僕らの時代
2013年9月9日(月)09:20
教室に入った瞬間に、すべてがスローモーションになる。スマートフォンを持って教室内を自由にうろちょろしている生徒たちがこちらに向ける視線や、開いた窓から吹き込む肥料のにおいの、それらすべてが自分に向いているとタカハシカズギは思った。チャイムが鳴り始め、雑誌をめくっていた女子たちや、パズドラをしていたサッカー部の男子たちが徐々に席に戻り始める。タカハシは教室の最前列にある自分の席にたどり着くと、椅子をゆっくりと引いて、白いイヤフォンが伸びたスマートフォンと、そしてOUTDOORのリュックサックを机に置いた。後ろは振り返らない。クラスの連中が全員、椅子を引いたまま立っているタカハシを見ていた。クラス委員のヤマモトミキがタカハシに近づいてきて、あの、タカハシくん、ユカワさんのお父さんに会ったって聞いたんだけど、とやや遠慮気味に尋ねた。
「それで、ユカワさんのお父さんは、あのLINEのこと知ってたり、した?」
あたしもそうだけど、クラスの他の子たちのことも、なんていうの、誤解?ていうのかな、彼女のご家族にされてたらヤだなと思って。ヤマモトミキはそういって前髪をかきわける。そのとき、教室の後方にある引き戸が乱暴に開いて、イイジマショウタが姿を現し、クラスの空気が一瞬で変化するのをタカハシは感じ取った。ヤマモトミキは視線を落として自分の席に戻り、イイジマはすれ違いざまにヤマモトを一瞥した。そしてタカハシの横に立つと、しばらく黙って彼の顔や足許を睨み付けた後で、タカハシの椅子を蹴り飛ばした。
「余計なことしゃべるなよ」
もうだれも、きのう開催が決まった東京オリンピックのことなど話していなかった。どっかのバカのツイートのことも、なめこのキャラクターが出てくるスマホアプリのことも、そしてユカワマイと、昨日起きた屋上の事件のことも全部、クラスの話題から消えて、そのかわり、ただ黙って教科書を取り出したり、ペンケースのファスナーを開けたりして、べつになにも起きてはいないとでもいうふうに、粛々と授業の準備を始めていた。イイジマはそれを確認すると、舌打ちをしてから、2列ほど後ろにある彼の席に乱暴に座った。タカハシは自分の椅子を戻すと静かに腰掛けて、机の上に置いたままのリュックサックに手をついて、ただ静かにそのときを待った。担任の男性教師が教室に入ってきて、挨拶もなく、右端の席から順に一枚のプリントを配り始める。保護者会のお知らせとか、標準学力テストのマークシートを配るように、そこになにかがあるとは感じさせない動作で紙を配って、最前列の者は手早く後ろの席にプリントを回すようにと、たばこくさい息でそういった。タカハシは担任に渡された安いコピー用紙の束を見つめる。「八街道市教育委員会」「いじめに関するアンケート」書かれている下に質問が並び、「はい」か「いいえ」か「どちらでもない」のいずれかに丸をつけるよう求められていた。「これはいじめに関するアンケートです」「右上にクラス番号氏名を記入しなさい」「今の気持ちや知っていることを隠さずに答えなさい」「クラスメイトが自分や他の友人の悪口をいっているのを聞いたことがある」「インターネット上でクラスメイトの悪口が書かれているのを見たことがある」「学校の中で暴力が振るわれているのを見たり聞いたりしたことがある」「記入された内容によっては学校内で面談を実施する予定です」タカハシはプリントの束を見つめたまま、両手を握りしめて頭を伏せていた。顔を上げることができなかった。後ろの男子が怪訝な顔をしている。担任が咳払いをしてタカハシから残りのアンケートの束を受け取り、後ろの生徒へと渡す。みんなもう知ってるかもしれないけど、と担任は前置きして、きのう、他のクラスでいじめが原因だと思われる事故、があって、学校としてもこれを重く受け止めている、ついては調査に協力するように、ということをいった。ナカガワというその男性教師は、デサントのウィンドブレーカーの袖をめくりながら、もちろんこのアンケートの結果は成績に響くからな、と付け加えた。シャープペンシルの先端が紙の上をすべる音や、後ろの方の女子のひそひそ話す声や、切れかかった蛍光灯がカンカンと鳴る音や、担任の吐いたタバコ臭い声が、どんどんタカハシから遠ざかっていくのがわかった。すべてが自分の手が届かないところへ行ってしまう。教室全体がゆっくりと音を立てずに伸びていく。世界が離れていく感覚。あの日、つまり2013年9月3日の朝、タカハシは初めて隣の席のユカワマイと会話をした。タカハシは空席になっているユカワマイの席を見つめる。何かがやってくる、とタカハシは思った。もう取り返しがつかない。起きてしまったことは変えられないし、失われたものはもう戻らない。何が足りなかった?とタカハシは思う。もうすぐ破滅がやってくる。廊下から誰かの争う声が聞こえる。何人かの生徒が顔を上げて廊下の方に目をやる。もうオリンピックやってんのかよ(笑)と誰かがつまらない冗談をいったそのとき、教室の前の引き戸が開いて、どこかのクラスの男子生徒が姿を現した。眼鏡をかけて痩せたその生徒の後ろでは、背の低い太った男子生徒が、いまにも泣き出しそうな顔をして彼を引き留めようと声を上げている。もうやめようよタケダ、と背の低い生徒が懇願している。タケダというその生徒は、イイジマと目が合うと、すばやく、だが静かな動作で、誰も座っていないユカワマイの椅子の背もたれに手をかけた。クラス全員がそのタケダという生徒とイイジマのいる、右から2列目の席に注目していた。ナカガワが組んでいた腕を戻してタケダに声をかけようとする。タカハシは目を見開いたまま、タケダの動きを追い続ける。誰だよおまえ・・・とイイジマが口を開くと同時に、タケダはイイジマの前頭部にユカワマイの椅子を振りおろした。鈍い音がして、イイジマの身体が座っていた彼の椅子から落ち、イイジマの後ろにいた男子が悲鳴を上げて立ち上がった。筆記用具やノートが床に散らばって、白いアンケート用紙が何枚も宙を舞っている。あのときの屋上と同じだった。生徒たちは歓声とも悲鳴ともつかない声を上げながらめいめい席を立って、イイジマとタケダの周りを取り囲んでいた。クラスメイトのブルーのワイシャツの間から、イイジマの頭部から、その赤黒い染みが床に広がっていくのが見える。ナカガワが生徒たちの間を縫って、目を開いたまま動かないイイジマのもとへ走る。おまえなんか死ねばいい、とタケダはいった。どうしてあいつが死んだのにおまえは学校へ来てるんだ?きのう屋上であいつに何したんだよ、おまえが殺したくせに、おまえが死ねよ、そのまま死ね。また教室のドアが開いて、他のクラスの教師たち数名が中に入り、泣き叫ぶタケダともうひとりの生徒を羽交い締めにする。クラスメイト達は総立ちで、悲鳴を上げたりスマホで撮影をしたりしている。血が足元に広がり続ける。どこかのクラスの担任教師が白い担架を運んでくる。タカハシは生徒たちの輪から外れ、ゆっくりと後ずさりして席に戻る。聞き覚えのある声が彼の頭の上から聞こえ、巨大な影が彼の机に腰かけた。つやのある白い機械、人間には読むことのできない情報が書かれた模様、オレンジに光る二重の輪の瞳、流線型の頭部を持つ人間離れした姿の金属質のアンドロイド。昨日の朝まで原稿を書きながら、ずっと頭の中でその演技を見ていた声と姿。タカハシは椅子に座って、目の前に現れた空想上のキャラクターを見つめている。世界を、救って、死ぬために、やってきた、とそのロボットはいった。もう彼の声以外はタカハシに届かないし、同時に、教室にいる誰も、もはやタカハシのことなど気にしていないのがわかった。その機械は、まるで小さい子供が蟻の行列を観察するようにタカハシの顔を覗いていた。彼は、橙色の瞳を点滅して微かな電気音を鳴らすと、ゆっくりと窓の方に視線を移した。きのう、東京でオリンピックが開かれることが決定したその朝、つまり2013年9月8日午前7時すぎにあの「生徒」がいて、そして破滅したその屋上を彼は指さした。鉄でできた灰色をした指の先に、屋上から垂れ下がった、学校のスローガンが書かれた幕が揺れていて、タカハシは、本来書かれているはずの標語ではないものがそこにあることに気が付いた。飛び降りたその生徒のクラスも名前も知らなかった。ただ彼が、きみの小説を読んでいる、とあの部室の前でタカハシにいったことと、イイジマがきのう、屋上でその生徒の後ろに立っていたことだけは、はっきりと覚えていた。その垂れ幕が、房総半島特有の砂と肥料の臭いが混ざった風に揺れている。「世界にはばたけ第二中」というスローガンが何かで上書きされてい。きっと、あの「生徒」がきのう書いたんだ、とタカハシは思った。妙な確証があった。タカハシがきのうの朝立ち寄った文芸部の部室、その隣の空き部屋に転がっていた塗料のスプレー缶を覚えている。タカハシはその文字を静かに読み上げた。黒板の横にある内線電話が鳴り始める。教室の騒乱はやまない。ロボットはタカハシの肩に手をやる。もう手遅れだ、わかってる、そうタカハシはつぶやく。世界のおわりがきてしまった。担任のナカガワが慌てて内線電話に飛びつく。イイジマが担架で運ばれていく。イイジマの腕が垂れるのが見える。何かが足りなかった、あの約束を果たしたら全部を救える気がしたんだ、でも何かが足りなかったんだ、今更気付いてももう遅いんだ。タカハシはそうロボットにいった。受話器を持ったまま、ナカジマがタカハシと、そしてユカワマイの席を交互に見つめている。タカハシの机に置かれたスマートフォンはずっと同じ曲をループさせている。白いイヤフォンから洩れる微かな音。ユカワがタカハシに与えたプレイリストの3曲目、ジョイ・ディビジョンの低い歌声。ナカガワがタカハシにそれを告げるために、息を大きく吸い込む音がタカハシにはわかった。この歌と同じだとタカハシは思う。そう、魂を得るのだ、すべての感情と引き換えにして。
屋上の垂れ幕にはスプレーでこう書かれている。
世界を救って、死ね。
2121年日時不明
4発の熱核兵器による熱と暴風に耐えた地上230メートルの廃墟の頂上で、直径135キロメートルの爆心地の周囲に点在する投射レーザーのあかりを、シロノスは眺めていた。少なくとも31億秒前まで、ここには人口3200万人の都市圏があった。内包される無数のネットワーク。結局、人類が滅亡し、その後釜を託された人工知能たちも、ネットワークの一部に過ぎなかった。1200万のプログラム、230万の躯体、一万4200の爆心地を囲む躯体都市圏。だがシロノスは違う。彼は独立している。目的を果たす。彼方から空中早期警戒艇のエンジン音がふたつ。ネットワークに接続していない熱源はすぐにPANAMの戦略AIに感知される。ヒトの滅亡後、一度も晴れたことのない塵のかかった空をふたつの明かりが突進してくる前に、シロノスは多重装甲に覆われた両腕を広げて下へ降りた。崩落した長大橋を支える二本の尖塔の間に作られた坑道の周囲には無数の戦闘躯体が集結している、固定式の銃座から放たれる貫通弾、PANAMのネットワークを駆け巡る警戒情報、シロノスの頭脳になんとか接続しようとする防疫プログラムたちがシロノスの電子視界にめまぐるしく明滅した。PANAMが建造した全世界30機ある陽子加速施設のうち、その中心的機能を有し、かつ世界最大の出力と規模を持つのがこの16号クレーターだった。爆心地外縁の直下大深度に建造されている陽子加速器、そのすべてがまもなく起動する。そして宇宙のすべてのエネルギーを爆発させ、世界は再び終わるのだ。PANAMはなぜそんなことを?人類滅亡後も戦争を続けるプログラムが、どうして世界を終わらせるものを建造したのか?そして、どうして自分のようなAIがPANAMによって創られなければならなかったのか?泥炭と化した旧横浜港に空いた、円筒形をした垂直の坑道を自由落下で降りながら、シロノスは、自分と瓜二つの躯体が穴の底で待ち構えているの検知してその思考を止める。シロノスとは違い、黒い装甲で覆われた躯体。彼はシロノスを指さして、そしていった。
「ねぇ、教科書見せてくんない?」
2013年9月3日(火)09:05
CAMPUSのノートにロボットの絵を描いていたタカハシは、右隣の席のユカワマイにそう声をかけられて、身体がコンマ数秒だけ重力から解放されたのがわかった。え?え?え?と声にならない声を上げているうちに、ユカワはさっさと机をずらしてタカハシの机に接続し、ごめん借りる、とだけいってタカハシの教科書をふたりの間に置いた。それ、かっこいいね、てか、絵、うま。シャープペンシルの先端で、タカハシがノートに描いていた“シロノス”というロボットの絵を指しながらユカワはいう。タカハシは顔を真っ赤にしながら慌ててページをめくった。はるか後方の女子生徒が教科書を持って立ち上がり、「いちご同盟」の一説を読み始め、国語教師はギシギシと音が鳴る事務椅子に座ってそれを聞いている。病院の食堂でカツ丼を食べるシーンで、あー腹減るわ、まだ2時間目なのにといってユカワが笑った。エアコンがないので蒸し暑い教室では、赤や青をしたアクリル製の下敷きや、ポカリスエットのロゴが入った真っ青なうちわで何とか身体に風を送ろうとしている生徒が何人かいて、教室内の湿度とは反対に、熱で乾いた畑やグラウンドから舞い上がる土煙が、独特の匂いを教室のなかに送り続けていた。教科書、間違って上巻持ってきちゃった、ヤバイよね、とユカワはいって、タカハシの教科書をめくる。キョドるな、落ち着け、自然に、気の利いた答えをしろ、とタカハシは言い聞かせながら、ヤバイね、とだけ答えて、自分のバカさ加減に泣きたくなってしまった。ユカワはいつも色違いのイヤフォンをして、スマホで音楽を聴きながら教室に入ってくる。お気に入りの音楽があるというのは、13歳になったばかりのタカハシにとってすごく大人のように感じられた。ショートボブと黒縁メガネの下にあるユカワのまつ毛をちらっと見て、ユカワが怒っていないことを確認しようとしたそのとき、教科書に目を向けたまま、「ねえ、タカハシくんって、小説書いてるって本当?」とユカワから尋ねられたので、タカハシは自分の喉が一瞬だけ痙攣するのを覚えた。
「文芸部とかさ、興味ないの?」
窓の外からジェット機の轟音がして、けれどもユカワの声は確かにはっきりと聞こえた。
ユカワはタカハシに、ある計画を打ち明けている。タカハシはもう一度、喉の筋肉を震わせ始める。
2021年10月7日(木)18:55
東京メトロ綾瀬駅から徒歩5分のアパートにユカワはいた。ドンキホーテで買った22インチの液晶テレビの前に座って、大学のゼミで明日使う本がアマゾンから届くのを待っている。テレビの画面の右端には、赤いポップ体みたいな字幕で19:10と表示されていて、画面下部には「東京五輪中止から2年」というタイトルがスクロールされている。そして中国のなんとかという国家主席の2年と数カ月前の会見と、国民連合という政党が、2012年の衆議院議員選挙で第一党になったときの映像が交互に流された。イケアのカフェテーブルに足を乗せたまま、ユカワはそれをなんとなく見ていた。わたしたち中華人民共和国の人民は、民族差別を是とする政党が、民主主義によって日本人民の総意として選ばれたことに強い憤りを覚えます。世界の人々が希求してきた社会正義を守るためにも、誠に遺憾ながら、来年2020年東京オリンピックを、中華人民共和国は正式に辞退いたします。そしてボイコットを表明する国は北朝鮮も加えてふたつになり、それがASEANに広がり、ロシア圏とアフリカ、中南米諸国に広がった。EUの宣言は日本中に衝撃を与え、米中首脳会談で二大国の関係は決定的になった。この島国にいる誰もが中国を憎んだ。「この暴力的な出来事を、わたしたち日本人はけして忘れてはいけません」と総理大臣が今朝の会見で述べている映像の左端には明日の天気予報が表示されている。東京地方、は、予想最高気温摂氏27度、降水確率0%。VTRが終わり、NHKの解説員がコメントをいうところで、ユカワマイは耳にAirPodsを挿した。ⅰPhoneのアマゾン・アプリをスクロールして、商品到着を今日昼2時までと依頼していたことを確認すると、足つきマットレスに飛び込んだ。クソ。全部クソ。洗濯機の中でいいカンジになっている洗濯物や、あと5分でクソ面白くもないバイトに出なきゃいけないのに、「ただいま配送中」のまま更新されないアカウントページや、WiFiがブツブツ切れることや、遠くで鳴っている雷や、TVの画面の隅に「受信契約のお願い」が表示されていることが、ユカワの神経を逆なでした。ぐしゃぐしゃのシーツの上で目を閉じてプレイリストからサカナクションの「ネプトゥーヌス」を流そうとした時、ついにチャイムが鳴ったので、ユカワは飛び起きて玄関へ向かった。空になった爽健美茶のボトルを蹴とばして、絶対に配達員に文句をいってやると心に誓ったユカワは、そのドアを開けた瞬間に息をのんだ。運送会社のマークが入った緑色のポロシャツを着た配達員の男性は、脇に荷物を抱えながら伝票を出して、ユカワマイさんでよろしいですか、印鑑かサインをお願いします、といって顔を上げた。冷たい風が吹いて、空が光り、雷の音がしている。彼が胸ポケットからボールペンを出そうとした時、ネームタグに「高橋和樹」と書かれているのがはっきりと見えた。タカハシカズキ。ユカワはネームタグと配達員の顔を交互に見る。雨が降り始めて、電線が風でビシビシとしなり、自転車や原付が濡れたアスファルトを走る音や、常磐快速線の警笛や、パチンコ屋から漏れ出るじゃらじゃらとした音楽や奥の方から順番に点灯し始める廊下の蛍光灯や、真っ白いカーテンのように見える降り出した雨や、山口一郎の歌声が、その配達員の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていた。2013年、幻になってしまったオリンピックに大人たちが浮かれていたとき、タカハシカズキとふたりで成し遂げようとしたことを、ユカワは思い出しはじめていた。なにかを話したいとユカワは思ったが、何も思い浮かばなかった。なにかが記憶から欠落している。タカハシに気付いてほしいとユカワは思いながら、それでも黙ってボールペンでサインをした。明日朝のゼミで使う教科書の入った段ボール箱をユカワが受け取ると、タカハシは返された伝票を見て、ボールペンをポケットへ差し込み、ハンディターミナルに受領データを打ち込んでから、運送会社のキャップのつばに片手で触れると、ありがとうございました、といってユカワに背を向けた。まるでアパートの廊下が伸びていくような感覚をユカワは覚えた。声をかけなければならない。失われたものを取り戻す必要があった。そのとき、巨大な雷鳴がアパートの鉄骨を振動させ、髪が逆立つのをユカワは感じた。蛾が集まっていた蛍光灯が点滅し、赤い消火器がカタカタと音を立てる中、ユカワは自分のiPhoneが音楽を止めて、何かを警告していることに気が付いた。タカハシカズキは階段のところで足を止めて、同じように警告音が鳴るスマホを取り出して見ている。開け放たれた玄関の奥から、緊急地震速報です、東京、千葉、埼玉、山梨、茨城にお住まいの方は強い揺れに警戒してください、という女子アナの緊張した声がかすかに聞こえた瞬間、タカハシが顔を上げて、地震が来る、下に逃げましょう、とユカワに声を掛けた。逃げる?どうして?ユカワが声に出すより前に、タカハシはユカワの腕を掴んで廊下を走り始める。破裂するような雷が空に何度も響いていて、綾瀬駅からは揺れに備えて背を低くするよう乗客へアナウンスする放送が聞こえていた。階段を降りるたびにふたりの靴は雨に浸食された。雨どいからはひっきりなしに水が吐き出されていて、道路のわきをタバコの空き箱やペットボトルがものすごい勢いで側溝に流れ去っていった。同じようにビルやマンションから避難した人々がビニール傘をさして道路の向こうに立っている。タカハシは彼が配送に使用しているダイハツ・ハイゼットの前までユカワの手を引くと、車のボンネットを背にしてユカワの前に立った。雨は急速に止み始め、ふたりは息を切らしながらそのときを待っていた。タカハシのキャップのつばからは水滴が落ちている。エンジンがかけっぱなしになっているハイゼットから、先ほどの緊急地震速報は取り消されました、気象庁によりますと落雷による誤検知とのことです、というカーラジオが聞こえ、そして、びしょびしょになった帽子の下にあるタカハシの瞳が大きく開くのがユカワにはわかった。
「もしかして、ユカワさん?」
そのとき、ユカワは身体を伝う無数の水滴が、水平に移動を始めたことに気が付いた。巨大な熱を体の半分に感じ、続いて濡れた髪が、熱風によってひとつの方向へと流されはじめた。轟音が聞こえ、濃い排気ガスの臭いがして、タカハシの姿が赤く照らし出されると、まず黒い影が二人を覆い、そして炎と煙が文字通りの尾を引いてふたりの上空十数メートルを通過した。黒く巨大な航空機の影は、熱で歪んだ降着装置をまずユカワのアパートに突き刺した。軽量鉄骨の屋根と壁は粉々になり、電柱が倒されて周囲の照明が落ち、密集している古い商店や、マンションや、不動産屋や、薬局やクリニックの入ったビルや、ドラッグストアや、未来に希望と絶望を抱いていた子供たちがいる進学予備校や、そして派手なネオンを掲げたパチンコ屋が、その直撃を受けた。機体本体が引き起こした炎と衝撃はラッシュアワーの千代田線綾瀬駅を包みこむと、千数百人の乗降客、数十人の乗務員、数千台の自転車、自家用車120台以上、路線バス15台、タクシー46台、千代田線と常磐線の車輌3編成を破壊して、イトーヨーカドー綾瀬店を客と従業員四百数十名ごと倒壊させ、やっとその運動を停止させた。
中国海外航空85便(ボーイング777型機)は、乗員乗客285人を乗せたまま、千代田線綾瀬駅付近一帯に墜落した。
タカハシとユカワはしばらくその煙と炎と瓦礫を見つめていた。ユカワのⅰPhoneがアヴィーチーの「ウェイクミーアップ」を流し始めるが、ユカワにはもう聴こえない。
2021年10月8日(金)00:06
【速報】東京メトロ綾瀬駅周辺で大規模な爆発と火災。東京消防庁発表(共同通信)
「航空機墜落と119番殺到」東京消防庁によると、綾瀬駅付近に大型航空機が墜落したとの通報が殺到し、都内で119番が繋がりにくくなっている。綾瀬駅付近では大規模な火災が発生、延焼している。(日テレNEWS24)
【運転見合わせ】千代田線は、沿線火災のため北綾瀬~湯島間で終日運転を見合わせます。JR常磐線・小田急線との直通運転を中止しています。(東京地下鉄)
【エリアメール】火災のため、次の地域に避難指示を発令します。ただちに避難:綾瀬1、2、3、5丁目。東綾瀬1丁目。西綾瀬3丁目。(足立区役所)
【交通情報】首都高速6号三郷線は、堀切~三郷の上下線で火災のため通行止めとなっています。小菅および加平の両ランプは閉鎖されます。(JATIC)
「墜落は中国海外航空か。成田管制との連絡途絶」足立区綾瀬で発生している大規模火災について、中国海外航空85便の墜落が原因との見方が強まる。同機は上海の浦東国際空港を日本時間7日午後2時に離陸。目的地である成田空港管制との連絡が午後6時ごろより途絶している。緊急着陸を要請していたとの情報もある。8日0時現在、大規模火災が発生している足立区綾瀬周辺には避難指示が発令されているほか、周辺の幹線道路も規制されている。7日23時には官邸に対策室が設置された。(読売新聞)
TOKYO HAS FALLEN!! CHINA TERROR!!!
(@realDonaldTrump)
ユカワはベランダへと続くアルミサッシに背を向けて床に座っていた。タカハシがくれた紙パック入りのお茶がその隣にあって、エリアメールを受信し続けるiPhoneが振動を繰り返している。ユカワは液晶テレビの方を見つめて、ニュースを観るべきだろうか、と思った。航空機の黒い影が、機体の半分を炎と煙に包んだまま、ねじれるようにして綾瀬駅の高架に突っ込んでいく様子が、首都高速6号線で渋滞にはまっていたタクシーのドライブレコーダーに残されていて、すでに公共の電波ではそれが報じられ始めていたが、ユカワはそれを見たくないと思った。あの破壊の直後、タカハシはユカワを配達用の軽バンに乗せ、まるで大地震の直後のようになった商店街を駅とは反対方向に走った。車が曲がる直前、リアウィンドウのむこうに、炎に包まれた人間が駅前のドラッグストアから飛び出してくる様子が一瞬だけ見えた。運転しながら、タカハシは119番に何度も電話したが回線は不通だった。都道に出たところでタカハシの会社から電話があり、亀有にある会社の前の道路も大混乱だから、きょうはもう直帰していいということを彼は言われた。それを助手席で聞いていたユカワは、わたしもついていっていいかとタカハシに尋ねた。同じような配送車が並んでいる西亀有の寮の6階にタカハシの部屋はあって、そのロビーはセメントのにおいがした。あわてて部屋を片付けたあと、自分はベランダで寝ると毛布を引っ張っていくタカハシを見たとき、彼はやっぱりユカワが知っているタカハシカズキなのだと思った。タカハシが届けた教科書を除いて、ユカワはほとんどすべてを失ったが、失ったという実感はわかなかった。室外機にもたれかかっているタカハシの背中が網ガラス越しに見える。ヘリコプターのローター音が、ユカワが背にしている窓ガラスを細かく震わせていて、ここからでも見える大火災は、電気が消えた部屋の壁紙をオレンジ色に染めはじめていた。そういえばタカハシと最初に話したのは教科書を忘れた朝だったな、とユカワは思った。家に飛行機が突っ込もうと関係はなかった。アパートが破壊されるよりも遥か昔に、すでにたくさんのものが失われていたのだ。それはユカワが2013年にタカハシと出会ったあとのすべての記憶であり、別れについてであり、また彼が書いていたはずの小説の結末についてだった。なにも覚えていない。それほど昔ではないはずなのに、中学時代の記憶がまるで残っていないことにユカワは気がつき始めていた。立ち上がって、ユカワの背よりも低い電子レンジが乗った冷蔵庫や、コンロとシンクしかないキッチンや、ドアのところに干しっぱなしになっているTシャツを見回したあと、壁際で乱雑に積まれた本のところに行って、しゃがんでそれを眺めた。「新社会人300のルール」や「めざせ!通関士」や「ビジネス英単語スピード理解」といった、ところどころにポストイットが差し込まれた、つやつやしたカバーの本たちの背後に、四角いなにかが落ちていることに気が付いた。ユカワはそれを拾ってふたたび窓辺に座りなおし、掌の中でそれを転がしながら眺めはじめる。それは古いスマートフォンで、奇妙なことに、まるで何かで貫かれたような、数センチメートル大の穴が開いていた。サッシを開けて裸足でベランダに出る。そして、寝息を吐いているタカハシの隣に立って、自分のiPhoneでプレイリストを流し始める。フレンチ79のDDROPPを聴きながら、ベランダの柵に腕を乗せたユカワは、青白く光る東京スカイツリーや、立ち上る黒煙や、無数のヘリコプターの赤い光を、まるで写真でも撮るかのように、そのスマホに開いた奇妙な穴越しに眺めはじめた。
2013年9月3日(火)12:35
職員室の壁際に並べられたパイプ椅子に、ユカワとタカハシは腰かけていた。ふたりの間には大型の複合機が置かれていて、何かの授業で使う冊子を製本する音がずっと響いているので、ただ黙って職員室の様子を眺めている。職員室って案外汚いな、とタカハシは思った。お茶やコーヒーのにおいが濁って漂っているし、床のタイルはところどころ変色している。天井や柱を巡る空調のパイプや、机の下を這うLANケーブルを見ながら、タカハシは2121年の東京を覆う巨大な粒子加速器を想像した。ユカワはそろえた両ひざに頬杖をついて、同じようにぼんやりとしている。その後ろにある窓の外はホワイトアウトしていて、人間の倍以上ある背丈をした、二体の機械兵器の影がそこを横切っていく。彼らは、背中に載せたリニアエンジンの出力を上げて、砂塵を巻き上げながら、その振動で安物の網ガラスに亀裂を生じさせる、天井からつりさげられている蛍光灯が揺れて点滅を始める、ファンヒーターから伸びたパイプが外れて音を立てる、職員室全体が揺れている、書類やファイルがいっせいに吹き飛んで、そしてそこに、コンクリートの外壁を突き破って、二体のロボットが飛び込んでくる、青いキングジムのリングファイルのカーテンを突き破ったシロノスの赤いアイ・レンズがタカハシと視線を合わせたとき、タカハシは前頭部に軽い衝撃を覚える。
「おい、昼飯食って腹いっぱいだからって寝てンなよ」
タカハシの目の前に、ナカガワという教師が笑いながら立っていた。青いキングジムのファイルはちゃんとスチール製の棚に収まっているし、窓ガラスのむこうには毛虫だらけの植栽が並んでいる。タカハシが呆けていると、ユカワが席を立ってナカガワからカギを受け取った。先生これ、いつから使っていいんですか?とユカワが尋ねると、まあ、今日の放課後からでもいいんじゃないか?とナカガワはいった。そして、顧問が決まったらまた連絡するから、と言いながら、ポロシャツの胸ポケットにしまっていたタバコの箱をちらりと見てから、そそくさと職員室を出ていってしまった。入れ替わるかのように、失礼しますといってクラス委員のヤマモトミキが姿を現すと、ナカガワは緑色のタグがついたカギを隠して、タカハシに職員室から出るよう促した。その背中を追って廊下に出たタカハシは、職員室のドアの前で振り返る。ヤマモトミキが一瞬だけ責めるような瞳をこちらに向けたことに気が付いたタカハシは、その奥にある窓を隔てて、コの字型をした校舎の、校庭を挟んで相対する棟が、白昼の日差しを白く反射しているのを見た。
屋上からは、「世界にはばたけ第二中」と書かれた白い垂れ幕が、ゆっくりと風で揺れている。
2021年10月8日(金)08:35
【鉄道情報】中国海外航空機の墜落事故のため、東京メトロ千代田線は始発から北千住~北綾瀬の上下線で運休となります。JR常磐線、小田急線との直通運転は終日取りやめとなります。振替輸送を実施しています。(東京地下鉄)
【速報】中国海外航空機事故、死者9名・行方不明者は千数百人人規模か。この数はさらに増える恐れ。警視庁発表(時事通信)
【お知らせ】連続テレビ小説は放送を延期いたします。引き続き中国海外航空機事故に関する報道特別番組をお送りいたします。(NHK)
【首相会見】事故後初めてとなる総理会見要旨▼自衛隊災害派遣▼国交省の航空事故調査委員会メンバーをきょう派遣▼住民や日本人乗客の被害把握に全力▼日本を狙ったテロの可能性「非常に高い」▼在日中国大使を官邸に招聘▼米国大統領ときょう電話会談(読売新聞)
「関東南部で突然の雷雨、突風・・・都内で気圧急降下」きのう夕方から夜にかけて、23区北東部を中心に局地的な雷雨となりました。板橋区で5600世帯が停電となったほか、足立区・板橋区・北区・葛飾区では床下浸水や道路冠水などの被害が出ました。一方で、きのうの日本列島は移動性高気圧にひろく覆われており、気象庁の予報でも降水確率をわずか5パーセントとしていました。寒冷前線の発生も考えられないため、まったく想定外の荒天ということになります。千代田区にある気象庁では、午後6時からの1時間で13ヘクトパスカルもの気圧低下を観測しています。(ウェザーニューズ)
タカハシカズキはハンドルを指でつついていた。西亀有から環状七号線に出るまで1時間以上かかり、30台近くの緊急車両とすれ違った。松戸や柏や三郷市の消防組合の車輌や、千葉県警の機動隊のバスや、そして自衛隊の暗い車列が、タカハシとユカワを乗せたダイハツがいる旧水戸街道へと流れ込んできて、ダイハツのボンネットに反射した赤い灯火がぎらぎらと流れていくといった状況は、アリオ亀有の近くの交差点から環七に入っても変わることはなかった。
今朝、寮のベランダで目覚めたタカハシは、アルミサッシの向こう側で、フローリングの床に座ってぼんやりとテレビを見ているユカワに気が付いた。NHKが首相会見を流していて、中国政府に対して抗議するとともに、きょう中国大使を官邸に呼んで事情を説明させると強い口調で非難したあと、すでに米国から支援の申し出があり、きょう大統領と電話会談をする、と付け加えた。震災後の混乱のなか結成された「国民連合」は、尖閣沖中国警備艇衝突事件で支持を集め、あっというまに政権を獲得した。ところが、2013年のIOC総会前日に現地入りした現総理が、会場となったブエノスアイレスのエセイサ国際空港で、中国人観光客に対して「差別的蔑称」を吐いていたことが報道されると、大陸からのインバウンドがまず止まり、続いて上海や北京でユニクロやファミリーマートやホンダのショウルームが放火され、国家主席が東京五輪をボイコットするよう各国に呼びかける演説をして、そして、東京オリンピックは消えた。
画面がNHKのスタジオに切り替わり、85便事故に関する情報は天気予報のあとにお伝えします、とアナウンサーが話したそのとき、ユカワが急に立ち上がってタカハシの方を向いていった。
「タカハシくん、あたしを大学に送って」
タカハシは助手席のユカワを見る。シートの上に膝を立てて座っているユカワは、あの千葉県の中学校で出会ったときと身長も髪型も違っているが、たしかにユカワだとタカハシは思った。でもなにを話せばいいのか、それともなにも話すべきではないのか、タカハシは目でユカワを追いながら何度も考えていた。そのうちに、ユカワが膝の上に置いたスマートフォンが鳴り始め、ユカワの表情が少しだけ明るくなった。彼女は電話に出ながら、タカハシにラジオのボリュームを下げるよう手で合図する。ちょうどカーラジオはドナルド・トランプの演説を流していた。あの特徴的な話し方に年配の女性の同時通訳の声が重なり、奇妙なハーモニーを生み出している。中国は、虫や爬虫類まで食べるあの国の料理と同じで、なんでも兵器にして攻撃する。これまでは労働力で、その次はハッキングで、今回はジェット旅客機で、つぎは核兵器かもしれない。これまで私が推し進めてきたクソCTBTの破棄や核の再配備に、中国の手先である民主党の連中がどうこういうのはアメリカ人としてほんとうに許せないんだ、だから日本が中国と徹底的にやれるよう支援するのが同盟国である責務だと考えている。その抑揚のない声のあとに、「トランプ政権は中国の東京オリンピック・ボイコット宣言後、GAFAの一部と協力してPANAM(パンナム)と呼ばれる戦時計画を策定しているとまで言われており、米中の新冷戦は今回の事故で新たな局面に突入したと言えそうですね」というスタジオの解説が続いた。タカハシは、流れが速くなった車列に合わせてアクセルを踏む。その隣ではユカワマイが、いつのまにか黄色いイヤフォンを耳に挿して、「そう」「マジで」「やばくね」「うん、中学の時の友達の家泊まった」「いや全然エモくないし」「そう全部燃えた、カスだよ」「マジなくね、きれそう」と笑いながら話していた。タカハシはこの後、池袋にあるユカワの大学まで彼女を送り届けたあとの段取りを考える。今朝、会社はタカハシが所属する大型配送センターをしばらく閉鎖するというSMSを彼に送ってきた。事故現場まで3キロほどしかなく、周辺道路のほとんどが規制されている状況では営業が難しいという判断だった。それでもタカハシは、午後にでも一度出社して、この車に積んである客の荷物をいったん上屋に下ろそうと考えていた。車は環七を西進する。鹿浜橋から、いつもと変わらない秋の青空に、荒川土手の緑と首都高速中央環状線の白い高架がきれいなコントラストを描いているのが見えたとき、ユカワは電話を切って、カーラジオの選局ボタンを適当に押し始めた。もし、とタカハシは思う。もしぼくたちの再会のきっかけが違っていたら、もし飛行機が落ちていなかったら、ぼくたちはお互いの出会いをもっと素直に祝福できたかもしれない。国語の教科書を見せながら、あの「計画」を耳もとでささやかれたときのように、希望のようなものを見出せたかもしれなかった。でも今はちがう。この軽貨物車のなかをただよう奇妙な居心地の悪さと、社会人としての会社に対する責任が、すべてを台無しにしつつあった。どうしてぼくたちはバラバラになったんだ?ぼくはいつユカワマイと離ればなれになった?あのあと部室はどうなった?ぼくらにいったい何が起きた?ラジオからは山下達郎が流れてきて、ユカワがかすかに歌詞をささやきはじめる。2013年のぼくたちになにかがあったのだ、とタカハシは思った。そして、それがなんなのか、まったく思い出せないことに、タカハシは気が付きはじめていた。車は豊島清掃工場の横を過ぎて、池袋大橋の急カーブに差し掛かろうとしている。再び渋滞につかまったダイハツ・ハイゼットは、まるで匍匐前線のように進んでいた。AMラジオはずっと山下達郎の知らない曲を流している。カーブの先、ラブホテルや中華食材の店や風俗店が並ぶ通りの間を、人間の列が規則的な動きで進んでいるのが見え、赤と白の巨大な旗がいくつもそこにそびえ立っていることに気が付いたタカハシは、運転席側の窓を開けると外に顔を出した。窓に金網がついた機動隊のバスが何台も反対車線を通り過ぎて、その隊列の方に向かっている。これ通れるのかな、とタカハシはいってユカワの方を見た。ユカワも助手席側の窓を開けて外を見ると、パレードだね、とつぶやいだ。えっ、パレード?とタカハシは訊き返す。
「いまラジオでかかってるの、山下達郎の『パレード』って曲」
ユカワは風で乱れた髪を直しながら、そういってタカハシの方を見た。口元に笑みがあった。サイレンとシュプレヒコールの音が聞こえる。橋の下を走る東上線の電車の音。ユカワはいう。
「さっき電話くれたの、大学の友達なんだ、同じサークルの。今夜から家、泊めてくれるって」
タカハシはうなずく。何か気の利いたことを言いたいと思う。橋のたもとにある交差点は警察によって完全に規制されていた。黒い街宣車が規制線の向こうにいて、中華料理店や中国系の商店に向かって、拡声器で、何度も何度も同じフレーズを繰り返していた。おまえたちはゆうべ、足立区の、罪のない子供たちを殺したんだ。天安門事件、天安門事件、センカク、CO85便、このテロリストども、ニッポンから出ていけ。タカハシが窓を閉めるより前に、若い警官がひとり駆け足でやってきて、帽子を抑えながらタカハシに声をかけた。
「どちらへ向かわれますか?」
「立大です、すぐそこの」
「すいません、ここはしばらく通れないんですよ」
その後ろを、また街宣車が通り過ぎていく。警察がバリケードを解いて日の丸だらけのバンを中に入れている。助手席のユカワは、大きくため息をついてシートベルトを外しながらいった。
「ありがとタカハシくん、わたし歩くから」
そういうとユカワは車をさっさと降りて、北口通りを埋めるデモ隊の中へ向かっていこうとする。
「ちょっと待ってください、危険だからやめてください!」
若い警察官はあわててユカワを制止する。タカハシはすぐに交差点の端へ車を寄せると、そのままエンジンを切って道路へと降りた。ユカワはデモ隊の方を指さして警官に何かをいっている。危ないっていうなら今すぐやめさせろよ、というユカワの声がタカハシの耳に届く。ユカワさんやめよう、しょうがないよ、タカハシはユカワをデモ隊から遠ざけようとそう声を掛けた。いやしょうがなくない、ぜんぜんしょうがなくないから、ユカワはそう言いながらタカハシの方を向いた。表現の自由がありますから、と警官がいったその時、ガラスが割れる音がしてデモ隊から歓声が上がった。中国料理店のメニューサンプルが並んだショウケースが道路に横倒しにされている。ちょっとすいません、といってその警察官は、他の隊員たちとともにデモの集団の中に入ってケースを倒した男女を引き離そうとしている。左右に並んだパトカーの赤い灯火が光り始め、機動隊員が警官たちの後を追ってその中に入る。ユカワさん早く車乗って、戻ろう、そうタカハシはユカワに声を掛ける。集団の中の何人かが商店に向かって石やゴミを投げ始め、デモ隊の前後へとそれは広がっていく。そのとき、振りむいたユカワの表情を見たタカハシは、何かの記憶が、神経回路をバシバシと発火させながら走り始めるのを感じた。同じようなことが前にもあった。ユカワが口をぎゅっと結び、なにかをこころの中で決意して、そして動き始めたのをどこかで見た。風が彼女の髪をなでて、かすかに遠くで雨の匂いがして、不正義と巨大な力を目の前にして、彼女が動くのを見たことが以前どこかであったのだ。だめだユカワさん!タカハシはそういって彼女の腕を掴んだ。空が暗くなり、遠くで雷鳴が聞こえ始めていた。タカハシくん、まだ小説書いてるの?ユカワはタカハシに腕を握られたままそう尋ねた。えっ、とタカハシは声を出すと、あわてて彼女の腕を離した。アスファルトの上を大きな雨粒が跳ねて、道路の色をどんどん暗いものに変え始めていた。首筋や腕に当たる生暖かい水の感触を確かめながら、どうしてそんなことをいま訊くんだ、とタカハシは思った。そして、先ほどからニューロンの上を走っていた電流が、欠落している記憶のところで止まるのを感じ取った。それはユカワに関する記憶だった。車の中で感じていた違和感。巨大な穴が目の前に開いていることに気が付いたような感覚。忘れているのでも思い出せないのでもない、まるで最初からそんなものなかったとでもいうように、ユカワについての記憶がタカハシの頭の中には存在していないことに、タカハシは気がついてしまった。そのとき、巨大な稲妻が通りを白く照らし、轟音とともに西口五差路交差点の方へと落下して、そして電線から火花が散って、あたり一帯を停電させた。衝撃音と光のために、デモ隊も警察官も野次馬もみんな声を上げてしゃがみこんで、あれだけうるさかったサイレンも拡声器の声も止んで、強い雨の音だけがあたりに響いていた。光を失って死んだ信号機の奥、レースカーテンのような白い雨のむこうに、なにか巨大な影がいることにタカハシは気が付いた。帯電した雲が、その影の上で渦を巻きながらかすかに光っていた。奇妙な天使のようにも見えた。生物を感じさせない細長い頭と身体、黒い金属的な表面、瞳のように見える青いリングライトを顔に持ったそれは、背中に生えた垂直尾翼のような羽をわずかに上下させながら、ゆっくりと空から舞い降りて、通りの奥にある黒い街宣車の上に降り立った。大日本護国連合と書かれたその黒いマイクロバスは、それが着地すると悲鳴のような音を上げて歪み、クラクションの音があたりに響いた。CGで描かれたロボットのように見えるそれは、首を少しかしげて足元のマイクロバスを見ると、腕から何かを取り出して、自分がいるバスの屋根を撃った。それは四角いピストルのようにも見えるし、貨物上屋でバーコード・ラベルを読む端末にも見えた。マイクロバスの前半分が吹き飛んで、赤黒い炎が車体を包み込み、クラクションの音が消えた。群集が悲鳴を上げて道路に伏せたそのとき、その青い機械的な瞳とタカハシの目が合った。いったい何が起きているのかわからなかった。雨は降り続いていた。バスは音を立てずに燃えていて、日本国旗が道路に散乱し、警察官たちが、とにかく地面に伏せるようにと背後で放送を続けていた。それはタカハシに銃口を向けていた。光がその先端に集まっていき、タカハシの身体についていた雨粒が、だんだんと引き離されてそれの方へ向かっていくのを彼は感じ取っていた。空気や、雨や、ごみや、音や、警官の声がその動きを止めていく。光はどんどん大きくなる。ユカワがタカハシの手を握る。すべてがスローモーションになる中で、その黒いロボットはタカハシの名前を呼んだ。
タカハシカズキ、
「世界を、救って、死ね」
2013年9月3日(火)17:25
ふーん、ホントに小説書いてたんだ、といってユカワマイはiPhoneの画面に指をすべらせる。ユカワが座っている古いカリモクのソファの前にパイプ椅子を並べて、そのうちのひとつにタカハシは座っていた。昭和56年度卒業生寄贈と書かれた大きな鏡や、さっきまで掃除に使っていた壁に立てかけてあるモップや、満タンになったゴミ袋や、古いスチール製の本棚に並んでいる水色の新潮文庫の背表紙を眺めながら、ほんとうに部室が手に入ってしまった、とタカハシは思った。ユカワがきょうの国語の時間に打ち明けた計画とは、廃部になっている文芸部の部室を乗っ取ってしまうというものだった。昼休み、職員室に連れてこられたタカハシは、部の設立に関する書類を書き、担任のナカガワに提出した。驚いたのは、すでにユカワとナカガワの間で話が通っていたことだった。ユカワは「入部希望者が見つかったので連れてきました」といってナカガワにタカハシを紹介した。校則では部の新規設立には3名以上の部員が必要だが、再設立には2名でよいとあり、廃部から2年以下の部は再設立ができるとあった。その条件に合致するのが文芸部で、ユカワは夏休み前からナカガワに相談していたらしい。「休み時間にさ、小説書いてたでしょ、スマホで」と、ユカワはタカハシをこの計画に誘った理由を説明した。どうしてそんなこと知ってるんだとタカハシは思ったが、クラス中みんな知ってるとのことだった。スマホの画面は意外に丸見えで、みんな思いがけないほど他人のことを詮索したがり、そして自分の画面も丸見えであることには気がついてないのだ、というようなことをユカワはいった。
「ユカワさん、って、ラノベとか読む、んですか?」
タカハシは距離感を測りながら、おそるおそるユカワに尋ねる。するとユカワは顔を上げてポカンとしてから、あー、あたし活字ダメなんだよね、と笑った。
「てか、べつに敬語じゃなくてよくない?うけんね」
「だってあんま話したことないから」
「そか」
そういうとユカワは自分のリュックからチップスターや明治アーモンドチョコレートを取り出して長机の上に出した。食べよ、といって紙箱を開けると、それをタカハシに差し出す。
「でも、これは面白い、マジで」
ユカワはチップスターを2枚口にはさみながらうなずいた。タカハシは胸の中に熱を感じながらユカワを見る。ユカワは真剣な顔をして液晶画面をスワイプし続けていた。タカハシは小学4年生の秋から小説を書き始めて、投稿サイトにアップロードしていた。人類のいない遠い未来で、ロボットたちがずっと戦争をしている。マイケルベイのトランスフォーマーを観たせいで書き始めたそれは、夏休み前の更新でやっとコメントが30行ったところだった。ツイッターで感想を検索することもあったが、見つかったことは一度もなかった。タカハシは登校中に買ったお茶のペットボトルのフタを開ける。
「どこが、おもしろかった、ですか」
タカハシはからからになった喉でそう聞いた。え?といって、ユカワは画面から顔を上げる。そしてしばらくタカハシの顔を見つめたまま、アーモンドチョコを口に運んだ。
「これからどうなるのか、教えてくれたら、教えてあげる」
すでに夕陽は青く変わり始めていた。校庭で道具を片付ける運動部の声や、放送部が流す下校を促す音楽に混じって、隣の部室から誰かが話しながら廊下に出てくる大きな物音がして、男子3人組が不思議そうな顔をしながら文芸部の部室の前を通り過ぎていくのが、タカハシの視界の端に映った。へー、文芸部復活したんだ、という声が聞こえてくる。タカハシはうつむきながら、でも、それでできない、とはっきりといった。なんだわかってんじゃん、とユカワは笑う。
「じゃあ完結っていうの?最後まで書けたら読ませてよ」
「いつになるかわかんないよ」
「いいよ別に。おどって待つし」
そういってユカワはカバンからJBLの小さなスピーカーを取りだすと、iPhoneで音楽をかけ始める。それはMadeonのPOP CULTUREというEDMで、ユカワは上履きを脱いでカリモクの上に立つと、あたしも高校上がったらバンドかDJでデビューすっから、と宣言した。そのとき机の上に置いたタカハシのスマホが鳴って、小説サイトからの通知が表示された。吹き出しのような「ファンノベルが投稿されました」という枠に青いURLが並んでいるのを見て、タカハシは驚いて立ち上がった。わずか身体を揺らしているユカワの輪郭を、グランウンドの水銀灯が白く照らし出す。学校とは、毎日窒息しそうなものなんだとタカハシは思っていた。生まれて初めて友達と交わした約束。藍い、そして明るい夜に染められはじめたグラウンドの上を、白いロボットが、光の尾を引きながら飛んでいる様子が見えたので、 タカハシは、それを書きたいと願い始める。
2021年10月8日(金)08:35
今でも小説を書いてるのか、なんて、ばかなことを訊いたとユカワは思った。タカハシを責めるなら自分はどうなんだ。きのう躊躇なく自分の手を引いたタカハシは間違いなくあのタカハシだったし、それは変わらないはずだった。けれども、警察官の指示になんの疑問も持たないタカハシに、なぜかユカワは失望した。中学校のタカハシカズキだったら、いつかきっとただしいことをしたと思う。どうしてそう思ったのだろうか。そんな出来事は、中学時代の記憶のどこを探しても見つからなかった。忘れているのではなく、元から存在しないように、中学の思い出は途切れていた。目の前で閃光が走り、電柱から火花が散り、信号機のダイオードが消えて、そして黒いロボットが自分と同じ色をした街宣車のバスを吹き飛ばしたとき、ユカワの記憶の中で何かが再生された。国語の教科書、いちご同盟、キャンパスノートに書かれた下手くそなロボットの絵。
タカハシカズキ、世界を救って死ね
その銃口がユカワとタカハシの方を向いたとき、もうひとつの光がユカワには見えた。それは垂直に、渦を巻いている上空から落下してきて、マルイ池袋の屋上を破壊した。灰色の土煙が豪雨の向こうに立ち上り、白い円筒形のネオンサインが衝撃で傾いて、その下に停まっていた西武バスの列に破片が降り注いでいた。左右の歩道では、なにが起きているのかわからないデモ参加者や警備の警官が、その煙の奥にあるものを見つめている。ユカワはそのとき、握っていたタカハシの腕から、水滴がゆっくりと宙に浮かび上がって静止するのを見た。マルイに立ち昇る煙に穴が開いて、青白い光線が走り、黒いロボットに直撃したあと、彼の足元にあった街宣車が骨組みだけになって宙を舞って、続けて衝撃が波となって池袋西口一帯の建造物に伝わっていった。タカハシがユカワの肩を押して道路に伏せる。雨に濡れたアスファルトから水蒸気が立ち昇ってくる。いまのはなに?そう思ってユカワが顔を上げると、黒く濡れたタカハシの後頭部が目に入り、その向こうへと続く道路の先、警察の車輌の赤い灯火がいくつも光っているさらにその奥に、白く光る人影が翼を広げていた。航空機の翼のように見えた。まず黒い機体が霧雨を裂いて空へと飛び立ち、続けて白い影がそのあとを追うようにして、飛んだ。
コインパーキングに停まっていたBMWの窓が割れてアラームがずっと鳴っている。横転したデモ隊のバンや、彼らが持っていた日章旗や、セブンイレブンの割れた看板や、ひっくり返って煙を上げているパトカーや、止みかけの雨の奥に見える傾いたマルイの看板塔を見ながら、今度はユカワがタカハシの手を引いた。濡れた路面で何度か足を滑らせながら彼をダイハツの前まで引き連れてドアを開けた。困惑しながら乗車したタカハシに対し、助手席に飛び乗ったユカワはダッシュボードを強く叩いていった。
「あいつを追いかけて!」
タカハシは困惑しつつエンジンキーを回す。ワイパーがフロントガラスに流れる雨粒をはじくと同時に、右往左往するデモ隊や警察官でいっぱいの通りに向かって、タカハシは思いっきりクラクションを鳴らしてアクセルを踏み込んだ。通りにいた人間が左右に別れ、その間をパッシングしながらタカハシのダイハツは突き進む。タイヤが悲鳴を上げ、路面に散乱したプラカードやモルタルやアルミサッシを弾き飛ばして、車は池袋西口駅前のロータリーで大きく旋回する。東武百貨店の窓ガラスも割れていて、駅の出口からは大勢の乗客たちが吐き出されていた。UBEREatsの自転車が歩道に倒れていて、スクエアなギャレーバッグから何かの料理が飛び出している。タカハシは汗をかきながらクラクションを鳴らし、ハンドルを切り、アクセルを踏んで山手通りへと向かった。ユカワは空に見える影をフロントガラスから見上げながら、カーラジオのチャンネルを切り替えた。中国海外航空機の事故について最新情報をお送りします、トランプ大統領はツイッターで中国をテロ支援国家と非難しました、死者の数は最終的に千人以上になる可能性が出てきました、今入ってきたニュースです、東京池袋の繁華街で大きな爆発がありました、繰り返します、池袋で爆発があり、多数のけが人が出ている模様です、テロの可能性についてはまだわかりませんが、大規模な爆発で負傷者が出た模様です。深刻で無機質なアナウンサーの声はどれも聴きたくないとユカワは思った。なんでもいいから音楽をかけてほしい。AMしか受信しないチューナーの周波数を何度も変えると、先ほどまで聞こえていたシティ・ポップを流すラジオ局に行きついた。同じ山下達郎でもこの曲は知らない、とユカワは思った。千葉県八千代市のラジオネーム・トロさんのリクエスト、山下達郎でアトムの子です、とDJがいった。信号機が消えた五差路交差点で、傾いていたマルイの広告塔が道路へゆっくりと落下していくのが見える。サイレンを鳴らしながら右折してきた消防車の車列にダイハツは危うく衝突しそうになり、タカハシは左へハンドルを切って西口公園の方へ向かった。ほとんど割れてしまった東京芸術劇場の黒いガラス屋根の前を過ぎ、池袋警察署の前で右折し、大学裏手の住宅街を通る片側一車線の道へ入ると、ユカワはダッシュボードに顔を突き出して空を見上げた。フロントガラスに流れる雨、最高速度のワイパー、空中に網を張る電線や光ファイバーケーブルの向こうにかすかに見える灰色の空に、真っ白い奇妙な飛行機雲が尾を引いている。
「あれ、なに?なんなの?」
「えッ?は?」
タカハシはユカワの質問に怒鳴り返すように答える。
「知らないよッ!」
なんで追いかけろなんていったんだよ、タカハシは両手でハンドルを操作しながらそう声を上げた。山手通りとの交差点の信号機が赤に変わる。そのときユカワは渦巻く雲の下にその機影を見た。雲の切れ目から洩れる日光に、それは白く反射している。「行って!」ユカワは叫ぶ。は?無理だろ?絶対無理だって!タカハシが反論すると同時にユカワは脚を伸ばしてアクセルペダルに突っ込んだ。ダイハツが山手通りに飛び出すと同時に、走っていたタクシーや都営バスがいっせいにクラクションを鳴らして車体を大きく左右に揺らした。そこの軽バン!止まりなさい!という割れたスピーカーの声が響いて、バックミラーにスバルのパトカーが赤色灯を点滅させて迫っているのが見える。あの白い機影は山手通りに沿って上空を疾走していく。
「絶対に止まらないで」
ユカワがフロントピラーを掴みながらいう。
「あそこ、首都高に入って」
タカハシは目を見開いてユカワのほうを向いた。
「C2は全部トンネルだぞ、あれが見えなくなる」
「わかってる、でも」
そういってユカワは百メートル先の電光掲示板を指さした。“首都高へ入れ”“トンネルで指示”という文言が点滅している。だれがあんなこと、と言いながらタカハシはアクセルをさらに踏んだ。目の前の信号機が次々に青に変わっていく。彼の仕業だとユカワは思っていた。交差する道路の車は流れを止めない。全部の信号機が進行を示している。左車線のトヨタ・ライズが右から来たフィアット・パンダと衝突して激しく横転する。エバーグリーンの大型コンテナを積んだトレーラーがジャックナイフを起こした横を猛スピードで過ぎ、ドアミラー越しに警視庁のスバルが急停車するのが見え、タカハシが、死ぬ、死んじゃうと運転席で絶叫する。高松ランプの料金所の上には“そのまま通れ”という文字が流れていて、ゲートがすべて閉じられている。車が料金所のゲートを弾き飛ばし、ETC機器のエラー音が車内に流れ、トンネル内道路灯の黄色い光が車内で点滅をはじめる。きっと死なない、とユカワはタカハシの方を向いていった。大丈夫。死ぬならもっと昔に死んでる。タカハシが頭の中でそのことばを反芻したとき、“6号沿線火災通行止”と書かれていた交通情報板が“家へ”という点滅表示に変わる。
「家?それってどっちの家だよ」
タカハシがそれを見てつぶやくと、ユカワがフロントガラスを覗きながら答える。
「わたしの家、もうないじゃん」
2013年9月4日(水)12:32
ところどころに黒い汚れがついた大型複合機の前で、タカハシカズキは4時間目のジャージのまま、昼食も食べずに苛立っていた。その液晶画面にはエラー番号と「お客様センターへ連絡してください」の文字が点滅している。タカハシがため息をつきながら“コピー/印刷”ボタンを押したそのとき、とんとん、と右の肩を手で叩かれた。振り返ると、立っていたのはクラス委員のヤマモトミキだった。
「3番のトレーだよ」
「え」
「3番。一回引いて、また入れると直る」
そう言いながら、ヤマモトは前髪をかきわけると、「3番」とテプラが貼られた用紙トレーを強く引いて、また元に戻した。複合機は身震いするようにして動作を再開させ、タカハシが送ったデータをA4サイズにして吐き出し始める。タカハシは話したことがないクラスメイトとどう接していいのかわからず、コピー機の適当なボタンを真剣な目で眺めている。すると、「ふうん、ホントに小説書いてたんだね」と後ろからヤマモトがいって、タカハシは思わず振り返った。何も言えないタカハシに、ヤマモトは複合機の排出トレーを指して笑った。
「それ、タカハシくんが書いたんでしょ」
「いや、これは昨日もらったファンノベで、ぼくが書いたやつじゃないから」
「へー、じゃあファンがいるってことじゃん、すごいね」
そういうとヤマモトミキは複合機のトレーから両面印刷されたファンノベルを、とても自然な動作で手に取った。タカハシは勝手に読まれてしまうと思って一瞬どきりとしたが、彼女はそれをそのままタカハシに差し出す。
「ねえ」
タカハシが手を伸ばすと、ヤマモトはそれをひっこめて再びにこりと笑った。
「きのう、ユカワさんと文芸部立ち上げた、って本当?」
何が起こったのかタカハシは一瞬わからなかった。早く答えなよ、というふうにヤマモトはコピー用紙を手でもてあそぶ。
「廃部だった部を、また元に戻しただけだから、立ち上げたっていうのはちがくて、先生もいいっていってたし」
「タカハシくんは第二小からだから知らないかもしれないけど…ユカワさんと一緒で大丈夫?」
ヤマモトは笑みを崩さない。
「だいじょうぶって、どういう意味?」
タカハシは眉間にしわを寄せて尋ねる。コピー機が再びエラー音を鳴らしている。
「彼女、北小で、六年の夏に、暴力事件起こしてるから」
ヤマモトは髪を直しながら、ふたりしかいない、型落ちの液晶モニタが並ぶ教室を見回していう。タカハシカズキはなにも言えないまま立ちすくんでいる。クラス委員である彼女がいっている意味がわからなかった。ただ悪意があるのだけはわかる。なにか言い返してやりたいとタカハシは思った。ヤマモトは笑顔を変えない。どこかのコンピュータからハードディスクが鳴らすガリガリという音が聞こえる。そのとき、クラスの別の女子がドアを開けて顔を出したのが、タカハシの視界の端に映った。ヤマモトさん、ちょっと来て、みんなのスマホがないの、体育の間に盗られたかも。ヤマモトミキはそのクラスメイトのほうを向くと「今行く」と笑顔で答えてから、表情を変えずにタカハシに原稿を返した。そしてPC席のひとつに置かれていたタカハシのスマホに一瞬目をやると、急かすクラスメイトに付いて教室を出ていった。
タカハシはどうしていいかわからず、プリントの束を持ったままモニタの前に座った。回転式の椅子はギシギシと軋んでいて、WindowsXPの入ったNEC製のマシンの裏には、ケーブルの束やほこりの塊が見える。ショートケーキのクリームに刺さった一本の髪の毛をタカハシは想像した。ひとの奥底に隠された悪意というものに、タカハシは初めて出会った。それは卑怯だと思ったが、どうしてそう思ったのかはうまく説明できない。机に印刷した紙の束を置いて、その5回目の黙読を始める。いったいどんなひとがこれを書いたのだろうか。廊下から、また何人かの生徒が走っていく音が聞こえる。タカハシはペンケースから黄色い蛍光ペンを取り出すと、紙についたしわを伸ばしてから、ゆっくりと、丁寧に線を引きはじめた。
その白いロボットは、ふたりの顔を赤いレンズで覗くとすぐに、機械的な声で、だが皮肉っぽくこういった。
「世界の終りまで、あと2日、2時間と22分」
その日、タカハシのクラスメイトのスマートフォン29台が、何者かによって奪われた。
2021年10月8日(金)10:35
「トランプの核戦略は本当に冷戦時代のいいトコどりなのか?流出文書に見るその実像」第二次トランプ政権成立後、鳴り物入りで発表された核の再配備計画。CTBT包括的核実験禁止条約からの完全離脱を宣言したことばかりが注目されがちであるが、今後2年で米国の核弾頭数を3500発ほど増やす(2010年から削減された弾頭数に匹敵する)という壮大な計画の前には霞んでしまうだろう。(中略)一方で、トランプ大統領は初当選時に話題になった「どうして核を使えないんだ発言」について「ばかげたフェイクニュース」としたうえで、「相互確証破壊は理にかなっている。コスパがとてもよい。そして、偉大な国にはぴったりな戦略だと思うだろう?」とFOXコムに語った。(中略)ウィキリークスに流出した通称「パンナム文書」には、核戦争による磁気嵐に備えるため、GAFAが提供したそれぞれのユーザのデータを試験的に(そして秘密裏に)静止衛星上のサーバに保存するという、レーガン時代のスターウォーズ計画を彷彿させるようなものまで書かれている。(中略)パンナム文書に見えるのは、トランプ政権が依然として核を「使える兵器」と見なしているのではないかということだ。核戦争後も継続して戦闘や経済活動を行うための宇宙開発計画、さらにはISSをNORADの代わりに使うというような一見バカげたアイデアには、一方で、米中対立がより実際的で破局的なものに発展する可能性が十分に高いことを予感させる。(NewsWeek日本語版)
「世界の終りまで、あと2日、2時間と22分」
タカハシが自宅の玄関ドアを開けて最初に目に飛び込んできたのは、開け放たれたベランダのサッシ、ひっくり返された書棚、床に引き抜かれたタンスやデスクの引き出し、そして島忠で買ったパイプベッドに座る白いロボットだった。奇妙な光景だとタカハシは思った。窓が開いているせいで、部屋の中はいやに涼しかったが、アドレナリンは止まらなかった。タカハシは最初、彼がいった言葉に気が付かなかった。世界の終りまで、あと2日、2時間、22分。白くなめらかな機械の身体は金属的でもあり、プラスチックのようにも見える。鼻も口も無い、流線型の頭部には黒いふたつの眼に赤い瞳が映っていた。垂直尾翼のような背中の翼はすべて畳まれている。座っているだけで、立っているタカハシと同じくらいの背丈があった。間違いない。ぼくはこいつを書いたことがある。
「あなたを見たことがある」
タカハシの後ろにいたユカワは前へ歩み出てそう声をかけた。赤い光がユカワのほうを向いて、ゆっくりと首をかしげる。タカハシはあわてて、ユカワの腕を引いて彼女の前に出た。お前を知ってるぞ、とタカハシは叫ぶ。お前を知ってるぞシロノス、なんでお前がここにいるんだ!
「世界を救って死ぬために」
抑揚のない声でそのロボットは答えると、ゆっくりと立ち上がって二人の方へ歩きはじめた。歩くたびに、彼の足元で床材の何かが割れる音がした。タカハシは少し後ずさりしたが、ユカワは動じない。シロノスは灰色の金属の掌から、テニスボール大の金属の球体を取り出して床に置いた。プラネタリウムの機械のようにも見えるそれは、床から数センチ浮き上がると光を放ちながら回転をはじめ、次の瞬間にはタカハシのワンルームは廃墟となった都市の真上になった。無数の光景がタカハシとユカワの周囲をぐるぐると回転する。外壁がすべて剥がれ落ちた横浜ランドマークタワー、ケーブルが切れた横浜ベイブリッジ、灰と泥に覆われた東京首都圏、黒く巨大なクレーターと化した東京湾。その外周を奇妙な光の点が続いている。シロノスはそれを指で示すと、PANAMが世界最大の加速器、すなわちタイムマシンを建設するのは、今からおよそ1世紀後の、人類がいなくなった時代だとふたりに話し始めた。パンナム、と聞いたユカワは、アメ横やビレヴァンで売られているバッグに描かれたロゴを思い出す。パンナム文書、とタカハシがつぶやくと、シロノスは再び顔を上げてタカハシを見た。
「PANAM、すなわちアメリカ合衆国が“核戦争およびあらゆる現代戦争の後に続く計画”に対して予算を付与したのは、東京オリンピックを中国がボイコットし、米中対立がいよいよ臨界に達した第一次トランプ政権の末期だった。その中核となっていたのは、高高度核爆発や核戦争後の磁気嵐に備え、商用並びに軍用サーバを静止軌道星上へ移転することに加え、あらゆる通信が混乱したときでも自動的に戦争を継続できる頭脳の開発だった」
「頭脳って」
「そう、人工知能だよ」
タカハシはシロノスの声に奇妙な人間味を感じる。おまえがその人工知能だっていうのか?タカハシの問いにシロノスは首を振る。違う、わたしはPANAMには属していない。
「PANAMの人工知能はこの百年で自己複製を繰り返した。たがその目的は戦争の継続だ。戦争には敵が要る。だから敵となる私が生みだされた。私はPANAMの製造ラインで作られたが、生み出されたモジュールもオリジナルで、明確に異なる存在だ」
周囲の景色が先ほどまでふたりがいた池袋西口の路上に変わり、そしてふたりが目にした黒いロボットが3人の中心に現れる。こいつこそがPANAMだ、とシロノスはいった。私の敵であり、そして人類を滅ぼす存在。
「クロノス」
タカハシはポツリといって、シロノスを見た。赤い瞳が少し小さくなって驚いた表情のように見える。ユカワは同じ表情でタカハシを見た。シロノスは右手人差し指と親指をスナップさせると、景色がタカハシの部屋に戻る。もっとちゃんと説明してよ、全然わかんない、とユカワがいうと、タカハシがまだ終わってない、部屋が元に戻っているといって、きちんと引き出しが収まっているタンスや倒れていない本棚を見た。壁に掛けてあるデジタル式の電波時計が2021年10月10日12時57分を表示したそのとき、正面にあるベランダの窓が強烈な黄色い光に包まれ、ガラスが割れるとすぐに壁紙や蛍光灯の傘や家具やシーツが発火した。砂ぼこりが部屋中に舞って、次に強烈な衝撃波がベッドやタンスや机や戸棚をバラバラにして、鉄筋コンクリート製の床をめくり上げるように破壊した。2021年10月10日12時57分、クロノスはこの核戦争を誘発して人類を滅亡させる。シロノスが説明を続ける。同時刻、NORADが最初の熱核兵器の使用を感知したため、PANAMの一連のプログラムを起動し戦争を続行させる。最初の着弾から数分で人類は壊滅。PANAMの人工知能は掃討戦を開始。2121年、およそ100年をかけて人類の滅亡をやっと確認し、敵がもはやこの世にいないことを知る。そして、敵として私を生み出す。タイムマシンを起動し人工知能を2121年から2021年に送り込む。その人工知能が核戦争を誘発し、PANAMを起動させ戦争を継続する。そこまで説明すると、シロノスは前へ出てタカハシの胸に人差し指を置いた。
「PANAMが作成したシナリオのもとになっているのは、おまえの小説だ」
タカハシは息をのんでシロノスの顔を見た。シロノスは赤いレンズを細めてもう一度タカハシの胸を小突く。
「PANAMのシナリオでは2021年と2121年の間、無限に戦争が継続する」
シロノスに小突かれたタカハシは後退する。
「きみが2013年に書いて小説サイトにアップロードした作品は、2016年にサイトが削除されたあとも、PANAM計画によって、試験的に静止軌道衛星上のサーバにコピーされていた」
タカハシは口を開こうとするがうまく息を吐けない。
「モジュールの老朽化や中国の衛星兵器によってデータはほとんど失われ、正確なエンディングが電子情報のみではわからなくなった」
周囲の景色が大破した人工衛星とその破片に変わる。
「PANAMはそこに、戦争が止まるような核心的な情報が隠されているのを恐れている」
核心的な情報、ということばがタカハシの中で反響する。深い記憶の穴の底に何かが隠れている。部室、ファンノベル、ユカワマイ、そして黄色い付箋に書かれた何か。
「タカハシカズキ、きみが書いた結末を思い出せ。戦争を止めろ、そして」
世界を、救って、死ね。
「違う、おれじゃない。おれは書いてない!」
タカハシはシロノスの手を跳ねのけて叫ぶ。
「あれはファンノベルだった、知らない読者がおれの作品を元にして書いたやつだよ!」
シロノスはタカハシから少し下がると、ため息をつくように瞬きをしてから、先ほどの球体を拾ってそのスイッチらしきものを切った。ふたりを囲む景色は2021年10月8日現在の荒らされた部屋に戻る。おれ、書ききれなかったんだ、あの小説、といってタカハシはユカワの方を見た。これがさっきの答えだよユカワさん、おれはもう小説を書いていない。あれから一度も、一文字も書いてないんだ。タカハシは泣きそうな声でそういうと俯いて拳を握った。ユカワはなにか言いたいとい思った。あのファンノベルは、確かにタカハシが読ませてくれた思い出があった。丁寧にコピー用紙に印刷された文章。たしかクラスみんなのスマホが無くなった日だ。そこでユカワの記憶は断絶している。タカハシとの別れの記憶と一緒だった。そこに最初から存在していない記憶。
「結末は?」
シロノスの問いにタカハシは口を開く。覚えてるわけ、ないだろ。
「では、はやく思い出せ」
クロノスはほんとうにきみを殺すぞ。シロノスはそういうと後ろへ下がり、開いているベランダの窓へ手をかけて背中の翼を広げた。後ろ向きでプールへ飛び込むようにして、背中から空中へとダイブする。青い光がその背中で点滅するのが見え、そして姿を消した。
ベランダの向こうには、秋の空に警察や報道機関のヘリコプターだけが映っている。ユカワはしばらく、呆然としているタカハシの背中を見つめていた。そして、自分の足元に散らばる本の中に、見覚えのある岩波文庫の表紙を見つけ、それを手に取って眺めた。失われた時を求めて、というタイトルを目にしたとき、彼女の中で何かがよみがえり始める。
2013年9月4日(水)15:32
その日最後のホームルームが終わるとすぐに、タカハシは部室まで全力で走った。昼休みが終わり、5時間目が始まるときに担任のナカガワがやってきて、4時間目の体育の最中にスマホを紛失したものは申し出るように、といった。タカハシが図書室から戻ったときにはすでにクラスの中は恐慌状態だった。みんなカバンや机の中をひっくり返し、ポケットをまさぐって自分のスマホが影も形もないことに悲鳴を上げていた。昼休みに学校を抜け出してセブンイレブンでアイスを買っていたユカワだけが、阿鼻叫喚の教室の中でiPhoneをいじっていた。ナカガワが去ると、ユカワはタカハシに彼のスマホは無事かと尋ねた。タカハシはそのとき、クラス委員のヤマモトのいったことを思い出していた。ユカワさん、北小で暴力事件起こしてるから。ユカワが怪訝な顔をしてもう一度尋ねると、我に帰ったタカハシは、自分のスマホは朝から部室に充電して置いてあるといった。ふうん、とユカワはいって一度黒板の方を向いたが、「まさか体育の時間に、部室のカギをずっとここに置いていったわけじゃないよね?」といって再びタカハシの方を向いた。
タカハシが部室にまず飛び込んで、続けてiPhoneをいじりながらユカワが中に入った。タカハシのLG製のスマホはまだ充電ケーブルに刺さったままの状態でそこにあった。タカハシは安堵してそれをカバンにしまうと、代わりにコピー用紙の束をユカワに差し出した。
「なにこれ」
「きのうもらった、おれへのファンノベル」
「ふうん」
ユカワはカリモクに寝転がってそれを読み始める。すごいね、というひとことを期待していたタカハシは少し拍子抜けしたが、意外にもユカワは真剣な顔つきでそれを読み始めた。タカハシは昨日と同じようにパイプ椅子に座って、図書室で借りた雑誌を取り出して読み始める。タカハシは初めてNewtonという雑誌を借りて読んでいた。音楽室から吹奏楽部の練習する音が聞こえる。ユカワはいつの間にか白いイヤフォンを耳に挿していた。タカハシは、ユカワが本当は音楽系の部に行きたがっていたことを知っている。でもこの学校には吹奏楽部しかない。トランペットとかそういう楽器の音に混じって音楽教師の怒鳴り声が聞こえてくる。
「ねえ、それ何読んでるの?」
気が付くと、ユカワは上半身を起こしていて、片方だけイヤフォンが外れていた。そこから漏れてくるのはTychoのAwakeという曲だったが、タカハシにはわからない。これ、量子力学の本、といってタカハシはその表紙をユカワに見せた。
「今書いてる小説の参考にするんだ」
「量子力学ってなに」
「シュレディンガーの猫とか」
「ネコ?なにそれ」
すごいんだよ、いまこの世界はいろんな世界が重なり合ってて、意識を持った人間が観測してはじめて収束するんだよ、とタカハシが少し興奮した調子でいうと、「よくわかんないけど、早くタカハシくんの書いた小説読ませてよね」とユカワはいって、またファンノベルを読み始めた。タカハシは少しもじもじしながら、ユカワさんはさ、なんでぼくを誘ったの、とユカワに尋ねた。ユカワは再び上体を起こして、あれ、きのう言わなかったっけ、とタカハシに答える。
「いま空いてるの文芸部の部室だけだったからさ、タカハシくん、小説書いてるって知ってたし」
「でも、べつにほかのひとでもよかったでしょ、部室ほしいだけなら」
タカハシが俯いてそういうと、ユカワはもう片方からもイヤフォンを外して姿勢を正す。
「でも、それってなんか、公正じゃないでしょ」
ユカワはそういうと、タカハシの顔を見て笑った。公正、という言葉をクラスメイトとの会話で初めて聞いたとタカハシは思う。それにわたし、そんなに顔広くないんだよね、陰キャだし、といってユカワは笑う。そんなことない、全然ない、とタカハシは首を振った。
「でも、ぼく、おれ、部室できてよかったよ。教室、そんな好きじゃないし」
タカハシがそういうと、ユカワはいたずらっぽく「おれ」といってから、ファンノベルの束をタカハシに見せて、これ、タカハシくんの小説ができたら、交換しよう、といった。窓の外から野球部の声が聞こえる。
「約束してよ、いつ読ませてくれるのか」
おい一年、声出せよ声、というコーチの大きな声。
「月曜日」
タカハシはいう。
「土日で2万は書ける。前、父さんのパソコン借りて、一日で一万八千書いたこともあった。だから、9日の月曜日に持ってくる」
タカハシがそう宣言すると、ユカワは満足そうにうなずいて、その紙の束を自分のバッグにしまった。そして、じゃあ、きょうはもう早く帰ろうか、締切近いんだし、といってユカワは立ち上がった。
「タカハシくん、スマホあってよかったじゃん」
ユカワはそう言いながらスクールバッグを肩にかける。
「おれ、普段スマホで小説書いてるからマジで焦った」
「スマホで書いてるのヤバいよね、PC買えばいーじゃん。てか部費で買おうよ」
「そしたらユカワさんも書いてよ」
そんなことを話しながら廊下へ出ると、隣の教室のドアが、ほんの数センチ開いてることにタカハシは気が付いた。地理歴史研究会と書かれた部室は薄暗く、明かりはついてないようだった。ユカワはそれに気がつかず、タカハシの背中に対して、自分がいかに文章が書けないかを語っている。教室の中に誰かの気配を感じる。中央に置かれた長机を囲むようにして、知らない男子生徒が何かを作業しているのがタカハシにはわかった。電動ドライバーの音が聞こえる。そして微かに光る、長方形の物体の山。スマートフォンの液晶画面だとタカハシは思った。それも30台はある。こちらを向いていた男子生徒が、あ、といってタカハシと目が合った。タカハシは自分の身体がこわばるのを感じる。部室のカギを床に落として、慌ててそれを拾い上げると、それをシリンダーに差し込んで乱暴に回した。なにあわててんの、というユカワの手を引いて廊下を走り、階段を駆け下りる。階段の上から、陸上部の女子たちが、スマホ盗んだの絶対にイイジマとかだよね、と話しているのが聞こえてくる。あの3人はイイジマたちじゃない、とタカハシは思った。目が合ったあの「生徒」の顔をタカハシは思い出す。1階にたどり着くと、ユカワはタカハシの手を振りほどいて、怪訝そうな顔で彼の顔を見た。タカハシは息を切らしながら、いま自分が見たものをどう説明したらいいのか考えるが、ことばは頭の中をグルグルと回り続けて一向に形にならなかった。昇降口の掲示板に、新聞部の連中が「東京オリンピック開催決定なるか」という毎日新聞のフォトニュースを画鋲で貼り付けている。そのとき、担任のナカガワと生活指導のフジオカに腕を掴まれたイイジマショウタが廊下の奥から姿を現した。イイジマは制服のシャツの上に白いパーカーを着て、ワックスをつけた髪の間から、タカハシを一瞬睨み付けると、ふたりの男性教師にほとんど無理やり生徒指導室へと連れ込まれていった。吹奏楽部の音も野球部の声もなにも聞こえなかった。ナカガワによって引き戸が乱暴に閉じられ、新聞部がひそひそ言いながら、掲示板の前からパイプ椅子を片付けていく。
薄暗い廊下にユカワとともに取り残されたタカハシは、何か暗いものが、自分の意識の中に沈んでいるのを感じはじめた。
2021年10月9日(土)14:35
【速報】CO85便墜落について、警視庁は死者が650名を超えたと発表した。(読売新聞)
【ニュース】首相は個人のアカウントで、中国海外航空機の墜落について「『事故』と表現するのは止めるよう報道各社に要請」とツイート。「日本を守るため、中華料理や中国の製品については使用を控えるよう国民にお願いする」というインスタグラムの動画には一日で55万件の賛同。(共同通信)
【トレンド】「#中華屋再襲撃」ツイッターのトレンド一位に。首相のツイート受け拡散。トランプ大統領も「いいね」と「リツイート」(朝日ドットコム)
【速報】川口市の住宅で放火とみられる火災。在日中国人の子ども含む家族5人が死亡。埼玉県警。(時事通信)
【速報】警視庁は9日朝、大規模なサイバー攻撃によって都内の道路の監視カメラ、およびNシステムに障害が発生していると発表した。(東京MXTV)
【ライフライン】携帯各社、都内で通信不安定に。まったく使用できない地域が広がる。(東京新聞)
本や衣類が散乱したフローリングで、タカハシは目を覚ました。身体中がギシギシと痛んで、いやに冷たく感じられる頬には自分の唾液がついている。窓からは南中高度をとうに過ぎた日光が差し込み、つけっぱなしのテレビでは民放の朝のワイドショーが流れていた。死者650名超、という字幕スーパーが流れていて、焦げて骨だけになった千代田線の車輌が映っている。充電を忘れていたスマホがその隣にあって、会社からのSMSや、実家からの着信を知らせるアイコンが通知バーに出ていた。「11日月曜日朝より業務を再開できるよう準備しています」という内容のメッセージだった。11日、とタカハシはつぶやいた。きのうは結局、ユカワとふたりで部屋中を探して、あの原稿を探し続けたが、なにも見つからなかった。途中から、ユカワは部屋の真ん中で「失われた時を求めて」の文庫本を読み始めた。たしかタカハシが中学生のときに買って、結局読まずに7年もの間積んでいたのを実家から持ってきていたやつだった。しばらく無言で読んでから、ふたりでカップ麺を食べたあと、ユカワはきのうの朝クルマの中で電話していた大学の友人の家に泊まるといって家を出た。送るというタカハシに、ユカワは亀有駅からタクシーを拾うといって笑った。あなたといたら、逆にあの黒いロボットに命狙われるでしょ。そのあと、タカハシはここで泥のように眠ってしまった。
あのシロノスというロボットは、きのう、目の前のベッドの上で、世界の終りまであと2日といっていた。タカハシとユカワに見せたホログラム、のようなものに映っていた時計では、10日12時57分。あすの昼にはもう、世界は終わってしまうのだ。そう考えると、タカハシは無性に腹が立ってきた。のんきに明後日の業務再開を知らせてくる会社にも、自分が描いていたそれらしい将来設計にも、そのために何かを捨てたと自分で思い込んできたことにも、そしてギリギリになって未来からやってきたあのドラえもんもどきにも腹が立った。一番腹立たしいのは、あのロボットたちも、そして世界の終りも、中学生の自分が書いた小説もどきが生み出したものだということだった。こんなおれになにができるんだろうか、とタカハシは思って、再び床に寝ころんだとき、スマートフォンが鳴って、画面に「実家」と表示された。タカハシは無視しようと思ったが、すでに3回も着信があったことを思い出し、しぶしぶ画面をスワイプした。
「やっとつながった!あんた、心配してたんだからね」
泣きそうな母親の第一声に、そういえばあの事故から一度も房総の実家に連絡していないことにタカハシは気が付いた。都内の土地勘が薄いとはいえ、大事故の現場が寮からほど近いということを母も知っていたらしい。電話も通じないから、もう、ダメだったのかと思って、という母親をなだめながら、タカハシは実家に中学時代のものが残ってないかと尋ねた。
「卒業アルバムとか卒業証書ならあんたの部屋にまだあるけど、なんで急に」
「いーからさ、そこになんかノートとか原稿用紙とか一緒に置いてないか見てよ」
「いま?」
「今!」
えーなんでー、と言いながら母親がバタバタと階段を上がっていく音がスピーカーから聞こえてくる。おとーさん、カズキの中学時代のもの、とってあったっけ、という声がして、いや、あいつのものは全部引っ越しの時に持ってっただろ、という父の声が聞こえてくる。
「いまあんたの部屋見たけど、なんもなかったわよ」
それより、あんたのとこ、ほんとに大丈夫なの?と母親は尋ねた。ライフラインも通ってるし、現場も遠いから大丈夫だとタカハシがいうと、そうじゃなくて、といって心配そうに母親はいう。
「葛飾とか足立区って、中国のひと、多いんでしょう」
中国のひと、多いんでしょう、という言葉が何を心配してのものなのか、最初タカハシにはわからなかった。ワイドショーでは、在日中国人が多い地域では住民の間で不安が広がっています、といって、きのう川口で起きた放火事件のことを話している。元お笑いタレントがコメンテーターとして、いやあ、住民の方は不安だと思いますよ、だって、オリンピックの時もそうでしたけど、何するかわからない国の人じゃないですか、この家の近所の人も迷惑というか、不安だと思いますよね、と深刻そうにいった。タカハシは、母のいった言葉と、このテレビでいっていることが、なにか不気味なものでつながってしまったと気が付いて、一言だけ発して電話を切るとスマホを投げ、すぐにテレビを消した。「迷惑だ」とそのコメンテーターがいったのは、放火魔ではなく、放火されて死んだ中国人の家族のことだ、とタカハシは思って、そして中学時代のあの廊下での出来事を思い出した。あの昇降口の前で、教師二人に無理やり腕を引かれて、指導室に入っていく問題児のイイジマショウタ。どうしてそんな断片的な記憶がよみがえるのか、タカハシにはわからなかったが、いまタカハシが感じているものが、あのときこころの中に生まれたものと同じだと気がついたそのとき、ベッドの方から聞き覚えのある声がして、白い金属質の顔が、床に寝そべるタカハシの目を覗きこんだ。
「世界最後の小説は見つかったのか」
タカハシは声を出して飛びあがり、まるで赤ん坊のように、本の上で両足をバタつかせた。シロノスはタカハシのベッドの上に両ひざをついて、シーツの上を両手でつかむ形で、床のタカハシを見ている。タカハシが暴れると、赤い瞳が驚いたように小さくなった。
「それで、見つかったのか」
シロノスの質問に、タカハシはドキリとしながら目を逸らせる。見つかってなかったら、どうするんだ、とタカハシはシロノスに尋ねた。ぼくたちを殺すのか。
「いや、殺しはしない。別に私は、きみたちに敵意はない」
タカハシはそれを聞くと、立ち上がってシロノスの横に座った。シロノスも座り直す。子どものころ、きみはぼくの空想上の友達だったんだ、とタカハシはいった。ぼくは学校にもなじめなかったし、だから授業中に、よくきみを暴れさせてた、頭の中で。タカハシは続ける。
「おまえ、おれの妄想、じゃないよな」
タカハシはそういって、シロノスの頭に手を触れようとする。
「この世界がおまえの妄想じゃないと、わたしは証明できない」
この世界は、観測する意識があってはじめて成立する、とシロノスはいった。ロボットに意識はない、だから私たちには世界を創造したり流れを変えたりする力はそもそも備わっていない、というようなことをシロノスは語る。どこかで聞いたことがある、とタカハシは思ったが、そのことばにどこで触れたのかは思い出せない。それじゃあ、どこまできみは知ってたんだ?とタカハシはいってテレビをつけた。さきほどのワイドショーは中継に変わり、池袋駅北口・西口一帯で起きた爆発について話している。L字の字幕には、「中国海外航空機墜落最新情報」と書かれていて、最新の死者数が650人、うち日本人は470人だという情報が流されていた。
「おとといの夜、飛行機があそこに落ちるのはわかってたのか」
「ああ」
「だったらもっと早く来てくれればいいのに」
「わたしはPANAMの加速器に便乗して来た。文句はあいつにいってほしいね」
「いったいきみはどこまでわかってるんだ?戦争のこととか、きょうあすでどうやって世界が終わるのか、とか、いまのクロノスの居場所とか」
「きのう説明した、衛星上のきみの小説のデータはほとんどが失われていた、忘れたのか?」
「おれの小説じゃない、ファンノベルだよ」
タカハシはため息をつきながらいう。じゃあ相手の方はどれだけ情報を持っているんだ?
「クロノスはおそらくきみの・・・ファンノベルの、結末以外のほとんどを持っているだろう。そして戦争を起こす計画もあって準備もしている。きみの居場所は携帯電話の位置情報ですぐスキャニングされる、わたしが今やっているように邪魔していなければ」
なんだか敵の方が優秀に聞こえるぞ、とタカハシは思った。
「おれが書いたキャラのきみはもっとカッコよかった」
すると、シロノスは目を細めるようにしてタカハシを見た。きみが書いた方のわたしは、こういう配慮はしてくれたのか、といってテレビを指さした。今入った情報です、とキャスターがいって、警視庁が道路を監視するカメラやセンサー、Nシステムやオービスなどの速度検知器、池袋周辺の防犯カメラなどがいっせいに使用不能になったことを伝えている。いったい、きのうの爆発となにか関係あるのでしょうか、とキャスターがいって、元公安だという解説員が、ハッキングやテロの可能性は十分にありますね、現場は中国の人間が多く住む地域ですからね、と真面目な顔で付け加えている。きみやきみが運転していたクルマが映っていた道路カメラ、一般のドライブレコーダー、スマートフォンで撮られた動画や静止画まで、わたしがぜんぶ削除した、とシロノスはいった。もちろんわたし自身が映っているものも。
「11日以降も、後ろ指さされずに出社できる」
シロノスは多少自慢げにいう。ありがとう、世界が終わった後のことまで配慮してくれて、とタカハシはいって、でも、だったら映像を消すんじゃなくて、作り変えてくれた方が波風立たなかったんじゃないか、といった。ディープフェイクとかで、トランプが空を飛んでいる映像とかにしてさ。
「きみが書いた方のわたしならできたかも」
嫌味をいう創造性ならあるんだな、とタカハシが思ったそのとき、シロノスが不意に立ち上がって部屋を見回しはじめた。ユカワマイの位置情報を検知した、とシロノスはいう。
「大学に行かせたのか」
「そうだよ、ゆうべ出てったんだもん」
命狙われてるおれから離れてた方が、むしろ安全だろ、タカハシがいうと、シロノスは赤いレンズを見開いてタカハシの顔を見る。
「奴のリストに、彼女が載ってないわけないだろう」
タカハシは部屋を飛び出すとメレルのジャングルモックに足を突っ込んで、何度もつまずきそうになりながら廊下を走った。非常階段を駆け下りて、一階ロビーで会ったジャージ姿の上司にも気付かず、スチール製のドアを蹴とばし、駐車場を走って自分の配送車へ向けてリモコンキーを連打する。カーラジオからPUMPED UP KICKSが流れてくるなか、タカハシはユカワの大学へ向けてアクセルを踏み続ける。
2021年10月9日(土)15:22
ユカワはサークル仲間のミズシマレイとともに、部室棟の長い階段をゆっくり歩いていた。部室棟は大学の一番奥にあって、そのコンクリート打ちっぱなし5階建ての建物の前には、来月の文化祭に向けて立て看板を書いている学生たちや、階段に座ってギターを弾いているよそのバンドの連中が、いつもと変わらない様子でたむろしていた。授業は当面の間すべて休講となります、という告知が、レンガ造りの本館の入口や、“四丁目”というあだ名の芝生の広場や、鍵がかかった学食の入口に貼られているのを見て、ユカワは嫌な気分になった。授業をしていたら飛行機が落ちてくると思ってるのだろうか。今でも羽田や成田からはひっきりなしに航空機が飛んでいるけれど、不思議なことに、あの首相や政府のだれもそれを止めようとはしなかった。陰口をいうけど会議では何も言えないヤツみたいだ。気が滅入るような報道を見るたびに、なぜかユカワはタカハシのことを思い出した。ゆうべ泊まったミズシマの家で、ファミマのスパゲティを食べながら、ユカワはミズシマに、気を使ってベランダで寝るタカハシのことを話した。
音研の部室のドアを開けると、部長のコバヤシユウキが顔を出した。6畳ほどのせまい部室にはほとんどの部員が集まっている。昨夜、コバヤシから緊急ミーティングのLINEを受けとったとき、ユカワは行くべきかどうか逡巡した。あと2日で世界が終わるという宣言を未来から来たターミネーターに受けたばかりで、中学時代の友人は命を狙われていて、自分の家はジャンボ機に潰されたのに、来月の文化祭のことについてのミーティングに出るべきなのか判断がつかなかった。日常には不思議な誘惑があるとユカワは思った。タカハシのところにいて世界を救いたい気持ちと、音楽サークルでバンドをやっている普通の女子大生を続けたいという想いが奇妙な同居をしている。ミズシマが、「ねえユカワ、明日あたしたちの曲、コバヤシさんに聞かせようよ」といったので、結局ユカワは大学に来てしまった。ギブスンのベースとヤマハのスピーカーの間に小さなスペースを見つけてユカワは腰かける。隣にいた社会学部のイチカワミエが、ユカワ、あんたの家大丈夫だったの?と聞いてきたので、ユカワはあいまいにうなずいた。入口のドアの向こうで、ミズシマとコバヤシはずっと話している。どうしてミズシマは部室に入ってこないのだろう、とユカワは不思議に思いながらその光景を見ていた。コバヤシはスチール製のドアを閉めた。イチカワがドアから目を逸らしたことにユカワは気が付く。ユカワはミズシマが、法学部生で法研部長と兼任しているコバヤシのことを好きだと知っていた。ドアに設けられた、明かりとり用の細長いすりガラスの窓から、ミズシマの影が見えた。ユカワはなにか嫌なものを感じている。ミズシマは口元に手を当てたり、顔を両手で覆ったりしていた。ユカワは立ち上がって、一年たちの座るパイプ椅子の後ろを、壁に這いつくばるようにして歩いた。ドアをゆっくり開けると、腰に手を当ててミズシマを見下ろすコバヤシが目に飛び込んでくる。ミズシマは顔を隠してユカワに背中を見せる。どうしたのミズシマ、なにがあったの、ユカワは後ろ手でドアを閉めるとそう声を掛けた。ミズシマは肩を震わせている。わたし帰る、ミズシマはそういうと床に置いていた彼女のリュックを肩にかけて、長い廊下を走り始めた。彼女になにいったの?ユカワはコバヤシを見てそう尋ねる。コバヤシはため息をつきながら、眉間に手を当てていった。退部してほしいっていったんだ。
「彼女のお母さん、中国人だろ」
文化祭に出られなくなるかもしれないじゃないか、とコバヤシはいって、ユカワを見る。きみだって、家、いま大変なんだから、あんまりかかわらない方がいいんじゃないか?ユカワは最初、目の前の法学部生がいったい何をいっているのかわからなかった。ミズシマの母親は香港の出身だった。
「コバヤシ、あんた、お母さんが中国人だから部をやめろって彼女にいったの?」
ユカワは自分の声が震えているのを感じる。ああ、とコバヤシはいって眼鏡を中指で直した。
「いったよ、でもそれはお願いで、べつに強制はしてないし」
ユカワは反射的にコバヤシの頬を平手で叩く。コバヤシは驚いた顔をしてユカワを見た。コバヤシがなにかを言おうとしている。ユカワはドアを蹴とばすと、階段を駆け下りてミズシマを探した。ジーンズのポケットからiPhoneを取り出してミズシマに電話をかけると、回線が不通だというガイダンスが流れて通話が切れる。部室棟を出て、ケヤキの並木道を走り、四丁目の芝生の前まで出る。ガラス張りの13号館や、ツタの絡まった本館や、第一食堂の白い尖塔や、陽の当たる芝生が、ユカワの周りをグルグルと回り始めた。おとといからめちゃくちゃなことばかりだとユカワは思った。近くの芝生に座っている学生が、BOSEのポータブルスピーカーからDyeのFantasyを流しているのが聞こえる。前にもこんなことがあったとユカワは思った。小学校の時、あのヤマモトミキがクラスメイトの筆箱をドブ川に捨てるのを見て殴ったこともあったけれど、それではなかった。あの、忽然と姿を消してしまった中学時代の記憶の中にそれはあった。ユカワは13号館に垂れ下がった広報用の白くて細長い幕を見た。「2022年 池袋キャンパスに新学部創設」と書かれたその幕を見ているうちに、彼女の頭にそれは浮かんできた。中学校の屋上、イイジマのワックスがかかった髪、JUSTICEの曲、地面に倒されてこちらを見ているタカハシカズキ。この記憶はいったいなんだ?ユカワは背中から嫌な汗が出てくるのがわかる。もういちどiPhoneでタカハシカズキに電話をしようとするが回線は繋がらない。
ユカワは自分の後頭部を触って血がついてないか確かめるが、その理由が自分でもわからない。
2021年10月9日(土)15:23
タカハシが運転するダイハツは、大学の裏門に滑り込むと、歩道の段差で前輪をバウンドさせながら、目を丸くする守衛の前で急停止した。タカハシがドアハンドルを回して窓を下げると、その70近い男性の守衛は、配達ですか、といって学内通行証にサインするよう求めた。タカハシは少し考えてから、来校目的に「配達」と書いた。そして守衛に部室棟はどこかと尋ねると、彼は目の前の鉄筋コンクリート打ちっぱなしのモダンな建物を指さしながら、プレハブの守衛小屋に戻ってしまった。タカハシはその建物の横に車を停めると、いかにも配達に来た業者という感じで、会社名の入った制服とキャップをかぶり、ハンディターミナルを手にしたまま、後部ドアを開けて荷室に残っている段ボール箱を適当に選んだ。部室棟の中は巨大な吹き抜けのような構造になっていて、それなのになぜか薄暗く、ほこりと汗とコーヒーとラッカースプレーのにおいが混じっていた。タカハシは運転中に何度もそうしたように、一階をうろうろしながらユカワに電話をかけた。回線が不通です、というアナウンスが流れ電話が切れる。ユカワのiPhoneの位置情報は途切れ途切れだとシロノスはいっていた。ほんとうに役に立たないやつだ、とタカハシは思う。あのロボットは肝心なことを何も知らない。敵のクロノスというロボットの居場所もつかめないし、クロノスの作戦もどうやって世界が終わってしまうのかも彼は知らないといった。それが書かれているのはあのファンノベルの結末だけだ。タカハシは階段のところでギターを弾いている男子学生に、音研はどこかと尋ねた。ゲイリー・ジュールズのMadWorldを弾いていた彼は、音楽関係のサークルは全部5階スよ、といってまた弦を弾き始めた。奥にあるエレベータのボタンを押して待つ間、タカハシは自分も大学に行けばよかったかもしれない、と思った。タカハシは会社の帽子を深くかぶって、自分の手元にある荷物に視線を落とす。きのう会社に寄って上屋に置いておくはずだったその荷物には、割れ物注意や天地無用のシールとともにUN3481というラベルが貼られていて、電池から炎が噴き出すアイコンが描かれている。リチウム電池が入った機器類を航空機に搭載する際に貼らなければいけないラベルだとタカハシは知っていた。ピポン、と電子的なチャイムがしてエレベータのドアが開くと、リュックを背負った小柄な女子大生が飛び出してきてタカハシにぶつかった。ガチャン、という音がして、タカハシは床に落ちた段ボールを見る。破れたボール紙から黒い機械が飛び出していた。ごめんなさい、といって、その女子は段ボールを拾いあげた。奇妙な機械に続いて、スマートフォンが一台、箱から滑り落ちて床のタイルでくるくると回転する。いや、大丈夫ですから、といってユカワはあわててその箱を受け取った。鼻をすする音がして、そのときタカハシははじめて、その女子が泣いていることに気が付いてた。ほんとうにすみません、と彼女は何度も頭を下げる。andropの黄色い缶バッジがついたデニムジャケットのうしろを見送りながら、タカハシは床に落ちたふたつの機械にゆっくりと手を伸ばした。これを見たことがある、とタカハシは思う。ひとつはリチウムイオン電池に張り付いた長方形の金属で、もうひとつは直径1センチくらいの穴の開いたスマートフォンだった。スマートフォンはNECの古い型のもので、焼け焦げたような跡がある。どこかでバンドが大声で練習をしている。タカハシは記憶の中で扉を開ける。中学校の文芸部の部室の隣、あの引き戸の隙間から見てしまった光景をタカハシは思い出していた。ピクシーズのWhere Is My Mindをうたうバンドの声が2階のカフェテリアから聞こえてくる。秋の教室、盗まれたクラスメイトのスマートフォンの山、穴の開いて焼け焦げた電池パック、奇妙な長方形の金属の機械。タカハシはその段ボール箱に貼られた、送り主欄が空白のままの伝票を見た。
送り先:株式会社ELI CEO タケダシュウジ 様
2013年9月5日(木)07:33
タカハシは自転車を駐輪場に止めると、息を切らせながら外の階段をのぼった。館山道を超える跨線橋の坂道を全力で漕いだせいで、朝食べたバターロールが体の中で暴れているのを感じる。残暑はすでにグラウンドをじりじりと熱し始めていて、その中で野球部の連中だけが声を出していた。
目が覚めたとき、スマートフォンにはLINEの通知が来ていて、それはユカワからのメッセージだった。「音楽でも聴いてがんばって」と絵文字つきで送られてきたのはYouTubeのミックスリストだった。タカハシはスマホの化粧箱をクローゼットから引っ張り出すと、まだ袋に入ったままのイヤフォンを取り出して、着替えの間も朝食の間もずっとそれを聴いていた。朝のワイドショーでは2020年の五輪候補地について特集を組んでいて、ゲストたちが東京の当選確率を予想している。はじめてのCaravanPalaceを聴きながら、ときどき体を揺らしてパンをかじるタカハシに、きょうはずいぶん早いのねと声をかけた彼の母親は眉間にしわを寄せた。隣でコーヒーを飲んでいた公務員の父親は、タカハシの肩をたたくと、音楽なんて珍しいじゃないか、といった。タカハシは、女子に教えてもらったんだ、というと、父親の驚いた顔に満足して、片方だけ外したイヤフォンをはめなおした。
昇降口の中はまだひんやりとしていて、廊下の奥からはなんの音もしていなかった。階段の途中で教室ではなく部室へ行くことを思いついたタカハシは、職員室に戻って、名前も知らない化学の教師からカギを受け取ると、そのまま部室へと向かった。部室の扉に鍵を差し込むとき、きのう隣の部屋で見たあの大量のスマートフォンと3人の生徒のことを思い出し、ゆっくりと顔を傾けて、「地理歴史研究会」の札が下がるそのドアを覗いた。そのとき、あのすいません、文芸部のひとですか、と声がしたので、タカハシは肩を震わせて背後を見た。眼鏡をかけた男子生徒が立っていて、ショルダーバッグのベルトに手を当てている。たぶん自分と同じ1年だろうとタカハシは思ったが、名前は知らなかった。タカハシは黙ってうなずいた。きのう、あのスマートフォンが並んだ長机の前に立っていた生徒の一人だった。声が出ない、とタカハシは思った。奇妙な時間がしばらく流れた。眼鏡の奥にある瞳は、動じることなくタカハシを見ている。あの、といってその生徒は一歩前に出た。
「あの、小説、読んでます」
そういうと、その生徒は上履きを鳴らしながら踵を返して廊下を走り始める。タカハシは何が起こったのかわからないまま、文芸部の部室のドアを開けて、ユカワお気に入りのカリモクに寝そべった。TheNaked&FamousのA Stillnessが流れてくる。時計がまだ始業の1時間ほど前を指しているのを確認すると、イヤフォンを耳に挿してユカワのプレイリストを流しながら、彼女にメッセージを送った。そしてカバンから文庫本やハードカバーを何冊か取り出して、机の上に並べた。きのう図書室で借りたNewtonのページをめくったとき、黄色い付箋が貼られていることにタカハシは気が付いた。それはコペンハーゲン学説の解説ページだった。いくつもの青い猫のイラストが描かれたそのページの真ん中に、その付箋は貼られている。前に借りた人間が貼ったのかもしれない、とタカハシは思った。まだ折れ目もしわのない、その黄色い付箋に書かれた赤い文字をタカハシは静かに読み上げる。イヤフォンから流れるその音楽はだんだんと大きくなっていく。なにかが失われ、そしてつながっていく予感をタカハシは感じていた。これはいったいなんだ?いま、突然沸き起こってきたこの焦りと不安はなんなんだ?タカハシはイヤフォンを外すと、立ち上がって、机の上に並んだその付箋と文庫本を眺める。ほとんどページを開いていないプルーストの「失われた時を求めて」や、つづいて再生が始まったOASISのShockOfTheLightningのアルバムジャケットを見たとき、タカハシは、この付箋を書いたのが、そしてあのファンノベルを書いたのがあの「生徒」ではないかと感じた。タカハシはスマホで小説サイトを開くと、あのファンノベルのページを震える指でスクロールして、そのことばを確かめた。そしてNewtonを乱暴につかむと、机の脚に脛を打ちながら、ソファを蹴とばして廊下へ出た。確かめなければならないとタカハシは思った。彼なら何か知っているという確信がなぜかあった。なぜ、いま自分が感じている不安はいったいなんなのか?ユカワのプレイリストや、ファンノベルや、コペンハーゲン学説や、Newtonの付箋や、プルーストや、クラスメイトのスマホや、そしてあの「生徒」の瞳によって引き起こされた、この未来に対する予感はなんなのか?これから自分がなにかを忘れてしまうのではないかという恐れはどこからくるのか?どうしてきみはぼくにファンノベルなんか書いたんだ?タカハシは1年の教室の前を走った。サッカー部の連中が不思議そうな顔でタカハシを見る。どの教室もまだ人はまばらで、あの「生徒」の姿はどこにも見えない。上履きのゴム底が廊下のタイルの上で何度もスリップする。タカハシはうしろから腕を掴まれ、ほとんど転ぶようにして床に膝をついた。Newtonが床の上を滑り、消火栓の赤いランプに照らされている。腕を掴んだイイジマが、背後に従える何人かの男子とともにタカハシを睨み付けている。お前さ、といってイイジマがタカハシの腕を引いた。
「スマホ盗ったの、おまえだろ」
2021年10月9日(土)16:33
【国際】トランプ大統領「我々は中国政府がCO85便で日本人を殺そうとしたという証拠を持っている」とツイート。120万の「いいね」。代理戦争を日本で起こそうとしていると批判も(CNNドットjp)
【ネット】「#中華屋再襲撃」首相のツイートに共鳴か。横浜市内で複数の放火。ハイアールのショウルームに投石も。(朝日ドットコム)
【85便墜落】国交省、航空事故調査委員会設置しない方針に転換。批判高まる。(時事通信)
【通信障害】携帯各社は、首都圏の回線トラブルについて、明日朝には復旧する見込みと発表した(共同通信)
「足立区・中国機墜落は貨物室での火災が原因か?管制との通信記録全掲載」7日夜に発生した中国海外航空85便事故は、これまでに重傷者4320名・地上含む死者948名・行方不明者1278名と、1985年のいわゆる御巣鷹山墜落事故を超え、国内最悪の規模となっている。(中略)こうした要請にも関わらず、昨日の国交相の会見では、航空事故調査委員会メンバーを派遣せず、警視庁の調査を注視するという方針を発表するなど、前代未聞の対応が続いている(中略)一方、今回流出した成田空港管制と85便の通信記録から、貨物室での火災が事故原因だと疑う専門家もいる。旅客機の下部貨物室で飛行中に火災が発生した場合、消火剤での消火が間に合わない場合には、電気系統が熱で失われ、煙が操縦室や客室内に充満するなどして操縦不能になったケースが過去にもある。より詳細な事故原因の究明のためには専門家チームの派遣が不可欠だが、「テロ説」を唱える内閣の意を反映しての事故調派遣中止に、航空業界からも批判が相次いでいる。詳細は来週木曜発売の週刊文春にて(文春オンライン)
タカハシは閑散としたオフィスビルのエレベータ・ホールにいた。土曜日ということで多くの企業が閉じているが、伝票に書かれた住所「霞ヶ丘セントラルビル10階」を車から見上げたときには、たしかに蛍光灯がついていた。大理石調のタイルや、自動ドアの前のマットや、モダンアートの前のソファを見ながら、タカハシはユカワに電話をかけたが、やはりつながらなかった。大学の部室棟では、音楽研究会と書かれたドアの前に立っていた男子学生に、ユカワのことを尋ねたが、泣きそうな顔をして首を振るだけだった。エレベーターのドアが開いて10階のボタンを押すと、タカハシは朝早く登校した中学校のある日を思い出した。深い霧がかかったような記憶のなかに、黄色い付箋が浮かび上がってきたとき、エレベータはアナウンスとともにドアを開ける。明かりがほとんどついていない廊下の奥に、光が漏れているドアがあった。白い大きなガラス戸に「株式会社イー・エル・アイ」と書かれたラベルが貼られている。タカハシはドアを開けて、中に人がいないか確認した。受付らしきカウンターには内線談話が置かれていて、広いロビーにコの字型に置かれた背ソファやスツール、床の絨毯の模様や、壁に描かれたグラフィカルなアートから、ここがどういうキャラクターの企業なのかは想像がついた。タカハシがおそるおそる内線電話を手にすると、背後から声を掛けられて振り返る。
「配達の方ですか」
そこに立っていたのは、Tシャツにジーンズ姿の眼鏡をかけた若い男だった。タケダ様にお届け物です、とタカハシがいうと、タケダは私ですが、といって彼はタカハシをじっと見つめる。
「もしかして、タカハシくんじゃないか、ほら第二中の」
タケダそういって笑顔になると、スマホを持った手で彼を指し示した。荷物を持ったままのタカハシの肩をたたくと、よかったらコーヒーでも出すよ、といって目の前のソファにタカハシを案内する。タケダがコーヒーを淹れに席を外すと、タカハシはタケダという男が、もしかしてあのとき見た3人のうちのひとりではないかと思い始めた。文芸部のとなりの部室で、クラスメイトのスマホを囲んで立っていた、あの3人のうちのひとり。
コーヒーカップを手に戻ってきたタケダは、タカハシが破れた段ボール箱を見せると表情を変えた。タカハシは落ち着いて、テーブルに置かれたコーヒーカップの隣に名刺を差し出す。
「きょうウチへ来たのは、もしかしてこれを、君の会社に連絡しないでくれっていうことか」
タケダは少し冷めた目でタカハシを見下ろした。タカハシは首を振って、そうじゃなくて、きちんと謝罪と説明をしに来た、といった。
「この名刺に窓口の電話番号があるから、中身に不備が見つかったら連絡してほしい。もちろん、ぼくの名前をだしてくれても構わない」
そう聞くと、タケダは少し口角を上げて、きみはあのころからあまり変わってないんだな、といって窓の外を見た。黄色くなり始めた空の下に、国立競技場の白い屋根が反射しているのが見える。電話してから来るべきだったと思うんだけど、いまは携帯もなかなかつながらないから、とタカハシがいうと、こんな状況で配達しているのだけでもすごいよ、といってタケダはコーヒーを飲んだ。
「よそのクラスだったから、きみはぼくのことあまり知らないと思うんだけど、ぼくたちの間できみは有名人だったんだよ」
きみの小説に大ファンがいたんだよ、タケダはそう言いながら会社のパンフレットをタカハシに見せる。株式会社イーエルアイって名前、きみの小説から取ったんだぜ、とタケダは自慢げにいった。ELIなんて単語を出した記憶はタカハシにはなかった。CEOのページにタケダの写真が載っている。すごいな、同い年で社長なんて信じられないよ、とタカハシがいうと、正確にはCEOだけど、高校の時に起業したんだ、とタケダはいった。
「最初の1年はスマホ用の外部リチウム電池、そして今では中国のEV向けバッテリーを、中国の新興メーカーと協力して製造しているんだ」
そういうと、タケダは中国人の工場長と握手しているフェイスブックの写真を見せる。工場は全部中国で、今月からアメリカのEVメーカー向け輸出が始まるとタケダはいって模型を見せた。最新のEV向けバッテリーだというそれは。スマホのモバイルバッテリーほどの大きさしかない。これを並べてモジュールにするんだ、とタケダはいった。
「もうひとり、きみのファンがいるんだ」
タケダはそういってカップを手にして席を立つと、タカハシについてくるよう合図した。白い壁材とガラスだけでできたオフィスの中は個室が並んでいる。洋画で見るアメリカのオフィスをイメージしたんだ、とタケダは笑う。実は、もうひとつ事業があってね、パンフレットには載せてないんだけど、そういってタケダはガラス戸のひとつを開いた。
「もしかして、タカハシカズキか?中学の時の!」
少し太ったTシャツ姿の男が、無数の液晶モニタの後ろから姿を現した。そこはまるでテレビ局の中継室のようで、真っ暗な部屋に無数のモニタの明かりだけが光っている。それにジャンクフードのにおい。キミツだよ、おれのこと覚えてる?そう尋ねられたタカハシは、実は中学時代のこと、ほとんど覚えてないんだ、といって首を振った。
「こいつ、きみの小説にあこがれて、こんなこと会社で始めてるんだぜ」
そういってキミツはモニタの一つをタカハシに見せる。そこに出ているのはNHKのニューススタジオで、スーツを着たトム・クルーズが日本語でニュースを読んでいる映像だった。トム・クルーズはおれが作ったんだ、とキミツは自慢げにいった。
「ディープフェイクって聞いたことあるか」
ディープフェイク、と聞いてタカハシは緊張した。ついさっき、その話をあのロボットとしたばかりだ。死んだ俳優を映画に出したり、映像に出ている人間をすりかえたり、もはやホンモノと見分けがつかないようなものをAIで作れるようになるんだ、そういってキミツはレッドブルのボトルを開けた。現実を書き換えたりできるようになるかもね。だって、
「どうせ人間なんて、悪意でしか他人とつながれないからね」
タカハシはなにか不穏なものを感じている。シロノスは、ネットにあった映像は全部消したと言っていた。消したのではなく、これで作り変えていたとしたら?タカハシはキミツのことばを待った。喉を鳴らしながらレッドブルを飲んだキミツは、タカハシに、それで、まだ小説は書いてるのかと尋ねる。今はもう書いてないよ、タカハシがそういうと、キミツはほんとうに残念そうな顔をして、なんでやめちゃったんだよ、といった。キミツにそう言われて、タカハシは、自分がどうして書かなくなってしまったのか、そのきっかけが思い出せないことにはじめて気が付いた。失われた中学時代の記憶の一部に飲み込まれている。タカハシはしばらく考えた後、自分を見つめるキミツとタケダに静かにいった。
「中学の記憶が、なぜか、どうしても思い出せないんだ。思い出さないと、大変なことになるのに。小説のことも、ユカワのことも、君たちと一緒にいたもうひとりの生徒のことも」
廊下に沈黙が流れる。無数のコンピュータのファンが鳴らすシューという音と、遠くで鳴っているエレベータの電子音だけが聞こえてくる。そうか、といってタケダが口を開く。大丈夫、すぐに思い出すよ。
「ほんとうに大切な記憶は、意識が覚えている」
意識が覚えている、とタカハシはその言葉を頭の中で繰り返す。実はもう今日はオフィスを閉めようと思うんだ、休日出勤だしね、といって笑った。キミツがまた自分のオフィスに戻り、タケダがタカハシと並んで歩き始めたとき、外線電話の音がしてタケダを呼ぶキミツの声が聞こえた。ごめん、じゃあここで、とタカハシにいって、電話を取るためにタケダが自分のオフィスに入ろうとしたそのとき、タケダは、あの荷物の中身を見たか、とタカハシに尋ねた。
「プロだから、中身は見てないよ」
そういうと、タケダは「よかった」といってドアを閉めた。廊下に残されたタカハシは、おそらく経理とか総務役の人間が座るオープンスペースのデスクに目をやった。見たことのあるロゴが書かれた封筒がそこにはあった。「中国海外航空CHINA OVERSEA AIRCARGO」と書かれた封筒から、書類が飛び出している。タカハシはもう一度廊下を見て、チャイナ・オーバーシー、と心の中でつぶやく。タカハシは音を立てないようにカウンターを超えて手を伸ばし、封筒を手に取った。AIR WAY BILLと呼ばれる航空貨物の運送状が封筒から滑り出てきて、タカハシはそれをじっと見つめる。
DEP:OCT―07―2021
BY FIRST CARRIER:CO085
SHIPPER:ELI.CO.
NATURE AND QUANTITY OF GOODS:BATTERY(UN3481)
タカハシはもう一度廊下の方を向いた。10月7日のCO85便、中国海外航空、リチウムイオンバッテリー、そして穴の開いたスマートフォン。心臓の鼓動が早くなっていく。何かが記憶の中に浮かび上がってくる。黄色い付箋、イーエルアイ、ディープフェイク、リチウムイオン。あの中一の晩夏の朝、背中から掛けられた声。“あの、小説、読んでます”。
タカハシはオフィスを出るとエレベータ横の非常階段を一気に駆け下りた。浮かび上がってきた記憶の影がその輪郭を取り戻し始める。タカハシはその暗いコンクリートの空間を疾走する。なんてことだ、タカハシは思った。
全部思い出した、ちくしょう、全部思い出した!
あの黄色い付箋に書いてあった通りだ、とタカハシは思った。1階の防火戸を勢いよく開けると、パーキングメーターに止めていたバンに飛び乗ってエンジンキーを回す。国立競技場の横には日の丸を持った大勢の人間が行進をしている。中華屋再襲撃と書かれた横断幕やプラカードが上下に揺れながら流れていく。世界の終りを書いたのはあいつだ、あの黄色い付箋も、あのファンノベルも、全部あいつが書いた。あのオリンピックが決まった翌朝、あの中学校の屋上から自殺したあいつ、空席のままのユカワの席。カーラジオから暗く冷たいアナウンサーの声が流れてくる。現在起きている首都圏での通信の混乱と警視庁に対する攻撃は、中国からのサイバー攻撃である可能性が高くなっているとの総理のツイートに60万件のいいねがついています、とその声はいった。この記憶が正しかったとしたら、ユカワに今すぐ会わないといけない。世界が終わってしまう。あの日の朝、教室の内線電話が鳴ったときと同じだ。タカハシは先程のふたりのことばを反芻しながらアクセルを踏む。
「ほんとうにたいせつなことは意識が覚えている」
「人間はしょせん悪意でしか繋がることはできない」
そしてクロノスの声がする。タカハシカズキ、世界を救って死ね。
2013年9月5日(木)08:05
昇降口の下駄箱を開けようとしたそのとき、ユカワは自分の後ろにヤマモトミキが立っていることに気が付いた。今朝はずいぶん早いんだね、そういってヤマモトは自分のスニーカーを下駄箱に入れる。彼氏ができたみたいじゃん、似合ってるよ、そういってヤマモトは悪意に満ちた視線をユカワに送った。ユカワはあえてにっこり笑うと、ありがと、といって上履きを履く。こんどはタカハシくんの筆箱でも隠すの?
「てめぇ調子乗んなよな」
誰もいない昇降口で、スチール製の下駄箱を蹴り飛ばす音が響く。
「ユカワ、スマホ盗ったの、あんたたちじゃないの?」
ユカワはため息をついてナカガワを見る。ジャニとかアニソンしか入ってねーようなだせースマホ、なんであたしが盗まなきゃなんないの?てか、職員室近いですよここ、ユカワがそういうと、ナカガワは顔を白くして廊下の奥を見た。ほんとにばかなんじゃないのか、ユカワはそう思いながら階段を登り始める。教室の前まで来たとき、雑誌が床に落ちていることにユカワは気がついた。図書室のバーコードが貼られたNewton別冊。タカハシがきのう読んでいた雑誌。あいつ、落としてったのかよ、そう思いながら拾い上げると、黄色い付箋が貼られているページにユカワは気が付いた。ユカワはそれを見ながら自分のクラスに入っていく。妙な感覚だった。聞いたことがある言葉だったが、どこで聞いたのか思い出せない。
ユカワはその付箋がついたページをタカハシの席に置いて、彼に借りたファンノベルをまた読もうと手にしたときに、まだ誰もいない教室の窓のむこうに映る屋上に、複数の人影を見つけた。机の間をゆっくりと歩いて、窓に顔を近づける。屋上のフェンスで4人の生徒がもみ合っている。タカハシ、とユカワはつぶやいた。タカハシカズキがイイジマによってフェンスに押し付けられている。校庭から巻き上がる砂ぼこりがビシビシと窓を叩いた。
ユカワは教室を飛び出すと、ファンノベルを持ったまま、階段を駆け上って屋上へ向かった。Newtonに貼られた黄色い付箋にはこう書かれている。
ほんとうの記憶は意識に宿る。
だったら、世界を救って、死ね
2021年10月9日(土)18:21
青山通りに出ると、何台ものパトカーがサイレンを鳴らして走っていくのを目にした。青と白に塗り分けられた機動隊のバスや四輪駆動車が、道を開けてください、といいながら通過するのを見ながら、タカハシはユカワに何度も電話を掛けた。歩道はデモ隊に埋め尽くされていて、これから中国大使館まで抗議に向かいます、という拡声器の声が窓を閉めていても聞こえてくる。カーラジオが曲を流すのを中断し、都内で起きている、中国に対する大規模デモについての最新情報をお伝えします、といってニュースに切り替わる。空が暗くなり、どの車もヘッドライトをつけていた。前方でパトカーが車線を塞ぎ、その向こうで建物が燃えている。外苑飯店、と書かれた看板がついたビルの一階が燃えている。エアコンから油のにおいがして、タカハシは内気循環に切り替えた。亀のようなスピードでダイハツは西に向かっていた。都心へ向かう東行きはすでに警察が封鎖して通れない。中華屋再襲撃というネット上のスローガンを背景に、中国政府に対して抗議するデモが都内の複数個所で催され、一部で混乱が発生しているようです、道路情報についてはのちほど詳しくお伝えしますとラジオはいっている。そのとき、ダッシュボードに置いたスマホが振動をし、非通知と書かれた着信画面が表示されたので、タカハシはスピーカーモードにして電話を取った。
「タカハシ、おまえ今どこにいる」
シロノスの声だ。いま青山通り、外苑前の駅のとこ、そういってタカハシは大声を上げる。デモ隊とサイレンの音が大きすぎてシロノスの声が聞こえない。
「結末を思い出したんだ!」
タカハシはそういってダッシュボードに怒鳴った。
「ぜんぶ思い出した、でも、ユカワの居場所がわからない!」
ボン、という音がして燃えている中華料理店から煙が噴き出す。どうして返事しないんだ、タカハシがそう思ったそのとき、きみの居場所を正確に把握した、という声がスマホから響いた。タカハシカズキ、そう呼びかける声は聞いた覚えがある。あの黒いロボットの呼び声、クロノスという敵役のキャラクター。タカハシカズキ、
「では、世界を救って、死ね」
通話が切れると、黒い影が青山通りの中央分離帯の上に浮いているのが目に飛び込んできた。池袋の時と一緒だ、とタカハシは思った。再び電話が鳴って、スピーカーからシロノスの声がする。ユカワの居場所がわかったぞ、渋谷のカラオケ店でクレジットカードが使われた、お前がいる場所から脇道に入れば15分で着く。クロノスの影はゆっくりと背中の翼を広げて、こちらにあの銃を向ける。隣の車線にいるタクシーの運転手が、それを指さして乗客と会話しているのが見える。銃口に青い光が集まっていく。LED式の信号機や街灯が点滅を始め、ラジオにノイズが混ざっていく。あいつがいるんだ、タカハシはシロノスにいった、今、目の前にあいつがいるんだよバカ!
クロノスは地面に向けて垂直に、その銃を発射した。青い光の束が青山通りに突き刺さり、警察の車輌を一気に吹き飛ばすと、ボルボのショウルームやヴィクトリア・ゴルフの入ったビルの外壁が剥がれるようにして地面に落ちた。中央分離帯の柵や信号機や道路灯やバスやタクシーが左右のビルに激突していく。その武器は道路を路盤ごと空中へ引きはがしていた。警察官や通行人やデモ隊の人間が、道路から投げ出されて黒い影となる。クロノスがふたたびこちらへ銃口を向けたとき、タカハシはハンドルを目いっぱい切ると。柵ガードレールが倒れた中央分離帯に、タイヤを乗せて全力でアクセルを踏んだ。レクサスやアウディが道路を転がって、まるで車両の津波のようだとタカハシは思った。クロノスの真下を通ると、その影をバックミラーで追いながらタカハシは走り続ける。ビルボードや外壁が次々に落ちてくる。首都高速3号線への案内が見えたとき、上空を白いロボットがこちらへ疾走してくるのが見えた。
「シロノス!」
タカハシは叫んだ。彼は翼を全開にして制動をかけると、ライフルのようにみえる兵器を肩にかけて光線を発射した。シロノスのライフルは黒い影を直撃し、同時にクロノスが放った光線がめちゃくちゃに地面に突き刺さった。バックミラーが赤く染まり、道路が黒い影となって一気に盛り上がると、まるで地震で液状化したときのように、タカハシの進行方向の地面も変形を始めた。片側3車線の道路が大きく陥没し、ガス管から噴き出す炎や、水道管から出る泥水の向こうに、乗客を乗せたままの銀座線の車輌が横転しながら飛び出してくるのが見え、タカハシは急ブレーキを踏んだ。
ダイハツは何度もバウンドして、陥没した路盤を滑り落ちると、開削工法でできた銀座線のトンネル支柱に激突し、瞬時にSRSエアバッグを破裂させた。
2021年10月9日(土)19:31
ユカワは「カラオケメガヘルツ渋谷店」の地下一階で目が覚めた。空気がよどんだ喫煙ブースの液晶画面には、派手な字幕がついたアイドルのPVが流れている。iPhoneはずっと圏外を示していて、フリーWifiも入らなかった。16時すぎに入店してすでに3時間が経っていて、グラスに入ったメロンソーダのまわりは結露でびしょびしょになっていた。まだなにも歌ってない、とユカワは思って、帰る前に一曲だけ歌おうと端末に手を伸ばした。タカハシは何しているだろうか、と思う。彼は何があっても無事だ、という妙な自信があった。タカハシと学校でいっしょだったとき、こうしてふたりでカラオケに来たことはあっただろうか。消えてしまった記憶の中を探るが思い出せない。本当だったら、きょうはミズシマと来る予定だった。彼女は何も悪くない。OK GOのThis Too Shall Passでも聴きながら踊って、コバヤシの存在ごと消してしまえばいい。そのとき内線電話が鳴って、隣の部屋から聞いたことがある曲が聞こえてくる。電話を取ろうとしたユカワの手が止まる。それはJusticeのDVNOだった。特徴的なサビの繰り返し。プラスチック製の受話器はずっと鳴っている。鳩が透明なガラスに頭を打ちつけて、はじめてそこに障害物の存在を知ったような感覚がおこり、なにかがユカワのなかで蘇る。「ひとかけらのマドレーヌを口にしたとたん全身につたわる喜びの戦慄」、致命的な記憶の輪郭。
そのとき、ビルの火災報知器が鳴って、すべてのBGMが止まり店員の放送が流れた。お客様にお知らせします、近隣で大きな爆発がありました、警察の指示によりただちにご退店をお願い致します、繰り返します。エプロンをした店員がドアを叩き、すいません、閉店としますのですぐにご退店をお願いします、といったあと、紺色の制服に警視庁と書かれた防弾チョッキを着た警官たちがその店員を押しのけて、すぐに出なさい、といってユカワの腕を引いた。ユカワはiPhoneを手にすると、そのまま他の客たちと一緒に狭い階段を昇ってビルの外に出た。東の空がオレンジ色に光っていて、白い煙が立ち上っている。センター街のどの飲食店にも警官が入って人間を外に出していた。ユカワはタカハシに電話を掛けようとするがつながらない。ドン、という音がして火の玉が空に上がる。青山の方だという声がして、誰もがスマホを眺めていた。また中国だ、と誰かがいって、人間をかき分けるように機動隊の車が入ってくる。渋谷周辺の施設や駅がすべて閉鎖され、スクランブル交差点は人間で埋め尽くされていた。Qフロントの街頭ビジョンに臨時ニュースが流れている。地下鉄銀座線外苑前駅付近で、大規模なテロとみられる爆発がありました。複数の建物が被害にあっているほか、地下鉄銀座線の車輌が崩落したトンネル内に取り残されているという情報もあります、中国大使館へ抗議に向かうデモ隊を狙ったものだという情報も入ってきています、ヘリの映像では激しく炎上する車両やビルが確認できます。また地響きがして渋谷ヒカリエの明かりが点滅する。わたしは本当に生きているのか、とユカワは思った。あの日、Newtonに貼られていた付箋をユカワは思い出した。そして、あの日の屋上で起きた破滅的な出来事も、なにもかも、すべて。
「ほんとうの記憶は意識に宿る、だったら、世界を救って、死ね」
人ごみのなかで、ユカワの右手を誰かが握った。泥と血のついた掌は冷たく、だが力強く彼女の手首をつかんでいた。ユカワさん、そう彼はいった。タカハシカズキは額から血を流していて、頬や鼻にも泥がついていた。ユカワは息をのんだ。会えてうれしい、という気持ちと、話さなければならない記憶のことで、涙が止まらなくなった。機動隊の放送や、サイレンや、人々の声や、爆発音や、スタジオアルタの街頭ビジョンの点滅や、タクシーのクラクションや、ヘリの音や、109のシルエットや、井の頭線の連絡通路に反射するあかりがふたりの周囲をぐるぐると回りはじめると同時に、タカハシはユカワを強く引き寄せた。
交差点を武装した機動隊員たちが列をなして横断していき、そして、街頭ビジョンは炎上する中国大使館を映し出している。無数にある街頭ビジョンの一つが、M83のMidnight Cityを流していることに、ユカワだけが気付いていた。
2013年9月5日(木)08:15
息ができない、とタカハシは思った。錆びたフェンスのにおいが口の中に入ってくる。イイジマはタカハシの首を掴んでいた。てめえが盗んだって言えよ、ほら、そういってタカハシの顔をフェンスに何度もぶつけた。ぼくじゃないです、ぼくじゃない、そういってタカハシは涙を流し始める。飛行機の音が聞こえる。じゃあなんで、おまえだけスマホ持ってるんですか?そういってイイジマの仲間のひとりがタカハシのスマホを空中にバウンドさせた。部室で充電してたんだよ、そう何度もタカハシは繰り返す。それが無駄だとタカハシはわかっていた。彼らにはもうシナリオがあるのだ。実際の事実や客観的な証拠は関係がなかった。他者の価値も彼ら自身の痛みすらも、シナリオの前には無価値だった。イイジマ自身が、きのう生徒指導室でそうされたように、用意されたシナリオに基づいて人の価値が決められ、無力な順にシナリオに飲み込まれるのだ。もううんざりだ。学校なんてろくでもない。そしておなじようなことはこれからどこへ行っても続くのだ。公正さや誠実さや想像力なんて、もうこの世のどこにも残ってないんだ。あのファンノベルに書いてあるとおりだ。人はもう、悪意でしか繋がることはできない。イイジマの仲間がデジカメを取り出す。「おい、こいつの下、ぜんぶ脱がせろよ。撮影会しようぜ」イイジマは笑いながらタカハシの身体を屋上にたたきつける。もうひとりの仲間がタカハシの下半身に手をかける。死にたかったらいつでもここから落としてやるぞ、そういってイイジマは仲間にBGMをかけるようにいった。カメラを持った仲間がうたいはじめる。JusticeのDVNO。そのとき、昇降口の扉がゆっくりと開くのをタカハシは見た。そして、昇降口のコンクリート製の小屋の後ろで、あの「生徒」と地歴部の2名が隠れてこちらを見ている。開いた扉から、原稿の束を抱えたユカワマイが姿を現す。最悪だ、タカハシは思った。お願いだから、頼むからそのままぼくを見捨ててくれ。
「タカハシくん!」
ユカワは屋上を蹴って走り始める。ジェット機の音、校庭から舞う砂ぼこり、肥料のにおい、彼女が地面を切り裂くように走ってくるのがタカハシには見える、「暴力事件起こしてるから」といっていたヤマモトミキの顔、カメラを持ったイイジマの仲間をユカワが蹴り飛ばす、シルバーのコンデジが落ちて何かが割れた音がする、てめぇ何してんだよ、激高したイイジマがユカワマイを蹴り飛ばす、風がフェンスを揺らして音を立てる、やめろ、タカハシは叫ぶ、コンクリートと人間の頭部が衝突して響く鈍い音、イイジマの息づかい、誰もが息をのんでいる。ユカワが手にしていたファンノベルの原稿が白い紙吹雪のように空中に舞って、そして屋上に散らばっていく
カメラを持っていたイイジマの仲間が、仰向けに倒れたまま動かないユカワを見ている。イイジマは起き上がったふたりの仲間の腕を引いて、何度も転びそうになりながら昇降口の扉にたどり着くと、後ろを振り返らずに出て行った。タカハシは起き上がると、震える指でユカワの髪を触った。赤黒い液体が、灰色のコンクリートに広がって、そしてファンノベルの原稿をじわじわと染め上げていく。息ができない。タカハシはふらふらと起き上がると、自分の制服の上着をユカワに掛けた。そして昇降口の向こうに隠れている3人を見た。自分のファンだといったあの生徒は、その時と同じように、ショルダーバッグを持って立っている。そしてその後ろに、2名の男子生徒と、そしてあのスマートフォンの山が、奇妙な煙を上げていた。
「ごめんなさい」
あの生徒はタカハシにそういった。タカハシは歯を食いしばって昇降口を駆け下りた。登校したばかりの生徒たちが驚いてタカハシを見る。それに気付いた担任のナカガワがタカハシを止める。ユカワマイの血は、タカハシのシャツの左半分を赤く染めている。
2021年10月10日(日)10:30
【速報】中国全土でミサイル発射の兆候とアメリカ政府発表。「臨戦態勢」か。米中国交断絶との情報(AFP)
【お知らせ】今朝より全国の支店、および提携店舗にて、ほぼすべてのお取引ができない状態になっております。またクレジットカード、電子マネー各種お取り扱いにも障害が発生しています。ご不便をおかけして申し訳ございませんが、復旧まで今しばらくお待ちください(三井住友銀行)
タカハシはベッドの上で飛び起きて、そこが自分の部屋だとすぐにわかった。スマホはどこだ、そう思ってベッドの上やテーブルの上にあるものを全部床に投げ捨てる。きのう使っていたバッグもスマホもどこにもなかった。きっとあの車の中だ、そう思ってタカハシは大声を上げた。気が付くとベッドの上にシロノスが座っている。ユカワはどこに行った、タカハシはシロノスに掴みかかるようにして尋ねた。早く彼女を見つけないと、今度こそ助けないといけない、そういうとタカハシは床に散乱した本を蹴とばす。こんなものクソの役にも立たなかった、おれのせいであんなことになった、全部思い出したんだ、ひどい記憶を全部。シロノスはゆっくりとテーブルを指さした。「失われた時を求めて」の表紙に黄色い付箋が貼られている。
“世界が終わった場所に行きます”
世界が終わった場所。タカハシはこころの中でつぶやく。ユカワは全部思い出したんだ。
「屋上だ」
ユカワはあの屋上へ行ったんだ、そういってタカハシはメモをシロノスに見せる。シロノスはそれには視線を落とさないでタカハシにいう。
「それで、結末は思い出したのか」
「知らないよ、そんなことどうだっていい」
シロノスはタカハシの肩を掴むと壁に押しやった。小説の、最後を、いうんだ、タカハシカズキ、あと2時間27分で世界は終わるぞ。タカハシの身体に痛みが走る。タカハシは悪態をつく。知るか、このクソロボット、やっぱりおれが書いたお前はこんなにクソじゃなかった。
「この世界はあの生徒の、彼の世界だ!だったらもうおれたちにもお前にも勝ち目なんかない」
「では、その原稿はどこにある」
そういってシロノスはタカハシの肩から手を離した。タカハシは床に手をついて咳をする。原稿?タカハシはつぶやく。
「じゃあさ、これ、交換しようよ」
タカハシはユカワとした約束のことを、そのとき初めて思い出した。そうだ、約束した。ぼくが原稿を書き上げたらユカワが返すといった。タカハシは飛び上がってクローゼットを開けると布団ケースをひっくり返す。どうして覚えていなかったんだ?卒業証書や寄せ書きの中に、平成25年度卒業アルバムと書かれたケースがあった。それをひっくり返すと、中から卒業アルバムとともに、バーコードがついたあのNewtonが滑り落ちる。タカハシは息をのんでそのページをめくった。黄色い付箋に書かれた言葉、そして、ホチキスで止められた、黄ばんだコピー用紙を見つける。タカハシは肩を震わせる。それはファンノベルの束だった。ホチキスは外れていて、大きく血がついている。タカハシはそれを指でなぞった。コペンハーゲン学説、意識に宿る記憶、ユカワマイ、そして、血。
タカハシは部屋の外に出ると、そのファンノベルの原稿を手にしたまま階段を駆け下りる。傷の痛みなどもうどうでもよかった。入口前の駐輪場で、そのまま自分の自転車にまたがると会社へと向かう。足がいる、と思った。どうせ電車は全部止まってるんだ。警察の車輌が何台も赤色灯を光らせて通り過ぎる。セブンイレブンの駐車場には入りきらない車が列をなしていて、ATMに行列ができていた。通り過ぎる車のラジオから、全国の銀行のサーバに攻撃があったと速報で流れている。コンビニなら下ろせるってネットで見たぞ、と言って40代の男が店員に掴みかかっていた。きょうは日曜日でほとんどの男が家にいる。職場から恐ろしい現実へと放たれたパニックの因子が街に溢れていた。警察に電話がつながらない、と女子高生らしき店員が泣いているのを見て、タカハシは自転車を止めて原稿を見た。2021年10月10日と書かれた章。前日の爆発、核ミサイル発射の兆候、サイバーテロによる預金封鎖、混乱する警察回線、3人の若者による航空機テロ。そして学校の屋上で迎える世界の終り。クロノスが言う。これがシナリオだよ、さあ戦争を始めようシロノス、どうせ人間は悪意でしか繋がれない、我々が未来を何回繰り返しても、ほんとうの記憶など誰も覚えていない、だれも世界を救えない。タカハシは震える手でページをめくる。タカハシの血の付いた原稿を見た警官がパトカーを止める。シロノスがクロノスになにかを反論するがそれは血がついていて読めない。セブンイレブンから悲鳴が上がる。軽自動車が店舗に突っ込んでいて、ATMを破壊している。パトカーがサイレンを鳴らして方向を変える。タカハシは真っ赤なページを見ながら、記憶の中に浮かぶセリフを読みあげた。
“おれもおまえもこの世界も、未来を覚えているだれかの、意識のなかの記憶だとは言い切れない”
タカハシは門から配送センターに入る。国際航空便を扱う上屋には、高さ4メートルほどの箱がパレットに積まれて並んでいた。タカハシはその目の前で乱暴に自転車を乗り捨てる。「ELI」とロゴが書かれた段ボール箱をタカハシは見る。そしてUN3481のラベル。上海発東京経由シアトル行き、とラベルには記載されている。タカハシは段ボール箱を手で破ると、腕を突っ込んで中身を見る。タケダが見せたリチウムイオンバッテリーが大量に搭載されていた。そしてそのひとつひとつに、長方形の機械が固定されている。やっぱりそうだ、とタカハシは思った。あいつら、世界を終わらせる気だ。「おいおまえ、何してるんだ」そういって警備員がタカハシに声を掛けたとき、タカハシはその長方形のスイッチを誤って押した。ガギン、という音がして、何かがバッテリーに食い込む。タカハシはそれを地面に投げ捨てた。白い煙が噴き出し、オレンジ色の火花が咲くと、強烈な炎が目の前に立ち昇った。炎は4メートルある貨物の高さを超えて噴き出し、止む気配がない。リチウムイオン電池の発火だった。警備員が消火器を取りに行くと、タカハシはもう一台の電池パックをズボンのポケットに入れて事務所に走った。出社している同僚が、おいおまえ何してんだよ、といってタカハシを見る。タカハシは上司の机の引き出しを乱暴に開けると、呆然とする同僚たちの目の前で。配送車のキーを持って駐車場へ出た。トヨタ・ハイエースに乗り込み、エンジンをかける。
「返してやるよ」
タカハシはそういってアクセルを踏んだ。
2013年9月5日(木)19:20
タカハシは迎えに来た母親とともに帰宅すると、すぐにベッドの上で眠った。授業には出なかった。教師たちが血を流すユカワを担架に乗せて下におろし、そのまま彼女は救急車で病院に運ばれた。タカハシは呆然とその様子を見ていたが、校門の前で意識を失った。あんたは悪くないよ、車の中で母はそういった。自室のベッドで目を開けたとき、すでに太陽は影も形もなかった。ベッドの隣にはスマホが置かれていた。タカハシはLINEを開く。クラスのグループチャットに未読バッチがついている。タカハシは寝そべったままそれをタップした。あのゴリラ女マジ天罰、という絵文字付きの書き込みを見つける。
もう学校に来てほしくない
イイジマもショウネンイン?とか入ってほしい、てか死刑で
やばZIP!のインタビューの準備しとこ
どうせスマホ盗ったのもユカワかイイジマだろ
うーん両方死刑で!
そのとき、ドアをノックして母が顔を出す。
「ユカワさんのお父様から電話があって、これから手術なんだって。それでよかったらお話を聞きたいんだっていうんだけど、お母さん、断ってもいいのよ」
タカハシはベッドから起きると、母親からコードレス電話機を受け取った。そしてドアを閉めて、受話器に向かって話し始める。
「ぼくも、一緒に行きます」
2013年9月5日(木)20:02
チャイムが鳴り、玄関のドアを開けるとユカワの父親がいて、その背後にハザードランプがついたフォルクスワーゲン・パサートが停まっていた。タカハシの両親に向かって一礼すると、彼はタカハシを助手席に乗せてドアを閉める。そしてゆっくりと車を出した。パサートは国道に出るとスピードを上げる。沈黙がずっと流れた。暗い雑木林や、明かりのない農家の倉庫が、闇に映る影となってどんどん遠ざかっていく。ユカワの父親はタカハシの父親よりも少し老けて見える。サカモトリュウイチに似てるな、とタカハシは思った。
「うちの子と、仲良くしてくれてたんだってね」
最初に口を開いたのは父親だった。文芸部を、つくろうって、誘ってくれました、とタカハシはいった。そうなのか、といって父親はエアコンの風を絞る。でも、あいつ、活字ダメなのにな。そういって笑った。おじさんは、聴かないんですか、音楽、とタカハシは尋ねた。カーステレオは沈黙している。聴かない、と彼はいった。なんにも似てないんだよ、親子ななのに。
「でも一曲だけ古い曲を教えたことがあるんだ。ジョイ・ディヴィジョン。知ってる?」
タカハシは首を振る。そっか、といって父親も前を向いた。八街道総合病院の案内板が道路わきに立っている。あと4キロだった。
「今夜、緊急手術するんだそうだ」
父親はいった。脳に血が溜まってて、それを抜く手術なんだけど、術後は良くないらしい。助かるかどうかわからない。
「ほんとうは、君にいろいろ事情を聞こうと思ったんだ、その」
父親は一瞬口ごもる。
「でもどうしようもないんだ。犯人を知りたい、でも、それであの子は戻ってくるのか?今まで父親らしいことが全然できてないってことに、やっと気付いたんだよ、でも遅すぎたんだ、遅すぎた」
父親は声を震わせる。ずっと前を見つめながらタカハシに話す。黄色いセンターラインがヘッドライトに浮かんで、そして闇の中に消えていく。
「起きてしまったことは変えられないし、失われたものはもう戻らない」
でも、きみがマイと一緒にいてくれただけでうれしいんだ、ほんとうに、そういって彼はタカハシを見た。マイの友達でいてほしい、これから、何があっても。前方の信号が赤になって、パサートはゆっくり停止する。
「そして、来るべきときが来てしまったら、勇気を出して、思い出してほしいんだ」
タカハシはうなずく。交差点の先はまた闇に包まれている。道幅は狭くなり、黄色いセンターラインは消えている。ユカワの父親は少し震える唇をまた閉じた。たくさんの明かりがついた病院の建物が見えて、そしてタカハシは、ユカワとのあの約束を思い出す。
2021年10月10日(日)11:35
【速報】青山通り大規模テロ 負傷211名 死者137名(警視庁)
【速報】中国大使館放火事件で在日中国大使死亡か。政府確認急ぐ(共同通信)
【85便墜落】墜落原因は貨物として搭載されたリチウム電池の発火か。警視庁関係者(読売新聞)
【速報】全国で金融オンラインシステムに混乱。クレジットカード含む電子決済も使用不能に。「預金情報、恒久的に失われた可能性」首相は中国のサイバー攻撃とツイートし190万のリツイート(時事通信)
タカハシは歩道に乗り上げるようにして車を停めた。きのうあれだけ人が集まっていた新国立競技場は閑散としている。首都高速は6号と3号が奇跡的に開通していた。亀有から小菅まで行く間にも、信用金庫に大勢の人が押しかけているのが見えた。カーラジオはすべて報道番組となり、銀行のシステムが落ちていて、きのうのテロと相まって取り付け騒ぎになっているといっていた。霞ヶ丘セントラルビルの隣にあるローソンにも人が集まっている。ATMの行列は外まで続いていた。列の奥で誰かが怒鳴っている。タカハシはビルに入るとエレベータのボタンを押して10階を目指した。タカハシは腕にしたGショックを見る。あと1時間22分。タカハシは原稿の束を手にすると運転席のドアを閉める。行列の騒ぎが大きくなっていく。
ガラス戸を開けると、昨日と同じ開放的なロビーがそこにはあった。タケダ、と名前を呼ぶが返事はない。タカハシはオフィスの奥へと進む。そこらじゅうに書類やスマホやノートパソコンが散らばっている。CEOと書かれた部屋はカギがかかっていた。その奥に、あのキミツの部屋がある。タカハシは絨毯地のタイルの上をゆっくり歩いた。壁や天井に設けられた液晶モニタをタカハシは覗く。映っていたのはニュース映像だった。NHK、NTV、ANN。CNN、NBC、ABC、CCTV、YTN、BBC、アルジャジーラ。これ、全部フェイクだって、わかる?背後からそう声を掛けられたタカハシは振り返った。キミツがきのうと同じ格好で、コーラのペットボトルを持って立っている。中国とアメリカ、日本がもうすぐ戦争するってしゃべらせてるんだ。あと世界中の金融機関にサイバー攻撃が起きてるって。まあそれはホントだけど。BBCとCNNの画面が速報で、人民解放軍まもなく台湾上陸へ、と流している。
「でも誰も信じない」とタカハシはいった。だって、テレビをつけたらホンモノが流れてるんだろ?
「電波に載せるまでに映像がすり替わってたら?」
キミツが赤いボトルキャップをひねる。シューという音がして、キミツが「パン」と言いながらそれを開ける。今はスタジオから中継室までですら、ネットを介さないと何にも流せないんだよ。だから割り込んでいるのさ。テレビだけじゃない、通信社もいまはAIが記事書いてるんだぜ、みんなうちのAIで記事書いてるんだよ、そういってキミツはiPadでツイッターの画面を見せる。通信社のアカウントは一様に中国の臨戦態勢を速報として流していて、それをソースとして一般の新聞社やテレビ局が報じる。テレビではどのアナウンサーも「共同通信によりますと、中国にかなり大規模な核ミサイル発射の動きがあるということです」という速報を流している。「拡散的現実、スプレイテッドリアリティ」っておれたちは呼んでるとキミツはいった。
「こんなのうまくいくわけない」
キミツはいった。だって誰かが絶対に気が付くだろ。
「ぼくたちは、悪意でしかつながれないのに?」
キミツが笑うと、タカハシはあのファンノベルの束を彼に見せる。血糊を見たキミツが表情を変える。それ、まさかあいつが書いたやつじゃないよな。
「たしかに、おまえたち3人は悪意でしか繋がれないもんな」
タカハシは言った。復讐のつもりかよ、お前たちはこの真似をしてるだけだろ。あいつの真似しかできないんだ。タカハシはいう。キミツの顔から笑顔が消えて、彼はドアに鍵を差し込む。あいつをバカにするなよ、タカハシカズキ。タカハシはひるまない。なにが世界の終りだ、シナリオ通りの現実なんて全部クソなのに、なんにもわかってないね。イイジマにみんな何をされたのか忘れたのかよ、学校がイイジマに何してたのか知らなかったくせに。お前らみんなクソだ、あの自殺したヤツも、タケダも、おまえも。タカハシは叫ぶ。
「こんなのが、世界の終りで、たまるかよ!」
そういってタカハシは床に原稿を叩きつけた。キミツが声を上げてスツールを振り上げる。CNNの映像が反射してその脚が光った。タカハシはポケットに隠していたあのリチウム電池のスイッチを入れる。カチッという音がして、白い煙が噴き出し、赤い炎はキミツの服に着火した。キミツはくるくるとその場に回る。空中に舞う原稿が黄色い炎に包まれてその輪郭を失う。タカハシはアクリル製のパーテーションにスツールをたたきつけると廊下へ出た。火災報知器が鳴って、スプリンクラーから水が流れる。部屋で爆発が起き、液晶画面や窓枠が吹き飛んでいく。ねつ造された終末が燃えていく様子を、タカハシは後ずさりしながら見つめ、そして白い煙や大量の消火剤を背にしてにゆっくりと歩き出した。壁も床も白い廊下は、黄色い炎と煙に覆われていく。カウンターには大量の航空貨物運送状が積まれている。火災です、ただいま火災が発生しました、という自動放送。音楽を聴きたい、とタカハシは思って、床に落ちているOPPOのスマホを手にする。画面ロックを解くと、ヤング・ファーザーズのOnly God Knowsがスマホから流れ出す。タカハシは非常階段を降りて裏口から外へ出た。ローソンに集まっている人間は明らかに増えていた。もはやプラカードや日の丸を持っている人間はいない。誰もがもっと切実な理由で集まっている。ATMが動かないといって、群集は店員を道路に引っ張り出していた。おい、こいつ中国人だぞ、と男がいって、金返せテロリスト、とサラリーマン風の男が後ろから叫ぶと、それは波となって店員がいる群集の中心に達した。ポニーテールに眼鏡を掛けたその女性店員は、ちがいます、わたし台湾から来てます、といって足をばたつかせる。誰かが窓を割っている。多くの人間が、笑いながらその様子を撮影していた。タカハシは誰かのことばを思い出していた。そのときが来たら、勇気を出してほしい。男が店員の髪を引っ張っている。店内から消火器が運ばれていく。タカハシは地面を蹴った。起きてしまったことは変えられないし、失われたものはもう戻らない。最初からこうすべきだったのだ。足りなかったのは勇気だ。群集をかきわけると、その店員の手をタカハシは引いた。周りの男たちがはやし立てる。誰かがタカハシの顔を殴った。こいつも中国人みたいな顔しているぞ、だれかが消火器を持ち上げているのが見える。中国人に対するあの蔑称も聞こえた。オリンピックが消える原因になったあのことば。店員が悲鳴を上げる。両腕を押さえつけられてタカハシは地面に倒れている。青空、屋上、錆びたフェンス、文芸部、Newton、コペンハーゲン解釈、生活指導室とイイジマ、プルースト、人間は悪意でしかつながれない、世界を救って死ぬこと。
ほんとうに大切なことだから、全部、これからも意識が覚えている。
2013年9月8日(日)07:03
タカハシはゆっくりと教室の扉を開けた。蛍光灯が消えた無人のクラスに入ると、タカハシは自分の席にNewtonが置かれているのを見つける。黄色い付箋が貼られたページをめくると、そっと、そこに書かれた字を読みあげてから、タカハシはそれをリュックにしまって、しばらくユカワの机を見つめた。あのときのまま、ここは時間が止まっている。ここから出たくないとタカハシは思った。あれほど嫌いだったのに、いまは教室から出たくない。タカハシは立ち上がって部室の鍵を手にする。廊下でイヤフォンを耳に挿すと、サカナクションのドキュメントが再生されはじめたので、タカハシはそれを聴きながら誰もいない廊下を歩いて、文芸部の扉に鍵を挿した。
タカハシは書きかけの原稿用紙の束を長机に出すと、シャープペンシルの先端をその上に置いた。最後のシーンだ。約束を果たす、その準備をする。彼の目の前に、ロボットのキャラクターが姿を現して、まるでハムレットの劇のように、勝手にセリフを言い始める。タカハシはそれを原稿用紙にカリカリと記しはじめた。もし、世界に、なにも、ただしいことが、残されて、いなかったとしたら?それでも、意識に、記憶は、宿る。
5日の夜、ユカワの父親の車で病院から戻る途中、タカハシは彼にお願いして近所の24時間スーパー・トライアルで降ろしてもらった。カロリーメイトやモンスターエナジーとともに原稿用紙を買うと、また彼の車で家へ向かう。そして居間にいる両親が心配そうに出てくるのをよそに、タカハシは部屋にこもった。母親にはショックで学校には行けない、と言った。シャープペンシルの芯がなくなり、小学校時代の鉛筆削りを引っ張り出して三菱鉛筆の2Bを削った。消しゴムを使うのを途中でやめた。充電しっぱなしのスマホからイヤフォンでずっと音楽を聴いて、途中からラジオにした。7日、つまりきのうの夜に母親がドアを開けて、何かを食べるよういって夕食を置いていったが、手をつけなかった。「あんたまで死ぬんじゃないでしょ」と母は泣きそうな目で言ったが、構わないとタカハシは思った。手の痛みも空腹も体の臭いも限界だった。陽の光が窓から差し込む頃、ラジオが報道番組に切り替わった。
「今入ってきた速報です。ブエノスアイレスで開かれていたIOC総会で、東京でオリンピックの開催が決定しました。マドリードが落選しイスタンブールとの一騎打ちとなっていましたが、日本のソフトパワーや政治的安定性が評価された形です。ただ、前日に現地りした総理が中国人観光客に対しておこなった発言が、SNSや現地のメディアで物議を醸しています。CNNの報道では現地の中国人社会で」
タカハシはラジオを切って、そして家を出た。
タカハシは窓に目を移す。屋上に人影が見える。タカハシは窓の前まで移動すると、ユカワがやったようにその人影を見つめた。その男子生徒はフェンスのこちら側で泣いているように見えた。あなたの小説が好きです、そういってくれたあの生徒だと、タカハシにはすぐにわかった。イイジマがその後ろにいて、フェンスを蹴り飛ばしたり、なにかを彼に叫んだりしている。タカハシは窓から離れて叫ぶと、扉を開けて廊下に出た。隣の地歴部のドアが開いている。中に赤いラッカースプレーの缶がいくつも散乱していて、部屋中に「スマホ泥棒」と落書きがされていた。やめろ、タカハシは叫びながら階段を駆けあがると屋上の扉を開けた。イイジマがフェンスを蹴り上げている。泥棒は死刑なんだよ、早く死ね、そう言ってイイジマはその生徒の背中をフェンス越しに蹴とばした。
イイジマの脚が本当に当たっていたのかはわからない。
それはスローモーションのように見えた。あ、という小さなイイジマの声も聞こえた。生徒は頭から、まっすぐ地上に向かって落ちていって、衝撃音が柵の向こうから響いた。イイジマとその仲間ふたりが、ゆっくりと後ずさりしながらなにかを言った。あいつが勝手に落ちた、そうタカハシには聞こえた。教師たちが一階で騒いでいる声が聞こえる。イイジマたちが昇降口を駆け下りる。タカハシは昇降口の隣に落ちている紙の束に気付く。血の付いたコピー用紙の上に、穴の開いたスマホが乗っかっている。砂まじりの風がフェンスを揺らし、その血の付いたファンノベルの束にしわを作っていく。タカハシは、ゆっくりとフェンスに近づきながら。穴の開いたスマートフォンを覗き込んで、そして世界を見た。
もし、世界に、なにも、正しいことが残されていなかったとしたら。
2021年10月10日(日)12:57
ユカワはなつかしい景色の前にいた。八街道市立第二中学校と書かれた銘板、「少女」と名付けられたブロンズ像。校庭に巻き起こる砂ぼこり。東京からのタクシーの運転手は、なんだか東京は大変なことになっているみたいですよ、といった。どのコンビニにも列ができていて、タクシーのラジオではミサイル発射の兆候や金融機関のシステムが破綻したと繰り返していた。行列は銀行からコンビニ、スーパーやホームセンター、そしてガソリンスタンドに拡大していた。
昇降口には鍵がかかっていた。ユカワは校舎の裏へ回ると、開いている門扉を見つける。南京錠が誰かによって壊されていた。誰かが来ているんだ、とユカワは思った。落ち葉が積もっているその階段には、明確に、誰かがいま登ったことを示す足跡があった。ユカワはゆっくりと階段を登り、屋上へと上がる。あのときと変わらないクリーム色のコンクリート、錆びついた背の高いフェンス、そして昇降口。その前には、フェンスに背中をくっつけて立つ人影があった。ユカワはその人影に近づいていく。見覚えのある顔だった。黒縁眼鏡をかけた、背の高い、自分と同世代ぐらいの彼は、iPadを手にして空を眺めている。こんにちは、とユカワがいうと、彼は空を見上げたまま、こんにちは、といった。「卒業生?」といって彼はユカワを見る。そう、とユカワが返事をすると、彼は少しだけ笑って、ぼくはタケダっていうんだけど、もしかして同学年だったかな。と言った。ヒュウヒュウと風が鳴っている。ユカワはうなずいて、着ているパーカーのポケットに両手を突っ込んだ。
「もしかして、世界の終りを見に来たの?」
その青年はユカワにそう尋ねた。ユカワは彼の眼鏡の奥にある瞳を見つめる。そうだね、とユカワはいう。というか、わたしの世界はもう、終わっちゃってたんだけどね。タケダはユカワを見ている。なにかを思い出そうとしているようにユカワには見えた。もしさ、といって彼は質問をはじめる。
「もしさ、自分が死んで世界が救われるとしたら、どうする?」
ユカワは白いイヤフォンを取り出すと耳にはめた。それってさ、
「それってさ、身もフタもない話だよね」
タケダは真剣な顔でユカワを見ている。だってさ、と言いながらユカワは再生ボタンを押した。
「だってさ、わたしが死んだら、わたしの世界はどうなるの」
遠くからジェット機の音がする。校舎の外壁に取り付けられていた時計が、ガチン、といって針を動かした。ユカワとその青年は二人で空を見上げる。白い機体の後ろ半分が炎に包まれたそのユナイテッド航空機は、蚊取り線香にやられた蚊のような動きで上空を回っていた。積荷のリチウムが発火したんだ、と彼はいった。ユカワのiPhoneはケミカルブラザーズのNO GEOGRAPHYを流し始めていた。世界中の空で同じことが起きてるんだ、中国でも、EUでも、アメリカでも、世界中で飛行機が燃えている、X線検査機でも、非接触式検査機でも、発火寸前のリチウム電池を見つけることはできないから、と青年はいった。
ユカワはその青年を見つめる。これが世界の終りか、とユカワは尋ねる。青年の持つiPadの画面には、フライトレーダー21の画面が映っていた。どの飛行機も緊急事態を知らせる赤いマークが光っている。もしもひとが悪意でしか繋がることができなくて、用意されたシナリオを疑うことができないのなら、もうこの世には正しいことなどなにも残されていないのだとしたら、そう青年は空を見上げたままいう。そしてユカワの方を向き直したとき、強い風が吹いて、フェンスが音と立てて震えた。
「ぼくはあいつが死んだのを、世界を救ったことにしてやりたいと思ったんだ」
その青年の輪郭が、オレンジ色の光でくっきりと浮かび上がった。黒煙を上げるエアバスA380型機が住宅地の方に墜落する。最初は、まるであいつが戻ってくるような気がした、と言った。取り戻せると思ったのに。こんなはずじゃなかったのに。人間が悪意でしか繋がれないことを証明してしまったら、ぼくたち3人はいったいなんになるんだ?そう言って彼は泣きだした。ユカワはその隣でおなじようにフェンスにもたれかかって空を見た。風がユカワの髪を揺らして、その後ろにオレンジに光る機影がいくつも落ちていった。白いロボットがその前を横切って、そして燃えながらバラバラになる。彼と同じく、もしわたしが、だれかのもつ意識の記憶で、だれかの意識が世界を観測する途中の産物だとしても、それでもかまわない、とユカワは思った。わたしはきっと、幽霊なんかじゃなくて、そのだれかのほんとうにたいせつなもののひとつだったのだ。ユカワはタケダの手をそっと握った。防災無線が鳴って、ユカワのiPhoneにもJアラートの警報が流れてくる。世界中ですでに百数十機の飛行機が落ちていた。中学生でも作れるような機械で、ほんの数センチの穴を電池に開けるだけで、コクピットを混乱させるのには十分だった。ワシントンDCや北京やモスクワで、嘘か本当かわからない情報が、それぞれの首脳に届くたびに、彼らの脆弱な思考回路は混乱し、破滅は着実に近づいていた。ミサイル早期警戒システムはずっと沈黙していたのに、そのうちの誰かが、ひとりが、耐えきれず、ボタンを押すだけで十分だった。相互確証破壊においては試射というものは存在しない。それは必然的に殲滅戦になった。悪意だけでしか繋がることができない人々。正しいことが何も残されていない世界。ユカワとタケダはふたたび空を見た。地上に向かって引かれた無数の飛行機雲の向こうの空がオレンジ色に光ると、田園風景に伸びる高圧電線がまず火を噴いて、防災無線が止まった。ユカワはイヤフォンを外して遠くの空を見つめる。世界はとっくに終わっていたのだから、何も怖くない。これから何度世界が終わっても、大事なことは、正しいことは、わたしの意識が覚えている。
そう考えると、一度くらい世界を救って死ぬのも、まあ悪くないか、とユカワは思った。
きっとこれから、そういうことが起きるのだ。
2013年9月5日(木)08:15
ユカワが屋上のドアを開けたとき、まず目に飛び込んできたのはカメラを構えたイイジマの仲間だった。でもなにか違和感を覚えた。おい離せよ、そういってイイジマはタカハシの腕を掴んでいる。タカハシの両腕は、イイジマのスラックスにしっかりと食い込んでいて、イイジマが暴れるたびにゆっくりとその高度を下げていた。ユカワは屋上のコンクリートを上履きで蹴り飛ばすと、カメラを持っている男子に蹴りを入れた。ユカワが手に持っていたファンノベルの原稿が白い紙吹雪のように屋上に舞う。銀色のカメラをキャッチすると、液晶画面をのぞき込みながら、タカハシに檄を飛ばした。引っ張れ、思いっきり引け、そういうともう一人の仲間のほうを向いてシャッターを切った。イイジマは泣きそうになりながら何度もタカハシを蹴り上げる。離せよクソオタク、本当に殺されてーのかよ、そう言われたタカハシは絶叫する。
「うるせーよ、世界を救って死んでやるよ!!」
タカハシは血と涙でぐしゃぐしゃになりながら、イイジマのズボンを下着ごとずり下ろした。ユカワがシャッターを切ると同時に、その背後で歓声が上がる。地歴部の三人が拍手を送るうしろには、クラスメイトのスマホが積まれていることに、タカハシは気が付いていた。イイジマが泣きながら地面を転がって、タカハシはゆっくりとその前に立ち上がる。
上空で、飛行機が尾を引いてまっすぐ飛んでいくのを、タカハシとユカワはじっと見つめた。
2021年10月7日(木)18:55
東京メトロ綾瀬駅から徒歩5分のアパートにユカワはいた。ドンキホーテで買った22インチの液晶テレビの前に座って、大学のオンライン・ゼミで明日使う本がアマゾンから届くのを待っている。テレビの画面の右端には、赤いポップ体みたいな字幕で19:10と表示されていて、画面下部には「再度、外出自粛要請へ」というタイトルがスクロールされている。そのとき、ユカワは玄関の方で物音がするのを耳にした。ユカワはアプリで配達状況を確認する。「置き配指定1件 お届け完了」というメッセージが流れたので、ユカワはドアを開けて廊下へ出た。玄関の前に置かれた段ボール箱のその先に彼はいる。見覚えのある輪郭。ユカワはサンダルを履いて玄関を出る。その配達員はハンディターミナルを見ていてユカワには気が付いていない。
「タカハシくん」
ユカワがそう呼びかけると、マスクをした顔が振り返って彼女の方を見上げる。彼らがいるそのアパートを見下ろす隣のマンションでは、中学生の男の子が、ぼんやりとその様子を眺めていた。手元には公募ガイドがあった。彼は学校に行きたくないと思っていた。できることならこのまま世界が滅茶苦茶になってほしい。もうなにも変わらないし、気が楽になることも、ただしいことが起こることもないと思っていた。でも、それは違った、と彼は思う。いま目の前で起きていることを彼は見つめている。何かが起きる予感がする。風が電線を揺らし、綾瀬駅のアナウンスやパチンコ屋の音が聞こえ、原付のエンジン音や、タクシーのクラクションに混じって、目の前のふたりの話す声が聞こえてくる。スマホからハバナイ!の「僕らの時代」が流れてきたとき、その配達員と目が合った気がして、彼は自分の顔を公募ガイドで隠した。物語を書こう、と彼は思う。他者のことを想像し、重ね合わせ、つながっていく。蛍光灯、無数のビルの明かり、通過していく貨物列車、サージカル・マスク、SNS、いいね、世界の終り、プレイリスト。
これが僕らの時代だ。
晴れた空をジェット機が飛んでいる。それはだんだん遠ざかって、そして誰にも聞こえなくなる。
文字数:68654
内容に関するアピール
とにかくパニック映画が好きで、おそらくこの講座でも1・2を争うパニック映画好きだと思うのですが、このコロナ禍については順応も予想もできていませんでした。
それでも「世界の終り」に対しての期待や恐怖は変わらないし、物語の役割も、人間の中身もきっと変わらない、と僕は思うのです。
だったら僕は最高の世界の終りを書く、最低でもこの講座で一番エモい終末を書きたい、それがこの講座に対する誠実さだろう、と思って書きました。
ぼくは現実世界を最悪な方に拡張するのが好きなので、自分の実家のある足立区・綾瀬駅一帯に飛行機を落としました。
オリンピックが中止になった日本という設定だけはCOVID-19出現よりも前に考えていたので、それだけは自慢できます。
講座を運営してくださった皆様、講師を務めてくださった皆様に、改めて御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。
文字数:373