踊るつまさきと虹の都市
intro.
ユートピア、それはすべての場所の外部にある場所であるが、それは私が身体なき身体を持つような場所――つまり、美しく、澄み渡り、透明で、光に満ち、敏捷で、巨大な力能、無限の持続を持ち、鋭敏で、不可視で、保護され、常に変貌するような身体を持つであろう場所なのである。――「ユートピア的身体」(ミシェル・フーコー)
1.不夜の仏学院
読経中、ペーマは正直なところ浮足立っていた。午前中にもかかわらず、今夜のことを考えては、いさめるように小さく頭を振る。
香の焚かれた勤行堂内は僧たちの声が重なり、満ちては引く波のように念仏が流れている。熟練の僧は身体の一部を放流するかのように、ペーマのような少年僧は理想を語るかのように。時折砂浜の小石のように混じるたどたどしい声は観光客たちのものだ。勤行堂は、誰にでも開かれている。
他の僧が両手それぞれに道具を持って経を唱えているなか、ペーマだけが右手でマニ車を回しながら同じ手で器用に数珠を繰る。左腕の先は、かつてあった大火で失っていた。
慣れてしまえば、学院の生活で困ったことはあまりない。今やっている読経や、午後にやるはずの問答など、功徳のための勤行はこなせる。
とはいえ、左手の代わりになるものも、少なからずある。それがペーマを浮足立たせるのだ。
午前、そして午後の勤行が終わり、日暮れの頃にはペーマは僧房に戻っていた。僧房の中には薪のかまどと、椅子兼用の寝台、経本が収められた棚、そして手製の洗面台があるくらいで、他の少年僧たちとさして変わらない。水道管はあえて通しておらず、水を汲みおくポリタンクが床にきっちり揃えて置かれている。
木目調のワンルームにはコンセントが三口あり、ペーマはそれぞれを、冷蔵庫と、型落ちのパソコンと、情報外套の充電とに使っていた。
立ったまま袈裟や覆肩布をまとめてを脱いでたたみ、梁にかけてある灰色の外套から充電端子をはずした。そのままフードを右手でつかんで、腕の中ほどから先の無い左手を袖に通す。大人用の外套はまだ十四のペーマには大きく、右腕は多少――左腕は大いに――袖が余ったが、そのまま羽織り、前を閉じる。フードを被れば、この前剃ったばかりの頭にひんやりとした内側の生地が心地よい。
眼前に情報外套の起動画面が投射されるが、妙にぼやけた。
ペーマはいったんフードを脱ぎ、自作の洗面台の上から光学補正用の点眼薬を取る。『一日一度』と剥げかけたラベルに書いてある点眼薬を、片手で器用にさしてフードをもとに戻す。
ユーザー認証はすでに終わっており、鮮明になったランチャー画面には通知のアイコンがいくつか点滅していた。
『ダンスレッスン、20時から――57分後』浮つく心を抑えながら、リマインダーのステータスを『出発』に切り替える。
もう一つはプティからのトークセッションの招待。あとは、いつものプロモーションメッセージだ。それでもペーマは一件ずつメッセージを開く。師からの連絡が来ていないか律儀に確かめた後、袖内のハンドサインで不要なメッセージを消去する。
玄関を開けると黄昏の空にうっすら星が見えた。プティにメッセージを返す。
『翻訳ツールの更新を確認してから行くよ』
昨日のセッションを文字に起こした際、用語の表記ゆれが気になった。おそらくンガリの方言だ。ンガリを擁する西チベットは近傍のソフトウェア大国インドとの交流も多く、ローカルなパッチも頻繁に更新されるはずだった。大本であるビッグテックの翻訳ツールも、少数言語の方言まではまだ手が回らないから、できる人間ができる方法でアップデートするしかない。本来はそこまで頻繁に更新をかけなくても、日常生活でなら問題はないのだ。ただ、専門用語が頻出する相手との会話では、そうもいかない。
玄関扉の施錠を二回確かめてもまだ、視界の端で更新中のアイコンが回っていた。
七階建てに積み上げられた四角四面な僧房の五階、他の僧房からは自主読経の声が漏れ聞こえる。
階段を下る。勾配がきつく、鉄製の手すりを袖越しの右手でつかむ。吐いた白い息は、林立する僧房群から吹くビル風にさらわれ、どこからか飛んできた手のひら大の黄色い祈祷旗と共に都市の光にのまれていった。
階段を下りきると、地面には緩やかな傾斜がついている。
ペーマが降り立った路地裏にはまだ焼け跡が残る建物や、煤が付いたままになっている壁などがあった。眼前からは、龍泉水の湧き水を汲んできた僧が歩いてくる。狭い道をぎりぎりすれ違いながら、ペーマは道を下ってゆく。少し歩けば、きちんと舗装された幹線歩道にでる。傾斜に対して水平にはしる歩道で、都市の中央にある勤行堂や観光客多が泊まる喇栄賓館の新館に通じている。
観光客で賑わいだした幹線歩道の流れに乗って、ペーマはフードの奥から都市を見上げた。
都市は紅い。
かつては信仰の色だったその紅さは、今はある種の観光資源でもある。夜ほど輝く紅い虹を堪能するためこぞって外出しはじめた観光客たちで幹線歩道が活気に満ち始める。夜のとばりは、高高度ゆえ標準時よりも二時間ばかり遅く落ちる。
喇栄文化特区。星が近い標高三千メートル、東チベットの色達県に位置するこの都市を観光客たちはそう呼ぶ。
二つの丘陵の間に作られたなだらかな渓谷に深紅の僧房が林立する巨大な仏学院、だった。昔の話。
そのころは僧たちが手製で建てた木造平家の僧房がこの地を平らに覆っていたが、そのほとんどが大火によって焼失した。紅い色も、その頃は染料でつけていたのだ。
今のコンクリート造りの高層僧房は、本当は無機質な灰色だ。ペーマの外套と同じ色。けれども今そこの灰色には輝きを放つ紅が光学的に投影されている。そして紅を基調として、桃、黄、青、緑など彩度の高い差し色が、梁の継ぎ目や建物の角に黒い縁取りで吉祥格子や法輪の文様を描く。
陽が落ち夜になればなるほど輝きが増すこの都市を、観光客たちは不夜城などと呼んだりもする。
ペーマも、袖の内側のハンドサインで外套を操作し、自身の外層に電影を投影させた。
羅刹女。本来の艶と兇悪さを備えながらも、とびきりのかわいらしさで戯画化された、都市で人気の一柱。ペーマの、もう一つのからだ。プティと協力して調整を続けてきた電影だ。
ペーマはその投影技術の原理を知らない。けれど、それが何をもたらすかは知っている。匿名である自由と、一見相反するキャラクター性、そして利益。
歩道では電影の羅刹女を中心に人が集まり、キャラクターに紐付けされた口座に電子通貨の喜捨が集まる。
空間に投影され拡張された『自分の肉体』を、見世物にすることは好ましくなかったが、受け入れるしかなかった。ペーマが、踊るためには。
僧なら、夜は自分の僧房で読経や問答をする者が大半だ。あまり外に出るべきではないし、ましてやダンスを習う時間でもない。少なくとも仏学院として前世紀に建造されたこの都市の本来の目的をまっとうするならば。
だがペーマは踊っていた。左手を失った際、代わりに踊ることを覚え、以降ずっと体を動かしていた。学院でも修法として舞踏は習っていたが、それだけでは満足できなかった。
ペーマは路上パフォーマーのふりをしながら、羅刹女の両手を大きく広げ、時に婀娜っぽくくねらせ、幹線を下り都市の外に向かう。ダンス教室は都市の外にあった。
幹線沿いには自分と同じように電影を纏ったパフォーマーが数人いて、それぞれ大小の人だかりを作っている。
仮面舞踏。観光客たちからはそう呼ばれている。エキゾチックなラベルを貼るために。
種類は、吒枳尼など仏教由来の神々から、剣を携えた鬼神ベグツェなどの土着神まで様々だ。
その電影の神々を、ペーマと同じように情報外套に纏わせていたり、空間投影式の電影に直接ダンス・モーションを読み込ませて踊らせていたりもする。
けれどその大半は還俗した僧や、僧からの助言を得て舞踏の動きを再現した技術屋たちで、僧として踊っているものたちは殆どいない。
それゆえかどうかはわからないが、ペーマの踊りの周囲には他よりも一回りほど多く人々が集まる。
踊っている最中、再度プティからトークセッションへの招待が届いた。添えられたメッセージには、とりあえず話を聞けという旨が記してある。翻訳ツールの更新は終わっていたが、通話ができる状況ではない。
何より、踊るのに夢中になってもいた。
学院で習う、正式な仮面舞踏では、あまり大きな体の動きを作らない。舞踏の空間を広く早く動くことはあれど、心身を伸ばして跳ねることはない。まして、少年僧が教授されるのは限定的な舞だけであり、それは再演にすぎなかった。
決められた身体部位を、決められた位置に、決められた拍で、動かす。その時の身体は、ペーマのものではなく、神々の形代なのだ。ペーマのような年齢には、すこし、退屈だ。
今は違った。
つまさきが地を蹴る。腕や脚、身体部位個々の重さと軽さが、慣性を受けて重心を振り回す。そのまま、若木が新芽を弾かせるように腕を、足を、張る。
宙へ躍る。
跳ねる指先が袖をはためかせ、加重を受けて撓う筋骨が電影を連動させ、聴衆が帯びる鼓動と拍が合わさりうねる。呼吸を止める。けれど心臓は脈打ち、滞留し輻輳する血液の感覚が、一瞬の間をおいて落下と共にゆるむ。接地。つまさきから足裏へしなやかに加速度が分散され、着地の慣性と重力とに従った血が、体の各部へと降りてゆく。嫋嫋とした脈拍の余韻が、電影の隅々まで亘り、そのまま聴衆へと滑り落ちるように広がってゆく。
十五分も踊り続ければ学院都市の終わりを定める石門にたどり着き、ペーマは一礼する。
観光客たちは拍手と布施を与えてくれた。
顔を上げて、門を潜る。
その瞬間、都市戸籍で外出の認証がなされ、フード内側にそのことを示す通知が投影された。門の管理は政府で、ペーマをはじめとした僧を管理している学院との直接的な外出情報の伝達経路はない。だから認証されたとしても学院にばれることはないが、通過の度に気もそぞろになる。
門は、一時滞在者――つまり旅行者が、間違って都市の外に出ないようにするためのセーフティだった。種々の理由から、明確に区分けされた世界だ。
都市の外は、間隔の広い街灯が照らす、荒涼とした砂と雪そして高山植物の世界だ。どこからか狼の遠吠えが聞こえた。念のため外套の右ポケットに狼を追い払うための小石が入っているのを確認する。
ペーマはダンス教室の方に足を進める。プティから再三届いたセッションへの招待に、今度こそ応えながら。
「ずいぶんパッチの適応に時間がかかってたみたいだね。もしかして違う空の下にでもいるの?」
「同じ空の下だよ。遅くなってごめん。無線通信用の無人航空機とはつながってる。通信速度の実測値でもおくろうか?」
歩きながら、数回続いたプティのあてこすりに相槌を返した。その末に出てきたプティの本題は『オーディションについて』だった。
「オーディションってなにのさ?」
「学院主催の仮面舞踏。パレードみたいなことを企画してるみたい」
「今のお祭りみたいな仮面舞踏じゃ満足できないって?」
「それもあると思うよ。あとは、お金だろうね。大火以来、どうしても学院にはお金が足りないんだ。どこか、スポンサーでも着いたんじゃない?
まあそこらへんはどうでもいい――」
ペーマは簡素に相槌を打つ。以後もプティつらつら述べる参加条件や報酬を聞き流した。合格者は新しい電影を与えられるらしい。たぶん、プティが一番言いたかったのはこのことだ。
「僕は、この羅刹女が気に入ってる」
「それは知ってる。でも……」プティは言いよどみ「権利者はペーマじゃない」結局、告げた。
事実上自分のものとして扱っているとはいえ、この電影は今から行くダンスレッスンの先生が与えてくれたものだった。権利の移譲もできないまま。
「まあ聞きなって。このオーディションに合格するってことは舞踊が学院公認になるってことだ。あんたは、そんなこそこそ隠れて踊ったり、教室に通う必要はなくなる。今日もどうせ踊ってたんでしょ? そのこと、わたしは聞かれないから言ってないだけだ、師に隠し事は許されない。わたしもあなたも」
返す言葉もなかった。
かすかな死肉の臭いが鼻につく。今朝葬儀があった鳥葬場の近くに差し掛かっていた。明日朝また、空行母がむくろを啄むことを想像しながら、しばらく黙った。この地では、死への距離は、近い。鳥葬場では、はげわしに啄まれるために解体される親戚を、年少の頃からでも見ることができる。
そして観光客たちも、死を見に来る。
鳥葬は都市で最も人気のアトラクションでもあった。
なんとなく、自分の電影が啄まれるのを想像した。現実のはげわしではなく、契約や権利という実体のない猛禽たちに啄まれるさまを。それが良いことなのか、悪いことなのか。今のペーマにはわからなかった。
「オーディションよりさ、電影の装飾ボーンについて相談があって。計算資源や環境変数から動的に装飾のボーン数や柔らかさを決定するんじゃなくて、僕の感覚に合わせて決定できるようにしたいんだけど――」ふりはらうように、明るく語調を変えてペーマが言った。
すこし間をおいて、
「羽衣まで自分の身体として動かしたいっての? いつだってユーザーは開発側に無理をおっしゃる」プティが怒りの絵文字と一緒に応える。そのくせ声は弾んでいた。
軽く使用イメージに関してのやり取りをした後、同じ学院で尼僧として学んでいるらしい、一度も顔を合わせたことのない友人にしてエンジニアもどきが、気取って言う。
「あの虹の彼方へ」
ペーマ側とプティ側で翻訳ツールを二度通し、徹底的に標準化された英語が、意味翻訳を経て英語のままペーマの耳に届いた。プティがよく口ずさむ英語の歌の一節。ミュージカルの一節でもあるらしい。拍は翻訳の過程で失われているが、ペーマも『虹』という響きが気に入っていた。
「僕が欲しいのは『虹の身体』なんだけどな」
「なら、ダンスじゃなく勤行に励みなよ、小僧さん。それは大究竟の修行――手っ取り早くは瞑想の先にあるらしいじゃないか」
「身体に電影を映すこと、御仏と一身になること、それもまた瞑想の一つだと、僕は思うんだ」
「『ああ、善い人よ、汝の身体と心が離ればなれになるとき、存在本来の姿の純粋な出現があるであろう。この出現は微妙であり、色彩と光に満ちている。光機で汝の心を悩ますであろう。その本性は幻惑させ、汝をおののかせるものであり、初夏の野に陽炎が立ち昇るようにゆらゆらと揺れ動く。これを恐れてはならない。おののいてはならない。怒りをもってはならない。これこそ汝の存在本来の姿そのものの現れであると悟るべきである――』」
更新したばかりの翻訳ツールが、プティの語るンガリの方言交じりの真言をきちんとペーマに伝えてくれた。有名な埋蔵経典の一節だ。
「引用ありがとう。技術と信仰は、どこかで交わることができるのかな」
「私も知りたいよ。だから君に協力してる」
約束の三分前にはレッスン教室に着いた。レンガ造りの一階に木造の二階と三階が乗る伝統的な一軒家だが、住人はこの地の人間ではない。
女家主のクラーシャが入口から顔を出し、近くで待っていたペーマを招き入れた。
「寒いよ。早く入りな」愛想のないクラーシャのロシア語を、外套が翻訳してペーマの耳に届ける。
礼を言って、ペーマも屋内に入った。外観とは似つかいない西洋的なダンスレッスン用のトレーニングルームだ。一人でただ暮らすだけなら広すぎる古民家を買い取り、かつて飼料置き場として利用されていた一階を改造したのだと以前聞いた。一面が鏡張りになった壁と腰の高さの手摺は、クラーシャのダンスの基礎がバレエから来ていることの名残といえた。ロシア仕込みのクラシックバレエ。本来は十人規模のレッスンができる場所だったが、今日はペーマ一人だ。
クラーシャは教室の端のテーブルで紅茶を用意している。カセットコンロにかけた圧力鍋は、高地でも無理矢理沸点を上げて百度のお湯をつくるためだ。紅茶の茶葉に合わせた細やかな温度調整。鍋に着いた温度計を見ながら、茶色がかってくすんだ金髪を几帳面に漉いて後ろでまとめている。若くはないが、老いてもいない落ち着いた所作だ。
「月末が近いけど、今月分のレッスン料、たりる?」
靴を脱いで上がってきたペーマが、目を伏せながら訊いた。今月もどうせ同じ言葉が返ってくることに、少し悲しみを抱きながら。
「今日も踊って来たんでしょう? 今日と、先週と、先々週も。それでまかなえるよ」
柘榴のジャムの瓶を用意しながら、顔も向けずににクラーシャが言う。不愛想だが、ぶっきらぼうではなかった。
先ほど観光客から振り込まれたわずかばかりの喜捨がレッスン料の代わりだった。プティが言った通り、ペーマの電影の権利者がクラーシャなのだ。当然送金先の口座もクラーシャのものになっている。その金額がレッスン料として適切なのか、クラーシャは語らない。そんな関係が三年も続いている。
「左手、痛む? 暖房強めようか?」
いつの間にかそばにいたクラーシャが問うた。一瞬の間にジャムの瓶をしまいコンロの火も消し、ペーマの隣に立っている。音もなく精密に動く様子はネコ科か何かの野生動物を思わせるほどだ。
ペーマは、頭半分ほど高いクラーシャの灰の瞳を見上げながら言った。
「大丈夫、痛くない」
嘘をついた。悲痛を隠して平静に。
「それより早く踊りたい」
今度は正直に言った。
「準備運動が先。ほら外套と上衣を脱いで動きやすい服に着替えてきて」
クラーシャが差し出すハンガーを受け取り、右手だけで外套を脱いでハンガーに通して、近くの梁につるす。
大火以来、ペーマに左手はない。けれどペーマだけでなく、大火では多くの人間が多くのものを失っていた。
かつて木造だった僧房が、明確な管理主体が無く無秩序に送電配線を増設していった結果だ。その大火でペーマは左手を失い、学院は政府主導による管理を承服し、復興を題目とした観光地化の計画を受け入れることになった。
ゆえに、都市の内部は効率的に修行とその修行を見世物にする施設で埋まっているし、ダンス教室は都市の外にある。
それらを今更どうこう言う気はペーマにはない。少なくとも、大火のときにこのクラーシャに助けられ、いまだに関係が続いているというのはペーマにとって幸運だと思えるからだ。
クラーシャは正しい体の動かし方、踊り方を教えてくれた。
預けてある着替えを身につけたペーマは、クラーシャと共にフロアにマットを敷いて準備運動を始めた。座った状態で伸ばした足先だけを上下させたり、左右に倒したりだ。身体部位の細やかな部分まで自分の意志で位置を動かせることを確認するような作業だった。座ったまま下半身の基礎運動まで済ませる。二人とももはや手慣れたもので、自然と動きが同期していく。
言外に通じる拍が、二人の動きを支配していった。
二人とも立ち上がり、ペーマは情報外套を纏う。上半身の準備運動と、そのまま基礎動作の練習に入るのだ。右手は袖をまくって生身の身体を使い、左手は電影の左手を使った。義肢を使わないのは単純に経済的な問題でもある。踊れるほど細かく操作できる義肢など、手が出ないほど高額だからだ。ただ、理由はそれだけでなく、
「最近さ、踊ってると右手が重いんだ」
平然と、ペーマが言う。
「そして、左手ほど自由に動かない」
何にも触れられない左手に、大きな不自由を感じていなかった。僧房から出てダンスレッスンに来るまで、左手を意識したことが無かったように。そして、ネコ科動物のように柔らかく捩れ、優雅にしなうクラーシャの身体動作に、左手だけなら匹敵できるような気がしていた。
いつもは愛想のない表情をしているクラーシャが、珍しく眉根を寄せる。
「ペーマが求めている『虹の身体』っていうのは、そういう身体のことなの?」
「違う。『虹の身体』っていうのは、電子的光学的な身体表現――この電影みたいな触れられない身体――みたいなもの、ではない。きっと……」
ペーマの言葉が尻すぼみに小さくなる。ペーマ自身、それが素晴らしいものであるという意味しか知らないのだ。生と死の中間で訪れる、完璧な悟りの状態だと。言葉だけの軽薄な信仰に思えて、自分でも嫌になった。
「でも今は関係ない話でしょう。この身体をくれたのはクラーシャだ。感謝してる。この身体のおかげで、僕の左手の火が消えた」
体勢を固定したまま、左肩を前後に動かす。次は肩も固定して肘を。そして肘も固定して左手だけを。分離という体の個々の部位だけを動かす練習。ペーマが動かすのは、幻影の左手だ。
「ただの幻肢痛だった」クラーシャが無愛想に断言した。「脳が火傷のトラウマを消せなかっただけのね。だから電影を貸して燃えてない手を映して見せた。ダンスの延長で、左手の動かし方を教えた。炎で失われた感覚系のフィードバックじゃなくて、視覚系のフィードバックで脳の錯覚を糺しただけ。それは――」そこまで言いかけて黙る。
プティと同じ沈黙だった。違うのは、クラーシャのほうが大人な分最後までは言わなかったこと。
「僕の身体じゃない」代わりにペーマが告げていた。平静を装ってはいたが、その実すてばちのような心情だった。
分離の練習は、左手だけでなく、全身へと動かす部位を広げてゆく。
「そこまで言ってない」クラーシャがそっけなく、けれど屹然と。
身体を動かす衣擦れの音に、全身運動を経て徐々に上がってきた息が重なる。
「ただ、本当に自由に動かせているのか、もう少し考えたほうがいい。その電影を失ったとしたら、ペーマはどうする? それでも、踊るの?」
身体を動かしたままクラーシャが言い加えた。二人は無言のまま、身体の個々の部位を、個別に、決められた通りに、動かす練習をする。正式な仮面舞踏みたいに。
「……何で今日はそんなこというの」
「ペーマの羅刹女を、返してもらわなくてはならなくなったから」
二人の動きが止まる。同期していたはずの二人の動きは分かたれ、ペーマの鼓動だけが、踊っていた時よりも激しく脈打った。
「すまない、告げるのがこんなにも突然になってしまって」
かすかな熱気がこもる教室で、クラーシャが謝罪する。
「それよりも、なぜという理由が聞きたいよ」
静止した肉体と、相反するように高鳴るペーマ鼓動。
「仮面舞踏だ。学院主催のものが企画されている。オーディションの広告は見なかったか? そこで使うための電影のライセンスの譲渡と認証が――いや、早い話が買い取られた」
立ったままの二人を、壁一面の鏡が映している。クラーシャは練習着で、ペーマは情報外套と羅刹女を纏ったままで。
「なぜ僕の――」
「人気だから」幹線のパフォーマーたちの中で、一番大きな人だかりを作れる程度には。
機械仕掛けのように、静止したクラーシャがそう告げる。
ペーマは何も言えなくなった。
大きな人だかりを作れること――観光客たちが、ペーマのからだを認めてくれること。ペーマ自身、多少の優越はあった。その優越がペーマの学ぶ仏教という教えでは、驕りや未練と呼ばれるものに近いということも自覚も。
それを手ひどく咎められたような気がした。
「クラーシャが――」
納得できなくて、クラーシャを攻めようとした。言葉にしかけて、すんでのところで自戒が身を守った。口にすれば、ペーマもクラーシャも、傷つくことが目に見えていた。
「そうだね。あたしが与えて、あたしが奪うことになる」けれどいつもの調子でクラーシャは続けた。
そのあと、言い訳だけどねと付け加えてクラーシャが語る。電影の買収の話は、クラーシャのもとに来た時には決まったものではなかった。電影を買収して使うか、別の方法を取るか定まっておらず、クラーシャ自身も可能な限り別な方法になるように動いたそうだ。具体的な内容は言わないまでも、電影の買収以外の部分で様々な協力をし、相手にも協力させたと。
話を聞くうち、ペーマの中で強い自戒と、平静の心情が戻ってきた。それは日ごろの勤行の成果でもあったが、ペーマには精神が肉体の分離を受け入れ始めていることのようにも思えた。
「断ることは、できなかったの?」
自然な感情でペーマがそう訊いたとき、クラーシャは悲しい顔をした。
「断る理由がない」
「なんでさ? レッスン料が足りてないから? そんなにお金に困ってたならレッスン料を――」
最後まで言い切る前に、悲しい顔の上にいつもの不愛想をぴたりと張り付けたクラーシャが、ペーマを打ち据えるように言った。
「そうだ、金が必要だったから売った」
「……嘘だ」
違うと、ペーマの直感が告げていた。そのあとで、論理的な理解が追いついた。金が必要なら、電影の権利を丸ごと売る必要はない。権利を手元に持ったまま、使用料の交渉を買い手に吹っかければいいだけだ。それをクラーシャが――異国の地でダンス教室を運営するタフさを持った人間が――できないはずがなかった。
「嘘は、得意じゃない」
張り付けた不愛想が、すっと表皮の内側に溶けて消え、一転悲しい顔に戻ったクラーシャが呟いた。
「私が断れば、買い手は踊っている人間を突き止めて直接交渉するつもりだった。買い手は私が踊れないことを、私が電影を使っている訳じゃないことを、知ってる」
一瞬、ペーマはその情報になんの意味があるのか理解できなかった。
踊っている人間への直接交渉、それはつまり、買い手が直接ペーマにコンタクトを取ろうとしたということだ。
「僕がそれを受けると思ったの? クラーシャから与えてもらったからだを売るかもって?」
「違う。そもそも、君に話が行くことを避けたかった」
「故郷にいる僕の父さん母さんにまで話が行って、二人がいらない心配をするのを避けたかったの?」
「それもある……でも一番は、君の未来が危うくなるからだ」
平静に話を聞いているペーマに、苦々しそうに頬をゆがめたクラーシャが告げた。
「主催は学院なんだ。本当の使用者の事がわかれば、ペーマ――君は、夜の勤行や問答の時間にダンス教室に通い踊っていたことが露見する。僧としての立場に良い影響があるわけない。君が本当に求める『虹の身体』ひいては将来得るであろう僧としての成果から、大きく遠ざかることになる」
いっとき、教室の中から音が消えたように思われた。少なくとも、クラーシャは身じろぎ一つせずペーマを見つめていた。
「僕のために、クラーシャは電影を売らざるをえなかった」
言葉にしたとき、ペーマは自分の左手に鋭い剣が突き立てられたような気がした。同時に自分の纏う羅刹女の左手にも。決して血は流れないが、それは致命的だった。火で焼かれるのとは違う生々しい痛みが、存在しない左手に生じていた。電影が体の代わりなら痛みまでも生じてしまうのかもしれない、と漠然と理解した。
「なんだ、僕の、自業自得だ」
電影を消して、自分の瞳でクラーシャを見つめた。
「いつ、この体は使えなくなるの?」
「今月末まで」
クラーシャも、ペーマに合わせて平静に答えた。
「じゃあ、今日はまだ踊れる。レッスンの続きをしようよ。時間がもったいない」
「……左手は痛まない?」
「もう、火は消えてるよ。幻肢痛を消してくれたのはクラーシャだ」
はぐらかして答える。ペーマは練習の続きを促すように、口論する前の態勢に戻った。
クラーシャは機械仕掛けのように定位置に戻って、二人で練習を再開した。
そしてその日の練習メニューをすべて終わらせた後、電影を返却する日程を二人で擦り合わせた。
クラーシャが丁寧に入れた紅茶と柘榴ジャムを味わいつつ、四日後の昼前に都市の入り口の石門で落ち合うことを決めた。
別れ際、ペーマがぽつりと訊く。
「なんで、クラーシャは踊れなくなったの?」
「そうだね……じゃあ宿題だ、次会う時まで『拡張身体』と『生得主義』について、調べておくこと」
2.ほとりの鳥たち
クラーシャとの約束の日。午前中の勤行が終わり、日は高いが天中に昇るまでしばらく時間がある。ペーマは勤行のあと一度自分の僧房に戻り、情報外套を肩に羽織ってから待ち合わせの場所に向かっていた。幹線歩道にはまだ観光客たちの姿はあまりない。舗装されても砂にまみれる道を歩いているのは、勤行堂から帰る途中の、紅の衣をまとった僧ばかりだ。
ペーマは、午後の指導が始まるまでの時間を電影の権利のやり取りに使うつもりだった。今ペーマの外套には、ただの紅い色が投影されているだけだ。
現実感を覚えられないままに迎えた約束の日。それまで夜間に羅刹女として踊ることもなかった。なんとなく覗いた観光客用の情報共有ツールでは、通ぶった匿名の誰かがここ数日羅刹女の踊りが見れなくなったことを嘆いていた。
気つけでもするように、風がペーマの頬を撫でた。
冷厳な高地にあっても、昼にかけて吹く風は温い。風は、近くの観光客向け喫茶店のバター茶の香りと遠くの鳥葬場の読経の声を運んでくれた。道沿いに観光客相手の屋台も出ており、干し杏や蒸しパンを売っている。観光客たちはそれぞれ商品を受け取っては、代わりに店主と手の甲同士を触れさせていた。接触通信での決済だ。
それらを見るでもなく眺めて歩いた。夜に踊りながら進んだ道も、無心に歩けば半分の時間で都市の境界線についてしまう。
石門。
ペーマが待ち合わせ場所に着いたときも、すでにクラーシャは石門の前で待っていたが、都市の内側に入ってこようとはしていなかった。
石門はトラクターやシープや乗り合いバスがぎりぎりすれ違えるくらいの幅で二本の円柱が立てられ、その上に朱塗りの梁と屋根が乗っている。クラーシャは円柱の片側の近くで、揃えた足をつま先だけ開き背筋を棒のようにして立っていた。服装は他の観光客とおなじで、防寒用のマウンテンパーカーを纏った質素ないでたちだ。フードはかぶらず、年代物っぽい丸い眼鏡をかけている。
観光客たちと違うのは三点。
門の外にいること。
都市の外でしか買えないような地味なトルコ石の髪飾りをつけていること。
髪に情報外套と同じ情報処理用の布を編み込んで一本の三つ編みにし、かけた眼鏡に出力していること。
眼鏡のつるから伸びるコードも相まっていささか古臭かった。
ペーマが近づいていくと、クラーシャも気づいて門の中ぎりぎりまで歩いてきた。
「待った?」
「いいや」
挨拶とも呼べないような会話の後に、すぐさまクラーシャは本題に入った。電影の返却について。といっても大枠の部分は前回のレッスン終わりに、ペーマにも聞かされていた。あとは、ペーマの外套に記録されているライセンスを停止すればいいだけだ。なぜ、オンラインでは不可能なのかといえば、それがセキュリティになるからだ。署名や印章あるいは屋台の決済のように、本人同士の合意であることを示す、体表を通じた接触通信が必要だった。
クラーシャが水でも掬うように両手を差し出す。質素に手の甲を突き出すのではない姿が、クラーシャのせめてものやさしさに思えた。
その手の上に、ペーマが手を重ねれば、羅刹女の電影のライセンスが停止される。
クラーシャの顔をうかがうと、いつもの不愛想な表情のさらに表層、古臭い眼鏡の端にはライセンスの停止に関する注意事項がいくつも表示されていた。
ペーマが自然に手を伸ばし、自然に力をぬいてクラーシャの両手の上に載せようとした。
手が空を切った。
クラーシャがほんの一瞬だけ目を見開いた。
そこでやっと、ペーマは自分が左手を差し出していたのだと気づいた。
クラーシャの目が、ひたとペーマと見据えた。瞳に、ライセンス停止の注意事項を映したまま。
「ねえ、クラーシャ。逃げてみてもいい?」
「そういう時は、訊く前に逃げるものだ」
「追う?」
「それも、訊くんじゃない。大人には、明言しないほうがスムーズに話が進むときがある」
その言葉を最後まで聴き切る前に、ペーマはクラーシャに背を向けて歩き出していた。走るわけではなく、決して不自然にならないようにはやあしで。そしてクラーシャも、決して走って追ったりはしなかった。
クラーシャが石門をくぐる瞬間、かすかな電子音がペーマの耳にも届いた。彼女の戸籍情報の認証のはずだった。
ペーマの五メートルほど後方から、歩調を合わせてクラーシャがついてくる。ペーマ自身どこかに逃げる当てがある訳ではなかった。ただ、何もしないままというのが我慢ならなかった。
左手も、意識して差し出したわけではなかったが、すこしだけ自分でも納得した。
「僕は、この体を、失いたくない」
自分に対して言い含めるようにささやいたとき、肩に羽織った情報外套からトークセッションの招待が届く。相手はクラーシャだった。
招待を受けて会話をつなぐ。
「ついでに答え合わせをしよう。宿題はきちんとやったか?」
『拡張身体』と『生得主義』について調べておくこと。クラーシャが踊れなくなった理由を話すことの条件だ。
ペーマはどこから話すべきか考えた。
その間、勤行堂から各自の僧房へ戻る僧たちの流れに逆らって歩くことになった。向かいから歩いてくる僧たちを、ペーマは踊るように、クラーシャは機械仕掛けみたいに、よけながら歩いた。
「『拡張身体』と『生得主義』はある意味で対になる概念」
決意して、二つの言葉の関係性から話し出した。
「まず『拡張身体』っていうのは、一番簡単な例だと美容整形。鼻梁を人口樹脂で高くしたりとか、チベットだと後頭部の丸みを取って平らにしたりとか。あと一番タフな例だと、軍人や消防士の筋骨強化」
ペーマは幹線から逸れて横道に入る。歩みも、回答も。
「ダンサーなら高分子素材の移植による関節の柔軟性増強とか。例えば、バレリーナなら、表現のための身長の延伸や体性感覚の鋭敏化のため三半規管の拡張とか。有名な例を挙げるなら、白鳥の湖、黒鳥のグラン・フェッテ。合計三十二回の回転を、完璧にこなせる生身の人間は多くないって」
各々の僧房に戻る僧たちの流れに乗った。比較的広い横道だったが、それでも人がようやく三列で並べるような幅しかない。
ちらりと後ろを振り返る。代り映えしない僧たちの禿頭の合間に、クラーシャの不愛想な顔が見えた。
僧の支流に紛れられればと思ったが、クラーシャはきっちりついてきているようだった。
振り向きざま、裏道に残る焼け跡や煤が嫌でも目についてしまった。紅い投影がなされている僧房の陰、石組の土台部分に残る大火の跡。普段は意識することなどないのに。
ペーマの脳裏に炎のまぼろしがちらついて、とっくに失った左手が熱を帯びた。咄嗟に、肩に羽織っていた情報外套に袖を通し、左手だけ電影を表示させた。
熱が消える。袖口から吹き込む温い風が、左手を撫でた。仮想の左手に視線を落としながら言葉をつづける。
「そして拡張身体は、物理的な拡張だけじゃなく、僕みたいに電影による身体表現の拡張もそう――」
ペーマは顔を戻し、いかにも自然な歩調で裏道を歩くクラーシャに告げた。
「要するに、自分の望む形に拡張された肉体とその技術の総称」
「なるほどね」
一言だけ。クラーシャは何も続けなかった。正誤判定を下すことなく、二人は都市のより奥まったところへ歩いてゆく。
ペーマが道を曲がる。今度こそ本当に裏道に入った。渇いた土の臭いがした。高層僧房が林立するせいで日光が入らず薄暗い道を、紅い投影がかすかに照らしている。個々の僧房の壁に階段が葛のように壁に張り付いていて、時折僧たちが行き来しているのが目についた。
進むにつれて、僧たちもまばらになる。薄暗い足元には緩やかな傾斜と十段にも満たないような石段がくねりながら交互に現れて、二人のはやあしをからめとろうとした。
苦も無く、二人は歩き続けた。
慣れているペーマはまだしも、市外に住むクラーシャが同じ調子で付いてこれるのは驚異的といえた。
「では『生得主義』は?」
突然、クラーシャから続きの問いかけが来た。
短い言葉の端々に、山猫が計算高く静かに獲物を追い詰めるような作意がにじんでいた。
「二つある。一つ目は簡単に言うと『保守派』ということ。政治的な立場の話。今回はあんまり関係ない……わけでもないけど――」
言いながら、ペーマは高層僧房の階段に足をのせた。この道のままもう少し進めば、これ以上進めなくなるという行き止まりがあるのだ。燃焼を免れた木造の僧房であり、高僧たちの住処だ。特別な許可がない限りは、学院の僧でも立ち入ることは許されていない。もっと上に行けば、大量のマニ車がある幻化堂や、喇栄賓館の旧館があるが、それこそ人目が多すぎて悪目立ちすることは間違いなかった。
それよりはまだ僧房を上り都市の屋上を行くほうが、逃げられる距離は長かったし、逃げ切れる可能性も――本当はそんな可能性があるなどとは微塵も思っていなかったが――高いはずだった。
「二つ目。元は心理学の用語で『人間は生まれながらにして脳内に特定の機能を有している』という思想。それは、言語学の生成文法や、ペンフィールドの小人なんかが有名。結局、僕の幻肢痛も、生得的に存在している脳内の身体像に対して、実際の肉体が齟齬を起こしてるだけなのかもしれないし――。とにかく、そんな感じの思想、だった。今は違う」
階段を上る。ペーマの下方、クラーシャも階段に足をかけた。
「どう違う?」
クラーシャの問いに、答えるべきか迷った。わからないからではない。
ペーマは、逃げているのは自分なのに、問答の上ではクラーシャを追い詰めさせられている気がした。
沈黙のまま、階段を上り続けた。階段の踊り場をいくつか過ぎ、階段の切れ目と屋上が見え始めた。
「どう違うんだ? 今の生得主義は」
「……今は、拡張身体――身体の構造が後天的にいくらでも編集可能になったこと――に対するカウンターとして隆盛した、生得的な肉体が美徳であるという価値観。ある意味『保守派』といえなくもない。特に、スポーツや芸能の世界では、『生身であること』が一流のステータスになった。サッカーやクリケットのネイティブリーグとか――伝統的なクラシックバレエとかね」
たぶんそれがクラーシャが踊れなくなった理由なのだ。
ペーマが階段を上りきる。
視界が開ける。屋上は凪いだ塩湖の水面じみていた。林立する僧房の屋上それぞれにに配置された太陽光発電のためのパネルが、滑らかに青天を映している。ペーマが昇り切った僧房の上にもパネルはあって、腰より少し下のあたりの高さに設置されている。隣の僧房の屋上との間には整備用の簡素な橋が渡してあった。
ペーマの目の前には、橋へと続く整備用通路が屋上の塩湖を割るようにまっすぐ伸びている。
その道を進んだ。
道のわき、ところどころに僧の誰かが設置したと思しき仏塔や、風力で回転するマニ車などが見て取れた。区画を示す細い鉄棒も規則的に立ててある。鉄棒の間には紐が渡してあって、行儀よく並んだ手のひら大の祈祷旗が五色そろって風に泳いでいる。
立ち止まり後ろを振り返ると、クラーシャが屋上に足を踏み入れたところだった。
「……クラーシャは、僕を追うのになんで走らないの?」
ペーマが、わずかに弾む息を抑えながら訊いた。
「走れないんだ。さっきの石門で戸籍情報が認証されて、生得的ではない身体部分の動作が制限されたからね。だから都市内では走れないし、当然踊れない。君の電影と同じで、物理的な拡張身体も、許可が無ければ使えない」
平然とクラーシャは答えた。息ひとつ上がってはいない。
クラーシャが、振り返ったペーマに今までと同じ歩調で近づく。
「その電影を失ったとしたら、ペーマはどうする? それでも、踊るの?」
二度目の問いかけだった。数日前にダンス教室で訊かれたことだ。あの時ペーマは答えることができなかった。
「私は、踊れなくなった。かつて自分がそうあるべきだと信じていた完璧な肉体を手に入れて。手に入れたからこそ、社会的にも、精神的にも、それは自分の外側にあるものになってしまった」
立ち止まっていても、ペーマの呼気は、荒くなる一方だ。
足早に近づいてくるクラーシャの手が伸ばされる。
無言でその手を躱し、身を翻して、走った。行き止まりだと分かっている湖面の道を。
ついさっき教わった、物事がスムーズに進むかもしれない方法。
訊かずに、逃げろ。
腕を振り、足を伸ばすたびに、熱気のこもる外套の裾が靡いて、風が吹き込んだ。我が身が剝き出しになる気がした。
電影が風を受けてめくれ上がり、体の端々から光の尾を引いてたなびき、吹きさらわれてしまうような気が。
自分の身体が、本当にここにあるのか不安になった。悲しいほどに激しく脈打つ心臓が、血を流しては身体はここにあるのだと主張した。
体表を滑る空気の層が、血潮から熱を奪って、四肢にいきわたる血をこごえさせた。
左手だけはそうならなかった。すでに皮膚で覆われた左腕の断面の、その先には血が流れる感覚がない。
気づいたとき、湖面の道は続いているにもかかわらず、その場にへたり込んでいた。
そこで初めて、ペーマはパネルの下を見た。はげわしのなきがらが一つ無造作に転がっていた。区画を示す鉄棒に激突したか、それとも何かしらの不幸か。腐敗し土にかえることもなく、コンクリートの屋上で干からびていた。空を飛ぶ鳥でさえ、死に追いつかれることは免れないのだと、あらためて胸に沁みた。
顔に影を感じて振り仰げば、ペーマの前でクラーシャが足を止めていた。そのまま、ペーマの眼前へ水面を救い上げるようにして両手を差し出す。
「残されたのは、この身体だけか」
また、自分に対して言い含めるようにささやき、右手を重ねた。
羅刹女の使用権が停止され、灰色の大人用コートにくるまれた少年僧が、寂し気にからだを抱いた。
ペーマは、自分がひどく小さくなってしまったように思えてしかたなかった。
クラーシャが、自嘲気味に呟いた。
「まるで、オデットだ」
魔法使いの呪いで白鳥に変えられ、呪いの解ける夜間しか踊れなくなった姫君。クラシックバレエの三大演目の一つ『白鳥の湖』の主役の一人。
「ずいぶん華美な喩えだね。湖に身を投げた白鳥姫みたいに、転生して幸せになれっていうの?」
きっと、クラーシャに出会うことが無ければ、ペーマは一生知ることのなかった知識だ。
「初期版は転生なんてしないんだ。身を投げて、死んで終わり」
その言いざまに、ペーマとて怒りが沸いた。はげわしのなきがらが視界の端に映る。手元に落していた視線を、鋭く睨めつけるようにクラーシャに向けた。
「だから、なんでそんなこというのさ!」
ペーマの憤然とした視線を受けて、クラーシャは安心したように微笑んだ。
「もう一度君の手を取り、立ち上がらせるためだ」
はっとするペーマをよそに、クラーシャが右手を差し出す。その手に握られた、学院主催の仮面舞踏オーディションの参加票を。
「買い取られた羅刹女たちを、誰が纏うかというオーディションだ。ただし、合格したとして、今の電影を割り当てられるかの確証はない。私からはこれ以上何も言えないが、オーディションの参加票を渡すことはできる」
沈黙でしか肯定ができない、大人の流儀。きっと、交渉があったのだと察せられた。電影の買収以外の部分で様々な協力をしたという話の先の部分。
「だからずっと訊いていた。それでも踊るのか、と」
クラーシャの微笑みを前にして、ペーマは自身の怒りを恥じた。そして、怒りの根底にあった思いをつぶさに受け止め、強張った結び目をほどくように緩やかに受け入れていった。まだ自分の中に、肉体への執着という幼い思いが残っていること。きっとそれは、奪われても構わないというような諦めの果てに消えるものではなく、自ら差し出すという納得と献身の果てに無私の悟りへと昇華できるものなのだと。
踊ることを奪われた本人であるクラーシャが、いま右手を差し伸べてくれているように。
そう認識したとき、今まで身に受けていたひえびえとした風がやみ、活力溢れる精神の風が身体に満ちるような気がした。
怒気に支配されていた瞳をゆっくりとつむり、ひらく。
「踊るさ。逃げるより、ずっといい」
幼さを受け入れ、執着ある身体を取り戻す。いずれ自らの意志で手放せるように。
ペーマは微笑むクラーシャの右手を取った。新たな約束が結ばれた気がしていた。体表を伝う接触通信ではなく、血の通った約束が。
3.舞踏会の夜と
ペーマはいつものように情報外套を羽織り、都市の中心にある喇栄賓館の新館に向かっていた。オーディションの説明会に参加するためだ。午前の勤行を終わらせた後、幹線歩道には、相変わらず僧の禿頭と紅い覆肩衣が連なっている。
オーディションへの参加登録は自体は拍子抜けするほど簡単だった。学院が設けているエントリーフォームに、自分の戸籍番号と参加票に書いてある受付番号とを入力して送信してやればよかった。入力できるものが少なすぎて、どのようなオーディションが行われるのかという予想や対策など、何もしようがなかった。情報の送信後、ペーマの元には登録完了を示す簡素なメッセージだけが届いた。三日後にも、同じくらい簡素な文面で、オーディション説明会の開催場所と日時が記されたメッセージが来た。
ホテルへの道すがら、トークセッションでプティにそのことを話すと、
「ある意味で、実に学院らしい不親切さだね。不慣れさといってもいいかもしれない。今まで、学院がこんな企画なんて催したことが無かったからね。あったのは外部企業に学院が名前を貸して催す企画だけだった。今回は運営側も苦労してるんじゃないかな」
と、セッションの向こうの訳知り顔が思い浮かぶような返答をよこした。
「というか、結局参加するんじゃないか」
プティはさもありなんといった語調を隠しもしない。
「まあね、いろいろあったんだ」
ペーマも遠慮なく、ぶすっとした調子で言葉を返した。
「じゃあ、好敵手というわけだ」
屈託のないプティの返しに、言葉が詰まった。羅刹女の電影がはぎ取られたことを、プティに告げてはいない。いろいろな言葉が喉元までせりあがっては、何も言えずにか細い吐息となって空気に溶けた。翻訳ツールは、ペーマの喉奥の呻き声をノイズとして処理し、プティ対して完璧な沈黙を返していた。
『私だって、技術と信仰が交われる場所を探しているのさ』
プティの言葉は、沈黙を察してか、開き直りの中にわずかなばつの悪さのが含まれているように聞こえた。
ペーマが何も言えないまま、プティがそっと扉を閉めるようにセッションから退出する。
喇栄賓館について受付を済ませるまで、ペーマは口を閉ざしたままだった。
ホテルのロビーは観光客に合わせて洋風の作りをしていて、こまごました調度に土産物用の華美な装飾がされたトルコ石などが配置されている以外、映画で見るようなホテルそのままだ。
無人の受付窓口でオーディションの参加表をかざす。旧式の受付端末の反応が遅く、音声認識かと思って口を開いて声を出そうとた。
喉奥から声が絞り出されそうになった瞬間、情報外套に館内の情報が渡された。
フードを被ると、館内の経路案内が開始される。
案内された三階のレセプションルームには、すでに数人の僧が居た。少年僧も多いわけではなかった数人いた。みな妙に居心地が悪そうに、綺麗に配置されたパイプ椅子に座っている。ペーマもパイプ椅子の一つに腰掛けるが、すぐに僧たちが居心地悪そうにしている理由がわかった。普段の集会などでは経堂内の床に座っているせいか、確かにどこか身体がむずがゆかった。
時間になると、黒いスーツを着こなした中年の男と矍鑠とした老尼僧がやってきた。二人ともいかにもこなれた様子で、参加者たちの前に出てくる。黒スーツの男はいかにも企業勤めといった感じで、説法のために前に出る上師とは違ったきびきびとした身のこなしだった。意外だったのは老尼僧の方で、彼女もまた黒スーツに合わせるように機敏な所作で隣に付いている。
黒スーツの男はオウルと名乗った。聞くと、企業に属する人間というよりは、個人で企画を請け負うプロ―モーターということだった。スポンサーと学院との間に立ち、今回の企画のもろもろの決定権を持つ人間だという。
一方、老尼僧はツァムチュと名乗り、普段は尼僧院にて踊りの師範を務めていると言ことを明かした。鳥葬場の読経を担当していることや、オーディションの学院側の責任者だということも。
ツァムチュの話の最中、時折僧たちは訝しげに首を傾げたり眉を細めたりしていた。高僧の口からチャムの商業化に近いようなことを聞くとは思わなかったのだろう。ペーマ自身も、それには同じように首をかしげる部分もある。けれど、それにしては仏教に関係のない部分にでも反応していたりもする。
その違和感の原因をつかむことができないまま、ツァムチュの話は終わり、黒スーツの話が始まった。
黒スーツの男、オウルが口を開く。
「すでに応募時点の一次選考は終わっている。戸籍番号と学院の学習状況を照らし合わせて、二次選考に参加できそうな僧たちを選んだつもりだ。ここにいる全員が正式な参加者となって今回のオーディションは行われる。私は踊れないが、今回は師ツァムチュの協力を得てこのオーディションが実現した」
ペーマが椅子に下ろしたおしりに何とも言えないむずがゆさを抱えたまま、前に立つ二人は淡々とオーディションの説明に入っていった。
なぜ学院の学習状況を参照する必要があったのか、それはすぐに判明した。
二次審査の日程は、説明会の翌日の夕刻だったからだ。そして審査の場所は、幹線歩道。
「学習や前準備なしで、いきなり踊れる人間が欲しいってことだね」
黄昏が差し込むのダンス教室で、立ったままのクラーシャが、オーディションに関しての契約書やら手順書やらの書類をまとめた電子ファイルを眼鏡に投影させて言った。ペーマの元に届いたファイルを転送したのだ。
「そしてこれは、単純な人気投票じゃないのか?」
クラーシャがペーマに訊いた。
「多分そう。今日の夕方、実際に幹線歩道で踊って、観光客から集めたお布施の金額が選考基準になるって言ってた」
ペーマが素直に返した。事情を知ってるのクラーシャだけなのだから、必然クラーシャに相談するしかなかった。オーディションの説明でも、他者からの助言を禁じるような規則は説明されていなかった。
ペーマは自分の僧房にもあるような寝台兼用の椅子に腰を下ろして、やけに落ち着いたようすでうなずき返した。
「踊るのは、慣れてる」
胸に満ちる活力の風を感じながら、志気も高く断言する。
「今回評価されるのは、厳密にいえば踊りの上手さじゃないよ」
クラーシャは相変わらずの愛想のなさを発揮した。
「いかに踊りをお布施につなげられるかっていう、ある意味で大衆広告や選挙戦みたいな原理で動かないといけない」
ペーマはいまいち合点がいかない様子で首をかしげる。
「とりあえず、都市に向かおうか。話は歩きながらでもできる」
外出の準備を整える。ペーマは情報外套を着こみ、クラーシャも前と同じマウンテンパーカーを羽織った。二人ともがダンス教室の外に出てから、クラーシャが扉に施錠する。
夕焼けに染まる都市までの道を歩み出した。
「まず、生身で踊る訳じゃないんだろう?」
「うん。実際の仮面舞踏で使う予定の電影の中から、好きなものを使っていいって言われた。その中に羅刹女もあったから、それを選んできた」
羅刹女の電影は数体あったが、その中でも数週間前まで自分が使っていたものを選んでいた。ペーマだけでなく、この羅刹女が幹線歩道で作る人垣を知っているらしい僧たちもいて何人かがペーマと同じ選択をしていた。それを『僕の羅刹女』と言うことに、ペーマはささやかな抵抗を感じ、実際言葉にしなかった。権利上正式に自分のモノであったことなど一度もないものを、自分のものと呼んでいいものか。
クラーシャはペーマの心情の機微について何も触れずに話を進めた。
「なるほどね。電影の権利はもう向こうに移っているから、布施や喜捨で得た金額の出納記録も当然向こうが把握することになるんだろうね。となると『誰からどれくらいの』喜捨やお布施をもらったかっていうのも、運営側は確認できてしまうわけだ」
「誰からどれくらいの、っては?」
「例えば同じ金額をもらうにしても、ひとりから大量にもらうのか、大人数から少しずつもらうのか、貰い方が変わってくるだろう。そういうところまで、見られていると思ったほうがいい。ちなみに、仮面舞踏の場合はどういう貰い方が正しいんだ?」
正しい布施のもらい方。そんなことペーマは考えたこともなかった。特に今の要点は、作法の話ではなく、布施の正しい在り方の話だった。
「……仮面舞踏には大きく三種類の目的があって、どの目的を重視するかで違った踊りになる。目的の一つは、『衆生救済』。次に、『悪魔の調伏』。最後に『忿怒尊修法』。一つ目と二つ目は、見せるために踊るチャムで、最後の一つだけは僧の修行としてのチャムだ。最後の目的のチャムだけは、みんな――衆生に見せる意味はあまりない。王に捧げられる式典で踊られることは多いけど……。何が言いたいかっていうと、『布施をもらうためのチャム』なんて存在しないんだ」
「そりゃそうだ。踊って金をもらうなら、それは僧ではなくダンサーだろうに。今回はどの目的で踊るのが一番正しそうなんだ?」
なぜ、踊るのか? これもまた、ペーマにとって考えれば考えるほど根本的な問いかけに思えた。だが、都市に着くまでの短い時間で解決すべき論点はそこではないと、先ほどのやり取りで理解していた。
「おそらくだけど『衆生救済』だ。大火の災いはとっくに祓ってるから『悪魔の調伏』ではないし、『忿怒尊修法』を人前で踊るような式典は直近に存在しない」
「なら、大人数から少しずつもらうという戦略でいこう。『衆生』ってのは、あらゆる人間ってことだろう?」
ペーマがうなずく。鳥葬場は死臭にも気づかずに通り過ぎ、都市は眼前に迫っていた。
「今更ここで舞踊学を叩き込む気はないし、できっこない。この二つだけ覚えるんだ」
懸命に耳を傾け、言われていることを理解できるよう努めた。
「一つ、人間の脳には生得的に、あらゆる音の中から自動的に拍を抜き出す能力が備わってる。聴覚ネットワークの一部『運動計画領域』という神経細胞群だ。これは他の霊長類などは持たない能力で、例えばチンパンジーは他者と手拍子を合わせることができない。人間のほかには、オウムやハチドリなど、拍を合わせて歌でコミュニケーションをする動物しか持ってないんだ。拍を合わせられるかられないかで、敵と味方を峻別するための機能と言われてる」
ペーマは自分の懸命さが報われるかどうか不安になってきながらも、聞く姿勢だけは崩さなかった。
「二つ、人間の身体は勝手に拡張される。『社会的な相互引込現象』と呼ばれるもので、さっきの『運動計画領域』が存在している以上、人間の身体はかってにリズムに乗ってくれる。難しい言い方をするなら、人間の知覚は主として外界からの統計的な相関を抽出して暫定的に有用なモデルを作り出している――ものすごく簡単に言うと、同じリズムに乗っていれば、他人のでさえ自分の体の一部だと錯覚できる」
クラーシャがわかったかと問うような視線を投げてよこした。
「わかんないよ!」
ペーマは生真面目に自白した。
「わからなくていい。ただ覚えておけば、踊ってるうちに理解できる」
その言葉を最後に、石門の前でクラーシャと分かれた。クラーシャと主催者の間でなにかがあるようだったし、ペーマもこの状況でクラーシャといるところをあまり見られたくはなかった。電影を取り戻したとして、夜間にクラーシャの元でダンスを習っていた事が明るみにでてしまえば意味はないのだ。そう考えると、実直にこのオーディションで電影を勝ち取り、公然とダンスレッスンを続けるというのも悪い条件ではないように思えてくる。
何であれ、そこらを考えるのはひとまず後回しにすべきだった。
今は、踊ることが最重要だ。大枠の戦略――『大人数から少しずつ』――はさっき決まったし、その前にやるべきことはクラーシャと事前に決めてはおいた。
ペーマは全体の場を見られる位置まで移動し、僧房の陰に身をひそめる。
まずは、周囲の出方をみる。そして――。
考えがまとまる前に、リマインダーが時刻を知らせてくれた。
「まずは、ここを突破するんだ」自分に言いふくめるのではなく、自然と声に出していた。
オーディションの二次審査が始まった。
真っ先に動いたのは『風の王』、つまり鹿神だ。
観光客の密度が高くなり始めた黄昏時、まだ広い人々の間隙を鹿の頭をした神々が四柱、それぞれ複雑な軌道を描きながら風のように滑りぬける。広く取られた幹線歩道を目いっぱい使って、注目を引いていた。
僧房の高層部に取り付けられた投影装置から空間そのものに投影された電影だった。
観光客たちは、自分の真横や体そのものをすり抜ける神々に目を奪われ、足を止め、鹿の神たちがどこに集うのかを眺めている。
まだ日が落ち切らない黄昏時は、電影の色が濃くならない。だからこそ、その神々の速さ、希薄さといったものが最大限演出できていた。
ペーマは僧房の陰でそう感心しながら見つめていた。
『風の王』は物語調のチャムだ。今はその冒頭部分で、後に鹿神たちが開祖パドマ・サンバヴァに調伏され地に幸福が訪れるという話が展開される。『悪魔の調伏』の比重が高いチャムでもある。
『風の王』の最初の集客は良かった。広い範囲から観光客たちの注目をさらい、集めることができていた。
神々が集い、四柱の輪舞が始まろうとしている。観光客たちは広い間隔をあけてその神々の周辺に集まっていた。
黄昏時が終わりかけ、夜の色が濃くなりはじめる。
すると、また別の電影が、少し離れたところから現れた。
『閻魔王』だ。小山のようなその体は、七階建ての僧房と同じくらい大きい。高層僧房の投影装置の性能を限界まで使っているのだ。
閻魔王は身体を前かがみにし、輪舞の周辺に集まった観光客たちに巨大な顔を近づけた。ぎょろりとした水晶のまなこを向け、口は下唇を噛んだ上歯を見せつけるように釣り上げている。
陽が落ちるにつれて徐々にその極彩色の衣を纏った姿は色濃くなり、観光客たちも気づき始め、ところどころから悲鳴が上がる。その兇悪な姿に対しての悲鳴だ。
さらに大きな声が上がる。観光客たちの悲鳴ではなく、閻魔王の声だ。正確には、携帯式の音響装置から再生される合成音声だったが。
轟雷のように低く歪んでひび割れた閻魔王の声は、『打ちのめせ』『殺してしまえ』とがなり立てる。同時にその巨大な口唇をひらいて、観光客を一人、また一人と歯牙にかけてゆく。幻影のあぎとだけが噛み合わされ、観光客の肉体は一切の傷なくその場に残される。
『風の王』に注目していた観光客たちは二分された。『閻魔王』の兇悪さに恐れをなして後ずさるものが少数で、大多数はその兇悪さを堪能しに集まっていた。
鳥葬と同じだとペーマは思った。観光客たちは、死を見に来るのだ。彼らの世界には存在を許されないような、新奇なものとしての死を。
そしてこれが『衆生救済』のチャムだった。閻魔王は、人の死後必ず現れるものとされていた。死後、次の転生先が定まるまでの中有という期間に個々人が出会う、自身の一部としての兇悪な神々の一柱だ。その際、かの神々へ背を向けず受け入れることが出来れば、人は解脱し黄金郷での生活が待っているという。中有で出会う兇悪な神々を受け入れるための練習としての仮面舞踏。『衆生救済』のチャムだ。
その後も、中有の実演たる衆生救済のチャムはつづいた。
四方門それぞれからやってくる四色四柱の吒枳尼が妖艶に剣舞し、実体の無い半月刀が観光客のどてっぱらを次々と膾にした。
火焔の体毛を持つ三面六臂の忿怒尊が、六腕それぞれに剣や犂刀や鈴を持ち、真鍮のような歯をぎらつかせながら『ア・ラ・ラ』と轟々とした笑い声を響かせる。
普段のパフォーマンスが静かに思えるほどの、神々の饗宴だった。普段からこんなことをすれば、学院や管理政府から何を言われるか分かったもではない。その一切の箍が外れていた。
布施、喜捨、寄進。とにかくそういうものが観光客たちから乱れ飛んだ。観光客同士が情報共有ツールでそれぞれの場所にどんな神々が居るのかを、匿名で地図化していた。
リマインダーが、残り時間も少なくなっていることをペーマに伝える。
夜はさらに深まり、完全に陽が落ちて、都市は紅い虹に包まれる。渓谷に林立する高層僧房群が真紅の輝きを放ち、疲れ知らずの電影の神々は、事実神そのものは肉体を持たぬ空であることを体現しているかのように、休まず死後の再演を続ける。
ただ、人は人だ。いまだ肉体を持っているし、疲労もする。
そこを狙うのがペーマとクラーシャの戦術だった。
ペーマが満を持して幹線歩道に出ようとした瞬間、声が聞こえた。
「『ああ、善い人よ、このような幻影が現れた時に汝は恐れおびえてはならない。汝自身は生身ではすでにないのである。汝の身体は習癖を作る力によってできているものであり、意識からできている身体なのであるから、殺されて裁断されても死ぬことはないのである。実のところ、汝は空それ自体が姿を形づくったものなのであるから、おびえたり、おののいたりする必要はないのである』」
あのエンジニアもどきと同じ、有名な埋蔵経典からの引用。
「プティ……」
つい、ペーマの口からその名がこぼれた。直感だった。
ペーマの視界の端、幹線歩道の先、喇栄賓館の入り口から、観光客に紛れて黒い女が出てきた。
正確に言うなら、肌は深い深い紺色で、右手に湾曲した刀、左手には骸骨の器を持った、『マチク』・忿怒尊吒枳尼・黒女。
背には翼を閉じた黒鳥を象ったかのような妖しい黒い炎がとぐろを巻いている。
『マチク』は、明らかに人間の歩みで、人込みの中を歩き出した。震えがあった。
ダンス・モーションを読み込ませただけの電影には、震えがない。それは翻訳ツールの沈黙と同じで、細かな震えはノイズとして処理され、動きには反映されないからだ。
『マチク』は細かな震えを抑え込むように、しゃなりしゃなりと歩を進め、観光客の額に対して無造作に右手の曲刀を振るう。
眉の少し上あたりを通過した曲刀は、やはり電影の一部であり、刃は空を切る。
「この曲刀は、貪り、瞋り、愚かさという三つの魔を完膚なきまでにうち滅ぼす吒枳尼の力の象徴である」
声自体に震えはない。この聴衆に聞かせるために、事前に録音しておいたものを音響装置から流しているのだろう。
けれど、その曲刀を投影した右手はわなないていた。
緊張か、恐怖か。どちらにせよ、そのわななきは観光客たちに途方もない共感を与えた。賓館から現れたということも、彼女を身近に感じる要素として計算されていた。
完全に、流れを掴んでいた。彼女を中心に、巨大な群衆の円ができる。
まさしく主役の登場といったおもむきで、それまでの全てのチャムが前座になってしまっていた。神々の饗宴の中に現れた、神を纏った人間。彼女の動向が、このチャム全体を物語に変えてしまっていたのだ。
いま何の策もなくすごすごとペーマが出て行ったところで、ただの羅刹女では見向きもされないだろう。
ペーマが注目を手に入れるためには、何とかして彼女と同等の役、相棒か、好敵手になる必要があった。
そのためにはどうするか。考えて、すぐに行動にうつした。
ペーマに時間を与えるかのように、『マチク』が口上を述べる。
パット
身体への愛着を捨て去って神魔を断ち切る
心はブラフマ孔から法界に踊りでる
死の魔に打ち勝って恐るべき吒枳尼に変身する
右手には煩悩の魔を切断する曲刀を握り
頭蓋を切り裂いて五蘊の魔にうち勝つ
左手には骸骨の器をもって働き
三界の人頭骨でできた炉の中に
全宇宙をつつみこむ巨大な死体を投げいれて
短い「アー」字と「ハム」字で甘露に変える
三文字の真言の力は甘露を清め、増やし、変化させていく
オーム・アー・フーム
口上が終わった刹那、マチクの胸の中央から白い左手が生えた。泥濘に咲く白蓮のようなそれは、口上の間に裏道を回り背後から接近したペーマの、羅刹女の左手だ。マチクの背中に左腕を押し付けるようにして、腕の電影だけを透過させた。
観光客たちは、電影であるかのように透過し、生身であるかのようにふるえる左手に釘づけになった。
マチクが背中に押し付けられた左手の感覚に驚いて振り返る。
それら全てが完璧に重なった瞬間に、ペーマは電影を全身に纏い、マチクの視線をさらいながら、群衆の円の中に躍り出た。
羅刹女。本来の艶と兇悪さを備えながらも、とびきりのかわいらしさで戯画化された、都市で人気の一柱。ペーマの、もう一つのからだ。
観光客たちからすれば、ここ数日ほど姿を見せていなかったいつもの羅刹女が、このタイミングで復帰したのだ。
「白蓮」
二人の間でしか聞こえない声量で、その名前の意味を確認するかのようにプティ――マチク忿怒尊吒枳尼が言った。
その言葉にペーマ――羅刹女が微笑み返したとき、神々への畏怖に叫喚していた群衆が低くけれど確かに沸いて、仮面舞踏は二人だけの舞台になった。
復帰を兼ねた登場のおかげで、ペーマの元には早くも布施が乱れ飛んでいた。同じように、それを十全に演出したプティへも。
その『マチク』が口上を歌い上げた空間には、何よりも重要な要素があった。音だ。
骨笛の、亡者の叫びに例えられる高音と低音が奇妙に遊離した響きが、他の楽器たちを先導する。
羅刹女と視線を交わらせていたマチクが、静かに動き出していた。見つめ合っていた羅刹女でさえ、しばらくは気づけなかったほど、ゆっくりと滑らかに。脇に垂らしていた両腕が、見えない板の上で大きく円を描くように一切狂いの無い角度と速度で動く。
長笛の地を這うような重低音が、殷々とした残響のままに老狼の唸りのように音階を映してゆく。シンバルの激しい金属音やリズミカルな両面太鼓の音が加わり重層化してゆく音響空間の中で、最後に毎朝勤行堂の読経で発せられているような声明が加わった時、マチクにも変化があった。
手が増えた。足も。
空間を滑ってゆく彼女の濃紺の四肢が、身体が、踊りの最中その空間に凍結されたように静止して、踊りつづける本体と別れたままその場に固まっていた。
片足を上げたまま体幹を軸に回転させれば、宙に浮いたままの足が残る。腕も左右交互にはばたかせれば、それは等間隔に腕の残像を作った。
空間に残る残像の腕の先、印を結んでいる指先は、その一瞬一瞬を言葉として宙に置いている。
置き去りにされた四肢も永遠ではなく、時を経るごとに濃紺が薄れ、溶けるように形を失っていった。
それらを成立させているのは、一分の隙もなく整えられた肉体の制御だ。
ペーマはとっさに、分離の練習を思い出した。まさしく、肉体の部位を個々に切り離して動いているのだ。
そして、これが『忿怒尊修法』のチャムであると、明晰な理解が来た。少なくともペーマ自身の直感はそう告げていた。
重く低く緩慢に場を支配する静のチャムが、観光客たちが作る一圓に浸透し、彼らを沈黙させ、自分自身の根幹に存在する拍である心音さえも伴奏として響かせていた。
個々の生命の律動がそこにあり、いずれ尽きるであろう有限性を刻一刻と宣告するかのように、脈拍を数え上げさせていた。
死だ。死後の世界ではない。今までの仮面舞踏とはくらべものにならないほど明確に、人間が生得的に内在させられている死が、肉体をはぎ取って暴露させられていた。
ぽとりぽとりと立ったまま肉体が腐り落ちるように、布施が観光客からしたたった。
黒い吒枳尼は、そのしたたり落ちた甘露をすすり、妖しく微笑んだ。救ってごらんと、ペーマを――羅刹女をいざなっているようにも見えた。
足を、踏み出せ。
ペーマは自身を叱責した。本当は柏手の一つでもぱんと鳴らしたかったが、ペーマの片手はすでに実体がない。ならどうすればいいのか。
クラーシャの言葉がよみがえった。運動計画領域――音楽から拍を勝手に抜き出す生得的な神経細胞群。
分断され、個々人が持つ死の拍に支配された衆生を、生還させる。最初の戦略通り『衆生救済』のチャムを踊るのだ。
夜はさらに深まった。明るすぎる都市を出れば夜空には星の瞬きがまばゆいだろう時間になっている。
大切なのは、呼吸を合わせることだった。深く、息を吸った。それこそ、聴衆にさえ呼吸が伝わるほど大きな動作で。匂いなんて、緊張と恐怖でもうわからなくなっていた。肩を上下させ、瞑想の時のように胆の筋線維を意識しながら、肺腑の奥底まで空気を吸い、長く長く吐いた。
それを数回繰り返すうち、聴衆たちも羅刹女の動きを察して、目線の先をマチクから移し始める。
流れ続けている重い伴奏に合わせて、ぱんっと激しく音がするように、ステップを踏んだ。
つまさきが地を蹴る。澱で淀んだ水面から飛翔するさまを想像しながら、高く、のびやかに。
ペーマにできることはまだ多くない。死を振りまく舞踊なんて一朝一夕で真似できるものではない。ましてや、まだ十四のみそらには荷がかちすぎる。だから、いつも通り踊った。
日常の踊りだ。
分離ではない。体幹と連動した腕や脚が、遠心力に従って広がる。全身にくまなく巡らされた血管を通って血潮までもが四肢に寄り、流体のように舞踏が波打つ。
そして、拍を逃すことなく、静止した。
体の各部位に急制動をかける。脚はつま先だけでなく足裏全体で地を踏みしめ摩擦を得て、全身の筋肉で身体が持っている慣性を受け止めた。
ペーマにできることは多くない。ゆえに、何もしないという静止を織り交ぜることで、踊りに拍を作った。
踊る前に行った呼吸と同じように、舞踏の間に一回、二回、三回と繰り返した。
規則的に緊張と弛緩を繰り返すのではない。筋骨から力を抜く瞬間などわずかしかなかった。
例えば、体幹から肩へ捻りが伝わる、肩から二の腕、肘、手首、そして指先へと捻りを伝搬させながら翻し、血がしぶくように跳ね上げる瞬間だけは、自然な脱力に任せた。
転瞬。全身をその姿勢のまま固定し、拍を作る。
今までペーマが踊っていた、絶え間ない流れの中で手足を泳がせているだけとは違う、筋骨によって文字通り自分を形成するような力が必要だった。
マチクが、置き去りにされる肉体を正しい流れの中で空間に配置していったのとも違う力が。
さらにもう一度、力の限り肉体を静止させたとき。
ぱん。
かすかな手拍子の音が、確かにペーマに届いた。観光客の誰かが、ペーマが作った拍に合わせてくれたのだ。
運動計画領域――音楽から拍を勝手に抜き出す生得的な神経細胞群。言葉の意味はわからなくても、何を伝えたいのかは分かった。
ペーマが自分では決して出すことのできなかった音が、生まれた。
マチクの静に支配され凪の湖面のようだった群衆に落された小さな波紋は、すぐに伝搬した。
足が地を蹴り、宙で腕を伸ばし、着地、静止。ぱんっ。
先ほどよりも大きな、手拍子の音が複数個所から聞こえた。
身に覚えのある感覚だった。
静止の状態から、総身に力を込めて跳ぶ。
宙へ躍る。
跳ねる指先が袖をはためかせ、加重を受けて撓う筋骨が電影を連動させ、聴衆が帯びる鼓動と拍が合わさりうねる。
呼吸を止める。
けれど心臓は脈打ち、滞留し輻輳する血液の感覚が、一瞬の間をおいて落下と共にゆるむ。
接地。
つまさきから足裏へしなやかに加速度が分散され、着地の慣性と重力とに従った血が、体の各部へと降りてゆく。
ぱんっ。
嫋嫋とした脈拍の余韻が、電影の隅々まで亘り、そのまま聴衆へと滑り落ちるように広がってゆく。
手拍子の音が、炉の中で爆ぜる薪のように熱量を生み、ペーマを含めた全員を巨大な一つの鼓動でつつみこんでいた。
静止と手拍子、どちらが主でどちらが従であるなどという区別はない。
ペーマの肉体と、群衆の拍とは、完全に連動していた。
『社会的な相互引込現象』――同じリズムに乗っていれば、他人のでさえ自分の体の一部だと錯覚できる。
この状況がまさにそうだった。場にいる全員が、死に支配されながらも生存していた。
ただ単純に、他者が生存しているということに対して、喜ばしい気持ちが湧いた。
ペーマは踊りながら、群衆が作る円の外周に近づいた。最初に手拍子が生まれた場所の近くに。他者存在の貴さに触れたくなってのことだ。
群衆はわずかにざわめく。
ペーマが静止のタイミングで手を差し出すと、おずおずといった感じで群衆から一本の右手が伸ばされた。
静止が解かれる瞬間に、ペーマは自分の右手と伸ばされた右手の高さを合わせ、打ち鳴らした。
ぱん。
ペーマ一人では打ち鳴らすことのできない右手が、軽やかに音を立てた。
それを皮切りに、円の外周から無数の右手が伸ばされ、ペーマを迎えた。
もう静止は必要なかった。個々人がペーマとともに打ち鳴らす右手自体が拍となっていた。
死によって分断された個々人の鼓動ではなく、相互の生存に裏打ちされた巨大な生命の脈拍だ。
そして、手を打ち合わせながら踊るうち、ペーマの触れた右手からの接触通信で布施が渡されるようになった。
決して多い金額ではない。それでも、クラーシャの右手を取った時ともまた違う形の、血の通った約束が結ばれるような気がしていた。
ペーマは泣きそうになった。
泣けば光学補正用の点眼薬の効力が落ち、ペーマの視界だけ電影を見ることがかなわなくなってしまう。それを避けるために、必死で涙をこらえながら、外周をめぐり、可能な限り多くの人々と右手を打ち合わせた。
一周して円の中央まで戻ると、そこには優しく微笑むマチクがいて、彼女もまた右手を差し出していた。衆生救済を称えるように。
彼女と、右手を打ちあわせた。
ぱん。
それを皮切りに、群衆から万雷の拍手が沸き起こり、測ったようにリマインダーが二次審査の時間の終わりを告げていた。
マチクとともに聴衆に向かって一礼をする。肩の荷が下りた思いがして気が緩み、ペーマの頬を涙が滑り落ちた。
筋骨による肉体の形成だけではどうしようもない、感情の雫が流れた。これもまた、センサーにはノイズとして処理され電影には表出されないものなのだ。それを無為と知りながら抑えようとして、動けなくなった。
それを察してか、マチクが帰路を先導してくれた。何も語りはしなかったが、手ぶりで賓館への道を誘ってくれていた。
ペーマは、クラーシャと帰り道をどうするかという打ち合わせをしていないことをここにきてやっと意識した。そのまま石門の外に出るわけにもいかず、マチクに従い賓館への道行くしかなかった。
マチクの手ぶりに従い、彼女よりも先にホテルへの道を進んだ。マチクは、すれ違いざまにねぎらいの微笑みを向けてくれていた。
ペーマが見たのは、吒枳尼の電影の中で微笑む踊りの師範、老尼僧ツァムチュの微笑だった。
昼前の鳥葬場は人の匂いがした。死者の饐えた匂いもそうだし、見物に集まった観光客たちの――生者の発散する腥い好奇心の香りもそうだ。
僧たちが午前の勤行を終わらせた後、その日の一回目の葬儀が行われる。日の高い時間の鳥葬は、よく見えるからという理由で人気だった。
会って、話がしたかった。喧嘩別れのようになってしまったエンジニアもどきと。昨晩は、人のごったがえす賓館の中では話す気も起きず、電影を消してさっと裏口から逃げ出していた。
昨夜の舞踊の結果患った全身の筋肉痛をいたわりながら、ペーマが顔を上げる。目の前には丘の斜面に並んだ人の群と鳥の群が見える。それらの集団から一歩引いた場所に立ち、全体を見るでもなく眺めていた。
斜面の下にはコンクリートで荘厳にしつらえられた鳥葬場がある。旧世紀に何度か場所を変更され今の場所に落ち着いた鳥葬場には、仏塔と経文が書かれた旗が風に揺れている。
おもむろに、三目の仮面をつけた鳥葬師が現れ、白布に包まれたなきがらが運ばれてくる。鳥葬師の手には、人体を解体するための鉈が握られていた。
なきがらの布がはだける。穏やかな老婦人の貌が現れる。
鉈が適切に振るわれた。最初は背、次に胸部というように。人という形が、決められた手順で崩されてゆく。
飢えたはげわしが、その肉をついばみやすいように。
ペーマ自身、いまだに慣れない。より幼いころから、もう何度も目にしていたとしてもだ。
鳥葬師の鉈が、自身の肉体でも操るかのように的確に、慈しみ深く、振るわれた。腹腔に刃が潜り込み、赤い肉の花が咲く。
別の鳥葬師が、斜面に折りたったはげわしの群れを誘導し、水が流れ落ちるようにその他者に対して開かれた肉体へと到達させた。
読経の声が流れる。近くに尼僧の集団が控えており、葬送の間に経を読む。この学院では、僧の義務として遺族からの布施を受け取ることを禁じられた献身の音だ。
ペーマはしばらくその場に浸されていた。
読経が終わる。控えていた尼僧たちが場を去る準備をしているところへ、ペーマは声をかけた。うろんげな視線を向けられた。それでも、凜然とした師ツァムチュは少しだけ二人の時間を作ってくれた。
二人で生者の気配だけが残った斜面に並んで立った。
ペーマには、昨日の熱狂が夢のことのように思えた。いまも、なんだか現実感がない。
「いなかる御用で?」
老尼僧が静かに訊いた。
ペーマは何から話すべきか迷った。脈絡がないと思いつつも、彼女がいつも話していたエンジニアもどきであるとする理由を並べた。
「まず、翻訳ソフトにンガリ方言用のアップデートなんて、普通の僧はしないんです。だから、説明会の時があなたと初対面だった僧たちは、あなたの話の最中に時折首かしげたり、眉を細めたりしていた」
「あらまあ。ンガリの方言を話す人間なんて、私くらいの齢なら珍しくありませんよ」
「そうですね。踊っている最中に『白蓮』と声に出したことだって、突然胸から生えた左手がそう見えただけかもしれないですし」
ペーマはそれ以上、互いの出自や根拠を明確にするのをやめた。舞踏の最中に泣いてしまい、電影の向こう側にあなたの顔を見てしまいしたともいわなかった。
クラーシャに教わった大人の流儀だ。語るべきでないことを語らないという。
まったくもってそのことに救われていた。もし、プティがツァムチュであると明言してしまえば、ペーマの行動は学院の運営を司るような高僧に筒抜けだったということになる。逆もまた然りで、プティが語った全てのことも、憶測ではなく内情を知った上での発言だったということになってしまう。情報の漏洩だ。ツァムチュにも企業的な罰則が課せられるだろう。それは誰の得にもならない。
「私はね、技術と信仰が交わる場所を見てみたいんだ」
ツァムチュが訥々と言葉を落とした。それまでの泰然とした口調から、少し砕けていた。
「切断と呼ばれる瞑想がある。自らの身体を供物として捧げることを想う瞑想で、自身が『マチク』・忿怒尊吒枳尼・黒女となって自分の死体を切り捨てるような想像をする」
先ほどペーマの眼前で行われた葬儀がまざまざと脳裏に蘇った。骸となったこの老尼僧が啄まれる姿が浮かんだ。
「電影は、それを手助けしてくれることもある」
「身体に電影を映すこと、御仏と一身になること」
「前に、聞いたね。けれど、もし私や君が死んだとして、この肉体は空行母達に啄んでもらうことができる。けれど、電影を、誰が啄んでくれるんだ? 『虹の身体』は見つけられそうかい?」
そう訊かれて、久しぶりにその単語を思い出した。『虹の身体』という理想への憧憬は、昨日の舞いで消えかけていたのかもしれなかった。
「いいえ。上師、私はまだ『虹の身体』というものが、なんなのかさえ、知りません」
「そうかい。君は昨日の夜、たしかにその虹の身体に片手だけでも触れていたと、私は思うんだけどね」
片手。そう言われて、ペーマはどちらの手を指しているのか、すら判然としなかった。それを問い返したところで、きっとまた沈黙が返ってくるような気がして、ペーマも沈黙で返す。
「……何を、迷ってるんだい?」
「迷ってるわけじゃありません。ただ、知りたかったんです。あなたが、なぜこの企画に参加しているのかを。技術と信仰の交わる場所って、いったい、なんです?」
「昔の話をしよう。悲しい歴史の話は飽いてしまったが。チベット語の習得が仏学院に入らないとできない時代があったんだ。中国語と英語最初に覚えて、それを使わないとこの地での生活ができなかった時代が。プログラミングだってその時習得した。あとは、外国のミュージカルを屋外に広げた白いシーツにプロジェクターで投影させて村のみんなで鑑賞会をしたり。長老たちにはいい顔をされなかったけど、私にはそれらが輝いて見えていたし、今でも輝いて見える。でもそれは、この地の輝きがかすんでしまうということではない」
ツァムチュが後ろを振り返った。
ペーマも共に、振り返る。視線の先には、鳥葬を見終え返ってゆく観光客たちと、観光地化された宗教都市が見える。
まだ高い日の強い日射で、僧房群の紅い電影はその内に秘めているくすんだ灰色を透かしていた。だからこそ、道を歩く僧たちの紅い衣がよく見た。
「誰も見たことがない曼荼羅を描きたかったのさ。この都市全体で電影を使った巨大で動的な曼荼羅を。どんな人間がどんな目的で都市を訪れたとしても、功徳を積ませ悟りを開かせてしまうようなね」
死者の幸福を祈るように、ツァムチュは語った。
もしかしたら、死者への読経に慣れすぎた老尼僧の言葉が、自然とそんな響きで聞こえただけかもしれないとペーマは思った。
「ペーマ、君が踊ってはくれないかい?」
さらりと問いかけが来た。踊ることに異論はなかったが、まだこの老尼僧に踊りの技術で匹敵できるとは到底思えなかった。
「いえ、僕はまだ、この体が四分五裂して、都市と一体化するような想像はできません。昨晩のように、死を踊るなんてことは」
そうか、とツァムチュの口から風の音が漏れ聞こえた。
「もし、都市の全体の曼荼羅を、計算資源や環境変数から動的に装飾のボーン数や柔らかさを決定するんじゃなくて、僕の感覚に合わせて決定できるなら、僕は喜んで協力しますよ」
ペーマはかぶりを振って、友達に冗談を言うようにいかにも真面目な口調で言う。
「いつだって、ユーザーは開発側に無茶をおっしゃる」
矍鑠とした老尼僧が、愉快さを隠しもせず闊達に笑い、右手を差し出した。
ペーマはそれを、しっかりと握りしめた。クラーシャのときのように差し出された手を握るのでもなく、二次審査の時のように打ち鳴らして拍を刻むのでもなく。
右手で確かなものを受け取った。
「あなたは進みなさい、あの虹の彼方へ」
ンガリ訛りでひずんだ英語のささやきが、ノイズの処理などされないひずんだままの音でペーマの耳に届いた。
老いた彼女の、生来の声。英語の歌の一節。
ペーマも、ノイズだらけの沈黙を返した。
その日の夜、ペーマの元に最終選考への進出を知らせるメッセージが届いた。
クラーシャに報告のメッセージを送ったが、返信はなかった。
4.呪われたもの
夕暮れ。溶けたバターじみた陽が紅い都市に染み渡った頃、最終審査が行われる施設に着いても、ペーマの心は決意と不安で揺れていた。何度メッセージを送ってもクラーシャと連絡は撮れず、ツァムチュ――プティへも連絡するのがためらわれる状態で、最終審査の日を迎えた。
その孤独の数日が、日に日に不安を増大させていった。
最終審査は喇栄賓館旧館で行われる。学院を形作る丘の峰、巨大な幻化堂の隣にそびえる十六階建ての宿泊施設だ。
旧館とはいえ大火からの再建の際に大幅な改装を経ており、新館と比べても遜色ない優美さを備えていた。
ひとたびロビーへ足を踏み入れれば、読経の際に使われる堂をモチーフにした内装は都市の電影と同じように朱塗りに極彩色の文様が描かれている。都市と違うのは、実際に塗料で色がついているということ。可能な限り、実物であることに拘られた空間だ。
天井は高く、おそらく三階あたりまで吹き抜けになっているように見えた。
内装こそ仏学院的だったが、そこを行きかう人々は誰一人として袈裟を掛けていなかったし、頭を丸めてもいなかった。都市に繰り出している観光客やバックパッカーたちの機能性を重視した服装とも違う。洒脱なドレスやスーツを着こなす、このホテルから出ない人たちだ。ある意味で今まで嗅いだどんな匂いよりもなまぐさい、観光産業に関わる人間たちの巣窟といえた。
ゆえに、僧の格好をしたペーマは悪目立ちしていた。情報外套を肩に羽織ってはいたが、外套の前は閉じておらず下に纏った紅い覆肩衣が丸見えだった。
ここは仏学院の中なのに、と内心で呟き居心地の悪さをごまかして、ペーマは受付案内に声をかける。
受付は怪訝な顔もせず、最終審査の部屋の場所を教えてくれた。ただし、受付は声よりも先に情報外套への情報照会をかけてきてからだったが。
聞いた通りエレベーターに乗って十六階に行き、人気のないフロアで外套のフードを被った。
ふいに窓の外をのぞけば、目に入るのは屋上の発電パネルだけで驚いた。高所から見下ろせば、この都市はこうも無機質に見えるのだ。なるほどという感じだった。ここに滞在する人たちには、この都市がこう見えているのかと。
窓の外から目を離すと、案内板を見つけた。八か国語で書いてあってもペーマが読める文字は何も書いてない案内版に、翻訳ソフトを当ててようやく目的の部屋の前まで来た。
ノックして返事を待つ、そして流暢なチベット語で返答が来た。
扉を開くと、だだっ広いレセプションルームに黒スーツの男と、見慣れた女がいた。二人とも長机に着いている。
「クラーシャ……」
クラーシャは何も言わず、不愛想というよりも無表情に宙を見ていた。
説明会の時に目にした黒スーツの男――オウルが、入室を促すように手で部屋の中央を指した。
扉を開いて固まっていたペーマが歩を進める。
「私は踊れないのだよ」
だから、この女をそばに従えているのだと黒スーツの男は言外に語った。
「師ツァムチュはこの審査に参加しないのですか?」
ペーマが歩きながら訊いた。
「ふむ、気になるかね」
「仮面舞踏としての舞の出来不出来は問われないのかと思いまして」
「それは君たちが先日受けた二次審査の話だ。二次審査では師に直接参加してもらって、布施の受け取り方まで審査させてもらったよ。最終審査では、君たちの踊りが経済的な目的にかなうかどうか、芸術としての価値を生み出せるのかの審査だ」
足を止め、一拍置いてから訊き返した。
「……お金になるかどうかってことですか?」
「それが『信仰』という価値観にそぐわないことは承知している。だがこれが私の仕事だ。もし承服できないのなら、君は今すぐ後ろの扉から外へ出ていくという選択もできる。経済は、悪かね?」
ペーマに、言い古された問答をするつもりはなかった。
「悪ではありません。お金そのものに対する執着が悪徳と呼ばれるものです」
「なら進みたまえ、最終審査に入ろう。君が自身の功徳を、経済という形に変えてでも、人々の救済のために使いたいというのなら」
そういわれて、ペーマは足を踏み出すのをためらった。自分が羅刹女の電影を取り戻そうとしていることが、まさに執着なのだ。クラーシャの右手を取ったとき、それは納得ずくのはずだった。けれど、
『功徳を、貨幣という形に変えてでも、人々の救済のために使いたいというのなら』
そう言葉にされると、自分がひどく場違いな動機を抱いている気がして、ここにいることが恐ろしくなった。この数日で醸成された孤独と不安が、それに拍車をかけた。
それでも前に進めたのは、プティ――ツァムチュが、進みなさいと言ってくれたからだった。ツァムチュから受け取ったものを、無下にするわけにはいかないのだと、無理矢理自分を動かした。
最終審査が始まった。
レセプションルームの明かりが落ち、カーテンが自動で引かれ、室内が暗闇に満ちる。
天井から人感式のスポットライトが照らされ、ペーマの姿が浮かび上がる。
そして、ペーマの隣には二次審査の際に使った羅刹女の電影が空間に投影された。室内全域が、投影用の機材を備えているのだ。
「今からその電影に、ダンス・モーションを流す。この私の隣の女性が、今回のために収録したダンスだ。彼女はかつてロシアバレエ団に所属していて、名うてのプリマだったこともある。踊りを他人に見せるという目線からの評価をしてもらうために、今回の審査に加わってもらった」
「つまり、何をすればいいんですか?」
「彼女の踊りを超えろ」
何一つ具体的ではない指示に、ペーマは戸惑った。戸惑いどころか、これが本当にオーディションなのかどうかさえ訝るようになってきた。さらなる疑問もあった、踊れないクラーシャを、いかにして踊らせたのか。クラーシャが踊る権利とは何なのか。
どれひとつとして判然としないまま、踊りが始まってしまった。
電影の右手が、すうと伸ばされる。
ペーマの眼前に、鉈でも突きつけるみたいに。
短刀でも、剣でもなく、鉈だ。鳥葬師が遺体の解体に使うたぐいの、機能的で鋭利な鉈。手の形が、ペーマにその認識を与えた。クラーシャが普段基礎にしているロシア式のバレエの形ではない。腕から指先までを柔らかく反った一本のラインで見せるのがロシア式だと、かつて教わったが、今眼前にある指は、五指がそれぞれ個別の反りを持って、手首から先に花開いていた。
腕と同じラインを描くのはひとさし指。中指は根元からそのラインに対して内側へ曲がり、親指との二指で何かをつまむような形になっていた。薬指も小指も、互いに反発し合うかのように距離を開けている。人間が日常生活で作ることのない手の形、それが鉈と同じく日常からの異物として、ペーマに認識された。
実際、鳥葬場で鉈を目にしたときのように、ペーマはその切っ先を注視させられていた。
眼前十数センチの距離にある電影の右手が、ほんのわずかに上下している。人体が避けて通れない、呼吸による上下だと分かった。
ノイズだ。普通ならノイズとしてフィルタリングしてしまう動きをわざと残してあった。
いかにも人間的な呼吸のリズムが目の前の指先の上下で感じられた。
だが、人間的と言えたのはそれだけだ。
いつまで、静止が続くのか。
伴奏も無く、地が足を踏む音も手拍子の音もなく、静止した肉体が無機物じみた様相で、ペーマの目の前に展示されている。
それは確かにペーマが今まで纏ってきた電影なのだが、奇妙なほどの重量感、いや存在感を放って目の前の空間に展開されていた。
これは何なのだろう。謎のままに始まった最終試験の全てともいえる問いかけを声に出しそうになったとき、電影は動作を再開した。
つま先立ちになり、畔に打ち寄せるさざ波のような足さばきで室内を移動する。腕を開いては跳び、足先が綺麗に開かれた状態で着地する。明らかに仮面舞踏の動きではなった。バレエだ。
クラーシャに仮面舞踏は踊れない。ペーマはずっとそう理解していた。なぜなら、仮面舞踏で踊られるものの意味を知らないからだ。『衆生救済』、『悪魔の調伏』、『忿怒尊修法』、それらの技法をペーマが語ったとして、そのもととなる神話を知らなければ、舞踏の意味は掴めない。体の動かし方がわからないのだ。
だから、クラーシャは、意味を踊らなかった。
「ノンプロット・バレエと言い、一切の物語性を排して踊られる舞踏です」
クラーシャが台本でも読むみたいに言った。電影の羅刹女は踊り続ける。
軽く助走をつけて、小さく跳ね跳び、片足を大きく上げる。空中で脚が胴に密着しそうなほど高く上がっては、着地の際に素早く振り下ろされる。勢いを殺さず、飛ぶように走っては、慣性を体幹方向へ巻き込んで、回る。胸に近い位置から上方へ開いていく両腕は、自身の腹腔に指先を突き入れ、そのまま胴体から自分のでも生皮を剥ぐように、動いた。
決して気持ちのいい踊りではなかった。ひどく機械的で抑制的だ。身体の可動範囲から、可能な限りの意味を、その手の鉈でそぎ落としてゆくような舞いだった。必然、残された動きは、残存部を優しくいたわり、大きく強調されている。表象としての意味が剥奪され、機械的で抑制的な動きが、これ以上ないほどやさしく、花のごとく美しかった。
ペーマにとってそれは、人体をくまなく理解しつくし、そのうえで慈悲の刃を振るう、鳥葬師と同じに思えた。
生や、死の、体現ではないのだ。そこにある人体を受容し、献身と理解で肉の花を開かせる。
純粋な美のための踊りだった。生や死という意味が剥離された物的な人体に残るのは、凄絶なまでの美という価値だった。
クラーシャは、この舞いのために、肉体を拡張し、人生を捧げたのだ。
やがて、眩暈がするような美の表出が終わる。
この舞いに、匹敵せよ。
黒スーツの男――オウルは、こともなげにそういった。
ペーマにはわからなかった。
「なぜ、彼女が踊らないのですか? 私たちに彼女と同等の舞踏を求めるよりも、彼女に私たちが舞踏の型を教えたほうが、お金になるのではないですか?」
声に出して、訊いていた。経済性というこの男が重視していると思しきものに則って考えるなら、自然な発想に思えた。
「許可されていないからだ」
オウルが静かに言葉を発した。
屋上でクラーシャが語ったことと一緒だった。
「どういう、許可なんですか?」
より深く、踏み込んで聞いた。
「物理的な拡張身体による身体表現での経済活動は、文化保護の観点から規制されている。ようするに生身のダンサーがくいっぱぐれないように保護されているんだ。文化庁によってね。ここの名前だって『喇栄文化特区』だろう? 仮面舞踏だって、保護された文化の一つだよ」
「じゃあ、なんで今のダンスモーションは作れたんですか? 踊れたんですか?」
退かずに、問いをつづけた。核心が、この先にあるのだと感じていた。
「経済活動ではないからね。学院の文化企画に参加する際に、オーディションの審査のためのつまり教育目的だという名目で、申請してある。この企画の最初期の頃に協力してもらった。君が通うダンス教室だって、私が教育目的の名目で申請を出したから開いていられる」
すべてがつまびらかにされたとき、ペーマは何も言えなかった。この男は、すべてを知っていた。
クラーシャも、男の隣で、何も言わずに座っていた。
沈黙が場を支配し、ペーマが鉈を突きつけられていたのと同じくらいの時間が流れてから、ペーマがぽつりと言った。
「なるほど、あなたが、魔法使いか」
胸中の湖面が完璧な凪の状態になり、静謐で透明な心のままに、声が出ていた。
この男こそ、クラーシャに呪いをかけて、ツァムチュを黒鳥たらしめた張本人なのだと。
「ふむ? 経済や流通を、価値の変容をもたらすも魔法ととらえるなら、確かに私は踊り手ではなく魔法使いが正しいが……」
「いえ、ひとりごとです。忘れてください」
ペーマは静かにかぶりを振り、態勢を整えた。
「一つ、お願いがあります」
「なんだい?」
「僕が使っていた、羅刹女の電影。あれはまだ未完成です」
ペーマを見つめるオウルの眉が、怪しむように歪んだ。
「完成品があるのかね?」
「アップデート用のデータがあります」
「学院が権利を所有する電影データに、作者不明のアップデートを適用させると?」
「学院からの許可は出ています。作者の署名も同様の名で記されてます。尼僧ツァムチュの名義で。それを適用させてもらえませんか?」
ペーマの脳裏に、エンジニアもどきの声がよみがえる。
『あの虹の彼方へ』
鳥葬場で、手を握った時に接触通信で受け取っていたデータだ。ペーマが無茶を言って作ってもらった、舞手の意志で肉体以上のものを操作できるようにするための。
だが、オウルは、譲らずに告げた。
「それでも、アップデートの許可は出せない」
他の参加者との審査条件の公平を期すためだということだった。
当然の判断であり、ペーマも理性では納得していた。
これはペーマ一人の試験ではないのだ。
そう思うことで、ようやく自分を客観的に眺められるような冷静さが戻ってきた。凪のような心は、すべてを無分別にしているに過ぎなかったのだ。
あらためて、深呼吸し、脈拍を整えた。
何を踊るかは、もう決めていた。
「はじめます」
情報外套が、羅刹女の電影を映した。
左腕を高く掲げた。
ただし左腕の先は、投影させなかった。電影の改変ではなく、表示する部位の選択で、左腕の先端だけを消していた。
なぜか。炎がペーマのそこを奪い去ったからだ。
そう炎だ。ペーマは顔をゆがめ、その場からずるりずるりと逃げるように踊った。
大火の際に、倒壊した僧房に巻き込まれて左手を失った。失うことは、この地では珍しくない。生活圏を整えられた喇栄文化特区を出れば、急峻な渓谷は珍しくもないし、道はしょっちゅう崩れて人や家畜や家を巻き込む。失われることは、身近にあった。
その、失われた肉体の、空白を踊った。
すでに皮に覆われた腕が、その身の終端であることを意識して踊るのだ。
回転をすれば、左右の腕のバランスが違うがゆえに、重心がずれて体幹がブレた。そのブレにしたがって体を倒し、地に右手をつけて重心を移した。
この舞いもまた、すでに仮面舞踏の範疇にない動きだった。だが、仮面舞踏でとしての審査はすでに終わったと告げたのはオウルなのだ。
なら、ペーマが踊るのは、自分の肉体において他ならない。身体の拡張が、物理的や電子的であるのを問われないのと同じように、肉体の欠損もまた、表現の拡張の一部だと思った。少なくとも、クラーシャの舞いが、機械的に拡張された体を踊ったものであるのなら、ペーマもまた今自分が持つそのままの肉体を踊るべきだと思った。
それが、左手を持つクラーシャには、決して踊れない形だった。
クラーシャの舞いに対して、匹敵や、凌駕というような考えを持つことは、おこがましいにもほどがあるように思えた。あの表現された美の形象は、ある種彼女の人生のエッジ――最先端の表出なのだ。
体制を崩しては、その場その場の四肢を動員して重心を保ち、拍を刻んだ。
もちろん左手も使った。左腕を地につけ、側転の要領で慣性を受け流す。そのたびに、机に座る二人の鼓動を、触れた床を通じて感じられた気がした。
鳥葬師の鉈。それがまた脳裏をよぎった。自身の手であるかのように振るわれる刃。自身の身体は、勝手に拡張するのだ。肉体だけでなく物に対してでも。
ならば、自分の肉体の境界とは、どこなのかという疑問が湧いた。皮膚の表面を伝う風は、自分の肉体なのか。汗は。自身の躯を食んだハゲタカは、どうなのだ。自分の中に肉の花が開くのを感じた。そもそも、肉体は他者に捧げるという感覚のものではなく、肉体という他者の内側に、自我という仮住まいがあるとしたら――。
「ふむ。ありがとう」
唐突に、オウルが告げた。
「人類の歴史において、いつだって肉体は征服の対象だった。自他問わずね。たとえばコルセット、纏足、入れ墨、ピアス。あるいはダイエットやボディービル、美容整形。いつどの文化でも、身体は改変されてきた。君の師であるクラーシャは、現代のそれの極致といってもいい場所にいる」
ペーマは、呼吸で上下する胸を抑えることもせず、その場に立ち尽くし、聞いていた。
「みな心の奥底では、肉体が精神の拠り所だと皆が思っているからだ。『私』の表出は肉体を通して行われるということは、君も疑うところではないだろう?」
ペーマの首がかすかに上下した。自分でも、うなづいたのか、呼吸の拍子に首が動いただけなのかわからなかった。
ただ、ツァムチュもクラーシャも、肉体を用いた踊りというものに、自身の表出があったのだということは腑に落ちた。
「それは金になる。ダイエットサプリや、入れ墨師や、整形外科医のように肉体の制圧に価値が生まれるということでもあるがもうひとつ、大きな効能がある。消費の『主体』が生まれるということだ」
オウルは言葉を区切って、一拍置いてから続けた。
「制圧すべき肉体という思想の前提は、この肉体の内側に『私』がいるということだ。『私』は肉体の変形を重ねるごとにより『私』になってゆく。『私』とは、その肉体に刻まれ変形の歴史を拠り所にしている」
「『私』がお金になる?」
「ああ。消費の主体は細かければ細かいほどいい。『村』よりも『家』が、『家』よりも『核家族』が、『核家族』よりも『私』が、消費の主体であるほうがいいと思っていてね。くわえて言うなら、『公平無私』たる僧は、ものを持とうとしないから何も買ってはくれないんだよ。同じように、自らの肉体を差し出すような君の踊りは、金にならない。いや正確に言うと、個人が利益を求めあう経済という空間にそぐわない。無私の踊りだ」
「ずいぶん、詳しく評してくださるんですね。隣の女性――クラーシャの意見は聞かないんですか?」
「詳しくない人間でもわかるから、まずいんだ。君の踊りはね、経済ではなく信仰だよ。観た人の『我欲』というものを失わせる」
「つまり?」
「不合格だ」
なんのためらいもなく、その言葉が言い渡された。
ペーマ自身、意外なことに身に纏っていた義務感や、電影への執着と言ったものが、すべて取り去らわれるような感覚があった。
けれど、致命的でもなんでもなかった。電影がはぎ取られることを知らされたダンス教室内のやり取りとは違った。
「そうですか……。そうですよね」
納得があったからだ。
自分が持てるものをすべて出し尽くした人間だけが得られる納得だった。
これ以上の踊りというものを、今のペーマには絞り出すことができなかった。
「……ずいぶん素直だね。予定していた審査時間がだいぶ余ってしまった。何か聞きたいことはないのかい?」
「白鳥の湖は知っていますか?」
「ははあ、なるほど。さっきの魔法使いとはそういう意味か」
部屋の明かりがついて、ようやく出口の扉が見えた。
「白鳥の湖の最後、王子様と結ばれず呪いも永遠に解けないと知ったと白鳥姫は、湖へと身を投げる。それは白鳥姫が人間だった証拠だと思うんです」
ペーマは、扉に向かいながら応えた。
「もし、水鳥の――白鳥のまま飛び込めたなら、姫が溺れることはなかったはずですから」
「溺れるのは人だから、というわけかね」
「王子はなぜ白鳥を愛せなかったのか、って思うんです。あるいは、呪われた肉体ごと、それでも踊ろうとする意志を、なぜ愛せなかったのかと」
「私はこう思うよ。王子は『人として死にたい』という姫の意思を、尊重したのだと」
「僕はこう思います。王子も鳥として生きられたら二人は幸せだっただろう、って」
「……自ら進んで、呪いにかかると?」
「もし僕が王子なら、という話です。僕はただの小僧ですよ」
「私だって、魔法使いなんかではないさ。ただの――人だよ」
扉にたどり着く。ドアノブに手を当ててオウルを振り返ったとき、また彼が口を開いた。
「人の口に戸は立てられないものでね、私からも一つ訊きたい。君はなぜ、この学院が『観光地化』を受け入れたと思うかね?」
「大火が原因で、施設の管理能力不足を咎められ、政府による管理を受け入れた。そう聞いています」
「一つの事実ではある」
ゆっくりと、オウルは教えてくれた。
「もう一つの事実はこうだ。『観光地化することでしか、ここに来訪することができない人たちがたくさんいたから』だ。その人たちについて詳しく述べるつもりはないがね、特定の信仰を持つことを禁じられた人間――すなわち、政治的に宗教施設に訪れることを禁止された人たちがいたんだ。では、もし彼らがこの地の仏教に帰依と救いを求めた場合どうすればいい? 彼らを救うために、この学院は『宗教施設』ではなく『観光施設』になることを受け入れた。より多くの人間を救済するためにだ」
ペーマは、ただうなずき返した。呪いという言葉の意味をかみしめながら。
「かつて私は訪れることができない人間の一人だった。虹の翼は、いつでも君たちを抱いている。励みたまえ」
その言葉を最後に聞いてから、深く頭を下げ、部屋の扉を閉めた。
ペーマのオーディションが終わった。
5.月虹は白く
当然ながら、結果は落選だった。オーディションの数日後運営からメッセージが届いてこれまた簡素な文面で正式に落選を告知された。
ただし、合格者も誰一人でず、第二回のオーディションまで電影の権利は学院側が保持することとなった。オウルはスポンサーとの調整ですでに都市を発ったらしい。
権利関係の管理は、踊りの師範足るツァムチュに任された。
そして、当のツァムチュは、電影の権利を、次回のオーディションの日程が定まるまでという条件付きではあったが、ライセンスフリーとして学院全体に公開した。
もちろん、改変や拡散を防ぐため規約には、ツァムチュ自身の署名がされた場合でなければ改変や再配布ができないように設定されていた。
ペーマは、それらすべてをクラーシャから教わった。
月の明るい夜。凪の塩湖じみた屋上に、二人で立っていた。不夜城で唯一、階下できらめく虹の光が届かない『夜』たりうる場所だ。だれも見る必要のない屋上を、照らす意味はなかったから。
「何で、連絡返してくれなかったの?」
「審査員とオーディション参加者につながりがあっちゃまずい。特に自分が直接審査を下す立場になるなら」
「また、僕のため?」
「お互いのため。審査が終われば今日みたいに普通に会える」
都市の中で、ひとけのないところなんて、ここしかなかった。結局、まだ大手を振ってクラーシャの元に通えるような大義名分はないのだ。クラーシャに申し訳なく思いながら待ち合わせの場所を指定したが、クラーシャは何の不満も口にすることなく付き添ってくれた。
「結局僕は、何をしたんだとおもう?」
口にだして、クラーシャに訊いた。
マウンテンパーカーと古臭い丸眼鏡を身に着けたクラーシャが、それまで見ていた星空からペーマへ視線を移して言った。
「知らないよ。私は君じゃないんだ」
どこまでいっても愛想の無い返しに、ペーマは少し笑ってしまった。
そして、少しだけ悲しくなった。なんだか、自分の外側ですべてが決まってしまったような、取り残されたような気分にさせられた。ただそれは、喜ばしいことでもあった。ペーマの非力と生存を教えてくれもしたのだ。まだまだ、自分には手の届かない部分があるのだと。
「どうしてクラーシャは、僕を助けてくれたの? 踊りを教えてくれたの?」
「個人的なことを話すなら、君じゃなくてもよかった。踊れなくなった私は、『私を必要としてくれる誰か』を探していた。それを探す途中でこの都市に寄って、たまたま大火に出くわして、君や、君以外の誰かを助けてた。大したことのない、動機だよ。そのなかで、君が一番踊りに興味を持った、私を必要としてくれた――勝手にそう思っている。それだけなんだ」
どちらともなく右手を取り合い、ささやかなステップを踏んだ。
「ペーマこそ、なんで羅刹女だったんだ?」
「伝承があるんだ。最初この地には羅刹女がいて、開祖たるパドマサンバヴァが彼女らを調伏して生まれた子供たちがチベットの祖先だっていうやつ。古くは女は活発で男が温厚であれみたいなジェンダー観があったんだよね。……なんて含みを持たせてみたけどさ、ただ活発でありたかっただけかもしれない」
ペーマが足を踏み出せばクラーシャが足を引き、クラーシャが足を出せばペーマが引いた。
バレエでも仮面舞踏でもなく、誰でも踊れる特別でもなんでもないステップ――生身の肉体でも十分に踊れるような。
夜だけは、魔法使いの呪いが解けるのだとでも言うように。
「思ったのはさ、僕の手を離れても、彼女――羅刹女は生きていけるのかもしれないってこと」
足元から小さな歓声が聞こえた。いつも通り幹線に集まった観光客たちが、また電影に新たな価値を見出したのかもしれなかった。
「もしかしたら永遠に生き続けるかもしれない彼女を、有限の生である僕が規定するべきではないのかもしれない。空行母に啄まれることができない彼女には、その代わりの何かが与えられるべきだと思って。そもそもさ、僕が自分の身体ともう一つ電影を持ったように、体を増やすことが可能なら、体を減らすことも可能だと思うんだ」
頭半分ほど高いクラーシャの瞳を見ながら言った。
「……少し、説明が足りんよ。詳しく、言ってくれ」
灰色の瞳が、困惑していた。
「つまりさ、一つの電影に、二人以上の人間が同時につながることも可能だと思うんだよね。僕もまだ詳しい部分までは想像がつかないけどさ、羅刹女は僕の踊りにも対応してくれたし、クラーシャのダンスモーションにも対応してくれたじゃない。それが同時に起こることもあり得ると思うんだよね。一つの仮想身体で、二人以上の人間が一つになる」
ペーマがそう言い切ると、クラーシャは困ったように星空を見上げた。
通じなくてもいいという思いで、ペーマは続きを語る。
「それはさ、後天的な命の拡張だと思うんだよ。生得的な身体の拡張じゃなくてさ。中に入る人たちの寿命なんてバラバラなんだから、入れ替わり立ち代わり色々な人たちが電影を構成して、その肉体の歴史が電影という形で表現されるのも面白いんじゃないかなって、思ったんだ」
「なるほど、この都市で最初のそれが、今回ライセンスフリーになった神々たちだと」
クラーシャがそういうと、ペーマは複雑そうに顔をゆがめた。
「ここに、プティ――友達からもらった、電影のアップデート用のデータがあるんだ。これをつかうと、電影を纏った人間が、彼女の羽衣や髪飾りの揺れまでを自分の意志で動かせるようになるんだよね。クラーシャはどう思う? 使ったほうがいいと思う?」
「使いたいなら使えばいいんじゃない? けど、それがただの友達からもらったものだとしたら使えない。ツァムチュっていう管理者の署名があるなら使える」
「……それもそうだね、今はまだ適応しないよ。技術と信仰がきちんと交われる時まで。まだ、彼女がこの都市の中でどう受け入れられていくのか、わからないもの」
「そうさ。自分の託したものがどう使われるかなんて、わかったもんじゃない」
「僕への当てつけ?」
「さてね」
そう言ってクラーシャがペーマから手を離す。一歩下がって、区画番号を示す鉄棒に寄り掛かった。
「私は少し疲れたよ。制限された体で踊るなんて、初めてだ」
ペーマは名残惜しそうに右手をぶらぶらさせた。
「最後の審査の時の踊り、つづきがあるなら踊ってみせてほしい」
「いいよ、見てて」
つまさき立ちになり、目いっぱいさしのばした形の無いの左手。
炎の消えた指先が、天空の月に触れる。
水面から飛び立つようなその姿に、たった一人から拍手が捧げられた。
Outro.
そのとき、物質性としての、肉としての身体は、自分自身の幻想の産物のようなものであろう。結局のところ、ダンサーの身体はちょうど、自分にとって内的であるのと同時に外的でもあるような空間そのものに従って拡張された身体ではないだろうか。麻薬中毒者も同じである。その体が地獄になっている悪魔憑きも。その身体が苦痛、償いと救済、血まみれの天国となっている聖痕者も。――「ユートピア的身体」(ミシェル・フーコー)
【参考文献】
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ツルティム・ケサン,正木晃『チベット密教』ちくま学芸文庫,2008年.
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小野田俊蔵『チベットにおける葬送儀礼』佛教大学総合研究所紀要 1995(2), 205-212,1995年.
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T・シンガー『ダンスの進化 人はなぜ踊るようになったのか』(編集部訳)日経サイエンス2017年11月号編,2017年.
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V・S・ラマチャンドラン,サンドラ・ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(山下篤子訳)角川文庫,2011年.
文字数:47536
内容に関するアピール
チベット仏教を題材にした小説は、SFのみならずあまり数が多くないようなので、そこがまず一番大きなアピールポイントかなと思います。
あとは綺麗なものを書きたかったので、綺麗なものを書いたつもりです。
舞台というかモチーフになった喇栄寺五明仏学院(ラルンガル・ゴンパ)なんですが、空撮の画像とか動画がものすごく綺麗なんですよね。
ただその綺麗さというのは何度かの悲劇の上に成り立っているもので、純粋な信仰の色とも言い切れない。しかもそれは現在も渦中にあるわけで……。それでも綺麗なものは綺麗なので可能な限りそれが伝わってくれたらいいなと思います。
一年間を通してみれば、『下着と監視社会』に始まり、『西遊記とインド数学』を経て『チベット仏教とVR』に来たという、妥当なようなよくわからないような並びですね。その作品の中で『からだ』というものが自分のなかでの大きなテーマだったように思います。
小ネタとして、面白いけど本編に入れられなかったこぼれ話をしておくと、
チベット仏教とVRって実は1960年代にすでにその出会いの萌芽があって、SF者の方々はご存じかと思うんですが(僕は全く知りませんでした)、当時LSDの研究をしていたティモシー・リアリーという心理学者とその協力者たちによって、LSDの幻覚とチベット仏教の光明の類似点が研究されていたんですね。
けれどティモシーはLSD研究のせいで大学を追われ、数年後LSDの代わりにコンピュータグラフィックス、つまりVRを使ってチベット仏教の再現を試みたりしてるんですよね。
で、ウィリアム・ギブスンにも影響を与えたらしいと。
思えば、サイバーパンクもまた、地上にはほとんど残されていない異郷を電脳空間という名で創出するような試みかもしれませんね。
という訳で、僕は僕なりの異郷を書きました。一年間お付き合いくださり、がとうございました。
文字数:790