デスブンキ ヌーフのダム

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デスブンキ ヌーフのダム

 一

「やあ、ようこそ、ヌーフのダムへ」
 目の前に来訪者がいたので、俺はわざとらしい挨拶を彼に捧げる。周囲を行き交うこのダムの住民達は、俺と訪問者のことなど誰も気に留めず、列車の騒音と共に程良く喧騒を撒き散らしている。
「ここは紀元前5600年頃のボスポラス海峡(*1)を横断する巨大ダム。そして私はダム管理者のヌーフと申します」
 ボスポラス海峡とは黒海の南西に位置するトルコ最大の都市イスタンブールに存在する海峡のことで、ヌーフとは『ノアの方舟』のノアのイスラム圏の呼び方のこと……ということに俺の世界ではなったらしい。尤もそう歴史改変させたのは他でもない俺だが。
 それはともかく、まずは形式的に訪問者の名を伺うと、相手は自らの名を饒波じょうはと名乗った。当然ながら俺は彼がその名を口にすることを名乗る前から予想していた。
 続けて今度はこの地を訪れた理由を問うと、饒波は自身の住む別世界の日本から、デスブンキを消すためにこの世界へ来たと説明した。その答えも予想通り。
「デスブンキは人を狂わせる。もし仮に君が狂った場合、安全性の観点から君を殺さなければならなくなる。それでも任を果たしたいと」
 饒波は清く頷き肯定する。そこで俺は語った。
「この世にいくつもの世界線があるとしたら、そこには必ず分岐点が存在する。本来分岐したばかりの世界線に大差はなく、バタフライエフェクトのように徐々に異なる歴史を歩み始める。……それが一般的な世界線の分岐。けれどデスブンキはそうじゃない、分岐点よりも過去の歴史までもが改変され、その延長にある現在は既に差分が追加された状態に変わってしまう。だからそんなものがあってはならないと考える君の主張も、俺は理解する」
 その時、饒波の警戒心が微かに強まる。デスブンキを消したい彼の主張に完全には同意しなかったからだろう。
「ところで、何か質問があれば答えますが」
 すると饒波は意外にも、俺が行った殺しについて尋ねてきた。こういった質問をする饒波は十数人に1人くらいの割合でいる。
「変わったことを訊くんだな。なに、受けた質問には答える。それが俺の懺悔でもある。……俺は過去に4つの殺人を犯した」

 第1の殺人は俺がデスブンキを知る切っ掛けとなった出来事。
 発端は2011年3月11日の東日本大震災だった。当時の俺は丁度地理に関する野外調査と称して東北を旅行中でたまたま被災した。幸い海岸からは離れていて津波被害は免れた。
 それから崩れた今後の予定を地理の本を再読しながら考えていた時、本の後半部分のページが震災前と比べて1ページずつ後ろにずれていることに気付いた。俺は無意識の内にそのページがずれ出した地点を探し始め、そして見付けてしまった。
「旧……北上川?」
 それは初めて見る川の名で、それがどうにも気になり電子媒体のGoogle地図からも確認してみると、宮城県登米市の南部で北上川が分流している地形が出てきた。念のためGoogleとは異なるデータの電子地図からも複数確認してみたが、結果はどれも変わらず。
「こんな川は昨日までなかった筈……」
 翌日当初の予定を変更して北上川へ行くと、その分流地点に浮かぶ川中島に北上川河川歴史公園なるものがあった。そこには川が昔から分流していたことを示す記載があり、具体的には1911年から1934年までの23年間、北上川を分流する北上川改修工事事業が行われていたと記されていた。更に記述を裏付ける遺構までが存在し、鉄骨で稲井石を補強した一本松樋管、一部が切り取られた旧月浜第一水門、上方が欠けた煙突等、様々な展示物が屋外に設置されていた。加えてそれらの記述は震災後に本やネットで見た情報ともほぼ合致していた。
 だが俺の記憶では北上川が分流したのはつい昨日のことだった。
 納得のいかない俺は、記憶にない北上川が本当に地図通りに海まで続いているかの確認に動いた。早速北上川を辿るように国道45号線を走り始める。登米市から石巻市に入って暫くすると旧河北町の家並みが見えてくる。その少し先の飯野川橋の手前の信号を左折。国道197号線に乗り換え、そこを暫く進んで旧北上町に入る。
 とそこまで進んだ辺りで、不意に悲痛な光景が目に入ってきた。瓦礫としか言いようのないものと過剰な水溜まり、それらが山間の平野に広がっていて、その眺めは文字通り震災の傷跡だった。
 こんな時に俺は何をしているんだとその時ふと思った。今からでも俺の行動一つで助けられる命がきっとあるにも拘わらず、今やっていることは自身の関心事をただ貪欲に追求しているだけ。……そうと分かっていても、俺は今の行動をやめることができなかった。
 そんな時だった。
Fork分岐 or Succession継承
 頭の中に妙な概念が浮かび上がってきた。突然のことに混乱しつつも、俺は咄嗟に車を道路脇に停めてその問いに答えた。
〈Succession〉
 回答と同時に俺の中に1の概念が付加され、自身が3から4になるような得体の知れない感覚が生じた。
 一方でこの問いの概念には、俺がまだ10代後半だった頃にも一度遭遇していた。その時は継承を回答すると2の概念が付加され、自身が1から3になる感覚があった。だがそれが何なのかは結局分からないままだった。
 気を取り直して運転を再開させると、前方から無残に破壊された新北上大橋、そして海岸が見えてくる。これで北上川は地図通りに海へと通じていることが、自身の眼を通して証明された。
 その後旧北上町の海岸で1回、更にまだ水の引かない石巻市の中心街の探索中に5回、あの問いの感覚が立て続けにきた。その度に俺は継承を選び続けた。そのほとんどが1の概念だったが、1回だけ3の概念もあった。
 ……ちなみにこの探索中に俺は被災者を誰も救わなかった。中にはまだ息のある人を見捨てた場面もあったかもしれない。それ程までに俺の関心事は川の分流のことに向いていた。
 石巻市の中心街に行ったのも救助ではなく調査のため。ほとんどの人は北上川は昔から分流していたと証言したが、地道な聞き込みを続けた結果、遂に今まであんな川はなかったと証言する人に巡り合えた。その時の達成感は相当なもので、自分だけではないとエールを貰った気分になった。……無論そんなものを貰う資格なんて本当はない。

 第2の殺人は俺が洛書達と出会い、デスブンキの知識を得たことで起こった。
 震災の後、俺は北上川の分流に関する調査を行った。昔の日本の川はどこもぐちゃぐちゃで、全て河川工事のおかげで整備された歴史があることは以前から知っていた。そこから北上川以外の川の分流でも同じ現象があるのではと仮定し、河川工事の記録から郷土資料の伝承まで様々な文献を調べた。昔の川の形状や河川工事の歴史を知るのは簡単だったが、俺と同じ境遇の者が遺した文献を探し出すのは大変だった。それでも粘り強く調査を続けた結果、記憶と記録に齟齬が生じた体験が記されたいくつかの文献を古今東西問わず発見できた。
 更に得た知識の情報発信として、自身の体験と共にそれらの文献も引用したまとめサイトを開設した。
 それから少ししたある時、メールフォームに洛書らくしょと名乗る人物からこんなメッセージが届いた。
「実はメンバーの皆も似たような体験をしていて、メンバーでその謎を追っています。よければ実際に会って話を伺いたいのですが」
 その後俺は洛書達と実際に会い、話の流れでメンバー入りを果たした。メンバーは俺と同い年くらいのリーダーで11分岐の洛書、俺より少し年上の女性で8分岐のエフ、あまり顔を出さないネット要員で6分岐のせんの3人。ちなみにエフと選の名前はただのHNらしい。
 その時にこんなことが書かれた紙を渡されたことは今でもよく覚えている。

 1.世の中には分岐を持った人間、フォーカーが1パーセント未満の割合で潜在する。
 2.フォーカーが周囲を大地に囲まれた浸水した道で溺死すると、フォーカーだけに知覚できる問いが現れる。
 3.問いに分岐Forkと回答すると、その付近の道が分岐するデスブンキが発生する。
 4.問いに継承Successionと回答すると、フォーカーから分岐を継承して自身の分岐数を増やすことができる。
 5.分岐数を増やすと分岐前の歴史の記憶が残ったり、分岐後の結果を予知できるようになる。
 6.稀に分岐した道が別世界へと繋がり、そこへは分岐数の多いフォーカーのみ行ける。

 そこで俺はデスブンキに関する多くの知識を手に入れ、色々なことが一気に繋がっていった。あの日津波で一般人と共にフォーカーが溺死し、それによりデスブンキが発生し北上川を分流させた(*2)。そして俺が北上川の分流に気付けたのは自身がフォーカーで、10代後半の時に2分岐を継承して1分岐から3分岐になっていたから。
 だが何よりもフォーカーを殺せば自身の分岐数を増やせることをそこで知ってしまった。当時14分岐だった俺にはなぜだかそれがとても魅力的なものに感じられた。
 それから結構な月日が流れ、あれはメンバーから既に選が離れて3人になっていた頃だった。俺はフォーカーを殺して分岐数を上げることを厭わない残忍なフォーカー、フォーカー狩りに襲われた。逃走の末追い詰められ、極限状態に至ったその時、ある思考が降りてきた。
「これは分岐数を増やす絶好のチャンスだ」
 そして我に返った時には――
〈Fork or Succession〉
 フォーカー狩りは俺の手によって殺されていた。
〈Succession〉
 その後警察の捜査が入ったが、予想通りフォーカー狩りは他にも殺しを行っていて、その事実が次々と明らかになった。結果俺の行いは正当防衛だと認められ、社会的制裁はほとんど受けずに済んだ。
 一方で洛書とエフとの信頼関係はそう簡単にはいかず、特にエフには始め酷く拒絶された。それでも話し合いの末、正当防衛なら仕方ないと彼らは納得してくれた。
 だがあの出来事は俺の中の何かを変えてしまった。結果俺は分岐数を稼ぐために、メンバーに隠れてフォーカー狩りに手を染め始めた。対象者はなるべく悪人から選ぶといった自分なりの儀は尽くしつつも、それを免罪符に何人ものフォーカーを殺し回った。
 そんなある時、遂に殺しの事実がメンバーにばれてしまった。結局それが引き金となってエフはメンバーを離れた。表向きは子供を授かったことが理由だったが、送別会の時のエフのあの一言が明確にそれを否定している。
「2人には私の分まで頑張ってほしいって思ってる。私がいなくなれば足枷も外れると思うし」
 そう、彼女の脱退は俺のたがをまた一段外した。

 第3の殺人はデスブンキを発生させるための殺しだ。
 フォーカー狩りを行う上での当然のリスクとして、社会的制裁を受ける可能性があった。一方で俺は分岐数を増やしたことで、ある事実を発見していた。それはデスブンキを発生させて歴史を変えることで、それまで行った殺人自体をなかったことにする裏技だ。
 俺はその実行を密かに練り、出来上がった計画を洛書に明かした。
「この計画を実行しなければ足が付くのも時間の問題。だから俺の行いを赦してほしい」
「……分かった、但し条件がある。一つはデスブンキの検証を兼ねること。それと――俺もその検証に立ち会う」
 洛書の決心を聞いた時、俺は初めて自身のやろうとしていることの重さに実感が湧いた。
 ちなみに計画はフォーカー狩りを行った回数と同じ数だけ行う必要があった。なぜならこの裏技は、殺したフォーカーの住んでいた街の地形を変えて、そいつの歴史を大きく変化させることで、殺人自体をなかったことにするからだ。注意点としては、今回殺すフォーカーと以前殺したフォーカーの住所をなるべく近付けること。でないと以前の殺人がなかったことになっても、今回の殺人の事実が残ってしまって意味がない。つまり今回殺すフォーカーの殺人も同時になかったことにする必要があるのだ。
 折角なのでここではその内の一幕を紹介する。
 舞台は新潟県燕市大河津、具体的な犯行現場は真野代新田の土手にある東屋の少し南の工事現場。そこは車両を河川敷に入れて停車できる上、土手から川岸までの草が刈り払われているので、効率的な犯行が可能だった。
 俺達はそこを流れる信濃川から十数メートル離れたところに車を停めた。時刻は夜中で辺りには人通りも車通りもなく、あるのは暗夜の静けさだけ。俺が車を降りてトランクを開けると、そこには大きな段ボール箱が一つ。中身は眠らせただけの生きたフォーカー。
 荷台を転がして川岸に到着するまでは徒歩30秒も掛からなかった。あとは錘とフォーカーの入った段ボールを落とせば終わり。
 俺は覚悟を決め――段ボールを川底へと落とした。どぼん、ぴちゃぴちゃと跳ねた飛沫の音が妙に耳に残った。
〈Fork or Succession〉
 その問いが殺したことを理解させた。
〈Fork〉
 鎮魂を捧げるように暫くただ水流を見つめ、それを終えて踵を返すと、振り返った拍子に洛書と視線が合った。その時彼が何か言いたげにしていることに気付いた。恐らくその何かを言わせなければ精神的なダメージが彼に蓄積する、そう判断して言葉を待った。
「殺しの現場に立ち会うのも辛いけど、それ以上に――殺す人を選ぶのが辛い」
 ああ、彼の言う通りだと、そう思った。
 対象者はなるべく悪人から選ぶようにしてはいた。それでも対象者にだって俺達の知らない良い側面もあったかもしれないし、そもそも価値観によって良し悪しなんてどうにでも変わる。それに2人だけで選定できる人数なんてたかが知れていて、探せば今回殺した者を上回る悪人なんてそこら中にいる。にも関わらず俺達は、そのそこら中にいるフォーカーの中から残酷にも特定の人物を選んでしまった。
「洛書、……悪かった」
 やはり洛書を立ち会わせるべきではなかったと、その時はそう思った。
 だが今考えればあれは確かに俺達の間に法を超えた絆を結んだ。
 その後検証の結果が次々と明らかになった。地図には国道116号線と越後線、更にはその先の国上山を横切って海へと繋がる大川津分水路という放水路ができていた(*3)。更に燕市の公式サイトを見ると、市の人口や世帯数が犯行の前後で大きく変化していた。他にも街の名前が大河津から分水に変わっていたり、燕市のタウンページが分岐前と比べて数ページ分ずれていたりと、細かな変化がそこかしこに認められた。極め付けは川の分流地点に信濃川大河津資料館が出来ていて、そこには昨日まで存在しなかった歴史が矛盾なく構築されていた。中には原田貞介や青山士といった、数年前の調査でよく目にしていた河川工事の第一人者の名前も見られた。
 そして肝心の2つの殺人もなかったことになった。新潟県燕市大河津に住んでいた、殺した2人のフォーカーの歴史が大きく変化したからだ。ちなみにシステムの根幹だからだろう、それによって殺したフォーカーから得た俺の分岐数が減ることはなかった。
 一方で歴史が変化するのは、何も殺した2人のフォーカーだけには留まらない。市の人口や世帯数の変化、それが何を意味するかは想像に難くなかった。ここまでくると俺自身でも何人殺したのかもう分からない。

 第4の殺人はこのヌーフのダムへ来てからの殺害だ。
 厳密には別世界の日本からここへ来る際にも殺人を行った。デスブンキを発生させて、このダムへと繋がる転移道を開通させる必要があったためだ。その時の殺人は東京のど真ん中で行ったが、結果的にその殺しも見事成功させて、俺は洛書と共にこのヌーフのダムへと辿り着くことができた。
 それはともかく、ここへ来て初めて殺した相手はとても見知った人物だった。
 もしあの時あの殺しを行わず、別の選択をしていれば、俺は今頃全く違った人生を歩んでいる。皮肉にも俺は摂理を介せず自らの手でデスブンキを発生させてしまった訳だ。
 結局それが引き金となって俺は殺しを続ける羽目になり、それは今も尚続いている。なぜなら一度減らした筈のデスブンキという摂理の存在する世界線は、今この瞬間にも再び増え続けていて、デスブンキを消すために別世界の俺が訪れ続けているからだ。
 これがいつまで続くのかと考えるだけでも気が滅入る。ともすればこの命が尽きるまで、……いやそれどころか寿命を超えて続いていくかもしれない。……これは決して比喩ではなく、俺は実際に寿命を延ばす裏技を使うことができる。但しその裏技は使う度に使用者を狂わせる。結局そこからはどう足掻こうと逃れられない。
 それでも俺はあの時の選択を間違ったとは思っていない。
 ……そして今日、俺はいつものように別世界の饒波、つまり君を見付けてこう声を掛けた。
「やあ、ようこそ、ヌーフのダムへ」
 そこから先は君も知っての通り。
「……そして時間軸は現在に到達、といったところで俺の思い出話はおしまい」
 すると饒波は感想を呟く。俺はこの後饒彼がとても下らない言葉を吐くのだろうと予測し、不満を滲ませつつも言ってやった。
「へえ、ヌーフのダムへ来て初めて殺した人物が誰か、君に分かったと? ……オーケー、回答を訊いてやる、答えろ」
「――君は洛書を殺した」


 人

 デスブンキの存在を知ってから8年半が経った今日、2019年9月9日に饒波は赤坂駅付近で洛書と待ち合わせをしていた。
 実はこの日、令和元年房総半島台風が首都を直撃していたが、そんな日にわざわざ2人が顔を合わせるのには勿論理由があった。デスブンキの核心に迫る鍵、それが遂に見付かったのだ。
 事の発端は2019年3月3日に放映された『黒い津波 知られざる実像』というNHKの番組(*4)が切っ掛けだった。偶然その番組を視聴していた饒波は、放送に出てきた容器に入った黒い水に関心を持った。放映後すぐに番組内の情報を頼りにその黒い水の持ち主に連絡を取り、実物を見せてもらえないかとお願いしたところ、好意的な返事をもらうことができた。後日饒波は宮城県気仙沼市に住むその人物と接触し、実物を見せてもらった。そして饒波が黒い水の入った容器に手を触れた瞬間、突如こんな情報が頭の中に入ってきた。
〈黒ノ泉に浸かると分岐を編集できる。源泉は別世界の黒海にある〉
 その感覚は分岐か継承かを選ぶあの問いに近いもので、何より編集という言葉に秘められた可能性に心奪われた。問題は別世界に行くためには、デスブンキが発生する中で稀にできる道、転移道を通る必要があることだ。そして調査を続けた結果、別世界の黒海へは国会議事堂前駅に転移道を開通させることで行けることが判明した。
 一方で国会議事堂前駅に転移道はまだ開通していない。だからこそ饒波はある大それた計画を立ち上げた。
「令和元年、この年に記録的な台風が2度首都を直撃する。その豪雨を利用して国会議事堂前駅を浸水させる。1度目の9月9日の台風を下見に利用し、2度目の10月12日の台風で計画を実行に移す」
 そして下見の日の今日、こうして土砂降りの夜中に赤坂駅の近くに身を置き、洛書が来るのを待つに至っている。
 ちなみに時間帯が夜なのは、単純に降雨時刻の都合だった。雨は夜中から降り始め、朝にはぱたりと止んでしまうので、下見は日が明けないの内に終わらせる必要がある。
 と、遠くから「饒波」と呼ぶ声が雨音を縫うように聞こえてきた。声のした方角に目をやると彼の駆け寄る姿が映った。
「雨風が強い上に暗いし踏んだり蹴ったり」
 洛書はこちらに歩み寄りながら、そんな冗談めかした小言を口にする。
「暑いから風邪をひくことはないと思うが、雨は夜にかけて更に強まる」
 身を案じて忠告してやると、彼は返事代わりに微笑みを見せる。
「雨水を下水道に流す排水溝、地上と地下を繋ぐ換気口、地下から水を排出する排水ポンプ。それらの位置は既に調査した」
「あとはこの赤坂駅周辺の水の溜まり具合の調査だけだね」
 それから簡単な事前確認を終えて、饒波と洛書は早速下見を開始させた。
 調査の概要はこうだ。まず具体的な浸水させる場所は国会議事堂前駅の千代田線のホームになる。同駅には丸ノ内線のホームも地下に存在しているが、にも関わらず千代田線を選んだ理由は地下鉄の構造にあった。丸ノ内線の同駅は前後の駅より浅場を走っていて山なりなのに対して、丸ノ内線の同駅は前後の駅より深場を走っていて谷なり。つまり浸水に適しているのは明確に千代田線だった。
 その上で千代田線の国会議事堂前駅へ向けて標高の下がる水の流せる区間は、表参道駅から霞が関駅までの間。更に予め目を通しておいた港区や千代田区の浸水ハザードマップや標高地図では、その区間の中で最も水が溜まり易い地域は赤坂駅周辺との結果が出たのだ。
 また調査の上で重要なのは機能性の高い排水溝を見付け出すことにある。地上の水が地下へと流れ込まない理由の一つが他でもない排水溝だが、逆にいえばそれを叩くことができれば水を溜められる訳だ。地上と地下は出入口だけでなく、空気を送り込む換気口からも繋がっている。そういった位置関係にも配慮して、塞げばより地下へ水が溜まる排水溝を見付け出すことが求められていた。
 ちなみにこの案を考えるにあたっては2013年に起こった下北沢駅の浸水(*5)がとても参考になった。
「でもさ、相手はあの国会議事堂前駅だよ? 上手くいくかな」
 調査も大分進んできたある時、ふと洛書が弱音を吐いた。その言い分は尤もで、饒波もこんな都心での殺しは今回が初めてだった。
「それでもこれが考え得る限りの最善の策だと俺は思ってる。勿論覚悟はいる。……洛書、引き返すなら今だ」
 洛書は饒波から視線を逸らし、暫くの間俯き気味に沈黙を続けた。それは人として当然の反応だろう。それでも彼は十分な時間を置いて問いに答えてくれた。
「俺は……、俺もデスブンキのことをこのまま放っておけない。だから覚悟を決める。……それに俺だって、もう手を染めてる」
「悪い、ありがとう」
 再び洛書との視線が合うと、その眼には力強さが途切れずに残っていて、饒波はその勇気に心の内で敬意を表した。
「……ねえ饒波、思ったんだけどさ――俺が贄になった方が確実だよね」
 突然の言葉にさすがの饒波も言葉を失った。彼の眼は本気だった、本気で自死の申し出をした。一方でそれは計画のリスクを考えれば完全に正論だった。その方がフォーカーの回収や運搬、そして殺しに掛かる作業や手間を著しく削減できる。
 なのになぜだろう、それに対する饒波の回答はものの数秒で決まった。
「それは駄目だ、洛書、君はなくてはならない。例えリスクがあっても贄は俺と君以外の誰かから選ぶ」
 普段の冷涼さを消して力強く発すると、洛書は少し驚いたような様子を見せて「ごめん」と踏み留まってくれた。
 その後も調査は滞りなく進み、その甲斐あってどの排水溝を塞ぐべきかをかなりの精度で当たりを付けることに成功した。
 土砂降りの深夜中ずっと調査を続けた2人は、それを終える頃にはすっかりずぶ濡れになっていた。

 そして来たる2019年10月12日に2度目の台風、令和元年東日本台風が首都を直撃した。
 2人は夜中の内に、当たりを付けていた排水溝を詰まらせ、地下鉄の換気口の閉鎖を妨害し、地下の排水ポンプを無力化させた。あとはこの豪雨によって国会議事堂前駅は浸水し、近々排水作業のために千代田線は運休になる。その時がデスブンキを発生させる最大のチャンスであり、今は付近でその到来を静かに待っているところだ。
 デスブンキを発生させてからは、その足で転移道から別世界の黒海へと向かう予定でいる。気掛かりなのは例え成功してもお尋ね者になり、この世界へはもう戻ってこれない可能性があることだ。当然ながら殺人自体をなかったことにする裏技は使うつもりだが、今回は首都ど真ん中での白昼堂々の殺人なので、精度が鈍れば必ず成功する保証はできない。だがそんな代償を払ってもデスブンキを放置しておくことは饒波にはできなかった。
 それもあってか饒波はデスブンキを追ってきたこの8年半に思いを馳せていた。震災で北上川が分流したことを偶然知ったのを機に出会った同じ現象を共有できるメンバー、洛書とエフと選。当時はそこに饒波も含めた4人で精力的に活動していたが、時間は着実にメンバーを分解させていった。
 最初にメンバーを抜けたのは選だった。彼とはネット上でのやり取りが主だったが、ある時期から連絡の頻度が減り始め、それから1年も経たずにぱったりと失踪してしまった。次に離れたのはエフ。ただ彼女の場合は失踪ではなく、最後は3人で送別会も行ったので割と円満な感じの最後だったとは思う。結局今残るのは饒波と洛書の2人だけだ。
 不意にアナウンスが流れた。耳を澄ませるとそれは待ち望んでいた千代田線の運休の知らせだった。
「洛書、心の準備は?」
「大丈夫、行こ」
 2人は行動を開始させる。彼らの服装は排水業者を装った作業着で、手には眠らせたフォーカーを入れた大きな作業用のキャリーバッグ。千代田線のホームへと降り立つと、路線には数センチ程度だがデスブンキを発生させるには十分な浸水が認められた。2人は千代田線の路線へと降り立ち、駅のホームから少し離れた人目のつかない暗がりまで移動した。
 そこからはいよいよデスブンキを発生させるための作業が始まる。但し今回は水量が少ないのでどぼんとはいかず、眠らせたフォーカーをキャリーバッグから出して、顔を直接水中へと押し込んでやる必要があった。その上じきに本物の排水業者が訪れる可能性があるので、作業は迅速に行う必要がある。
「饒波ごめん、いつも汚れ役をやらせて」
「話は後でいくらでも、今はただ成功を祈れ」
 饒波はバッグのチャックを解いてフォーカーを取り出すと、遠慮なく顔をやや深めの水溜まりに押し込んだ。人間が溺死するまでに掛かる時間は概ね10分前後で、それまでは顔を水に押し込め続ける必要がある。
 だがその時、国会議事堂前駅の方から動く光と声が現れた。
「まずい、排水業者だ」
 饒波は焦るが、その時洛書が光の方へと歩み始める。
「ここは俺が対処する」
 洛書は返事も待たずにぼんやりと見える僅かな影だけを残して、暗がりの中に消えていった。
 正直なところ洛書の弱さを知る饒波は、こういった力量が問われる場面では、どうにも彼のことを信頼し切れずにいた。だがフォーカーがいつ起きて暴れ出すか分からない以上、饒波はその場を離れることができず、歯痒くも今の洛書に対して何もしてやれなかった。
 少しして内容は聞き取れないが、遠くの方から会話が聞こえてきた。恐らく洛書がこの状況を誤魔化そうと排水業者に何かを話しているのだろう。
 暫くすると会話が途絶えた。特に怒号等は飛ばなかったので成功したのだろうか、と思っていると洛書が戻ってきた。
「オッケー、何とか時間は稼げた」
 その一言に饒波は漸く平常心を取り戻す。洛書の手柄に感謝の意を述べたいが、今は作業にリソースを割きたいので、それを伝えるのは後にしようと決めた。
 その時だった。
〈Fork or Succession〉
 あの問いがきた。無論答えは決まっている。
〈Fork〉
 あとは計画通りに黒海への転移道が現れたことを祈りつつ、その出現場所を探すだけだ。
 実は饒波達がこれまでに見付けた転移道は計2ヶ所しかなく、発見場所はどちらも大阪市内の地下鉄。一つは阪神なんば線の九条駅で行き先はキャッスルロックに繋がっていて(*6)、もう一つは御堂筋線の中津駅で行き先はミズガルズに繋がっていた(*7)。問題はどちらも発見時に既に転移道がある状態だったことだ。その辺りには淀川や大阪湾があり、室戸台風を始めとした水害も経験していて、そういった地理的条件もあって意図せずデスブンキが発生したと考えられる。もしくは行き先の側から転移道が開通した可能性もある。いずれにせよそれに対して今回は、自らの手でデスブンキを発生させるので、成功するかどうかは結果を見るまで未知数だ。
「とりあえずホームに戻って両端を調べよう」
 ホームの両端を調べる理由は、大阪の転移道も駅のホームの端から繋がっていたからだ。九条駅ではホームの端にある「これより先 立入禁止 駅長」と注意書きされた簡易ゲートを越えて、その先にある階段を上ると、ある筈のない3番線ホームに着いた。中津駅ではホームの端にある「立入禁止 駅長」と注意書きされた簡易ゲートを越えると、ある筈のない3番線ホームに着いた。
 ちなみに転移道に立ち入れるのは分岐数の多いフォーカーのみだが、2人なら問題なく行けるだろう。
 早速2人は排水業者を何食わぬ顔で通り過ぎ、久々にホームの地を踏んだ。調べるのはホームの両端だが、戻る際に西側の先端を確認してもそれらしい変化は感じなかったので、となれば怪しいのは東側の先端だ。
「頼む、出現していてくれ」
 祈りつつ、急ぎ気味に歩みを進め、遂に先端に辿り着く。
 そして「立入禁止」と注意書きされた簡易ゲート(*8)を――越えた。
 直後、目の前の映像が更新されていくような奇妙な感覚をその身に受け、同時に周囲から人々の騒めきと明かりがすっと消えた。この感覚は転移道に出入りする時特有のものだ。
 次に五感を認識した時には、2人は妙に暗く静まり返った単式ホームにいた。それが国会議事堂前駅のある筈のない5番線ホームだと理解するのに時間は掛からなかった。
「やった、成功だ」
 洛書はそう発した直後、脱力するようにホームの床にへたった。饒波もそんな彼に同意を示すように続けて床へ座り込む。床は綺麗とはいえないが、列車が来るまでの小休止だと身体は訴えていた。
「あとはこの先に何があるか、だな」
 少し待っていると、遠くから列車の発する轟音が聞こえてきた。その方角に目を向けると、淡い前照灯と共に見たことがありそうでないデザインの列車が姿を現す。その列車は真横で停止し、2人をいざなうように扉を開けた。


 十

 列車に乗り込んだ2人は、人目を気にせずぐったりと乗車席で身体を横にした。
 一見マナーの悪い行いだが、それができたのは列車内が貸し切り状態だったからだ。これは昔行った九条駅や中津駅の転移道を走る列車とも同じだった。そういえば当時、洛書とエフの3人でこんな感じで乗車していた時に、エフが「こんなんでよくやっていけるよね」と冗談めかして言っていたことをふと思い出した。恐らくやっていけるとか、そういった概念はここにはあまりないのだろう。
 その影響かトンネル内には照明が全くなく、列車内の照明もまるで極端な節電でもしているかのように暗い。とはいえ今だけはその暗さが意識に安寧を与えてくれた。
「少し休ませてくれ」
「分かった、おやすみ」
 洛書の返事を確認して瞼を閉じる。暫くそのままの状態でいると、僅かながらに疲労が回復してくる。
 思考の奥行きが広がってくると、遂にここまで来てしまったという実感が改めて湧いた。
 デスブンキの存在を知って以来、饒波はその摂理に対して並々ならぬ知的好奇心を向けてきた。デスブンキの探求のためなら、その手段として多くの人を殺すことも厭わなかった。彼は非人道的なフォーカー狩りに手を染め、自身の分岐数を41分岐にまで上げていた。
 分岐数は上げれば上げる程フォーカーとしての力を格段に高められる。
 例えるなら分岐数はレベルで、フォーカー狩りはレベル上げだ。
 分岐数の多いフォーカーは分岐前の歴史の記憶が残り、分岐後の結果を予測できるが、実はその力は様々なことに応用できる。具体的には自分以外のフォーカーの分岐数を認知できるようになったり、多少の未来を予知できるようになったりする。今回の計画で2つの台風が首都を直撃することを、日付まで含めて予知できたのもその力によるものだ。
 ではそうまでする目的は何かといえば、意外にも饒波はデスブンキを世界から消したいと考えていた。その理由はデスブンキがどこかで発生する度に、自分だけが皆とは異なる世界線へと取り残されている感覚があるからだ。それこそ、生活にも支障を感じる程に。
 尤もあの黒い水の情報通りに、本当に分岐を編集してデスブンキを消すことが可能なのかはまだ分からないが。
 ……ほんの数分の休憩だったが、何とか一息つけてきた。
 饒波は閉じていた瞼を開けて、とりあえず顔と視線だけを動かしてみる。そこで列車に乗り込んだ時には気に留めなかったあるものに意識が向いた。どうしようかと思案した末に身を起こして立ち上がり、荷物棚に大量に固定されてあった内の一つに手を伸ばす。掴んで軽く引きの力を加えると、それは簡単に固定具から外れ手中に収まった。
「それ何?」
 話し掛けるタイミングを覗っていたのか、休憩を終えた洛書も未知のそれに興味を示す。
「小さなタンクだが……中身は分からない。不用意に確認するのは少し恐い」
 と会話を交わしていると、窓の外が少しずつ明るくなり始めた。
 それに気付いた饒波が窓越しに前方を確認すると、遠くの方に強い光が見えた。だが同時にその光に違和感を覚える。そこへ洛書も確認に割って入ると、彼も同じことを感じたのだろう、違和感の正体を口にする。
「ねえ、あの光……何か色がおかしくない?」
 洛書の言葉通り、前方の光はシアン色をしていた。そんな異色が暗間の中を結構な明るさで照らしている。
「この列車、あの光に向かって進んでるよね。……大丈夫なの?」
 不安なのか洛書の声色はやや震えている。実は今までの転移道の路線は一般的な路線と大きな相違はなく、当然あんな光は現れなかったので、動揺するのも仕方がない。宥めようにも何せ未知のことで安心材料がない。恐らく彼は今コンベアに乗って処理を待つ加工品ような恐怖を感じているのかもしれない。
 だが色々と思考を巡らせている内に、光はすぐそこまで迫っていた。
 その距離に至った時、光の正体は壁のようなものだと視認できた。同時に饒波の中にある仮説が浮かび上がった。だがその考えを整理する程の猶予はなかった。
 次の瞬間には、先頭車両はシアン色の光の壁の中に突入していた。

「饒波やばい、入る!」
 洛書が声を上げるのとほぼ同時に、まるでスキャナーの光が迫り来るように、光の壁は2人の乗る車両を瞬く間に走り抜け、そして通過していった。
 ……と同時に身体が冷感に襲われた。
 饒波の予想は的中していた。シアン色の光の壁の正体は大量の水だった。理屈は分からないが、大量の水が重力を無視して垂直に水面を作っていたのだ。
 一方でそれは当たってほしくない状況だった。水は開いていた窓から放流の如く列車内に押し寄せ、2人を飲み込もうとしている。
 その直後、いきなりトンネルを越えて景色が開けた。
 窓越しから見えたのは、先程よりも強い光で照らされる広大な水中だった。水がそこまで澄んでいないとはいえ、八方を見渡しても陸地は見えず、レールは陸橋の上に敷かれているが、それを支える長い柱の礎も目視では確認できない。そこは最早地下鉄ですらなく、不思議に慣れ切っていた饒波も久しく驚きを覚える。
 だが今はその景色に見入る余裕さえ与えられてはいない。水は瞬く間に列車の容積の半分程を満たし、残り数秒で天井の高さにまで到達しようとしている。
 そこに至って饒波は列車内に水流が発生していることに気付く。そして次の瞬間には、2人は強さを増していくその流れに身体を攫われそうになる。反射的に饒波は右手で吊革に掴まり難を逃れた。だが洛書は吊革や柱に掴まりそびれ、今にも列車から投げ出されようとしている。饒波はそれを止めようと思考するも、強流がそれを容赦なく阻んできて抗いようがない。
 更にそれに追い打ちを掛けるように、とうとう列車は水で満杯になった。
 ……息ができない。
 その時、ふと意識が左手に向いた。硬質な円柱の何かを掴んでいる感覚がある。……思い出す、列車の荷物棚にあったタンクだ。依然その用途は不明なままだが、この状況から察するに――もうそれに賭けるしかない。
 判断を下した饒波は、一瞬の迷いも挟まず洛書に向かってタンクを投げた。
 直後洛書は車外に投げ出され、彼を追うようにタンクも外へ。同時に饒波の視野から洛書の姿が消えた。
 饒波はこう予測した、この列車が水中を通ることを前提としているなら、タンクの中身は恐らく空気ではないか、と。いずれにせよそれは今、命懸けで確かめざるを得ない。
 境地の中、固定されてある他のタンクを手に取り、ボタンを押してみると、透明な空気が漏れ出てきた。これが人間の吸えるものかはまだ分からない。
 ……もう息が持たない。饒波は恐る恐るタンクを口に当て――ボタンを押した。
 ぼこり、ぼこり……と出てきた空気、それを吸った。
 ……吸えた。
 それが空気だとの確信が強まると、酸素が染み渡るように、身体全体が安堵に包まれた。
 とりあえず最悪の状況は脱したようで、少しだけ頭も冷静になれてきた。同時に色々な思いが頭脳を流浪し始める。真っ先に浮かんだのは洛書を助けられなかった後悔。だが今は感傷に浸る時ではない、そう無理やりにでも言い聞かせて饒波は意識を水中に戻す。
 状況確認のために窓の外に視線を向けると、今度は前方から灰色の何かが見えた。
 また壁だった、それも今度は重そうな質感を持った壁。よくよく見るとその壁にはそこかしこに穿たれたような穴があり、路線はその穴の一つに通じている。
 少しして列車はその壁穴の一つに侵入した。
 内部に入ると、先程まであった広大な水中を照らす強い光は鳴りを潜め、列車内から得られる光は再び列車の点す照明光だけとなる。
 と、いきなり頭部が水面を抜けた。咄嗟に窓の外を確認した饒波は、列車が水中を突破したことを理解する。後方には今しがた列車が通過したと思われる垂直の水面も見えた。列車内の水は開いていた窓から外に放出されている。
「洛書、無事でいてくれ」
 開口一番、祈りたかった一言を無人の車両で口走った。
 その後もお風呂の栓を抜くように水は引いていき、上半身を水上に出せるまでになる。水面を出た部分から順に肌に熱を感じ始め、そこから生きている心地を感じられた。
 同時にそれは彼への思考も増大させる。分岐数が17分岐の洛書は、殺人に対して決して肯定的ではないが、それでも自身の犯した殺人を受け入れてくれた。そんな人は昔いたメンバーを含めても、彼を除いて誰もいなかった。だからこそ饒波は例えどんなに手を染めても、彼だけは大切にできた。
 だがずっと同じ思考をぐるぐる続けていても、洛書が戻ってくる訳ではない。今は彼が生存していると考えて、出来得る限りの行動を起こそうと饒波は頭を切り替える。
 その時、列車が減速を始めた。窓の外に目をやると、駅のホームが目に映った。
「……着いた」
 少し待つと車両は車内アナウンスもなしにそのまま停車し扉を開けた。


 大

 大容量の水と共に列車を下車した饒波は、ホームにできた水溜まりにも構わずそのまま床にへたった。
 少しして列車が走り去ると聴覚の刺激からも解放され、暗い単式ホームには静寂だけが残った。ここはまだ転移道内なので、国会議事堂前駅の5番線ホームと同様に人気はなく、今だけは周囲を気にせず休むことができる。
 だが洛書のことが気掛かりで、瞼を閉じてみても頭の中は休んだ気にならない。
 仕方なく開眼して立ち上がり、そのまま周囲の確認に移る。見る限りそこは至って機能的な造りをした駅のホームだったが、雰囲気は日本のそれとはやや異なっていた。実は九条駅や中津駅の転移道の行き先も日本ではなかったので、今回もそうだろうと予想はしていた。
 一方で嬉しい誤算もあり、近くの掲示板に目を向けると、そこには英語等の外国語に交じって日本語もあった。こういった多言語への対応は、今までのところにはなかったことだ。
 更に驚くことに、ここではなぜか種々の通貨が利用可能で、日本円も使えるようだった。饒波はこの日のために前もって黒海に隣接する国の通貨も用意してきたが、それは取り越し苦労に終わったようだ。
 一通り調べ終えたところで転移道の空間を抜けると、喧騒と明るさがスイッチを入れ直すように戻ってきた。
 次いで目が慣れてくると、ぽつぽつと疎らに人のいる駅のホームが饒波を迎え入れる。彼らの容姿は向こうでも見られる範疇に収まってはいるが、代わりに様々な人種の人々が入り乱れている。そこまで詳しくはないが、発音を聞く限り言語にも多様性があるように感じられる。そのおかげか濡れた服はあまり気にされずに済みそうだった。
 簡単な観察を終えた饒波は、ホームを後にして改札へと向かった。当然ながら別世界の改札をそう都合良く通過はできない。実は九条駅や中津駅の転移道の先に初めて行った時も、改札では大分苦戦させられた。ただ今回はこれまでの経験に加えて、手持ちの通貨が利用できたので、結果そこまで苦労せずに改札を抜けられた。
 だがそれも束の間、そこで饒波はある違和感を覚え、少し歩いてみてそれは確信へと変わる。
「……付近から外気を感じないな」
 その後いくらか歩き続けるも地下空間は抜け出せず、地図を見付けて見てみたところ、そもそも近くに出口らしき記載がなかった。
 そこでふと饒波は初めて東京駅に1人で訪れた時のことを思い出した。もしかしたらここもそんな感じなのだろうか、と思いつつもここはそれとは違い割と殺風景なので違う気もする。
 考えた末に饒波は通行人を頼ろうと決める。ただここではどうも様々な言語が飛び交っているようで当たりを付け辛い。ならば折角なので日本語を話す人を探して捕まえてみようと思い至る。
 周囲を観察しつつ歩いていると、それに該当する通行人は意外とすぐに見付かった。
「すみません、出口の場所を教えてほしいんですが」
「出口って……ここ25Fですけど」
「25F……、ここ地下ですよね?」
「あぁもしかしてここへ来るのは初めてですか?」
 いきなり自身が別世界から来たことを知っているような口振りをされて少し困惑した。少なくとも今までの別世界でそんなことはなかった。それでも「えぇまあ」と曖昧に返答をすると、相手は特に妙な素振りも見せずに説明してくれた。
「ここでは下に行く程階の数字が大きくなるんですよ。ここは海中で20Fまで上れば海上に出られます」
 海中……、確かにここへは深い水中を通ってきた訳だし、そう考えればその突飛な説明にも納得がいく。
 饒波は通行人に感謝の意を告げて別れ、20Fを目指そうと決める。
 それからまた暫く歩いていると、饒波はふとあることに気付く。この空間にはとにかく地下通路のようなところがずっと続いていて、そこかしこにマンションの玄関のような扉が通路の壁伝いに並んでいる。というよりも実際にプレートが設置されているので、本当に住んでいるのではと推測できる。もし本当にそうなら、この地下通路全体が居住区だと考えられる。
 割と適当に歩いていると、いつの間にか24Fに階を上げていた。
 と、急に改札口に突き当たった。だが直近に別の道はなく、記憶が確かならそこまで戻るとまた25Fにまで戻ってしまう。饒波は仕方がないが半分、ものは試しが半分で改札口を潜ることを決めた。
 その先は当然駅のホームだった。駅表を見て今まで通ってきた道で見掛けた駅の反対側へ向かう列車に乗ってみる。数分の乗車ののち下車するとそこは23Fだったので、そのまま改札口を出て再び上を目指す。
 その辺りにきて饒波はこの迷路のような地下空間が東京駅より広いことに気付き始めていた。何せ列車に乗っても未だに地下空間から抜け出せていない程だ。とはいえ20Fを目指して地道に歩き続ければ、近い内に海上に辿り着けるだろう、と饒波は楽観的に考えていた。
 だがある瞬間を境に状況が一変した。

「すみません、少しお訊きしますが、あなたの名は――饒波ですよね」
 人通りの少ない通路を歩いていた時、数メートル離れた背後から、この世界ではまだ知られていない筈の自身の名を呼ぶ声がした。だが歩みを止めて声に意識を向けた時、ある異常を察知する。だから恐る恐る振り返ると――
「別世界で自分と出会うのは初めて?」
 声の主に視点を定めた瞬間、瓜二つの俺がいると脳が処理し、混乱が饒波を襲った。厳密には以前メンバーで別世界が何なのかを議論した時、仮にそこが異世界ではなく並行世界だったら、もう一人の自分に出会えるかもしれないと話していたことがあった。だがいざその予想が的中すればやはり驚くし、何よりもそれに拍車を掛けたのは出会い方だ。
「俺が来ることを――知っていた……? な、ぜ……」
 するともう一人の自分は「申し遅れました」と急に態度を改める。
「やあ、ようこそ、ノアのダムへ」
 次いで放たれた高らかな挨拶。
「ここは紀元前5600年頃のボスポラス海峡を横断する巨大ダム。そして私はダム管理者のノアと申します。ですから、責務としてあなたをお迎えに。そして大変申し訳ありませんが――」
 その時、突如彼から殺気を感じた。
「職務に則り、今からあなたを殺害します」
 気配を一変させた彼は、懐から鋭く光るナイフを取り出した。彼が次にしようとしていることは自明だった。逃げなければ、と思うと同時に足は相手の逆方向へと駆け出した。
 足を止めずに振り返ると、獲物を逃す気のない鋭い眼光が映った。それを見て、逃げなければとの焦燥が強まる。
 それから暫く土地勘のない中を、意識を研ぎ澄ませて出来得る限り的確に逃げ続けた。
 その時、急に道が開けて大通りに出た。人通りの多いここなら相手も迂闊に手出しできないだろう、そう考えた饒波は背後を確認する。
 だがそこには依然白昼堂々と追跡を続ける奴の姿があった。
 さすがにそこに至って違和感が表面化する。そもそもこの大通りに来るまでの間にも、まばらではあるが何人かの通行人に犯行は目撃されている。にも関わらず今まで誰も止めに入る者がいなかったのはさすがに不自然だ。周囲の者達はこちらに視線を向けているので認識自体はされているし、周囲の雰囲気からして極端に治安が悪いようにも見えないので、感覚が麻痺しているようにも感じられない。
 とはいえこの状況下でそれ以上の推察をする余裕は今の饒波にはない。
 とにかく一度冷静になれる環境がほしい。そのためにも何とかしてこの地下空間でのチェイスを終わらせなければ……と考えていた時、視界に入った改札口のすぐ先に、発車数秒前の列車が目に留まった。
 ……賭けてみよう。
 饒波は走行の軌道をほぼ直角に急カーブさせ、そのまま列車目掛けて改札口を潜った。
 だがその瞬間、予想よりもコンマ数秒早く列車の扉が閉まり始める。
 間に合え、と願い――ダイブ。
 身体は閉まり始めた扉に当たった……が、それをまだ残存する隙間に無理やりに捻じ込んだ。
「……ぎり、か」
 切れ切れの息で一言発した数秒後、列車は走り出した。
 とりあえずの退避に成功したと理解すると、他の乗客の目も気にせず列車の床にへたった。止まっていると身体の熱を余計にじわりと感じられた。今だけはその熱を放出するまだ乾き切っていない服がありがたく感じられる。乱れた息を数回の呼吸で整えたのち、床から立ち上がり、それから漸く近くの椅子に体重を預ける。椅子を濡らしてしまうことに申し訳なさはあったが、おかげで床に座るよりも楽な姿勢になれた。
 一息入れられたおかげで、潤滑な思考が戻ってきた。改めて今の状況について考えてみるが、一番の違和感はやはり周囲の人達の反応の薄さだ。……とそこで饒波はここへ来てすぐに通行人に話し掛け、その時は何の問題もなく対応してもらえたことを思い出した。ならばもう一度日本語を話す人を捕まえて、色々と尋ねてみるのもありかもしれない。
 思い立ちすぐに周囲に意識を向けると、近くに丁度それらしい人を発見した。
「すみません、少しお尋ねしたいんですが」
「ええ何でしょう」
 やはり普通に反応してもらえた。
「つい今さっき自分とそっくりな人に襲われたんですが、誰も助けてくれませんし、一体あれは何なんですか」
「ええと、ひょっとしてダム管理者のノアのことでしょうか」
 どうやらダム管理者を名乗っていることに偽りはないようで、名もある程度知れ渡っているようだ。
「ただ私は人はあの方とは世界線が違うので……」
 この世界に来たばかりの饒波には少し足りない説明だったが、恐らくデスブンキに関係する何かが理由なのだろうとそこで悟った。
 もう少し具体的に訊いてみよう……と考えていた時、大きな音を立てて貫通路の扉が開き、同時に嫌な気配がした。
 視線を向けると、そこには――「ノアっ……」
 小さく呟くと同時に椅子から飛び上がり、奴の来る反対側へと走り出す。
 奴がここにいる理由は、貫通路へと繋がる扉を開けて車両を跨ごうとした時に理解できた。この列車の貫通路はデッキなっていて、発車後もやろうと思えば飛び乗り、中へ侵入することが可能だった。
 いずれにせよこうなった以上は、このままこの走る密室空間の中を逃げ続けてもすぐに追い詰められる。ならばリスクを冒すしかない。とはいえさすがに飛び降りはリスキーすぎる。そこで考えた逃げの一手は屋根の上だった。
 手際よく列車の屋根に這い登ると、ごおごおと風が身体を圧倒する。怯まずに空間を確認すると、とりあえず天井までの高さに余裕があることを把握。次いで起立してみると、風も立っていられない程ではないと分かる。それからすぐに車両の中央辺りに移動して、前後のどちらかからノアが登ってこないかを見張る。
 だが楽観的な見立てを覆すように、それからほんの十数秒後に奴は屋根の上に現れる。自身の登った場面は見られていない筈なのに、奴はまるで千里眼でも持つかの如く正確に後を追ってきた。
 反射的に逃げなければと、饒波が反対側へと駆け――ようとした時だった。
「また水か!」
 前方から垂直の水面が見えてきた。咄嗟に数メートル前方にあった突起物に掴まった直後、入水した。
 饒波を先程とは比べ物にならない圧が身体を襲う。振り返ると、相手も同じ状況であることが不明瞭な視界から何とか捉えた。
 状況は危機的だった、屋根には空気タンクがないからだ。対してできる行動は突起物に掴まって息を止め続けることだけ。前回程に潜水時間が長ければさすがに息が持たない。
 と、前方からゆらゆらと輝く光の壁が顕現。それは水平の水面だった。
 直後ばしゃあ、と水が身体から弾け去る感覚。
 空気が戻ったと理解した瞬間、饒波は思いきり息を吸った。
「海上、か」
 酸素が補充されていった身体は、青空と眩い太陽を視認した。久方振りのそれらの再会に普段以上の感動を覚える。
 だが生憎そうもいっていられない。背後を覗うと、身体に酸素を取り込み終えた奴が、丁度立ち上がろうとしていた。
 立ち上がったらまたすぐに襲ってくるかと思ったが、彼はまず周囲を見渡した。つられて周りに目を向けてみると、先程までと違い周囲に壁はなく、そのせいで天井にいる両者に多くの通行人の視線が集まっていた。
 丁度その時、列車が減速を始めた。前方を見ると、あと数秒のところに駅が迫っていた。この速度なら停車前に飛び降りることも可能だろう、と考えている内に列車は駅のホームへ。
「よし、今っ」
 饒波の身体が宙を舞った――直後、その身に衝撃が走った。
 起こったことを瞬時に把握しようと視野を衝撃のした方へ移すと、手の届く距離に奴が迫っていた。どうやらノアから空中体当たりを食らったらしい。
 そう理解する頃には、全身で駅のホームに着地していた。幸い受け身を取ったので怪我はなかったが、起き上がろうとした時には――身体を押さえ付けられ、銀の刃が間近にあった。
「もう終わりにしよう」
 死刑宣告をして、奴は銀の刃を振り上げた。高速で思考が頭を駆けるが、もう打つ手がない。
 とその時、奴のナイフが甲高い音を立て、弾けるように手中を離れた。同時に人の拳程の石も宙を舞い、共々床へ落ちる。
 突然の想定外に饒波も咄嗟に状況を理解できなかった。だがノアがナイフの吹き飛んだ反対側に視線を向け、つられてそちらを見た時、理解した。
「よせ、そいつは今までの饒波とは少し違う」
 そこにいたのは今声を発したノアの知り合いと思しき女性と――「洛書……!」
 間違いなく、それはここへ来る途中に離れ離れになった彼だった。
 その時、奴の様子が一変した。
「洛書……なのか」
 ふっと、ノアの中から殺気が消えたように感じられた。


 木

 それから饒波と洛書はノアと先程の女性に案内されて屋上、つまり1Fへと向かっていた。あの後ノアから一転謝罪され、こうなった経緯をそこでゆっくりと説明してもらうことになったためだ。
「ところで、名前を伺っても?」
「あぁセキです。これでも一応ノアの補佐をやってます」
「殺されかけたとはいえ、洛書を助けてくれたことには感謝してる」
「いえ助けたのは住民の方々で、私は洛書がいることを早くノアに知らせないと、一緒に来てるであろうあなたの身が危ないと考えて機転を利かせただけですよ」
 つまり洛書がいなければ俺はどう足掻いても殺されていた訳か……と饒波が辟易していると、先頭を歩くノアから案内が入る。
「あのエレベーターに乗れば1Fに着きます」
 20Fより上の階にはダムとしての機能はないらしく、それまでいた階と比べて見晴らしが良い上に、通路等の構造も機能的に作られている。そのおかげで目的地までの移動もあっという間だった。
 エレベーターを昇り切ると、ガラス張りの壁の向こうに白さを放つ広々としたテラスが見えた。そこにはいくつかの4人掛けのテーブル席が広めの間隔で設置されていて、街の住民と思しき何人かのグループも座っているのが見える。そこへと通ずる扉を開けると、ぼわと強めの乾いた風が身体を通り過ぎた。
 外へ出ると、吹き抜ける風は適温で、微かに聞こえる波音や人の喧騒も心地良さを与えてくれた。それらの気配と音がついさっきまでの緊張をするすると解いていった。
 4人が空いているテーブル席の一つにそれぞれ腰を下ろすと、漸く話し合いが始まった。
「では改めて、私はダム管理者のノアと申します」
「補佐のセキです」
 手始めに2人は軽く自己紹介をした。その中でノアの分岐数は135分岐で、セキの分岐数は52分岐であることを明かされた。その分岐数に洛書は驚いていた。
「そしてこのダムに住むフォーカーの皆が、あなた方を歓迎します」
 饒波はこのダムの住民達が皆フォーカーであることに薄々気付いてはいたが、ノアによればそれに加えて皆2分岐以上のフォーカーなのだそうだ。実は分岐の継承には本能的な拒絶が伴うので、向こうの世界に2分岐以上のフォーカーはほとんどいなかった。
 ちなみに基本的に生まれる子供がフォーカーの割合は1パーセント未満で、分岐数は1分岐。ところが両親がどちらもフォーカーの場合に限り、生まれる子供は皆フォーカーで、分岐数は最初から2分岐以上になるとのことだ。
 と、一通りの挨拶が終わったタイミングで饒波はある言いたかったことを口にする。
「さっきから思ってたんだが、君は別世界の俺なんだよな。なら――」
「敬語はなし、……そう言いたいんだろ」
 言おうとしていたことを当てられた。その理由を推し量る前にノアの方から種明かしがきた。
「ここを訪れる饒波は、皆大体そう言う」
「えっ、もしかして他の世界の饒波もこのダムのどこかに? じゃあもしかして俺も……」
 興味あり気な洛書の反応に、ノアとセキが一瞬渋い顔を浮かべたのを饒波は見逃さなかった。
「以前ここを訪れた饒波は今はほとんどいないし、洛書に至ってはここを訪れること自体ほとんどない」
 先程の表情と今の言葉で饒波は大方のことを理解した。一方の洛書はそれに気付いていないのか、「そっかあ」と少し残念がっていた。だがそれではいけないと思い、あえて口にした。
「ノアは今までここを訪れた別世界の俺を――殺してきたのか?」
 案の定洛書は「えっ」と一転して表情を凍らせる。それでも知らなければならないことだ。
「君達饒波は誰も彼も同じ。……そんな思考停止に陥り、さっきは君を襲ってしまった」
 少しの間を置いてノアが語り出す。だがまだ意味を測りかね、饒波も洛書も相手の思うような反応を返すことができない。それを察したノアは更に続きを語った。
「ここを訪れた饒波は最期にはほぼ全員が狂う。そうなればダムの住民にも被害が及ぶ。その光景を何度も見続けてきて、ある時から狂う前に殺すようになった。最近は出会ってすぐに殺していた」
 そこまで聞いて漸くパズルのピースがはまる感覚があった。……だが同時に疑問も浮かんだ。
「ならなぜ俺は殺さなかった」
「それは君が洛書を殺さずにこの世界へ連れてきたから」
 その言葉に驚いたのは俺よりも洛書の方だった。その感情は寧ろ恐怖の方が勝っているようで、掴みどころのない視線をこちらへと向けてくる。何とか彼を安心させようと咄嗟に言葉が出た。
「俺の中では洛書を守るのは当然のことだが……、その言い方だと他の俺は――」
「殺した者、途中で別れた者、そもそも出会っていない者、……ほぼ全員がそのどれかだった」
 言い換えれば、それは洛書と末永く一緒にいられた別世界の饒波がほぼいないことを意味していた。できることなら否定したいが、きっとそれは事実なのだろう。彼の物悲しさを有した瞳と表情が無常にもそれを肯定している。
 とそこで、今まで黙っていた洛書が不意に口を開いた。
「……俺はまだここへ来て間もないから詳しいことは何も分からない。けど今の話を聞く限り、狂うまでには猶予があるんだよね? だとしたら出会ってすぐに殺すのはやりすぎだと思う」
 洛書にしては強めの言葉だったが、恐らくそれは先程まで命の危機に晒されていた俺を想っての発言なのだろう。
「正論だな、俺自身も狂ってきている証拠だ」
 ノアは自身の行いを素直に反省しているようで、これ以上追求しても仕方がないように思えた。それに責任は必ずしも彼にだけある訳ではないと思い、ある疑問を口にした。
「それに関連する質問なんだが、先程までの行為を誰も仲裁に入らなかったことが妙に感じられた。あれは何か理由が?」
「確かに、それは俺も同感だ。それだけ俺が絶対になりすぎたんだろう。加えていえばシステムの穴を認めざるを得ない」
 相変わらず内容を把握できない説明だったが、あえてだろう、彼はその意を汲んだ上で言った。
「……悪い、この説明を始めると相当話が長くなるんだ。できればこの話は後日ゆっくりとしたいんだが」
「え、後日って俺と饒波がずっとここにいるのが前提みたいな言い方だけど……」
「君達がここへ来た理由も黒ノ泉が目的なんだろう? なら君達はここに滞在することが望ましい」
「その言い方だと黒ノ泉について知ってるんだな」
「このダムの最下層、100Fに黒ノ泉はある。……だがそこへ到達できた別世界の饒波は、少なくとも俺がダム管理者になって以来誰一人いない」
 見えかけた希望は残酷な事実によって再び遠退く。恐らく別世界の饒波はそこに挑んだ末狂い、そしてノアに殺されたのだろう。それでも――
「意思は変わらない。最下層へ向かう」
「饒波が行くなら勿論俺も行く」
 それが饒波の意思であり、洛書の意思だった。

 尽きることのない話し合いは暮れ始めた陽によって中断され、そこでノアとは別れた。
 一方の饒波と洛書は、世話を任されたセキに案内されて、ノアが貸してくれるというダム居住区の一室へと向かっていた。最悪野宿も覚悟していただけに、それは渡りに船だった。今はその部屋のある10Fまで降りてきたところだ。
「思うんだけど、ここって全然ダムっぽくないよね。どっちかっていうと海上都市っぽい」
 景色を眺めながら述べる洛書の所感は尤もだ。20Fより上の階はダムの上に高層ビルが建ち並び、そこを複数の陸橋で繋いでいるような感じで、それらが連なることで街が形成されているようだった。
「ダムっぽくないといえば、肝心のダムの壁にもいくつか穴が開いてたな。……そも、ここは本当にダムか?」
「あぁそれはこのダム全体が転移境に囲われてるんだよ。転移境っていうのは別世界と別世界の接した面のこと。ちなみに世界を越えて水は入ってこないから、ダムが水没する心配はないよ」
 セキが2人の問いに答える。つまりこのダムに辿り着くまでに何度か見たあの垂直の水面の正体は転移境だった訳だ、と饒波は理解する。一方で新たな疑問も浮かび上がった。
「それが事実だとしたら、このダムを囲う転移境は人為的に計算されて出来たように感じられるが」
「それで合ってるよ。君達だって人為的に転移道を開通させた時、結果的に転移境を作り出しただろ? このダムを囲う転移境はその上位互換。で、それを創った者こそが初代ダム管理者って訳。……ちなみに初代ダム管理者の分岐数は1000分岐を超えていたとか」
 饒波の疑問に対してセキは平然と言ってのけるが、それは最早人間ではないのではとさえ思えた。
 とそんな話をしている内に、3人は目的の部屋へと到着する。
「それじゃあ、今日はごゆっくり」
 セキはそう言うと饒波と洛書に1本ずつ部屋の鍵を渡す。2人は軽く礼と別れを告げて各自部屋へと入室した。
 室内に入ると予想以上に感じの良い内装に出迎えられる。広めのリビングには明るさがあり、窓から見える見晴らしも海が近くて良好。寧ろ自宅よりも住み心地が良いかもしれないとさえ思える。
 思えば今日は相当にハードな1日だった。警戒がほぐれた饒波は、心地良いプライベート空間に誘惑され、そこからベッドでノックダウンするまではほんの一瞬だった。
 楽な体制になり意識を溶かしつつも、饒波は残り火で思考する。
 どうにも別世界の饒波が皆狂うというノアの話が気になっている。その現象は分岐数を相当なまでに上げることで起こるらしい。確かに分岐数が少ない内は余程でなければ変化に気付けなかったのが、今では過剰なまでに変化に気付けるようになった。結果それまでの常識が通用しなくなるような齟齬すらたまに起こり、生活にも支障を感じている。それを考えれば分岐数を見境なく上げていけば、そりゃ気も触れるだろうと普通に思える。
 ……と考えを巡らせている内に思考は映像と化し、意識は微睡みの中に移った。
 それから数十分して目が覚め、一度閉めたカーテンを開けてみると、淡い黄昏の光が寝起きの瞳孔を刺激した。これ以上寝ては夜が大変だと、それから饒波は起きて寛ぐことにした。
 ノックが聞こえたのは、丁度その数分後だった。
「饒波」
 洛書の声を認めて扉を開けると、彼は少しだけ気恥ずかしそうにしながら言った。
「その……、何せ初めてだから。よかったら夕食の買い物、付き合ってくんない?」
「初めてなのは俺も同じ。無論構わない」
 そう言ってやると彼の顔が綻んだ。
 2人は事前にセキから説明を受けた店の並ぶ地区へと向かった。セキ曰くそういった場所は他にも色々あるが、徒歩数分で行ける一番近い場所がそこなのだそうだ。
 それと早くこの環境に慣れるためにも、翻訳機はなるべく使わない方がいいとも言われた。
 辿り着いた場所は結構な人でごった返していた。
 早速品物を物色してみる。ラインナップは向こうでもあり得る範疇ではあるが、やはり多国籍さはあってつい目移りしてしまう。観光気分で変わった品に手を出すのも悪くないだろう。辺りにはエスニックな香りも漂い、それが異国の想像を更に促進させる。
 かと思えばある一角には、日本にも普通に売ってそうな弁当や総菜なんかも置いてあって、変に食事に困ることはなさそうだ。相変わらず日本語の話し声もちらほらと聞こえてきて、それが不思議と安心感を与えてくれる。
 色々と見て回った挙句、漸く2人は夕食とその他諸々の買い物を終わらせる。
 それから帰路を歩くと、さっきまでの眩さや騒がしさは酔いが醒めるように消える。そこでふと洛書が言った。
「思えば俺達、こうやって日常の中でずっと一緒にいることって今までなかったよね。あっちじゃ時間のある時とか、何かやる時とかでしか会ってないから」
 言われてみればそうかもしれないな、と饒波は思った。特に最近は顕著で、出会ったばかりの8年半前と比べると、会う頻度はがくっと減っていた。よくそんなことで彼との繋がりが途絶えなかったものだと思うが、やはりそれはフォーカーという異常な事実を共有していたからこそなのかもしれない。……いや厳密にはその共有があっても繋がりが途絶えた者はいるし、他の饒波の中には洛書と別れた者もいるとノアは言っていた。そう考えると今のこの状況がとても尊いものに感じられる。
 それから2人はそれぞれの部屋へと戻り、このノアのダムを訪れた波乱の初日が漸く終わった。


 夫

 翌々日、饒波と洛書はセキに案内されてノアとの待ち合わせ場所へと向かっていた。
 昨日はノアに予定があったため会えずに終わったが、代わりにセキに案内されて3人でダム中を探索した。おかげでダムの知識も色々と身に付いた。例えばダムには稀に1Fより上の階も存在し、そこはG1F、G2Fと表記することなんかも知った。中でも特に驚いたのは、ダムの両端に行くと転移境を越えてダムの外に出られ、そこが文明の一切ない、まさしく紀元前5600年頃の世界だったことだ。
 そうこうしている内に3人は待ち合わせ場所に到着する。そこは一昨日のような屋外ではなく、人通りの少ない通路の一角にある玄関口だった。セキが鍵を開けて入室したので、2人もその後を追う。中に入り見渡してみると、室内には貸してもらった部屋と比べて格調を感じる雰囲気があった。
 セキは2人を座り心地のいい椅子に掛けさせて、ノアを呼びに部屋の奥にあった扉へと消えていった。それから数分して今度はノアが1人で部屋に現れる。一方のセキはどうやら2人に見せたいものがあり、それを取りに行ってもらったらしい。ノアは2人を挟んだテーブルの向かいに座ると、少し複雑な表情を浮かべて言った。
「考えてみれば、こうして饒波とちゃんと話すのは久々だ」
 その言葉の裏にあるのは、最近は別世界の饒波と会ってもすぐに殺していた事実だろう。
「このダムのことをもっとちゃんと知りたい」
 その事実を今は気に留めないようにして、本題に入るためのパスを回すと、ノアはすぐに改まり話を始めた。
「教えたいことは山ほどある。その中でもまず知ってほしいことは、俺達はこのデスブンキという摂理を肯定的に捉え、ある可能性を見出していることだ。つまりデスブンキを消すことには反対の立場だ」
 但しそれは饒波や洛書と敵対しているのとも違うらしい。ノアは説明を続ける。
「本来世界線が分岐したばかりの世界線に大差はなく、バタフライエフェクトのように徐々に異なる歴史を歩み始める。対してデスブンキが発生すると、世界線が分岐する以前の歴史までもが改変され、その延長にある現在は既に差分が追加された状態に変わる。……それはご存知の通り。そこで訊くが、俺達の記憶している歴史と変化した歴史、……どちらが正しいと思う?」
「そのことは俺達も何度か考えたけど、結局結論は出さなかった。問題なのはあくまで歴史に齟齬があること自体で、歴史認識を争いたい訳じゃないから」
 洛書がそう回答すると、ノアは表情を和らげる。
「うん、良い回答だ。その上で問題点を整理するとこうなる。歴史認識が異なる者同士では、関係性にハンデが生まれることが問題」
 そのことを指摘された洛書は驚いているが、珍しく饒波もはっとさせられた。
「そこで俺達はこう考えた。ならば国境の代わりに世界線で人を分けたらどうか。つまり法の適応範囲を国ごとではなく世界線ごとに区切ったらどうか、と。そしてこの理念の名は――分岐主義」
 ノアから発せられたその言葉は、どこか潜在的な可能性を有しているように饒波には感じられた。
「実は分岐主義は既にこのダムで実験的に運用が始まっている。フォーカー同士でも分岐数の違いや素質等によって違う世界線を歩む。だからフォーカーごとに歴史認識は異なり正史もない。結果フォーカーは一般人と比べて多様性が生まれ易く、フォーカーしかいないこの世界ではこの制度は自然に受け入れられた」
 ちなみに歴史改変に気付かない一般人の書いた本とは違い、歴史改変前の記憶のあるフォーカーの書いた本の内容は変わらないので、本から正史を考えることもできないらしい。
「ならこれはどう考える。ノアが俺を襲ったあの時、周囲の人は誰も俺を助けなかった。あれは俺と周囲の人とで世界線が違い、法外の出来事だったから誰も介入しなかった訳だ。だがそれは人道に反する思考の結果ではないか」
「ああ、それに関しては明確に課題だ。加えていえば俺という存在が絶対になりすぎたことも、あの結果を招いた要因の一つだ。といってもさっきも説明した通り今はまだ実験段階。俺達はこの分岐主義の研究を続けている最中だ」
 そこまで聞いて、ノア達の事情も大体理解できてきた。
「つまりそれが理由でノアは俺達にデスブンキを消すことを踏み留まってほしいと」
「いや、分岐主義はあくまで大多数の住民がフォーカーであることが前提。だからそれをフォーカーの少ない世界にまで押し付けるつもりはない。実は黒ノ泉は高度な編集が可能で、デスブンキを消す世界と消さない世界に分けることもできるんだ。だからもし君達が黒ノ泉で編集する機会が訪れたのなら、その選別をお願いできるか」
「そういうことなら、勿論構わない」
 ノアの話を聞いて、饒波の中のデスブンキに対する価値観は少しずつ変わろうとしていた。

 それから少しして図ったようにセキが部屋へと戻ってきた。その手には容器に入った黒い水が抱えられていた。
「それ向こうの世界でも見たことある。こんな感じの黒い水の中に情報が入ってて、このダムに来る切っ掛けになったんだ」
「これも同じ。この中には初代ダム管理者の遺した記録がある」
 ちなみに黒い水の正体はデスブンキが発生した際に現れる副産物で、津波等の水害発生時に水が黒くなったり、黒海が黒い海と呼ばれているのもその影響らしい。
 と、ノアが説明を終えたタイミングで、容器に入った黒い水が3人の座るテーブルにどんと置かれる。早速ノアから黒い水に触るように促されたので、2人はそれに従い容器に触れると、以前の黒い水とは比べ物にならない情報がどっと押し寄せてきた。

 昔、初代ダム管理者は神からお告げを受け、ある役割を与えられた。
 その内容はこうだ。黒海の周辺に住まう者を皆フォーカーに変えた。その者達を周囲を大地に囲まれた浸水した道で溺死させろ。目的はデスブンキを発生させ、黒海の分流を起こしてボスポラス海峡を創り出すため。但しボスポラス海峡はそこら辺の川とは違い広大なので、完遂には相当な数のデスブンキを発生させる必要がある。またデスブンキという摂理はボスポラス海峡を創り出して、大洪水を発生させた時点で消失する。
 突然のお告げに驚いた初代ダム管理者だったが、始めは自らの手でフォーカーを殺める気にまではなれず、お告げのことを周囲の人々に正直に話した。だが誰もその話を信じてはくれず、まるで自分だけが皆とは違う世界線へといざなわれたように感じられた。尤も当時の初代ダム管理者は世界線という言葉すら知らなかったが。
 周囲の反応に絶望した初代ダム管理者は、それからは神のお告げに従いフォーカーを溺死させ始めた。そしてそれを続けていたある時、転機が訪れた。
〈Fork or Succession〉
 この問いには神からは分岐を選ぶように教えられていて、いつもそのように実行していた。だが初代ダム管理者は湧き上がる好奇心を抑えられず、こう答えた。
〈Succession〉
 すると初代ダム管理者の中に1から2になる感覚が沸き上がった。それが何なのかは当時の初代ダム管理者にはまるで分からなかったが、それに深く魅了されたことだけは確かだった。
 以来その感覚が忘れられず、初代ダム管理者は継承を続けた。そして感覚が100になる頃には自身に何が起こっているのかを、つまりデスブンキの仕組みを自然と理解できるようになっていた。その後も初代ダム管理者は継承を続け、遂には自身の分岐数が1000分岐を超えるまでになった。
 その頃には初代ダム管理者は、このデスブンキという摂理は残すべきだと考えるようになっていた。そのためには大洪水を発生させる訳にはいかなかった。だがデスブンキは初代ダム管理者が任を放っていても、フォーカーが溺死すれば自然と発生してしまう。その上ボスポラス海峡は既に、いつ大洪水が起こってもおかしくない程にまで完成に近付いていた。
 そこで初代ダム管理者は、ボスポラス海峡に巨大なダムを構築することでそれを阻止した。といっても実際に作った訳ではなく、デスブンキを発生させて巨大ダムが構築された歴史に変えることでダムを創り出したのだ。それは分岐数が1000分岐を越えている初代ダム管理者だからこそできたことだった。
 同時に分岐数が1000分岐を超えている初代ダム管理者は、遥か未来を視ることができるようになっていた。更にその力を駆使して発見したことがあり、それは地下鉄でデスブンキを発生させると、転移道が開通する可能性が高いことだった。どうやら道と駅があり、そこに駅名があることが大きく作用しているらしい。
 早速ダムの中に地下鉄を作ると、それから少しして結果は現れる。初代ダム管理者の目論見通り、地下鉄のある19世紀後半以降の時代のフォーカーが、ぽつぽつとこの巨大ダムを訪れるようになった。更には移住する者も現れ始め、いつしかダムに街が形成されていった。その街は世界中のフォーカーが集まることもあって、自然と多国籍な雰囲気を作り出していった。
 一方でデスブンキという摂理の研究も並行して行っていた。その中で出てきたのが国民国家ではない統治システムの分岐主義という考え方だった。これは属人主義のカリフ制等に近い考え方(*9)だ。
 その後このダムで分岐主義の実験が行われるのは自然の成り行きだった。ここへ移住した者の中には、一般人との歴史認識がかけ離れすぎて、生活に支障をきたしている者もいて、寧ろそれを望む声は大きかった。
 ダムの経営が軌道に乗り始めた頃になって、初代ダム管理者は自身の亡き後のことを考えるようになった。そもそも初代ダム管理者の個人商店でダムや分岐主義が成り立っていても何の意味もなく、仮に初代ダム管理者が死んでも持続的にそれらが引き継がれていかなければならない。
 そこで初代ダム管理者は分岐主義の理念に立ち返って考えた。そして熟考の末、様々な世界線の中から見込みのあるフォーカーを集め、その者達にダム管理者の権限を与え、初代ダム管理者の理念を託すことを決めた。
 問題はその選ばれた者達であっても、分岐数が1000分岐を超えるフォーカーはおらず、多い者でも200分岐台がやっとだったことだ。そこで初代ダム管理者はそれを補うために、高度な分岐の編集ができる黒い水を黒海から掻き集めてダムの最下層に貯蔵した。
 それから長い年月が経ったある時、初代ダム管理者は後世の者達にダムを託し、この世を去った。

 ……といったところで初代ダム管理者の物語(*10)は終わった。
 意識を現実に引き戻し、黒い水から手を離した饒波は、ノアに対してある憶測を口にする。
「つまりダム管理者は実は大勢いて、その内の1人がノアだったと」
「そういうことになる。君も薄々疑問に感じていた筈だ、別世界の自分がダム管理者だなんて妙に話が出来すぎじゃないかと。だが実際にはダム管理者には相当な人数の人がなっていて、俺はその内の1人にすぎない」
 つまり異なる世界線のダム管理者や、それを慕う住民にとって、ここはノアのダムではないのだ。
「分かってほしいのは、俺達は分岐主義を世界に広めたい訳じゃない。最適解の中で普通に一生を送りたい、それだけなんだ。初代ダム管理者は好奇心や野心からこのダムを創ったのかもしれないが、今は街があり人がいるんだ」
 ノアは最後にそう言い残し、長い話し合いは幕を下ろした。その頃には外の日差しもすっかりと茜色に染まり始めていた。


 未

 2人がノアのダムを訪れてから早幾日。その間は不自由のない豊かな生活を満喫できたが、それでも本来の目的を忘れることはなく、遂に出発の日を迎えた。
 早朝、前日の内に準備を済ませておいた荷物を手に部屋を出ると、外では洛書とセキが既に立ち話をして待っていた。今回の探索には饒波と洛書に加えて、セキも同行することになっていた。
「まだ時間前だけど、もう行くか」
 セキの出発の合図と共に3人は歩き出す。向かうは黒ノ泉のあるダムの最下層、100Fだ。
 だがそこに辿り着くまでには様々な階層を通過しなければならない。実はこのダムは20Fごとに雰囲気が大きく異なり、それぞれに名前もある。具体的には次のようになっている。
「1~20F大洪水階層、21~40Fメトロ階層、41~60Fイェレバタン階層、61~80Fアララト階層、81~100F黒ノ泉階層」
 といっても40Fまでは人の住む居住区なので危険はなく、交通網も整備されているので大して足を使うことなく移動が可能だ。
 早速3人は大洪水階層を出発して、数分で21Fのメトロ階層に到達すると、そこから列車に乗って最下居住区域の40Fを目指した。
 ちなみにダムで生活している内に分かったことだが、列車は経路や騒音等の観点からダムの外の水中を走ることも多く、本来の列車には安全に水中を走れるように防水がしっかりと施されていた。その上で万一のためにしっかりと空気タンクも常駐されてある。つまり水が入り込むようなお粗末な列車は、転移道を走るあの列車だけだった。
 暫く列車内で身体を揺らしていると40Fの駅に到着した。早速降り立ち駅を出てそこから少し歩くと、いよいよ居住区外へと通ずる下り階段が3人の目の前に現れた。
「下層は危ないといっても注意すれば回避できる程度の危険だから、あまり気張らずに」
「水が入り込む列車に乗るよりは安全な訳だ」
「あぁそういえば、君達は既に非常に危険な体験をしてるんだった」
 なら心配いらないなとばかりにセキが階段を下っていき、2人もそれに続いていった。

 少し歩くと周辺の雰囲気が急に変化した。そこはメトロ階層と比べて広く天井が高かった。照明は最低限しかないせいか暗く、雑音もまるでなく静寂だ。広々とした空間には所々に柱があり、その根元にはある彫刻が施されてあった。
「メドゥーサが……横向きとか逆さになってる(*11)」
「変わった柱だろ? このイェレバタン階層は蛇の楽園なんだ」
「それで、進路は分かるのか」
「ここは案外単純な構造だから迷うこともない」
 洛書と饒波の疑問に応じてセキが説明する。その言葉通り通路には多少の分かれ道はあるものの、3人は特に道に迷うこともなく淡々と階を下っていく。
 だが道中、気配があった。
「右前方の柱の陰、そこに何かいる」
「警告どうもありがとう。少しここで待っててもらえると助かる」
 するとセキは躊躇いもなく教えてやった方へと自ら接近し始める。
 その時、そこから2匹の大きな蛇が姿を現した……ように見えたが違った。あれは――頭が二股に分かれている。
「嘘、あれ本物のオロチじゃ……。どうすんのさ」
「あぁこいつは刺激しなければ害はないから放っておいて問題ない」
 洛書の動揺も気にせず、すっかり警戒を解いたセキはそう言って再び進行方向へと歩き出した。2人もその後を追うと、結局蛇は少しこちらを警戒したくらいで、特に何事も起こらずに通過できた。
「ところでさっきの様子だとヤマタノオロチについては知ってそうだね」
「そりゃ向こうの世界で何もしてなかった訳じゃないから。以前調べたんだよ」
 まだエフがメンバーにいた頃、3人で島根県出雲市にある須佐神社を訪れたことがあった。
 それはデスブンキに関連する漠然とした疑問が切っ掛けだった。贄が死ぬ方法と言われて何を真っ先に思い浮かべるか、その問いに対する答えは水に身投げする姿だった。そこからデスブンキと贄には何かしらの関係があるのではとメンバーは考えた。
 そんな贄にまつわるかの有名な物語、八岐大蛇やまたのおろちの日本神話、それに深い関係があるのが須佐神社だった。そこには物語に登場する須佐之男すさのお櫛名田比売くしなだひめが祭られていた。
 どんな物語か軽く触れると、足名椎命あしなづち手名椎命てなづちの間に生まれた8人の娘が、八岐大蛇に毎年1人ずつ食べられ、最後に残った櫛名田比売も食べられようとしていた。そこへ須佐之男が訪れ、櫛名田比売との結婚を条件に八岐大蛇の退治を申し出て、見事にそれを果たす(*12)といった話だ。
 そんな中、須佐神社の関係者に正直にデスブンキのことを話したところ、遠い先祖を名乗る人物からある事実を明かされた。
「なぜ八岐大蛇は8つの頭と8本の尾を持っていたと思いますか」
「まさか――8人の娘がフォーカーで、蛇の食道が分岐したとか……」
 エフがはっとした表情を浮かべて答えると、先祖の者は首肯した。
「物語の中で須佐之男が八岐大蛇と戦う時、櫛名田比売は櫛に変えられる。それこそが彼女が櫛涙くしなだであり、遣岐やまたを起こしたことを物語っているんです」
 先祖の者が口にした櫛涙はフォーカーのことを指していて、遣岐はデスブンキのことを指していた。つまりこの物語にはデスブンキが深く関係していた。
「……とまあ昔、そんなことがあって知ってたって訳」
 洛書が得意気に話を終えたところで、今度はセキがその話を引き継ぐ。
「そう、そして同じようにこの柱の根元に横たわるメドゥーサも、デスブンキによって分岐した蛇がモデルになって生まれた存在。勿論顔や石化の能力は完全に作り話だけど、それらにしたってデスブンキが関係してるとは思わないかい?」
 確かに顔が溺死したフォーカーを表していて、石化の能力がデスブンキの発生条件の一つの大地を表していると考えれば、そういった突飛な容姿や能力が作り話に付与されたとしても不自然ではない。
「更にいえばこのメドゥーサの柱には、実は人柱の意味が込められているんだとか。つまりデスブンキと贄に深い関係にあるのは万国共通って訳だ」
 と、そんなことを話している内に、イェレバタン階層の大分奥まで進んでいた。
「今いるのが60Fだから、ここを下ればアララト階層だ」
 セキの視線の先を目で追うと、そこには長い階段があり、その先はここよりも更に暗くなっていくのが見えた。

 3人が階段を下っていくと、ある地点から段の形状が変化を始めた。人工的に調ったリズムは徐々に荒削りな凹凸に飲まれ、瞬く間に岩場を歩くような険しい道に。周囲を見渡すと階段だけでなく、壁や天井も形状を岩へと変化させている。
「このアララト階層は洞窟(*13)なんだ」
 セキの説明に一瞬、どうしてダムの中に洞窟が……と思ったが、すぐにあることを思い出す。
「ここは初代ダム管理者の創った転移境の中の世界だから、洞窟があっても不思議じゃないと」
「そういうこと。といってもこの階層も基本下っていけば問題ない」
 セキはそう簡単に言うが、道が舗装されていないのは勿論、天井が低かったり断崖絶壁の箇所もあって割と危険だ。
「今回の進路も単純なのか?」
「順路を外れない限りはね」
 道はイェレバタン階層よりも複雑に枝分かれしているが、洞内には最低限の光源が設置されていて、どうやらそこを辿ればいいらしい。道も観光地の整備された洞窟程ではないものの、ロープがなくても問題ない程度には舗装されている。
 起伏の激しい下り道を歩き続ける3人は、自然と無言の時間が増え始める。そんな中で饒波はある話題を提供した。
「ノアはいつ頃からこのダムの管理を?」
「そうだなあ……、途方もなくずっと昔から、かな」
 その言葉には妙な重みがあった。それに気付いていない洛書は「それって10年前くらい?」と適当に当てようとするが、案の定セキは首を横に振る。
「少なくとも1世紀以上は経ってると思う」
「えっ、でもノアは饒波より少し年上くらいだよね」
「普通はそう思うだろ? ところが彼はデスブンキによる歴史改変を利用して何度か若返りを図ってるんだ。所謂寿命を延ばす裏技ってやつさ」
 具体的には自身の身体を20~30年間程コールドスリープさせた歴史に変えることで若返りを図っているらしい。確かに分岐は歴史を変える一方でフォーカーの記憶だけは変えないので、その方法なら記憶を保持しつつ身体を若返えらせることは可能かもしれない。ちなみにノアは既にそれを5回も行っているそうだ。それでも初代ダム管理者と比べたら圧倒的に少ないのだとか。
「だがそんな針の穴を通すようなことが……」
「勿論、そこら辺のフォーカーじゃあまず不可能。だけどノアは不可能を可能にする恐ろしい奴だ」
「けど凄い、それが本当なら永遠に生きられるってことでしょ」
「ところがこの裏技にはリスクがあってね、使う度に対象者を狂わせていくんだ。そこからは例えノアであっても逃れられない。だからこれは永遠の命なんて素敵なものじゃないんだ」
 そう語る彼女の表情からは、先程まであった流麗さは消え、代わりにある事実を吐き出す。
「実は私も1度だけ受けたんだが……2度目はないな」
 その発言は同時に、平然とそれを何度も繰り返しているノアへの敬意なのだと察した。
「……っと、そろそろ次の階層が見えてきた」
 しんみりとした空気を無理やり断ち切るようにセキが言った。どうやらこの階は80Fのようで、目の前の階段を下ればいよいよ最終階層へと行けるようだ。
 3人はそれ以上の会話を交わさず、そのまま下へと歩みを進めていった。


 朱

 今度の階層はこれまでの異色さと比較しても更に現実味の薄れた空間だった。
「到着、ここが最後の空間――黒ノ泉階層」
 セキの案内を合図に空間を見渡すと、そこにはメトロ階層のような狭く入り組んだ地下通路が続いていた。だが見た目は随分と違い、壁は材質不明のグレーの何かでできていて、照明がないのに辺りはぼんやりと明るさを放っている。かと思えば遠くは黒い濃霧でもかかっているように見通しが悪い。
「ここは今まで以上に現実味のない空間だな」
「実はここは転移境に囲われたダムの中でも更に転移境に囲われた空間なんだ。さすがものがものだけあって無駄に厳重だろ?」
 セキはそう説明しながらもすたすたと歩いていくので、今まで通り2人はその後を追う。
 暫く歩いていると、道自体はアララト階層よりも単純で歩き易いことを実感する。だがその事実が逆にある疑問へと繋がった。
「いくら何でも簡単に進めすぎじゃ?」
 饒波と洛書がここへ来た目的はデスブンキを消すためで、その実現のためには100Fへ到達する必要がある。一方でここへは別世界の饒波も何人も挑んでいるにも関わらず、未だに誰も100Fには到達していない。その割にはここまでの道のりは些か呆気なさすぎる。
「この先の90Fに最大の、……いや最大かは分からないが、難所がある」
「難所って?」
「説明は着いてからする。といってももうほぼ着いたようなものだが」
 セキは洛書の問いに一言答えたきりその質問には口を閉ざしたが、そこへは本当にすぐに着いた。
「やあ、随分待った」
 到着の合図をしたのは3人の誰でもなかった。聞き覚えのある声源を目で辿ると、薄暗い通路から姿を現したのはノアだった。どうやら先回りをしていたらしい……が状況が読めない。
「出迎えてもらっておいて悪いが、良い予感がしないな」
 正直な感想を述べると、ノアはその覚悟を認め、ある事実を口にする。
「……率直に言うが、ここから下へと通ずる道は今現在存在しない」
 ノアの話によればこの階層の壁は固化した黒ノ泉でできていて、通路は黒ノ泉によって自動生成されているらしい。但し黒ノ泉の作る通路には、必ず1ヶ所だけ閉塞地点ができてしまうのだそうだ。
「つまりこれより先へ進むにはデスブンキを発生させるしかない」
「それってつまり――また誰かを犠牲に……」
「いや、話はそう単純ではない」
 辛そうな洛書に対するノアの説明に、饒波はすぐに察した。
「水、この空間には水がない。つまりどうにかしてここを浸水させなければデスブンキは発生させられない」
「問題点は正解……だが解決法が違う。俺も隈なく探したが、この階層には水がない。加えていえば別の階層から大量の水を流し込むことも不可能」
 その理由は他でもない転移境。水はその境界を越えられず、しいて運べるのは水面から汲み上げられる程度の水だけだ。
「……だが一つだけ方法はある。それは――人間離れした分岐数、それを有したフォーカーの溺死」
 ノアの明かした事実は饒波も知識としては知っていた。だからこそ饒波は深く考えた末にある提案をした。
「ノア、贄になる覚悟はあるか?」
 するとノアは僅かではあるが、今まで見せてこなかった驚きの表情を浮かべた。
「君がそんな顔を見せるなんて意外だ」
「……それには理由があるんだ」
 暫く口を閉ざしたままのノアをフォローするように、珍しく彼のいる場でセキが口を挟む。
「ここを訪れた饒波は皆、自分を贄にしようとしたんだよ。だがその実行には皆分岐数が全く足りてなかった。だから彼らはフォーカー狩りを行って分岐数を稼ごうとした。だが皆が皆、その途中で狂った」
 ここを訪れた時に言われた饒波が狂う、その意味が漸く分かった。
 そこに至って漸くノアが冷静さを取り戻し、そして一言問うた。
「君は……俺に死ねと言うんだな」
「……ああ」
「ちょっと待って、どうして、俺の時は殺すのを躊躇ったのに」
 洛書は彼を庇ってなのか、混乱しながらも客観的に意見した。だがそれに対する反論はそう難しくない。
「ノアは長い間生きすぎた。更に圧倒的な力も合わさってノアという存在は絶対なり、遂には街の住民も彼の殺人を思考停止で赦すようになってしまった。それは最早システムの失敗を意味している。そしてノアがダム管理者でいる限りその状態は続く。……だからもう、そろそろいいんじゃないか?」
 優しく言ってやった。彼自身もそのことは明確に理解している。その一方でここで死んだら自身の理念も途絶えてしまわないか、本当に自身の代わりはいるのかと、そんな葛藤に苛まれているのだろう。
 だからこそ饒波は彼を動かしいと思った。
「ノア、君は死して尚、歴史を築く。俺が君の後を継ぐ」
「それは……本当、か?」
「約束する」
 思いを伝えると、それを受け取った彼は答えた。
「分かった、理解した。ならばこの命を――君に託そう」
 2人の気持ちが繋がり、ノアの死が決まりかけた――その時だった。

「反論!」
 突如セキが声を張り上げた。更に彼女は立て続けに述べる。
「私、ダム管理者ノアの補佐をやっているセキと申します。こう言っては何ですが、誰よりもノアを見続けてきた自負はあります。その立場から所感を述べると、知識に身体能力、想像力にラック、あらゆるものを彼は持っています。……宣言、私はノアを贄にすることに反対を表明する」
 その流麗さのある反論には、今までの流れを一変するだけの力があった。
「……確かに早急な結論だったかもしれない」
 雰囲気に飲まれたのか、洛書はセキの意見を肯定する。一方で饒波はここで意思を曲げてはいけないと直感的に感じ取った。
「セキが反対を表明したのは、ノアを守りたいからだろう?」
「勿論それがないといえば嘘になる。だがそんな個人的な意見が聞き入れられると思っている程馬鹿じゃないさ」
 セキの表情には、まるで意見が聞き入れられると確信しているような余裕が覗える。考えが読めないが、とにかく今はノアから発言を引き出す必要がある。
「そも、ノア本人が死を受け入れていた。そうだろう?」
「さて、どうだったかな」
 予想に反しノアは先程の態度を翻してしらを切った。やはり早急すぎたのかと一瞬思ったが、先程の態度が演技とも饒波には思えなかった。そこには何か理由がある筈だし、あるのなら探るべきだ。何よりこんなところで躓いていてはダム管理者なんて勤まらない、……と考えたところで饒波はその理由に思い当たった。
「なるほど、今ここで問われているのは――ダム管理者としての資質だ」
「……気付いてくれたか。俺達フォーカーは忘れがちだが、世界線の分岐はデスブンキが存在しなくても起こる摂理。例えば俺達が今誰を殺すか、それとも殺さないかの選択が異なるだけでも世界線は分岐していく。……だが俺達にできてデスブンキにできないこともある。それは最善の世界線が何かを自分の頭で考え、選択することだ」
 それを聞いた饒波は、皮肉にもこれは俺達の手で起こすデスブンキなのだと思った。
「最善の結論を出すのなら、一度居住区に戻ってじっくり考えた方がいいんじゃないかい? そもそも贄をこの中から選ぶ決まりだってない」
 ノアの意見に乗じるようにセキが言った。一見すると筋の通った意見だが、饒波はその発言の中に小さな引っ掛かりを感じた。
「これは推測だが、ここで一度居住区に戻った場合、俺や洛書が死ぬ可能性は上がるんじゃないか?」
「よく分かったな。まあ殺されそうになればそう思われて当然か。君の言う通り、いつまた俺の気が触れてもおかしくないと思え。狂い方が酷ければ洛書だって殺しかねない」
 それはこの時点で全員が生存する世界線は望めないことを意味していた。つまり今求められているのは、誰を殺すかを自分の頭で考え、選択すること。その事実が見え始めようとした時、セキがある提案をした。
「ならこういうのはどうか。一度居住区に戻り、分岐数の多いフォーカーを見付けてここに戻ってくる」
「でもそんな分岐数の多いフォーカーってノア以外にもいるの?」
「前にも言った通りダム管理者は大勢いる。そいつらは皆ノアに匹敵する分岐数を持ってる」
 一見するとその案は魅力的にも思える……が、饒波はそこに潜む罠に気付いた。
「それは本末転倒だ。今俺はダム管理者を継ぐことが前提で話し合ってる。にも拘わらず別の世界線のダム管理者を殺す行為は、分岐主義の理念に反している。セキ、今の提案は俺が君に同意するというミスを誘い、ノアに俺がダム管理者に相応しくないと印象付けるためにあえて言ったのだろう? そういった悪足掻きをされた以上は、やはり俺はノアを贄にすることが最善だと考える」
 その切り返しが的確だったようで、そこに至ってセキはこの議論の中で初めて表情を歪ませ、そして言った。
「ノア……悪い、庇い切れそうにない」
 遂にセキが折れた。そうして結論が出ようとした――その時だった。
「反論!」
 その言葉を発したのはセキでもなければ、ノアでもなく――洛書だった。
 饒波はなぜ洛書が反論を……と思ったが、その理由は何てことのない簡単な理由だった。
「今俺達がやってることは、誰かを守ろうとする行為だと思う。それは立派なことだと思うけど、……でもそれって理念の達成を本当に真剣に考えてるっていえる?」
 そう言われて饒波ははっとする。完全に正論だった。よく見ればセキも意外そうな顔をしている。だがノアだけは笑っていた。
「そうか、それにすら気付いたか。ならば本当に君達に俺の理念を託せるかもしれない」
「ノア……本気、か」
 セキの声は普段よりも少し震えていた。そんな彼女を説得するようにノアは言う。
「彼らは覚悟を決めたようだ。セキ、君も覚悟を決めろ。俺達の理念をどうやったら実現できるかを嘘偽りなく話し合え」
 セキは暫く黙り込んだ。それを黙ってただ見ていると、ある瞬間に彼女はこちらを見据え、そして言った。
「さっきは罠に嵌めようとした。それにここで居住区に戻れば2人が死ぬ可能性は上がる。……本当のことを言ったぞ、だから君らもこの芽を摘まないでくれ!」
 その言葉からは先程まで有していた流麗さは消えていた。その変化が最善の世界線へ辿り着くための本当の議論の始まりを予感させた。
 だからこそ饒波も覚悟しなければならなかった。そして覚悟はある提案をすることで果たされるだろう。その提案は一度してしまえば取り返しがつかない。それでもセキの気持ちを裏切ることは饒波にはできなかった。
「提案する、贄になる候補として――洛書を挙げる」
 その提案を聞いた3人は三者三様に驚いた。
「待ってくれ、普通のフォーカーはそんな高い分岐数になることはできない。なる前に狂うからだ」
「……いや洛書なら可能だ。事実俺は別世界の洛書でそれを目撃している」
 セキの反論に対してノアは言った。その事実をなぜだか饒波は予知していた。次いで冷静さを取り戻した洛書が口を開いた。
「確かに饒波は途中で狂うかもしれないけど、俺ならできるかもしれない。それにノアが残れば今後もOBとしてダムに貢献できるけど、俺が残っても多分何もできない」
 洛書はその場の誰に対しても憎悪をぶつけず、ただ自身の存在意義を受け入れた。それが饒波に呪いのような罪悪感を芽生えさせた。まるで自身の一言がデスブンキを発生させてしまったように感じられて仕方がなかった。それに追い打ちを掛けるようにノアは言った。
「……決まりだ。今この瞬間、俺達の手でデスブンキは発生した」
 饒波はその先の言葉を聞きたくなかったが、その思いは届かず、無情にもノアは続けた。
「贄に選ばれた者は――ダム管理者ノアこと俺だ」
 それはノアを除く3人の予知していたものとは違う結論だった。その理由を彼は語った。
「俺は遠い過去、君達と同じ理由でここを訪れ、そしてここで洛書を殺した。それを俺は今でも悔いている。だがそれはただの主観的な意見ではない。あの時俺が洛書を殺さなかった世界線の先に、分岐主義の可能性が視えたんだ」
 確かに洛書には饒波のように他の者を圧倒するような力はない。それでも彼は饒波とは違ったアプローチでこのダムに貢献することができるかもしれない存在だった。
「だから俺を贄にして、洛書を残してくれ」
 それに対してもう誰からも反論は起こらなかった。それは長い議論が幕を下ろしたことを意味していた。

 議論の熱気が冷めていくと同時に、空間を覆ったのは強い悲壮感だった。
「覚悟はできていた。あとは実行するだけだ」
 そう言ってノアはどこかへと歩き始めた。3人もその後を追うと、少し歩いた先で彼は立ち止まった。その場所には人が浸かるのに適当な水が溜められた浴槽があった。ノアは今からこれに浸かり、デスブンキを発生させるつもりなのだ。
「セキ、今までありがとな」
「……考え直す気は本当にないんだな」
「別れは俺も辛いが、さすがにこれ以上は長生きしたくない」
 ノアの正確な年齢は聞いていないが、恐らく人間の平均寿命の倍以上は生きているだろう。だからこそその言葉には重みがあった。
「最期に訊くが、俺は脳のどこかが異常なかたちで生まれてきた。だから形式的にしか人の死を考えることができなかったし、事実デスブンキを追うためにこれまで多くの人を殺してきたが、それにも形式的にしか向き合えなかった。……そんな俺にダム管理者になる資格はあるか」
「心配いらない、俺も同じだ。それに君はその異常を受け入れた人のことは大切にしてる」
 ノアの言葉を聞いた饒波は、少しだけ荷が軽くなったような、そんな気がした。
「俺からも最期に訊くが、饒波、俺の名を襲名するか?」
 それはとても名誉な申し出ではあるが、その問いに対して饒波は首を横に振った。
「君が沖縄県豊見城市から名を取り饒波ノアと名乗る(*14)のなら、俺は沖縄県国頭郡大宜味村から名を取り饒波ヌーフと名乗ろう(*15)」
「そうか、分かった。……お別れだ」
 そう言いながらノアは服のまま浴槽に浸かると、儀式のように周囲に軽く水を撒いた。
「辛いだろうが自ら発生させたデスブンキの結末を、俺の最期を、その目に焼き付けてくれ」
 ノアは最期にそう言って――水中に潜った。
「問いの回答は君に任せる」
 饒波がセキにそれだけ伝えると、以降にはただ長い沈黙だけが続いた。そして暫くしてあの問いがきた。
〈Fork or Succession〉
 言うまでもなく、それは彼の死を意味していた。
〈Fork〉
 セキは答えた。それから暫く彼女はその場から動こうとしなかった。それを目にした饒波は、彼女が動くまでじっと待とうと決めた。


 耒

 それから少しして、セキはやっと2人に視線を合わせてくれた。その表情は強がりもあるだろうが、思っていたよりも安定していて、とりあえず一安心する。
「まだ気持ちの整理はついてない。それでも今は君達を黒ノ泉に送り届けることに専念するよ。でないと色々考えてしまって、却ってやばくなりそうだからね」
 浴槽には安らかな顔を浮かべている殉職したダム管理者の姿がある。だが亡くなった彼に後ろ髪を引かれていては前に進めない。何とか気持ちを切り替えて、3人は周辺の探索を始めた。
 開通した道を発見したのはそれからすぐだった。早速3人は道の奥へと歩みを進めていく。その道中、ぽつりと言葉が零れた。
「さっきは贄の候補に挙げて……本当に申し訳なかった」
 それは懺悔の言葉だった。けれどそれに対して洛書はささやかな、そして確固とした反論を返してきた。
「そんなことない。寧ろ饒波が提案しなかったら自分から名乗り出てたし、そうなってたらノアが何と言おうと意地でも自死を貫いてた」
 つまりあの時、饒波が贄の候補に洛書を挙げた行為は、逆に彼の命を救っていたと、洛書はそう言ってくれた。そしてそれは事実なのだろう、だからこそその言葉は饒波に赦しを与えた。
 とそこで何かが視界に入ってきた。早速対象への接近を試み、目と鼻の先まで到達する。そこに至ってセキがその正体に言及した。
「これは……黒ノ泉だ。91F以降は黒ノ泉で浸水してるってことか」
「じゃあこの中に入れば……」
 分岐を編集できる可能性、それに惹かれた饒波の身体は無意識に動いた。そして屈み、指先で黒ノ泉に触れた。
 刹那身体と魂が表現不能な不快感に襲われ、反射的に手を引っ込める。
「ちょ、饒波!」
 その反応がらしくなかったのだろう、それを見ていた洛書に大声で心配されてしまう。余計な不安を抱かせないためにも、一呼吸置いた饒波は彼らに触れた指を見せつつ説明する。
「触れてみていくつか分かったことがある。まずこの黒ノ泉は純粋ではない。つまりここでは分岐の編集は行えない」
「……手立ては?」
「これは直感だが、恐らく最下層に向かえば向かう程黒ノ泉は純粋に近付く。そしてどうやら黒ノ泉は液体ではないらしい。つまり恐らくは潜ることが可能」
「そうだとして、今反射的に手を引っ込めたよな」
「言葉にできない不快感があった。できることなら君達には触れてほしくない」
「そういう訳にはいかない」
 2人のやり取りに口を挟んだ洛書は、そのまま黒ノ泉に近付いていった……かと思えばセキもそれに続く。数秒先の未来を想像して胸が痛くなったが、あえて止めてはやらなかった。
 その直後、洛書の絶叫が空間に響き渡った。予想はしていたが、それでもこれは心苦しい。
「饒波、これに潜るのは無理筋すぎる」
 辛うじて冷静さを保てたセキが言った。だがそれに対してあまりにも自然に言えた。
「いや、俺は潜ろうと思う。ここからは俺一人で行く」
「さすがに正気を疑うんだが。君が死んだらこのダムは誰が管理する」
「違う、これは自己犠牲ではない。俺にならやれそうだと今触れた時に感じた」
 その言葉を聞いたセキは面白いくらいに唖然としてくれた。とそこへ漸く冷静さを取り戻した洛書が会話に交じってきた。
「饒波……、止めてもどうせ行くんでしょ。だったら絶対に生きて帰ってきて」
「洛書、君はいつも要領が良くて助かる。別にもう少し引き留めてくれたって構わないんだぞ」
「そうしたって絶対に行くくせに」
 少し意地悪に言ってみれば、拗ね気味にそう返された。彼に元気が戻ったことが確認できたので、これで心置きなく潜る準備ができた。
「……行ってくる」
 簡単な別れの挨拶を済ませて、饒波は黒ノ泉の中に足を突っ込んだ。……行けそうな感覚があった。そのまま足を、胴体を、全身を浸らせた。

 91F。ここから黒ノ泉との孤独な戦いが幕を開けた。
 予想通り黒ノ泉の中でも息はできた。だが視界は劣悪な上、先程までの複雑な通路の構造は変わらないので、中々思うように先に進めない。これでは壁に手を当てて前進するのがやっとだ。
 この状況を何とか脱せられないかと、足掻くように、空間へ向けて意識を研ぎ澄ませてみる。
 ……僅かに、理解できた。
 だがそれは同時に余計なものを認知させた。先程初めて黒ノ泉に触れた時の印象、この黒ノ泉は人を容易に狂わせる何かがあることを改めて思い知った。
 92F。下っても通路の様子に変わりはないが、一方で僅かに不快感が増したような感覚がある。
 この狂う感覚は、恐らく分岐数を増やすと入ってくる感覚とは違って、黒ノ泉を出て暫く安静にしていれば直る。だから今さえ耐えられれば何とかなる。
 93F。黒ノ泉は未だ純粋には程遠い状態だが、先程よりも着実に不純さが減少してきている。だがその分濃度が上がって狂う感覚がこの身を襲う。
 そのせいか視覚に違和感を覚え始める。目の前はただ黒いだけの筈なのに、なぜか色彩を見ている感覚がある。
 94F。瞳は本当に色を映し込んでいるのかもしれないと思い始める。そう感じたのは目の前に景色が広がっているからだ。ただ景色というにはぐちゃぐちゃで、それが何なのだろうとつい……注視してしまった。
 それは饒波が今まで殺してきた人間が集まってできた遺体の海だった。
 95F。複数の遺体が起き上がっている。その者達は憎悪を含んだ視線をこちらに突き刺してくる。
 そこに至って饒波はこれが自身の罪から表出されたものだと気付いた。自身にもそんな感情があったのだなと感心しつつも、今はそこに意識を向けている余裕はない。
 96F。遺体の向ける視線にはイメージが含まれていて、それが徐々に具現化を始める。次第に視線を意識するだけで、それぞれの殺人の瞬間がフラッシュバックを始め、罪悪感が言語を介さずに直接脳を狂わせようとしてくる。
 恐らく普通の人間だったら、この時点でほぼ全員が狂っていたのではないか。
 97F。視覚に次いで、いよいよ聴覚にも異常をきたし始める。無音の筈の空間から声が聞こえた。
「なぜ殺した」
「デスブンキを消すためだ」
 それが単独なのか複数なのかも分からない、どこからともなく届いた声に、饒波はただそう答えた。
 98F。目の前にいたのはノアだった。歩いている感覚が曖昧になりながら進んでも、彼はずっと目の前で俺を見続ける。その視線は黒ノ泉のように表現不能でありつつ、有機的な痛みを貫通させてくる。
「……それでも君は俺を憎まないんだな」
 それが黒ノ泉を介して現れた彼だったものなのか、それとも俺の脳が作り出した幻影なのかは分からないが、目の前にいたノアは最後まで饒波に何も伝えなかった。
 99F。最下層の手前の階で出会ったのは、ノアでも自分自身でもない、もう一人の自分だった。
 饒波は予想していた、ノアからダム管理者を継いで、もしダムにもう一人の自分が来訪したら、そいつを殺さなければならない場面がいずれ訪れるかもしれないことを。つまり目の前の彼は未来の犠牲者。
 その時、もう一人の自分が口を開いた。
「――君は洛書を殺した」
 一瞬何を言っているのか理解が追い付かなかった。だがすぐにこれは未確定の未来のイメージだと思い直す。そもそもデスブンキは過去の歴史を変えられても、未来を確定させることはできない。だからこそ饒波はもう一人の自分を射抜くように言った。
「俺は洛書を殺してないし殺さない、殺せる筈がない」
 そう言い切り、言葉を詰まらせた彼をもういいだろと言わんばかりに横切りざまに冷圧し、そのまま最下層へと足を進めた。
 100F。そこに混じり気のない、純粋な黒ノ泉があった。
「編集しなければ」
 デスブンキは単に道を分岐させるだけでなく、その分岐を補正するように歴史をも変える。この黒ノ泉はそれを相当な精度で狙い通りに変えることができる。
 だからこそ饒波はやろうとしている。編集して創り上げるものは――デスブンキの存在しない世界。
 そのためにはどうすればいいかを、暫く黒ノ泉と対話しながら思考した。そして考え抜いた末にあるアイディアが浮かんだ。
「物語を創ろう」
 饒波は物語を創り始めた。それから途方もなく長いようにも、短いようにも感じられる時間が流れた。
 そして饒波は遂に完成させた。最後に彼はその物語に名前を付けた。
「――方舟」
 物語が完成したその瞬間、多くの世界からデスブンキが消失した。


 注釈

 *1:ウィリアム・ライアン、ウォルター・ピットマン『ノアの洪水』集英社
 *2:デスブンキ発生後の北上川とその記述内容は実在のもの。
 *3:デスブンキ発生後の大川津分水路とその記述内容は実在のもの。
 *4:『NHKスペシャル「“黒い津波”知られざる実像」』NHK
 *5:『想定外が起きる 地下浸水へ備えを』NHK生活情報ブログ
 *6:スティーヴン・キング、ルイス・ティーグ『クジョー』
 *7:ミズガルズの日本語訳は中つ国。
 *8:各駅の注意書きと九条駅の階段は実在のもの。
 *9:中田考、東浩紀『カリフ制再興 vs 一般意志2.0』ゲンロン
 *10:モーセ『創世記』
 *11:メドゥーサの柱はイェレバタン貯水池にある実在のもの。
 *12:舎人親王『日本書紀』
 *13:ボイド・モリソン『THE ARK 失われたノアの方舟 下』竹書房文庫
 *14:沖縄県豊見城市饒波のは
 *15:沖縄県国頭郡大宜味村饒波ぬうは

文字数:44777

内容に関するアピール

物語は基本的にデスブンキとしか言っていません。
このギミックに至った経緯は、デスゲームの中には人の死がトリガーとなって何かが起こるものがあるので、ならそれが世界の摂理として存在したらという着想から始まりました。その意味ではこの物語のジャンルは広義のデスゲームでもあります。
その次に考えたのはデスゲームと生贄との関係でした。そこから水という着想が生まれて、色々と紆余曲折を経て今回のかたちに落ち着きました。

テーマはゲンロンの社長交代の出来事を自分なりに解釈してみました。
物語なのでエンタメに寄せてはいますが、重要なところは残せたと思います。途中で辞めていくメンバーや、存在が絶対になりすぎたダム管理者や、あえて出した経営という言葉は、そこら辺を意識しています。
とはいえこれは普遍的な問題で、どこの会社や組織にでも起こり得ることです。創作でも文脈のない名作はあまりありません。それらに共通して大切なことは、代わりがいることを肯定的に捉えることだと思います。

プロットはオーソドックスに仲間と共に困難を乗り越えて目的地を目指す話にしました。
序盤の舞台は2010年代の日本にしました。震災や国会前や沖縄といった要素もポリコレに配慮しつつ出しました。2010年代の日本はあくまで導入ですが、そこが一番調べることが多くて大変でした。
中盤以降の舞台はダムの街にしました。ダムの思想や文化は地理的には一応トルコなので、中田考さんのカリフ制から着想を得てそこから広げました。作中で制度が実験段階なのは実現の難しさを表したのと、だからこそ後継が大切だと思ってもらうためにそうしました。

1年間小説を書いてきましたが、スタート地点が後ろだった分成長も大きかったと思います。最終実作は好きなことを詰め込みつつも、今出来得る限りの最大限のものが出せたと思います。
最後に講師の皆様、ゲンロン関係者の皆様、1年間ありがとうございました。

文字数:800

課題提出者一覧