「愛と友情を失い、異国の物語から慰めを得ようとした語り部の話」

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「愛と友情を失い、異国の物語から慰めを得ようとした語り部の話」

 失恋したことだし、小説を書こうと思う。

 別に、僕が失恋した経緯をそのまま匿名ブログに書いてもいい。というか、実際に数千文字の文章を一気に書いて先ほど載せた。けれど、それだけでは満たされなかったので、小説を書く。

 なんでわざわざ小説にするのかといえば、それが落ち着くからだ。僕が小説を書き始めたきっかけは大学で文学サークルに入ったからなのだけれど、文章で何かを表現するのは思っていたよりも性に合っていたみたいで、ある文学賞の三次選考まで残ったくらいの実力もある。

 基本的に、僕の小説は失恋した経験が元になっていて、それを直接描写するのではないけれど、失恋で受けたダメージが基調にあるせいか、うじうじとした片思いが表現されがちだ。だから、幻想文学の体裁を取っていても、どこか地に足がついていて、悪くするとそれが作品を凡庸にしてしまう。もしかしたら、そのせいで文学賞を射止めることが叶わなかったのかもしれない。とはいいながら、選考に残ったときの評論は好意的で、語り手の教養を感じさせる、とあった。褒めてもらって素直にうれしかったのだけれど、専門用語を一言も使った覚えがないので、どうしてそんな感想が、と疑問に思いもした。

 さて、長々と僕のことを話すよりも、小説に移ろう。僕の作品は形を変えた自分語りに過ぎないのかもしれない。でも、そうではない小説って、どれくらいあるのだろう?

 

「異教徒の娘とその人形に恋した少年イスマーイールの話」

 

 偉大なカリフ様の御代のことです。都の大通りのお屋敷に、ナースィルという商人が住んでおりました。若いころからまじめに働いていましたし、幸運にも恵まれてもいましたので、一代でお金持ちになりました。ナースィルのお店は、はじめはオリーブを売っていただけだったのですが、今ではオリーブだけでなく、果実や野菜、反物や宝石など、何でも売るようになりました。だからといって貧しい人を見くだすこともなく、気前よく喜捨をしていました。また、メッカにも巡礼したことがあったので、多くの人から尊敬されていました。何か困ったことがあったり、商人同士でいさかいが起きたりすると、誰もがお役人に訴える前にナースィルに相談するのでした。

 さて、商人のナースィルには息子が二人おりました。二人は小さいころから、お父さんの商売を手伝っていました。

 長男はウマルといいます。とても生まじめで、預言者様の教えをきちんと守って暮らしていました。ウマルのお母さんは、彼がまだ小さいころに亡くなってしまいましたが、ナースィルも義理のお母さんもウマルをとてもかわいがったので、あまり寂しさを感じませんでした。

 次男はイスマーイールという名前でした。ナースィルはウマルのお母さんが亡くなってしばらくすると再婚したのですが、再婚相手との間に生まれたのがイスマーイールでした。イスマーイールのお母さんはマルヤムといい、元々は異教徒の使用人でしたが、賢かったのでナースィルは好きになったのでした。そして、マルヤムは結婚するときに今の教えに帰依したのです。イスマーイールもお父さんからとてもかわいがられていました。

 ところで、同じように育てたのに性格が似ないのがきょうだいの不思議なところです。ウマルは次に何が売れるかを見越して、どんな品物を仕入れればいいのか、勘がよく働きました。また、どこまで値段を上げても相手が買ってくれるかがわかり、いつでもしっかりと儲けを出して帰ってくるのでした。冒険心にも富んでおり、隊商たちといっしょに砂漠を越えていくのをいつも楽しみにしておりました。

 一方のイスマーイールは、気が優しいのですがあまり商売上手ではありませんでした。計算も正確にできますし、初めて会った人から信頼もされます。商人の資質としてこの二つはとても大切です。ですが、相手の嘘をなかなか見抜けなかったり、ついついおまけをしすぎてしまったりするなど、人が良すぎるのです。

 そこで、ナースィルは自分が隠居するときには商売を二つに分けようと思いました。ウマルにはインドの木綿や中国の絹、トルコのブドウ酒やペルシアの真珠などといった、遠くの国の珍しい品物を、イスマーイールには都の近くの農民たちから買い上げる新鮮な小麦やオリーブなどを扱わせることにしました。ウマルはどんな相手からも侮られることがないのでいつでも有利な取引ができましたし、イスマーイールは皆から人柄の良さを褒められていたので、同じ相手と取引を続けるのが向いている、とナースィルは考えたのです。現に、彼を連れて行くと農民たちも喜んで安く作物を売ってくれるのでした。いつもおいしいものをありがとうございます、とイスマーイールがお礼を述べると、農民たちはたいそううれしそうな顔をするのでした。

 

 僕の書く文章の傾向はおおよそつかんでもらえたと思う。僕は現代日本を離れたところを舞台に選ぶことが多い。たとえば、はるか未来の銀河や、神話時代の遺風が残されている古代の村落や、大地と海を魔法が覆っている国々だ。それを現実逃避だと非難する部員もいないではなかったが、大体好評だった。

 僕の幻想的な作品に対する批判の急先鋒に立っていたのが後輩の井場だ。後輩と書いたが、実は僕と同い年だ。留年していたから、名目上後輩というだけだ。彼が入部したのは確か僕が大学二年生になる夏休み直前だった。

 そんな井場も、今では名の知られた評論家だ。大学で教鞭も取っている。あれだけ小説を読んでいたのだから、当然な気がする。というか、留年したのは小説の読みすぎのせいだ、とサークルではまことしやかにささやかれていた。井場が文章で名を立てているのは純粋に彼の実力だから、いまだに作家になれていない僕の境遇と比べて落ち込むことはない。作家と批評家だと比べる気にもなれない。僕はそのあたりについてはドライだ。それに、彼の文章を読みたいがために文芸誌を買っているおかげで、現代文学の潮流を追いかけられている。感謝するべきなのだろう。

 井場は、いつも四半期ごとに出していた部誌では小説を書かずに、授業に提出したレポートを手直しした文芸批評を掲載するか、アフォリズム風のものを書いていた。

「僕は悲観主義者だから、悲観的に考えることさえ無駄だと思っている」

「悲観主義的な生き方を正しく貫徹できるかどうか対して、僕は悲観的だ」

「悲観主義を極めると、論理的一貫性を欠いた気分だけの悲観主義には我慢ならなくなる」

 これで彼の人柄がおおよそ理解できると思う。

 話を僕の文章に戻そう。どうして僕の小説が児童文学のように「ですます体」なのかというと、部誌のテーマが児童文学だったときにこのスタイルを採用して創作したところ、普段の文章の硬さや読みづらさが一掃された、と好評だったのだ。一時期は戦前の文豪を気取って漢語を散りばめていたのだが、それ以来そうした姿勢は改めた。

 なので、小説は「ですます体」か、日記やブログを書くときの文体にしている。サークルの活動報告ブログを書くのはもっぱら僕の担当だったので、慣れていたというのもある。

 ところで、今回の作品をアラビアンナイト風にしたのは、自分がイスラームに興味があるからだ。僕はイスラーム文化を専攻したわけではなく、そもそも文学部でさえないので、大した知識はない。そんな僕がイスラームに関心を持ったきっかけは、中学生の頃、アメリカを同時多発テロが襲い、メディアがイスラーム批判一色になったことだ。世間の流れとは真逆を向きたがる年頃だった僕は、逆にイスラームについて知りたくなった。イスラームから見れば、エルサレムを奪還しようとした十字軍は侵略者だ、という視点はこのときに得た。こういう素直じゃない性質は治った気配はない。

 もっとさかのぼると、幼いころに読んだ『講談社のおはなし絵本館(11)』と、映画『ドラえもん のび太のドラビアンナイト』の影響だろう。驚くなかれ、前者はなんと『魔女の宅急便』で知られる角野栄子によるアラビアンナイトの翻案だ。

 子どもの頃を思い出して楽しくなってきた。いっそのこと、この作品が完成したらどこかの新人賞に出すのはどうだろう。どこ向きの作品かわからないけれど。とりあえず、参考資料として、岩波書店から出たアラビアンナイトの最新の翻訳を注文することにした。それに、小説を書いているうちにサークルの雰囲気を思い出し、大学の友人に久しぶりに会いたくなってきた。まずは一番顔の広そうな井場に電話することにした。正確にはラインの無料通話だ。

 

 ある日のことです。都にひどく疲れて、やつれた人々がやってきました。たいへん遠くから旅をしてきたのでしょう。彼らはあちこちの宿で泊めてもらうように頼んだのですが、断られてしまいました。あまりにも汚れていましたし、とてもお金を持っているようには見えなかったのです。

 町の役人たちも困ってしまいました。話を聞いたところ彼らは巡礼者なのですが、ムスリムではなく、キリスト教徒らしいのです。これだけ大挙して彼らがやってくるなんて、何十年ぶりでしょう。

 夜遅くまで街をうろうろするのは法律違反です。だからといって、彼らを泊めてやるのにいい場所はありません。宗教が違いますから、モスクに泊まってもらうわけにもいきません。しいて探せば牢屋になるのでしょうが、何も悪いことをしていない彼らを牢屋に入れるのもおかしな話です。そんなことを一人のお役人がナースィルにぼやくと、彼はにっこりと笑いました。

「うちに泊めてあげようじゃないか」

 お役人は驚きました。

「四十人近くいるのですよ」

「宴会をする部屋で食事をすれば、みんな入る。寝るときもクッションにもたれればいい。暑い季節だから、夜風がきっと気持ちがいいことだろう。それに、先ほど大きな儲けがあったのだから、多くの人に分かち与えるのは信徒としての義務だ」

「ですが、異教徒ですよ」

「しかし、キリスト教徒は、結局のところ我々と同じ唯一の神を信じている者同士だ。違うかね? それに、異教徒だからと言って困っている者を助けない理由にはならないだろう」

 ナースィルはキリスト教徒やユダヤ教徒、ゾロアスター教徒とも取引をしています。宗教が違っていても、争うよりは仲良くして、お互いにお金儲けをするほうがどちらにとっても幸せだ、と考えていたのです。

 そして、家に戻ると使用人たちに準備をするように命じたのです。四十人以上もの人が来る、という知らせを突然聞いて使用人たちは驚きました。ナースィルが信徒の義務として貧しい人たちを食卓に招くことは珍しくはなかったのですが、これほどの人数を招くことをその日になって決めたのは初めてだったのです。今すぐに食材を準備しなければなりません。でも、使用人たちは喜んで働きました。ナースィルがご褒美をはずんでくれると約束したからです。厨房は大忙しです。厨房では、お屋敷のことなら何でも知っているジャンナおばあさんがきりきり舞いです。イスマーイールもウマルもマルヤムも、買い物のあとは部屋の片づけでお屋敷中を駆け回りました。でも、まだ誰もお客さんが異教徒だとは知らないのでした。

 やがて、ナースィルに連れられて多くの人たちがぞろぞろとお屋敷に入っていきました。彼らは公衆浴場で旅の汚れを落としてきました。ナースィルの渡した装束に着替えたので見違えるようです。誰もが育ちの良さをうかがわせています。それは身なりの良さからというよりも、心の優しさからおのずと感じ取れるものなのでした。信じている教えこそ違いますが、巡礼をするという真摯な心掛けのなせるわざなのでしょう。ですが、市場の人々は、ナースィルの鷹揚さに驚いたり、不用心さを心配したりしました。世の中には嘘をつく人がいっぱいいます。それに、ニカイヤやエルサレムをはじめとした無防備な街を襲った十字軍たちも、はじめは無害な巡礼に見えたではありませんか。

 

 個人的にイスラームについて面白いと感じるのは、キリスト教と多くの共通点があることだ。語弊のある表現だが、この二つの宗教はユダヤ教から生まれたきょうだいみたいなものだ。どちらも唯一の神をあがめ、この世を善悪の戦いの場と考え、最後の審判を信じている。だからこそ衝突する面もあるのだろう。ただし、ムスリムは三位一体を神の唯一性を損なう考えだとしているなど、いくつかの明確な違いもある。

 さておき、新型コロナウイルスがここまで猛威を振るうとは思わなかった。非常事態宣言、なんとも物々しい響きだ。当然、同窓会は中止だ。仕事も自宅ですることになった。慣れれば一人暮らしなので気楽だが、意外とダメージを受けたのが読書環境だ。まず、図書館が閉鎖した。当然書店もやっていない。寝床に積んである本が十五冊くらいあるのだが、自分の読書ペースを考えれば、いつまで持つか心細い。ついでに、注文したアラビアンナイトのうち数巻がまだ届いていないのだが、しばらくは受け取れそうにない。

 それ以外の変化として、毎日の通勤電車と昼休みの読書時間が奪われた。朝は健康維持のための散歩で時間を取られ、昼は台所に立つから気力を持っていかれる。逆に言えば、積んである在庫の本が長持ちする、ということかもしれないが。

「その程度で済んだんだからお前は幸運なほうだ」

 それに関してはまったく井場の言う通りだった。話を聞く限り大学は上を下への大騒ぎで、オンライン授業の体制を急ピッチで作り上げているそうだ。僕の職場も泥縄式にテレワークを整備したので最初のうちはサーバがダウンし、一時期は三交代制勤務がまじめに検討されていたほどだ。

 いっそのことオンライン飲み会はどうか、と井場に提案してみたのだが、文学サークルらしくないだろ、と断られた。何となく納得してしまった自分がおかしい。

「ところで、高良は最近何を読んだ?」

「途中だけれどアラビアンナイトを」

「卑猥だな」

 予想していたとおりの返答だったので笑ってしまった。

「君がイメージしたのは性描写で有名なバートン版かマルドリュス版だね。僕が読んでいるのはガラン版だよ。原典に比較的近いやつだ。それほど官能的じゃない。むしろそういう描写は削除されている」

「冗談だ。だが、どういう風の吹き回しだ?」

「アラビアンナイト風の作品を書きたくなったんだ」

「ふうん」

「ところで、瑛理ちゃんはどうしてる?」

「えりりん?」

 これは僕の後輩の中山瑛理のあだ名だ。酔っぱらった井場がつけたのが定着してしまった。井場と瑛理ちゃんは語学のクラスが一緒だった。そもそも、井場がうちのサークルに入部したのは、メンバーの瑛理ちゃんからサークルの雰囲気を聞いてのことだった。

「卒業以来連絡が取れなくなって」

「さてな。なぜ俺に聞く」

「瑛理ちゃん元気にしているかな、って気になっただけだよ」

「お前、どんだけえりりんが好きなんだよ」

 別に、そういうわけではない。

 

 いよいよ晩餐です。食卓は中庭を見たわせるところにありました。イスマーイールはお客の様子をながめています。すると、一人の女の子に目が留まりました。同じ年ごろでしょうか。それとも、少し幼いのでしょうか。よく見ないとわかりませんが、あまり見つめていては失礼になるかもしれません。それでも、どうしても目が離せませんでした。女の子がそれほどかわいらしかったのです。

 イスマーイールの住んでいる国では、女の子は年頃になると顔を覆います。そこで初めてイスマーイールは、ここにいる人たちが異教徒だと知ったのです。お父さんのナースィルはまだ話していませんでした。ナースィルは世界中の人と取引をしていましたし、とても心の広い人でしたから、信じている神様が違っていてもお客さんとして招くことはよくありました。だから、お客さんが異教徒かどうかをわざわざ知らせることもない、と考えたのでしょう。

 イスマーイールは、遠くまで旅をすることを考えるだけで心細くなってしまうのですが、遠くからやってきた商人の話を聞くのは好きでした。なので、そういうお客さんが来るのはイスマーイールとしても楽しみだったのです。でも、ウマルはそうではありませんでした。異国の商人と取引とすることはよくあるのですが、それは商売するときだけの付き合いです。それ以外のことではあまり関わり合いになりたいとは思っていませんでした。異教徒が食事のときに左手も使うのが苦手でしたし、豚肉などのように食べてはいけないものを平気で食べているのを見ると、どうしても嫌な気分になってしまうのでした。

 さて、ナースィルは、巡礼者たちの中で一番年を取っていて、地位もありそうな人を隣に座らせました。そして、立ち上がると、お客さんにあいさつしました。

「皆様、遠いところからよくぞいらっしゃいました。狭苦しい家ではありますが、今晩はごゆっくりおくつろぎください」

 ナースィルの隣の人も立ち上がってあいさつします。

「こちらこそ、こんなにも親切にしていただいて感謝しております。私たちはエルサレムに向かうキリスト教徒です」

 ウマルの顔色が変わりました。というのも、ウマルが一番苦手なのがキリスト教徒なのでした。残念なことですが、ここ数百年あまりの間、二つの教えの仲はあまり良くありませんでした。確かに、キリスト教はイスラームと同じく、唯一のお方のみを信じています。ですが、彼らは唯一の存在である神様が、一人でもあり同時に三人でもあるというのです。それに、神様は誰からも生まれたことのない最初のお方なのに、キリスト教徒たちは神の母という女性を深く尊敬しているのです。ウマルにはそれがどうしても受け入れられないのでした。何十年も前になりましたが、戦争をしていた相手なのだと思うと、ウマルは彼らが悪いことを企んでいないか心配になってしまうのです。

 一方で、巡礼者たちの間にも居心地が悪そうな人たちがいます。やはり違う教えを信じている相手のそばにいると不安なのでしょうか。それとも、道中で宗教の違いから嫌なことがあったのでしょうか。そうだとしたら、おびえてしまうのも無理はありません。

 ナースィルはにっこりと笑います。

「今宵はあなたがたと食卓を共にできて、大変うれしく思っております。そこで、歓迎のしるしとして、私が一つ物語をしようと思います。少し長くなりますから、召し上がりながらお聞きになってください」

 

「ユダヤ人の商人が知恵と学識によって処刑を免れる話」

 

 昔々、サラーフッディーン、あなたがたの呼び方ではサラディンという王様がカイロを治めていた頃です。王宮では贅沢をしすぎたせいでお金が足りなくなってしまいました。これではお役人や兵隊たちにお給金が払えず、謀反を起こされてしまうかもしれません。

 そこで、即位して間もないサラディンはよからぬことを思いつきました。カイロで一番のお金持ちの商人である、ユダヤ人メルキゼデクの財産を没収しようとしたのです。つまり、彼を王宮に招き、些細なことで言いがかりをつけて殺してしまおうというのです。

 メルキゼデクは賢かったのでサラディンのたくらみを察しましたが、王様の命令ですから招待を断るわけにはいきません。王宮に参上し、サラディンに丁重にあいさつしました。そして、サラディンは口を開いたのです。

「そなたは大変賢いそうだな」

「陛下には及びませんが、近所の者からは相談を受けることはあります」

「では、賢いそなたに尋ねたい。ユダヤ教、キリスト教、イスラーム。この三つの教えは同じ唯一の神を信じているはずだな」

「賢者たちはそのように説いております」

「では、この三つの教えの中でどれが正しいのか教えてくれ」

 

 イスマーイールは驚きました。こんな話をしてもいいのでしょうか。このままでは楽しい食事が、イスラームとキリスト教のどちらが優れているか、という争いの場になってしまいます。でも、ナースィルは続けます。

 

 メルキゼデクは困ってしまいました。王様の前でいつまでも黙っているわけにはいきません。かといって、下手なことを答えても首をはねられてしまうでしょう。メルキゼデクの信じている宗教はユダヤ教ですが、サラディンはイスラームを信じています。ユダヤ教と答えれば、イスラームが虚偽だというのか、と責められます。イスラームと答えれば、祖先の教えをないがしろにする不孝者、と難詰されるでしょう。まさかキリスト教と答えるわけにもいきません。どれが優れている、と答えても助かりそうにないのです。

 しばらく考えてから、メルキゼデクはこんな風に答えました。

「昔々のことです。あるお金持ちが魔法の指輪を持っていました。その指輪はただの金の指輪にしか見えませんが、指にはめると、正直に商いをしていれば財産をどんどん増やす力を秘めているのです。そればかりか、その指輪を肌身離さず身に着けていると、誰からも信頼され、愛されるようになるのです。

 そのお金持ちには三人の子どもがいて、全員を大切に思っていました。けれども、指輪は一つしかありません。そこで、お金持ちはそっくりな金の指輪を二つ作ると本物と一緒にして、それぞれをきょうだいに与えることにしました。きょうだいは三人とも自分の指輪が魔法の指輪だと信じて疑わなかったのです。もちろん、お金持ちはいつか真相を話すつもりでした。

 ところが、お金持ちは真相を話す前に亡くなってしまいました。そして、遺言に従って財産を分けようと集まったきょうだいは驚きました。三人とも魔法の指輪を持っているのです。そこで相続の場で争いが起きてしまいました。指輪の真贋をユダヤ教のラビ、キリスト教の司祭、イスラームのウラマーに尋ねても首をかしげるばかりです。とうとう裁判になりました。

 裁判長は話を聞き、職人たちに調べさせましたが、誰にもわかりません。とうとうカリフ様のところに話が持ち込まれました。カリフ様は並んだきょうだいに向かってにっこり笑うと、こんな風に答えました。

『この三つの指輪のどれが正しいか、人間の力ではわからない。だから、それぞれ自分の指輪を大切にしなさい。そして、あたかも自分の指輪が本物であるかのように、まじめに働いてお金を儲けなさい。また、誰からも信頼されるような素直な人間になりなさい。そうすれば、結果的に財産も増え、誰からも愛されるだろう。つまり、本物も偽物も関係がなくなる。そして、結局はそれが神様の御心にかなうことだ』

 その言葉を聞いて、三きょうだいは仲直りし、いつまでも豊かに暮らしたということです」

 サラディンは見事な答えに感心しました。そして、自分がこんな立派な人物から財産をだまし取ろうとしていたことがとても恥ずかしくなりました。サラディンは王座から降りるとメルキゼデクを抱きしめてこう言いました。

「そなたが大変賢いことが分かった。そこで、そなたには宮廷の顧問官になってほしい。そして、私が道を誤りそうなときには、いつでも遠慮なく諫言してほしい」

 メルキゼデクも喜んでサラディンの申し出を受けました。こうして、サラディンはいつまでも名君として知られるようになったということです。

 

おしまい   

 

 実のところ、これは「デカメロン」の再話だ。「賢者ナータン」もこの話とよく似ている筋を含んでいる。イスラームの英雄サラディンが出てくる話なので翻案した。けれど、アラビアンナイトはだいたい八世紀が舞台のはずだから、十四世紀のイタリア文学が出てくるのは一見すると都合が悪く思われる。

 ところが、実はアラビアンナイトの原典でこういう時代錯誤が起きている。アラビアンナイトの物語にはカリフのハールーン・アッラシードが登場する物語がいくつかあり、彼の治世は八世紀から九世紀にまたがるので、アラビアンナイトの舞台も当然そのあたりになる。しかし、アラビアンナイトそのものを語っているはずのシェヘラザードはササン朝の人間で、ササン朝は七世紀にウマイヤ朝によって滅ぼされている。なんでイスラーム以前の人間がムスリムを主役としたお話を語れるのか、そこのところを昔の人はそれほど気にしていなかったらしい。まあ、ディズニーの「アラジン」もアッバース朝から見ればはるか未来のムガル帝国っぽい雰囲気だし、そもそも原作は中国が舞台なので、気にするのが野暮なのかもしれない。そのうえ、お話を語り継いでいるうちに、八世紀に存在していないものを無意識に紛れ込ませた人が絶対にいるはずで、こうなるともう収拾がつかない。

 さっき気づいたのだが、アラビアンナイトの世界にキリスト教徒を登場させて話を面白くしようと思った僕も、実は似たような致命的な誤りを犯していた。アラビアンナイトの舞台のアッバース朝の都はバグダードなので、ヨーロッパから来た人間がエルサレムを目指す途中で通るはずがないのだ。ウマイヤ朝なら首都はダマスカスだが、それでもかなり遠回りになる。巡礼が来るならアイユーブ朝の頃だ、と決めてもいいが、そうなると都はカイロになる。適当に都、って書いてしまったのだが、この個所は後で修正するかもしれない。

 実は、この後でもう一度ナースィルが話をする予定なのだが、そこでも「デカメロン」を参考にするつもりだ。「デカメロン」がそもそもアラビアンナイトから強く影響を受けているから、それほどの違和感はないはずだ。

 

 イスマーイールはほっとしました。ナースィルは、何を信じていても、真摯な思いがあれば道は同じだと言ったのです。それを聞いて、巡礼者たちは歓迎されているのだ、と安心したようでした。ナースィルの言葉がわからない人たちのために、そばで通訳してあげる人もいました。

 料理は次々と出てきます。羊肉やガチョウの肉、鶏肉が様々な香草で味付けされています。インドやモルッカから手に入れたチョウジ、ナツメグ、ショウガ、コショウの香りがします。ニンニクのスープもあれば、みずみずしい緑のサラダもあります。もちろん、パンは山のように盛りつけられています。しかも、上等な小麦粉をたっぷりと使ったものでした。

 それから、ナースィルは食後にお酒を出そうとしました。ナースィルはまじめなムスリムですのでお酒は一滴も飲みませんでしたが、お客さんがキリスト教徒だから喜ぶと思ったのです。なにせ、キリスト教では日曜日に集まってパンを食べ、ブドウ酒を飲むそうですから。

 ところが、ウマルは、お酒の樽が明けられそうになっているのを見て思わずナースィルに耳打ちしました。

「酒を出すなど……、教えに背きませんか」

 ウマルはお父さんを尊敬していたのであまり強くは言えませんでしたが、本当はナースィルが商品としてお酒を扱うのも嫌なのでした。ナースィル以上にまじめなのです。使用人たちは手を止めました。ナースィルの言うことを聞くべきか、それともウマルに従うべきか、困ってしまったのです。

「そうかもしれないな」

 ナースィルはしばらく考えてからうなずきました。

「やはり食後には果物とシャーベットを出そう。私たちはムスリムだということで、わかってもらえるだろう。とはいえ、相手にとってブドウ酒は大切なものだ。土産物として渡そう」

 キリスト教徒たちは、ブドウ酒がないのをはじめは残念に思っていましたが、そんな気持ちも、色とりどりのデザートを見て吹き飛んでしまいました。食後に運ばれてくる果物は生のものもあれば砂糖漬けのものもあります。いうまでもなく、お菓子も欠かせません。パイもタルトも大きくて、イチジクもクリームも惜しげもなく使われています。見ているだけでお腹がいっぱいになりそうです。

 そして、何よりも暑い土地にはうれしいのがシャーベットです。氷水の中に浮かぶボールに、全員がたっぷり食べてもなくならないほどあるのでした。

 ところが、イスマーイールは何年に一度かの豪華な食事よりも、女の子のことがずっと気になっていました。偉い人のそばに座っているので、きっと地位のある人の親族なのでしょう。巡礼者を見てみると、子どもは他にはいないようでした。どんなことを話しているのか気になったので、そっと聞き耳を立てたのですが、言葉が違うのでまるでわかりませんでした。

 話が途切れると、不意に女の子がこちらを向きました。それから、かすかに微笑んだのです。それがどういうつもりだったのかはわかりません。同じ年ごろの男の子と会えてうれしかったのでしょうか。イスマーイールはたちまち真っ赤になりました。兄のウマルはもう結婚してもいい年頃ですが、イスマーイールはまだそんな年齢ではありません。だから、女の人のことなんて何も知らないのでした。

 女の子はお腹がいっぱいになったのでしょうか。人形を抱いています。それは大切なものなのに違いありません。食卓にも持ってきているのですから。とても上品な女性の姿をしています。女の子に心なしか似ている気もします。女の子のお母さんの姿なのでしょうか。でも、それらしい女性は見当たりません。もう亡くなってしまったのでしょうか。想像しただけで、胸がちくりとしました。

 女の子はイスマーイールの視線にさっきから気づいているらしいのに、こちらを見たり見なかったりしています。気恥ずかしいのでしょうか。嫌がられているわけではないのでしょうが、少しそっけない気もします。でも、それが慎み深さのせいだとしたらどうでしょう。

 ため息をついていると女の子がまたこちらを見ました。そして、今度ははっきりと笑いかけたのです。間違いありません。その証拠に、女の子は人形を持ったまま、手を振って見せたのです。

 イスマーイールはあまりにもうれしかったのでぼうっとしてしまい、せっかくのシャーベットを食べるのを忘れてしまいました。でも、まったく残念だとは思いませんでした。

 

 こうやって女の子を描写するときに、僕のねちっこさというか未練が出てくる気がする。

 今回の失恋、というか、三回目のデートで告白したら返事を保留されて、それで七回目のデートまで返事を引き延ばされた挙句に音信不通にされて、という、まだ付き合う前だから人によっては失恋にすらカウントしないんだろうけれども、失恋ということにさせてもらいたい出来事でのダメージで、登場する女の子をかわいく書こうとすればするほど、迷走している。

 念のため補足しておくと、瑛理ちゃんに対しての恋愛感情はなかった。ただ、かわいい後輩なのでたまにパフェをおごったり、クレープを一緒に食べに行ったりはしたけれど、僕は当時瑛理ちゃんが片思いをしている相手がいることを知っていたし、それは納得ずくのことだった。聞くところによれば、瑛理ちゃんの片思いの相手は同じクラスの、ピアノが上手な好青年らしかった。金色の指輪をプレゼントしてくれたこともあったそうで、瑛理ちゃんはそれをサークルにつけてきたこともある。それが井場に言わせれば、ブスでもいいから女の子から好意を寄せられている自分のことが大好きな(文字通りこういう言い方をしたのだ)、ナルシストになってしまう。

 で、三十代になっても全然彼女ができない僕が、なんで瑛理ちゃんと二人きりになるチャンスがあったのかというと、サークルのみんなをメーリングリストで国立西洋美術館に誘ったら、結局来てくれたのが瑛理ちゃんだけだったからだ。それ以来一緒にご飯を食べることがたまにあった。それにしても、サークルのメーリングリストだなんて、懐かしい響きだ。

 

 その夜のことです。イスマーイールは眠れませんでした。もちろん、その女の子のことが気になっていたのです。ですから、枕元に誰かがやってくる気配にはすぐに気づきましたし、それがさっきの女の子だったとわかったときの驚きと喜びはどれほどのものだったでしょう。

 イスマーイールはまだ子どもでしたけれど、こうして夜に女の人が男の人に忍んで来るのははしたないことだ、と聞いてはいました。でも、巡礼者たちは明日には旅立ってしまいます。なら、二人で遊ぶとしたら今しかないではありませんか。せっかく遊びに誘ってくれたのに、断るのはあまりにも気の毒です。

 言葉が通じないのはわかっていましたから、名乗ることしかできませんでした。イスマーイールは自分を指さして「イスマーイール」と言いました。女の子もイスマーイールの伝えたいことがわかったのでしょう。「ヒルデガルト」とほかの誰にも聞こえないようにささやきました。小さな声でしたから、大人たちに聞かれるはずはありませんでしたが、イスマーイールの耳元でした吐息は彼を震わせるのに十分なのでした。イスマーイールは、その覚えにくい名前を何度も、恥ずかしくなるくらい口の中で繰り返しました。

 イスマーイールはすぐにでもこの不思議な異国の女の子と一緒に遊びたくてたまりません。お父さんのお仕事をずっと手伝ってきたので、こうして同じ年ごろの子どもと遊ぶのも久しぶりです。けれども、夜中に街を出ては夜警につかまってしまいます。だからといって、チェッカーやチェスをしたいとも思えません。それに、ヒルデガルトが遊びかたを知らないかもしれません。そこで、イスマーイールは、父のお屋敷の庭園を案内しようと思いました。ヒルデガルトに手を差し伸べるとぎゅっと握り返してきます。それだけのことなのに、イスマーイールはとても恥ずかしくなりました。どうしてかわかりませんが、手を振りほどきたくなったのです。でも、そんなことをすればヒルデガルトは驚いてしまうでしょうし、悲しむでしょう。ヒルデガルトを悲しませたくはないので、イスマーイールは手をつないだまま廊下に出たのでした。

 二人はお屋敷の中庭に向かいました。都で一番の美しさとまではいきませんが、心安らぐお庭で、普段はナースィルがそこで仕事の疲れを癒していました。そして、ささやかな噴水もあったのです。預言者様のお言葉によれば、天国は緑と水のあふれるところだそうですが、少しでもそれを思い起こし、信仰の励みになるようなものにしようと、心を込めて手入れがされていたのです。

 イスマーイールは、庭は狭いのですぐにヒルデガルトが飽きてしまうのではないか、と気が気でなりませんでした。でも、そんなことはありませんでした。庭は、イスマーイールが今まで気づかなかったところまで、細やかに目が行き届いているのでした。ジャンナおばあさんの指示でしょうか。バラは静かに香りを漂わせています。マツリカも静かに夜の中に浮かんでいます。いつもは何ということもなく前を通り過ぎるのに、今宵は近づくだけでどきどきします。これほど鼓動が強くなる香りだったでしょうか。ものの姿がおぼろげになるためか香りは強く感じられ、自分の心臓の音も騒々しく聞こえます。

 二人はゆっくり歩いていましたので、長いあいだ手をつないでいました。それとも、手をつないでいたから時間が過ぎるのが遅かったのでしょうか。お互いの言葉は一言もわかりません。ヒルデガルトがどこの国の人なのかもわかりません。はるか西のルームやフランクと呼ばれている土地の生まれなのでしょうが、それではそこがどんなところなのかといえば、見当もつかないのです。

 でも、構いませんでした。二人は楽しく遊べたのです。まるで初めて訪れた場所を、二人で探検しているような気持ちがしました。実際、イスマーイールも夜のお庭は初めてでした。ナイチンゲールが二人に近寄ってきて、優しく歌います。噴水も夜空の下で様々に姿を変えます。からくり仕掛けによって水勢が変わるので、水の形は樹木になり、花束になり、冠になるのでした。

 やがて、東の空に明けの明星が見えました。もうすぐ朝のお祈りの時間です。皆が起きてくる頃です。ヒルデガルトも、この国では一日に五回お祈りがあることを知っていたかどうかはわかりませんが、もう遊びの時間は終わりだとわかったようです。

 ヒルデガルトは残念そうにイスマーイールを見つめます。時間は長く、また短くもありました。このままでは皆に見つかってしまうという焦りと、いつまでもこうしていたいという願いの間で引き裂かれそうでした。

 イスマーイールが立ち尽くしていると、ヒルデガルトは懐にしまっていたものをそっと渡しました。それが何かを調べる間もなく、ヒルデガルトはいなくなりました。薄明の中、イスマーイールは手の中のものを確かめました。それは昨晩の人形だったのです。

 手に触れると、木でできていることがわかりました。ありがとう、と伝える前に、ヒルデガルトは走り去っていきました。

 すぐに、モスクから夜明けの祈りに誘う声がしだしました。

 

 ここまで書いてきて言うのもなんだけれど、ムスリムの子どもって、お人形遊びをするんだろうか。しないとしたら、イスマーイールがヒルデガルトの人形をおもちゃとして認識できたはずがない。

 世界の習慣やマナーについて書いた新書に、サウジアラビアの人への土産物として日本人形はやめたほうがいい、というのも、具体的に人間の姿をかたどったものは宗教上の理由から喜ばれないからだ、とあった記憶がある(確か文春新書だった気がするのだけれど、手元に現物がないから参考文献に載せられなくて申し訳ない)。これはアッバース朝でも同じだったんだろうか。アラビアンナイトだと普通に食後にブドウ酒を飲んでいるし、戒律がどこまで厳しく守られているかは今でも国によるらしいが、詳しいことまではわからない。ちなみに、トルコにはラキってお酒があっておいしいので、トルコ料理屋に行くときはいつも注文している。

 さて、このあたりは瑛理ちゃんの文章の特徴を思い出しながら書いたので楽しかった。もちろん、手元の部誌を見ればもっと似せることもできただろうが、別に文体模写がやりたいわけではない。ただ、瑛理ちゃんの文章はいつもきれいなものを寄せ集めた小さな庭のように、こまごまとしたきれいなものの描写がとても丁寧で、それがとても好きだった。再現できているだろうか。

 瑛理ちゃんは自分とは違うタイプの感受性の持ち主で、僕が手に取ったことがない作家ばかり読んでいた。僕の読書の幅が広がったのは間違いなく彼女のおかげだ。瑛理ちゃんは絵を描くのも好きで、時々小説にイラストを添えていた。ブログにもよくイラストや僕らの似顔絵を描いてくれた。

 井場はそれに対して、意地の悪いコメントをしたものだ。たとえば、二人で昼休みに部室でだらだらしていたとき、瑛理ちゃんがサークルのノートの端にディズニープリンセスのイラストを描き上げた。そこに、井場がやってきた。彼はそれを一瞥すると鼻で笑った。

「ディズニーが好きなんだな」

「そうですよ。先週も友達と行ってきました」

「アメリカ大衆文化に対するフィールドワークか」

 井場の皮肉に瑛理ちゃんは動じない。慣れているのだ。

「スプラッシュマウンテン楽しかったですよ」

「あれって、封印された人種差別的作品がテーマになってるんだよな」

「やめてくださいよ」

 瑛理ちゃんは露悪的な言葉を笑いながら拒もうとするが、井場はやめる気配がない。

「どこかのアトラクションにインディアンの集落があるし、カリブの海賊には売られていく花嫁のシーンもある。あれらが政治的理由から消されるのも時間の問題だな。今のうちに楽しんでおけよ」

「もう」

 午後の授業が始まる五分前になったので、僕は退散した。二人は次のコマが空いていたらしく、まだ部室に残っていた。

 結果的に言えば、井場の予測は当たっていた。現に、平成二十九年にカリブの海賊の人身売買の人形が撤去されたのだ。井場の慧眼は敬服すべきものがある(追記。この原稿を推敲しているうちに、まさに井場が指摘した理由で、アメリカでスプラッシュマウンテンを大幅にリニューアルするというニュースが入ってきた)。

 

 宴の翌日、ナースィルは、巡礼者たちがお腹を壊さないように軽い朝食をごちそうし、食料やあたたかな毛布を贈ったのでした。もちろん、そのときに昨晩話していたブドウ酒も忘れずに渡したのです。キリスト教徒たちはとても喜んでいました。ナースィルは一人一人を抱きしめながら、別れの言葉を述べました。イスマーイールもヒルデガルトを探したのですが、人かげに隠れたままでした。一瞬目が合ったのですが、すぐに顔を隠してしまいました。

 イスマーイールは巡礼たちが見えなくなるまで見送りました。でも、ヒルデガルトのことで頭がいっぱいです。晩餐にまで持ってくるほど大切な人形をくれたのに、最後に顔を見せてくれなかったのはなぜでしょう。イスマーイールは部屋に戻っても、ヒルデガルトのことばかり考えてしまいます。もしかすると顔を隠していたのは、泣き顔を見られたくなかったのかもしれません。それでも、イスマーイールは寂しくて仕方がありませんでした。

 ヒルデガルトが昨晩満月のように笑ってくれたことははっきりと思い出せるのですが、それでいてその記憶は砂漠の蜃気楼のように今にも消えてしまいそうでした。どんな目鼻をしていたかの印象は残っているのに、細やかな記憶があやふやで、どうしても正しく思い描けない気がするのです。まるで、ヒルデガルトがイスマーイールの生み出した、ただの夢であったかのように。それもそうでしょう。どんな記憶も、本物を目の前にするときよりも生き生きとはしていませんから。

 イスマーイールはその人形を取りだし、じっと見つめました。そうすれば、昨晩のことは夢ではなかった、と証明できます。太陽の下で見ると、神秘的に見えたその人形は少し薄汚れて見えました。けれども、それが昨晩見せたヒルデガルトの顔をはっきりと思い出させるのです。昨晩は、この人形はヒルデガルトのお母さんの姿なのでは、と考えていました。ですが、今はヒルデガルトにそっくりに見えるのです。ヒルデガルトのお母さんの姿をしているのだとしたら、ヒルデガルトにも似ているのも道理でしょう。

 胸がざわざわとします。女の子の人形だからか、持っているだけで恥ずかしく、同時にじっと胸の中に抱えておきたいほど大切にしておきたくもあるのでした。まるでそれがヒルデガルト自身であるみたいに。手をつなごうにも人形の手は小さすぎます。だから、ぎゅっと抱きしめるのでした。そして、もしそれがヒルデガルトだったらと思うと、頬と耳がちりちりと熱くなりました。

 でも、本当にこれはただの人形なのでしょうか。食卓におもちゃを持ってくることは、異教徒であってもあまり行儀のいいことではないかもしれません。

 そこで、イスマーイールは母のマルヤムに尋ねてみることにしました。イスマーイールの母、マルヤムはもともとキリスト教徒でしたから、何か知っているかもしれません。イスマーイールは、今まではマルヤムの昔のことは詳しく聞いたことはありませんでした。というのも、マルヤムは正式な妻となるために、ナースィルと結婚するときにムスリムになったからです。もしも宗教が違っているならば、どれほど親密であっても妻ではなく、使用人だ、というのがイスラームの法なのです。

 マルヤムは改宗前のことを特に隠す様子もありませんでしたが、話題にすることもなかったので、何とはなしにはばかられたのでした。それに、ウマルが異教徒を嫌っているのに、そんなことを話題にして何になるでしょう。ウマルは一度イスラームに改宗しさえすれば、それ以後は分け隔てをする理由はまったくない、と常々言ってはいたのですが。

 マルヤムは帳簿を確かめていました。けれども、たとえ何でも話を聞いてくれるお母さんとはいえ、昨晩女の子と二人きりだったことをどのように説明すればいいのでしょう。

「母さん」

「どうしたの」

「巡礼者たちは行ってしまったね」

「ええ」

「母さんも、彼らと昔同じ教えを信じていたの?」

 マルヤムは首を横に振りました。

「あの人たちはもっと西の国から来たのでしょう。私の生まれたところよりもずっと遠くの土地。彼らの教えは、昔に私が信じていた宗教とは少しばかり違っている」

「気づかなかった」

「いろいろな宗旨があるのは私たちの教えと同じ。私たちはカリフ様が預言者様の後継者だと考えるけれど、ペルシアの人たちは預言者様の婿様が後継者だと思っているのですから。キリスト教徒といってもいろいろいてもおかしくないでしょう。……ねえイスマーイール。本当は何か言いたいことがあるんじゃないの?」

 イスマーイールはさっと顔を赤くしました。

 

 このあたりの文章で少し迷ったところがいくつかある。このあたり、幾分話が細かいので、瑛理ちゃんの話になるまで読み飛ばしてもらっても支障はない。

 まず、ムハンマドの名前を出すかどうかだ。でも、アラビアンナイトで直接彼の名前が出た個所は半分まで読んだ時点ではない。だから預言者様、でごまかすことにした。それと、「預言者様」の後に「彼の上に平安がありますように」とつなげるのも止した。本当なら、ムスリムがムハンマドの名を口にするときにはそうするはずなのだが、リーダビリティの問題があり、省かせていただいた。「預言者様、彼の上に平安がありますように、の婿様」というのは、ちょっとした台詞にしては読みづらく、読者がここで読むのをやめてしまう恐れがある。もちろん、これの言葉が指しているのはアリーである。

 マルヤムの台詞も、要はスンニ派とシーア派の違いについて述べているのだが、物語の本筋とは関係ないし、これ以上立ち入ると幻想的な雰囲気が失われる気がした。だから教義の細部には触れなかった。

 あと、今後の台詞がわかりやすくなるように補足しておくと、ムスリムもイエスを宗教的指導者として尊敬はしているのだが、救世主としては認めていない。

 ところで、マルヤムの信仰する宗教を中東で信仰されているコプト教とマロン派キリスト教のどっちにするか迷って調べていたら、コプト教は単性論じゃないと知った。多くの読者にはあまり興味が持てない話題かもしれない。細かくて申し訳ない。アラビアンナイトのいくつかの写本にない物語は、翻訳者ガランが知人のマロン派キリスト教徒から聞き取ったものだ、と聞けば、読者の皆さんも少しは興味を持っていただけるだろうか。僕が宗教にうるさいのはカトリックの中高一貫校に通っていたからなので、仕方ないと諦めてほしい。これを説明する台詞については、結局のところ本筋と関係ないので端折らせてもらった。話が面白くなるわけではないためだ。同じく削ったのはナースィルの物語の中に出てくるサラディンが、アラブ人ではなくクルド人だってことで、異民族出身であることが何か彼の心に影を落とす描写をやりたかったが、そうするとナースィルの話が必要以上に長くなるので、泣く泣く削除した。

 瑛理ちゃんに話を戻そう。彼女から、いつか小説家になりたいし、イラストレーターにもなりたい、って表参道や原宿を歩きながら相談されたときも、僕は両方になれるんじゃないか、って答えた。お世辞ではなくて、僕は本気でそう答えた。井場はそうは思っていなかったけれど。彼は厳しく非難したものだ。

「えりりんの小説は子どもっぽい。何も考えていない女の夢、妄想だ。王子様を待つだけのスイーツ系女子だ」

 僕はその言葉に対して、瑛理ちゃんの作品を弁護した。確かにプロットには甘いところがあり、主人公の女の子を助けてくれる男の子の人物造形が、夢見る女性に都合が良すぎたのは事実だった。けれど、それは瑛理ちゃんが他人に持っている基本的な信頼感の表れだと感じられて、僕はそれを批判できなかった。僕は、瑛理ちゃんの作品のふんわりした雰囲気を損なうことなく、プロットを複雑にするアドバイスをした。例えばすれ違い、やむを得ない事故、善意ゆえにかえって傷つくシーンを増やすことで、彼女の物語は深みを増した。それに、欠点を補って余りある、細部の描写や文体そのものの魅力が存在していた。

 結局、瑛理ちゃんは夢をかなえただろうか。そう思って名前で検索しても見つからない。それはそうだろう、作家は普通ペンネームで活動するものだ。フェイスブックでは、同姓同名の赤の他人のページが引っかかるばかりだ。ところで、フェイスブックはみんな都合のいいことやまともなことしか書かないので、僕はツイッターには毎日ログインしているけれど、フェイスブックは年に数回しか見ない。

 そういえば、と僕は思い出す。ガラケーから引き継いだデータに、瑛理ちゃんからメールでもらった年賀状がある。それは瑛理ちゃんがイタリア旅行をした年に出した年賀状で、聖母像をテーマにしたものだ。路地裏の壁龕に立っていた聖母像にどうしようもなくひきつけられて、そこでしばらく足を止めたときのことを思い出して描いたのだそうだ。どことなく瑛理ちゃんの自画像に似ていると思ったのだけれど、それを指摘したら瑛理ちゃんは驚いていた。瑛理ちゃんは記憶にある通りの聖母像を書いたつもりだったそうだ。

 で、このイラストを画像検索すれば、それをネットに公開していた場合、彼女のホームページが見つかるはずだ。僕は試みることにした。

 そうそう、言い忘れていたがヒルデガルトの宗派はもちろんカトリックだ。

 

 さすがはお母さんです。イスマーイールの様子がいつもと違っているとすぐに見抜かれてしまいました。イスマーイールは、どうかお母さんに後頭部がかっかとしていることを気づかれませんように、と祈りながら人形を見せました。

「昨日の巡礼者が、忘れていったんだ」

 もしかしたら、それはイスマーイールが初めてお母さんについた嘘だったかもしれません。イスマーイールはお母さんとは何でもお話ができたはずなのですが、どうしてかヒルデガルトのことは言えませんでした。マルヤムは優しく人形を手に取ってあちこち確かめ、懐かしそうに笑いました。こうして明るいところで見ると、衣装には異国の文字が書かれています。

 マルヤムは人形をイスマーイールに返しながら言いました。

「これは、神様のお母様の像じゃないかしら、と思う」

「僕は彼らの教えには詳しくないけれど、どうして唯一の始まりであるお方に、お母さんがいらっしゃるの?」

「キリスト教徒によれば、神様が一人の尊いお方の姿を取って、地上にお生まれになったことになっている。預言者様から六百年以上も前のこと、その方は男の人をまだ知らない乙女から生まれたの。キリスト教徒たちは、その方を神様のひとり子、救い主でもあるとしてあがめている。

 でも、私たちムスリムはその方が神様ではないことを知っている。道を説いた立派なお方であることは間違いないのだけれど、神様よりも尊いお方はいらっしゃらないのだから」

 マルヤムは、まるで自分が生まれてからずっとムスリムであったかのように話すのでした。

「でも、いくら尊い方とはいえ、神様、というか神様だと彼らが信じている姿を形にするなんて、それは偶像崇拝ではありませんか」

 イスラームでは、神様の姿を絵にしたり形にしたりすることは禁じられています。ましてやそれを拝むことは、ひどく間違ったことです。モスクも神様をたたえる言葉で飾られていますが、神様の姿はどこにもありません。そんな大それたことを考えるムスリムは、カリフ様の治める都のどこを探してもいないでしょう。人間の中で最も立派な方である預言者様のお顔もありません。間違って預言者様を拝む人が出てこないようにするためです。どれほど優れたお方であっても、神様の代わりに拝んではならないのです。

「難しいの」

 マルヤムはつぶやきました。

「像そのものではなく、それを通して神様を拝んでいると私は聞いたのだけれど。何せムスリムになってから長い歳月が過ぎて、私が昔は何を考えていたのかすっかり忘れてしまった。……それよりも」

 じっと人形を持ったままのイスマーイールに尋ねます。

「これはどうするつもり?」

 困惑したイスマーイールはとっさに応えました。

「巡礼者たちが帰りにここに立ち寄ったら返したいんだ。……長い旅にまで持ってきたものだということは、何にも代えがたいもののはず。大切なものをなくして悲しんでいるだろうから」

「優しいのね」

 イスマーイールはまた嘘をついてしまいました。だから、せっかくのヒルデガルトからの贈り物だったのに、ヒルデガルトが戻ってきたら返さないといけなくなってしまったのです。イスマーイールが絶対に手放したくないという気持ちのあまり、その人形を固く抱きしめていると、ウマルが駆け込んできました。イスマーイールは慌てて人形を懐に隠します。ウマルのことですから、イスラームの教えに背くかもしれないものをどう扱うか、わかったものではありません。

 飛び込んできたウマルは叫びました。

「僕の財布がない」

 

 やはり、八世紀のアラビアはこれでいいのか、という疑問はぬぐえない。八世紀の時点で存在しない文物をすでに書き込んでしまっている恐れがある。だが、アラビアンナイトの成立史にも多少のいい加減さがあるので、そこは大目に見てもらえると助かる。

 というのも、アラビアンナイトの元になった写本には、「千夜一夜物語」のタイトルに反して、二百八十二夜分の物語しかない。そこで、翻訳者のガランが、さっき話題に出たマロン派キリスト教徒の知人から聞き取った話を付け加えて四百八十話にした。しかも、面倒くさくなったのか途中で毎晩の区切りがなくなっている。確かに、何ページか読み進めるたびに「夜遅くにシェヘラザードは昨夜の続きを語り始めました」「夜が明けてきたのでシェヘラザードはそこで語りやめました」という趣旨の言葉が挿入されているのは煩わしいかもしれないが、なんともおおらかなことだ。なおひどいことに、出版社が勝手に別の作者の原稿を挿入する事件も起きている。

 そのうえ、後世「千夜一夜物語」という題を文字通り受け止めて、後の版では不足している夜の物語として様々な伝承を無理に付け加えられている。あるいは、ガランが省略した個所がさぞかしどぎつい描写だったのだろうと、勝手に官能的な場面が増やされている翻訳もある。井場との通話で話題に出たバートン版とかマルドリュス版がそれだ。逆に、ヨーロッパで物語が追加されたアラビアンナイトがイスラーム世界へ逆輸入されることも起きている。要するに、アラビアンナイトにはある意味では決定版と言えるものがないのだ。

 いろいろと舞台裏を見せてしまったが、こうした雑学で僕の心情をごまかすのはよそう。瑛理ちゃんのホームページを見つけたのだが、正直なところ幾分驚いているのだ。彼女はイラストレーターにはなったし、文章も書いていた。プロフィールの書いてあるページに飛んだら、彼女はライター兼イラストレーターになっていたことがわかった。現在の仕事一覧を見ると、女性向けのファッション誌やそのオンライン版の記事を書いているらしい。

 以下に、彼女のペンネームで検索して最初に出てきたページの一部を引用する。「働く女子は今日も頑張りたいですよね。でも、女子のことをわかってくれない男子は結構多くて、困っていませんか? 今日はそんな十種類の男子たちの取扱説明書を作ってみました。ぜひ最後まで読んでみてください」

 曰く、女性の意見はなんでも論破しようとする男子、占い全否定男子、これだから女はと決めつける男子、なんでも女が悪いことにする男子、などなど、その対処法。

 自分がびっくりした理由はわかってもらえると思う。というのも、そこにあったのは間違いなく彼女のイラストだったのだけれど、文体から個性が失われていたのだ。そのページは次のような言葉で結ばれていた。

「いかがでしたか? 今日もそんな男子たちに負けないように頑張っていきましょう! そして、この記事に出てくる男子たちと違って、あなたのことをよくわかってくれる素敵な男子たちと恋しちゃってくださいね」

 瑛理ちゃん、これを書いたのは本当に君なのか?

 

 いつもは冷静で抜け目ないウマルなのに、今朝は殺気立っていました。

「あの巡礼者たちだ」

 マルヤムは穏やかに問いかけました。マルヤムとウマルは血がつながっていませんが、お互いのことを大切な家族だと思っています。だから、いつもと違うウマルの様子が心配だったのです。

「ねえウマル、昨日買い物から帰った時にはあったの?」

「もちろんですとも。僕がそういうことをなおざりにする人間だと思いますか。父からは商売を半ば任されているのに」

「……そうね」

「今すぐ連中を追いかけるべきです。女や子ども、年寄りだっています。まだそれほど遠くへ行っていないはずです」

 マルヤムはウマルを落ち着かせようとしたのですが、うまくいきません。イスマーイールが穏やかなのはお母さんに似ているからなので、お母さんも怒っている人を見るとどうすればいいのかわからなくなってしまうのでした。それに、こんな様子のウマルなどめったに見かけないのです。

 すると、ナースィルがウマルの声を聞きつけてやってきました。

「どうしたんだね」

 さすがのウマルも、お父さんの前では神妙にします。

「父さん。昨晩から僕の財布がないのです」

「よく探したのかね」

「はい。朝から家中を」

「いくら入っていた」

「昨日の食材のおつりです。銀貨が十五枚。きっとあの巡礼者たちです。間違いありません。……盗みは教えの通り、手の切断を以って償うべきです。これから役人たちのところへ」

「待ちなさい」

 ナースィルはウマルをたしなめました。

「彼らが持っていったとも限らない。昨日の晩に入った泥棒かもしれない。何せ誰もが疲れてぐっすり眠ってしまったのだから。あるいは、知恵の回る泥棒が巡礼者たちに紛れてもぐりこんだのかもしれない。そうすれば嫌疑は彼らにかかる。それとも、私がうっかり財布をどこかにやってしまったのかもしれない。決めつけてはいけない。無実の者を罰するよりは、泥棒が逃げてしまったほうがましだ」

「ですが」

「それに、こうして騒いで時間を浪費するよりも、働いて銀貨十五枚以上を儲けるほうがいい」

「……はい」

 静かですが有無を言わせない調子でした。いつも銅貨一枚まで勘定が合わなければ寝ようとしないナースィルにしては珍しい言葉です。もしかしたら、ナースィルも巡礼者が持って行ったことを疑っていたのかもしれません。でも、ナースィルは根拠もなく人を犯人だと決めつけるのは嫌だったのです。それに、巡礼たちは貧しそうでしたから、困った挙句のことだったのかもしれません。しかも、あれだけの人数です。銀貨十五枚なんてすぐになくなってしまうでしょう。それだけのことで突き出すのは、気の毒な気がしたのです。昨晩は一皿余計にふるまったと思えばいいでしょう。

 ナースィルは、巡礼たちが何も問題を起こさずに一夜を明かしたことをお役人に伝えるために出かけました。

 この騒ぎが落ち着くと、イスマーイールはそのままクッションに倒れこんでしまいました。皆が慌てて彼を抱き起そうとしたのですが、眠り込んでしまっただけでした。一晩中起きていたのですから、無理もありません。皆は昨日食べ過ぎたのだろう、と苦笑いしながらイスマーイールを寝床に運ぶのでした。

 ところが、イスマーイールは人形を大切そうに懐にしまったまま、何日か目を覚まさなかったのです。

 

 僕は多少の驚きを隠せないまま、検索を続けた。一応小説らしいものも載っていないではなかったが、それはファッション誌に載っている、ライフスタイルを描写して見せるだけのものだ。理想の男性との生活の断面を空想させるためのもので、プロットはほとんどない。あえて言えば、彼女の小説を希釈したものだった。あと、見つけたので瑛理ちゃんの子育てブログも読んでしまった。子どもが二人もいる。幸せそうで何よりだ。

 考えてみれば僕も三十代でそろそろ結婚していてもおかしくないのだが、相手が見つかる気配もなく、付き合いのある数少ない地元の友人もなぜか全員独身だ。フェイスブックを見ないのもこの現実から目をそらすためでもあるのだが、それはさておいて瑛理ちゃんができちゃった婚だったのにはショックを受けた。なんというか、瑛理ちゃんのことをどこかまだ子どもだと思っていたんだろう。

 別にできちゃった婚がだめだというわけではない。僕は幾分倫理観が保守的だけれど、瑛理ちゃんが幸せかどうか、が一番だ。でも、結婚式には呼んでほしかったし、せめて一報をくれればよかったのに。大学時代あんなに親しかったわけだし。

 そんなことを、僕は井場に愚痴ってしまった。

「知らなかったのか? あいつがライターやってるの」

 それよりもどうして僕が知らなくて、井場が知っているんだ? 教えてくれればよかったのに。そう尋ねたが、彼は一笑に付した。

「なんでそこまで執着してるんだよ。やっぱり本当はえりりんのこと、好きだったんだろ?」

 だから、そういうわけではない。

「やめとけよ、ああいう女を好きになるのは。お前にはでき婚するような女は無理だって。大体、どうやって仕事を取ったのかも怪しいもんだ。編集者と寝て仕事を紹介してもらったんじゃないか?」

 

 お医者さんたちは皆首をかしげました。イスマーイールの体にはどこもおかしなところはないのです。少し小柄かもしれませんが、同じ年ごろの少年と変わるところはありません。穏やかな顔をして眠っているだけに見えます。それなのに、イスマーイールの心臓は不規則に打ち、顔色もだんだんと悪くなるのです。伝染病の知らせもありません。けれども、イスマーイールは何週間も床についたままで、食事をほとんどとらないだけでは説明できない速さで、微笑みながらやつれていくのでした。起こそうとしても訳の分からないことをつぶやくばかり、触れようとしても抱えている何かを守ろうとするかのように、体を丸めて抵抗するのでした。そんなときもうれしそうなので、これは何か悪い精霊にとりつかれたのではないか、と使用人たちは噂するのでした。

 イスマーイールが眠りながら微笑んでいたのは夢のせいでした。イスマーイールは夢の中でヒルデガルトと、どことも知れない庭園をめぐっていたのです。庭園はお屋敷の何十倍も広く、カリフ様のお庭のようでした。二人は何をするでもなく歩き続けました。横になれるあずまやは金銀細工でできています。たわわに果実を実らせた木々は、そのあずまやまで枝を茂らせ、手を伸ばすだけで甘露を口にできるのでした。ライオンやクジャク、シカやトラが二人にすり寄ってきます。噴水は黄金の水で輝き、どのような仕掛けでしょうか、お屋敷の庭よりもはるかに複雑な形を取ります。それはペルシアの詩人が歌ったバラであり、インドの寺院であり、中国の入れ子細工なのでした。また、噴水の傍には十二頭の獅子の像があり、時間が過ぎるごとに口から水を吹き出す獅子の数が増えていくのでした。

 腕の中の人形はなぜかあたたかくて、それは二人がいつか子どもの親となることを暗示しているようです。寄り添う二人を見て、言葉を話す鳥は聖なる言葉で二人を祝福しました。

 そうした驚異の数々も、ヒルデガルトが一緒にいることで霞んでしまいます。相変わらずヒルデガルトの言葉は一言もわかりませんが、そばにいるだけで互いの気持ちは完全に通じ合うのでした。そこにあるのは、この世のものとも思えないものを前にした満足だけです。そして、お互いが満ち足りていることは顔を見ればわかります。イスマーイールにはそれだけで十分なのでした。

 驚異の庭園ではいつまでも夜が明けません。獅子の石像による水時計をみれば何時間も過ぎたことがわかるのですが、ここでは何年過ぎようとも夜なので、好きなだけ二人きりで過ごすことができたのです。もしも叶うことならば、イスマーイールは目覚めないままでいることを望んだでしょう。

 それでも、体はいろいろなことを満たさなければいけません。気は進みませんが食事をとります。お手洗いに立つこともあります。でも、常に心ここにあらずでした。どちらが夢の世界なのか、イスマーイールはわかっていなかったのです。

 目を覚ますと、本当に庭園をさまよっていたこともありました。でも、それはヒルデガルトのいないお屋敷の狭い庭なのです。太陽は無慈悲に照り付けて、枯れそうになった花や鳥の糞を明らかにします。そんなとき、イスマーイールは目に飛び込んでくる色あせた現実にがっかりするのでした。目を覚ますたびに悲しみは深くなっていくのです。手の中の人形の顔をのぞき込んでは、さめざめと涙を流すのでした。

 

 なぜ井場があそこまで敵意ある言葉を使ったのか、正直なところ理解に苦しんだ。かつて井場が瑛理ちゃんに片思いをしていたが振られた、という可能性を検討しても、編集者と性的関係を結んだことで仕事を得た、と決めつけるのは理屈が破綻している。いや、そういう噂を意図的に流そうとしているのだろうか。

 あまりといえばあんまりなのだが、僕は失礼な態度を取る人間を見ると脱力してしまう悪い癖があり、彼の痛罵に耳を傾けてしまった。

「凡庸な文章を書くしか能がない女だった。あんなものは誰でも書ける。仮にも文芸サークルに所属していたんだったら、恥ずかしくて書けるはずがない文章だ。デッサンだってなっちゃいない。才能がないのは明白だ。多少なりとも文章に自信があるんだったら、まだ作家になりたいという夢を追っていたはずだ。なのに、それができていないというのが、男と寝た証拠さ」

 僕は適当に相槌を打って電話を切った。

 数分遅れで腹が立ってきた。率直に言って、かなり。とはいえ、井場に電話をかけなおして反論したところで、もっと痛烈な批判を聞く羽目になるのが落ちだろう。罵倒のプロというのは存在しているもので、少しでも言い返せばそれが何十倍になって返ってくる。反撃されればますます消耗するばかりだ。だから、反論については諦める。

 腹が立った時はジョギングに限る。幸い今日は晴れている。

 

 ウマルもナースィルも心配してはいましたが、商売は続けなければなりません。二人は使用人の処遇や、次の取引について話していました。

「そろそろジャンナをやめさせてはどうでしょうか。前回の宴のときに辛そうでした」

「そうだな。今までの労をねぎらい、一生困らないだけの褒美を渡そう。だが、後釜は誰にするか」

「孫娘のアミナがいます。そろそろ奉公に出したいと常々口にしていました」

「結構だ。見習いをさせよう」

「港にはそろそろ船が来ます。アデンからの荷物が届くはずです」

「そうか。ならば来月に向けてそろそろ隊商たちとも話をつけたい頃だ」

「ですね。バスラやシーラーズ方面にまた行ってもらうことになるでしょう」

「結構だ。それから、他の都市についてお前はどう見る」

「もう少しエルサレムに中国の絹を送るべきでしょう。売れ行きは順調です」

 イスマーイールはエルサレムという地名を聞くと、目を見開きました。

「お父さん、僕もそこに連れて行ってください」

 驚いた二人にかまわず、イスマーイールは真剣に訴えました。どうして今まで思いつかなかったのでしょう。エルサレムに向かえば、そこにヒルデガルトがいるはずです。今からでも追いつけるかもしれません。

 ナースィルはイスマーイールの額に手を当てました。

「起きたか。意識もはっきりしているようだな」

「……お願いです。僕もエルサレムに」

 イスマーイールは叫びますが、ウマルはイスマーイールを遮りました。

「父さん。イスマーイールはまだ夢うつつのようです。エルサレムに何があるというのでしょう。僕が少し面倒を見ています。父さんはお仕事に戻ってください」

「そうだな」

 立ち去るナースィルの背中に向かってイスマーイールは訴えます。

「僕も兄さんについていきます。エルサレムに連れて行ってください」

 でも、ナースィルは悪い夢の続きだと思ったのでしょう。そのまま行ってしまいました。

 お父さんがいなくなるのを見届けると、ウマルはうなずきました。でも、それはイスマーイールの願いをかなえるつもりだったからではありません。

「わかったよ、お前が寝ついた原因が。恋の病か。エルサレムに向かったあの娘のことが好きなんだな」

 恥ずかしくて誰にも言えなかったことを、こうしてほかの人の口から聞かされると、ひどく恥ずかしくなってしまいます。黙って目を背け、もぞもぞすることしかできません。ウマルは続けます。

「追いかけても無駄だ。連中はエルサレムまでまっすぐに行くとは限らない。連中にとっての聖地はあちこちに散らばっている。行き違いになるのが落ちだ」

 イスマーイールはウマルの言葉を憎たらしく感じました。ですが、筋は通っています。ウマルの言う通りです。ここで待ち続けるしかありません。でも、彼らがまたここを通ることがあるのかわかりませんでした。何せ古い教会の跡は地中海の東、死海やガリラヤ湖のそばにたくさんあるのですから。アンティオキアやアレキサンドリアにもあります。どの巡礼路を通るのかわからなければ、どうしようもありません。

「あまり深刻になるな。若いころに女でつらい目を見るのは誰でもかかるはしかみたいなものだ。もう少し落ち着いて僕みたいになれば、いつか家柄のいいお嬢さんを紹介してもらえるだろう。ここだけの話、父さんとそうした話をすることもある。お前も大きくなるまでの辛抱だ。……ところでイスマーイール、お前が目を覚ましかけたとき、懐から面白いものがのぞいていたんだが」

 見れば、兄がイスマーイールの人形を持っています。他の誰にも触れてほしくないヒルデガルトからの贈り物が、異教徒が嫌いな兄の手の中にあるのでした。

「返してよ」

 イスマーイールが手を伸ばしますが、ウマルは高く持ち上げました。これでは届くはずがありません。イスマーイールは起き上がり取り戻そうとしますが、背丈がまるで違いますし、イスマーイールは病み上がりなのです。いくら飛び跳ねても届くはずがありません。

「父さんに知られてもいいのか?」

「それは僕がもらったものだ」

「異教徒の女から偶像崇拝につながるものを手に入れた、ということか。白状したな。父さんに報告しないと」

「やめて」

 ウマルは意地悪をするつもりはないのです。ただ、弟を誤った教えに引き入れようとした連中が憎たらしかっただけなのです。正しい道をそれれば地獄に落ちます。ウマルは大切な弟が地獄に落ちるところなど見たくはありませんでした。

「いいか。あいつらを信じてはだめだ。ここ数十年もの間は連中とは干戈を交えていないが、それは連中をメッカやメディナに近づけないように、この国から大多数を追放したからだ。あの巡礼だって誰が許可したものやら。かつて連中が十字軍として攻め込んできたときどれほど野蛮だったか、歴史を学べばすぐにわかることだ。かつてマアッラが陥落したとき、連中が何をしたと思う。女も子どもも皆殺しにし、汚らわしい野良犬と共にその肉を食らったんだ。あいつらは人食い人種だ。今はおとなしくしていても、いずれは……」

 イスマーイールはウマルにつかみかかりました。これほど腹を立てたのは初めてでした。ウマルは、優しい気性のイスマーイールが見せた怒りの激しさに驚きましたが、弟が正気を失うまで誘惑した異教徒が憎たらしくなるばかりでした。

 

 我を失いそうな怒りには運動が効く。ジョギングをするとある程度気分はすっきりするし、走ることに集中していると、思いがけない着想が浮かんでくるメリットもある。運が良ければ、どうしても取り除けないプロットの矛盾が解消できることもある。現に、実は二三か所修正するべきポイントがあったので、先ほど直しておいた。とはいえ、同時に浮かんできたのはかなり嫌な疑惑だった。瑛理ちゃんが小説を書けなくなったのは、井場のせいなんじゃないだろうか、と。

 考えてみれば、学生時代の井場は他の人の作品を厳しく批判することはあったけれども、筋は通っていることが多かった。なのに、瑛理ちゃんの作品に対してだけは妙に感情的だった覚えがある。どうしてもうちょっと瑛理ちゃんを守ってやらなかったのだろう、と後悔が押し寄せてくる。そうすれば、瑛理ちゃんは彼女の才能を十全に発達させて、今頃は作家になっていたかもしれないのだ。

 井場の憎悪がどこから来ているのかはわからない。やはり、井場は瑛理ちゃんに振られたのではないか、そのうらみでしつこく攻撃しているのではないか。それとも、井場も本当はクリエイターになりたかったんだろうか。理由はどうあれ、井場の言葉が瑛理ちゃんを今でも呪縛してはいないだろうか。

 

 イスマーイールの赤ん坊のように泣き叫ぶ声でマルヤムがやってきました。事情を尋ねようにも、イスマーイールが大泣きしているばかりで、これでは何もわかりません。べそをかくことのある気弱な子でしたが、ここまでかんしゃくを起こしたのを見るのは初めてです。ウマルに尋ねようとしても、彼は厳しい顔をしているばかりです。そして、ウマルの手の中の人形を見ると、はっと顔をこわばらせました。

 それからすぐに、わめき声を聞きつけた使用人に連れられてナースィルがやってきました。イスマーイールは、これで人形を返してもらえると思って少し落ち着きましたが、同時にナースィルが人形をどう判断するかも恐ろしく、いつまでもめそめそしているのでした。

「落ち着きなさい、イスマーイール。……ウマル、これはどうしたことだ」

 ウマルは手短に事情を説明しました。ナースィルはうなずきます。

「よくわかった。イスマーイール、私はあの娘の優しい気持ちを疑っているわけではない。自分の一番大切なものを他人に与える、これは最も難しく、また尊い行為だ。だが、その像は私たちの教えには反するものだ。手放さなければならないぞ。それにマルヤム、お前はイスマーイールがこれをもらったのだと知っていたのだね。……どうして早く知らせてくれなかった?」

「申し訳ありません。子ども同士のことだと思い、事態を軽んじておりました」

「さて、イスマーイール。何か言い足りないことはあるかな。話してみなさい」

 お父さんは穏やかな声をしていましたが、同時にどんな隠し事も見逃さない目をしていました。取引のときも、どんなにずるい相手でさえナースィルをごまかすことはできなかったのです。だからこそ、ナースィルはここまで商売を大きくできたのでした。

「僕は、あの巡礼の女の子のことが好きになってしまいました。あの人形は絶対に捨てたくありません」

 こうして口にすることで、イスマーイールは涙が出てきました。どうしてなのかはわかりません。何も悪いことをしていないのに、怒られているみたいです。もう一度泣き出すと、自分がどれほどヒルデガルトのことが好きになってしまったかが迫ってくるのでした。今すぐに会いたくてたまりません。飛んでいけるものなら、今すぐヒルデガルトのところに行きたいのです。

「僕はあの子と結婚したいです」

 そうすれば、いつまでも一緒にいられるでしょう。

「子どもが何を言うんだ。男と女のことなど何も知らないくせに」

 兄は軽蔑の声を漏らします。

「ウマル、黙っていなさい。私はイスマーイールに話している。……イスマーイール、おそらくお前のその願いは叶わないだろう。使用人としてそばに仕えさせるのならともかく、正式に結婚するためには、彼女に改宗してもらわねばならん。だが、彼らは故郷から何か月も歩いてここまでやってきたのだ。それだけの信仰がある人間が、我々の教えに帰依するだろうか」

「はい。だから僕が彼女の教えを信じたいのです」

 ナースィルは黙りました。庭園の噴水が立てる音がします。水音は途切れることがなく、この沈黙がいつまでも続くように感じられました。それは、時間がゆっくりと過ぎていく音でした。虫が葉をむしばんでいくのにも似ています。遅々として進まないのですが、気づけば樹木全体が食い荒らされているのです。

 どれほど過ぎたころでしょうか。ナースィルは静寂を断固とした調子で破りました。

「馬鹿者」

 それは優しいお父さんから聞いたこともないきつい言葉でしたので、イスマーイールは固まってしまいました。どの教えも同じように尊い、と言っていたのはナースィルだったではありませんか。しかし、ナースィルには表情がありません。

「いいかね。確かにどの教えも人間が自らを律することを説いており、敬うべきものだ。だが、最後の預言者であるあのお方の教えが、最も尊いものだ。神から人類に与えられた最終的な教えであり、救われるための最後の機会なのだ。それを裏切るというのは、慈悲深く慈愛あまねき神の教えを踏みにじることだ。……そんなこともわからないほどお前が愚かであったとは。はっきり言えば、お前に失望している」

 涙がぽろぽろこぼれ、イスマーイールの頬を伝いました。しかし、ナースィルは優しい言葉一つかけようとしません。

「今すぐそれを焼き捨てよ。その人形がお前の迷いの元なのだから。さもなくば、お前を勘当する。私の商売を継ぐことは許さぬ」

 あまりのことに、イスマーイールは気が遠くなりました。マルヤムもおろおろしています。助け舟を出したいのですが、ナースィルの調子があまりにも激しいものだったので、黙ったままでした。ウマルは、思ったよりも厳しい言葉に驚いていましたが、納得もしていました。棄教は死をもって償われねばならないこともあるのです。そして、死ねば永遠に地獄の火で焼かれるのです。そこには渇きを癒す水などありません。父から許してもらうためには偶像を焼く程度で済むのですから、むしろナースィルの寛大さが称賛されるべきでした。ついでに、なくしたと思っていた財布が脱いだ衣の懐から出てきたのは黙っていることにしました。父の機嫌が最悪のときに話すことではないでしょう。

 イスマーイールがしゃっくりあげていると、お役人たちがナースィルのところにやってきました。ナースィルは、あれほど冷たい顔をしていたのに、すぐににこやかな商人の顔になりました。

 お役人たちは、エルサレムから巡礼者たちが戻ってきた、と伝えに来たのです。ナースィルはすぐに家族と使用人に歓迎を命じました。

 

 これは一度、瑛理ちゃんに直接連絡を取ってみなければいけない。僕はホームページで連絡先を確認すると、メールを打った。返事は意外と早く戻ってきた。

「久しぶりですね、先輩」

「こちらこそ久しぶり。サークルの同窓会なんて何年もやっていなかったから。瑛理ちゃんがイラストレーターをやっていたなんて知らなかった。夢がかなったんだね。おめでとう」

「ありがとうございます」

 ぎこちない言葉だ。たどたどしい表現だ。ライン以外でのやり取りは昔よくやっていたことで、緊張する理由なんてどこにもないはずなのに。Re:の文字が不愛想につながっていく。

「ところで、小説家はまだ目指しているの?」

「どうしてですか?」

「片方の夢をかなえたから、もう片方の夢はどうなったのかな、って」

「私は両方の夢をかなえましたよ。言葉と絵で、私の気持ちを伝えていますから」

「本当に?」

「どうして疑ってるんですか?」

 小説を書いているときには、僕は自分の文章を最高だと確信するレベルまではいかないまでも、ある程度は書くという行為に没入できる。けれども、異性とのやり取りをしているときはためらいがちで、一息に言葉を綴れない。適切な単語を選ぶつもりで、結局は生気のない表現を選んでしまう。

 それに、ラインでスタンプを使うようになってから、絵文字を使う頻度が減った。そのせいで、瑛理ちゃんのこの言葉が純粋な疑問なのか、腹を立てた追及なのか、読み取れなかった。

 僕はまだ瑛理ちゃんが返事をしてくれる気を失わないうちに尋ねた。もしかしたら、井場が君の小説の才能をつぶしてしまったのではないか、と心配している。僕は、井場が君に失礼なことを言うたびに注意するべきだった。井場がサークルの和気藹々とした雰囲気を崩す前に追放するべきだった。君の小説の才能は本物だった。僕はまた君の小説が読みたい。そう訴えた。

 だが、帰ってきたのは丁寧だが冷淡な返事だった。

「先輩は昔と変わらず優しいのですね。ご心配ありがとうございます。でも、私は今の仕事に誇りを持っており、今の生活にも満足していますので、先輩は何も気にしなくて大丈夫です。私のやりたかったことは、私の絵と言葉で同世代の女の子を励ますことです。私にとっての小説は、そのための試みの一つにすぎませんでした。それに、私の絵をかわいいといつも褒めてくれたのは、先輩ではありませんでしたっけ?」

 丁寧に言い聞かせるような文章だった。けれども、それはきつい言葉づかいよりもこたえた。僕が瑛理ちゃんよりも幼いことが明らかになったからだ。

「井場先輩、そんな人もいましたね。すっかり忘れていました。確かに失礼なことを言われた覚えもありますけれど、プロットのいい加減さについての批判は的を射ていたように記憶しています。実際、私も小説という表現より、エッセイやブログという手段が向いていると考えるようになりました。編集者も褒めてくれますし、アクセス数も悪くありません。

 そもそも、不愉快な態度を取る人のことをいちいち覚えていては身が持ちません。公の場で何かを表現するというのはそういうことです。それに、女性が書いているというだけのことでいちゃもんをつけてくる人というのは、先輩が思っているよりもたくさんいます。先輩に守ってもらわなくても、私はそういう相手には一人で対処できますから、余計な心配はしていただかなくても結構です」

 

 イスマーイールがとぼとぼと歩いていると、厨房で働きだしたアミナに呼ばれました。何事かと思ってみると、ヒルデガルトがいました。ヒルデガルトは、こっそり巡礼者たちのところを抜け出してきたのです。ヒルデガルトはやつれたイスマーイールを見て驚いて駆け寄ってきました。そして、何も言わずイスマーイールをぎゅっと抱きしめたのです。その瞬間だけ、イスマーイールは自分が人形を抱きしめていたときから感じていた飢えが満たされたのでした。そのままイスマーイールは、腕の中にヒルデガルトを感じました。

 アミナは二人を見ながらうれしそうでした。厨房にやってきたヒルデガルトの気持ちを察することができたのが誇らしかったのでしょう。賢いアミナには簡単なことした。この家に若い人はウマルとイスマーイールしかいませんし、ウマルが異教徒と話すはずがありません。そして、イスマーイールもヒルデガルトも、大切な人から引き離された人特有の目をしていました。だから、アミナは二人を置いてそのまま立ち去ったのです。

 二人きりにはなれましたが、イスマーイールはうれしくもあり、悲しくもありました。またヒルデガルトに会えたことで天にも昇る気持ちがしたかと思えば、人形を返さなければいけないことで谷底に落ちるような思いもしたのです。

「ヒルデガルト、大切なものをくれてありがとう。けれど、これは君に返さないといけない。それに、君にとっても大切なものだよね」

 どれほど返さなければいけない訳を説明しても、ヒルデガルトは受け取ろうとしてくれないのです。イスマーイールの言葉が一言もわからないのでしょう。言葉が通じないというのは、こんなにも悲しいことなのです。自分がどれほどヒルデガルトのことが大好きで、けれども結婚することは父から禁じられていて、それがどんなにつらくて悔しいか、伝えられないのです。この人形をヒルデガルトに返さない限り、それを捨てなければならないつらさ。もしも自分がもっと大人なら、無理にでもヒルデガルトと結婚できるのに、というふがいなさ。そのすべてでイスマーイールの心はぐしゃぐしゃなのでした。そして、自分のことを誰もわかってくれないのが腹立たしくて仕方がなくなりました。頑固なウマルも、厳しいナースィルも、何もできないマルヤムも、そして気持ちをわかってくれないヒルデガルトも。

 とうとうイスマーイールは、自分が何をしているのかもわからないままに、父の命じた通り人形を炉の中に投げ込んでしまいました。ごうごうと炎は燃え盛ります。地獄の火のようです。自分の心が、生きたまま焼かれていきます。

 ヒルデガルトはそれを見るなり走り去りました。どんな顔をしていたのか確かめるすべはありません。でも、見ることができなくて幸運でした。その顔を見れば、イスマーイールの命は痛ましさのあまり絶たれていたでしょう。

「よくやった」

 うしろからウマルの声がします。

「それが正しい道だ。異教徒とわかりあうことなどありえないのだ」

 ウマルは冷たく笑うのでした。笑ったのは、弟が正しい道に帰った安堵の気持ちからだけだったでしょうか。

 

 今の仕事を否定するような言い方になってしまったのだから、こういう返事も当然だ。僕は瑛理ちゃんを怒らせてしまった。瑛理ちゃんは、僕が無意識にライター業を小説執筆よりも下に置いていることを静かにたしなめている。僕は謝罪の言葉をつなぎ合わせることしかできなかった。相手は独り立ちしている三十代の女性だ。どうして僕は、大切に思う相手に過保護な態度を取り、小さな子どものように守ろうとしてしまうのだろう。それが相手の自尊心をひどく傷つけるとわかっているのに。ランナーズハイのときに思い付いたアイディアに飛びつくべきではなかった。

「先輩はあのサークルのことが今でも好きなんだということが、言葉の端々から伝わってきます。先輩にとって大切な場所だったのですね。でも、私たちは私たちで、結構楽しくやっていました。先輩はご存じないかもしれませんが、私と同学年の女子たちは、サークルとは別によく女子会を開いていましたし、今でもちょくちょく顔を合わせています。男子を呼ぼうか、という話になることもありましたけれども、それはお酒の入った場の冗談めかした言葉として忘れられてしまいました。

 でも、ときどき、本当にときどきですけれど、先輩の文章を思い出すこともあります。先輩のここではないどこか、でも確かに頑張れば手が届きそうな場所、そういう雰囲気の文章は結構よかったです。

 今でも、先輩は小説を書いていますか? それなら、影ながら応援しています。ですが、先輩は売れる作家になりたいのか、自分の気持ちを文章にして誰かに伝えたいのか、独特の世界観を表現したいのか、よくよく考えたほうがいいとは思います。デビューしたら読ませていただきます。さようなら」

 それは、同じプロ同士になってから語り合おう、という別離の声だった。だが、三次選考で落ちた僕に何ができるだろうか。僕は未練を見せるまいと、短いがじっくりと推敲した返事を送った。

 僕のスマホはしばらく沈黙していた。夕飯を買いに出かけたが、瑛理ちゃんからは返事はなく、広告が来ただけだった。

 食後、やっと広告とは違う着信音がしたので瑛理ちゃんからの返事だと思ったが違った。ブログからの通知だった。今一番注目されている記事ランキングに掲載されました、とのこと。僕の失恋についてつれづれと綴った文章がバズったらしい。お気に入り数が千件を超えたのだそうだ。試しにツイッターで検索してみると、いくつものアカウントが言及していた。中には、感傷的なコメントをつけて数千ものリツイートがされているのもあったし、僕のブログに言及して閲覧数を稼ごうとするブログもあった。

 僕のブログがバズったことは、悪い気分はしない。けれども、僕は小説家になりたかったのだ。確かに僕は愚痴を聞いてほしかった。そして、多くの人が同情してくれた。見知らぬ人の善意を感じた。けれども、それだけでは満たされなかった。自分の気持ちをだらだらと綴った気持ちで共感されるよりは、自分が編み出した虚構を愛してほしい、というのが僕の本音だったらしい。心は空白のままだった。

 翌日、アラビアンナイトの残りの巻が届いた、と書店から連絡が来た。そういえば非常事態宣言は何日も前に解除されていた。テレワークが続いていたからほとんど意識していなかった。

 僕は落ち込んでいる。これからどうするか。悲しい物語であっても、結末まで投げ出したくはない。

 いつも失恋を語りなおすことで立ち直ってきたのだ。これは失恋ではないけれど、妹みたいにかわいいと思っていた後輩からの敬意を失うのは、それ以上につらい。僕はどうしようもなく、人の気持ちがわからない。昨日は何も書けなかった。イスマーイールの物語の幸福な結末を見つけられる気がしない。アラビアンナイトを最後まで読んだら、思いつくだろうか。あまり気が進まないが、アラビアンナイトを読みながら続きを書こう。「デカメロン」由来の話で元ネタがあるから、なんとか書けるだろう。

 

 食卓では、ナースィルがまた歓迎のあいさつをしていました。

 聖地を巡ってきたからでしょう。誰もが満たされた顔をしています。中庭の前での豪華な食事も二度目です。そして、皆がナースィルの物語を楽しみにしているのでした。そこで、ナースィルは少し長いお話をすることにしました。

 

「魔法の寝床に乗った騎士が妻を取り戻した話」

 

 昔々、サラディンがこの国を治めていた頃のことです。西の国から十字軍たちが攻めてきました。けれどもサラディンは部下を率いて勇敢に戦ったので、戦いに勝った頃には多くのキリスト教徒を捕虜にしていました。

 さて、捕らえられた男たちの中に、トレルロという騎士がいました。かれは気高く誠実で、戦場では決して卑怯なふるまいを見せませんでした。敵を捕らえても命を奪うことはめったになく、捕虜に対しても寛大かつ丁重で、身代金も吊り上げることはありませんでした。ですから、サラディンの兵士たちも彼には一目置いていたのです。

 サラディンも捕虜であるトレルロをそばに置き、敬意をもって遇しました。というのも、十字軍との戦いが迫っていると耳にしたとき、サラディンご自身が密偵として異国に渡り、トレルロのお屋敷を訪れていたのでした。西の国では、サラディンは旅の商人に変装していたのですが、土地の事情に明るくないため、道に迷ってしまいました。すると、鷹狩りから帰る途中に通りがかったトレルロが、このあたりには山賊が出ることを告げ、サラディンをかくまったのです。その晩はサラディンも、敵の事情を視察するという本来の目的を忘れて大いに楽しみ、異教徒にも洗練された人々がいると目の当たりにしたのです。

 二人とも信じる教えこそ異なっておりましたが、高貴な育ち同士通じるところがあったのでしょう。戦場でも敵同士とはいえ互いに尊敬し、トレルロが捕虜となってからは固い友情で結ばれるようになりました。二人とも深い教養を持ち、なによりも鷹狩りという共通の趣味を持っていたからです。和平が結ばれてからも、しばらくここで過ごすようにサラディンはすすめ、トレルロもその好意を受け取ったのです。

 ところが、ある日のことです。トレルロは鷹狩りの最中に手紙を受け取り、それを読むなり落涙したのです。サラディンは友人の見せた涙に胸を痛めながら訳を尋ねました。

 トレルロは切れ切れにこう告げました。

「私は故郷に妻を残していたのです。そして、今日までに帰らなければ、妻は他の男と再婚しなければなりません」

 

 どこにいたのでしょうか、ヒルデガルトは遅れて食卓にやってきました。表情は凍り付いたままです。ナースィルは、それに気づいていないかのように話を続けます。巡礼者たちも、ヒルデガルトの様子がおかしい、とわかっている者はいないように見えます。ヒルデガルトは料理に手を付けません。長い旅で疲れているはずなのに、誰も構ってやろうとしません。大人たちはそれほど料理とナースィルの物語に夢中なのでした。

 

 サラディンは涙を流すトレルロに優しく声を掛けました。

「詳しく訳を聞かせてほしい。役に立てるかもしれぬ」

 トレルロは涙ながらに打ち明けました。

「私たちが傲慢にもあなたがたの国に攻め込む前のことです。私はこの戦いで死んでしまうかもしれない、と妻のラウレッタに告げました。あなたが教えのために戦って死ぬなら、私も誇りに思います、とラウレッタは気丈にも答えてくれましたが、寡婦としての暮らしはつらいことが多いでしょう。そこで私は、私からの便りが絶えて一年と一日が過ぎたら再婚してもいい、と告げたのです。ラウレッタはまだ若く、私たちにはまだ子どもがおりません。周りが放っておかないでしょう。そして、約束を忘れないようにラウレッタは私と指輪を交換して送り出したのです。私の黄金にルビーのはめられた指輪はもともとラウレッタのもので、ラウレッタは対になる私のエメラルドのついた指輪を持っています」

「では、奥方と手紙をやり取りしていればいいではありませんか」

「そうなのです。ですが、先ほどの故郷の知らせには、ラウレッタが明日再婚するとあったのです。おそらく、船が沈んで手紙が届かなかったのでしょう。どうすることもできません。私はラウレッタを失わなければならないのです」

 その告白にサラディンは思わず叫びました。

「友よ、私の胸も痛みで張り裂けそうだ。だが、私に考えがある。今宵の晩餐ののちに、宝物庫に来てくれ」

 その日、トレルロは久しぶりにサラディンと晩餐を共にしました。王はしばらく、大臣や様々な国の公使との食事で忙しかったのです。今日の鷹狩りも何日ぶりかのものでした。それはとても豪華なもので、まるで婚礼のときのようでした。

 食後にサラディンはトレルロを宝物庫に案内しました。そして、空の星や海の砂ほどもある金銀の山を一瞥もせず、部屋の一番奥に向かいました。サラディンは懐から鍵を取り出すと隠し扉を開けました。そこには、一見すると古ぼけた道具ばかりが並んでいました。

「さて、トレルロ。ここには代々伝えられてきた宝や、異国からの贈り物の中で、えりすぐりのものがしまわれている。見るがいい。未来を見通す鏡や老い以外の万病を癒すリンゴ、どれほどの軍勢であっても一枚で覆ってしまえる天幕、それらも無数の宝の一つに過ぎない。そして、この寝床は一晩あれば、そなたの故郷へと飛んで行ってくれる。触れればわかるだろう」

 トレルロはとても信じられませんでした。けれども、尊敬する王の言葉です。そっと寝床に触りました。するとそれは、かすかに浮き上がったのです。トレルロは腰を抜かしました。

「そこに横になり、念じるれば一晩で好きなところへ行ける。だが、しっかりと目を閉じているがいい。高い塔から大地を見下ろすと目を回しそうになるが、この寝床はその何十倍もの高さで飛んでいくのだから」

 トレルロはサラディンの寛大さに言葉もありませんでした。

「陛下、恐悦に存じます。しかし、この寝床はどのようにお返しすればいいでしょうか」

「これは故郷に向かうそなたへの餞別だ」

「もったいないお言葉でございます」

「いや、かつてそなたが館で歓待し、命を救ってくれたことに比べれば、なんということはないのだ。そなたたちの教えではこう説いているそうだな。困っている旅人を助けた者こそが、その旅人の真の友人である、と」

 そこでサラディンは初めて、自分はかつてトレルロを訪ねた商人であったことを明かしたのでした。驚いたトレルロにサラディンは微笑みました。

「奥方には早く無事を見せてやるがいい。そして、故郷に帰っても、時折またこの寝床に乗って訪ねてきてほしい。どうやって互いに血を流さず、共に栄えるかを話し合おう」

「まことに、かたじけなく思います」

「なんの。真の友人に比べれば、魔法の道具などなんでもない。私も何年か前にユダヤ人の友を亡くした。この品々すべてを引き換えにしてでも、彼には生きていてほしかった。我らの友情が、永遠に続かんことを」

 トレルロはサラディンと抱き合い、寝床に横になりました。故郷を念じ、目を閉じます。するとたちまちさわやかな風を感じました。うっすらと目を開けると空が見えます。雲が飛ぶように流れ去ります。不思議なことに、寝床は流れ星のように速く飛ぶのですが、感じられる風は嵐のように激しくはなく、眠りを誘う微風なのでした。サラディンともう少し言葉を交わしたかった、と思いましたが手遅れでした。もう都ははるかかなたです。そういえば晩餐がいつになく豪華だったのは、これで最後だということだったのだな、と今更のように悟ったのでした。

 だんだんと肌寒くなります、北に向かったからでしょうか。でも、凍えるということはありません。魔法のおかげなのです。気持ちが良くていつのまにか寝てしまい、気づけば朝陽が差しています。また少しだけ目を開けると、眼下に地図で見たとおりの地形が見えます。間違いありません。故郷です。一晩の旅だというサラディンの言葉に偽りはありませんでした。

 寝床は庭で行われていた婚礼のただなかに降り立ちました。人々は驚きました。トレルロはサラディンの国の習慣でひげを長く伸ばしていましたし、日焼けをしないように顔を覆っていたので、誰もトレルロが帰ってきたとは気づかなかったのです。

 ラウレッタの隣には再婚相手が座っています。しかも、それはトレルロの旧友でした。トレルロの旧友は好奇心にあふれた勇敢な人でしたので、トレルロに何者かを尋ねました。トレルロは、いきなり名乗っても信じてもらえないだろうと思い、まずは正体を隠すことにしました。

「私は魔法使いです。といっても、恐ろしげな魔法は使いません。何もないところから現れる花や鳥、楽しげな花火や愉快な音楽が私の魔法です。今日はめでたい日なので、東の国から贈り物を携えてきました。お礼は何もいりません。ただこの国名産のブドウ酒を除いては」

 旧友が合図をすると、たちまちお酒が運ばれてきました。

「奥方様のご健康をお祈りして」

 トレルロは気持ちよく飲み干しました。サラディンの国ではブドウ酒は飲めませんでしたから。そして、空にした杯のなかにルビーの指輪をこっそり入れて渡しました。

「奥方様、失礼ながらもう一杯いただけるでしょうか。私の国では、高貴な方から注いでいただけるのが何よりの栄誉なのです」

 使用人がその杯をラウレッタのもとに運びます。ところが、ラウレッタがその杯を受け取り、ブドウ酒を注ごうと中をのぞくと、小さな叫び声をあげて失神してしまいました。

 

 その言葉と同時に、台所から叫び声がしました。若い女性の声です。アミナでしょうか。巡礼者たちは、誰も気に留めた様子はありません。ナースィルの物語に夢中になるあまり、お話と本当に起きたことがわからなくなっていたのでした。

 ナースィルは使用人にさりげなく合図をして様子を確かめさせます。けれども、巡礼者たちの前では何事もなかったかのように語り続けました。

 

 使用人は駆け寄り、気付け薬をかがせます。魔法使いが何か邪なことをしたのでしょうか。トレルロの親友も、見知らぬ男のほうを恐る恐る見ながらも、ラウレッタを揺さぶり続けます。まもなくラウレッタは目をぱっちり開け、涙を流しました。

「ああ、トレルロ! トレルロ!」

 お客さんたちは、ラウレッタが夫を失った悲しみに耐えられず、心の病気になってしまったのだと思いました。けれども、もちろん違います。失神したのは杯の中のトレルロの指輪を見たからです。間違いありません。目の前にいる魔法使いは、死んだと思っていた夫なのです。うれしそうに魔法使いに駆け寄ります。

「トレルロ、生きていたのですね!」

「ラウレッタ!」

 トレルロは顔の覆いを取り去ります。二人は抱き合いました。見間違えようがありません。戦場で傷ついた顔をしていますが、目の前にいるのは夫なのです。抱き合っているうちにトレルロは気づきました。ラウレッタはまだトレルロのエメラルドの指輪をはめたままなのです。

 誰もが驚きましたが、トレルロは皆から好かれていましたから、それはもう大騒ぎです。ラウレッタと再婚しようとしていた旧友もラウレッタのことが大好きでしたが、トレルロが帰ってきたことをとても喜びました。彼は何よりも、ラウレッタが喜ぶ顔を見られたのがうれしかったのです。結婚式は中止です。その代わり、トレルロの凱旋式になりました。トレルロは遠くの国の珍しい物事や習慣を語り、寛大な君主であるサラディンについてもお話ししました。この魔法の寝床もサラディンからいただいたものだと伝え、このように進んだ国とは争うよりも、友となるべきだと訴えました。そうすれば、我々もこのような技術を学べるはずだ、と臨席した大使たちを説得しました。

 騎士トレルロはそれ以来、ずっと夫人と仲睦まじく暮らしました。また、その後もイスラーム諸国との間に立ち、戦争を防ぐことに努め、時折夫人とサラディンのもとを訪れました。そして、いつまでもサラディンとは良き友人であったということです。

 

おしまい   

 

 物語は終わりました。人々は、イスマーイールの嘆きなど知らず、ナースィルのめでたい物語に聞き入っていました。先ほどの叫び声のことも忘れてしまったようです。

 

 ここまでは書き終えた。だが、イスマーイールを幸福にするイメージが、なかなか浮かばない。

 僕は、いっときの感傷から、二度と話しかけてもられないような壁を、瑛理ちゃんに作らせてしまった。きっと今頃、女子会でさんざんネタにされているに違いない。高良先輩って覚えてます? いきなり変なメール送ってきたんですよ。げらげら。一同爆笑。というか、僕を七回目のデートで音信不通にした子も今頃友人と、僕を酒のつまみに飲んでいるのかもしれない。それとも、すっかり忘れているだろうか。だいたい、音信不通にするなんて、告白の返事を断るという形で最低限の敬意を払う価値もないと思われていたということだ。恋愛感情を見せた異性から敬意をもって扱われたことがないのは、これほどまでにつらい。

 僕は井場に電話をかけた。もっとましな人間がいるはずだが、あいにく話し相手は地元の友人を除けば皆無だった。

「井場?」

「なんだよ」

「瑛理ちゃんに連絡とってみたよ」

「連絡先はわかったのか」

「ホームページを見つけた。瑛理ちゃんはプロだし、それで生活してる」

「うむ」

 井場の無造作な返答に、なぜか僕は頭に血がのぼった。

「瑛理ちゃんに指摘されて僕は目が覚めた。瑛理ちゃんは何も考えていない女の子なんかじゃない。自立した立派な女性だ。だから、君が瑛理ちゃんからどんな風にあしらわれたとしても、それは正しかったんだ。君みたいに何も生み出そうとしない人とは釣り合わないし、どれほど批判しようとしても最初から勝負がついているんだ」

 僕が肩で息をしながら訴え終わると、スマホから井場が鼻で笑うのが聞こえた。

「お前、俺が思っていたよりも、はるかに馬鹿だったんだな」

 井場の軽蔑が、瑛理ちゃんから僕のほうに向いた。

「俺はえりりんには小説の才能がないとは思っていたし、えりりんのような思慮が浅くて軽薄な女は、今でも俺が一番嫌いな類の女だ。だが、それだけだ。俺はえりりんのことを好きになったことなど一度もない。どうしてそれがわからない? お前がえりりんに執着し続けているだけだ。だから、それを投影して俺がえりりんに惚れたんだと誤解している。えりりんに対する感情が恋愛じゃない? 嘘をつけ。お前は振られるのが怖かった。だから、最初から勝負に出なかったんだ。もしもえりりんを失えば、モテないお前が普段会話をする女の子がゼロ人になるからな。お前のことだから、女の子と手をつないだこともないんだろ?

 お前の勘違いはそれにとどまらない。無反省に、文章を書くうちでは小説が一番高尚だと信じて疑わない。ライターや評論家よりも、小説家のほうが偉いと思いあがっているのが言葉の端々から染み出ている。そこが一番馬鹿なところだ。えりりんに叱られてもまだ目が覚めないのか。今まで黙っていたが、俺はお前のその鼻持ちならない態度がずっと嫌いだった。俺は小説家なんて最初から目指しちゃいないんだよ。お前がいつまでたっても文学賞が取れないみみっちい劣等感を、勝手に俺に投影しないでくれ。……ところで、お前は最近のニュースは追っているか」

 返す言葉もない僕は、その脈絡のない問いに困惑する。

「ブラック・ライヴズ・マターだ。書いている小説の中に、間違っても『奴隷』という表現は書くなよ」

 僕は原稿に検索をかけてみた。見つからない。だが、安堵した僕を井場は追撃する。

「幻想に逃げているくせに、少しは世間のことを意識しているようだな。だが、これからお前が書こうと思っている作風は旗色が悪くなるだろうな。自分の属さない文化を勝手にテーマに選ぶことは、人種・民族差別、文化の窃盗・略奪に当たるとして糾弾されるだろう。白人は黒人の文化を模倣してはならず、俺はゲイやレズビアンの表現を真似てはならない。これは世界的な潮流だ。覆すことはできない」

 そんなことはない、と僕は小さくうめいた。テッド・チャンだってアラビアンナイト風のものを書いただろう。

「正しいか正しくないかではない。所詮はパワーバランスだ。当時は今のように炎上しなかったし、マイノリティがマイノリティの文化を書くのはまだ許されていたのかもしれない。だがもう遅い。流れに逆らえばつるし上げられるだろう。そんな中で、お前がやろうとしていることは到底許されることではないのだ。もはや時代が許さない。お前は時代遅れなんだよ。怒り狂う群衆を恐れよ。お前の言葉は無力だ。他者とわかりあうことなど、決してありえないのだ」

 僕には井場がどこまで本気で言っているのかがわからなかった。彼は頭の回転が速く、断片的な事実からどのような結論も導き出すことができるのだった。彼の気に食わない発言をした部員は、いつも徹底的にやっつけられていた。

 しかし、今の井場は僕に呪詛をぶつけるためだけに、政治的な語彙を操っているだけだ。僕が自由に小説を書くことに罪悪感を覚えるように、現実の人種差別を利用している。それは、差別を利用した最悪の行為だ。実際の差別を解消しようとせず、他人にレッテルを貼って貶めるためだけに利用する、口先だけの誰も救われない浅ましい行いだ。

 確かに、僕は瑛理ちゃんや井場の意図を理解できなかった。だから、同じように他の文化に属する人を理解できないかもしれない。この小説の中でも数々の誤りを犯していることだろう。イスマーイールとウマルの関係も、実のきょうだいにしなかったことは、不適切かもしれない。その時は謝罪し、改稿したい。章をまるごと削除することもあるだろう。でも、僕の表現が正しいかを決めるのは僕らではなく、当事者と次の世代だ。井場が今やっていることは、とにかく間違っていた。これはただの差別の肯定と再生産だ。だから、僕はそこにまっすぐに立ち向かう。

「知ったことか」

 僕は、数年ぶりに声を荒らげていた。瑛理ちゃんへの敬意を欠いた人間が、女叩きをしていた人間が、反差別を訴える? ちゃんちゃらおかしい。

「僕は僕が救われるために書いているんだ」

 そして僕は通話を切り、井場のアカウントをブロックした。

 これほど大声を出したのは、何年ぶりだろう。

 

 そこにイスマーイールが駆け込んできました。その様子に、皆がどよめきました。悲鳴を上げる人もいます。ナースィルも思わず息をのみました。というのも、イスマーイールは右手にひどいやけどをしていたのです。服も焼け焦げていて、まだ煙が出ています。食事では右手を使うのがこの国の礼儀なのです。なのに、一生左手を使わなくてはならなくなるほどのひどいやけどに見えました。

 それに気づいたヒルデガルトは水差しをつかむと急いでイスマーイールの手にかけました。イスマーイールは苦痛に顔をしかめましたが、これでいいのです。やけどには流水が効くからです。そして、ヒルデガルトはイスマーイールを噴水にまで連れて行きました。

 ひどい水膨れです。でも、本当にひどいやけどは水膨れさえできないのです。苦しそうですが、このまましばらく冷やせば、きっとよくなるでしょう。使用人たちもあわてて薬を持ってきました。いろいろな国の言葉で、何が起きたのかを話し合う声がします。

 一息つくと、イスマーイールの右手につかんでいるものが目に入りました。それは、ヒルデガルトの聖母像です。焦げていますが、少し汚れた程度にしか見えません。大鍋での料理にまだ慣れないアミナの火加減のせいでしょうか。それとも、火の中心部はかえって温度が低いからでしょうか。理由はわかりません。でも、ヒルデガルトはイスマーイールの想いが真剣なことはわかったのでした。イスマーイールが自分の一時の激情に任せた過ちに向き合ったのです。

 ヒルデガルトは、皆に事実と異なる説明をしました。私が火の中に落とした聖母像を、彼が拾ってくれたのです、と。誰もがイスマーイールの優しさに打たれました。そして、二人の愛情を祝福したのです。

 その中でナースィルは腕を組み、考え込んでいました。イスマーイールがこれほどまでに異教徒の心をつかんだことに驚いたのです。しかも、ナースィルはイスマーイールのことを気が弱い子だと思っていたのですが、実は大切なものを守るためになら無茶もするのだ、愛のためなら火を消すことを忘れ、燃える人形を手づかみするほど夢中になるのだ、と知ったのです。もしかしたら商人ではなく、他の仕事が向いているのかもしれません。そこで、進むべき道を見極めるため、もっと学問をさせることを決めたのでした。

 その晩、ヒルデガルトはつきっきりでイスマーイールを看病しました。二人はまた手を握り合って、夜を過ごしたのです。互いの言葉はわからないままです。でも、あの晩のように思いはふたたび通じています。あの時よりも強くなったかもしれません。ヒルデガルトも大人たちから説得され、この家に聖母像は置いて行けないことはわかりました。

 二人はひとまず別れなければなりませんでした。でも、心のつながりは永遠に失われないでしょう。

 

 かなり痛そうだが、何とかハッピーエンドに舵を切ることができた。だが、井場のかけた呪詛で僕は苦しい。井場が、自分以外の人間を表現することは罪悪だ、と僕を呪縛しようとしたからだ。

 確かに、これから何かを書き続けるためには、考えざるを得ない。どのような形の表現規制も腹立たしいが、僕らがどれほど容易に偏見に染まるかは、歴史を見れば明らかだ。何らかの形のガイドラインは必要だ。それに、まったくの自由というのは逆につまらないもので、適度な制約の中で創造性が生まれるのだとも知ってはいる。けれども井場は、僕の想像力がそうしたルールを息苦しいものに感じるように、僕の心をねじまげようとした。

 僕には未来を見通すことなんて到底できない。よその国を舞台としていても、できるだけ取材をして相手に敬意を払っている限り、そうした創作のすべてを封印するべきだとは、今のところは思わない。他者への好奇心は、たとえ浅薄なものであったとしても、いつかは真の理解に達する道になると信じたい。実際にアラビアンナイトを最後まで読んでみて思うのは、アラビアンナイト自体が、異文化間の理解や交錯、憧れや誤解から生まれた豊かな物語集であるとさえ言える、ということだ。

 でも、人間の考え方は変わるものだ。僕が書いたものがやっぱり不適当だということになったら、僕はそれを撤回し、より良い表現を探し求めることだろう。変化するというのは悪いことではない。正直、十年や二十年前の小説の人権感覚の違いにも驚いてしまう自分がいて、できるだけ世間の潮流から超越したような態度を取りがちな僕もまた、世界的な価値観の変化とは無縁ではないのだと知る。

 正直なところ、アラビアンナイトを読んで、不快な個所もいくつかあった。障害者を笑いものにし、異なる宗教への偏見にまみれ、人種差別的比喩がまかり通っている。それは原典の描写か、翻訳者の筆によるものか、そこまではわからない。ただ、当時はそうだったのだ、という資料として僕は率直にそれを受け止めたい。そもそも、シェヘラザードが毎晩物語を語るきっかけになるのも、王の女性嫌悪のためだ。

 古典を語りなおすというのは、良いものだけを未来に伝え、悪いものを改めていく過程だ。それは過去の忘却ではない。細部まで正しく記憶し、注釈をつけることだ。僕ら人間の犯しがちな間違いを見つめ、改めていくことだ。

 僕は、文章を書くことがアイデンティティの一部になっている。そして、書きながら考えている。書くことで自分を救済しようとしている。だから、その救済の過程を描いた文章に紛れ込んだ偏見で、読者を傷つけたくない。論理的ではないかもしれないが、それが僕の生の感覚だ。

 それと同時に、どの登場人物も見放したくない。本当は敵役であっても。彼らとて僕の一部なのだ。僕にとって小説を書くことは、無数に分裂した自分同士の対話によって、世界と向き合う手段を見つけ出そうとする試みだ。

 当然、イスマーイールたちには幸せになってほしい。イスマーイールは、僕でもあるのだから。けれども、過去のどの時代を想定しても、彼らはいつか戦乱に巻き込まれる。歴史を知っている僕は、その悲しい結末を変えることはできない。

 それを解決する手段は何か。簡単なことだ。舞台を遠い未来にすればいい。庭園に舞う人に慣れた鳥も、人の心を惑わす香りの花も、すべては遺伝子編集のなせる業だと、ここに設定する。前時代的な文化は、全地球的な災厄のせいだということにする。僕は幻想が好きだ。SFも好きだ。未来は未確定だ。だから、僕は好きなように語ることができる。

 僕らが正しい選択をすることで、よりよい未来がやってくる。僕は現実で適切な言葉を選ぶことで、未来に生きるイスマーイールとヒルデガルトを幸福へと導くことができるだろう。未来を肯定的に描くことで、僕はそんなことを伝えたい。

 

 朝が来ました。イスマーイールのやけども落ち着きました。巡礼者たちは都を出ていきます。

 何日もすれば、彼らは軌道エレベータに乗って天に戻っていくでしょう。キリスト教徒とムスリムが、軌道上と地上とでそれぞれ別れて暮らすようになって何十年も過ぎています。けれどもいつか、かつての時代のように、まじりあって暮らす日が来ることでしょう。

 ヒルデガルトもイスマーイールに別れの言葉を告げました。

「さようなら」

 それはヒルデガルトの唯一知っているイスマーイールの国の言葉でした。イスマーイールの頭の中には、いつまでもヒルデガルトの最後の言葉が響いていました。

 でも、これが最後だなんて、イスマーイールは認めたくありませんでした。イスマーイールは、もう一度ヒルデガルトに会うことを望んでいました。イスマーイールは、自分は他の国にぼんやりと憧れることはあったくせに、他の国やそこで暮らす人々について、そして話す言葉について、知らないことばかりだった、と学んだのでした。ただ憧れているだけではだめだと学びました。そして、少しでのヒルデガルトに近づくために、熱心に学問にはげみました。特に、ヒルデガルトの生まれ故郷の言語については、まるでそこで育ったかのように流暢に操るまでになりました。

 何十年かのちに、イスマーイールは商売をすべてウマルに任せて、大使としてキリスト教徒の国に赴任することになります。そして、キリスト教世界とイスラーム世界が、全面的な核戦争を起こすのを回避するのですが、それはまた別の物語です。

 イスマーイールはヒルデガルトが去っていったほうを見上げます。かすかに見える軌道エレベータが、風に揺れてもいないのにきらきらと輝くのでした。

 

終わり   

 

 少しは前向きな結末にできただろうか。

 僕はこの話を書くうちに、いくつものものを失った。青春時代の熱気を振り返っていただけなのに、結果的に瑛理ちゃんからの敬意を失った。そんなもの、最初からなかったのかもしれないけれど、僕は打ちのめされた。さらに、現実に井場との友情を失い、僕が青春時代に属していたサークルが理想郷だった、という幻想も失った。僕は小説家にはまだなれず、次の物語のアイディアは浮かばず、ダイバーシティの時代の中でどのような表現をするのが適切か、という問いにも答えられていない。創作することは高尚だという拠り所さえなくして、僕は一人で暗いところに立っている。今まさに、ニュースでアヤ・ソフィアが博物館からモスクに戻される、と報道されていたのを見た。僕の表現したかった文化の融和が、また後退したのかもしれない。

 とはいえ、立っているだけではどこにもたどり着くことはないだろう。僕はどこかに向かって歩き出す必要がある。自分が傷ついた経験を再考するために書くし、自分が何も見えていなかったことを記録するために書き、自分という読者を楽しませるために書く。

 書くだけではなく、また新しい恋を見つけたく思う。まだ恋には早いとしても、どこか新しいコミュニティと友人を探しに行こう。オンラインでもオフラインでも構わない。

 そうすれば、小説のアイディアも何か浮かんでくるだろう。

 

了   

 

【参考文献】

アントワーヌ・ガラン著、西尾哲夫訳『ガラン版 千一夜物語』(1)~(6)岩波書店

佐藤次高著「世界の歴史〈8〉イスラーム世界の興隆」中央公論新社

アミン・マアルーフ著、牟田口義郎・新川雅子訳『アラブが見た十字軍』リブロポート

タミム・アンサーリ著、小沢千重子訳『「イスラーム」から見た世界史』紀伊国屋書店

ロバート・アーウィン著、西尾哲夫訳『必携アラビアン・ナイト―物語の迷宮へ』平凡社

高野秀行『イスラム飲酒紀行』扶桑社

角野栄子著『講談社のおはなし絵本館 (11)』講談社

ジョヴァンニ・ボッカッチョ著、平川祐弘訳『デカメロン』(上)(中)(下)河出文庫

テッド・チャン著『息吹』早川書房

文字数:47905

内容に関するアピール

ゲンロンSF創作講座で学んだのは、自分の意外な武器でした。

つまり、適度に力を抜いた日記を書くような文体と、児童文学のような「ですます体」が、普段のやや硬く過度なまでに論理的一貫性にこだわった文章よりも、評判が良かったのです。

自分は、この新しい武器を携えて、最終実作に挑みます。もちろん、そればかりではなく、自分がいままで用いてきたものを全弾投入します。すなわち、個人的な記憶に触れる私小説、書き手自身や書かれている作品への懐疑、自己言及的な構造などです。また、講座を通して扱うことが少なかった政治的テーマにも切り込みました。政治的・同時代的なものに触れることで、この作品を他ならぬ自分が現在書いたのだ、ということを刻むつもりです。今、令和二年の六月から七月にかけてしか書けないSFを目指しました。

ですが、なによりも重要なのは、未知のものに触れた時のワンダーです。そのワンダーは異文化に触れるときに覚えるものであり、ひいては他者の意外な面をみるときにも感じられます。本来ならば、誰かと普通に会話するだけでも、センス・オブ・ワンダーは感じ取れるものなのかもしれません。

加えて、自分にとって最大の魅力であるSF的な想像力も、物語の一番の肝で用いられます。本作は技術による人類の変容や、既存の倫理に対する懐疑をほとんど含んではいないという意味では、SF度は低いかもしれません。ですが、想像力によって書き手と読み手が救済されることを物語の主軸としており、その面ではSFの役割についても問いかける作品になります。

最後になりましたが、一年間大変お世話になりました。新しい武器を見出しただけでも、この講座に参加した甲斐がありました。また、多少なりとも読みやすい作品になっていたとすれば、それは梗概段階で疑問点を指摘してくださった同期の皆様のおかげでもあります。この場を借りて御礼申し上げます。

文字数:788

課題提出者一覧