エフェメラの輝き

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梗 概

エフェメラの輝き

Rの仲間はかつて「妖精の取り替え子」と呼ばれた。電磁移送能力を持ち、記憶の電気信号を新生児の脳に移植して生まれなおし続けているからだ。現代では転生など迷信と思われているからRたちは派手に生きる。最高の環境を選んで生まれ、幸運続きの生涯を送り、若いうちに死ぬことを繰り返していた。

しかしR・涼子は旅先で事故に遭い、死の直前に近くにいた胎児に乗り移ることになった。Rは礼文レイモンに生まれ変わり、自分に都合のいい環境を作ることにした。
Rは両親に干渉し、仲間も頼った。生後3ヶ月で電話を掛けた。未発達な発声器官で伝達できたのは仲間を助けるのが趣味のK・喜一郎のおかげだ。喜一郎は仲間たちにRの転生を知らせ、援助もしてくれた。
それでも成人の脳にはわずかに干渉できるだけだから、親を飼いならすのは難しかった。
父の頭脳を活発にして会社で業績をあげさせ、仲間の人脈も使って出世させた。母には宝くじを買わせ抽選機を操作して当選させた。金額が少なかったから再び当選させたところ、母はRを疑惑の目で見るようになった。
両親に充足感を与えても親との関係は悪くなった。住居がマンション最上階となり自由を奪われたので退屈しのぎに家電を悪戯し、ベランダに鳥や蛍を呼び、落雷の窒素固定によって植物を異常成長させた。始め面白がった母は異常な事態をRに結びつけ恐れるようになり、父は母子を離すためRを幼児塾に入れた。子供たちの意識は不安定で操れず異質を見抜かれ攻撃された。いじめっ子が感電事故に遭い、父もRを恐れたが、母は妊娠した。
出産間近い秋、Rは母から殺意を感じて逃げ出し、可愛がってくれる階下の老夫婦と公園に行った。公園には茸が点々と道を作っていた。茸は「妖精の輪」に続き中には仲間がいて、Rが毎晩就寝中に放電する苦悩が仲間たちを苦しめていると告げ、利用できない親は殺すべきだと言う。
決断できす老夫婦の元に戻ると、二人は幼児よりも生命力が弱いのに、恋人より自然に寄り添い穏やかな幸福を放射していた。二人とも子供の頃の夢は叶わなかったと聞き、欲望の実現だけが生命の目的だと思っているRは動揺する。
帰宅すると母が倒れており父と病院に向かうが川面が火球に覆われ橋を渡れない。それは仲間の警告の鬼火で、川に触れて消火したRは能力を両親に晒すことになった。
病院でRは本心から「生きているものを守りたい」と言う。両親から返された感情信号は愛と恐怖で、憎しみは無かった。
両親や子供たちとの和解は困難かもしれない。仲間から嫌悪も受けるだろう。けれどRは普通の人間の中で生きてみたくなった。Rは病院じゅうの新生児に希望の感情を贈った。
その晩も眠ったRは無意識に心を放電したが、街じゅうの幼児たちが覚えたばかりの生きる喜びを返し救ってくれた。街中の電飾が狂った文字を流し色彩を踊らせた。電飾には蜉蝣エフェメラが群がり、一日だけの命を尽くした。

文字数:1200

内容に関するアピール

過去世の記憶を持つ異質な子供と、支配されながらも親になってしまう平凡な人間の、互いに食い違い主客転倒しつつ変化する関係を描きます。
子供は無垢で受動的な存在とされることが多いけれど、極めて主体的に生きています。一見無力な新生児など、全力で世界征服に挑んでいるようです。とはいえ親子は等価交換の関係ではない。一番当たり前のようでいて、いくらでもねじれてしまう関係と心理を描き、他者を祝福することで不完全な人間が開放される結末に至る話にします。
作中の荒唐無稽はすべて電磁的な現象です。川一面の火も、嫌気けんき性細菌の鉄呼吸を活発化させて、生じた油膜を電気発火させる設定です。(私の強引な独創案で、現実には油量が少なく引火しません)

付記:エフェメラは役割を終えたら捨てられるチラシなどの印刷物。あるいは一日で死ぬ虫や花、特に蜉蝣カゲロウを指す。羽化した蜉蝣は消化器を持たず水も飲めない短命な体になる。

文字数:400

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エフェメラの輝き

   1

Rは生まれる前に自分の新しい名前を準備して、親に付けさせることにした。
 毎回生まれ直すたびに同じ名に固執する仲間もいるが、Rは名前にさほどこだわりはない。RはただRであれば良かった。
 Rが両親と出会ったのは全くの偶然で、そこは礼文島れぶんとうだったから、新しい名前は礼文れいもんにした。笹原礼文。それがRの、五度目の人生に贈った名前になった。

海豹アザラシが一頭、岩に寝転がっていた。
草原の木道もくどうを歩いていたRは、その海獣に気づいた瞬間、息を呑んだ。
(あれほど大きな哺乳類に気配が無いなんて)
それはありえないことだった。アザラシの紡錘形の体は砂色のぶちで岩礁の保護色になっていたから、近づくまで目が判別できなかったのは意外ではない。しかしRが生物の存在を第一に感知するのは目では無いのだ。Rが驚いたのは、自分が獣の生命電流オルゴンを受信していなかったという現象に対してだった。
 人体には全身の体表、特に鼻孔から副鼻腔にかけて電磁electromagneticwave受容体receptorが存在している。Rの仲間たちはそれを利用して電磁波を送受信する能力を持っている。だから、自分以外の生物が近くに存在するならば、まずその生命活動が放出する固有の電磁波を受け取っているはずだった。
 しかし、目の前でのんびりと体を波に洗わせるアザラシは、巨大獣らしい電気信号どころか一切の気配を伝えてこなかった。木道と岩場の距離は10メートルもない。ヒト近縁の哺乳類や大型獣であれば固有のオルゴンは明瞭で強く感じるはずなのに。
(なのに、何も感じない)
 その瞬間のアザラシはRにとって鳥肌立つ驚異で、立ちすくむRは先を歩むМを呼び止めた。
「ミハイル、」
 М・巳悠ミハイルは振り返り、(なあに?)とでも言いそうな顔をした。いかにも金のかかった服や髪は若く見せるつもりなどない選択で、体をゆらさない背筋の伸びた歩き方も堂々たる大人の男の後ろ姿だった。それなのに、肩ごしに振り返ったミハイルの表情にはあどけないような鮮やかさがあった。表情筋をくっきりと写し取る滑らかな若い皮膚。顔を見せたとたんに、四十代から二十代に変わってしまったようで、それはRの仲間たちに特有の不思議なありさまだった。
 若い体に老人の記憶を持つ不死の仲間immortal fellow、IFイフたちのありさま。
 ミハイルは無言でRの言葉を待ち受けた。二人の付き合いは細かい応答の言葉は要らない程度に長い。
「あのアザラシに、何か感じる?」
 Rが指で示したあたりに目をやったミハイルは、アザラシに気づくなり大袈裟なほど口角を持ち上げ、笑顔になった。そしてRに向き直り、
「ああいう、人間を気にしてない動物は何も送って来ないんだよ、」
 弾んだ声は一度途切れ、
「昔の生き物はそれが普通だった。覚えてない? リョーコ、さん」そう続いた。
 名前を呼ぶ声は、からかう調子だった。
Rは今、涼子りょうこという名前だ。R・涼子にМ・巳悠ミハイルが見せる表情は、唇がいかにもいたずらっぽく、わずかに反っていた。嬉しそうに、問いかけて誘う表情かお
「ああ。野生動物は、そうか」涼子の驚きは、遠い記憶へとつながって行った。「野生動物は気配を感じないんだってこと、忘れてた」
 昔、違う体で生きていた頃の遠い記憶。そこでは鳥や獣たちは人に依存せずに生きていた。そしてこちらが心を伝えた時だけ反応を返したものだった。人の家に住む犬や猫でさえ、飼われているなどと思っていなかったに違いない。愛玩される動物でさえ、まるで草原サバンナの水場でライオンがシマウマと水を飲むように、まったく違う存在として人間と場を共有していた。現在では人が住む土地の支配力は大きくなりすぎて、生き物たちは常に人間を恐れたり媚びたりしている。ネズミやカラスさえ人に向けた信号を送り続けているから、遮断しなければ常に耳鳴りを感じて生活することになる。
     はじめて生きた時、自分は亮蔵という名で、成人してからは亮左衛門だった。家には馬を飼い、自分を恐れない馬をかわいがった。良い草のある野山に分け入り、青草を喰ませた    
 その記憶は遠すぎて、涼子は幾人もの人生を重ねたRになり、はかない気持ちになって、アザラシを見やった。その静けさは心地よかった。何のざわめきもなく、何を遮断する必要もない。ミハイルのおおげさなほどの声と顔つきは、この喜びの共有を誘っていたのだと分かった。
 アザラシをみつめるRの表情はしだいにゆるみ、うっとりとため息を漏らした。
「来てよかった」
独り言のような呟きだったが、隣で柵にもたれるミハイルは言葉を返した。
「ね。ボクが旅をする理由、わかるでしょ」
その声は穏やかなものに変わっていた。柵の横木に肘をついて、宙に舞わせた指には紙巻き煙草が挟まれている。
「うん。本当に来てよかった。ありがと」
涼子はミハイルに誘われてこの島に来たのだった。
礼文島は国内最北端で人気ひとけはまばらだから、自分では来ようと思わなかっただろう。人のいない土地に行くということを、仲間イフたちは好まない。そこで体を失ったら、もう生き続けることはできないのだから。仲間の中には常に自分の次の人生を用意しているものさえいて、彼らは移動を嫌がる。しかしミハイルはおかまいなしに世界中を飛び回っていた。危険を冒す無謀な変わり者と思われているミハイルの誘いにRが応じたのは、昔馴染みだからというより、都心の梅雨を逃れたかったからだ。
 笑顔の名残を残したまま、ミハイルは唇をすぼめて煙草を咥え、口から離し、
「人を気にしてない動物は周波数が違うのかな。」潤む唇から白煙が流れた。
「周波数なんて、懐かしいな。確かに可聴域から外れてるって感じだけど」
 それは昔の言い回しだった。電気というものを人間が発見し世に広めてから、仲間たちが好んで使った言葉。前世紀までの仲間たちは、生命エネルギーは雷だと信じ、自分たちは電気を司る存在なのだと信じていた。人間の生命電気を受信して聞き取り、自分の生命電気を発信して他者の心を動かし、自分の心をそっくり新生児の脳に流し込んで生き続ける。それが自分たちの力だと、仲間の誰もが信じた。前世紀の仲間たちはみずからを“人間ラジオ”だと言い合った。“妖精の取り替え子”や“鬼子”という呼ばれ方を、年長の仲間たちはひどく嫌っていて、自分たちを密かに不死インモータル仲間フェロー、IF《イフ》と自称してもいたが、人間ラジオという言い方には、電気による伝達を一般の人間たちが発見したことへの喜びが篭っていた。当時はすべての人間が自分たちと同じ電磁移送能力を持つに違いないと期待し、隠れて生き延びてきた自分たちが新時代の指導者になるのだと予測する者もいたが、その期待は空手形に終わった。いまでも仲間たちは人間の中で人間と隔絶しながらひっそりと生きていた。
 迷信と科学が混濁した時代を抜け、今では妖精の取り替え子など信じる者はいない。しかし仲間たちは、いまでも自分たちの力が何なのかわからない。電磁受容体だけでは説明のつかない能力の不確定さが嫌だから、科学に否定された昔の言葉を使いたくなるのだった。
「間違ってるとしても、他に説明できる言い方は知らないもの」
ミハイルは大げさなほど眉をそびやかし、言葉を続けた。
「とにかくボクが旅行する理由は、こういう静けさだよね。ボクたちが住めるのはうるさい場所だけだからなおさら」
煙草を挟む長い指をひらひらと動かし、いくらか灰を落としてみせた。
表情や動作の一つ一つが派手で行儀の悪い仕草もしてみせるミハイルだが、そこには隠せない古風さがあった。話し方も“ボク” と子供っぽく自称しているが、母音が脱落しない正統な発音だ。今時いまどき国内で生まれ育った日本語話者は歯擦音の多い、耳に障る発音をするものだが、ミハイルのそれはまるで昔気質に育てられたお坊ちゃんが、無理をして軽薄に振舞っているように聞こえる口跡だった。ミハイルは実際にも資産家のわがまま息子なのだが、涼子はその懐かしい古風さに安らいだ。
 風の音に波音が混じって、けれど海獣は何の音も立てない。波間にただのんびりと存在している動物。Rに向けて感情や思考のざわめきを語りかけないから、何も遮断しないで済む生き物。Rは、海豹が好きになった。
 

二人はしばらく海豹を見届け、それから木道を歩き出した。日本最北端の島の六月は、冬を終え春も梅雨も飛ばして一足飛びに夏らしく、起伏の多い土地に見知らぬ花々が広がっている。時々すれ違う観光客もゆったりと辺りの光景や乾いた空気を楽しんでいたが、その中の二人連れは、Rたちを振り返った。
「テレビカメラ無いよね?」その声はRにも聞こえた。悪意ではない。不遠慮だがRたちに聴かせるつもりのない嘆声だった。
 その後Rたちは遠ざかって聞かなかったけれど、会話はこんなふうに続いた。
「芸能人がロケやってるかと思った?」
「うん。美男美女って、あーゆーんだねー、全然人間が違う感じ」
「まあ、金持ちそうだったもんな。あっちも夫婦か?」
「うんきっと。でも、恋人とか新婚じゃなくて……、なんか冷めてるっぽい」
 そう言った女は膨らんだ腹をして、男は女の身動きを邪魔しないよう注意を払いながら寄り添っていた。全然人間が違うと言いながらうらやむ様子もなく、自分たちに満足していた。そんな二人にとって、隙無い身仕舞いの男と女は、かろうじて夫婦に見えたかもしれないが、恋人とは見えなかったのだ。二人の歩く距離は恋人にしては離れすぎ、視線が絡むこともなかったから。
 起伏する草花の丘を縫う木道は、冷ややかな風が草の匂いを運んで来る。やがてRは、青草の匂いに重なって焦げ臭い匂いが鼻を突くと感じるようになった。
 この時焦げていたのは草原では無かった。外界では無かった。炎と不完全燃焼はRの体内から発した信号だった。けれどRはすぐに気付くことができなかった。
 やがてRは少し疲れたなと思い、そしていきなり疲労の塊に叩きつけられた。体が動かない。そんなに体力が衰えていたのだろうか、ミハイルは全く速度が落ちず前を行くのに。Rはまだ気づかず、こめかみにはざわざわと悪感の前兆が集まった。
 立ち止まり、柵に手を掛け、やがてその場にくずおれた。
 Rは用心深い自分よりも不摂生で軽率なミハイルの方が肉体の衰えが早いだろうと思っていた。けれどここで、Rは今生を終えることになった。
 血管の中の小さな粒が、脳への血流を止めたのだ。

その肉体に残された時間は僅かだったから、Rは本当の死、一回きりの死を経験したかもしれない。経験と同時に消え失せたことだろう。けれどRの用心深さが幸いした。
 Rは意識を失うに任せず、受信アンテナを全方位に広げて新しい身体を探した。気力が弱まって自分を移せる範囲は狭まり、この島にいる人間にしか届きそうになかった。見つかった人間は凡庸過ぎたけれど、Rはためらわなかった。
 妊娠時期を選べなかったから、今回の体はもう意識を持っていた。
(ごめんね。)
 Rはそれを蹴飛ばして胎児の体に入った。すっぽりと。
 外からいきなりの侵入者に蹴飛ばされた胎児本来の心は、誰も知らないどこかへ。
 それからゆっくり、Rは新しい体と自分を接続した。すぐに産まれてもいいくらい体は発達していたから、操作できることはほんの少しだった。神経との同期が滑らかになることを優先させて少しずつ全身を動作確認し、最終調整を済ませた。そして最後に自分の目印を、Rからはじまる自分の新しい名前を、胎内から母の表層意識に送信して――――、切り離した。
 この世に産まれたのだ。 

 
   2

子供の名は生まれる直前に決まった。笹原礼文ささはられいもん。それは妻の翔子が考えた名だと、礼文の父になった笹原翼つばさは思っていた。

礼文島への旅行も、翔子が希望したのだった。安定期に入った翔子は出産前に旅行したいと思い立ったのである。妊娠後期までに行かなければ出産後は何年も旅行を楽しめないだろうと考えたのだ。梅雨入りの時期だったから、日本最北端の島を行き先に選んだ。さわやかな気候の島なら旅は快適で一層贅沢に感じるだろう。
 無邪気なほど簡単に翔子は旅行を計画し、それから夫に伝えた。
 翼は妻の急病や出産を心配していたから有給は使わず取っておきたかったのだが、妻の言いなりになった。できないことではなかったから。そして正直なところ、妻の肉体変化が急すぎて畏怖を感じていたから。人間を一人増やすのだから想像もつかない変化があるのは当然だと、翼は自分を納得させようとしていたができなかった。
 結婚前から楽しんできた女の体が、予想もしない膨張や変色をし続けていた。覚悟していた腹部だけでも驚愕の変化だった。風船のように膨れた腹は、皮膚にひび割れた縞模様が入り ――― 色彩は違うがスイカの皮そっくりだった―――へそが日に日に飛び出して果実のヘタそっくりに突き出した。それが胎動とともに内側からぐるぐると動くのである。翔子の体が破壊されてしまうような心細さを、翼は誰にも言えなかった。妻にも子供にも戸惑うばかりで、自分が何をしてやりたいのかさえわからなくなり、翼はひたすら妻の望む通りにしてやればいいと思うようになっていた。出産前、妻に反対したのはただ一つ、子供の名前だけだった。
 翼は地方の田舎びた街で育った。そこの住人は二種類に分かれていた。同い年の者たちは育つにつれ、次々とその二種に振り分けられ、たとえ友人であろうとも気が付くと別の種類の人間になって行った。軽率な刹那の楽しみに生きる人間と将来のために生きる人間。その二種類の違いが何かは定義できないのに、逃れようなく強固な隔たりがあって、それは善人悪人といった区分けでは無かった。翼はその中で物堅い選択をし続けて来たと思っていた。未来を見ない人間は年を取るほどに未来から見捨てられて行く。一生を視野に入れて、人生の後半に不安を持たない生き方をしたかった。翼は三十歳までにまずまずの仕事を得て、気の合う女と結婚し、今は子供を持とうとしている。それは望ましい人生だった。

翼という名前が小心翼翼の意であるとしても、当人に不満はなかっただろう。平凡で堅実であることを翼は求め続けてきたから。
 だから翼は、自分と妻の名を会社で笑われた時に穏やかではいられなかった。悪ふざけが若い者とのコミュニケーション手段だと心得ているらしい上司は、翼と翔子という夫婦の名を書類に見て、
「ツバサとショーコか。世代っていうか、ヤンキーっぽいよね」鼻で笑った。
 ショックだった。自分が避けてきたもう一方の側の人間だと言われたようで、翼は足元を掬われるような思いがした。そして妻が子供に奇抜な名を付けたがったらどうしようか? そんなことが気になりだした。凝ったつもりで人から笑われるような名を選ぶのではないか。翼の予感は的中し、妻は飛翔と書いてショーンと提案し、寿羽里安と書いてジュリアンなどと言った。
 自分の息子がジュリアン? それは翼の想像範囲を超えていたから、妻が次々と提案する名に賛同できず、日は過ぎた。
 出産予定日が迫ったある朝、いきなり翔子が言った。
「レイモンて、どうかしら」
「何? 何のこと?」それを人名とも思えなかった。
「この子の名前。礼文島の礼と文で、レイモンにしたい」
 翼は思った。文字は普通だ。普通の人名に見えるだろう。
「それなら、さ」翼は言った。
「字はそのままで、ノリフミってどう?」
「やだ。レイモンとかリチャードとかリョーザエモンとかがいい。ねえ、」
 最後の呼びかけは自分の腹に対してだった。表情には恍惚があった。
 リョーザエモンだけ毛色が違うなと翼は思い、しかし何も言わず、翔子の腹に手を当てた。なぜその時そうしたのか自分でもわからず、しかし自分の仕草が完全に相手に受け入れられているのを感じた。
 腹に耳を寄せた。翔子の腹はもう柔らかくは無い。空気を入れたてのボールのように固く張っている。
 すっかり馴染んだはずの妻の体が、今では見知らぬ慣れない物体と感じられる。女の体に触れているのに一切の性的興奮は無かった。
 けれどその一切を愛しているのだと思えた。
 もうすぐ出勤する慌ただしい時間なのに、特別なことなど何も無い時間なのに、今この時の記憶を自分は一生忘れないだろう。
「レイモンがいいんだね」口をつく声は穏やかで、どこか夢見心地だった。
「うん。レイモン」翔子は甘えるように応じた。
「じいさんになったら変かな」
「つばさお父さんだってつばさおじいさんになるでしょ。大丈夫」
「うん」
 それで決まった。父と母になる人間の脳梁には幸福感を刺激する電流が流れ、オキシトシンレベルは高まっていた。
 それはRの仕業だった。Rが懐胎されているのはこの日が最後だったから、母体と自分を切り離す仕上げに、自分の名前を自分に贈ったのだ。Rは胎児ながらわずかな電流だけは操れたから、父が体に触れてくれたのは幸いだった
 この時、胎児が二人の感情を操っていたと知ったら当人たちはどう思っただろう? 子供へのぬぐえぬ不信を感じただろうか?
 実のところそれは全くかまわないことだった。
 親が子供から幸福を贈られるのは当然のことではないか? それがどんな子であろうと。
 ひと時の幸福の記憶が一生を貫くことがある。
 記憶だけは残る。
 けれどその幸福そのものは消えてしまう。必ず。

  3 

 R≒礼文は生まれ、それから数ヶ月耐えた。耐えたといっても好きなだけ食べ、眠り、体を鍛えた。体は新しい世界を見聞するための新しい窓で、礼文はあらゆる刺激を楽しんだ。泣くことさえ大抵は面白かった。新しい体の能力を実験する楽しさで、あらゆる不如意に耐えた。
 そうして今回の親はRの基準では余りにも貧しかったから、礼文は贈り物を与えた。

そろそろ生後四ヶ月だった。それまではいくら体を動かそうにも首一つ持ち上げることさえ難しかったのが、寝返りできるようになった。一方で親たちは昼夜なく授乳や排泄の世話に追われ、憔悴しきって観察力は低下していた。
 その日、礼文は哺乳瓶をくわえたまま眠ったふりをした。母も気を失うように寝入った。礼文は自分を抱く母に安心の信号を送り、腕の外へと寝返りを打った。
 六kgの身体を制御するだけで精一杯の礼文は、まだ直接触れ合っている人間にしか干渉できなかった。けれど母に伝えた安堵がどれほどの時間母を眠らせるかは、何度か試してあった。
 多分三十分は保つだろう。離れていられるのはその時間だけだ。
 寝返りして、腕に力を込めても前には進めない。うつ伏せに膝を折り、ずるずると後ろに這った。頭が重すぎて持ち上げ続けられず、額を床にこすりつけながら、這った。
 電話の場所までたどり着き、電話がかなり低い場所にあることに感謝した。
 記憶している番号を押すのに、三回やり直した。新生児の目はひどい近眼で、自分の指を操るのも難しいのだ。
 受話器は転がしたままで発信音を聞く間、礼文はじれた。
「はい、3690です」
 中年男性の声。喜一郎だ。あせる気持ちは達成の満足に変わった。喜一郎は自分たちIFの存在を究明したいという情熱に駆られていて、自身の老化も気にせずこの何十年か仲間たちの中継ステーションを務めていた。3690という一番押しやすい番号にしているのも喜一郎の配慮だろう。
「あー。あーゆ。」
 発声練習も欠かさなかったが、声帯も思うようにはならない。
「もう少し話せますか」
 声が緊張を帯びた。
「あーゆ、もーとーたー」
「Rが戻った? そうなら一回アー、違うなら二回アーアーしてごらん」
 声はしだいに、楽しくてたまらない、からかうような調子になった。
「あー」
「うん。赤ちゃんにしては優秀だね。その発達段階では六月にリセットした、遼治君だね」
「あー」
 喜一郎は楽しそうに、芝居口調で話していた。仲間はみな享楽的なのだ。Rは、リョージという今は去っていった名前を懐かしんだ。
「じゃ、ね。電話番号から君の住所がわかった。君は自分がどこにいるか知ってる?」
「あーあー」

 父の会社は知っているが、家はどこにあるか会話に出ることが無かった。家庭内で自分の住所を話題にする機会は少ないのだ。
「じゃ、教えるよ、」
 そうしてRが訪れたことのない郊外の地名を言った。
「不意の事故だったから、仲間は気にかけている。ミハイル君が後始末はしてくれた。まだ連絡してないよな」
「あー」
「ま、他への連絡は無理だろうな。他のみんなにも言っておく。それから、君が今必要な物は何かな、」
 その後の数分で、喜一郎は提案と質問を繰り返した。Rは現在不自由なく成長していることを伝えられたし、親に資産を与える相談までできた。なにしろ住所だけで   それは平凡な郊外のベッドタウンだったのだが    仲間に同情される経済状態だとみなされたから。
 Rは喜一郎と打ち合わせ、一週間以内に計画を遂行することになった。仲間の所有する財団を使う方法だ。
 そして通話を切ってから、Rは困難に直面した。

 受話器を戻せなかったのだ。外す時はただ転がせば良かったが、戻すには掴んで持ち上げる動作が必要で、生後4ヶ月に満たない指にも腕にもその力は無かった。顎も試したが涎をつけただけだった。両足で挟むことはできそうだが高さが足りない。無理だ。
 しかもRの体力は尽きかけていた。
 受話器をそのままにしてこの場に転がっていたら?
 電話を掛けたとは思われないだろう。乳児が無目的に動いただけだと思われる。けれどここまで動けると知られては、閉じ込められるのではないか? それは嫌だった。
 電話の受話器だけが外れているのに、翔子がそれを偶然だと思ってくれるということはありえないだろう。とすればRにできるのは次善の策だった。
 まず近くのソファからクッションを引き落とし、受話器の垂れ下がる螺旋コードを腕にひっかけた。ほとんど頭を持ち上げることができない体で、それは大事業だった。
 あとじさった。
 クッションの上に電話器本体が落ち、微かな音を立てた。
 この音は次の間の母親に聞こえただろうか? Rはうつ伏せて、しばらくじっとしていた。
 何も起こらなかった。母は寝入っている。
 うつ伏せて後ろに進もうとして、もうできないとわかった。力が入らなかった。息さえ苦しい。額を床にこすりつけ、生後三ヶ月の乳児は大きく喘いだ。
 そして肺を開くために、最後の力で仰向けになった。
 ここまでやったのに、ばれてしまう。自分が動けると知れたら、サークルやベビーベッドに閉じ込められるだろう。
 Rは息を整えながら懸命に考えを巡らせた。
 寝床から電話まで数分、電話に十分足らず、そして息が落ち着くまでせいぜい二分が過ぎたというところか。母が覚醒するまで残り時間はどれほどだろう。
 Rは深呼吸しながら、
(僕はできる。僕は知っているのだから)そう自分を鼓舞していた。
 世の中の人間たちは、赤ん坊がただ受動的に生きていると思っている。けれどRは知っていた。何度も生まれ変わり、その度に記憶は薄れて行ったけれど、新生児がどれほど能動的に世界に立ち向かっているか、Rは知っていた。
 自分を圧倒する巨大な乳房に吸い付き吸引する時の、世界を征服するような高揚感。大人は乳を与えていると思うだろうが、それは欲望を満たす歓びの努力だった。Rの毎日は冒険だった。その冒険が昔に妖精の取り替え子と言われ忌み嫌われるもとになったほどの危険な不信を呼ぶものだとしても、閉じ込められることは耐えられなかった。
(僕はできる)
 Rは仰向けのまま、背中と足に力を入れた。動いた。体が進んだ。後頭部を床にこすりつけ、肩を波打たせ、わずかな背筋と足の力を使って、Rは進んだ。
 往路の何倍も時間をかけて、復路を進んだ。そして、母の眠る隣までたどり着くことができた。やり遂げた満足がRの身内を満たした。

翔子が目を覚ますと、礼文は布団の外に飛び出して寝息を立てていた。汗の浮いた額はうつぶせに寝ていたらしく赤くなっている。
(やっと寝返りできるだけなのに、礼文は元気)
 友人たちの子育てを聞く限り、礼文は望みうる最良の子供だと思えた。よく寝て、よく飲んで、ほとんど泣かない。翔子は礼文に笑いかけてやれるのが幸運なことだと知っていた。子持ちの友人たちが新生児の愚痴を始めたら恐ろしいことになるのだから。子供の夜泣きに、皮膚病に、体重が増えないことに、母親たちは責めたてられ気晴らしに会った友人に、子供を可愛いと思えないと泣き出すことさえ度々だった。子供に笑顔など向けられないに違いない。
(それでいてみんな、親の気持ちがやっとわかったって必ず言うんだ) 翔子はそれが不思議だった。
 親をねぎらうために言うならともかく、友人である自分に言うのだから本心なのだろう。子供に傷つけられて初めて親の気持ちがわかったと言う。その言葉を聞くたびに(親になんかなるものじゃないのかな) そう思ったものだった。もう自分は親になってしまったけれど。
(私は礼文に傷つけられたことなんかない。でもたしかに親はたいへん。何も気が回らなくなっちゃう)
 電話が台から落ちていた。服の裾にでも引っ掛けて気付かなかったのだろう。このところ子供に気を取られてうっかり続きだ。
 それから二ヶ月、Rは移動できない振りをした。けれど額は擦りむいてかさぶたができ、後頭部は完全に禿げた。ドーナツ枕にしたのにと両親は語り合い、外出には必ず帽子をかぶせた。

電話の翌日、礼文は作戦を開始した。翔子は礼文を連れて日用品を買いに出かけ、なぜか普段通らない経路にベビーカーを押して進み、なぜか今まで気にも止めなかった宝くじ売り場の前で止まり、なぜか買ったこともないくじを手にした。幾つかの数字を塗りつぶして窓口に出す籤で、当然礼文の生年月日の数字を塗った。
 買い物帰りには親切な中年男性に助けられた。
「お持ちしましょう。お車ですか?」
 自然なタイミングだったから、翔子は「ありがとうございます」と警戒せずに答えた。
「お子さんのお名前は? ―― ああ、レイモン君ね ―― レイモン君、アーしてごらん」
 男は荷物を抱えて、そんなことを言った。
(赤ん坊を知らないんだな、まだ答えられるはずない)翔子は思った。
「あー」
 礼文は答えた。自分を覗き込む喜一郎に。
「え、わかったみたい」翔子は驚いた。
「わかってるんですよ。レイモン君は何でもわかってるよね。何か助けて欲しいことあるかな?」
 喜一郎は目尻に笑い皺を浮かべて、心から楽しそうに   過剰なほど楽しそうに   話しかけた。
「あーあー」
 この“いいえ”は大丈夫という意味だ。礼文は任務を果たした。母に指定通りの籤を買わせた。そういう意味だった。
「いい子ですね」
「ええ、ありがとうございます。いつも機嫌がいい子なの」
 翔子は初対面の男に礼文の自慢をした。相手の調子に乗せられたのだろう。 
 車のトランクに荷物を載せ、男は手を振って去った。終始ほがらかだった。
 このあたりには珍しいほどおしゃれな人だったなと翔子は思った。髪と髭と皮膚が、丹念にグルーミングされていることがわかったし、何よりトランクに荷物を積む手指が自分よりきれいだった。あんなにきれいな指をした男の人、見たことない。服と靴も高そうで、それを楽しんで身につけている様子だった。
 きっとこのあたりの人じゃない。通りすがりのお金持ちだ。お金があるから自分を楽しんでいて、そんな人は親切なんだと翔子は思った。
 それについては当たっていた。

その宝くじの財団は、実質IFたちのものだ。ほとんどの仲間たちは資産家の家に生まれるけれど、金持ちでい続けられないこともある。礼文のような緊急事態の可能性もあるから財団は大切に保有されていた。
 信じられないような幸運を仕組むのは簡単で、なにしろ籤の当選番号を決めるのは簡単な電気じかけの機械なのだ。IFなら誰でも操れた。
 仲間の協力で、翔子は夫婦二人の生涯賃金に相当する当選金を得た。もっと時間をかければ当選金を積み上げることもできたが、平凡な人間には十分な額だ。
 親子三人の生活は変わった。

   

 宝くじが当選してから、翔子は育児休暇を取っていた会社を辞めた。自分が積み上げてきたものが断ち切られることに痛みは感じたが、給料を貰う必要がないのに勤めを続けられる自身は無かった。これから一生専業主婦としたら、自分はどんな人間関係を築けるのだろう。恵まれた立場なのに虚しかった。高校の同級生に「子供が生まれたんだって? 会いたい」そんなことを言われ、互いの子供を見せ合おうとする者は今までもいたから同意すれば子供用品のセールスだった。
「翔子は本当に運がいいね」その言葉にひねくれた妬みはなかったけれど、
「みんな、そう言う。」翔子は視線を外した。
みんなに言われすぎて平常心で聞けないのだ。その通りだから。自分には運しかないように思うから。
 籤が当たったことは誰にも言わなかったけれど、半年も経たずに、その噂は広まっていた。もう引っ越すしかないと夫婦で語っている。
「翔子、普段の行いがいいんだよ」
 親切で言い添えたのだとわかる。でも取ってつけたような、うわすべりな言葉だ。
「でね、この服なんだけど、気に入ったら試着してくれない? アタシ、子供服のネットブランド立ち上げたとこなの」
 金持ちになって暇そうな翔子に売り込みに来ただけだろうけれど、高校時代の記憶から翔子は礼文に服を着せた。機嫌よく遊んでいる礼文をあやしながら、翔子は子供服を試着させた。そして、相手の望みは服を一着売るよりもっと大きいのだと知らされた。
    現在は無店舗だがショールームを兼ねた店を持ちたい。一部でもいいから出資者になって、できればオーナーになってくれないか。そんな虫のいい願いを、けれど懸命に語られた。
 この子は高校時代顔が広かったから、きっと同級生の子持ちの子が次々やって来て楽しいかもと思いながら、でもあの頃の関係は失われたのだと思った。
「みんないろんな方向に進むんだね。高校生の頃はみんないっしょだったけど、」
 翔子は感傷的になって、相手のセールストークを遮った。
 相手はその言葉に何度か瞬きして、
「もう高校生じゃないもの」そう言った。「これから先の未来なんかわかんないけど、このまま何もやらないでおばさんになっておばあさんになってって、嫌じゃない?」
 それは翔子の胸を刺した。高校生のころは、一旦大人になったら、もう一生は決まって落ち着くものだと思ってた。大人は落ち着き払って生きていると思っていたのに。
「うん。ほんとに未来なんて全然わからないね」

礼文は何着か着せ替えをさせられても機嫌よく、むずからない。脱がせた服を畳もうとすると、
「お客様にはさせられないから」そう遮るので翔子はお茶を入れ替えに台所に下がり、戻った。
 かつての同級生は荷物を片付けており、湯呑を受け取ると、
「年取るのもさ、」先程までとは違う口調になった。
「年取るのって、全然悪くないと思うの。悪いこともあるけどさ」
 その荒っぽい口調は高校時代が甦ったようで、翔子目の前の人がきびきびとした快活な子で、誰にも親切だったと思い出した。
「うん」翔子はこの人と会って良かったと思った。「あのね、ネットショップのアドレス教えて」
 同級生は名刺を置いていった。長話をしたのに、結局強く売り込みはしなかった。
「お金があるから困ることも、あるんだねえ。レイモン」
 それから、
「もっとあったら良かったのかな」と言った。ふざけて。
 礼文はブロック玩具をかじっていた。「0才からずっと遊べる知育おもちゃ」で、もうすぐ一歳になる礼文なら楽につかめる。ブロックには数字が書かれてあり、一つ一つ仕掛けがあってスナップボタンで連結もできるのだが、スナップはまだ礼文にはくっつけることができない様子だ。ただかじったり振り回したりして偶然に外せるだけだ。
 次の朝、翔子は洗濯機から洗濯物を取り出して干そうとし、驚いた。蓋を開けた途端に目に飛び込んだのは数字の列だった。ブロック玩具が六つ、横一列に繋がっていた。
 六つの数字の列。おもちゃに気づかず洗濯機に入れてしまったらしい。水流でスナップがくっついたのだろう。礼文にはまだ繋げられないし、つながっていたらかさばって洗濯機に入れる時に気づくだろう。
(ただの偶然。きっと)
 その日翔子は大して用もないのに買い物に行き、何の用もないはずの宝くじ売り場に足を止め、なぜかまた番号籤のカードを手に取った。
 ブロックと同じ数列を塗りつぶした。自分がなぜそうするのかわからなくて、
「ふざけているだけ」翔子はベビーカーに向かって言った。
 けれどまた、当選してしまった。
 翔子は未来に復讐されている気になった。自分を操るものがいるように感じ、それから、一番愛している子供が怖くなった。

翔子と翼は子供が生まれて以来、人生観を塗り替える経験のしどおしになった。
 翼は生まれついた地域社会の中で、よりましな方を選択し続けて成人したと思っていたが、それは自分の属する場を出るものではなかった。礼文が生まれて以来、夫婦には降って沸いたような幸運が続き、それは二人を思いもよらない世界へと導いた。
 翼にとっては宝くじよりも、社内コンペグランプリを取ったことが大きかった。支社採用だった自分が本社企画部に配属されるという異例の人事を受けたのだ。
 どこのメーカーも社員の定着に悩んでいるが給与レベルを引き上げたくない。しかし内部留保は潤沢であり、地方の製造部社員は常に不満を抱いている。そこまでは誰でも知っていることだ。翼は製造コストの削減ばかりに向けられていた設備投資を、製造部員の意欲改善に繋げる方策として提案し、全支社で採用されたのだった。
 本来、物を作ることは楽しいものだ。しかし会社組織は製造コストを下げることだけを主眼としてきたから、製造部員は勤務そのものに対して喜びを持てなくなっている。自分が作ったという満足が失われているのだが、その部分は現場外の管理職にはわからなかったのだろう。
 翼の改善案の一つは作業状況の改善で、動線を徹底的にモニタリングすることで作業者の負担を減らしどの製造現場でも多い腰痛退職を減らしたと評価されたが、実のところ座ってできる労作に椅子を導入しただけのことだった。なぜか全作業を立って行う慣習になっていたのを改めただけだ。
 更に、各支社に一台配備され受付業務を期待されていた人工知能搭載のマスコットロボットを利用したことが評価された。鳴り物入りで多くの企業にリースされたAIロボットは、多くの企業と同じく一年もしないうちに無用の長物に成り下がっていた。現場の人間たちははじめ面白がり、やがて予定業務には使えないと分かり、リース期間中放置する流れになっていたのだが、同期のエンジニアと組んで製造現場で巡回させてみたのだ。ロボットは人の視線を受け取り、かなりの精度で人の機嫌を汲み取れる。それに応じて賞賛、励まし、注意といった単純な言葉をかけさせたのだが、これが良かった。正規・非正規・パート・請負と、雑多な雇用が混じっている製造現場は互の会話が成立しにくい。そんな中、単純な言葉で話しかけてくる人間でない存在は、人間同士の会話と交流を促した。
 リース契約期間遊ばせておくのももったいないという発想だったのに、働く者たちの交流が促進されたことで労働シフトを組むことが容易になり、離職率まで減ったとされSEと共に社長賞を受けた。その成り行きは異常な幸運としか思えなかった。
「出世は運のものだから」そう言われることが続き、それに「運も実力のうち」と付け加えられた。
 本社勤務となった翼は、子育てにほとんど参加できなくなったし、育休明けから復職するつもりだった翔子は宝くじを当ててすぐ退職した。
 二人とも、何かばかばかしい幸運に弄ばれている気がして、しかしその中で自分は努力をしたから幸運が舞い込んだのだと自分を納得させていた。そうしなければ自分の人生が無意味に見えてしまう。
 幸運のおかげで人生に失望するなど馬鹿げている。
 なにより礼文を幸福にするためにその運を使うべきだろうという点では二人の意見は一致していた。
 初め、籤の当選金は礼文のために使おうと翔子は言い、九桁の数字が並ぶ預金に手を付けなかった。それなのに、二回目が当選するなり、翔子は言った。
「このお金は残しておくの、いや。怖い」
 確かに気味が悪かった。二回当選させたのは妻なのだが、翼は翔子を気味悪く感じることは無かった。
今では翔子よりも愛していると感じる礼文が、翼には気味悪かった。
 同じ不安を翔子も抱いていると感じるのに、それを口にすることはできなかった。礼文は手がかからないいい子で、夜はぐっすり眠る。けれど翔子が泣いていることがあるのを翼は知っていた。深夜に声を殺して泣く妻に、まさか「おれも礼文が気味悪い」とは言えなかった。
 二度目の当選金をすべて使った引越し先は、高層住宅の最上階になった。
 広いベランダと屋上がある。階下には共用施設と商業施設があり、道を渡れば公園が広がる。翔子と翼は一生住むどころか足を向けることもなかっただろう場所に住むことになった。
 快適とか贅沢とか、確かに金で買えるものは揃っていた。広いベランダは耐荷重があり、庭園や小型のプールを作ることも可能だった。
 翔子はそのマンションで、夢のような生活をしようかと考えた。その生活を楽しめば、礼文を怖いなどと感じることはなくなるだろう。自分の過去を失った心細さや不安を大切な子供に向けちゃいけない。
 自分たちの身の上に降ってきたのはただの偶然や幸運であるだけで、それを恐れるなんて礼文に対してひどいことだ。翔子はそう思い、努力した。
 ことごとく失敗した。

   5

一歳からそのマンションの最上階に住んだ礼文は、その場所がとても贅沢でとても不自由だと気づいた。その場所は電波状態がすばらしかった。礼文の電磁波受容体は、過去数十年で一番クリアに働いていると礼文は自覚した。一方不自由さは、例えば調度が高級になり洗練されて悪戯がばれ易いということだった。天井近い戸棚に小さな指の跡がついたり、PCデスクの下が毛足の長い絨毯で、礼文の足ほどの窪み跡が残っていたりしたらどうだろう? 子供を子供として愛している善良な両親といえど、それを息子と結び付けないでいられるわけはなかった。子供は思いもよらないいたずらをしでかすといっても、それで済むことではなかった。住まいをこっそり出ようとすればセキュリティがしっかりしていたから、ハイハイでエレベーターに乗れたのは一度だけだった。翔子が眠っている間にあちこち探検したかったのにすぐ保護され、もう繰り返せなかったから、礼文の遊び場は、主にベランダになった。
 礼文は父と母に懸命に働きかけ、ベランダに土を入れさせ、小さな水場も作らせた。外出するたびに花や植物が好きなのだと両親にアピールしたのだ。花を指差して笑い、土に触れては笑い、けれど泥んこまみれになるような面倒は一切掛けなかった。礼文を愛そうとしている両親はそれに応えてやろうとしていたから、言葉を話してはいけない一歳の内にベランダには土が敷かれ、草花が植えられた。礼文島にあったデリケートな花をつける野草の数々も植えられた。
 礼文は雷を使って土中に窒素を固定させ、鳥を呼んで種を集め、発芽して根が張るまで適度に小規模雨を降らせて、小さな樹木を芽生えさせた。
 そのベランダは礼文にとって愉悦の実験場だった。ピークは肉食鳥を使って、モグラを取り寄せた時だ。モグラにとって土が浅くはあったが、ミミズとモグラは仲良く追いかけっこし、モグラは翼にも翔子にも見つからなかったから、礼文だけがそれを愛した。
 二歳近くなるにつれ、礼文は会話が再開できることを喜んだ。単語から二語文へ、そして複雑な要求を伝える構文が使えることを礼文は喜んだ。単純な感情なら電磁的に伝えることはできる。礼文は自分を育ててくれる翔子と翼に感謝していたし、自分が化け物であることをしだいに確信しながらも賢明に振る舞おうとする二人を憐れみながら尊敬もしていたから、安心や愛情の信号をいつも送っていた。彼らが幸福でいてくれることが礼文の望みだった。
 もっともそれは失敗した。
 礼文は自分の喜びを満たすことを両親の幸福より優先させたから。
 二歳終わりの春、幼虫を鳥に集めさせ水場に入れて、礼文は蛍を大量羽化させた。蛍の飼育は水質安定が鍵だからイオンを発生させて不純物は沈殿させ、餌のプランクトンは増やすという調整は手間がかかったが楽しかった。

三歳の誕生日、それは梅雨明けで、夜になるのは遅かった。出世した翼はそれでも礼文が起きている内に帰宅しようとしていたから、ちょうどいい時間になった。
 バースディケーキを三人は囲んで、三本のロウソクに火が灯された。
「明かり消して」礼文は言い、翼が証明を切った。
 ふーっ、三つの火は小さな子供の頼りない息でも消えた。
 暗くなった室内から、ベランダに通じるサッシ窓が見える。そこにふわふわと、いくつもいくつもの小さな光点が点滅しながら舞っていた。
「あれ、」
声に出したのは翼だったが、翔子も、そして当然礼文も気づいていた。
「蛍。いっぱいいる」
 翼は立ち上がってサッシ窓を開いた。
 一匹、二匹、三、四、それから十数匹。
 蛍はゆったりと浮かぶように飛ぶ。暗闇でその蛍光は目に残像を残す。それが二十匹ほど。
 それは都心の高層ビルの最上階で、あるはずのない光景だった。蛍はあるものは翔子の髪に停まり、あるものは礼文の指に乗った。ゆったりと点滅しながら、蛍たちは礼文の三歳を祝ってくれた。
 しかしそれは翔子にとって、中枢を刺激され体液中のオキシトシン濃度が高まっていようとも、耐え難い異常だった。
「なんで、なんでこんなことが起こるの」
 翔子は荒く息をした。涙が頬を伝わった。
「いや、もしかしら他の階の人が飼育の専門家だとか」
翼の声もまた、オキシトシンでごまかせない不安をにじませていた。
「そんな人、このマンションに住んでない」翔子の声は震えていた。「知ってるもの。うちだけ、こんな林みたいなベランダ。二年足らずなのに」
 震えながらうつむき幾滴かの涙を食卓にこぼした翔子は、唇を噛んで顔を上げると、礼文に言った。
「なんで?」
 三歳の子供に向ける質問ではなかった。
 そして礼文の反応もまた、三歳の限度を超えてしまった。
「お母さん、でもこれきれいでしょう」
そう言って礼文は席を立った。子供用のハイチェアーから滑り降り、
「おやすみなさい」
 そう言って自室に入った。
 十年後だったらその反応は思春期らしい反抗心の発露と両親も受け止められたろう。しかしあどけない盛りのはずの三歳児が、酷薄な不満をこめた発言と態度。
「こ、こ、こわ、」
「もういいよ。言わなくていいよ」翼のオキシトシンはこの場でただ妻に向いた。妻の不安と自信喪失。

翌朝礼文はお行儀よく起き、
「おとうさん、おはよう。おかあさん、おはよう」にっこりと笑ってみせた。
(誰が見たって羨ましがられるいい子だ。お利口さんのいい子)両親は胃の腑に氷が落ちるような思いをした。
 そう、礼文は生まれてこの方、ずっとお利口さんの良い子だった。それは大人の要求に難なく応えられる、大人にとって都合の良い子ということなのだが、昨日まで礼文はその態度を崩したことはなかった。礼文はそれを窮屈には感じなかったのだ。初めから、子供時代はいつも擬態して、どれほど擬態しても鬼子と呼ばれ、どれほど金を稼ぎ人を養っても恐れられ、馬だけは信頼してくれると思った記憶が、礼文を捕らえて今も繰り返させるのだった。礼文は百歳の子供で、子供であることを楽しんでいた。昨日できなかったことが今日はできるようになる幼児の毎日は充実していた。
 しかし三歳はじめのこの日、両親と礼文の関係はおそれや危惧から一歩進んだものになってしまった。そこには、憎しみの種が撒かれていた。
 翼は礼文と翔子両方に向けて言った。
「礼文を幼児塾とか保育園に入れよう」
「なあに、それ」翔子はもう、礼文から顔を背けていた。
「礼文は家にいない方がいいだろ。   お外にいっぱいいたほうがいい。お前は多分   あんまりいい子にしすぎておかしくなってるんだ」
 それから翔子に向けても、
「お前も。ずっと閉じこもりっぱなしで、きっとおかしくなってるんだ。環境が変わりすぎたから、俺も、だから、」
翼は最期の言葉を言った。
「俺も、変だから、礼文はちゃんとした人に預けて、たくさん同い年の友達を作るのがいい」
 翔子は礼文を見まいと視線を彷徨さまよわせていたが、翼の言葉に光明を見た。三人全員が、環境が変わりすぎたのに閉じ込められていて、それで変になっている   その通りに違いなかった。自分は礼文を怖くて仕方ないけど、育児ノイローゼとかいうものなのに違いない。
「そうしましょう、ね。きっとおうちにいるより楽しい」
 やっと翔子は礼文の顔を見ることができた。礼文は毎日外に出られる可能性に胸踊り、頷いた。
 それから、親子三人は互いを腫れ物に触るようにぎくしゃくと関係するようになったが、しかし傍目にはすばらしい、羨ましいだけの親子に見えた。

その後も礼文にとって両親は問題だったが、もう一つ、問題が増えた。
 子供たちだ。親を憐れむことさえある礼文だが、保育園の幼児たちは恐ろしかった。
 子供の脳は個人差が大きく未発達過ぎて、正確に干渉できない。自分に好意を持つよう仕向ければ一日中べったりと追い回され手を握られるし、僅かに距離を取らせようとすれば噛み付かれた。
 そして父と母は ――― やはり礼文を恐れていた。
 仲間と通信したり、一人っきりでやってみたいこともある。礼文は三歳児にできる限りに用心深かったが欲望を我慢はしなかった。努力や忍耐は欲望に奉仕するためにあった。両親は、蛍の日のように恐ろしい思いを何度も味わうことになった。
 翼はなぜかケーキを買いたくなり、残業せずに、行ったこともない駅に降り立って知らない菓子店で土産を誂えると、妻が昼間テレビで紹介していた品だと言う。礼文と見たテレビだと。
 下の階の住人に、「レイモン君、今日はひとりじゃないのね」と言われたりする。
「偉いわねえ、ママがエントランスで待ってるって、一人で行けるんだものねえ。いっつも楽しいお話聞かせてくれて、レイモン君はほんとうにお利口さん」驚いて聞き返すと、背中にリックを背負って帽子を被った礼文が、エレベーターに一人で乗り込んでいることがよくあるのだという。
「レイモン君、何歳なんですか?」
 三歳です、と翔子が答えた時、表情があまり変わらない老人なのに、笑顔が瞬に歪んだ。
 礼文は親の心を傷つけ続けているらしかった。
 平安や慰めの信号を両親に送り続けたが、両親が自分に対して抱くものは芽吹き、育ち続けていた。
ベランダの木々は育ち、三年が過ぎる頃には礼文の腕より細いが人の身長より丈のある林になっていた。礼文は家にいるあいだ、その林にいることの方が多かった。山野草と木立ちの庭にはもう蛍ではなくトンボを育てて飛ばした。
 礼文は五歳になった。そして、その誕生日に、礼文は兄になるのだと告げられた。

母は妊娠していた。冬には兄になるのだと聞かされ、礼文は新しい家族にどんな気持ちを持てばいいかわからなかった。父は二番目の子が緩和剤になって家族が回復することを願っていたが、母の心には、やはり礼文に対する芽吹きがすっかり根を張って大樹になろうとしていると感じることが多かった。礼文は賢いいい子であり続け、翔子は優しく思いやりのある母であり続けようとしていることは嘘ではなかった。しかし、その表皮をめくれば下には愛とは違うものが満ちていた。
 きょうだいが生まれる。それが礼文の不安を増大させ、礼文は毎晩うなされた。そして十月に入り、兄弟が生まれるのも間近になったある日、礼文は人を殺しそうになり、そして殺されそうになった。

死なせていたかも知れないのは今年保育園から移った幼稚園で、一番凶暴で手がつけられない子だった。
 いつも礼文をからかい、さげすむその子に、体力にあかせて大人が見ていない場所に連れ込まれた。そこで自分に何事かをしようとするその子を、礼文は感電させてしまったのである。救急車に運ばれて命を取り留めたもののやけどを負ったというその子は、「電気のろーぷがぼくをぐるぐる巻きにして水がびしゃーっなって、ビリビリにつっこまれた」そんな説明をした。誰も理解しなかった。
 実際は、その子の足元にある電気コードを見つけた礼文が、コードを引っ張って宙に浮かせ、その子を転ばせたあと、コードをその足首にひと巻きし、コードの皮膜を歯でかじって露出させ、ひーひーと泣いて動かないから、少し離れたところにある花瓶をもって来て水を体にかけたのだ。花瓶の水には「お花長持ち」薬剤が溶けていて、それは電解質だったから、Rが露出線をコンセントに差し込んだ時、相手の体には十分すぎる衝撃を与えたはずだった。この凶行に、礼文は自分の電磁能力を何一つ使わなかった。
 自分で勝手に悪戯したとみなされたその子は二度と園に来なかったから、その怪我がどれほどだったのか礼文は知らない。更に言えば、その子の親も保育園の職員も、礼文が一緒にいたことを知っていた。むしろその子が礼文を感電させようとして自分が失敗したに違いないと判断され、礼文は幸運にも無傷で済んだ無垢な子供とみなされていたのである。
 その噂は広がってしまい、翔子の耳に入った。
 それが今日の出来事だった。
 幼稚園は昼に終わる。家に帰ると母が尋ねた。
「礼文、さっき聞いた感電のお話なんだけど、怖い目にあったの?」
 礼文は翔子を見上げた。
 大儀そうに椅子に座り、腹に手をあてて支えずにはいられない、臨月に入る母。傷つけたくなかった。
「おかあさん、僕は、」
久しぶりで母の目を見た。ほんの数年前まで全身の皮膚を触れ合わせ排泄の面倒を見てくれた人なのに、互いにその記憶を大切にしているのに、いまではこんなにもよそよそしい。この人をこれ以上傷つけたくない。
 しかし口をついて出た言葉は、
「僕は誰も怖くない。怖がらせてるだけ」
そう言ってしまった。
「礼文が、その子を感電させたの? あなたにいじわるだった子でしょ」
翔子が怯えを含んだ声で尋ねたが、礼文は答えなかった。答えなかったこと自体が、答えになった。
 礼文は幼稚園性らしくお昼寝をしたが、今までになくうなされた。一人の体では不可能なほどの悲鳴が遠くに響き、悲鳴が悲鳴を呼び、犬たちの遠吠えの連鎖のように夢の中で恐怖と苦しみが続いた。苦しみに首を絞められて息ができず、首を締めるものに電流を流した。
 !!!
 絶叫が聞こえると同時に礼文は目を覚ました。両手を引っ込めた母と目が合った。首を締めていたのは母だった。礼文は飛び起きて母の体をすり抜け、玄関に走った。
自分の名を呼ばれたかもしれない。けれど礼文は待たなかった。
 

  6

一階下の住人は、レイモンをかわいがってくれる。老夫婦といっても実のところ礼文より若いのだが、彼ら二人はいつもレイモンに親しく、これほど鷹揚に扱ってくれる人は他になかった。いきなり飛び込んだ礼文を、何の詮索もせず受け入れてくれた。
 二人は礼文にお茶を淹れてすすめた。
「渋くないのだからね」
「いただきます」
「ほんとうにレイモン君はお行儀がいい」
 先ほど挨拶もせず呼び鈴を鳴らし続けた無礼な自分に、老人たちはそんなことを言った。
「レイモン君、下の公園に行きましょう。紅葉がきれいだった」
「それはいいね、まだ陽が暖かいうちに、たくさん公園に行っておきたい、な」
 返事をしないうちにそれは決定事項となり、礼文は老人二人と公園に向かった。
「僕ね」礼文はエレベーターの中で言ってみた。
「やりたいことをやっちゃいけないみたいなの。そしたらみんな、困らせるから」
 老夫婦は顔を見合わせた。それから、
「やりたいことはねえ、できたほうが楽しいものねえ」老婦人はそう言い、
「おじいちゃんは昔、宇宙飛行士になりたかったな」そんなずれたことを言われた。
「私も。なりたかったわ。エンタープライズの爆発はショックだった」
「ああ。スペースシャトル。乗りたかったねえ」
「乗れなくて悲しくない? 今も乗りたい?」
「今も乗りたい。でも乗れなくても悲しくはないね」
「うん。宇宙飛行士になれたら嬉しかったろうが、まあ、かまわないね」
 欲望を満たすこと、その冒険以外に生きる意味なんかあるのだろうかと礼文は思った。けれど自分の相談に何一つ答えられていないのに、確かにかまわない、そんな気になった。
 公園にたどり着くと、二人は礼文にお構いなしにベンチに腰掛けた。一緒に座ろうが座るまいが構わないのだろう。礼文は好きに振る舞っていいのだと思えた。
「遊んでくるね」言うなり、ベンチから遠ざかった。
 遊具には同い年くらいの子供たちがいた。見かけない子らと見かけない親たちだが、その心に干渉する気にはなれなかったから、遊具から離れて、遊歩道を歩いた。
 そして道の端に茸が生えているのを見つけた。一本、その先に一本。
 昔は茸が仲間の通信に使われた。胞子は至る所にあるものだが、微弱電流を与えると菌糸を伸ばすのだ。雷の後に茸は良く生える。礼文は懐かしくなって、茸の道をたどった。歩道を外れ木立の中に進んでいく茸の道。それは太い木を回り込むように急に曲がって、そして ――― 終点は妖精の輪だった。茸が完全に円をなして生え、中に、女の子が立っていた。
「こんにちは」
 鮮やかな赤いマント。多分それは意図した装いで、毒キノコのように女の子は立っていた。
「はじめまして」
 仲間だった。初めて会う見知らぬ、けれど仲間だった。
「あのね、君、自分の状況がわからなくなってるでしょう」
 何のことかわからなかった。
「状況?」
「あなた、毎晩信号を垂れ流してるのよ」
 礼文には確かにわからなかった。信号とは何だろう。
「私、助けに来たの。他にも何人か協力してる」
「助け?」
 それから女の子はじれったそうに、
「君、栄養失調だよ。保育者を変えたら? 使いやすい人間に自分を育てさせなきゃ駄目じゃない。会えてよかったよ。君がもっと異常な人だったら、××みたいに(と女の子は前世紀に戦争を引き起こした仲間の名をあげた)、残念だけど処分かと思ってたよ」
 ××は権力欲にとりつかれたのだとも、自分の力で世界を改変できると誤認したのだとも言われている。仲間たちが罠にかけ捕まえて記憶を抜き、新たに管理環境で育て直したと聞いている。
 それから、礼文はこの近隣一体に眠っている間じゅう思念の放電を行っているのだと教えられた。仲間たちは安眠を妨げられ、悲鳴をあげているという。
「今は酷い鼾や歯軋りみたいなものね。でもだんだんひどくなってるから。君は今ひどい生活してるんでしょう」
「僕が、放電現象を起こしてる?」
「そうよ。範囲がどんどん広がってるみたい。人間みたいに親子ゲンカでもしてるの?」
「喧嘩じゃない」
「あのね、君の今回の環境がとても過酷なのは、みんな知ってるから。いまどき自分で親を選ばない仲間なんていないもの。もうさ、親を取り替えなさいよ」
 それは、親を殺せということだった。人間は消耗品として利用するものだから。仲間たちは妖精の取り替え子として何度も殺されてきたのだから。
「……ヤダ」
「やっぱり。情緒障害を起こしてる。新しい親の手配は簡単だよ?」
「……ヤダ」そう、ただ嫌だった。
「君ね、多分今回は育ちが悪すぎてわからなくなってるね。でもね、毎日信号の垂れ流しがひどくなってるんだからね。忘れないでよ」
 女の子は茸の輪を出た。
「今日のとこは教えたげただけ。仲間がいること忘れないでね。じゃ」
 上げた片手の指をひらひらさせて、女の子は歩み去った。そうして散策する大人を追い抜きざまに「Trick or treat ! 」と甲高い声を立てた。

礼文は落ち葉を踏みながら、老夫婦の元に戻った。次第に近づくふたりは、公園の中にいるどの幼児よりも生命力が弱く感じられた。消耗品。取り替え。
「取り替えっ子は、一人」
 不意に、見知らぬ子供の声が礼文の耳を打った。取り替えっ子はひとり。
 礼文にではなく、それは腰掛ける老人たちに向けて言った言葉だった。ベンチに座る老夫婦に子供は繰り返した。
「とりっかー、とりー。とりっこあ、とりー」これを聞き間違えたのだ。
「ああ、もう十月だものねえ。何かあったかしら」
 怪訝そうな祖父の横で、祖母は手提げを探り、飴の個包装を取り出した。
「はい、お菓子をどうぞ」
「とりっかー、とりー」
 飴を握った子供は繰り返して、遊具に走って行った。
「あら礼文。お帰り。あのね、今よその子が、ハロウィンの言葉、なんていうの? 合言葉? を言いに来たの」
 老婦人の声はしわがれて弱く、優しかった。公園の肌寒いプラスチックベンチは退屈で冷たい場所だろうに、その声はのんびりと響いた。
「ああ、ハロウィンか。この頃聞くな」
「流行りね。子供はお化けが好きだから。礼文はお化け好き?」
 老夫婦は体を寄せ合うように座っていた。恋人であれば身動きが取れないほどに寄り添うが、それとは違う自然な距離。
 いつかの、アザラシのように、ただのんびりと存在できる距離だ。
 礼文は年老いることが怖かった。仲間で老いた者など聞いたことが無かった。喜一郎でさえ、老人になる予定は無い。喜一郎はいつでも生まれ変わるための候補をリストアップして、生まれるために好ましい条件付を考えている。
「多分ね、」
 以前、喜一郎は言ったものだ。
「もうすぐ我々は人間ではなく、純粋にデータとして生きるようになり、より不死に近づく」
「それは生きてるってことになるの?」
「今と何も違わないだろ? より可能性が広がるのだ」
 多分それは不老不死の完成なのかも知れない。仲間の望む到達点なのかもしれない。
 ――― 取り替えっ子はひとり
 礼文は怖かった。近くにいると、老人の体は衰えあちこちが傷んでいることが伝わる。動くことは喜びでなく苦痛で、耳は遠く目は霞み舌は鈍り、一番愛しているはずの相手を求める情熱さえ無い。肌を重ねる強烈な快感は失われているのだろう。見知らぬ老いが礼文は恐ろしかった。
 そしてただ嫌悪でなく恐ろしいと思うことには理由があった。礼文には今までわからなかった恐ろしさの正体が今こそわかった。
「ああ、もうおうちに戻ろうね、寒そうな顔をしている」
 怯える礼文の表情は誤解された。
「温かいものを買ってあげる。ホットココア買いましょう」
 ベンチのそばの自動販売機を指さした。
「僕買う。僕に買わせて」
 礼文は普通の子の演技をしてやろうと思った。恐怖の正体はもうわかっていた。
 硬貨をもらって自販機の正面に立つと、それまで販売機の一番上で「あなたの一番はどれ? お好きなお味を選んで あったかーい味を選んで」そんな文字を流していた電光掲示の帯が色変わりした。
「あなたの人生は一度だけ? いいえ何度でも、お好きな味を選んで」
 文字はゆっくり流れた。仲間の悪戯だ。投入口に硬貨を入れ、背伸びしてボタンを押す礼文を、老夫婦は微笑んで見つめていた。
 缶ががたんと落ちると、文字の流れは再び「あったかーい」に戻った。
 マンションの最上階に戻る間、礼文はずっと混乱していた。自分の欲望するものがこんなにもわからなくなるのは初めてだった。
 エレベーターの中で三人は何も話すことなく、礼文は老夫婦の気配だけを受信していた。
 自然に動物のように寄り添って、多分病み衰えている二人。しかしその中に、礼文は見つけてしまったのだ。二人には信頼があった。穏やかに信頼を寄せ合い、弱い命いっぱいに老人たちは ――― 冒険しているのだった。

二人と別れ最上階に降りると同時に、礼文の目には玄関ドアが大きく開け放たれ、ドアストッパーで止められているのが見えた
 何かよほどのことがあったのかと礼文はそっと玄関を入った。母の憎しみが幾らかでも覚めていることを願いながら。
 リビングのソファに、翔子がぐったりと横になっていて、足元に翼がいた。翼は礼文が足音を忍ばせて戻ったのを見ると、歓声をあげた。
「助かった。翔子、礼文が戻ったよ。すぐ病院行こうね」
 母体の異常が起こり父を呼んだのに、母は礼文がいないままでは病院にいけないと言い張っていたのだった。
 かかりつけの産婦人科医院は初産の時とはまったく違う贅沢な個人医院で、いつでも引き受けてくれる潤沢な体制を敷いている。翼は電話連絡を済ませて、車に翔子と礼文を乗せた。チャイルドシートを後部席から助手席に移し替えた
「お母さんは後ろでゆっくりしてもらおう」
それは口実で、翔子の背後に礼文を置きたくなかったのだ。
 翼は、礼文がいない間、礼文は置いて行こうと翔子を説得していた。一人で留守番もできる、恐ろしいほどに“おりこうさん”なのだからと言ったのに、翔子は反対したのだった。五歳の子がたった一人、高層マンションの最上階で夜を過ごす。むごいしうちだ。たとえ礼文が今までの異常な現象のすべてを引き起こしていたのだとしても、そんな仕打ちはできないと翔子は言い張った。会って話をしなければと言っていたのに、今、翔子は礼文を認めても何も言わずうつろに車に揺られていた。
 やがて道は川に沿い、橋を渡ればすぐ産院というあたりになった。
 しかし、信号もない地点なのに前方の車が停まり、翼も停車することになった。数分過ぎても動く気配がない。
「どうしたんだ」
 自分を落ち着かせるためのことばには、妻や子に聞かせてはいけないほど不安が滲んでいた。
 対向車線には車が走って来るから通行止めにはなっていないはずだ。そう思って待ち続け、やがてわかった。対向車は自分の列の先頭から、次々と旋回して戻って行く車だと。
 この先は進めないのだ。
「お父さん、あれ」
 礼文が助手席側の窓外を示した。
 川の水面が妙に明るい。おかしい。この川はライトアップするような美しい川ではなく生活雑排水さえ流れ込む澱んだ代物なのに。
 翼はチャイルドシートに乗り出して川面を見た。
 鬼火。
 火の玉が無数に転がるように燃えている。黄味がかった炎だから目立たず気付かなかったが、橋の下の川が燃えているのだ。橋は燃えるものでないが、秋の長雨の後で水位が上がっているから橋は欄干まで炎にあぶられているようだろう。とても渡れない。
(礼文の仕業では)翼はそう思った瞬間、礼文を見てしまい、目が合ってしまった。翼の疑惑は強く礼文に伝わった。
 この異常な火災は息子が引き起こしたのではと翼は思った。妻と息子はもう何年も憎しみを増幅させあっていたではないか。息子が翔子を病院に行かせないために川を燃やしているのでは。
 そこまで思って、しかし翼は、思い直した。
(今まで礼文は、目の前では何かをしでかしたことが無い)
 助手席でチャイルドシートに押さえつけている礼文が、いったい何をできるというのだろう。それに。
 そうだ、翼はやっと思い出した。
「礼文。すまない」
 翼はチャイルドシートのバックルを外した。外すべきだと思った。
「今まで言えなかったが、お前は今までずいぶん奇妙なことをしてきたように思う。お父さんはそう思っている。だから、たった今、お父さんはお前を疑った。間違ってるよな。お父さんさ、お前がやったと思うことは全部、悪いことなんかじゃなかったって知ってたよ」
 礼文は翼を見て、鬼火を見て、それから言った。
「お父さんありがとう。電話を貸して」
 父は無言のままスマホを取り出し、息子に持たせた。礼文は末尾3690のナンバーを押した。
「喜一郎さん、今、僕の隣で川の水が燃えてる。きっと僕のせいなんだ。仲間の嫌がらせ……親切かもしれないけどね。うん、鬼火。それって、なんなの。消すことできる?」
 喜一郎は即座に教えてくれた。
「鬼火とは。懐かしいね。川の水が澱んでればできるかな。まあ沼やせいぜい湖でやるものだったがね、R君、嫌気性細菌は培養したこと、ないか」
「あ、それ」
 澱んだ水や地下から湧き出してきたばかりの酸素を含まない水に潜む嫌気性細菌は、酸素呼吸ではなく鉄呼吸をする。効率が悪い呼吸だから複製品として油を算出してしまう。電流刺激を調整し続けると、数時間で油膜が水面を覆うまでになる。
 妖精の取り替え子は泉の水を腐らすと言われたものだった。
「じゃ、電気分解で消火できるね」
「そう。お役にたったかな」
「うん。ありがとう。みんな喜一郎さんにお返ししたがってる」
「うん。知ってるよ。そう思うならこれから僕に協力してほしいものだね」
「そうする。じゃほんとにありがとう」
 礼文は父に言った。
「お父さん、チャイルドロック外して」
 父はまったく得体の知れない存在になってしまった息子に恐怖の目を注いていたが、
「対向車が来るから通行止めじゃないだろう」
 言われた通りにした。
 礼文はドアを開け川原に飛び降りた。炎で明るいのは幸いだった。水面の端までは燃えていない。近くで見れば炎は川面の隅々までは覆っていない。油は凝っているから、水だけの部分もある。その部分に、礼文は手のひらをあてた。
 水面に電流を送る。
 次々と油は水に乳沈下していく。それにつれて炎もまた消えていった。
 火が消え、川原は暗くなってしまった。路上を見上げると    、父がいた。
「つかまれるか」
「先に病院いっていいよ」
「お母さんが嫌がる」
 礼文は父に引き上げられた。そして再び助手席に戻った。
 病院では翔子を待ち受けていて、車の隣にストレッチャーが置かれ、そのまま処置室に連れて行かれた。
 父は処置室前の廊下にとどまったが、礼文は廊下を歩きだした。病院内は贅沢な作りではあったけれど、廊下中央がナースセンターで隣が新生児室ということは他の病院と変わらなかった。礼文はその小さなベットと保育器に並ぶ嬰児たちを見た。この世に生まれたばかりの彼らは、手足を蠢かせ、自分の周りに現出した無限の世界と戦っていた。それまで世界を満たしていた羊水は浮かぶ無重力とともに奪われ、腹膜を通してまぶたに届いた赤い光は無く、自分を包み込んでいた巨大な心音も無い。新生児たちは、全身の皮膚に触れる布の感触さえ捉えきれず、目は白熱灯の眩しさに戸惑い、ただ呼吸する自分自身の鼓動だけを頼りにしていた。彼らは卵から這い出した幼虫のようにむきだしの存在で、ただひとり世界に対峙し、懸命の庇護を受けていることさえ知らず、自分だけを頼りに世界を知ろうとしていた。
 彼らが虚空に向けて伸ばす手にも足にも、彼らが理解できるものは何一つない。空気さえ見知らぬ存在なのだ。それでも彼らは求め続けていた。
 求め続けていた。
 それだから、礼文は子供たちにしてやれることがあると思った。
 礼文は、アザラシを思い出し、馬を思い出し、老夫婦を思い出した。世の中には善意があり、持てる限りの心を注いでくれる存在があるのだと礼文は知っていた。
 世界には喜びがある。それを手に入れることができる。
 子供たちの空っぽの記憶中枢に、礼文は贈り物を送信した。自分の知っている良いものを、良いものが手に入るという希望を。
 病院中の子供たちと、届く限りの子供たちに。
 まだ笑いを知らない子供たちの心は鈴のようにひらめき、呼吸とともに波打つ思いは鳥のはばたきのようだった。それはあと数ヶ月したら彼らがたてる大きな笑い声に育つのだ。
 

翼が翔子の病室を出てナースセンターに足を向けた時には、礼文は廊下のソファで寝入っていた。父親は新生児室に向かい合った眠る息子を起こさず、抱き上げて運び車に乗せた。チャイルドシートのバックルを付ける間も礼文は目を覚まさなかった。病院の廊下と階段、走る車の中、そして高層住宅の最上階へ。揺られ続けながら眠り続け、礼文は自分のベットに横たえられた。
 父が運んでくれたことも、終始無言で起こそうともしなかったことも、そして布団をかけてから部屋を出る前に礼文の額と頬を撫でたことも、礼文は知らなかった。
 疲れ果てた礼文は眠り続け、やがて百歳の子供らしく記憶に襲われて呻きだした。過去に受けた憎しみと怒りが心の中に反響し増幅する恐怖に礼文はふるえ、呻きは音のない叫びとなり、その肉体が帯電できる限りの苦しみが空中に放たれた。
 仲間たちの不快が礼文の脳髄に届いた。しかし礼文には止められなかった。礼文は助けを求め、しかし仲間たちからは怒りと同情の残滓だけが送られた。自分から生まれる苦しみは強く、届く信号はあまりにも弱かったから、礼文は悪夢の中、すべてを拒まず受け取ろうとした。
 すべてを受け取ろうと受信遮断を完全に開放した。
 鈴が鳴った。
 はばたきの音がした。一つ一つは小さいのに鮮明なその音は、数限りなく礼文の全身に降り注いだ。

挨拶だった。受信を教えあった幼児たちが、感謝の挨拶を送っていた。礼文の苦しみを聞きつけ同情し、礼文を慰撫する喜びの歌を歌っていた。
 夢の中で鈴とはばたきの合唱は金の雨となり、悪夢に縛られる礼門の全身を暖かく濡らし、やがていましめは溶けて消えた。
     はじめまして。はじめまして。ありがとう。ありがとう。
     今日知ったよ。世界は無限に広くて、その中に自分がいて、それから自分だけじゃないんだ。
 礼文は自分の顔を濡らすものが街中の幼児からの甘い贈り物であり、親愛に満ちたいたずらであり、そして自分の涙だと知っていた。仲間たちの怨嗟はいつしか遠ざかり、消えていた。
 礼文が喜びの交歓を受信し増幅させたその夜、町には異変が起こっていた。
 駅で、街頭で、閉店したモールの壁面で、町じゅうの電飾が一時いちどきに消えた。街灯は点滅し、それから一度に消えた。
 一瞬だけ街中の明かりが消え、その瞬間、煌とした月だけが地上を照らした。
 しかし次の瞬間、すべての明かりが復活した。電飾の文字はおそろしい速さで流れ出し、流れる文字は意味のない狂った記号の奔流となり、そこにいる人間たちはただ唖然と見上げるしかなかった。
 広告看板の巨大パネルは映像を溶かしひたすらに、色彩を踊らせた。
 喜びの点滅を続ける電飾には、やがて川面から羽化した蜉蝣かげろうたちが飛来した。他の羽虫たちは秋冷に姿を消していたのだが、蜉蝣だけは川面の火に温められて今年最後の産卵を目指し羽化したのだった。
 群がる蜉蝣たちは一日の虫エフェメラ|で、一晩だけの命を明かりに向けて飛び、はばたきながら歓を尽くし、命を尽くした。
 電気の光が力を失う明け方、蜉蝣は川に産卵してそのまま水に落ち、目覚めた魚に食われた。しかし虫たちはあまりにも大群であったから、魚はその卵までは喰いつくせず、蜉蝣エフェメラの子は多くが捕食者から逃れおおせることになった。卵は越冬して、やがてまた蜉蝣は孵ることを約束された。

その頃、Rは半覚醒のまどろみにただよいながら夢想していた。

    自分の年下のきょうだいに、話してやろう。僕の秘密を。そのとき僕の大切な子は、きっとはばたきのような笑い声をたてる。そしてことばを語れるようになったら、今度はその子が僕に伝えてくれるだろう。僕と似た、でも自分だけの秘密の物語を。覚えたてのことばで語られるそのお話を、僕は全部はじめて聞くのに全部知っていて、そしてそれがどんなに大切だろうと全部忘れてしまうのだ。それなのに、はばたきの声が飛翔させてくれたことだけを、僕は忘れないのだ。
 いつまでも。

文字数:29223

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