梗 概
エル・アレフの亡霊支配者
深く緑が生い茂り廃墟然とした聖都エル・アレフ。そこには未だ百年前に死んだはずの建国者バスケスの亡霊が生きた人間を率いて居座っていた。そうした中隣国から派遣された軍諜報員のガビーとホセは、神の生成文法が記された〈不死の書〉を求め聖都への潜入に成功する。
百年前、この聖都で起きた政変は常軌を逸したものだった。何せバスケス将軍直属の軍が謀反を起こし、斬奸である政治家や貴族階級のみならず当のバスケスまでも皆殺しにしてしまったのだから。その際の軍幹部らの言い分は『矮小なる人間バスケスの手から偉大なる英雄バスケスを救わなければ』というものだった。
「イカれてやがる。当人殺して幽霊に統治させるとはな。」ホセがそう言うと、ガビーは肩を竦めて「何を今更、百年前のことでしょ?」と澄まして返す。それよりも異常なのは、そうした体制が百年も変わらず続いていることだった。ガビーは脳活動測定用のコンタクトをつけ路地の陰から通りを歩く市民を見る。上側頭溝と内側前頭前野が明らかにある特定のイメージと結び付き活性化している。隣でホセがイメージスキャンを開始するとそこにはっきりとバスケスの姿が現れた。
それは一言で社会脳と呼ばれる部位を脳内のイメージへ過剰に反応させ相互作用を持続させることで理想の他者を仮構する技術である。そしてその技術を可能する媒体が〈不死の書〉であることは事前調査によりまず間違いなかった。詳しい仕組みや誰が造ったかは不明だが、隣国は長年の脅威を掃うため此度万全の準備を整え腕の立つガビーとホセにそれを奪取するよう命令を下したのである。
ガビーらは慎重かつ大胆に事を進め遂に都の中心にある宮殿まで辿り着くも、社会脳の過剰な発達によって他者の些細な違和を検出する能力に長けた兵士らの情報網によって敢え無く身元が暴かれ追われることとなる。機械のようにタフで迷いがない兵士の猛攻に苦戦するが、その時ガビーが仕掛けていた知覚偽装装置が発動する。これにより兵士ら同士で行動予測が出来ずに些細な違和を検出し合い互い同士で攻撃し合うようになり、二人はすんでのところで危機を脱するのだった。
そのまま宮殿の奥に向かうガビーとホセ。長い廊を抜けて重い扉を開けるとそこには…。二人は思わず息を呑んだ。そこにはバスケスが二人に知覚出来る仕方で現前していた。どうやらこの短期間で〈不死の書〉が二人の脳に干渉したらしい。『私をよりよく育てよ。私により偉大なる経験を。』しかし二人は同時に辛うじて残る意識を使って互いに銃口を突き付ける。「このまま操られるくらいなら…。」「ああ…己らの手でおっ死んだ方がマシだ。」瞬間二発の銃声が響き渡った。都では至るところで相互作用に不備を起こした人々が殺し合っている。その光景をバスケスならぬ〈不死の書〉はさも詰まらなそうに眺め眠りにつくのだった。また再び自身を育ててくれる者たちが現れるその日まで。
文字数:1199
内容に関するアピール
何かを育てるという時に、育てるものと育てられるものの関係がいつのまにか逆転し取り返しがつかなくなってしまった、そんな状況を描いたつもりです。言うまでもなく神や宗教現象を含め文化はそれぞれの地域や国家に根付く人々によってかなりの程度無自覚に育てられると思いますが、それは長い時間をかけて且つ様々な変容が許容されることを前提に成り立っているかと思います。しかし今回の場合は謎の技術によってあろうことかそこに根付く人々が変化を許容しない硬直した表象(バスケスのことです。)を百年も強制的に育てさせられていたのでした。
実作ではアビーとホセの戦闘シーンや聖都エル・アレフのディストピア観溢れる風景を生き生きと伝えられるような筆致で描いていこうと思います。
文字数:322
亡霊聖都エル・アレフ
1
とっぷりと日の暮れた都市の相貌をこっそりと盗み見るように、ホセ・アレサンドロ少尉は窓の外に顔を向けた。辺りに視線を投げかけてみれば、そこら中に備え付けられた時代遅れの電光掲示板の上を滑らかに泳いでいる無数の名言やアフォリズムの群れが嫌でも目に入ってくる。かつてこの国の全体を掌握し統治していた独裁者アントニオ・ロペス・バスケスが生前に言い放った語録とされているが、真相は定かでない。それらの示すパターンは少なく見積もっても百に迫ることは確かで、なぜそんなことが分かるのかと言えば、ここ一週間只管暇が続いたので徒然なるまま数え上げていたまでのことだ。あまりに変わりばえのしない平和な光景にホセは半ば辟易した様子で欠伸を一つこぼし、そのまま寝台の上にごろりと寝転がった。潜伏している古びたアパートメントの天井にはいつの頃のものだろうか、生々しく穿たれた穴が無数に広がっている。それらをまじまじと見つめる度に、ホセには遥か昔に死んだ青白い英雄の青白い言葉たちを数え上げるよりも、こうして漆黒に塗り潰された深淵の数々をただぼんやりと覗いているほうが幾らか有益な気がしてくるのだった。
穴はこうして口を開くことなく静かに存在している。かつてこの場に占めたであろうあらゆる喧騒と命とを引き換えにして。それらは否応もなく、かつての赤黒く濁った狂騒の場面を想起させる。今ではすっかり乾き、すっかり臭いの失われたこの一室にも確かなドラマの息づいた瞬間があったのだ。ホセはその光景を夢想しぶるりと大きな図体を震わせた。
(まったく、人間っていうのはやっぱこうでなくっちゃなあ。)
生者は死とともにその口を塞がれ、その身体と財産を手放さなければならないという鉄則は一部の例外もなく貫かれなければならない。例えどんなに地位や権力を持った者であっても、どんなに金や土地を所有している者であっても。最期には貧しき者たちと同様に裸のまま闇よりも深い深淵へと身を投げ込まなくてはならなくなる。沈黙とは、その細やかな代償なのだ。
「この国には、いや…このエル・アレフって都市には特に沈黙ってやつが圧倒的に足りねぇ。そうは思わないか?」
「……何?何か言った?…頼むからあなたが黙っていて。もう少しで…。」
ガブリエラ・セヴェリーノ中尉はそう言い返して、目の前に据えられた通信機材の動向に注視したまま、ホセの特に意味もないぼやきを受け流す。毎度のことながら何とも反応の薄い、詰まらない女である。
ガブリエラことガビーとホセはプラナルト国軍学校時代からの同期で、いわば腐れ縁だった。生真面目で任務のことしか頭にない冷静沈着な性格のガビーと、任務や作戦に対する皮肉やユーモアを交えた冷笑を片時も忘れることのない捻くれた性格のホセ。タイプも方向性もまるで正反対の二人は、しかしこれまで様々な作戦任務を共に遂行し数々の成果を残している。そうした契機が重なるにつれ、彼らツーマンセルは次第にプラナルト軍部諜報局の主力と見なされるようになり、いつしか周辺諸国からは陰ながら〈プラナルトの両翼〉という名状し難い異名までつけられて恐れられるに至った。故に現在遂行中の作戦にしても、何らかのかたちでガビーとホセが組ませられることは不本意ながら想像の範疇ではあったのだが…。まさか作戦の要であるところの他国への潜入作戦にこうして二人だけで仲良く従事させられることになろうとは、完全に予想外だった。寧ろガビーとホセをそのように使わなければならないほど、今回の作戦遂行にかかる軍部の責任は重いもの、ということらしい。
最近まで存在するかどうかも怪しまれていた謎のテクノロジー、秘匿名〈不死の書〉の調査及び奪取。それが今作戦の目的だった。極秘機密につき従事する人員の数は可能な限り削減し最小単位の規模で展開されている今作戦は、にもかかわらずプラナルト軍部年次予算の二割をつぎ込んでいると言われるほどだ。さらにそれについて使途不明の支出であるとして野党や国民の追及が激しくなる中で与党内からも少しずつ批判の声が高まっているとも聞く。結局のところ、軍上層部は〈プラナルトの両翼〉という使い勝手の良いカードを要所で切ることで、現政権の推進派に対して責任を果たすと同時に発言力を拡張したい考えなのだろう。ただしそれは裏を返せば、ガビーとホセの任務失敗により全てが水泡に帰すどころか、軍部の立場それ自体が大きく揺るがせられることを意味していた。
「まあ沈黙が足りないといやあウチも大概だぜ。“期は熟した”、“失敗は許されない”。重責に怯えた上の連中は雁首揃えて喧しくも無能なオウム返しをするばかり。かわいそうなもんさ。俺ら末端みたいに現場でただ静かに危険な目に会う特権すら与えられていねぇんだから。」
ホセが今度は作業中のガビーの気に障らない程度に独り言ちる。するとその時、ガビーは突然、“来た”と小さく呟きそのまま通信設備に向かって淡々と言葉を紡ぎ始めた。
「……こちらゴーストⅠ。回線は良好……拡張神経ネットワークへの同期に成功……オールグリーン。これより作戦βを開始する。オーバー。」
ホセの視界に拡張現実を利用した各種データやアイコンが次々と立ち表れていく。プラナルト作戦参謀本部は首尾よくエル・アレフ中を覆う対電子ネットワーク妨害システムのクラッキングに成功したようだった。予定時刻より誤差一分半といったところか。視界の右端には作戦にかかるタイムリミットと思しき表示がチカチカと点滅している。
『三時間、ね。相変わらず連中口先だけは達者なようで。』
『さっきから不敬が過ぎるわよ。言っとくけど今から会話のログもしっかり残されることになるから、不用意な発言は慎むことね。』
聞きたくもないガビーの説教が耳からではなく脳内に直接注ぎ込まれるかのように響き渡る。拡張神経ネットワークへの同期によって可能となる直接会話は、何度経験してもそうそう慣れるものではない。
『目的地エル・アレフ宮殿地下神殿、ナビゲートシステムに特段の問題なし。ゴーストⅡ、準備はいい?』
『無問題。ところでそのコードネームどうにかならんのか?これから優雅にゴーストハントって時によ。狩られるのはあちらさんだろ?』
『私たちの任務は飽くまで〈不死の書〉の調査及び奪取よ。おそらくあなたの言う“ゴーストハント”は作戦成功に付随する副産的な効果としてもたらされるものでしかない。』
いつであっても合理的で物事を文字通りにしか受け取れないガビーの言葉を嘲るように、ホセは不敵な笑みを浮かべた。
『ああその通りだ。だが、結局それは同じことだろう?今から俺たちは、百年前におっ死んだ英雄バスケスの亡霊の正体ってやつを暴き立てに行くんだからな。』
2
アパートメントを出て細い路地を縫うように進むと、やがて宮殿へとまっすぐに続く大通りが見えてくる。大通りはそれ以外にも五つほど存在し、全て宮殿を中心としてそこから放射状に伸びているのだった。ガビーは身振りでホセに合図を送った後、周囲を警戒しながら大通りをまばらに行き交う人々の姿を路地の物陰から覗き見た。そしてそのまま視覚の焦点を一人一人に対してテンポよく合わせていく。すると即座に視界の右端から折れ線と棒で構成されたグラフと数値が浮かび上がった。
『上側頭溝と内側前頭前野の異常な活性を確認。』
ガビーの言葉を受けて今度はホセがそれらのデータを基にイメージスキャンを実行する。十秒もかからず二人の視界の中央に立ち表れる一人の男。口髭を生やし筋骨隆々としたその男の姿は、まさにデータベースで事前に確認していた往年のバスケス将軍の姿そのものだった。
『驚いたな。まさかここまではっきりくっきり見えるとは。』
『……そうね。』
人間の脳には“社会脳”と呼ばれる一連の機能を司った部位が備わっている。それらは他者に対する共感や認知の作用に関わりを持ち、人間という生物が社会生活を送る上で必要不可欠な役割を担っているのだという。そして今回の最重要目的対象である〈不死の書〉はそれらの部位と脳内に仮構された別のイメージを過剰に反応させるよう働きかけることで、いわば“理想の指導者”という幻影を、世代を超えた人々の間に植え付け続けることに成功したのだ、とされる。今中央に映し出されているバスケスの亡霊は、まさにその結果として現前しているものだった。
『たしか東洋の諺に“幽霊の正体見たり枯れ尾花”っていうのがあったっけか。まさにそれだが、一つ違いがあるとすりゃ肝心の“枯れ尾花”さえもはや必要としねぇってことだ。』
『各種グラフデータとイメージスキャンの結果をネットワークへ同期…完了。人間の脳が超自然的な存在と密接に結び付いていた時代の名残を利用しているってところかしら。とりあえずこの先もいくつかサンプルを取っておきましょう。』
軍諜報操作員として数々の修羅場を潜り抜けてきたガビーとホセにとって、気配を周囲に同期させて違和感を与えることなく行動することは造作もないことだった。二人は道すがら様々なサンプルデータを回収しながら、驚くべき速度でデータに解釈を施し民衆の気配に自らの気配を溶け込ませていく。
『はあ、あちらこちらにバスケスバスケスバスケスバスケスってか。どうして百年も前に死んだ英雄様をそこまでお慕い申し上げることが出来るのかねぇ。』
『バスケスは元々百年前に存在したグランアンデス連邦共和国で有力な軍閥を率いる中心人物だった。当時グランアンデス政権の腐敗は想像以上に酷いもので、国民の間でも政権を打倒するカリスマを待望する声が日増しに大きくなっていったそうよ。それを口実にバスケスが持前の軍事力でもってクーデターを起こしまんまと政権を奪取。人々は新しく誕生したリーダーを熱烈に歓迎し、英雄バスケスの名は歴史に刻まれることになった。けれど…』
『けれど、そうした理想が長く続くことはなかった、だろ?考えてみるまでもねぇ。元軍閥の中心人物がクーデターを起こして政権を転覆させたとなりゃ、その後にやって来るのは軍事独裁による不自由なディストピアって相場が決まってる。結局国民の暮らしは楽になるどころか、更なる負担を強いられることになったわけだ。』
ホセの言葉に思わず目を丸くするガビー。
『あなた資料にちゃんと目通してたの?』
『馬鹿にするなよ。通してなくてもそれくらいは分かるさ。』
『呆れた…。まあいずれにしても、今度はバスケスが打倒される側の立場に立ったわけ。普通ならそこで再び新たな英雄が待望されるか、これまでとは全く異なる政体の誕生が希求されるところだけれど、そうはならなかった。そこで鍵となってくるのが〈不死の書〉ね。』
そう、今から百年も昔に〈不死の書〉という技術が何者かによってもたらされたことで、グランアンデスの国民たちは決して腐ることがない永遠たる“理想の指導者”を手に入れたのだ。だからこそ、同時に本物の生きた指導者は“奸臣”として永遠の闇へと葬り去られなければならなかった。“矮小なる人間バスケスから偉大なる英雄バスケスを救わなければ”という歪なスローガンを基に、国民とまだ若い軍部の将校たちが政権打倒のために立ち上がる。結果バスケスやその側近たちは無残に殺され、めでたく歴史上類を見ない亡霊の治める政権国家へと変貌を遂げたのだった。
『一体誰が何の目的で〈不死の書〉をもたらしたのか、そしてそれはどのようなメカニズムでもって現在まで連綿と続く歪な国家体制を維持しているのか、現時点においてもあまりに分からないことが多すぎる。そしてそんな不気味な存在が隣国として長らく君臨している事実ほど現在のプラナルト政権にとって憂慮すべき事態はない。私たちは愛すべき自国の未来を守るために一刻も早い対処を施す必要があって、これはそのための名誉ある作戦と考えるべき、そうでしょう?』
それだけじゃあねぇだろ。そう返そうとしてホセは言葉を呑み込んだ。ガビーの生真面目さからくる純粋な愛国心の強さは、ホセにとっていつであっても眩し過ぎるくらい強烈な光を放っていた。それはまるで真夏の青空に穿たれた太陽の如く、見つめる者の眼を焼いて溶かし尽くす。故に、それから身を守るためには目を逸らし続けるしか道がない。おそらくこれから先ホセがガビーの言葉を本当の意味で受け入れ、共通の信念とする日がやって来ることは絶対にないだろう。寧ろこれくらい互いにすれ違い合っていた方が仕事上の関係としては都合が良いはずなのだ。ホセは自嘲ぎみに大袈裟な身振りでもって言葉を並べ立てる。
『…〈不死の書〉っていうのは寧ろ俺たち二人の関係性そのものみたいなものなのかもな。光と影、その“両翼”。両義的で毒にもなれば薬にもなる。複雑にこんがらがったゴルディアスの結び目のような厄介さを持っていて、人類はもはやそれを適切に解いて仕分けることさえ出来なくなっているんだ。だから本当の試練は、いつだって結び目を断ち切った後にやって来る。』
『なに、急に文学者きどり?付き合ってられない。』
ガビーは苦虫を噛み潰したような顔を見せて顔を背ける。するとその直後、突然動きを止めてホセに向かって前方へ注意を向けるよう合図を送った。ナビゲーターの指示で一時的に入り込んでいた路地の最奥に一人の少女が佇んでいる。何のこともない光景。しかしガビーは少し慌てた様子でデータ解析を施し、その結果に眉をひそめた。
『…どういうことかしら?』
『あの娘がどうかしたのか?』
『このデータを見て。おかしいと思わない?』
『……社会脳に関わる部位の活動数値が軒並み低いな。イメージスキャンによる出力も出来ねぇ。確かに妙だが、単純に脳機能に何かしらの障害があるってだけの話じゃねえか?データを見てもそれを裏付ける証拠は随所に見られる。』
『そこじゃないわ。彼女はこの国の絶対的なシンボルたるバスケスの幻影を共有していない、いわば“異端者”よね?それが何故あんなに堂々と突っ立っていられるの?』
ガビーの疑問にはっとするホセ。そうだった。〈不死の書〉による効能は決して“理想の指導者”への共感能力を過剰化させるだけではない。加えてそうした理想を共有し合っている当の人間たち同士の共感能力をも過剰にさせる。要するに彼ら彼女らは相互に知覚を同期することで、そうであるべき相応しいふるまいを交換し合いながら日々の生活を送っているのだ。そこでもし仮にそれから少しでも外れる行動を取るものが現れたとしたら、一体どうなるか…。
『以前はプラナルトに限らず周辺諸国の多くが、この謎めいた国の実情を探るべく幾人かの諜報員を送り込んだ時期もあったけれど、そのほとんどが祖国の土を再び踏むことは叶わなかった。おそらく軒並み“異端者”として処理されてしまったのね。』
『グランアンデスは、一部諸外国との経済貿易協定を取り結んでいる他は政治的外交関係を全て拒否している鎖国国家だったな。しかもこのご時世にそれが百年近くも続いちまってる。どこまでも異常な国だ。』
『安易な武力介入に踏み切れないのも、その口実を中々設けられないからでしょう。何しろ向こうからは一切侵略行為や侵犯行為の類を仕掛けてくることがないのだから。それでも絶対なんてことは決して言いきれないけれど。』
再び愛国心を剥き出しにして生真面目な態度を見せつけるガビーに対し、ホセはげんなりとした様子で嘆息した。
『それで…あれは一体どう説明づけられるんだ?』
『分かるわけないでしょう。確かにこれだけ接近していたにもかかわらず、一般の人間相手に私たち二人のどちらも直前まで気がつかなかったという点も少し変…。まあ〈不死の書〉と無関係なら作戦の障害となる可能性も低いだろうし、一応データだけ同期して後は上の判断と科学技術研の分析に任せるしかないわ。』
そう言うとガビーはもはや脇目も振らず大通りへと向かって走り出す。ホセもそれに続こうとしたその時、不意に少女の視線がホセのいる方向へと注がれるのを感じた。咄嗟にホセが振り向くと、少女は虚ろな顔をこちらに向けたままただ無意味に笑っているようにも表情の筋を痙攣させているようにも見えた。ただし、その眼はホセを捉えたために向けられたものではないらしい。偶然に、二つの“深淵”がきまぐれでこちらの方に傾いただけに過ぎなかいのだった。ホセの足はほんの一瞬ぐらつき、ほとんど反射的に逃げるようにその場を後にした。願わくば、もう二度と出会うことのないようにと祈りながら。
3
それから、ガビーとホセは別段のトラブルや不測の事態に巻き込まれることもなく、宮殿の至近まで無事に辿り着くことが出来た。途中、武器を所持した兵士の姿を何度か目にする機会はあったものの、拡張ネットワークと電子装備を駆使する今の二人にかかれば一般民衆だけでなく兵士ですらやり過ごすのにそれほどの手間はかからなかった。
近くから見る宮殿の大きさは想像以上に小さい。見た目は宮殿というよりも元々あった宗教施設を改修して造らせた間に合わせのようにさえ映るほどだ。石壁の至るところから蔓やら蔦が這い廃墟然としている他は、特段の特徴もない建造物だった。
『確か目的の“物”はこの宮殿の地下に眠ってるって話だったよな?』
『その通り。ここまであまりに順調で気味が悪いくらいだけれど、気を付けて。恐らくはこの先にこそ罠が仕掛けられているように思えてならない。』
『珍しく意見が一致したな。あそこからは実際おどろおどろしい血の臭いってやつがぷんぷんする。』
嬉々として舌を甞めずるホセに対して、ガビーは露骨に厭な顔を覗かせる。
『あなたってホント下品で粗雑。ビジネスパートナーでなければ絶対に一緒にいられないタイプだわ』
『お褒めに預かり光栄の極みだよ、優等生。』
残り時間は約二時間半。宮殿地下にかかる細かなルートの構築は実際に内部へ潜入した後に拡張ネットワーク経由で同期しながらリアルタイムに更新していくしかない。これまで便利に使っていたナビゲーターシステムも部分的にしか役に立たなくなる。さらにこの先待ち受けている敵の猛攻まで計算に入れるとなると…時間はあってないようなものだった。
宮殿の敷地と外を区切る鉄条網を特殊な切断器具を用いながら難なく突破し、二人は宮殿の方向ではなく左奥の方に無造作に生え伸びていた雑木林へ向かって駆けていく。拡張ネットワークの地形立体画像処理技術によって地下への秘密の入り口がこの辺りに隠されていることは既に掴んでいた。
『…入口が隠されていると思しきポイントに到達。傍に鶏小屋と焼却炉あり。』
ガビーとホセはここで二手に分かれ、それぞれが焼却炉と鶏小屋を調べ始める。
『こちらゴーストⅡ、外れだ。』
『こちらゴーストⅠ……怪しげな扉を発見。当りはこっちね。』
焼却炉の裏手、そこには無造作に積み上げられた煉瓦と生い茂った雑草に隠されるようにして鉄扉が埋まっていた。ホセが力の限り取ってを引き上げると、途中でガキンという甲高い音が響きそのままゆっくりと扉が開かれる。それからガビーを先頭にホセは中世の修道院にでも備え付けられていそうな古びた階段を一段一段ただ只管降り続けるのだった。まるで永遠の奈落か深淵に続いているのではないかと思われるほど、それは長く感じる。
『さながらウェルギリウスに導かれるダンテの如く、か。恐ろしくてブルっちまうよ。』
『……“深淵を覗くものは”何たらってやつ…。あれ誰の言葉だったっけ?』
『フリードリヒ・ニーチェ。』
ただしここでいう“深淵”とは、神秘的なものでは決してなくもっと醜悪で血生臭いものであるのだろう。ホセはこの時、再び先に一瞬だけ垣間見たあの少女の得体の知れない表情を思い出していた。あれは一体何だったのか。どのようなメッセージが込められたものだったのか。まったく分からない。ホセはそのことについて深く考えれば考えるほど自身が粘着質の泥沼に脚を引きずり込まれていくような感覚に陥った。たかだか子どもの示した表情一つに何をそこまで、と必死に自分に言い聞かせようとするも、仕舞にはその表情が今までに見たどんな暴力よりもより根源的な暴力となって迫り来るように思えてならなくなるのだ。今まで一度たりとも何かに縋りつきたいという考えさえ抱くことのなかったホセ。しかしこの時ばかりは縋れるものがあるなら縋りつきたいと真剣に考えずにはおられなかった。まるでホセ自身がよく見知っているはずの血塗られた暴力的世界が急激に歪みを帯び、さらにその鮮やかな裏面を曝け出したのではないかと思われたから…。
『……階段はとりあえずこれで終わりね。どうやら通路は左右両方向に伸びているみたい。拡張ネットワークシステムに地形データを同期、マップ及びルート構築を開始、拡張現実に投影…完了。』
目の前が急に明るみ、石造りの通路が現れる。積まれた石と石の間の溝まではっきりと判別出来た。ホセは先ほどまでの沈鬱な不安を紛らわせようとおどけて見せる。
『さて、どちら?』
『敵の罠が仕掛けれているかもしれないこの状況で二手に分かれて孤立するべきではないわ。ここは探索アルゴリズムと拡張ネットワークを軸に絞っていくのが得策かしら。まずは右へ進んでみましょう。』
石造りの通路はどこまで行っても光景に変化が見られず、予想されていたような罠さえ今のところは見つけられなかった。分かれ道がいくつかあったので、その度ごとに探索アルゴリズムにデータを解析させて徐々に宮殿地下の全体像を炙り出していくという地道な作業が続けられた。
『……神殿があると思しき大空間の存在を確認。制作したマップを基に最短ルートを特定…完了。残り時間約二時間。神殿までの所要時間はここから最短で二十分ってところね。』
『このまま何事もなければ余裕なわけだが。』
『そう願いたいところだけれっ!?』
突如背後から飛来した弾がホセをすり抜けガビーの肩の辺りに命中する。
反射的にホセが敵との間合いを詰めて、顔面に思いっきり拳を叩き込んだ。眠っている筋を即座に動かし働かせるナノファイバー素材の超軽量スーツと、知覚の誤差を調整する拡張ネットワークの助けを借りることで生み出される爆発的な瞬発力。判断に伴う鈍りや身体へ命令を下す際に生じる僅かな誤差を可能な限り埋めることによって、およそ人間離れした超人的な運動が可能になるのだ。ホセはそのまま両隣にいた二人の敵兵の頭を鷲掴み思いっきり打ち付け合うと、先に殴られた男が立ち上がろうとするのを蹴り飛ばして再び地面に沈めた。
『おい。大丈夫か?』
『何とか。スーツのおかげでうまく阻まれたようだから。それよりも。』
『ああ、やっとお出ましだ。待ちくたびれたぜ。連中どこで優雅に居眠りこいてたんだ?』
『さあ?そのままぐうぐう眠っていてくれていたらどんなに良かったことか。』
ガビーは半ば口角を吊り上げつつそう言って肩を竦めて見せるや、次の瞬間には元の凛々しくも冷徹な表情に戻っていた。
『現在時刻二○○○、エル・アレフ宮殿地下にて敵兵に遭遇。各種武器等の使用許諾を申請…部分的条件付きにて許諾確認。これより作戦β遂行の障害となり得る敵兵の無力化を開始する。』
その言葉を合図にホセは、肩に背負った長筒状のホルスターのセーフティを解除する。中から露になったのはグランアンデス軍でも標準的に使われている電動式カービンだった。
『分かっていると思うけれど、私たちがここにいたことを特定するような痕跡は少ないに越したことはないわ。弾数の制限もあるし可能な限り火器を使用した戦闘は避けて、飽くまで目的地へ辿り着くことを優先させなさい。』
『ああ、了解だ。しかし奴さん方ただで道を通してくれる気は更々ないらしいぜ。』
『さあ時間がない、おしゃべりはこのくらいにして先を急ぐわよ!』
敵兵は次から次へとまるでゴキブリか何かのようにわらわらと沸いて出た。火器類は拳銃からカービン、機関銃などを扱い、刀剣類としてサーベルや長槍といったものまで持ち出してくる。暗視ゴーグルを装備している様子もないのに、敵兵の視覚は正確にガビーとホセを捉えて離さないのだった。
敵の肩に飛び乗り奪い取った軍用ナイフで喉元を掻き切ると、ガビーはすぐさま死体を盾に銃弾の嵐を掻い潜り滑り込むようにして再び元来た通路の曲がり角に身を隠した。
『さすがに数が多すぎない!?連中、一人一人のスキルは大したことないのに集団戦となるとやたら連携を取ってくる!〈不死の書〉の影響かしら!?』
『おまけにこのタフネスさ…。まるでゾンビのそれだぜ。確実に仕留めていかねぇとこっちがヤラレちまう!』
『仕方がない、遠回りになるけれどまたルートを変更して体制を立て直しましょう!』
『さっきから何度目だよくそっ!ここが地上ならまだ戦いようはあるだろうに!』
ホセはガビーの傍を離れ、後ろから迫り来る敵に対してカービン銃で牽制しながら隙を見据えるや、間髪入れずにスモーク弾を安全ピンとともに引き抜き投げ入れた。白煙はあっという間に通路の隅々まで充満し、暗闇に重ねて二人の姿を覆い隠していく。〈不死の書〉による相互共感作用の増強は、人間の知覚能力に多くを覆っていることが分かっている。そのため、ある程度離れてさえいれば知覚の中でもその抜群に夜目の利いた視力に頼らざるを得なくなる敵兵の動きは一時的に鈍るのだ。従って撤退に際しこれほど役立つ道具もなかったのだが…。
『残念ながらこれで音響閃光弾やスモーク弾の残数はゼロ。これ以上逃げ回るのも難しくなってきたわね。』
『連中をまとめて吹っ飛ばせれば楽なんだが、グレネードなんかも危なっかしくてここじゃ扱えねぇ。タイムリミットも余裕があるとは言えんこの状況…こりゃ今のままだと手詰まりだな。』
タイムリミットである三時間とは、詰まるところプラナルト作戦参謀方部が敵方のシステムをクラッキング可能な物理上の制限であり、また諸外国による異変の察知、調査及び介入にかかる最低限の時間から逆算して導かれた戦略上の制限でもある。このリミットを超えては如何なるケースであっても事実上作戦は失敗と見なされ、ネットワークシステムが強制切断されることになるだろう。そしてそれはガビーとホセが敵陣という陸の孤島に取り残され見捨てられるということを意味する。
『地上への出口も封じられた今、時間が経てば経つほどあちらさんの有利に働くだけ。ゴーストⅠ、俺は現場の上官であるあんたと参謀本部の判断に従うしかないわけだが、どうする?』
別のルートに入ることでただでさえ神殿からの距離が遠ざかりつつある。正直なところ、作戦βはこの瞬間破綻を余儀なくされたと言っても過言ではなかった。それならば、可能性はもはや一つしか残されていないではないか。ホセは先行するガビーの背中を見据え、沈黙する彼女の言葉を待った。上手くいくかは知らないが、こちらにはまだとっておきのカードがあるのだ。ホセのまなざしをひしひしと後ろでに感じ、遂にガビーは意を決した様子で頷いた。
『これより作戦βからΩに移行する。作戦移行の許可及びシリンダーケースのセーフティ解除を申請…………承認。』
承認コードが下りるやガビーの背中に張り付いた黒光りするメタリックなケースから、十二本のシリンダーが回転しながら飛び出してくる。
『シリンダー内の機械虫(バグ)を一斉起動。これより作戦Ωを開始する。』
それを合図にシリンダーの中から無数の小さな機械虫たちが地面へ零れ落ちるように着地し、六本の脚を器用に使いながら通路の奥へと消えていった。俊敏な機械虫たちが地下迷宮のあらゆる通路に行き渡るまでの予想所要時間は十分にも満たない。ほどなく地下の至るところから怒号やら悲鳴やらが聞こえ始め、それは十五分ほどで静かになった。
『……終わった、のか?』
『上手くいっていれば。さてと、戻って確かめるとしましょうか。』
しかしガビーが踵を返し元来た道へ身体を向けようとするのとほぼ同時に、ホセは通路の奥で何か白い影らしきものが横切っていくのを見たような気がした。
『おい、今のは何だ?』
『今の、って何が?』
気のせいだったのだろうか。それにしては妙に……。
『いや…忘れてくれ。この国に来てからというもの調子が狂いっぱなしでね。まったく、俺らしくもねぇ。』
『そう?あなたって変なところでセンシティブよね。』
こうやって不意に意味深な発言をしてガビーに揶揄われるのも昔からのお決まりではあったが、先の少女の件といい今回ばかりはそれだけで片付けられないような…嫌な感じがする。
だが、ホセはこれ以上自身に訪れたその不吉な感覚を上手く言葉に落とし込むことが出来なかった。ただそれを一度言葉にしてしまえば、間違いなく大切な何かを喪うのではないかという漠然とした予感だけがしこりのようにいつまでも胸の奥底にわだかまっていた。
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辺りは不気味なほどにひっそりと、しかし確かに何かが起こったのだということを証立てる陰鬱な雰囲気が垂れ込めていた。先ほどまでガビーとホセが応戦していた十字路にまで辿り着いたところで、足許に湿った感触が伝わりホセは思わず下を覗き込む。
そこには見るも無残な姿の屍が転がっていた。損壊が酷く何をどうしたらここまでずだぼろの肉塊と化すのか分からないほどであった。
『おやおやこりゃあエグい。さしもの俺でも引いちまうレベルだよ。』
『予想以上に上手く嵌ったようね。作戦Ωは未知数の部分が多かったからなるべく使わずに済ませたかったのだけれど。』
ガビーの手の平には一匹の機械虫が忙しなく蠢いている。これこそプラナルトが密かに開発を進めていた〈不死の書〉への対抗策であった。ごく簡単に要約すれば人間の知覚を利用して相互の共感作用を増幅していたことを逆手に取り、敵兵の知覚神経を阻害する特殊な磁場を発生させることで、相互の行動予測を狂わせ攻撃し合うように仕向けたのだ。
『こちらの手は汚さず、敵兵同士に殺し合わせる技術。ぞっとするね。少なくとも俺の趣味じゃねぇ。ところで残りの機械虫どもの回収はしなくていいのか?』
『指令を飛ばしておいたからじきに全て戻って来るでしょう。要は私たちが積極的に関与したという決定的な証拠を残さないようにすればいいわけで、しらを切れるだけの消極的な証拠については上がどうとでもしてくれるわ。』
『他国はとっくに異変に勘づいている頃だろうしな。後はプラナルト軍の戦略情報局がどれだけ情報操作を徹底し、事態を撹乱させてくれるかにかかっているわけだ。』
『そう、私たちの任務はそこで既に終わったようなもの。』
『まだ最後にして最大の仕事が残されているってことを忘れんなよ?』
『もちろん、あなたに言われるまでもなく。見えてきた、あそこが目的地で間違いないようね。』
途上所々に積まれていた死体の山を縫うようにして辿り着いた先は、巨大な空間だった。
それもただの地下空間ではない。もはや拡張現実による地形仮構ホログラムを通さなくても、その場に降り注ぐ眩いばかりの光の粒とそれらが明るみに出す豊かな緑をはっきりと認識することが出来るのだった。
『こいつは…一体どういうわけだ?』
『ここって、本当に地下…なのかしら?まるでいつの間にか地上に登ってきたみたい…。』
室内は温度調節がされているようで、そこら中に生い茂る木々や草花の生育環境を最適に保つ工夫が施されていた。恐らく天井に規則正しく穿たれた無数の穴は人工雨を降らせるためのものだろう。
『ここの何処かに〈不死の書〉があるだって?このユートピア然とした空間の只中に?』
『そのはずよ。巨大な所だとは言え、探し出すのにそれほど時間はかからないと思う。一旦分かれて地下に佇む神殿ってやつを探してみましょう。』
『了解。』
ガビーが東の方向へと駆け出すと、ホセは北側に拡がる鬱蒼とした林の方へと進んでいった。この空間の何処かに〈不死の書〉が存在する。百年近くに渡って一つの歪な国家を維持してきた謎の技術。それがどのような代物で、どのような意図において作られたものなのか…。正直なところ、ホセにはそれほど関心がなかった。ただ、それが人類にとって脅威となり得ると同時に、とんでもない価値を持った魅惑の対象であることだけはよく理解出来る。〈不死の書〉が事実であるか定かでない内から、特にプラナルトはそれにまつわる真理を探究するため世界の他のどの国よりもいち早く多量の予算をつぎ込み、それによって得られた未知の技術に関する情報を独占し続けてきた。よって一部諸外国においては未だ下らない都市伝説の類としてしか認識されていないオーバーテクノロジーの幻影に取り憑かれ、それを何としてでも手中に収めようと我を失い続けてきたのは我らが祖国プラナルトに他ならない。だがガビーも上の連中もそのことに気がつかないふりをしている。言い換えればバスケスの幻影を肥え太らせ育て上げているのは決してこの国の連中だけではなく、自分たち自身であるというその決定的な事実から目を背けているわけだ。まったく皮肉な話ではないか。これではミイラ取りがミイラになるよりも滑稽で、ホセには出来の悪い三文芝居の方がまだマシであるようにすら感じられるのだった。
(結局のところ全ては茶番、か。馬鹿げた世界になっちまったもんだ。)
ホセの頭を否応もなしに満たすニヒリスティックな感慨。そんなことを考えている内に、ホセは林を抜けて比較的広い原っぱに辿り着いた。何の変哲もない、しかし地下空間にはおよそ似つかわしくない広々とした緑の絨毯に脚を置き辺りを隅々まで眺めやる。すると、ここから少し離れたところに半ば石壁で隠されるようにして焦げ茶色の建物がひっそりと立っているのが見えた。
『こちらゴーストⅡ。怪しい建物を発見した。恐らく神殿であると思われる。急ぎ合流されたし。』
『こちらゴーストⅠ。了解。』
いよいよ、クライマックスだ。今日を持ってバスケスの亡霊は再び眠りにつくことになるだろう。冥府なんてものがあるのだとすれば、そして死者なんて存在が本当にいたとすれば、そいつらは決して生きているふりをして現世に留まるべきではない。生者と死者は互いに己のテリトリーを弁え、それぞれの世界で生き、そして死んでいればそれでいいではないか。
ホセは建物へと徐々に近づくにつれ、〈不死の書〉が消失した後のグランアンデス人たちが一体どのような選択をしつつ生を全うすることになるのかを想像した。ある者は、長い間バスケスという妄執に取り憑かれていた自分自身を愚かに思い、これまでは考えもしなかったような新たなる道を歩み始めるだろう。またある者は、なおもバスケスに縋ろうと躍起になって反動的な教団を立ち上げるかもしれない。自分たちを半ば操り続けていたバスケスに対して憎み忌避する者が現れるのと同時に、一層バスケスを英雄視し持ち上げる者が現れる。そしてさらに時間が経てばやがて大多数の人間たちがバスケス云々で言い争うなんて下らないことだと悟り、興味関心を徐々に失っていくことになるに相違ない。こうして初めて亡霊バスケスは忘却という時間の風化作用によって完全に人々の前から消え去るのだ。これこそが人間の、今を生きる者たちの本来あるべき姿なのだと、ホセは信じたかった。
(ん?何だ…?)
始めの内は石壁に覆われて見えなかった建物の全容を徐々に捉えるに従って、ホセはそこで無数の人影が屯していることに気がついた。敵兵の残党だろうか?手近にあった樹木の後ろに隠れ様子を探ってみると、どうやらそうではないらしい。そこには揃いも揃って粗末な服装をした老若男女の姿があった。大半の人間が何かしらの障害や病を抱えているのか、身体が妙な方向に曲がっていたり皮膚が爛れ垂れ下がっていたり、中には腕や足の数が多かったり少なかったりするような畸形を抱えた者がいたりする。あれは…一般の市民、か?だとしたら何故こんなところにいるのだろう。
『こちらゴーストⅡ。建物の敷地内に無数の人間の存在を確認。もちろん生きた人間だが兵士ではないようだ。どうすればいい?』
だがいくら待てども、ホセの報告にガビーが応答することはなかった。一体どうなっている…?まさか、連絡の取れない不測の状況に陥ったとでもいうのだろうか。またしても嫌な感じがする。ホセは作戦参謀本部へ何度か通信を試みるがこちらもとんと音沙汰はない。
(まずいな…。まず間違いなく何か良くない事が起きたと考えるべきだが…。)
そうだとすれば次に考えなければならないのは、作戦の続行可能性である。上官及び本部との連絡が途絶えた今、それを判断し決定するのはホセしかいない。あるいはここはガビーを捜索し見つけ出してから態勢を建て直すべきなのか…。幸いなことにネットワークは未だ切断されることなく正常に機能しているようだった。残り時間は一時間と少し。ここから〈不死の書〉を奪取しエル・アレフを脱出するにはあまりにギリギリのラインだ。そこにガビーの捜索まで加えるとなると、時間は明らかに足りなくなるだろう。さらにもし仮に本当にガビーが不測の事態に巻き込まれているのだとすれば、生存の可能性は一体どれほどのものか。それすらも加味して今この場で取り得る最適解を導かなければならない。
ホセはほんの十数秒ほど熟考し、即座に任務を優先させることに決めた。ガビーほどの手練れが連絡をよこさなくなったということは、そういうことなのだろう。軍に属する人間として、私的な感情よりも飽くまで公利を優先させることは当然の責務だった。
(ガビー、お互い生きていたらまた何処かで会おうぜ。)
ホセはその直後、猛烈な勢いで身を潜めていた樹木の傍を離れ一直線に神殿の方へと駆け出していた。一般市民であろうが任務の妨害になるのであれば関係はない。なぎ倒して進むまでだ。しかし、石壁の傍まで一気に走り抜けたところで、ホセはふと足を止めざるを得なくなった。
(……!?)
そこに突っ立っていたのは見覚えのある一人の少女。つい先刻、地上で見かけたあの少女なのだった。少女はただあの時と同じようにはっきりと何処を見つめているのかすら分からない虚ろな視線でもって、相も変わらず笑っているのか顔を引きつらせているのか、分からない表情でもって、ホセのことを無意味に迎え入れている。
ホセはこの少女を前にして、何故か一歩たりともその場を動くことが出来なかった。少女に出会ったその瞬間から感じざるを得なくなった背筋も凍るような得体の知れない恐怖がホセの心を締め上げていく。いや、それはもはや少女一人にだけ感じる感覚ではなくなっていた。少女の背後、石壁の向こう側に立つ神殿の周りで色とりどりの果物や大量の干し肉を喰らう無数の者たち。動かない身体の内唯一自由の利いた目玉をぐるりと回転させてよく見れば、彼らが貪っているのはそれだけではなく……。
(……ありゃ…兵士の、死体か…。)
機械虫によって同士討ちとなり肉塊と化した兵士の肉を、彼ら彼女らは夢中で噛み切り喉に押し込んでいる。世にもおぞましい光景がそこには広がっていた。
眼を逸らそうにもそれを許してくれない。圧倒的であまりに唐突な無意味の暴力性がホセの身体を否応なく引き裂いていく。
(……い、ったい…な、にが……!)
まるで辺り一面黒く塗りつぶされた深海の奥底に一人取り残されたかのように、ホセは決して思い通りにならない身体をじたばたとさせることしか出来ない。方向感覚は麻痺し、全ての知覚は正常な動作を見失い、やがて身体が自分の元からゆっくり放たれていくような…剥き出しの、恐怖。ホセはもはや自分が誰なのか、どこにいて何をしていたのかさえ分からなくなっていた。
しかし、同時にそこまで至るに伴ってようやく、安寧にも似た瞬間が一人の人物の形を伴って唐突に訪れる。
カーキ色の軍服を身に纏い立派な黒漆色の髭を蓄えたかつての英雄の姿は白いヴェールのような輪郭を際立たせていた。
(…スケス…バ、スケス…!!)
ふっと身体が軽くなり、全てが許され贖われるように思われた、刹那。
首元から鮮血が吹き出し、ホセは思わずバランスを崩しその巨大な図体をよろめかせる。それでも辛うじて身体を勢いよく捻り、首元に取り着いた存在を掴み上げてから力いっぱい地面に叩きつけた。何かを砕いたような鈍い音が響き、今しがた投げ飛ばしたそれの口から空気と血反吐が思いっきり吐き出される。
「……ガ、ウィ…あ…。」
地面に伸びているのは他ならないガブリエラ・セヴェリーノ自身だった。軍学校時代からの同期であり腐れ縁。性格は真逆で趣味もまったく合わないがビジネスパートナーとしては文句のつけようのない最高で最低なかつての“片翼”。だが、今のホセにはもはや自分とガビーを繋ぐ過去の連続さえおぼろげで曖昧模糊としている。ホセは首に突き刺さった軍用ナイフを引き抜くと、最後の力でもってガビーの身体に向かって何度も何度も突き立て続けた。赤黒い血だまりが次第に青々とした緑を侵食し、やがてそこだけ周囲から隔離されるように別なる空間となって縁取られていく。ガビーの手の中では未だ先の機械虫が奇妙な音を立ててその六本の脚を忙しなく動かしているようだった。
朦朧とする意識の中、ホセは少女の笑い声に重なって、まるで無垢なる天使たちが歌い上げているかのような、不思議と耳に遺る詞を聞いたような気がした。
“育て育て狂気よ育て。人は誰しも皆何かに取り憑かれている。
狂え狂え踊りて狂え。育ち盛りの御子らに魂の祝福を。
ああ不死の人よ、彼らの傍に永遠の安寧をもたらしたまえ…。”
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