ワカメス

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梗 概

ワカメス

カラフルな正六面体の生命が爆誕。彼らはパズルゲームのブロックに似た海藻だったことからワカメスと命名された。
ワカメスの意思疎通手段は接触。だが接触で情報は強制流入。更に特定条件下で接触を行うと情報が大量流入しストレスで絶命する。条件は個体により様々。(一列に10体が隙間なく接触、同色4体が接触等)
だがワカメスは進化し条件を複雑化させ死に辛くなっていった。(一列に同色32体が隙間なく接触等)
次第に増殖したワカメスは地球を覆い、地上はワカメスの海に。連帯により高知能を得たワカメスは、生態系を守るためプレランタールの形をした地球を覆う巨藻を創り、天上の地を作る。

天上の地には落ち物力が働いていて、イロミロのように重力に逆らい全方位から着地可能。そういった場所に街は点々とある。だが街と街の間は落ち物力の弱い部分で隔たれていて移動困難。結果街同士の関係は希薄で個々の街は小さい。
テットはそんな街同士の連帯や文明発展を夢見て、トゥと共に街に初の郵便屋を開く。時と共に連帯や発展は少しずつ進む。
巨藻には所々に穴があり水脈と繋がっている。危険だがそこを通れば隣町へ移動可能。郵便屋の2人は日々水脈を電動のサーフボードで駆ける。

テットは副業として水脈を流れ漂う異文化の道具を見付けては売っていた。知人のフジとも組み先進的な発掘品を研究し文明発展にも勤める。
ある日水脈で装置を見付けたテットは、いつも通りフジに調査を依頼。だがそれは落ち物力を操るシタキィという装置で街は人災に。
テットとフジに地上落下の極刑が不当に決まりフジが捕まる。テットは村社会に抗いフジ奪還を試みるが、トゥに妨害される。役人はトゥ諸共3人を地上に落とす。

ワカメスの海へ落ちたテットはなぜか大都市に。そこは連帯や発展の結果、ストレス蔓延る昔の地上だった。フジは「ここはワカメスの接触が見せる映像だろう」と推測。種を越えた意思疎通だ。
景色が変わると、そこは人災只中の故郷。そこへ映像のトゥが現れ父に「起きろよ」と叫ぶ。ワカメスを介しトゥの記憶を見た2人は、間接的に父を殺したことを理解する。

映像から抜け出すと、そこはワカメスからなるカラフルな空洞。海藻の弾力に救われたが、落下の勢いで相当潜ったらしい。
ワカメスの海は常に大衆と接触した連帯状態。テットの右腕は連帯によりワカメスに浸食され、次第に自我をも蝕まれ始める。フジは連帯を受容できずストレスで絶命する。

空洞を探索しトゥと再会。彼女は連帯を受容し全身を浸食され、自我はもう父殺害者への復讐心のみ。やむなくテットはトゥを殺す。
だがトゥは死に際に連鎖を発動。ワカメスが波立ち崩壊が始まる。テットはサーフボードで波に乗るが、この大連鎖からは逃げ切れそうにない。

テットは死期を悟り、郵便屋の役割を再思し、最期にすべきことを見付ける。連帯や発展が間違いならば、真実だけをただ伝えよう。
空が見えた。テットは跳躍し右腕を天上に放つ。腕は肩からもげ血が放出。直後落下しワカメスの海へ沈む。シタキィでメテオスの如く上昇する右腕を残して。
「拝啓、ワカメスの海より天上の民へ」
そんな一節から始まる奇妙な媒体の便りが、郵便屋テットの最期の生きた証となった。

文字数:1320

内容に関するアピール

パズルゲームのブロックは海藻だった、これがフックです。
しかし本当のテーマは文明発展が生み出した大衆社会やSNS等の連帯によるストレスと、パズルゲームのブロックが連帯して消える現象を重ねた批評にあります。

天上の地は連帯とは無縁の世界で、テットは連帯や発展に憧れていましたが、昔の大都市を見てそれを改めます。それでも彼は葛藤し、郵便屋の役割を再思することこそが物語の最大のテーマです。
フジは連帯を受容できず死ぬ者として、トゥは連帯を受容して自我を失う者として、それぞれ対比させています。テットは連帯と適正な距離を保ち抗います。
巨藻が連帯し辛い地形なのは、強制的に連帯のストレスを受け続けるワカメスだからこその配慮です。

実は着想に『拝啓、摩天の龍より指先の君へ』と『山の海嘯』を参考にさせて頂きました。
今回はパズルゲームのネタと稀有な海藻SFで楽しませつつ、最終実作を意識した批評性のある小説を提出します。

文字数:400

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ワカメス

 1.

 郵便屋テットは今、巨大な有機暗渠の中で水上のチェイスを披露してみせている。出来レースではなく、失敗は絶命を意味するそれを、彼は焦り一つも見せることなく遂行していく。
 このターンの彼は追われる立場。逃げ切ることは容易だが、相手との距離は敢えて一定。
「こんなもん、ショーの内にも入らねェよ」
 そんな余裕綽々の挑発を背後の奴に発してやる。実際にはサーフボードの作り出す駆動と飛沫の反響音に掻き消されて届いてなどいないだろう。仮に届いていたところで言葉を理解できる訳でもない。
 追跡者は人間ではなく、通称チェストフィッシュと呼ばれる巨大魚。水中のハンターでありイーターでもある奴は、テットのことなど餌としか思っちゃいない。それでも1人と1匹の間には命のやり取りを行う了解がどこかでできている。
「おーい、早く終わらせろー」
 エコー乱れる騒音を掻い潜り届いた声、その主はこのチェイス唯一の見物人、トゥ。長い付き合いだ、その言葉に急かしの意味が込められていることくらい理解している。
「あーあ、興ざめ興ざめ……っとォ」
 テットはそんな文句を彼女に聞こえない声量で愚痴りつつも、サーフボードに備え付けのランチャーを取り出し、それを左腕と肩に預ける。必然的にハンドルを握る手は右腕だけになるが、そんなことはお構いなし。ハンドルに体重を預けながら、身体と砲口の向きを後方へ。暗く制限された視界、ある瞬間その手中に奴が入った。その一瞬を決して逃さず、照準を定め、パズルボブルの如く――発射。
 爆音と同時、テットは弾がチェストフィッシュに当たったことを確認する。一発でくたばらなければ二発目を放つまで。だが出応えはあった。その自信に任せてアクセルを徐々に緩めると、それに呼応するように奴も動きを止めた。
「呆気な」
 これでは余韻にも浸れないとテットは思った。同時にまあいいかとも。日常の一部と化した作業だ。
 テットは生命活動を終えたそいつをサーフボードから延ばしたフックに引っ掛け、その状態で発進した。牽引はサーフボードの性能を著しく低下させるが不可能ではない。
 今は隣町から街へと戻る道の半分もいっていない地点。こうなってしまったら最後、のんびりと遊泳を寛ぐ他はない。
 別にそれでもよかった、この宝箱を開けるような高揚が味わえるのなら。
 チェストフィッシュはその名の通り、胃袋の中に様々ながらくたを鱈腹収蔵している。そんな中に稀に価値のありそうなものが混ざり込んでいることがある。
 テットはそんな発掘品を見付けては売ることを副業としていた。別に本業の郵便屋だけではやりくりが厳しいなんてことはない。ただ異文化の道具や先進的な器機といったレアアイテムを街へと持ち帰る行為も、郵便屋とどこか通ずるものがあるんじゃないか、そうテットは思っていた。
 発掘品の入手手段は水脈を流れ漂うものを直接探すか、チェストフィッシュを狩るかのどちらかだが、ボーナスは明らかに後者。だからこそ奴との戦いは高揚する。
「じゃあお先、後宜しく」
 そんな高揚とは無縁のトゥは、テットのサーフボードに接近してきたかと思えば、それだけを発して先を走り進んでいく。次第に姿を小さくさせて視界から消える。
 誰もいなくなったことを確認して、テットはサーフボードに寝そべる。スピードの遅い牽引中だからできる荒業だ。
 暗闇の中に薄っすらと反対側の床が映り込むと、当然のようにそこにも水が流れていて、僅かな光を反射させている。
 ここは巨大な有機暗渠、水脈。そしてそこに天井の概念はない。言うなれば全てが床だし、だから水流がある。水脈の壁に隣接していない中心にだけ空気がある。これらは全て落ち物力の所為によるもの。
 テットは以前から水脈の中心に行ったらどうなるのか気になっている。どうやら中心は落ち物力の影響が弱く、重力の方向へと落下するらしいのだが、理屈ではなく体感してみたいのだ。けれどエンジン全開でジャンプしても届くような距離ではない。結局今日までその小さな好奇心は満たされないままだ。
「っと、寝過ごすトコだった」
 テットは起き上がり、そのまま前方に体重を預けると、サーフボードは浮上を否定する角度へと成り代わり、そのまま水中へイン。数メートルの水位を支える床、その一ヶ所にある目印の付けられた穴、そこ目掛けてゴルフボールの如くエンジンを走らせる。暫く進むとばしゃあと水沫が上がった。
 天上と水脈を繋ぐ地下道に到着。陸へ上がり、後はここを登り切れば出口に着く。
 ただこの地下道は水脈と違って狭く、道もごつごつとしていて歩き辛い。その上水脈以上に落ち物力の影響を受けるため、自身の身体がどんな挙動になるのかも分かり辛い。サーフボードは水陸両用だが、こんなところを走れば事故ること必至。それができればどんなに楽かといつも思う。
 それでもテットにとっては慣れ親しんだ庭みたいな道。余計な体力を使わないように極め抜いた効率的な動作で天上の街まで軽快に踏破していく。
 天上に出ると青空と巨藻を覆う土、そしてその上に育まれる自然がテットを出迎える。
 ここから街までは再びあれの出番だ。テットはサーフボードを置き、エンジンをかけた。ハンドルを握ると同時に景色が動き出す。
 木々の刈られた整備された道を駆け抜けている内に、次第に増えてきた人工の建造物。それが多くなるに従ってサーフボードは速度を落とし、安全第一を掲げ始める。

 そうして家に戻ったテットは、早速チェストフィッシュの解体に入る。
 お目当ては胃袋の中身だが、肉も食料として活用する。長めの魚切り包丁を肉に突き立てると、鮮魚特有の生臭さが増す。大きいだけに血や内臓の量も多い。臓器は食べられないことはないが、悪いと思いつつもパスしているものも多い。切り取った身は冷凍に回し、入り切らなければ冷蔵する。
 そうしている内にお目当ての胃袋が体内から露出。テットが一文字に切れ目を入れると、どろっとした液が垂れる。更にその一文字を拡大しようと腕を横に進めると、かつっとした手応えが。左手を胃の中に突っ込んで硬質なそれを引き出す。何かの装置のようだ。
 これがまたこの街を豊かにしてくれる財産になることをテットは心の中で願った。
 解体を再開させると、案の定それ以外の品物もわらわらと掘り起こされた。全部をじっくり鑑賞している余裕はない。まずは目の前の生鮮品を片付けに掛かる。続く肉塊と化したチェストフィッシュとの格闘は、あのショーよりも遥かに長い時間が掛かっている。
「あと少し……」
 それももう残り1割を切った。言うまでもなく生鮮品は時間との勝負。だが良いペースだ。
「っしゃああぁあ! 終わった」
 試合終了の鐘を肉声で鳴らす。厳密には後片付けが残っているが、まぁそれは捨てるだけなので、ちゃちゃっと終わらせる。
 そうしてお待ちかねの鑑賞タイム、発掘品を洗って改めて対面する。見慣れた道具もあるが、その中に用途不明の造形をした物品や、規格外らしき装置がいくつか鎮座している。その中にも「これは前にも見たな」なんてものもあるので、完全なニューフェイスは更に絞り込まれる。
 査定の結果、数品を残して他は部屋の隅に。別にテットに専門知識などはないので、査定にはぱっと見の印象が含まれている感は否めない。だがこういうのは往々にしてそんなものだ。これらは明日にでも知人のフジのところに持っていって、彼の興味を引くものは詳しく調査してもらう。それ以外のものは売ってしまう。
「ふわあぁああ」
 テットは大きな欠伸を一つして、作業部屋を後にした。
 その翌朝、テットは作業部屋の荷物をまとめる。発掘品といえど丁寧に扱う性ではないので、がさっと袋詰めするだけだ。丁寧に扱いたいのなら自分でやれと言ってやればいい。それで自分でやる者が現れた試しはないが。
 準備を整え、じゃあ行くかと思ったところで、テットの視線がふと部屋の隅に。
「ん、何だありゃ」
 何の変哲のないがらくたの中に一つだけ見慣れない、小さな装置が混じっている。すかさず手に取る。
「危ね、見落とすトコだった」
 それも袋の中に放り込み、今度こそフジの家へを目指し、玄関口をがさっと開けた。
 サーフボードを走らせれば到達はあっという間。テットの視界に我が家よりも一回り大きな彼の家が映り込む。
 到着したらいつものようにサーフボードを玄関前に立て掛ける。それからインターホンを鳴らすと、彼はすぐに出迎えてくれた。
「あぁテット、久々に狩ったんだな」
 テットは「まあな」と言って戦利品を袋ごと渡す。
「折角だ、ちょっと寄ってけ」
 フジは郵便屋でこそないが、同じ方向を目指す同士でもあり、気の置けない仲間だ。
 部屋に入ったらいつものように勝手にソファへ身を投じる。少ししてフジが冷茶を淹れて来てくれたので、ごくりと喉を潤して、かつんとコップをテーブルに置いた。
 それとほぼ同時に、右前のソファにフジが腰を下ろし、早速例の袋を開梱。すぐに「テット」と声がしたので「ん、何だ」と返した。
「このワカメスには触ったのか」
「ああ、けどなんもなかった」
 フジは「そうか」とだけ言って袋の中にあったワカメスを手に取ってみて、テットの言葉通りであることを確認したのち、それを袋の外に置いた。
 ワカメスとはカラフルな正六面体の生命で、人々が地上に住んでいた大昔に突如爆誕したとされている。パズルゲームのブロックに似た海藻だったことからその名が付けられたらしい。
 詳細な発生源は不明だが、少なくとも自然発生はあり得ないだろう。海藻という種が緑藻、紅藻、褐藻等といった様々な色別に分類されていることも見過ごせない。当時はリアルパズゲーバグによって出現したなんて都市伝説的な噂も広まっていたらしいが、まあそんな訳はない。
 だが人々が地上からこの巨藻へと生活の場を移したのは、そのワカメスこそが要因だった。
 初めは地上の人類もワカメスを脅威だなんて思ってもいなかった。それどころか彼らには特殊な能力があり、関心を引いていた。その一つは彼らに接触することで、頭の中に直接メッセージが伝達されるような妙な感覚を得られるというものだが、ワカメスにはそれすら霞む程の画期的な力があった。
 それが落ち物力だ。要は重力と同じような力だと思ってもらえればいい。この力を応用すれば物を動かせるなんてのは当たり前で、重力に逆らって物を浮かせることや、全方位に着地することだって可能。この力はちょっと……いやかなりチートすぎた。
 だがそんなボーナスタイムは短いのが常。時代と共にワカメスは圧倒的な生命力を武器に増殖していった、それも尋常ではない勢いで。気付けば地上はワカメスの海へと成り果てる。
 するとワカメスはでろーんでろでろの触手のように、プレランタールの形をした地球を覆う巨藻という海藻を天上高く創り上げた。まるで「我々は地上で暮らすから、他の生き物は天上で暮らしてねー」と言わんばかりに。
 一方で今の天上の人々はそんなワカメスに感謝している節もある。地上の技術を失った天上の地にとって、落ち物力はなくてはならない工学だからだ。現にこの街の多くの器機にもワカメスや巨藻の欠片が組み込まれている。
 ちなみにテット達のサーフボードやランチャーも一部が落ち物力によって動いていて、それを郵便屋のためにとフジが1人で作り上げたというのだから驚きだ。もっといえば隣町への道のりも、まるでキュボロで遊ぶかのように、フジが分岐と合流を繰り返す水脈の進み方を解いてくれた。本当に何から何まで感謝は尽きない。
「お、これなんか面白そうじゃんか」
 今まで黙々と品定めをしていたフジがふとそんな声を上げた。彼が手にしていたのは、昨日テットが最初に取り出した大きな装置……ではなく、今日出発前に偶然目に留まったあの小さな装置だった。
「あーそれ、危うく捨てるトコだった奴ね」
 テットがそういうとフジは驚きと呆れ半々といった表情を浮かべるが、改めて言った。
「まあこれで暫くは暇しないだろうな」
「そりゃあ、良かった」
 何だかんだで今回は当たりだったのかもしれないとテットは思った。

 それから十数日が経過した。今日は郵便屋の受け持つ5つの隣町の中で最も遠い街へ行く日。
 地下道前へと行くと既にトゥが退屈そうに待っていた。こちらに気付くと「おはよ」と日課の挨拶を一言。
 そこからは言葉少なに淡々と行動。出鱈目な力の働く地下道を下っていくと、水脈の入口が見えてきた。2人はそれぞれサーフボードに乗ってエンジンを駆動させると、そのまま水穴へとダイブ。数秒の止息ののち、水脈に出る。
 ここからは思う存分サーフボードをかっ飛ばせる。
「っしゃあ」
 アクセルに力を入れると高鳴る駆動音と共に景色が単調ながらに移り変わりを開始させる。あとは隣町までひたすら前進。
 今日行くところは隣町といっても泊まりがけをしないと行き来できない程の距離がある。これが案外体力を削りにくるので、なるべくロスを防いで体力も温存するように心掛ける。
 郵便屋を始めて早4年、これが郵便屋の日常だ。トゥはテットよりも1年遅いので3年になる。初めはそんな危険なことをやる意味があるのかと街の住民から咎められたりもした。それがいざ軌道に乗って定着すると自然と受け入れられているのだから不思議なものだ。トゥにしても初めに両親に郵便屋をやりたいと打ち明けた時は猛反対されたらしい。それでも今こうして彼女が共にいるのは、テットの最初の1年の功績があったからだ。
「次で休憩しよ」
 トゥが言った。ここまでいつも通りのペースで走り続けてきたので、休憩時間は十分にある。
 巨藻には所々水脈から抜け出す穴が開いている。街の近くにある地下道のように必ず天上に通じている訳ではなく、別の水脈に通じている地下道なんかもあるが、どの穴にも大体陸はある。
 トゥがずぽっと水中へダイブするのを確認してテットもそれに続く。通じていた先は然程広くなく、行き止まりの小さな洞穴だった。
 2人はサーフボードを降りて疲労の溜まりつつある身体を休める場所を探す。その際に身体に適した落ち物力の加わっている場所を選ぶのがコツだ。テットは良い場所を選んで横たわる。
 その頃にはトゥは既に良さ気なポイントを見付けて先にころんと寝そべっていた。その位置はテットから大体180度真逆の位置だった。天上で働く落ち物力ではあり得ない位置関係も、日常的に地下道や水脈を通る2人にとっては見慣れたありきたりな光景だ。
「そういえばさあ、前回の発掘品どうなった?」
 ふとトゥが適当な話題を振ってきた。彼女は発掘に参加することはないものの、発掘の結果には多少の興味を持ってくれている。
「今回はかなり面白いってよ。実際に起動もできたって言ってたな。細かいことまでは知らねぇけど」
「ふうん」
 チェストフィッシュはサーフの度に毎回狩れる訳ではなく、寧ろ遭遇しないことの方が多い。それにサーフ自体も月に4、5回程度しか行わないので、結果的に遭遇率は更に下がる。
 その上この水脈を泳ぐ巨大魚はチェストフィッシュだけでなく、あらゆる種の巨大魚がいる。奴らは地上の海から巨藻に根から吸い上げられてここまでやってくるらしい。巨藻は一応海藻なのに付着器の根から吸い上げられるってどういうことだと思いはするが。一方で餌から無機物までを何でもかんでもばくばくと喰らうのはチェストフィッシュくらいだ。そう考えると副業の効率は決して良くはない。
 だがあくまでテットの本業は郵便屋だ。といっても実際には手紙を送る者は少なく、それよりも物品を受け持つ方が多い。いうなれば宅配屋といった方が仕事内容をより正確に表しているといえるだろう。それでもテットは郵便屋という名を気に入っている。何よりテットは自身の行いによって、それまで一つの街中で完結していた情報が、街から街へと広がるようになったことを誇らしく思っていた。
「そろそろ行こ」
 トゥの一言によって2人が移動を再開させると、特にトラブルもなく航行は続き、やがて隣町の地点にまで辿り着く。街に戻る時と同じように目印の付いた穴目掛けて水中へとダイブして、地下道に出る。そこを徒歩で登り切り天上に出る。
 視界に映ったのは夕空と遠目に見える街。2人はサーフボードのエンジンをかけて、そこ目掛けて走り出す。
 その途中でテットは運転と同時並行でとある袋を取り出した。それには水一滴たりとも付着していない。何せこれは我々の商品、ぞんざいには扱えない。開梱して中身の品を確認していると、今度はトゥも同じように袋を取り出し、同時にサーフボードを隣に寄せてきた。
「じゃ、また後で落ち合お」
 そう言ったトゥとは次の分岐で別々の方向へと別れた。
「うし、さっさと終わらすか」
 そこから先は街中で完結している宅配屋とさしてやることは変わらない。淡々と宛先に品を投入していくだけ。寧ろ宅配屋と違って重い荷物はないので、それよりも簡単なくらいだ。それにこの隣町はテットの住む街よりも規模が小さいので、その分移動も楽。
 ちなみにテットの住む街は近隣の5つの街と比べて一番大きい。それでもかつての地上の街と比べたら比較にならない程小さい。とはいえあそこまで街が強固に連帯し合うことは、恐らく天上では起こり得ないだろう。
 天上の街は巨藻の落ち物力の強いところに作られていて、そういったところではイロミロのように全方位から着地が可能だ。一方で落ち物力の弱いところでは重力が勝り、最悪地上へ真っ逆さま。そういった場所では草木はおろか、それを支える大地すらも定着しておらず、巨藻の緑が剥き出しとなっている。
 つまるところ天上の街と街は落ち物力の弱い部分で隔たれて、隣町への移動は困難。今確立されている唯一の行き方は、テット達のように水脈を通って移動する方法だけだ。そういった事情もあって街同士の関係は希薄で個々の街も小さいまま。
 テットはそんな現状を変えたいと思っていた。街同士が連帯して文明発展を遂げる未来を夢見て。郵便屋を始めた切っ掛けもその理想に近付きたいがためだった。
「おっ、これが最後か」
 テットが袋の中に手を突っ込むと、中身はたったの一つ、ざらざらとしたそれの感触は……紙だ。ここまで色々な品を届けてきたが、やはり郵便屋の最後の配達は手紙で締めたい。そんな思いで突っ込んだ手をがさっと視線の位置にまで持ってくると、テットは呆れた。
 手紙には封筒もなしに微笑ましい文字の羅列。テットは思わず「馬ッ鹿」と口走り、なるべくそれを見ないように住所だけを読み取った。機会があったら正しい手紙の送り方を教えてやらないとなとテットは思うのだった。
 そうして最後の投函を終えた頃には、すっかり日も傾き始めていた。
 拠点に行くと、既に任を終えていたトゥが家の中で寛いでいた。
「んあ、おかえり」
 家は配達の見返りとして街から支給されたものだ。簡素だが居心地は悪くない。支給されていること自体に感謝している。
 街同士の交流が極端に少ないといっても、言語は出鱈目に感じる程の違いはないし、通貨の変換だってできる。それはどの街もルーツは地上にあることの裏返しでもあるのだろう。そう思うと悪い気もしない反面、テットにとってはあのわくわくする未知性が損なわれる感じもして複雑な心境でもある。
「今日もさっさと食って寝るぞ」
 窓に視線をやれば外は夜染め。数刻後にはテット達の家の明かりもそれに同化した。
 翌朝になると、2人は帰郷の準備を始める。郵便屋だ何だといっても結局は故郷が恋しいのは変わらないし、別に変わる気もない。
 朝食を終えた2人は、まだ疲労の残る身体を奮い立たせて家を出た。2人別々の道から入った街を、今度は同じ道から出る。そうして地下道の入口に辿り着く。最後にそこから街の方角を眺めて、特に何てことのない景色で見納めをしてからテットは地下道を下っていった。
 水面へとダイブすると、そこから先はまた単調な長距離運転。途中で巨大魚にも遭遇したが、チェストフィッシュではなかったし、まだ1割ちょっとの地点だった。そこから牽引なんてしていたら日が暮れるし、何より割に合わないので、殺さずに撒いた。
 それでも街に到着した頃には日が傾き始めていた。


 2.

 2人が地下道を登って天上に出た瞬間から、自分達の街が今非日常に支配されていることを予感できた。街から上がる複数の黒煙、それが双眼を通して不気味に映り込んだから。その胸の騒めきは街に近付くに連れて治まるどころか、より一層大きなものへと膨らんでいく。そうしながらも2人が街に着くと、案の定人々の挙動は日常とはどこか違っていた。
「私、家帰る。家族が心配だし」
 トゥはそう言って、街に入ってすぐに彼女とは別れた。
 一方のテットの家族は今何年も旅行中だ。そういうところは血は争えないのか。案外もう帰ってこなかったり普通にしそうだ。
 それはともかく、じゃあどうしようかと思案してみる。そこで思い付いたとある一つの場所、そこにテットは向かった。
 だが移動の最中、過ぎ去る背景の中から時々嫌な視線を感じた。それがなぜだかとてつもなく悪い予感を想起させた。だとしたら今あの場所に向かっているのは正解かもしれない。
 そうして辿り着いた先はフジの家。インターホンを鳴らして少しすると、彼が扉から顔を覗かせた。テットは「邪魔するぞ」と言って玄関に入ろうとするが、フジに止められる。
「一応それも持ってこい」
 彼の視線の先にあったのは、普段は玄関先の隅に置いているサーフボード。大事に扱っているとはいえ、家の中に持ち込める程綺麗にしている訳でもない。それでもこれは家主の指示。
「あ……ああ、分かった」
 今度こそ入室を果たしたテットは部屋の隅にサーフボードを置き、自身の身体をソファーにどさっと腰掛けさせてやると、フジはいつものように飲み物を出すこともなくいきなり本題に入った。
「外のことはもう知ってるな」
「いや、ついさっき配達から帰ってきたばっかりで詳しくは知らない。煙は見たからやばいことは分かるが」
 フジは「あぁ、そうか」と言うと、ポケットから何かを取り出して事の説明を始めた。
「恐らくあれらは全部……お前の持ってきたこの装置によって起こった人災だ」
 ああやっぱりかと思った。
 フジの説明によれば装置を修復して起動に成功させたところまでは良かったが、数時間前から急に街の方が段々と慌ただしくなっていったそうだ。初めは装置のせいなどとは夢にも思わず、停止させた頃には時既に遅しだったらしい。
 何でも被害はどれも落ち物力が組み込まれている機器の暴走が原因らしい。落ち物力は巨藻を削ったり水脈に沈んでいるワカメスを回収したりして手に入る天上の恩恵だ。それがまさかこんなかたちで裏切られることになろうとは。
 ちなみに装置は落ち物力を自在に操ることのできるシタキィという代物らしい。使い方によっては画期的なものだとフジは言うが、こんなことになっては到底街の住民には受け入れられないだろう。
「市街地は今相当混乱してる。実際にこの目で確かめた訳じゃないが、死者も出てるらしい」
 死者……その言葉を聞いてテットは心臓が跳ね上がりそうになる。だってそれは間接的に自分達が殺人を犯したことになるじゃないかと、そんな思考が不意に洪水のように頭を飲み込む。
「それが俺達の仕業だって街の皆は気付いてんのか」
 何でそんなことを優先的に訊いているのだと、自身の言動に腹が立つ。けれどフジは粛々と返答をしてくれた。
「恐らくは……時間の問題だろう」
 テットの希望は完全に打ち砕かれた、それもこうも簡単に。4年間掛けて培ってきた郵便屋の信頼もこれで全て吹っ飛ぶだろう。いやそれだけで済めばマシだ、全て奪われるかもしれない。
「くそっ、どうしろってんだ!」
 テットは右手でソファを思い切り殴って疑問を叫ぶ。だがそれに対する返答は来なかった。殴ったソファは数秒を掛けて元の形状へと戻っていく。それが終わると部屋に変化するものがなくなった。
 インターホンが鳴ったのはそんな時だった。
「念のためお前は隠れてろ」
 その一言で大体のことを理解したテットは、フジの指示に従って奥の部屋へと移動した。その数秒後、玄関の扉が開く音がした。
「どちら様で」
 奥の部屋でも何とか会話は聞こえそうだ。
「私は街の役員をしているこういう者です。今回の事件の犯人はあなたで間違いありませんね」
「……あれは、事故だったんです」
「今、街中では郵便屋関係者に対するヘイトが急速に高まりつつあります。このままではあなたもリンチに遭われたり、最悪殺される可能性があります」
「……はい」
「ですので明日の死刑執行までの間、あなたの身を保護させて頂きます」
 耳を疑った、今何て言った。
 それに対してフジが何かを言っているようだが、急に戦慄き声になって言葉が上手く聞き取れない。
「街の決定ですので、すみません」
 そこで会話は途切れ、少しするとフジは街の役員に連れて行かれたのか、家の中はしんと静まり返った。
 暫くしてテットが奥の部屋の扉を開けて、ついさっきまでいたリビングへと戻ると、案の定そこには誰もいなかった。連れて行かれたと確信せざるを得なかった。
 テットはフジに危機が迫るその間も何一つ行動することができず、ただ奥の部屋に身を隠しているだけだった。それでも自分の度胸のなさに反吐を出す余裕すらない。
 これからどうすればいい。
 途方に暮れ、自然と足が先程まで座っていたソファへと向かい、身を預けようとしたその時に気付く。
「ん、何だこれ」
 ソファの上に一枚の四つ折りにされた紙が落ちていた。隠れる前までこんなものはなかった筈だ。テットはそれを拾い上げ、折り目を開くと、そこには文字が。
「俺1人で死ぬからお前は逃げろ」
 それは紛れもなくフジの筆跡。それを見たテットは――
 泣いた。
 己の弱さに、強がっている自分の醜さに、あらゆる後悔にテットは声を殺して涕泣した。
 それを支えてくれる人物は、この空間には誰一人としていない。
「俺は……弱ぇなぁ」
 暫くの間、何をやる気力も湧かなかった。
 それから、何とか平常心を取り戻せた頃には大分時間を食っていた。それまでにここへ誰も訪れなかったのはたまたま運が良かったのか、それとももうここには誰も訪れるつもりがないのか。いずれにせよ行動しなければ。
 家に戻るのは危険だ、フジのメッセージが事実なら自分も狙われている。役所の関係者に張られている可能性は十分にあるし、そうでなくても自分は街の住民の憎悪を買っている。その意味ではここに居続けるのにもリスクがある。
 幸い外の陽は落ちてきていた。
「出るか」
 一人ごちると共に、テットは体重を預けていたソファから静かに腰を上げ、そしてサーフボードを抱えた。今にして思えばこれを外に置いておいたら拙かった。
 玄関の前に立つと、家を出る名残惜しさと、外への恐怖が同時にくる。だが出なければ、そう自身に言い聞かせて目の前のドアノブに力を込めた。
 外からはもう黄金色が消え失せていて、闇夜の支配が始まっていた。
 そこにきてテットはサーフボードを使うか使わないかで少し悩む。使えば駆動音で自身の居場所を知らせる可能性があるからだ。とはいえ使わなければ相手に見つからないなんて保証はないし、相手に行動の猶予を与えてしまう。それに何より「性に合わねぇ」
 その結論に達してすぐ、からっとした夜空に駆動音が貫通した。風を感じ始めると同時に、フジの家が遠退いていった。

 流れ行く駛走の間、テットの中で一つの決意が固まり始めた。
「うっしゃあ!」
 今日の風は少し冷たい。丁度良い。
 普段とは異なり、外にはまばらだがまだぽつぽつと人がいる。こりゃあ、ばれると腹を括る。寧ろよくフジの家に行く時にばれなかったなあと思う。
 やがて街を抜け、辺りは木々に囲まれる。それでもまだ奥へ奥へと進んでいって、漸くして駆動を止めた。
 大自然の中で一夜を明かすのもたまには悪くない、そんな魂胆でここまで来た。フジの家から少しばかり非常食を拝借してしまったが、謝れる機会があったら謝ろう。
 固い土の上に寝転がると、地上で発光するワカメスの淡い光が視界に入る。来る場所を間違えたか、どうせなら今日くらいは星空が見たかった。
「まあいいか」
 そう言うとテットは天上から地上へと人差し指を突き立てる。
「聞けよワカメスてめえら。俺はお前らの奪った連帯とか発展ってもんを、もう一度この世界に復刻させてえ。そうすれば……」
 テットは一度声を詰まらせたが、それに抗い息を吸い込む。
「こんな無茶苦茶なやり方で俺とフジが死刑になる訳がねぇんだよ」
 言ってやった。逃げるつもりはさらさらなかった。
 明日、フジを救い出して、2人で脱獄してやろう、この村社会という牢の中から。
 今フジは街の役所のどこかに厳重に匿われている。だから救い出せる瞬間は警備の手の緩む死刑執行の寸前しかない。今は誰にも見付からないこの場所で力を蓄えろ、来たるべきその瞬間に最大の力を発揮しろ。
 今夜は寒い。
 時間だけが刻々と星を動かした。
 外でも意外と眠れるもので、気付けば日差しが身体を温めてくれていた。詳しい時間までは分からない。自室なら時計を見なくても部屋の雰囲気だけで大体の察しはつくのだが……。
 考えていても仕方がない、とりあえず朝食。テットは残っていた非常食を全て口に放り込んでいく。
 この街の死刑執行のやり方は街の規模に似合わず古風だ。受刑者を街の外へと追放し、落ち物力の弱いところまで移動させ、そして落とす。何よりあのワカメスに生贄を捧げる風習を引き継いだ手法だというのだから反吐が出る。だがそのざるシステムのお陰でフジ奪還の隙が生じることもまた事実。死刑執行の場所も決まっているので先回りも可能。今だけはその古い習慣に感謝してやる。一方でこの街の死刑執行は見世物であり、第三者の見物人も多い。一番の不安因子は寧ろそこだ。
 そんなことを考えている内に非常食は底を見せた。
「……行くか」
 テットはサーフボードに乗り、起動させ、発進した。朝の風は冷たいが、この分だと昨日よりも暖かくなるだろう。その時にもこれに乗れていられればいいが……。
 目的地はここからそう離れてはいない。具体的な時間までは分からないが、さすがに早朝の執行はないだろうから十分に間に合う筈だ。
 フジを奪還してからは、彼を連れていつもの地下道を通って、水脈を航海して、別の街に向かうつもりだ。そうなれば、恐らくこの街にはもう2度と戻れない。だがもう腹は決めた。そうでなければ死ぬしかないのだからやるしかない。
 そうして安寧を取り戻したら、また2人で連帯や発展を夢見るこの活動を再開させよう。不器用な人間にやれることなんて限られているのだから。
 そういえば、とテットはふと思う。
「トゥ、悪ぃな」
 もし自分がこの街を去ったら郵便屋はこの街で彼女だけになる、それでもトゥは郵便屋を続けてくれるだろうか。
 ……いやそもそも郵便屋は今この街で憎悪を買っている。トゥにも謂れのない火の粉が降りかかっていなければいいが。
 それでもフジのメッセージによれば受刑者は自分とフジの2人だけのようだから、過剰に心配することはないのかもしれない。それに彼女は強い、少なくとも自分なんかよりもずっと。
 そんなことを考えている内に執行の地へと辿り着く。予想通り、まだ執行はされていない。だが早めに来ている見物人がいて、確かにこれからそれがあるのだと裏付けている。
 面前を見渡せば、まるで湖の岸のようにぱったりと草木と大地は消え、巨藻の表面が露出している。その先に足を踏み入れていけば次第に重力が落ち物力を上回り、やがて落ちる。
 テットは見物人や街の役員に見付からない、且つ出撃に有利なポイントを探す。幸いすぐに丁度良い木陰を見付けられたので、そこに隠れて時を待った。
 だがその待ち時間は思わぬかたちで苦痛を味わうことになる。それは見物人の会話だった。彼らはテットやフジのこれまでの行いを平然と嘲笑い、冷笑していた。無論人災を発生させたこと自体は反省する他はない。だがそれに乗じて今まで街の発展のためにしてきた行いまでをも嘲笑うのは、いくら何でも胸糞が悪すぎる。それこそ、寧ろ自分が執行人の側になりそうな程に。
 幸い次第に見物人が増えてきたお陰で、そんな不快なやり取りは他の無関係な雑談の中に埋もれていった。今は冷静さを保たねば。
 だがそんな雑談もある瞬間にふと途切れる。
「フジ……!」
 テットの目に映ったのは紛れもなく彼だ。だがさすがのフジも寸刻先の未来を恐れ、眼の輝きを失っている。観客の一部から野次が飛ぶ度、早く助けてやりたいと気持ちが逸る。
 フジの背後には武器を持った屈強そうな見張りが2人、それと巨大なプロペラが一機。あれは受刑者が逃げようとした際に強制的に死の岸に追いやる道具だ。あれも落ち物力で動いているのだと思うと、無性に憎い。
 それから少しして現場での細かな手続きが終わると、フジが1人で死の岸へと歩み出し始めた。チャンスだ。
 エンジン再点火。
 テットはサーフボードを発進させてフジへの接近を試みる。それに気付いた2人の見張りが銃を構え、更に控えの奴らもわらわらと現れる。……想定内だ。
「させるかよ」
 テットは持っていたランチャーをぶっ放した。人間には当てず、その手前に着弾させる。
 爆音、それと共に広がる煙幕。
「テット、お前」
「いいから乗れ、急げ」
 フジの奪還に成功。あとは来た道を戻るだけ、順調だ。
 と、金属音が壊乱。
 不測の事態が起こったと逸早く脳が反射。次いで何かに引かれる感覚がハンドル越しに伝わり、急減速を理解。そこに至って漸く理性が追い付き、その正体を確かめようと背後に視線を移すと、そこにいたのは――「トゥ!」
 サーフボードに乗ったトゥの姿を確認。そこから延びるワイヤーは、紛れもなく自身のサーフボードを牽引している。
「おいどういうつもりだ。俺達を売ったのか」
 だが彼女からの返事はなく、ただ綱引きを続けるのみ。トゥの考えが読めない。
 が、今はそこにリソースを割く余裕はない。今はこの状況を脱することだけを――
 風が……吹き始めた。
 あの巨大なプロペラが回転を始めた。サーフボードが、身体が、死の岸を目指し始めている。
 対策、逃げるのは手遅れだし、ランチャーもこの豪風ではプロペラに届かない。この状況を打開する咄嗟の行動が思い付かない、いや無いのか?
 拙い、拙いマズいヤバい死ぬ! 落ちる!
 直後、身体がふっと浮かんだ。
「ぁ、ああぁあぁああああ!」
 辺り一帯を重力が支配した。

 緩やかな風に撫でられたのはほんの最初の一瞬だけ。後にはチェイスの際の感触をも凌ぐどこか無機質な風圧が、身体にごぼっごぼっと当たっては通過していくようになる。
 それでもテットはサーフボードを手放さなかった。
 辺りを見渡すと近くにフジが、そして遠くの方にトゥが宙を放浪していた。彼女はサーフボードを手放してしまっているようで、2機を繋いでいたワイヤーは既に外れていた。
 これはセーフティなしの死のスカイダイブ。街では天上から落ちた人間は死ぬと伝えられているが、実際にどうなるかを目撃した者はいない。それでも恐らくは死ぬのだろう。
 だがこのまま死を受け入れられる程の人間か?
 悪足掻きになるのは承知、テットは一途の望みを賭けてフジとの合流を試みる。彼ならこの状況を打開する方法を知っているかもしれないという根拠のない希望。
 トゥは……正直裏切られた思いがまだある。だから2人の中からフジを選んだ。
 行動を開始しよう。そこに至って改めて自分達の位置関係を確認すると、テットは2人よりも大分下の方にいることを理解する。もしかしたらサーフボードの重さのせいで落下速度が速いのか。だとすればこいつを手放すしかないのか。……それはできない。
 ならば、と、テットはサーフボードと自身の身体を駆使して空気抵抗を増やす作戦に出る。
 それを実行に移すと、風圧が強すぎて少しの体制の変化が1人と1機の密着を削ごうとしてくる。それでも決してその手を離さなかった。
 作戦は功を奏した。フジとの距離が大分縮まる。
 この状況では声は掻き消される。テットは身体でジェスチャーを試みる。乗れ、掴まれ、接近してくれ、どんな理解でもいい、分かってさえくれれば。
 ふと2人の距離が縮まる瞬間がいきなり訪れた。咄嗟にテットはフジの腕を掴み、フジはサーフボードの取っ手に掴まった。合流は成功した。
「助かる方法はあるか!」
 この状況でも伝わるように絶叫する。
 するとフジはポケットから何かを取り出し、見せつけてきた。これはフジが街の役員に連行される少し前に見た……シタキィだ。
 フジはその操作を始めた。すると落ち物力の備わっているサーフボードに変化があった。前後左右に動き出したのだ。だが――
「駄目だ、浮かばない!」
 フジの絶叫で届いてきたのは、肝心の浮かぶことはおろか、落下速度を緩めることもできないという事実。最早万事休す、と思ったその時だった。
「これを操作して電線に落ちろ!」
 フジの2度目の絶叫が届いた。そして一か八かの解決策が示された。トランポリンか。
 できることならトゥにもこのことを伝えたいが、シタキィは一つしかないし、そもそも時間切れ。だが今は悔しさに浸る時間の余裕さえも与えてはくれない。
 とにかく今は火急の事態。テットはフジからシタキィをがちりと受け取り、急いで地上を確認すると――あった。
 視線の先には地上を覆うカラフルなワカメス、その中から顔を出している送電線が確かにあった。埋もれている箇所もあり、出ているところもワカメスとの距離は近そうだ。ならばなるべく長距離露出しているところの中央を狙うべきか。瞬間的に値踏みをして当たりを付ける。遠すぎても駄目だ、近くて安全なところは――そこか。
 テットはサーフボードで空の航海を開始する。地上が目前に迫る、時間が、ない。
 最後の力を振り絞れ!
「あああぁああぁあああああぁあ!」
 刹那、身体を衝撃が穿った。
 否や、景色の流れが、風の強さが、少しだけ弱まった。
 そして次の瞬間、2人は地上に叩きつけられた。


 3.

 気付けば知らないところにいた。そこには活気があった。
 つい今さっき意識を取り戻したばかりのテット。彼は驚いた、生きていたことと同じくらいに、目前の光景に。
 そこには人の、人類の営みがあった。人々が街を行き交い、喧騒に包まれている。街は自身の住む街よりも遥かに規模が大きい。まず建物の高さからして違うし、それに遠くの方にまで建物が見える。
 今、テットは地べたにへたり込んでいた。そんな態勢でいる人は周りに誰一人いなかったが、それを周囲の人から不審に思われることもなかった。
「訳……分かんねえ」
 これからどうしろと? 今自分のやるべきことは? ……分からない。
 それでもなぜだろうか、道行く人に話し掛ける気にはならない。
「とりあえず」テットは腰を浮かせ「歩いてみっか」
 テットは言葉を実行に移すが、それによって入ってくる情報は真新しい新鮮な景色のみ。いやそれらは相当に凄いし、天上では見られないような技術で溢れているといってもいい。けれど今だけはそれらに気を向けることがどうしてもできない。
 今テットは孤独を感じていた。サーフボードは気付いた時には手元からなくなっていた、それとフジも。
「……そうだフジっ」
 そこに至ってテットは、今はフジを探すべきだと、そう思った。彼がいなければ今頃あの世に逝っていた、ここがそうでなければの話だが。とにかくだからフジを探そう、それとサーフボードも。
 それから数秒して何でそんな大事なことを忘れていたんだとテットは自問する。だが自答はできなかった。
 とにもかくにも行動、そうは思ってみたものの、これといった当てはない。サーフボードがあればまだ効率的に捜索できるのかもしれないが、それもなし。結果的に今はただ闇雲に歩くことくらいしかできないことを突き付けられ、仕方なく身を挺してそれを実行に移す。
 歩き始めてすぐ、ふと仰いでみれば、暖かな陽光が優しく地表と街の建物を照らしている。気候も寒すぎず、悪くない。それなのになぜかこの街には氷柱で斬られるようなぞわっとした感触がある。
 気付けば日陰の涼しさに心地良さを覚え、そこを選ぶように歩いていた。
 ふと、あるものが視界に入った。
「……ワカメス」
 それはテットから見ても、この街の雰囲気とは不釣り合いで歪な存在だった。
 1人と1体が自然と距離を縮めると、その水色の50cm程度のワカメスは上面に何かを置いていることに気付く。了承を得るでもなく、自然と手が伸び、そして掴む。
 ノイズ。
 その瞬間、世界の見え方が一変するような、そんな感覚に襲われた。次の秒にはその手に持ったものが何なのか、頭の中で自然と理解ができていた。
「なるほど、携帯端末か」
 違和感は取れない。だが同時にこれでフジの行方を追うことができるかもしれないと、テットは理解していた。
 早速、なぜか知っていたフジの連絡先に通話を試みる。自身に対する気味の悪さと逸る気持ちが同時に入り混じる。呼出音があっという間に何度も通過していく。
「テットなのか」
 フジの声。背後には喧騒の音もかすかに聞こえる。
「フジ、お前もこの街のどこかにいるのか。第一ここはどこだ」
「分からない」フジは一呼吸置き「近くに茶色い高い建物が見えるか」
 それを受けてきょろきょろと辺りを見回してみるが、そこは日陰で見晴らしが悪かった。テットは「ちょっと待て」言って数十秒駆けると、視界を遮っていた建物の向こう側から徐々にそれは顔を出した。
「あった、あのビルのことだな」
「ビル? ……あぁそういえば高い建物にはそんな名前を付けるんだったな」
 まただ、なぜ自分はそんな単語を自然と口に出した。天上の地は落ち物力が支配している。だがそれは地表近くに限られていて、そこから離れるに連れて重力に取って代わられる。だから天上の街に、少なくとも自分達の街や隣町にビルなんてものは存在しない、それにも関わらずだ。
「とにかく、そこを目印に落ち合うのでどうだ」
 そんなことを考えているとフジが言った。確かに妙案、テットも「ああ、分かった」と返事をする。
「じゃあ一度通話を切る」
「ちょっと待て、お前もこの薄い四角いものから通話してるのか」
「そうだが、それがどうした」
「俺にはこいつの使い方が分からない」
 嫌な汗が滲んだ、この違和感は全員に起こり得ることではないのかと。だとすれば自分の方が異常で、それは身体に異常をきたすものではないのかと、負の想像が頭を巡回する。
 それでも何とか、いいや駄目だと、その考えを振り払った。
 その後、フジとの通話を一度終え、違和感を抱えたままに、ここら一帯ではよく目立つ遠目に見えるあの茶色いビルを目指し、歩き出した。
 そうして歩みを重ねてみたものの、やはりというか、遠目に見えたそれは一向に大きさを変えない。もしかしたら自分達の街の端から端までの距離くらいあるなんていってくれるのだろうか。
 長い距離を歩いていて気付いたが、所々にワカメスが、まるでモニュメントのように点在していた。色だけでなく大きさにもばらつきがある。先程のワカメスのように、お助けを買って出てくれる者はいないのか。
 段々と疲労が溜まってきた。元々仕事帰りで疲れていたのも悪かった。目的地までまだまだ遠い。サーフボードも失くした。電車やバスの利用も考えたが、お金がない。
「――あるではないか」
 そんな一文が不意に頭を駆けた。
 気付けばテットは駅に来ていた。そして携帯端末で支払いを済ませ、電車に乗り込み、3駅先で下車した。それら一連の行為は、最早違和感を通り越して、そういうものだと納得するしかないのだろうか。
 駅を出ると目と鼻の先に巨大な茶色いビルが鎮座していた。ここで落ち合うことは確認したが、具体的な場所を定めた訳ではない。早速、近辺を軽く廻ってみるがフジの姿を認めることはできない。
 ならば、とテットは再び通話をかける。前回の半分くらいの呼出音ののち、「テットか」という声が届いた。
「フジ、今どこにいる」
「もうすぐ到着するとこ」
 やはり先に着いてしまったようだ。テットはそのことを伝えた上で、フジに具体的な落ち合い場所を示し、一旦通話を切ろうとする。
「テット」と、顔は見えないが改まった声色で「ワカメスには気を付けろ」
 テットはその言葉をあまり深くは咀嚼せず、とりあえず「ああ」とだけ答えて、今度こそ通話を切断した。

 それからテットはフジとの合流を果たした。
 サーフボードこそ失ったものの、2人でこうしていられること自体が奇跡のよう。何度もいうが、ここがあの世でなければの話だ。
「で、これからどうする」
 相変わらず肝心なところでフジを頼ってしまう。今更情けないという気持ちは薄れ、ただそれに期待している。
「問題はここが何なのか、だ」と、フジは語り出した。
「俺達は確かに天上からこの地上に落ちた、一面をワカメスが覆いつくして、動植物達にとっては奈落と化したこのワカメスの海にだ。……それが天上の一般的な地上の解釈の筈だ」
「だがそうではなかった」
 フジは「ああ」と頷き、続ける。
「俺はここがワカメスの海が見せる仮想現実のような映像だと思ってる」
 テットは思わず訝し気な表情を作るが、フジはそれを介せず続けた。
「テットが水脈から持ってくるワカメス、それに触れた時にたまに現れるあの反応、それを極限にまで高めればあり得ないことではないのかもしれない」
 テットはなるほどと思ったが、同時に気付く、もしここが本当にフジの考える仮想現実のようなところだとしたら、ここから「抜け出す方法はあるのか」
「俺がここに来る途中、明らかにこの街とは浮世離れした空間があった。そこに入れば……いや、根拠はないが」
「それしかないならやるしかないだろ」
 ここまでずっと擦れ擦れで生き残ってきたんだ、今更慎重になるのも馬鹿らしい。
「お前、ここに来て、何か変わったな。何だろう、佇まいというか」
「ん、そうか?」
 いきなりそんなことを言われたので、虚をつかれてしまう。心当たりといえば、いきなり携帯端末を使いこなしたり、電車に乗ったりしたことだろうか。佇まいに関しては、自分ではよく分からない。
 だがそれも抜け出すまでのことだろうと、そう思うことにした。今はとにかく動かなければ。
 2人はそのフジの見付けた浮世離れした空間を目指して歩き出した。
 話によればここから歩いて20分程度のところにあるらしかった。結構な距離だが終わりが見えると思えばそこまで苦ではない。電車を使えば早いのだろうが、フジもいるし、まあ歩けない距離ではないのでそれは控えた。
 歩行中の2人はほぼ無言だったが、テットは何かないかと考えて、あることを思い出す。「そういえば」と切り出すとフジが顔をこちらへ向けた。
「フジに謝らないといけないことがあった」
「落とされたことか」
「いや」テットは白状する。「家から少しばかり非常食を拝借した」
 テットの自白を聞いたフジは向けていた顔を正面へ戻し、呆れたように笑った。
 そうして歩き果たした2人は、特に何事もなく目的地へと辿り着くことができた。
 それは住宅街の細い路地の先にあった。その空間は昼間とは思えぬ程暗く、その中にもワカメスのような原色に近い色が見え隠れしている。目の前の局所だけに非現実が広がっている。
「この中に……入れと?」
「ここが仮想現実のようなところなら、過度にビビる必要もない」
 それから暫く立ち往生が続いたが「よし、俺は行く」
 そう言ってフジは広がる非現実に歩み、消えた。
 テットも意を決して目前の非現実へと、歩んだ。
 ぼやぼやと、意識が曖昧になった。

 気付くと、目の前には懐かしい景色。そこは故郷だった。
 だが風景は全体がグレーに燻んでいる。頭は街に帰れたとは微動にも認識していなかった。
「これも、仮想現実なのか」
「恐らくな」
 後ろを振り向くと一足先に来ていたであろうフジがいた。彼は周囲の景色のように燻んではいない。よく見ると自身の身体も。
「これからどうする」
「悪い、何も思い付かん」
 テットは期待外れの返答に溜息を吐くが、不思議と恐怖や絶望に飲まれることはなかった。
 その時、サーフボードの駆動音が聞こえてきた。直後、それは目の前をハイスピードで通り過ぎ去る。そこには燻んだトゥが搭乗していた。直感的にテットは彼女を追うべきだと理解し、フジも同意見だった。
 2人は彼女を追って駆け出した。だが相手はサーフボード、生身で追える筈もない。がそんな考えは杞憂に終わり、なぜだかあのサーフボード相手に、生まれ持った両足だけで簡単に追い付くことができた。……いやいやそんなことがあり得るのか。
「背景が動いてるのか?」
 フジは冷静に分析した。なるほど、仮想現実ならそういうことも可能なのかもしれない。
 それはいいとして肝心の燻んだトゥは、サーフボードを降りてそれを放り出して走り出していた。その先には人だかりができていた。それを囲うように煙を上げた建物があった。
 悪い予感がした。
 なぜ今トゥは人混みを掻き分けて、建物の方へと向かって行ったのか、それの意味するところは――
「父さん、しっかりしろよ、起きろよ!」
 そこにあったのは心肺停止で伏せている父親と、それを起こそうとしている痛ましい娘の姿。
 そこへ聞こえてくる野次馬の声。
「可哀想に、子供を助けようとして、逆に自分が娘を残して死んでしまうとはねぇ」
「でもあそこの娘って今回の事件を起こした郵便屋のとこの人でしょ。父親もそれに負い目を感じて救助を買って出たんだし、自業自得でしょ」
 ああ、ああ……。
 あの時、処刑場からの逃亡を妨害したのは、自分達を売ったなんて安い理由ではなかった。あれは復讐だったんだ。自分達がトゥの父親を――
「――許せねぇよ……!」
「っ!?」
 突如テットの身体を、生命を直接奪う命令が実行されるような未知の感覚が襲い、次いで痛覚が顕現した。テットはその痛みに耐えられず膝をついた。フジにも同様の発現があったらしく、彼に至っては起きていることすらできず、床でもがき出した。
 テットは何が起こったのか把握するために、可能な限り視力を行使した。すると燻んだ世界が停止していることに気付く。だがそれがこの痛みの本質的な要因とは思えなかった。
「まだ生きてたのか」
 その時、いやに低い女性の声。
 痛みに耐えられずも、テットはその声源に焦点を合わせると、燻んでいないトゥの容姿を辛うじて認識できた。どこか抜け殻のような表情は、普段のものとも、落ちる寸前のあの復讐の時のものとも違っていた。そんな彼女を見て、それはこっちの台詞だと言い返してやりたかったが、痛みでそれすらも叶わない。
 するとトゥはゆっくりとこちらへ歩み出す。手には細長い何かを持っている。
「これか? 日本刀、要は刃物だ」
 殺意を確信した。そう考えた途端、恐怖が再来する。早く動かなくては。だが痛みでそれもできない。
 ここまで……か。
「――相棒を呼べ。来る想像をしろ」
 また言葉が。と――
 ノイズ、ノイズノイズノイズ、受容。
 その刹那、自身の何かが明瞭に、劃然たる変化を遂げた。それは不可逆、そして人の死。だが生き残りたい思いが心の内から湧き上がる。だから――
「トゥ、今から我が最高のショーを開幕する、共演するな?」
 テットは立ち上がった。身体には嘘のように痛覚の欠片一つも残留していない。
 刹那、トゥの背から聞き慣れたあの駆動音。トゥは一瞬顔を強張らせ、振り返るでなく横に跳ぶ。直後、そこを相棒が駆けた。
 そのままこちらへ走ってくるサーフボードに向かってテットは跳躍。
 ハンドルと掌が密着。身体が強い力で引っ張られ、風を切るように宙を舞う。同時に景色が動き出し、次いで両足も駆けるそれへと密着した。
 空かさずUターン。目指すはトゥの身体。だがトゥは日本刀を構える。テットはこのまま突っ込めば斬られることを確信した。
 ならば、とテットはランチャーを取り出し、発射した。
 爆破、轟音。
 だが彼女は容易く身を翻す。その間にもテットとトゥの間合いは縮まる。それが完全に消滅するまでコンマ数秒。
 このままでは今度こそ斬られる。そうなるくらいなら、足掻け!
 テットは後方に大きく跳躍、サーフボードは単独でトゥを狙った。
 想定外の行動に彼女も僅かに動揺を見せたが、無人のそれを躱すことなど今のトゥには他愛もない。トゥは横に跳んだ。
 だがテットはそれを待っていた。サーフボードから跳躍し、今空中にいるテット。彼はそこからランチャーを――発射っ!
 テットの着地とほぼ同時、爆音が仮想現実を劈いた。
 トゥは避け切れなかった。被弾した彼女は破竹の勢いで吹き飛び、景色に背中から激突。空間は硝子のように割れ、結晶のような穴を穿つ。それでも勢いを止めぬ彼女の身体は、そこへ木の葉でも舞うかのように吸い込まれていく。そんな彼女が最後に叫んだ。
「覚えてろ、テットオオオオオォオオオォオ!」
 その絶叫は見る見る遠くなり、やがて聞こえなくなった。
 代わりに聞こえてきたのは駆動音。その方角に視線を向けるとサーフボードが主の元を目指していた。なるほど、仮想現実では自由自在なのだなとテットは感心する。
 そうして一時の安寧が訪れる、がそれに浸る余裕はない。
 テットはサーフボードに再び搭乗し、未だ痛みに悶えているフジに駆け寄る。
「乗れ、時間がない」
 身動きの取れないフジを半ば強引にサーフボードに乗せる。そうして目指すは、あの硝子のような空間の割れ目。
「相棒よ、突っ切れ!」
 エンジンが唸る。空間の割れ目とサーフボードとの距離が縮まり、そしてゼロに。
 同時に、意識がまた曖昧になった。


 4.

 意識を呼び戻して最初に視界に入ってきたのは、暗がりの中を埋め尽くす正方形の色の氾濫。それがワカメスであることをテットは既に知っていた。
 次いで全身に意識を行き渡らせると、仰向けの身体を認知。背中には巨藻にも似ているようでどこか違うような触感があった。
 上体を起こすために力を込めてみると、それは然程苦もなく達成される。調子は悪くない。
 いや右手に違和感があった。テットはそれを自身の双眼の届く範囲へ持ってくる。人間のものとはかけ離れた、されど機能美を感じさせる腕が瞳越しに映る。それはワカメスでできていた。
「やはり浸食されていたか」
 その事実に驚きはなく、自然と受け入れられた。
 腕を元の位置に戻すと、今度はその奥の床の方に意識がいった。そこにも大きさも色も種々様々なワカメスが所狭しと整列していた。
 今度は周辺を見渡してみる。まずは明所に目が向き、光源の正体を理解する。どうやら発光するワカメスが点々といて、ぼんやりとこの空洞を照らしているようだ。次にもっと全体に目を向けてみると、そこは複雑な地形ではあるが、サーフボードで走ることもできそうな比較的広めの空洞であることが理解できた。左右にはそれぞれフジとサーフボードの存在を確認。落ち物力も健在のようで、サーフボードは2人とは90度違う方向に引っ張られている。
 フジは先程までの自身のように未だ気を失っている。何もせずともすぐに起きるだろうが、強制的に起こしても問題はないだろう。そう考え、テットは「おい」とフジを揺する。反応はすぐにあった。
「ここは……何だ」
「恐らく、ワカメスの作り出した空洞だろう」
 だがフジは険しい表情をさせ、「どういうことだ」と訊いてきた。
「我らは天上からこのワカメスの海に落下し、その際彼らと接触して映像の世界に没入していた。ここはそこから抜け出した本来の落下地点だ。落下中の足掻きと海藻の弾力のお陰で奇跡的にほぼ無傷で生存できた。勢い余って相当潜ってしまったようではあるが」
 すぐに反応はなかったが、口を挟まずに待った。険しい表情の中に苦痛が垣間見えた。接触によるストレスでダメージを受けているのは間違いないだろう。
「お前は……テットなのか」
テット純正のあいつは死んだ」
 正直に答えると、フジの瞳孔が揺らいだ。あえてそれを意に介すことはしなかった。
「貴様も薄々は感付いている筈だ」
「理解が追い付かない」
 会話が途切れる。事実を述べたことで却ってフジに追い打ちをかけてしまったか。このまま放っておくのは拙いかもしれない。
「差し支えなければ接触を通して伝達したい。その方がより正確に伝わる。先程のように世界に没入することはないから、そこは安心してほしい」
 次いでテットはワカメスとなった腕を差し出し、「触れてくれ」とだけ言った。躊躇いのような間が少しあったが、暫くしてフジはそれに触れた。テットはそれを確認すると見せるべき情報を選び流し込んだ。
 それは、ワカメスの物語。
 ワカメス達は接触を通して意思疎通を行う生き物だった。人間が言葉でコミュニケーションを行うように、彼らにとってはそれが至極当たり前のことだった。
 接触による意思疎通は言語コミュニケーションと比べて、より強く相手に働きかける力がある。
 一方でいくつかの欠点もあった。
 一つは接触による情報は強制流入すること。ワカメスにできることは接触時に流入する情報を選ぶことだけだ。
 そしてもう一つは特定の条件下で接触を行うと、情報が大量流入しストレスで絶命することだ。その条件も個体によって種々様々。例えば一列に10体が隙間なく接触すると絶命するテトリス型や、同色4体が接触すると絶命するぷよぷよ型等が存在する。
 とはいえそのお陰で昔は圧倒的な生命力を持つワカメスが適正な個体数に収まっていたことも事実ではあった。
 だが進化の過程がそれを許す筈もない。時代と共にワカメスは死の条件を複雑化させていった。例えば一列に同色3体以上を接触させつつ30体が隙間なく接触すると絶命するテトリス×3+テトリスフラッシュ型や、同色4体を2×2に接触させつつその2×2が8つ接触すると絶命するぷよぷよ×2+ルミネス型等が存在する。
 必然的にワカメス達は死に辛くなっていった。そうして増殖を続けて行き着いたのがワカメスの海だった。
 その結果起こったのが接触の連鎖。ワカメス達は連帯により情報の海に投げ出され、発展的に高度な知能を取得していった。まるで人類の大衆社会やSNSを再現しているかのように。だが彼らはすぐに目の当たりにすることになる。
「連帯がこんなにもストレスだったなんて」
「人間はよくこのストレスに耐えているものだ」
「我々の手で人間を救ってやろう。どの道生態系を守る必要もある」
 そうして創り上げられたのが巨藻、そしてそれぞれの街が隔離され連帯の薄れた天上の地だった。
 ワカメスの物語は終幕した。
 テットが情報を流し終えても、フジの表情が楽になることはなかった。
「それじゃあ」フジが口を開く。「俺達のやってきた活動は間違っていたのか……?」
「全否定はしたくない。だが我らは連帯や発展に幻想を抱きすぎた」
 その事実を突きつけられたフジは――苦しみだした。
「接触を拒絶しようとしては駄目だ。接触した上で、全てどうでもいいことだと考えて、ストレスを受け流すんだ」
 今のフジはストレスで死んでいくワカメス達と似ていた。それがテットに悪い予感を与えた。
「俺には……できない」
「戯言を言うな。でないと死ぬぞ」
 さすがの今のテットも、どこからか動揺という感情が表出した。だがそれも空しくフジは言った。
「できることなら、最期はテット普段のお前に見届けてほしかった」
 その言葉がフジの最期だった。
 テットはフジの死を、泣いた。……辛うじて涙を零すことがまだできた。
 暫くは動く気力も湧かなかった。それでも時間と共にそうした感覚は薄れていった。そうして大分時間が経過した頃、漸く頭を切り替えられる程になる。
 改めて客観的に考えてみる。残酷なことではあるが、この悲劇はある程度予想できていた。今ここにいるワカメス達は苛烈な生存競争を勝ち抜いてここまで種を残してきている。それにぽっと出の人間がそう易々と適応できる方がおかしい。このワカメスの海はドクターマリオのような名医でもお手上げのストレス地獄なのだ。
 ワカメスの海と連帯した人間の末路は、大抵はフジのように絶命するか、生き延びたとしても自我を失うかのどちらかだとされている。
 なら今の自分は何だ?
 自我を失った者は身体をワカメスに浸食される、この右腕のように。……そこがおかしい、なぜ右腕だけが。接触の連鎖を行使してみても類似例を拾うことはできない。完全になくはないとは思うが、珍しい事例であることに間違いはなさそうだ。
「まあ、いい」
 問題はこれからのこと、これからどうするかだ。
 テットの中にはまだ天上へ帰還したい思いが残っていた。そのためには地上に何本かある巨藻の根から水脈に入りそこから昇る必要があった。だが数日でそれに到達することは難しいだろう。それまでに天上へ帰還したい思いが消えていなければいいが。いやそれどころか生きている保証すらない。
 今はとにかく走るしかない。テットは再び動き出すことのないフジの傍を離れて、サーフボードに乗り込んだ。
 最後にフジの遺体を目に焼き付ける。遺体はワカメスに浸食されていなくて、とても綺麗だった。
「すまなかった」
 それだけ言うと、テットはエンジンを駆動させて、発進していった。

 最初の比較的広めの空洞を抜けると、一変して空間は狭い通路へと変容した。それでもレゴのような人工的な趣があり、行き止まりになることがないのは不幸中の幸いだ。もしかしたら一応この空間にも移動の概念があるのかもしれない。
 だが走り始めて間もなくしてサーフボードの下船を余儀なくされた。通路が天上の地下道のように険しい足場に変わったためだ。
 こんなことで本当に巨藻の根に辿り着けるのか、そんな絶望が頭をよぎる。何よりじりじりと生命を削られている感覚があった。これは歩行による体力の消耗とは明らかに違う。ワカメスの海との連帯による過度なストレス、それがテットを蝕んでいた。
 それでも足場の悪い道を歩き続けていると、突然道が開けて広い空間に出た。そこは最初の空間と比べるとやや狭いが、複雑な地形はないので、その分広く感じるくらいだった。
「待っていたぞ」
 突然空洞に声が木霊した。それは聞き間違いではない、トゥの声だ。それを認識したのとほぼ同時に、サーフボードを抱える彼女は姿を現した。
 だが容姿は大分変っていた、テットの浸食が腕だけなのに対して、トゥは全身をワカメスに浸食されていた。海藻の弾力があったとはいえ、直接落下したのも悪かったのかもしれない。あれでは自我は失っているだろう。
 ……いや違う、だとしたら自分の前に姿を現す必要がない。
「貴様の中にはまだ僅かにトゥがいるのか」
「ああ、だが残っているのは父親を殺した貴様への復讐心だけ」
 それはあまりにも悲しい事実だった。それが最後の自我だとすれば、自分が彼女を殺しても、彼女が自分を殺しても、トゥが死ぬ未来に一切の変化はない、そういっているも同然だった。そして彼女は今、好戦的な目を向けている。
 テットは惑った。復讐心だけとはいえ、それは確かにトゥの自我。殺し合いなどできる訳がないではないかと、そう思った。
「――寄り添ってんじゃねえ」
 そんな言葉が不意に頭を駆けた。そして理解する、当事者の真の思いを、たった一つのやるべきことを。
「トゥの自我がある内に逝かせてやる」
「理解が早くて助かる」
 嵐の前の静けさが2人の間を通過した。
「トゥ……いや郵便屋トゥ、我が最高のショーを、閉幕させよう」
 直後、2つのサーフボードが唸った。そのまま両者の距離が接近。
 そこでトゥが日本刀を構えた。本来のトゥは日本刀になど触れたこともない。つまりは接触によって得た力だ。
「あれは厄介だな」
 右旋回、斬撃のリスクを回避。トゥも遅れて左旋回。状況が逃げるテットとそれを追うトゥという構図に変化。互いのスピードは拮抗している。
 逃げるだけでは勝機はない。テットはランチャーを取り出し、発射した。
 爆破、だがトゥはサーフボードを自在に操りそれを躱す。更にその隙を突いて、今度は本来のトゥの武器であるランチャーを発射。
 直近で舞い乱れる爆音と煙、テットはぎりぎりのところで直撃を回避。だが目と耳を封じられたその一瞬の間に、トゥがテットの真横へと一気に躍り出る。そのまま今度は2機の横の距離が縮まり出す。
「しまった」
 爆撃と斬撃がほぼ同時に放たれた。
 直後に肩から胴体にかけてを鋭い痛みが襲う。だが幸い傷は浅かった。一方のトゥは右腕が吹っ飛んでいた。
 勝負あった、そう思った。
 テットはサーフボードを止め、とどめの一発を放とうとする。だが――
 トゥの腕が復活した。
 今何が起こった。テットは動揺を隠せない。するとトゥが口を開いた。
「傷口をワカメスの海に接触させれば、腕くらい何度でも復活させられる。ワカメスを完全に受け入れられず、情報にも辿り着けない貴様には出来ないことだ」
 戦いは振り出しに戻った。いや斬撃を受けた分、寧ろ後退したか。
 テットが再度サーフボードを駆動させると、トゥもそれに続いた。テットは再び逃げる自分と追う彼女の構図に持ち込む。
 ランチャーを放っても恐らくまた躱される、ならばどうする。
「逃げ回るだけか?」
 痺れを切らしたトゥがランチャーを放つ。テットは爆破による隙も作らないよう的確にそれを躱す。
 と、目の前に壁が現れた。広いといってもサーフボードでは端から端まであっという間。上手く軌道を考えなければ相手に致命的な隙を与えることになる。
「いや、待て」
 テットはゆっくりと旋回を開始する。だがそれよりも早く壁が迫る。その時、テットは跳んだ。
 壁走り……ではない、壁には落ち物力が働いていて、サーフボードでも高度な技術を駆使すれば、90度差の壁から壁に移行可能。テットはそれを利用した。
「貴様に出来て、俺に出来ないと思うか」
 トゥもそれを追おうとする。だがテットはその瞬間を待っていた。
 ランチャーを発射。がトゥはそれに逸早く気付き、回旋を始める。
 だが弾は2つの落ち物力に引っ張られ、複雑な挙動を見せる。
「なっ」
 爆鳴と彼女の悲鳴が重なった。
「まだだ」
 テットはすぐに元の面へと戻り、サーフボードの方角を爆発の発生源へと照準した。
 ランチャーを再度発射。今度は爆音だけが響いた。
「これで終わりだ」
 最後にサーフボードをまだ消えぬ煙の中に――ダイブ!
 一瞬のとても嫌な感触がハンドル越しに伝わると同時に、大量のワカメスと、僅かな肉片が、爆ぜた。
 テットはサーフボードを止めて、今突っ切った位置を確認するために振り返る。煙が晴れるとそこにはワカメス以外の生命は存在しなかった。
 最高のショーが緞帳を下ろした。
 終戦を理解すると、面白い程にするすると身体の力が抜けていった。エンジンを止め、そのままテットは床に身を投げ出す。
 清々しい勝利などではなかった。手遅れだったとはいえ、この手で仲間を殺めたのだ。死に際に正気を取り戻すなんてロマンチックなことも起こらない、ただただ後味の悪い終焉だった。
 テットは再び独りになった。あの日あの場所から落ちた生き残りはもう自分だけ。

 そうして戦いの余韻が覚め始めた頃、テットはあることを悟る。
「我ももうすぐ……死ぬのか」
 生命が極限まで削られていた。
 これでは巨藻の根に辿り着くことはできそうにない。されど巨藻の根に辿り着かない限り、ワカメスの海との連帯から、このストレスから解放されることはない。状況は八方塞がり。
 だが正直、よくここまで自我を保って生き延びているなとも思っていた。
 ワカメスの海と接触した大抵の人間は、フジのように連帯を受容できず肉体的に死ぬか、トゥのように連帯を受容して精神的に死ぬか、そのどちらか。だがテットは連帯と適正な距離を保ち抗い続けている。無論今の自分は最早純正とは程遠い存在だが、それでもトゥのように完全に自我を失ってまではいない。
 ならば何がここまでそうさせている? 考えても分からない。
「――郵便屋テット」
 頭の中にそんなフレーズが入り込んできた。テットはその言葉の意味を瞬く間に身体へと馴染ませる。そうしてなぜ自分が未だに生きているのかを理解する。
「まだ、やるべきことが、残っていたな」
 テットは立ち上がった。体調は良くもないが、悪くもなかった。
 そうしてサーフボードを駆動させようとした、その時だった。
 正方形の斬撃が、双眸に映り込んだ。
「あれは……まさか」
 それはトゥの最期の足掻きだったのかもしれない。正方形の斬撃は直後に爆ぜ、直後周囲のいくらかのワカメス達が大量にふっと絶命した。この剣技は――Two Dotsか。
 ワカメスは確かに進化によって接触による死に強くなっていった。でなければこの常に連帯している状態のワカメスの海で生き残ることなど不可能。だがそこには盲点があった。彼らは圧倒的な生命力を誇るとはいえ所詮は生物、当然接触以外の死因もある。そして接触ではない死に対しては実は然程強くなってはいなかった。そんな中で放たれた彼女の死に際の斬撃はワカメス達を確実に死に追いやった。
 それによってワカメスの海は、まるで潮風に吹かれる本当の蒼い海のように流動を開始させた。大量死によって配置が大幅に変わったことで、ワカメス達は死に辛い新たな安置を探し求めて移動し合っているのだ。
 この場に留まっていては拙い。テットはサーフボードを駆動させ、走り出した。
 だがそこから離れても大移動の波は歪な同心円を描きながら外へ外へと波及していく。
 空洞を抜けて通路に出た。幸いサーフボードを走らせることのできる道だった。だが振り返ると波はすぐ後ろにまで迫っていた。更にその後ろは、まるで隧道が寿命を迎えたかように崩落していた。巻き込まれれば命の保証はない。
「逃げ切れない」
 サーフボードはとうとう波に乗り上げる。次いで前方までもが蠢き始めた。
 気付けばテットは波の作る空間、チューブの中を走っていた。だがそこはグリーンルームならぬサイケデリックルーム。蠢く色の氾濫は、美しさも妖艶さも持たず、ただただ眼を不快に刺激させるのみ。
 そんな中に強い白が瞳に移り込んだ。あれはワカメスの纏う色ではなかった。
「出口だ」
 テットは走った。サーフボードを唸らせた。
 出口の前は上り坂になっていた。光が強くてその先は見えないが、スピードを緩める余裕はない。テットは突っ切った。
 そして――外に出た。
 心地の良いそよ風と雲一つない青空がテットを出迎えた。
 時がスローモーションになるような感覚があった。
 テットはジャンプ台から放たれたかの如く、サーフボードが空高く跳んでいることを理解した。そして着地と同時に荒ぶるワカメスの海に飲まれるであろうことも同時に理解できた。そうなれば今度こそ本当に死を迎えることも。
「ならばこの一瞬を――」どうするかは決まっていた。
「郵便屋テット、これより最後の伝達を遂行する!」
 テットは左手でハンドルを掴み、ワカメスと化した右腕を天上へと向けた。そして――
「発射っ!」
 テットの右腕が肩から引き千切られた。想像よりも根元から千切れたため、壮絶な激痛が走り、どばどばと大量の紅い液体が身体から放出した。
 それにも構わずテットは上空を見届ける。先程まで右腕だったものは個々のワカメスに分解し、シタキィで操作した落ち物力の所為により、メテオスの如く見る見る高度を上げていく。そのどれもが天上に届く手応えがあった。
 それらが誰かに読まれるのか、誰に読まれるのかは分からない。だがテットはワカメスに書き綴った、地上での出来事とワカメスを通して知った歴史を。連帯や発展が間違いならば、真実だけをただ伝えよう、その一心で。
 心残りといえば最期くらい手紙で、文章で伝達したかった。
 あとは……死ぬだけだ。
 テットの身体は上昇と停滞を終え、下降を始める。
 そして――ワカメスの海へと沈んだ。
「拝啓、ワカメスの海より天上の民へ」
 そんな一節から始まる奇妙な媒体をした便りが、郵便屋テットの最期の生きた証となった。

文字数:29457

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