梗 概
NO SUMOKING DIMENSION
大相撲大阪場所にラッパの音が鳴り響く。降臨した「天使」は一人横綱の七大海を圧倒し、大阪府立体育会館を破壊した。
「我、四つの地に封印されし『次元の力』を解放する存在なり」
「ハルマゲドン」の勃発である。
重傷を負った七大海は、名古屋場所に降臨した天使が愛知県体育館を破壊する様をテレビで眺めることしかできなかった。
「我、名古屋に封印されし『縦綱』の力を解放せり」
七大海が天使の発言の意味を親方に尋ねたところ、親方は重い口を開いた。
「古代に西方に降臨した四天使が人間に伝えた神事『シュモー』が相撲の起源だ」
シュモーを受け継いだ部族は日本に渡来し、次元の力を司る「力天使」を現在の大阪・名古屋・福岡・両国に祀った。本場所は力天使に相撲を奉納する儀式なのだ。
力天使の名を継いだ「力士」は大阪に祀られた天使ウリエルより「横綱」の力を授かった。だが謎の天使は「横綱」「縦綱」「高綱」の力を得た後に両国に封印されし最強の「時綱」の力を解放することで、時空の覇者となることを目論んでいた。
天使が九州場所で福岡国際センターを破壊し高綱の力を解放する中、七大海の頭に謎の少女の声が響いた。
――「超弦理論」の「弦」。万物の素たる極小の弦には六つの次元が埋め込まれている。それを極大化したものが「綱」であり、綱を締めた者にだけ「十次元」の力が解放される。だが力には代償が伴う。
七大海はその代償を覚悟した上で天使を止めることを決意した。
迎えた初場所。永遠の千年王国の樹立を宣言した天使を、復帰した七大海が迎え撃つ。
七大海は綱を締めたまま土俵に上がる。空間は弦が密集した「膜」である「Dブレーン」に覆われている。「開いた弦」は先端がDブレーンに付着しているため高次元に渡れないが、綱を締め先端のない「閉じた弦」にすれば高次元から天使を攻撃できるはずだ。
だが天使は先に両国国技館を破壊し「時綱ルシフェル」に変貌した。かつて時綱ミカエルに敗れた堕天使ルシフェルは、天国の第一天から第十天までの十次元を往来する力を取り戻し七大海を翻弄する。
そのとき髷を結っていた元結が、もう一つの閉じた弦「天使の輪」に変化した。超弦理論の先、「十一次元」を司る「M理論」。
七大海はルシフェルを圧倒し、四つの力を取り戻すことで「十一大界」に覚醒する。十一大界は自ら生成したブラックホールにルシフェルを封印することに成功した。
黙示録は回避された。だが十一次元の存在となった十一大界は、もう二度と四次元の世界に戻れない。
次元の果て、十一大界は少女を見た。かつて神曲を記したダンテを第十天に導いたベアトリーチェ。「女将」はその先「第十一天」に十一大界を導く。
第十一天は十一大界そのものであった。彼の体から十一次元が解放され、新たな宇宙が創世された。
文字数:1200
●参考文献
◆相撲
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文芸春秋『NumberVIDEO 大相撲 20世紀の名勝負 上』パイオニアLDC,2000年.(DVD)
文芸春秋『NumberVIDEO 大相撲 20世紀の名勝負 下』パイオニアLDC,2000年.(DVD)
ポニーキャニオン『激闘!大相撲~記憶に残る名力士列伝~ 怪力無双編』ポニーキャニオン,2012年.(DVD)
ポニーキャニオン『激闘!大相撲~記憶に残る名力士列伝~ 技巧派編』ポニーキャニオン,2012年.(DVD)
ポニーキャニオン『激闘!大相撲~記憶に残る名力士列伝~ 個性派編』ポニーキャニオン,2012年.(DVD)
ポニーキャニオン『昭和の大横綱 大鵬 名勝負50選』ポニーキャニオン,2013年.(DVD)
NHKエンタープライズ『NHKスペシャル 貴乃花が夢だった』NHK DVD,2010年.(DVD)
NHKエンタープライズ『NHKスペシャル 横綱 千代の富士 前人未到1045勝の記録』NHK DVD,2010年.(DVD)
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◆日ユ同祖論
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坂東誠『古代日本、ユダヤ人渡来伝説』PHP研究所,2008年.
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『聖書 聖書協会共同訳 旧約聖書続編付き』日本聖書協会,2018年.
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ジョルダーノ・ベルティ『ヴィジュアル版 天国と地獄の百科 天使・悪魔・幻視者』竹山英博・柱本元彦訳,原書房,2001年.
ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(講談社学術文庫 2242)原基晶訳,講談社,2014年.
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ダンテ・アリギエリ『神曲 天国篇』(講談社学術文庫 2244)原基晶訳,講談社,2014年.
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ローズマリ・エレン・グィリー『図説 天使百科事典』大出健訳,原書房,2006年.
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『ニュートン別冊 次元のすべて 私たちの世界は何次元なのか?』ニュートンプレス,2019年.
『ニュートン別冊 超ひも理論と宇宙の全てを支配する数式』ニュートンプレス,2019年.
江口徹・今村洋介『岩波講座 物理の世界 素粒子と時空 5 素粒子の超弦理論』(岩波オンデマンドブックス)岩波書店,2018年.
エドウィン・アボット・アボット『フラットランド たくさんの次元ものがたり』(講談社選書メチエ 650)竹内薫訳,講談社,2017年.
大栗博司『大栗先生の超弦理論入門 九次元世界にあった究極の理論』(ブルーバックス B1827)講談社,2013年.
小笠英志『高次元空間を見る方法』(ブルーバックス B2110)講談社,2019年.
川合光『はじめての〈超ひも理論〉 宇宙・力・時間の謎を解く』(講談社現代新書 1813)講談社,2005年.
橋本幸士『Dブレーン 超弦理論の高次元物体が描く世界像』(UT Physics 2)東京大学出版会,2006年.
NHKエンタープライズ『神の数式 完全版 I』NHK DVD,2014年.(DVD)
NHKエンタープライズ『神の数式 完全版 II』NHK DVD,2014年.(DVD)
◆SUMOU
『世界最強の国技 SUMOU(字幕保存用)』ニコニコ動画,2008年3月3日.<https://www.nicovideo.jp/watch/sm2499376>
『SUMOU』アンサイクロペディア,2018年6月9日最終更新.<http://ja.uncyclopedia.info/wiki/SUMOU>
『SUMOU (すもう)とは【ピクシブ百科事典】』ピクシブ百科事典,2018年8月18日最終更新.<https://dic.pixiv.net/a/SUMOU>
チェき14歳『the real SUMO fighting』YouTube,2014年10月29日最終更新.<https://www.youtube.com/playlist?list=PLvoY1ls-EnUglgjOG54HmBYmbkWaOmaYF>
文字数:3933
内容に関するアピール
「本当、相撲って当て字で、もともと日本語じゃないんですよね。そういうすごく古い世界でつながっているっていうのがこの日本国、大相撲というのがあるので」
「『シュモー』って言うんですね。ヘブライ語ですね」
元貴乃花親方『スッキリ』日本テレビ,2018年11月27日放送.
横綱の「横」と「綱」はどういう意味か。
私は数々の文献に当たったが、明確な解答は得られなかった。
だが相撲の起源は聖書にあるという説がある。
ならば横綱の起源も、日本から離れて検討する必要があるのではないか。
私はある仮説に辿り着いた。
横は時空を表す「次元」の一つである。
そして綱は「ひも」をより合わせて作られるものである。
次元とひも。ここから導き出される結論はただ一つ。
――「超弦理論」。「神の数式」と称される「万物の理論」の候補。
相撲は古い世界どころか、世界の創世につながっていたのだ。
私は今、そう確信している。
文字数:400
NO SUMOKING DIMENSION
一、大阪場所
第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹と火が生じ、地に投げ入れられた。地の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、青草もすべて焼けてしまった。
『新約聖書』ヨハネの黙示録 8.7
大阪府立体育会館に、ラッパの音が響き渡る。
大相撲大阪場所千秋楽。既に優勝を決めていた一人横綱「七大海」が、全勝優勝をかけ大関と激突しようとしていた。行司は仕切りを中断させ、謎の音の正体を確認しようとした。
だがその時、突如天井が崩れ落ちた。落下した建材が客席を押し潰すかと思われたが、天井の欠片は空中に静止した。その上で、一人の半裸の人物が仁王立ちをしている。いや果たして「人物」と形容してよいのだろうか。「台座」の上に君臨する男には「翼」が生えていた。
人智を超えた光景に、場内は静まりかえっていた。男は台座から周囲を睥睨する。この超常現象は全国、いや全世界に生放送で伝えられていた。
世界が、静寂に包まれていた。
それは土俵上の七大海も同じであった。古今無双と称せられた稀代の名横綱である七大海も、今年で三十三を迎える。力士生活十八年の間に数々の苦難を経験したはずだったが、こんなことは経験したことがない。いや、想像だにしていなかった。
七大海は男の眼光から発せられる圧に膝を屈しそうになった。あれは人の目ではない。だが獣の目でもない。では一体何の目なのだろうか。眼光という言葉を使いながらも、そこには一点の光も含まれていないようであった。
男は翼を広げた。羽ばたきで場内に烈風が吹き荒れ、座布団と共に観客が吹き飛ばされる。
男は飛んだ。男の支配から逃れた台座が重力の影響を受け、落下する。激突音は空中を乱舞する観客の悲鳴にかき消された。老齢の行司である木村庄之助も為す術もなく吹き飛ばされていたが、それでも軍配だけは離さなかった。
烈風に耐えられるのは、力士だけであった。大関が土俵際で烈風に耐えている。一方の七大海は「不知火型」の体勢を取り続けていた。腰を深く落として両腕を翼のように広げる、横綱にしか許されない土俵入りの体勢である。左右に開いた両腕が気流を乱し、横綱の体躯が宙に舞うことを防いでいる。
男は土俵の真上に飛行した。そして宣言する。
「我は『天使』なり」
天使は土俵際の大関に接近した。
「危ない、土俵から降りろ!」
無意識のうちに発した七大海の叫びは、大関には届かなかった。天使の「張り手」を食らった大関は、まるで放り投げたボールのように勢いよく弾き飛ばされた。打ち上げられた大関の巨体が数人の観客を巻き込みながら天井を貫き、消失した。
「土俵上で闘う者は、二人で充分だ」
天使は七大海に無情な一言で答えるのみ。そして、静かに土俵に降り立つ。
七大海は気付いた。ありとあらゆる存在が場内を飛び交っているが、土俵の上空には何も飛び交うものがないということに。
天使は、七大海と決着を着けようとしている。
七大海の体から、汗が噴き出してきた。寒風により場内の温度は著しく低下している。それなのに、汗が止まらない。肉体が危機を感じている。だが未知の危機に、体が正しい防衛反応を示すことができないでいる。
不動の姿勢を続ける七大海。汗が、土俵を濡らしていた。
「我は『四つの力』を継ぐ者」
天使が七大海に向かい合う。
「四つの力? 一体何のことだ!」
天使が不遜な笑みを浮かべる。
「哀れなり、神の子よ。汝等は『シュモー』の真実を知らぬまま『相撲』という児戯に等しいくだらぬものを崇めているに過ぎぬ。人間如きがこの大阪の地に封じられた『横綱』を騙るとは、恥を知るがよい」
天使の翼が大きくはためいた。その瞬間、土俵以外の全ての存在が吹き飛ばされた。壁が、床が、全てが崩壊し、土俵を中心とした竜巻に大阪府立体育会館そのものが吸い込まれていった。
「横綱の力、貰い受ける」
「させるか!」
七大海の激しい立ち会い。七大海の体躯が天使に激突する。だが天使は動じない。手応えが無い。岩のような、という形容ではとてもではないが片付けられない。まるで「山」である。
天使は哀れんでいた。
「失望したぞ、人間には。偽りとはいえ横綱を名乗る者の力が、この程度のものだとは」
天使は軽く七大海の胸に「突っ張り」を入れた。その瞬間、七大海の巨体が軽く跳ね上がった。七大海の体躯は重力に逆らい、土俵の外に吹き飛ばされた。そして土俵を中心とした竜巻の一部となった。座布団の切れ端が、既に意識の無くなった観客が、客席の一部だったものが、七大海に激突し軌道を変える。
最後に七大海が見たものは、土俵の崩壊。そして、その下から現れた存在。
――もう一人の「天使」。二人の天使が対峙しているのが、七大海が見た大阪場所最後の光景であった。
「ハルマゲドン」が、ここに勃発した。
二、五月場所
ヤコブは一人、後に残った。すると、ある男が夜明けまで彼と格闘した。
『旧約聖書』創世記 32.25
悪夢が現実であると知った時、それこそが真の悪夢に違いない。
「ようやく目覚めたか、七大海」
七大海のおぼろげな視線の先に、毎日顔を付き合わせている親方の姿があった。
「親方……ここは一体、どこなのですか?」
七大海が体を起こそうとすると、全身に激痛が走った。一瞬顔をしかめる七大海。七大海は周囲を確認しようとしたが、首を左右に動かすことしかできない。全身が、包帯で覆われている。
「ここは病院だ。お前は丸々二ヶ月間、意識不明のままだった」
「ということは、あの光景は……」
「そうだ、現実だ」
親方は七大海が読めるように新聞を広げた。
『謎の天使により大阪壊滅 死者行方不明者十万人以上』
「これは、あの大阪場所の?」
「認めたくないだろうが、その通りだ」
親方は新聞を折り畳んだ。
「『天使』が大阪場所に降り立った。封印された『横綱』の力を得るためにな。それだけのために天使は大阪府立体育会館を、大阪の地ごと破壊した」
七大海は困惑していた。
「親方、申し訳ないのですが自分には話が全く頭に入ってきません。大阪場所で一体何が起こったのですか?」
「さっき俺が言ったことが全てだ」
「親方!」
七大海は叫んでしまった。七大海はその体躯と実績に似合わず柔和な性格をしているのだが、ここまで声を張り上げるのは初めてのことであった。
「こんな時に冗談を言わないでください! 天使がどうだとか、おかしいじゃないですか!」
「お前が実際にこの目で見たのにか?」
「それは自分が見た幻覚か何かで……」
「何故既に優勝を決めていたお前が千秋楽で幻覚を見る必要がある? 十四日目までのお前には、一切の迷いが無かったはずだ」
七大海は悪夢を真実として認めざるを得なかった。
「……分かりました。では親方はあの天使について何か知っているのですか?」
「詳しくは知らんな」
「ということは少しは知っているということですか?」
親方が黙り込む。七大海は首を動かせる範囲でしか周囲を確認できないが、視界の端に映る親方の表情は固かった。
「親方、自分は横綱です。それもたった一人の横綱です。自分にはこの身一つで相撲界を支える義務があります。だからお願いですから、教えてください。親方が知っていることの全てを。天使とは一体何なのですか?」
親方の溜息が漏れた。そして全てを諦めたのか、重い口を開いた。
「……七大海、『横綱』とは一体何だ?」
「力士の最高位、ではないでしょうか」
「そうだ、その通りだ。では横綱という言葉の由来は一体何だ?」
「力士が注連縄を腰に巻いて相撲を取ったのが由来と言われていますが、諸説あって未だに正確な由来は分かっていないと聞いております」
「つまり横綱は力士の最高峰の称号でありながら、肝心のその意味は定かではないということになる。一般的には、という注釈が付くがな」
「ということは親方は横綱の真の意味を知っているということですか?」
一瞬の間を置いてから、親方は言葉を絞り出した。
「その前に、全ての始まりからお前に伝えておく必要がある。
――相撲は遥か古代に、現在の中東の地に降臨した『天使』が人間に伝えた神事、『シュモー』が由来となっている」
七大海は混乱した。
「親方、そんなことがあるわけないじゃないですか! 確かに伝説の域を出ないとはいえ、千年以上も昔に野見宿禰という者が出雲国で取った力合わせが相撲の由来ではないのですか?」
「相撲の世界に身を置いているこの俺が言うのも問題だが、それはあくまでも一説に過ぎない」
「しかし天使だなんて、荒唐無稽にも程があります!」
「ではお前が目撃したあの天使は何なのだ? 天使を前にしながら、シュモーを否定するのか?」
「そ、それは……」
「相撲の真実を知るのは限られた者だけだ。本来ならばお前にはまだ伝えるべきではないのだが、事情が事情だ。お前は、真実を知る必要がある」
親方は一冊の本を取り出し、七大海の前で表紙を開いた。
「すみません親方、自分にはこの本に書かれている文字が読めません」
「相撲の起源を記した『相撲創世記』。相撲の真実の歴史を継承するために代々引き継がれているものだ。ヘブライ語で書かれている」
親方はページをめくる。
「シュモーとはヘブライ語で『かの者』を意味する。相撲の始祖『ヤコブ』のことだ」
理解を超えた真実に驚愕する七大海を尻目に、親方は相撲創世記を読み解いていく。
「ヤコブは四人の天使を見た。天使の名は、ミカエル・ガブリエル・ラファエル・ウリエルと言った。例えばお前もよく知っているであろう相撲の技術『がぶり寄り』は、天使ガブリエルが得意としていたシュモーの技術が由来となっている」
「ガブリエル……がぶり寄り……?」
「困惑するのも無理はないだろうが、続きを言わせてくれ。
天使は人間の力を試そうとし、ウリエルがヤコブと力比べをした。他の三人の天使が見守る中、夜明けまで及ぶ長い闘いの末にヤコブはウリエルの膝を屈することに成功した。
人間の力を確かめたウリエルは、宣言した。我ら四天使を祀り、来たるべき『黙示録』に備えてシュモーの力を継承するように、と。
ウリエルはヤコブに『綱』を与えた。本来は人間の心の清らかさを測るために使われるものだ。それを肉体に締め付けることで『天使の力』を手にすることができると記されている」
「自分も横綱として綱を締めておりますが、天使の力などを感じたことはありませんが?」
「ヤコブは天使の位階である『ヴァーチュー』の位を捧げられた。そしてこの言葉は『力天使』と訳された。
もう分かるだろう、『力士』とは力天使が転訛した言葉だ。力士は天使なのだ」
「力士が、天使……。では私も天使なのですか?」
「そうだ、お前だけではなく他の力士達も皆天使だ。そして俺も現役時代は天使だった。もっとも誰一人として天使の力を発揮することはできなかったがな」
七大海は明らかになる相撲の真実に、平静を保てなくなっていた。
「……分かりました。親方の話を、信じてみようと思います。
ですがここは中東の地ではなく、日本ですよ。何故中東ではなく日本に相撲が――」
「天使と接触した部族は歴史の奔流に飲み込まれ迫害を受けた。彼等は『失われた十二部族』として世界中に散らばっていった。そのうちのいくつかの部族は滅んでしまったが、シュモーを受け継いだ部族がアジア大陸を横断し海を渡り、この日本に辿り着いたのだ。
彼等は天使の力が集中する四つの地に、それぞれの天使を祀った。大阪にはウリエル、名古屋にはラファエル、福岡にはガブリエル、そして両国にはミカエル――」
「ちょっと待ってください、それは大相撲の本場所が行われる場所では?」
「その通りだ」
親方は病室のテレビの電源を入れた。両国国技館、五月場所――。
「親方、何でこんな状況で本場所が開催されているのですか! 危険じゃないですか、何故中止しなかったのですか!?」
「大相撲の本場所は、四天使に相撲を奉納するための儀式だ。中断するわけにはいかない。観客の安全を考えて、無観客で取組を行っている。
日本にシュモーが渡来し時の流れと共に『相撲』と名を変えていき、そして四つの地に相撲を奉納することができるようになるまで千年以上の時が必要だったのだ」
「だからと言っても! それに何故力士達が全員無事なのですか? 不謹慎を承知で言いますが、彼等は全員大阪にいたはずでは……」
「天使を祀っていると言っただろう。彼等は天使に救出された。大阪の地に祀られた『横綱ウリエル』にな」
七大海は大阪場所で目に焼き付けた光景を思い出した。土俵下から登場した、もう一人の天使。
「だが『守護天使』でも力士を救出するだけで精一杯だった。ウリエルはお前が敗れた後に謎の天使と闘ったが、敗れた。横綱の力は謎の天使に奪われた」
「謎の天使とは……?」
「謎の天使の正体は俺にも分からん。ただシュモーの四天使とは別の存在であるということだけは確かだ。
そして横綱の力はあくまでもウリエルの力に過ぎない。横綱とは別の『綱の力』が他の三カ所に封印されている。中でも両国に祀られた綱の力は他の三つの力より強大であり、そのために我々は両国のみ年に三回大相撲を奉納する必要があるのだ。
俺の想像だが、五月場所の両国国技館にはあの天使は現れない。次の名古屋場所、そして九州場所で他の二つの綱の力を得た後に、来年初場所で最後の綱の力を奪いに来るに違いない」
「では自分は一体どうすれば……」
「体を治せ。それが先決だ」
「みすみす天使の暴虐を許すわけには――」
「黙示録を回避するために、天使は人間に相撲を授けた。あの天使を止めることができるのは、横綱であるお前だけだろう。だが万全ではない状態で相撲を取ってお前が敗れてしまったらどうする? 功を焦ってはいけない。頼むから、今は我慢してくれ」
「親方……」
親方の手が、そっと七大海の顔に触れた。暖かかった。
五月場所の千秋楽が終わっても、天使は現れなかった。静寂の中、優勝力士は無言で賜盃を受け取っていた。
三、名古屋場所
(目的)
第3条 この法人は、太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させるために、本場所及び巡業の開催、これを担う人材の育成、相撲道の指導・普及、相撲記録の保存及び活用、国際親善を行うと共に、これらに必要な施設を維持、管理運営し、もって相撲文化の振興と国民の心身の向上に寄与することを目的とする。
公益財団法人日本相撲協会定款
名古屋から人々が消えた。名古屋に留まるのは、名古屋場所が開催される愛知県体育館に集まった力士達、そして天使の襲来に備える自衛隊。曇天の下では、名古屋城の金の鯱の輝きは見る影もなかった。
七大海は懸命なリハビリを行っていた。横綱の精神力はリハビリに耐え、医師も驚くべき速さで驚異的な身体能力を取り戻しつつあった。
名古屋場所は千秋楽を迎えていた。横綱はリハビリ中もラジオを通じて名古屋場所の様子を把握していた。天使が降臨するのは、結びの一番。
ラジオの音声が、乱れた。
「天使が……名古屋に……大変です……破壊――」
実況の声は、そこで途切れた。
七大海は急いでテレビのある病室に急いだ。天使の行動記録を解析するために、愛知県体育館には多数の専用カメラが設置されている。
だがテレビに映し出されるのは、途切れ途切れの中継映像であった。既に座布団どころか力士達が空中を乱舞している。力士がカメラに激突し中継が乱れた。即座に別のカメラの映像に切り替わるもそのカメラまでもが宙を舞い、数秒で砂嵐の映像が流れてきた。
目まぐるしく切り替わる映像。既に愛知県体育館の外壁は存在せず、自衛隊の戦車から何十発もの砲弾が発射されている光景が映し出されていた。だが砲弾は天使に命中する直前で軌道を逸れ、あらぬ方向に飛び去っていく。轟音と共に映像が揺れ、流れ弾を食らった名古屋城から瓦が落下する。
「我……『たてづな』……解放せり――」
映像が完全に途切れた瞬間、大きな揺れが病院を襲った。
「馬鹿な、ここは名古屋ではないぞ!
それに『たてづな』……? まさかこの揺れも、天使の力なのか――!」
あらゆるものが床に叩き付けられる中、七大海は丸太のような両足で揺れに耐えていた。だが揺れは止まる気配が無い。長引く揺れに、流石の七大海も立ち続けることができないでいた。
激しい揺れの中、七大海は少女の姿を見た。雪よりも白く、雲のように静かに棚引くベール。少女の側にある棚が、ぐらついていた。
「危ない!」
七大海は松葉杖を放り出して彼女の下に駆け寄った。両足どころか全身が痛むが、七大海の精神力が痛みを凌駕した。棚が倒れる寸前に、七大海は少女を抱え棚の激突を回避した。
「大丈夫ですか?」
「…………」
無言の少女。ベールの下から覗き込む髪は亜麻色であり、エメラルドのような緑の瞳が七大海を射貫いていた。
少女は立ち上がった。そして七大海の胸に、そっと手を当てた。
「横綱、七大海……」
「あの、大丈夫ですか?」
まだ続く揺れから少女を守っていた七大海だが、少女から不思議な何かを感じ取っていた。
「あなたはやがて、私に『導かれる』運命にあります」
少女は七大海の手を振りほどいた。七大海は少女をがっしりと掴んでいたはずだ。それなのに華奢な少女にあっさりと手を振りほどかれたことに、七大海は衝撃を覚えた。
「待ってくれ、あなたは一体……?」
少女は七大海に背を向け、通路の先にある角を曲がっていった。七大海はすぐに少女を追いかけようとしたが、少女を助けようとした際の激痛が遅れて七大海に襲いかかってきた。七大海はその場に倒れた。だが七大海はそのまま這いつくばって先へと進んだ。
七大海は通路の角を曲がった。少女の姿は、どこにも見えなかった。
四、九月場所
あまた名花のある中で
自慢でかかえた太鼓腹
繻子の締め込み馬簾付き
雲州たばねの櫓鬢 清めの塩や化粧水
四股ふみならす土俵上
四つに組んだる雄々しさは
これぞまことの国の華ヨー
相撲甚句『花づくし』
名古屋場所。その日、本州は分断された。
これは比喩表現ではない。文字通り名古屋を中心として本州に亀裂が走り、引き裂かれた。
西本州と東本州に分断された日本。本州分断を引き起こした大災害により、日本に居住する一億二千万人のうち二千万人が亡くなり、八千万人が被災者として救援物資を待つ日々を送っていた。日本は一瞬にして世界の最貧国に没落した。
だが力士達は両国にいた。名古屋に祀られていた天使ラファエルが力士達を救出したのである。名古屋の生存者は力士達だけであった。だがラファエル自身は、あの天使に敗れた。
七大海は柱に掌をぶつけた。稽古を再開したばかりだが、「鉄砲」用の柱は鉄砲の衝撃によって今にも倒れそうになっていた。
「力士が大相撲を奉納することで、四天使に相撲の力が注がれる。だから何としてでも大相撲の本場所を継続させる必要があるのだ」
「分かっています、そんなことは! ですが、ですが――」
親方が七大海の肩を叩いた。
「力士がいなくなれば、日本だけではなく世界が滅亡するのだ。
……七大海よ、何故お前にこの四股名を名付けたか覚えているな?」
「はい。七大海は世界の七つの海を表していて、日本だけではなく世界に通用する力士を目指せとのことですよね」
「その通りだ。そして現に事態は日本に留まらず、世界の存亡がかかっている」
両国の地。両国国技館だけが、その威容を静かに湛えている。
「両国国技館が無事なのは――」
「両国国技館に祀られている天使、ミカエルのご加護だ」
両国国技館では九月場所が開催中である。だが七大海は未だに休場中であり、ようやく相撲部屋の土俵の上に立てるようになったばかりである。
「ところで親方、名古屋で天使が呟いた『たてづな』とは一体?」
「縦横の『縦』に『綱』と書いて『縦綱』だ」
「横と来て、次は縦ですか」
「そうだ。続く綱の力は『高綱』となる」
「横、縦、高さ。もしかして『空間』を表しているのでしょうか」
「四天使は四つの力を司っている。四つの力とは『次元』を意味している」
「空間は三次元しかないはずでは?」
「そういう捉え方もある。だが次元はその三つだけではない。『時間』という、もう一つの次元が存在するのだ」
「時間を司るのが両国国技館に祀られている天使ミカエル、というわけですか」
「……四次元時空を支配する者は、世界を制する。相撲の力とは本来『次元の力』を意味しているのだ。
俺たちは力士だ。確かにお前は横綱で、俺もかつては横綱だった。だが『横』はウリエルから授かった次元の力の一つにすぎない。
あの天使に対抗するためには綱の力、つまり横綱の力が不可欠だが、それだけでは不十分だ。縦綱、高綱、そして目の前の国技館に祀られている『時綱』の四つの綱の力がない限り、あの天使に立ち向かうことはできない」
「ですが縦綱の力はもう――」
「そうだ。だがそうは言っても、何もしないというわけにはいかないだろう。やるしかないんだよ。それが俺達、横綱の使命だ」
七大海は親方の一言に疑問を感じていた。俺「達」とは一体どういうことなのか。現在の横綱は自分一人のはずだ。確かに親方もかつては横綱だったが、それは四半世紀以上も前のことだ。
「親方、まさか……」
「何を言ってるんだ? 親方は弟子と一蓮托生だ。決して横綱が自分一人だけだとは思うな。一人横綱ってのはあくまでも形式的なものにすぎない。その横綱を育て上げたのは、この俺だぞ? 歴代の横綱の力が、俺達には宿っているんだ」
親方は笑い飛ばした。親方は七大海とは正反対の豪放な性格である。七大海の足りない部分を親方が補い、逆に親方の足りない部分を七大海が補うという、親方と弟子ながら一心同体の関係であった。
両国国技館は各地から避難してきた人々の避難所となっていた。少なくとも九月場所にあの天使が襲来することはない。そのことはラジオ放送を通じて全国民に周知されている。
一方で二ヶ月後に迫った九州場所に向けて、福岡県民の集団疎開が既に始まっていた。半数が西本州を目指したが、もう半数は日本を捨て海外に移住した。幸いにも世界的に「SAVE JAPAN」の機運が高まっており、福岡県民は好意的に迎え入れられたようだ。
だが天使の力の及ぶ範囲は、日本だけに留まらない。本州の分断は太平洋の海流を変え、そこから波及して世界の生態系や気候にも多大な影響を与えている。世界は否応無しに、変革を迫られていた。
もっとも今の日本では、その情報を映像で見ることは叶わない。本州の分断により電力網が分断され、満足にテレビを見ることができなくなっていた。テレビは町に一台あれば良い方であり、そのテレビも電源を入れたところで砂嵐が映るばかりであった。
それでも大相撲中継だけは別であった。特に避難所にもなっている両国国技館では、老若男女が力士達に声援を送っていた。力士達の汗が土俵に染み込むことで天使ミカエルに相撲の力が注入され、両国国技館を包み込む破邪の力が活性化していく。破邪の力は両国国技館どころか両国全体を覆い、この地に押し寄せる魔の手から人々を守り続ける。
だがそれも、来年の初場所までのこと。七大海は横綱としての責務を果たせぬ己の無力さに、歯ぎしりを抑えられなかった。
――今のままでは、天使に勝てない。天使は横綱である自分にしか倒すことができないにも関わらず、自分には力が全く足りない。
「いいえ、あなたには力があります」
突然の声に振り返る七大海。親方を含め、周囲から一切の人々が消え失せていた。
七大海の目に映るのは、病院で会ったあの少女だった。あの時と同じ白い服、あの時と同じ緑の目。時が止まったかのように、少女は出会った頃そのままの姿を留めていた。
「正しくは、あなたにはその力を受け継ぐ資格がある、ということですが」
少女が七大海の側に現れた。近付いてきたのではない、文字通り「現れた」のだ。まるで「歩く」という途中過程を消し飛ばしたかのように、少女はいつの間にか七大海の隣に立っていたのだ。
「力……横綱のことですか?」
「それもありますが、横綱は力の一面に過ぎません。あなたが土俵入りをしている際に締め付けているもの――『綱』です」
少女は一回りも二回りも大きい七大海を見上げた。だが少女を見下ろそうとした七大海は、少女を直視することができなかった。緑の瞳が、七大海にはあまりにも眩しすぎた。
「目を逸らしてはなりません」
そんな七大海の心を見透かしたのか、少女が七大海を諭す。まるで七大海あやすかのように。
「あなたは『横綱』の語源を知っていますか?」
「親方から聞きました。次元の力を表していると」
「そうですか。ただしそれでは綱の本当の意味までは知らないようですね」
「ヤコブが天使から綱を授かったことが由来ではないのですか?」
「逆にあなたに問いましょう。何故天使がヤコブに綱を渡したのでしょうか?」
「それは……」
七大海は言い淀んだ。そもそも何故この緑の目の少女は、ここまで相撲の歴史について知っているのか。相撲の歴史は、ごく限られた者にしか伝わっていないはずではないのか。
「綱は『ひも』をより合わせたものです。いやむしろ、綱それ自体が巨大なひも、すなわち力士の力によって振動する『弦』と言えるでしょう」
この少女は一体何を伝えたいのか、七大海には分かりかねていた。
そして少女は、七大海の戸惑いを理解しているようであった。
「ところであなたはこの世界が何からできているかご存知ですか?」
「確か原子が集まって色々な物質が構成されていると習いました」
「それは半分は正確ですが、半分は不正確です。原子はさらに極小の単位、素粒子から構成されています。そして素粒子は、ひも状の弦の振動の在り方によってその性質を変えます。
つまり横綱の綱とは、『万物の基』そのものなのです。この事実に気付いた者は、こう表現しました。神の数式、『超弦理論』と――」
超弦理論。七大海は頭の中でその言葉を反芻したが、その意味を捉えきれないでいた。
「ですが弦はあらゆる物質の基となっている存在ですよね? 私が土俵入りの際に締めている綱とあなたが言う弦とは、大きさがあまりにも違いすぎます。流石に弦と綱が同じものとは言えないのではないでしょうか?」
「にわかには信じられないかもしれませんが、弦と綱は同一の存在です。極小の弦を極大化したものが綱なのです。言い換えるならば、弦の力を人間が扱えるようにしたものが綱ということになります」
「弦の……力?」
「極小の世界では、人間の常識が通用しない『量子力学』の法則に支配されています。我々が認識する次元は空間三次元に時間一次元を足した『四次元時空』ですが、実際の世界は『十次元時空』なのです。
我々の知らない残りの六次元は、誰にも見ることのできない万物の基である極小の弦に折り畳まれています。そしてその六次元を引き出すのが、綱の力――」
その時、強風が二人に吹き付けた。七大海は思わず目を閉じた。その時間はほんの僅かであった。だが七大海が目を開けた時には既に少女の姿は消えていて――。
「おい、どうした?」
親方が七大海に声を掛けた。
「さっきからぼーっとして、俺の言うことをちゃんと聞いていたのか?」
全てが元通りに戻っていた。そこに足りないのは、少女の姿だけであった。
五、九州場所
同じ横綱でも、昇進して満足してしまう力士と、昇進後にさらに上の頂を目指そうとする力士とに分かれる。後者の力士がいるからこそ、「綱の力」が鍛えられ、高まって、人々に感銘を与えるような太い綱となっていくのだ。
九重貢『綱の力』
福岡県から人間が消えた。それだけではなく、九州の人口が三分の一にまで激減した。人々は我先に船や飛行機に乗り込み、この混沌の地から逃れようとする。
だが混沌の地から離れた先もまた混沌の地であった。人々は二つに分断された本州を敬遠し、被害の少なかった北海道、はたまた海を隔てた諸外国へと脱出し続ける。
日本は既に崩壊の危機を迎えていた。
「七大海、お前は両国に残れ」
親方の非情な通告に、七大海は耳を疑った。
「どうしてですか親方! もう自分の体は万全です、この九州場所であの天使に打ち勝てば――」
「自惚れるな!」
親方が一喝した。
「今のお前では絶対にあの天使に勝てん。それはお前の体が万全ではないという意味もあるが、それ以上に――」
親方は一瞬だけ口をつぐんだ。
「……お前には、まだ稽古が足りない」
「そんな、自分はこれまでも稽古を重ねて――」
「そういう意味ではないのだ、七大海。今までこの俺がお前に教えてこなかったものがあるのだ」
「ならば今ここでそれを教えてください! もう時間が無いのです、親方! 天使を止められるのは、横綱であるこの自分しか――」
「お前はまだ綱の力を知らない」
親方は七大海の申し出を突っぱねた。
「そして綱の力は、実践を通じて伝えることしかできない」
「まさか、親方自ら――」
全てを察した七大海が親方を制止しようと、親方の服の袖を強引に掴んだ。
「止めてください、死んでしまいます! お願いです、自分は親方がいなければ横綱の地位まで上がってくることができませんでした。今親方がいなくなってしまったら、自分は――」
「おいおい、縁起でもないことを言うなよ。それにお前は横綱だろ? 何そんな子供みたいに泣きそうになってるんだよ。これからはお前が部屋を継ぐことになるかもしれないって言うのに」
「親方……」
巨体の七大海から、不釣り合いな涙が滝のように流れ落ちる。
「泣くなよ、お前はとっくの昔に三十歳を超えてるんだぜ? ……まったく、泣き虫なのは相変わらずだな。ただ他人に優しく、自分に厳しいっていうお前のその性格こそが、横綱を継ぐのに相応しいっていうことなのかもしれないな……」
親方は七大海を抱き寄せようとした――が、気恥ずかしくなって途中で止めてしまった。
「部屋を継がせるかもしれない、って言ったな。正直なところ、俺はあの天使を福岡で止めるつもりでいる。だが、もし止められなかったら――」
七大海が唾を飲み込む。
「七大海、お前が部屋を継ぐことは、もう二度と無い」
「それはどういうことですか?」
七大海が子供のように親方に詰め寄る。
「どちらに転んでも、俺はいなくなってしまう。あの天使を止めるには、勝つにせよ負けるにせよ犠牲が必要ということだ。まぁ犠牲はこの俺一人で充分だ、安心しろ」
「安心なんてできません!」
わざとらしく豪快に笑う親方と、悲痛な表情を浮かべる七大海。
「お願いですから、ちゃんと帰ってきてください、自分、部屋で待っていますから――」
「悪い、それは約束できないな」
親方が七大海を置いて、その場から立ち去った。七大海は徐々に小さくなっていく親方を、ただじっと眺めることしかできなかった。
福岡国際センター。四天使の一人「ラファエル」を祀るためだけに建造された、相撲の聖地。
その聖地を「巡礼」する者は、力士を除いて他にはいない。
天使に物理兵器は通用しない。そのため以前の名古屋場所のように周囲に自衛隊が配備されることはなかった。配備しても無意味であるからだ。
その代わり政府は極秘裏に某国と連携を取っていた。その「事実」を一般市民が知ることはなかった。そして、力士達にも――政府は力士達の命運と世界の命運を天秤にかけ、世界を選んだ。
無論その選択は一切間違ってはいなかった。だが政府は、相撲の力をあまりにも過小評価していたことに気付いていなかった。
千秋楽に、天使――「縦綱」が降臨した。二つの綱の力を手に入れた存在はいとも容易く土俵だけを残し、福岡国際センターを粉微塵にする。
力士達も抗った。烈風に揉まれながらも、その力を逆に利用して天使の懐に距離を詰めようとする。だが誰一人として天使に接触することができず、羽ばたき一つで遥か天空の彼方に吹き飛ばされていった。
「これが人間の力か。何とか弱きものか」
力士では天使に敵わないと判断した政府は、ホットラインで某国と連絡を取った――「核攻撃」の実施。
かつて人類史上最強最悪と謳われた水素爆弾の改良型、「ツァーリ・ボンバⅡ」の使用は事前に決定されていた。天使どころか北九州ごと殲滅することを目的とした、「世界平和のための大量殺戮兵器」。力士達の奮闘は、ツァーリ・ボンバⅡ着弾までの時間稼ぎに過ぎなかったのだ。
両国で政府の決定を聞いた七大海は激怒した。
「政府は一体何を考えているんだ、力士がいなければ、力士じゃないとあの天使を止めることはできないんだぞ!」
七大海はいても立ってもいられず外に飛び出した。だがそれでどうとなるものでもない。両国は雲一つ無い夕暮れに包まれていた。今から数十分以内に北九州が壊滅するとはとてもではないが信じられない、美しくも無関心な空であった。
「親方、親方!」
「皇帝の力程度では、天使に打ち勝つことはできません」
七大海は声のした方向に振り返った。あの少女だった。
「ツァーリ・ボンバⅡは北九州を壊滅させるでしょう。しかしあの天使どころか、ラファエルを祀る土俵すら何一つ傷付けることができません」
「あなたは、一体何者なのですか……?」
「私はあなたの『導き手』です」
「導き手……この自分を、一体どこへ導こうと――」
「『天国』へ、です」
その時、大地が揺れた。
ツァーリ・ボンバⅡが、福岡国際センター上空で炸裂したのだ。
「力士は、他の力士達は大丈夫なのですか!?」
「おそらくラファエルが力士達を守護したと考えられますが……」
七大海が携帯していたラジオから、悲痛な叫びが聞こえてくる。
「核爆発により北九州が壊滅したにも関わらず、天使は無傷です! 繰り返します、天使は無傷です!」
「やはり……」
少女は俯いた。だがすぐにラジオから別の叫びが響いてきた。
「福岡国際センター跡地には、天使と土俵が残るだけ――いいえ、違います、力士が一人――いや、髷を結っていません、ということは親方でしょうか? 綱を、綱を締めた親方が土俵の上に立っています!」
「……どうなっているんだ? 何故親方が綱を締めて――」
少女が七大海の手を掴んだ。
「急いで私と一緒に両国国技館に向かってください!」
少女の気迫に七大海は圧倒された。横綱を超える「圧」が、エメラルドの輝きと共に放たれる。
「は、はい!」
二人は両国国技館に急いだ。両国国技館の中では多数の避難民が隙間も無く詰まっている――はずだった。
だがどこにも、人がいない。二ヶ月前に少女が話しかけてきた際にも周囲から人が消えたことを、七大海は思い出していた。
「私はあなたにしか見ることができません」
無人の土俵。
「あなたは土俵の上に立ってください。私は土俵の上に立つことができませんが、あなたを導くことはできます」
七大海は土俵に上がった。土俵に上がったのは三月の大阪場所以来八ヶ月ぶり、両国国技館の土俵に上がったのは今年の初場所以来十ヶ月ぶりのことであった。七大海は土俵の砂を、素足で掴み取っていた。
「十次元の現象は本来ならば極小の極限たる弦でしか観測できません。しかし弦をそのまま極大化させることで、極小の現象をそのまま人間が認識できる範囲にまで拡張することができます。
――超弦理論を人間が扱えるようにするための手段、それが『綱』です」
七大海は、周囲の時空が歪んでいることに気付いた。
「そして超弦理論は弦だけの理論ではありません。『ブレーン』の理論でもあるのです。
世界は『Dブレーン』と呼ばれる膜から構成されています。今あなたがいるこの世界は四次元時空のDブレーンですが、その他にも五次元時空や六次元時空といった高次元のDブレーンが存在しているのです。
Dブレーンの表面には無数の弦が存在しています。『開いた弦』と呼ばれる通常の弦は両端の一方がDブレーンに付着して離れないため、別次元のDブレーンに移ることができません」
「それでは綱もDブレーンというものに囚われて、十次元の力を発揮することができないのではないですか?」
「その通りです。ですが、それは『綱を締めていない』時の話です。
話を続けます。確かに弦が『開いている』場合は、Dブレーンに囚われたままです。しかし端が無い弦、『輪』の形をした『閉じた弦』ならば話は変わってきます。端が存在しない弦は、Dブレーンの軛に囚われることは一切ありません。
つまり閉じた弦ならば、あなたのいる四次元時空どころかさらなる高次元時空のDブレーンへと渡ることができるのです」
「締めた綱が『閉じた弦』となって、高次元を渡ることができる。……まさか、DブレーンのDとは――」
「そうです。Dとは『土俵』のことです。世界はDブレーンで構成されていて、綱を締めた力士だけがDブレーンを介して各次元を自由に行き来することができるのです」
その時少女が七大海に向かってあるものを投げ渡した。「綱」である。一体少女がどこに綱を隠し持っていたのか――だがそれはもはや、些細な問題でしかなかった。
「さぁ、その綱を締めてください! あなたは見届ける必要があります。あなたの親方が、一体何を伝えようとしているのかを――」
綱が独りでに七大海の腰にまとわりつく。腰を一周する「閉じた弦」。そして背中側に結ばれている、二つの「輪」。
「今こそ、土俵入りを行ってください!」
無言で頷いた七大海は、四股を踏んだ。足が土俵に付く度に、世界が振動する。そして膝を深く落とす蹲踞の構えを取り、両腕を翼のように大きく広げた。
不知火型――。その瞬間、七大海の体が別のDブレーンへと移っていった。
「親方!」
福岡国際センター跡地。天使と土俵、そして親方。千秋楽は、未だ終わらない。
「親方、ここは私が天使の相手をします! 親方の体では無理です、お願いですから!」
「遂に次元の力を知ったか、七大海よ」
還暦を迎え、往年の巨体を失った体躯。だが綱を締めたその姿は、かつての横綱としての矜恃を無言で示していた。
「ここは俺に任せておけ。特に俺の土俵入りの意味を、よく考えておくことだな」
親方は四股を踏み、蹲踞する。そして左腕を脇腹に当て、右腕を大きく外側に張り出した。――「雲龍型」。七大海、そして横綱時代の親方の土俵入りの型である「不知火型」とは違う型である。綱の背中側に結ばれた輪の数は不知火型の二つとは違い、一つだけである。
「雲龍型と不知火型、一度にどちらかしかできないっていうのが困りものだよな」
天使を前に、親方が不敵に笑う。
「これが綱の力だ」
親方の周囲に突風が吹き荒れた。そしてその瞬間、親方が消えた。
「親方は綱に秘められた『十次元』の力を解放しました」
いつの間にか七大海の隣に少女が立っていた。
「この世界の四次元時空を超える、十次元時空から天使を攻撃するつもりです」
土俵上の天使が見えない突っ張りを食らい続けている。これまで幾多の力士の攻撃を受け付けなかった天使が、初めてよろめいた。
「ほう、綱の力を得た人間が天使に刃向かおうとは」
天使がほくそ笑んだ。
「だがまだ手温い」
天使が羽ばたいた。土俵の砂が吹き荒れ、局所的に複数の小型の竜巻が発生する。
天使は指を鳴らした。竜巻が消えた。が、その時竜巻に巻き込まれた親方が姿を現した。
「確かに我の力は不完全だ。だが横綱と縦綱の力があれば、人間の偽りの綱の力など無力に等しい」
落下する親方。だが空中で体勢を整え、両足からの着地に成功した。親方はまだ、膝を屈してはいない。
「十次元の力を舐めてもらっては困るな」
親方は空を飛んだ。それと同時に天使も飛び上がり、二人は空中戦を繰り広げる。
横綱七大海ですら、二人の闘いを目視することができなかった。
「まだあなたは次元の力を使いこなせていません。そのため高次元の闘いを認識することは、今のあなたには不可能です」
「ならば一体どうやったら十次元の力を使いこなせるというのですか!」
「覚悟です」
「自分にだって覚悟はあります!」
「本当にそう思っているのですか? 目の前にいるあなたの親方は、覚悟を決めています。勝つにせよ負けるにせよ、『もう二度と戻れない』という事実を受け入れています」
「そんなの、自分だって――」
「次元の力は人間に扱えるものではありません。それは力士であっても、その力士の最高峰である横綱であっても、です。
横綱とは次元の力を扱うための『資格』にすぎません。次元の力を『自在に』扱えるとは、私は一言も言っていません」
汗と血だけが、高次元時空から四次元時空に漏出している。土俵の中央には、血溜まりが形成されていた。
「あなたの親方は勝てないと分かっていながらも、綱の力をあなたに見せようとしたのです。
高次元の力。親方が見せる闘いを黙って見つめることが、親方があなたに課した最後の『稽古』です」
そして四次元時空に二人が戻ってきた――天使が、血塗れの親方の頭を掴みながら。
「我に一撃を与えた、という点では褒めてやろう。だが人間はあまりにも脆い」
天使は親方を投げ捨てた。親方の体に土が付いた――親方の、敗北である。
「既に力士ではなくなった者が、綱の力を存分に発揮することなどできるはずがなかろう。
七大海よ、残念ながら汝の親方は無駄死にとしか形容できぬ醜態を晒すだけであったな」
「親方!」
七大海は親方に近寄った。親方の全身は真っ赤に染まり、生命の灯がもうすぐ途絶えようとしていた。
「七大海よ……」
「親方、もう無理をしないでください。早くDブレーンを介して両国に戻って――」
「もう間に合わん。だが先程俺が見せた雲龍型の他に、お前に伝えたいことがある……」
親方の口から、止め処なく血が噴き出てくる。
「何故俺があの天使に勝てなかったのか……それは俺が力士ではないから……ならば親方である俺と、力士の違いとは一体なんだ……?」
「それは、それは――」
「天使は確かに人間にシュモーを伝えた。だが俺達のご先祖様は、シュモーを相撲に変えて独自の取組を取り続けてきた。
そこで人間は、見付けたのだ。アルファベットの『M』――力士が『三位一体』に到達するための、超弦理論を超える『M理論』の存在を――」
親方の脈が、弱まっていた。七大海は死にゆく親方を、そっと抱き締めることしかできなかった。
「俺にはMが一体何なのか、最後まで分からなかった。いや、俺にはMが無いということが分かったかな……。
……七大海よ。お前なら、きっとMの意味を知ることができるはずだ。そしてM理論に到達したその時……お前は天使に――」
親方が、事切れた。
「親方、親方!」
七大海は眼前の天使を睨み付けた。
「貴様、貴様ぁ……!」
「今はまだその時ではありません!」
少女が七大海の手を引いた。
「離せ、離せ!」
だが七大海は少女を振りほどくことができない。
「ふん、小娘如きに力の劣る横綱など笑止千万だな」
少女は臆することなく天使に対峙する。
「七大海は、来年の初場所で必ずあなたを倒します」
天使が笑った。
「そうか。この地で高綱の力を手にし、そして両国で時綱の力を手にするこの我に勝つと言うのか。よいだろう。その日を楽しみにしておくことにしよう。
もっとも神に変わって我が人間界を支配するという未来を、汝如きが変えようもないがな!」
土俵が激しく振動する。天使がラファエルの力、高綱の力を得ようとしている。
「早く両国へ!」
少女は七大海と親方の亡骸と共に、Dブレーンを経由して両国国技館に移動した。
天使は土俵を破壊した。解放された高綱の力は、九州そのものを揺るがした。
高綱の力は、文明を滅ぼすとされる阿蘇山の「破局噴火」を引き起こした。莫大な量の火砕流が九州全土を覆い尽くし、九州の生命は一つ残らず焼き尽くされた。
さらに阿蘇山噴火に呼応するかのように九州全土で巨大地震が頻発。火砕流に飲まれた死の島は沈没し、その衝撃で発生した津波は高さが六キロメートルを超えた。あらゆる太平洋沿岸地域が津波に飲み込まれ、太平洋に浮かぶ島国は国家ごと消失した。
そして地球の空を覆い尽くした火山灰により世界の平均気温が約二十度低下し、地球は氷河期に突入した。
死者行方不明者は、全世界で約十三億人。
福岡の守護天使ラファエルは、力士達を守護することができなかった。力士は全滅し、相撲はここに途絶えたかに見えた。
――だがただ一人、横綱の七大海だけが、天使ミカエルの守護する両国国技館で生き抜いていた。
六、初場所
今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者である神、主がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。」
『新約聖書』ヨハネの黙示録 1.8
力士は横綱七大海一人を残し、全員死に絶えた。
だが相撲に関わる者全てが死に絶えたわけではなかった。
相撲の審判を行う「行司」。四股名を呼び上げる「呼出」。力士の髷を結う「床山」。彼等はたった一人の横綱のためだけに両国国技館を整備し、初場所の開催にこぎ着けたのだ。
初日から十四日目まで、取組は結びの一番のみ。それも全て「不戦勝」。だが七大海は土俵に立ち続けた。綱を締め、不知火型の横綱土俵入りを毎日披露する。
だが七大海の脳裏には、親方の土俵入りの姿がこびり付いていた。
――何故親方は、不知火型ではなく雲龍型で土俵入りを行ったのか。
雲龍型に特別な意味があるというのだろうか。いや、親方は「一度にどちらかしかできない」ことに対して、横綱土俵入りの限界を感じていた様子だった。
不知火型と雲龍型。二者択一の型。
もしかして親方は、この二つの型を同時に行おうとしていたのではないか。
七大海は首を振った。そんなことは不可能だ。両腕を広げる不知火型、右腕を張り出し左腕は脇腹に当てる雲龍型。単純に腕の数が足りない。人間の腕は二本しか存在しないのだ。
だが本来不知火型と雲龍型は、一つの型ではなかったのだろうか。遥か古代に天使から横綱の型を授けられたヤコブは、天使が土俵入りの際に見せた型を再現することができず、仕方無く二つの型に分けたのではないだろうか。
――こんなものは自分の妄想に過ぎない。七大海は邪念を振り払った。
十四日目の結びの一番が終わってもなお、七大海には親方が最後に言い残した二つの謎、雲龍型とM理論の答えを見出せずにいた。
そして周囲から人間が消え――少女が七大海を待っていた。
「そろそろ教えてくれませんか。あの天使が、一体何者なのか」
「あの天使は天国への帰還を目論んでいます。あの天使はかつて地獄に堕とされました。そしてそれ以降、私達があの天使を本来の名前で呼ぶことはありませんでした。
ですが、あの天使は自らの名前を取り戻そうとしています。両国国技館に祀られている天使ミカエル。ミカエルの時綱の力を得た時、『天国の門』が開きます。
そしてその時、人間の住むこの世界そのものが『地獄』と呼ばれるようになります」
少女は七大海に背を向けた。
「……天国は第一天から第十天までの『十次元』、すなわち十のDブレーンから構成されています」
少女はそのまま七大海から離れ続ける。
「あなたが綱の力を解放して十次元の力を得るということ――それはすなわち、あなたが『天国の住人』になることに他なりません。あなたはもう、人間ではなくなるのです」
去りゆく少女に、七大海は声を上げた。
「あの天使を倒さないと、世界は救えない。だとしたらこの自分が、たとえ人間を捨ててでも人間を救わないといけないのです。それが綱の力を授かった、横綱の使命です」
立ち止まる少女。
「自分は体が大きいだけで、心の弱い泣き虫でした。だけどそんな自分を鍛え上げ横綱まで育ててくださったのが、親方なのです。
その親方が自らの命をかけてこの自分に伝えようとしたこと。それを確かめ、親方の意思を受け継ぐ義務が、自分にはあります」
少女が静かに振り返った。ベールの揺らめきが、一瞬だけ少女の緑の目を覆い隠した。
「私はかつて一人の男性を天国の第十天まで導いたことがありました。そこが天国の果て、次元の果てなのです。
ですが、こんな私にもまだ知らない世界があるようです。あなたの親方が言い残したM理論。私にはその意味が正しく理解できていません。何故ならば神が人間に授けた超弦理論とは違い、M理論は人間自らが見出した、神ですら知らない理論だからです」
「やはりあなたは天国の住人であって、人間ではないのですね」
少女は微笑んだ。
「どうでしょうね。かつて私が天国へ導いた男性は、人間の世界で私と会ったことがあると言っていましたが」
少女は通路の奥へと姿を消した。
天使が降臨する。だがそれは天使なのだろうか。天から降臨する、ただそれだけで天使だと判断してもよいものなのだろうか。
両国国技館の天井が、静かに崩壊する。一月の夕暮れ、火山灰に覆われた午後五時半の空は、暗黒に包まれていた。星の光すら差し込むことはない。
天使は光り輝いていた。だがその光は何かを照らす光ではなく、何かを焼き殺すための苛烈な光だった。
両国国技館に人間はただ一人しかいない。客席には誰もいない。相撲を支える行司や呼出も、安全な場所に避難している。もっともこの地球上に安全な場所など、もはやどこにも存在しないのだが。
地球最後の救世主として、横綱七大海が天使と対峙する。
「人類最後の力士か」
仁王立ちの天使が、高らかに謳う。
「今宵、我は永遠の『千年王国』の樹立を宣言する。人類に『最後の審判』が下される時が来たのだ!」
瞬きもせずに、天使を凝視する七大海。
「どうした、怖じ気付いたのか? 横綱・縦綱・高綱の三次元の力を取り戻した我に、畏怖の念を抱いているのか?
残念ながら、それはまだ早いぞ。我はこの両国の地に眠る最強の次元の力『時綱』を解放し、四次元時空の覇者としてこの世界に君臨するのだからな!」
「それがどうした」
七大海が、静かなる怒りを表明した。
「自分は力士であり、横綱でもある。貴様を止められるのは、世界でただ一人――この自分だけだ!」
七大海が蹲踞する。両腕を広げる、不知火型の横綱土俵入り。七大海の胴体を締め上げる「閉じた弦」たる綱が、「Dブレーン」たる両国国技館の土俵と共鳴する。
七大海の肉体から発せられる波動が、両国国技館を揺らす。客席の座布団が浮かび上がり、七大海に吸い寄せられる。座布団が七大海を中心として、惑星の運行にも似た回転運動を開始した。
「福岡で我に刃向かったあの老いぼれと同じく綱の力を解放したか。愚かなり、人間よ。いや、『人間を捨てた者』よ。汝が己を捨てようが、天使である我に勝つことなど、不可能だ」
「不可能を決めるのは貴様ではない。この自分が、不可能を可能に変えてみせる!」
高速の立ち会い。七大海は立ち会いの一歩目から高次元のDブレーンに移動した。両国国技館のある四次元時空の先、「五次元時空のDブレーン」。五次元時空に到達した七大海は、四次元時空の両国国技館を一望した。
それは三次元空間に住む人間が、二次元空間の「平面」を一望できることと似ている。人間には三次元空間の「立体」の全貌を一目で把握することは不可能だが、「四次元空間の存在」ならば三次元空間の立体の全貌を一目で把握することが可能なのだ。
七大海は天使の全身を「同時に」把握した。胸と背中、頭頂部と足の裏、皮膚と内臓の全てを同時に観察し、五次元時空から天使を目掛けて突っ張りを放った。
突っ張りが天使の背中にぶち当たった。天使が極僅かによろめく。
「馬鹿な、効いていないだと!」
「弱すぎる」
振り返った天使が七大海の両腕の下に自らの両腕を差し込み、七大海の廻しを掴んだ。「もろ差し」の体勢である。
「高次元から我を奇襲しようとでも考えたか? 弟子は親方に似るものだ。その愚かさも、親方譲りということか」
天使は七大海を抱えたまま急上昇し、破壊された天井から上空へ飛び出した。両国を包み込む、一面の闇。
「墜ちるがよい」
上空三百メートル程の高さから、天使が逆さの体勢を取りそのまま土俵を目掛けて急降下する。天使は「吊り落とし」を狙っていた。
七大海は身動きが取れない。たとえ土俵の上でも、足の裏以外が触れてしまえば敗北である。
「そうはさせるか!」
身を切るような凍てつく風。七大海はその風を利用した。
流星のように両国国技館に突入する二人。だが七大海が頭から土俵に激突する寸前に、両国国技館を舞っていた座布団が七大海に吸い寄せられていった。
座布団の襲撃に一瞬だけ天使の手が緩んだ。その隙に七大海は天使の拘束から脱し、複数の座布団を八艘飛びすることで落下時の体勢を立て直し、両足で土俵に着地することに成功した。
土俵の上で再び相見える両者。取組は、まだ始まったばかりである。
「宙を舞う座布団を利用するとはな。だが――」
天使が羽ばたいた。轟音と共に場内の空気が攪乱され、全ての座布団が渦の中央――天使に集まってきた。
天使が拳を突き上げた。全ての座布団が千々に破れる。そして天使が腕を振り払うことで発生した竜巻によって、座布団の欠片が天井に開いた穴から天空へと拡散された。
「次元の力に頼るだけではなさそうだな」
天使が音も無く七大海に急接近し、小突いた。
「!」
その衝撃で七大海は土俵外に吹き飛ばされた。だがまだ土俵外に足は付いていない。七大海は別のDブレーンに退避し、高次元に存在する土俵上で踏ん張った。
高次元の高みからだと、天使の一挙手一投足が確認できる。それなのに、天使に手も足も出せない。明らかに、力が違いすぎる。
だが天使は高次元時空に渡ることができない。何故ならば、天使は未だに次元の力を完全に自分のものとしていないからだ。天使に宿る綱の力は、横綱・縦綱・高綱の三つ。まだ最後の時綱の力は、両国国技館の土俵の下に眠る天使ミカエルが守護したままだ。
一方の七大海は極大化した弦である綱を締めたまま土俵に上がることにより、各次元の土俵を行き来する力を手にしている。機動力では七大海が有利であった。
だが攻撃を仕掛ける際は、どうしても天使のいる四次元時空に七大海の肉体を出現させる必要が生じる。天使はその隙を狙って七大海に反撃するはずだ。単純な力の差では、七大海は天使に叶わない。
取組は膠着状態が続いた。天使は破壊した両国国技館の瓦礫を用いて、手当たり次第に遠距離攻撃を仕掛けてくる。いくら七大海が高次元時空に退避しているといえども、移動する際に七大海の肉体が四次元時空に「露出する」ことがある。
例えば立方体が二次元空間を通過する際、平面上では立方体の姿形は点、三角形、六角形、そしてまた三角形、点と移り変わっていく。似たような事態が四次元時空を通過する七大海の肉体にも生じる。天使は四次元時空から、七大海を認識することができるのだ。
七大海は高次元へ移動する能力を身に付けた。だがまだそれを使いこなせていない。天使は七大海の未熟さを見逃さなかった。
既に両国国技館は、土俵を除いてその外観を失っていた。両国国技館を構成するありとあらゆる物体が、四次元時空を通過する七大海に押し寄せてくる。
七大海は両国国技館に隣接する江戸東京博物館を見下ろすDブレーンに待機していた。だがやがて江戸東京博物館もまた両国国技館の崩壊に巻き込まれ、二つは一つの「物体」として集約した。そして七大海に向かって、炸裂した。
七大海は各次元のDブレーンを渡るだけで精一杯だった。天使には隙が無い。七大海は高次元時空から両腕だけを四次元時空に突き出し、両国国技館と江戸東京博物館の欠片を突っ張りで跳ね返すことで反撃を試みる。だが天使が風の向きを変えることで、欠片は別方向に逸れる。
互いに決定打を与えられない「大相撲」に突入していた。だがこの取組に行司は存在しない。勝負を中断する「水入り」も、この闘いには存在しない。
全てが、極限状態での取組であった。
「所詮人間は逃げることしかできぬのか」
上空から天使が両国を睥睨する。高次元から隙を窺っている七大海の姿は、どこにも見えない。
天使はあるものを見出した。
「――槍か」
天使は風を操り、天空を貫く槍――「東京スカイツリー」を引き抜いた。
「救世主を騙る者よ、お前もまた槍に貫かれて絶命するがよい」
天使は「槍」を放り投げた。槍はまるでミサイルが如く、四次元時空に存在する七大海の生体反応を探知し、追尾する。槍の運航速度は直ちに音速の壁を突破し、発生したソニックブームが両国の地を薙ぎ払う。
東京スカイツリーの接近は、高次元に退避していた七大海も関知していた。今の七大海は音速を超えて移動することができない。東京スカイツリーに追い付かれることは必至であった。
Dブレーンを渡る七大海。だがほんの一瞬四次元時空に肉体を露出したところに、ソニックブームの一撃が七大海を襲った。
七大海は流血した。そして体勢を崩した際に、七大海の全身が四次元時空に飛び出してしまった。
「見付けたり!」
槍が七大海に向かって推進する。そして七大海に突き刺さる――。
「ふははは! 脆い、脆すぎるぞ人間よ! 所詮人間は天使には勝てぬのだ。天使に刃向かった身として、地獄の底で己の犯した罪を永遠に悔いるがよい!」
七大海を貫いた槍がそのまま宇宙空間へと突き進む――かに見えた。
「……槍がこちらに戻ってくるだと?」
槍が、両国上空に待機する天使に向かって反転する。音速の一撃が、天使に反逆する。
「馬鹿な! 槍は確かに貴様を貫いたはずでは?」
「確かに音速を超える物体の軌道を変えるのは困難だ――四次元時空では」
七大海の声が聞こえる――天使の、背後から。
「だが自分にはDブレーンを自在に操る能力がある。東京スカイツリーに激突する寸前に、自分は二つのDブレーンを生成した。東京スカイツリーの真正面に生成したDブレーン、そしてお前の真後ろに生成したDブレーン。お前は東京スカイツリーにばかり注目し、この自分が今どこにいるのか注意を払っていなかった。
東京スカイツリーはこの自分を追尾する――進路上にある、お前を貫いてな」
七大海はDブレーンを渡り、再び四次元時空から姿を消した。槍は即座に軌道を変更することができない。そのまま七大海が存在した場所を目掛け――天使を目掛け、音速で突き進む。
「人間風情が、よくも我を誑かしおって!」
槍が天使に激突した。轟音と共に、槍が天使に吸い込まれるようにして消失した。
「やった……のか?」
粉砕された東京スカイツリーから生じた砂煙が消失するまで、長い時間がかかった。
そして東京スカイツリーが消え去った跡に――天使が無傷で浮かんでいた。
「何!」
天使は悠然とした表情で、首を鳴らした。
「汝は何か勘違いをしているようだな。我は天使だ。人間は物体で討ち滅ぼすことができるが、天使は物体で討ち滅ぼすことができぬ。
――シュモー、汝の言葉でいう相撲の力でない限り、我に傷一つ付けることはできぬ!」
天使は翼を広げた。暴風が周囲に巻き起こったが、既に両国には土俵以外に、何も存在しなかった。塵一つ漂うことのない、無。
「だが次元の力を手にした者は、逃げ回るばかりで厄介であるな」
その時、天使が土俵目掛けて急降下した。轟音を立てて着地する天使。
そして右脚を天高く、真っ直ぐに掲げた――「四股」の体勢。
「汝は四股の真の意味を知らぬようだ。教えてやろう。四股には『四つの次元を股に掛ける』という意味がある」
右脚が勢いよく土俵に叩き付けられる。天使の繰り出した暴風に耐えた土俵が、割れた。
「汝等人間は『横』という一次元の力のみで満足している。甘いわ! 真の『四次元』を制する者は、この世に我一人で充分なのだ!」
続く左脚が土俵に叩き付けられ、土俵が完全に割れた。土俵の内側から、光の奔流が立ち上る。
七大海は見た――光が、ミカエルが、あの天使に吸い込まれていく様子を。
だが光はやがて、瘴気となった。天使の肉体が、鈍く、赤黒く、万物を焼き尽くす魔の存在へと変貌する。
「汝の名は何だ? 七大海? ふん、人間風情が『四股名』などという大それた名を騙るではない。
教えてやろう。四股名とは、横綱・縦綱・高綱・時綱の四つのシュモーの力を一身に集めた存在にのみ与えられるものであるということを!」
世界に残された光が、天使に注がれていく。
「我が四股名は『ルシフェル』。地獄より蘇りし存在、そして天国の力を取り戻し存在」
両国が揺れる。振動は高次元時空上の七大海にも伝わってきた。
土俵の跡地から、暗黒の尖塔が飛び出してくる。地中――「地獄」から這い出てきた、魔の宮殿。
「何故『両国』という地に最強の時綱の力が封印されているのか? そもそも両国には一体どのような意味が込められているのか?」
ルシフェルは先程破壊された東京スカイツリーを優に超える、高さ二千メートル程の高さの尖塔の真上に陣取った。
「『両』とは二つの存在を表している。すなわち『アルファ』であり『オメガ』、万物の創世と終焉を司る『神』だ」
宮殿が、両国を覆い尽くす。
「両国とは『神の国』なのだ! この地こそ、我が世界を統べる地に相応しい!
我はこの『両国万魔殿』から、新たなる『天国』を創世する!」
世界を隔てる両国万魔殿の「門」から、「十次元の世界」が覗いている。十次元の力は次元の壁を超えて、七大海を門へと吸い寄せた。
門の内側、両国万魔殿の内側、新たなる天国の入口――そこに「堕天使」ルシフェルが立っていた。
「ようこそ、我が天国へ。そして天国で果てることを、永遠に光栄に思うがよい!」
ルシフェルが嘲笑う中、七大海が天国へ導かれていく。
両国万魔殿の門が、静かに閉じられた。
七、天国
無垢になり、昇る備えができたのだ、星々を目指して。
ダンテ・アリギエリ『神曲』煉獄篇 第三十三歌
七大海が初めに目にしたのは「地球」だった。かつてある宇宙飛行士が「地球は青かった」と言ったと伝えられているが、七大海の目に映る地球は、黒かった。海も、陸も、何もかもが暗闇に包まれていた。
「第一天、『月天』」
ルシフェルが七大海に告げる。
「天国は第一天から第十天までの十次元から構成されている。各々の天それ自体がDブレーンだ。天国でのシュモーに『押し出し』や『寄り切り』といった概念は存在しない。
――己の膝が屈するその時まで、取組は続くのだ!」
ルシフェルが七大海に向かって飛びかかる。七大海が月天の弱い重力を利用して遥か上空へと飛び上がり、ルシフェルの立ち会いを回避する。
眼下に見える月天は、奇妙であった。月である。だが地球を周回する現実の月とは僅かに異なる点がある。それはさながら古代の人類が夢見ていた「宇宙」と、二十一世紀の人類が知る「宇宙」とが混じり合った、観念上の宇宙と呼べるものであった。
その違和感を、ルシフェルも覚えているようであった。
「かつて我が神に反逆する前にいた天国とは様子が――」
ルシフェルが七大海を見つめる。
「そうか。我の知る『天国』に汝の知る『宇宙』が融合したようであるな。
つまりこのシュモーに勝利した者だけが、真の天国を創世できるということか!」
ルシフェルが滑空する。月の台地が裂け、アポロ11号の月面着陸船が木っ端微塵に吹き飛ばされた。
七大海にルシフェルの攻撃を正面から受け止められるだけの力は無い。七大海はDブレーンを渡りながら、反撃の機会を窺うことにした。
月天の高みにある時空――第二天、「水星天」。
灼熱と極寒、昼と夜の狭間に七大海は隠れていた。
七大海は十次元の力を手に入れた。だがルシフェルも天国を渡る力を取り戻した。勝負は互角――ではない。七大海に与えられた力はあくまでも次元の力。ルシフェルにはそれに加え天使の力が備わっている。
天使が人間にシュモーを授けた。だが伝承では人間であるはずのヤコブが天使ウリエルに勝利したという。どのようにしてヤコブは天使に打ち勝ったというのか。
その時、水星天が揺れた。周囲に形成される新たなクレーター。ルシフェルは小型の隕石を撒き散らしながら、水星天を飛行している。
七大海は考えを改めた。隙を窺うという戦法はもう通用しない。そもそも七大海自体がルシフェルの軌道を追うことができない。
七大海は見通しの効く場所に移動した。直径千五百キロメートルを超えるクレーター、カロリス盆地。カロリス盆地の土は、かつての両国国技館の土俵の土と同じ感触がした。
ここなら大丈夫だ――そして七大海の目論み通り、ルシフェルが突っ込んできた。
ルシフェルを真正面から受け止める七大海。衝撃は激しく、即座にカロリス盆地の中央から七百キロメートルほど離れた「土俵際」へと追いやられた。クレーターの縁に足を掛ける七大海。確かに天国では押し出すだけでは勝てない。だがルシフェルはクレーターの縁を利用し、七大海の体勢を崩しそのまま押し倒す「浴せ倒し」を狙っていた。
「どうした? まだ十次元には到達していないぞ?」
ルシフェルの挑発。
「……そうだな、まだ闘いはこれからだ!」
七大海は腰を落とした。そして体を反り、ルシフェルの体を背後に投げ捨てる「うっちゃり」の構えを取った。
だが次元の力を利用するのは、七大海だけではなかった。二人の肉体が、水星天から消失した。
二人は厚い雲の中にいた。うっちゃりの体勢も遥か上空では無意味であった。
「第三天、『金星天』」
もつれ合うように金星天を落下しながら、ルシフェルが叫んだ。
「我が四股名ルシフェルは『明けの明星』、すなわち『金星』を意味している。どうだ、灼熱地獄たる金星天の姿を!」
二人は台地に激突した。雲の下の台地は、不気味なほど薄暗い。
「懐かしいのう。かつては金星天も、美しく光り輝く『もう一つの楽園』だったのだ」
「ルシフェル、お前は一体何を言いたい?」
ルシフェルの笑みは、もはや天使のものではなかった。邪悪な意思に囚われた、反逆者のものであった。
「我が滅ぼした。金星天の住人が、我を制止しようとした。彼等は我の崇高なる考えが一切分からぬ、愚にも付かぬ無知蒙昧な輩であった。
――よって我は金星天を、ソドムとゴモラにした」
「そんな身勝手な理由で!」
「勘違いするな。彼等が我が計画を妨害したのだ」
七大海とルシフェルは、互いに組み合った「がっぷり四つ」の体勢を取り続けていた。迂闊に動くと相手に隙を与えてしまう、「動」を窺う「静」の時間。
「このままでは埒が明かぬな。では場所を変え、金星天を灼熱に包んだ次元で汝も焼き尽くすことにしよう」
第四天、「太陽天」。
地球創世以前から続く核融合反応が、半永久的な輝きと熱を放射している。
二人は宇宙空間に浮遊していた。
ルシフェルは本場所で風を自在に操っていたように、太陽天においても「太陽風」を自在に操っていた。この働きによって二人の周囲の温度は太陽の黒点ほどの低い温度――約四千度にまで弱まっていた。既に人類を超越した二人が、この程度の温度で燃え尽きることはなかった。
もっとも太陽の表面を覆う、百万度を超える「コロナ」に二人が耐えられるかどうかは微妙なところであった。そのため二人はいかに相手をコロナに目掛けて「寄り切る」かの攻防を繰り広げていた。
「かつての金星天の軟弱な住人のようにはいかぬな」
「ほざくな!」
二人は互いに太陽天に相手を寄り切ろうとする。だが人智を超えた二つの力は、膠着状態から脱することができない。二つの存在は一つの「惑星」となり、太陽天の周囲を公転していた。
二人が太陽天を三度周回しても、決着は付かない。
「人間如きが……何故そこまで我に刃向かうのだ!」
「それは……自分が横綱だからだ!」
七大海はルシフェルの束縛を振り払った。そしてルシフェルからおよそ十万キロメートルの距離を取り、宇宙空間に深く腰を落とした。
――不知火型。すなわち「火」を支配する型。
「焼き尽くされるのはお前だ、ルシフェル」
太陽天を背にして広げた両腕が、太陽天を活発化させる。太陽天の表面から、炎の龍――「プロミネンス」が立ち上った。プロミネンスはルシフェルを食らい尽くさんと、紅蓮の牙を堕天使に向ける。
プロミネンスが、ルシフェルを包み込んだ。
「……いない?」
手応えはなかった。ルシフェルは既に高次元へと退避していたのだ。
すぐさまルシフェルの後を追う七大海。だが七大海は、気付いていた。
「不知火」の力が「雲龍」の力を呼び起こした、ということに。
七大海が第五天「火星天」の上空に現れた時、ルシフェルは山を破壊していた――高さ約二十五キロメートルの神の山、オリンポス山。ルシフェルの呪詛の声が響く。
「人間は何故邪教を讃える! 我以外の神など、天国には不要なのだ!」
オリンポス山が崩落した。オリンポスの信仰が、ここに潰えた。
ルシフェルが、上空から降下してくる七大海を凝視する。
「そして何故貴様が……天国の……太陽天の力を自在に操れるのだ!」
ルシフェルは火星天を跳躍した。ルシフェルはすぐに七大海の高度を追い越し、宇宙空間に到達した。
「おのれ、天国の力を扱えるのは、我だけなのだ!」
火星天を周回する衛星「フォボス」と「ダイモス」が、七大海目掛けて落下する。両国で七大海を追尾した東京スカイツリーとは比較にならないほどの、強大なエネルギーを秘めている。
七大海は火星天に着地した。火星天を吹き荒れるダストストームが、七大海の視界を奪う。
だがそれはルシフェルも同じことであった。今の宇宙空間から、火星天の表面を確認することはできない。
七大海は逆に二つの衛星を誘導した。七大海は火星天の北極にフォボスを激突させ、そして南極にダイモスを激突させた。衝突時の熱エネルギーが二つの極に存在した氷を融解させる。
やがてダストストームが晴れ上がり、ルシフェルは火星天の表面を見た。だがそこに広がっていたのは、砂の惑星では決してない――水の惑星。
「テラフォーミング」――七大海はルシフェルの力を利用することで、火星天を自らの支配下に置くことに成功したのだ。
「き、貴様……火星天を……地球に変えただと?」
動揺するルシフェルの背後に、いつの間にか七大海が近寄っていた。
「これが、人間の力だ!」
ルシフェルの背中を衝撃が襲う。ルシフェルは新たなる地球に墜ちていった。
だが途中でルシフェルの姿が途絶える――さらなる次元の高みへと、消えていた。
二人の闘いを静かに見つめる、第六天「木星天」の大赤斑。
だが大赤斑は木星天に落下した「四つの物体」に撹拌され、その姿を失おうとしていた。
――イオ・エウロパ・ガニメデ・カリスト。ガスに覆われた木星天の表面に突入した七大海を、ルシフェルの操る「ガリレオ衛星」が追尾する。
「ガリレオ=ガリレイは背徳者だ……宇宙を、天国の姿を変えた、我に対する反逆者だ! 何故異教の存在を星の名として名付けたのか……。
我は許さん、我が宇宙を、天国を決定するのだ! そのためには、全てを一から創世し直さなければならぬ!」
直径数千キロメートルの四つの球体が、同時に七大海に向かって落下してくる。七大海はイオを受け止めた。七大海はイオに押し潰され、そのまま木星天の中心に引きずり込まれてしまうのではないかと思われた。
だが七大海は両国から続く天国での闘いで、徐々に次元の力を使いこなせるようになっていた。七大海の「ぶちかまし」によりイオの火山活動が活発化し、イオは内部から爆発四散した。
ガニメデとカリストも、もはや七大海の相手にはならなかった。それぞれの衛星を抱え込み、「小手投げ」でルシフェルに投げ返した。
ルシフェルに激突する二つの衛星。だがルシフェルは強大である。破壊した衛星の中から姿を表したルシフェルは、無傷だった。だが焦りを隠せないでいた。
「この人間如きが……!」
七大海はルシフェルを諭す。
「人間は自ら進化する生き物だ。ガリレオ=ガリレイは決して反逆者ではない。宇宙への飽くなき探究心が生み出した、人類史に残る英雄だ!」
「だがこの先の次元でも同じことを言えると思うな!」
ルシフェルは高次元へと移っていった。
七大海もルシフェルを追って高次元へと移る。だがその直前――眼前に迫ったエウロパの表面を覆う氷の内側に、確かに見たのだ。原初的ではあるが、生命の萌芽を――。
環、すなわち「閉じた弦」――第七天「土星天」。
二人は無数の岩石が交差する、環の中にいた。
「七大海よ! 十次元の力を得たといえども、『惑星天』はこの土星天が最後だ! 貴様はこの先の第八天以降に渡ることはできぬ!
ここまで我に付いて来れたことは褒めてやろう。だが貴様は、ここで打ち果てる運命にあるのだ!」
天国が、揺れた。土星天の環から脱出した七大海は、ルシフェルがどこにもいないことに気付いた。
不敵な笑みが聞こえてくる。それは土星天からだけではなく、あらゆる「次元」からであった。
「貴様は十次元の力を完全に我が物としたと錯覚しているな? 甘いわ! 高次元の物体は複数の次元に同時に存在できるのだ!」
天国が、動いた。
七大海は、感じていた。これまでに辿った「六つの天」が、この第七天である土星天に集結していることを。
「まさか、ルシフェルは天国ごとこの自分を打ち倒そうと――」
七大海の眼前に、「天国」が見えた。月天・水星天・金星天・太陽天・火星天・木星天・土星天の七次元の直列。
――「グランドクロス」。
「救世主を騙る愚かな者よ! 貴様はここで天に召されるのだ!」
これまでの天体の襲撃とは、文字通り「次元」が違っていた。そもそも「次元」それ自体の攻撃である。
直列した七次元は「蝕」を発生させた。太陽天を覆い隠す六つの次元。太陽天の輝きが、他の六つの次元を突き動かす。
月天が、水星天が、金星天が、火星天が、木星天が、土星天が、太陽天の導きにより七大海に直進してくる。
七大海に策は無かった。だが不思議と、心は落ち着いていた。
七大海は思い出していた。かつて新弟子だった頃、倒れるまで親方の体にぶつかり続けた「ぶつかり稽古」のことを。
――ぶつかればいい。胸を張って、正面から天国にぶつかればいい。
「せいっ!」
七大海は気合いを入れた。そして、目前の土星天が七大海に迫ってきた。
土星天はガス状の惑星である。厚いガスの内側に、核が存在する。
視界を覆い尽くすガスの層を抜け、核が七大海に激突した。木星天で対峙したガリレオ衛星とは、桁が違いすぎる。押される七大海。そして、勝利を確信するルシフェル。
「汝の命運も、ここで尽きたな」
七大海は、無意識のうちに「頭」からぶつかっていた。「髷」が、土星天の衝撃を僅かに吸収する。
何故力士は髷を結う必要があるのか。己の肉体一つでぶつかり合う神事――だがそれならば、必要最低限の衣服である「廻し」だけを身に付けていればよいのではないか?
何故力士はあえて自らの髪に手を入れるのか?
――相撲の起源は、「天使」から伝えられた神事シュモーである。だがあくまでも力士は「人間」に過ぎない。シュモーから相撲に名前が変わってもなお、力士達は本来あるべき姿を追い求め続けていた。
七大海は九州場所での親方の死闘を思い返していた。綱の力を得た親方に足りなかったもの――それは「髷」。親方は髷を結っていなかった、だからこそ綱の力を最大限に発揮することができなかったのだ。
親方と力士の違い、力士のみに許された「髷」。
髷を結うために使われる、「元結」と呼ばれる「ひも」。
元結は、力士の「頭上」に存在する「閉じた弦」。
頭上――閉じた弦――「天使の輪」。
髷――元結――「M理論」。
――全てが、繋がった。
「――七大海、あなたは遂に『到達』したのです」
「真実」の天国から、少女の声が響いてきた――。
土星天の内側が、輝いた。
「な、何が起こったというのだ……!」
狼狽するルシフェル。砕ける土星天。
天空に浮かぶ七大海の頭上に、もう一つの閉じた弦――「天使の輪」が浮かんでいた。
「まさか……貴様が、天使の力を――!」
金色の力士の背中から、一対の翼が生えていた。
――力天使「七大海」の覚醒である。
八、天使
イマダ モッケイタリエズ フタバ
双葉山定次
「どうした、後ろががら空きだぞ?」
一瞬のうちに七大海がルシフェルの背後に回っていた。振り返るルシフェル――だがそれと同時に七大海が再び背後に回り込み、ルシフェルの視界から消えた。
「はっ!」
突っ張りの乱打。秒間数千発の突っ張りが、ルシフェルの背中に無数の手形を押し付ける。
「ぐはぁ!」
ルシフェルは弾き飛ばされた。そこはグランドクロスの最前線、木星天の真正面であった。
「だが天国の力は、我が――」
「それはどうかな?」
七大海が柏手を打った。それを合図として、木星天を含めた残りの六次元がルシフェルに向かって集結し始めた。
ルシフェルが、惑星に飲み込まれる。木星天・火星天・金星天・水星天・月天の直撃。
月天がルシフェルに激突し消滅した際に、一つの光がルシフェルから飛び出してきた。七大海は翼をはためかせ、光に近付いていく。
――光は、天使だった。「横綱ウリエル」。
七大海の体内に、ウリエルの力が注ぎ込まれていく。
――七大海は、横綱の力を取り戻した。そしてこの瞬間、主天使「八大改」へと四股名が変化した。
八大改は周囲を見渡した。太陽天が、孤独に浮かんでいる。
ルシフェルは、さらなる高次元へと逃れたのだ。
ルシフェルは深手を負っていた。第八天「恒星天」に逃げ込み、傷を癒やそうとしていた。
第八天以降は、天国の中でもさらに限られた者にしか訪れることができない次元。いかに次元の力を手に入れようとも、人間が恒星天に到達することなど不可能である。
――そのはずだった。だが宇宙を覆う黄道十二宮の外側に、十三番目の輝きが満ちていた。
「あの輝きは……何!?」
それは横綱、八大改であった。
古来より大相撲の勝敗は「星」で表現される。それは原初の時代、シュモーを伝えた天使たちが星のように輝いていたことが由来である。
今まさに八大改は「星」であった。八大改の輝きは、あらゆる恒星を凌駕していた。
「ルシフェルよ、平幕が相撲の頂点たる横綱を倒すことを何と言うか知っているか?」
「貴様……何を言いたい?」
「『金星』だ。そしてその名の由来は、本来ならばお前が一番よく知っておかねばならないことだ」
「ま、まさか……そんなことまで伝承として人間に伝わっていたのか……!」
「そうだ。先程お前自身が説明した――かつて『明けの明星』であったお前を、天使ミカエルが地獄に封印した故事に由来するのだ!」
その瞬間、おとめ座のスピカ、さそり座のアンタレスの輝きが増した。太陽を上回る巨星。スピカとアンタレスの生命エネルギーが、八大改一点に注がれる。
スピカとアンタレスの命が尽き、最後の輝きが解き放たれる――「超新星爆発」。
「馬鹿な! 貴様は、星の一生を操れるとでもいうのか!」
「それだけではない」
二つの超新星の向きが、変わった。直後、ルシフェルは悲鳴を上げた。
「何だ、この力は……体が、我の体が……!」
「ガンマ線バースト」がルシフェルの体を容赦なく貫き、肉体を構成する物質の分解が加速した。その瞬間にルシフェルから光が飛び出し、八大改に導かれた。
――光は、天使だった。「縦綱ラファエル」。
八大改の体内に、ラファエルの力が注ぎ込まれていく。
――八大改は、縦綱の力を取り戻した。そしてこの瞬間、座天使「九大解」へと四股名が変化した。
だがルシフェルは、既に次元の先へと逃げおおせていた。
眼前に広がる輝きは、もはや星ではなかった。光の一粒一粒が「銀河」であり、幾多の銀河が集まる「グレート・ウォール」、逆に銀河の数が極端に現象する「ヴォイド」が規則的に組み合わさることによって、「宇宙の大規模構造」が形成されていた。
第九天「原動天」は、人類が知る宇宙そのものであった。
だがルシフェルの姿が、どこにも見えない。眼前に映るのは、グレート・ウォールの輝きのみ。
「!」
九大解に衝撃が走った。激痛である。九大解の肉体に、はっきりとルシフェルの手形が残されている。
ルシフェルは、見えない場所から攻撃している。
だが高次元を行き交う九大解にも、ルシフェルの姿は確認できなかった。現在の二人は十次元時空の第十天ではなく、あくまでも九次元時空であるこの原動天に留まっているはずだ。つまり、九大解は高次元からルシフェルの攻撃を受けているわけではない。ルシフェルは、原動天から九大解に攻撃を仕掛けている。
「察しがいいな、九大解」
ルシフェルの声だけが原動天に響く。
「この原動天は私の世界だ。貴様如きが我の姿を見出すことなど、できるはずもないわ!」
九大解の全身にルシフェルの手形が刻まれる。九大解は進むことも引くこともできず、ただルシフェルの猛攻に耐えるしかなかった。
だが九大解は冷静だった。ルシフェルの見えざる攻撃が、ほんの一瞬だけ「見える」ことに気付いたのだ。
それはルシフェルの掌が、九大解の肉体に接触する瞬間。
九大解は一つの結論を導いた。ルシフェルは原動天において自身の姿を消すことができるが、姿を消した状態では他のものに干渉できない、ということに。
九大解はルシフェルの掌が自身の肉体に触れた一瞬を見逃さず、その掌を振り払った。そして翼を広げ瞬時に数光年の距離を後退した。
これで一旦ルシフェルの猛攻から脱出したことになる。だが九大解にダメージが蓄積していた。もう一度ルシフェルの見えざる猛攻を食らえば、後は無い。
九大解は意識を集中させた。眼前に映るは、グレート・ウォールの輝き――だけではない。
――歪み。光が、歪んでいる。
「見切った」
ルシフェルの初手。九大解の肉体に触れる刹那、「物質」へと変化したルシフェルの掌を、九大解は超光速の突っ張りで押し返した。実体化したルシフェルが猛烈な勢いで弾き飛ばされた。
「何故だ、何故我の居場所が分かったのだ!?」
「『重力レンズ』の効果により、銀河の光が歪んで届いたからだ」
九大解はルシフェルに体勢を整える隙を一切与えず、先程ルシフェルから食らった以上の猛攻をルシフェルに見舞った。
「ルシフェルよ、確かにお前はこの原動天では自らの姿を『ダークマター』に変えることができるようだな。ダークマターは通常の『物質』に干渉しない。そして物質から構成されているこの自分はダークマターを認識することができない」
九大解の乱舞が、全方向からルシフェルを襲撃する。
「だがダークマターは重力により『光』を歪める。その単純な事実に気付きさえすれば、お前如きの緩慢な動きなど見切ったも同然だ!」
最後の一突きが、ルシフェルをヴォイドへと突き飛ばした。それと同時に光がルシフェルから飛び出し、反対方向の九大解の下へと誘われる。
――光は、天使だった。「高綱ガブリエル」。
九大解の体内に、ガブリエルの力が注ぎ込まれていく。
――九大解は、高綱の力を取り戻した。そしてこの瞬間、智天使「十大戒」へと四股名が変化した。
だが十大戒は、原動天でルシフェルを仕留めることができなかった。
決戦の地は、次元の果てに持ち込まれた。
一切の「有」を表現した、白い「無」であった。
――天国の最果て。第十天「至高天」。
至高天に降り立った十大戒は、これまでの次元と何かが違うことに気付いた。
――次元の力が、働かない。
「気が付いたか、十大戒よ!」
光の先から、ルシフェルが姿を現した。傷を負っているが、それは九つの次元を駆け抜けてきた十大戒も同様であった。
「ここは次元の果て、至高天。ここは時空を超越した、唯一絶対なる空間だ。
……貴様は時間の最小単位というものを知っているか? それは決して『0』ではないのだ。世界創世の時を0と定めたとしても、時間の最小単位である『プランク時間』よりさらに短い時間は、人間には認識できないのだ。
――そう、『人間』にはなぁ!」
ルシフェルが翼を広げた。大阪に降り立ったあの時に見せた、烈風。
「至高天は、世界創世とプランク時間の狭間の世界。あらゆる次元が意味を成さず、ただ『天使』のみが存在を許される究極の世界なのだ!」
突如、十大戒に衝撃が走った。ルシフェルの右腕が、懐に入ったのだ。十大戒は計測不能の距離まで吹き飛ばされた。至高天では、ありとあらゆる単位系が意味を成さない。
Dブレーンの果てでは、十大戒は高次元からの攻撃は不可能だった。立ち会いの条件は、両国での闘いと同じ――「神の国」での闘いが、再び幕を開けた。
十大戒とルシフェルの猛襲。両者の腕が千にも万にも分裂して見える。突っ張りの一発一発で両者の皮膚が裂け、血が流れ出す。二人の天使は人間を超えた治癒能力を有するものの、もはやそれを上回るほどのダメージが両者に蓄積されていた。いずれ、どちらかが必ず膝を屈する。
だが次元の力を封じられた今、体躯に勝るルシフェルが圧倒的に優位であった。高綱の力を手に入れたとはいえ、時綱の力を有するルシフェルに十大戒が勝てる見込みは、万に一つも存在しなかった。
十大戒の翼から、羽が抜け落ちていく。
「そこまでか、貴様の力はそこまでか! ふははは! やはり時綱の力は高綱如きとは比較にならぬわ!
消えろ、消え失せろ! そして今度こそ、我が『神』を超えるのだ!!」
十大戒の視界が、徐々にぼやけてきた。もはや今の十大戒はルシフェルの猛攻に耐えているだけの、ただの木偶の坊に過ぎなかった。
……「木偶の坊」?
薄れゆく意識の中、十大戒は先程の言葉を思い返していた。「木偶」とは、「木彫りの人形」を意味する。
――相撲界に伝わる、故事がある。
昔、闘鶏飼いの名人がいた。名人は王から依頼され、闘鶏の育成を賜った。
王は十日毎に名人に育成の進捗を尋ねる。だが名人は「まだ駄目です」と言い、闘鶏の育成を継続した。
そして四十日が経過した時、名人は王にこう告げた。
「この鶏はいかなる敵にも無心です。徳が充実し、まさに天下無敵です」
「――木鶏」
十大戒がそう呟いた瞬間、肉体が輝き出した。光の衝撃により、ルシフェルは遙か後方に吹き飛ばされた。
――M理論は、髷と元結だけではなかった。力士の目指すべき究極の境地たる「木彫りの鶏」、すなわち「木鶏」こそが、M理論を完成させるための最後の鍵であったのだ。
M理論は、超弦理論の先にある理論。
――十次元の先、「十一次元」の力。
十大戒は次元の果てである至高天の先の、新たなるDブレーンに進んだ。
「何故だ? 至高天こそ次元の終着点、これ以上の高次元は存在しないはず……!」
ルシフェルは十大戒に突撃した――が、高次元に移った十大戒に触れることすらできない。
「…………」
十大戒は木鶏の極地に到達した。無心の、天下無敵の力士――。
十大戒は「土俵入り」の構えを取った。腰を落とし、両腕を張り出す「不知火型」。
だが十大戒は、別の構えも取った。腰を落とし、右腕を張り出し、左腕は脇腹に当てる「雲龍型」。
たった一つの存在であるはずの十大戒が、「同時に」二つの土俵入りを披露する。
掲げた腕は、不知火型の両腕と雲竜型の右腕の「三本」。
そして綱の背中に結ばれている輪は、不知火型の二つの輪と雲竜型の一つの輪を合わせた「三つ」。
「馬鹿な……もしかしてこれは……『量子重ね合わせ』の効果なのか! 本来ならば一人では実践できないはずの二つの土俵入りを同時に行う……これは、まさか――」
「――『三位一体』の構えなり」
十大戒が十一次元からルシフェルに攻撃を仕掛ける。これまでの超光速の攻撃とは違い、量子重ね合わせを利用した「確率的存在」として、十大戒はルシフェルに超光速の同時攻撃を仕掛ける。十大戒の位置は「観測」によって一つに「収束」するはずだが、ルシフェルに十大戒を観測することは不可能であった。
ルシフェルから、最後の光が飛び出してきた。光は十大戒を「観測」し、一つに「収束」した十大戒に吸収される。
――光は、天使だった。「時綱ミカエル」。
十大戒の体内に、ミカエルの力が注ぎ込まれていく。
――十大戒は、時綱の力を取り戻した。そしてこの瞬間、熾天使「十一大界」へと四股名が変化した。
「――中々やるじゃねぇか。流石お前は俺の『最高』の弟子なだけはあるな」
至高天の「向こう側」から、親方の声が響いてきた――。
十一大界の背中に、三対の深紅の翼が生えた。十一大界は空高く飛び上がり、至高天から脱出した。
「貴様、人間の分際で至高天の先に到達するとは……!」
至高天を超えた高みから、十一大界は柏手を打った。
そして両手を離した時、二つの掌の間から「黒」が生成された。
「まさか……おのれ、至高天ごと我を封印するつもりか!」
黒い存在は徐々にその大きさを増していく――「ブラックホール」。
「お前の創世した天国は偽りのものだ、ルシフェル」
既にブラックホールは、かつて十一大界が稽古に励んでいた「地球」ほどの大きさに成長していた。
ルシフェルが、至高天もろともブラックホールに吸い寄せられる。
「……ただでは死なぬぞ!」
至高天から追放されたルシフェルが、十一大界の廻しを掴んだ。
「貴様一人を残してはおれぬ! 貴様もブラックホールに道連れだ!!」
「哀れなり、ルシフェルよ」
十一大界がルシフェルを諭す。
「大相撲の星取表において敗北を意味する『黒星』の由来を、かつて天使であったお前が知らぬはずがなかろう」
ルシフェルの顔が青ざめた。
「黒星とはすなわち、『ブラックホール』のことだ。そして勝利を意味する『白星』の由来は……もはや何も言うまい――」
十一大界はルシフェルの脇の下に両腕を差した。そして「掬う」ように抱え、ブラックホールの中にルシフェルを投げ入れた。
――決まり手は、「救い投げ」。
十一大界の肉体もブラックホールに吸い込まれつつあった。だが十一大界は再び柏手を打った。二つの掌の間から、今度は「白」が生成された。
――「ホワイトホール」。圧倒的な重力を誇るブラックホールと、圧倒的な斥力を誇るホワイトホール。二つの力は相殺され、二つの「星」が消えた。
九、創世
神は言われた。「光あれ。」すると光があった。
『旧約聖書』創世記 1.3
ルシフェル亡き今、天国には十一大界ただ一人が残されたかに見えた。
だが、十一大界はさらなる使命を抱えていた。
――「タキオン」。時間を遡る力を有するとされる超光速の粒子。超弦理論にも見出されるもののあくまでも理論上登場するというだけで、弦という極小の世界ではタキオンは即座に消滅する運命にあるはずだった。
だが時綱十一大界の締めている綱は、弦を極大化したものである。本来ならば理論上の存在に過ぎないタキオンが、人間が扱える領域にまで拡張された。
十一大界の周囲に、「タキオン場」が形成される。十一大界は三対の翼を広げ、タキオンの流れに乗って「過去」へと遡った。
過去に遡った十一大界は、歴史を「あるべき姿」に修正した。
一月。両国から両国万魔殿が消え去り、初場所の両国国技館には連日満員御礼の札が掲げられていた。
十一月。九州は沈没せず、また福岡に核攻撃が実施されることもなく、福岡国際センターは九州場所の熱気に包まれていた。
七月。本州は一つに戻っていた。愛知県体育館で繰り広げられる名古屋場所を、名古屋城の金の鯱が静かに見守っていた。
三月。ハルマゲドンは回避された。大阪府立体育会館では横綱「七大海」が前人未踏の七十連勝を達成し、この年の大阪場所は後に伝説として語り継がれることとなった。
――だが十一大界の目に映る七大海は、自分ではあるが決して「自分」ではなかった。
歴史が分岐した今、十一大界は「七大海だった存在」として、「七大海であり続ける存在」をタキオン場から見つめることしかできなかった。
過去を遡る上で時間という概念は意味を成さない。
十一次元の存在となった十一大界は四次元時空の世界に帰還することができないまま、果てしない時の流れを放浪していた。
そして「あるべき天国」へと辿り着いた。
そこはルシフェルが創り上げた偽りの天国ではない、少女が導くはずだった場所。
「あなたを待っていました」
少女は十一大界の手を取った。熾天使という存在になった今でも少女の手は神々しく、十一大界は気恥ずかしさを覚えていた。
「ですが、私はあなたをもうこれ以上導くことができません。私が導けるのは第十天『至高天』まで。その先『第十一天』は、あなたがたった一人で到達すべき場所なのです」
真実の至高天の出口で、少女は十一大界から手を離した。
十一大界の先に存在する、門。
だが十一大界には、どうしても聞かなければならないことがあった。
「最後にお聞きしますが、あなたの名前を教えていただけないでしょうか?」
少女は笑った。
「かつて私はダンテという者を至高天まで導いたことがあります。彼は人間の世界に帰還した後に百歌からなる叙事詩『神曲』を記し、天国の姿を人間の世に伝えたそうです」
エメラルドの瞳が、十一大界を優しく見つめている。
「ダンテという者がかつて愛した女性――ベアトリーチェ。私は彼女と同じ名前をしています」
十一大界は安らぎを感じていた。いつも親方と一緒に相撲部屋を切り盛りしてくれていた――「女将」。十一大界はベアトリーチェから、女将の優しさを感じ取っていた。
「十一大界よ、お行きなさい。もうここは『あなたの世界』ではないのですから――」
十一大界はベアトリーチェとの別れを惜しんだ。だが、決して後ろを振り返ることはなかった。
十一大界は至高天の先「第十一天」へと続く門を、潜った。
目の前には、一面の「無」が広がっていた。
その時、十一大界の綱がほどけた。極大化していた弦が、本来あるべき極小の大きさへと縮小していく。
それと同時に、十一大界の肉体も分解された。十一次元の力を帯びた十一大界の肉体が、新たなる万物の基として再構築されていく。
第十一天は、十一大界そのものであった。そしてプランク時間が経過し、十一大界だった存在が急速に巨大化していく――「インフレーション」。
やがて十一大界は「ビッグバン」を引き起こした。新たなる光が、新たなる宇宙を創世した。
文字数:39210
●参考文献
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ポニーキャニオン『激闘!大相撲~記憶に残る名力士列伝~ 技巧派編』ポニーキャニオン,2012年.(DVD)
ポニーキャニオン『激闘!大相撲~記憶に残る名力士列伝~ 個性派編』ポニーキャニオン,2012年.(DVD)
ポニーキャニオン『昭和の大横綱 大鵬 名勝負50選』ポニーキャニオン,2013年.(DVD)
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NHKエンタープライズ『NHKスペシャル 横綱 千代の富士 前人未到1045勝の記録』NHK DVD,2010年.(DVD)
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「相撲は古代イスラエルの神事だった!?」『新説!?日本ミステリー』テレビ東京,2009年1月20日放送.(テレビ番組)
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ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』(講談社学術文庫 2242)原基晶訳,講談社,2014年.
ダンテ・アリギエリ『神曲 煉獄篇』(講談社学術文庫 2243)原基晶訳,講談社,2014年.
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大栗博司『大栗先生の超弦理論入門 九次元世界にあった究極の理論』(ブルーバックス B1827)講談社,2013年.
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