部を首筋に乗せてみれば、適度な重さと熱感が血液循環を促すように感じられた。なるほど。涼香が言ってたけど、温熱療法には使えるかもしれない。
涼香は時折姿を見せ、熱心にあやして帰った。雄太を連れてきたいというけれど、恵那はかたくなに拒んだ。毎日聞こえる保育園の歓声で、もうごちそうさま、と。

三週間後、キキは不格好な雪だるま状になっていた。
恵那の反対を押し切って、結局、涼香が雄太を連れてきたのだ。雄太がむにむにとキキをもて遊ぶうちに、いつの間にか雪だるま状になった。雄太とキキのたわむれた後には、恵那のお気に入りの白いラグが、無残にも荒らされた状態で残った。
そんな状況にもかかわらず、うまい具合に口は頭部にあり、顔の原型らしいものになった。食物を摂取するだけだった口が、恵那の呼びかけに反応するように奇妙な声を発する。転がるように移動して、恵那にすり寄ってくるようになった。
体調はよさそうだ。調子が悪くなると、白濁度合いが高くなる。赤黒くなって熱を発し、硬くなると、重篤な症状。そうなる前に里親制度の担当者を呼ぶこと、とマニュアルには書かれていた。外交問題になったら大変だ。
二か月もたつと会話が可能になった。
それは突然だった。朝の食事を終え、片づけをする恵那に、いつものようにキキはすりよった。
「ママ」
足元から見上げるように、キキの小さな口が動いた。恵那の思考がフリーズし、再起動まで一瞬の間が開いた。ママ?
恵那はゆっくり膝をついて、キキの顔を両手でしっかり包み込んだ。くぼみでそれとわかる程度の、小さな目が瞬きもせずに見つめている。
「ママではない。お前は私の子どもではないから」
そういって、しばらく逡巡し、続けた。
「恵那と呼びなさい」
キキの目の奥で光がにじみ、濡れた黒いガラス玉のように見えた。恵那の鼓動が早くなった。
この目。
――センサーにぴったりだ。

キキが会話を始めてから、驚くほどの語彙数が蓄えられていたことに、恵那は衝撃を受けた。それは恵那との会話からではない。ベッドの隣に据え付けたスピーカーから流れるラジオ放送と、ときどき立ち寄る涼香の成果だ。
途切れなく話し続けるキキに、恵那はうんざりした。さらに、短い脚状の突起が二本でてきたおかげで自立歩行が可能となり、恵那の後を追いながら話し続ける。恵那は初めてキキをしつけた。必要に迫られて。
「静かに」
キキは、人間の生活リズムにだいぶ合わせられるようになってきた。恵那は美雪に頼んで、在宅でプロジェクト支援を続けていた。引継ぎはしたものの、後任の担当者は頼りなく、美雪も喜んで仕事復帰を認めてくれた。
恵那が仕事をしている後ろで、キキは涼香の持ってきた雄太のお下がりぬいぐるみで遊ぶ。恵那の仕事ははかどる。この調子なら、在宅でもプロジェクト主担当に戻れるかもしれない。そういう恵那の期待と、リソース不足に悩む会社の思惑が一致した。
折しもプロジェクトは、KOLインタビューが予定されていた。その分野で著名な先生に、開発中の製品について意見をいただく。恵那の後任の代わりに、同期の椿一哉が出席予定だったが、急遽、PMDAに呼ばれて対応が難しくなった。美雪から出席を打診された恵那は、二つ返事で引き受けた。何を隠そう、椿は入社当時から恵那をライバル視していて、自分の製品が先に承認を取得すると、散々自慢した。コイツだけには負けたくない、と、心の底から思っていた。
年末も押し迫ったその日。KOLから製品に対する貴重な意見と思いがけぬ勝算を得て、恵那は上機嫌で玄関のドアを開けた。室内の空気が冷たい。エアコンをつけているはずなのに。靴を放り投げるように脱いで、キキを探した。
いない! 
出かけるときに入れておいた籐籠は、もぬけの殻だった。気に入っていたぬいぐるみが、恵那の仕事机のわきに転がっている。リビングは?
ベランダに面したサッシが大きく開いて、カーテンが風で大きくはためいている。手すりの向こうには、真っ青な空。
『MDラーバが死亡してしまった場合は……』の一文が、恵那の脳裏をかすめた。
走り寄った恵那の目に、ベランダの手すりに顔をつけるようにして外をのぞくキキの姿が映った。
ピンクの壁に描かれた大きなパンダ。雄太の通う保育園だ。キキが見つめていたのは、その保育園。冷たい風に乗って、園児たちの歓声が運ばれてくる。
ほっとして抱き上げると、恵那の耳元でキキがつぶやいた。
「ホイクエンニ、イキタイ」
ありえない。MDラーバが保育園に行くなんて。
恵那は後ろ手に、サッシをぴしゃりと閉めた。

年が明けて、恵那の仕事量は段違いに増えた。
後任の担当者は激務で体調を崩し、休職していた。こんな時にすまないんだけど、という美雪の言葉を自分への期待と受け取った。
プロジェクトは、臨床試験の準備に入っていて、臨床試験計画書、治験機器概要書の作成など、多岐にわたる。自宅で作業可能な文書作成を一手に引き受け、恵那は寝る間も惜しんで仕事をした。
キキはそんな恵那の後ろで静かにしている。聞き分けの良い子だと恵那は安心した。一日の仕事が終わって、ふと振り向くと、キキが床に寝ていた。すこし、白濁度が上がっている気がした。そういえば、昼食を与えていなかった。キキを受け入れてから、食餌を与えなかったのは初めてだ。
急いでキッチンに向かう。通販の専用食の箱を覗くと、こともあろうか、中には一袋も残っていなかった。注文しても、届くまでに三日はかかる。それまで絶食させることはできない。
床で寝ていたキキを抱き上げて、ソファに寝かせた。籐籠はキキには小さくなりすぎて、もう使えない。最近は、ソファがキキのベッドになっていた。
若干熱があるような気もする。
「ご飯作るから、ちょっと待ってて」
珍しく恵那から話しかけた。小さな目と口は、閉じられたまま。
マニュアルを開く。MDラーバの専用食に必要な材料は、恵那の部屋にはない。
後ろ髪をひかれる思いで、スーパーに走った。
なんとか専用食ができた時には、すでに十二時を回っていた。キキに食べさせて、ほっと一息。休む暇もなくメールを開く。翌日中にほしい、という書類のリスト。まだ半分も進んでいない……。

気付けば部屋に朝日が射していた。ちょっと休憩、のつもりが、机に突っ伏して寝てしまっていた。あわてて時計を見る。六時半。よかった。まだ間に合う。
――そうだ。キキは?
慌ててソファに近寄ってみれば、昨夜のままの姿で寝ている。恵那に気づくともぞもぞと動くが、言葉を発することはない。手をかざしてみれば微熱があるようだし、身体の色も相変わらずのような気がする。
冷蔵庫から出した専用食を少し温めて与えた。途中で口に入れても摂取しなくなった。あまり良い傾向ではないと思うけど、しばらく様子を見ようとそのまま寝かせて仕事に戻った。
頻繁に入る連絡に対応していれば、あっという間に時間が過ぎる。差し迫った締め切りに、職場の優先順位もころころ変わった。部屋には西日が射しこんできた。本日期限の書類は、まだ作成できていない。恵那の焦りは募る。せっかく任された仕事だ。ここで落とすわけにはいかない。なんとしても今日中に!
一心不乱に書類作成をする恵那の耳に、アラームがかすかに響く。聞き覚えのない音だ。なんだろう? 耳を澄ませて、ふと思いついた。キキだ!
走り寄った恵那の目に、ソファでうずくまるキキの姿が映った。身体の奥底から発光しているような赤。アラームに合わせて、身体全体が振動している。
マニュアルのページを繰る手が震える。……たしか、トラブルシューティング。医療機器の取説なら、最後のほう。
あった!
『アラームを発しながら赤色光が点灯するときは、エネルギーが不足しています。適切な食餌を与え、発光が収まるまで様子を見てください。しばらくたっても変化のない時は……』
水分量! 
そういえば、朝食以降、一度も様子を見ていなかった。恵那はキッチンに走る。作り置きした専用食をみれば、量は一食分にも満たない。とりあえず、これだけ食べさせて、様子を見ながら追加で作ろう。
食餌を与えれば、キキのアラームと赤い発光は徐々におさまった。微熱だけが気になるが、食餌さえ忘れなければ、なんとかなる。今のうちに専用食を準備しておかねば。キッチンに向かうと、材料をそろえた。二回目だ。昨日よりは早くできるはず。
だが、慣れない作業に時間は刻々と過ぎていく。仕事も気になる。ちらりと時計を見れば、すでに八時を回っていた。まずい。だけど、本日中に提出なら、あと四時間は……。必死に材料を刻む。鍋に入れる。
電話が、鳴った。

火にかけておいた専用食は、焦げていた。
ソファの上のキキは、今では落ち着いて、静かに寝ていた。
キキの世話をしている間に、何度かの不在着信。そして、伝言。
急ぎの未提出書類があった。恵那に連絡がつかないから、椿に対応を任せた、と。里親をしながらの仕事は、やっぱり無理ね。しばらくそちらに専念するように。――美雪の言葉が胸に突き刺さった。
せっかく戻れた仕事だったのに。私が全力を尽くしたプロジェクトだったのに……。
握りしめたこぶしに力が入る。両頬を涙が伝った。
不意に、勝手に身体が動いた。寝ているキキをつかみ、そして、思いっきり、壁に投げつけた。
――こんなやつ、死んでしまえばいい!
そう思ったのは、どの瞬間だったか。
壁際に、頭を折るように倒れたキキは、動かない。
荒い息が収まると、恵那は茫然と立ちすくみ、やがてゆっくりと膝が折れた。そのまま、ご自慢の白いラグに突っ伏して、恵那は声をあげて泣いた。

泣き疲れた。
朦朧とした頭をもたげた。
どのぐらいたったのか。部屋の中はしんとして、物音一つしない。壁際のキキも、倒れたまま。恵那は這うようにして近づいた。
赤黒く変色したキキの身体を、そっと触った。明け方には微熱があったのに、今では恵那の体温より低い。
『MDラーバが死亡してしまった場合、里親に厳罰が科せられます』
マニュアルの警告文が、目に浮かんだ。
――もう、いい。
厳罰でもなんでも、かまわない。もう私には無理だ。
動かないキキを抱いて、ベッドに横になった。
私のところに来たのが悪かった。ほかの、もっとちゃんとした人のところに行っていれば、今頃、すくすくと育っていたのに……。冷たく硬くなっていくキキを抱いて、恵那は目をつぶった。
――私も、もう死んでもいい。
そして、いつの間にか眠りに落ちた。

部屋の中に、南側から日が差し込んでいた。
久しぶりにゆっくり休んだ。目覚めが心地よい。そのまま天井をむいて、気持ち良いまどろみの中にいた。からだ全体が何かに包まれていて、温かい。
――えーっと、これは。
少し動かした手に、柔らかい感触があった。頭を少し持ち上げてみると、白い膜状のものが恵那の背中から、からだ全体を包んでいる。
――これは、キキの……。
跳ね起きた。
恵那が離れると、白い膜状の物質は形状を変え、そこには、いつものキキがいた。
昨夜の出来事が、恵那の頭を巡る。たしか、キキはもうだめになって……?
目の前のキキは、黒いガラス玉のような目をきらめかせて、ちょこんと座っている。赤黒かった身体は、透明感のある白濁したゲル状に戻っている。小さな口が、かすかに開いた。
「キキ、ゲンキニナッタ。オナカ、スイタ」
ははは。恵那はだらしなく笑った。よかった。何事もなくって。
キッチンに立って、ミルクを持って戻った。少し成長して見えたから、専用食でなくてもいいような気がした。二人でベッドに座って、ゆっくりとミルクを飲んだ。身体をもたれさせてきたキキの重さを、じんわりと感じながら。
「エナ、ツカレテタカラ、デンキシゲキ、シタ」
はぁ?
一瞬、何のことか理解ができなかった。――電気刺激、だ。そのせいで目覚めがよかった、と納得した。キキは全体を膜状に変形させることができていた。どういう仕組みか定かではない。だけど、たぶん電極がどこかにある。その電極から低周波か高周波を発して、電気刺激を与えることができるのだろう。……でも、電気刺激?
「電気的安全性とか電磁両立性とか、チェックしてない。いきなりヒトに使うなんて、危険すぎる……」
そうつぶやきながら、恵那はふふふと小さく笑った。
キキを一人前の医療機器に育てるのも、悪くないかな、と。

そう心を決めれば話は早かった。
何しろ、入社してから十年近く製品の開発に携わってきたのだ。開発のノウハウはある。コンセプトも仕様も既に決まっている。もう一歩で臨床試験にこぎつけるはずの、恵那がプロジェクトをリードしてきた製品。プロジェクトからは外されてしまったが、キキを使ったら、ひとりでも実現できるのではないか。
恵那の企画した製品は、実現すれば画期的だ。体内に送り込んだナノマシンでcfDNA(cell free DNA)を検出し、修復が必要な組織を特定する。さらに、自走式のナノカプセルDDS(Drug Delivery System)を使って薬剤をピンポイントに投与。検査のための検体採取も、外科手術も必要がなく、体内にナノマシンを投与してしまえば、自動で治療が可能という、究極の低侵襲性。
現在開発している製品では、まだ年単位の時間がかかる。でも、もし、キキがそうなってくれるのなら――。

半年後。
キキの医療機器化計画が進む。病院で使用されているような医療機器の機能は、恵那が教育した。キキの理解は早い。おそらく、性能は問題ないはずだ。時々つかれた恵那の肩に手を置いて、電気刺激で治療してくれる。
それぐらいならよいのだが、ほかの機能をヒトに使用するには、どう安全性を検証するか、それが悩みではあった。なにしろ、地球で開発されている医療機器とは、根本的にシステムが違う。試験のしようがない。それが、恵那の悩みの種だった。
恵那が試行錯誤している頃、日本中に散らばっているMDラーバと里親を一堂に集めて、交流会が催された。
ほとんど外に出たことのないキキは、交流会の会場に着くまで、ほとんどしゃべりっぱなしだった。見るものすべてが、キキにとっては新鮮で、面白いようだ。その歓声は、保育園児と変わらない。交流会に行けば、MDラーバの友だちができるかも、と期待しているようだった。
会場に足を踏み入れて、恵那は愕然とした。
他のMDラーバは、ほとんど人間の子どもと変わらない姿をしている。あちらこちらから聞こえる会話は、大人のそれと変わらず、内容も知的であった。何をどうしたら、こう育つのか。
入口に立ち止まったままの恵那の後ろに、キキが怯えたように隠れる。だが、遠慮ない嘲りの眼差しが、雪だるま状のキキに向けられた。MDラーバでさえ、遠くからキキを見て笑っている。
いてもたってもいられず、恵那はキキを抱き上げて会場を後にした。里親失格の烙印を押されたように感じた。悪意のかたまりが、二人に向けられた気がした。恵那には理解ができない。マニュアル通りなのに、いや、それ以上に医療機器について学ばせていたのに、なぜ、と何度も繰り返した。
となりを、手をひかれたままキキが早足で歩く。一心不乱についてくるキキを見て、恵那の感情の高ぶりが、すぅっと引いた。なぜだか、キキに対して申し訳ない気持ちがした。
保育園の角を曲がり、園児の歓声を聞きながら、マンションの玄関に続く階段をのぼる。ふと振り返ってみれば、四月に入園したばかりの園児がよちよち歩きをしている。キキも、そんなときがあった。今では、結構しっかりしてきたけど。下に目をやれば、キキは保育園を見て、動かない。恵那はそっとキキの背中を押し、マンションの中に入った。

眠れぬ夜が続き、恵那は消耗していた。
キキは成長している。医療機器として、おそらくどのMDラーバよりも性能は良い。だが、人間の子どもとほとんど見分けがつかないように成長した、ほかのMDラーバたち。あれがまっとうな成長の姿なのか。雪だるま状のキキは、出来損ないなのか。
何度考えても、答えは出なかった。医療機器を育てるということに、専門家として一番力を尽くしている自負はある。なのに、なぜ、不安が拭い去れないのか。引け目を感じてしまうのは、なぜなのか。頭を抱えて悶々とした。
恵那の目は、保育園を飽きずに眺めるキキに注がれていた。
――涼香に、聞いてみるか。

「お姉ちゃんさ、キキを保育園に入れてみたら?」
おもいがけない涼香の返事に、恵那は戸惑った。医療機器として、人間に接してよいのかどうか。性能も安全性も、未確認なのに、保育園に……?
「だから、人に慣らすのが里親じゃないの? 人間にもまれてたら、キキだって加減がわかるってものじゃない?」
大丈夫。私が園長先生に掛け合ってくるから。どんと力強く胸をたたき、帰っていく涼香の背中は、たくましく、後光が差しているように見えた。
やがて、園長先生から登園の許可を得て、キキは晴れて保育園児となった。
初めはこわごわと遠巻きにしていた園児たちも、あっという間にキキに慣れ、キキの姿は子どもたちと部屋から消えた。恵那の心配そうな顔に気づいたのか、保育士はにこやかに問題ないですよ、と話しかけてくる。この時間、お母さんは自分を充電してくださいね。といわれ、お母さんじゃない、とぶつぶつ言いながらも、恵那は久しぶりにゆっくりとくつろいだ。
恵那の心配をよそに、キキは毎日楽しく保育園に通った。
受け入れられないかも、という恵那の心配は杞憂に終わった。
メリハリのついた毎日が、キキを成長させていたことに、恵那は驚く。再開した在宅勤務に疲れた夜には、キキが優しく肩に手を回し、静かに電気刺激を与えてくれる。身体の疲れ以上に、心が回復した。
「キキちゃん、大人気ですよ」
園長が、迎えに来た恵那に笑顔で伝える。帰りの時間なのに、まだ、園庭に隣り合った公園で遊んでいるらしい。せっかくだから、見ていきますか? という園長の言葉に甘え、恵那は園庭にまわった。
傾きかけた春の日差しが、公園の新緑をまばゆく照らす。その足元にまとわりつくように、数人の小さな影がぐるぐる駆けていた。園庭と公園の境にある塀にもたれかかって、恵那は目を細めて見ていた。と、ひとりが木の根に躓き、勢いよく倒れ込んだ。一瞬の間をおいて、甲高い泣き声が響き渡った。近くで遊んでいた園児たちが走り寄る。せんせ~! と誰かが声を上げた。
その間に、一番近くにいた恵那が駆けつけていた。転んだ女の子を囲んでいる園児たちの上からのぞきこむ。膝がすりむけて、血がにじんでいた。まずは、傷口を水洗いだ。どいて、と声をかけようとした時。
恵那の目が泣きじゃくる女の子の隣に座るキキをとらえた。白い透明な触手のような腕が伸びている。傷口に触れているあたりは、白く泡立っているようにも見える。次第に女の子の泣き声が小さくなり、やがて、すすり泣きも止まった。
キキの腕が離れた。
恵那は目を疑った。女の子のすりむいたはずの膝が、きれいになっている。キキが、治した? 固まったままの恵那を見つけて、キキがはにかむように笑った。
驚異的な治癒能力。地球上のどんな医療機器も、足元には及ばない。これが、セラピスターの誇る医療なのか。猛烈に嫉妬した。同時に、その成長に関われている喜びを痛烈に感じた。
「けがをしても、いつも治してくれるんですよ。だから、みんなキキちゃんが大好きなんです」
いつの間にか後ろに立っていた保育士が言った。振り返って目が合うと、にこやかに会釈をした。誇らしさが、恵那の胸にふつふつと湧き上がる。
ここの子たちは、不格好なキキの姿を気にせずに受け入れてくれた。キキは友だちを大切に思っている。だから、適切な出力で上手に治療することができるのだろう。医療機器としての性能は、キキの感情と強くリンクしているのではないか。
それは恵那の確信にも似た推論だった。ただ、どうやって検証すればよいのかは、わからない。転がるように走り回るキキを見ながら、検証方法について、恵那は考えを巡らせていた。

保育園での生活がすっかり日常になって、夏が過ぎた。
残暑が厳しい九月に始まった運動会の練習は、キキをヒーローにした。誰もがキキと手をつなぎたがっていた。それだけで、駆け足が早くなったり、遠くまで飛べたり、ダンスが上手になったり……。それをドーピングと、大人の世界では言うのだよ。と恵那は密かに思っていたが、キキは引っ張りだこだ。おまけに、けがをしても優しく治してくれるとなれば、なおさら。
万国旗が青空にはためいて、運動会本番となった。
涼香が、雄太の分と一緒に、キキにお弁当を持ってきてくれた。お姉ちゃんはマンションに帰って食べてもいいよ、といたずらっぽく告げる。残念ながら、今日はマンションの入り口は閉鎖だ。みんなと食べる。そういって、恵那はテントの下で涼香と一緒に観戦していた。
お昼が近づいて、恵那は立ち上がった。まだまだ暑い日中だ。冷たいものを取りに行こう。マンションに戻る恵那を見つけて、キキもついてきた。
恵那の言葉通り、マンションの前にはクレーン車が立ちはだかり、高い腕がとなりのマンションの上まで伸びている。何かの工事があると、張り紙がされていたのを思い出した。クレーンとブロック塀の間のわずかなすき間を、そろりと抜ける。珍しい巨大な機械を目に、キキはその前に立ち止まったまま。
「そこで、待ってて」
頷いたキキを残して、恵那はマンションの玄関をくぐった。冷蔵庫にひやしてあったフルーツとグラスに入ったジュースを持って、足早に戻っていく。人間の食物を摂取できるようになったキキの、最近の大好物だ。キキの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
玄関から出た時、クレーン車の腕が奇妙な動きをした。かなりの重量物を吊るしている。突風のような風が吹いたように見えた。クレーン車がバランスを崩して、ゆっくりと傾き始めた。その下には……。

キキ!

手にしたフルーツが宙を舞った。地面にたたきつけられ、あたり一面、甘い香りが漂った。割れたグラスとジュースの飛沫が、後ろに流れる。
驚いた顔のキキを力いっぱい突き飛ばし、恵那の意識は遠ざかった。

朦朧と目が開いた。
何か、暖かいような、穏やかな気持ちで、このままずっと微睡の中にいたいと願っていたような気がする。だが、うっすらと目を開けた時に視界に入った、透明な、それでいて赤黒く発色するようなゲル状の物体が、なんなのか、一瞬にして理解した。
おもいっきり起き上がると、身体の節々が耐えがたいほどに痛む。それ以上に、心が猛烈に痛んだ。
「キキ!」
恵那の叫び声に、医師や看護師が駆け寄った。
「瑞浪さん。気がつかれましたか!?」
呼びかけに答えず、恵那は赤黒く発光しているキキを抱いた。どうして!
「お母さんを助けるといって、聞かなかったのです」
年配の医師が、静かな声で告げた。恵那はゆっくりと顔をあげた。医師はうなずく。
「瑞浪さんはキキちゃんの代わりに倒れてきたクレーン車の下敷きになって、瀕死の状態でした。我々も全力を尽くして治療にあたったのですが、命を救うことはかなわないとあきらめた時、キキちゃんがどうしても治療をしたいと……。セラピスターからの大切な預かりものですから、と止めさせようとしたのです。でも、どうしても、と」
どうして!
キキを胸に抱いたまま、恵那は慟哭した。まだ一人前じゃないのに、重症の私を治すなんて、出力が足りないって、どうしてわからなかった? 固く、冷たくなっていくキキに、恵那は問う。どうして……。
ICUの入り口から、声が聞こえた。
「瑞浪。これを使え」
恵那の開発した製品を持って立っていたのは、椿だった。
「まだ臨床応用はしていないが、性能は折り紙つきだ。地球人が誇れる医療機器になるはずの製品だ」
敵対心ばかりが先に立って、プライベートではまともに話したこともない、同期の椿が! 驚きのあまり言葉を失った。椿が目で合図をした。
実物に手を触れるのは、ほぼ一年ぶり。だが、目をつぶっていても、使える。恵那は痛む身体を引きずってベッドサイドに立ち、動かないキキに向かってつぶやいた。
「絶対、助けるから」
椿も手際よくセッティングをサポートする。人間であればナノマシンは静注するが、キキに血管は見当たらない。全身が一様な物質でできている。表面は固く、針もさせない。唯一、外部から物を受け入れるところ、といえば、口しかない。
もし、消化管があってそのまま排出されてしまえば、体内に取り込まれることはない。祈るような気持ちで口から投与を続けた。

里親制度の開始から、一年。MDラーバ回収の日が来た。
対面式と同じ会場へ、恵那はキキと向かった。一年前と変わらない日差しの中、たくましく成長したキキと歩くこの日を、あの日の恵那は想像もできなかった。ほかのMDラーバと異なるその姿を、誇らしく思う日が来ることを。
恵那を治療し、一時は生死の境をさまよったキキは、恵那の心血を注いだ製品によって助けられた。恵那を治療したキキの姿も、また、変わった。目はX線や赤外線、超音波をとらえる測定装置となった。体側から生える腕は、電極やプローブなど、何組もの治療用の器具となっていた。
キキ以外のMDラーバは、すべて人間の姿をしている。里親たちは、キキの姿を見て密かに眉をひそめた。だが、恵那は気にならない。キキの白い混濁した身体から何本も伸びる腕が、恵那には千手観音のように見え、誇らしかった。もちろん、どこに出してもおかしくない医療機器に育て上げたという自負があった。
回収式が終わり、別れを悲しむ親を残して、ラーバが里親のもとから巣立つ。
そっと寄り添った恵那を、キキは優しく抱きしめた。肩にあてられた電極から、チリリと電気刺激が伝わった。そして、耳元でつぶやかれた声。

――ママ、ダイスキ。

一人で歩く自宅への道。
後ろを、キキと過ごした一年を振り返るまいと、眉間にしわを寄せて恵那は早足で歩く。
あっという間だった。まるで、夢のよう。……そう、夢だ。夢なら、覚めて当然。
でも、覚めないでほしかった。
マンションの向かいの保育園。いつものように、子どもたちの歓声が聞こえる。
今日は聞きたくない。耳をふさごうとしたその時。
「キキママー!」
園児たちが恵那に駆け寄ってくる。泣き笑いの表情で、恵那は手を振った。キキの贈り物が、ここにもあった。

 

文字数:16419

課題提出者一覧