梗 概
ラピスラズリ
文字数:1185
内容に関するアピール
この話で他者を育てているのは、「自分の体内の知性鉱物を集合体にして意識を芽生えさせ、未灰を救うための方法を学習させている」璃砂の行為になります。自分と他者を相互に育てようとするのは「璃砂から引きついだ知性鉱物の集合体・アリスと共に、海を浄化するための研究をしようとする未灰」の決意が該当します。
また、この話で最も大切にしたいのは、「未灰が、彼女自身の中にある『璃砂への思い』を育てる自信と勇気を取り戻す」部分です。
文字数:208
青の軌跡
私の研究は、汚染された海水の無毒化だった。水をタンクに入れて初期値を測り、処理後の値を計測する。数時間後に再び計測して、初期値からの変化を確認する。反応櫓にはさまざまな物質を入れて試したが、計測値が思うように減っていることはなかった。
思いつく限りのあらゆる材料を試す日々が過ぎていった。その日に試したのは、確かケイ素の一要素だったと思う。効果がなかったのを確認してため息をつき、研究予備室に戻って一息入れようとした。そこは私に割り当てられた空間で、実験を行うための準備のための部屋だった。濃いブラックコーヒーを入れてパイプ椅子に座り、殺風景な部屋を見渡していると、青い光が目に入った。見れば棚に置いてあった小さな石に、スポットライトのように蛍光灯が当たっている。多分私は疲れていたのだろう、その青い石で実験してみようという気になったのだ。
石を手に取り、少しひっかいてみた。何も塗っていない爪に青い欠片が付着する。手のひらの上で転がしてみると石は角度によって色味を変え、春の明け方の空のような淡い青色にも、夏の海を思い出させる群青色にも、秋草の葉に似た碧色にも、冬の日没後の一瞬を映す藍色にも見えるのだった。実験室に戻って石を小さく砕くと、青い色が一層鮮やかに輝いて見えた。粉末をタンクに入れて水を注入し、水が反応櫓から分離櫓に移ったのを確認してから仮眠を取り、計測値を確認して驚愕した。汚染度が下がっていたのだ。
タンクの水底の青い残骸を確かめて、胸がちくりと痛んだ。その石は同じ年の従姉妹、璃砂がくれたもので、彼女とは15年間会っていない。思えば最後に会ったのは、今と同じ季節だった。私は彼女と過ごした短い夏を思い浮かべ、息がつまる気がした。あの日々を思い出すのは怖かった。でもこの結果を無視するわけにはいかない。私は石について聞くために璃砂のもとを訪れようと決意し、水を見返した。そのうっすらとした微妙な色を見て、染料の藍汁を入れた藍甕に白い布を一度入れた時の淡い青色の名称である、“瓶覗”という言葉が浮かんだ。
屋敷町の一角にある璃砂の家は荒んではいたが、昔は瀟洒な洋館だった面影を残していた。家の正面には時計がはめ込まれているけれど、動いている気配はない。金属の蔦が絡まるデザインの門扉は、手が触れるとはらはらと崩れ去った。本物の薔薇が枯死して銅の色に変化していたのだ。門扉を開けると、金属のギイ、という乾いた音が鳴り響く。ブザーを押すと音は鳴っているようだが、答える人はいない。そっとドアノブを回すと、ガチャリ、という音を立ててドアが開いた。
私は恐る恐る中に入ってみた。家具や絨毯などの調度品はそんなに損傷はなかったものの、積みあがった埃は久しく人が来ていなかったことを示している。私は廊下を進み、リビングらしき場所へ入った。かつては座り心地が良かったであろうベージュの革張りのソファには表面に埃がびっしりと付着し、足元の赤い絨毯も波打っている。カップボードの上にある写真では、小学生くらいの少女がこちらを向いて笑っている。璃砂だ。
写真を見ていると、小脇にあったこぶし大の貝殻が視界に入った。乳白色に銀の光沢がある巻貝には見覚えがある。手にとって眺めると、突然貝の中から音がして、私に話しかけてきた。銀の鈴のように澄んだ声。聞き覚えのある璃砂の声だった。
「ご来訪いただいて、ありがとうございます。」
私の動揺をよそに、貝殻はしゃべり続ける。
「わたしは現在、『海のアトリエ』に住んでいます。ご用事がありましたら、そちらにいらしてください」
巻貝、いや貝の奥に仕込まれているであろうスピーカーは歌うような調子で読み上げると、それっきり話は終わってしまい、話しかけても反応することはなかった。
この貝は手に取らないと語りかけることはないし、貝のメッセージを聞いたところで、「海のアトリエ」を知らない者は璃砂には会えない。つまりこれは私に向けたメッセージなのだろう。私は写真についた埃をそっと拭い、家を後にした。
家の内部は記憶の通りだった。真っ白なソファとガラステーブルがある明るい居間を抜け、ガラス張りの廊下を抜ける。その先にたどり着く真っ白な空間がアトリエだった。私は視線の先に一人の女性を認めた。
絵具で汚れるためか、白衣のようなふわりとした長い上着を着ており、そこに装飾のようにさまざまな色の画材がついている。私の生活環境は、自室も研究室も灰色に埋め尽くされているから、世界にはまだこれだけ色彩が残っているんだと思って眩しく感じた。黒く長い髪は無造作に束ねられているが、まとめきれずにゆるやかにほつれて背中に落ちている。彼女は私の視線に気づいたのか、ゆっくりとこちらを向き直った。黒目がちな瞳は濡れたように光って輝いている。
彼女が近くにいるとはっとする。
昔から鮮烈な存在感を放つ子だった。
最後に会った時は互いに中学生だったが、あれから15年経っているから、もう女性というべきだろう。しかし璃砂はいまだに少女の面影を残している。彼女は私の姿を認めると、絵筆を置いてこちらで走ってきた。まとめていた髪はゆるみ、後ろになびいた。よける暇もなく飛びついてきたから、私はすこしよろめいたけれど、相手が軽いものだから、少し足を踏ん張ることで持ちこたえた。
「未灰? 未灰なの?」
「璃砂、久しぶり」
「すごく背が伸びたのね。すらっとしてて、羨ましいわ。会いたかったのよ」
白くて細い腕が私の体をぎゅっと抱きしめ、髪からはシャボンと画材と甘い桃のような匂いが混ざって鼻孔をくすぐる。私の固い気持ちを溶かす柔らかい感触。強く抱きしめたいという衝動を抑えようとして、強い眩暈を覚えた。
「璃砂、久しぶり。私も会いたかった」
当たり前のことだが、改めてよく見ると璃砂は成長していた。以前は若干不安定だった雰囲気は安定し、陶磁器のようだった肌は今も白いが、頬や手のひらはピンクで血色が良い。むしろ研究室に入り浸っている私の肌の方が青白く見える気がする。
「ところで未灰、遊びに来てくれただけでも嬉しいけど、多分何か用事があって来たんでしょ。何かあったの?」
絵筆を片付けながら、璃砂が言った。
「ええ、実は昔に璃砂からもらったものについて、聞きたいことがあって」
私が言うと、彼女は少し首をかしげて言った。
「昔はいろんなものをあげたり、交換したりしたよね」
「璃砂がくれた中でも、一番きれいなもの」
「一番きれい……なんだろう」
璃砂は考え込むしぐさをした後、私の方をじっと見つめた。
「青い石をくれたのを覚えてる? 貝と引き換えにもらった石」
リサはようやく思い出したという顔をした。
「分かったわ。父の鉱石ね。あれがどうかしたの?」
「私、今、大学で研究員として働いているんだけど、あの石を使うと効果がありそうなの」
私は自分の言葉を反芻しながら、そうであってほしいと強く願っていた。
15年前にこの星に衝突した巨大隕石は、陸地ではなく海に落下したから、石によって直接的に亡くなる生き物は海洋生物だけだった。けれども二次被害として、陸地には津波が押し寄せ、日本の太平洋側を含む近隣の領域は被害を受けた。更なる被害として、隕石は地球には存在しない強烈な毒性を含んでおり、新有害物質は海水を経由して散らばった。適用できない生物は死んでいくしかなかった。
「そうなんだ。ほかのものよりも効果があったってこと?」
眼を丸くする璃砂に、私は頷いた。
「ほかのもの、例えば光触媒なんかも少しは効果はあったんだけど、実際の使用に耐えるほどの効力はなかった」
新有害物質の無毒化に関しては、ゼオライトや酸化チタンといった光触媒が一定の効果を挙げたけれど、汚染されている範囲に対して効力が少なかった。しかもそのやり方だと、10トンの浄化された水に対して5トンの濃縮された汚染水ができてしまい、海では汚染水の逃げ場がないために打開策とはならないのだ。
「あの石に、そんな力があったなんて……」
「私の研究が打ち切られるのも時間の問題だわ。だからあの石の可能性にかけてみたいと思ってる」
どんな研究も泥臭い部分を含むものだけれど、今の研究に関しては場当たり的に試すしかない。そもそも地球の外にある物質に対して、地球内の物質で太刀打ちできる保証もない。世界は汚染された地域を見限りはじめ、既にアジアの一定地域は海流が循環しないように巨大な壁や防御フィルターを設けられていた。しかしながらそういった対策は、汚染が広がるペースに全く追いついていない。汚染が全域に広がってしまうのは時間の問題だろう。
出口の見えない研究のために、心が折れて辞めてしまった研究室仲間や、新有害物質の近くにいるために体調を崩して断念した人もいたけれど、私は続けていた。ここ数年で両親や親しい友人を次々に失ってきた私にとって途中で諦めるのは、今までの人生を否定されるのに等しい。
璃砂は深く頷いて言った。
「きれいな海を取り戻すなんて、素晴らしい研究だわ。わたし、未灰と海辺で一緒に過ごした夏が忘れられないの」
璃砂の肩にかかる髪が揺れる。瞳の影が濃くなる。
15年前のあの夏の記憶が蘇った。
璃砂は今よりもずっと体が弱くて、この「海のアトリエ」も彼女の療養用につくられたものだと聞いた。とはいえ彼女はずっと寝ているほど具合が悪いわけではなかったから、私は彼女の話し相手も兼ねて夏休みに遊びに来ないかと誘われたのだ。
私は今よりもずっと健やかで、この家に来てからは毎日海に入っていた。北関東の海水は淡水が流れ込むせいか冷たく澄んで気持ちよく、強めの波をぬって泳ぐのが楽しかった。私の肌は日に当たっても赤くなるだけで日焼けすることがないのだけれど、髪は塩分で痛んでしまい、もともと茶だった色が更に抜けてぱさぱさになってしまったものだ。璃砂は海に入っている私をパラソルの下から眺め、毎日本を読んでいた。
一度何の本を読んでいるの、と聞いたところ、今日はハーマン・メルヴィルの『白鯨』を読もうとしてみた、という回答が返ってきた。
「でも」
と璃砂は言った。
「今さっき挫折したところ」
「どういうこと?」
私が尋ねると、璃砂は首をかしげて言った。
「主人公とか周辺人物の、鯨に対する想いが強すぎて、ついていけないわ。もう鯨についての文章は一生分読んだ気がする。わたしは鯨以外に好きなものがいっぱいあるし」
「だったら、鯨以外の人間が出てくる本にしたら?」
「それでもいいけど、これからはもっと自分の好きなものだけを見ていることにする」
そう言った時、璃砂は海を見ていた気がするけれど、ほんの一瞬だけ熱い視線を感じたのは気のせいではなかったと思う。
それ以来璃砂は、パラソルの下で本ではなく、海を見ているようになった。時折視線を感じて見返すと、花のような笑顔で手を振ってくるのだった。そうでなければ彼女は砂浜を歩いてビーチグラスを探したり、波が砂に描く模様を眺めたりしていた。私も時折参加して、一緒に二人で未知の海岸を開拓したのだった。
あれは二人で貝殻拾いをしていた時だった。
真珠の上に銀細工が施されたような巻貝を拾い上げた時、右手の人差し指に痛みが走った。
皮膚を裂いた貝殻の先端に、赤い液体が伝う。
私が血の流れる手を胸先に上げると、璃砂は指先をじっと見た。そして私の手を取り、傷口をそっと舐めたのだ。
彼女の舌のざらついた感触が妙にくすぐったかった。口からわずかにこぼれる私の血は鮮やかで、桃色の唇に彩りを添えている。こちらを見つめる黒目がちな瞳が潤んだように光っていて、口元の紅と透き通る白い肌との鮮やかなコントラストを成していた。
いつもは無邪気な明るい光をたたえているのに、唐突になまめかしい煌めきを放つ璃砂の瞳。白昼夢のような瞬間。だけど遠くから時折流れてくる蝉たちの大合唱が妙にリアルで、その経験が事実だということを裏づけている。
彼女が唇を離すと、私は冷静さを取り戻そうとして、何事もなかったかのように歩き始めた。その頃の私は、今よりももっと、自分の気持ちを表すことに臆病だったのだ。
別れ際、流血の原因になった銀白色の巻貝を璃砂に渡すと、彼女は代わりに青い石をくれた。
「これ、父が最近手に入れたものなの」
小さな石を私の手のひらに押し当てながら、璃砂は唇の前に人差し指を立て、内緒よ、というジェスチャーをした。
「この貝と同じくらいきれいなもの、と考えたら、それしかなかった」
「……なんて青いんだろう」
この世の青を全て閉じ込めたような石に、私は思わずつぶやいた。
「そう、青は『会う』や『間』という言葉と関連してるんですって」
「『会う』は、出会いや再会ってことかな」
私の言葉に、璃砂がぽつりと言った。
「そうね。『間』は白い色と黒い色や、海と空の間の水平線、もしくはこの世とあの世の境界かしら」
私は石を眺めた。じっと見ていると魂が吸い込まれるような気がする。
帰りの電車の中で、ガーゼのハンカチに包んだ石を見つめていたら涙がこぼれてきて、私は慌ててハンカチで顔をぬぐった。あの時は自分の感情を整理できなかったが、今になって思うと、青が「会う」という意味を持つにも関わらず、今後しばらく璃砂に会えないだろうという予感がしたからだと思う。
あの夏以来、私は蝉の声を聞いていない。
傷のあった私の右手の人差し指には、今は傷痕なんて残っていなかったけれど、璃砂が私の指を吸った唇の感触はいつでも思い出せる。
柔らかくて温かで、ちょっと湿っていた。
私はこみあげる動揺を抑えるために、璃砂の言葉に強く頷いた。
「そう、だからあの石は何なのか、どこで採取したものなのか教えてほしい」
私の言葉を聞くと、璃砂は頷いて言った。
「石は父が採取したものよ。父は鉱物学者だったから、いろんな石を持っていたわ」
「15年前に、最近採取したって言ってたよね?」
「ええ、詳しいことは言わなかったけれど、あれはどうも、隕石の一部みたい。亡くなる直前にぽろっと口にしていたの」
私は驚愕した。あの新有害物質を含む隕石の一部だったら毒なのではないか。でもすぐに思い直した。あの石が人体に害をなすものであれば、私の命はとっくにないだろう。
「そんなもの、家に置いておいていいの?」
「父はわたしのことを気遣っていたから、害のあるものは絶対に置かないって言っていたわ。だから有害か否かって観点では、問題ないと思う。隕石は研究材料にするつもりだったのかもしれない」
でも、と彼女は言葉をつづけた。
「璃砂が見つけてくれたみたいに、新有害物質に効果があるとは思わなかったんでしょうね」
「叔父さんの研究は、確か記載鉱物学系だったわ。鉱物の分布を調べたり、命名したりする分野だから、私みたいな工学系とはアプローチが違うんだと思う」
「そう……父はあの石のことは”ネビュラストーン”と呼んでいたわ」
「ネビュラ……星雲?」
「ええ。昔、父が南半球で見たマゼラン星雲という銀河が石の色と似ていたから、その名をつけたって言っていた」
ネビュラストーン、魅力的な名前だ。私は宇宙のかなたで輝く星雲が生み出した小さな石なのだと想像してみた。
「でも、どこで採取したんだろう。隕石の落ちた領域は海だし、汚染されているよね」
「ネビュラストーンは陸で採取したみたいよ、わたしもそれしか聞いていないわ。具体的な場所は分からないし、しかも父が石を集めていた時とは、だいぶ状況が変わっているでしょうね」
「……ほかに手がかりはないのかな」
私の声がいかにも残念そうに聞こえたのだろう、璃砂は困った顔をした。
「ごめんなさい、わたしには分からないわ。家にある資料を当たってみたら?」
「そんなことをしてもいいの?」
「もちろん。それが研究の役に立つのなら、父も本望だと思う。父の成果を引き継いだ人もいないみたいだし」
「石は残っているの?」
私が尋ねると、璃砂は微妙な表情を浮かべた。
「少しだけ残っているわ。父の部屋にあるわよ。あと……」
「それに?」
璃砂は何かを言いかけたが、すぐに表情を切り替えて真面目な顔になった。
「なんでもないわ」
「……そう」
「父の部屋を案内するわね。ほら、荷物はリビングに置きましょう」
璃砂はそう言うと、私のグレーの無骨なキャリーバッグを両手で転がしながら客間へ向かった。背中に長い黒髪が流れ、動くたびにリズミカルに跳ね、緩やかな曲線をつくる。私はふと胸が苦しくなって、彼女の背から目をそらした。
璃砂の父、つまり私の叔父の部屋は大きな書棚に本や書類があふれんばかりに満ち、棚や机、窓際などの隙間のところどころに鉱物が並べられ、隙間なくものが溢れているにも関わらず、不思議な秩序に満ちた空間だった。叔父という人間の性質そのものを示すような部屋だ。
私が書棚の資料を見始めた頃、璃砂は微笑みながらその場を離れて、恐らくアトリエに戻った。数時間後に彼女が叔父の部屋に戻ってきた時、私はまだ資料を当たるのに没頭していたのだろう、彼女はいたずらっぽく私の肩を叩いて言った。
「研究者さん、何か見つかったかしら?」
その時私は、日がすっかり暮れて夕方の橙色の光が部屋を満たしており、璃砂の長い睫毛や長い髪を金色に縁どっていることに気がついた。まるで光に彩られているようで、現実離れした美しさに引き込まれそうになる。
「……時間を忘れていたわ。すっかり日が暮れてしまった」
「それで、参考になるものはあったのかしら」
私は自分の読み散らかした資料や本を見渡した。
「いいえ、どちらかというと、この辺りに記載されているものは手掛かりにならないってことが分かったわ」
璃砂は私が読んだ資料の量を見渡して言った。
「ねえ、暫く家に泊まっていったら? 短期間で全部見るなんて、不可能だわ。もしもネビュラストーンに該当する文章があったとしたって、全部を網羅するのは相当時間がかかるはずよ」
突然の申し入れに、私は躊躇した。
「でも、私、研究が途中だし……」
「調査はここでできるでしょう。機材を使う実験は大学に戻らないとできないかもしれないけど、未灰の大学は関東圏だし、そんなに時間はかからないはず」
言われてみればその通りだ。それに、私は教授が使っていた車をそのまま引き継いでいるから、大量の水を使って正確に計測することはできないが、その前の段階の調査はできる。大学の施設を使うのは、論文に掲載するための数値を引き出す時だけで差し支えないのだ。それに大学は夏休みに入っており、忙しい時期ではない。私は研究室に断りを入れ、何日間か宿泊させてもらうことにした。
叔父の日記や論文を一通り漁ってみて分かったのは、璃砂の伝えてくれたこと、つまりネビュラストーンが巨大隕石の一部らしいこと以外は極めて曖昧だということだった。部屋に残っていた石はわずかで、本棚にあった手のひら大の石のほかは、小瓶に入れてあった青い粉末に「ネビュラストーン」というラベルが貼ってあったもの、あとは鉱物サンプルの中に入っていた小さな切片だけだった。
貴重なサンプルを研究に使うのは躊躇したけれど、私はサンプル内のかけらを砕いて再び実験に使ってみることにした。実験は汚染された水を使うので少しずつ人体に影響があるから、璃砂に影響が及ばないように車の中で実施することにした。大学の機材を使うわけではないから小規模の実験しかできなかったけれど、ネビュラストーンはやはり効果があった。
「海のアトリエ」での生活は快適だった。寝室に使わせてもらった客間には、璃砂の絵がかかっている。1メートルほどのその作品は丸い形をしていて、全体がさまざまな濃度の青い色で塗られていた。絵の円形は海につながる船窓や、宇宙船が外界を覗くための窓を連想させる。繊細に移り変わる青のグラデーションは、まるで細かく移り変わる璃砂の表情を映しているようだった。
晴れた日には庭先から海を眺めた。魚影が途絶えた海を見るのは悲しかったけれど、白い砂浜と周辺の木々の蒼色のコントラストがきれいだったし、海から届く風は爽やかで気持ちいい。璃砂の家は市街地からかなり離れていて、庭先の家庭菜園やビニールハウスからは小さなトマト、キュウリやナスなどが収穫できた。季節になれば、市販のものよりは酸っぱいが、イチゴやサクランボなどもとれるそうだ。
「お肉とか魚とか、お米なんかは宅配で頼めるけど」
自家製のハーブをちょきちょきとハサミで切りながら、璃砂が言った。青臭い匂いが新鮮で心地よい。
「珍しいものが食べたければ、遠出するしかないわね。璃砂はごはんとか、どうしていたの?」
「私はあんまり気にしなかった」
「でも、食べないとやっていけないんじゃない?」
私はしぶしぶ答えた。
「実は私、料理は苦手なのよ。朝は簡単なもので、昼と夜は学食で済ませていたの」
15年前の災害以来、便利な栄養ドリンクやレンジで温めれば一食分になる便利な冷凍食品が出回り、こだわらなければいくらでも作らずにすむようになっていた。
璃砂は私が料理に苦手意識を持っているのを悟ったようで、にっこり笑って言った。
「それは多分、自分のためにつくるのがつまらなかったせいだと思う」
「……そうかな?」
「わたしもそうよ。最初は父のためにつくっていたけど、そのうち自分のためにつくるようになったら簡素になったわ」
「でも、今、ちゃんとしたものを作ってるよね」
「それは未灰がいるからよ」
その日の夕食はセージとトマトのパスタと豆腐のサラダ、ズッキーニの冷製スープにイチジクのゼリーだった。野菜は濃くてしっかりした味だったし、パスタとサラダはあっさりした味、スープはまろやかでどれも滋味豊かだった。おいしくないわけはない。だが私は食が進まなかった。
「未灰は食が細いわね。よかったら、もっと食べてね。わたしの料理はあんまりおいしくないのかもしれないけど」
「とてもおいしいと思う。でも私、胃が小さくなっていて」
「そう? でも、未灰、自分の体をあんまり大事にしてない感じがするから、もっと気をつけてほしいな」
実のところ、私の体は、だんだん一定量以上の食事を受けつけなくなってきていたのだ。
これはストレスや年齢のせいではなく、研究室の周囲の人が倒れていったのと同じ理由、つまり汚染水を経由して新有害物質に触れているせいだろうと推測していた。私はあと何年くらい、この研究を続けられるのだろう。全く食べられなくなり、体力がなくなってしまう前に、一定の成果を出しておきたい。私はその思いでいっぱいだったから、私の顔を覗き込む璃砂の目の前で軽く笑ってみせた。
「問題ないわ。未灰の好きにしたらいいと思う」
「本当に?」
「当たり前でしょ。父も未灰に使ってもらえるのなら本望だと思う。やってみないと分からないし」
そう、やってみないと分からないのだが、やってみて分かったのは、他の石では効果はないということだった。恐らく浄化作用があるのはあの青い石、ネビュラストーンだけなのだ。無駄だということが分かった後、私は気分転換に璃砂のアトリエに赴いた。すると彼女はアトリエの屋外に出て、真剣な眼差しで作業をしていた。話しかけてみたけれども返事はなく、目の前の出来事に没頭しているようだった。私はあきらめて璃砂の作業に見入った。
目の前には大きな紙があり、彼女はそこにホースで水をまいたところだった。紙は丈夫なようで破れたりしない。よく見るといろいろな種類の繊維が紙の地肌に浮き出ており、和紙のようだった。璃砂は紙の上に溜まった水に淡墨を流し、そこから生まれる筋をじっと見つめていた。
墨は水中をわだかまったあとでほどけて広がり、ランダムな文様を織り成す。モノクロの模様は地図が静かに広がっていくように見えたかと思うと二頭の馬が向かい合って走っている姿にも見え、また蝶が羽を広げているようにも見えた。ふと、ずいぶん昔に心理学の授業で目にしたロールシャッハテストのインクのしみを思い出した。
璃砂はその様子をまばたきもせずに見つめ、傍らにあったスケッチブックに描きつけている。その横顔は白く凛としており、のめり込むように墨の模様を見つめる眼差しは熱く、少し開いた唇はつややかで、どこか妖艶ですらあった。
やがて墨がすっかり水に溶け込み、それ以上動かなくなった。璃砂は再び水を撒いて紙の上から洗い流した。すっかり片付けると彼女はアトリエの中に入ってこようとして、既に中にいた私の影に気づいた。
「未灰、そこにいたのね、気づかなかった」
璃砂が笑顔で私に言う。さっきの表情とはうって変わって無邪気な表情で、私はほっとしたような、すこし残念なような気持で答える。
「ええ、制作風景を見ていたわ。さっきは何をしていたの?」
私が尋ねると、璃砂は後ろを振り返って言った。
「水の軌跡を見ていたのよ。松煙墨を使ったから、墨だと真っ黒ではなくて、少し青みがかって見えるでしょう。だから松煙墨は別名、青墨っていわれるの」
確かによく見ると墨は黒よりも青灰色に近く、透明な水の中で複雑な色味の軌跡を描いている。
「あれを見てインスピレーションを得て、自分の中で描きたいもののイメージをつくってから絵を描くの」
璃砂が指さした絵は床においてあった。大判の絵や小さめの絵など複数あり、どれも私の部屋の寝室のように空か海を描いているようだが、あるものは真夏のからりと乾いた空、あるものは季節の変わり目の青灰色の水流を表しているようで、少しずつ絵の表情が違っているのだった。
「さっきの模様を見て、絵を描くのね」
「そう、わたしは岩絵の具やアクリル絵の具を使って描くから、油絵具の作品みたいにイーゼルに立てかけて描かないの」
「這いつくばって描くの?」
「そうね。なんだか大地や海に向かって描いているような気持になることもある」
私はカンバスと対峙するのではなく、紙を同化するように描いている時の気分を想像した。きっと描いている紙に加え、描いているモチーフと一体化するような気持ちになるだろう。
「画材は粒子がそのまま残るから、触るとざらざらしてるでしょ」
私は彼女の絵を近づいてよく見た。絵の表面はざらついて、小さな粒子や大き目の粒がむき出しになって見える。
「なんだか私の好きだった海や砂浜をそのまま紙に映しこんだみたい」
そういうと、璃砂はにっこり笑って言った。
「わたし、自分の絵の評価はどうでもいいんだけど、見た人が自分の好きな景色を思い出せる絵にしたいと思っているの。だから私は、未灰が過去の海の姿を思い出してくれたら、とても嬉しいわ」
青の絵たちは私が15年前に見た海の姿、もう戻らない夏の日を象徴しているようだった。
ある朝のこと、起きてからいつものように璃砂の絵を眺めていると、青のグラデーションが昨日の夜に見た時と違っているような気がした。光の加減かと思ってカーテンを閉めて電気をつけたり、カーテンを開けて太陽光を入れたりしたけれど、やはり昨日見た色よりもずっと暗く、夜の帳が下りた瞬間の闇色の割合が増えている。
私は窓際から目を凝らしてみた。すると濃い青と薄い青の境界部分や、波打ち際のような白っぽい部分が、少しずつ動いているような気がする。もっと近寄って見ると、盛り上がった絵のざらざらした粒子が移動していた。青い画材をそっと指で押さえてみると、一瞬の波動を感じる。私は部屋を出て、ふらつきながら璃砂のアトリエへ向かった。
アトリエはがらんとしており、璃砂はまだ起きていないようだった。私は床に置かれた絵を見つめた。床に置かれたものは明らかに未完成で、白い余白が浮き出ていた。壁に立てかけられた作品は完成したもののようだった。
絵の前にいると、海の前にいるような気がしてくる。絵に近づくと、海に入ろうとしているような錯覚に陥る。絵の青い色は小さく波打っていて、打ち寄せる音すら聞こえてくるような気がして眩暈を覚えた。
私は子どもの頃に一度、海の中で溺れかけたことがある。足を海藻に取られ、浮上できなくなったのだ。焦りと苦しさの中で一瞬気が遠くなったけれど、気を失う直前に見た海中の風景は怖いくらいに青く透き通っていて、無音の世界は限りなく魅力的だった。直後にライフセーバーが私に気づき、引っ張り上げてくれて事なきを得た。絵はその溺れかけた時の風景、私の心象風景と実際の風景が入り混じった景色を想起させ、その時の苦しさを蘇らせた。酸素がなくなり、血が熱くなり、頭がぼうっとしてくるあの感じ。思わず手を目の前に延ばすと、私の手をとってくれる人がいる。璃砂だった。
「どうしたの? 音がするからこっちに来たけど、気づいてよかったわ。まだ朝早いのに、こんなところに座り込んでいたら、体に悪いわよ」
幻想の中でおぼれかけていた私は、彼女の声を聞いて安堵し、暗い海から地上へと一気に引き上げられたような気がした。
「……私の寝室に、璃砂の絵がかかっているでしょう」
「ええ。あれは私も気に入っている作品よ」
「美しい絵だと思う。だけど今朝、画材が動いているような気がした。だからアトリエに来てみたんだけど、この絵もやっぱりそうだった」
私の言葉を聞いても璃砂は驚かなかった。黒目がちな瞳を輝かせ、真剣なまなざしでこちらを見つめてくる。
「もしかしたら、私の気のせいだったのかな……」
私の呟きに、璃砂はかぶりを振った。
「いいえ、気のせいなんかじゃない。この絵は動くの。正確には絵ではなくて、絵に含まれる絵の具の素材、つまりネビュラストーンが動いているんだけど」
璃砂の言葉の意味が、すぐには分からなかった。頭が熱く、意識が朦朧とする。座っている姿勢を維持することもできない。璃砂の手が私を抱き寄せ、やさしく触れている。画家の繊細な指が私の髪をそっと撫でる。意識の遠くで璃砂が喋っている。
父は秘密にしていたけれど、わたしは父とお医者さんとの会話を聞いて知ってしまったの。
ショックだった。悲しかった。でも、同年代の子よりも極端に疲れやすかったし、授業も休みがちだったから、なんとなく納得した気がする。ああ、わたしはもうすぐ死ぬんだって。
そんな時、あなたが来てくれたのよ、未灰。
あなたは背が高くてすらりとしていて、短い髪や瞳は色素が薄く、ルーカス・クラナッハの絵の中の女性みたいに冷たい官能を湛えていた。浅い色の瞳に見つめられると、なんともいえない気持ちになって、体の芯が熱くなったものよ。クールで理知的な話し方も、同年代の男子よりずっと素敵だった。
あなたはわたしと違って体力があり、毎日のように海へ行った。肌質のせいで日焼けせずに赤くなるだけだったけど、流線形の体のシルエットはきれいだった。パラソルの下にいることしかできなかったわたしに、珍しい貝やきれいな石のありかを教えてくれたっけ。
そしてあなたは小さな怪我をした。白い肌に赤い血のコントラストが鮮やかで、わたしはあなたの血を思わず舐めてしまった。赤い液は濃厚で、しょっぱいけれど甘美な味がした。あの後あなたは何事もなかったように振舞っていたから、わたしもそれに従ったけれど、気持ちを抑えるのはとても大変だった。あなたは災害でこの家に引き留められたけれど、不謹慎な話、とても嬉しかったわ。
あなたが自宅に戻った後も、わたしはあなたを忘れられなかった。あなたへの想いを別のものにぶつけるために絵を描き始めたんだけど、わたしは海を描きたくて、そのための色が欲しかった。持っている画材だと、思うような色が出せなかったから、わたしはネビュラストーンを使ってみることにしたの。画材には昔からいろいろなものが使われていて、有名なところではヨハネス・フェルメールが『真珠の耳飾りの少女』の女の子が頭に巻いているターバンの青色にラピスラズリを使っているし、日本画の岩絵の具でも戦時中に煉瓦を砕いて好みの赤をつくった人もいるのよ。
ともあれ青い画材をつくりだすことができたんだけど、わたし、細部を描くときに面相筆を舐めて毛先を揃えるくせがあるの。筆を舐める度に、ネビュラストーンが体の中に入ったんでしょうね。絵を描く中でわたしは、自分の中にいる別の存在を意識するようになった。石の量が少ないと、なんとなくざわめきを体感するだけなんだけど、画を描く量が増えるに従い、石はわたしと対話できるようになった。
最初に呼びかけられたのは、確か夢の中だった。明け方にうとうとしていると、急速に、唐突に、さまざまな記憶と感情が押し寄せてきたの。喜び、悲しみ、不安、驚き。夜明け前の混乱した夢かと思ったけれど、不思議に意識はクリアで、これは普通の夢ではないと悟った。目を閉じたまま爆発的で混乱した感覚に身を任せていると、暗闇の中で青の細かい粒子が集まって緩やかな曲線を描き、人の形をとった。そしてわたしに話しかけてきたの。
果たして相手が何者なのか、わたしはいまだに分かっていない。ネビュラストーンは鉱物だから、知性鉱物と呼んでいるけれど、本当に鉱物と言えるのかどうか。だけど名称なんかそんなに重要じゃないし、相手も自分について知ってもらうのはどうでもいいみたいで、他のことを知りたがった。
絵の制作が進むにつれて、わたしの中に蓄積される知性鉱物も増えていった。それにつれて彼らは言葉や思考が明瞭になり、わたしの知識に直接アクセスできるようになったようだった。
聞くところによれば、知性鉱物たちは15年前に飛来した巨大隕石の一部として、別の銀河からやってきたらしい。高い文化を誇っていた彼らの故郷の星は、隕石群の衝突によって分散してしまい、隕石の一部となってばらばらに四散したとのことだった。
それは悲しいわね、とわたしが言うと、知性鉱物はぽつりと言った。
恐らく同意したのだろう。それは寂しい共感だった。
せっかく対話できるようになったけれど、わたしは自分がそんなに生きられないことも知っていた。だからわたしの身体が病に侵されていること、もうすぐ全てが止まって対話もできなくなるであろうことを伝えると、知性鉱物が言った。
―修正する方法なんて、わたしには医療知識もないのに、どうやって知ったの?
そう尋ねると、知性鉱物は答えた。
知性鉱物が学んだ正常な細胞というのは、未灰、あなたが流した血だった。
彼らの言葉は本当だったわ。わたしの体の悪い部分は消え、健康になった。父は喜び、主治医は祝福しながらも首をひねっていたわ。
未灰、今のあなたとわたしは15年前とは逆の状態になっていて、つまりわたしが健康で、あなたが病に侵されている。しかもあなたの病は治りようがないから、わたしが命をあげようと思う。わたしの命とわたしの絵の中にある海、わたしの想い、わたしのすべて。それらはあなたが15年前の夏にくれたもの。だからそれらを返したい。
ああ未灰、あなたの体は昔から細かったけれど、更に華奢になったわね。脱力した腕や首は白くて血管が透き通るみたいで、少し痛ましいわ。わたし、今朝、自分の中の知性鉱物に話しかけてみたの。
―わたしの命はあなたたちが与えてくれたものだけど、もともとあなたたちは未灰の正常な身体から知識を得ているはず。わたしが生きているのは彼女のおかげだから、お願い、彼女の命を助けてあげて。
構わない、とわたしが言うと、知性鉱物は静かに言ったの。
それは実際の音声ではなく、私が彼女の心の声に共鳴したのかもしれない。
私の乾いた唇に、柔らかくて温かい何かが押し当てられた。それは私の唇を押し広げ、熱いものを流し込んだ。液体のようなそれは私の体の芯にとりつき、揺さぶり、共振する。その時、私の記憶が、意識が、自我が、液体と結びついて溶け合う気がした。璃砂のものと思しき記憶が私の中で展開した。生まれた時にさかのぼり、体温でしか覚えていない母の映像。はじめて父に抱き上げられた時の喜び。他の子どもたちと遊んだ時の草の匂い。15歳で出会った未灰、つまり私。ずっと忘れられず、会って伝えられればと思っていた彼女、つまり私への想い。再会するとともに、情念も再開する。璃砂の中で花開いた感情が、今、この時をもって私の中に入ってくる。私の体は炎のように熱くなり、次の瞬間には氷のように冷たくなった。やがて羽のように軽くなり、すべてが遠のいて……。
気づけば私はアトリエで倒れていた。さきほどまで霞がかかっていたようだった意識はこれまでになくクリアになり、重かった体は軽快に動き、どんな場所にでも行ける気がした。身を起こし、周囲を見渡してみると、唐突に事は起きた。昔のあらゆる記憶が嵐のように呼び起こされた後、私に語りかけるものがあった。それは私の意識の中で青い軌跡を描いて輝き、やがて人の形をとった。性別も顔もなく、特徴を表しづらいけれど、とてつもなく鋭敏な知性の塊に話しかけられたような感覚だった。
―君は誰だ。
しかし、知性鉱物の願いとは何だろうか。私に叶えられるものだろうか。
時は満ちた。だから私は、彼女の創造の源泉だった衝動に名前を与えようと思った。
私は砂をそっとすくい上げようとした。繊細な色味の砂の粒子は細かくて、触れるとはらはらと散ってしまう。掌から零れ落ちる粒子と、指先についた青の粒子を見つめながら、私は泣いた。15年ぶりの涙は砂と混じりあい、淡青色の流れとなってアトリエの片隅を彩った。その模様は、璃砂が創作のインスピレーションの源にしていた水の軌跡を思い出させた。
私は、私の中の知性鉱物と、いなくなった璃砂に心の中で話しかけた。
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