ぬっぺっぽうに愛をこめて

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梗 概

ぬっぺっぽうに愛をこめて

病弱な父親と二人暮らしをしている加蓮は、小学校五年生ながら家事もこなす利口な子だ。

 ある日加蓮は駄菓子屋で、薬売りに会った。奥に引っ込んだお婆さんを待つ間、薬売りは加蓮に話しかける。加蓮が父親の話をすると、薬売りはそれならいい薬がある、と言って白くてぶよぶよした、生きた肉の塊を渡した。

「これにお父さんへの愛をこめて育てると万病に効く薬になる。愛情が真に深いものであれば、不老不死の霊薬になる」

薬売りは金銭を受け取らないかわりに、うまく育ったら内臓を返して欲しいと言った。確かにそうすると、加蓮は約束した。

 加蓮が世話をすると、塊から手足が生え、歩き出した。加蓮は塊にモコと名付け、可愛がって育てる。父親にモコを見せると、父親は困ったように笑った。

父親が病院に行く時に、加蓮も付いていった。検査が終わった父親は加蓮を女医に合わせる。検査を受け、女医に質問攻めにされて気づく。父は加蓮のことを病気だと思っているのだろうか。女医にそう言うと、女医は笑って言った。大丈夫。彼、少し神経質になっているのね。お父さんの事、助けてあげて。

言われずともそのつもりだ。加蓮はこの頃とみに不安定な様子の父親を助けながら、モコを育てた。しかしモコにすっかり愛着が湧き、殺して料理するなんてできないと感じていた。加蓮は親友の葵にだけモコを見せた。葵は喜び、これはぬっぺっぽうだと言って妖怪図鑑を引っ張り出してきた。なるほど、モコによく似ていた。

夏休みの終わり頃、モコを連れて父と親戚の家に行った。いつも通り優しい叔母の、父に対する態度に何か違和感があったけれど、加蓮は楽しく過ごし、父と一緒に川に遊びに行く。川遊びの最中に父親は急に語り出した。この間の検査の結果が良くなかったこと。そう遠くない未来に自分が死んでしまうこと。自分の死後、加蓮を親戚に預けようと考えていること。

父親が悲壮な顔をする程、加蓮の心は落ち着いた。大丈夫だよお父さん。私が治してあげる。とってもいいお薬があるの。

 家に戻って、加蓮は料理を始めた。暴れるモコに包丁を突き立てる。食べるために始めて生き物を殺すのは、可愛がっていたモコを殺すのは、とても辛くて気持ち悪かったけれどやりきった。出来上がったおじやを食べる父を、加蓮は幸せな気持ちで見た。

翌日、薬屋が訪ねてきた。モコの内臓を見て薬屋は喜び、病気は治ったはずだと太鼓判を押す。

二十五年後。加蓮は娘を連れて父に会いに来た。父は健康そのもので、見た目は三十代にしか見えない。加蓮は父親を不老不死にしてしまったのかと悩み、薬屋の言葉を思い出す。真に深い愛情。子供だった自分が父親に向けた愛情とはどれほどのものだったのか。もう思い出せない加蓮は、無邪気な様子の娘を見て思う。子供の愛なんて大したものじゃない。不老不死なんて、そんな馬鹿なことはありえない。そう自分に、言い聞かせた。

文字数:1188

内容に関するアピール

 今回はぬっぺっぽうを育てることにしました。食べられるし健康にいいので。家庭菜園でトマト等を作った時に家族に食べてもらえると嬉しいので、ぬっぺっぽうも父親に食べてもらいます。
 自分が子どもの頃を思い返すと、子どもだけで飼っているハムスターなんていつ死んでもおかしくないし、子どもの料理なんて何が入っていてもおかしくない。あの頃の料理って、生きるためというより図画工作みたいな気持ちだった気がする。ろくに味見もしなかったり。本人は一生懸命なんだけど、何かが間違っている。で、とりあえず父とか兄に食べさせてみたりする。それで、食べた側はおいしいっていうわけですよ。絶対おいしくなかったと思うけどな。
 そういえばどこかの小学校で、育てた豚を食べるという授業をしていましたね。名前をつけて可愛がった豚を食べて命の尊さを学ぼうという発想はなんだか無邪気で、子どもの持つ残酷さと綺麗に噛みあっていた気がします。

文字数:399

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ぬっぺっぽうに愛をこめて

 小学校五年生とはとても思えないほどしっかりしている、とご近所で評判の加蓮にだって、きなこ棒と酢だこで迷って二十分が経過する日はあった。
 だいたい駄菓子屋というのはいけない。お菓子が多すぎて、ついつい目移りしてしまう。きなこ棒か酢だこかで迷っているはずなのに、フルーツ餅やらポン菓子やらが思考に入り込んでくる。
 加蓮はいつも水曜日のお習字の帰りに駄菓子屋に寄り、一つお菓子を買うことに決めている。別に二つ買ったところで誰にも怒られはしないのだけれど、なんとなく自分で決めたルールを破る気にはなれない。
駄菓子屋にくれば学校の友達に会えることが多いのだが、今日は加蓮しか客がいない。この駄菓子屋の店主であるお婆さんは、加蓮のことを気にする様子もなく、奥の畳の間で卓袱台に向かい、趣味のクロスワードパズルに熱中している。誰にも急かされないので、加蓮はどちらかに決めるタイミングを完全に見失っていた。そんな時に人が店内に入ってきたから、加蓮は何の気なしにそちらをみた。
 若い男だった。灰色のスラックスに白シャツを着て、ネクタイを締めている。それだけみればどこかの会社員のような服装なのだが、頭には瓢箪柄の手拭いを巻き、背中には大きな柳行李を風呂敷一枚で背負っているなど、どうにもちぐはぐな出で立ちをしていた。よく見れば履いている靴だって、革靴ではなく地下足袋だ。
「やあ、こんにちは」
 男は奥の間に向かって踏み込みながら、朗らかにそう言った。お婆さんはそれを聞いてやっとクロスワードパズルから顔をあげ、気のない様子で言った。
「あら、あんた、久しぶりねえ」
「ええ、随分ご無沙汰しておりまして」
 男はそう言いながら風呂敷を解き、一段高い位置にある畳の部屋、その手前の板の張られたあたりに柳行李を降ろした。
 当たり障りない世間話の後、お婆さんは古びた赤い箱を持ってきた。開けたその中には薬の瓶や包帯が詰まっている。箱の中身を検分しながら、細長い帳簿に文字を細かく書き込んでいく男は、どうやら薬を売る商売をしているらしい。
 それを理解した加蓮は途端に興味を失い、どちらのお菓子を選択するべきかの思索に戻った。それから数分経って、選択肢に割り込んでくるヨーグルトや糸ひき飴をなんとか脳内から退けている時だった。ジリリリリン、という音がした。
 加蓮が音の方を見ると、和室の奥にお婆さんが引っ込んでいくところだった。ジリリリリン、ジリリリリン。繰り返される音が、途中で切れて、後には電卓を弾く男が取り残された。男はしばらく電卓を眺めながら帳簿に書き込んでいたが、やがて所在無げに立ち尽くすことになった。そんな男を眺めながら、加蓮は少し気の毒に思った。あのお婆さんは、電話を取ると長いのだ。この男は、随分待たされる羽目になるだろう。
 加蓮が同情の目で見ていると、男はそれに気がついたか、つい、と視線を加連に向けた。視線がかち合って、なんとなくどぎまぎする加蓮に、男は馴れ馴れしく声をかけてくる。
「やあ、お嬢ちゃん、この駄菓子屋にはよく来るのかい」
「ええ、まあ」
男は加蓮の方に歩み寄ってきて、天井からぶら下がっているポリバルーンの袋に手を触れさせると、ぺらぺらと喋り出した。
「いいねえ、駄菓子屋なんて最近じゃそうそう見ないもんねえ。いやあ、ほんといいもんだよ。お菓子もそうだけど、あたしはこういうとこで売ってる玩具が好きでね。メンコやベーゴマなんてわかりやすいのも好きだけど、やっぱりほら、この……なんだ? なんか伸び縮みする輪っかやら、擦ると煙の出るベトっとしたやつやら、よくわかんないやつが好きでね。よくわかんないんだけどいつまでも遊んじゃうんだよねえ。ねえ、最近の子もこういうので遊ぶのかい」
「はあ、遊ぶ子もいると思いますけど」
 加蓮が素っ気ない返事をしているのに、男は気にした様子も無く問いかけを続ける。学校は楽しいかい、体育は得意かい、友達は多いほうかい、嫌いな食べ物はあるかい。
 面倒な大人に絡まれてしまったな、と思いながらも、加蓮は適当な答えを返した。そんな加蓮に、男がした次の問いかけはこうだった。
「お父さんは元気かい」
「元気ですよ」
「嘘を言っちゃいけない」
 嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれちまうよ、と言って、男は笑った。元々細い目が、糸のように細くなる。それを見ながら、加蓮は自分の体にゾッと寒気が走るのを感じた。なんだ、この得体のしれない感覚は。
 いや、違う。得体のしれない感覚などではない。加蓮はそう思い直して、少し落ち着いた。問題は、何故、男が加蓮の父のことを口に出したのかということだ。何故、加蓮の父がとても元気とはいえない状況にあることを知っているのか、ということなのだ。初対面の人間に、身内の事を言い当てられる不安感。この感覚は、ただそれだけのこと。そう冷静に判断した加蓮は、疑問を解決するために問いかけた。
「お兄さんは、父の、知り合いですか」
「はは、お兄さんなんて、照れるなあ。そんな歳じゃないんだけど」
「知り合いじゃないんですか」
「合ったことも無いね」
「じゃあなんで、父の事を」
「こう見えて、お兄さん、薬売りだからね」
 病気の事なら何でもわかるのさ、と言って、男は右手を広げて見せた。答えになっていない。加蓮の不信感はつのっていった。
 話せは話すほどに怪しい男だ。そうだ、いくら知っている駄菓子屋の中とはいえ、こんな怪しい男と話すなんて、油断しすぎた。お菓子は惜しいが、話を切り上げて帰ろう。知らない人と話してはいけません。学校で配られたプリントにもそう書いてあった。
 加蓮は手に持っていたお菓子を元の位置に戻して、出口に向かった。背後から男が声をかけてくる。
「お菓子、買ってかないのかい」
「今日はやめました」
「もうちょっと話そうよ」
「用事があるので」
 不審者を刺激しないように当たりさわりのない返事をして、加蓮は歩調を速めた。そこにまた声がかかる。
「残念だなあ、お父さんの病気が治る、良い薬があるんだけど」
 加蓮は足を止めた。あと一歩で、駄菓子屋から出るという所だった。一瞬迷った後、男の発言の意図を問うために振り返る。そしてすぐ後ろに男がいたのに驚いた。咄嗟に後退ろうとして足が滑り、後ろに倒れ込みそうになる。
「おっと、大丈夫かい」
 そう言った男の手に背中を支えられた。
「ありがとう、ございます」
 助け起こされながら、加蓮は反射的に礼を言った。どういたしまして、と言った男が、加蓮の肩に手を回して、駄菓子屋の中に歩き出す。それに引きずられるように歩いて行った加蓮は、男に促されるままに、和室の手前、板が張られた部分に腰かけた。
「いやあ、話を聞いてくれる気になって嬉しいよ」
 正面に立った男が、そう言って加蓮を見下ろした。これは、もしかしなくても良くない状況だ。加蓮は和室の奥の方を見た。微かな話声が聞こえてくる。お婆さんはまだ話し中のようだが、呼べばすぐ来る位置にいる。加蓮はお習字バッグに手を伸ばし、そこに付けられた防犯ブザーを握りしめた。そんな加蓮の様子を気にせず、男は喋り続ける。
「さて、お父さんの具合が悪くなったのは、ここ最近のことだったね。なんだかしんどそうで食欲がない。どうも体も痛いらしい。何度か違う病院に行っているようだが、どこがどう悪いのかはお嬢ちゃんに教えてくれない。いや、それも当然だね。だって、はは、言えないなあ。こんなに悪いんじゃ、とてもとても」
 へらへらと笑いながら言う男になんだか腹が立ってきた加蓮は、キッ、と男を睨みあげて言った。
「なんですか、それ。どう悪いんですか。なんていう病気なんですか」
「いやいや、お父さんがナイショにしてることを、あたしが教える訳にはいかない」
「教えてください、教えて」
「いやあ、慌てるもんじゃない。なんていう病気なのか、なんて実際の所、どうだっていいんだからね。大事なのは、どうすれば治るのか、そうじゃないのかい。そしてその方法を、あたしは知ってるのさ」
 男はやけにのっぺりした顔つきをしているから、にやにや笑いが浮きあがっているように見えた。下唇を噛む加蓮を見下ろして、尚も男は続ける。
「お嬢ちゃんも、知りたいとは思わないかい。前みたいに、お父さんが痛そうなそぶりも無く、苦しそうなそぶりも無く、一緒に遊んでくれるようになったらとは思わないのかい」
 視界が、水気を帯びて滲んだ気がした。加蓮は警戒心を解きはしなかったが、僅かに声を低めて問いかける。
「……どうやったら、治るのか。教えてくれますか」
「いいよ。お嬢ちゃんだけ特別だ」
 男はあっさりとそう言って、座る加蓮の横に置いてある、柳行李に手を突っ込んだ。さして苦労せずに、何かを取り出して手中に収める。そして加蓮の前にしゃがみこんで言った。
「はい、手出して」
 恐る恐る、加蓮が両手を差し出すと、その掌の上に小さな包みが乗せられた。それは、和菓子の包みのようにしか見えなかった。丸くて小さな何かを、橙色の和紙で包んである。
「開けてみて」
 誕生日プレゼントの包みを開けろとでも言うような、弾んだ囁き声で男が言う。加蓮はわけもわからぬまま、ねじってある包みを解いた。
 中身を見ても、和菓子のようだという印象は変わらなかった。真っ白ですべすべのお饅頭のような物が、掌の上にちょこんと載っている。
「これを、父にあげればいいんですか?」
 加蓮が問いかけると、男は頷いた。
「そう、でも焦っちゃいけないよ。ちゃあんと大きくなるまで育ててから食べるのさ」
「育てて?」
 男の言っていることがわからずに手の上の白いものをじっと見下ろす。その時、それが僅かに動いた気がした。ぷるぷるとした感触が掌に伝わり、驚いて小さく悲鳴をあげる。
「あはは、大丈夫だよ。噛みつきやしないから」
 軽い声で男が言う。加蓮は両手を自分の体から遠ざけるようにしながら、問いかけた。
「これ、これ、生きてるんですか」
「生きてるよ。だから、大事に育ててね」
「育てるって、どうやって。餌は」
「そうだなあ、まあ生肉とかを喜んで食べるみたいだけど。でも餌とかそんなことより、大事なことがある、それはね」
 男は両手を大仰に広げて見せた後、もったいぶった口調で言った。
「愛情をこめて育てることだよ」
 詭弁だ。加蓮は学校で兎の飼育係をしているから知っているのだ。生き物を育てるというのは大変なことだ。飼育に必要なのは、愛などではなく、生き物の事をよく知り、飼育環境を適切に保つことである。
「お、信じてない顔をしているね。でも本当の事だよ。とはいえ何も、これに愛を向けろって言ってるわけじゃないよ。お嬢ちゃんがこめるのは、お父さんへの愛だ」
 加蓮が黙っていると、男は加蓮の手の上の白いものを指さして、内緒話をするように声を潜めて言った。
「これにお父さんへの愛をこめて育てると、万病に効く薬になる。愛情が真に深いものであれば、不老不死の霊薬になる」
「……本当に?」
 嘘だ、と思いながらも、加蓮はそう問いかけた。男は深く、深く頷く。
「ああ本当だよ、あたしは嘘は言わないよ。お嬢ちゃんは本当に運がいい、これに勝る薬なんて、この世にありはしないんだからね」
「あの、お金、お金はいくらかかりますか。高いですか」
「お金? 馬鹿言っちゃいけない。こんなに可愛いお嬢ちゃんからお金なんてとるもんか。そんなことは気にせず持って帰るがいい。これは本当にいい薬だよ、でもあたしはそんなことで、決して恩を着せたりはしないのさ」
 加蓮は途方に暮れた。いい薬だよ、と言われる一方で、お金はいらないと言われてしまう。何かを得るためにはお金が必要だという加蓮の常識から外れている。
「ただ、一つだけ忘れないで。これを育てて、食べた後、内臓を返して欲しい」
「育てて、食べる?」
「そうだよ。さっきからそう言っているだろう?」
 言っていたかもしれない。しかし、やはり加蓮の常識にそぐわないから頭に残らないのだ。生き物を食べるために自分で育てるなんて、そんな事はしたことがない。
「育ったこれを食べればきっとお父さんの病気は治るよ。それで残った内臓はあたしに返して欲しい。簡単だろう?」
 男がそう言いながら立ち上がる。簡単、なのだろうか。加蓮の掌の上で、白いものはいまだぷるぷると震えている。このよくわからないものを、育てて、食べる?
「悪かったねえ、待たせて」
 加蓮が思案に暮れていると、お婆さんがそう言いながら戻ってきた。はっ、と我に返る加蓮に声をかけてくる。
「加蓮ちゃん、お菓子、どれにするか決まった?」
「あの、ごめんなさい、決まってなくて」
「そう。いいのよゆっくり決めて」
 近づいて来るおばあさんから隠すために、白いものを包み直してワンピースのポケットに入れる。何故か悪戯を見咎められたような気持ちに襲われて、加蓮は立ち上がった。
「ごめんなさい、私、今日は帰ります」
「あら、そうなの? また来てね」
 そう言うお婆さんと目を合わせず、俯いたまま男の脇をすり抜ける。駄菓子や玩具が並ぶ中を早歩きで過ぎて、店を出る時、背中に男の声がかかった。
「お大事に」

 住宅街の中の小さな一軒家。鉄製の門を通って、加蓮は自宅の扉を開けた。ただいま、と声をかけても返ってこない。仕事をしているのか寝ているのかわからないが、父親は二階の自室にいるのだろう。
 手洗いうがいをした後、加蓮はゆっくり階段を登った。隣室の父親の邪魔をしないようにそっと自分の部屋に入り、扉を閉める。お習字バッグを床に置いて、クーラーをつけると、加蓮はベッドに座り込んだ。恐る恐る、ポケットのふくらみを確かめる。それは確かにそこにある。
 ポケットから取り出して包み紙を解くと、ぷるぷるとした白い塊が現れる。それをじっと見つめて、加蓮は途方に暮れた。持って帰ってきてしまったけれど、実際どうやって世話をすればいいのかわからない。
 加蓮はしばらく考え込んで、二年前カブトムシを買っていた時のプラスチックの虫篭がまだあることを思い出した。白い塊をベッドの上に置いて、加蓮は部屋を出た。また階段を降りて、玄関横の棚に入っている大きめの虫篭を引っ張り出す。
 部屋に戻ると白い塊がベッドから落ちそうになっていたから、加蓮は慌てた。塊を手ですくい上げて、透明な虫篭の中に入れる。籠に入った塊は、ぷるぷると震えながらゆっくりと移動している。お饅頭みたいな形のくせに、まさかこんなに動けるなんて。
 加蓮は床に膝をつき、ベッドの上に置いた虫篭を覗き込んで、しばらく興味深く観察した。寝床は必要だろうか。餌は。トイレはどうしよう。
 そんなことを考えている時に、ノックの音がした。加蓮、入っていいか、という問いかけに、いいよ、と答える。入ってきた父親は、乱れた髪そのままで、眩しそうに目を細めている。着ているシャツも皺が寄っていた。どうも寝起きらしい。
「お父さん、おはよう」
「ああ、うん……おかえり、加蓮」
 ドアにもたれかかるような姿勢で、父親は続けた。
「ごめんな、今日まだ晩御飯用意できてなくて……どうしようか。出前でも頼もうか」
「出前もいいけど……冷蔵庫のお肉、消費期限今日までだよ。残ってるキャベツも早く食べないといけないし」
「そうだっけ」
「うん、簡単なので良かったら、私が何か作るよ」
「いや……別に、父さんが作るから、加蓮は宿題でもしたほうが」
「もう終わったよ」
 そうか、加蓮は偉いな……と父親は呟いて、視線を彷徨わせた。そして加蓮の前にある虫篭に目を止めた。まずい。そういえば、隠すのを忘れていた。
「加蓮、その虫篭は」
「違うの」
 問いかけを遮ってから、加蓮は言い訳を考えた。知らない人に貰ったなんていったら、怒られてしまうかもしれない。
「これは、あのね、そうなの。捕まえたの」
「……捕まえた?」
「パンダ公園の草むらにいたから捕まえたの。飼っていいでしょ?」
 少し無理があるかな、と思いながらも、加蓮はなんとか父親を説得するために続けた。虫篭を父親の方に掲げて、中を見せる。
「可愛いでしょ、白くて、ぷにぷにしてて。噛んだりもしないの」
 父親は数十秒ほど、虫篭の中をじっと見ていた。強張った顔つきを見て、加蓮は焦る。カブトムシを飼いたいと言った時は反対されなかったが、今回は違うかもしれない。流石にこんなよくわからない生き物を飼うのは許してくれないだろうか。
「私がちゃんと世話するから」
 加蓮が懇願するように言うと、父親は虫篭から目を離さないまま、近づいてきた。しゃがみ込んで、加蓮が掲げ持っている虫篭の中を探るように見る。
「……だめ?」
 加蓮が問う。透明な虫篭越しに、父親と目が合った。数秒間見つめ合ったあと、ふいと目を逸らした父親は、寝起きのせいでまだ掠れている声で言った。
「……いいよ」
 父親が立ち上がる。ふらりと扉の方に歩いて、ドアノブに手をかけて言った。
「父さん、ちょっと部屋で仕事するから」
 その後、何か言葉を続けたそうなそぶりを見せたが、結局何も言わずに部屋を出て行った。加蓮は安堵に息をついて立ち上がり、虫篭を勉強机の上に置いた。
「良かったね、飼っていいって」
 声をかけてみる。白い塊がぷよんぷよんと大きく揺れるのが、なんだか嬉しそうに見える。この奇妙な生き物が、本当に薬になるものだろうか。疑念は残るが、加蓮はとにかく育ててみることにした。父の為にできることが少しでもあるなら、やってみようと思う。
「名前はね、決まってるの。モコっていうんだよ」
 前に飼っていたカブトムシの名前である。可愛い響きの名前が気に入っていたので、同じ名前にすることにした。
「よろしくね、モコ」
 虫篭の蓋の端を、人差し指の爪でこつんと叩くと、その音に驚いたようにモコが固まる。そんな様子がおかしくて、加蓮はまじまじとモコを見つめた。

 野菜なども与えてみたが、そちらには見向きもしなかった。小皿の上に生肉の欠片を置いておくと、もにょもにょと近づいて生肉を齧るのである。どうやら、饅頭のような形の底の部分にある小さな割れ目部分が口らしい。
 四、五日に一かけら程度しか食べないので始めは心配したが、どうやら小食な生き物らしい。糞尿の量も少なくて、教えたわけでもないのに虫篭の隅の決まったところにするので、虫篭の底にキッチンペーパーを敷いておけば掃除も大した手間がかからなかった。
 手の上に乗せると、ひんやりぷにぷにとしていて気持ちいい。加蓮は毎日、学校から帰ってくると、モコを掌に乗せて眺めた。そうしているうちに、どんどんモコの事がわかってくる。縦に大きく揺れている時は嬉しい時。横に小刻みに揺れる動きは威嚇。モコが少し潰れたような形になって動かなくなった時は、眠っているのだということ。
 父親はあまりモコのことについては話しかけてこなかった。ただ、モコの事をあまり人に話してはいけない、とそれだけ言った。これはもっともなことだと、加蓮は思っている。こんな動物図鑑に載っていないような奇妙な生き物を人に見せて、大騒ぎになってはいけない。だからモコを飼い、その成長を見守るのは、加蓮だけの楽しみだった。
 始めは一口サイズの饅頭ほどの大きさだったが、飼い始めてから二週間たった今では、最初の二倍ほどの大きさになっている。その成長を楽しく眺めていた加蓮だったが、ふと異常に気付いた。なにかイボのような小さなものが四つ、床に接するようにしてモコの半身に生えている。
 悪い病気ではないかと、加蓮は心配した。毎日学校から急いで帰って、モコを掌の上にのせて観察した。モコが病気かもしれないと父親に言ってみたけれど、それは心配だな、と言って考え込むだけで何をしてくれるわけでもない。もちろん動物病院に連れて行くことも出来ない。
 イボを見つけてから一週間たったその日も、加蓮は学校が終わってから急いで家に戻り、虫篭の蓋を開けた。名前を呼ぶと、クッキーの空き箱にティッシュをいれた住処からモコが出て来る。その丸い身体についたものは、すっかり大きくなって歪なこぶのようになっている。
 加蓮はモコに向かって手を差し出した。いつもならこうしただけで手に乗ってくるのに、今日はもぞもぞと動くばかりで乗ろうとしない。やはり具合が悪いのかとやきもきしながら見ていた加蓮は、動いているのが胴体ばかりでないことに気が付いた。
 こぶのようになっている部分が、もぞもぞと動いている。それはまるで、床から体を離そうとしているような動きだった。いや、まさしく体を床から離そうとしているのだ。加蓮はそれを理解し、それと同時に気付いた。こぶのように見えたものは、モコの手足だったのだ。おたまじゃくしに手足が生えるように、モコもまた手足を獲得しようとしているのだ。
 加蓮は不思議な気持ちでそれを見た。ばたばたと手足を動かして、何度も床から起き上がろうとする。何度も失敗するけれど、少しずつ手足を大きく動かせるようになる。四つん這いのようになって、手を浮かせようとする。
 何度も、何度も繰り返して、ついにモコは上体を浮かせて見せた。そして、二本の短い足で加蓮の手の方に歩き出す。たった数歩の距離によろめくが、転ぶことはせず、加蓮の手に、白い手を触れさせる。そして、上体を僅かにそらして見せた。それはまるで、加蓮を見上げているようだった。目も鼻も無く、口とおぼしき割れ目があるだけの顔だったが、加蓮にはなんだか誇らしげに見えた。
「やった、やったね、モコ……!」
 加蓮は詰めていた息を吐いて、歓声を上げた。モコを両手ですくい上げて掌に乗せる。バランスを崩し、尻餅をつくような姿勢になったモコに頬をすり寄せた。
 ぷるぷると震えるだけだったモコがこんなに大きくなって、二本の足で歩けるようになんて。始めは想像もしなかった。昂る気持ちを抑えきれなくて、加蓮はモコを手にのせたまま部屋を出た。そして隣室の父親の部屋を、勢いよく開けた。
「お父さん、聞いて! モコが、モコがね!」
 加蓮が大きな声で言うと、驚いたように父親が振り向いた。パソコンに向かって仕事をしていたらしい。加蓮は父親に詰め寄って、手の上のモコを見せた。
「あのね、モコが歩けるようになったの。病気じゃなかったんだよ、ほら、ここ、こっちが手でね、こっちが足なの」
「加蓮、加蓮。落ち着いて」
 父親が、加蓮を手で制した。加蓮の肩に左手を乗せて、顔を覗き込むように問いかける。
「どうしたんだいったい。一から説明してくれ」
「うん……えっとね、モコに変なのが生えてるっていたでしょ。病気じゃないかって」
「ああ……言ってたな」
「病気じゃなかったんだよ。生えてきてたのは、手と足だったの。二本の足で歩けるようになったの。すごいでしょ?」
「うん……すごいな……」
 父親は弱弱しく加蓮に同調し、これまた弱弱しく口を笑みの形に形作った。なんだか、あまり良くない反応だった。歩いているところを見ていないから、感動が伝わっていないのかもしれない。
「待ってて、今歩いてるところを見せるから」
加蓮が父親のパソコンがある机にモコを降ろそうとすると、父親はこれもまた手で制した。
「いや、大丈夫。すごいのは分かったから」
 やけに固い声だった。モコがパソコンのキーボードに悪戯すると思ったのかもしれない。そんなことしないのにな、と思いながらも、加蓮は引き下がった。
「まさか歩けるとは思わなかった。すごいな! 本当にすごい」
 父親は、声を張り上げてそう言って、何度も頷いて見せた。なんだか不自然な態度だったが、とにかく喜んでくれているようだったので加蓮は納得することにした。カブトムシも苦手だったようだし、生き物があまり好きではないのかもしれない。
「よし、父さんこの仕事もうすぐ終わるから、話は後にしようか。加蓮、宿題は?」
「終わったよ」
「そうか。加蓮は偉いな」
 父親は加蓮の頭をポンポンと叩いた後、そっと肩を押して扉の方を向かせた。仕方なく部屋を出ようとしたところで、声がかかる。
「あ、加蓮、待って」
 何事かと振り返る。父親は引き留めるように伸ばした手を中途半端に彷徨わせていた。あー、その、あのな、と不明瞭な言葉を発した後、意を決したように言う。
「父さん、今週の土曜日に病院に行かなきゃいけないんだが」
「また病院? どこか痛いの?」
「いや、今度はちょっとした検査だから大丈夫だよ。それで、できれば加蓮にもついて来て欲しいんだけど」
「いいよ、行くよ」
 加蓮が答えると、父親は恐る恐ると言った様子で、病院はそんなに楽しい所じゃないけど良いのか、と念を押してきた。断られるとでも思っていたのだろうか。もちろん、いい、と加蓮は答えた。
「そうか、よかった。病院帰りに、パフェでも食べに行こうか。加蓮の服を買いに行ってもいいし」
 そんなに長く出歩いて父親が体調を崩さないか、と少し心配したが、口には出さなかった。どうしてついてきて欲しいのかはわからないが、久しぶりに一緒に出かけられるのが楽しみで、土曜日が待ち遠しかった。

 どうして、父は加蓮を病院に連れてきたのか。その理由を察した加蓮は、これ以上無駄な会話をしたくなかったので、女医に問いかけた。
「父は、私が病気だと思っているんですか?」
加蓮の正面に座る若い女医は、軽く首を傾けて、どうしてそう思うんですか? と聞いた。
「だって、父が病院に着いてきてほしいって言って。父の検査が終わって。今度は私がこうやって先生と二人っきりなわけですから。父は、私が病気なんだと思って、先生にお願いしたのかと」
「そんなに大変な話じゃないんですよ。ただ、お父さんはちょっと心配してるんですね。加蓮さんがあんまりしっかりしてるから、悩み事とかをお父さんに言えないでいるんじゃないかって」
「大丈夫です。勉強もお習字も困っているところはないし、友達とも仲良くしてます。お料理もお掃除もお洗濯も好きなので、無理はしてません」
「そうですか、どうしてお料理やお掃除が好きなんですか?」
「どうして……? お料理がおいしくできるようになると楽しいし、部屋が綺麗になると気持ちいいです。それに」
「それに?」
「お父さんの役に立てると嬉しいから」
「どうしてお父さんの役に立てると嬉しいんですか」
「お父さんのことが好きだから」
 そうですか、加蓮さんはお父さんのことが好きなんですね、と言いながら、女医は膝の上で指を組んだ。
 そう、加蓮は父親の事が好きだ。同学年の女の子の中には、お父さんが自分のコップを使おうとするのが嫌だ、とか、休日に一緒に出かけたがるのがうっとうしい、と言う子もいるが、加蓮にはそれが信じられなかった。
「お父さんは……」
 加蓮はそう言った後、自分が何を言おうとしたのか、わからなくなった。何を言うべきなのか、わからない。
 女医がじっと見つめてくる。彼女に自分がどれだけ父親が好きかを語って、それでどうなるというのだろう。彼女は一体、自分に何を求めているのだろう。彼女はきっと、この後父親に加蓮の事を報告するのだ。一体どんなことを言えば正解なんだろう。どう言えば、彼女は加蓮のことは心配いらないと、父に言ってくれるのだろう。ただでさえ具合が悪いのに、加蓮の心配までしていてはきっと倒れてしまう。
 なにか、なにか言わなければいけない。女医は、ただただ見つめてくる。そうかと思えば、ふ、と床に視線を降ろした。少しの間、猶予を与えられた。そう感じた加蓮は、言うべきことを部屋の中に探した。
 壁紙はクリーム色。丸い壁掛け時計。ガラスの花瓶に差された黄色いカーネーション。机の上に置かれているのは、加蓮が先ほど描いた木の絵だ。白い紙いっぱいに描いた大きな木。ふわふわとした葉の間にりんごが一つ。それだけの絵だ。これもきっと何かのテストだったのだろう。もっと丁寧に書くべきだっただろうか。もっといろんなものを書き込むべきだったのだろうか。わからない。
 女医が、また加蓮の顔を見た。見つめてくるその顔は、急かすでもない、落ち着いた無表情だった。それでも何か言わなければと焦る胸の裏が、ぐるぐると混ざって気持ち悪い。
 こんな所にいる場合じゃないのに。父がこの部屋の外で待っているのに。こんなに長い時間外出して大丈夫だろうか。また背中が痛いのに我慢しているかもしれない。やっぱりパフェなんて食べに行っている場合じゃないんだ。帰らないと。早く帰って休まないと。
「私、……私、帰らないと」
 加蓮は女医から目をそらし、床を睨み付けるようにしてそう言った。女医はそれに驚いた様子も無く、平坦な声で返した。
「どうして、帰らなければいけないんですか。まだ時間はありますよ」
「だって、帰らないと。お父さんが疲れちゃう。そしたら、また痛くなるんですよ。そんなの、かわいそうじゃないですか。私は大丈夫です。何も困っていることはありません」
「お父さんも大丈夫ですよ。ちゃんとゆっくり座って待っていますから」
「なんで、大丈夫だって言えるんですか。私よりも、私よりも私のお父さんのことがわかるって言えますか」
 震える膝の上で、拳をぎゅっと握る。カッと熱くなる頭に任せて、加蓮は溢れるままに言葉を発した。
「お父さんは、お父さんは痛いなんて言わないんです。でも私にはわかります。疲れたり、悲しくなったりすると背中が痛くなるんです。すごく痛いんです。ご飯も本当は食べたくないけど、無理やり食べるんです。夜は眠れなくて、昼に少し寝るけど疲れは取れなくて、ベッドの上にいても目を瞑ってるだけで。仕事もちゃんとしようとしてるけど、私の前では平気なふりしてるけど、私にはわかります。だから、」
 加蓮はまだ床を睨み付けていた。しかし、言葉に初めほどの勢いはない。いったい自分は初対面の人間に、何を言っているのだろう。喋っているうちにどんどんいたたまれなくなってきて、加蓮は椅子の上で縮こまった。女医の変わらない表情を上目に見て、小さな声で言う。
「……だから、帰ります」
「そうですか。では、今日はここまでにしましょう」
 女医はそう言って頷きながら、緩慢に瞬きをした。

 ベッドの上に座って、成長痛で痛む膝を抱えた。なんだか、間違った気がする。女医の前で、あんなに感情的になるべきではなかった。時間いっぱい黙って座っていたって良かったのだ。それなのに余計なことを喋ったせいで、来週もまた女医の所に行くことになってしまった。
 特に意味のない唸り声をあげて、膝に顔を埋める。そのままじっとして後悔を噛み締めていると、足首にぷにぷにとした感触が触った。のそりと顔をあげると、モコが手を加蓮の足にあてて、目鼻のない顔で見上げてくるのが見える。
 加蓮はモコをがばっ、と両手ですくい上げて、胸元に押し付けると、そのままベッドに背中を沈めた。手の間でモコをこねくり回し、余った皮を左右に引っ張った。ぐに、と伸ばされてもされるがままのモコの姿を見て、気持ちが和んだ。昨日気付いたのだが、モコの体の皮が伸びて、少しだけ余るようになってきている。隣のおばさんが飼っているフレンチブルドッグみたいだ、と思って、加蓮は笑った。

「加蓮ちゃん、最近付き合いわるい」
 真正面から葵にそう言われて、加蓮はたじたじになった。
「最近ぜんぜん葵と遊んでくんないじゃん!」
 そう言って葵は、ばんばんと加蓮の机を叩く。加蓮は座ったまま、葵を見上げて言った。
「だって、最近忙しいから……」
「なんで? 加蓮ちゃん塾も行ってないしお習字は水曜だけじゃん」
 葵はそう言って、加蓮にずいっと顔を近づけてきた。カラフルな眼鏡の奥の真剣な瞳が睨み据えてくる。
 最近、放課後に葵と遊べない理由。それはもちろん、病弱な父親のいる家になるべく早く帰りたいからである。モコを駄菓子屋で貰ってから一月半がたち、女医の元へはあの後二度行った。あれ以降女医にはあたりさわりのない話しかしていない。父親も相変わらずで、とくに良くなったりもせず安定して体調が悪い状態が続いている。
 停滞している、と言ってもいい状況だったが、加蓮は日々得体のしれない不安が募るのを感じていた。いてもたってもいられなくて、とにかく早く父親のいる家に帰りたい。
 お習字の帰りに駄菓子屋によるのも止めたし、本当はお習字も行きたくない。もっというと学校にだって行きたくない。とはいえそんなわけにもいかず、学校の友達に父親のことを話す気もわかず、授業が終わるとそそくさと家に帰る。そんな日々を送っている。そうした加蓮の態度が気に食わない、と憤った葵が十分間の休み時間に詰め寄ってくるのも致し方ないことであった。
「ねえねえなんで? 葵には言えない理由?」
 葵は床に膝をついて、加蓮の机に両腕をもたせかけた。その腕に顎を乗せて、加蓮を上目に見る。
「言えない理由なら、しょうがないけど」
 すっかりしょぼくれた声音に、加蓮はうろたえてしまった。一番の親友をがっかりさせたくはなかった。
「違うの」
「何が違うの?」
「最近、ペットを飼い始めたの。それで忙しいの」
「ペット……」
 葵は噛み締めるように繰り返した。嘘は、言っていない。モコと遊びたいというのも、早く帰りたい理由の一つだ。葵は、ふーん、と呟いた後、問いかけてきた。
「なんて名前?」
「モコ」
「犬? 猫? 種類は?」
「種類は……わからない」
「ええ、わからないってなにそれ」
「貰ったんだもん」
 加蓮が言い切ると、葵は空中を見上げて考えるようなそぶりをした。ちょっと待ってて、と言って自分の机まで走って行って、何かを取り出す。戻ってきて加蓮の机の上に置いたのは、筆箱と自由帳だった
「じゃあさ、これに描いてみてよ」
 少女漫画のキャラクターを書き写したページをめくって、加蓮に白紙のページを向ける。鉛筆を渡されて、加蓮は困ってしまった。誤魔化して、適当な犬の絵でも描くべきだろうか。葵を見ると、期待に満ちた目で加蓮を見つめてくる。これ以上、親友の前で適当な誤魔化しをしたくなかった。
 加蓮は、モコの姿を思い出しながら描いた。卵型の体の、下の方にぶよぶよとした手足。あれからまた大きくなって、随分皮が余るようになった。余った皮が垂れ下がった様子は、口しかなかった顔に、まるで目鼻がついたようだった。それがのそのそと、二足歩行で進む様を自由帳の上に再現した。
「こんな、感じなんだけど……」
 加蓮はそう言って、鉛筆をカロン、と机の上に転がした。葵はまじまじと、自由帳を見て何も言わない。加蓮が不安になるほどの時間が経った後、葵は叫んだ。
「なにこれかわいい!」
 自由帳を取り上げて空中にかざすようにして眺めまわし、声を落とさないままに続ける。
「え、なにこれ飼ってんの? かわいい。すごい。見たい!」
 葵の予想外の反応に、加蓮は何も言えなくなっていた。しかし葵の勢いは止まらない。
「え、すごい見たい。加蓮ちゃんち行っていい?」
「うちはちょっと……」
「じゃあ葵んち! 連れてきてよ、今日」
「今日?」
 今日。それは困る。というほどでもないのだが、加蓮はなるべく遊び歩かずに家にいたいのだ。しかし父親も最近、友達と遊ばずに家にばかりいる加蓮を心配しているようだし、加蓮も久しぶりに葵と遊びたい気持ちはあった。今日は夕方まで父親が病院に行っていて家にいないし、このあたりで葵と遊ぶのも悪くない。とはいえ、モコを見せていいものだろうか。葵が言いふらすとは思わないが、葵のこの勢いのままどこかで話がもれそうだ。やはり、親友だけ特別……などと思わずに、モコの事はナイショにしておくべきだっただろうか。
 加蓮がそう思案に耽っていると、黒い腕が割り込んできて、葵の手から自由帳を取り上げた。その手の持ち主は、まだ夏休み前だというのに真っ黒に日焼けした同級生の亮太だった。
「なにすんの? 返してよ!」
 そう言って手を伸ばす葵を躱しながら、亮太は自由帳に描かれたモコの絵を細目に見ていた。ああ、さっそく同級生にバレている。加蓮が内心で焦っていると、亮太は自由帳を加蓮の机の上に投げて、言い放った。
「なにこれ、おばけ? キッモ」
 亮太は加蓮を一瞥しながら立ち去って、教室の後ろでボールを投げ合っている男子の一団に加わった。葵はその背中を眺めながら、あきれ果てたといった声音で言った。
「はー、男子ってマジわかってないわ。センスない」
 加蓮は無言で、葵の言葉にこくこくと頷いた。キモい? モコが? そんなはずない。こんなに可愛いのに。考えれば考える程、亮太の発言は納得いかない。加蓮がやり場のない怒りを抱えていると、葵が言った。
「じゃあ今日、学校終わった後ね」
「…………」
「モコちゃん、うちに連れてきてね」
「……え? うん」
「絶対だよ!」
 葵がそう言って手を振りながら机を離れていく。キーン、コーン……とチャイムが鳴るのを聞きながら、加蓮はやっと自分が、モコを連れて行く約束を交わしてしまったことに気が付いた。

 本と漫画と二段ベッド。葵の部屋の殆どは、それで埋まっていた。ただでさえ両親が本なら際限なく買い与える教育方針な上に、姉妹それぞれが別の本を欲しがるので本棚は種々様々な児童書で溢れかえっている。少女漫画雑誌も二誌分、何十冊と並んでいた。
 そんな部屋で、加蓮と葵は床にぺたりと座り込んでいる。加蓮は自分のバッグに手をかけて、葵を見た。
「じゃあ見せるけど……皆にはナイショだよ?」
 葵は頷いて、両の拳を握りしめた。加蓮がバッグを開けて、中からモコを取り出す。床の上に置くと、すこしよろめいたモコが、二本の足で立った。
「かわいい! えー、ほんとかわいい!」
 大げさなまでに高い声を上げた葵は、指先でぷにぷにとモコをつつき始めた。
「いいなー、葵も飼いたい」
 言いながら、何度もモコをつつき続ける。
「貰ったって言ってたよね? どこで?
「駄菓子屋さんで、薬を売ってる人に貰ったの」
「いいないいな、ずるーい、葵も駄菓子屋さん行こ」
 何度もつつかれて流石にうっとうしくなったのか、モコが加蓮の膝に逃げてきた。葵は気にした様子も無く、そうだ、あの絵見た時から思ってたんだけどさ、と言って、本棚から本を一冊引っ張り出した。分厚い本の表紙には、おどろおどろしい絵が描いてある。どうやらそれは、妖怪の図鑑らしかった。
「お姉ちゃんの本に載ってるこれ、モコちゃんに似てない?」
 葵がパラパラと本をめくって、真ん中あたりのページを見せてきた。そこに描いてあるものを見て、加蓮はぱちぱちと瞬きした。
「似てる……!」
 似ているどころの騒ぎではなかった。モコそっくりの妖怪が、墓場を背景にして歩いている。
「ね、似てるでしょ。ぬっぺっぽうっていうんだって」
「ぬっぺっぽう……」
「んっとね、古寺とか墓地に現れて、歩いてるだけでなにもしないんだって。それで、屍臭……? がするんだって。でもモコは臭くないね」
 加蓮は頷いた。見た目が似ているだけで、別物なのかもしれない。それでも一応加蓮は訊いてみた。
「食べると薬になるって書いてある?」
 加蓮は一時も、当初の目的を忘れたことは無かった。モコをこれまで可愛がって育てたのも、最後には父親に食べさせるためである。
「うーん……? これには書いてないなあ」
 葵は本を覗き込んで読み返した後、本を降ろして聞いた。
「え、加蓮ちゃん、モコちゃん食べるの?」
「ううん、食べないよ」
 私は、と心の中で付け加えた。そして加蓮は考える。妖怪。妖怪と言うものは、病に効くものだろうか。別になんだっていいのだ。効きさえすれば。父の病気が治るのなら。
 加蓮が考え込んでいる間に、葵は本を棚に戻して、今度はチョコレートの缶を引っ張り出してきた。蓋を開けると、色とりどりのアクセサリーやリボンが入っている。
 葵は加蓮の傍に寄って、加蓮の膝の上にいるモコに手を伸ばした。水色のシュシュをモコにつける。モコは体全体が顔の様な姿だから、まるで鼻の辺りにシュシュを巻かれたように見えた。
「かわいい! ね、加蓮ちゃん、かわいいね」
「ほんとだ、可愛い」
 加蓮は葵に同調して、自分のバッグに手を伸ばした。そこからシール帳を取り出して、星型のキラキラしたシールを一枚剥がす。それをモコの頭に張り付けた。
「それすごくいい! かわいい!」
 葵が一際高く声を上げた。加蓮も仕上がりに満足して頷く。モコは不思議そうに、頭に手をやろうとしていたが、短すぎて届かないようだった。

 加蓮が帰ると、家の中が暗かった。リビングに行くと、葵ちゃんの家に行ってきます、と書いた加蓮のメモがまだテーブルの上にあった。父親の方が先に家に帰っていると思ったのだが。そう思いながら二階に行くと、父親の部屋の扉が少し開いているのが見えた。やはり先に帰っていたのだ。寝ているのだろうか? 
 加蓮はそっと、扉の隙間から覗いた。そしてバッグを取り落とし、叫びながら部屋に踏み入った。
「お父さん!?」
 部屋の中は酷いありさまだった。本棚の本は引き出されて散らばり、無数の破れた紙が散らばり、パソコンまでが床に倒れている。その中で、ベッドにもたれかかるようにして父親が座り込んでいた。
「お父さん!? どうしたの!? 何があったの!」
 加蓮が父親の腕を掴んで揺さぶると、父親はしばらく、どこも見ていない茫洋とした瞳をしていたが、加蓮がもう一度呼ぶと、ようやく加蓮の方に顔を向けた。
「加蓮……?」
 次第に、目の焦点が合ってくる。父親は、何度か瞬きすると、不思議そうに言った。
「もう帰ってきたのか」
「だって、もう六時だよ、お父さん」
「もう、六時……? そうか……」
 父親は呟くと、また加蓮から目を逸らして俯いた。加蓮は声を潜めて訊く。
「お父さん、どうしたの。何があったの」
「加蓮……いや、なんでもないんだ。本当に、なんでもないんだ……」
 父親は左手を自分の体に回して、右の脇腹の辺りをおさえた。
「痛いの……?」
 加蓮は問いかけて、答えが返ってくる前に、父親の背中に手をあてた。右の肩甲骨の下あたり。いつも痛いのはここなのだと、加蓮は知っている。
「加蓮……いや、そうだな。痛いよ。少しだけ、痛いんだ」
 父親はそう言って、右膝を抱えて蹲った。加蓮に顔をむけてくれないけれど、加蓮はそれを悲しいとは思わなかった。いつも痛いとは一言も言わない父親が、初めて加蓮に痛いと、そう言ってくれた。それが嬉しいのだ。
 加蓮は背中に手を当てたまま、父親の肩に頭を寄せた。肩の骨が当たって、少し痛い。前と比べるとだいぶ痩せた。食事をするのも辛いみたいだ。だから自分が、とっておきの料理を食べさせてあげなければ。どれだけ食欲がなくても食べたくなるような、一度食べ出すと止まらなくなるような、そんな体にいいお料理。
 加蓮は肩にもたれかかったまま、モコをいれたままのバッグを廊下に置きっぱなしなこと思い出した。モコを育ててきたのは、お父さんに食べさせるため。加蓮は本来の目的を忘れたことなど無い。それでも、悲しいと思った。できることなら、そんなことはしたくないと思った。いつ料理しよう? 早い方がいいだろうか。いや、もう少し。もう少しだけ大きくなってから。
 加蓮は少し先延ばしにして、目を瞑った。今の状況を幸せだと思った。

 もう少し大きくなってから。そう思っていたけれど、モコはもう大きくならなかった。二足歩行のモルモットのような大きさのまま、成長しない。食事も殆どとらなくなった。きっと今が食べごろなのだ。そうわかっていたけれど、加蓮は踏み切れなかった。
 父親が最近やけに元気な様子だから、必要性を感じないのだ。しんどそうな様子も、痛そうなそぶりも見せない。食欲も少し戻ってきたようだし、ベッドで横になる時間も短くなった。加蓮とよく遊んでくれるようになったし、一緒に出かけようと頻繁に誘ってくるようになった。
 いつも家で翻訳の仕事をしていたのだけれど、最近はそれもせずに、ずっと加蓮と一緒にいる。仕事をしなくていいのか、と訊くと、お父さんも夏休みなんだ、とそういう答えが返ってくる。
 夏休みに入って一週間、加蓮は毎日楽しかった。葵と遊ぶ時間は殆ど無かったけれど、仕方がないと思った。
 今日も、父親と一緒に叔母の家に行くのだ。一泊だけだったけれど、加蓮はずっと楽しみにしていた。
「じゃあね、大人しくしてるんだよ」
 虫篭の中にいるモコに声をかける。この虫篭は、今のモコにはだいぶ小さくなってしまった。二日入れっぱなしはかわいそうかな、と思ったけれど、モコは一所でじっとしているのが苦にならないようだから、やっぱり虫篭の中にいてもらうことにした。
 水はちゃんと入っている。モコが熱さに弱いかはわからないけれど、クーラーをつけっ放しにして部屋を出た。

 電車で三時間。それだけで、山と田んぼに囲まれた叔母の家についた。本当は加蓮の祖父の家だったらしいのだが、父方の方は祖父も祖母ももう亡くなっていたので、ここに住んでいるのは叔母とその夫だけだった。
「やあ、長旅ご苦労。大きくなったね、加蓮ちゃん」
 そう言って出迎えてくれたのが、叔母の優佳だ。三カ月程前にも会ったのだから、そんなに大きくなっていないと思うのだけれど。
 加蓮がそう言うと優佳は、いやー、大きくなってるよ、このくらいの歳はすぐ伸びるから、と言った。そして、加蓮の後ろにいる父親を見る。
「兄さんも、久しぶり。つかれたでしょう」
「ああ、まあ、大したことないよ」
 加蓮は、なんとなく、会話に違和感を覚えた。言葉だけを見るといつも通りなのだけど、何か、二人の視線の交わし方、声の調子、身体の向け方が、いつもと違う緊張感に満ちている気がする。
 その違和感の正体を確かめようと、加蓮は二人を見上げたけれど、優佳の夫が遅れて玄関に出迎えにきたから、その場に満ちていた緊張感は霧散した。

 家についた当日は、特に出かけることも無く、のんびりと過ごした。スイカを食べながら、今学校で流行っていること、葵のことなどを叔母夫婦に向かって話したりしている間に、夜になった。明日は川に遊びに行くから、早く寝なければいけない。二階で父親と同じ部屋で寝ることになったが、加蓮は先に寝ていなさい、と言われたので、加蓮は一人で布団の上に横になっていた。
 しかしどうにも寝付けない。きっと明日が楽しみすぎるからだ。加蓮は布団から起き上がって、階段を下りて行った。水を飲んで心を落ちつけようと思った。
 台所に行くには居間を通らなければいけない。加蓮はまだ明かりのついている居間に近づいた。しかし、中にはすぐ入らなかった。居間に満ちている重い空気を感じ取ったからだった。
 廊下から居間の様子をうかがう。火の通っていない掘りごたつを囲んで座った三人。優佳とその夫、そして加蓮の父。しかし、声を低くして喋っているのは父と優佳だけのようだった。
 会話の内容を聞こうと、加蓮は一歩踏み込んだ。しかしその動きが良くなかったようで、加蓮に気付いた優佳が顔をあげてしまった。
「加蓮ちゃん、どうしたの。眠れない?」
 優佳は柔らかい声でそう言いながら立ち上がった。加蓮は盗み聞きしようとした後ろめたさを感じつつも、一階に降りてきた本来の理由を言った。
「ちょっと、喉が渇いて……」
「ホットミルクでもいれようか」
「ううん、水でいい」
 加蓮がそう言うと、優佳がすぐに水を汲んできてくれた。加蓮は水を飲みながら、父親の様子を窺った。先程の深刻な様子が嘘のように、優佳の夫と穏やかに談笑を始めていた。
 
 翌日、そんなに早くもない時間に、加蓮と父と優佳の三人で出かけた。優佳が運転する車に乗っていると、たった三十分ほどで山の中に入った。山の上にもまばらに家が建っている。そのうちの一つ、比較的広い駐車場のある四角い建物の所に車を止めた。
 優佳が四角い建物の中に行っている間に、加蓮は服を脱いだ。下に学校の授業で使う紺色の水着を着ているのだ。櫛で髪をポニーテールに結って、車を降りる頃には、優佳が戻ってきていた。
 駐車場の端にある、石の階段を降りていく。周りは雑草が長く伸びているのに、石の階段の所だけは殆ど草が生えていない。後ろから父と優佳がついて来ているのがわかっていたから、加蓮は振り返らずに降りて行った。
 降りきって、足を止める。川だ。ゴツゴツとした岩の間を、透明に水が流れている。加蓮は岩の間を歩いて行って、川の流れに手を触れさせた。冷たい。加蓮は振り返って、後ろに立っている優佳に問いかけた。
「入っていい?」
「いいよ。足を滑らせないように気を付けて」
 そう言いながら、優佳がシュノーケルを渡してきた。それを受け取った加蓮は、恐る恐る川に足を踏み入れた。水遊び用の靴で、しっかりと、川底を踏みしめる。くるぶしまで冷たい水に浸かって、一気に気持ちが浮き上がる。
「あの辺りはちょっと深いから泳げるよ。でもあの尖った岩より下流は流れが変わるから、あれより先には行かないように」
 優佳の言葉にお利口に頷いて、加蓮は川の中にどんどん踏み込んでいった。膝の少し下まで流れが満ちて、その間を小さな魚が泳いでいく。それを掬い上げようとして逃げられた。
 シュノーケルをつけて水に顔をつけると、川底は別世界だった。透明に透き通る水の底に、様々な形の石が並んでいる。その石に、水面を通って降りてきた日の光が、不思議な形の輪をいくつも作って煌めいていた。黒い縞のある銀色の小魚の群れが、その輪を次々とくぐっていく。
 加蓮は感動に震える気持ちそのまま、顔をあげて呼びかけた。
「お父さん、魚がいっぱいいるよ!」
 見ると、父親もズボンを膝までまくり上げて、川に足をつけていた。
「魚? どこに?」
「ほら、そこ!」
 加蓮が指さす。近寄ってきた父親が、手で魚を掬い上げようとしたけれど、やっぱり逃げられた。二人で笑い合う。川岸に荷物と飲み物を置きながら、優佳も小さく笑っていた。
 そんな時、階段の上から声がかかった。老人が、優佳の事を呼んでいるようだ。ちょっと行ってくるから、加蓮ちゃんの事しっかり見てなよ、と加蓮の父に言ってから、優佳は階段を登って行った。
「遊んでていいのかな?」
「いいよ、行っておいで」
 問いかけると、父がそう答えたから、加蓮は遠慮なく川遊びに興じることにした。山の間にある川にしては川幅が広い。加蓮は、優佳が深いと言っていた辺りに行ってみた。確かに深くて、加蓮の腰辺りまである。しかし不思議と流れは緩やかだった。
 またシュノーケルをつけて、今度は潜ってみた。水底を揺らめく光の輪の中を、魚と一緒に泳いでいく。それが気持ちよくて、息が続く限り加蓮は潜り続けた。水面に顔をあげて、潜ってを何度も繰り返して、それに飽きてきた頃、今度は水を背にして川の流れに浮き上がった。体の側面を冷たい水が流れて行く。明るい緑色の葉が茂る間に、抜けるような青い空が見えた。太陽が木々に見え隠れするのが眩しい。少しずつ、自分の体が流されていくのが心地よい。
いつまでもこうしていたかったけれど、優佳が超えてはいけないと言っていた岩の辺りまで流されてきたのに気が付いたから、加蓮は水底に足をつけた。濡れて顔に張り付いた髪を耳にかけながら、父親の方を振り返る。
 父は岩に腰かけて、水に足をつけながら、こちらをじっと見ていた。見ていてくれたことが嬉しくて、加蓮は父親の方に近づいていった。そして加蓮は気が付く。父の様子がおかしい。
 血の気の引いた顔色は真っ白だし、唇も青い。眉を深く寄せて、加蓮をじっと見ていた。加蓮は父親の傍に寄りながら、声をかける。
「お父さん、大丈夫? 寒いの? 川から上がった方がいいよ。私も疲れてきたから、もう帰ろう」
 加蓮がすぐ傍に居るのに、父親は動こうとしなかった。ただただ、加蓮の事を見ている。
「お父さん、どうしたの。また背中が痛いの」
 加蓮は右手を伸ばして、父親の背中に触れようとした。しかし父が加蓮の手首を掴んだから、できなかった。
「痛い」
 父親は、震える声で言った。加蓮が口を開く間もなく、父親は続ける。
「痛いよ。加蓮。お父さん、お父さんな」
 父親は強く目を瞑った。加蓮の右手に額をつけ、俯いて言う。
「死ぬかもしれないんだ」
 父親は顔をあげずに言いつのる。加蓮はただ、それを見下ろしていた。
「こないだの検査の結果、すごく悪かったんだ。手術も出来ない。薬が効くかどうかもわからない。あと一年、生きられるかもわからない」
 ああ、わかっていた。ここ最近の父親の元気な様子。それは全部無理をしていただけだと、加蓮は知っていた。加蓮は父親の事ならちゃんと全部わかっていたのだ。わかっていて、知らないふりをしていた。何一つ犠牲を払わずに、父親が元気になる。そんな夢を見ていた。
「どうして、俺が……加蓮がいるのに、だって加蓮はまだ……」
「お父さん」
 加蓮の腕をつかんでいる父親の大きな手。加蓮はその手に、そっと左手を添えた。加蓮の冷えきった手に、父親の手の温かさが伝わってくる。
「大丈夫だよ、お父さん」
 加蓮が落ち着いた声で言うと、父親が顔をあげた。
「大丈夫だよ、お父さん。とってもいいお薬があるの。もう、痛い想いも苦しい想いもしなくていいの。私が全部、全部治してあげる」
 加蓮が微笑む。父親は何も言わない。柔らかな微笑みを瞬きもせず見上げて、加蓮の腕をつかんだ手に一層力を込めた。

 川遊びが終わり、叔母の家に戻って休憩した後、加蓮と父は電車に乗って自分たちの家に帰った。父親は家に着くとすぐに寝てしまい、翌日の朝になっても起きてくる気配はない。だから加蓮は、父が起きてくる前に、目的を果たすことにした。
「もう、動いちゃ駄目だってば」
 加蓮はそう言って、モコを洗面器の真ん中に引き戻した。普段は大人しいモコだが、泡が水面に浮かんでいるのが気になって落ち着かないようだ。ふらふらと動くモコをスポンジで泡まみれにして、上からシャワーをかける。シャワーを止めると、モコはぶるぶると体を振って水滴を飛ばしたから、加蓮の服も少し濡れてしまった。
「うん、綺麗になったね」
 加蓮はタオルで、丁寧にモコを拭いていった。たるんだ皮膚の間も忘ずに拭いていく。ふわりと石けんの香りがして、加蓮は少し後悔する。ボディソープは使わない方がよかったかもしれない。お料理に石けんの香りがついてしまう。
 しかし今更どうしようもないので、加蓮はモコを抱き上げて台所に向かった。モコを調理台に置いて、自分は用意しておいたエプロンを身に着ける。いつも使っている、ハリネズミ柄でオレンジ色のエプロンだ。後ろ手に紐を結んでいると、調理台のふちからモコが落ちそうになって慌てた。
「ああほら、危ないってば」
 そう言って、モコを両手ですくい上げて調理台に戻す。また落ちそうにならないか、じっと見ながら加蓮はエプロンを結び直す。まな板を取り出してキッチンに置くと、とてとてと歩いてきたモコがまな板の上に乗った。普段見ないものに興味を持っているようだ。
 加蓮はシンクの下の戸棚を開けると、先の尖った包丁を取りだした。台所の天井から降り注ぐ煌々とした光が、包丁をキラリと光らせる。こんな状況でも、いつもと変わらぬ様子でまな板の上から加蓮を見上げるモコを見ていると、加蓮は悲しくなってきてしまった。
「あのね、仕方ないんだよ」
 口を開いて、言い訳を始める。それは本当に言い訳としか言いようがなかった。
「わかってくれるよね。だって、こうするしかないんだもん。加蓮しか、お父さんを治してあげられないんだから。モコの事も大好きだけど、でも、お父さんは特別だから、仕方ないの」
 加蓮は逆手で包丁を握った。開いている左手でモコをおさえる。モコは、さしたる抵抗もなくまな板の上に横になった。加蓮は、モコの体の真ん中、鼻のように見えるあたりに切っ先を突き付けた。
「だから、ごめんね。ありがとう」
 突き刺した。ぐにゃりとした感覚が包丁越しに伝わる。一拍置いて、伝わってくるすさまじい振動。モコが暴れている。機敏な動きなど無縁のようだったモコが、全身をバネのようにしてまな板の上でもがいている。
「ごめん、ごめんね、ありがとう、ごめんね」
 加蓮は必死な思いでそう繰り返しながら、右手に力を込めて包丁をぐっと押し込んだ。刺さって裂かれた部分から、てらりと光る白い液体が溢れだしてくる。モコを抑えつける左手を白濁した液体が汚していく。濡れて滑る手で、尚も暴れるモコを掴んで押し付ける。白い液体が、溢れて、溢れて、まな板から零れ落ちて、調理台に広がっていく。
 モコの動きが少し緩まって、何度も痙攣して、動かなくなるまで、随分時間がかかったように思う。その間ずっと、全力で抑えつけていた加蓮は、息を切らして、全身からあふれ出す汗を感じていた。モコが動かなくなってからも、加蓮はしばらく包丁を突き立てた姿勢のまま固まっていた。
 ゆっくりと、包丁を抜いた。全身が強張って、上手く動かなかった。包丁を調理台に取り落とす。そのまま台所の床に座り込んだ。調理台から、一すじ溢れた白い液体が、食器の入っている棚を伝って床に落ちていくのを茫然と見る。
 殺した。それを今、自覚した。仕方がない。父親の病気を治すために必要なことだったのだ。心中でいくら言い訳を繰り返したところで、殺したという事実は変わらない。加蓮はふらふらと立ち上がると、濡れた手で冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中から、二百ミリリットルのリンゴジュースの紙パックを取り出した。ストローを指して、甘いリンゴの果汁をすすりながら、モコの死体を見る。
 今、モコが死んだことの悲しみは無かった。加蓮の心には、死体への嫌悪感と、自分が殺したのだという罪悪感と、この先やらなければいけない作業への倦怠感が満ちていた。
 リンゴジュースを飲み干して、紙パックをゴミ箱に捨てた。無理やり自分を奮い立たせる。始めてしまった以上は、やりとげなければならない。殺した以上は、料理しなければならない。
 加蓮は包丁を手に持ち直して、モコの体の最初に刺した場所にもう一度差し入れた。そして、モコの体の表面を切っていった。体を切り開きながら、加蓮はモコの体の中をしっかりと見た。加蓮は忘れていなかった。内臓を取り出して、薬売りの男に渡さなければならないのだ。
 皮がぶよぶよしていて切りにくい。皮をひっぱりながら何とか切っていった加蓮は、それまでと違う感触に気が付いた。包丁の先が、なにか弾力のあるものに触れて、破いた。そんな感じだった。加蓮が包丁を引くと、緑っぽいような、黒っぽいようなどろりとした液体が白い体液にまざって流れてきた。
 加蓮は汚れた包丁をいったんおいて、モコの体の中を覗き込んだ。溢れた緑色の液体は、緑色の塊から溢れているようだった。これが内臓だ。そう直感した加蓮は焦った。きっと内臓を傷つけてしまったのだ。加蓮は右手をモコの体に突っこんで、緑色の塊を掴んだ。ゆっくりと引き抜くと、ぶちぶちと膜が剥がれていくような感触がする。加蓮は慎重に内臓を引きずり出していった。繋がった長い塊は、つるりとしている部分、皺が寄っている部分、丸く張りつめて硬そうな部分に分かれていた。そのうち、つるりとした部分から緑色の液体が流れ出している。ここを破いてしまったのだ。しかし、つながった内臓は、全体を見れば綺麗に取り出せたといえるだろう。
 加蓮は手を洗って、食器棚からタッパーを取り出すと、素手で掴んだ内臓をタッパーに詰めた。半透明のタッパーの中を、緑色の塊が満たしている。加蓮はもう一度手を洗うと、タッパーをお弁当用の布の袋に入れて、冷蔵庫にしまった。いつ薬売りの男に渡せるかわからないが、腐らないように冷やしておいた方がいいだろう。
 加蓮は調理台を眺めて、更に嫌な気持ちになった。まな板の上は、白い液体と緑の液体が入り乱れて無残なことになっている。内臓を破いた辺りから、なにか生臭いような、喉の奥をつかえさせるような嫌なにおいが漂っている。加蓮は換気扇を回し忘れていたことに気が付いて、換気扇のスイッチを入れた。
 内臓を抜いたモコの死体を流水で洗う。肉の部分に、嫌な臭いが残ってしまわないか心配だった。ついでにまな板を軽く洗い、調理台を布巾で軽く拭った。調理台の上にまな板をセットし直し、洗って体液の出なくなったモコを乗せる。
 この後どうしたらいいか、加蓮は考えた。どう考えても、たるんで弾力のあるゴムの様な皮膚は美味しくなさそうだ。とりあえず、皮を剥いでいくことにした。包丁を差し入れて表面をそぐように皮を切り離していく。
 加蓮はだんだん、自分が何をやっているのかわからなくなってきた。包丁を握る手が痛い。もう何も考えられなかったけれど、これは父親のためなのだという想いだけはずっとある。そうだ。父のためだ。全ては父のため。その為にモコを育て、殺して、料理している。その理由さえ忘れなければなんだってできる。
 皮を剥げば、もうモコは肉の塊でしかなかった。薄くピンクがかった、白い肉の塊。スーパーで売っている鶏肉と大差ない。加蓮はモコの肉を適当な大きさに切っていった。骨なんて一つもない。骨なしでどうやって歩いていたのだろう、食べやすいからいいけれど、と思いながら、加蓮はモコを切っていった。途中でつぶつぶの謎の塊が出てきたけれど、内臓の一種だと判断してタッパーの中に入れた。
 随分な時間をかけて、ようやくまな板の上に、一口サイズの肉が並んだ。加蓮の心は、達成感に満ち溢れていた。しかし、本当の料理はここからだ。今はまだ、材料がそろっただけに過ぎない。
 加蓮は冷蔵庫から、卵と大根を取り出してまな板の横に置いた。炊飯器の蓋を開ける。朝の内に米を炊いておいたのだ。
 父親のために作る料理は決めてある。卵とお肉と大根のおじや。簡単だけど、簡単だから失敗しない、身体によくて食べやすい御飯。加蓮が風邪をひいた時に、父親がいつも作ってくれる定番の味。
 待っててね、お父さん。もうすぐだから。加蓮の心は浮き上がっている。食材は揃っている。足りないものなど何もない。後は心をこめて、愛をこめて料理するだけでいい。

「お父さん、起きて」
加蓮はそう言いながら、そっと父親を揺さぶった。ベッドの上に横たわった父親は、薄目を開けて加蓮を見ると、不明瞭な声を発してまた目を閉じた。
しつこく揺さぶり続けると、父親はのそりと上体を起こして、ぼうっと、空中を見ていた。加蓮はベッド脇の棚に置いておいたお盆を持ち上げて、父親の膝の上に置いた。お盆の上には、一人用の土鍋と、水の入ったコップが置いてある。
「おじや、作ったの。食べて」
「……加蓮、お父さん今お腹すいてないから」
「食べて」
加蓮は父親を見下ろして、言った。
「これを食べたらきっと元気になれるから、食べて」
父親は、様子を窺うように加蓮を見ていたが、やがて目線を下ろして無言でレンゲを手に取った。土鍋の蓋を開けると湯気が立ち上る。父親は水を少し飲んだ後、また加蓮をちらりと見たが、何も言わずにレンゲでおじやを掬い上げた。レンゲに、卵の絡んだ米と、肉が乗っている。父親はしばらく恨めし気にそれを眺めていたが、一つ息をつくと、口中に押し込んだ。
 緩慢に咀嚼して、飲みこんだ。数秒間、じっと土鍋の中を眺め下して、またレンゲですくい上げる。息を吹きかけて冷ますと、今度は躊躇なく口に入れる。飲みこんで、言った。
「……美味しい」
 それを聞いた加蓮は小さく歓声をあげた。顔の横で手を合わせて、問いかける。
「ほんと? ほんとに美味しい?」
「ああ、美味しいよ」
 父親はそう言って、おじやを食べ続ける。
「なんだろう、いつもと少し味が違うのかな? すごく美味しい」
「うん、隠し味がはいってるんだよ」
 そうか、隠し味か、と言って、父はまたレンゲでおじやをすくいあげた。とろりとしたおじやを吹き冷まし、口に入れ、噛み、飲みこむ。それの繰り返し。それを加蓮は、ベッドのすぐそばに膝をついて眺めた。
 米と、卵と、大根と、モコの肉と、加蓮の愛情。それが父の喉を通り、内臓に落ち、血に溶け込んで、全身に染みわたっていく。傷んだ臓器を癒し、病んだ体を生まれ変わらせる。
 加蓮は、ベッドの上に肘を付いて、手のひらで顎を支えて父を眺めた。加蓮の愛を食らい、父は生きながらえる。それが嬉しくて嬉しくて、加蓮は満ちていく感情に浸りきった。可愛がってきたモコの死が悲しい程、それを殺した自分の汚さを思う程、何も知らず美味しいと言う父が愛しい程、ぐるりと混ざって満ちていくこの気持ち。土鍋の中のおじやが減っていくほど、加蓮の心はどうしようもなく満ちて溢れていく。
 今まで食欲がなかったとは思えない程夢中で食べていく父を、夢見心地で眺めて、加蓮は目を細める。あと少し、少しで無くなる。それを惜しいような気持ちになりながら、加蓮はレンゲをもって上下する腕を、開いて迎え入れる口をじっと見る。あと少し。一すくい。もう一すくいで食べ終わる。最後の一すくいが口の中に消える。顎を動かして何度も噛み締める。喉仏が上下する。そして、ついに飲みこまれていったのを見て、加蓮は、ほう、と息をついた。
 父はレンゲを置いて、土鍋の蓋を閉めた。加蓮の方を見て、なんだか恥ずかし気に笑って言った。
「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
 加蓮はそう言って立ち上がった。眠たげな父の顔は、血の気が行き渡って赤い。その顔の下を走る細い血管を想像しながら、加蓮は父の膝からお盆を取り上げた。

 食べ終わった父親は、また倒れ込むように眠ってしまった。身じろぎもしないその姿は、苦しみの全てから解放されて、完全に自由なように見えた。
 加蓮はしばらくその寝顔を眺めていたけれど、ふと台所の惨状を思い出した。仕方なく一階に降り、台所の掃除を始める。飛び散った液体を拭き取って、使い終わった食器を洗った。そんな時に、インターホンが鳴った。加蓮は水道の水を止めて、受話器を取った。
「はい」
「どうも。薬売りです」
 聞こえたその声に混乱した。薬売り? 駄菓子屋で会った男だ。何故。何故加蓮の家を知っている? そして何故今日、家に来たのか。加蓮は疑問でぐるぐると回る頭のまま、問いかけた。
「あの、なんの御用でしょうか」
「いや、大したことじゃないんですがね、お約束どおり内臓を返して貰おうかと」
「あの……はい、わかりました。待っててください」
加蓮は怖くなってきて、それだけ言って、受話器を置いた。どうして今日、加蓮が料理したことがわかったのだろう。
とにかく、早く帰ってもらおう。内臓さえ渡してしまえば、もう用事もないはずだ。加蓮は冷蔵庫から、内臓の入ったタッパーを包んでいる袋を取り出し、台所を出た。
加蓮が玄関を開けると、男が門の向こうからひらひらと手を振っているのが見える。
加蓮が恐る恐る近づいていくと、向こうから話しかけてきた。
「やあ、上手くやったようだね、お嬢ちゃん」
「それほどでも、無いですけど……」
「早く、それを渡して、見せておくれよ」
 加蓮は、言われるがままにタッパーの入った袋を差し出した。門越しに受け取った男は、袋を開けると、液体と臓腑で満ちたタッパーを日にかざし、目を細めた。加蓮は少し不安になって、声をかけた。
「あの、ちょっと破れちゃったんですけど」
「ああ、大丈夫大丈夫。すごく良くできてるよ。ほんと、お嬢ちゃんに渡して正解だったなあ。いやはや、まだ小さいのにこんなとはねえ、才能あるよ」
 男はいそいそと、タッパーをまた袋に入れた。しゃがんで背中から柳行李を降ろし、タッパーの入った袋をしまう。加蓮は門に手をかけて、男に問いかけた。
「あの、これで父は治るんですよね」
「ん? ああ、間違いないよ。」
 男はそっけなく答えて、柳行李をまた風呂敷一枚で背負った。
「愛のこもった肉を食らえば、たちどころに病は治るよ。湧きいでて、絶えず溢れる真の愛を体内に取りこめば、それを糧にしてどこまでだって生きてゆけるさ。ねえ、お嬢ちゃんの愛の深さはどれくらいだったかな。足を取られて沈むほどかな、頭まで落ち込んで肺に流れ込むほどかな、真っ逆さまに二千年落ち続けても底につかない程かな。なあんて、野暮な話だったね。お嬢ちゃんの愛の深さがどれほどのものかなんて、お嬢ちゃん自身が、よおく知ってるはずだろう」
 男はそう言って立ち上がり、立ち去っていった。加蓮から完全に興味を失ったように、一度も振り向かなかった。加蓮は、それを見送りながら安堵する。自分の気持ちが、病一つ程度治せないものであるはずがないと思った。

 加蓮は実に三年ぶりに、幼少期を過ごした街を訪れた。懐かしい街ではあったけれど、変わっている部分も随分ある。小学校は全面改装されてまるで知らない建物のようだったし、通い詰めていた駄菓子屋は店主を失ってとっくの昔に潰れていた。
 住宅街を歩いた加蓮は、一件の家の前に立った。この家は変わっていない。随分古びて色あせたけれど、今でもちゃんとここにある。
「インターホン、押さないの?」
 隣に立った娘が問いかけてくる。
「押すよ」
 加蓮は答えた。もう父親に三年会っていない。彩音ももう十歳だし、こう長く孫の顔を見せないというのは大変な親不孝だ。それがわかっていたから、加蓮は夏休み期間の娘を連れてここに来た。あれこれ理由をつけて会いに来ない娘を、父はどう思っているだろう。六十になる父に一人暮らしをさせて、こんなに長い間会いにも来ないなんて本当に酷い娘だ。
 加蓮が思案に浸っていると、彩音がインターホンを押した。彩音の指の動きに合わせて、ピン、ポーン、と間抜けな音が鳴る。
「お母さん、遅いよ」
 彩音が言った。加蓮は無言で、インターホンから父の声が聞こえるのを待った。しかし予想は外れた。
 家の扉が開く。伸びやかな足取りで出てきたのは、加蓮の父親だ。その姿を見て、やはり、と加蓮は思う。三十代にしか見えない顔、体つき、姿勢。加蓮が小学校の頃から少しも変わらない姿で、父親が歩いてくる。
「彩ちゃん、久しぶり。大きくなったね」
 父がそう言いながら門を開く。彩音は久しぶりに会う祖父に少し照れているようだったが、しっかりとした声で、久しぶり、おじいちゃん、とそう言った。父親はそれに、心底嬉しそうな笑みを浮かべた後、加蓮を見た。正面から加蓮の目を見据えて、噛み締めるように言う。
「加蓮、久しぶり。来てくれて嬉しいよ」
「うん。私も、会えて嬉しい」
 加蓮はそう言った。強張った声になってしまったが、嘘ではなかった。
 父の後に続いて家の中に入り、リビングのテーブルに着いた。手伝うよ、と言う加蓮を押しとどめて、父がお茶を淹れてくれた。加蓮は父親の好きな干菓子を買ってきていたから、そのままリビングで三人、お茶を飲みながらのんびり過ごすことにした。
「弘明君は今日、来られるのかな」
「うん。仕事を済ませたら来るって」
 加蓮は干菓子をつまみながら、父親の問いに答えた。父親は、今度は彩音に話しかける。学校や習い事について聞かれた彩音は、そつなく優等生な答えを返していた。
 そして話題も尽きてきた頃、今度は加蓮が問いかけた。
「……ねえ、お父さん」
「ん? なんだい」
「若いって言われるでしょ」
「うん、言われるな。自分では良くわからないけどね。この歳でどこも悪くないってのはありがたいことだよ」
「どうしてそんなに、若くいられるのか、わかる?」
 加蓮は緊張に満ちた声で聞いた。父親は少しの間考えるそぶりをした後、にっこりと笑って言った。
「さあ、ウォーキングとかしてるからかな」
「……そっか。ウォーキングか」
 加蓮は呟いて、それきり訊くのを止めた。父親はとぼけているのだろうか。きっと知らないふりをしているんだ。そんなことを考えて、すぐに打ち消した。
 薬売りの男には、あれから会っていない。今となっては、二十五年前の事を知っているのは加蓮だけだ。よくわからないものを、貰い、育て、殺して、食べさせた。それを加蓮の父は知らないのだ。知っているのは加蓮だけなのだ。
 だが加蓮は、自分の記憶に自信がなかった。子どもの頃の自分なんて、まるで他人のように思える。小学校五年生のあの時、見聞きし触ったものが、幻覚でなかったと言い切ることができない。
 しかし、今見ているものが幻覚でないのは確かだった。死に至るはずの病から逃げ伸びて、当然重ねるべき年月さえも置き去りにして生きているような若々しい父の姿が、確かに目の前にある。
 これから先も、父は歳を取らないのだろうか。加蓮がどんどん年老いて、死んだ後も、父は生き続けるのだろうか。何十年、何百年、何千年、途方もない程の時間が経っても、いつまでも一人生きていく?
「……彩音、お父さんのこと好き?」
「急に何言ってんの?」
 思わず口走ると、娘に冷たい言葉を浴びせられた。加蓮の父が、小さく笑う。彩音は干菓子を一つ手に取り、口に入れて言った。
「うーん、まあまあ好きだよ」
「そっか」
 加蓮は呟いて、急須を手に取り、湯呑にお茶を注ぎ足した。まあまあ好き。女の子の父親への想いなんて、そんなものだろう。父子家庭で父親に依存していたとはいえ、娘が父親に向ける想いなんてたかがしれているはず。ましてや、真に深い愛情なんて。愛。子どもにはそぐわない言葉だ。どこまでも生きていける程の想いなんて、子どもの中にあるはずがない。
 そう思うと、加蓮の心は落ち着いていった。いつまでも姿の変わらない父に抱いていた、ぼんやりした恐怖は消えていた。これからは、もっと頻繁に父に会いにこよう。彩音の成長を、もっと見せてあげよう。口元を緩めて彩音と話す父の姿を見ながら、加蓮はそう心の中で決めた。

                                             了

参考文献
京極夏彦文 多田克己編『妖怪図巻』東京 国書刊行会 二〇〇〇
日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成 第1期 19』東京 吉川弘文館 一九七六
水木しげる『日本妖怪大全―妖怪・あの世・神様―』東京 講談社文庫 二〇一四

文字数:30063

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