サノさんとウノちゃん

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サノさんとウノちゃん

 あと一掻き。右手を壁にひっかけて全身を引き寄せる。体を反転。上を向いて壁を蹴る。両脚を伸ばす刹那で両腕もめいっぱい伸ばすと、水の抵抗が減って一気に進んだ。鼻から思いっきり息を吐きながら全身を2度3度しならせて水面に顔を出す。膝を曲げずに脚を振り上げてキックを打つ。サイドにいる選手は見えなくなった。右手と腕で水をつかんで押し出していく。次は左腕。両脚で高々と水飛沫を上げながらコースを突っ切っていく。あと半分で私はリレーの選手になる。プールサイドから応援の声が聞こえる気がする。けれども、水を掻いている音と自分の呼吸で全く分からない。残り5mを示す黄色と青が交互に並んだフラッグが目に入る……あと3掻き……2……1――ごいん。
 小野寺マキ、高校2年生。彼女の夏は自己ベストと鈍い金属音で開幕した。

 目が覚めるとの真っ白な天井にクリーム色のカーテンが目に入った。どうやら病院らしい。サイドから覗き込んでいる男女は医師と看護師だろうか。顔を右に向けようとすると、痛い。どうやら捻挫しているらしい。
 ぼんやりと自身の状況を確認しているうちに、マキが目覚めたことに気が付いた顧問の神崎がナースコールを押して、マキが目覚めたことを告げている。わざわざ呼ばなくてももう2人いるじゃん……神崎のことはきらいではないが、頭がぼーっとして話す気分にもならなかったので、医者やら看護師やらが来るまで目を瞑っていることにした。
 目を閉じたのもつかの間、病室がガラガラと開けられる。目が覚めた時にいた医者よりも少しだけ若そうなおじさんだった。研修医だろうか。おじさん先生の両後ろにぴったりと彼女を覗き込む顔が2つ、結構きつい体勢を取っているように見える。やっぱり医者は体力勝負なんだと納得しているマキの下瞼を、センターのおじさん先生がひっぱってペンライトを眼球に当てる。数秒眼球を覗き込んで、反対側を同じように診る。数秒とはいえ光は眩しく、目を閉じても緑色の残像がちらちらと残っている。目をゆっくりしばたかせている間に看護師がリモコンを操作して、マキの上半身を起こした。ようやく、周りの状況が目に入る。
 付き添いは顧問の神崎のみ、後ろは学校関係者だろうか頭を抱えている男女が2人。両親にも連絡がいったとは思うが、まだ到着していないらしい。医者とおぼしきおじさん先生と研修医だろうか、先生の後ろから2人顔を出している男女。マキをリモコンで起こした女性の看護師。きれいなお姉さんの後ろに、これまた男女が2人隠れるようにしてこちらを見ている。目が覚めた時に覗き込んでいた2人は見当たらなかった。それにしてもシャイなやつが多すぎないか?大丈夫かこの病院。疑わしげにおじさん先生を見ると、軽く咳ばらいをして口を開いた。
「小野寺さん。気分はどうですか。どこか痛いところは」
 聞きながらマキの手を取り脈を測る。
「気分……は、なんかまだぼーっとしてます。痛いところ……、首?を、右に曲げると痛いです」
 うっかりため口にならないように無理やり続けた。おじさん先生はマキの顎を両手で持ち左右に動かして何かを見ている。右に曲げられると、やっぱり少し痛かった。
「ここに来る前のことを覚えていますか?」
 病院に来る前……私は……泳いでいた。選考の結果は?タイムもまったく覚えていない。
「先生!結果は!?」
 顧問と医者の2人が同時にこちらを見る。マキは焦れながら部活の顧問を見てもう一度聞く。
「神崎先生……タイムは……?」
 マキの剣幕に、おじさん先生や看護師たちも息をのむ。神崎は目を瞑ってマキから顔をそむけた。表情を見せないまま神崎が口を開く。
「その前にね、よく聞いてちょうだい」
 少し伸びた前髪が神崎の表情を隠す。マキはじれったそうにベッドの上で上半身をゆすっている。
「50mのタイムは38秒……ベストよ。このままいけば8月の大会の決勝も視野に入れてよかった。けどね。首。痛いでしょ?」
 神崎はそのまま下を向いて押し黙ってしまった。
 マキがすがるようにおじさん先生を見る。先生は深く息をついて口を開く。
「首を捻挫しています。MRIや脳波の検査などを実施しましたが、脳や血管に異常は無いようです。ざっと全治2か月。絶対安静、その間は激しい運動……もちろん水泳も禁止です」
「禁止?」
 痛くない方向に首をひねって確認する。
「禁止です」
「軸がぶれてなくても?」
「何が何でも、です。首や頭に万が一があってはいけません。いまは小さくてMRIに映らなくても、数日後に血栓が膨れ上がって倒れることだってあるんです」
 全身の力が抜けて後ろに倒れこむ。ベッドに支えられる形でかろうじて上半身が起きている。こんな形で夏が終わるなんて……あまりのあっけなさに涙も出てこなかった。
「……都春と都高は?」
「マキのエントリーは棄権する。リレーは2番だったスズカに行ってもらう。41秒よ」
「合宿は?サクラ戦は?16校は?」
「合宿は禁止よ。サクラは8月の1週目の日曜日だから、経過によってはオープンで参加。16校はエントリーが7月25日まで。今日から2か月だと8月になっちゃうから、経過が良好でお医者さんからOKが出たらエントリーします」
 神崎はメモを見ながら話す。どうやら今後のスケジュールについて確認しておいてくれたようだった。
「マキ、落ち込んでもいいけど16校に出たいならしゃんとしなさい。激しい運動が禁止されただけでフォームや体幹のトレーニングはできるのよ。タイムを取りながらみんなのフォームやタイミングを観ることだって十分に練習になるんだから」
 この状態でできるトレーニングまで聞いておいてくれたのか。やるじゃん、神崎。なんだ、8月に泳げるようになるのか。しかも部活出ちゃいけないわけじゃないんだ。マキは周囲が思ったよりもだいぶあっさり絶望から立ち上がった。
 どういう基準かはわからないが、入院しなくていいらしい。顧問が残っていろいろ手続きをしてくれるらしい。搬送時に一緒に運んでもらった制服に着替えて、親の到着を待たずに帰宅した。

 痛めたところを温めすぎるのもよくないらしい。そのくせ首がうまく曲がらないもんだから、シャワーひとつ浴びるのに苦労した。泳いだ後よりも疲れているかもしれない。

 ドライヤーをかけるのも苦労しそうだと鏡を見たマキは固まった。マキの右肩中空にオジサンがいる。そういえば目が覚めた時にも顔を覗き込んでいた。もう一人は何処だ?曲げられる方、左に首を向けるとさらに驚きの光景だった。
 肩甲骨から人間の上半身2つも生えている。さっき見つからなかったもう一人は、マキの左肩甲骨から生えて、マキの頭の真後ろに、鏡に映らないようにくっついていた。こうなったら、と無理に右に首を曲げて後ろを見る。考えたくなかったが、オジサンはマキの右の肩甲骨から生えていた。鏡越しに気まずそうなオジサンが口を開く。
(……見えてます?)
 はい。見えてます。と答えていいのだろうか。どう声をかけていいのかわからず頷く。MRIも脳波も大丈夫と言ってなかったか。あおじさん先生はヤブだったのか。それとも打ちどころが悪かったのだろうか。マキは大会に出られないことよりも不安になった。
(詰まってるって感じはないので、血管とかは大丈夫だと思います)
(は?詰まってる?何が?)
 いぶかしげにオジサンを見る。理屈はわからないが、マキの考えていることが判るらしく、普通に答えてくれる。
(体で言うところの肩こりとかむくみみたいな感じですかね
(体で言うところ?っていうか肩こりなったこととかないからわかんないし)
 とりあえずオジサンをにらむ。
(いやあ、つまるところ脳血栓ってことになりますから、結構深刻ですよ)
(つまるところって、うまいこと言ったつもりかよ。……脳?)
(はい。小野寺マキの左脳です)
 もしかしたら、今日1番のショックだったかもしれない。オジサンもうしろにへばりついてる女子も視界に入れないよう、下を向きながらドライヤーをかけてベッドにもぐりこんだ。ちょっとだけ首が痛かった。

 いろいろなことがありすぎたせいか、夕食前に眠りについたにも関わらず朝まで1度も起きることがなかった。平日仕様に設定されたアラームで目を覚ます。身支度を整えて、スポーツバッグに必要な教科書を放り込む。
 部屋をでて居間に降りてくると、母が泣きそうな顔でマキを迎える。母の後ろにも男女が1対生えている。女の方は母親そっくりの見た目でマキに抱きついてきた。少しひるみながらも母本体に「おはよう」と声をかける。
「マキちゃん!大丈夫なの?」
「うん。2か月に安静にしてれば8月の大会出れるって」
「そうじゃなくって、首!捻挫したんでしょう?こんなフワフワしたの巻いちゃって」
「ああ。ちょっと右に曲げるのは痛いけど、普通に過ごすのに支障はなさそうだよ」
「もう、勝手に帰っちゃって……病院に着いたら先生がいらっしゃって全部説明していただいたけど……体育はほとんど見学なのね?」
「うん。しばらくだめだって。でも部活は出るから。マネージャーの手伝いとかあるし」
「はあ……無理はしないのよ?倒れちゃったらもっと大変なんだから……」
 マキの母は呆れながら台所に戻っていった。その間に洗面所で歯を磨く。首のサポーターだと言われて渡されたスポンジが暑苦しい。そのうえ鏡を見ると、昨日のオジサンが右肩の近くに浮いている。夢じゃなかったのか……歯磨き粉はミントがからく、頬をつねると痛い。
(現実ですよ。見えることなんてそうそうないでしょうけど)
(でも背中から生えるってアリなの?)
(それは視神経の方が受け入れやすくしているんでしょう)
(いや、脳に異常あるじゃん)
 後ろから小さくクスリと笑う声がした。もう一人がウケている。
(ねえ、隠れてないで出てきなよ)
 背後のもう一体がビクっと肩を震わせて、おずおずとマキの真後ろから離れる。そのすがたは、マキと瓜二つ、そのものといっても過言ではなかった。
(自分とおんなじ顔ってぇ、なんだかきもちわるいでしょ~?)
 語気がのんきに伸びる。キャラが被らなかったので、双子の妹とでも思うことにした。

 朝食を食べて、母親に作ってもらったお弁当をカバンに放り込んでマキは玄関のドアを開ける。閑静な住宅街の通学・通勤時間。通り過ぎる人々の背中にそれぞれ一対の男女がにょきりと生えていた。性別によって、男は左脳側が本体と見た目がそっくりで、女は右脳側がそっくりだった。歩きながら観察していてわかったことだが、背中に生えている男女は互いに存在を認知していないのか、噛み合っているような噛み合っていないような内容をぶつぶつとつぶやいている。大概は男の方が細かく、女の方がザクっとした感想を述べている。
(きみたちは互いの存在を認知しているの?)
(互いの存在、といいますと?)
(オジサンが左脳で、そっくりなのは右脳ってことでしょ?しゃべったことないの?)
(普段からやり取りはしているはずですが、いまみたいな形で、といいますか、視界を通して認識するのは初めてです)
(ネットの友達と~初めて会った感じ~なんかちょっと~恥ずかしくってぇ~)
 だからこいつ、さっきまで隠れていたのか。そして、視界を通さないと互いの存在は感じていても見えない。だから通りすがる人の男女は変な会話をしているように見えたのか。とりあえず、そういうことで納得することにした。
(まあ、つまり)
(あれは独り言だよね~)
(んじゃ、今の状況の方が異常なのか)
(そうだね~でも~血管とかは~大丈夫だから~安心して~)
 右脳の方に言われると逆に不安になった。
(あ~なんか失礼なこと考えてる~)
 そして自分の脳である。考えていることは筒抜けだった。
 そうこうしているうちに駅に到着した。いつもより3倍人が多く見える。電車の中は空いているように見えても、マキにとっては満員電車も同然だった。人酔いといっていいのだろうか。気分が悪くなって、ドアの近くに避難する。学校の最寄り駅の手前で、部活の同期が乗ってきた。
「はよー」
 マキに気が付くと気まずそうに「おう」と答えた。泉に道で”せんどう”と読む彼は、誰かが読み間違えた”いずみち”というあだ名で呼ばれるようになった。いずみちの後ろにもやっぱり男女が一対生えている。男の方はいずみちそっくりで、ずっと考えるようなそぶりをしていて、女の方は不安そうにおろおろしている。マキみたいに互いを認識していないので、会話をするといったことはないようだ。
「きまずい?」
「……お前な、自分でいうかソレ」
「いや~部活のだれかに会うたびにこういう風になるんでしょ?だったら先にぶっ壊そうかと思って」
「それで?大丈夫なのか?」
「うん。安静にしてれば8月には泳げるって」
「そうじゃねーよ。首。首大丈夫かっつってんの」
 いずみちがサポータ―を人差し指でぷすぷすと突っつく。痛くはない。
「ああ。捻挫だって。全治2か月」
「泳げねーじゃん」
「ん。だからフォームと体幹とマネ子の手伝い。タイム取りとか片付けとか」
「やっと泳ぐのにちょうど良くなるってのに、陸トレかー」
「そうなんだよね。暑いのにプール入れないとか拷問だよ」
「プールに入るのが拷問ってやつもいるけどな」
「たしかに」
 気まずさも抜けて、どうでもいいような会話をしながら学校までの坂道を上る。いずみちの左脳の方がやたらこちらを見ているが、先ほどの考えこむ様子がなくなったので、マキは安心した。ふと前に目をやると校門に生徒と脳2人がうじゃうじゃいる。マキは再び酔って、保健室に直行した。
 ベッドにうつぶせ、気を付けの姿勢で先生にタオルケットをかけられる。先生は職員会議があるから気分がよくなったら勝手に出てって、と告げて出ていった。
 気を紛らわせるために、右脳と左脳に話しかける。
(ねえ、これ声出さなくていいからおしゃべりにぴったりじゃない?)
(おしゃべりっていうか……)
(壮大な独り言大会だけどね~)
 のんびり口調で意外ときついことを言ってくる。たぶん普段考え事をしているときにも出てくる自分突っ込みだろう。発信元はお前か、右脳。
(それよりさ、右脳左脳ってなんだか呼びづらいから、なんか考えない?)
(考えない?って言われてましても、脳ですから起きてる間は常に考えてますし……)
(いまも考えてるようなもんだよね~もちろん~寝てる間も~動いてるよ~)
 動きの遅そうな右脳が付け足す。
(左脳だからサノさん、右脳は見た目歳一緒そうだからウノちゃん)
(ここにいる全員アナタと同い年ですよ……)
(あはは~サノさんオジサンに見えるなんて思わなかったよ~)
(笑わないでください!)
 結局マキ自身が考えていることだから、サノさんもウノちゃんもこうなるとわかっていたのだろう。妙に適応がはやい。マキを通してサノさんとウノちゃんが何かをしゃべっている。マキは急に疲れて、気絶するように眠った。

 マキが再び目を覚ますと、4時限目も終わる時間だった。2時間以上眠ったせいか、とてもすっきりしている。昼休みになるのをゴロゴロしながら待って、チャイムが鳴ると、先生に挨拶して教室に戻った。
 教室は電車と比べて規則的に机が並んでいるせいか、朝のような気持ち悪さがない。自分のクラスにたどり着くと、マキの首もとのフワフワを友達みんながつつきに来た。それぞれに大丈夫?と声をかけられるたびに、8月には泳げると返すマキがいつも通りにだったので、安心して各々のグループに戻って弁当を食べ始めた。
 放課後、首に気を付けながら練習着に着替えると、マネージャーの飯能がプールサイドのクロックの秒針を合わせていた。やほー、おーなど適当に声をかけるとマキは飛び込み台の横に腰かけて、コースロープのねじを締めていく。マキの動作に合わせて、勝手にサノさんとウノちゃんがしゃべっている。
(もう回らないよ~)
(いや、もう少し張れるはずです)
 ぞろぞろとほかの部員もやってきた。神崎が昼休みに緊急ミーティングをしていたらしい。マキの首の状態だけでなく、可能なトレーニングや今後のスケジュールについて周知されていたようだ。心配していたのか声をかけてくれるが、3年生からは「8月、絶対出ようね!」と念を押された。
 準備運動は首に負担がかからないものを、ストレッチは通常ペアで行うがマキの首に配慮して、飯能にやってもらうことになった。
「そういえば飯ちゃん、あんまり驚いてないね」
「だって、安静にしてれば泳げるようになるんでしょ?」
「うん」
(飯ちゃんすごいよね~2年でこの安定感~)
(だからいいんでしょう)
 右脳も左脳も絶賛だった。
 コーチからは、壁につないであるチューブを引っ張るフォームの練習と、プランクを中心とした体幹トレーニングのメニューをもらった。マキの首に配慮してか、休憩時間が長めだった。1種類が終わるごとにコーチが声をかけてくれて、各メニューがどのくらいの首の負担になるかを確認していった。目線を上げないといけないメニューについては痛くない範囲で、しばらく同じメニューが続きそうだった。
(もっと曲げてください)
(肘が動いてる~)
 メニューの2周目、前傾姿勢で腕を少し広めに開いて、肘から先だけを曲げて水をつかむ筋肉を鍛える。サノさんはコーチに言われたことを反復するようにずっと唱えている。ウノちゃんは、体の位置のずれや筋肉の軋みを訴えてくる。
(これ痛い~)
(もっと、もっと曲げてください)
(どうすりゃいいのさ)
(曲げて)
(止めて~)
(……これ以上は無理!筋肉痛になったらあとが続かない!)
 こうも言われることが違うとさすがに混乱する。どうにか痛くない範囲で腕を曲げて、サノさんとウノちゃんを黙らせた。
 メニューを3セットほど終えたあたりで飯能から声がかかった。タイムを計測するらしい。ストップウォッチを片手に選手を5秒ごとに送り出す。1分しないうちにみんな戻ってくる。飯能は画板にタイムを記録して、5秒、10秒と順番に引いていく。
(3……2……1……ストップ!)
(たーんたん、たんストップ!)
 サノさんが数字を見ながらカウントしている横で、ウノちゃんがバタフライのキックのリズムを刻んでいる。のんびりのウノちゃんでもタッチの瞬間だけはビシッとものを言う。さすが私の脳。なぞの誇らしさが生まれた。

 1か月も経つと、サノさんが曲げろ、上げろと指示をして、ウノちゃんがリズムや筋肉の軋みをごちゃごちゃいう生活にも慣れてきた。従うべきところは従い、不要な所は流す。そんなこんなでマキが出るはずだった都立の高校大会が訪れた。マキのエントリーは棄権。マネージャーと一緒にほかの選手のストレッチやタイム計測なんかを手伝っている。
 大会2日目の最終競技。マキが出るはずだった200メートルメドレーリレーには、後輩のスズカが出場している。応援したいが、どうにも複雑な気分だった。
(応援……応援……)
(あそこには私がいるはずだったのに~)
(黙って、声出してりゃスッキリするんだから!)
 会場が静まって、ピストルが鳴る。マキもほかの部員に負けないくらいの大声で応援した。けれども気分は晴れることなかった。
 背泳のスズカがパネルにタッチして、バタフライの選手が飛び込む。先頭の泳者のタイムだけは正式記録になる。タイムは37.9秒、マキはベストを越された。周囲はスズカのベストに盛り上がり応援にも熱が入るなか、マキだけが取り残されたようだった。

「マキ先輩~!やりました~!」
 クールダウンを終え、着替えて観客席に戻ってきたスズカがマキに抱きつく。あまり見ないようにしていたが、スズカもマキの代わりを務められるように努力していた。その結果、この大会で3秒もベストを更新したのだ。素直に感動して、喜ぶべきなのだ。
 泣いているスズカをあやしながら、マキは考える。
(8月までにスズカはどのくらい伸びるのでしょう……?)
(16校ぅ大丈夫かな~)
 あと1か月泳いじゃいけない。数週間でカンを取り戻して、お盆明けの選考会でベストなんて出せるのか……いままでは8月になれば泳げることに喜んでいたが、そうのんきなことも言っていられなくなった。

 大会明けのトレーニングに熱が入る。痛みを訴えるウノちゃんを無視して、曲げられるだけ曲げて、時間いっぱいに腕や脚を持ち上げる。家に帰ってもトレーニングは終わらない。部屋の姿見の前で、ノートに書き留めたコーチのアドバイスを見てフォームの確認をする。
 首に負担をかけないように、ストレッチやマッサージなども念入りに行った。
 ここ数日、ウノちゃんはストレッチなどのクールダウンの時にしか姿を見せなくなった。トレーニング中はサノさんが鬼の形相で叫んでいる。正直怖いし、これじゃしょうがない。
 7月中旬、サノさんが叫び、ウノちゃんにいたわられるサイクルになって、2週間が過ぎた。最近、どうにも左右の動きが噛み合わない。授業中ノートを取ろうとすると左手がペンケースに伸びて、ペンを持っている右手の下に腕が挟まって非常に書きづらい。着替える時も片手は着ようとしているのに、もう片手では脱ごうとしていつもの倍くらい時間がかかってしまう。そのときサノさんとウノちゃんの姿は見えず、マキは自身を落ち着かせて、これからしたい動作について念入りにシミュレーションをしてから体を動かさざるを得ない。部活の時間になると、どこからともなくサノさんが現れ叫び、家に帰るとウノちゃんがダメージを受けている筋肉を教えてくれる。日常動作に時間がかかってしまうものの、コンディションは問題なくなっていった。

 努力ともろもろの我慢の甲斐あって、予定より2週間早く泳いでもいいことになった。
 自宅でそのことを母親に伝えると、部屋から小さい袋を持ってきた。マキが頭を打った日に来ていた水着と同じものだった。当時着ていたものは、検査着に着せ替えるためお医者さんに容赦なく切られていた。お気に入りの水着が新品になって戻ってきた。最初の1週間は水になれるくらいのメニューで、と念を押されたが、マキはとにかく泳げるようになったのが嬉しくて、明日の部活で泳ぐのが楽しみで仕方がなかった。
 翌日、時間がかかりながらもついに水着を着ることができた。1か月半ぶりの水着に心も身体も踊り出しそうだった。準備運動をして、ストレッチもそこそこにプールに足から飛び込む。暑くなってきた季節に、少しぬるくなってきたが水の感触が心地よい。飛び込んだそばからぱちぱちと泡が身体を伝って水面に上がっていく。ゴーグルをかけて見上げた水面は日の光を反射して揺蕩う。キラキラした景色に、やっと戻ってきた、そう思った。
 脚を伸ばして水面に顔を出す。ゆっくり泳ぐように念を押されているので、列の一番後ろに並んで前の選手が5m以上進んでから壁を蹴る。蹴って伸びて5m、呼吸をしようと右腕で水を掻き出し右に首を動かして息を吸う、はずが左を向いている。塩素の匂いが付いた水が鼻と口だけでなく、気管にも押し寄せる。思わず立って咳き込んだ。上にいるコーチが投げたビート板が頭に当たる。振り向くと、神妙な面持ちで飛び込み台に座っている。マキは沈まないようビート板に腕をのせてスタート地点に戻った。
 もう痛くない首でコーチを見上げる。
「マキ、上がろう」
 予想はしていたことだが、かなり悔しい。ビート板をコーチに渡して、梯子から陸に上がる。マキが上がったのを確認すると、コーチが親指をたててちょいちょいとベランダに行くよう促した。ストレッチ用のマットを敷いて、マキを座らせる。
「マキ、泳ぐの怖い?」
 コーチから出たのは意外な一言だった。ぽかんとするマキに、コーチが言葉を続ける。
「意識がなくなったとはいえ、こういうのがトラウマになるってこともあるでしょ?その辺みんな考えてなかったみたいだけど、無理とかしてない?」
「トラウマとかは……全然なくて、泳げるの、すごい楽しみにしてたんです。でもなんだか体の動きがうまくかみ合わなくて……」
「最近微妙にトロくさくなってる、アレ?」
 うんうんとマキが頷く。
「7月入ったくらいからなんかおかしくて……やっぱり焦ってるっていうか、そういうのが出ちゃってるんですかね……」
「スズカ急に早くなったもんな」
「はい……すごい頑張ってましたし」
 しばらく無言になったあと、コーチが一人で何か頷いた。
「……よし。マキ、一回フォーム確認しよう」
「え、フォーム?さんざんやりましたよ?」
「最初の1日しかちゃんと見てなかっただろ。もう一回」
「はあ……」
 戸惑いながらもマキはフォームを見せていく。マキの専門種目(スタイル)背泳ぎになると、コーチも熱が入る。
「もっと、もっと肩甲骨伸ばして、ひねって掴んで!」
 これはよくサノさんが言ってたな。見かけなくなって数日、あのうるささが少し懐かしくなる。
「そう、肘!90度!そのまま掻ききって!」
 この肘のかたちはずっとウノちゃんが……
 マキは自分の間違いに気がついた。サノさんの言葉ばかり気にして頭でっかちになって、体の感覚を無視していた。その結果があのざまだ。
 コーチからのOKが出たあと、マキはすぐにプールに飛び込んだ。待ちきれずにメニューをこなす列に割り込んで、壁を正面に仰向けになって壁を蹴る。鼻から思い切り息を吐き出しながら全身をしならせる。このままどこまでも泳いで行けそうな気分だった。が、真ん中のフラッグで思いとどまる。ぷはっと息を吐き出して呼吸を再開する。右腕を思いっきり伸ばして手のひらを外側にひねる。自身の身体の少し下に手が来たら一気に掻き出す。それを左手と交互に繰り返す。運動を禁止されていた首は少しだけ水面から上げて、軸がぶれないようにキープする。トレーニングのおかげか、以前よりも方向の調整をする回数が減った気がする。あっという間に残りが5mであることをフラッグが告げる。3掻き、2掻き、1掻き、今回は頭をぶつけないようにしばらく腕を伸ばしたまま、壁への到着を待つ。ぺたりと伸ばした手が壁に触れる。感覚を叩き込むようにもう一度仰向けで壁を蹴る。今のフォームが一番しっくりくる。今度は水を掻きながらゴールする。いつも4掻きで壁にタッチしていた。5mフラッグを目にして、カウント、4、3、2、1……手はぴたりと壁に着いた。ビート板を壁にくっつけていたコーチがガッツポーズをして飛び込み台に肘をぶつけた。その光景に、マキも笑った。

 1週間、練習する体力が多少落ちていたものの、メニューの内容によって、コースを移動させてもらいながら練習をこなす。メニューの最後の計測もベスト+5秒で、調子も上がってきたように思う。8月の16校も、ベストタイムでエントリーした。
 8月1週目の自校で開催する計測会・サクラ戦にも出た。泳ぎに関する体力やスタミナについてはまだ戻りきっていないが、夏休み中の練習でいままでの感覚を取り戻せる見通しがついて、余裕が出てきた。リレーはマキとスズカで1つずつ。お互い調子がよく、50mと100mでタイムを換算して競争して、互いの成長を喜び合うこともできるようになってきた。練習後のケアも、以前よりも入念に行っているせいか、疲労も残りにくく効果を実感することができた。

 16校を1週間後に控えたお盆明け、マキは再び校内の選考会に臨んでいた。タイムでコースを振り分けられる。マキは真ん中の4コースをスズカに譲ることになったが、不思議と悔しい感じはなかった。
 飛び込み台の下にある手すりをつかみ、可能な限り身体を縮めて高い位置に上る。ピストルが鳴った瞬間、マキの身体は弾けるように手足を伸ばす。重ねた両手が抵抗を減らして仰向けのまま、水中を進む。全身をいつもよりも多めにしならせながら水面に顔を出す。息を吸いながら右手を伸ばし、水をつかんで掻き出す。脚を伸ばしたまま上下に振り上げる。マキ自身が上げている水しぶきで、他の選手が見えなくなる。この瞬間、自分一人で泳いでいるような感覚になる。マキはこの感覚が大好きだった。あっという間に残り5mのフラッグが目にはいる。今度は失敗しない。4掻きで壁に手をつき身をひるがえす。水面から顔を上げた瞬間、壁に手を着くスズカが目に入った。負けるわけにはいかない。マキは、往路よりいっそう大きく水を掻き、脚を振り下ろす。ここには私しかいない。
 ベストが出るならまた頭を打ってもいいや。そんなことを考えながら、また5mのフラッグに差し掛かる。勢いを止めることはない。4、3、2、1……今度はぴったりと壁に手を着くことができた。荒い呼吸で床に足を降ろす。全員がゴールした時点で、コースロープの下を泳いで梯子から陸に上がる。よろよろと歩いていると、コーチが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「マキ!36秒!ベスト!決勝だけじゃない。表彰台も狙えるぞ!」
 大げさですよ。と荒い呼吸のまま笑って返す。マキの目には表彰台しか映っていなかった。

文字数:11792

内容に関するアピール

 梗概を修正してみたのですが、練り直しに時間がかかりました。
 頭をぶつけて、異常ではないくらいのダメージを与える方法が、背泳ぎで頭をぶつけるしか思い浮かばなくて、水泳でどうやって進めようか、というのを考えた結果、ベタなスポーツものっぽくなりました。
 ベタですが、いちおう水泳をやっていたので、実際にある大会のエントリー期間や、決勝を狙えるタイムを計算するのが楽しかったです。

 脳について調べたのですが、言語野や空間把握について多少の優位性はあるものの、基本的に左右同時に活動しているので、利き脳のようなものはないそうですが、お話の都合上、左が理屈、右が感覚ということにしました。

 後悔しないようにしようとは思ったものの、最後までぎりぎりでした。
 ほかの人が考えていることも見えてしまうと暗くなりそうだったので、結果良かったです。

 一年間お世話になりました。

文字数:378

課題提出者一覧