完熟

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梗 概

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陽の射す南の海岸、小さな一軒家でソテツはレムレースという生物の養殖を師匠に教わり8年になる。レムレースは海を一部囲った生簀で養殖され、重さ100キロほどに育ったものが食用として高値で取引される海棲生物である。

間もなく養殖者として一人前になるソテツは今日も鶏肉の入ったバケツの隣で、桟橋の修理を放置していると言われ師匠に殴られている。住み込みで家事をするアネモネは目を逸らして家の中へ逃げ込む。ソテツが痣が馴染んだ腕でバケツを次々ひっくり返すと、出荷間近のレムレースたちはガツガツと桟橋横の鉄柵に体当たりしながら餌の肉を貪っていく。荒れ狂う水面にソテツが口の血を吐き捨てると、レムレースは我先にと舐め尽くした。

食事の時間に至るまでいつでも殴られ罵られるソテツの唯一の平穏は、夜に毒ヤシの世話をする時間である。ときに人間をも食うレムレースの養殖をする者は、熟れた毒ヤシを定期的に食べ体に毒を入れ、軽微な身体不調と引き換えに「美食家」なレムレースの捕食を避ける。また、独り立ちの印にはじめてその実を食べる儀礼の意味も持つ。生簀の近くに並んだ毒ヤシは既に熟れ、あとは落ちるのを待つばかりである。世話をするソテツのもとに、食べ損ねた夕食をアネモネが持って来た。師匠の暴力は5年前に師匠の妻が養殖場の事故で亡くなったことを機に始まったが、その頃アネモネは咎めようとして顔を殴られ、以来表立って師匠を止めず隠れてソテツを気遣う。海からレムレースたちのいびきが響く中、二人は蜜月に過ごす。

翌朝、家の中では酔い潰れた師匠が半裸で遺影を抱きテーブルに伏していた。荒み切った生活と養殖の儲けは年月を経て師匠の体をでっぷりと育て上げていた。すでに実作業をほとんどせず、毒ヤシも齧らなくなった師匠は、ソテツの独り立ちを機に引退するつもりらしい。師匠は目覚めると、アネモネに自身の身支度を手伝わせながらソテツを椅子で殴り始める。ソテツは押し殺していた師匠への憎しみが自分の中で既に育ち切っているのを自覚する。師匠はその後、アネモネをいつものように自分の寝室に連れ込んだ。

数日後、レムレースの出荷の日。師匠は酔いが回ったままで桟橋の上まで出てくると、ソテツを割れた酒瓶で殴りつけ二人ともに血まみれになる。止めようとするアネモネを制し、師匠は唐突にソテツにこれまでの労いと謝罪の言葉を掛けた。唇を噛むソテツを背に師匠が桟橋から離れようとすると、ソテツは海中の鉄柵の鍵を外す。レムレースが押し寄せ桟橋が崩れ落ち、ソテツと師匠と餌の山が海に落ちる。レムレースの群れは血の匂いを辿り二人を飲み込む。アネモネが救命用具の浮きを師匠にだけ投げる。ソテツの頭上にふと、ついに熟れきった毒ヤシの実が降ってくる。レムレースの喝采のような波音に揉まれその実に齧りつくとソテツの全身に熟れた毒が行き渡り、太陽が照らす中、荒ぶる水面はやがて静かになった。

文字数:1200

内容に関するアピール

育ち十分に熟した沢山のものが最後のシーンで一斉に収穫を迎える話です。飼育されたレムレース、人材としてのソテツ、毒ヤシの実が収穫され、ソテツの憎しみは成就し、レムレースの養殖によって肥えた師匠は引退目前でレムレースに食われます。三人の破綻した関係も破綻を迎えます。ソテツとアネモネの関係は収穫されません、そこに育っているものはありませんでした。はぐくまれ積み上げられた状態が破綻する収穫という現象が並行して押し寄せるラストのパワーが見所です。

ちなみにレムレースの生態が想像しづらいと思いますが、実作でも具体的な描写は増やしつつも奇妙さが残るように書いていく予定です。魚類なのか海棲哺乳類なのかも明言せず、不気味さと可愛げのある謎の不吉な生物になります。化け物レムレースなので。

文字数:340

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 陽は高く頭上から降り注ぎ美しく海を染めて燦々、輝く横で僕は顔面と横っ腹を殴られボロの桟橋に伏したまま、体の内に広がる痛みを、朝からずっと陽射しに焼かれた木の板の熱に意識を向けて誤魔化している。ちらと上の方に目をやると、逆光でもはっきりとわかる身だしなみの整わない大柄な男がややふらつきながら、自分に拳を向けてくるのが見える。今日は素手だ。
「なんでだ」
「……」
「なんで使えねえんだお前は」
「つっ……!」
 蹴りが入り聞こえた音が自分の中からしたのか口から出たのか分からない。
「すみません……」
 消え入りそうな声を嗚咽と涙と一緒に絞り出す。黙っていられたらその方が楽なのだ。恒常的に殴られたことのある人ならわかる。
「なあ、この仕事はなあ、」
 げっぷの音が海の波音に重なる。
「道具が命なんだよ。なんでわかんねえんだ。でっかい自然の中で生かしてもらってんだろうがお前は。道具が無きゃ人間なんて一発だろうが」
 身構えたところに蹴り。顎の近くに当たって意識が一瞬遠のいた。説教の中で師匠が暴力を挟むタイミングを、悲しいことに僕はすっかり覚えてしまっている。
「だからなあ、桟橋の修理くらいさっさと済ませろ!」
 僕は反論をしない。業者を呼ばなければ手に負えない修理です。あなたが仕事をすべて任せてくるので手が回らないのです。言わない。言ったこともあったか。でも言わない。
 転がった僕の視線の先、こじんまりとした木造りの一軒家の前には家事手伝いのアネモネがいて、小花柄のエプロンの裾と大きな竹箒を握りしめたままこちらから目を逸らして立っている。
「部屋の、片づけをしてきます……」
 誰に向けたのかわからない言葉を発し、彼女は潮風で錆びたノブを引いた。家の中に入る直前、扉越しにこちらへ向けた、長い前髪越しの陰った目線が脳裏に残る。
「餌、やっとけ、ソテツ」
 師匠はようやく満足したようで、僕の名前を口にすると桟橋をぎしぎしと踏み鳴らしながら海際を離れ、手荒な仕草で家の中へ消えていった。アネモネの後を追って。
 辺りは海の波音だけになる。僕は長く息をついて、手を当てて自分の体を確かめる。脇腹は大したことはない。顔回りがよくない。口の横を少し切ったようで血が出ている。最近は師匠の暴力の振るい方がエスカレートしている。この日々ももう少しで終わりだと思うと、余計に殴りたくなるものなのかもしれない。
 誰もいなくなった扉の方へ目をやる。二人が入って行った扉を見ていると軽く眩暈がしてきて、僕は一度目を閉じる。
 地面に擦りつくような気分でごろりと転がる、すると、世界が変わる。大昔の絵描きに描かせたような、嘘のように広大な空と海が目に入る。一年を通して日照時間が長く温暖な気候。豊かな土と栄養に富んだ海流。何もかもが生き物を育てることに向いた理想の土地だ。そこで僕は「彼ら」の育て方を学び、そしてもうすぐ独り立ちする。この土地に育てられて。
 寝転がる桟橋の下からの波音が騒がしくなってくる。普段の餌やりの時間を少し過ぎてしまっている。腹を空かせているのだろう。僕は痛む体に力を入れてようやっと起き上がると、桟橋に並べてある金属のバケツの数を確かめる。バケツの中にはそれぞれ、まるのままの鶏肉が詰め込まれている。時期と匹数に合った数があることを確かめると、それを桟橋の下、鉄柵の向こう側へと次々ひっくり返していく。それを「彼ら」が貪るのを見つめる。彼らはギラギラとその眼を輝かせるようにしながら、仕切りの鉄柵に体当たりして大きな鶏肉を驚くべき速さで残らず食い散らかしていく。何度も見た景色だが、やはり、僕はそこに命を感じる。
 レムレースというのがその生き物の名前である。元々この近海に自生し、小さな群れを作って生きる大型の海棲生物。その肉は美味だが安定した生産が難しく、目玉が飛び出るほどの高値で取引されている。師匠はその養殖を安定させている人間の一人であり、僕はそこに8年前、弟子入りしたのだ。
 あの頃はまだ、よかった。
「破るなよ?」
 波間にひしめく鱗の反射の群れに向かって僕は呟いた。3年かけて出荷できるサイズまで育ったレムレースたちはすでに体重が100キロを超えており、共食いしそうな勢いで肉を貪る姿には、海面から1メートル上の桟橋の、さらに仕切りの重厚な鉄柵越しであってもなかなかに恐怖を覚える。現に彼らは空腹が過ぎると共食いを起こしたりストレスで傷付け合うようになるので、出荷が近い時期であっても腹に物を入れてやらなければならない。
 バケツを束ねて両手に提げるころには、桟橋の向こうからギイギイという音が聞こえてくる。既に最後のひとかけらまで肉を食べ終えたレムレースが、鉄柵に体を擦り付けてもっと寄越せとねだっている。海の一部をそのまま囲って作られたレムレースの生簀はその全周が鉄柵になっており、陸地側の一箇所にだけ大きな錠前のついた開閉箇所があるが、そこは出荷が終わった後の清掃のとき以外に開けられることはない。
 レムレースの体と鉄柵がぶつかり、鱗と柵のこすれる音が鳴る。こんなことをしても肉質に影響がない程度に彼らの体は頑丈にできている。入念に作られた錠前は鳴くことさえなく沈黙している。僕の何倍も力を持った生き物と僕の間は今日も明確に区切られている。
 口元の傷から出た血が徐々に流れ込んで口の中に不快に溜まっている。がしゃがしゃとバケツを鳴らしながら立ち去る前に僕が口の中の血を鉄柵の向こうに吐き捨てると、レムレースたちはこぞってその雫に集まり、べろりとした舌であっというまに血を舐め尽くした。輝く太陽の光が、海際に並んだヤシの木の葉の形をその上に投げかけていた。

 

 日課の仕事は大きく三つに分かれ、それはレムレースの三種類の生簀にそのまま対応している。3年かけて養殖し出荷されるレムレースは、年に一度新しい幼体を仕入れて出荷後の空いた生簀に入れる形でローテーションをしている。つまり、生簀で育て始めて1年目、2年目、3年目の個体それぞれの、3種類の生簀を並行して扱っている。
 空になったバケツを一度綺麗に洗い、再度、解凍してある餌の鶏肉を詰めて台車で運んでいくと、先ほどの生簀から少し離れた並びに2年目の個体の生簀があり、そこにも同じようにバケツをひっくり返して放り込んでいく。3年目の成体の体長が2メートルを超えるのに対して、2年目の個体は1メートルから2メートルの間程度。この時期の個体は体格の差が大きいので、食い意地の張った個体に押されて食いっぱぐれているものを見逃さずにそちらに追加で鶏肉を放る。健康状態と排泄の具合を目視で確認し、問題が無ければ次の生簀へ。
 さらに進んだ並びにある生簀の1年目の幼体は、まだ体長にして1メートル未満しかない。既に硬い表皮と鋭い歯を備えてはいるが、餌への食らいつき方も2年目以降の個体と比べれば随分と可愛く見えてくる。
 力負けして危険な3年目の個体と違いまだ力がそこまで強くないので、手前の鉄柵の周りを人の手で簡単に清掃する。木の長い柄のついたブラシを海の中に差し込んでいると、まだ気性の穏やかな幼体たちがブラシにまとわりついてじゃれてくる。柄の周りを泳ぎ、体を擦り付け、時折軽く噛みついてくる。加減を知らないやつがばっきり持っていくことも多々あるので、ブラシは倉庫にダース単位で置いておかなければいけない。はじめてこの作業をしたときは、レムレースが海の中からじゃれかかってくる様子が面白く、幼体一匹ずつに名前を付けたりしていた。毎年繰り返すうちにもうそんなことはしなくなったが、1年目の生簀をみるとそういった弟子入りしてすぐの頃の自分を思い出すことがある。
 たしかあの時は師匠が手を添えてブラシを持ち、掃除がてらにレムレースをぐるぐると泳がせたり水面に跳ねさせて遊んで見せていた。その様子を後ろから師匠の奥さんが眺めていて、もっとやって見せてとしきりに言った。昼を過ぎても戻らないと、まだ髪の短かったアネモネがかごに詰めた昼食を運んで生簀のそばまでやってきて……
 今はあまり、気分のいい思い出ではない。

 餌やりと生簀の手入れ、道具の管理や餌の在庫の確認をし、アネモネが作った簡単な昼食をレムレースの真似事のように飲み込み、目前に迫った出荷業者との調整の電話連絡。それらを終えた頃にはもう一度3つの生簀をまわって餌をやりに行き、全てを終えた頃には既に日が沈みかかっている。師匠は大抵、昼に家の中に入るとその後は出てこないので、僕は家の周りに戻るのを避けてなるべく仕事に精を出す。一日働き詰めて、夕食の時間には当然腹が減っているが、師匠と鉢合わせるとまた苦しい思いをすることになるので僕はいつもなるべくひっそりと、二階にある自分の寝室に潜り込んでやり過ごそうとする。近くに逃げ込める友人の家でもあればよかったが、あいにくこの海岸沿いに人の住んでいる建物はこの一軒しかない。長い道を辿って街まで辿り着くには車で2時間かかる。師匠と鉢合わせずに二階に逃げ込んで、台所が静かになるまでやりすごしてから夕食を食べるのが今の僕にとって最も「運がいい」過ごし方だった。
 そして今日は運が悪かった。
「ソテツ」
 髪を掴まれた。ダイニングの隣を通りかかる廊下。油断した、灯りが消えているので、無人か眠っていると思っていた。
 反射的に全身が強張る。言葉も思考も自由がなくなる。痛い、しかしどうしたらいいのかわからない。師匠はそのまま僕の後頭部を廊下の壁に叩きつけた。眩暈がする。
 暗い中で顔色はよくわからないが、師匠の目は明らかに焦点があっておらずぼんやりとしている。肩ごしに見える室内、ヴァイオリンケースのある棚の手前、テーブルの上には酒瓶が並んでいる。彼は明らかに重度のアルコール中毒だが、隔絶されたこの場所で、この酒の匂いの染みた薄暗がりに手を施すことができる人間は誰一人いなかった。僕らはこの自然に囲まれた南の海沿いで完全に孤立していた。
 その後は、ひたすら、殴られた。殴られたのだと思う。昼の陽射しの下と違って、一日働きづめたあとの、薄暗いどん詰まりの中では自分の体や思考や時間のことをはっきりと認識していられなくなる。だから僕はそのときにどこをどのくらい、どれだけの時間殴られたのか、もしくは他のことをされたのかをはっきりと思い出せなかった。ただ途中で戻ってきたアネモネが、晩御飯にしましょう、と消え入りそうに声を掛けたことで嵐が止み、僕は一人体を引きずって家の表に出たのだ。

 月が出ていた。僕は乾いた土の上に横になって、行き過ぎる雲の間に3/4ほどの満ち方で浮かんでいる光源をただ茫然と見た。月の明るさに追いやられて星はほとんど見えない。レムレースの体内時計のリズムを乱さないために街灯の類は一切取り付けていないので、我こそが空の中央と居直る月の光がこの夜の全てになっていた。波音が一定の周期で寄せる音は耳に入れど、海沿いに長く暮らす人間にとってそれはある種、無音に等しかった。家の中から物音がするような気がして、それだけが僕の呆然とする意識を時折邪魔した。そうするうちに、僕はいつの間にか目を閉じていた。
 風が吹き始めヤシの葉が揺れる音がすると、僕はようやく、今日の仕事をひとつやり残していることに気が付いた。地面の乾き具合を手のひらで確かめてから、ゆっくりと体を起こす。月は先ほどから大きく位置を変えており、どうやらしばらく、眠り込んでしまっていたらしい。歩きはじめるとなぜか左膝が猛烈に痛いが、傷の確認はせずに引きずってそのまま家の横に回る。緊急用の、ロープのついたリング状の浮きの、白く塗られた部分が月明かりに浮かび上がっている。その隣にある蛇口を回し、繋がったホースを手に海沿いまで戻り、並んだヤシの木の根元に散水ノズルからシャワー状の水を掛ける。
 このヤシの木が、レムレースの養殖者にとってとても、そして独り立ちを目前にした僕にとっては尚更大切な「毒ヤシ」だ。文字通り実に毒を含んだヤシで、食べると毒は体内に蓄積し、長期にわたって聴覚が僅かに鈍るようになるらしい。レムレースの養殖者はこれを数か月の一定期間ごとに摂取し、毒を体に常駐させる。レムレースからの捕食を避けるために。
 彼らは獰猛な肉食の生物であると同時に極度の「美食家」で警戒心が強く、わずかでも毒や有害物を含むものを絶対に口にしない。話によると、野生のレムレースの群れが居着くようになって困った漁業者が毒餌を使って駆除しようとしたところ、完全にスカされたことがあるらしい。体にまわり常駐するヤシ毒を摂取することで、養殖者は不慮の事故があったとしてもレムレースからの捕食を避けられるよう備えるのである。
 水やりを終え、下草をむしるのは月明かりがあるとはいえど視界の悪さから諦め、ホースを戻しに行く。この毒ヤシは養殖場の為に植樹してきたものらしい。今はよく見えないが、既に実は大きく成っており、今年の収穫のときに僕は初めて口にする。それが昔から、レムレース養殖者の独り立ちの儀式となっている。設備の悪かった昔と違い、今は実際に毒を食らい続けるのは必須ではないのだが、これはそういう儀礼なのだ。
 木の上で大きな実が揺れている。収穫の日は近い。

 水やりを終えたところで疲労と空腹の自覚が一気に押し寄せてきた。夕食を完全に食べ逃してしまった。台所に戻れば残りがあるかもしれないが、もう一度あの扉を開けて中に戻るのは気が進まない。閉じたカーテンの窓越しにも光は漏れておらず、普段ならば師匠もアネモネも自室に戻って眠っているはずだ。
掴まれた髪と、大きな痣になっているはずの左ひざが疼いた。僕は空腹を抱えたまま、扉を見つめるだけになってしまう。
 と、扉からごつんごつんと物音がして僕は身がすくむ。逃げることも隠れることも考えられずただそこに立ち尽くしていると、しかし扉の中からする音は断続的に何度も続く。様子が違うことに気付いた僕は、近寄ると恐る恐る扉を開ける。
「アネモネ?」
「あ、ソテツ、すみません、両手が塞がったまま来てしまって」
 そう言うアネモネは寝間着のようなゆるい服を着て、両手に食事の乗ったお盆と救急箱を持っている。かなり危なっかしい。
「持つよ」
 と言いながらつい食事の盆の方を先に受け取ってしまった。
「師匠、テーブルで寝てしまったので。でもやっぱり外ではなんですし、二階まで上がりましょうか」
「いや、大丈夫、ここで食べるよ。今日は天気もいいし」
「すみません。でも、たしかによく晴れてますね」
 アネモネは扉を注意深く静かに閉めてから、空をぐっと見上げた。背の低い彼女の長い髪がゆらゆらと揺れている。僕は腹が空きすぎていて、手近な地面に胡坐をかいてそこに盆を置くとすぐに食べ始めた。パンと、焼いた豚肉と、お椀にはトマトらしいスープが入っている。盆を置いた膝が痛むのも気にせず、どれを先ともなくがっついていると、アネモネが突っ立ったままでいる。顔を見ると、救急箱と小さなシートを持ったまま困ったような顔でこちらを見ていた。
「敷物と薬は、食べた後でいいですかね」
「ああ、ごめん、つい」
「いいえ、食べてください、遅くなってしまってごめんなさい」
 それは、仕方がないよ、ということを言う言葉を選ぼうとして、どうにも決めあぐね、そのままトマトスープで飲み下した。食べ終えると、アネモネが敷いてくれたシートの上に座り直して、されるがままに消毒を受ける。
「朝の傷もそのままですよね。悪くなってませんか」
「大丈夫だと思う。血もすぐに止まったし」
「駄目です、残ったら事なので」
 アネモネは持ってきていたペンライトで僕の体を照らしながら処置をしていく。僕は自分の傷を見る気になれず、アネモネの顔をぼんやりと見ていた。
 アネモネは僕が8年前に弟子入りをする前からここで家事手伝いをしているらしい。一方的に敬語で接されているが、歳は僕よりもいくつか上のはずだ。小柄さも手伝って、実際かなり若く見えるが。
「もうすぐですね」
 急に言われて僕は返事に窮してしまった。
「独り立ち、もうすぐですね」
「うん、そうだね」
「次の出荷が終わったら、正式に独り立ちですよね」
 僕はぼんやりとしてしまう。8年かかった修行もこれで終わり。
「嬉しいですか?」
「嬉しい……嬉しいかな」
 聞かれると即答できなかった。
「あんまり嬉しい感じじゃないですね」
「なんだか、今一つ実感がわかなくて」
「でも、今日まで毎日、全部そのために生活してたじゃないですか」
「それはまあ、そうだけど」
 まだ短い人生のうち、かなりの時間を養殖者としての修練の為に当ててきた。代わりに失ったものや諦めたものも多い。
「じゃあ、それがやっと報われて一区切りなんですから、嬉しいんじゃないですか?」
「そうかも」
「こんなに、毎日大変で、それで嬉しくなかったら、嘘ですよ、そんなの」
 俯いて言うアネモネを見て、他のものたちに追いやられていた感情を自分の中に探り当てる。8年前に養殖者になるという将来を固めて自ら門を叩いた。あの頃はまだ十代だった。長い時間を、自分の人生を費やして、僕はついに養殖者として育ち切る。
「うん……嬉しい。たしかに。嬉しかったんだな」
「ソテツは、あの、」
 アネモネが手を止めて言い淀んだ。
「自分がどう思ってるか、自分の中では確かめておくのがいいと思います。こんな毎日なので、余計に」
 消毒液が膝に触れ、鋭い痛みが走る。出血もしていたらしい。
「それに、ソテツが独り立ちしたら」
 そう、そうしたら、
「そうしたら師匠、引退するんですよね」
 そう言ったアネモネの表情を伺おうとしたが、ペンライトの逆光でよくわからない。
 師匠は僕の独り立ちを機に引退すると言っている。既に実際の作業は全くせず酒浸りになるだけの日々だが、長年の養殖業の儲けを蓄え込んだ分でいくらでも生きていけるだろう。この切り離された世界から彼は出て行こうとしている。
「そう、師匠は引退して、この生活が終わる。終わるんだよ」
「こんなことを言うのは変なのですが」
「うん」
「本当に、終わるでしょうか」
「終わるんだ」
 思いがけず強い口調が出て、アネモネは黙り込んでしまった。僕はペンライトとタオルを借りると、蛇口のところまで行って濡らしたタオルで体を拭いた。アネモネのところに戻ってペンライトの灯りを消すと、いつの間に月は隠れてしまっていたらしい、暗闇が訪れた。波の音の中に、時折不規則に大きな生き物がたてる波音が混じって聞こえる。そのままずっと長い時間、沈黙が続いた。
「ごめんなさい」
 暗闇の中で謝られると、表情が一切分からない分とても不安になる。初めて出会った人に一言目に謝られたような、言い表せない気分の悪さになる。
「僕は何も怒ってないよ」
「いつもソテツが殴られているときに私はなにもしないから」
「それは、」
 それは、仕方がない。仕方がないのにそれを言う言葉がどうしても出てこない。いや、仕方がないのか? どうして、いつから僕たちはこんな「仕方がない」ことになってしまったんだ?
 思う間にも隣の暗闇の中で小さな声がごめんなさい、ごめんなさいと繰り返し、それがだんだんと遠のいていくような気がしてくる。僕は迷った挙句、ペンライトを点けてアネモネの顔を照らし、もう片方の手で彼女の前髪を掻き上げた。潤んだ目が光を反射した。
「見ないでください……」
 アネモネの顔は、右の額から頬にかけてが変色していた。古い火傷の痕だった。
「あなたが、かばってくれなかったら、その傷は僕にあったんです。だから、あなたは、もう、十分です、謝らないでください……お願いだから謝らないでください、お願いです……」
 掛けた言葉の終わり際は情けなくしりすぼみになっていき、聞こえ続ける波音に食われて消えた。悲痛な傷と表情を暴露し合ったまま、二人の間に最悪の沈黙が訪れた。
 5年前、師匠の奥さんが亡くなった。生簀に落ち、レムレースに食われて死んだ。誰も見ていなかった。音楽家だった彼女は師匠の勧めを断って毒ヤシを口にしていなかった。毒ヤシを食っていた師匠は妻の悲鳴が耳に届かなかった。そしてその日から、師匠の僕たちへの暴力が始まった。
 アネモネは僕よりもずっと勇敢だった。僕を何度も殴ろうとする師匠を正面から咎め、台所にあった、熱したフライパンで顔を殴られた。遺品のヴァイオリンが棚から落ち、ケースから出て床に転がり、ダイニングの時間が止まった。
 その日以来、アネモネは表立って師匠を止めることはなく、ヴァイオリンを修理に出した師匠は二度とアネモネを殴ることがなかった。
 それをアネモネに、なんと言っていいのか僕は、分からない。少なくとも、仕方がないとだけは言えない。
 突然、沖から光が差した。人工灯の細い灯りだが僕らの意識を奪うには十分で、僕らは海へと目を向ける。沖を通り過ぎる一隻の船が煌々と灯りをともして走っていた。
「珍しいですね、こんな夜更けに」
「まあ、でも、いつもは寝ている時間だし、案外通ってるのかもしれない」
 生簀の中からざわめきが起き、鉄柵の遠い位置にがすがすとぶつかっている音が聞こえる。レムレースたちが昆虫の群れのように光に吸い寄せられている様子が脳裏に浮かぶ。
「アネモネ」
 沖を走る光に目を向けたまま言う。
「なんでしょうか」
「師匠が引退した後のことなんだけど」
「はい」
「アネモネは師匠に雇われてるから、契約はそこまでになると思うんだけどさ」
「はい」
「そのままここに住んでくれないかな。今までみたいに」
 船はあっという間に視界の範囲を通り過ぎ、岬の向こうへと隠れた。再び世界にはペンライトの光だけになる。生簀の水音は静かになり、その中からやがて低く重い響きが周期的に聞こえてくる。
 レムレースがいびきをかいている。
「ソテツさん」
「うん」
「私幸せになろうなんて思えないんです」
「うん。それでいいよ」
 ペンライトの灯りが消え、手狭なシートの上に二人の体が横たわった。

 師匠の奥さんが大切にしていた、今は弾く人のいないヴァイオリンは、ケースに収められてダイニングの棚に丁寧に置かれ、その隣に遺影が並べ置かれてささやかな手向けの場になっている。
 朝、僕が家の中に入ると、師匠は半裸でテーブルに突っ伏して眠っていた。散乱した酒の瓶の中で、遺影の写真立てが腕の中に抱かれている。アネモネはその腕に触れずに、酒瓶と食器だけを拾い上げるようにして片付けていった。
 僕はアネモネを手伝いながら、師匠のその体を観察する。初めて会った頃に比べると随分と太った。それは年齢によるものだけでなく、生活によるものが大きいことを僕は知っている。奥さんの葬式を終え、毒ヤシを摂取するのを辞めた師匠は、徐々に仕事に加わらなくなって体を動かさなくなり、日に日に飲む酒の量も食らう飯の量も増えていった。それでもこの生活が根本的に破綻しないのは、レムレース養殖による稼ぎがそれだけ膨大だからだ。レムレースを出荷して得た金で、レムレース以上に高価な酒や肉や魚卵を食べ太っているその姿は滑稽ですらあった。でっぷりとした腹や背中や二の腕は、まさにレムレースによって養育されたと言って間違いのないものだ。
 僕とアネモネは黙って作業をしていた。アネモネがテーブルの空いている場所を拭き、少し迷ってから遺影を手の中から抜き取って棚に戻した。
 すると、小さく唸り声がして、手の中の物を抜かれた師匠が目を覚ましたのがわかった。部屋に緊張が走る。アネモネが目で、僕にはやく立ち去るようにと言っている。
「おい」
 師匠の口から出た声は誰に向けたものか判然としなかったが、それでも僕たち二人をその場にくぎ付けにした。酒臭い半裸の男がゆらゆらと顔を上げ、そのまま立ち上がろうとしてバランスを失い再び椅子に吸い込まれる。部屋中ががたりと揺れた気がする。そしてその目はまずアネモネを捉えた。
「着替え、持ってきてくれ」
「はい」
 アネモネは顔を俯かせて部屋を出ていった。もうこちらに目線は一切向けなかった。師匠は次に僕に言葉を向けた。
「座れよ」
 僕は棒立ちのままでいた。
「座れ」
 二度言うとともに据わった目をこちらに向けてくる。僕は目を逸らしながら、師匠と対角になる位置の椅子を引き、固く座った。
 師匠は何も言わずにただこちらを見つめているらしい。僕は目を合わせず、焦点をぼんやりとさせて師匠の肩越しに視線を逃がす。ヴァイオリンと遺影。
 そういえば、奥さんの命日、毎年の出荷日と近かったな。

 部屋で起きた大きな物音に驚いて、アネモネが大急ぎで戻ってきたのが分かった。だがそのときには僕は既に、床の上で師匠の振り上げる椅子を受けている最中だった。
「僕のせいじゃない!」
 椅子が振り上げられる。
「あの人が死んだのは僕のせいじゃない!」
「やめて!」
 アネモネが叫ぶが止まらない。
「あんたの不注意だ! あんたのせいで死んだんだ!」
「ソテツやめて!」
 新しい一撃が肩をえぐり、僕は悶絶してのたうつ。早く、早く逃げないともう一度殴られる、次は頭を。もしくはその前にもう一回言ってやれ、もっと大声で!
 しかし、次は来なかった。浅く息をしながら痛みから意識を逸らす中、上を見返すと、アネモネが手にしていた衣服を放り出し、師匠を後ろから抱きかかえるようにしていた。師匠は両手で椅子を振り上げたまま、自分に取りつくアネモネを見下ろしている。振り上げた椅子が当たった電灯が割れてぐらんぐらんと天井で揺れ、破片が床の一部に散らばっている。
 師匠はゆっくりと腕を下げ、放された椅子が床に転がる。そしてその手でアネモネの頭をゆっくりと撫で始めた。自分の背中を寒気が走るのが分かった。
「着替えは」
「持ってきました」
「着替えはいい、行くぞ」
「部屋を片付けないといけないので」
「後でいい」
「……はい」
 そして、いつものように、アネモネを連れて、二人は師匠の寝室に消えていった。去り際にアネモネが、長い前髪越しの、脳裏に残る、あの陰った視線をこちらに向けてくる。
 僕は昨日の夜のことを思い出した。アネモネが言っていた言葉が蘇る。

――自分がどう思ってるか、自分の中では確かめておくのがいいと思います。

自分の腹の底を探る。左肩と叫んだ喉の痛みがいつもより意識を鮮明にしてくれる。自分の思っているこれ、これは、多分、憎しみだ。
 僕は憎いのか? 師匠のことが。でも、そうだ。人柄も信頼したつもりで、自分の人生を託した相手が豹変したこと。それによって人生が変わってしまったこと。僕はこれから何度人を前にして言葉に詰まらなければいけないだろう。憎い、憎い、憎い、憎いのか。
 そう、ようやく確信した。僕の中で師匠への憎しみは、既に育ち切っている。

それから出荷日までの数日、師匠はいやに大人しく、一度も殴られることはなかった。ただ、僕が昼間の仕事をしている間、師匠とアネモネはずっと家にこもり切りだった。

 

出荷日の朝が来た。
僕は出荷前、3年目の生簀に、朝の最後の餌やりをするために桟橋の上に出ていた。今日もレムレースたちは目を輝かせて牙をむき、はやく食事をよこせと鉄柵にぶつかりまくっている。僕はバケツの数を確かめる。これが彼らがする最後の食事であり、そのあとはついに食われる側に回る。出荷の為のトラックは昼頃に手配してあるので、必要な道具は先に揃えておかなければならなかった。取引の契約書、この時にしか使わない生簀の錠前の鍵。
 突然、家の中からガラスの割れる派手な音がした。振り返るとアネモネの声で、師匠やめてください、危ないです師匠、という声が聞こえ、すぐに扉が開いて師匠が姿を現した。
 彼は割れた酒瓶を持ち、腕から血を流していた。そのままふらふらとこちらへ、桟橋の上へと近づき、ギシギシと足元を鳴らしながら僕の目の前までやって来る。遅れて駆け出してくるアネモネの姿が近づいた師匠の肩越しに隠れた。
 そしてその酒瓶が振り上げられ、自分の頭に向かって振り下ろされる様子を、僕は避けるでもなくただ見ていた。脳天に衝撃が走る。
 アネモネが何か叫んで駆けてくるが、師匠が制止して、桟橋の手前で彼女は足を止める。僕はその様子をやけに冷静に見ている。酔っぱらった師匠の振りは力に乏しく、頭を殴られたわりには意識が鮮明で、視界に自分の流す血が流れ込んでくるのもよく分かった。
「ソテツ」
 師匠は瓶を足元に取り落とした。転がり、桟橋の端から海の中へ落ちる。
「なあ、お前、きょうでやっと独り立ちだな」
 僕は師匠が何を言おうとしているのか分からなかった。
「よく頑張ったな」
 引き結んだ自分の唇に痛みが走るのが分かった。殴られたからではない、強く引き結びすぎて自分の歯が突き刺さっている。
 なぜそんなことを。なぜ今になって。
「あとな、」
 今度は明確に彼が何を言おうとしているのかを僕は察した。そして、聞きたくないのに身動きが取れなかった。
「悪かったな、今まで」
 許せなかった。自分の両目から涙が流れていることが許せなかった。違う、そうじゃない。そんなんじゃない。そんなことを言われて涙を流して、それで明日から別の場所で生きていくような、そんなことで終えられるような日々じゃない。
 師匠が踵を返し、ゆらりゆらりと桟橋を離れようとしている。今だ、今しかない、今が最後だ。
 朦朧とする意識の中で、驚くほど正確に手が動いた。僕は師匠に背を向けると、鉄柵に手をかけ、手にした鍵を錠前に通すと力一杯に引き離した。
 抑えのなくなった鉄柵を蹴破り、陸地側へ押し寄せるレムレースの群れの鱗が輝いている。それらは足元に潜り込み、古びた桟橋を簡単に叩き壊す。僕はゆっくりと振り返る。すると、こちらを見返していた師匠と目が合う。僕らがその一瞬視線を交わす間に、レムレースたちに付き壊されて足元が支えを失い、僕らはそのまま海へと落下した。
 瞬間、すべてがゆっくりに見えた。大量の木片へと姿を変える桟橋と、その上にあった餌が海にばらまかれる。巨大な海の住人が、僕らの体と共にそれを迎え入れる。レムレースたちが鶏肉に我先にと食らいつく。しかしそのうちのどれかが、新鮮な血の匂いを嗅ぎつける。それはすぐさま群れ中に伝播していく。血の匂いを辿って集まったレムレースに、師匠の姿が呑まれるのが遥かかなたの景色のように見え、すぐに目前に現れた同じ生き物に視界を奪われる。傷口を嗅ぎまわり、鼻先を押し付けてくる。僕は必死に腕をかいて水上に出ようとする。何度も沈められては浮かび上がる刹那、岸から緊急用の赤と白の浮きが、ロープの放物線を引いて師匠へだけ投げ込まれるのが見えた。岸にいるアネモネの必死の形相も、よく見える。僕は愉快になりながら手足をばたつかせ必死にもがく。周囲からする波音が爆発のように激しく聞こえ、しかし、それはどこか喝采のようにも聞こえてくる。僕は天を仰いだ。揺れる葉の影が僕の目に届く。すると――
 頭上から、ひとつの木の実が落ちてくる。それは太陽の光を反射して、しぶき越しに宝石のように輝いて見える。それが僕の元へまっすぐに、重力に従ってやってくるのがわかる。僕は手を伸ばす。レムレースが喝采を送る。手にした木の実に、傷口に噛みつこうとしてくるレムレースが歯を立てると、彼は急に僕の元を離れて泳ぎ去っていく。その牙の空けた穴から実をこじ開け、僕は中身に食らいついた。
 この太陽の下、熟れ切った毒が僕の全身に回っていく。やがてぷかぷかと浮かぶ僕の周りにひとつの波も立たなくなり、師匠が上げていたはずの悲鳴も、アネモネが呆然と座り込んで呟き続けているであろう「ごめんなさい」も聞こえなくなり、僕は世界の音が少しだけ遠くなるのを感る。そうしてたった一人海の上に浮かんで、空に浮かぶ太陽にそっと、口づけした。

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