うつろね
男宮、琴試み給ふに、驚かしき音出で来。
「この琴は、いかなるものぞ。いかで調いたるぞ」
と問ひ給ふ時に、ありしやうを詳しく奏す。
男宮、大きに驚かせ給ひて、感ぜしめ聞こしめすこと限りなし。琴の師となりて、調ふことを仰せられ、琴をもって、かき鳴らして大曲一つを弾かんとす。
黒々とした髪の豊かに下にこぼるるを、煩わしげに後ろへと流し、わずかにその口開きて言えば、あなや、願わくばこの琴をかの人のもとへとなむ。
弦をかき鳴らすれば、おとどの上の瓦砕けて花のごとく散り落ちたり。
いづくともなく吹き止まぬ嵐が天に満ち、天の下にふり落ちる瓦に、地の下は血に染まりぬ。
風に驚きて閉じし眼を開きしかば、池水は渦を巻きて、吹き荒れる風を含みて膨れつつ、天を貫くがごとく湧きあがりぬ。
地から天へと伸び、鎌首をもたげるかのことぐ揺れる池水の渦は、まごうことなき竜の姿。
かき鳴らし手を止めむとしつれども、いかにして我が意に沿わぬ手を止めんや。
竜の鳴き声にとらわれて、はと気づけば、竜のしぶきをかぶりて、残れるのは我が身のみなりき。
ただ拙き我のみなりき。
◉
大きな、綿のような雪が降っていた。薄暗がり灰色の空から、雲がこぼれてくるかのように、一つ、二つと地面にふり落ちて、地面を白く染めていく。寝殿造りの西殿の片隅の部屋から弦を弾く音が、響き渡り静寂を打ち破る。弾き出された音は、互いに響き合ってこだまする。重なって鳴り響く音は、軽やかで心地よく、奏者を囲んだ人たちの顔を綻ばせた。簀子をひいた渡殿に、粉雪が舞う。雪見のために上げられた御簾から冷ややかな風が几帳を揺らした。琴の響きに合わせるかのように、雪はひらひらと舞い落ちる。渡殿近くに座っている、男の黒袍の衣を白く染めていく。
琴奏者の姿は、部屋の中央に見え、几帳越しに隔てられいた。その束ねられた長い髪の毛が一つ、また一つとほつれる間から、ふっくらとした顔が見え隠れする。赤い唇は、音が激しく震えると微笑みを浮かべているかのようである。外出用の身軽な壺装束のせいだろうか、動きは軽やかに感じられる。右手の親指と人差し指、中指には、真っ白い象牙の爪がはめられていた。その爪で弾き出された音を、左手で素早く弦を押して、音の余韻を変化させて、音を自在に踊らせた。その右手の甲には、花の蕾のような小さな跡が刻まれている。左手の指は、強く張った弦を抑えるために、皮がひどく厚くなって固まっている。短い曲ではあったけれども、雪の降る寒空の下で、聞き手の心を暖かく和ませたのはこの曲のおかげであった。
曲の終わりに几帳のそばに座していた、一人の女性が居住まいを正した。くすんだ黒の唐衣に身を包み、腰のあたりで横にまっすぐに切りそろえられた髪は混じりのない灰色である。優しげに細めた目尻に寄った皺は深く刻まれていた。盛りを過ぎていた姿に、まだ艶のある雰囲気が漂っていた。奏者が、曲の終わりの沈黙に、不安そうに女性へと目を配る。その女性、ミヤコはその閉ざしていた口を開いた。
「即興とはいえいかがでしたでしょうか。奏者シオンを、是非とも御贔屓に」
そう言って、正面に座る聞き手たちに一礼すると、几帳越しに座った琴奏者シオンも一礼をひた。奏者を囲んだ聞き手たちは、口々にその奏者をたたえて拍手をした。
「噂に聞いていましたが、これはまた新しい奏者をお育てになったものですね」
渡殿近くに座っていた男が、もの珍しそうに几帳越しの琴の奏者へと目を向けつつ言った。束ねた髪で、ほつれたのをこっそりと耳にかけて、背中へと流したシオンの姿が垣間見えると、さらに男は、興味深そうに目を細めた。
「雪の深い土地から召し出されたと聞いておりますが、 雪降る季節に弾けたのはとても喜ばしいことです。吹き込んだ粉雪が、親しげに感じられたのはいつぶりでしょう。心なしか、吹き込んだ粉雪が舞い散る花びらのようにも感じられました」
シオンから見て、ちょうど真向かいに座った、華やかな桜襲で、ゆったりとした生地の直衣姿の男が言った。その萎えた着物からは、嗅いだことのない洗練された薫物の香りがほのかに感じられた。
その寛いだ雰囲気と親しげな口調に、演奏後の緊張がほぐれたのであろうか、シオンは俯いた顔を、几帳越しにおぼろげに見える男の姿に向けた。
「それは、それは、よく雪の降るところでした。雪の降るころは特に故郷への思いが強くなります」
男は、シオンから臆すことなく言葉を返されて驚いた。周囲の男たちもしんと黙り込む。ミヤコは、その顔の笑みを崩さないまま、ちらりとシオンに目配せをした。この場所で唯一あでやかな衣に身を包んだ男は、この中で最も高貴な存在、宮、つまり親王であることを示していた。しかし、シオンには、ミヤコの視線の意味がよくわからないでいた。ものの振る舞いに慣れていないシオンの様子に、男宮は興味深そう几帳越しの姿を凝視した。
「あなたさまは、召し上げられて何年におなりですか」
「物心つくころには、こちらに参りましたので、十年でございます」
「そんなに長いころから、こちらにいらしていただけたとは。楽寮の中でも有名な奏者とも引けを取らないわけです。是非その音色を春の催しでも披露していただきたいものですね。」
男宮は、そう言って、周りに侍るものたちにも視線を配った。にこやかに笑う顔は、先ほどと変わらないけれど、改めてシオンを見つめる目線は、どこかいたづらな様子でさえある。
「それは嬉しいお言葉です。楽寮に召し上げれて初めて春の催しに参加できるとは」
ミヤコは、目尻のしわを深くしながら、薄い唇を綻ばせた。その視線は、几帳の向こうへと姿を隠すシオンの姿に興味を引いている男宮にだけ向かっている。
「そう言えば、久しく一時期名をはした、あの奏者の音色も聞いていませんが」
「これはその奏者の希望でございまして、古き音色という評をいただいてから、さらに一層修練に励んでおります」
「いつぞや聞いたあの音色とこの度聞かせていただいた新しき音色とぜひ聴き比べてみたいものです。今度の雪見の席にでも」
男宮の周りに、数人の聞き手たちが集まりだす。琴の演奏に目がない男宮は、しばしば楽寮の楽人を使役しては、このような催しを開くのであった。
シオンは、男宮たちが各々話を始めてから、緊張がほどけて所在なさげにしていた。ふと、もの慣れた様子で殿上人たちと会話を重ねる、ミヤコの様子が目に入る。男たちからの目線を遮るために広げられた扇は、嫌な感じのしない持ち方である。その隠されたミヤコの額から、すうと白い二本の線のようなものが伸びているのが見えた。一寸ほどの幅の、小さな角のようなもので、几帳の揺れに目を瞬いた時、その角のようなものは消え去ってしまっていた。
妙なものを見たが、不思議なことに、あやかしか怨霊かとシオンは怯えることはなかった。そう、どこかであの角を見たことがある。確か、雪の時だった。シオンは、快活に笑うミヤコの額を睨み続けた。
◉
いとけなきころの思い出ることに、一つの角のことありけり。雪のいとやう降りしかば、いつにか止むともしれぬ月日の中ごろ、兄君と共に雪山を作りぬ。女君とて止めむとすけれども、我いざ知らず。ただ兄君と共に遊ぶのみとひたすらに雪をあつめて、山を築きぬ。冷やかかな風に舞い散りし雪の、いと柔らかなるを赤い指にて掴んでは積みぬ。山を築きしうちに、兄君の姿見えなくなりぬれば、あやしみて見回せば、大きく築きし雪山のいただきに立てり。我もと、雪山に登らんとしつれども登れず。兄君、女の身にて登るのは難しき、止めよと。その雪山の上に立つ兄君のぬかに、いと小さき角が出来にたり。雪山を降りて、我が手をつかめば、いと赤くなりて琴の音を弾けなくならむ、慈しめとなむ。
◉
楽寮の庭園の南側の池は凍って、うっすらとその表面を白くさせていた。幼い童女たちが楽しげに庭園一面に広がる雪をかき集めて、小さな山をこしらえて遊んでいる。
「そんな池の近くまでいってはいけませんよ、危ないわ」
シオンが、童女たちに注意をした。外出用の袖をすぼめた袖で、意気揚々と山を大きくしようと童女たちを取り仕切っている。長い髪を壺装束の中にしまって、膝下からのぞいたの小袖が雪で濡れてしまうのも気にしていない様子であった。
「立派な雪山が出来そうね」
血色のいい肌に、白い息がかかって消えた。まとめた髪が、動くたびに緩くなって顔にかかると、煩わしそうに耳にかけた。大きな瞳を輝かせて遊ぶ様子は、童女たちよりも楽しげでさえある。シオンは、自分を見つめる視線に気づいた。小さな雪山越しに、西殿の渡殿に目をやる。そこに、一人の女性、スズシが渡殿を通ってこちらへと向かってきた。
「どうかしら、立派でしょう?」
雪山を築くのに、眉間に皺をよせていたシオンの顔がぱっと綻んだ。しきりに雪山に登ろうとしていた童女たちに厳しく注意をして雪山から離れて、渡殿まで雪に足を取られつつも歩いていく。雪山を守るシオンはいなくなり、童女たちは我先にと山に手をかけ出した。
「外から戻ってそのまま雪山を作っているの? 落ち着きのない人ね」
シオンを見下ろすその姿は、雪のように白い肌を、薄青色の衣からのぞかせていた。渡殿に流れ落ちている髪は、闇のように黒々としている。ふっと細い赤い唇が、斜めに伸びる。細筆で素早く描いたような切れ長の瞳がやさしげにシオンの姿をなぞった。
「ええ、ちょうど外に出て気晴らしに。みんな雪山をこさえられないのよ。こういうときこそ私の出番ね」
大雪が降る国で生まれたシオンは、しばしば故郷で雪山を作っては兄弟と遊んだことを自慢していたのだった。興奮した様子で雪山を作り上げる幼いシオンの様子がスズシには容易に想像できた。
「今日もずっと籠もって、練習していたの?」
「ええ、でももういいわ、少し疲れてしまったから」
そう言って、スズシは、右手の甲の白い肌が固まって、その白さが際立っている点のような跡を左手で撫でた。シオンと同じ、花の蕾がいくつも甲に生まれていた。
シオンは、スズシの様子をじっとみていた。
「なにかあったの?」
スズシは心配そうに声をかけた。
「いえ、何でもないのわ。そういえばスズシ、ミヤコが探していたわよ。私宴のことですって」
シオンは、素早く渡殿の欄干に手を伸ばす。器用に足を引っかけて、素早く欄干に腰を下ろした。そのシオンの身軽な動きにスズシは驚いて後ずさった。
「またそうやって、はしたないことをして…」
シオンの言葉に耳を疑った様子で、眉をひそめて、視線を正殿の方へと動かした。
「私宴で? 春の宴の準備だってまだできてもいないのに…」
「一緒に初めて弾けるのよ。絶対出てくださるでしょう?」
朗らかに笑って、袖についた粉を振ったような雪の粒を払った。
スズシは、楽寮の主人であるミヤコの自室へと足を進めた。寝殿造りの楽寮の、正殿にミヤコの自室はあった。
「ちょうど、頼まれてね。久しくお前の音をきいてないとおっしゃっていてさ」
ミヤコはそういうと、チョンチョンとかごに籠められた時鳥が鳴き、細い長い指でかごをつついた。
「どこかの誰かが、年増の女には務まらないといったらその勤めを取り下げてしまって、どこかの誰かが聞きたいといえばすぐ表にだそうとする」
スズシは、けだるそうに脇息に肘をたてて、直接相手を見るつもりもないのか、ぼんやりと時鳥の声に耳を傾けていた。
「こちらも、聞き手があっての仕事だよ。評判がよければだすし、わるればそのままさ。覚えめでたいお前のことなら大丈夫と思っていたよ。年を気にすることもない。現に私はもう年だけど、こうやってまだやっているんだからね」
ミヤコは、顔がひしゃげるのも気にせずに軽快に笑う。その皺の様子も、どこか愛嬌を感じさせる。
「私は、あなたのようにはなれません。そしてなるつもりもありません。ただこのまま弾いていられる、それだけでよいのです」
スズシはそういって、立ち上がろうとしたが、ミヤコが、素早く衣を掴んだ。老齢とはいえ、その強い力に体を驚かせて、力なくスズシは座り直した。目を細めて笑っていつつもその顔が笑みの表情ではないことは、スズシにはよくわかっていた。何も言わずに肩から滑り落ちた唐衣を元に戻す。
「お前は、そのような器ではないさ。ただもっとしたたかに生きるすべを知らないだけさ」
そう言って、ミヤコは、スズシの右手の甲にある、ぷくりと膨らんだ白い蕾を優しく右手で撫でた。そのミヤコの手の甲にも、色はくすんで硬くなった塊のようなものがある。
それは、琴の習いの時に、できた跡であった。スズシとシオンは、ミヤコによって。ミヤコもまた師によってつけられた。右手の、琴の糸を弾くために指につけた爪によって、弟子の甲の皮膚を摘むのだ。今でもスズシには目に浮かんだ。白い肌にぽつりと出た赤い血の粒が。
几帳をあげて出て行こうとする後ろ姿に向かって、ミヤコは素早く声をかけた。
「でも、宴には出るだろう? 向こう様にはすでにいっておいたよ」
その声に一瞬スズシは止まったが、すぐさま御簾の向こうへと去っていった。
すでに日はかげり、灯篭に明かりがともされていた。ぼんやりと明かりを返す庭に、何人もの小さな足跡が雪山に残っていた。その周りにすこし大きな足跡を見て取ったスズシは緊張に張り詰めた顔を緩めた。
西殿の奥のちょっとシオンの自室から、琴の音が響いてくる。闇の澄んだ空気が火照った体を冷まして、冴えた耳にはっきりと聞こえてきた。音と音とが、弾き合ってやむことなく、空気をゆらし続けていた。揺れた風に、庭の木々に積もった雪がこぼれ落ち、細やかな粒となって雪山に降り落ちる。雪のしんしんとした寒さに冷えた風が、衣をやさしくなでる。スズシは、シオンの音色の華やかさに体があつくなっていくのを感じた。だからそう、こんな耐えがたい寒ささえも心地よく感じるのだ。簀子にかすれた衣の音を立てぬよう、ゆっくりゆっくりスズシは歩いた。シオンの音だけを耳にするために。
◉
琴の音の名は流れて聞こえければ、都からの使者が訪れぬ。使者、琴を弾くことをこひ給ひぬれば、琴を弾くべしと、てて君のたまひき。御簾から漏れ出る光にあたりて、てて君の額に太く鋭き角見えたり。その角、日に照らされて、雪の光りを受ければ、いと白々と見えたりき。臆して震える手は自ずと琴の弦に伸びて、ただ弦の音に耳を澄ましき。我が手が我が手とも覚えず、ただ感じるままに弾きぬれば、てて君、喜びたることかぎりなし。
◉
私宴の夕暮れに、西日の傾いた光が、几帳越しにスズシの手元へと差し込む。琴糸が、その光を受けてわずかにきらめく。右手の親指の爪で弾かれ、震えた糸が光を瞬かせた。音は空に解き放たれて反響する。前面に広がる庭園には、降り積もった雪で様々な意匠を凝らしていた。大小の雪山が、池を背景にして造られ、その山の稜線に合わせて雪が滑らかに整えられている。雪山からその白さが庭園いっぱいに広がっているかのような光景である。その西日の光を受けて、雪山の影が深く刻み込まれていく。
冷え込んだ風が、灯籠の火を揺らした。火の具合を心配そうに、控えた女房たちが目配せをする。底面に面した広い大間で晩酌をしてきた客人たちの手は止まっていて、スズシによって導き出された音の連なりに耳を澄ましていた。衣が擦れ合うのさえ煩わしく感じられ、動かざるを得ない者は、その身を固くさせた。日は陰り、しんしんと冷え込んでいく空気を、スズシの音色はさらに冷え込ませた。西日を受けた雪山が溶けはじめ、その水が雪に滴り染み込んで、その下方に広がる雪を溶かしていく音までも聴こえてくる。聞き手は、息をすることさえも忘れて、音に没入する者は、その手に持った杯から酒が衣へと染み込んでいることにも気づかない。
同じ几帳のなかで、スズシの後ろにて控えるシオンは、その姿を目に焼き付けていた。うつむいて無心に弾き続けるスズシの背中に流れる黒髪の間から、青白い首筋が見え隠れする。几帳に西日がさすなか悠然と琴を演奏しているスズシの様子は、ぼんやりと光る几帳に包まれているかのようである。シオンの瞳は、スズシの細く鋭い目尻から薄く伸びる細い線を捉えた。美しい陶器の表面に薄い傷を見つけてしまったような心持ちで、シオンはそっと目を逸らした。その姿は、日のわずかな傾きの一瞬の出来事で、日が屋敷の後ろへと入っていくと、明瞭さを失っていった。曲の流れも終わりへと近づき、最後の音の粒が消えたとき、聞き手は自分の体の冷えを感じとった。
客人たちが、談笑を始め、女房たちが遠慮無く動き始めた。あたりはすでに暗く、灯籠の明かりが温かく部屋に満ちていた。
誰にともなく、スズシは軽く一礼をすると、シオンの隣に座った。激しく弾いたせいだろうか、頬は薄い桜色に染まっていた。
シオンはスズシが弾いていた琴が退けられ、自分の琴が置かれたのに合わせて、衣が崩れないように静かに前に進んだ。略式の服装に慣れたシオンには、何枚にも重ねた正装、特に後ろにつけた裳の取り扱いに苦労していたのだった。息を吐いて、弾き慣れた琴の竜角に手を置いた。数人の招かれた場で引くことはあっても、大勢の客人の前で弾くことが滅多にないシオンにとって、今夜の宴の演奏はひどく緊張するものだった。
冷たい風が頬を撫でた。その冷たい風に、どこか安心したシオンは、弦に手を伸ばす。十三本の弦を爪で、十三弦から一弦までなめらかに掻き撫でた。弦の震えをそのままに、左手で一弦と三弦をつまみあげ、響きわたる音を共鳴させていく。多彩な音の連なりは、客人たちの談笑を盛り上げた。先ほどのスズシの演奏とは打って変わって、音を刻み、飛んでは跳ねてを繰り返し、冷えこんだ風の装いを温かいものへと変化させていく。シオンの音と通じているかのように、降り止んでいたはずの雪が、細かな粉となって降り落ちる。灯籠から漏れる光が、粉雪によってちらちらと揺らめく。一音、また一音と重複して鳴り響く音になびくかのように、雪はひらひらと曲線を描いて、客人たちの様々な意匠を凝らした衣に降りかかる。客人たちはその光景に感嘆し合い、白い粉がその持つ杯に触れては消えてゆく光景を楽しみあった。厚い雲に隠れ姿を見せていなかった月が、わずかな雲の隙間から、そのぼんやりとした柔らかな光を現した。寒々しい夜の静かな宴が、軽やかな話し声と笑い声のある宴へと変わっていった。
シオンは、風の冷たさ、振り落ちる雪と月の光、客人たちの談笑も、すべてを慈しむように、演奏によって上気したその頬を綻ばせた。曲の終わりに最後に十三の弦を爪で掻き乱す。澄んだ高音が激しく鳴り響くと、勢いよく風は舞い上がって、粉雪を巻き上げた。
客人たちの歓声が上がると、着崩れた衣を整えて、シオンはゆっくりと後ろに下がり、深く礼をした。興の上がった宴では、客人たちはさらに各々が私的に習う管弦を演奏し始め、宴は夜深くまで開かれた。
◉
人足の運ぶ籠にて運ばれつる間、揺れる籠の隙間から見える景色、音、匂いは都につきしころには、すべて変わりたり。深く雪の積もりける山ははるか遠く、雲の向こうにかすかに見えるばかりなり。今まさに我が目に見えるは、ふるさとに住まひたるものよりもはるかにひろき邸宅なり。人足がその足を止めて、我を下ろせば、足早に邸宅の中へと消えにたり。邸宅の主といふ女人が、人足とともに出来れば、我の手を引きて招きたり。艶やかな髪が肩にかかりて、背にて束ねられり。いと白き肌はなめらかにて、まさに何人も触れぬ雪のごとし。身を包みしその袿のいと鮮やかなる色彩は、ふるさとの人々にも未だ見えぬ色なり。大振りの渡殿から、見渡したひろき庭の、薄く積もりたる雪に驚きつつも、降ろされし御簾を上げて、ひろき一間に入れば、主、ここが我が部屋なりいかにせんとも構わずとのたまひき。その声を聞きつけるにや、隔たれし几帳から、よろしからばといと小さき声したり。主、いかにと申せば、几帳からいと白き肌の若き女人出来きにたり。雪のように白しその肌の、滑らかなるを見しことはなし。天女のごとく覚えし女人とくらぶるまでもなし。水の流るるがごとく広がりたる黒き髪艶やかに、几帳の布を肩にかけたまま、いとよしなにと大きな瞳で、我に微笑みたり。女人が、名を告げし。我も聞かぬ名なりしかば、女人に問へば、汝の都の名とすべしとなむ。我、その日からしおんと名乗りき。
◉
私宴からの評判は上々で、シオンは名を挙げ、スズシはその才能の健在ぶりを示した。話題の奏者を育てたとして、ミヤコもさらに朝廷の覚えめでたく、男宮に請われては、個人的に琴を教えることもあった。
シオンが気もそぞろに、琴を西殿の池を見渡すために設けられた渡殿の釣殿で弾いていた時のこと、ミヤコは男宮の元から帰ってきたのであろうか、裳をつけた衣装そのままに、正殿からシオンに向かって手を振った。
ふと手を降るミヤコに気付いて、顔をあげたシオンの目に、飛び込んできたのは、老年に差し掛かってから見ることの少なくなった、嬉しげな表情を浮かべたミヤコであった。が、シオンは何度も瞬きを繰り返した。高く上がった日の光を受けて、ミヤコの姿ははっきりとよく目に見えた。黒衣に身を包み、質素な小袿に鈍くくすんだ朱色の裳をつけている。切り揃えられらた灰色の髪は、さっぱりとしていて心地よく感じられる。行き届いたその謙虚さとほどよく整えられた清げさに、好感を感じる御人もいることをシオンは理解できる年頃になっていた。故に、日頃施すこともあまりにない顔に塗った白粉に始めは違和感を感じたのかも知れぬと自分の目を疑ったが、見間違いではなかった。
ミヤコの額に伸びる、透明な角。その輪郭は、おぼろげながらも、確かにミヤコの額から、根本は太くたくましく、先端に向かって鋭利に伸びていた。ミヤコの頭が動くたびに、その角の姿は見えにくくなったが、日の光を反射してきらりと輝いた。シオンは目を瞬かせた。
あの妙なものを今度ははっきりと目に捉えたのである。
「外で弾くのもまた一興だね、何をさらっていだんだい?」
普段着の黒装に着替えたミヤコが、シオンの元へとやって来た。先ほどの上機嫌な様子は落ち着いた様子であったが、それでも機嫌がいいのは声の調子でシオンにはよくわかった。
「ミヤコが一番最初に教えてくれた調べよ。春の宴にはこれを披露しようと思っているの」
シオンは、そばに座ったミヤコを見つめる。白粉を落とし、見慣れたミヤコの姿であったが、その額には透明な角が、すうっと伸びていた。近くで見る角は、池の水の表面のように澄んでいて、光を受けてよく輝いた。じろじろと見ないように視線をミヤコの瞳に合わせるが、角をまじまじと見つめてみたい誘惑に駆られてしまう。
そんなシオンの様子に、ミヤコは特に気にする素振りを見せない。気もそぞろな様子で、時折思い出したように、口角を上げて微笑んだ。
「春の宴にね…。そういえば宮様と話していてお前の音色を楽しみにしていらっしゃるそうだよ。精進しなさい」
ミヤコはそういうと、シオンの豊かな髪を優しく撫でた。池の方へと視線を泳がしていたシオンは、そのミヤコの手を懐かしく感じた。楽寮に召し上げられたばかりの頃は、こうやってとりとめのないことをよく話して、ミヤコが髪を梳かすのであった。あの頃からミヤコはだいぶ年老いて、艶のあった手は今ではしわが目立つようになった。それでも細く長い指は柔らかくしなり、琴を弾く際にはその指の流麗さは弟子のなかでも劣ってはいなかった。
ひときわ寒い頃のこと、ミヤコは、シオンの琴のうわさを聞きつけて、楽寮から雪の深い土地へ使者を出して、シオンを楽寮へと召し上げたのだった。楽寮にはじめて訪れたときは、ふるさとでは見たこともない鮮やかな衣服と、本物の楽人との出会いに恐れて直視することもままらなかった。けれど、琴を弾けばそんなことを感じる暇はなかった。
シオンは、髪を梳るミヤコの手をおもむろに取り、その手を頬にすり寄せた。ミヤコは不思議そうな目で、シオンを見やる。
「なんだい? 今日は珍しく甘えるじゃないか」
「ううん。何も」
幼いころを思い出したせいだろうか。甘えるように、シオンはミヤコのそばにすり寄って、そのツンとした独特な薫りに顔を埋めた。滑らかな生地の黒衣から顔を仰向けにして、こちらを優しげに見つめる、ミヤコの顔を見た。
兄君と父君の額にしかなかったもの。それが、はっきりとミヤコの額にくっきりと浮かんでいた。
◉
女房たちによって、格子が下され、灯籠の灯火もおぼろげに辺りを灯している。ただ一つの部屋だけ、格子は上げられたままになっていた。御簾は下された一室では、弦を指で弾いた、重い音が鈍く響き渡る。寝静まった夜を慈しむかのように、音が闇に消えるその時までをただ楽しんでは、消え切った時にまたその弦を指で弾いた。
その音に気づいてやって来たのか、衣をかすれる音が遠くの方からしだいに近くなってくる。それでも、弦を弾くことをやめずにいると、断りもせずに御簾をゆっくりと押し上げて、そのまま部屋の中へと入り込んだ。外の風に香りが部屋に広がって、そのものが一体何者なのかすぐに見分けられた。
「まだ起きていたの」
その御簾の方を見もしないで、肩肘をついたまま、スズシはまた左手で、弦を弾く。何も言わずに几帳を上げて、さらに奥へと進んだ甘い香りの持ち主は、後ろからスズシの背中に流れる髪にしなだれかかる。
「ねえ…スズシは、こんなものを見たことはある?」
小さな声で、シオンはささやいた。頬をつけたスズシの髪の毛は夜に冷やされてひんやりと心地よい。まどろんだシオンの瞳には、依然としてミヤコの角の様子が焼き付いていた。ミヤコの額に伸びた鋭利な角を、幼い頃にも父君や兄君にも同じようなものがあって、それを見ていたことをぽつりぽつりと続けた。闇夜のなかで思い出すあの角は、やはりあやかしや怨霊の類なのだろうかという考えが頭に浮かんでくる。まとまりを失いそうになりながらも、シオンはスズシに告げた。話を聞いているのかどうか、シオンにはわからなかったが、適当に弾いていた弦の音が止んでいるのに気づくと、不思議な様子でスズシの顔を肩越しに覗き込んだ。
闇を睨みつけるスズシのその鋭い瞳は、何かに怯えている様子である。シオンはそんなスズシの表情を見たことは一度もなかった。どのような時でも心の乱れを表したことなく、悠然としているのがスズシの姿であった。心配そうにシオンに向かって、気を取り戻したスズシは、引きつったように笑って、静かに語り出した。
「こうやって夜の間弾くのにはわけがあってね。眠れないのさ。いや、眠りにつきたくないというのが正しいかもしれない。私にはどうもシオンのいう角というのが恐ろしくてたまらない」
スズシは、妙な夢を見たという。大きな角に貫かれる夢だ。
雲に隠れつつも漏れる月影のぼうっとした闇夜に、一人渡殿を歩いている。
あたりはしんとして、衣の掠れる音すらも明瞭に聞き取れる。流れる遣水の上に伸びる橋へと足を掛けると、川の水面がぬるりと揺れ動いた気がする。気になって、橋の下を少し覗いてみるけれど、そこには何もない。それでも川の流れは水紋を描いて、普段のような穏やかな流れとは変わって、ゆっくりと滑るように池の方へと流れていく。川の揺れ注意してみると、その下で何かが池へと泳いでいるように見えた。遣水の底を泳いぐ、得体の知れないものに恐れてしまって、歩幅の狭まってしまったのか、池の見渡せる西殿の釣殿まで足をすすめども、すすめども、その距離はなかなか縮まらない。薄らいだ雲の隙間から、ぼんやりとした月影が差し込んだ。この闇夜では、すべてのものの色は明瞭さを失って、朦朧としてくすんでいた。その異様な雰囲気に、後ろを振り向くこともできず、ただ池へと足を進める。あの水紋は、とうとう池へと辿りついたのか、ぽちゃんという音が辺りに響き渡る。高欄に手をかけて、進まぬ足を引きずりつつ、前へと進む。着崩れた衣が、一枚、また一枚と肩からずるりと落ちていく。ついに、下着の袿だけの姿となった時、池の前にたどり着いた。
闇空を映しとったような色の池は、遣水から伝わった水紋を広く遠くまで伸ばしていた。池の表面に二つの煌煌とした光が見える。ゆっくりと空を見上げれば、満月が二つ、その影を天下に振り注いでいた。池の中央から、すうっとまっすぐな鋭利な角が、池の水を滴らせながら水面から浮かびあがる。その角は闇よりも深い黒々しさで、月影を受けてその輪郭をはっきりとさせていた。
その月影の眩しさに、瞳を瞬いた時、水面から伸びた角が体を貫いた。ずぶりと体を刺され、角の表面に手が触れる。さらに角の側面から小さい角が次々と伸びだし、手を腕を、衣ごと貫いた。
「それで…どうなってしまったの?」
目が覚めたのか、はっきりとした声でシオンが問う。
「何もない。突然終わるのさ。事切れたかのように。何度も何度も夢にみるのさ…何かの前触れなのかもしれない」
スズシは、そういうと、今日は共に寝ようと言って、シオンと寄り添いながら眠りついた。疲れたように寝息を立てるスズシの様子であったが、シオンは冴えた瞳で、闇の中、眠るスズシを見つめて、その様子が偽りであることに気づいていた。スズシが眠りについてなどいないことに。シオンはそっと、横に体を丸めているスズシを衣で包み込むように抱いて、瞳を閉じた。
朝、シオンは、目が覚めておき上がると、隣にスズシの姿はなかった。御簾越しに、外をみると、ちょうど渡り廊下の高欄に頬を預けているスズシの姿が見えた。
そばに近寄り、高欄に腰を据えてみると、スズシは渡殿の下を流れる遣水をぼうっと眺めていた。シオンの顔を見上げて、力のない笑みを浮かべた。
「昨日、またあの夢を見たの。どうやっても眠ることができないのよ。眠りかたを忘れてしまったみたい。日が差せば、なんてことのないただの水なのに、どうしても気になってしまうの」
やつれた瞳から細い涙が流れた。シオンはそっと、袖でその涙を拭う。
「気にしすぎてはだめよ。ミヤコに頼んで、祈祷でも…」
そっと肩に触れようとしたシオンの手から、スズシは身をかわす。
「それはだめよ。絶対に」
シオンの前に頼りなげに立ち上がったスズシの顔はいつにもまして青白い。こんなにも不安を隠せないでいるスズシの表情をシオンは見たことがなかった。
「どうして?」
臆してそれしか口にできなかったシオンの戸惑った顔に、スズシは声をかけることもなく、素早く立ち去った。シオンは、スズシの異常な様子に呆然としつつも、衣が擦れる音に耳を傾けていた。重苦しく妻戸の開く音がして、かちゃりと金属がはめ込まれた音があたりに響いた。スズシは、重い扉の妻戸によって閉ざすことのできる塗籠に閉じこもったのだ。それからただ一時の休む間もなく、琴を引き続けた。閉ざされた妻戸は、内側で固く締められて、表側からは開けることはできなかった。
何も食べず、何も飲まずのスズシを気遣い、シオンは妻戸の前に食事を置き続けた。それもむなしく手を付けられることはなく、ただ鳴り響き続ける琴の音だけが、スズシの命が続いていることを知らせていた。
何も言わなければよかったのだろうか。シオンは、自分の琴を弾いてはそのことばかりを考えて、夜寝るときも塗籠の側でスズシの音色に耳を澄ませた。
厚い壁の向こうから、かすかに漏れ聞こえるその繊細な音は、人々が寝静まった夜によく聞くことができた。その音色は、聞き慣れた冷たくも、こちらを癒やすかのような音色とは打って変わり、焦燥に駆られて、ただ一人で琴の音に身を委ねているのような音色であった。音に溺れたものは、もはやそこから這い上がることはできない。いったいこのむなしい音の連なりを誰が聞いてくれようか。
シオンは、スズシがどうしてあの夢にそこまで怯えるのかわからなかった。
目に浮かぶのは、日の光を受けて輝くように見えた、ミヤコの角。
遣水に映る自分の顔を見ても、そこにはあの角は、いっこうに現れなかった。
◉
重く、硬い妻戸は、外と内を明確に分け隔てていた。外の光はほんのわずかに漏れるだけで、部屋の奥は暗い。妻戸の中の塗籠で、ときに眠りにつく者もいるため、そこには簡易的な寝床があった。隅に古くなって使わなくなった琴が置いてある。スズシは、しばらく内側からも硬く錠をした妻戸に寄りかかっていたが、その暗がりに目が慣れると、そろそろと動き出して、壁に立てかけてあった琴の中でも一番状態の良さそうなものを手に取った。誰かが弾いて練習した後なのか、琴柱は外されず、そのままになっていた。
弦を弾くと、部屋の壁に音が跳ね返ってきた。弦の音に集中しているうちに、スズシの心の動揺は落ち着きを取り戻していた。暗がりを見つめていると、どうしてもあの夢が頭に浮かぶような気がしていたが、そんなことはなかった。目の前の琴の胴の中で響いた音が、体に伝わって、心地よく感じられた。
音は整い、曲を奏でると、一心に弾き続けた。
妻戸の隙間から流れ込んできた冷えた風に、日が暮れ夜になったことを知る。
弦の音で溢れた部屋の中で、妻戸の向こうで鳴る音は、また別のもののようにはっきりと区別することができた。
女房たちが、格子を上げる音。渡殿を通っていく際の衣の擦れる音。御簾が風に揺れている音、誰かが琴を弾いて練習している音。庭園で戯れる童女の声。それらの音に耳を澄ましていたわけでないけれど、そのうちにその音が一体誰の音なのか、手に取るようにわかった。妻戸の中に反響した琴の音の中で、外の音は一際その違いを示していた。その者がどう思っているのか、何があったのか、スズシにはその違いがよくわかった。
例えば、シオンの歩く音だ。食事の時間のたびに、渡殿向こうからゆっくりと衣を滑らすように歩いてくる。それは、食事を持ってくるからで、こぼさないように注意深く歩いているからだとわかる。妻戸を叩き、シオンは声をかけるが、スズシは答えないでいると、今度は先ほどよりも早く去っていく。何度も繰り返すうちにその足取りは重くなり、言葉をかける声も弱々しい。夜、シオンの琴の音色が近くで聞こえる。シオンの自室は塗籠からは遠く離れていたから、隣の部屋に移って過ごしているのが予測できた。
シオンの音色が静まったある夜、スズシは妻戸の前で横たわっていた。ぼんやりと闇を見つめていると、渡殿向こうから聴きなれない足音がする。広い歩幅に、闊達に歩く足捌き。女人のみしか入れない楽寮では滅多に聞かない足音である。妻戸がわずかに軋んだ。内側からかけた錠によって開くことはなかったが、スズシは動揺した。
その音の主が一体誰で、何を目的にここにやってきたのか、スズシにはわかってしまったからだ。その足音とは別に、もう一つの足音の存在にスズシは気づいたのだった。ゆったりと悠然に歩き、音を極力までにたてまいとする、その足音。
スズシは、あの角の様子がはっきりと目に浮かんだ。夢か現か分からぬままに、震える手で、琴の竜頭を掻き抱いた。
◉
雪が溶けて春。春の宴の準備に楽寮は、大忙しであった。
スズシは、雪がそろそろ消えかかる、そんなころに塗籠から出てきた。はじめは、その姿に誰もが慄いた。籠りすぎたために、日を浴びることのなかった肌が、透き通るような白さになっていた。瞳はさらに鋭く、どのような音にも聡くなっていた。養生するようにとミヤコから言われたために、春の宴の準備を部屋の隅で見つめるだけであったが、慌ただしいなかであってあれがないこれがないと女房たちが話し出すと、どれそれはそちらにと、ぽつりと言った。けれども、女房たちはスズシが知っているとは思わないから、スズシの言葉に礼をするのみで、言葉通りに探そうともしない。そんな様子をスズシは、童女を呼んで、見つけさせた。他にもスズシが過ごしていた正殿から遠くの西殿で、ミヤコと女房たちが宴の際の室礼について話し、ミヤコが一人正殿に戻ってくると、スズシにその室礼はやめたそうがいいのではとぽつりと言った。
そのようなことが何度もあった。人を寄せつけないような容姿と尋常ならぬ耳の聡さに気味悪さを感じた女房、童女は寄りつかなくなった。
そんな中、シオンだけはスズシの元にやってきてはそのスズシの聞き分けの才能を面白がった。
「妙なものね、籠もっているだけでそんな力が、手に入るなら私も籠もってみようかしら」
雪の降る間、シオンの姿を目に映していなかったせいだろうか、スズシはシオンの容姿もどうか大人びたように感じていた。
「でも、あなたがいない間も、私も励みましたの。きっといい音色を聞かせて差し上げるわ」
自信のあるものいいに、スズシは毎夜聴いたあの音色を思い出した。
「ずっと聞こえていたわ、あなたの音色」
スズシは、鮮血のような赤々しい唇で、小さく微笑んだ。その姿に、シオンは今にも消えてしまいそうに感じた。
梅が咲き、桜が満開になった頃、とうとう春の宴が、宮中で催された。正殿の中央に、春の宴を執り仕切る男宮が、その左側に楽寮の責任者たちが座っている。男の中に一人ミヤコが座っていた。より一層深く染められた黒衣に身を包んでいる。雅楽や唐楽、演舞などが披露されたのち、独奏者の番となった。
正殿前の庭園に設けられた、簀子を引いた演舞台に、シオンとスズシが鎮座していた。正殿から見て右側にシオン、左側にスズシが座り、どちらも普段は着ない唐衣と裳を着ていた。
はじめの演奏は、シオンであった。手前に置かれた琴に手を添え、弦を弾いた。
楽寮に伝わる、桜の調べ。ミヤコから受け渡された、伝統の曲である。それを自らの曲として演奏すること、それをシオンは目標とした。
トロリンと高音から低音へと、軽やかに音を転がして戯れ、その音が弾けた。音と音が弾けあい、爆ぜるかのように、あたりに響く。正殿から向かって左に植わっている、桜の蕾も、弾きあった琴の音色に驚いて、今にも開こうとする。
弾いた弦を、左手で強く押して、さらに震わせる。シオンは、単調であった音の調べから、一気に調子を変えた。十三弦から、一弦まで、均等な音の粒を滑らすように生み出した。流麗な音の響きに、聴人たちも息をのむ。周囲の空気の流れを操っているかのように、風が緩やかになびいた。暖かな風に、桜の蕾は深い眠りから目を覚まして、一斉に咲き乱れた。指で弦を弾けば、風に軽やかに踊る花びらのように音を遊ばせた。
風に桜の花が揺れる音。シオンは、その音に耳を傾けていた。まるで、桜が一緒に演奏してくれているみたい。シオンは、ふっと笑みをこぼした。
ミヤコはきっとこの演奏を褒めてくれるに違いない。楽寮に召し出されてこのかた、ずっと鍛錬してきた曲だ。
シオンの目に、ミヤコの透明な角の姿が見えた。
私も、ミヤコのようになりたい。
シオンは、勢いよく、十三弦から一弦まで爪を震わせた。細かな音の粒が、一斉に琴から溢れ出し、儚く消えていく。
シオンは、曲の終わりに深く一礼をして、後ろに下がった。
シオンの演奏中、ずっと目を閉じて聞き入っていたスズシは目を開けた。となりのシオンを見ると、頬は赤く染まって、まっすぐ前を見つめている。その目線の先には、ミヤコがいた。
シオンには、ミヤコの角が見えるという。夢の中で、角に貫かれた胸のあたりがずきりと痛んだ。その痛みに顔を歪めることなく、スズシは、中央へ座り直した。
琴の前に座ったとき、周りに侍る人々の気持ちが、音を通じて流れ込んできた。
笑い合う声、喋り合う声のその音から。
男宮の声、それに答えるミヤコの声に。
あの角がふと目の前に浮かんだ。黒々としたあの角。そのとき、スズシの左手が、勝手に弦を弾いた。
弾きでた一音に、周りの注意が全てスズシの元に集まった。
あのときもそうだった。スズシは、優しく、琴の竜頭を撫でた。
塗籠に一人恐怖で震えていたとき。
琴が自然になりだしたのだ。自分の意思で引いたのではなく、琴が私の意思を操って、その音を響かせのだ。
スズシは、先程の一音が消えかかるまでに、また同じ音を弾き出した。
ポロン、ポロンと、雨が滴り落ちるかのような音が連なって、あたりに響く。左手の親指と中指で、さらに震える弦を増やし、雨の音は激しくなっていく。その雨の音に合わして、右手の爪で弦を弾き出す。
爪で弾かれた硬い音と、左手の指で弾き出された音の柔らかな音が、まじりあう。それは、塗籠で一人、雪から雨へと変わっていた音を聞いていたときに考えついた曲だった。葉に落ちる音、屋根に落ちる音、庭の雪に当たる音、庇から垂れて、簀子に落ちる音。その音の違いを表現したいわけではない。どれがどの音というわけでもない。あの暗闇の中で、一人、ただ一人、音に向かい合ったあのとき。
あのときの何もない、何にもとらわれていない、あのときの心の音を、表したいだけなのだ。
親指の爪で、十三弦を緩やかに掻き乱す。左手の親指と人差し指、中指で弦を弾き出す。雨の落ちる、その一瞬が鮮やかに目に浮かぶ。葉に落ちて、弾けた雨粒。その雨粒がまた、どこかに落ちて弾けるかのような。そして激しく、弦を爪で掻きやって、拍子を加速させていく。
今にも雨が降りかかるかのような演奏に、周囲の声は止んでいた。
先ほどまでの春の緩やかな風が、どこか場違いにでも感じられてしまう。晴れていた空に雲が立ち込めてて、激しく吹いた風に、桜の花が煽られる。
その演奏に、男宮は手に持っていた杯を床に落としたのも気づかず、食い入るように見つめていた。
「久しく見ないうちにお変わりになった。まるで…」
ぽつりと男宮が漏らした言葉に、すかさずミヤコは反応した。
「まるで、水の祭り巫女のようでございましょうか…。師といえど畏れる音色でございます」
「ああ、まるで何かを払うかのような音色…」
言葉を逸した男宮は、目を閉じた。
耳を通じて流れて聞こえてくる音の一つ一つが、体の中で響きわたる。その音だけに耳を傾けていると、聞き手たちが鳴らす衣が擦れる音や息遣いの音、まして自分の鼓動の音までがが煩わしく感じられる。止めどなく流れる音の豪雨に、揺さぶられて、体の汗を拭わずにはいられない。
勢いよく吹いた風に、思わず固く閉じた瞳を開くと、咲き開いたばかりの桜の花びらが、あたり一面に舞い散っていた。
その中で、一人スズシは、最後まで琴をかき鳴らした。
たとえ弦の音が、激しい風や、舞い散る桜の音にかき消されてしまったとしても。
◉
春の宴の夜、演奏者たちをもてなす宴席が設けられたが、シオンは演奏後すぐに退出していた。宴が終わり、衣を着替えに席を外してからスズシの姿を見ていなかったのである。演奏者たちに割り当てられた控えの間を探してもスズシの姿は探せなかった。楽寮から宮中へと乗ってきた牛車もまだ止まったまま。
楽寮よりも広い渡殿を歩き回り、衣は乱れていた。宴席とは異なる場所を探しているうちに、先ほどまで春の宴が行われていた正殿に戻ってしまっていた。
シオンは、初めて正殿から演舞台を見渡した。咲き散ってしまった桜の花びらに庭と演舞台が染め上がっているのが、暗がりの中でもわかった。
正面からスズシの音色を聴けたらどんなに良かっただろう。あの音色に、スズシはどんな思いをのせたのだろうか。
いつもだったらわかるはずのスズシの音色の意味に、シオンは何かはっきりとしない思いを感じとっていた。
「スズシ、あなたに聞きたいの、あの音色は一体?」
演舞台に向かって、声をかけた。
ポロンと、琴の弦が弾かれた。はっと、琴の音がかき鳴らされた方に顔を向けると、演舞台に琴が一双、置かれているのが目に入る。
竜頭に伸びた、白い手が、弱々しく、また琴の弦を弾いた。
とっさに、シオンは、正殿前の階段から降りて、演舞台まで駆け上がった。
中央には一双の琴、その後ろにも一双の琴が置かれていた。中央の琴に手を伸ばし横たわっていたのは、ただ一枚の薄い袿を纏った、一人の女性ースズシであった。青白い肌が露わになった体を、頼りない衣を身に引いている。長い豊な髪は、あたりに乱れて広がっていた。袿から隠し切れずに顕になった両足は、力なく床に投げ出されている。演奏時の唐衣と裳は、なぜか演舞台の隅に無造作に置いてあった。
「いったい、何があったの…」
シオンは、スズシに触れると、体は冷たく、冷え切っていた。疲れ切った様子で動かないスズシの体を起こすと、体を覆っていた一枚の袿が床に滑り落ちた。
黒い黒い空洞。シオンの目に飛び込んでいたのは、その闇であった。
青白い肌の、左右の小さな乳房の間にある、どこまでも続いているような果ての見えないそれにそっと触れると、細かい粒となって指と指の間から消え去っていった。その瞬間、スズシの肌から、別の薫物の香りが広がった。それは、どこかで嗅いだはずの香りであった。目に見えるもの、鼻で感じられるものに、シオンには、何がどうなっているのかわからなかった。ただその目前に、力なく横たわるスズシの体を見て呆然としていた。
乱れた髪を顔に流したまま、どこを見ているかも定かではない様子でありながらも、スズシはむくりと起き上がろうとする。
「シオン、服を持ってきて」
琴の弦を弾いた右手が、シオンの頬に触れる。
「ええ、ええ、もちろん」
シオンは、小さな震える声で返事をした。
雲から漏れ出した、月の光が、演舞台に差し込んだ。
闇夜に一人、立ち上がったスズシの体がぼんやりと浮かび上がった。シオンは、その一糸纏わぬ青白い四肢に、一枚一枚衣を着せていった。
肌に映える、淡い藍色の唐衣と裳を身に纏ったスズシは、月の光を受けて、凛とした姿を現していた。
美しい。美しく、弱く、しかし強い姿の、私の友。
最後の裳を取り付けるために跪いていたシオンは、そっと、スズシの裳の飾り帯に口づけをした。
「ねえ、シオン、一曲弾きましょう」
「一緒に?」
「久しぶりね、でもこれが最後になる」
「スズシ…どういうこと?」
「最後のお願いになるかも知れないから」
怪訝な顔をしたシオンの顔を、見つめたスズシは、朗らかに笑った。
演舞台で、向かい会う、シオンとスズシ。弾き始めは、スズシの、激しく強く叩いた弦の音だった。先ほどの宴の、喧騒の中とは違った、音の響き。張り詰めて今にも壊れてしまいそうな音だった。
その音に、私は何て答えよう。言葉ではなくて。シオンの心の中に浮かんだのは、舞い散る桜の中にいるスズシの後ろ姿だった。ただ琴の音を追い求める、奏者の姿。
左手で、弦を、強く、間断なく弾いた。スズシの音を包み込むような音を思って、弦を弾き続けた。柔なか音の粒は、振り落ちる桜の花びらのようにひらひらと舞う。
タタタタと今にも駆け出して逃げてしまいそうな音を立てながら、スズシはそれでも音を乱さず、強い音を生み出し続けた。それに遅れまいと、シオンもまた、スズシが生み出した音に合わせて奏でつつける。
それは、シオンが召し上げられて間もないころ、一緒に弾きあったあの曲だ。生み出されていく一音一音に、あのころの音との違いが二人にははっきりと捉えることができた。
シオンの音の成長を、スズシは感じ取った。
シオンは、スズシの音を聞いて涙した。
別れの音だ。シオンにはそう感じられた。
最後にお互いに目を合わせ、息を合わせて、最後に弦を掻き乱す。高音の粒が、飛び跳ね、弦を震わせた。
音の消え去ったとき、スズシは、静かに立ち上がり、舞い散る桜を見上げて、口を開いた。
「ただ琴を弾けることだけにかけてきた。結局こんな簡単にも奪い取られてしまう。ここで見つけて得たものも、簡単に奪うことができてしまうの。与えられるのも奪われるのももうごめんだわ」
スズシの肌に、桜の赤みが差し込んだ。爛々と見開かれたその瞳は、散りゆく花を、この楼閣を、それとも空を、にらみつけているのか。
「どこにいってしまうの」
涙で濡れた大きな瞳を、拭うこともせず、シオンはスズシを見つめた。
どうか、あなただけはこうならないでシオン。
「シオン、さようなら…。さようなら、藤子(トウコ)の君」
そっとつぶやいたその言葉に、シオンは驚いた。呼ばれたのだ真の名を。
花おどる 風に舞い降る 雪にみゆ ひとえに君を 思へばこそ
風に揺れ動く、桜の枝から、花片が散り落ちて、シオンの視界を惑わした。舞い落ちる桜吹雪のその隙間から、素早く走るスズシの影をその目で追うも、その影は闇に消えていった。
後日、スズシの捜索が始まったが、見つかることはなかった。呆然として、言葉を発しなくなったシオンにミヤコは、つきっきりで看病した。しばらくしてシオンは、スズシの面影を探して、楽寮を彷徨った。スズシの自室は、その不吉な失踪の件で、すでに清められてしまった後で、スズシの薫物の残り香さえしなかった。その誰の香りもしないがらんとした部屋にシオンは蹲った。
目をつぶれば、今にも耳のそばで、真の名を呼ぶスズシの声が聞こえてきそうだった。それは雨の降る音のような、しんとして静まった音だった。日が暮れてまで、そうやって、スズシの自室でぼんやりと過ごしていると、闇のどこからか、ターン、ターンと弦の弾くような音がした。
雨の降る音のような音色であった。シオンは、壁伝いに歩きながら、その音を鳴らす琴を探した。
雨の降る暗がりに、冷えた風が、渡殿を湿らしていた。月明かりも、灯籠の火の明かりさえもないなかでもシオンは、その音の方へと足を進められた。
一際強く、最後の音が止んだとき、シオンは、自分が全くの暗闇の中、一双の琴の前に座っていたのに気づいた。
そこは、スズシが、こもっていた塗籠の中であった。そして目の前には、あの宴にスズシが弾いていた、琴があった。
萎れてくすんだ花びらがついたままの琴。
シオンはその琴に覆いかぶさるように抱きしめた。
シオンには聞こえていた。暗闇のなか、琴から鳴り響く音の粒が。
◉
シオンは、スズシがいなくなり、心が空っぽのように感じられた。長い間、塗籠に忌みこもり、スズシが残していった琴で、スズシの音色を追い求めた。何事にもとらわれない、うつろな音色。
久しぶりに見たミヤコの角に違和感を感じる。ミヤコの角は以前と違って、黒々として見えた。シオンは、部屋の鏡に布をかぶせ、自分の額をみないようになる。
春―。スズシがいなくなった季節がまたやってきた。
スズシの残した琴を弾き鳴らし続けた日々。スズシの琴から流れ出る音色は、聞き手の声、衣の擦れる音、さらにはその息の音さえも煩わしいものにさせた。誰の音もその音色の元では流れることを許されず、ふっと息を吹きかけるかのように消えてしまった。
男宮がその琴の音を聞き、いったいどのように調律をしたのかとあやしげに問えば、
「去って行ったものの音色をただここに導いているだけでございます」とシオンは答えた。
男宮がその驚きを隠せず、その音色をただただ惜しんで、朕の琴の師となりてその奏法を授けよと仰せられた。
その返事とばかりに、シオンは琴に右手を添え、「寿ぎの曲を奏でましょう」と言った。
その黒々とした長い髪が耳にかかりて琴にこぼれれば、煩わしそうに背中へと流す。
ああ、願うことなら、この琴の音を、この琴をスズシの元へ。
十三弦をかき鳴らせば、大殿の瓦は細かく砕けて、花片のように舞い落ちる。吹き上げる風に、人々へと振るい落ちて、みるみるうちに地は鮮血に染まっていく。
風に驚いて閉じた目を開くと、南庭に広がる池の水は渦を巻いて、吹き荒れる風を吹き込みながら、天をも貫くかのように堂々と湧き上がっていく。
地上と天へと伸び、まるで鎌首をもたげるかのように揺れる池水の渦は、見間違えることのない竜の姿であった。
シオンはかきならしたその手を止めようとしたけれども、どうやって己れの言うことを聞かない手を止めることができるだろうか。
甲高い、まるで赤子が泣き叫ぶような音を、竜は水飛沫をあげて鳴らした。竜は、琴をかき鳴らすシオンを飲み込んだ。ぐっと冷たい池の水があたりに巡って、シオンは息を止めた。手を離れなかったことの弦が、一つ、また一つと手から離れて、水の流れとともに渦を巻いて消えてゆく。渦の向こうに見えるのは、長い髪の、青白い肌の、細長い瞳―。
◉
はっと、息をかえしたとき、シオンの周りは、細かな露が日の光を細かに反射して輝いている。床は磨かれたかのようにつやつやとして、地面はその土の匂いを漂わせて、庭に生える緑はその色を鮮やかにさせていた。
シオンの周りには、スズシの琴がなかった。さらには男宮も誰もいなかった。
はは、と軽やかに笑って、シオンは仰向けに寝転がり、吹き飛ばされた天井から差し込む日の光に目を細めた。
竜の飛沫をうけて残ったのは私だけだ。
ただのどうしようもない、ありのままの私だけがここにいる。
文字数:21707
内容に関するアピール
初めは梗概の内容を決めるのが大変で、実作にするまで考えられていませんでした。感想会に出席して、色んな方からアドバイスをいただいて、とにかく実作を完成させたいと思いました。また、好きなものを書いたらというアドバイスもいただきました。自分が好きなもの、ベースになっているものって何なのか、よく考えるようになりました。今回の実作は、書いていて楽しかったです。苦しかったこともありますが。
女性の、女性に対する嫌悪を古典と琴の世界で書いてみて、なんだかスッキリしました。潰れたってきっと立ち直っていてくれるような気がしてきました。
これからもたくさん色んな物を読んで、たくさん書いていきたいと思います。
一年間ありがとうございました。
文字数:314