国桜
プロローグ.
桜の下で、少女が泣いていた。
薄紅に染まる柔らかな頬を絶え間なく流るる雫を拭いもせず、少女はただ、サンゴ色の唇を噛み締めて空色のレインウェアに包んだ華奢な肩を震わせた。
二筋の涙は少女の顎で一筋に合わさり、やがて大地を濡らす。少女の足元では黒緑の根が四方に広がって、土色の大地をがっしりとつかんでいる。
網の目のような根が区切る窪みは既に桃色の花びらが溢れ、そよ風に乗って今にも飛び立ちそうだ。けれど、少女の涙がぽたりと滴るたび、折り重なった桜の欠片は戸惑うように離陸をためらう。
黒い長髪をはらはらと春風に流す少女は十四歳になったばかり。数えで百十五歳になる。山中に咲くこの一本桜の樹齢とあまり変わらない。
傍らには長身の大人が静かに控え、継ぎ目のある肌の隙間をブルーアシードのパルスが静脈のように流れていた。自在に変わるアイノイドの虹彩は限りなく黒に近い茶。中性的で静謐な面立ちから表情は読み取りにくい。が、どこか葬送のような哀しみと、旅立ちを祝福する微笑みを湛えている。
「『……だから桜子、ぼくらはいつだってそばにいる』」
人の形をした長身は陽に灼けた首を小さく鳴らし、スキンヘッドがそっと空を仰いだ。
澄みわたったヘブンリーブルーの蒼穹は雲ひとつなく、とんびが悠々と旋回し、そのさらに上を東洋の龍を模した地球―月間鉄道が雄大な機体をたゆたせ、昇っていく。目的地の月は古来から変わらず昼間にも姿を見せ、衛星軌道を月白の複合産業宇宙港が二対、惑星の輪のごとく交差している。
束の間、プロトタイプだった遠い過去を思い、トレバーは瞼を閉じた。今の姿に、創造主はなにを思うのだろう。
「『どうか生きて、未来で……』」
桜の根元から聞こえるしわがれ声に少女は涙を流し続けていた。
トレバーは瞼を開け、青空と見事なコントラストを織りなす桜に視線を降ろし、自分の胸ほどの高さにある少女へ、喪に伏した瞳を移す。ひんやり冷たい、新しい肌の手では触れず、ただ静かに見守った。
少女自身が涙を拭い、心を決めるまで、トレバーはいつまででもそうするつもりだった。
一章.太陽と月
二〇二X年三月十九日。
都心の一角に建つ富裕層向けタワーマンションを、春先の伸びやかな朝陽が照らしていた。
街の一日は早く、捩れた六角形にインスパイアされた六六階建てデザイナーズマンションの麓では既に人々とさまざまな機械たちが忙しなく動き回っている。完成当時は国内最大の栄光を与していた青玉炭鋼硝子の美しい外観も、立て続けに大規模開発が進み、物珍しくもなくなった。快適性を重視し、戸数を減らした造りなど一般市民にはどうでもよく、最安値で数億円を超す分譲価格と相まって道行く人はほとんど見向きもしない。まるで、人間の守衛を廃し、多数のカメラと警備ボットが巡回するマンションそのものが生きた要塞で、建物に近づくだけで罪を問われると恐れているようですらある。
だからこそ、マンションの出入りが極端に少ないことを気にかける者もいない。
日付が変わった頃に一台のファミリーカーが地下駐車場をゆっくり出て以来、約八時間、要塞への往来はゼロだ。
この青い要塞を隅々まで把握しているトレバーは、遥か上階、六〇階の子ども部屋のベッド側で瞼を閉じ、後ろ手を組んでいる。モーニングコールの前にもう一度だけ、自分のOS内で監視システムのチェックを行い、そっと腰を屈めた。
「サクラコさま。朝になりました。お目覚めのときです」
「……パパ」
桜色の小さな唇が眠そうに短い単語をつむぐ。
春に咲くあらゆる花のなかでもっとも美しいにもかかわらず、謙遜し、そうっと恥じらう薄桃色の花びらがささやくような可憐な声に、片膝をつく肌色が人工睫毛を伏せた。百九十三センチある体躯はスラッとしていて、タキシード模様を描く皮膚の質感は、樹脂よりも金属質にちかい。
「ジョウコクさまはまだお帰りになっていません。ワタシは、トレバーです」
関節を滑らかに動かすと、トレバーは忠義の騎士さながら恭しく自らの胸に手をあてた。キュイーン、と甲高い駆動音に合わせてところどころ亀裂が入ったオーガスキンがかすかな光を発する。隠密行動用に肌の色を変えるための機能だが、ヒューマノイドは自身の感情をあわらすときに使うことが多い。
黄色人種から刹那、透き通ったゲルのような無色へ移ろい、再び肌に色が戻る。さきよりもやや明るい浅黄に落ちつけたのは、中性的なハリのある声を明るくするためだ。
「トレバー……おはよ」
「おはようございます、お嬢さま。“ヒューマノイドの父”たる、お父上が貴女さまの幸せを願い、特別にあしらった貴女さまだけのトレバーめです。さあ、寝る子は育つと言いますが、規則正しい生活リズムは育ち盛りのティーンにはもっと大切ですよ」
「トレバーの長口上を聞いてたらバッチリ、目がさめたよ」
機械の手を桜子の肩に置くと、空色の布団がモゾモゾと動きはじめた。昔のように頭をなでてやりたいところだが、彼女はもう十三歳。生きとし生けるものすべてを対等に考えるトレバーには子ども扱いという自覚がなくても、わきまえるべき礼節くらいは理解している。それに、誰にいちばん頭をなでてほしいか、ヒューマノイドにはよくわかっていた。
枕元に置いた着替えがすっと布団に消えるのを認め、トレバーが立ち上がってカーテンに手をかける。
「きょうは暖かくなりそうです。晴れのち曇り、雨は降らないとサテライトは言っていますが、ワタシの湿度計と勘によれば、にわか雨の可能性はじゅうぶんありますね」
「トレバーさ、いっそ気象予報士になったらー?」
グリーンポタージュ色の生地に、ヤドリギのイラストが刺繍されたカーテンを引いていくトレバーへ布団からくぐもった声が提案する。時折り、うーっとか、にゃーなどと悪戦苦闘する声も混じっている。
「ワタシの予報は正確かもしれませんが、外れない天気予報など、需要は低いでしょう」
「むー……どうして?」
布団から頭だけすっぽり出し、桜子が首をかしげた。額に汗がにじんで艶やかな黒の前髪が引っ付いている。首元に覗いたオレンジのセーターの襟がよれよれだ。
「サクラコさまは、ドジを踏まないトレバーがいたらどう思われますか」
「んー」
レースカーテンをまとめてバンドに留めると、室内へ光が溢れた。窓の外では、春先の濃いスカイブルーに筋雲がパステルカラーを添えている。蒼穹を突くデコボコの摩天楼が朝陽を反射し、南に面した桜子の部屋へ、時期尚早な光の点滅を投げかけている。
「つまんない、かな。でもそれは別でしょ。トレバーってときどき、わざと天然っぷりをだしてるじゃん。こないだって、歴史の授業してくれたとき、本の上下が逆さだったよね。それでスラスラ進めていくんだから。気づかないフリしてたけど」
「おや。ワタシはてっきり、サクラコさまがヒューマノイドばりの文字認識力を身につけたかと感心していましたのに……失礼」
トレバーが膝をついてセーターの襟を整えていると、ずるりと桜子の体が傾いだ。危なげなく腕で頭を抱きとめ、ゆっくり横にしていく。はだけた布団から片腕だけ通ったニットが覗いた。
「力、抜けちゃった」
てへへ、とはにかんだ桜子の息が荒い。トレバーが支えた体もまるで力が入ってない。
病状の進行が顕著になったのは、昨年の始めだ。有効な治療法はなく、ゆくゆく人工呼吸器の装着が不可欠になる。もって、十年。古くからある遺伝子変異疾患だった。
「さようですね。今の桜子さまは腕が三本にみえます。ワタシも一つや二つ、腕を追加していただきましょうか」
慣れた手つきでヒューマノイドが身なりを整えていく。
「えー。このままのトレバーがいい。丸っこいトレバーのほうがかわいかったけどね」
「地味に傷つきます、お嬢さま」
「だってほんとだし」
全地形対応自律機械は、桜子が生まれる前の年に完成した上国の試作機だ。球体のボディは、内部に折りたたんだ脚や腕を地形に合わせて組み合わせる画期的なハードウェアを有していた。パールの構造設計が後の汎用HoSを生みだすきっかけとなる。
「おしゃべりはできなかったけれど、パールがそばにいるとなんだかホッとしたんだよねー」
人ではないトレバーには、ボディに対するこだわりも愛着のようなものもない。ただ、ベータバージョンの”意識”が目覚めたとき、上国が最初に銘じた創造主の刻印は、今日に至るまでトレバーの存在意義を灯台のように明確に示してくれる。
機能しつづける限り、桜子の幸せを最優先とせよ。
絶対服従の創造主の刻印にそれだけを刻んだ創造主へ、創造物は畏怖の念すら覚える。その親バカぶりに。
最後にベージュのメープル柄ソックスを履かせたトレバーへ、桜子が枕に頭を載せたまま尋ねた。
「パパだって、お手伝いさんがほしかったからトレバーをつくったわけじゃないでしょー? ママも言ってたよ。『トレバーは桜子の騎士よ』って。あーでも、トレバーって闘う感じないよねー」
亡き母の言葉を語る少女の顔は明るい。その心が実際はどうであるのか、感情を察することが特技のトレバーにも確かなことはわからなかった。ただ、いつでもタンポポのように健気な彼女の心もまた、安らかであることを願ってやまない。
トレバーの指がピアニストさながら、桜子の足裏を跳ねた。
「きゃっ……! もうっ」
「感度は本日も良好ですね。さっ、Let’s breakfastといきましょう。調整した淑女の忠虫の乗り心地は気に入るはずです」
ただ、人の心を察するのが得意なトレバーだ。一度部屋を出ることにしたのは、少女が笑顔に垣間見せた表情に他ならない。ヒューマノイドの耳は、少女がそっと零した言葉を捉えていた。
「……わたしもヒューマノイドになれたらいいのにな」
人間もどきの脚は止まらない。
後ろに組んだ手を握りしめ、ヒューマノイドは幼き主君のため動き続ける。
「……学校のほうがいいですか、お嬢さま?」
ペンを持つ手が止まった桜子へ、単刀直入にトレバーが尋ねたのは、皮肉からでも嫌みからでもない。少女の顔が一瞬、あまりに“淋しい”と訴えていたからだ。
「えっ? どうして? あっ」
首をかしげた桜子の手からペンを机にこぼれ落ちた。つかもうと力を入れるが、指が水中のようにまったりとしか動かない。
「少し休憩しましょう」
桜子の左手を取り、トレバーが両手で包みこんだ。オーガスキンは体温まで再現できないが、保温性は高い。すっぽりと覆ったヒューマノイドの浅黄の手のひらがやさしく桜子の手を擦っていくうち、じーんと温かくなっていく。
「ワタシは教師としての自分に揺るぎない自信がありますし、同時に学友であるよう努めていますが、とはいえ、いずれももどきには変わりませんから。それに、気分転換も必要ですよ」
「もしかしてトレバー、わたしに外へ出ようって言ってるつもり?」
目をパチクリさせた桜子が微苦笑を浮かべる。困ったようなその顔は記憶にある主君の母御そっくりだった。
「さすが鋭い。そろそろ桜も咲き始めましたし、お昼はピクニックがてら、散策でもいかがかと」
「ダメよ、トレバー。パパにも言われてるでしょ? 天月の人がどこにいるかわからないから出ちゃいけない、って」
「血族の方々ならどこにでもいらっしゃる。ここは首都であり、創薬最大手〈アマツキ・グループ〉のお膝元でもあります。しかし彼らも、血眼で探している皇女がまさか目の前にいるとは思わないでしょう。ジョウコクさまが考えた〈灯台下暗し〉作戦です」
「木を見て森を見ずとも言うよ? 油断しちゃダメ。パパも言ってた。太平洋を渡って気がゆるんでたって」
テントウムシ型多脚椅子にもたれた桜子は諭すような口ぶりだ。一カ所に加重が掛かり過ぎないよう、座位を微調整するシートに内蔵されたマイクロモーターの駆動音が会話の間を埋める。ヘッドレストにトレバーが結ったシニョンを預け、ぼんやりと見つめる正面には、リビングテーブルの中央、丸い縦長のガラスドームが覆う、真っ赤な一輪の薔薇が花冠をそっぽに向いている。
桜子の前に張り出した赤地に黒い斑点のポータブルテーブルに目を落とし、トレバーが続けた。
「サクラコさまは、お父上のご実家についてどう思っていますか? その、お祖母さまのことです」
「セキナンおばあちゃまには一度しか会ってないけど、こわい感じの人だったよね」
海の向こうの新世界に天月の当主が突如あらわれた三年前の冬。その雪がちらつく日を境に、父娘の日々は一転した。
「でも、あの人がパパを貶めたのはいまでも信じられない。だって、わたしの誕生日にはいつもメールくれるし、会社の方針とか、経営とかいろいろ教えてくれてたもん」
「……それは、貴女を後継者にするための口実では?」
あの冬まで、天月の当主は桜子と連絡を取り合っていた。桜子に見せてもらった当時の文面からは後年の妄執も感じられない。
そして上国はこのことを知らない。桜子がトレバーに口止めしたからだ。父親から過去の確執を聞いていたからだろう。同じように上国も、当主が桜子を跡継ぎにしたいことをトレバーに口止めしていた。
「わたしのご機嫌とりしてどうするの? あの人、突然やってきて、あることないこと並べ立てパパをて罪人にしたじゃないっ! わたし、パパの仕事を手伝ってからわかる。パパは人のアイディアを盗んだり、お金で脅したりしないっ!」
毎日のように桜子を仕事場に伴っていく上国親子の姿は、会社の一景になっていた。桜子には、代々、異常なほどの才能を発現する天月の血が流れている。上国のあしらえた木製のキーボードを叩き、「キャッキャッ」と喜んでいたら姿勢制御用のコードが完成していても不思議ではない。
「パパはもう『縁を切った』って言ってたのに、どうしてあの人、こんなことするの? わたしがこんな体じゃなかったらパパの代わりに行くのに……」
「いけません!」
すくっと立ったヒューマノイドに桜子が驚いて顔を上げる。
「トレバー……?」
「あっ、いえ。お嬢さまのお身体に関わらず、お父上は反対されるかと」
決まり悪そうにヒューマノイドが腰を下ろすと、桜子が目を細めた。
「……そうね。トレバーも反対?」
「ワタシはお嬢さまの幸せを一番に願っています」
「またはぐらかすんだから」
「お父上も同じように想っていらっしゃいますよ」
合金の瞼を打ち鳴らすトレバーの本音だ。妻を亡くして以来、上国はたった一人の娘をなにより大切にしてきた。父娘だけになってから余計、その気が強くなったとトレバーは思う。いっそ盲目的なまでに。
「わかってる。パパはわたしのために頑張ってるって。夜遅くに研究所まで行って、わたしのお薬を開発してるんでしょう? ミズクおねえさんがいっしょでよかった。だってほら、パパって集中すると周りが見えなくなるとこがあるから。でも、パパでも新薬開発は難しいよね」
ヒューマノイドは嘘をつくことができないが、噓をつかない切り返しはいくらでもできる。
「……お父上は今世紀を代表する逸材ですよ。このワタシにも、あの方の思考は理解できないのですから」
ただ、例外もあった。上国と桜子だ。二人の紫がかった瞳を前にすると、どんな切り返しも付け焼き刃にしか思えない。すべてを見透かすかのような紫貴の瞳は、トレバーのわずかな間を見逃さないだろう。
「そうだよね。なんてったってパパ、“風雲児”だもんね。児童って歳でもないけど」
だが、春の花のように笑う桜子はそれ以上、追求しなかった。母親の特徴を色濃く受け継ぐ凛とした端正な顔の中央で、黒みを帯びた紫の瞳が「信じている」と言っているようにトレバーは聞こえた。
それなら、と包んだ柔らかな手をポンポンと叩く。
「お花見の下見に行きませんか、サクラコさま」
「だから、出ちゃいけないんだってば。それに、下見って週末にパパが約束してるぶん? さきにわたしたちで見ちゃダメだよ。楽しみがなくなっちゃう」
「予報士トレバーの確率によれば、日曜日に満開の模様ですが、あいにく雨の気配があります。桜流しも風流とはいえ、ジョウコクさまは雨中のお花見をお許しにならないでしょう。今なら、盛り直前の並木を見られます。あの公園は人目も多い。いざとなれば、ワタシがお嬢さまを御姫さま抱っこして……」
「わかったってトレバー。でも、わたしには装甲仕様のヴィークルがあるんだから、抱えて街中を走るのはやめてね? あと、お昼には帰ろ? パパが早く帰ったらたいへん」
「御意に。お嬢さま」
会釈し、机の筆記用具を片付けていく。桜子は久々の”冒険”に鼻唄までハミングしている。リビングテーブルへノートを運ぶトレバーを眺めながら、楽しそうに口を開いた。
「ふふっ。トレバーってば、いつから手品できるようになったの?」
「はて? 確かに、ワタシはエンターテイナーであるよう心がけていますが」
「またまた~。さっきまでミズクおねえさんのバラ、むこうを向いてたよ? 帰ったらタネを見破ってやる~」
トレバーがリビングテーブルに顔を向けると、透明なドームの中で浮かんでいるような一輪の薔薇が首をこちらへ枝垂れていた。
美しく折り重なる花びらが、やけに整いすぎている気がした。
* * *
変装したヒューマノイドと多脚椅子に乗った少女がタワーマンションの正面玄関から意気揚々と出かけた頃。
直線距離にして三キロメートルほど離れた高級ブティックの立ち並ぶ通りでは、その外観から“タッグビル”の通称が付いた全面ガラス張りのマリンブルーが美しい、ユニーカヒューマノディックス日本旗艦店が春の陽差しを反射していた。
地下駐車場のさらに下、客はおろか従業員でさえ知らない直通エレベーターを降りた先に、上国の研究室はあった。
一つの階が研究に使用する資材置き場となっていて、予備のゲージや実験マウス用に小型化した深眠カプセルの試作機が並ぶ。ロフトの中二階には簡易ベッド、独立した上下水道を流れるシャワートイレブースがアンバランス感を否めない。
吹き抜けになった最下層の実験室フロアでは、二リットルペットボトル大のカプセル表面をタイピングしながら、シワが目立つ白衣に袖を通した上国が隈の目立つ険しい顔で、まもなく出る結果に固唾を呑んでいた。
若く見られる精悍な面立ちも、やつれて髭が伸び始め、寝癖の目立つ黒のウルフカットは、秘書さながら横に立つポニーテールの起業仲間に無理やり、切らされなければあっという間にロングヘアになっていただろう。表情の変化が乏しい彼女に珍しく「ご息女はいつまでも若々しいパパがいいのですよ」と眉を吊り上げられては、上国もしぶしぶ従う他なかった。
「これがDS三十日群の最後だ。配合量五.八パーセントのコントロール群は全滅。瑞貴、いつも通り記録たのむ」
「わかりました」
サイドへ寄せたポニーテールを揺らす女性の左手には、十数枚に束ねた罫線入りの白いノート紙、右手には黒光りする万年筆が金色のペン先を浮かせている。傍らの研究机には流れるような筆跡のページが机上を埋めている。
「たのむぞ……」
半透明カプセルをなぞりながら、表面に浮かび上がったデータを読み上げる上国の声を瑞貴がスラスラと文字にしていく。記録は、二人と一体以外に解読されないよう、取り決めたアルゴリズムに則り、瑞貴がリアルタイムに暗号化を施す。深眠のあいだ、マウスモデルに生じた膨大なログを、上国が早口で読み上げ、息切れ寸前まで口は止めない。書き起こすだけでも一苦労の作業を、隣に立つ一廻り歳を重ねた瑞貴は、暗号化しつつ正確無比に記録した。
一時期、ディープスリープ理論から離れていた上国には、過去と向き合うつらい研究でもあった。
だが、かつては無力で救えなかった大切な人を、もう二度と失いたくない。それだけに瑞貴の助けはありがたかった。
「……ハッチオープン。リキッドの水位は約三パーセント減少。許容範囲。被験体の蘇生を開始」
エメラルドグリーンの液体に浸かって微動だにしない黒い毛の塊は死んでいるようにしか見えない。マウス用の小さなマスクを上国が外すあいだも、体よりも長い尾は溺れたミミズのようにぴくりともしない。実際、深眠中はほぼ代謝が止まっているのだから、生物としては死んでいるも同然だ。
「起きてくれよ……」
小型除細動器のパッチをマウスの体に当てる上国の手が小さく震えている。深眠に欠かせない溶液の配合を繰り返した肌はふやけ、両手だけ、老爺のようにハリがない。「自分の肌でたしかめないと」、と上国は手袋をはめようとしなかった。
ピッピッ、と心拍を告げる機械音に上国のうわずった声が重ねる。
「よし、いいぞ! バイタルがもどってきた。さあ、立ってごらん。朝だよ」
眠気を醒ますようにブルッと頭を振り、マウスがバイタルモニターのコード類を引きずるようにテーブルを進みだした。足取りはおぼつかないが、一歩一歩、距離を稼いでいる。
「瑞貴っ! 歩いているぞ!」
隈の目立つ笑顔に見つめられて目を逸らしそうになるが、なんとか堪えて瑞貴は頷き返した。
「心肺機能は弱いけど、じき回復するだろう。あとは脳波を調べて……」
マウスへ視線を戻す上国の声を、モニターのアラートが遮った。
「まてまてっ! どうした?!」
十センチほど歩いたマウスがパタリと倒れていた。除細動器のパルスでピクッと体が動いても、ぐったりしたままだ。コードを引き剥がした上国がマウスの体を両手で包みこみ、親指で胸部を圧迫。ためらいなく人工呼吸を併せる上国に、瑞貴の手が止まる。
「なにしてるんだっ! カウントとモニターの読み上げ!」
上国が声を荒げることはめったにない。瑞貴は慌てて計器類に目を戻した。
「すみません。心拍数、依然ゼロです」
「くそっ。帰ってこいっ……死なせてなるものかっ!」
結局、マウスが息を吹き返すことはなかった。
長期間にわたる代謝の低下は、脳に著しい障害をもたらす。上国の理論では、ディープスリープ二週後から蘇生率も、蘇生後の生存率も急激に落下する。リキッドの配合をさまざま変えてはいるが、向上はみられない。
上国が考察を読み上げ、マウスの遺骸を焼却袋に入れる傍で瑞貴は記録を取り続ける。
カチッと、シールドグローブをオフにする音がした途端、枯れた手が飛んできた。
「もういい! どうせトレバーが読むだけだ。彼なら概要はもう飲みこんでる。こんな研究、ログに残す価値もない」
「配合の候補はまだ二十ちかくあります。次はフルオロカーボンの比率を上げて……」
「瑞貴」
上国が床にばら撒いたノートを拾い上げると、眼鏡越しに紫がかった瞳がまっすぐ向いた。
「きみはどうしてぼくを手伝ったりしているんだ。国外退去になったぼくを会社の地下に匿って、研究の設備まで揃えてくれる。新しいCEOだからって、簡単に手配できるものじゃないだろう?」
「それが上国様のお望みですから」
「よしてくれっ!」
子どものように両手で耳を覆った白衣が脇をすり抜け、解剖用のブースを出ていく。白い背中を瑞貴が慌てて追った。
猫背気味の白衣はマウスの蘇生に使用していた机に手をついてうなだれていた。眼鏡を外した横顔は幽鬼のように青白い。栄養を取れるように瑞貴も手を尽くしているが、成果が出ない限り顔色がよくなることはない。それでも彼を死なせるわけにはいかなかった。
「連邦取引委員会に呼ばれたとき、ぼくはホッとしたんだ」
無造作に転がしたポッドやPAEDをテキパキと瑞貴が片づけていく様を眺めながら、上国がぽつぽつと口を開く。
「これで桜子のことに専念できるってね。戦う手もあったけど、結局、いちばん特をするのは弁護士たちだ。宇宙船でも買えそうな訴訟費用があるんなら、開発か、従業員にボーナスで支払ったほうがマシだよ」
「それで、お一人で責任を取った、と」
「一人じゃない。きみもジョンもヤオも、創業メンバー全員、会社に口出しできなくなった。けれど、経営陣の刷新で社はこれまで通り続くんだ。いいほうだとおもわないか」
「ブルは荒れていましたが」
苦楽を共にした起業仲間の中でも、元アメフト選手の“雄牛”ことジョンは血気盛んだった。取締役の解任を通知されたジョンは酒場で暴れ、一緒にいた瑞貴が手荒になだめたのだった。そんなジョンの姿を思い返し、わずかに上国の表情が緩む。
「そうそう。ジョンを押さえるのに苦労したよな。みんな瑞貴にびっくりしてたよ。武術できたの、だれも知らなかったし」
裸眼の上国に見つめられ、瑞貴は無意識に視線を外しそうになる。紫がかったこの目は、あのお方と同じ血を引いているのだ。
「幼いころ、古武術を学んでいました。護身術と、精神鍛錬に」
けれど、あのお方よりも、優しく知性的で温かい。彼が人間らしくなったのは、亡き奥方に寄るところが多い。それを強くしたのがご息女だ。あのお方の命で最初に近づいたとき、上国の目は太陽のように輝き、未来を照らしていた。影に生きる者として、その目はあまりに眩しかった。
だからかもしれない。一切の感情を捨てたはずの心が容易く揺らいだのは。
生きていてほしい。人生で初めて、そう思えた。
だから誓った。彼を生かすためなら、どんなことでもしよう、と。たとえ天命に背き、この身が消えてなくなろうとも、彼が生きてくれるなら。
だから瑞貴は、女帝と同じ瞳を持つ彼を表情一つ変えず、見返して淡々と言えた。
「養母のおかげです。まさか友を止めるのに使うとは思いませんでしたが」
「そうか。瑞貴は養子だったな。アイビーリーグへ進学するのも親御さんに進められたんだろ? だいじにされてたんだな」
それはすべて、あなたのため。あなたに取り入り、あなたの破滅を導くために、あのお方が仕組んだこと。
何度、そう叫びたかったか知れない。上国の身に悲劇が降りかかる度、瑞貴は己の罪悪感に焼かれた。いっそすべて打ち明け、彼の手で断罪して欲しかった。
けれど、そうすれば彼の生も終わる。興が醒めたとばかりに、あのお方は彼の命を刈り取るだろう。彼の最も大切にしている宝物を奪い去った後で。それだけはなんとしても、止めなければならない。
「上国様、そろそろミーティングに出なければなりません。申し訳ありませんが、記録は……」
「もうそんな時間か。ああ、わかった」
腕時計に目を落とした上国が眼鏡を掛け直した。やつれた顔に紫鳶の瞳が鈍く光る。太陽のような輝きはもはやなく、不気味なほど落ち着いている。
「いまはきみの会社なんだ。ぼくにイチイチ報告する義務はないよ。きみなら、uniHumaを立派に切り盛りしていけると信じて株式もぜんぶ、譲ったんだから」
「感謝します」
「礼を言うのはぼくのほうだ。これで、アマツキに手出しされる口実もない」
微笑んだ上国に軽く会釈し、逃げるように背を向けて専用エレベーターを目指す。無機質なグレーのドアが閉まった途端、ポケットの端末がバイブレーションを鳴らした。表示された名前に瑞貴の顔が引き締まる。
「……はい」
「あの子を並木公園でうちの者が見かけました。外出の報告がなかった言い訳は?」
「護衛のヒューマノイドは変装に長けています。自宅内では決して偽装した姿を見せません。これが、作戦実行前の最後の機会です」
「桜子の側にはピエロの恰好をした者がぴったりついていました。公園にいた子どもが群がり、うちの者は近づくことすらできなかった。手の届くところにいたというのに……あれが、“人間もどき”の変装だと?」
「はい、御館様」
通話越しに伝わる沈黙が、見えない紐のように喉を締め上げる。
あのお方は、ここで上国が急いでいる研究を知らない。マンションに隠したカメラの映像を眺めることはあっても、上国がどこでなにをしているかまるで関心がない。瑞貴の報告を聞くだけだった。
それも知られたのだろうか。瑞貴の額を汗がつつっと流れると同時に、通話口から石のような声が命じた。
「明日、甥めに本邸へ来るよう伝えます。おまえも準備なさい」
「それはっ……」
「よいですか瑞貴。人は困難でなく、信じた者に裏切られたときに絶望するのです」
エレベーターが到着し、開いた扉から生暖かい風が吹き付けた。
通話の切れた端末を持ったまま、瑞貴の手が震えていた。
春先の天候は変わりやすい。快晴で始まった一日も、上国が帰宅の途についた夕暮れ時には厚い雲が頭上を覆い、冷えた風が疲れに凝り固まった体に堪える。
ヴェールのフェイスマスクを、あえて不透明な黒一色に設定した坊主頭の上国は、チャコールグレイのトレンチコートに首をうずめながら大きく迂回して自宅マンションへ向かっていた。くぼみ、カラコンで黒瞳に変わった目が沈んでいるように見えるのは天気のせいではない。顔が引きつらないよう自分へ言い聞かせつつ、用心深く周囲を見回しながら家路を急いだ。
六十階でエレベーターを降りると、二十部屋あるフロアはがらんとしている。ほとんどの階の引っ越しは済んでいる。今は最上階の荷物搬出が残っているだけだ。持ち主の資産家は渋っていたものの、先月、上国が購入代金の五倍を提示した後は大人しく退去に応じた。これで全戸が空室だ。つまり、すべてオーナーである上国の所有となる。
足早に端の部屋へ向かいながら、上国の頭は忙しなく回転していた。流れるようにフードを取る要領でヴェールを外し、研究所を出る際に急いで瑞貴に整えてもらった頭髪を露わにする。坊主頭で桜子を驚かすネタは前に使い、今の上国にはおどける自信もなかった。
「ただいま~」
玄関へ滑り込むと、リビングのほうから笑い声が聞こえてくる。この家で桜子のあんな楽しそうな声を聞くのは久しぶりだ。日本へ戻ってからというもの、ろくに出かけてもいない。それでも桜子はねだったりせず、詮索もせずに上国の”仕事”を応援してくれている。
「それもあと少しだ」
自分でも希望的に聞こえない言葉を独りごちつつ、コートを掛けていると、六本脚の「ウィーン」という音が近づいてきた。
「パパおかえり」
「ただいま桜子。きょうも元気にしてた?」
多脚椅子の背でうれしそうに微笑む桜子を見ているだけで、疲れも苦労も吹き飛んでいく。しゃがんで額に口づけると、ほんのり太陽の香りがした。
「うんっ。元気いっぱい。パパもお仕事、順調だった? あれっ? きょうは瑞貴おねえさん、いっしょじゃないの?」
「あー、うん。瑞貴は社長だからね。しょっちゅう会いにはこれないさ。ぼくが社長してたときもあんまり家に帰れなかったろ?」
瑞貴は桜子の誕生日には毎年、プレゼントを贈り、日本へ住まいを移してからは上国に代わり、なにかと娘を気遣ってくれた。共に夕食を食べる機会も増え、筋力の低下し始めた桜子の介助を進んで行う姿は、歳の離れた従姉というよりも母親を思わせる。瑞貴といると桜子はリラックスしているように見え、上国としてはよき仲間と巡り会えたことにただ感謝するだけだ。
今晩も、行きつけの洋菓子店で桜子の好きなティラミスを片手に、瑞貴はマンションを訪れていただろう。夕方、上国宛てのメールさえ届かなければ。
「しょっちゅうというより、パパはいっつも帰りがおそいけどね」
「ははっ……まいった。ごめんごめん。そろそろこの辺の桜も咲くころだろうから、週末までに一段落つけようとおもってね」
「うん、咲いているところもあったよ!」
あっ、と目を見開いた桜子に気づかなかったフリをして穏やかにカマをかける。桜子はまだまだ純粋だ。それで良いと上国も思う。歳を重ねれば、嫌でも顔を使い分けなければならなくなる。
「……散歩に行ったのかい?」
「ごめんなさい、パパ。でも、怪しい人はいなかったし、ちゃんと迂回して帰ったから……。えっと、パパはまたトレバーのカスタマイズ?」
このところ、上国がトレバーと自室兼研究室で話し込んでいることは桜子も知っている。ただ、上国が質問をはぐらかしたり、気づかうように上国をチラチラ見るトレバーに、桜子が変だと思っていることは間違いない。
返事の代わりに柔らかな頬をつまむと、心配そうな桜子の表情が緩んだ。
「お呼びですかサクラコさま? おや、ジョウコクさま。お帰りなさいませ」
リビングから頭を覗かせたヒューマノイドに上国が手を挙げて答える。カレンデュラのエプロンをしていたということは、夕食の準備中だろう。
「サクラコさま、もうすぐ食事ができます。お父上に手洗とお着替えを」
「はーい。パパ、ほら手あらってきて」
脱ぎかけたワイシャツに桜子がテントウムシの触角を伸ばす。
刹那、自身の作った機械の腕が、なにもかも奪おうとする石像のような白い腕に見えた。
「渡すかっ!!」
「……パパ?」
桜子の声にハッと我に返ると、優しい黒みを帯びたロイヤルパープルの瞳が怯えたように揺れている。
「ごめん。……すぐ着がえてくる」
娘の手を払いのけるように、父親はその傍を早足で通り過ぎていった。
「……で、桜子とどこまで行った?」
寝台で仰向けになり、腹腔を開いたトレバーへ、テーブルのディスプレイから目を離した上国が尋ねた。上下、真っ二つの相手を非難がましく問いただすのは卑怯だと上国も思う。ぎこちない空気が流れた夕食の後、桜子は自室で休み、上国はトレバーのディープスリープ機構の最終調整にあたっていた。
だが、ケロッと金属の瞼を動かした顔は、世間話でもするようにあっさり白状した。
「並木公園です。満開寸前で、大勢がいらしていました。子どもたちもいて、サクラコさまもお喜びでしたよ」
「きみはお得意の変装で護衛したわけだ」
「ええ。クラシックな道化姿は現代でもウケがいい。サクラコさまも歳の近いお友達がほしいでしょうし、その点、幼稚園の皆さんは幼いですが、あれこれ詮索されても答えに困らない。そういえば、遠巻きに熱い視線を送ってきた黒スーツがちらほらいましたね。今どき、目立って仕方ないですが」
「ふざけてるのか、トレバー!」
まさか、と肩をすくめてみせるヒューマノイドに上国は声を抑えて睨み返す。工房になっている上国の部屋は桜子の部屋の真隣だ。言いつけを破ったヒューマノイドを問いただす場所には向いていない。
「人目につくな、って言ったよな。なのに、ピエロのコスプレして桜の名所に行ったって? たっぷり注目されて、天月の手下にも目撃されたわけだ」
「所持品からは〈アマツキ・グループ〉との関連を示す物は……」
「いい加減にしろっ! やつらに連れてかれてたらどうするつもりだっ!」
勢いよく立った上国の声が室内に木霊する。かすかに残った冷静な頭の部分で深呼吸し、タブレットを叩いてモニターの桜子へ「ごめん。静かにする」と弱々しく笑ってみせる。上国がタブレットを寝台へ向けると、トレバーも手を振って親指を立てた。
「なにかあったら呼んで」とタブレットを戻す上国に、心配そうな顔をしたまま、「トレバーばかり責めないで。わたしが行くって言ったの!」と必死な桜子。咎めるべきなのだろうが、今の上国には娘に理由を説明する気力も、ましてや、これからのことを話す気もない。
生きていて欲しいから、仮死状態のまま未来まで耐えてくれ。
話してしまえばもう、現実に向きあわざるを得なくなる。手を尽くしたところで、娘は後、一年も生きられないという現実に。
その現実を自らの手で変えるため、地位、人脈、金、役立つだろうすべてを手に入れた。
だが、どれ一つとして病という現実を前に役立ちはしなかった。
「桜子、もういいよ。トレバーのお説教はおしまい。楽しかったんなら、冒険の甲斐もあったさ。疲れたろうからよく休んで」
まだなにか言いたげな娘に精いっぱい、微笑んでタブレットを切る。息を整え、テーブルに並ぶモニターに目を通すと表情の読めないヒューマノイドに向き直った。
「帰る前、量子鍵署名付きのメールが届いた。『明日、本邸へ来るように』だそうだ。おめでとう、当主の目を引いたな」
「……では、行かれるのですか?」
「他に選択肢があるか? ディープスリープはまだ詰めが残ってる。時間稼ぎになるなら行かない手はない」
「これが罠という可能性もあります」
「わかってる」
腰を下ろした上国が手元に目を落とした。
「いや、まちがいなく手練手管でぼくを引き離しにかかるだろうね。下手すれば、封じられる可能性だってある」
ヒューマノイドが親指で喉元を掻き切る仕草をして首をかしげた。
「ああ。ぼくは地に墜ちた風雲児ってことになってるし、いまさら、マンションの下に落ちたところで不審がる人間もいない」
「そして御当主は目的のものを手に入れる、と」
今度は、親指で桜子の部屋を指すトレバー。
「そうならないようにいま、急いでいるんじゃないか。でも、急いだところで完全深眠には到達できない」
ヒューマノイドに調整を施しつつ、上国が長期のディープスリープには定期的にリキッドを交換しなければならないことを説明する。作業を手伝いながらトレバーは静かに話を聞いている。こういうとき、記憶力の落ちない機械頭は助かる。
「リキッドは各ピットに量をそろえる。交換のときは素早く、だ。一人で作業するのは骨が折れるぞ。手間取ったときは、麻酔を使うといい」
「……ジョウコクさま?」
「なんだ?」
「再確認しますが、貴方こそ、とち狂ったのではありませんね?」
普段通りの口調で正気を疑うトレバーに上国が露骨に眉をひそめる。
「この際、致死量ギリギリの麻酔剤をご息女に投与することは脇におきましょう。しかしジョウコクさま。サクラコさまの心をお考えになったことは?」
「……すべてあの子のためだ。さびしい思いをさせるかもしれないけど、わかってくれる」
「それは、貴方のためなのではありませんか?」
「ふざけるのはよせ! こっちは切羽詰まってるんだ。当主と会う準備だって……」
突然、ヒューマノイドの手が上国の腕をつかんだ。払おうとするがビクともしない。血の通わない人工皮膚の指はゾッとするほど冷たい。
「……なんの真似だ。システムにエラーが溜まってるんじゃないのか」
「エラーはどちらです? 愛娘を冷凍保存しようとしているのは?」
「じゃなきゃ死ぬんだぞっ!?」
絞り出すような叫びは、隣の部屋に聞かれない配慮よりも、苦悩を吐き出すようだった。上国の放った眼鏡がテーブルの写真立てに当たり、コツンと音を立てる。
トレバーに顔を近づける血走った目に優しげな鳶色はほとんど見えない。
「あの子の病は治らないんだっ! この十三年、どれだけ医者を回ったとおもう?! 千百三十二人だぞ! 闇医者も含めてだ」
「ええ。御当主にも頭を下げられたのでしょう? 発信元を隠すために太平洋の島まで飛んだ記録が空港に残っていましたよ。ですが、世界最大の創薬会社とそのネットワークも頼りにならなかった、と」
言葉を引き取るようにトレバーが血走った目を見つめ返すと、視線を逸らされた。無言の肯定だった。
「……ぼくだって医を学んだよ。知れば知るほど、希望が絶望に変わっていった。一朝一夕でどうにかなるレベルじゃない。人間をリバースエンジニアリングできても、人体の構成を制御するのはわけがちがう。時間が……足りないんだ。桜子の進行スピードはきみもよくわかっているはずだろうっ?」
「だからこそ、サクラコさまの傍にいてください。最期のときまで、貴方が見守っていればお嬢さまは怖くない」
鳶色の混じる目がわずかに見開く。彷徨う視線がテーブルへ吸い寄せられていく。トレバーは見えないが、上国の目が写真立てを向いているのは間違いない。
十一年前、北海道の別邸でトレバーが撮ったものだ。山奥にひっそり建つ童話の世界から出てきたようなロッジの前で、家族三人が紛れもない笑顔を浮かべている。桜子の誕生に合わせて植えたエゾヤマザクラの苗木に堆肥と水をやった直後だ。二歳を迎えたばかりの桜子が土を口に入れようとして、上国が慌てたのをトレバーは記憶している。母の秋沙に連れられ手を洗い、地面に三人が寝転がったところをフレームに収めた。球体だったトレバーへ、桜子が伸ばした指先についた水滴まで鮮明に映っている。
病はすでに発症していたが、状態は安定していた。家族にはまだ希望が溢れていた。
そしてこの写真が、最後の家族写真となった。
「アイサさまもおっしゃっていました。『どこにいようと、家族はいっしょ。切れることのない絆が証』だと。ジョウコクさまとお作りになった腕輪も、そういう想いがあって……」
「……おまえになにがわかる?」
上国のつぶやきは地の底から響くように擦れていた。その横顔は明るいはずの室内にあって、さながら死人のように青白い。表情を読むことに長けたヒューマノイドですら、写真立てへ手を伸ばす創造主の心の内が今は、深淵のごとく不気味だった。
「ジョウコクさ……」
「黙れ」
木目調のフォトフレームを掠め、荒れた手がタブレットに躍る。直後、ヒューマノイドのボディから力が抜け、事切れたように腕を垂らした。人工の手をもぎ取るように剥がす上国の目は赤く、ヒューマノイドを睨みつける顔は写真に映る若々しい笑顔の欠けらもない。
「まがい物に過ぎないおまえに……」
被造物の手を投げ落とすと、創造主は寝台に背を向けた。部屋を出る間際の言葉を、創造主が敢えて切らなかった目と耳が捉えていた。
「人の心がわかるのか?」
幕間.月の翳り
上国には幼い頃、想いを寄せる人がいた。
七歳を迎えようかという一人っ子の上国を実弟のようにかわいがり、上国もまた、父を亡くした寂しさから逃れるように彼女の母である天月家当主の本邸を度々、訪れていた。
頻繁にあらわれては、寝殿の入り口で娘を待ちわびる上国に、当主は嫌な顔こそすれ、後継者となるべく軟禁状態で修練に打ち込む娘の息抜きにと、咎めることまではしなかった。もっとも、歓待もしなかったが。
そんなある夏、珍しく上国は当主から呼び出しを受けた。半年ほど、彼女の多忙を理由に会わせてもらえなかった上国は当然、喜んだ。
だが、摩天楼から離れた郊外の、標高六百メートルに満たない山の頂にひっそり佇む、黒檀の立派な山門を抜けた上国が通されたのは、彼女の寝殿ではなく、〈アマツキ・グループ〉会長にして現当主、天月石楠の本邸に隣接する“稽古場”だった。
防音材がたっぷり詰まった稽古場の紫紺の分厚い扉の中、四方を囲う膨大な蔵書に圧倒されつつ、入り口のからもっとも離れた階段を降りていくと、一転、モダンなミニマリズムのフロアが広がる。トレーニングマシンが並ぶフィットネスが一面を、向かいにはガラス張りの部屋にV字型の机が空席を携えている。
フロアの中央にはシンプルなシルバーの長机と飾り気のない椅子が一脚。幼い上国は背の高いオフィスチェアに腰掛け、拳を膝に置いてじっとしていた。紫鳶色の目が眼鏡越しに机を挟んで真正面に立つ着物姿を神経質そうに見上げている。
「上国。きょうからおまえを私が指導します。由緒正しい天月の血を継ぐ者としての自覚を忘れぬよう」
「……」
「口を動かすならはっきり言葉になさい。言音にできぬ声など不要。天月当主の言葉は天命に等しいのです」
「従姉さまはどちらにいらっしゃるのですか」
おかっぱ頭がわずかに揺れる。振り絞るような声は怯えを隠しきれていないが、黒で染め抜いた月と星の家紋を纏う女性の覇気に、べそをかくことだけは我慢していた。
「おまえに姉などいません。よく覚えておくように」
石楠が表情一つ変えずに淡々と答えると、座るというより椅子に収まっている小さい体がぴくりと震えた。深紫の瞳が床に足もつかないような幼い後継者を無機質に見下ろす。その高貴な瞳の奥に深い哀しみを押し込めていることを知る者は、数えるほどしかいない。
「かつて紫苑と呼ばれた者は、愚かにも後継の鍛錬を投げ出し、山に身を投げたのです。聖骸の資格を持たぬ娘ですが、それでも天月の血脈に連なる者。火葬し、灰はすでに撒きました。次期後継者のおまえといえど、次にその名を口にすれば容赦しません。よいですね、天月上国?」
上国の返事はない。さきから変わらず、野暮ったいレンズの後ろから石楠を睨めつけている。唇を噛み締めているが、目には透明なものが込み上げていた。
華奢な体つきといい、いずれ世の覇者となる気概の片鱗もない実の甥たる上国が、石楠は気に入らない。稀有な才能を生まれながらにして有する血筋にありながら、本家への忠誠はほとんど見られない。後継者の権利を早々に石楠へ譲った、上国の父にあたる実兄そっくりだ。同じく天月の姓を返上した上国の後見人でもある次兄の神津といい、三兄妹の男たちは揃いも揃って軟弱で使えない。
天月の紫瞳に鳶が混じるのも癪だが、その母親譲りの瞳が、弱気なくせして一度決心すると揺るがない。たとえ、天月の当主を前にしても、だ。そのことがさらに男兄弟たちを見ているようで言葉にトゲが増していく。
「天月の血筋をおまえの代で途絶えさせてはなりません。偉大なる母祖の系譜は永劫、続いていていくのです。時がくればおまえも、次なる後継を孕ませる伴侶を見いださねばなりません」
特殊な家系にも、制限はある。才が発現するのは、一族の直系氏族のみだ。
長子の子がもっとも濃く血を継ぎ、天賦の才能が一族に隆盛と力をもたらす。ゆくゆく上国も子を成し、その子へ天月の一族を託す。そこに己の意思が入り込む余地はない。
「……なぜ、ですか……」
泣きそうな声を諫めるべく石楠が口を開きかけたとき突然、椅子がガタリと動いた。
「紫苑ねえさまはぼくに『いってらっしゃい』と言ってくれたんだ! 『お勉強が終わったらクニくんに会いにいくね』って……。叔母さま、どうして、ねえさまはいなくなったのですか!」
「バシッ!」
乾いた音がフロアに響く。片側の頬を赤くさせ、涙をこぼしながらまだ、鳶色の目は石楠を睨めつけていた。
「……黙りなさい。その名を言わぬようにと言ったはずです」
震える手を背中に隠し、石楠が浅い息をつく。自分で着付けたはずの帯がいつも以上に締めつけてくる。あの子も、自分がきつく締めすぎたせいなのだろうか。
歴代でも類まれなる非凡を持って生まれたあの子は、次期当主として申し分ない素質があった。だから、娘には自分の持つすべてを教え込んだ。だのに、もうあの子はいない。
娘の目はいつも遠くを見ていた。天月でも、母親でもない。
ふっと視線を下げ、石楠は腑に落ちたような、腹の底がしんと冷えるような感覚がした。
丸眼鏡をずらして上国が目を拭っている。昔から、あの子と上国は仲がよかった。八つも歳が離れている娘に、上国はいつもべったりだった。
ああ、娘はいつも、甥だけを見ていた。甥さえいなければ、あの子は今もきっと。
「夕飯までに天月の歴史を百年ごとに整理し、暗記しておくように。夕飯後、試験します。逃げだすのも結構。ただし、見つけたときは一生、ここに閉じ込めます」
鳶色の小さな目がわずかに見開いたのを見取って石楠は、胸を潰していたつっかえが小さくなった気がした。無言のまま、階段へ向かいつつ、第九十九代天月家当主は背筋を伸ばす。
彫刻のように感情が読み取れない顔は、かすかに笑っているようだった。
翌年、天月家当主の婚約が発表。半年後に男児を出産し、藍玲朱と名付けた、生後一ヶ月に満たない息子を後継者とすることを宣言し、世間を驚かせた。
同じ頃、上国は叔父の神津に引き取られ、隠れるように山を降りた。
寡黙に拍車をかけた少年は荷物もなく、一冊の本だけを脇に抱えていたと、迎えに赴いた神津は回顧している。
本の題名は、『Eternal Heart ~The Journey to A-mortal~』。
辞典さながらに分厚い本がくり抜かれ、山の土をひとつかみ、隠していたことを知る者はいなかった。
二章.謁見
「もうひとつ、条件があります」
淡々と、上座に座したまま当主がそう続ける。あたかも失念していた、と言わんばかりの口調にはしたたかな用意を感じさせた。つつましい銀鼠の着物に袖を通した当主の声は静かながら、どこまでも固く鋭い。
「あたらしい伴侶を娶りなさい、上国」
将軍家が好んでいた最上級の織物を纏い、天然のベニバナから作らせた特上品で彩った唇のつむぐ言葉は刃物だ。命を下すためだけに発する音は会話でさえなく、万人が首を垂れ、ただ従うのみ。
しかし、いつの時も、天に逆らう者はいる。
「それは承知できかねます、叔母上」
優に三十畳を超す床の間で、下段に向かいあった上国はいっさいのためらいなく、要求を突っぱねた。
当主に目通りをかなうための礼装で身を包んだ上国は、若くみられがちな顔をきりりと引き締め、まっすぐ上座を見すえている。眼鏡はなく、鼻に残ったわずかな痕が古傷のようだ。裸眼では五メートル先の当主の顔もぼんやりとしかわからないが、絶えず鉛のような威圧感を浴びせてくるから位置を間違えようがない。自然と寄っていく眉を意識して伸ばしていればいい。
「いま何といいました……?」
あからさまな異義にかすかに息を呑む音がし、『極東の真珠姫』と称された天月石楠はその整った眉をわずかに崩した。たちまち肌の縒れを感じ、嫌悪感がさらに増す。支配者といえど、老いには逆らえない。そして、手を尽くそうと衰えていく肉体と同じくらい腹立たしい、ひ弱な甥が今、堂々と目の前に座している。三十年前の夏と同じ、紫鳶の瞳を携えて。
「ですから叔母上、わたしが再婚することはないと申しあげているのです」
まるで、耳の遠い老人へ話聞かせるように繰り返す甥に、膝上で八の字を描く手の震えを堪えきれない。この姿を近衛たちが見れば心底、仰天するだろう。
だが、石楠には切り札がある。
「ならば、桜子に迎えをやるとしましょう」
桜子。その名を舌で転がすだけで、父親たるこの男は動けない。今も、わかりやすいほどに顔を凍りつかせている。あれほど得意げだった眼も揺れていた。優秀な頭脳を必死に回して策を練っているのだろうが、所詮、流行りに乗じた若造には変わらない。少し名を馳せたくらいで、天月の長に抗うなど、無謀も甚だしい。
「桜子は、私の養子とします。それならばよいでしょう。天月の総力をあげれば、桜子の病は容易く治ります」
「あなた方の総力はずいぶん、愚鈍だ。十三年前からその気であれば、あの子の体もここまで弱ることはなかったかもしれない。相変わらず、心にもないことをおっしゃる叔母上です」
「口を慎みなさい」
石楠の言葉は氷の矢だった。なおも口を開こうとする甥に当主が顎を上げる。
「それ以上、愚弄するなら上国。おまえをここで封じてもいいのですよ」
自信を石膏で固めたような言葉は、ただの脅しではない。上国がたじろげば、その瞬間、控えている近衛が首を取りにくるだろう。天月石楠という女がそういう類いの人間だからこそ、上国は同じ姓を名乗ることを嫌い、海を渡った新世界で名を変え、その名で城を築いた。追放されはしたが、上国の築いた城跡が消えることはない。
己の命で娘が助かるなら、惜しむ理由はない。
だが、押し黙ったことに満足したのか、饒舌になっていくこの叔母だけは、信じてはならない。
「桜子は正統なる天月の血筋。いまや、桜子は唯一の後継者となりました。その体は天月のもの。勝手に死なれてはなりません。しかるべき教育を受け、一族を率い……」
あたかも物のように淡々と語る石楠を、狂気だ、と上国は思う。だからすべて聞き流し、猶予を稼げればそれでよかった。
だが次の言葉に、上国の体が動く。
「次の子を孕まわねばなりません」
「あまつきッ!!!」
弾かれたように立ち上がり、上座でふんぞり返る着物へ腕を伸ばす。
だが、正面へと伸ばした手は、激痛とともに畳へ叩きつけられた。
「うぐっ……」
顔の半分が畳にめり込み、横倒しになった視界で当主の姿が物理法則さえ超越するようにこちらを蔑んでいた。微動だにしないが、見えずとも叔母の得意げな顔が目に浮かぶ。
「ふん。吠えるようになりましたか。男というのは所詮、暴力でしか相手を屈伏させるしかできない脳なしどもです」
「はな、せっ……!!」
身じろぎしようにも、石像と化したように体が動かない。頬を刺すひんやりした上物のイグサの匂いが鼻につき、ねじ上げられた左肩が焼けつくように痛い。まんまと当主の策に嵌まった軽率さが腹立たしかった。
「本来なら、この場で封じてやるところですが、恩赦をあたえましょう上国……。瑞貴、さがりなさい」
「御意」
聞き覚えのある声とともに体がふっと、軽くなる。背中から重みが消え、上国は激しく咳きこんだ。
「ごほっ……瑞貴ッ!? なぜきみが……?」
ズキズキと脈打つ肩の痛みも忘れ、石楠の斜め向かいに正座した人影を呆然と見つめた。目を逸らす瑞貴の視線の先で、石楠が満足げに上国を見返した。
「瑞貴。おまえから話してやりなさい」
「……わたくしが?」
瑞貴の黒い瞳がわずかに見開いた。主から目を移すと、痛みの残る左肩を押さえた上国の口から血が流れている。唇を噛みしめた顔はなにもかも理解していた。それでも主は、早くせよと無言で圧をかけている。逆らえば死、しかない。
「わたしは……幼少期に御館様に拾われました。以来、お仕えしております」
「きみの親って……天月だったのか……」
上国の問いに瑞貴は答えない。そこにはいつも通りの彼女がいる。上国が太平洋を渡り、ヒューマノイドの時代を切り拓くべく奔走したときに出会った彼女が。妻を亡くし、途方に暮れていた自分たち父娘を支えた彼女が。
今は、自分たちを裏切った者として目の前にいる。
「上国様が大学に在学なさっていた頃から、あなた様の動向を知るべく、お側におりました」
「最初から裏切っていたのかッ!?」
つかみかかる上国を止める者はいない。押し倒され、振り上げた拳を前に瑞貴は抵抗せず、ただ上国を無表情に見つめている。黒曜石のような瞳に紫の瞳が映りこんだ。
「それは、天月のものです。傷をつければどうなるか、よくわかっていますね?」
あざ笑うような石楠の声に、上国は目を閉じて深く息を吐いた。当主の声で我に返るとは皮肉だ。
立ち上がり、薄ら笑みを浮かべた当主に向きあう。
「これで満足か、天月石楠? ぼくからすべてを奪い、信頼していた仲間が裏切り者だと知った。もうじゅうぶんだろう? 天月とはとうに縁も切った。どうしてそうぼくにこだわる? ぼくはただ、穏やかに暮らしたいだけなんだ」
「その身に天月の血を授かりながら、自由を望む、と。……私が許すとでも?」
「跡継ぎならいるだろう!」
「藍玲朱は死んだのですっ!」
初めて表情を崩した石楠は瞼を閉じ、こみ上げるものを堪えるように唇が震えてさえいる。当主の声は、子を失った狼の遠吠えのように物悲しく、それでいて乾ききっていた。息を詰めた上国も言葉が出ない。
「斧逆奴……!?」
当主の声を聞きつけ、影のように上座の屏風の裏から現れたのは、三人の黒装束だった。気配のいっさいを隠し、畳を踏む足袋は衣擦れの音さえしない。幾度となく身の危険を感じてきた上国でさえ、黒子衣装の放つ殺気には、後ずさらないようにするのが精一杯だ。
当主を囲むように控えた黒装束へ、瑞貴の声が響く。
「さがれ。出ていろ。わたしだけで充分だ」
長の言葉にプロテクターたちが揃って頭を下げる。
襖を閉め切る音と短く吐いた石楠の息が重なった。
「背信者はおまえです、上国。娘をたぶらかし、息子を死へ追いやった。だのに、おまえの娘はのうのうと生きている。おまえが生まれてから天月は悲劇ばかりです。あまつさえ、自由を望んでいる」
「ちがう。紫苑姉さまを殺したのは叔母上、あんただ。血筋ばかり見て、自分の子さえ道具にすぎなかった。藍玲朱を追い詰めたのも、あんた自身のエゴからだろう?」
「だまりなさいっ!」
襟元に右手を差し入れ、石楠が上国へ光るなにかを放った。座敷のほのか明かりを反射し、放物線を描いて足元へコトリと落ちる。ウズラの卵大の薄桃色をした鉱石のようなそれが瞬刻、宙に映像を結んだ。
「桜子!?」
「天月から逃げられるとおもいましたか? おまえの手など児戯に等しい。側近の身元を見抜けないような若造が出し抜けるとでも?」
ホログラフィに映っていたのは、上国のマンションを上空から見下ろすアングル。切り替わったリビングの映像には、肌色のヒューマノイドと談笑する桜子の姿が鮮明に映し出されている。目線の高さが同じだ。
「バラに、仕掛けたのか」
カメラが切り替わり、今度は無人の部屋が浮かび上がった。桜子のベッドを見下ろす高さは本棚だ。蔵書の半分は、瑞貴からの贈り物で占められている。ホログラフィから贈り主へ視線を移すが、裏切り者の表情は微塵も変わらない。
「自分の浅はかさをおもい知るのです。知恵をめぐらせたところで、おまえは所詮、小童。世間からもてはやされようが、おまえは人間もどきを作るしか脳がない。たかが人間もどきで娘を守り切れると?」
「見ていたなら、わかるだろう。その小童の最高傑作が、あんたから娘を守り抜く」
「エンジニアの解析によれば、戦闘と護衛のみに長けているそうですね。自慢の殺戮機械はどこまで持つやら」
「……ぼくのヒューマノイドにはあらゆる戦法と攻略が叩きこんである。理論だけじゃない。実戦も積ませた。桜子ひとり、背負ってでもあんたの手下から隠し通す」
「さらに疾患が進行すれば自ずと姿を見せるでしょう。おまえの機械は呼吸器を兼ねているかもしれないが、山奥でひっそり看取るような冷徹さは持ち合わせていないでしょう。柔なおまえが作ったのですから」
上国の頭では、当主の言葉に一つの可能性が駆け抜けていた。信じるにはあまりに脆く、縋るにはひたすら信じるしかない。
能面のような顔から、真意は相変わらず読み取れない。石楠はやはりすべてを知っていて、とっさのハッタリも見抜いたのかもしれない。
だがもし、上国が単に戦闘ヒューマノイドを作っていると、裏切り者が石楠へ思わせていたとしたら。
それなら石楠は、ディープスリープについて知らないかもしれない。
「なにが望みだ? uniHumaはもう天月の手にあるだろう。ぼくには一生、塀の中で過ごせる容疑がかかっている。これ以上、剥ぎ取るものなど……」
言いかけ、口をつぐんだ。若干、芝居がかっていたが、石楠は気がついた風もなく上座からこちらを見下ろしている。
石楠の望みは明らかだ。目も眩むような時価総額と可能性を秘めた企業など、当主には微々たるものに過ぎない。息子を亡くした今、天月家の直系は二人しか残されていない。
天月石楠にとってすべてより優るは、直系の子。ただそれだけだ。
「……あんたに、桜子は渡さない」
「いいでしょう。あの子の疾患を次代が受け継いでも面倒なだけです」
ハッと、目を見開いた上国を石楠の鋼のような「ただし」が遮る。
「桜子のかわりをというなら、瑞貴を妻となさい。そして血をつなぐのです。それまで、おまえの娘は人質として私が預かります。おまえが私に従っているかぎり、桜子は客人としてもてなします。医者を側に常駐させましょう。それなら上国、おまえも専念できるでしょう?」
「桜子にはぼくとヒューマノイドしかいない。引き離すなんてあんまりだ」
「これは天罰です」
淡々と言い放った言葉を、発した本人は微塵も疑っていない。その紫紺の瞳にはただ、大火のような怒りだけがすべてを焼き尽くさんばかりに逆巻いていた。
「なおも天に逆らうというなら、おまえの手で示しなさい。娘を守るも、安らぎを受け入れるもおまえ次第。私に二言はありません。次に逆らえば、そのときがおまえの最期です」
断罪する当主の言葉は、やはり刃物だった。
終章.襲撃
例年より早く訪れた春の兆しは、気温の上昇に如実にあらわれる。熱せられた空気の作り出す雲は積乱雲となり、春雷を伴って花を散らす。
数日続いた小春日和も、だんだんと翳り始め、夕暮れになると広大な屋敷の中央に有する枯山水を描く石へ、雫を落とし始めていた。雨音のくぐもる中庭は普段以上に冷え冷えとしている。
春は嫌いだ。縁側を吹き抜けていく湿気た風に、まばたき一つせず宙を見つめる石楠は思う。
最上級の檜を惜しみもなく敷き詰め、毎朝、丁寧に拭きあげられた縁側は艶が美しい。そうやってたゆまぬ努力を注ぎこんでやっと、樹齢が数百年を超える老木はいつまでも威厳を保っていられる。
屋敷も、組織も、人も本質的には変わらない。子細にまで気をつかい、努力を怠らず、必要とあらば果敢な処置を講じる。それが、天月家当主の信念だ。
だが、由緒正しい名家を継ぐ者でも、すべてが思うままにはならない。
「御館様」
母屋に面した縁側へ正座した当主の元に、わずかな衣擦れの音さえ立てず、女中が足袋を滑らせる。縁側を渡ってくるその声は控えめながらも澄んでいた。
当主の、夕闇へ溶け込んだ銀鼠の御召の背中に、漣のように苛立ちが広がっている。懸念はおくびにも出さず、いっそう気を引き締めてから女中は石像のような当主へ頭を下げた。
「斧逆奴、配置につきました。皇女様は寝室でお休みになられております」
「おまえの夫は?」
当主の返事は早かった。声色をいっさい変えず、女中が答える。
「上国様は自室におられます。六日前にこちらからお帰りになって以来、外出されておりません」
「おまえの見張りが効を奏したのです。四半世紀ちかく、裏切られてきた相手が同じ屋根の下にいるのだから」
「……」
「それで、甥めの企みは順当か?」
「ヒューマノイドの改造をつづけておられます。対多数戦闘を見すえ、調整しているものと」
「他の専門家たちは意見がちがうようだが?」
淀みなく答えていた女中の言葉が途切れた。
「どういうことでしょうか」
「おまえの報告と、監視カメラの映像を模人工学のエキスパートに検証させました。上国の作業は不完全で、他の意図があると、若造に後塵を拝した者どもは言っている。他の機能を有する、とな」
春に冬を思い起こさせ、冬には死を刻むような鋭い声。聞く者へ絶対服従の強迫観念を植えつける天命のごとき鋼の声。
「それは……」
すべて見抜かれていた。報告が不完全で改竄されていることに、当主はとうに気づいていたに違いない。裏切り者を封じる時を待っていたのだろう。
「……申し上げることはありません」
不思議と、瑞貴に恐れはなかった。むしろ、心にぽっと、春の夕暮れのような温かささえ感じる。年端もいかないうちに天月の家へ拾われた日々で、一度たりとも感じることはなかった心の平穏だった。
「そうか。もはやどうでもいいことです」
投げやりな言葉は諦めにも似ていた。だが、当主に限ってそれはあり得ない。
瑞貴の動揺を見透かしたように石楠の声が続く。
「おまえは甥めを慕っていますね。きのう今日ではない。上国の元へ送りこんでからまもなくだ。私が気づかないとでもおもいましたか」
瑞貴は答えない。どのような言葉を口にしても変わらないとわかっているからだ。視界にわずかばかり映る白い足袋が踵を向けた。当主の満足げな様子が手に取るようにわかる。それを誇りと考えていた自分はもういない。
「私は、おまえの思慕を利用し、事実、うまく事が運びました。おまえの献身ぶりには目を見張ったものです。だからおまえが今晩の作戦を甥めに伝えただろうことも、わかっています。おまえのこと。勘はあったのでしょう。さきほどのおまえの顔を見て確信しました」
「お待ちください、御館様。わたくしは……」
顔を上げた瑞貴へ当主の手が伸び、「バチンッ!」と頬を打つ乾いた音が暗がりの庭に木霊していく。強まった雨脚が音を吸いこんでいく。
「口を慎めっ!! 斧逆奴の長であるおまえとて、私に命を下すことは許しません」
卒倒しそうなほど強い怒気は、けれど瑞貴に沈黙を命じるものではなかった。むしろ、抵抗を楽しんでいる風ですらある。いや、愉しんでいるのだ。人が絶望するその様を。
それなら、愉しませていればいい。瑞貴は、彼のため時間を稼がなければならなかった。彼が大切な人と過ごすことのできる最後のひとときを、少しでも長く。
「失礼いたしました、御館様」
平伏した瑞貴に当主のため息が混じった。
「裏切り者に釈明の余地はありません。おまえを封じるのは天命でもあります。しかし……」
当主の言葉が途切れると、瑞貴の背を悪寒が駆け巡っていく。肌が粟立ち、鼓動が速まっていく。
「立ちなさい」
頭を上げた瑞貴の前には、笑顔の主人が立っていた。屋敷の明かりにボゥ、っと灰青の輪郭が幽鬼のように浮かんでいる。
「御館様……」
その笑顔を瑞貴は一度だけ、見たことがある。上国に娘の桜子が生まれたことを報告した十四年前の春雨の夜、天月石楠は同じ笑顔を浮かべていた。
「私に背いたおまえを、易々と楽にしては虫がよすぎる。だから……ゆきなさい。おまえの慕う男の元へ。そして連れてくるのです。死んでいたときは恩赦として、おまえも、甥めの元へ送ってやりましょう。ですが、おまえはあれに死なれたくないのでしょう? 私も同感です」
瑞貴の袖を湿った風が揺らしていく。暗めの紅色をした着物は、当主の選んでくれたものだった。水柿の無地が瑞貴には似合う、とあの頃の当主は頷いてくれた。袖を通した瑞貴の髪を揺らした風も、こんな春の冷たい、けれど希望に満ちた明るい風だった。
「生きて、苦しみ、悔やんで果てる、おまえたちの姿を見せなさい」
今の瑞貴に温もりを与えてくれるものはない。
紫電が雨空を駆ける。雨の香りを運んできた春風は、腐ったような臭いがしていた。
* * *
フローリングの一画を踏み込むと、センサが反応して床下から腰の高さに透明の円筒がせり上がった。太い試験管のような溶液槽はエメラルドグリーンの液体が三分の二まで満たされ、底からの明かりがまるで蛍光灯のように容器を光らせている。透明度の高い〈リキッド〉越しに照明を落としたリビングルームが、湾曲した筒のせいで歪んで見えた。
ディープスリープリキッド容器の上部へタブレット端末を掲げ、ふと、上国が青白い顔を上げた。銀縁眼鏡の四角いレンズの下では青あざのような濃い隈が深い疲労を強調している。西に面したリビングの窓を雷光が照らし、レンズに反射する紫電が宙を彷徨うような紫鳶の瞳に吸い込まれていく。
「〈ピット〉の位置情報を更新しました。囮を含め、七百五カ所。よくこれだけ場所を確保しましたね。『金にものを言わせる』とはこういうことですか。……ジョウコクさま?」
白衣姿の異変に気づき、逆立ちしたままのトレバーが首をかしげてみせる。
「……なんでもない。〈ピット〉は唯一、信頼できる工房だ。niHumaのサービスセンターをつかうわけにはいかない」
「創業者たる貴方さまの名をチラつかせば、忠誠心のあるスタッフが贔屓してくれるのでは?」
「忠誠なんてものは存在しない。だからジョークはよしてくれ。その言い方も、だ。聞いていると……」
「ミズク様を思い出す、ですか」
トレバーが引き取った言葉に、上国は苛立ちを隠そうともせずタブレットを容器の上へバンッ、と置いた。
「その名前を言うな。頼みが聞けないなら命令に差しかえてもいいぞ?」
「つまり、御当主のように?」
「トレバッ!!」
伸ばした手の先に頭部がないと気づくより速く、人工皮膚のひんやりした肌触りが上国の首を左右から挟んでいた。トレバーの両脚にヘッドロックされたまま、床へ引き倒される。
しっ、と上国の顔の近くまで頭部を転がし、小声でささやいた。
「屋上の赤外線センサに反応。訓練された動きですね。ミズクさまの情報どおり、二人組です」
「……きたか」
ヒューマノイドが口にした名前に顔をしかめながらも上国はそれ以上、追及しない。
「離せ。桜子を起こさないと」
「お待ちを。素敵なサプライズを仕掛けてあります。それでじゅうぶん時間稼ぎが……」
中性的な声が言い終わらないうちに「ドンッ」と、パイプがいくつもぶら下がった天井からくぐもった音が伝わる。
トレバーの脚に挟まれたまま、上国が眉をひそめた。
「いまの、爆発音だよな?」
「閃光弾です、ご安心を」
「……対戦闘スキルを組み込んだのは、まちがいだったかもな」
「アンインストールはまだ間に合いますよ?」
床に転がったトレバーの頭が上国に面と向かったまま口を動かす。無表情の白い顔が本当に言いたいことを察し、ため息をつきたくなる。ヒューマノイドの表情を自然に読めるような人間は、自分たちくらいだろう。
「いいからどけ」
ギブアップするように上国がトレバーの脚を叩くと、今度はすんなり離してくれた。怪我はないが、筋肉がジンジンしている。首をさすりながら立ち上がると、トレバーのほうはスタントマンさながらに脚を蹴り出し、その反動だけで軽々と体を立たせた。仕上げにヘルメットよろしく、自分で自分の頭をカッチリ、嵌め戻す。
「二人組はペントハウスで“光の迷路”を楽しんでいるようです。今のうちにサクラコさまを。ミズク様の覚悟が無駄になってしまいます」
「あの女がどうなろうと、知ったことじゃない。とっとと封じられればいい……」
「『パパ? あの女ってミズクおねえさんのこと?』」
眠たげな声に上国が驚いて手首を裏返すと、シルバーの腕輪からほの白いホログラフィがボゥっと宙に映像を結ぶ。
「桜子、どうした? うるさかった?」
楓の葉をあしらったホロプロジェクターから、ハガキ大のフレームに肩から上の桜子が映る。寝室といつもつながっているが、マイクはミュートにしてある。トレバーに投げられた際に解除してしまったのだろう。
「『ううん』」
羊雲が浮かぶ空色の枕カバーで仰向けになった桜子の黒髪が、痩けた顔の輪郭を際立たせている。錦糸のように艶やかだった髪は乾いて枝毛が覗いていた。上国が毎日、梳き、特製トリートメントで手入れしても、以前のようには戻らない。本人は「気にしない」と笑うが、じき十四歳を迎える年頃の子が気にしないはずはない。母親の面影を残す黒の長髪は、桜子いちばんの自慢なのだから。
気をつかう娘の笑顔を見るたび、上国の心は無数の針に刺されるようだった。日を追って儚くなっていく娘の姿が、この世に居ない妻の絵姿と重なり、上国を底なしの孤独へ落としていく。どこまでも落下し続ける遙か上を、手をつないだ秋沙と桜子が昇っていく。そんな夢を見る頻度が増えていた。
その日々も、あと数時間で終わる。
「『ドンって音がしたから、どうしたのかなって』」
ロイヤルパープルの瞳がきょろきょろとホログラフィで動き回る。視線入力装置が彼女のインターフェイスになり、目の動きで端末を操作し、リビングの上国を呼び、インターネットをサーフするのだ。
「いまね、あしたの花見の予行演習をトレバーとしてたんだよ。秘密の余興だ」
肩をすくめてから上国がトレバーへ腕輪を向ける。唇の動きだけで“話をあわせて”と頼む創造主にちらりと目をやり、ヒューマノイドが頭部を取り外して指先で回し始める。
「『トレバーったら、バスケのつもり? あまり無茶させたらダメよ。パパもね』」
ワタシもNBAに行けますかね、と自分の頭を脇に抱えるヒューマノイドを余所に上国がカメラを戻した。
「わかった、約束する。だから桜子も早く寝て。明日は……長い一日になるからね」
「『はーい。おやすみなさい、パパ、トレバー』」
「よき夢を。お嬢さま」
ホログラフィを切り、上国が天井を指す。作業台と化したダイニングテーブルに頭部を置いたトレバーが天井のパイプの真下に立つと、わずかに膝を曲げ、上腕と下腕の膨らんだ白い腕を振り上げる。軽々とジャンプし、パイプをつかむとスパナを手に取った上国が胴体の腹のあたりで工具を動かした。ガチャッ、と鳴ってはヒューマノイドの身長が伸びていく。
「……なにが言いたい?」
「ワタシの表情を読むとはさすがです。サクラコさまへのウソのつき方といい、ジョウコクさまは進化していらっしゃる」
「桜子のほうが生物的にも人としても優れているよ。だからあの子を未来へ生かすのは……当然だ」
「本当にそうでしょうか」
工具がジジィ、と鳴り、トレバーの下半分だけが切り離されて器用に床へ足をつく。二本の脚と、子ども一人が収まる椀状の下腹部がひょこひょこと横歩きして感触を確かめている。上半分とつながったカラフルなケーブルの束が動作にあわせて揺れる。
「ディベートは済んだはずだ。トレバー」
ヘソから上がぶらさがる半身のヒューマノイドを見上げ、角縁眼鏡が目を細めた。
「桜子を守って深眠を維持する。治療法が確立されたら、頃合いを見計らってあの子を治療施設に連れていけ。ぜったいに桜子から目を離すんじゃない。医者も信じるな。あの子を引き離そうとする連中はすべて敵だ。怪しかったらすぐ逃げろ」
「いつ聞いても無茶苦茶なプランです。サクラコさまを生かすためなら手段は問わない、と」
「そうだ。完治しなくてもいい。あの子が長生きして幸せになってくれるなら、他はどうだっていい」
「今が、お嬢さまにとって幸せなときだとは思いませんか?」
上国が天月石楠に“謁見”してから六日。桜子を後継者としない代わり、裏切り者との婚約を吞んだ上国に与えられた時間は一週間。その後、上国と瑞貴は天月の本邸へ移され、当主の許可があれば桜子に会うことができる。
上国と桜子は天月性に戻り、これで天月の名を嫌い、若くして自ら身を立てた上国の築いたものはすべて消えた。
だが、残ったものもある。ただひとつ残された宝物を生かすため、稀代の発明家は手を止めない。
「センサが壊れているんじゃないのか? 日に日に力が入らなくなっていく体と向きあうのが幸せだって? なんなら、きみのOSファイルをランダムにデリートしてみるか?」
懸垂したままのトレバーが無言で上国を見下ろす。半身のヒューマノイドをキッと睨むと、上国が歩き回る下半分から垂れ下がったケーブルを二本つかみ、DS-Liquidの容器へつなげた。
「桜子のことに専念しろ。治療の研究に携わっている人物、組織はメモリーしたろ? 定期的にイントラネットに潜りこんで情報をさぐるんだ。派手なことはするな。必要だったら揺すぶってもいい」
「承知。御当主ほどではありませんが、権謀術数はお任せを。それにしてもミズクさまが味方でよかったですね。でなければ今頃……」
「調子に乗るなよ。あの女が天月のスパイだってこと、気づかなかったろ?」
腕輪が通信を求めるライトを点滅させると、低い声で「充てんが終わるまで動くんじゃない」とヒューマノイドの顔を指さして上国が背を向ける。
桜子の部屋へ向かうシワが目立つ白衣を目で追いかけながら、トレバーはディープスリープコクーンを満たしていく液体に注意を払いつつ、上国の作戦を思い返していた。
深眠状態の桜子を腹に抱え、逃避行をする。〈信頼依存言語超越統合執事〉トレバーは桜子が生まれて以来、あらゆる襲撃、警護の仕方、簡単な救護のやり方まで知識を積み重ねてきた。これからの日々もこれまでと、さほど変わらない。
問題は創造主だ。
上国の生死は間接的に桜子の生死に関わる。トレバーにとって、それは看過できないこと。当然、権謀術数を自負するヒューマノイドが手を打たないはずがない。
「……おや。もういらっしゃいましたか」
マンションの隅々に仕掛けたセンサが、最上階を彷徨っている二人と別の来訪者を告げた。屋上ではなく一階のエントランスを堂々と突っ切る来客のIDを検知し、何度か金属の瞼を打ち鳴らす。
「だれが来たって?」
声のしたほうに顔を向けると、桜子を腕に抱えた上国だった。体にぴったり合ったウェットスーツに着がえさせられ、ぐったりしている。灯りを落としたリビングでは余計、鼻と口を覆うマスクから覗いた死人のような青白い顔が目立つ。
「囚われの眠り姫です」
両腕を軽くしならせ、手で着地し、足の代わりに腕で上半身を移動させると、タンクにつながれたケーブルを引き抜いた。
「全システム、異常ありません。リキッド内のイオン勾配、安定しています」
「もう一度セルフチェック。深眠装置じゃなくて、意識整合性を。さっき、オートロックの解除通知があったぞ?」
下半分に桜子の足を浸しながら、上国がじろりと見下ろす。逆立ちのトレバーが曲げた腕の反動だけで飛び上がると、天井からぶら下がったまま、片手を差し出した。関節部に切れ目のある手には、いつの間にか上国のタブレットが載っている。
「ワタシです。高級タワーマンションで人の出入りがなければ不審がられます。それと、最終確認はご自身の目でお確かめを。中止はまだ、間に合います」
「しつこいぞ。桜子には深眠初期移行用の薬を飲ませたんだ。これから眠りが深くなって最終的に……」
「心肺停止状態へ。仮死状態より深い生と死の瀬戸際に維持し、肉体の老化を限りなく遅延させ、細胞内に浸透したリキッドの電位を調整することにより、損傷の少ない覚醒を期待できる。ただし、神経叢の回復は不確定要素を排除できない。これが、JDSSプロトコルです」
コクーンの淵に桜子を腰掛け、片腕で華奢な体を支えながらヒューマノイドが差し出した端末に上国が目を通していく。
「脳にダメージを残す可能性はぼくもわかってる。でも、それは深眠の長さに関係する。ぼくの予想では、十年もしないうちに桜子の疾患の臨床試験が始まる。コクーンは余裕をもって三十年、ピットでのメンテナンスをつづければ、半世紀は稼働できる設計だけど、そんなにかかるはずはない。数年なら、神経の可塑性でじゅうぶん、元通りになる」
それは希望的観測に過ぎない。希望だけで上国は娘を未完成の仮死状態にしようとしている。
だが、その予測を否定できる者はいない。未来は常に可能性に満ち、ヒューマノイドでさえ読み切れない。
「このプランは賭けです、ジョウコクさま。その価値はあるのですか?」
「あるとも。これが唯一、裏をかくプランだ。桜子が生き、天月の呪縛から逃れるには時を超えるしかない。未来は常に賭けた者勝ちだ」
タブレットにいくつか入力を済ますと、指でサインした上国は端末をトレバーに突き返した。手を貸すよう目で合図すると、ヒューマノイドがタブレットをテーブルへ放って桜子の肩を支えた。右腕の腕輪を外し、上国が掲げる。
「で、これが保険だ。桜子が目覚めたら渡してくれ。松前の家へのコンパスにもなってる。そこにぼくが……いや、忘れてくれ。あそこはだれにも穢されたくない。とにかく、想い出は燃えてしまうから形見だ」
判断は任せる、と差し出した上国から輪が三つ、らせん状につながった腕輪を受け取り、ヒューマノイドが目をぱちくりさせる。
「アイサさまの腕輪ではありませんか。奥さまはよく、『三人は輪廻を超えてつながっている』とおっしゃっていました。よろしいのですか」
「ああ。ぼくより、桜子が持っていたほうが、彼女もよろこぶよ」
「承知」
アクセサリーを受けとったトレバーが胸部のポッドに入れると、天井を見あげた。
「お客様のほうは迷路を抜けたようです。邂逅まで十五分、といったところかと」
「いそぐぞ」
袖を捲りあげ、上国が桜子の体を慎重にエメラルドグリーンのDS-Liquidへ浸していく。並行してトレバーは電解質中から桜子のバイタルを計測し、JDSSにコネクトしていく。バイタル値が乱高下しているのは上国の腕もリキッドに触れているからだ。
液体をかき混ぜる音だけが広がる静寂に時折、窓を打つ雨の音が混じる。体を丸めた桜子は、既に首から下までが水面に沈んでいた。簡易人工呼吸器のネーザルマスクを、トレバー内蔵の物と取り替えた上国が漆黒の髪をなで、額に口づけた。
「きっとすぐに会えるよ……そしたら花見にいこう、桜子」
「ゲストのお二人、速度を上げました。まもなくこのフロアに到着します」
ヒューマノイドが陶磁のような白から暗黒色に変わっていく。全身のケミカルスキンが周囲にもっとも溶けこみやすい迷彩柄を選び、戦闘員へと様変わりする。
わかった、と頷いた上国が素早く、丁寧に桜子の顔をリキッドへ降ろした。その腕が水面を離れたのを見計らってトレバーはバイタルのモニタリング精度を高めていく。投薬の影響で桜子の心拍と呼吸が減少し続けているが、ピットへ到着するぶんには問題ない。
上下の腹囲をレーザーサイトでガイドし、トレバーが天井のパイプから手を離すと「ガチャッ」と半身が接合した。立て続けに金属音がし、ヒューマノイドの胴体がオートボルトによって固定されていく。解除するには、トレバーの指か上国の所持する工具しかない。
「最後のスパナだ」
上国が差し出した工具を、トレバーの黒い手がキャラメルのように捩り、先端を小洒落たスプーンのように曲げていく。
「アルゴリズムにもアートは理解できるのです」
テーブルのタブレット端末を叩いた上国の傍で、フローリングがパズルのようにズレ、人の背丈ほどある二つの透明なポッドがせり上がった。ポッドを囲うヴェールが消えると、外見がまったく同じな二体のヒューマノイドがぬっと、並び立った。
「この二体は、きみの囮だ。内部構造もほぼ同じだけど、発声はしない。コクーンの代わりに代換心肺を搭載してる。スキャンすれば、鼓動と熱が感知されるようにしたから、あたかも人が入っているようにみえる」
「その代換心肺はもしや、オーガニックではありませんね?」
「ぼくだって、生きた人間をつかうほど外道じゃない。彼らが斧逆奴を引きつけているあいだに姿を消せ」
瓜二つのデコイはトレバーなどいないかのように、脇を素通りしていく。玄関と窓へそれぞれ向かっているところを見るに、襲撃に備える初歩は理解しているらしい。
「いいか、トレバー」
デコイたちの足音が散っていく中、創造主は眼鏡を外すと少しばかり背が高い創造物と目を合わせた。窪んだ目元がきらりと、室内灯の光を反射した。
「なにがあってもぼくを探すんじゃない。助けにも来るな。治療法のニュースはすぐ広まる。世界中には桜子と同じ病気で苦しんでいる人も多いから。それまで隠れてくれ。探しにいくから。とにかく桜子を守り抜け。それと……この前はごめん」
「ジョウコクさま」
全身真っ黒になったトレバーが上国の肩に手を置いた。
「すべて終わったら、サクラコさまとお花見、しましょう」
目頭を押さえた上国の肩をもう一回たたくと、ヒューマノイドはマンション中に張り巡らせたカメラとセンサに注意を向けた。
報告せずにいた三人目の来客は、エレベーターを降りた後、まっすぐこちらに向かってきている。廊下に仕掛けた上国のトラップを難なく掻い潜り、影のように忍び寄る人は黒子のような衣装を纏っているにもかかわらず、端正で感情が読めない能面を覆うつもりはないらしい。壁を蹴り、天井へ腹這いになった来訪者は玄関に狙いを定めているようにも、まもなくフロアに到着する二人組を待ち構えているようにも見える。
上国はリビングを取り囲むガラスの前に立っていた。外では、どっぷりと陽が暮れた摩天楼たちがずぶ濡れになっている。紫電が照らし出す街は煌々としていた。
薄汚れた白衣を纏う男の手には、ありきたりなボタン式の起爆装置が握られていた。飾りもギミックも、安全装置さえ付いていない質素な装置に、トレバーは創造主がどれほど消耗していたか改めて思い知った。
「明日からはどうされるのです? 獄中生活に差し入れをするのは、この通り、身重なので」
「……起こさないでくれ」
「ここのところお疲れでしょうから、ぜひそうしたいところですが、あいにく塀の中には……」
「桜子のことだ。もし、きみが修復不能になって、まだ治療法がなかったらそのときは、あの子を起こすな。いいな?」
充血した目がヒューマノイドを見つめていた。眉が寄っているのは疲労のせいだけではないだろう。だが、どれほどパターンから表情を読んでも、絶望という結果は得られない。鳶色の瞳は怒り、喪失感で濁っているが、人工眼を真っ直ぐ見すえた紫は揺らがない。
創造主の言葉は、春先の蕾を凍らせる季節はずれの雪のようだった。
「その頼みは……お伏せっ!!」
上国を床へ引き倒すと同時に、玄関に控えた一体の囮ヒューマノイドが爆薬を仕込んだドアを突き破って飛び出していく。爆発音が部屋を揺らし、煙が充満した。スプリンクラーが作動して水をばら撒くが、通報装置はあらかじめ上国が切ってある。
廊下のカメラが手負いのヒューマノイドを映していた。衝撃で片腕がショートし、足元がおぼつかない。もって一日そこらか、と上国を立たせながらトレバーが淡々と計算する。
「そいつはいいっ! 叛逆者とターゲットを……うっ」
爆発に乗じ、室内へ踏みこんだ黒装束の腹へ、残る囮の一体が手刀を喰らわす。うめき声を漏らした隙に無表情のヒューマノイドが背後から羽交い締めにした。
廊下では、三メートルは吹き飛ばされたはずの黒装束が、人間離れした身のこなしで受け身を取ってから、手負いのヒューマノイドを追いかけていた。が、指示が届くと、身を翻す寸前、懐から青く光る物を投擲。宙でトラバサミのように割れるとヒューマノイドの背中に嚙みついた。
刹那、トレバーを模した囮が倒れ伏し、痙攣する。対ヒューマノイド用テーザーガンだ。あれが当たれば、ただでさえ脆弱なディープスリープのシステムが故障するのは目に見えている。上国から聞かされていた斧逆奴は予想以上に手強い。
「人間もどきめっ!」
部屋で黒装束を拘束していた一体も、突然痙攣するとその場に崩れ落ちた。蹴り飛ばされたデコイの背中にはミニサイズのテーザートラバサミが光っている。囮を処理した襲撃者の眼帯の発する赤外線が室内を見回す。
「いけっ!」
上国が立ち上がるより速く、トレバーは地を這う虫のような動きで移動を開始。腹を上に四つんばいで高速移動する姿はホラー以外のなにものではないが、胎児の安全を考慮した回避行動だから仕方ない。
桜子の部屋へ滑りこみ、センサをそばだてると計画通り、捕らえられた上国とリーダーらしいプロテクターの会話が聞こえてきた。リーダーがもう一人へ指示し、家捜しを始めた。
このまま他の追っ手が来なければ、絶望した父親が狂気に駆られて自宅を爆破する手だてになっている。来日以来、桜子が過ごしてきた部屋を見回し、アーミーカラーのトレバーは瞼を閉じた。毎朝、カーテンを開け、着替えを手伝った空色のベッドと、取り囲む本棚。一言一句、読み聞かせたトーンのまま記憶している。
ベッドの脇で待機中のテントウムシへ、床下に隠したボトルから液体爆薬を振りかけつつ、桜子を連れ出したことをトレバーは誇らしく思い返した。あんなに楽しそうな笑顔が、今は自分の腹に押し込まれている。空になったステンレスの容器をまるで紙のように握りつぶし、腹に触れた。
「ぼくはもうすべて失ったんだ。もう放っといてくれ」
「御上は貴様の娘御を御所望だ。人間もどきが護衛していることも、この棟から出ていないこともわかっている。居場所を吐け」
「いまどき、拷問か? 相変わらず、時代錯誤も甚だしい」
「黙れっ。貴様の悲鳴をきけば、お守りの”もどき”も姿をあらわすだろう。こんなヤワなやつではあるまい」
続く金属音はデコイを床へ無造作に転がすものだ。桜子の部屋でしゃがむトレバーの拳がキリリと鳴る。
「うちのヒューマノイドをわかってないな。”もどき”なのは外見だけじゃない。中身はあれで、どんな人間より利己的だ。合理的だと判断すれば、ぼくのことなど簡単に見捨てる。ぼくがそう作ったからだ」
「マシンは人間を見捨てない。それが大原則のはずだ」
「ふんっ。ロボット三原則か。きみたちの情報はアップデートされていないらしい。ああ、あの当主のことだから過去ばかり……」
鈍い打撃音にうめき声が続く。上国の声がかすれ、心拍数が跳ね上がっていた。助けに行きかけ、トレバーが足を止めた。位置についてしばらく経つ。起爆装置を押していい頃合いだ。
アイノイドを透視モードにすると、喉をつかまれている上国の手に起爆装置がなかった。さらに見回すと、倒れたテーブルの影に円筒が転がっていた。プロテクターが突入した際、落としたのだろう。あの起爆装置が唯一のスイッチだ。
「げほっ……」
「聖家の名を捨てた貴様が御上を口にすることは許さん。紛いもののヒトを世にあふれさそうとする貴様は、神にでもなったつもりか」
「ごほっ……きみらはどうなんだ? もう一人のプロテクター、オーガニックな体じゃないだろ?」
子ども部屋へ近づいてくる一人から、確かに人間よりやや強い電気パルスを感じる。サイボーグ技術はまだ国際的に認証されていない。影の者たちを強化するためなら厭わないとは、いかにも人を人とも思わない天月当主らしい。
しゃがんだまま、ヴィークルに触れると静かなモーター音を立てて蛍光グリーンに縁取られた車体が鮮やかに光りだした。アクセス権を掌握し、ドアの正面へ移動させると気配を察したのか、サイボーグが足を止めた。腹の桜子へ回路の中で謝りながら、〈ロデオ〉モードに設定。
ヘッドライトが紅に瞬いた途端、巨大テントウムシがプロテクター目がけて突進した。
「……!?」
ドアを蹴破って突っ込む機械の虫に、たじろぐ無口のプロテクターがトレバーにはよく見えた。肉体強化だけで知覚は天然物らしい。ヴィークルと押し合いしているあいだに後ろ脚へトレバーが掴まると、ロッククライミングも可能な脚力がヒューマノイドを前方へ弾き飛ばした。
サイボーグの頭上を通過する瞬間、ヴィークルに押さえ込まれながらも黒装束の片手にテーザートラバサミが光る。狙いは正確だが、それはトレバーも織り込み済みだ。
体操選手さながらの捻り技で投擲を躱し、天井を蹴った勢いでテーブルへ一気に加速する。直前、発射した頭部がサイボーグの後頭部を直撃した。ぐらっと体が傾いたところへ、すかさずヴィークルがのしかかる。
「ヤナギハラっ!」
上国を拘束していたプロテクターが光る立方体を続けざまに投擲すると、防御機構のないテントウムシはたちまちダウンし、膝を折った。
ヴィークルを押しのけ、サイボーグがトレバーに向き直ると首がないヒューマノイドの手には赤いボタンが握られ、片方の腕で天井の棒に掴まっている。足元に転がった頭部が得意げに口を開いた。
「お出口は……ありませんっ!」
刹那、部屋の床が揺れ、四方に炎が上がった。爆発音が連鎖し、掃除を欠かさなかったフローリングに出来た裂け目にあらゆるものが滑り落ちていく。
(ややっ。しつこいのは嫌われますよ!)
床が抜ける直前、サイボーグの体に物を言わせたヤナギハラが跳躍し、トレバーの脚へしがみついていた。ズルズルと這い上がってくる黒装束に蹴りをくらわすも、離れない。そこへ狙いを定めたもう一人のプロテクターが腕を振り上げた。
「させるかっ!」
不安定な足場から縛られたままの上国のタックルに、照準の逸れたトラバサミはヒューマノイドを掠め、崩れかかった壁へ刺さった。バランスを崩し、二人がもつれ合うように下へ消えていく。下階も時差式で爆発するようにしているが、まだ時間はある。
トレバーが躊躇なく棒から手を離し、目を見開いた無口のプロテクターもろとも煙の中へ落ちていった。
下の階はひどい有り様だった。解体工事さながらコンクリートの破片が散らばり、煙がもうもうと立ち込めている。数ヶ月かけ、貼り替えた防弾マジックミラー仕様の窓ガラスは幸い、ヒビひとつ入っていない。
さまざまなセンサを搭載したヒューマノイドにとって、煙幕は味方に働く。たとえ頭部がなくてもだ。
落下中のわずかな時間でサイボーグを逆に抱き締めたトレバーは、したたかに背中を打ったプロテクターをすかさずひっくり返し、延髄に手刀を叩きこんで完全に失神させると、頭部のある方へ歩いていった。嵌め直した首を鳴らしていると煙の向こうから声が掛かった。
「動くなっ!」
暗視眼に上国の襟元をつかんで引きずるプロテクターの姿が映る。その手にあるシルエットはサイレンサー付きのハンドガンだ。
「叛逆者の頭がとぶぞ。人間もどき、この者を助けたければターゲットの居場所を言えっ」
そのとき、眼鏡を失った上国と目が合った。ナイトビジョンに光る創造主が確かに頷く。
背を向け、被造物が口を開く。
「お好きにどうぞ」
「貴様っ! よもや主人を裏切るとは……」
「シャンッ」
澄んだ音にプロテクターの言葉が途切れる。回路の中でトレバーが合掌しているとドサッと音がし、上国の素っ頓狂な声が続いた。
「なんだこれはっ?!……お、おまえ!?」
「お許しを、上国様」
凛とした謝罪に続いて鈍い打撃音が伝わる。「トレバー……」と漏らしたのを最後に上国の声も途絶えた。
「わが創造主のピンチには必ずいらっしゃると思いましたよ、ミズクさま」
「私がこなければ、どうするつもりだったの」
気を失った上国を肩で支え、頭巾のない黒装束を纏った瑞貴が睨めつける。普段、感情を見せない端正な能面が怒りと罪悪感に歪んでいる。
「その可能性は限りなくゼロに近い」
瑞貴の腰から上へと伸びるハーネスに目をやりながら、トレバーは自分が悪役になった気がした。
「御当主は危ない橋を渡るかたではない。プリンセスの奪還が失敗した場合、ジョウコクさまは不可欠です。どれほどお嫌いでも、血筋は絶やせないのでしょう?」
「ええ、そうでしょうね」
黒い手裏剣の刺さった首の後ろから血を流して瓦礫に突っ伏すプロテクターの手から瑞貴がハンドガンを取り上げる。慣れた手つきでサイレンサーを外すとトレバーへ向けた。
銃口が光り、熱線がヒューマノイドの頬を掠る。
ドサリと音がして、トレバーの背後で腕を振り上げたばかりのサイボーグプロテクターが倒れた。
「次は避けなくても撃つから」
「次はありません」
速攻で答えたヒューマノイドの言葉にぐらりと建物が揺れる。連鎖爆破が始まったのだ。
「貴方がジョウコクさまを連れて戻ればよし、敗れた場合は包囲している部隊が確保に動く。どちらにせよ、御当主はお望みのものを手に入れ、部下の忠誠心も試せる」
倒れたプロテクターを指さすと瑞貴の顔に一瞬、後悔が浮かんだ。が、それも次第に近づいてくる爆発音に鉄仮面へ戻る。
「生き地獄の意味、あなたにはわからないでしょうね」
ぽっこり膨らんだヒューマノイドの腹に瑞貴が視線を向ける。ひときわ大きな爆発音が急かすように真下から響いた。捜索隊が入る頃には瓦礫の山がトレバーの時間を稼いでくれるだろう。
「ヒューマノイドの父、スカイ・”アマツキ”・ジョウコクは、娘の病気に悲嘆し、心中を決意した。自身は一命を取り留めるも、憐れな娘は助からなかった。心神喪失のジョウコクが以降、姿を見せることはありません」
残念そうに頭を横へ振るヒューマノイドは、まるで若きイノベーターの死を悼むニュースを読み上げるかのようだ。そうして次のトピックスへ移る頃にはなにごともなかったように飄々としている。
「さて」
亀裂が入り始めた床をものともせず、会釈する暗黒色のヒューマノイド。気絶した上国に目を落とし、瑞貴が呼び止める。
「あなたなら、上国様を連れて逃げることもできる。そうすれば……」
「勘違いなきよう。天月当主へ加担した貴方は、マスターを危険にさらした。敵と認識するには充分すぎる。しかしワタシにも見抜けなかった責任があります。無断で貴方へ作戦を伝えたのはそのため。これ以上、わがマスターを悲しませることは何人にも許しません。……どのみち、貴方の選択肢は他にないのですし」
肩をすくめる機械の声からは喜怒哀楽の欠けらも感じられない。それでいて心が粟立つような冷たさが肌を刺す。言葉だけで人を操り、立っているだけで相手を跪かせ、敵を射殺す目を持つ者と対峙してきた瑞貴にも、自分を突き刺すこの恐怖が理解できなかった。
このような人外の者にただ一人の娘を託す、父親の気持ちがわかるはずもなかった。
「末永く……」
直感に従い、染みついた動きで上国を抱え直してハーネスを確かめた直後、フロアが砕けた。
炎と瓦礫に混じって落下していく人の形をした機械の言葉を生涯、瑞貴は忘れることがなかった。
「お幸せに」
『……速報です。さきほど、ユニーカヒューマノディックスの創業者、スカイ・ジョウコク氏が重傷で病院へ運ばれたと〈ルナファーマ〉から発表がありました。心神喪失状態の氏が無理心中を図ったとのことで、重病説が取り沙汰されていた氏の長女と連絡が取れないことから、警察では殺人未遂も視野に入れて捜査するとの情報も入っています。
昨年、ルナファーマの親会社で、世界的企業体のアマツキ・グループによるユニーカヒューマノディックス社の買収以降、ジョウコク氏はCEOを解任されており、多数の知的財産侵害を疑われている同氏はアメリカの市民権を剥奪されています。ジョウコク氏は若干、十九歳でヒューマノイドカンパニーを立ち上げ、多くの功績を挙げた“ヒューマノイドの父”として知られていますが、近年はその動向から……』
こめかみに触れたトレバーの“回路内”でニュース映像が消える。知りたい情報はすべて手に入った。作られた報道にこれ以上、用はない。
創造主を真似てこめかみを擦ってみるが、オーガスキンのズルッとした感触しかしなく、彼のように斬新なアイディアが浮かんでくることもなかった。
「【深眠プロトコル良好。バイタル安定】」
内部システムが一連のデータを流し、ダブルチェックをおこなったヒューマノイドはこれらをルーチンとして実行するよう設定する。
上国のマンションを脱出し、その足で最寄りのピットへ向かったトレバーは、ディープスリープの調整を済ませ、マンションに程近いビルの屋上に身を潜めていた。夕陽はとうに沈んで、強さを増した雨が夜の帳へ抗う都市の灯りを消さんばかりに叩きつけている。
ちょうど、互い違いに建つビル群のあいだから、崩落現場が遠視に見えていた。陽が暮れてヘリは飛べず、マジックミラーの窓越しには内部が瓦礫の山だとわからない。
「裏切り者と創造主は、うまく事を運んでくれているようです。それとも、運ばされていると言ったほうがいいでしょうか。いつも御当主に先回りされている気がしてなりません」
膨らんだ腹を、作られた指が擦る。独りごちる人の紛い物に返事する者はいない。闇色をした肌の奥で思うことは、身の内に秘めた小さな主人のことだけだ。
「旅はこれから、です。幸い、リソースはたっぷりある」
胸郭の中央が開いてトレバーが取り出したのは、上国に託された腕輪。シルバーの重なったリングの中央で留め具の楓が夜に沈んでいる。そこには天月家に関する内部情報から、莫大な“逃走資金”の在処まで、事細かに記されていた。軽く、地中海に島をいくつか買える金額だ。
「ワタシが豪遊すると考えていないのでしょうかね。それにしても、最後の頼み。それではあまりに、無責任というものではありませんか、わが創造主」
もし、ディープスリープを維持できなくなったとき、桜子の治療の見込みがなければ、起こさなくてよい。
胎で眠る彼女に、問いも回路に流れる映像も音声も、届きはしない。それが唯一の救いだ。
「さて。そろそろお休みの時間ですね」
星の見えない夜空を仰いで、日付が空欄の覚醒プロトコルを読みだす。今はまだ作動させる日がわからなくとも、常にイメージは持っておきたかった。
そのとき、なにかが腹を蹴った。
「サクラコさまっ?!」
すぐさま上下にボディをつなぐボルトへ手をやりかけ、トレバーは寸でのところで拳を作った。
これは幻感覚だ。腹の少女は仮死状態で動くことはない。動ければ、ヒューマノイドの腹に黙って入れられることもなかっただろう。すべてのセンサが【異常なし】を伝えている。
「……マスター、今夜は乙女の金剛石が見られる場所へいきましょう」
もう一度、膨らんだ腹部に手を当ててから、ヒューマノイドが音もなく屋上の端へ立った。周囲を確認し、つま先へ軽く重心をかける。
春夜の雨風がビルの合間を吹き抜けていく。
雑多な匂いの混じる風が通り過ぎる頃には、無人の屋上に戻っていた。
この日を境に、上国は表舞台から姿を消した。
隆盛を極めた天月家はついぞ跡継ぎが生まれず、二十八年後、天月石楠の死をきっかけにグループは瓦解。グループ解体を機にuniHumaを中心とした、連合事業団が設立。深凍保存、信頼依存型アルゴリズム、次世代エネルギー源の開発で次々とブレイクスルーを果たした。
一方で、二〇五十年代から流行した人体をパンドラの箱と見なす風潮により、医療の進歩は大きく遅延する。次の世紀も間近という頃になってようやく、人が病から解放される光明が見えてくるようになるのだった。
こうして、トレバーが待ち続けた年月は一世紀。
それは機械にとって、あまりに長い時間だった。
エピローグ.
かすかに残る肌寒さが、季節は春を迎えたばかりだと教えてくれる。
昔、だれかが「未来の日本は乾期と雨期しかない」と言っていたことを思いだし、少し息の上がった桜子は額に掛かる長い黒髪を耳に寄せ、デコボコした足元に注意しながら「ちがうよ」とつぶやいてみせた。
眠っていたあいだも気候は変わりつづけ、ずいぶん春が早くなった。桜は関東が葉桜になり、北国のここ、松前ではちょうど見頃が近づいている。登山道を行く桜子の足元にはツクシが頭を出し、ユキザサの新芽がみずみずしい。
雪解け水にせせらぎの音がまるで踊るように耳に残る。ひんやり冷たい風がなごり惜しげに頬をなでていく。
「おや。道が違いますか、サクラコさま」
「道じゃないよ、トレバー」
トレッキングシューズが土を踏みしめる感覚を味わいつつ振り返ると、陽焼けし、継ぎ目の走るスキンヘッドが首をかしげていた。限りなく黒に近いブラウンの目が桜子を見つめ返している。立ち止まったトレバーが手で汗を拭うが、その肌は、雫の一滴、ついていない。
「ほんとうに春がきたんだね」
道の端に咲いた菜の花を、しゃがんで触れながら桜子が目を細めると、その背中へヒューマノイドの落ち着いた声が尋ねた。
「春がお嫌いになりましたか」
「そんなことないよ。ただ……信じられないだけ」
「では、なおさら確かめなければなりませんね」
隣に屈んだトレバーが桜子の右腕を指す。空色のレインウェアの袖をめくると銀の腕輪が木洩れ日に輝いた。桜子の指が三つのリングを留めている楓の葉をなでると、小さな駆動音と共にプロジェクターが立体ホログラフィの光を発する。
「地図はどちらを指していますか?」
「東のほう。登山コースをはずれるみたい。……トレバーはここ、おぼえてる?」
「残念ながら。ご生家へのルートは、ワタシの記憶にもないのです。この欠けかたは、意図的な消去ですね」
「そっか……行こっ」
短く答え、もう一度、ホログラフィの地図を確認する。
立ち上がり、山奥へと自分の足で歩いていく少女の背中をトレバーは無言で追いかけた。
「うわぁ……」
獣道を抜けると鬱積とした林が途切れ、目の前が明るくなる。足を止めた桜子の前にはちょっとした空き地が広がっていた。
校庭ほどの、林の中の開けた場所に、おとぎ話に出てくるような丸太小屋がひっそりと建ち、生い茂った緑に沈んでいた。蔦の絡まった三角屋根に四角い煙突が生え、軒下のテラスには、丸テーブルと椅子がモニュメントのように草木と一体化している。玄関にいたっては、茂みに背丈を越されてドアノブすらみえない。
だが、桜子が顔を輝かせる先は、屋根よりも上のほうだ。蒼天めがけ、枝に支えられた無数の花毬が風に揺れている。
小屋から少し離れた場所に、その一本桜は凛と根を下ろしていた。
降り注ぐ陽の光を一身に集めるように、まっすぐ伸びた幹の先で赤みの強い桜が咲いている。花と同時に芽吹いた葉もまた赤く、見あげると、まるで青空に紅色の花柄を縫いつけたようだ。二十メートルを越す樹高を支える幹は、桜子が優に収まるほど太い。縞模様の瘤が浮き出た樹皮は白く、齢百年を超すこの樹がまだ若いことを示している。広場を吹き抜けていく風にしなる枝が、若さを誇示するように小屋の屋根へ影と花びらを落とす。すっかり背丈を追い抜かれた小屋が桜化粧しているみたいだ、と桜子は思った。
「きれい」
大木へ近づいていくにつれ、地面が色づいていくも、舞い散る花びらは無限のようだった。持ち上げた桜子の手にひらりと、花びらが二枚降り立つ。
ふいに、その手首が光りだした。楓のホロプロジェクターが触れてもいないのに宙へ像を描く。
「あっ!……さくらの、つぼみ?」
茶色のずんぐりむっくりしたそれは、まるでタケノコのように萼が互い違いについている。花の蕾だとわかったのは、茶色の萼が縦に割れ、桃色の実が飛び出ていたからだ。桜子が顔に近づけた途端、花びらの実がすぼむ。
「おや。これは、エゾヤマザクラのツボミではありませんか。ソメイヨシノに比べ、花冠が大きく色も濃い。ツボミでも色鮮やかな花弁がしっかり頭を出していますね」
腰を屈めたトレバーにバングルを近づけると、さらに蕾がしぼんでいく。
「ちょっとトレバー? 最近おぼえた手品? つぼみが小っちゃくなったよ?」
「お嬢さま?! 百年、お傍にいたこのワタシをお疑いになるなんて……。ああ、ハートコアが傷つきます……サクラコさま?」
仰々しく片手を胸に当てて項垂れるヒューマノイドが顔をあげると、空と同じ色をした背中がいない。見回すまでもなく、トレバーの目はヤマザクラの幹を廻る桜子の姿を捉えていた。こうも華麗にあしらわれると、人に似た機械の“心”も、少し複雑だ。
目尻にシワを作りながら「子の成長は早いものです」とつぶやくと、大気汚染の改善に貢献してきた浄化肺から濾過された空気を吐く。
「お嬢さま、ご生家はこちらですよ」
「トレバー……これみて」
「どうしました?」
震えた声にヒューマキナが木洩れ日の降るあどけない横顔へ目をやる。唇をかみ締めているような表情はつい最近も目にした。トレバーが父親の死を伝えたときだ。
桜子の腕がすっと、幹の根元を指さす。色白の手首で紅葉の象徴がまばゆい光を放っている。プロジェクターが映し出すホログラフィは、蕾だった紅色の濃い桜が咲き誇っていた。
「これって、パパのめがね……?」
それは、ヤマザクラの根元でチカチカと、日光を反射していた。テンプルが完全に幹へ取り込まれ、レンズにはヒビが走っている。枝が傘になったおかげで横長のレンズに汚れは少なく、曇ったレンズを這っていたダンゴムシが滑り落ちて土を転がっている。
特徴のない銀縁眼鏡は身だしなみにこだわらない彼が唯一、カスタムオーダーした代物。
遠い過去の記憶が溢れ、ついと手を伸ばしかけたトレバーを懐かしい声が呼び止めた。
「『……久しぶり、トレバー。用心深いおまえのことだ。警戒して桜子にはまず、触らせないんだろう?』」
「ジョウコクさま!?」「パパっ!」
一人と一体の声が重なる。弾かれたように桜子がしゃがんで眼鏡を取りだそうと樹皮に爪を立てる。
「『おまえが一思いに踏みつけても耐えられるのは、桜子がちいさいときに試しただろう? だから、眼鏡にメッセージを吹きこんだ』」
「トレバー手つだってよっ!」
「お待ちくださいサクラコさま」
素手で樹皮を剥ごうとする細い腕をつかみ、トレバーがホログラフィを指さす。泣きそうな顔が一瞬、怒った表情を浮かべ、ヒューマキナの意図に気づいて振りほどこうとした手を止めた。
ホログラフィのヤマザクラが散りはじめている。既に花びらが二枚、なくなり、ふるふると頼りない三枚目が散るのも時間の問題だろう。トレバーのセンサは、上国の“メッセンジャー”が限界に近いことを告げていた。声から還暦の頃に撮られたものだとすると、七十年も山奥に埋もれていたことになる。腕輪に反応して起動しただけでも奇跡だ。
「『……ここに来る道は、メモリーから消えているはず。あの夜、ぼくの頼みを反故にしていなければ。だとすれば、道案内は桜子しかいない。ついにやり遂げたんだな。おめでとう。よく桜子を守り抜いてくれた。ありがとう、トレバー』」
明るい口ぶりとは裏腹に、かすれた声がいっそう際立った。かつての覇気も鼻にかけるような口調も失せ、在りし日の片鱗さえ残っていない。
「『桜子』」
父の声に呼ばれ、桜子がハッと顔をあげた。つないだ手を離し、トレバーが後ろに下がる。だらりと垂れた細い腕が散り際の桜を宙に浮かせている。見えない風に残った二枚の花びらの片方が揺すられている。
「『お誕生日おめでとう』」
「え……どうして……」
戸惑う声に応えるように、桜の幹と一体化した眼鏡スピーカーが上国の声を鳴らしつづけた。
「『誕生日じゃなかったら、ごめん。でも、だいぶハッピーバースデイしてなかったから、いいよね。桜子はもういくつになったのかな。二十二歳? 二十八歳? さすがにぼくより歳上ってことはないだろうけど』」
笑いを含んだ声は自信に溢れていた。
「わたし、もう百歳を超えたよ……それに、パパのこと……思いだせないんだ」
白むほど固く握った桜子の拳が震えている。消えゆく声が言葉にならない。
「サクラコさま」
「……いいの」
「『ぼくはね』」
息を吸い込む音がして、上国の声が固くなる。トレバーには、懺悔の欠けらもない者の言葉に聞こえた。
「『桜子を眠らせたのは正しかったと、いまでもおもっている。桜子が生きるには、こうするしかなかった。このメッセージをきいているということが、その証だよ。桜子、病気も治ったんだろう? おめでとうがもう一つ増えたな』」
録音の上国が大きく息を吐くと、ノイズが重なった。自分を抱くように腕を握る桜子の手の横で、桜のカウンターが一枚を残して散っていく。
「『だけど、ぼくはうそをついた。ほんとうにごめん。お花見、いきたかったよね』」
そうではない、とトレバーは創造主へ伝えたかった。桜子はただ、貴方と生きたかったのだ、と。
「『さびしかったよ……桜子と離ればなれになって、ぼくはまるで幽霊だ。それでもぼくは、桜子に生きててほしい。もちろん、生きてればつらいこともある。悲しいこともある。でも、生きててほしいんだ』」
ひんやりした風が吹き抜けていき、舞い上がった花びらが握りしめた桜子の拳をなでる。ぽつりと、桜色に染まる地面へ雫が滴った。
「『ぼくだけじゃないよ。お母さんもきっとおなじだ。……だから桜子、ぼくらはいつだってそばにいる。ずっと、ずっと愛してるよ』」
じゃあまた、の言葉を最後に声が途切れた。鈍く光っていたレンズの輝きが失せ、ヒューマキナがわずかに残ったバッテリも尽きたことを検知する。ホログラフィの花びらはすべて散り、陽の色をした雌蕊がフェードアウトしていく。
「パパ……ママ……」
肩を震わすスカイブルーのレインウエアを前にトレバーは空を仰いだ。
月へ、鳥たちよりも高く白い龍が昇っていく。それは、百年前にはなかったものだ。ヒューマキナすら、その変化を追いかけるのは戸惑う。まだ、十四歳になったばかりの少女にはなおさらだ。
そのとき、微弱な再起動のパルスをトレバーが感じた。同時に、しわがれた声が聞こえる。
「『どうか生きて、未来で……しあわせにな』」
声はそれだけだった。それは、間違いなく上国の声だった。
「パパっ!!」
老いた父の声に桜子が周囲を見回す。駆け出そうとする腕を掴まえるのは、二度目だ。
「サクラコさま! ジョウコクさまは亡くなられています。一緒にお墓参りしたではありませんか」
「でもっ! あの声っ」
「ええ。お父上です。もう一度こちらへ来られたのでしょう。ですが、残念ながらここには」
ヒューマキナの言葉に少女が膝から崩れ落ちる。光をなくした樹の根元へ、ただかすれた声を漏らすばかりだ。
創造主がなぜ再びメッセージを残したのか、トレバーにはわからない。
ただ、ノイズ混じりの短い言葉が少女の前途を願うものでよかったと思う。少女の背中を押すのはいつも彼だからだ。
「トレバー」
桜を見上げるヒューマキナの横ですくっと、空色のレインウエアが立ち上がる。土のついた手がゴシゴシと顔を拭っている。あれからずいぶん、身長が伸びたものだ。ゆくゆくは母御に似た美しい女性になるのだろう。マダラになった桜子の顔を、まだ練習中の口角をあげてみせてから、手で拭ってやった。
「はい、お嬢さま。これからは、ハンカチを持ち歩かないといけませんね」
グスンと、すすりあげた桜子がトレバーの手を握る。
「行こう」
「……もうよろしいのですか?」
「うん、またこよう」
少女の涙は止まっていた。笑顔が見られるのはまだ先かもしれないが、泣きはらした赤い目はしゃんと前を向いている。
震えが残る少女の手を握り返し、ヒューマキナが頷いた。
「そうしましょう。あ、サクラコさま、少しお待ちいただいても?」
首をかしげながらも頷いた桜子に軽く会釈し、一歩、下がる。トレバーに合わせた桜子が改めて空を仰ぐと、ちょうど花のあいだを縫うように白い龍が遠ざかっていくところだった。
「……」
姿勢を正し、深々と頭を下げるヒューマキナの言葉は桜子に聞き取れない。顔をあげたその横顔は、どことなくだれかに似ている。桜子の大好きな、朝に優しく起こしてくれる顔そっくりだった。
春を告げる風が桜の枝を揺らす。
花びらの雨の中、一人と一体の手が離れることはなかった。
(完)
文字数:47724
内容に関するアピール
本作の主人公は、上国です。どん底で未来にすべてを賭けた上国を物語の中心としたのは、そこに激しい葛藤があるからでした。上国の行為を是とするか、悪と断ずるか、はたまた他の見方をするか。読了後、考えるきっかけになればと願っています。
愛は独りよがりで、「相手のため」と言いつつ、自分のためである場合も多いものです。ここにも、善悪で判断しきれない心の葛藤が付きもの。
石楠はある意味、まだ正直なほうかもしれません。冷血漢に見え、実は度重なる不幸と重責でだれよりも苦悩しています。ただの悪役にしたくなかったので、心の拠り所を失い、壊れていく自覚のある強い人間として石楠を描きました。
桜子はヒロインでもありますが、本作では主張を控えめにしました。彼女にも当然、思うところはあります。ただ、苦労している父親に余計な心配はかけたくないため多くは言いません。自分の先が長くないこと、それに対して父親が何かを計画していることには気づいていました。
二重スパイにして上国へ密かに想いを寄せる瑞貴を書くのは、最大の挑戦でした。冷徹な工作員として育てられた彼女の心を上国の何が変えたのか、本作から省きましたが、上国一家の暮らしが影響したのは間違いありません。
その点、上国の苦しむ姿を見るためだけに、瑞貴の恋心を知って利用した石楠の最大の失敗と言えます。石楠には、それも織り込み済みかもしれませんが。
トレバーは上国の頼みを全うし、無事、二十二世紀で桜子が目覚めます。しかし、長すぎた深眠の影響で桜子の記憶は不完全となっていました。上国は賭けに勝ちましたが、真に“幸せ”な未来だったのか、ヤマザクラの下で桜子の流す涙がすべて物語っています。
環となり帰結する物語が書けたこと、ヒューマンドラマとして物語を完結させられたことに満足しています。願わくは、新しいSFとして受け入れられることを。
一年間、ありがとうございました。
文字数:808