めめ
絵馬掛所に、「め」と書かれた絵馬がいっぱいに掛かっている。どれも同じように「め」と書いてあるが、その半数近くは鏡文字になっていた。
この神社の絵馬は少々変わっている。向かって左側の文字が鏡文字になっている「めめ」の絵馬、その裏に願い事を書き、二つに割るのだ。そして右側の絵馬を掛け、左側は持って帰る。願いが叶ったら、お礼参りの時に左側の絵馬を掛ける。
そんなことを思い出しながら、荒海亨志郎(あらみきょうしろう)は絵馬掛所の前で立ち止まった。鏡文字の札がやけに多いのが気になったのだ。お礼参りする者が随分多いのだな、と思いながら亨志郎は手を伸ばして鏡文字の絵馬を一つ手に取り、裏返そうとした。そんな時に、後ろから声をかけられた。
「人のお願い事を盗み見ようなんて、ちょっと無粋なんじゃないかな」
振り返ると小さな女の子がいた。小学校四、五年生くらいだろうか。大きな垂れ目でこちらを見上げている。確かに可愛い子だが、いたって普通の子供だ。それなのに、何故だろう。享志郎は、少女から視線を外せなくなった。そのまま、少しの間、見つめ合う。
「まあ、読んでもどうせわかんないけどね。半分しかないんだもん。ねえ、半分しか書いてないお願い、神様はどうしてわかるんだろうね?」
少女が小首をかしげて聞いてきたので、亨志郎は我に返った。瞬きをして、視線をそらしてから、少し考えて答えた。
「さあ、目の神様だしな。お願い事でもなんでも、お見通しなんじゃないか」
「今日はどうして来たの。お参りで願い事? それともお礼参りかな」
さてはあまり人の話を聞かない子供だな、と思いながらも、享志郎は答える。
「両方、かな」
「ふうん、まあなんでもいいけどさ、先にうちに来てもらわないと困るんだよね。なんで素通りするかなあ」
少女は腰に手を当てて、怒ったような顔で享志郎を見上げてくる。言われたことの意味がわからなかったので黙っていると、少女は重ねて言った。
「丏(めん)の湯。泊まるでしょ」
そういえば、今日泊まる予定の旅館がそんな名前だったような気もする。
「まったくもう、わざわざ迎えにきたんだからね。感謝して欲しいな」
「……ううん、そいつはありがたいな」
チェックインの時間にはまだ余裕があったと思うのだが、こう言われては仕方がないので享志郎は謝意を示した。少女は満足そうに頷くと、享志郎の腕を捕まえて引っ張った。
「じゃあ、早く行こうよ、享志郎」
「ええ? ちょっと待って、お参りさせてよ」
享志郎は、ちらりと社に目をやった。ここまでくればすぐそこだ。鈴緒を引いて手を合わせる間くらい待っていてくれたっていいではないか。
「だめ、後で」
少女はそう言うと、神社とは逆の方に歩き出す。仕方なく、亨志郎は引っ張られるままに任せた。石の鳥居を一つ潜り抜けたあたりで、ふと、疑問の声を上げる。
「そういや、なんでおれの名前を? というか、なんでおれが宿泊客だってわかったの」
享志郎がそう問うと、少女ははたと立ち止まって、腕をしっかりと捕まえたまま無表情に享志郎の顔を見つめた。その揺らがない目に一瞬、切実な感情が満ちた気がして享志郎はたじろいだが、すぐに少女は表情を一転させて、にっと口角を吊り上げた。
「さあ、なんでだろね?」
少女はそう言って、ぱっと手を離した。早足で享志郎の前を進んでいく。それを追いかけながら、享志郎は考える。この子が旅館の関係者ならば、宿泊者名簿を見れば名前くらいはわかるだろう。だがそれでは享志郎が宿泊客だとわかった理由にはならない。
「ねえ、あたしの名前」
しばらく考えながら歩いていると、不意に少女が言った。ちらりと振り返った後また前を見て、ぽつりと呟く。
「李(すもも)」
一拍置いて、それが少女の名前だと理解したから、享志郎は口を開いた。
「李ちゃん、ね」
「ちゃんはいらない。李って呼んで」
「李」
「うん」
李は返事をして、それきり振り返らずに歩き続けた。子どもの相手は苦手ではないつもりなのだが、どうにも気難しい子のようだ。
享史郎はサングラスをずらして、李の後ろ姿を見た。パステルピンクのパーカーと淡い紫のキュロット。走りやすそうなスニーカーはキラキラと光を弾く水色。最近はこういうのが流行りなのだろうか。妹が小学生だったころはもっと大人しい服装をしていたように思う。
両側を木々に囲まれた参道を歩いていく。目洗いの井戸の横を、目薬の木の陰を通り過ぎて、李が軽やかな足取りで石段を下りていく。肩より少し長い髪が、一段降りる度にさらりと揺れるのを見ながら、享志郎はゆったりと足を動かした。
寂れた田舎町は、記憶と大きく変わりはしない。だからこそ、見知った道から一本逸れただけで現れた奇怪な建物に驚いた。
ごちゃごちゃとしていて、まるで仕掛けを解いている途中の寄せ木細工のようだった。ステンドグラスの張られた古い洋館を、艶々とした黒木の日本家屋を、色鮮やかな中華建築を、無理にかき集めてくっつけたかのようだ。街中の旅館一つにしては広い敷地を占有しているようなのに、これだけ詰め込まれているとせせこましく感じる。
曲がり角に面した玄関は、かろうじて普通の旅館のような体裁を保っていて、唐破風の下に金字で丏の湯と書かれた木製看板が掲げられている。しかし、旅館のそこかしこに丸っこい字で「め」「目」「眼」と書かれた提灯が下がっているから、どこを見たって異様な事には変わりなかった。
こんな所にこんな旅館があっただろうか。ここ数十年で建てられたものではなさそうだが、近所に住んでいた自分がこの旅館を知らないというのはどうしたことだろう。視野の狭い子どもの頃だったから見落としていたのだろうか、そんな馬鹿な。そんなことを考えつつ享志郎が旅館を見上げている間に、李は玄関の戸をからりと引き開けた。ただいまー、と言いながら中に入っていく。
看板を見上げて立ち尽くす。こんな妙な旅館に自分は泊まるのか。不思議だという以前に、不気味だから入りたくない。
「何やってんの、入りなよ」
戸の隙間から半分顔を見せた李が急かしてくるので、仕方なく享志郎は玄関の戸に手をかけた。いったい自分は、どうしてこの旅館に泊まろうと決め、どうやって予約したのかを思い出そうとしながら。
大正浪漫、といった風情の玄関ホールの床は赤絨毯が敷き詰められており、入ってすぐの位置に白孔雀の描かれた屏風が置かれていた。そこらに置かれている、目が縦に並んで三つ大きく描かれている張り子のお面や、眼球を象った水晶等の異様な飾り物を見ながら、今からでも予約を取り消せないかと考える。その間に、李はスニーカーを土間に脱ぎ捨てて駆け出し、出迎えてきた人物に抱きついていた。
「パパ、ただいま、連れてきたよ」
「おかえりなさい」
それだけ言って、その男は李の頭を撫でながらこちらを見た。その目に何か違和感を覚える。男はあっさりと李から身体を離してこちらに歩み寄って来ると、ようこそいらっしゃいました、と言って深々と頭を下げた。
男が顔を上げる。それを見た享志郎は、先程の違和感が何だったのか理解した。その目には瞳孔が二つあった。右目にも左目にも瞳が二つずつ、重ならずにあるのでどこを見ているのかわからない。
「荒海様ですね。お待ちしておりました」
男がにっこり笑ってそう言ったから、享志郎は曖昧に挨拶を返した。じろじろ見てしまった自覚があるので気まずい。生まれつきなのかは知らないが、瞳孔が二つある人も世の中にはいるのだろう。
「私、この宿の番頭でございます。なんなりと、お申し付けください」
なるほど、言われてみれば男の服装はそれらしかった。髪を丁寧に撫でつけて、着物を着て、前掛けをつけている。四十代くらいだろうか。細身で神経質そうな外見をしている。李にはあまり似ていない。
「お疲れでしょう。お部屋にご案内します」
そう言う番頭に荷物を預け、靴を脱いで旅館に上がった。番頭の後を追って右に左に何度も曲がり、中庭沿いの太鼓橋を超えているうちに、自分がどこにいるのか、どの方角を向いているのかわからなくなる。足元にまとわりつくように行き来する李を避けながら、傾斜の急なY字階段を登った。
歪んだガラス越しに景色を見て、享志郎は茫然と立ち尽くしていた。稜線を重ねて青々と茂る山々。視線を下ろせば、透明に川が流れて、荒々しい岩の周りに渦を作っている。それはいかにも、旅館の窓から見えたら気持ちいいであろう典型的な景色だった。
「すごいでしょ? うち、眺めも評判いいんんだよ」
「どういう仕組みだ?」
李の言葉に問いを返しながら大きな窓に手をかけたが、嵌め殺しのようで開かなかった。
この辺りに川など無い。山だってこんなに近くには見えないはずだ。窓から見えるものなんてせいぜい中途半端な高さの集合住宅くらいのはず。この部屋に来るまでに四階分しか階段を昇っていないのに、この高さはどうしたことだろう。まるで十階の高さから見下ろしているようだ。
「いいからいっぺん座りなよ。落ち着きないなあ」
李がそう言ったから、障子を閉めて窓を隠してから、李の向かいの座椅子に座った。
部屋まで奇妙だったらどうしようと心配していたのだが、案内されたのは落ち着いた雰囲気の畳張りの角部屋だった。それで安心して窓の外を見た途端に、混乱させられる羽目になったのだが。
「一個食べる?」
そう言って、座卓の上に置いてあった缶を差し出される。その中には「め」とだけ書かれた金太郎飴がぎっしり詰まっていた。
「いや、遠慮しとく」
「大丈夫だよ、お客さん用のだし、これは本当にただの飴だから」
別に、ただの飴ではない心配はしていなかったのだけれど。
李がお行儀悪く右膝を座卓の上に乗せて、身体をこちらに乗り出してきた。そして手に持った飴を口の前に差し出してきたから、反射的に口を開いてしまった。舌の上に乗った飴はほのかに甘く、薬草のような香りがする。
「ね」
李がそう言って、目を細める。享志郎は口の中で飴を転がしながら、問いかけた。
「あの窓は、なにか細工がしてあるのかな」
「そんなのどうだってよくない?」
李はもう両膝を座卓の上に乗せてしまっていた。膝立ちになって右手を伸ばし、人差し指で享志郎の鼻の先に触れる。
「見えたってどうせ触れないんだから、無いも一緒だよ」
「でも、おかしい、こんな所に川があるなんて」
「おかしくないよ。おかしいことなんて、何一つ無いんだから」
鼻先に触れた指が鼻梁をなぞり、眉間でサングラスのブリッジに当たる。その動きを目で追っていると、李は指一本で器用にサングラスを掬い上げた。両手でサングラスを持ち直して、煌々と光る電燈に濃いグレーのレンズを透かす。それに満足すると、サングラスをかけた。李の顔には大きさがあっていない。
サングラスを支える小さな手が、享志郎は気になった。その手の甲に一筋、切れ目のようなものが見えたのだ。享志郎の視線の動きを知ってか、李がくすりと笑う。
「気になる?」
李はサングラスを押し上げて頭の上に置くと、そのまま右手をすっと下ろして、パーカーのファスナーに手をかけた。そしてあっさり引き下ろすと、パーカーを座卓の下に脱ぎ捨ててしまった。
キャラクターもののTシャツ一枚とキュロットだけになった李は座卓の上にぺたりと座り込んで、膝と膝の間に手を置いた。その手には、腕には、切れ目がびっしりと入っている。それを見て、何か背筋にざわりと逆立つような、嫌な予感が走った。
「享志郎にだけ、特別に見せてあげるね」
どくどくと跳ねあがる享志郎の心音をあざ笑うように、ゆっくりと、李の手の甲の切れ目が開いていく。膝に隠れて良く見えない、と思っている間にも、李の腕の切れ目は、下の方から順番に開いていく。開いたその下にあったのは人の目だった。まつ毛だけを抜かれたような目が、上下も左右もバラバラに李の腕の上にある。それぞれが意思を持つように好き勝手に視線を動かして、ずれたタイミングで瞬きをした。
Tシャツの袖で隠れる位置まで、全ての目が開いた。頼りなげな首筋も、固そうに浮き出た鎖骨も滑らかなばかりだったから、腕一面に広がった異常性にあてられてくらくらする。
「ね、触ってみてよ」
李がねだるように右手を差し出してくる。享志郎の額に汗がにじむ。触れてはいけない。それがわかった。本能がガンガンと警鐘を鳴らしているのに、どうしてか衝動に逆らえない。享志郎は、震える手を李に伸ばした。
掌を上にして差し出した享志郎の手に、李の小さな手が置かれる。享志郎の手が、がくりと大きく揺れた後、李の手を柔く握った。親指を動かして、李の手の甲にある目に触れる。享志郎がまぶたを撫でる間、目は薄く開いて享志郎の顔を見つめている。
唾を飲み込む。歯に当たってカラカラと鳴る飴を奥歯で噛み締めれば、ギシリと音をたてて口の中に強い甘みが走る。気付けば、色も大きさも二重の幅も違う無数の目が、享志郎をじっと見つめている。
その中でも一層キラキラと光る目が、李の顔の上の方にお行儀よく並ぶ目が、ずい、と享志郎の眼前に迫ってきて、たった二つで享志郎の視界を独占した。
「ほら、何もおかしくないじゃん。触ってみれば、怖くないってわかるでしょ」
青みを帯びて冴えた白目、こげ茶色に網を張ったような虹彩、その中心に落ちてしまいそうな程に真っ黒な瞳孔があって、そこに自分の姿が映っている。享志郎はぼんやりと、昔聞いた話を思い出していた。合わせ鏡には悪魔が映りこむ。鏡を合わせるように瞳を向かい合わせれば、知らず知らずのうちに悪魔の姿を見ることになる――――。
「大丈夫だよ。悪魔は鏡からでてこれないんだから」
李が言う。吐息が口元にかかる。触れ合ったままの手の、親指の下で、まぶたの下で、眼球が動くのを感じる。なんだか急に、その動きが、必死に存在を主張するような蠢きがいじらしく思えて、享志郎は繰り返し親指の腹でまぶたを撫でた。
そうしながら、真っ向から、李の瞳を覗き込む。そこに映る自分の姿にももう気を取られない。ただただ、深く暗い孔の底を探して、そこに何かがないかと繰り返しさらってみるけれど、どこまで行ってもひたすらに暗いばかりだった。それに深い安心を覚えて、瞬きすら忘れた。目の表面が乾ききってしまうかと思う程の時が流れた頃、李が言う。
「ねえ、享志郎。何かおかしいかな」
一瞬、何を言われたのかわからなかったが、そういえばそんな話をしていたと思い出して答えた。
「何もおかしくない」
おかしいことなど何も無い。そんなことより、もっと近くで目を見せて欲しい。目と目が触れ合ってしまうくらい、互いの目の孔が繋がってしまうくらい近くで見せて欲しい。そう、思うのに。
「そうでしょ? わかればいいんだよ」
李はそう言うと、あっけなく身を引いて、座卓から降りた。パーカーを拾い上げて腕に引っ掛け、部屋から出て行こうとする。置いていかれる形になった享志郎は、慌てて声をかけた。
「どこ行くの」
「飽きちゃった」
そう言って、襖を開けっぱなしにして出て行く。軽い足音が廊下を遠ざかって行く。そうかと思えば足音が戻ってきて、李が上半身を斜めに襖から出した。
「あたし忙しいから、いつまでも享志郎と遊んでらんないんだよね。享志郎も暇なら、お風呂でも入ってくれば?」
そう言う口元に当てた手にも、着崩したパーカーが引っ掛かる腕にも、やはり沢山の目が浮き出ている。その全てが、ぱちんと同じタイミングで閉じて、また開く前に、李は襖の陰に身を隠してしまった。そして、今度こそ足音は戻ってこなかった。
享志郎は座卓に頬杖をついて、李が姿を消した後の襖をじっと見ていた。今はもう、腕一面に浮き上がる目などどうでもよかった。ただ、李の顔に嵌まり込んだ目の玉を、毛細血管が走って青みを帯びた白目を、複雑に絡んで見える虹彩を、黒いばかりの瞳孔を、もう一度間近に見たいと、それだけを考えていた。
ぼんやりと天井を見上げて、そこから垂れ下がる白い鍾乳石を眺める。風呂の場所を番頭に訊いたら地下に案内された。広く暗い地下洞窟の中に、青白い湯の川が流れている。間違いなく絶景だが、露天風呂を期待していたので少し残念だった。
蒸気に裸身を晒した享志郎は、背中を擦る手拭いの感覚からも、背後にいる人物からも意識を逸らそうとしている。そして、その試みは上手くいっていなかった。
「へえ、それで妹さんの為に」
つい先程、柳と名乗ったばかりのその女性は、木製の椅子に座る享志郎の背後を陣取って、柔らかく艶を帯びた声で言葉を投げかけてくる。内心の動揺を押し隠しながら、享志郎は返事をする。
「ええ、酷い怪我だったんですけどね。それでも綺麗に治りましたから、やっぱりご利益覿面だなあ、と」
「トリノメ様にお参りした方は、皆さんそう仰いますね」
トリノメ様。目の神は、地元の人間にそう呼ばれている。トリノメ様の御利益は眼病平癒のみならず、身体の健康全てに及ぶのだという。なんでも、死者を蘇らせたという伝説まであるらしい。正直言って享志郎は地元の人間の信心深さに辟易している類の子供だったので、そんな伝説を信じていなかった。
しかし溺れる者は藁をもつかむというのか、七つ下の妹が事故にあって死線を彷徨った時は、流石の享志郎も神に強く祈った。あるいはそれは、逃避だったのかもしれない。妹が数分後に命を落すかもしれない病院にいたくなくて、走って、走って、神社に至り、気も狂わんばかりに祈った。妹の命が助かるなら、何を犠牲にしたってかまわないから、どうか、どうか。
「それじゃあ今日はお礼参りですか」
「え、ええ、そうですね」
極端な方に傾きそうになった思考が、柳の声に引き戻される。そうすると今度は、背後が気になってしょうがない。肩に、温かいお湯がかけられる。柳が、手桶に汲んだお湯を享志郎の身体にかけていく。ちらりと振り向くと、短めの裾から覗く真っ白な脚が見える。歳は三十くらいだろうか。今まで見たこともないような綺麗な人だ。絹糸のような長い黒髪を後ろでまとめている。白い衣を纏い、袖を赤い紐でたすき掛けにまとめている。
李の言う通りに風呂に来たまでは良かった。問題は、享志郎が身体を洗っている時に浴場に入ってきた柳だった。背中を流そうという柳に困惑して何度も断ったのだが、柳はこれが仕事だからといって聞かなかった。
肩に濡れた手拭いをかけられ、その手拭い越しに、ひたりと手が乗せられる。その手にまた心を揺さぶられて、享志郎は口を開く。
「雪乃が……ああ、雪乃って名前なんですが。妹が、高校生まで大きくなれたのは、トリノメ様のおかげだと思ってます、けどね」
「けど、どうしたんです」
「最近どうにも、調子が悪いみたいで」
それはいけませんね、と柳は言う。そして享志郎の肩を小刻みに叩きながら、続けた。
「お医者様には見て貰ったんですか」
「色んなとこに行ってみてるらしいんですが、原因がはっきりしないみたいで。精神的な問題だろうとも言われたらしいんですが……」
まるで事故の後遺症が今になって出てきたのかのような、そんな調子なのだ。
「それでお参りにいらしたんですか」
「ええ、来年受験だっていうのに、あれじゃかわいそうですからね。まあ、おれがこんなことしたってなんの足しにもならんでしょうが」
「いいえ、お兄さんがお参りしてお願いすれば、きっと良くなりますよ」
柳はそう言って、今度は享志郎の肩甲骨の窪みに親指を入れて揉み解し始めた。素肌に指が触れるのが落ち着かなくて、享志郎は柳を止めた。
「あの、もう結構です」
「まあまあ、折角ですから」
「いや、本当に」
上体ごと振り返って、柳の顔を見据える。不思議そうに瞬きする柳の目は、白目の部分が無く、一面ひたひたと濡れた黒曜石のように揺れる光を湛えている。一瞬気を取られたが、享志郎は毅然と声を上げた。
「もう、十分です」
「……そうですか」
残念そうに言って、柳は腰を上げた。白い衣全体が水気を吸って、細身ながらしっかり起伏のある身体に重く張り付いている。
「湯で目を清めるといいですよ。ここのお客様は、お参りの前に皆さんそうされます」
そう言った柳が浴室から出て行って、享志郎はやっと息を吐いた。相手にしてみれば日常の仕事の一部でしかないというのに、どうしてこんなに緊張しなくてはならないのか。自分一人が狼狽していたのが滑稽に思えて、享志郎は姿勢を丸めた。
夜になったので寝ようと思った。旅館の中庭だけでなく、相変わらず川が流れている窓の外ももう真っ暗だったから、夜に違いなかった。
「李、もう寝るから」
帰ってくれ、と言外に訴えるが、そんな遠回しな言葉は通じそうになかった。絢爛な赤い錦の布団の上に寝っ転がって、パジャマ姿の李が少女漫画を読んでいる。もう夜だと言うのに、パジャマの半袖から覗くいくつもの目は、ぱっちりと開き切って到底寝る気が無さそうだ。
「李」
「今いいとこだから」
そう言って李がページをめくる。享志郎は布団の傍にしゃがみ込み、李の手から漫画を取り上げた。
「いいとこなら、自分の部屋でじっくり読んで」
「もう寝るの?」
「夜だからな」
「ここからが楽しいのに」
李は漫画に未練を示すことなく、ただ享志郎を見上げてくる。その視線の真っすぐさに、享志郎は思わず左手で顔の左半分を覆った。
「なんで隠すの?」
「なんでって、そりゃあ」
もう左目の義眼を外してしまっているから、あまり見られたくないのだ。もう寝ようと思って支度をしているところに李が押し掛けてきたせいで、普段人に見せない姿をさらしてしまっている。
「そういえば、サングラスはどうしたんだ」
「サングラス?」
「昼間、李が持っていっちゃっただろ」
「知らない」
知らないことは無いだろうに、李は動じた様子も無く上体を起こして、享志郎の顔を覗き込んでくる。
「色眼鏡も、偽物の目もいらないじゃん。そんなの無い方がずっといいでしょ」
享志郎が着ている浴衣の襟を掴んでいる李の、くるりと動く目に見惚れた一瞬の後、李は立ち上がった。そして右手を差し出してくる。享志郎は数秒の逡巡の後、李の手の上に少女漫画を乗せた。
「じゃ、おやすみ」
李はひらひらと少女漫画を振って見せながら、部屋を出て行く。案の定襖は開けっぱなしだ。仕方なく立ち上がって襖を閉めた享志郎は、胸元に違和感を覚えた。懐に手を入れる。入れておいたはずの義眼が、入れ物ごと無くなっている。
「……手癖の悪い」
義眼なんて持っていってどうするつもりなのか。今からでも追いかけていって取り返そうかとも思ったが、急に疲労が滲んできて、そんな気持ちはすぐに消えてしまった。明日取り戻そう、と決めて、享志郎は寝ることにした。
暗闇に、ぴかり、ぴかりと光っている。目を瞑ってもまぶたの裏にその光がちらついて、苛々と寝返りを打つ。体は疲れ切っているのに、神経がささくれ立って眠れやしない。目を開いて、しばらく部屋を眺める。いつまでもそうしていても眠気がやってくる気配がないから、苛々と髪をかきむしりながら上体を起こした。そして障子の方を見やる。
障子には、ぴかぴかと光る目が、ずらりと並んでいる。障子を縦横に区切る木枠の、その中心一つ一つに目が一対ずつ。困ったように眇められたものや、にこにこと笑うようなもの、怒りとともに見開かれたもの。眉もない目だけだと言うのにやけに個性豊かに見える。そしてそれらが、瞬きもせず、ずっと享志郎を見ている。こう見られていては、眠れるものも眠れない。
享史郎はふらふらと起き上がって部屋を出た。一階に行って番頭に苦情を言おうと思ったのだ。しかし、そこまで行く必要は無かった。部屋を出て廊下を少し行ったところで、見回り中なのか、手持ち行灯を持った番頭に行き当たった。
「番頭さん、丁度良い所に」
「おや、何でしょう」
「目が、障子に目が出るんです」
「ええ、出ますねえ」
「困ります」
「困りますか」
番頭は相も変わらない営業用の笑みを浮かべている。どうにも意図が伝わっていないように感じて、享志郎は言いつのった。
「追い払ってください。ああ見られていては眠れません」
「ええ、ええ、お望みの通りにいたしましょう」
番頭はやっと得心がいったといった風に二度頷いて、すたすたと廊下を歩き出した。それに着いて行くと、享志郎の部屋につく。
真っ暗なままの部屋に入ると、相も変わらず目はぴかぴかと懐っこく光を放って、番頭など居ないかのように享志郎の方ばかり見てくる。
番頭は障子の前に立つと、手持ち行灯に手を突っ込み、蝋燭を取り出した。火のついたそれを鷲掴みにしたまま、無造作に障子に近づける。たちまちのうちに火は障子に移り、端から紙を燃やしていった
無数の目は一様に怯え、それぞれが住まう格子の枠の中を暴れまわったが、なすすべもなく燃えていく。それを見ているうちにだんだん可哀想になってきて、享志郎は呟いた。
「何も燃やさなくても」
「おや、追い払えと仰ったのは荒海様では」
「……何も燃やさなくても」
障子全てが火に包まれて、暗い部屋を赤く照らし出す。火は障子以外には広がらなかったが、何時まで経っても燃えている。燃え続ける火の中で、ぴかりと光る異質な光が、炎の中でブレて暴れては少しずつ消えて行く。
「まあ特に役にも立ちませんし、燃してしまって勿体ないということもありませんよ」
「そういう心配をしているのではないのですが」
「昔は集めて眼医者に持っていくと、それなりの値段で買い取って貰えたのですが、最近はどうもねえ」
まったく話が噛み合わない。ふと見ると、番頭がいまだ握っている蝋燭から蝋が滴って、番頭の手を伝っている。熱くないのだろうか、と心配している間にも、番頭は言葉を続ける。
「そうそう、あんな屑ばかりいくらあっても仕様がありませんが、ご存知ですか。ご自身の顔から目を取り出してトリノメ様に捧げると、願いを叶えてくれるそうですよ」
まるで、シールを集めて店に持っていくと皿が貰えるそうですよ、とでも言ったかのような気軽さであった。何と答えてよいか迷っていると、番頭は享志郎の顔を見て、恥ずかし気に苦笑した。
「いや、こんなこと、荒海様はとうにご存知でしたね。余計なことを申しました」
「いえ、知りませんが」
「おや、そうですか」
「そんな風習があるんですか」
この辺りに住んでいた享志郎も、聞いたことの無い話だった。
「ええ、まあ最近は、目を捧げものにしようという人もめっきり減ったようですが。ほら、神社に捧げる絵馬に、めめ、と書いてあるでしょう。あれは、なにも本物の目を供えることはあるまい、字に書いたものでもよろしかろうと、そういう料簡で始まったのです。ケチなものですねえ」
なるほどそうかと、享志郎は納得した。絵馬というもの自体、元々は本物の馬を供えていたそうだから、同じようなものだろう。
「トリノメ様のお社に絵馬を掛けるときの作法をご存知ですか。こう、はじめに絵馬の片側をかけて」
「ああ、それなら。お礼参りの時に左側の方を掛けるんでしょう」
「ええ、お礼参りを怠ると、お願い事もなかったことになってしまうそうですから、気をつけなくてはなりません」
「本来は、お礼参りの時に残った目を差し出す……そういう慣習だったということですか」
享志郎が問うと、番頭は事も無げに言った。
「私はてっきり、荒海様も目を捧げにいらしったものかと」
「はは、いやそんな……」
なかなか過激な冗談を言う人だ。そう思ったすぐ後に、自分の目のありさまを思い出して、苦く笑みを浮かべながら左手の平で顔の左半分を覆った。
「残念ながら、ご覧の通り目が一つしかないもので。捧げものとしては不足でしょう」
「何を仰るやら。その右目さえ差し出してしまえば、それで終いではないですか」
番頭は、やっと蝋燭を行灯にしまった。その時にぽたりと落ちた蝋は、そのまま畳の上で固まった。障子の火が、少しずつ消えて行く。享志郎の額に、じわりと重い脂汗が浮き上がる。
「終い、とは」
「そのままの意味ですよ。荒海様の左目は既にトリノメ様に捧げたのですから、あとはお礼参りに行けば良いだけでしょう」
「何か、誤解してませんか。おれのこの左目は、高校生の頃に質の悪い病で失って、ただそれだけですよ」
「いいえ、誤解などとんでもない。荒海様は以前もここにお泊りになって、トリノメ様にお参りに行かれたではないですか。」
番頭は享志郎に向き直って、二つずつある瞳孔をきろりと動かした。享志郎はまるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなって、そして固まった身体の奥に、なにかすとんと落ちるものがある。石のように強張った顎を動かして声を出した。
「そう、そうでした。おれはその為に」
「ええ、そうでしょう。お忘れなきよう」
享志郎は、ぼんやりと番頭の襟元を見た。番頭は畳みかけてくる。
「他に御用はございますか」
「他には何も……」
ガンガンと揺れる頭を抑えているうちに、思い出されたのは李のことだった。
「ああ、いや、そうだ、李……おたくの娘さんのことですが」
「何でしょう」
番頭は相変わらずの笑みを浮かべている。障子は紙の部分だけが大量の目ごと塵と消えて、後には木枠だけが綺麗に残っている。もしや、へたに告げ口をすれば李は酷い仕置きをされてしまうのではないだろうか。そう思い至って、享志郎は言い淀んだ。
「いえ……何というか」
「何か盗られましたか」
「まあ……はい」
「そうですか」
「李に返すように言っておいてもらえませんか」
「申し訳ありませんが、私からあれに言えることは何もありません。盗られたものが大切なら、ご自身で取り戻すが良いでしょう」
呆気にとられた。父親なら、娘が盗みを働いたら諌めるのが当然だと思うのだが。
「盗られたものは、大切なものでしたか」
「……いえ、そうでもないですが」
確かにそう言われてみれば、無くても困らない気がした。そうだ、明日になれば右目も抉ってしまうのだから、左目だけ埋めたとて仕様がない。
「それでは、他に御用が無ければ」
「待ってください」
酷い疲労感に襲われて今すぐにでも座り込んでしまいたいくらいだったが、このまま終わるのは何か腑に落ちなくて引き留めた。なんでしょう、と問われて、言葉に詰まる。部屋をぐるりと見渡して、布団に目を止めた。
「布団の色が赤、というのはどうも、寝辛くて。普通の布団があれば変えてもらえませんか」
「布団の色、ですか。何色ならよろしいのですか」
「普通でいいんですよ。白とか」
「目を瞑ってしまえば、布団の色などわからぬでしょうに」
番頭はそう言って、クスリと笑った。馬鹿にされた気がして享志郎は気色ばんだが、文句を言う前に番頭が制して言った。
「いえ、もちろん、仰る通りに。後ほどお持ちしますので、少々お待ちを」
番頭はそう言って、さっさと出て行ってしまった。まったく、初めは似ていない親子だと思ったが、嫌みな口ぶりは妙に似ている。
枠だけになってしまった障子に近づいて景色を見る。星々がやけに眩しくて、これなら目が光っていた時と変わりなかったな、と思う。
先程の番頭の言葉を反芻する。どういう事情があるのかはわからないが、あまり仲のいい親子ではないのかもしれない。そう思うと、李の事が少し心配になった。しかし、享志郎にできることは何もない。
明日はお礼参りにいかなければ。そして、この旅館に戻ってくることは無い。
「どこいくの」
「お参り」
「だめ」
李がTシャツの裾を引いてくるけれど、気にせずに廊下を歩いて行く。
「だめってことはないでしょ。初めからお参りに行くつもりだったんだから」
「だめだよ。だって、右目、あげちゃうつもりでしょ。あげちゃったら、もうここには来れなくなるんだよ」
李が享志郎の腕に抱き着くようにして、享志郎の顔を見上げた。
「もうあたしに会えなくてもいいの」
泣き出しそうなくせに、眉をきゅっと吊り上げて言う。あたしは怒っているんだ、勝手に出て行くなんて許さない、と自分の権利を主張するその目。
「……ごめんな」
享志郎は李の腕を振り解いて、また歩いて行く。雪乃もよくあんな目をした。享志郎が妹を置いて友人とちょっとした夜遊びに出かけようとした時。そんな時妹は決まって熱を出して、享志郎が世話をする羽目になる。そのくせ享志郎が出歩くのを諦めた途端に、けろりと治ったりする。
享志郎はいつも良い兄だったから、父も母も家に居つかない日々の中で、妹の腕を振り解いて出かけたのはたった一度だけだ。そしてその一度が招いた事態を、享志郎は何百回と悔やんだ。
ホールに辿り着き、下駄箱から靴を取り出す。玄関でしゃがみ込んで靴を履いていると、首元がグッとしまった。李が、後ろから首に腕を巻き付けているらしかった。
「李、これじゃ出かけられないよ」
声をかけるが、李は一層強く享志郎の首を絞めつけるばかりだ。仕方なく、享志郎は李の気が済むまで動かないことにした。少々の息苦しさに耐えてしばらくしたころ、李はやっと腕を緩めた。そして涙声で呼ぶ。
「享志郎」
「なに」
享志郎が優しい声音で問いながら僅かに振り向くと、李は力任せに享志郎の顔を掴んで自分の方を向かせた。突然の事に首の痛みを覚えるよりも先に、李は享志郎の右目にキスをした。柔らかい感触がまぶたに触れて、享志郎は呆気にとられる。
李は顔を離すと、先程の涙声などなかったかのような無邪気な笑みで問いかけた。
「ねえ享志郎、一体どこに行くつもりなの」
「どこって、神社にお礼参りに」
「何のお礼参り」
「何って」
何の、お礼参りだっただろうか。確か、誰かの健康を祈って。誰か。誰かって誰だ。
「思い出してからでもいいんじゃない?」
痛む首を抑えて考え込む享志郎の腕を李が取った。ご機嫌な様子の李に引っ張られて立ち上がって、旅館の中へ連れて行かれる。
ホールを出るところで振り返ると、いつのまにか番頭がいて、享志郎が履き損ねた靴を持ち上げていた。靴を下駄箱に仕舞い込む番頭と一瞬目が合ったような気がしたけれど、瞳孔の多い目は焦点がどこにあるのかわからず、何の感情も読み取れなかった。
中庭に出ると、縁台に座っている李と柳が見えた。最新式の携帯ゲームに熱中している李の髪を、丁寧に柳が編み上げている。複雑に編みあがっていく髪は、李が着ているレモンイエローの肩だしワンピースによく合っていた。李は大変な衣装持ちのようで、享志郎がここにいる間毎日服を変えている。いったい何十着持っているやら、服に関心の無い享志郎には想像もつかない。もう享志郎は服装を変えるのも面倒になっていて、毎日を旅館の浴衣で過ごしている。
柳はというと、いつも通り薄い生地の着物を緩く着て、低い位置に帯を巻いている。享志郎は二人に近づいていって、声をかけた。
「今日はどこまでいった?」
振り返った李は自慢げにゲーム画面を見せて来た。それを覗き込んで、享志郎は感嘆してみせる。
もうちょっとだから動かないでくださいね、という柳に従って、李はゲームを降ろした。残った髪をピンでとめた後、よくお似合いですよ、と言いながら柳が手鏡を李に渡す。李は念入りに髪を確認した後、享志郎を見上げて言った。
「かわいい?」
可愛いよ、と享志郎が答えると、李は満足そうにふふん、と笑った。そして享志郎を縁台に座らせて膝の上を陣取ると、ゲームの続きに取り掛かった。そうかと思えば、思い出したように柳を見上げて言う。
「ねえ柳、あたし甘いものが食べたい」
柳が目を細めて微笑んで、それじゃあお八つにしましょうか、といって立ち上がった。その後ろ姿を見送って、享志郎は庭を見渡した。
相変わらず、季節感の無い庭だった。外観からは到底信じられない程広い旅館の中にある庭だけあって、途方もない程に広い。油断すれば迷ってしまいそうなその庭に、ぎっしりと押し込めるように花が咲いている。梅に芍薬。錦鯉の泳ぐ池の淵には白いツツジに寒椿。モミジが赤く染まる隣に桜が咲き、そのすぐ下を桔梗の群れが埋めている。
そこに吹く涼しい風を感じながら、膝に乗っている体温の温かさを抱きしめる。あまりにも穏やかで、可笑しいくらいだった。享志郎は随分長い間、この安寧に浸りきっている。何か大事な事をまた忘れている、という焦りが胸の内側をひっかいているのに、それを無視してここまで来てしまった。
享志郎が長く息を吐いて、どこまでも高く見える青い空を見上げた時、どこか遠くから、ザキリ、ザキリと音が聞こえた。
「あれ、何の音だろ」
「庭師が花を切ってるんだよ」
李が興味無さげに言った。なるほど剪定か、と享志郎は頷いた。
「見に行ってみよう」
「えー、別に面白くないよ?」
文句を言う李を宥めて膝から下ろす。音のする方に享志郎が歩いて行くと、李はゲーム機を縁台の上に置いて後を追ってきた。
紫陽花が咲き誇る小道を歩いて行くと、ザキリ、ザキリという音がどんどん近く、鋭くなっていくように感じられる。
白い紫陽花の陰からそっと覗くと、作業をしている後ろ姿が見えた。庭師、という言葉から想像していた姿とは少し違ったから、享志郎は戸惑った。確かに黒い乗馬ズボンや、腰から下げた鉈や鋏などの刃物の数々は庭師らしかったが、短めの髪は真っ黄色だったし、青地の羽織や地下足袋は女物のような鮮やかな和柄で、ぱっと見はとち狂った歌舞伎役者のようだった。
その色彩感覚の狂った庭師は、一抱えほどもある鋏を器用に操って、大きく咲き誇る酔芙蓉の花を豪快に切り落としていた。まだ桃色に染まり切らないような花を次々と落としていくと、花を落とした茎のすぐ隣から見る見るうちに新しい蕾ができあがり、初めの花とは比べ物にならない程の大輪の花が咲く。それが見る間に赤く染まっていくのを見ながら、享志郎は勿体ない気がしていた。少しずつ淡く染まっていく花を見るのが、享志郎は好きだった。
また一つ花を落して、不意に庭師が振り返った。目が合った。目が合ったのだと思う。何しろ目が六つもあったので、どれと合ったやらわからない。通常の位置にある目の上、本来なら眉毛がある位置に一対。その上の額に一対。その六つの目の、白いはずの部分は光を通さない黒をしていて、黒い瞳孔は金環のような虹彩に縁どられている。服装だけでなく目まで派手とは念のいったことだ。
庭師は六つの目を見開いて固まった。そうかと思えば、鋏の刃をこちらに向けたままずんずんと歩み寄ってきたので享志郎は恐怖した。咄嗟に李を背にかばった所で、庭師が目の前に立つ。鋏の刃が享志郎の眼前に迫る。
「享ちゃん?」
庭師は、呆けたような声で言った。そして声色を一転させて続ける。
「え、まじで? 享ちゃんじゃん。ひっさしぶり!」
享志郎は困惑した。こんな派手で柄の悪い人間に知り合いがいただろうか。
「鋏、下ろしてもらえませんか」
享志郎はそう言った。悪い悪い、と言って庭師が鋏を下ろす。その顔をまじまじと見て、享志郎はぽつりと呟いた。
「お前、翔太か」
「なんだ、今頃気付いたのかよー。オレだって」
解るわけがあるか、と享志郎は内心で思った。最後に会った時はお互い高校生だったし、翔太はその頃明るい茶髪で、目は二つしかなかった。そういえばその頃から眉毛は無かったが、学ランの下にはいつも派手な色のシャツを着ていた。あの頃は耳だけにいくつもピアスをつけていたのに、今はこめかみや唇にまでピアスをつけている。
「お前、派手になったな」
「そっかな。享ちゃんは相変わらず地味だね」
翔太は六つの目を動かして、享志郎の頭から足先までを眺め下した。後ろから浴衣を引かれてそちらを向くと、李が不機嫌そうに問いかけてくる。
「何、知り合い?」
「高校の時の同級生だよ」
高校二年生の冬に会ったのが最後だったと思う。翔太が何度目かの停学中に失踪して以来だ。それからどうしているのかと心配もしていなかったが、きちんと働いているようで何よりだ。
「翔太、お前ここで働いてんの」
「そう。まあここだけじゃなくて、いろんなとこ回ってんだけどさ。どうよ、オレの作った庭」
「ああ、どうりで悪趣味だと思ったよ」
酷くね? と言って、翔太はケラケラと笑っている。翔太の派手好みがあまり趣味に合わないのは確かだったが、この庭全てを貶すのは本意ではなかったので、享志郎は小さな声で続けた。
「しかし、まあ……よくこれだけ綺麗に咲かせられるもんだとは思うよ」
「だろ!?」
翔太は途端に嬉しそうな大声を出して詰め寄り、肩を掴んできた。こうやってすぐに調子に乗るから、あまり褒めたくなかったのだ。
そこから翔太がとめどなく話しかけてくる。享ちゃんは今何やってんの。高校見た? 随分綺麗に改装されてたっしょ。オレ? 昔から花は好きだったよ。えっ、高林もう子供二人もいんの。
もう飽きたから戻ろう、と言って手を引く李を宥めながら、享志郎は翔太と会話を続けた。
「そういや妹ちゃん元気?」
翔太のその台詞を聞いて、サンダルの先で地面を抉っていた李が顔を上げた。
「妹? おれは一人っ子だよ、知ってるだろ」
享志郎がそう言ったと同時に、李は享志郎の身体にもたれかかった。
「享志郎、あたし疲れた。お腹痛い」
「え、大丈夫?」
享志郎はしゃがんで李の顔を覗き込んだ。部屋まで歩けるか、と訊くと歩けない、と答えたので抱き上げる。
「じゃあ翔太、とりあえず戻るからまた」
そう言って立ち去ろうとする享志郎を押しとどめて、翔太が言う。
「いやいや、いたでしょ妹。なんか七コか八コくらい下の。超可愛がってたじゃん」
「誰かと勘違いしてる」
「してない」
翔太は固い声で言うと、一気に冷え切った表情のまま李を見下ろして続けた。
「李ちゃん、今日のカッコどしたの。カワイイね。お姫サマみたいじゃん」
「は? 別に、いつも通りだけど?」
李は享志郎の首に腕を巻き付けて、刺々しい声で返した。李の腕に浮き出た目は一様に目を細めて翔太を睨み付けている。密着してきた李を抱えなおしながら、享志郎が言う。
「翔太、李お腹痛いって言うから後で」
「嘘に決まってんだろ、解れよ」
言葉を無くす享志郎をよそに、翔太は李に詰め寄る。
「盗んだろ。返せよ」
「意味わかんない」
「記憶返せって言ってんだよ泥棒猫」
睨み合う。享志郎は各々の険しい顔を交互に見ながら立ち尽くしていた。しかし李の垂れ目から大粒の涙が零れるに至ると、慌てて腕の中の李を隠すように身体を背けた。
「翔太、いい加減にしろ」
「泣きマネしてんじゃねえよ」
「やめろって、翔太!」
享志郎の肩に顔を埋めてすすり泣く李に、翔太が掴みかかろうとする。揉み合ううちに、李が享志郎の腕から飛び降りた。翔太の頬には一筋赤く線が入っている。李に引っ掛かれたらしい。
山茶花の垣根をすりぬけて走り去っていく李を、鋏を地面に投げ捨てて翔太が追いかける。口汚く罵り合いながら走っていく二人を享志郎も追いかけたが、中庭の構造を知り尽くしている二人には到底追いつけず、すぐに見失った。そんな時に、呑気な声がかかる。
「荒海さん、お茶がはいりましたよ」
柳だった。垂れ下がる藤を無造作にかき分けながらこちらに歩いてくる。享志郎は肩で息をしながら、すがる思いで柳に言った。
「柳さん、大変です、翔太が李を追っかけてっちゃって」
「え、ああ、大丈夫。あの二人仲が良いんですよ。よく鬼ごっこしてます」
「そんなんじゃなくて、本気でキレてますよあれは」
「大丈夫ですって。叱ってくれるのは外から来るあの庭師さんくらいのもんだから、お嬢さんも嬉しいんでしょう」
柳がのんびり言うから、なんだか勢いを削がれてしまった。ほっとけば落ち着いて戻ってきますよ、という柳の言葉を信用して、のこのこと着いて行くことにした。
最初に座っていた縁台に戻った。出された茶をすすり、茶菓子を黒文字で切る。
「この餅に入っているのは……ゴボウですか」
「そうなんです。お嬢さん、これ、好きなんですよ」
「へえ、渋い趣味してますね」
「ふふ、美味しいですよ、食べてみてください」
促されて口に入れると、確かに美味かった。甘い餅の味と、ゴボウの素朴な香りが混ざり合って心が和む。そよそよと風が吹いて、花盛りの木々を揺らして行く。
「荒海さん、この旅館は気に入ってもらえましたか」
縁台の隣に座った柳が問い掛けて来たので、享志郎は答えた。
「そうですね、とても良い所です。ずっと居たいくらいですよ」
「ずっと居てください。そうしてくれると助かります。荒海さんが来てから、お嬢さんは本当に嬉しそうですから」
「はは、まあちょっとした遊び相手くらいにはなってますかね」
「ええ、充分です。お嬢さんが本当に欲しいのは、きっとそれだから。……寂しいんです、どうしようもなく」
柳はすっ、と顔を上げて享志郎を見た。作り物のように整ったその顔があまりにも真剣だったから、ドキリとさせられる。享志郎はこめかみを掻きながら答えた。
「寂しいったって。柳さんも、番頭さんもいるじゃないですか。おれなんかが居なくたって」
「そんなことありません……私、思うんです。こうして一緒の場所で暮らして、一緒にお八つを食べて。なんだか家族みたいだなって」
「家族、ですか」
「ええ……違いますか。家族って、こういうものじゃないんでしょうか」
どうだろうか。享志郎の両親は、あまり家にいる人達じゃなかった。父親は遠くに単身赴任していたし、母親も夜勤やら何やらで家を空けることが多かった。享志郎が大学に入るのと同時に家族で父親の勤務地近くに引っ越してからは顔を合わせることも多くなったが、だからといってすぐに会話が増えるということもない。
そういえば、あの時自分は何故一人暮らしをせずに家族の引っ越しについて行ったのだろうか。そもそも地元で働くことに拘泥していた母が何故急に父親と暮らす気になったのか。何か理由があったに違いないのだが。
「……荒海さん」
気付くと、柳がすぐ近くにいる。享志郎の手を取って、間近に見つめて来る。磨かれた黒曜石のような、水気を帯びてひたすらに真っ黒な瞳。
「お嬢さんを見てると、なんだか昔の自分を見ているような、そんな気がして。私、思うんです。私がお嬢さんにとっての母に、姉の替わりになれたらって。そしてそこに、優しいお兄さんがいればどんなにかって。お願いです。ずっと、ここに居てくれませんか」
このまま頷いてしまっても構わないのではないかと、そう思った。何か問題があるだろうか。何も思いつかない。何も思いつかないけれど、胸の内がやけにざわついて、このまま受け入れることを許してくれない。享志郎は、そっと柳の手を解いた。
「……すみません、おれ、やっぱりあの二人呼んできます」
「荒海さん」
「あいつら全然来ないし、折角のお茶も冷めちゃいますから、ね」
空になった皿と湯呑を縁台の上に残して立ち上がる。追いすがる柳の視線を背に感じながら、早歩きで立ち去った。
迷っている。咲き誇る花々のむせ返るような香りの中で、行き場を見失っている。沈丁花と金木犀と梔子を並べて咲かせた馬鹿はどこのどいつだ。暴力的なまでの甘い香りのせいで呼吸もままならない。
駆けまわってあの二人を探すけれど、花まみれの庭は広すぎて、自分がどこにいるのかもわからなくなる。李はどうしているだろう。翔太に虐められていないだろうか。
切れる息の合間に、他愛もないことを思い出す。昔、享志郎が可愛がっていた野良猫が殺されたことがあった。高校に居ついていた懐っこい錆猫が、ある朝駐輪場に吊るされていた。何の証拠も無かったけれど、殺したのは翔太だと皆言っていた。お前が殺したのかと、ついに享志郎は訊かなかった。
「翔太!」
「呼んだ?」
享志郎が叫ぶのと殆ど同時に、夾竹桃の茂みをかき分けて翔太が現れた。
「ねえ、オレを呼んだでしょ」
六つの目をにっ、と細めて笑いかけてくる。享志郎は額の汗を拭いながら訊いた。
「李は?」
「さあ、拗ねてどっか行ったよ。それよりほら」
そう言いながら、翔太が何か投げてきた。何とか受け取って手の中を見ると、白いプラスチックのケースがある。開けてみると、享志郎の義眼が入っていた。
「何その顔。要らなかったの」
「……いや、必要だ」
「他にも色々取り返してきたけど、要る?」
義眼を袂にしまいながら頷くと、翔太が歩み寄って来る。そして大した予備動作もなく、掠めるように享志郎の右まぶたに口付けた。享志郎は突き飛ばすように一歩下がり、唸るように言った。
「……何を」
「どう、思い出した」
翔太は悪びれた様子も無く問い掛けて来る。言われた意味がわからず黙っていると、翔太は苦々し気に顔を歪めて言った。
「享ちゃんっていつもそうだよね。やりたいって、欲しいって口では言うくせに、結局最後は人任せ。ちゃんと受け取ってよ。ちゃんと見て」
翔太がまた距離を詰めて来て、左手で享志郎の側頭部を掴んだ。艶の無い黒の中に浮かぶ六つの金色の輪が、享志郎の顔を覗き込んでくる。そして銀色のピアスがついた唇が開いて、そこから赤黒い舌が伸びてくる。その先は二つに分かれて、左右で違う生き物のように柔らかく動いている。そういえば、スプリットタンにしたいと翔太は昔から言っていた。
そんなことを考えている間に舌先が眼前に迫っていたから、享志郎は咄嗟に目を瞑った。濡れた感覚が睫毛をざらりとなぞって、小さく息を吹きかけていく。
「享ちゃんがこうしてる間、妹ちゃんはどうしてんのかな」
翔太のその言葉を聞いて、享志郎は目を見開いた。濡れた感覚が押し入ってくる。反射的に閉じようとするまぶたを翔太が親指の腹でこじ開けた。眼球の上部を二本の舌になぞられて、その細かな突起に覆われた柔らかさに、眼球の表面のゼリー質な硬さを意識してしまう。表面を剥がすように舐められているのに、何かを流し込まれているような気がした。目から流し込まれたそれは、三叉神経をとろけさせて脳に至り、ひたひたと表面を浸しては内部をかき回していく。
視界を柔らかく蠢く赤が覆っている。先の別れた舌が、まぶたをこじ開けるように眼球の上と下を撫でていく。耐え切れず享志郎が眼球をぐるりと動かすと、その目の中心が舌に触れた。その途端に削られたような痛みが走り、享志郎は身を引いた。立ち眩みのような強い衝撃に襲われて、白い花びらの散らばる地面に膝をつく。頭がぐらぐらする。視界が歪む。少しも動けずにいると、翔太が視線を合わせるようにしゃがみ込んで言った。
「どうよ、思い出したっしょ」
「ああ……おかげ、さまで」
享志郎は答えながら右目を抑えた。古い記憶が映像となってめまぐるしく脳内を駆け巡っている。
「帰らないと」
取り戻してみれば妹の記憶はあまりにも大きくて、泣きたい程に懐かしかった。
「よかった、これで一件落着だね」
翔太がそう言いながら、取り出したサングラスを享志郎の顔にかけた。
「他に盗られたもん無い?」
「多分……」
「そっかそっか、じゃあとっとと帰って大事な妹とお別れの挨拶でもするといいよ」
濃いグレーに覆われた視界で、翔太がにっこり笑った。享志郎は信じられない思いで問いかける。
「何、言ってるんだ」
「もうじき死ぬんでしょ、妹ちゃん。李ちゃんに全部聞いたよ」
「死ぬわけあるか。死なせない」
「死なせないって。どうすんの。ここの性悪のカミサマにもっぺんお願いしてみるつもり?」
享志郎が頷くと、翔太は表情を一転させて呆れ顔を作って、これ見よがしにため息を吐いて見せた。
「やめとけよ、残った視力まで持ってかれるよ……あのさあ、そうやって自己犠牲ばっかやらかして、誰が感謝してくれるっていうのさ。兄妹なんて他人の始まりだよ。結局妹ちゃんはお兄ちゃんの気持ちなんて知らずにすくすく成長して一人で勝手に幸せになって、いずれは足手まといの盲目の兄貴なんて切り捨てるのが目に見えてるっしょ」
翔太は祈るように両手を組み合わせて、全ての目を閉じた。
「オレは親友として、享ちゃん自身の幸せを願っているんだよ。李ちゃんのことなんて気にしないでここを出て、大事な右目も妹ちゃんの為じゃなくて自分の為に使いなよ」
「そ、んな、ことができるか」
享志郎はひび割れた声で言った。翔太が一番下の二つの目だけを開いて、上目に見て来る。その仕草にも苛ついた。
「おれはあの日決めたんだ、あいつのためなら何でもしてやるって」
「あの日って、妹ちゃんが事故った日の事? オレさあ、思うんだよね。妹ちゃんはあの日死ぬ運命だったんだよ。それをこれだけ歪めて引き延ばしてさ、充分でしょ。妹ちゃんもたっぷり青春を楽しんだって」
充分な訳あるか。雪乃にはまだこれから、楽しいことも叶えられる夢も沢山あるはずなのに。
「おれのせいで、おれのせいであいつは事故にあったんだ、おれが雪乃を置いていかなきゃ、あんな夜中に追いかけて来ることもなかったのに」
「そんなの享ちゃんのせいじゃないっしょ。誰のせいでもない。強いて言うなら急に飛び出した妹ちゃんと、止まれなかったドライバーのせいじゃん」
「あの日お前の誘いに乗ったりしなけりゃ」
「今度はオレのせい? オレが悪いのかよ。そうだな、せいぜいオレのせいにすればいい」
翔太はゆっくりと立ち上がって、冷え切った目で享志郎を見下ろした。
「ほんと享ちゃん変わんねえな。いつだって、悪いことの一つも一人じゃ出来なかったもんな。いつも誰かのせいに、何かのせいにしたいんだ。妹への罪悪感を自分の存在価値にして、それに縋らないと生きていけないんだろ。そんで妹のこと忘れた途端に今度は李ちゃんにかまけて? 結局享ちゃんは、自分を頼ってくれる存在が欲しいだけじゃん。そろそろ自分一人で生きていくってことについて真剣に考えたほうがいいんじゃない。皆そうしてるよ。自分の価値を何かに預けて寂しさを埋めたいなら、犬か猫でも飼えばいいでしょ。ラグドールでもマンチカンでもポメラニアンでもフレンチブルドッグでも何でもいい。まじでキモいのには変わりないけど、そっちのが数倍マシだよ」
翔太は一息でそこまで言い切った。それと同時に、バラバラと音をたてて花びらが大量に落ちてきた。大きな木蓮の木の下にいたことに、享志郎はその時初めて気が付いた。
花びらの重さに打たれながら、お互いを見やって沈黙する。翔太は最後に、一つ大きく舌打ちして背を向けると、大股で歩き去っていった。
旅館内をうろついて探したが、李の姿は見つからない。仕方なく自分の部屋に戻ろうとY字階段を昇るうちに、反対側の階段の先にある襖の隙間が空いているのが妙に気になった。降りて、昇って、覗いてみれば、散らかりきった狭い和室の真ん中に、番頭が背を向けて座っている。物置なのだろうか。棚から引き落とされたらしい葛籠からは大量の古い食器や衣類、カメラや帳簿などが溢れて散らばっていた。座布団が何枚かばらばらに置かれていて、番頭の向こう側に敷かれた座布団の上に、小さな足が投げ出されているのが見える。
「荒海様」
番頭の声に呼ばれて、享志郎は驚いた。振り返りもせず、番頭がこちらに声をかけてきたのだ。
「どうされたのですか、どうぞお入りください」
番頭が振り返ってそう言う。享志郎は、質の悪い悪戯が見つかったような気持ちで部屋に踏み入った。見てはいけないものを覗き見たような気がしていた。
勧められるままに、座布団の上に胡坐をかく。享志郎の正面には足を向けて横たわる李がいて、その右側に番頭が正座している。
「李がやったんですか」
散らかった部屋を見渡しながら問うと、番頭は、李の顔を団扇で扇ぎながら言った。
「疲れて眠ってしまったのですよ。可愛いものですね」
その口調があまりにも平坦なものであったから、本気で言っているものか解らない。沈黙がしばらく続き、何か言わなければいけないのだろうかという焦りが生じてくる。その焦りを知ってか知らずか、番頭が口を開いた。
「どうされるのですか。お帰りになるのですか、留まるのですか」
享志郎が言葉に詰まると、番頭はふっ、と笑って言った。
「どちらでも構いませんよ。貴方が残ろうと去ろうと、何も変わりません。どうせ、誰でも良いのだから」
「誰でも良い、とは」
「誰でも良いのですよ、李にとっては。私でも、柳でも、貴方でも良い。私でなくとも、柳でなくとも、貴方でなくとも良いのです」
「そんなことはないでしょう。少なくとも、父親はあなただけです」
「いいえ、誰でも良いのです。父親など、それを演じられる者がいるならば、誰でも。さて、李は貴方に何を求めているのでしょうね。やはり兄でしょうか。しかし貴方の事をお兄ちゃんなどと呼び出さないあたり、案外、求めているのは恋人の役かもしれませんね。何だって同じです。所詮は飽きて捨てられるまでの子供の玩具なんですよ」
番頭が団扇で口元を隠して、享志郎を見やる。四つの瞳孔が、少しの揺らぎもなく享志郎に向いている。
「荒海様がどうするかなど、私が指図できることではありませんが。帰った方が賢明ではないですか。少なくとも、貴方の妹はまだ生きている。目玉の一つで命がつなげる。安いものでしょう。血は水よりも濃いものです。どこの誰とも知れぬ小娘よりも、血を分けた妹を可愛くは思いませんか」
「……元より、そのつもりです」
「おや、そうですか。余計なことを申しましたね」
番頭がそう言ったと同時に、李が小さく寝言を言って寝返りを打った。番頭は団扇を置くと、李を引き寄せて座布団の上に戻してやりながら続ける。
「まあ何にしろ、お好きになさるのがよろしいでしょう。気が変わって家族ごっこに参加したいと仰るなら歓迎しますよ」
番頭の手が、李の肩口をぽん、ぽんと軽く叩くその穏やかな繰り返し。享志郎には、それが李の脈拍そのものに思えた。
青白い湯に、肩を沈めている。鍾乳石の垂れ下がる地下洞窟の中にゆったりと流れる川。それに浸かれば温かく、強張った身体を緩く解きほぐしてくれる。川にむこう岸は無く、ただざらついた岩壁があった。その上方から、湯気を立てて小さな滝が流れている。
寝る前に風呂に入ろうと今日もここに来たのだが、いつもなら、背を流しましょう、冷たい飲み物はいりませんか、と言って浴場に入ってくる柳が今日は来ない。
湯で目を清めるといいですよ。ここのお客様は、お参りの前に皆さんそうされます。柳が前にそんなことを言っていたのを思い出す。
享史郎は滝に近づいていった。一歩踏み出せばもう足がつかない。顎まで湯につかり、数度手足で湯をかけば、滝の流れる岩壁に辿り着く。
享志郎は、降り注ぐ湯の端に右目を晒した。目の表面を、熱い湯が流れ落ちていく。思考はどうしようもなく混乱してどろどろとわだかまっているのに、身体は目から入った湯に洗い清められていくような、そんな錯覚を覚えた。
激しい雨の音と、強い光で目が覚めた。すっかり慣れた自分の部屋で気だるく上体を起こせば、もう意味のなくなった障子の枠、その向こうの歪んだガラス、その先では刺さるように雨が降り注いで木々を揺らしているのが見える。それだけ強く雨が降っているのに空は晴れ渡って、金色の光を熱くばら撒いている。
寝ぼけた頭のままに閃いた。今がその時だ。これを最後に見る景色にしよう。もっと綺麗な景色だって、いくらでも知っていたのだが、ぼんやりと煙る思考には、雨の流れに光が入り混じって乱反射する様が、何よりも最後に相応しい気がした。
枕元に置いていた義眼とサングラスを、右の袂に入れた。布団の上に正座して、寝乱れて外れかかっている帯を腰から引き抜く。帯の端を口にくわえて、右手の親指で右目に触れた。白目の下の部分、その弾力のある硬さにどんどん眠気が引いていく。頭の中が醒め切る前に、親指を目の際に差し込めばいい、それだけだ。
それなのに、どうしてもそれが、出来なかった。目を見開いて、白目に親指をつけたまま、目の表面がどんどん乾いていくようでヒリヒリするのに、身動きすら取れない。
「おっはよ、享志郎、何してんの」
突然、そんな声が聞こえた。李の声だ、と気付いたとたん、一気に血の気が引いた。そして、背後から首に腕が回される。李の腕に浮き上がったいくつもの目が、興味深そうに享志郎を見上げていた。
「ふうん、目、取っちゃうんだ。いいんじゃない、早くやりなよ」
李の手が、享志郎の右手に添えられる。享志郎はそれでも、少しも動けなかった。
「どうしたの、怖くなっちゃった? 無理もないよね。とっても痛いと思うし」
含み笑いしながら、李は享志郎の手の甲を撫でた。
「ねえ、前に享志郎がここに来た時。ろくに旅館にいないでさっさと神社にいってさ、簡単に左目、取っちゃったでしょ。悔しかったなあ、あたしの話なんて全然聞いてくれないんだもん。やっぱさ、享志郎、臆病になったね。大人になると、みんな怖がりになっちゃうの? それともあの時程、妹のこと、雪乃のこと、好きじゃなくなっちゃったのかなあ」
そんな筈はない。そんな筈はないのに、どうして言い返す為に口を開くことすらできないのだろう。
「いいよ、自己犠牲なんて今時流行んないよ。何もかも全部忘れてさ、ずっとあたしと一緒にあそぼ? 邪魔な記憶なんて全部、あたしが盗んだける」
享志郎の右耳の後ろに顔をすり寄せて、李はこの上なく優しく囁いた。それは、途方もなく魅力的な提案に思えた。享志郎の目の届かないところで、痛み、苦しみ、弱って、大人になりきらないまま全てを失う妹は、いつまでも少女のままだ。そしてその事すら、記憶を失くして李と遊び耽る享志郎の心には響かない。そんなことを想像して、ぐっと、喉奥が詰まるような気がした。
そんな、ことを。魅力的だと思った自分に沸き上がった嫌悪感のままに親指を目尻の裏に突き立てた。
「えー、待った待った、なんで? おかしくない?」
李が享志郎の腕を引っ張って邪魔をしようとする。そのせいで親指は抜けてしまったが、享志郎は構わずに人差し指と中指をぐっと、上まぶたの裏に差し込んだ。まぶたの裏を爪が切り裂いていく痛みと共に、激しく明滅する危険信号に似た高揚感が襲い掛かってくる。
指に絡みついた肉が、ドクドクと耳の中で鳴り響く鼓動の音と同じリズムで収縮して異物を押し出そうとする。それに反発するように、享志郎は力任せに頭蓋の裏に中指を押し込んで、中で指を曲げた。何事かを成そうとするなら、ただの一度も正気に返ってはいけない、そういうものだ。がくがくと震える顎で噛み締める帯に、目から溢れた液体が染み込んでいく。真っ赤に染まる視界に一瞬、ギラリと日の光が差し込んで、照らし出される行為の取り返しのつかなさにどうしようもなく昂った。
不満そうに唸りながら腕を揺らす李のせいで、指先の角度が定まらない。走る激痛に沿って抉っていく恍惚に、目の玉を挟み込んで引こうとする手に頭蓋が引っ掛かる苛立ちのままに、ぐちぐちと音を立てて指を差し入れ直す。飛びそうになる意識に、何故こんなことをしていたのだったかという疑問が融解して混ざりきった頭をよぎる。勿論妹の為だ。身体健全、病気平癒、可愛いあの子の幸せを。それを思えばこの程度の痛み、何としたことだろう。あの時の妹の痛みを思えば、あの時、妹はどれだけ痛かったのか、あの時、痛い痛いと繰り返す妹を抱えて茫然として、掠れたエンジン音とともに走り去っていく車が、翔太がやけに冷えた声で電話していて、救急隊員の硬い表情に、病院の白々しい電燈が、父親にいくら連絡しても繋がらず、どうしてちゃんと見ていなかったのと高い声で責める母の乱れの無い白衣と、煩いいつも子供の事なんて放ったらかしのくせにこんな時ばかり偉そうに喚きたてやがって、だから走って走って滑り込んで、神様とかいう奴の眼前に抉り取って叩きつけてやったんだ。
なんだ簡単なことだ、一度容易く成したことじゃないか、もう一度眼孔の中でちっぽけな丸い塊を掴み直して、一気に引きずり出せば、ずるりと尾を引いて眼孔から溢れ出してくる。あまりの呆気なさに思わず手を離せば、それは頬骨の辺りにぶら下がった。
「あーあ、やっちゃった……」
李が気の抜けた声で言った。李の腕が、するりと首から離れていく。享志郎は、強く噛みすぎて上手く動かない顎を無理やり開いて、帯を引き抜いた。まぶたの裏に空いた空間の痛みに霞む脳内のまま、ふらりと立ち上がって浴衣の乱れを直す。手探りで帯を締めながら、ぽつりと呟いた。
「……布団、汚れちゃったかな。やっぱり赤い方がよかったかもしれない」
李はそれに返事しなかったが、享志郎が煩わしく垂れ下がって揺れる眼球に絡みつく濡れた紐を片手で引きちぎると、あーっ、と大きな声をあげた。
「もう、どうすんのさあ。こんなとこで取っちゃって。何も見えないでしょ。どうやってお社までいくつもりなの」
李にそう言われて、はたと気が付いた。確かに困ったことをしてしまった。この前後もわからぬような有様で、どうやって神社まで行ったものか。
「李……連れてってくれないか」
「やだ」
訊いてはみたが、当然のことながら断られた。
「そうか、じゃあ、他の誰かに頼もう」
享史郎は右足から踏み出して、床の様子を探った。布団の淵の僅かな段差に怯えながら、少しずつ足を進めていく。そろそろ壁につくだろうか、と思った手が空を切ったところで、浴衣の袖を引かれた。
「……やっぱ、連れてったげる」
極めて不本意そうな声で、李が言った。
旅館の外はやっぱり雨が降っているようで、ざあざあと降り注いでは下駄を履いた享志郎の足元を濡らしていく。左手に傘を差して、液体が中途半端に乾いてべたついた右手に李の小さな手を握った。李が不満を表現するかのようにのろのろと歩いて行くから、めしいた身にも着いて行くのは容易かった。
「ね、享志郎。享志郎の大事にしてたパズルのピースを、雪乃が失くしたことがあったでしょ」
黙りこくっていた李が不意に言ったから、享志郎は戸惑いながら答えた。
「そういえば……そんなこともあったかな」
享志郎が糊付けもせず、何度も組み立ててはばらしていた五百ピースのジグソーパズル。妹がそれで勝手に遊んで、あげくピースを一つ失くしてしまったのだ。
「あれ、ほんとはね。失くしたんじゃないの。星空のパズルの、大きな赤い星がどうしても欲しくて、こっそりポケットにいれたの。あれ、暗闇で光るやつだったでしょ。電気を消した後、赤い星がキラキラ光るのが綺麗で、雪乃は毎晩パズルを眺めてた。そうしてるうちに、ほんとに失くしちゃったんだけど」
「どうしてそんなこと知ってるの」
李が、享志郎の手をきゅっと握った。暖かい。李は微睡んでいるような声で言う。
「あたしね、全部覚えてるの。雪乃が、柳が、あの娘が忘れちゃったこと、捨てちゃったもの、失ったもの、全部あたしが持ってるの。あたし、何も捨てないから。全部拾ってくるの」
「盗んだんじゃないの」
享志郎が思わずそう問いかけると、李はぞっとする程冷淡な声で答えた。
「そうかもね」
李は、ぱっと享志郎の手を離した。それだけでもう、李がどこにいるのかわからなくなる。
「ここで置いてったら、享志郎、どうなっちゃうのかな」
脅すでも、揶揄うでもない、本当に疑問に感じたことをぽつりと口に出したかのような声色だった。
「寂しくてどこにもいけなくて困っちゃう? それともあたしがいなくても歩けるの? やっぱり、あたしは、いらないのかなあ……」
李の声が、どこから聞こえるのかわからない。前から聞こえるような気も、横から聞こえるような気も、上から聞こえるような気もする。頼りない声が、ざんざ降りの雨に溶けて流れて消えてしまいそうだった。
「置いてかないで」
置いていかれたら困るのは享志郎の方なのに、李はそんな言い方をした。それを聞いた瞬間、享志郎は抜身の心臓を引き絞られたような気がした。それは紛れも無く、妹の声だった。十になったばかりの妹の、よくわからないけどこういう言い方をすれば兄は言う事をきいてくれるのだと、それを信じて疑わない声。
李がこんな声を出すのは、無意識のことだろうか。それとも李も、こうすれば享志郎が言う事をきくと思っているのだろうか。その甘ったれた信頼に耐え切れなくなって、あの夜、享志郎は妹を置いて家を出たというのに。
「戻って来る」
享志郎は思わずそう言っていた。
「妹が元気になって、大人になって、おれなんかいらなくなったら……ここに戻ってくるから」
「……前にも言ったでしょ、忘れたの。目を失ったら、見えなくなったら、もうここには戻ってこれないんだよ」
そう言われて、享志郎は何も返せなかった。しばらく雨が降り落ちる音だけが続いて、一際大きく傘を揺らした時に、李は小さく笑った。そして明るい声で問いかけて来る。
「ねえ享志郎、もしここに戻ってこれるなら、ほんとに戻ってきてくれる?」
「……戻って来るよ」
享志郎がそう言うと、李が勢いをつけて飛びついてきた。予想していなかったことに傘を取り落とし、尻餅をついた。雨で冷えた体のまま抱き着いて、早口で訊いてくる。
「ほんとに? ぜったい? 約束してくれる?」
「うん、約束するよ。絶対、戻ってくるから」
「嬉しい。ぜったい……戻ってきてね」
そう言って、李は享志郎の上で黙り込んだ。そうかと思えば、二人に降り注ぐ雨音の合間に、李が荒く息を吐くのが聞こえる。小さな悲鳴のような声に不安になって、享志郎は名前を呼んだ。
「李?」
返事がないまま、李の小さな手が、享志郎の顔に添えられる。右目の空洞の淵に触れるのは李の指だろう。ぺたぺたと束になった糸のような何かが顔に当たる感触が不快で、享志郎はもう一度呼びかける。
「李」
「じっとしてて」
そう言われたので、大人しくしているしかなかった。李の指がぐっと右の眼孔を押し広げて、糸の束を押し込んできた。その痛みを伴うくすぐったさに身動きしたいのを我慢していると、なにか弾力のあるものを押し付けてくる。流れ込んでくる雨に何度か滑ったかと思えば、急にぬるりと押し入ってきて眼孔を満たした。
丸く弾力のあるそれは、眼孔の中でぐるぐると回ったかと思うと、穴の奥に糸の束を伸ばして、何かを探すように肉をかき回した。その度に掻きむしりたくなるような感覚が走る。それに耐えているうちに、目当てのモノを探り当てた糸の束が、次々と繋がっていく。
全て繋がった、と感じた瞬間、享志郎は無意識に瞼を閉じた。そしてゆっくり開くと、目の前にいる李の顔が見えた。ずぶ濡れで髪を顔に張り付かせて、泣きそうな顔で微笑んでいる。その右目は無く、ただ真っ暗な空洞の奥にぶよぶよとした塊が見えた。
「あたし、誰かに何かをあげるなんて、初めてかも」
くしゃくしゃに歪んだ李の顔。その右目の空洞から赤黒い液体が溢れて、雨水と混ざって薄まっては享志郎の胸元に落ちていく。
「……大事にするよ」
享志郎はそれだけ言って、李の頬に右手を添えた。そして丸みを帯びた頬の上にできた生々しい空洞をじっと見つめたけれど、李が両目を閉じて頬を手に擦り付けてきたから、それっきり見えなくなってしまった。
ふと、李が着ている、濡れて萎れた服が、雪乃が昔着ていた服だということに気付く。フリルがたくさん着いて動き辛い、黒白のクラシカルなワンピース。特別な時に着るの、と言った妹が嬉しそうだったから、享志郎はただ、似合ってるよ、可愛いよ、と言って褒めたのだった。
本当は母親の趣味が滲んだその服が享志郎は嫌いだったのだけれど、そんなことも、妹はやっぱり知らなかったのだなあと思うと、どうにも可笑しくて、こっそり笑った。
「じゃ、こっからは一人で行ってね」
閉じた蛇の目傘を軽く振りながら、李があっけらかんと言った。雨はすっかり止んで、ただどんよりと雲が空を覆っている。
「着いて来てくれないの」
享志郎は驚いてそう言った。もう神社は目の前なのに。
「あたしが来れるのはここまで。ちゃんと一人で行ってよね、大人なんだから」
紛れもなく享志郎は大人だったので、渋々頷いた。李がひらひらと手を振りながら言う。
「じゃあね、享志郎」
「あっさりしてるなあ」
「だって、戻ってきてくれるでしょ」
李はそう言って、素直な笑みを浮かべた。
「あたしは雪乃じゃないから、ちゃんと待ってるけど。なるべく早くね」
「わかった。なるべく早く、戻って来るよ」
享志郎も軽く笑って手を振ると、じゃあな、と言って背を向けた。それと同時に、李の声が聞こえた。
「別に、振り返っても、いいんだよ」
どういう意味だろう、と思ったが、振り返ってもいい、と言われると、振り返れなかった。無言で考え込んだまま、絵馬掛所の横を通り過ぎる。
古びた、小さな社の前に着いた。木の段を登って、鈴緒を引けば、しゃらん、と音がする。手を打ち鳴らそうとしたところで、止めて、逡巡の後に振り返った。
拍子抜けした。そこに李はいなかった。既に帰ってしまったのだろうか。一体何だったのだろう、と思いながら社に向き直る。戸の上には巨大な絵馬が掛かっていて、大きく書かれた「めめ」の字の上に、小さめの字で奉納と書いてある。重く軋む戸を引き開けて、享志郎は中に入っていった。
一歩踏み入った社の中は簡素に見えた。奥と手前の空間を仕切るように、薄く透ける幕が下がっている。享志郎は、そっと幕を押し開いて中を覗いた。
薄暗い中に、蝋燭が、一つ、二つ、灯っている。そこら中に置かれ、掛けられた沢山の銅鏡が、揺れる火を反射し合って光をおびただしい程に増やしている。その中心に、人形が置かれている。それをしばらく見つめてようやく、それが人形ではなく、李と同じくらいの歳に見える少女だということに気付いた。その少女は、薄い布を幾重にも重ねたような赤と白の着物を着て、豪奢な造りの金の冠を戴き、身じろぎもせずに座っている。その目は、顔に巻かれた白い布で覆われている。よく見れば、着物の袖から覗く少女の手も同様に覆われていた。そしてその手首には、木の枷がはまっている。
享志郎は少女の前に座して、願いを言おうとしたが、少女が小さく首を振ったのを見て押し黙った。そして左の袂に手を入れると、そこから自分の目を取り出した。
少女が頷いて、小さな口を開く。紅を差された唇と、硬質に並んだ歯の奥に見えた柔らかそうな舌が、僅かに動いた。享志郎は迷わずに、目をその口に押し込んだ。少女は飴玉を舐めるように目の形を確かめてから、口を閉じた。
そして、少女は、苦しげな様子も無く、喉を大きく動かした。丸いままの目玉が、少女の喉の中を滑り落ちていくのを想像しながら、享志郎は目を瞑った。
地下深くで電車を待っている間ずっと、雪乃がおしゃべりを続けている。その横に立って、享志郎は時折相槌を打っていた。
大学生活に必要なものを買うから手伝って、と言われて着いてきたが、結局一人暮らし用の家電も家具も雪乃が自分で決めて、配送の手配も終わらせてしまったから、享志郎のすることは、帰り道に寄った喫茶店で苺パフェの料金を払うくらいの事しかなかった。
ぼんやりと雪乃の話を聞いているうちに、周囲のざわめきが遠くなっていく。雪乃の顔に重なって、寄せ木細工のような旅館が見えた。そうかと思えば、視界が全て占領されて、花で満ち溢れた中庭を、青白い湯の流れる洞窟を、奇妙な絵馬が掛かった神社を、次々と映し出していく。
「享くん?」
妹の声で我に返った。服を引かれて、傾いだ身体を立て直す。次の瞬間、ごう、と音を立てて目の前を電車が走り去っていった。
「危ないよ。どしたのふらふらして。どっか座る?」
「そうだね。座ってようか」
雪乃に引っ張られて行って、近くのベンチに座ることになった。すぐ側の自販機で飲み物を買ってきた雪乃が缶コーヒーとお茶を差し出してきたから、コーヒーを受け取る。温かい。
「最近享くんおかしくない? なんか悩みでもある?」
妹がそう言って、ペットボトルを両手で握りしめながら心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いや……なんていうか、約束を思い出しちゃって」
「約束?」
「うん、約束を守れっていう催促が最近しょっちゅう来るんだよ」
「約束は守らなきゃダメでしょ」
「まあそうだよね」
享志郎はため息を吐いて、コーヒーを一口飲んだ。一旦突き放すようなことを言った雪乃だが、慌てて優しい声に切り替えた。
「それが心配事なの? ちょっと待ってもらったら」
「うん、まだ早いかなあ、と思ってるから、少し待って欲しいんだけど。でもなるべく早くって言っちゃったし」
考え込む享志郎の顔を、雪乃は首を傾けて覗き込んでいる。それに気づいた享志郎は、雪乃に笑いかけながら言った。
「大丈夫、何とかもうちょっと待って貰うから」
「ほんとに? 何か困ったら相談してね」
うん、相談するよ、と言って、口元だけで薄く笑った享志郎は、雪乃の顔をじっと見た。雪乃は落ち着かなげに髪を弄りながら問いかけた。
「何、なにか変かな」
「いや……何も。ね、雪ちゃん、兄ちゃんがいなくてもやってける?」
「またそれ? 大丈夫だって、一人暮らしなんてみんなやってるし」
「そうだよなあ、雪乃しっかりしてるし」
享志郎は、額に掌を当てて項垂れた。そのまま動かなくなってしまったから、今度こそ雪乃は心配そうに享志郎の肩に手を置いた。それから何本か電車が通り過ぎて、人の姿も少なくなってきた頃、雪乃が言った。
「……ねえ享くん、やっぱお父さんとお母さん、別れるのかな」
享志郎は、のろのろと顔を上げながら答えた。
「……さあ、おれは、雪乃が大学出るまでは待つのかと思ってたけど。何、雪乃、知ってたの、父さん達の事」
「そりゃまあ大体、わかるでしょ……ごめん、こんな話、今しなくていいよね。そろそろ動ける? ほんとにしんどいなら、駅員さん呼んでこよっか」
そう言いながら、雪乃が立ち上がる。簡単なものだな、と思う。雪乃のためにここまで繕ってきた家族の体裁が、あっけなく崩れ去っていく。そしてそれは、きっとそう悪いことではない。
「いや、もう大丈夫。行こうか」
享志郎は立ち上がり、丁度来たばかりの電車に雪乃と共に乗り込んだ。乗客は少ない。椅子に座って少しすれば電車が走り出し、向かいの窓が暗く染まる。ただ正面を見る享志郎と、右隣の席でスマートフォンを触る雪乃の姿が窓に浮かび上がった。
サングラスを外す。地下鉄の暗い窓では、左目の義眼と、右目の色が違うのがわからないのが残念だ。瞬きして、享志郎の意思とは少しずれた動きをするその目を愛しく思う程に、今、雪乃の成長を、何よりも嬉しいと思う。
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内容に関するアピール
最終実作は目の話にしたいなあ、と割と早い段階から思っていて。それで、まあ、SF創作講座に妖怪ものばっかり提出してきたわけで
すから、最後も目の妖怪がいいだろう、と。そういう訳で今回は百々目鬼を中心にしました。鳥山石燕の『今昔画図百鬼』に描かれている
、盗みを働くほど腕に目が浮き出ると言う女の妖怪ですね。あと意識したのは、目々連と一つ目小僧です。
地元に目の神社があるんですけど、そこに「めめ」って書かれた絵馬が沢山かかってるんです。「め」って書いた飴とかもあって、なん
だか、とても印象に残っていたのでお話の一要素にしました。あとは東京の稲荷神社で見た夫婦狐の絵馬もお話の参考にしました。夫婦狐
の絵馬を割って、片割れを掛けて、もう片方は持って帰る。伴侶を連れていかれた狐は、必死になってお願い事を叶えてくれる、と、そう
いうことらしい。なんだか悪いことをしている気持ちになってしまいます。
あとは宮崎の方にある目の神社の由来がとても面白い。平家の勇猛な武将が敗北して宮崎へ赴任を命じられた後、敵である源氏の繁栄を
見たくないと、目を抉って天に投げた。そして目が落ちたその場所に神社が出来たそうです。どれだけ強い感情があれば、自分で目を抉る
なんてことができるんですかね。
神を題材の一つにするっていうのは、とっても難しくって。そもそも妖怪と神にどれほどの違いがあるのかっていうことも定まらない。
まあでも神がいるなら、少女の姿をしていて欲しいと、そう思います。
最初の内は、妖怪ものの小説をSF講座に出すと怒られると思ってびくびくしていたのですが、皆さん優しくてびっくりしました。SF
ってとても懐が深いものなんですね。最後まで好き勝手なことを書いて、とっても楽しかったです。ありがとうございました。
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