ミュルラの子どもたち

印刷

梗 概

ミュルラの子どもたち

 主人公は、きょうだいに恋人を奪われた。だが、主人公はその二人を許し、きょうだいと恋人の間に生まれた子供を育てることを選んだ。これは許しの物語だ。

 リュリュとアフアは、同じ樹から生まれたきょうだい同士だ。この世界の人間は、すべて樹の幹が裂けて生まれる。二人は王国を受け継ぐべき存在として育てられている、いわば王族である。年上のリュリュは兵士たちに混じって狩りをすることを好んだが、年下のアフアは知識を学ぶことが多かった。二人が治めることになる王国は、川沿いに広がる広大な森だ。その樹々はすべて根でつながっており、親なる生命の樹、あるいは単に親と呼ばれている。

 祭りの翌日、リュリュは親から折れた枝を拾う。そして、それを一人で狩りに出かけたとき、何の気もなしに大地に突き刺した。森を離れると草原がひたすら続いているので、目印にしたら便利だろうと考えたのだ。だが、数日後にそこに戻ってみると、赤子の姿をした樹木が生えていた。

 アフアに相談すると、実際に見てみないことには、と言われ、案内することになる。驚いたことに赤子は少し育っており、何か言葉をしゃべろうとしているようにも見える。二人はこの子供を育てることを決意する。肥料をやったり、夜風を避けるための衣服を繕ったりする。リュリュはこの樹木に、ヴァンという名前を与える。

 やがて樹木は育ち、二人と同じくらいの姿になる。ヴァンの足はそのまま根に繋がっていて動けないので、二人は朝まで森での生活を語る。二人が帰るのは夜明け前だ。

 だが、そうした日々も長くは続かない。即位の日が近いとの知らせを受け、リュリュは狩りを禁じられる。アフアも遠出を禁じられたと聞く。リュリュはヴァンの身を案じるが、見張りが厳しい。やっとのことで抜け出してヴァンのところに行くと、アフアとヴァンが抱き合っていた。

 言葉を失ったリュリュにアフアは言い放つ。即位とは婚姻であり、それはすなわち、親の樹やそのひこばえと結ばれることである。私の方がヴァンへの思慕が強く、故に禁を犯してでもヴァンと結ばれたのだ。私にはその知識がある、と。

 リュリュは拘束され、即位の日まで幽閉される。アフアの裏切りと、ヴァンを奪われた悔しさで身を焦がしている。だが、突然に幽閉が解かれる。案内された先に見えたのは、ヴァンと融合してグロテスクな姿になり果てたリュリュだった。言葉を失うリュリュ。そこに、二人を育てた乳母が現れ、経緯を説明する。王位継承者は必ず双子で生まれる。一方が樹木と結ばれて一体化し、残された一人が生まれてくる子供たちを育てるのだ、と。枝を遠くまで運んで植えたくなった衝動もすべては本能のなせる業である。私たちの森もこうして生まれたのだ、と。

 リュリュは、その本能の恐ろしさと、アフアとヴァンの思い出との間で悩むが、ついには二人の間に生まれてくる子供たちを育てようと決意する。

文字数:1193

内容に関するアピール

 黄金の枝の王、というタイトルにしようかと、実は迷いました。

 さて、今回は「何かを育てる物語」が課題となりましたが、何かを育てる行為そのものが、育てているはずの主体を育ててしまうことはよくあります。子が親を育てる、とはよく言われますが、ピュグマリオンをテーマにした作品やその変奏も、実は育てる側の変化が裏テーマではないでしょうか。

 この梗概は、始めは男性が女性を育てる話でしたが、いつの間にか女性が男性を育てる話になり、最後には性別のない世界に落ち着きました。それが適度に生々しさを薄めるか、はたまたかえって異様な作品となるかが楽しみです。

 ちなみにタイトルは、父親との許されぬ恋の果てに子を宿し、ついには没薬の樹と変じた娘の名前です。ミュルラの息子がアドニスで、彼は木の幹を割いて生まれます。後にアフロディーテの恋人となり、悲劇的な死を迎えてアネモネへと姿を変えます。

文字数:385

印刷

ミュルラの子どもたち

 明け方、ナーリが死んだ。覚悟はしていたことだから、それほど動揺はしなかった。

 ナーリは私たちの森では最高齢で、王と言葉を交わしたことのある唯一の人間だ。私たちはナーリから多くのことを学んだが、すべての知識を受け継げたどうか疑ってしまうほど物知りだった。ナーリの遺骸は生命の樹の根元に埋められた。こうすることで王のもとに帰れるのだという者もいれば、再び生命の樹から生まれることができるのだという者もいる。どちらが本当の事を言っているのかはわからないが、少なくとも生命の樹の養分になることは間違いない。埋葬が始まる前に、私は生命の樹からぶら下がっていた蜜の豊かな果実をかじった。葬儀の最中にお腹を鳴らす失態はしたくない。

 生命の樹は一度に何十種類もの実をつけるが、私が手に取ったのは王族である私とアフアだけが食べることを許されている特別な実だ。まるでこの世界の明け方の太陽のように、橙色から黄金色をしている。そして、私の背中に浮かんでいる紋もその色をしている。そうアフアは教えてくれた。アフアの背中はもう少し明るい。すらりと伸びた四肢、均整の取れた全身、それは王族にふさわしい姿だ。

 王はこの森の礎を築いた。生命の樹を植え、ナーリをその守護者とした。私たち森の人間はすべてがこの樹から生まれたきょうだいであり、そのうち王族だけが次の世代に命をつなぐ。私たちは樹によって養われている。いや、樹というよりも森に、だ。ここでは生命の樹が見渡す限りどこまでも広がっているのだが、それらの樹々の根は地下で一つに繋がっている。私たちはここで果実を摘み、雨風をしのぎ、そして眠る。だから私たちは王とナーリの事績を歌い、王の不在を悲しむ。一日は歌で始まり、歌で終わる。当然のことながら、今日の歌声は悲しげだ。

 ナーリの跡を継いだのはボコフで、葬儀の音頭を取ったのもボコフだ。ナーリの肉体を埋める穴を私たちは手で掘り、私たち自身の手でナーリに土をかぶせる。最後の土をかぶせるのは私とアフアだった。私はナーリが最後に何を考えていたのかを想像しようとするがうまくいかない。そうした抽象的なことを考えるのはアフアの仕事であり、私は実用的なことにしか頭が回らない。考えることよりも手を動かすことのほうが得意だ。獣に追われているときには、どこにたどり着けば安全かのほかには、何も考えるべきではない。獣の性質について知っているのは役立つが、健康な脚がなければ意味がない。

 埋葬が終わり、私たちは散っていく。アフアは私と同じほうへ向かう。長い儀式が終わったせいだろうか、私はまだ食べ足りない気がしたので、森を貫く川で手を洗ってからもう一度果実をもぐ。そうするとアフアは私に負けまいとするかのように、二つ三つと手に取った。

「そんなに食べられるのか、アフア」

「リュリュほど食いしん坊じゃないけれどね」

 厳粛な場が終わってすぐに他愛ない言葉を交わす私たちをたしなめる者はいない。私たちは他の者と比べて背が高く、力も強い。気晴らしにほかのものを口にしないわけではないが、もっぱら他の者たちには禁じられた実ばかりを頬張っている。なぜなら、私たちのうちどちらかが、次の世代の王となるからだ。

 なぜ私たちが次の王の候補なのかはわからない。私たちが特別な樹の幹から生まれたわけではない。私とアフアは、森のおおよそ反対側で生まれている。それに、私たちが木の幹を裂いて生まれてくるときは誰もがそっくりだ。生まれたときは誰もが裸で、大きさもさほど変わらない。私たちを選んだのはナーリであり、それ以来私たちにはきれいな衣が与えられ、特別な果実で養われた。食べているうちに丈が高くなり、背中に独特の紋が浮かんでくる。他の者が食べていたとすれば、その者が王族の徴を帯びていたことだろう。あえてその禁を犯すものなどいるはずもないけれど。

 私たちの衣装は、背中の紋がはっきりと見える特別なものだ。ナーリ亡き今、どうやって私たちを選んだのかを知るすべはもはやない。私はナーリのことを考えたので、ナーリを埋めたときよりも強く、ナーリがいなくなったことを意識する。

 だからと言って、森の生活は動きを止めることはない。果樹を手入れしなければならないし、雨をしのぐ枝葉をと整える仕事もある。泉が獣に荒らされていないかを確かめなければならないし、しなやかな葉をつないで衣服を縫うものもいる。生命の樹の不思議なところは、たった一つの大きく広がった樹木であるにもかかわらず、まったく性質の異なった葉や実をつけることだ。私たちの祖先のしたことだとはわかっているけれど、では具体的にどうやったのかと聞かれれば、私にはわからない。

 食事が終わると、アフアと一緒に静かな木陰でしゃがみ込んで一緒に用を足す。私たちの足元に流れていく水はすぐに土に吸い取られていき、生命の樹木が清めてくれる。こうして排泄することでさえ、私たちの存在を確実にこの世界に刻むことであり、世界を作り返す営みなのだ、と詩人は告げる。私はアフアの総排泄孔をちらりと見てから立ち上がる。

「それじゃ、私は行ってくるから」

「うん、またね」

 私は袋に軽食として果実を何種類か詰めて立ち上がる。私の仕事は狩りであり、森の辺境を見回ることだ。私は兵士であり、斥候だ。私の足は速く、私の手を逃れる敵はいない。私の弓は遠くまで届き、眼も鋭い。

 別れ際に私はアフアを抱きしめた。アフアは嬉しそうに腰をくねらせて、体のあちこちをこすりつけてきた。私もそういう気分になりかけたが、するべきことは終わっていない。太陽が出ているさなかにそういうことをする者は少なくないし、決して悪いことではないのだが、私は先にするべきことをしないと気が済まないたちだった。だから、それは夜までお預けだった。

 

 草原で私は矢を放ち、まばたきすればかすかに見えていた獣は倒れている。私はそのそばに駆け寄ることはしない。ゆっくり近づいていって、獣の仲間がいないかどうかを確かめる。

 獣と言っても、それはたった一種類の生き物ではない。あまりにも種類が多いし、私たちはそれを形容する言葉を多く持たないから、ひとまとめにして獣と呼んでいるだけだ。細かいことにこだわるのは、アフアのような学者肌の人間だけだ。私の場合、あまりにも小さく無害なものは意識することさえない。けれども、獣は私たちの森に忍び込み、果樹園を荒し、私たちのきょうだいを殺す。まるで私たちがよその世界からやってきたのを知っているかのように。私たちもまた、それらを殺すためだけに殺している。私たちは獣の肉を消化することはできないし、毛皮は身につけるには荒すぎる。せいぜい、骨を道具に加工するくらいだ。武勲の証拠として頭蓋骨を持って帰ることもないではないが、それらは枝に掛けられたままで、顧みられることは少ない。それでも、いつもよりも大きなものを仕留めた喜びは格別で、だから私は獣を石の刃で解体する。

 獣の死骸を見つめるたびに、私はこの獣の異質さを意識する。この世界の生き物はすべて三対の足を持つ。私たちは一対足りない。これもまた、私たちがこの世界に本来属しているわけではないことを明らかにしている。森では争いは絶えて久しく、私たちはきょうだいの体を裂いたことはないが、おそらくこの獣とはまったく異なった臓腑を持っているのだろう。

 そうした物騒なことを考えつつ、草原を一人で歩いていく。他の者なら仲間を連れなければ危険だ。平均的な大きさの獣でさえ、普通なら捕らえるのは何人がかりだ。だが、私とアフアは王になりうる者だ。私たちは一歩進むたびに他の者を置き去りにする。私の弓を張るためには、多くの人間の力がいる。そして、私の矢を手入れすることは栄誉だとされている。

 見回らなければならないところは広く、私だけの手には余る。森は拡大を続けてきたとはいえ、最近はその速度も落ちてきた。それに、森を取り巻く草原ははるかに広大で、私たちはこの世界の正確な地図を持たない。大まかな地形は知っているが、私たちのような森がいくつあるかもわからない。

 よその森ははるか遠く、使節が訪れることもまれだ。やってきたとしても儀礼の交換をするのみで、後は象徴的な贈り物が行われるだけである。特に喜ばれるのが歌だ。逆に言うと、それ以外に持ってくるべきものがない。どこの森も大体同じようなものを産出するので、交易しても仕方がない。ただ、互いの森がどこまでも広がることを祈って終わる。森同士が広がりすぎて接触したらどうなるのかを気にする者もいるが、私たちがこの世界で生きているのは、この世界を森で満たすためなのだから何の問題もない。森がなければ私たちはこの世界の空気を吸うこともできず、水を飲むこともできない。この世界に樹は元来存在せず、すべて私たちが持ち込んだものだ。

 私たちはこの世界を作り変えている。だから、草原に来ると心細く、森に帰ると安らかになる。大切な人の手に抱かれているときみたいに。人間がまだ人間から生まれてきた頃のことを、私は想像する。とはいえ、人間の体内とはなんと狭く心細い場所なのだろう。樹のうろの中のほうが、よほど安全ではないだろうか。私たちの祖先が樹々から生まれることを選んだのもわかる気がした。

 草原を見回るうちに、私は遠くに一本の樹を見つけた。私は驚いた。そこには王も住人もいるとは思えなかったからだ。私にとって生命の樹は常に複数の存在であり、その周囲には人の姿があるものだった。なので、こうしてただ一本真っ直ぐに立っているのは、単純ながらも致命的な矛盾をはらんだ存在のように見えた。育ちそこなった森なのだろうか。しかし、王がいなければ生命の樹を植えることはできないはずだった。考えてみれば、私の育った森にもこうした頼りない本数の樹しかなかった時代があったはずなのだが、これは私の理解を拒んでいた。

 その姿は、まるで私を呼んでいるみたいだった。なぜなのかはわからない。私を呼んだところで、何かができるとも思えない。ただ、そうとしか言えないのだ。近寄ってみればなるほど立派に育っていて、ここで休んでいくことはできる。嵐が来なければ夜を過ごすことも可能だろう。それでも、私はためらった。

 私を不安にさせた原因の一つは、果実をつけていないことに対する違和感だろうか。だが、ほかの理由に気づいた瞬間に私は笑ってしまった。それは、この樹木がどことなく体をよじった人間の姿に似ているのだ。そうと気づけば恐れるものはない。私は自分の迷信深さを笑い、そこに身を預けた。

 しかし、途端に私は飛び上がった。樹木がうなり声を上げたのだ。人間の声にしては低すぎたが、間違いなく人の声だった。低いというか虚ろで荒々しい。ときどき不規則に甲高くもなる。まるで一度に複数の人間が叫んでいるみたいに総身の毛が逆立つ。おそるおそる後ろに回ってみると、私の顔と同じくらいの高さに顔があった。口があり、喉があり、声はそこから出ていた。私は豪胆なほうだが、さすがにこれには面喰った。両腕らしいものを空に伸ばし、両脚のようなもので踏ん張ってはいるのだが、枝の形のせいでいくつもの腕を持っているようにも見える。これは人間なのか。獣以上に不可解だ。生命の樹と人間の性質を兼ね備えたそれは、原因と結果が混在しているみたいだった。

 それでも、私はこれを邪悪なものだとは思わなかった。私の本能が、この存在は私たちの世界に属するものであると告げていたからだ。風のようなうなり声を上げ続けるこの樹木と言葉を交わすことはできなかったが、敵意は感じなかった。とはいえ、するべきことがあるわけではない。私は立ち去ろうとする。幾分は怯えていたのかもしれない。けれども、そんな私を追う目つきは、何か懇願しているみたいだった。

 私は樹に魅入られたのだろうか。私はそれに向かって明日もう一度ここに来る、と約束した。それが私の言葉を理解できたかどうかはわからない。しゃべれないのは、言葉を知らないからかもしれない。だから、むしろそれは私自身との約束だったのだろう。けれども、樹はその言葉に安堵したみたいだったし、私も樹のそんな様子にほっとした。

 

 森に戻ったのはかなり遅くなってからで、数えきれない星がはっきり見える頃だった。私はアフアにたった一本の寂しげな生命の樹のことを話そうと思ったけれど、アフアが待ちきれない様子だったので、流されるままになった。事が終わると、私は何が悲しいわけでもなく涙を流した。星明りがかすんで見えた。

 私たちの祖先はその星の向こうにいると伝えられている。その冷ややかで不変の光を見ると、天上の私たちの祖先の世界はさぞ美しかったのだろうと想像されるのだけれど、伝承によれば悲しみと争いの絶えないところだったそうだ。たとえば、その世界は大きく分けて二種類の人間がいた。私たちとは違って繁殖には互いの存在を必要としていたにもかかわらず、互いに腹を立てたり、軽蔑したり、恐れたりしていた。私たちの祖先が旅立つ頃になっても、最後まで分かり合えなかったらしい。違いはそればかりではなかった。肌の色や骨格も違っていた。そのことに悲しんだ私たちの祖先は、自分たちをほぼ一種類の存在に作り変えてから、光の船に乗ってこの大地の上に降り立ったのだという。考えられる様々な疫病に耐えられるように多少の違いは残したけれど。たとえば、消化できる物質には、人によって多少の変異がある。

 私たちは荒ぶる大地を従えるために森を育む。森は私たちとともにあり、私たちそのものだ。森は私たちの生まれ育つ場所であり、暮らす場所であり、最後に身を横たえる場所だ。私はアフアと気持ちの良いことをしたあとの、曖昧な時間の中でおおよそそんなことを思い出していた。子供の頃に習ったことだ。

 遠い星の光は、ほかにも楽しんでいる者を照らす。それは二人とは限らない。三人がいいというのもいる。もっと多くないと楽しくないという旅人のことを聞いたこともある。相手が見つからなければ大抵は誰かが構ってくれる。普段とは違う者の相手をしたからといって、腹を立てる者は少ない。一人ぼっちの人間が寂しさを埋めているだけのことだ。身体の欲求に従うのは普通のことで、いわば食事や排泄に怒っても仕方がないのと同じだ。一人でするのを笑う者はいないが、それは二人以上ですることに慣れていない子供じみたことかもしれない、などと大抵の人は考えている。私がアフアとだけこうしたことをするのを好むのは、単純に体格が近いのもその一因だろう。遠くでは、何やら夜の儀式が行われているが、それは私たちの参加する必要のないものだった。あれは何を運んでいるのだろう。考えても仕方がないが、アフアはそれにちらりと目をやった。

 アフアともう一度抱き合ってから、私は昼間に見たものを話した。

「それで、怖くなって私に相談したんだ?」

「怯えたんじゃない」

 私は幾分むっとする。

「アフアなら何か知っていると思ったからだ」

「残念ながら私にもわからない」

 アフアは記録庫にいることが多い。私たちの覚えておくべきことはそれほど多くはないのだけれど、祖先たちの知識が必要になったときにはそこで昔のことを調べる。もっとも、私たちの祖先たちは何でもかんでも知っていることが幸せだとは考えなかったらしい。私たちの祖先の暮らしていた世界については、争いの絶えない悲しいところであったとだけ記されている。敵意に満ちた誰かが祖先の世界からやってこないか心配になるが、私たちは光に乗ってこの世界にやってきたのだから、光に乗るすべを知らない連中を恐れることはないという。あの世界は滅びに瀕しており、賢人の大部分が立ち去ったのだそうだ。それでは、あそこに残されているのは愚か者だけなのだろうか。

 それはともかく、アフアが調べてもわからないのなら、誰もこのことを知る者はいないことになる。

 アフアは立ち上がる。暗闇の中の姿は美しい。背中の紋がいつもよりもきれいだ。改めて見ると、紋は少し大きくなっている。私の背中もそうなっているのだろうか。いつか全身を紋が覆うのだろうか。

「なら、調べに行くしかない」

「今から?」

「もちろん。私たちは王になるかもしれないのだから。知るべきことを恐れてはいけない」

「つまり、アフアは王になるつもり?」

「リュリュはそのつもりがない?」

「わからないんだ。王になったときに生活がどう変わるのか。私はこのまま毎日森の外を回って獣を狩り、森に帰ってくるのが幸せだ。こうしてアフアと過ごしている時間が好きだ。王になってもこの暮らしが続けられるのなら、王になるのも悪くないのかもしれない」

「そう」

「でも、それができないのなら、アフアが王になるのもいいかもしれない」

 私たちは衣を身に着けると、誰も起こさないようにそっと森を立ち去った。

 アフアと一緒に歩いている。明け方だけれど、衣を羽織ればそれほど寒くはない。この世界は極端に暑かったり寒かったりすることはまれだ。だから果実の実らない季節はない。長雨の時期はあるけれど、ほとんどが過ごしやすい気候だ。太陽も大体同じような場所から昇る。私たちは星を見ることで年月が過ぎたことを知る。アフアに言わせればこうした幸運な世界はまれで、だから私たちの祖先はここを選んだのだろう、と言う。アフアはいろいろなことを知っている。それだけ賢ければ怖がる必要のあるものなんてなさそうなのに、草原を歩くときは心なしかいつもよりも私のそばを歩いている。嬉しいというか優越感というか、そのせいで私はいつもよりも足取りが軽い。

 あの植物であり動物でもある、矛盾した存在のところにたどり着く。それは眠っているようだった。私たちが近づいてもほとんど動かない。それにしても奇妙だ。天に腕を差し伸べたまま目をつぶっていると、疲れないのだろうか、と困惑させられる。アフアは近づいて様子を見る。指先でそっと触れる。それは目を開ける。口も開くが何もしゃべれない。アフアは体のあちこちに耳を当てる。音を聞いているのだろうか。心臓があるのだろうか。それとも、水を吸い上げる音なのか。ならば食事はしないのか、では、その口は何のためにあるのか。私は混乱する。だから、賢いアフアに任せておいた方がいい気がする。

「間違いなく人間だ」

「アフアもそう思う?」

「放っておくわけにはいかない」

「どうして?」

「獣に何をされるかわからない」

 なるほどそれはもっともに思われた。今まで傷つけられてこなかったのは運が良かったのだろう。獣はこの世界の古い秩序だ。私たちを常に排除しようとしている。アフアは決断した。

「この生命の樹、一緒に守ろう」

「もちろん」

「毎日来られる?」

 できることなら、私も毎日世話をしたい。しかし、私は同じ場所ばかり見回るわけにもいかない。広大な森は私の足で歩いても、一日で一周するのは難しい。いや、できなくもないのだが、獣を見つけては倒していかなければならず、そうする時間はない。私は提案する。

「交代で世話をしよう」

「そうだね」

「それから、名前を付けたほうがいい」

「どうして」

「人間の姿をしているから」

 アフアは呆れたように見えた。確かに、森には名前なんてついていない。区別しなければいけないときは王の名前で呼ぶ。でも、よその森と交渉はほとんどないから、その必要は滅多にない。アフアは見た目だけから生命の樹を人間扱いしている私を馬鹿だと思っただろうか。でも、反対する様子はなかった。

「ヴァン、なんてどうだろう」

「……いいんじゃない」

 アフアは後ろを向いた。私の子供らしさを見るのが恥ずかしかったのだろうか。

 

 私たちは毎日ヴァンに話しかけた。それは生まれたばかりの赤子をあやすのとは違っていた。生まれつき喋れない大人に向かって話しているみたいだった。私たちは普段通りに話し、子供っぽい言い回しを避けた。それはヴァンが大きかったからかもしれない。ヴァンは私たちの言うことを理解しているかはわからなかったけれど、私が鳥を指させばそれを目で追った。日没を一緒に眺めて目を細めた。ヴァンは背後の日の出を見ようと体をねじろうとした。私は果実の名前を歌った。毎日の狩りの話をした。それが単調だと思われるときには、私が幼い頃に習い覚えたこの世界の歴史を語り聞かせた。

 私は決めた数だけ獣を仕留めると、ヴァンのところまで歩きながらどんな話をするべきかを考える習慣になった。

 森に帰るとアフアと入れ違いになることが多いので、私たちはしばらく一緒に寝ていない。星明りの中で狩りをすることだってある。それは夜目の効く王族でなければ無謀以外の何物ではない。一人ぼっちで寝ていた私に、ボコフが仲たがいをしたのか、と尋ねたので私はそれを否定した。アフアは元気かね、と尋ねるので、それはもう、と私は笑った。

 私はボコフに、アフアと共有している秘密があることをほのめかしはしたけれど、それが何かを明かすほど私は愚かではない。ボコフは首を横に振るばかりだった。私たちはヴァンに一日中語り掛け、ヴァンが眠っているときでさえも、目を離すことがなかった。

 それから、私はわざわざここで排泄をするようにもなった。獣を殺した後で、我慢しながらヴァンのところに駆け寄っていく姿は滑稽かもしれないけれど、ヴァンは生命の樹なので栄養になるはずだ。わざわざここでする意味もある。背後に警戒しなくてもいいというのはちょっといい。力が抜けるので最後まで出し切った感覚がある。アフアもそうしているのだとしたら栄養は十分なはずで、ヴァンが実をつける日も近いかもしれない。実をもぐときにヴァンが痛がらないといいのだけれど。でも、そもそもヴァンには痛みを感じることがあるのか。たとえば、ヴァンの体内に子供が宿り、樹の肌を裂いて子供が生まれるときにも、痛みは感じるのか。私はいろいろと考えはするけれど、うまく疑問を整理できず、ヴァンに尋ねても微笑みらしいものを浮かべるばかりだ。まるで新生児のようだった。私が話しかけると確かに反応するのだけれど、私の言葉をわかっているとは思えない。なのに、話しかけずにはいられない。

 私は排泄する。いつもヴァンは、私がここで何をしようとも無関心だ。そこまではいかなくても、きょとんとしていることが多い。けれど、今日のヴァンは私のことを興味深そうに眺めていた。当然だろう。生命の樹は排泄なんてしない。私たちは祖先たちと違って並んで排泄することに不快感を覚えないし、総排泄孔を見られることに羞恥や罪悪感はない。私たちが身体を衣服で覆っているのは楽しみのためであり、穏やかな気候の続くこの世界では裸体で過ごしたってかまわない。私が今の年齢の半分だった頃、見聞を広げるために遠くまで使者として派遣されたけれど、なかには人々がほとんど裸で過ごしている森もあった。大きな湖のそばに広がる森だったから、泳ぐのが好きな人たちだった。濡れた服で泳ぐのはあまり楽しいものではないから、自然とそうなったのに違いない。私もしばらく服を脱いで過ごしたけれど、こういう生活も悪くないと感じた。

 なのに、こうして凝視されると居心地が悪い。どこかに隠れたくなる。必要以上に自分の排泄行為が長く続いているように感じる。なんだか意識が遠のいていく感じで、もしかして私は恍惚としているのかと気づき、そんな自分がわからない。アフアのように論理的だったら、私のこの奇妙な気分も説明できるのだろうか。

 気づいたら私はヴァンの体をさすっていた。私はヴァンから愛撫されることを期待しながら、滑らかな木肌に体をこすりつけていた。私は生命の樹に欲情した。そしてすぐに体を痙攣させてしまった。私は立っていられず腰を下ろした。アフアが先に寝てしまったときみたいに一人でしてしまったような気恥ずかしさがある。いや、一人だろうか。樹木と抱き合っていたというか、それともヴァンと二人でしたのか。何と呼ぶのかはわからない。ただ、いつもよりもひどく汗をかいていたことは事実だ。私は自分にどんな感情を持てばいいのかわからなかった。

「ごめんね」

 よく考えれば私のしたことは歪んだことだった。確かにヴァンは、私と同じくらいの立派な体格をしている。けれども、心は生まれたばかりの赤子同然だ。赤子の体を撫でまわして快楽を得ようとすることはどう考えてもまともではない。それも、私の名付けた赤子をだ。しばらくアフアと寝ていないからって、自分がこれほど堪え性がないとは思ってもいなかった。

 けれども、そんな私に向けた声があった。

「……大丈夫だよ、リュリュ」

 私は見上げた。ヴァンが私を優しく見下ろしていた。

「気にしないで」

 それがヴァンの初めての言葉だった。だから、私はヴァンのことをとても優しい子だと思った。私は初めてヴァンに口がついている理由がわかった。そして、私はそこに私の唇を押し当てた。

 

 それからはもう、あっという間だった。

 私たちは交代でヴァンの元を訪れるという約束をしていたはずなのだが、そんなものはどこかに吹き飛んでしまった。私たちは三人で楽しんだ。ヴァンは私たちに合わせて一生懸命に体をゆすることを覚えており、いずれは歩き出すんじゃないかって私は本気で思った。それが済むと、私たちはぐったりしたまま空を眺めた。まだ太陽が出ているのに触れ合うこともあった。そうしたことは一日の義務を終えた夜にするほうがよりふさわしい、と私は思っていたはずなのに、そのことをすっかり忘れてしまった。私たちは周囲から丸見えだったけれど、その解放感は私の感じる喜びを倍増させるだけだった。こうしたことに対する罪悪感はないとはいえ、愛し合う二人組が互いに近すぎることはあまり喜ばれない。見られたり聞かれたりすることへの羞恥はないが、他人の睦言を聞くと集中できないので、あまりうるさくしないことが推奨されている。

 そういうわけで、私はこれほど大きな声を出したことはないほど叫んだ。私の心は真っ白になった。私は言葉にできない経験をした。しばらく立ち上がれなかった。それでも、落ち着くともう一度やりたいと感じるのだった。幼い頃のかけっこで、どれほど疲れてもすぐにもう一度走りたがってしまうみたいだった。私の声に驚いて、一度はこちらを向いた獣が走り去っていく一幕もあった。アフアはそのことで散々私をからかった。私はアフアをつねろうと思ったけれどそんな気力もなく、まぶしい空を見ながらぐったりしていた。何も身につけない私の体に土がついてしまったけれどそんなことはどうでもよかった。

 こんな時であっても身だしなみに気を遣うことができるアフアは偉いと思う。たとえば、ことが終わった後に排泄をするときも、どことなく優雅だ。私はヴァンに見られていたせいだろうか、アフアの総排泄孔をじっと見てしまった。どうして愛し合う時に、その部分をほかよりも念入りに触れると気持ちがいいのか、私はわからない。私たちの祖先と何か関係があるのかもしれなかった。私の視線に気づいたアフアは、何見てるの、と不思議そうに尋ねた。問いを込めた私のまなざしは、少しだけヴァンのようにアフアを恥ずかしがらせる。

 その慎み深さと賢さを少しは分けてほしいと思う。けれども、それは夢物語にすぎない。それに、私が賢くなかったとしてもアフアがそばにいてくれるのだから、困ることはないだろう。私はそうしたことには疎くて、汗が少し引いてきたときに思ったのは、小腹が減ったということだ。私は房になった果実をひとつひとつ口の中に放りこんでいく。二人で持ってきたのだ。本当は丸かじりできるのが良かったのだけれど、残っていたのがこれだけだった。少しまどろっこしい。そんな私にアフアは囁く。

「ねえ、リュリュ」

「うん?」

「リュリュは、どうしてこの森に王がいないのか考えたことはある?」

 私は首を横に振った。そういうものだと思っていたからだ。私たちが生まれる遥か昔に王が亡くなり、それ以来森の面倒を見てきたのがナーリだ。単純なことだ。違うだろうか。そう返事をしたのだけれど、今度はアフアが首を横に振る番だった。

「リュリュは子供の頃に、みんなが泳ぐのが大好きな村に行ったことがあったでしょう? そこは王によって治められていた?」

 言われてみればそんなことはない。それなりに地位のある人に私の森の近況を知らせたり、森での合唱に加わったりはしたけれど、そこで王と面会した記憶はない。よく気づいたな、と思うと同時に、私は自分がひどいぼんくらに思われた。アフアは続ける。

「王って何なんだろう。それに、王はどこにいるんだろう」

 私は困惑した。アフアがわからなければ、きっと私にもわからない。

「もしかしたらどこかに隠れているのかな。それとも、目に見えない存在とか」

「そうだね……」

「でも、アフア、王について記録庫は何も語っていないの?」

「私も調べたけれど、断片的なことしか記録されていない。だから、私はいろいろな人から話を聞いて、一つの仮説を立てようとしている」

「それはどんなの?」

「内緒。私がそれを教えたら、リュリュが教えてくれる情報がそれに影響されるから。リュリュは見たままを教えてくれればいい。リュリュは推測が苦手かもしれないけれど、観察するのはうまいから。やっぱり、獣を狩るとそういうことが得意になるのかな」

 アフアは私のことをよく見てくれているのだな、と嬉しくなった。同時に、もしも私が狩りで過ごした時間のほんの一部でも記録庫で過ごしていたら、アフアのように賢くなっていただろうか、と悲しくなった。でも、私は記録庫で過ごすと気分が悪くなってしまうのだ。

 記録庫は森で一番大きな樹のうろで、私たちはその中に入って記録を閲覧する。その中で目を閉じると、私たちは魂だけの存在になり、過去の出来事をその場で居合わせたみたいに感じることができる。あるいは、わからないことを尋ねれば声が質問に答えてくれる。用事が済めば、まるで目が覚めたみたいにまたうろの中にいる。私はその幻の世界にいると酔ってしまう。昔は本というものがあったらしいのだけれど、それがどんなものかはわからない。大切なことはみんなで記憶するし、さらに重要なことは誰かが樹のうろに吹き込んでいる。

 そうしたわけで、私はアフアの話を聞いていれば十分だと感じている。アフアは話が上手だし、難しいことを一言でまとめるのがうまい。だから嬉しくなって、アフアの手を握る。二人はヴァンにもたれかかっている。ヴァンは難しいことはわからない様子だったけれど、私たちのややこしい話が終わったのだと気づくと体をゆすった。

「気持ちよかった」

 そうやって嬉しそうにしている。

「ねえ、ヴァンは王族のこと、何か知ってる?」

 ふざけて尋ねた私に向けて、ヴァンは今までにないほど大きく笑った。私もそれにつられてしまった。

「いつまでもこうしていたいね」

 私はアフアに抱き着いて、ヴァンの幹にも手を伸ばした。私からこうしたことをするのは珍しいので、アフアは満足げだった。ヴァンも、私も、私も、って叫んでいた。

「こうして、ってどんなふうに? こうやってずっとくっついているの?」

「それもいいけれど」

 まだ余韻にひたっている私は臆面もなく言う。

「私はいつまでも狩りをして、それで森に帰るとアフアがいる。そんな生活がいつまでも続けばいい」

「それでいいの?」

「うん。王がどうとか関係ない。私はそう言う生活が続けば、なにもいらない」

「そうか」

 アフアは両腕を伸ばし、私とヴァンを抱きかかえるようにした。そして、私の耳元に何事か囁いた。でも、声が震えてよく聞こえなかった。

 だから、森に帰ったとき私たちが拘束されるとは思ってもいなかったし、それがアフアときちんと言葉を交わす最後になるとも知らなかった。

 

 私たちのような王族を捕まえるには多くの人がいる。私たちは力があり、私たちの眼の光は人々を恐れさせ従える。だから、森のかなりの人数が私たちを拘束するために集まっていた。逃げようにも、気づかぬうちに囲まれていた。

 私たちは引き離され、森の反対側へと連れていかれた。私は森の薄暗い一角に連れていかれた。そこは裁きを待つ者が過ごす場所だった。決められた領域の中でなら歩き回ることが許されたが、綱で囲まれた場所の外に出ることは禁じられた。何事か尋ねても、人々は目を伏せて黙ったままだった。ただし、人々の様子からは私は拒絶されたとは感じなかった。むしろ、私に悪い知らせを伝えることを恐れているみたいで、人々の気遣いすらあるようだった。看守たちが気の毒になってしまうくらいだった。暴れることもできただろうけれど、人々は頭を下げていたのでそんな気にもなれなかった。そして、私を恐れていた。私が話しかけても黙ったままだったけれどそこに冷淡さはなく、畏怖の念と申し訳の無さのないまぜになった思いが感じ取れた。掟に従って私を閉じ込めはしたけれど、王族としての私に対する敬意を失くしたわけではないようだ。とはいえ、身動きが取れなくなったのは確かであり、私は何か間違ったことをしただろうか、と自問自答した。

 こういうことにならないと、私は事の重大さを理解できなかった。まさか人々が謀叛を起こしたのか、とも考えたのだけれど、私に何か不満があれば直接伝えればいい話だった。この世界に私たちの森の最初の種がまかれて以来、祖先たちの世界のように暴力に訴えたことなど久しくない。森で何かを決めるときにはみんなで話し合うのが原則で、そこには王族もそれ以外もない。私を捕まえても、対立している誰かに自分の都合を押し付けることはできないだろう。私たちを閉じ込めても得るものはまったくない。それに、この森ではいつでも豊かな果実が手に入るわけで、困窮している者もいない。

 もしかしたら、ヴァンのことが何か私の知らない古い禁忌に触れたのかもしれない。たとえば、子供ならともかく、成人すればよその森との交流は軽々しくするものではない。私が使者の役割を果たしたのも、子供の頃だけだ。私のような立場ならなおさら慎重にならねばならない。しかし、一本の木が森と扱われるべきなのだろうか。そもそも住人なんていないわけだし。いや、ヴァンが森でもあり住人でもあるのか。そこまで考えて、そもそも王族とはどのような存在なのかを私はきちんと考えてこなかったことに思い至る。だから、人々が王族としての私に何を求めているのかも推測できなかった。

 よく考えてみれば、私の扱いもそれほどひどいものではない。毎日食事が運ばれてくるし、それは新鮮なものだ。一度など、お代わりが欲しいと呟いたらきちんと持ってきてくれた。こんな囚人が世の中にあるものだろうか。お腹がいっぱいになってやっとこれはおかしい、とおもうほど私はぼんくらだ。

 そのうちに、もしかしたらアフアが一枚噛んでいるのではないか、と疑ってしまう自分がいて、そんな自分が嫌になる。私は考えるのが上手ではないので、間違った考え方をしていると気づくこともできない。こういうときにこそアフアがそばにいてほしいと思ってしまい、心の底ではアフアを完全に信じている私がいる。私はアフアが裏切るはずがない、と確信している。だから、私でもアフアでもない第三の王族がいて、その人が何か悪さをしているのに違いない、と証拠もないのに考えていたのだ。考えるというよりも、それは空想だ。

 無い知恵を絞りながらアフアと連絡を取れる手段はないだろうか、と思案としていると、人垣を押しのける姿があった。ゆっくりとした動きで、老いていることがわかる。誰だかすぐにわかった。ボコフだった。横になっていた私は飛び起きる。

「アフアはどこなんですか。無事なんですか」

 私は縋りつくようにして尋ねた。けれども、ボコフは私の質問には答えなかった。代わりに、皺だらけの手を震えさせながら、短く事実を伝えた。

「アフアが王になった」

 私にはまったく意味が分からなかった。

「どういうことですか」

「言葉通りの意味だよ」

「わかりません。せめて、一度アフアと会って話をさせてください」

「不可能だ。アフアと会えることはもうないだろう。少なくとも、話ができる状態ではない」

「ひどい怪我をしたんですか? 無事なんですか?」

「違う。さっきも言ったように王位についたということだ」

「即位の儀式を見られたくないということですか」

「……何も知らぬようだな」

 それは哀れみに近かった。軽蔑の意図はないし、あからさまな敵意もないけれど、ほとんど私を無力な赤ん坊扱いするような言い回しだった。確かにボコフと比べれば私はほんの子どもなのは事実だけれど、気に食わなかった。

「連れて行ってください。アフアのところへ」

「それは、アフアの意に反したことになる。アフアに対する敬意を多少なりとも持っていれば、ためらうはずだ」「でも、アフアの無事を確認しないと。あ、そうか。ヴァンのせいなのでしょう」

 ボコフは、私に奇妙な目を向けた。何も知らないはずの私が真理の断片を手にしていることに驚いているようだった。

「ヴァンの存在を隠していたから罰せられた。……あれ、でもそれと即位は関係がないような」

 ボコフは小さく息を吐いた。

「……あの子の存在を見ても気づかぬのか。やはり、王の器ではない」

 何やら徹底的に馬鹿にされているような気がして、私はとうとう腹を立てた。

「持って回った言い回しをするのはやめて、きちんと説明してください。それから、アフアに会わせてほしい」

 ボコフは今度は大きく息を吐いた。それは私の愚かさに直面した溜息だったのかもしれない。

「ついてきなさい。見せないと納得しないようだから。ただし、何も見ても後悔しないように」

 ボコフは手招きした。ついてくる私を群衆は避けていく。

 

 高齢のボコフに無理をさせるわけにはいかないと知りながらも、気ばかりが焦ってしまう。私が一歩踏み出すたびに、ボコフは三歩ほど進まなければならず、私は相当にゆっくり歩かなければならなかった。氷の上を歩くとしたらそんな感じなのだろうか。この世界で雪を見たことなんてないけれど。でも、記録庫を閲覧するたびに吐き気がするわたしであっても、すべてが真っ白になっていたあの光景には夢中になったものだった。

 道中、ボコフは私が見えていなかったことを解き明かしていく。それは複雑なことで、どうしてアフアがそれに気づくことができたのかわからない。

「私たちはそもそも、生命の樹から生まれる。だが、祖先たちの世界では、人間から人間が生まれていた。それは知っているな。つまり、あの樹はもともと人間なのだ。知恵深い祖先たちが作り替えはしたのだが」

 初めて聞いたことだけれど、それは筋が通っている。けれども、私には少し薄気悪く感じられる。人間から生えた実を食べていたというのか。ボコフはうなずいた。それはひどく恐ろしいことに思われた。まるできょうだいの肉を喰らっていたようだ。ボコフは答える。もともと祖先たちの世界では、親が胸からの分泌物で子供を育てていたのだ。それと変わるところはない、と。祖先たちには私たちの持たない腺があったのだ。

 それはわかるが、そればかりか私たちはその実の種子を捨てていた。飲み込んでしまうこともあった。あれもきょうだいだったということか。果実ならともかく、種子なら将来育って大きな森になるかもしれない。まだ育たないきょうだいを丸のみしていたのか。

 しかし、ボコフは肩をすくめた。ほとんどの種子はひ弱すぎてこの世界の大地には根づかない。ごくまれに強靭な種子ができるが、それは深夜にこっそり遠くまで植えられる。それが新しい森の最初の一本になる。お前さんが見た夜の儀式は、そうした聖なる種子を遠くまで運ぶためのものだ。そもそも祖先たちの世界でも、すべての子どもが無事に生まれるわけではない。中には目に見えない大きさのまま体に根付かず、気づかれないまま体の外に出てしまった者も多くいたという。

 しかし、それを聞いても私は納得できなかった。加えて、生きた人間の足元で排泄し続けていたというのも、受け入れがたかった。けれども、追い打ちをかけるように、その総排泄孔が繁殖に用いられていたのだ、とボコフは教えてくれた。私たちの生殖器官は退化しているのだが、祖先たちは二種類のそれがあったのだ、と。私はどうしてそうした大切なことが記録庫では伏せられていたのか不審に感じられた。

 ボコフは続ける。私たちは生殖器官を失った。しかし、私たちは二つの親が必要だった。なぜかはわかるね。完全に均質化した生物は変化に耐えられず早晩滅んでしまうからだ。ボコフは振り返る。頭を使っていた私は、いつの間にか後れを取っていた。

「さて、何か気づくことはないかね」

 なぜ、最初から事実を教えてくれなかったのか、と恨みがましく尋ねるが、ボコフは鋭く問う。

「そんなことよりも、私の問いに対する答えはどうだね」

 こうして、ひとつひとつ説明されていくと、私はうまく考えることができる気がする。私は賢くなったみたいでうれしい。でも、全部ボコフが導いているのだ、とわかっている。

「樹だけでは子どもは生まれない。だから、もう片方の親は人間なんだ」

 ボコフは満足げにうなずく。

「そうだ。そして、即位とは王族と若樹との婚礼のことなのだ。私たちは最も頑丈に育つ見込みのあるものに特別な果実を与え、繁殖可能な体に作り替える。それが王となりうる者を選ぶことであり、選ばれたものが王族と呼ばれる。婚礼とは遺伝子を混ぜ合わせることだ。昔は生殖器官をつなげて子を宿していたものだ。私たちが体をさすりあうのはその名残だ。……ところで、遺伝子とは何かわかるかね。配偶子とは」

 しかし、愛を交わしているアフアとヴァンを見つけた私はそれどころではなかった。

 

 遠くからでも二人が抱き合っているのがわかる。私は嫉妬した。アフアは私と一緒に育ってきた。ヴァンを初めて見つけたのは私だ。ヴァンに名前をあげたのは私だ。なのに、どうして私をのけ者にするのだ。ボコフが制止するのも無視して、私は全身をさまざまな感情で火照らせながら近づいていった。だが、途端に何が行われているかを目の当たりにした。私はへたり込んだ。そこにいたのはもはやアフアとヴァンではなかった。

 遺伝子とやらを混ぜ合わせるとボコフは私に教えた。しかし、この姿は何か、抱き合った二人の肉体が融合している。

 よく見ると二人の肉体の表面はうごめいていて、物質を互いにやり取りしている。嫌悪感だけではない。親しいものが変貌し、崩壊していくのに止められない無力感に襲われる。思わず手を差し伸べようとするが、この変化に巻き込まれてしまってはどうなるか、と考えさせられてしまい身がすくむ。伝染病を目の当たりにする以上の恐怖だ。それでも顔を近づけて確かめずにはいられない。二人の肌の色がまじりあい、渦を巻く。それは嵐の前の空にも似ている。

 私の前で次々に変化が起こっていく。樹木であるヴァンに蔓のように巻き付いていくアフア。両腕はまるで海の獣の触手だ。それが少しずつねじくれた一本の樹のようになっていく。抱き合う四つの腕が天に向かって何かを訴えるように伸ばされる。もつれた四つの脚が土壌を掘り進んでいく。手と足の指がにょろにょろと伸びて小枝に重なる。奇怪な螺旋を描き、二人の顔が接近していく。顔を構成する要素がみるみる近づいていき、一つになる。四つの耳は不気味に縦に並んでいる。四つの鼻孔は真横に繋がっていく。一度に四つの眼が私を見つめ、二つの口が同時に私に何事かを語りかける。花弁のように再配置された四つのまなざしに射抜かれて、二つの口からの言葉ならぬ言葉に私は捕らえられ、立っていられない。すでにアフアもヴァンもいない。そこにいるのは別の存在だ。

 ここで新しく育つ森は、私の知るものではない、異質なものだ。私が王になることを望んでいたら、私はこうなる羽目になっていたのだろうか。二人からかすかに漏れる枯れた声、あるいは喘ぎ声。それはこの世界特有の病に倒れたものの声にも似ていて、私は胸が張り裂けそうになる。

「なぜ、誰も私に教えなかったのです。本当にアフアはこれを理解したうえでこの運命を受け入れたのですか」

「……当然だ。アフアはあらゆる樹を観察することでそれを知った。どうしてどの森にも王がいないのかに、筋の通った答えを見つけた。アフアは正しく推理した。なので、婚礼へと進んだ。賢明であるほうが、血を残すべきだからだ。だから、どの森でも王族にだけは真理が教えられることはない」

 馬鹿げている、と私は思う。血を残すとはなんだろう。そもそも樹木が血を流すのか。あれは樹液ではないのか。アフアとヴァンの体に流れているのは何か。水なのか。私には何もわからない。

「私にこんなものを見せてどういうつもり」

 間抜けにも取り残された私は呟いた。愚かだったほうの私は、子孫を残すことなく消えていくのだろうか。私は怒り、失望し、落胆していた。

「なぜなら、そなたにも役割があるからだ」

「何」

「この厳しい世界では、無駄なことなど許されない。残されたそなたにも義務がある。こうして融合したばかりの生物は脆弱だ。そなたはこの周囲に暮らし、生まれてくる子供たちの守護者となるのだ。さいわいそなたには弓の才能がある。そしてアフアとヴァンから生まれる子どもたちの、育ての親となるのだ」

「どうして」

「今は亡きナーリと同じだ。ナーリもまた、王族の一人だったのだ。樹木と融合しなかったほうの。そしていつまでも語り継ぐがいい。アフアとヴァンとの記憶を」

 顔ならざる顔、奇怪な配置を取った四つの眼が私を追い続けている。果たしてそれがどのような心を持っているのかもわからない。すでに意識を持っているかもわからない。けれども、痕跡はわずかにあった。

 四つの眼は私に願っていた。私たちを、私を守ってくれ、と。私は決断した。運命は定まった。私はわずかな食糧とともにここにやってくるだろう。二人の木陰で暑さをしのぎ、二人を獣から守るだろう。私は二人がつけた実を食べて命をつなぎ、二人は太陽と水と私の排泄物で育つだろう。地下の根を広げて隣に生命の樹を生やす手助けをするだろう。ついに二人の子どもが生まれたときに、私は名前をつけて命が受け継がれていくのを目の当たりにする。本能に従うことを私は受け入れる。

 私の眼をのぞきこんだボコフは振り向き、立ち去った。この営みはいつまでも続くだろう。大地が森でおおわれるまで。その時まで私たちは、生命を受け継いでいく。それがこの大地の上での生であるからだ。それ以外の道なんてなかったし、私は想像することさえできなかった。私の頭では、これ以外の運命は選びようがなかった。私は諦念と共に二人に身を預けた。そして、二人の唇に交互に私の唇をつけた。すでに乾いていて樹皮と変わらなかった。二人は葉を揺らしたけれど、もはやうめくことはなかった。そして、四つの眼球は樹皮の奥へと消えていく。ついに二人は沈黙した。

文字数:19161

課題提出者一覧