梗 概
ヴァーツラフ広場、からくり座、深夜1時27分
その人形には顔が無かった。何も見えておらず、何も知らなかった。
田舎町の人形工房に、からくり座の座長と演出家が訪れる。チェコは伝統的に人形劇が盛んで、人気の劇団は昼から深夜まで繰り返し上演で賑わう。モーツァルトの歌劇を上演するようになった頃から、オートマタの技術が取り入れられた。糸で操られるだけでなく、プログラムによって多少は自律して動くこともできる人形だ。たいがい拙い動きだが、一部の工房と劇団は技術の向上が目覚ましく、からくり座はその代表格として話題になっていた。座長は二体の人形を買い付ける。一体は普通の顔がついているが、もう一体は顔がない。つまり目も無い。自律するオートマタは映像信号の入力で外部を認識するのに、このままでは演技できない。座長がメガネをかけてやり、少しは世界が見えるようになる。顔なしをココン(チェコ語で繭)、もう一体をクリードラ(同・翼)と名付ける。
からくり座は目抜き通りのヴァーツラフ広場に劇場を開いた。ココンやクリードラを使った新しい人形劇が上演される。自律動作の場面での複雑な演技に人気は沸騰する。人間の声の演技と操演と、プログラムの連携が絶妙なのだ。特にココンの動きは凄まじい。壊れたかと思わせるほどに、ぐるぐると腕を振り回し、跳ねまわる。
翼 「空を飛ぶ鳥のように、私は自由。どこへでもいける」
繭 「鳥って何? 見たことない! ああ、そういえば私は空を見上げたことも無かった」
人形は言葉を発しないが、人形同士の会話は可能だ。ココンは幼児の落書きのような絵を描いては皆に可愛がられる。座長の目を逃れて街を出歩けば、人間の吟遊詩人や女優に出会うこともあった。彼らから聞く話は、ココンに外の世界への憧れを強くさせる。
激しさを売りにすることで、人形の故障も多い。短期間に四体が廃棄された。舞台を中止することもある。追加補充するがすぐには上手くいかない。しかし座長と演出家の野心は、より過激な方向に向かう。
刺激的な舞台は、熱狂的な観客や暴れたいだけの酔客を引き寄せる。深夜のステージで、ついに観客による暴動と放火が発生する。ココンも襲われ、壊されそうなところを吟遊詩人に助けられる。劇場は焼け落ちてしまう。
やがて、焼け跡にテントで再開するが、しかし——
深夜の部、一時半開始の舞台の開始三分前。襲われた恐怖と外への憧れが、ココンに仲間よりも一座を出て行くことを選ばせる。
「わたしも自分の顔が欲しい。自分の顔は、自分で決めていいかな?」
メガネを外し、絵筆を持って、幼児の画力で自分の顔を描く。裸足でヴァーツラフ通りを歩いて去ってゆく。
ココンがいなくて始められない舞台に、クリードラが上がる。最前列に進み、オートマタの自律能力のみで、中央で踊る。
演出家はココンを敢えて見逃した。利益重視の座長には怒られる。無論追跡はできたが、巣立っていく人形の存在はむしろ人形使いとして幸せだ。
文字数:1200
内容に関するアピール
人形を育て、人形劇の一座を発展させていく物語です。人も組織も、育ての親の思惑だけでなく周囲の様々なものと関わることで思わぬ形に育っていく、そういうことを人形と人間双方の視点から語りたいと思います。
人形劇を題材にする上で舞台設定の候補はいくつかありましたが、人形劇が盛んなことで有名なチェコを舞台に、ハイテクなオートマタというテクノロジーを導入した架空の近世を設定しました。人形劇を観たことがなくても、トルンカやシュヴァンクマイエルの人形アニメーションはご存知の方もいらっしゃるかと思います。私も観劇経験はないのですが、今でも毎夜「ドン・ジョバンニ」などが上演されているそうです。
人形をある程度擬人化して扱うとしても、人間そっくりになっては人形にする意味がありません。その匙加減と、テクノロジーとファンタジー的な要素のバランスに気をつけながら、今回は幻想的な絵の表現に挑戦したいと思います。
文字数:394