梗 概
優しく安らかなクビ
都内のファミレスで働くフリーター・楡壮太は、休日になると近くのチェーンの喫茶店に入り浸ることを習慣としていた。普段は本を読んだり、ノートにリストを書いたりして時間を過ごす彼だが、その日、壮太は向かいの席に座る、一人の女性に見惚れてしまう。鈴のイヤリングをつけた、スーツ姿の彼女のもとへは、複数の男が一人ずつ、1時間おきに訪れ、喋り、去っていく。壮太はその会話の内容から、彼女が根本美穂という名前であり、男たちは彼女に仕事の面接を受けに来ていることを知る。
面接を全て終えたらしく、席を立つ根本。しかし壮太はその姿に違和感を覚える。卓上を見ると、面接時に外したらしい、イヤリングが置いてあった。壮太は彼女を追いかけ、イヤリングを渡す。その後も彼女はしばしば喫茶店に現れ、次第に二人は親しくなっていく。
ある日、喫茶店で壮太がノートを開いていると、根本がやってきて壮太の席に座り、彼のノートを見て、何を書いているのかと尋ねる。それは、彼がやりたいことをリスト化して書きつけたノートだった。最初はポツリポツリと話していた壮太だったが、次第に勢いが増し、堰を切ったように話し始める。やりたいことが沢山あること。仕事が忙しく、体力と時間とお金が足りず、リストがさっぱり消化できないこと。生活の理想と現実がかけ離れてすぎていること……。彼女は壮太を宥めた後で、地方への移住を提案する。
「地方なら、ゆとりのある生活はできると思う。目的の実行を第一に考えれば、地方への移住も悪くない。それに、もしかしたら、私がその手伝いをすることができるかも」
壮太は彼女の手助けをうけ、福岡県戸井益市に安アパートを借り、近所のファミレスで働き始める。仕事の拘束時間は変わらないが、客足は少なく、体力的にも精神的にもゆとりができ、壮太は「やりたいことリスト」を実行し始める。ある日は漫画を描き、ある日は絵を描き、ある日はエッセイを描き、それらの量がある程度溜まると、今度はZINEにまとめ、近所の喫茶店や雑貨屋をまわり、頒布を始める。少しずつ、壮太の作品は広がりを見せ、壮太はその地に馴染み始める。
――
「さて」と、根本は言った。喫茶店の一席に彼女は座っており、対面にはかつて面接受けていた一人の男が座っていた。
「我々は貴方の運営方針に口出しはしませんが、前任者のように、惰性に身を任せて積極的な運営が行われない場合は口を出しますし、クビになる場合もあります。つまり、あなたはあくまでもこの体の雇われ店長であり、我々はそのオーナーである、ということです。……まぁ、クビになったとしても、あなたがそれを理解することはありませんし、この言葉だって、目を覚ませば、貴方は忘れてしまうわけですが」
「大丈夫ですよ」
笑顔で男がそういうと、根本は頷き、立ち去った。
そしてイヤリングの鈴の音が鳴り、男は意識が遠のき、そして目を覚ます。
楡壮太として。
文字数:1200
内容に関するアピール
子どもにしろ植物にしろ、いや、作品や文化だって「育てる」の範疇にあるとは思うのですが、実際には、育てている最中に抱く理想像が実現することは少なく、明後日の方向から来た結果に「私が育てた」という感情よりは「勝手に育った」という感情を抱くことが多いように感じます。ならば、実際に我々が育てているのは理想像≒妄想にすぎないのではないか……と考えたのですが、ふと「もしかしたら妄想すら勝手に育ち、私を呑み込んでしまうのかもしれない」と考え、このような小説を作りました。
また、私は「私という意識は存在する」と、古典的かつ楽天的に考えているのですが、星新一の「自信」や舞城王太郎の「あまりぼっち」を読んで以来、私という意識がこの体を支配できているのは、本能が私を雇い入れたからにすぎず、課題の締め切りが近づく度に尻を叩きに来ている犯人は、その本能なのではないか……とも考えており、この小説を作った次第です。
文字数:397