梗 概
Touch the Calen
誕生日の夜、庭で花の蕾を見つけた礎風は、画像検索でカレンデュラ(キンセンカ)だと知る。一目見てその花に触れることを恋い焦がれた礎風は、衝動に駆られ、手袋を外し直に触ってしまう。
細菌に日和見感染した礎風は、紫外線殺菌照射もせず花を鉢に入れ、部屋へ持ち帰った。
十三歳になった礎風は、DNAの疾患により紫外線を浴びることができず、免疫不全も併せ持つため、建築家の養親が設計した紫外線を遮断できる自宅で暮らしている。
自宅には、屋根付きの庭園があり、昼間は屋根が開放され、夜には空をリアルタイムで映すスクリーンになった。
プログラマーでもある礎風はITのおかげで多くのことを知っているが、知識を得るほど、〈ホンモノ〉への渇望が増していった。だが、かつて不用意に屋外へ出たトラウマから、礎風は紫外線遮断スーツがあっても外に出るのが怖かった。
流行の三次元ホログラフィも、触覚フィードバックグローブも〈ホンモノ〉の代わりにはならず、自分の肌で直接、触れることのできるモノだけが礎風には〈ホンモノ〉だった。
養親に隠れ、カレンと名付けた花をこっそり部屋で世話する礎風は、朝に庭へ鉢を出し、夜に室内へ入れて育てた。
だが、数日経ってもカレンは開花せず、逆にしおれていく。水も活力剤も効き目がない。焦る礎風は鉢の植え替えを思いつかず、このままではカレンが枯れると悩み、庭へ植え戻すことを決意する。
夜、鉢を持って庭へ向かう礎風だが、悪化した体調により足元が覚束ない。庭までもう少しのところで鉢を落としてしまう。植物を育てていたことがバレ、病院へ連れていこうとする養親に、礎風は「自分の手でカレンを庭に返してから」と訴えた。
庭へカレンを移植した礎風は、養親に「二人にしてほしい」と依頼。セットしてあったプログラムで自宅のコントロールをロックし、屋根を全開にして日の出を待った。プログラムが窓にシャッターを下ろし、養親の目からカレンと礎風を隠す。
〈ホンモノ〉の星空の下、礎風は土を這う〈ホンモノ〉のダンゴムシを自分の手で転がしながら、カレンに自分の一生を語った。
太陽が庭に射し込み、家のロックを解除した養親が礎風へ駆け寄る。カレンに触れる礎風は、幸せいっぱいの笑顔だった。
文字数:1004
内容に関するアピール
悩むところから成長は始まります。今回は、その経験によって成長する/させる/させられる物語を創りました。同時に、「現実とはなにか?」に対する一人の少年の答えを明らかにしていきます。
現実を求めるにも逃避するにも、現実を認識しなければなりません。触覚には、現実の認識を補助する力があるように思います。礎風は外の世界を求めますが、自分の世界ではないという自覚もあります。
ティーンエイジャーならではの情熱と純粋さ、反骨心と無鉄砲な行動力で困難を乗り越えていく物語です。花に恋する少年は、現実に縛られることから、自ら殻を打ち破っていくことを学びます。
親は息子の成長に気が気ではありませんが、それもまた成長です。バッドエンドではありません。
文字数:345
Eternal Rose
プロローグ 『夜明け』
白みはじめた東の空が紺から橙色へ移ろっていく。
崖に建つ家の庭からは陽の出を遮るものがない。遙か向こうの水平線に紅の球体がかすかに頭を覗かせていた。
『UVインデックス:2』の明朝体が、『UVインデックス:3 危険』へと変わって、ぼくのヘルメットのディスプレイの右下で白く点滅している。鬱陶しくてもこの表示は消すことができない。
ヘルメットを両手で挟んで持ちあげる。
シュゥ、と気密の解ける音と同時に、圧倒的な緑の匂いが鼻を満たす。風には潮の香りが混じり、まだ訪れたことのない海へと思考を導く。
そこで痛みがぼくを現実へ引き戻した。
「……いててっ」
顔がチクチクして反射的にヘルメットを脇へ放りなげた。頬を触ると今度は、手の痛みが増す。曙光にうかぶ自分の真っ赤な手を見下ろし、ぼくは火傷で痛む両手を意味もなく振る。ブラブラさせたところで痛みがやわらぐことはないし、手首の腕時計がこすれて逆に傷がヒリヒリする。
とめどなく溢れる涙の塩分が灼けた頬に滲みた。
けれど、この涙はまぶしさでも、痛みのせいでもない。
「これが本当の朝、なのか。痛いけど太陽って案外、きれいだね……カレン」
ゴシゴシと目を拭ってぼくは傍を見下ろす。掘り返した土の跡がぽっかり空いた穴のように芝生を穿っていた。盛り土の横にはスコップ代わりに使った、光を反射する赤いチリトリとベージュの植木鉢がひっくり返っている。
埋め戻したばかりの土からは30センチほど、茎が伸びていた。枝分かれした先で星形の萼に支えられたいくつものゴールデン・オレンジの蕾が花開くときを待っている。茎の頂点で一輪だけ、丸く、花びらの多いカレンデュラの花が風にゆれていた。
スルスルッと、カレンデュラの茎を一匹のダンゴムシが登っていく。つつくと丸まって、ぼくの指を辿って手のひらに転がった。
「そろそろ行かなきゃ。実伊須も大杏も探してるだろうし。キミを帰したら病院にいくって約束したし……まあ、陽の出をみるとは言わなかったけど」
家のほうから、ぼくの名前をよぶ声が聞こえる。二人ともきっとカンカンだろう。騙すつもりはさらさらなかったけれど、だまって出てきたのは事実だ。
叱られるとわかっていても、いまは清々しかった。すべきことを済ませたぼくはいま、目をそらし続けてきた太陽と向きあっている。もしかすると、二人はぼくの”反抗”を喜んでくれるかもしれない。
「それはないか……ごほっ……」
へへっ、と苦笑いしただけで唇が裂けた。気管を咳の機関車が駆け上がって喉を突きまわす。本当にそろそろ戻らないと、しゃれにならなくなりそうだ。
握りつぶしてしまわないうちにダンゴムシを土に置いた。防御姿勢を解いた小さな甲殻類は、そのまま土の中へ潜っていく。よろめきながら立ったぼくは、放りなげたヘルメットを拾い、脇に抱えた。もう被るつもりはなかった。
「しっかり耕してくれよ」
体半分まで昇った太陽が、纏った焔を誇示するように高度を上げ続けている。空はほとんど橙色の天下だった。
「またきてやるからな!」
炎球を睨みつけ、ぼくは背を向ける。ボディスーツに覆われていない皮膚のすべてが痛かったけれど、それを太陽には悟られたくなかった。
「じゃあまたね、カレン」
もう一度だけ、カレンデュラに目をやる。しばらくのお別れだ。
カレンデュラに見送られ、ぼくは家路につく。灼けた素足で踏みしめる大地の感覚が心地よかった。
一章 『出逢い』
夜が明ける10時間ほどまえ、ぼくは朝から機嫌が悪かった。
原因は、ぼくに届いた一通の評価。顧客から注文に対する苦言は、ぼくの痛いところを突いてきたものだった。
「……『花片の色あいにムラあり。テクスチャに均一性がなく、指定カラーコード不一致。〈リトル・ガウディ〉の作として些かリアリティに欠ける』だって?!」
箇条書きで送られてきたフィードバックを読む声が上ずる。椅子から身を乗り出して三度、スクリーン左の文字列を読み返しても当然、書いてある評価は変わらない。そもそも、顧客からのフィードバックは事務局のチェックが入っているから、いたずらや冷やかしの入る余地もないのだけれども。
「好き勝手いうなホント。まぁとりあえず、カラーテストでもするか」
左手でフィードバックウィンドウを払い、右側に出しておいた下書きのイラストをディスプレイいっぱいに広げる。
絵には半透明の球が二つ、分裂直後の細胞のように引っ付きあっている。細胞膜代わりの磨りガラスの中で、緋色の薔薇が咲いている。まるでスノードームのイラストだ。左下隅には、ぼくの手書きで『Eternal Rose』と銘打ってある。
ここまでは二次元の、ただの絵。
「さーてと、クリエイションの時間だ」
リストバンドの時計兼コンソールを外し、ズボンのポケットにねじ込んだ。時刻は午後8時過ぎ。朝食を終えたばかりのぼくはこれからが仕事の時間だ。陽が昇るまで自分の世界にこもっていられる。
テーブルの端に揃えて置いた、中世の騎士が身につけるような篭手に左腕を通し、手首の裏にあるスイッチを入れる。キュイーン、と高い音がし、指先と手のひらに埋め込まれた無数の結晶が、ホログラフィプロジェクタとして目覚める。右腕にも篭手を装着して外科医みたく指を曲げ伸ばしする。
そして、ぼくは胸の前の空間を左右から摑んだ。
「どれどれ……」
三次元ホログラフィオブジェとして篭手から机のうえに投影された『Eternal Rose』。イラストと違い、ホログラフィは質感までつたわってきそうなほどリアルだ。商品として顧客に渡す関係上、光源は固定になるけれど、光沢を別にしても本物のスノードームが目の前にあるようだった。
左手でオブジェを支え、右手でドームを取り外して中身をあらわにする。
中には薔薇がぎっしり詰まっていた。真紅のミニバラをそのまま毬状に固めた二個のブーケだ。ブーケの持ち手部分はもうひとつの花毬と対を成している。二つのブーケは継ぎ目がないように描いたから、まるで、引き離される瞬間の雫を留めたかのよう。全体を一通り確かめてから花びらのひとつひとつを検めていく。
顧客の依頼は、「あらゆる角度から満開にみえる薔薇」のホロオブジェだった。
個人アーティストが作品を展示販売するプラットフォームで、ホロオブジェクリエイタとして小遣い稼ぎを始めてから四年が経つ。〈リトル・ガウディ〉こと、ぼくのもとには、時々こうして依頼が入るくらいには知名度があった(とおもっている)。依頼をもとにぼくがイラストとホログラフィを描き、サンプルのホロモデルは無料で顧客に渡す。
ホロオブジェのアーティストは数年前からいるから、特徴を出すためにぼくはサンプルに透かしも入れず、解像度も下げずに顧客に送る。初めのうちはそのせいで支払いをしない客や、そのまま自作として売る人もいた。けれど、ぼくの作品をパクった人間は、ぼくの個性までは盗めない。
おもに花や昆虫を想像のまま描いたぼくの作品が物珍しかったのか、意外に好評で、売れ行きも一ヶ月の食費といくらかを家に落とせるほどになった。
「こういう質感だとおもうんだけどなー」
サブディスプレイに植物図鑑を出し、ふさがった両手の代わりに視線入力で薔薇の写真をスクロールしていく。
インターネットは便利だ。実際に触れなくても、細かいディテールまでつぶさに知ることができる。家の庭にも花はけっこうあるけれど、なんでもある訳ではないし、ぼくが触れるのはご法度だから質感は想像するしかない。
「うわ、ホントだよ。カラーコードちがってんじゃん。なにやってんだ、ぼく。こんな凡ミス」
右手のホロ用のカラーピッカーで抽出した値が宙にポップアップする。顧客の指摘どおり、一部の花びらはオーダーの「ラージャ・ルビー」ではなく「モロッコ・レッド」になっていた。ぼくの場合、カラーリングは手作業なので間違いが起こる確率は自動ペイントよりも高い。これはすべて塗り直すしかない。
ペイントツールを呼び出してふと、顧客の指摘をおもい返した。
「……リアリティ、か」
ぼくにとってリアリティは、このホログラフィのようなものだ。
映像としてたしかに目の前にある。テクスチャを振動で再現する機械を使えば、擬似的に触れることもできる。データを3Dプリンタに流せば、手に取ることさえできる。
だから、ぼくの作るものはプリントがしづらい作品ばかりだ。3Dプリンタでは出力が困難な形状・素材・手触りを意図的に選んでいる。
現実味が乏しいと言われるのは、初めてではない。テクスチャの粗も、ぼくが想像で付していることが多いからだろう。それをぼくは武器にしてきたけれど、どうやらこの『Eternal Rose』の顧客は、ぼくのリアリティに異義があるらしい。
「たしかに、なんか……ちがうんだよなー」
色付けは後回しにし、ディスプレイから顔を離した。方向性がみえていない状態での作業ほど苦痛なものはない。
「よりリアルに、かぁ」
椅子の背もたれに体をあずける。両手はまだ机のうえに『Eternal Rose』を投影している。ギィ、とエルゴノミクス設計の椅子が軋んだ。特製ロッキングチェアの快適なゆれも、わざわざ「軋む」ように設計された音も、ノイズにしか感じない。
ヘッドレストに頭を付け、目を閉じる。
いつも鮮明にうかぶ作品のイメージがぼやけ、集中しようとするたび、像が霞んだ。
「あ~もうっ!」
椅子を蹴飛ばす勢いで立ったぼくは、プロジェクタの篭手を摑んで机に叩きつけた。もう片方も強引に腕から引き抜いた。薔薇のホロオブジェにノイズが入ってたちまち、かき消える。
ブイエー、とヴァーチャルアシスタントをよび、部屋を横切る。プロジェクタの接続不良を報せる周期的なビープ音が背中越しに聞こえた。
「〈ヴェール〉の出力をさげといて。これから庭に出る」
額縁が並んだ部屋の壁には、ぼくが特に気に入ったホロオブジェのイラストが飾られている。
昔は、ここに大杏の撮った写真を額に入れていたけれど、あのことがあって以来、風景写真はすべて壁の中に仕舞った。収納スペースも兼ねている壁の中はクローゼットになっている。
「ふぅー」
はためくカーテンを留めたような、ウェーブした窓のまえに立つと、エネルギーシールドを発生させる高周波の音がかすかに聞こえてきた。
海にうかぶ街、〈灯街〉の技術者が開発した新たな”間仕切り”、〈V.E.I.L.〉。その柔軟性から建築はもちろん、医療、服飾あらゆる分野にブレイクスルーをもたらした。
「ソフさま」
傍のウォールインクローゼットを開けたぼくに、老執事がよびかけた。
「現在、庭園の紫外線殺菌照射中です」
〈ヴェール〉の外は真っ暗でなにもみえない。最大出力に設定された〈ヴェール〉は光を完全に遮断する。たとえいま、気まぐれな太陽が昇っても、やはり真っ暗には変わらない。
VAが言うからにはいま頃、散水機一体型の紫外線灯がサーチライトよろしく、回っているのだろう。穏やかなVAの口調が余計、イラッとくる。
「だったらUVGIを中止!」
室内は光る壁と天井の間接照明で明るいぶん、窓の向こうは、闇という空間をそっくり切り出してきたかのように黒々としていた。ガラスと違い、光を反射しないエネルギーシールドにぼくの姿は映らない。
「くそっ……! こんなものっ」
クローゼットから取りだした真新しいゴム手袋に、なかなか指が入らない。苛立つとかえって、手が震える。あのことを考えたせいだ。頭から追い払おうとしても、逆に記憶があがってくる。室内だというのに肌がヒリヒリしてきた。
「ソフさま、心拍数が上がっております。PTSDの傾向が……」
「うるさいっ! ブイエーはだまってて」
「しかし、アドミニストレータであるミースさまからは、ソフさまの健康状態をたしかめるよう仰せつかっておりますので……」
「ブイエーっ! 個体ナンバーVA-2031A-2!……『汝はわれなり』! ぼくの言うことを聞くんだ」
ヴァーチャルアシスタントのIDをよび、ぼくが組み込んだ認証フレーズでシステムのロックを外す。
途端、ピタリと人工音声が止んだ。ブイエーはプログラムでしかない。そしてプログラムは、以前ぼくが書き換えたコードにしたがって無条件に命令を聞き入れるモードに移行した。
「改竄者として命じる」
深呼吸して自分を落ち着かせる。手袋はわずらわしくなって着けるのは止めた。どうせ、なにも触れやしない。
「ぼくは健康だ。だから、アドミニストレータにはそうやってレポートしておけ」
「……かしこまりました」
低い声がそういうと、ブーン、というエネルギーシールドの音が小さくなっていく。外は相変わらず暗いけれど、少しずつ黒の中に輪郭がみえてきた。限りなく黒に近いオブシディアンの絨毯は芝生だ。
「ふうー」
きちんと積み上げられた手袋と、着替えのボディスーツのうえに鎮座する、ライダーが使うような仰々しい密閉ヘルメット。それを被ると、空気の抜ける音がしてフィルター越しの真新しい空気が肺を満たした。滅菌処理された只の空気は消毒剤の匂いがする。
ヘルメットの内部では、ぼくを検知したシステムが起動シーケンスを終わらせたところだった。二秒ほど文字列が走ったあとは、ヘルメットを被っていないときと同じくらいに視界が広がる。裸眼の視界と違うところは、右下に『UVインデックス:1未満』と白い文字が透かしのように入っていること。インデックスが2を超えるとアドミニストレータへ自動的に警告が行く。
「いくぞ」
〈ヴェール〉に手のひらを押し当てた。スピーカーを触ったかのように手のひらを細かい振動がくすぐる。
手に力を入れると一瞬、〈ヴェール〉が押し返した。すぐさま、ぼくの左手を飲み込む。
手首から先は外の世界。まるでぼくを誘うように、素手を風がなででいく。
一歩、踏みだしたスニーカーのつま先が〈ヴェール〉に消えた。
靴底から芝生を踏みしめる感触がつたわってくる。スニーカーも、手袋並みに密閉性の高い靴下も脱ぎたくなった。ヘルメットさえも脱ぎ捨てて芝のうえで転がりたい。
その光景を想像していると、太陽がイメージに割りこんでくる。美しいとおもう間もなく、すべてを光で塗りかためる明るすぎる光の星。生命の源でありながら、太陽はその光でぼくを殺す。
「……あっちいけっ」
ヘルメットを振ってビジョンを頭から追い払った。目の前に集中する。
ぼくはリアリティの調査に来たんだ。遊びで真夜中の庭へ出たんじゃない。
「オーバーナイト・センセーションは……こっちだったっけ」
かつて、宇宙へも運ばれたという名高い薔薇。『Eternal Rose』を製作しはじめた際、ネットで薔薇を調べたときに一発で名前を気に入った。大杏に植えてもらったあのミニバラは、そのときから場所が変わっているかもしれない。庭を足早に進んでいく。
サッカーフィールド並みの面積を有する家の庭は、自宅とは反対側の崖に向かって広がっている。この10年あまりでぼくは庭の隅々まで、夜な夜な出かけていって踏破した。フェンスのない海側から足を滑らせかけたときは、あのとき以来で本当に死ぬかとおもった瞬間だった。
探索の結果、わかったのは大杏のガーデニングが少々、気まぐれだということだった。樹木以外の花卉はしょっちゅう植え替えられ、まるで毎回、知らない庭を散策している錯覚におちいる。
「チェックポイント到達っと」
さいわい、この数日はあまり庭へ手を加えていないらしい。芝から突き出たポールの数を辿る。庭の中央あたりまで来ると、5メートルを越すオリーブの樹が月明かりに佇んでいた。
きょうは満月らしく、青白い光が舌の形をした葉をつつむ。太陽の樹に降り注ぐ青い月光。樹の根本では葉の影にならなかった草花が月の光にうずくまっている。
「やっぱりここか」
目当ての薔薇も、植えたときと変わらず大柄な薔薇に埋もれるように大樹の下で茎を伸ばしていた。茎から先がバッサリなくなっているものは咲き終わって切られたのだろう。すべての花が剪定されたわけではなく、数輪、自然の折り重ねた芸術品である花の冠が残っている。月光を浴びた薔薇は色が褪せ、ルビー色からほど遠い代わりに、花びらは上物のシルクのよう艶やかだ。
「さて……テクスチャを検証するためだ。いいよねー」
仕事のためだと自分に言い聞かせ、薔薇の茂みに手を突っ込む。手前の枝が思いのほか丈夫で、オーバーナイト・センセーションになかなか届かない。伸縮性に優れた長袖に棘が引っかかって余計、動きが鈍る。
「邪魔っ!」
一旦、手を引き抜いてから思い切って右腕の袖をまくり上げた。たくれた生地が自ら検知し、製麺するようにシワが伸びて片腕だけ七分丈に変わる。そうやってあらわにしたぼくの腕は、薔薇の横で咲いているスノーフレークの鈴よりも白い。もう一度、腕ごと右手をイバラに差し込む。
「もうちょい……いてっ!」
滑らかな花びらに触れた瞬間、チクッと痛みが走った。
反射的に腕を引っ込め、刹那、間違いに気付く。
「……っっ!?」
真っ白だった腕と手には赤い筋がいくつも入っていた。特に手首は、薔薇の棘を勢いよく擦ったせいで生命線を引き伸ばしたように、3センチほどの傷から血が滲んでいる。
はやく消毒をしないと。
肌身離さず持ち歩くよう、実伊須に何度も言われた救急キットは持っていない。自宅の庭で、しかも薔薇の棘で手を切るなんて。実伊須が知れば当分、笑いぐさだ。
「なんだよまったく! きょうはツイてなさすぎる」
短くなった袖を引き伸ばして傷を覆い、このくらいの傷ならバレないかもしれないなどと考えながら引き返そうとしたときだった。
顔を上げたそこに彼女がいた。
ヒマワリのような放射状に広がった、たくさんの花びら。
夜でもわかる明るい橙色。
花の中心、丸い雌蕊の束が瞳のようにぼくを見つめていた。
二章 『分水嶺』
「とりま、これでなんとかなった……のかな?」
篭手から生えた橙色の花。指の部分を広げて”脚”にし、手を入れる袖口から土を篭手内に詰めてそこへ植えた花。不格好である以上に安定性が著しく低い”篭手鉢”は、いま、立てたばかりのぼくの目の前でまた転けた。
「ダメだな、こりゃ」
さっきから転倒を繰り返すせいで、普段、ホコリひとつ落ちていないぼくの机には、腐葉土の塊が散らばっている。ディスプレイをみながらチョコレートを食べたところで、この有様にはならないだろう。土塊に隠れていたダンゴムシが一匹、テーブルから這い出そうとしていたので、ぼくはあわててもう一つの篭手を差し出す。結局、ダンゴムシは身投げすることなく、ぼくのテーブルの探検を再開した。
はぁー、とため息をついて、ズボンのポケットにねじ込んでいたリストバンドの時計を取りだす。時刻は午後9:21。昼食まで、まだ時間はある。この状況をどうにかしないと。
「いっ……つっ」
無意識に弄った手首がヒリヒリする。消毒し、絆創膏も貼った。”作業”しているときは気がつかなかったけれど、傷口のまわりには結構な量の土が付いていた。
あいにく、ぼくの部屋に水道はない。キッチンかトイレまで行けば洗えるけれど、間違いなく大杏に見つかる。勘の鋭い大杏には部屋の惨状も隠しきれない。建築家のくせに、「トイレは家族の共同スペースだ!」と宣言して一カ所しか手洗いを設置しなかった実伊須が恨めしい。
「まずは、ちゃんとした鉢からだ」
“篭手鉢”をズズッと机の隅に寄せ、途中、また倒れてばら撒いた土を手づかみで篭手の中に戻す。磨きあげた篭手の表面も土まみれだ。この篭手はもう使えないかもしれない。そうおもうと、少し胸が痛む。仕事道具をダメにするのは浅はかだったと、冷静になったいま、感じはじめている。特に、顧客からオーダーを受けている状態では。
アクリルの机に投影されたキーボードを叩き、大手通販サイト『アマゾネス』にアクセスする。
検索フィールドに「植木鉢」と打ち込むと、8万件以上も結果が出た。大きいものから小さいもの、素材は陶器から布製まである。さすが世界最大のショッピングサイト。『書籍から墓石まで』のキャッチコピーは伊達じゃない。
「プライマリーで絞りこんでっと。即時配達ができるのは……」
有料会員の期限が切れているかも、という不安は、有料会員の青いバッジが吹っ飛ばした。自動更新さまさまである。
「小型がいい、な。んでなるべく高機能なやつ」
堂々と机にカレンを置いていられれば、普通の植木鉢でもいい。ショッピングサイトのページから据わりの悪い鉢へ目が移る。
けれど、そこには露出した土と水。そして生き物であるカレンデュラの株。
自然免疫すら欠けているぼくにとって、そのどれもが、致死的な結果をもたらす。
「……だからなんだってんだ」
タイピングを止めたぼくの親指を、机を縦横無尽に駆けるダンゴムシがつつく。意地悪したくなって土の付いた手で閉じ込めてやる。
このダンゴムシと同じだ。ぼくも自宅という天蓋の下で身じろぎが取れない。いや、取ろうともしなかった。
「でも、外の世界には、こんなきれいなものがあった」
机の隅で花を咲かすカレンデュラ。薔薇の茂みに埋もれていたこの花を見つけたとき、なぜか太陽がおもいうかんだ。なのに、息が荒くなることも汗が噴き出すこともなく、ただカレンデュラを持ち帰りたい衝動が強くて、ぼくは植物に日光が欠かせないことも忘れて掘り出してしまった。
そしていま、太陽の映し鏡がぼくをみている。想像するだけで気が滅入っていた、ぼくを妬く太陽をぼくは初めて、正面から考えられるようになった。カレンデュラにもらったこの力を、無駄にしてはいけない。
「ぼくも冒険のときってかい?」
ダンゴムシが手のひらをつつく。手の屋根を開けると、スルスルッとメタリックな重装甲が駆けていく。
向かう先は、篭手の中で傾いたカレンデュラ。その花をみてぼくは心を決めた。
「やってみせる」
「ホウキ? あるけど、どしたの急に?」
大杏は菜箸を持ったまま、不思議そうに首をかしげた。数字をかたどったイヤリングがキッチンの灯りにキラキラとゆれている。
「えぇっと……」
部屋の土を掃くため、とは言えずに口ごもる。大杏はそんなぼくの答えを待ちながら、フライパンを揺すっている。
養母として大杏はただ、掃除に無頓着だった息子の変わり様を不思議がっているだけだ。いまのところ、疑われてはいないはず。とわかっていても、後ろめたさがぼくの目をおよがせた。
調理教室が開けそうな広々とした”コの字”型のシステムキッチンで、大杏はひとり、昼食の準備をしていた。家は三人家族だからキッチンに業務用並みの広さはいらないはずだけれど、大杏は家を建てるときに頑として譲らなかったらしい。実伊須が言うには、「あらゆる料理が作れる」キッチンを求められたとか。
たしかに、シンクを取り囲うように煉瓦造のピザ釜が鎮座する横で、壺の形をしたタンドールが異彩を放っている。壁には1メートルを超すマグロ包丁が、武具みたくディスプレイされているし、背が2メートル超えの冷凍庫にはいつだったか、ブタの頭がまるまる入っていた。家の料理は多彩だった。
「ほ、ほら、もうすぐ誕生日じゃん? 十三にもなったら部屋の掃除くらい、できるようになったほうがいいかな~、って」
「えらいわね、礎風! ついこのまえまで『繊細なんだから勝手に拭くなー』って篭手に触らせてくれなかったのに」
「そ、そうだったっけ……あは、あはは〜」
もはや拭いたくらいではおそらく、どうにもならなくなっているだろうその篭手。冷や汗が背筋を流れていく。
「ちょっと待ってね」と言って菜箸を置き、キッチンの反対側へ向かう大杏。鼻唄まじりだの本人は皮肉のつもりが微塵もない。ただ勘が鋭すぎるぶん、すべて見透かされているようでなんとも落ち着かない。
「はい、ホウキとチリトリねー。どっちも滅菌済よー」
大杏が差し出した掃除道具は光っていた。
それが〈ヴェール〉によるコーティングだと気づいたのは、受けとった手にくすぐられるような感覚がつたわったから。腕と同じ長さの柄のホウキと、スコップのような真っ赤なチリトリ。まるで異世界から来たのか、二つの掃除道具にはエネルギーシールドが掛けられ、ぼくの肌に直接触れないようになっている。
「〈ヴェール〉のパッケージ……? もう市販化されてたっけ」
「試作品よ。コスト的にはまだまだみたいね。これは実伊須がね、礎風に試してほしいって前々から用意してたのよ?」
養父はエネルギーシールド〈ヴェール〉の建築への応用を研究している。建築家でもある実伊須は、窓を〈ヴェール〉で代用するアイディアを認められ、〈ヴェール・ウィンドウ〉は急速に広まってきていた。エネルギーシールドは柔軟に空間をヴェールし、雨風はもちろん、遮光の程度も自由に変えることができる。
「……これぼくに?」
意外だった。実伊須はどちらかというと、ぼくの引きこもりに反対派を取っている。あのこと以降も、実伊須は事あるごとにぼくを外へ慣らそうとしてきた。そんな実伊須が息子のために家で使う掃除道具を、次世代技術で試作するのだろうか。
「あったりまえじゃないっ!」
大杏がぼくの肩を叩く。なかなか痛い。
「実伊須はね、礎風が使いそうなものすべてに〈ヴェール〉が適応できるか、いま一生懸命試してるのよ? いつの日か礎風がこの家を出て、ひとりでも暮らせるようにね」
「家を出て……灼かれて死ねって?」
自分でもビックリするくらいの冷たい声だった。大杏がぎゅっと拳を握るのがわかる。こんなことを言うつもりはなかった。
「ねぇ待って!」
掃除道具を引ったくるようにしてキッチンに背を向ける。どうしていいかわからなかった。
「ちがうわっ、礎風っ!」
後ろから大杏が呼び止める。
走りだしたぼくは振り返れなかった。
* * *
夢のなかにいた。
見慣れた自分の部屋にはまだ机も、コンピュータもなく、部屋の壁には大杏が撮影した写真が、所狭しと並んでいる。
ぼくは、まだガラスだった頃の窓のまえに立ち、暗くない外を眺めている。庭の芝生が青々と陽の光にゆれているのが、いまより低い背からもみえた。
それはぼくが二歳の頃、大杏と実伊須の元に来てすぐのことだった。
鍵のかかっていなかった窓をまえに、二歳児はただ外へ出たかったのだろう。「おそとにでてはいけない」と言いつけられていたとはいえ、二歳児の好奇心に言いつけはなんの効力もない。
窓から射す太陽光。すでに肌がヒリヒリとしていたにもかかわらず、二歳のぼくは窓に手をつけ、そのの拍子か窓はスライドした。
開いた隙間に体を入れ、ぼくは脱出に成功する。
芝生に踏み出し、青空を見あげ、
地獄が始まった。
* * *
「はあ……はあ……」
開いたまぶたの上を汗が流れていく。心臓が体から逃げ出そうと暴れている。速乾性のボディスーツが吸収しきれないほど、背中はぐっしょりしている。久しぶりのフラッシュバックだった。体は太陽に慣れても、記憶はそう簡単に消えない。
「寝てた、のか」
体を起こし、ズキズキする手で時計をズボンのポケットから引っ張り出す。キッチンを飛び出してからまだ30分も経っていない。カレンデュラが鉢に収まって安心したのか、ぼくは夢をみるほどにすっかり寝込んでいたらしい。でも体は休まるどころか、直火で炙られたような感覚がまだ残っている。重い体を無理やり立たせ、ふらふらになりながら部屋の反対側を目指した。
キッチンから部屋に戻ると、投下完了の通知が時計に届いていた。
『アマゾネス』の郵送オプション、投下配達は早い。座標を入力してやると、機体にウインクマークのついたドローンがピンポイントで飛んでくる。初期の頃と違って、いまはちゃんと地面まで荷物を置いていってくれる。
部屋から近い庭の一カ所を投下地点に選んでいたぼくは、今度こそ手袋をはめ、片手にチリトリを持って完全防備でもう一度外に出た。庭の指定した地点に寸分違わず届いたブラウンの土壌還元ダンボールから植木鉢だけ取りだし、チリトリで土を掘ってERCを埋めた。数時間で土に還るERCなら、大杏がガーデニングで剥げた芝生を怪しんでも証拠は残らない。
植え替えで出た土は、机と床をひととおり掃いて(雑巾も借りればよかった)庭に捨てた。相変わらずぼくの机で冒険していたダンゴムシにも庭へ帰ってもらった。
ホウキもチリトリも柄がある。庭へ出なくても〈ヴェール〉の窓から掃除道具を突き出して降れば、付いた土を落とせる。〈ヴェール〉同士、干渉することもなく元々コーティングされた掃除道具は、簡単に綺麗になった。
「ガタッ……ゴトッ……」
放ってあったホウキに足を引っかけ、チリトリにつま先をぶつける。倒れずに机まで歩いて最後は背高の椅子に倒れこんだ。ロッキングチェアが大きく軋んでのけ反る。まるで二日酔いだ。
「いっつつつ……っ!」
椅子にもたれ、右腕をアームレストに投げ出す。途端、鋭い痛みが腕を突き抜ける。トイレで洗い、下ろした袖をたくりあげると傷の有様がよくわかる。
薔薇の棘で切った傷はミミズ脹れになり、熱を帯びてジンジンしていた。特に酷いのは手首だ。消毒もしたはずなのに化膿している。色白の皮膚に、赤とマスタード色が子どもの絵のように四方に散っている。ぼくはこういう絵は描かない。
「これはちょっと……まずい、かな」
体がだるいのは、夢のせいだけではない。いま頃、防御機構がほとんどないぼくの体内では、弱い菌も強い菌も盛大に宴を開いているのだろう。残念ながら、宴会を止める警備員は欠員だ。
ぼんやりする頭をもたれかけ、机の隅で咲くカレンデュラへ目をやる。自動水やり機能の超小型ジョウロが、鉢の縁からせり出して土へ、チョロチョロと蜘蛛の糸のような水を注いでいる。
「どうすっかな」
掃除のときに床へどけたペアの篭手を拾い上げ、怪我していない左腕にはめる。指を動かすと、映像を投影する結晶が光った。
宙にうかぶ薔薇の毬。カレンデュラを連れてくるまえに放り出した状態のまま、ドームが取れて薔薇があらわになっている。
この依頼は断ろうとおもっていた。ダメ出しを食らったからじゃない。顧客の指摘は正しい。
ただアイディアがうかばず、いまの出来には満足できなかった。
「いや……投げだすもんか」
フレイム・オレンジの、カレンデュラの花を眺めているうちに、だんだんと頭が冴えてくる。体の中から熱くなってくる。
弱気だった自分にカレンデュラが力を与えてくれる。
「そうかっ!」
椅子から背を起こす。勢いをつけすぎて目眩がしたけれど、気にしなかった。
「隠す必要なんてないんだ」
弾けたアイディアの光はたちまち次の閃きに火を点け、明確な像を作りあげていく。あれだけ掴めなかった作品の全体が、いまや細部までくっきりとみえるようになった。
「それならっ……!」
机にあるもう片方の篭手。中はまだ土にまみれている。掃除はできていない。でも、片手ではホロオブジェに修正を加えられない。
薔薇のホログラフィと、化膿した自分の右腕を見比べた。まだ、やれる。
「よしっ!」
やらない理由はいくつでも言える。
やる理由はひとつだけだ。
三章 『巣立ち』
午前0:03。余所では寝静まる時間が家の昼食の時間になる。
外は真夜中でも、壁と天井、床のあいだから間接照明が喫茶店のようなやわらかい温暖色にリビングをつつむ。三枚羽根のシーリングファンが風を切り、サックスの心地よい嘶きがスムーズジャズを奏でる。食卓につくまえから焼き魚の香ばしさが熱で鈍った鼻をくすぐった。
「うちって、いいね」
三人掛けの円テーブルで隣に座った実伊須と、「きょうのお昼はお魚よー」と長角皿を置く大杏。二人を交互にみてつぶやいたぼくに、「どうした礎風? シミジミしてさ」と実伊須がメガネを押しあげる。
「落ちつくな~とおもって」
節々が痛みだした体を背もたれにあずけ、ぼくはテーブルに隠れた両手を意味もなく動かした。
普段と変わらない光景。ぼくの記憶にある限り変わらない日常。ぼくがこの家に来てから当たりまえになった日々で、けれど、けっして当たりまえではなかった。
余所では、家のように真夜中をお昼とは言わないし、陽が暮れてから一日を始めるほうが珍しい。
それを知っていたぼくは、実のところ、本当にはわかっていなかった。
「家、だからな。そりゃ落ちつくだろうさ」
ふっ、と笑った実伊須はまるでなんでもないことのように肩をすくめてから、食卓に手を置いた。角メガネの目の下が影のようにくすんでいる。昼間に仕事をこなす実伊須も、寝る時間を削って真夜中の昼食の席についている。
「うん、そうだね……ありがとう実伊須」
「なにさ改まって。変だぞ? 礎風、熱でもあるんじゃないのか……いてっ! なんでつねるんだよ大杏っ!」
ぼくの額に手を伸ばした実伊須が脇をさする。実に痛そうだった。
実伊須の横、ぼくの斜め向かいに座った大杏は、そんな実伊須をじろりと睨みながら、ぼくをチラチラみていた。掃除道具を取りにきたときのことを気にしているのだろう。そのことも謝らなきゃな、とぼぅっとする頭にメモする。
「めずらしく勘が鋭いじゃん」
ニヤリとしたぼくを実伊須は「一言よけいだよ」と親指で自分の鼻をこすった。褒められたときの癖だ。大杏のほうはいまのぼくの言葉で顔が青くなっている。やはり、養母に隠し事は難しいらしい。
「礎風……まさか」
「うん、ちょっと……というかけっこう、熱がある」
「たいへんじゃないか! すぐメディックに……」
「実伊須、病院にいくよ。医療SIじゃダメだとおもうから。いくからでも、げほっ……ちょっとだけ、話をきいてくれない? 大杏も」
立ち上がりかけた実伊須を止める体力がぼくにはない。じっと目を見つめ、時間がほしいと訴える。
「なにがあった、礎風?」
大杏と顔を見あわせ、実伊須が腰を下ろした。
「朝、じゃなくて陽が暮れてから、庭に出たんだ。創作が行きづまっちゃって。オリーブの樹のしたに薔薇があったでしょ? そしたらあれに引っかかって」
隠した右腕をテーブルにのせる。出来たての料理と作った大杏に申し訳ないけれど、タイミングはいましかなかった。
「そのうで?!」
袖をまくっていくと、大杏の息をのむ声が聞こえた。ここまで傷が酷いのは初めてかもしれない。
「だまっててごめん。自分の体質はわかってたけど、無用心だったよ」
「わかった。じゃ、はやく病院にいこう。ブイエー、ビークルを表に」
「ブイエーは無しっ! まってっ!」
急に立ちあがったせいで頭がクラクラする。テーブルに手を突いてなんとか、体を支えた。肩で息をするぼくを実伊須も大杏も困った目でみている。反応しないヴァーチャルアシスタントに気が回らないのは助かった。
VAのセキュリティは外したままだ。二人に知られると非常にマズい。「病院へ行くまえにやっておくことリスト」に項目を加え、深呼吸してぼくは続ける。
「いま、ホロオブジェの製作があと少しのこっているんだ。ぼくは……げほっ……仕上げてからいく」
「礎風、おまえの体は感染に無防備なんだぞ。わずかでも長引かせば、深刻なことになりかねない」
ぼくの肩をつかんだ実伊須の表情は険しい。こんな顔で言われたら、かつてのぼくなら言い返せなかっただろう。
頭ひとつぶん、上にある養父の目をしっかり見据える。
「ぼくは大丈夫。深刻になるまえに病院へいく。だから今晩だけ、まってほしいんだ。ぼくはやり遂げるし、死にもしない。約束するよ」
いつになく真剣なぼくに、実伊須も困惑しているようだった。焦げ茶色の瞳が迷いと信頼でゆれているのがわかる。
『Eternal Rose』はもう仕上げに入っていた。
一から作り直しになったけれど、苦ではなかった。作業中は傷の痛みを忘れるほどに集中し、自分でも最高傑作になりそうな予感がしている。
ぼくにはもう一つ、病院へいくまえにやりたいことがあった。こっちは言っても絶対に理解してくれないだろうから、二人には黙っておく。そのための時間稼ぎだった。
「ねぇ礎風。もしさっきわたしの言ったことのせいなら……」
「ちがうよ、大杏」
ゆっくり大杏に向き直る。
「大杏の言ったことは正しかったよ。あんなこと言ってごめん。ぼくは自分と向きあわないといけない。家を出ていくかとかいう話ではなくて、それが大人になるということなんだね。自分で壁を乗りこえるためにも」
「まだ無理しなくていいんだぞ、礎風」
倒れそうになるぼくの肩を支え、実伊須がのぞき込んでくる。
「わかってるよ。でもぼくはもう、外の世界はこわくない……太陽だってね」
エピローグ 『数日後』
「ふんふん~ふん……あれっ?」
机を拭いていた大杏が首をかしげた。特徴的なイヤリングがそんな彼女の頭の動きにあわせてゆれる。普段、消えているはずのディスプレイが突然点き、作業中らしきウィンドウがいくつもひしめきあっていた。
鼻唄まじりの大杏はきょう、特に機嫌がいい。
養子が退院してくるのだ。いつも以上に豪勢な料理を用意し、家の隅々まで掃除した。
「コンピュータのなかも整理整頓よー礎風」
頬を膨らませる大杏の言葉とは裏腹に、顔はどこか楽しげだ。
どこか触ったからしら、と疑問におもいながらも、大杏が部屋をこっそり見回す。壁には個性的なオブジェのイラストと、昔の写真が飾られている。写真のほとんどは、プロフォトグラファーだった大杏がかつて撮った風景ものだ。それがまた大杏にはたまらなく嬉しい。
部屋の一面を占めるのは〈ヴェール〉の窓。
いま、〈ヴェール〉越しには芝生と青空がみえる。
「だれもいないっか」
好奇心に負けた大杏は、えいっ、と唐突に点いたディスプレイへ顔を近づけた。
「なになにー……『素晴らしい出来。サンプルからは予想だにしなかった仕上がり。〈リトル・ガウディ〉に感謝』? だれだろう? それにしても〈リトル・ガウディ〉って、ぷぷっ。痛い名前だなー」
口元に手をあてて笑いをこらえる大杏。ディスプレイから顔を離し、部屋の掃除を続ける。
「ここに置いてっと」
甲冑のような篭手を、手のひらを上にして机にそっと並べた。磨きあげられた篭手に土はおろか、一点の曇りもない。
「ダイアンさま、ミースさまとソフさまがお戻りになりました」
VAの落ち着いた声とともに、玄関のほうが騒がしくなる。
「おっ、帰ってきた帰ってきた!……きゃっ」
焦った大杏の足がもつれる。咄嗟に机のなにかをつかんだおかげで、転ばずには済んだ。実伊須が見ていれば、「おっちょこちょいだなぁ」とニヤニヤしたことだろう。
「礎風ー! おかえりぃ!」
風のようにあわただしく部屋を後にする大杏。
だれもいなくなった部屋で、ふいに篭手の結晶が輝きを増した。大杏がつかんだときに電源が入ったらしい。
宙にうかんだホログラフィは、透明な泡が光の反射を受け、まるで水中のように泡の膜が波打っている。
バブルの中には、萼同士を融合させた二輪の大きな薔薇がうかんでいた。
(完)
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