螺旋のどん底
1
夜空にぽつぽつと、だけどくっきりと星が見える。
東京の夏の夜は、いつもなら昼の間にふくらんだ空気がそのまま漂っていて肌にまとわりついてくるけど、今夜は涼しげだ。夕方に雨が降ったせいかもしれない。火照ったアスファルトも今夜は呻き声をあげていないようだ。
白金台のプラチナ通りの上にある沖縄割烹料理屋「ひとんちゅ」で仕事を終えた僕は、夜空を一度見上げて鼻で大きく息を吸い込むと、坂をゆっくりと下っていた。シジューサの人たちが住む高級住宅街ということもあって治安もよく、深夜1時にもなると歩いている人はほとんどいない。
坂道の途中、僕はもう一度立ち止まり、爪先立ちで大きく伸びをする。立ち仕事でふくらはぎも張っているし、肩甲骨まわりも固まっている。星のきれいな東京の夜空に向かって腕を伸ばし、深呼吸をしたら、ほんの少し身体の奥の方に溜まっていた疲れが抜けていくような心地がする。
今日の仕事も忙しかった。仕込みからいれるとほとんど10時間立ちっぱなしだった。まだまだ修行中の身だから覚えることはたくさんあるし、師匠にも気を使う。それにお客さんにも絶えず目を配ってないといけない。当たり前だけど、身体だけじゃなく神経も使うのだ。
静まりかえった坂道をひんやりとした風が吹き上がってくる。これが汗をかいた身体に気持ちいい。
東京大学インターナショナルロッジの信号あたりまで来れば坂道は緩やかにカーブし、背の高いたんぽぽのような黄色い街灯が首都高の高架下まで続いていくのが見える。この街灯を眺めて坂を下るのが僕は好きだった。
家に帰って早くシャワーでも浴びよう、そう思ってあくびをひとつついた時————
突然、脇の路地から人影が出てきた。
「ミヤザトタケルさんですよね」
女性の声だった。
一瞬びくっと身体が震えたが、人影から十分距離があることが分かり少しだけほっとした。それに名前を呼ばれたことで、強盗や暴漢の類ではないだろうとも思えた。
「少し、お時間いいですか?」
くぐもった声だが、脅すような口調ではない。
街灯の下に出てきた女性は20代半ばあたりだろうか。街灯の光が顔に所々陰影を作っているのではっきりとは表情を読み取れないが、黒髪を肩まで伸ばし、コインのように丸々とした目をしている。
僕は警戒心は緩めないものの、女性の佇まいから危害を加える意思がないことだけは感じることができた。
「私はアメリカ人です。あなたと同じ、日系アメリカ人」
そう言われても、何か心当たりがあるわけではない。
「あなたの仕事が終わるのを待ってたんです」
「どういうことですか?」
「少し、話をさせてもらってもいいですか?」
深夜に暗闇から話しかけてくる唐突さとは裏腹の慇懃な態度に、僕は胸がざわつくのを感じた。
「たいへん失礼ですが、あなたのことを内定調査していたんです」
女性は自身のことをマチムラミナと名乗り、左腕の肘から手首までの辺りを右手の人差し指と中指でスライドした。そこに青色に立ち上がったホログラムモニターを右手の人差し指で簡単に操作し、一枚のヴァーチャルカードを掲示した。
「私はこういうものです」
威厳のある鷲のマークと『CIA東京支部マチムラミナ』の文字、それに彼女のIDを表すのだろう12桁の数字——。
僕はどう返事していいか困っていた。いきなり僕の人生にCIAが関わってくるなんて、そんなことがあるだろうか。
「疑う気持ちはわかります」
僕は黙ったままマチムラミナの満月のような目を思案げに見ていると、
「率直に言いますが、照屋宗徳さんがアメリカへのレフター肉の密輸に関わっているという情報があるんです」
マチムラミナの言葉に僕は目をみはった。
まさか、そんなわけがない。師匠がレフター肉の密輸を行うなんて、そんなことあるはずがない。レフターを裏切るわけがない。
————僕、ミヤザトタケルはアメリカのカリフォルニアで日系アメリカ人のレフターとして生を受けた。僕が子供の頃は、シジューサやニジューサからレフターがひどい差別を受けていて、少年時代は暗鬱としたものだった。しかし当時盛り上がりを見せたレフター人権回復運動によって『レフターにおける死の自由法案』が撤廃され、シジューサ、ニジューサ、レフターの三人類はアメリカ国内において平等な存在となった。そうして僕は地元のカリフォルニア調理士専門学校に入学することができた。そこで調理の基本技術とトラディショナルなアメリカ料理を必修科目で学び、選択科目で日本料理を学んだのだ。
卒業後は日本で修行をすることに決めた。アメリカにも日本料理店は山のようにあるが、近年沖縄料理はアメリカでコンテンポラリーオキナワンキュイジーヌと言う名で脚光を浴びている。この先、日本料理のシェフとして将来を築くのであれば、両親のルーツである沖縄料理を体得したい、それもアメリカでなく、日本で。せっかくレフターにも海外渡航や就業の権利がシジューサやニジューサと同じように与えられたのだ。僕がアメリカンレフターの自由を謳歌する第一世代になるのだと胸が昂った。そこにレフター海外就労奨励制度の創設など社会の後押しもあり、日本での就労が認められた。
中でも、この東京の、照屋さんが営む沖縄料理店「ひとんちゅ」で働くことを決めたのは、照屋さんがニジューサであり、父の知り合いだったからだ。本場沖縄で働きたいと当初は希望していたが、父の「日本で暮らす上でなにかと頼りになるだろう」という親心に逆らうことができなかった。アメリカではレフターは平等を獲得したが、日本ではまだレフターは厳しい立場にあると聞いていた。日本で働きたいと言った僕に、はじめ父はいい顔をしなかった。ミヤザト家のルーツである日本、しかしレフター差別が残る日本。父はその天秤を量りかねていた。僕も安全面に関しては多少なりとも不安だった。しかし人生を切り拓くために、僕は勇気を出すことが大切だと思った。そして「ひとんちゅ」の扉を叩いた。それが1年前のことだった————
「驚くのはわかります。でも現代の三人類ってあなたが思っているより複雑なんです」
マチムラミナは抑制の効いた声で言った。
「でも、師匠からそんな素振りを感じたことは一度もないです」
僕は立ち去ろうとした。頭が話題に拒否反応を示している。
「それをはっきりさせるためにも、調べてほしいんです」
踏み出そうとした足が止まった。
この不安を、戸惑いを消すために、僕自身が調べる——?
自内に湧いた思いはまるで正しいことのような響きがして、すぐには掻き消えてくれなかった。
「照屋さんのお店は、レフター肉の料理を出していますよね」
マチムラミナは核心を突くような口調で言った。
僕は言葉につまった。それは確かに事実だ。
「だけどそれは、日本シジューサ政府からレフターイーツの認定を受けているからです」
これも間違っていない。だけど言い返した言葉にひけめを感じているのも事実だった。明日僕は、レフターの角煮である『レフテー』の調理を教えてもらうことになっている。そこに僕自身、拭いようのない戸惑いがある。
「難しいことをお願いするわけじゃない」
マチムラミナは僕の目を覗き込み、敢然とした口調で言った。
「普段の会話をするだけ。探りを入れるようなこともしなくていい。あなた自身が疑われるようなことがあってはいけないから」
それでも僕が返事に困っていると、
「録音してほしいんです」
「録音?」
驚きに任せて言葉を返すことができた。
「あなたのスマートアームには録音機能もついてるから」
そんなことは知っている。先進国の現代人はどこの人間であろうとも腕に直径2mm、長さ5cmの特殊繊維束が埋め込まれている。腕のその部分をスライドしたりタップしたりすることで、ホログラムモニターを立ち上げ、インターネットの操作もできれば、パスポートや免許証などのIDも表示できるし、お金を払うこともできる。それらの機能にはAIも備わっているし、皮膚に伝わる振動を音声変換する録音機能も備わっている。およそ300年前に生まれたスマートフォンが進化して腕に内蔵されたものだ。
「もし断れば、どうなるんですか?」
おそるおそる尋ねた。
「残念ですが、おそらく、あなたの就労が止められて、帰国することになる」
「そんな……」
言葉を継げないでいると、
「何か突発的な外交上の理由とか、日本の治安上の懸念からとか、まあそんなものがでっち上げられるでしょう」
マチムラミナは眉根にしわを寄せ、重々しいため息を吐いた。
「ひどい。脅しじゃないですか」
僕は語気を強めた。
「報酬は出します」
「そんな話じゃない」
その言葉に怒りを覚え、僕はマチムラミナを睨みつけた。
「そもそもあなたが本当にCIAの人間かどうかなんて分からないじゃないですか」
「明日アメリカ大使館に来てもらえませんか」
「アメリカ大使館?」
「ええ、私はそこで働いています。もちろんCIAの職員ということは公にしてはいません。ですがCIA職員がその存在を伏せて大使館で働いている事実を、大使館職員なら誰もが知っています」
「行って、僕は何をするんですか?」
「私がそこにいる、そこで働いていることを証明します。それをあなたが確認して、私が嘘を言っているのではないことを理解してほしいんです」
「でも僕には荷が重い」
国の秘密に関わるようなこと、僕にできるはずがない。
「きちんと理解してくれれば、今回の依頼が誰かを傷つけたり、裏切ったりするのではなく、誰かを守るための仕事だということが分かるはずです。とにかく明日、アメリカ大使館に来て、私がそこで働いていることを知れば、今あなたが感じている疑念や不安は多少は解消するはずです」
僕はこの半ば脅迫めいた依頼を処理しきれず、うなだれて目線を落とした。
「明日、アメリカ大使館で会いましょう」
マチムラミナはそう言って僕に歩み寄り、肩にそっと手をあてると、路地に消えていった。
再び一人きりになったプラチナ通りは、夜の暗さが増しているような気がした。
街灯に照らされた路面が僕の息遣いにそっと耳をそばだてている。
僕はどうするんだ? 明日アメリカ大使館に行くのか? 突然すぎるだろ? こんなこと本当にあるのか?
夏の柔らかい風が、僕の身体を撫であげるように坂の下から吹いてくる。
僕はまだ立ち止まっていた。CIAが素人にスパイの真似事を打診する? そんなことがあるのか? だけど彼女は僕に、探りを入れるようなことはしなくていい、と言った。録音するだけだと。
マチムラミナによると、アメリカ大使館には数名のCIA職員が働いているということだった。そこで正体を隠して大使館職員をしている者もいれば、出入り業者の一人として働いている者もいる。マチムラミナはキャスリンオカダという名の通訳としてフロアに常駐しているということだ。
僕に拒否権はない。断れば、この修行が中断され、アメリカに帰国させられる。突然すぎる宣告。明日、アメリカ大使館に行くしか選択肢はないだろう。
目の前にはいつもの坂道が続いている。もうあと一、二分も歩けばどんつきの高架下までたどり着く。いつもの仕事後の帰り道、だけど突然全く知らない道が開けたような戸惑い。僕は夜に魔法をかけられたような煩悶を抱いて坂を下りていった。
2
地下鉄虎ノ門駅から歩いて数分のところにアメリカ大使館はある。数年前に増改築されたらしく、人の背の数倍もある白壁の奥にフェデラル様式の超高層ビルがそびえている。見上げると、その特徴である煙突が二本、ビルの上からそそりたっている。
午前10時、僕はゲートでボディチェックを受け、受付のAIホログラムスタッフに、昨晩マチムラミナから教えられたように、日本滞在に関する書類申請についてという要件を伝え、中に入った。フロアには貿易、就業、旅行、留学などの各カウンターがあり、中央のベンチには欧米人と日本人が数人座っていた。アメリカは様々な申請をウェブ上で完結できるようにデジタル大使館が発達しているので滅多に来ることはなく、僕も初めて足を踏み入れた。
フロア内を見渡していると、先にマチムラミナが僕を見つけてくれたようで、手を振りながら近づいてきた。
「来てくれたのね」
明るい室内で見るマチムラミナは、赤いリップと長い睫毛が印象的だった。その朗らかな笑顔は、昨晩街灯の下で話した時とは随分印象が異なり、いくらか僕を安心させた。それでも僕は心を許したわけではない。
「私はキャスリンオカダ。ここではね」
マチムラミナは首から下げたネームカードを僕に見せた。
「そうみたいですね」
「情報漏洩の観点から、ここであまり込み入った話はできないけど、みんな私が何者か知ってる」
そう言ってマチムラミナは周りを見渡した。そして、
「もう一人紹介するわ」
と背の高い長い黒髪の女性に目配せをした。
その女性がこちらに頷いて、歩いてくる。
「こんにちは。私はジュディヤマオカ」
と彼女もネームカードを僕に見せてくれた。
それから声を低めて、
「でもマチムラミナの同僚という意味ではシマダリサ」
と控えめな笑顔を作った。
何かを隠しているような後ろめたさを感じさせない、礼儀正しさに正しさと親しさを兼ね備えたアメリカ人の社交的態度だ。
「突然のことで戸惑うかもしれないけど、私たちができるかぎりのサポートをするわ」
マチムラミナが言う。
「やらないと、僕が被害をこうむるわけですよね」
「残念ながらね」
マチムラミナが言うと、二人は揃って軽く首を左右に振り、わざとらしく顔をしかめた。
多少なりとも僕に同情しているといった風情だ。僕もここまでくると、どこかしら諦念が芽生え始めているのを感じていた。何をするわけでもない。ただ録音するだけだ。昨夜はたったそれだけを自分に言い聞かせることができなかった。憤りや怒りや疑念が渦巻いていた。しかし一晩経ち、太陽の出ている時間帯に公式な場所で話していると、仕方ない、という思いが強くなった。
「後であなたのスマートアームに、色々と資料を送っておく」
「資料?」
「ええ、共有しておいた方がいい情報もあるから。知識は力よ。レフター、ニジューサ、シジューサ、その三人類、そしてアメリカや日本の歴史をまとめたもの」
マチムラミナは自然と僕に敬語をやめていた。隣にシマダリサがいるからか、明るい場所で話しているからか分からないが、彼女の方は僕に対して十分に打ち解けているようだ。そこで僕は初めて、昨日も今日も日本語で話していることに気づいた。日系アメリカ人は日本語をネイティブで話せるように教育を受けるから、日本に来て苦労することはない。日本語、英語、どちらで会話してもいいのだが、日本語が彼女たちの選択なんだなと思うと、それ以上深く考えることはなかった。
マチムラミナに「表まで送っていく」と言われたので、僕はシマダリサとそこで別れ、マチムラミナと二人でビルを出た。僕はそこでマチムラミナと腕をクロスさせ、お互いのアカウント情報を交換した。基本的に僕と連絡を取るのはマチムラミナということだ。
「じゃあ、滞在の書類申請は私がキャンセルしておくわ」
マチムラミナが言った。
僕はすっかりそんなことを忘れていた。
「お願いします」
僕はまだ敬語をやめられなかった。そんなに簡単に二人と友達のように打ち解け合うことはできない。おそらく彼女がタメ口で話すのは、アメリカ人的態度であるのと同時に、きっと上司が部下に話すような感覚なのだろう。いくら歳が近くてもそこに僕と彼女たちとの動かしがたい関係性を感じた。
僕は自分に何ができるか知らないが、無理に気負うことはしない、言われたことだけをやって深入りしないと心に誓い、マチムラミナと別れを告げた。
それから10分後、地下鉄に続く階段を降りている時、左腕の皮膚が微振動した。さっそくマチムラミナから資料が届いたようだ。どこで読もうか、今夜仕事が終わってからにしようか。午後2時から「ひとんちゅ」で仕込みがある。だったら家に帰らず、白金台に向かおう。モニターサイズを小さくして白金台のカフェで読んでみよう。そう決めて、僕は地下鉄を乗り継いで白金台駅へと向かった。
■現代人類史レポート 1 (CIA東京支部所有 部外秘)
21世紀後半から22世紀前半は、人類がその生体において劇的な進化を果たした時代でした。この地球上に生命が誕生して以来、いかなる生命も、DNAは右巻きの二重らせん構造を取ることが常識でした。しかしその歴史と常識を打ち破り、ある時、突然変異が起きました。四重らせん構造を持つヒト=『シジューサ』と、左巻きの二重らせん構造を持つヒト=『レフター』が生まれたのです。
シジューサとレフターはほぼ同時期に誕生したと考えられています。2088年。アメリカ人生物学者マイケル・ブラナーによって最初のシジューサが発見されました。アフリカ系アメリカ人のイブラヒム・マクドウウェル(3歳)がその人です。生命の常識を覆すその発見から1年以内にアメリカ国民全員を対象とした遺伝子検査が行われました。その結果、5歳以下の人たちの0.5%にシジューサが、0.8%にレフターが存在していたのです。そのニュースは世界に驚異と衝撃をもって伝えられ、世界各国でアメリカと同様に遺伝子検査が行われることとなりました。その結果、いずれの国でも0.5%以上1%未満の数値で、シジューサとレフターの存在が確認されたのです。
国や地域を問わず、世界中で、次々と、ニジューサ——いわゆる右巻きの二重らせん構造を何十万年と延々と受け継いできた古き良き人類——から突然変異のらせん構造を持つ人類が知らず知らずのうちに誕生していたのです。生物の進化としてどうしてそんなことが起きてしまったのでしょうか。
それはおそらく2080年に世界的に流行したハミングバードウィルスが起因していると言われています。DNAは次世代へと遺伝していく「垂直伝播」を基本としていますが、時に異なる種のDNAが侵入してゲノムを編集することがあり、これを「水平伝播」と呼びます。ハミングバードウィルスは世界中の人間のDNAを書き換え、子孫に伝達されたと考えられているのです。
ある時、NASA職員の一人が、ある奇妙な事実に気付きました。この突然変異種の誕生が、ちょうど人類が火星に移住を始めた時期と附合するということに。
2085年5月、アメリカの宇宙船『ZEAL』が火星に到達しました。同年7月には中国が、それから1年以内に日本、ロシア、フランス、イギリスなどの先進諸国が火星着陸に成功し、2087年には火星で宇宙共同開拓法が宣言されました。その後30年間、各国は着々とコロニーを築いていき、多少は領土問題で揉めつつも、争いへと発展することを巧みに避け、それぞれ国と呼べる領土を拡大していきました。
こうした経緯を鑑みて、ともすればハミングバードウィルスへの感染と同時に、人類にとって地球脱出という契機が何かしら重要な心理的トリガーとなって進化を促したのかもしれない——と、ある文化人類学者が控えめな口調で述べたところ、大いにアカデミーに冷笑されたりもしましたが、実のところ、誰も唯一絶対の科学的根拠などは持ち得ていない、というのが24世期の今もって現実です。
ともあれ人類がこの地球上で3種類に別れたことで、人類のあり方は劇的に変貌を遂げました。その要因は、シジューサとレフターが古典的な人類ニジューサとは異なる特徴を持っていたことにあります。
様々な調査の結果、シジューサは、ニジューサやレフターよりも脳が3%程度活発に活動することが分かり、最初のシジューサ世代が成人すると、当時のAIを凌駕する知能で社会に進出し始めた。21世紀後半に臨界点まで来ていたシンギュラリティーの問題に対してシジューサという存在そのものが解決策となり、世界各国でアカデミーや政治をリードすることになりました。しかし同時に難点もありました。それは極めて身体が病弱で、若くから癌を患いやすく、平均寿命が42歳程度ということです。(これまでの統計では毎年41.2歳〜42.5歳の間で推移しています。)死因で最も多いのが胃癌です。次いで肺癌、大腸癌、膵臓癌、腎臓癌などが続きます。中には50代を迎えるシジューサもいるにはいましたが、極めて稀です。全体で0.3%にも上りません。(過去の最高年齢は53歳。イタリア人女性のアドリアーナ・モレッティでした。)そのためシジューサにおいては当初、自身が健康な間に培養臓器を作っておくことが奨められ、活発に臓器移植が行われたのですが、悲しいかな、一度悪性腫瘍を発症した人体では、移植後の健全な臓器もおよそ3ヶ月以内に癌が再発してしまうのです。
では、ニジューサやレフターの培養臓器を移植すればいいのではないか——。そういう試みもされるにはされたのですが、他人類間での臓器移植は拒絶反応を示してしまうのです。そういうわけで、臓器移植という方法論はシジューサの生命を救う有効手段にはならなかったのです。つまり、四重らせん構造というDNAそのものの宿業として、高い知能を持つ代わりに病気がちで短命という運命を定められているのがシジューサなのです。
かたや、左巻き二重らせん構造を持つレフターは、知能はニジューサと変わりませんが、身体的特徴としてほとんど病気にかかることがありません。怪我の回復もニジューサと比べて極めて早いのです。欠損した細胞の修復スピードが他人類のおよそ7倍にも上ります。レフターの特徴で特筆すべきは“寿命がいまだ測定不能”であるということです。2088年に世界で最初のレフターの存在が認められてから、およそ250年もの間、いまだかつて病死、老死した人がいないのです。
レフターの成長速度は特殊です。20代あたりまでは他人類と見た目も生物学的年齢も変わりません。しかし30代以降に急速にその老化が遅くなります。100歳を超えても生物学的年齢は40代を保ったままなのです。これは眼球の水晶体に含まれるタンパク質にどれだけ老化分子が蓄積されているかを『網膜スキャン』することで定量的に測定します。
いずれの研究所でも、今のところレフターの体内だけに特徴的な物質は発見されていません。つまり、現在の学術領域では、この不老不死かもしれない超長寿は、DNAの二重らせん構造が左巻きであることが決定的な要因になっているのではないか、と考えられています。
レフター第一世代で最高齢を記録したのはメキシコ人男性のハビエル・ガルシア。145歳で死亡。首吊り自殺による窒息死でした。当時の生物学的年齢は42歳でした。レフターが誕生してから現在までの間で最高齢を記録したのはエチオピア人女性マルタ・アヤナ、187歳。生物学的年齢は44歳。彼女も自殺でした。拳銃でこめかみを撃ち抜いたことによる脳挫傷が死因です。
このように、レフターにおいて『死』は大きな問題となりました。不老不死とも思える超長寿を体現するレフターですが、皮肉なことに140歳を超えたあたりから自殺者が急増するのです。それも、経済的な事情よりも、長く生き続けることへの苦痛が自殺の理由として圧倒的に多いことが統計上明らかになったのです。
これは人間にとって『尊厳とは何か』を議論する大きな契機となりました。死の内訳は、他殺が12%、交通事故死が22%、自殺が66%。このデータが意味するところは、レフター誕生からおよそ250年、寿命を全うした例がないということです。これは不老不死を意味するのか、それとも人類がその自然死に立ち会っていないだけなのか、さらなる遺伝子研究が待たれます。
目黒通り沿いのカフェでここまで読み終えると、手のひらサイズに縮めたモニターを中指と親指でピンチして閉じた。スマートアームから立ち上げたホログラムモニターは、好きに拡大収縮することができ、腕から半径80cm以内なら自由に移動できる。
僕はテーブルから顔を上げると、自然と大きなため息がひとつついて出た。レポートに書かれている内容には、現代を生きる者なら誰でも知っているようなこともあれば、初めて知ることもある。どことなく疲れているのは、レポートを読むという行為に慣れていないせいだろう。
レポートに書かれていたように、僕も2年に一度網膜スキャンをされる。ちょうど日本に来る前にアメリカで済ませたから、次は1年後だ。僕の実年齢は22歳で、生物学的年齢は20歳。今は実年齢との差異はほとんどないが、これから歳を重ねるごとにあらわになってくるのだろう。
腕の皮膚に白い文字で明示されるデジタル時刻を見ると午後1時45分。行こう、『ひとんちゅ』に。気分を入れ替えよう。僕には修行が待っている。マチムラミナから頼まれた録音も、師匠から教えてもらうレフテーも、待っている。深く考えたって仕方がないんだ。
3
午後2時、白金台。
プラチナ通りの坂を上がったところある『ひとんちゅ』に、六本木アグリフォレストビルから高速AIドローンのシルバーピジョンが野菜を運んでくる。この時間、僕はひとりで仕込みをしている。都内各所の仕入れ先からシルバーピジョンによって店先に届けられる肉や野菜、調味料などの搬入や、野菜の洗い、カット、小鉢ものの調理など、開店前にやることはたくさんある。仕込み全体の前段階を僕が担っているのだ。
僕はニンジンを数十本洗い終えたところで、その一本にかじりついた。だめだとわかっていても、ついついやってしまう。日本の野菜ファクトリーで育てられるニンジンの歯応えと甘さが好きなのだ。このシャキシャキ感、噛めば噛むほど清流のような透き通った水分で口の中が洗われる。炒めれば、このみずみずしいばかりのジュースがたっぷりと丸みを帯びる。
調理台の上にはニンジン30本と生卵10個、オイル漬けしておいたツナと鰹節、そして壺に入った秘伝の和風だし。僕はしりしり専用の千切り器であるしりしり器で皮のついたままのニンジンを次から次へと千切りし、ボウルに卵を割る。そして温めたフライパンにニンジンを二握り放り込み、適度に菜箸でかき混ぜる。油を切ったツナを入れ、軽く炒めて和風だしを小杓子で2杯。ニンジンがだれないように目を光らせながらツナ油を足して炒める。ほどよい頃合いに溶き卵を中サイズのオタマで1杯。無理にかき混ぜて卵を炒めすぎないように火加減を見ながらかき混ぜる。鰹節をまぶし、もう一度かき混ぜる。出来上がったらバットに移す。それを10回繰り返す。今夜のにんじんしりしりが出来上がる。
隣のコンロでは豚の角煮、ラフテーを弱火で煮込んでいる。僕は煮込み汁に混ぜた泡盛が最初のひと煮立ちで消える前の、つんとした匂いが好きだった。今は黒糖の甘くて強い匂いとニンジンの甘い湯気が鼻の奥で複雑に混ざり合っている。僕は菜箸を置き、目を閉じた。
この甘ったるく豊潤な匂いを構成する真ん中に豚がいる。
豚……豚……、これが人だったらどんな匂いになるんだろう。
僕は今日、師匠とひとつの約束をしていた。この店のオリジナルメニューであるレフターの角煮、いわゆる『レフテー』を教えてもらう。僕に人を捌くことなどできるのか。でも調理台に人が横たわるわけではない。すでに畜産センターでおろされたバラ肉をカットするだけだ。そうなのだが、それを人の部位だと認識したまま、包丁をいれることができるだろうか。鍋に火をいれることができるだろうか。自分もレフターだ。レフターとして、そんなことをしていいのか。父や母、アメリカにいる友人の顔が浮かぶ。それをかき消すことができない。なぜ日本人は平気な顔をしてレフターを料理することができるのだろう。なぜ自分はこのお店を選んでしまったのだろう。
とはいえ、イタリアンを選んでもフレンチを選んでも中華を選んでも同じことだ。レフター肉は現代日本を代表する食材としてその地位を確立している。日本で修行するには政府がレフターイーツの認定を授けたお店で働くしかない。その時点で遅かれ早かれ、レフターを調理することになる。我慢するしか、乗り越えるしかないのだ。
調理場に師匠の照屋宗徳が入ってきた。腹まわりが猪のようにどっしりとした師匠は毛虫のような眉と豪快な人柄を凝縮したような強い目で、調理台の前に立つ僕を見た。
僕は師匠に見えないように背を向けたまま、左腕を右手の人差し指で一度タップしてから三本指で円を描いて、録音機能をオンにした。
「何、手を休めてるんだ」
「すみません」
僕は調理台の前のカウンターテーブルに置いていた段ボール箱に腕を伸ばし、ゴーヤを洗い始めた。
師匠は拳サイズにカットされたジュゴンの燻製を棚から5つほど取り出し、
「今夜のコースでジュゴン汁を出す。お前にも教えるから、早めに仕込み終わらせろ」
と言った。
僕は師匠を振り返り、
「いいんですか?」
驚きのあまり水道の蛇口にゴーヤをぶつけてしまい、水しぶきが首筋にかかった。
ジュゴンは現代沖縄料理の頂点にある食材と言っていい。かつて絶滅危惧種として保護されていたジュゴンは、行き過ぎた保護政策のせいでその数を増やしすぎ、今度は海の生態系を壊すようになった。そこに提示された解決策は、適正な数を間引きすることだった。しかしただ捕獲し、殺処分するのではなく、“海のジビエ”として食用にする。現在、年間500頭から600頭のジュゴンが主に沖縄料理店に卸され、燻製にして汁ものにするか、焼きものとして提供される。燻製の汁物は、栄養抜群で沖縄料理の中でも高級料理の部類に入る。
「営業終わったらレフテーも教えるから」
隣に立った師匠の言葉に、僕は胸がつまりそうになった。
でも、その前にジュゴン汁を教えてもらえる。僕はその喜びにフォーカスすることにした。
師匠はジュゴンの黒い塊に包丁を入れ、骨を取り除き、煮た時に身が崩れないように糸で縛っている。僕は隣でチャンプルー用のゴーヤをひたすら切っている。早くこれを終わらせよう。もうすぐ師匠は鰹だしのスープを作るはずだ。そのあと具材を煮込んでいる間に、ジュゴン汁の下準備やスープの作り方を教えてもらうんだ。僕は自分の仕事に集中力が増していくのを感じた。左腕のスマートアームで録音していることはすっかり忘れてしまっていた。
午後6時から始まった営業は、閉店の11時までシジューサの予約客でカウンター6席、テーブル4席すべて満席で、師匠と僕は休憩を取る暇もないほど忙しく働いた。お客さんは僕の小鉢ものや師匠のラフテー、各種チャンプルー、スペシャリテのジュゴン汁など、全てに舌鼓を打ってくれた。
暖簾を下げた後、僕は客席の片付けをすませ、調理場で調理器具など、最後の洗い物をしていた。師匠が調理台の下の冷蔵庫を開け、奥の方からラップに包まれた大きなブロック肉を取り出し、調理台に置いた。僕はそれを洗い場から横目で見ていた。とうとうやるのか。
師匠は壁面に据えられた大きなガラスドアの野菜室からネギと生姜を取り出して、鍋に湯を沸かし始めた。
「そろそろ洗いもの終わるか?」
「はい」
僕は洗い場のタオルで手を拭いて、調理台にいる師匠の隣に立った。
師匠はブロック肉のラップを剥いていく。
「これがレフターのバラ肉だ。だいたい腹回りの肉だな」
そう言ってレフターのバラ肉をまな板の上に置いた。
豚バラ肉とよく似ているが、白い脂は豚肉より少し柔らかそうな印象だ。肉は豚肉よりも若干赤みがかっているが、牛肉ほどではない。まじまじと見つめていると、僕は首筋に冷や汗がにじむのを感じた。
「難しい肉じゃない。豚とほとんど一緒だ」
師匠はいつも教えるような淡々とした口調で言う。
「あんまり触りすぎると手の体温で脂が崩れるから、さっとカットする」
そう言ってすばやく6つに切り分けると、ひとつをデジタル量りに載せた。300グラム。師匠は包丁を変え、ネギを30センチ程度に切り揃え、生姜を皮付きのまま薄切りにする。沸いた湯に肉とネギと生姜を一緒に入れる。
「中火で30分ほど待つ。火を見ててくれ。先に15分、休憩もらうよ」
師匠は言って、裏口に向かおうと僕に背中を見せた。
「待ってください」
僕は師匠を呼び止めた。
振り返った師匠に僕は、
「やっぱりできません」
やっと言えた。
「アメリカに帰ってもレフテー出せないですし」
作りたくない、教えてもらっても意味はない、という意思を伝えたかった。弟子が師匠に意見をするのは勇気がいる。だけど、もう避けては通れない。
「レフテーは作りたくないか」
師匠の言葉に、僕は黙り込んだ。
こめかみを汗が伝う。僕はこれまで溜めていたことをすべて吐き出すした。
「師匠はなんでレフテー作るんですか? 師匠は父とも知り合いだし、僕も雇う。だけどレフテーも作る。それってどういうなんことなんですか?」
問い詰めるつもりはなかったが、きつく聞こえたかもしれない。
師匠はしばらく口を閉ざしてから、
「矛盾してるように思うだろう。お前はアメリカ人だからまだ分からないかもしれない。だけど、日本じゃレフターイーツの認定を受けることが、飲食店をやっていくということなんだ。認定を受けないと、行政から衛生や消防の関係やらで立入検査がしょっちゅう入って嫌がらせされるんだ。認定を受けないとレフターの味方、反政府的とみなされるんだよ」
「レフターの味方だからって反政府も何もないでしょう。日本だって三人類平等法があるんだから」
日本も諸外国と同じように、かつてレフターの人権回復運動が実を結び、平等を実現したはずだ。
「それは表向きだよ」
「どういうことですか」
「レフターのブランド食肉市場は出来上がってるんだ。それをひっくり返すなんて、誰にもできない。政治が変わらないかぎり」
師匠は苦しそうな表情を浮かべた。
いつもの自分を貫く師匠とは違う、初めて見せる顔だった。
さすがに一年も日本にいれば、全国各地にブレンドレフターの産地があることくらいは僕も知っている。但馬県、神戸県、姫路県など、50年前に分割された旧兵庫県で盛んに生産されているという。でも、なぜそのレフター食肉市場が存続し続けているのかは、まだ詳しく知らなかった。
「かわりにできた新しい法律で『本人が強く望み、かつ生存の尊厳が著しく損なわれる場合にかぎり、安楽死を認める』という一文だけ残されたんだ。政府はそれを拡大解釈しているんだよ。レフター本人が契約書にサインすることで、安楽死という名の殺処分が行われ、食肉になる」
「なんでレフターは契約書にサインするんですか?」
それは素朴な疑問だった。
「教育だよ」
師匠は吐き捨てるように言った。
僕は胸を殴られたように、息がつまった。
「教育…?」
「生まれてからずっと、食肉教育されてるんだ」
師匠は沸騰する鍋をじっと見つめている。
「巨大なファクトリーで人工授精で生まれ、育つ。外の世界をまったく知らないまま。自分がなんのために生まれ、なんのために死ぬのか、それを教えられる。おいしい肉になるため、おいしく食べてもらうため、成長し、学び、人生を前向きに生きる。そして屠殺場に連れていかれ、肉になる。本人は、幸せな人生だったと笑顔を浮かべ、感謝しながらレーザーを額に撃ち込まれる」
「なんでそこまで知ってるんですか?」
「芝浦に屠殺場があるんだ。見に行ったこともあるよ」
師匠は鍋の肉に串をそっと刺し、火の通りを確認し、もう少しだ、と僕に聞こえないほど小さな声で呟いた。
「アメリカにレフター肉が密輸されてるって言いますしね」
僕はわざと棘のある言い方をした。
「お前、なんでそんなこと知ってるんだ」
師匠は驚いたように目を剥いた。
「知ってちゃだめですか」
「余計なことに首を突っ込むんじゃない。お前の身のためだ。修行にだけ集中してればいい」
師匠は語気を強めた。
叱りつけるようなその言葉に、何か隠している、と直感した。
それからしばらく沈黙が続いた。
師匠はもう一度、肉に串を刺し、
「もういいだろう」
と言うと、鍋からトングで肉を取り出した。
途端にむんとした肉の匂いが立ち込めて、僕は吐き気がした。
師匠は肉を流水で洗い、布巾で水気を切ると、テキパキとコマ切りにした。新しい鍋に水、泡盛、黒砂糖、だし、しょうゆ、そして肉を入れて、強火で煮た。僕はそれをただ黙って見ていた。師匠は、野菜室の上部から沖縄のハーブ、コヘンルーダを取り出し、ひとつまみ投げ入れた。
「コヘンルーダ入れるんですか?」
「そうだ。ラフテーには使わないけど、レフテーには使う」
「どうしてですか?」
「気持ちだな」
「気持ち?」
「あとは俺がやっておくから。お前は先に帰れ」
何か後ろめたいものを解消するためにでもやっているのだろうか、師匠は僕の疑問には答えなかった。ハーブを入れるだけで、罪悪感が消えるとでもいうのか。
泡盛のつんとした匂いと黒砂糖の甘い匂いが鼻の中で混じる。そこにコヘンルーダの渋い匂いがかすかに走る。もうすぐこの複雑な匂いの奥から、匂いのボディが立ち上がる。それが僕と同じ肉体を持つレフターの匂いだ。いや、僕だけじゃない、他の人類とも同じ、人間の肉だ。
「帰ります」
「おう、お疲れさん」
僕は師匠に背を向けた。
「そうだ。もうすぐ盆々の日が来る。盆々前後は忙しくなるから、早く寝ろよ」
「そうですね、そうします」
僕は、今は盆々のことなど考える余裕がなかった。背中を向けたまま返事をし、裏口の扉を開けて出ていった。
■現代人類史レポート 2 (CIA東京支部所有 部外秘)
シジューサとレフターの発見の数年後には、各国でシジューサとレフターの保護政策がとられました。他人類間よりも同人類間の婚姻が社会保障制度上で優遇され、シジューサとレフターは徐々にその人口を増やしていきます。国によってその人口比率は異なりますが、2130年代には、世界70億人の8%がシジューサ、44%がニジューサ、48%がレフターとなりました。また同じ頃、知能の高いシジューサがいずれの国でも政治家として手腕を発揮し、政権を握ることとなります。とはいえシジューサは短命なため、人口比率が他人類よりも少ないことが唯一の課題でした。
2290年、アメリカでは、他殺や事故死、自殺以外の死亡例がない、いまだかつて寿命を全うしたことのないレフターの〈死の尊厳〉が大きな社会問題となっていました。殺人事件や交通事故死の抑制も叫ばれていましたが、何より自殺率の高さは、レフターだけでなく、三人類に「死とは何か」「死の尊厳とは」を投げかけました。この自殺率の高さは決して社会的要因ではなく、レフターという新人類が持つ種の特性に起因することから、米国シジューサ政府は、自殺という行為をレフターにやめさせ、安楽死を制度化することにしました。
2294年、米国シジューサ政府によって『レフターにおける死の自由法案』が発布され、世界で初めて合法的に〈死の選択権〉が認められたのです。その特徴は、レフター個人が死にたいタイミングで自死をサポートする手厚さにあります。そしてもうひとつ、その死に対して政府から多額の見舞金が家族に支払われることです。
不老不死かもしれないレフターが今後生きるかもしれない長い人生をねぎらうため、そのお金は生前納めてきた各種年金額よりも多く、概ねレフターの平均年収の10年分程度はありました。
しかしながらこの法案の抜け目ないところは、その背景にレフター人口を削減する意図があったことです。徐々に人口比率を拡大し続けるレフターが財政を逼迫し始めていたのです。レフターに死の尊厳を与えるという名目で、政府自体の負担を軽減していたのです。当時アメリカの失業者率は8%前後を推移していました。失業者の内訳はレフターが62%、ニジューサが38%。シジューサには基本的に失業者はおらず、平均0〜0.1%程度でしかありません。レフターがニジューサよりも失業率が高いのは、寿命が長いことによる労働モチベーションの低下だと言われています。そこで米国シジューサ政府はレフターを生かし続けるよりも、死を与え、見舞金を支給した方が財政健全化を図れるという試算を弾き出したのです。
つまり、レフター個人には〈死の自由〉を与え、社会的には〈レフター殺処分〉を推進する、そういった一挙両得の法案だったのです。実際、この法案の施行数年後には、経済的な事情で死を選ぶレフターが増えていきます。貧困層のレフターたちに、「いつ命を閉じるか分からないまま苦しい生活を延々と続けるよりも、家族に見舞金をプレゼントして、自分の生も終わりにしたい」という人たちが数多くいたのです。政府はレフターの潜在ニーズをうまく引き出したと言えるでしょう。しかし不思議なことに、そうした自死が増えていくと、レフターは次第に社会から冷遇されるようになります。学校、公共交通機関、就業機会、賃金、職場での地位など、様々な場所や場面で差別が横行するようになります。見舞金をもらうレフターへのニジューサやシジューサの嫉妬や蔑み、またレフター自身が死を選ぶことそのものが、決定的にレフターの存在の軽視を促したのです。
2300年頃にもなると、死の自由法案はレフターたちから“殺処分法案”と揶揄されるようになります。レフターたちは、自分たちのためだと思った法案が自分たちの首を締めていることに気づいたのです。
アメリカで採択されたこの『レフターにおける死の自由法案』は世界各国のシジューサ政府に研究、改良され、ただちに導入されました。言い換えれば、この時、世界中でレフターの人権剥奪が始まったのです。世界各国で社会のヒエラルキーの頂点にシジューサが君臨し、それに隷属するように一般市民のニジューサがのさばり、そして最下層にレフターが存在する——そうしたピラミッド構造が世界各国で出来上がったのが2300年前後でした。
しかしアメリカはアメリカです。2310年代には国内全土を巻き込む激しいレフター人権回復運動が起きました。その運動熱はもはやアメリカのアイデンティティーと言っても過言ではないでしょう。その運動にはレフターだけではなく、多くのニジューサ、少しばかりのシジューサも含まれていました。ついに2338年、『レフターにおける死の自由法案』が撤廃されました。アメリカにおいてレフターの人権が回復した瞬間です。
そこから世界の様相は再び変化していきます。世界中のシジューサ政府が『レフターにおける死の自由法案』を取り入れたのと同じように、各国の民衆もレフター人権回復運動を盛んに行うようになりました。その波は当然日本にも押し寄せ、レフターが主導的にデモや抗議集会、暴動を起こし、日本シジューサ政府に怒りを表明することにより、2341年、日本でも『レフターにおける死の自由法案』が撤廃されることになりました。
2345年現在、日本の総人口は約8000万人。その内、シジューサは1500万人、ニジューサは5700万人、レフターは800万人。レフターがこのようにマイノリティーなのは、これまで過剰と言えるほど適正に殺処分された結果です。しかしながら日本の実情はさらに複雑です。
実はレフター人口800万人にカウントされていないレフターが数多く存在しているのです。
それが畜産ファクトリーで育てられるブランドレフターです。日本では『レフターの死の自由法案』が採択されたことをきっかけに、レフター食が始まっていたのです。
日本はその歴史において食のタブーが極めて少ない国です。その伝統がレフター食の素地となったのは言うまでもありません。
レフター食の広がりにはにひとつの噂があったと言われています。一般的には人肉を食べることは異常プリオンという奇形のタンパク質を生み、海綿状脳症などの難病を引き起こします。しかしある時「人肉を食べることで発生する異常プリオンがシジューサの身体にいい」というデマが広まったのです。この根も葉もない噂にシジューサほどの知能の持ち主がひっかかってしまったのは、おそらくそこに根拠がなかったからでしょう。真実は闇の中、という事実がシジューサをそうした行為に走らせたのだと考えられています。それからシジューサは死亡直後のレフターの死体を買い取り、食用にしたり、レフターの肉骨粉を丸薬にしたサプリを摂るようになり、一気にレフターはシジューサの健康食として広まりました。
こうした経緯で始まったレフター食の発展期において、日本人はそのアイデンティティーを余すことなく発揮します。それがブランドレフターの誕生です。
そこに改善の余地がある以上、ただ漫然と食すことを良しとせず、小さな努力を重ねるのが日本人です。レフター肉をよりおいしくしようと誠心誠意、改良を始めたのです。レフター肉は全国各地で競い合うようにブランド化していき、2300年頃にはレフター食は和食を構成するひとつとして確立しました。日本国内はもとより、海外の日本料理店などにも輸出するようになりました。
こうしたブランドレフターの世界進出とは反対に、その後世界ではレフター人権回復運動が巻き起こり、日本でもその熱は次第に高まります。そして2341年、ついに日本でも『レフターの死の自由法案』が撤廃されたのです。
しかし日本人はレフター食という一度手にした食文化とビジネスモデルを簡単に手放すことはありません。『レフターの死の自由法案』の撤廃と同時に『新レフター保護法案』が発布されたのです。
この『新レフター保護法案』は実のところ、言葉を巧妙に選び作成することでレフター食だけは産業として存続できるようになっています。——『本人が強く望み、かつ生存の尊厳が著しく損なわれる場合にかぎり、安楽死を認める』——この一文を拡大解釈することで、ブランドレフターの国内産業構造は今なお守られ、合法的に行われているのです。
ブランドレフターは但馬県、神戸県、姫路県に代表される生産地から、全国主要5都市にある食肉市場(屠場)へと運ばれ、セリが行われた後、屠殺、解体、冷凍保存または生肉のまま各レストランへと出荷され、調理されます。レフター肉を扱う飲食店は、レフターイーツ認定を政府から受ける必要がありますが、その実、ほとんどの飲食店が認定店です。日本シジューサ政府の経済政策のひとつが、国内飲食事業の活性化であり、その目玉がレフターブランドの推進なのです。
しかし、一点だけ日本シジューサ政府が頭を悩ませているのがレフター肉の密輸出です。2345年現在、一部の闇組織により年間30兆円規模のレフター肉が海外へと流出しています。最大の取引先はアメリカ。巨大な裏マーケットの解明を政府は進めています。
4
どう考えても犯罪者集団だ。
たった今あの茂みで繰り広げられていた光景をどう受け止めればいいのだろう。師匠が人さらいをする? あれは本当に師匠なのか? いや、師匠だろう。暗がりでも分かるものは分かる。服を変え、キャップを被り、黒っぽいバンダナを鼻から下が隠れるように巻いていても、一年も一緒にいる人の体つきや雰囲気は間違えようもない。
僕は今夜営業が終わった後、先に帰るふりをして店から出てくる師匠を隠れて待っていた。というのも一週間前、レフテーを作っていた時の師匠の態度にどこか不信感を抱いたからだ。あの日の翌日から、僕は自動走行三輪バイク『Tri-Boots』で出勤することにした。近くの駐車場に置いておいて、営業後に師匠をつけることにしたのだ。
師匠は必ず何かを隠している。師匠とは「ひとんちゅ」以外で会うことはなく、どこに住んでいるか、どんな生活をしているのか、詳しく知らなかった。それは師匠と弟子という仕事の関係だから当然と言えば当然だけど、今、レフター密輸出の話をマチムラミナから聞いてしまった後では、知らなければならないこともある、と感じていた。
だけどこの一週間、変わったことは何ひとつなかった。
営業が終わり僕が店を出た後、30分後には師匠も店を出てきて、タクシーを拾った。悪い気はしたが、Tri-Bootsでかなり後ろの方をつけて走った。たどり着くのはいつも目黒の権之助を下りて大鳥神社の交差点を曲がったところにある高そうなマンションだった。どうやらそこが自宅らしい。六日続けて同じ結果だったので、もうやめた方がいいのかもしれない、と逆に自分を責めるようになり、今日で最後にしようと思っていたところだった。
仕込みをしている師匠がいつもと少し違ったのだ。
スマートアームで誰かと頻繁に連絡を取り合っている。そういえばこれまでも週に1回か二週間に1回くらい、そういう時があることを思い出した。
今夜、何かある————
それは直感だった。
案の定、深夜3時。いつもならとっくに店を出ているはずの師匠が、まだ出てこない。じりじり痺れを切らせて待っているところに、店の前に一台のバンが停車した。そこに師匠が出てきて、颯爽とバンに乗り込んだ。僕はTri-Bootsの自動走行モードをオフにして、師匠の車から100メートルほど距離を保ち、慎重に跡をつけた。
バンは芝浦食肉市場のそばを流れる天王洲運河のそばで止まった。僕は少し離れた楽水橋という交差点でそれを確認すると、近くにあったコンビニにTri-Bootsを停め、ヘルメットを脱ぎ、遠くから車の様子を伺った。
車から5人の男が下りてきた。
そこに見たこともない服装をした師匠を見つけた。皆、一様に同じ格好をしている。どう考えてもまともじゃない。
師匠たちが天王洲橋の下の茂みにおりたところで、そこにいた数人の男たちを取り囲んだ。暗くてよく見えないが、武器でも持っているのだろうか、そこにいた男たちは両手を上げ、師匠たちの誰かひとりが橋の下に停泊していたボートから、数人の人たちを連れ出すのが見える。
師匠がボートから下りてきた人たちを自分たちの方へ引き寄せた。相手の男たちはまだ両手をあげている。そして師匠たちはボートから連れ出した数人の人たちと一緒に橋へと駆け上がり、バンに乗り込み、走り去っていった。
拉致……? 誘拐……? 師匠は犯罪をしたのか……?
僕はその光景に足が震えてしまい、そこから跡を追っていく勇気がなかった。もしこのまま追っていって、見つかってしまったら殺されるかもしれない…。そんな悪い想像が頭をよぎってしまった。
まともに明日の仕込みができるだろうか、平常心で師匠と会えるだろうか、途端に自信がなくなった。
僕はマチムラミナに今見たことを全て話そうと思った。そうしないと、自分ひとりでは消化できない。アメリカ大使館を訪れた日以来、僕は毎日録音データを送っていた。役立つデータがあるかどうかは分からないが、毎回感謝のメールが返ってきた。今夜、この時間、まだ起きているだろうか。どう考えてももう寝ている時間だろう。だけど電話しょう。メールじゃ伝えきれない。
■現代人類史レポート 3 (CIA東京支部所有 部外秘)
2085年にアメリカの宇宙船『ZEAL』が初めて火星に到着し、2087年に宇宙共同開拓法が宣言されたことは先に述べました。それから地球の各国は火星に移住する国民を選抜しながら、年間1000名程度が火星に移住していくことになります。
火星へ移住するということは「火星の開発計画」、また「火星人類によるさらなる宇宙探索」という命題を負うということです。
そこにシジューサが大きな役割を果たすことになります。
初めてシジューサが発見されたのは2088年ですが、およそ20年後の2110年代以降は火星移住の主役はシジューサに取って変わられます。ニジューサやレフターよりも知能が3%高いことにより、選抜テストで好成績を収め、メンバーの中の97%を占めるほどになったのです。しかし唯一の弱点は寿命が短いことでした。そこで火星に住むシジューサは自然妊娠ではなく、体外受精による人工妊娠を15歳以上の女性に認めるようになります。男性の精子も15歳になれば冷凍保存することを認めたのです。そうしてシジューサは火星において、子孫を残すサイクルが早くなり、安定的に活動を続けるようになります。こうして火星統治の主導権もシジューサが握るようになったのです。
ところで2345年、日本で久しぶりに「盆々の日」がやってきます。
それは火星シジューサの帰還です。
地球日本では火星日本人が年に一度帰郷することを「盆々の日」と呼び、お祭りをするのが一つの文化となっていました。
しかしシジューサが火星に移住し始めて50年ほどが過ぎた2167年、火星日本人は地球日本へ帰郷しなくなりました。火星日本が地球日本との交流を一方的に断絶したのです。
その理由は一切明かされていません。火星日本を支配するシジューサと地球日本を支配するシジューサ同士の確執とも伝えられていますが、日本政府からは噂のひとつも漏れ聞こえてきません。火星アメリカ政府からも火星日本と地球日本との関係性の調査レポートはないのです。
しかしそれからおよそ200年近い年月が経ち、再び火星日本人が帰郷します。それが今年です。8月23日、火星日本人がやってくるのです。以前はお祭りだったということですが、今年の盆々の全容は明かされていません。火星日本と地球日本の新たな融合、歴史の再スタートを我々は分析、レポートをしていく所存です。
5
午後4時、すでに師匠もキッチンでラフテーを煮込んでいる。
昨夜の出来事があって、僕は師匠の顔をまともに見ることができず、ぎこちない態度がばれてしまうのを恐れて挨拶以外に話しかけることができなかった。このまま営業に入って不必要な会話をしないですめばいい、早く帰りたい、そう思っていた、その時だった。
突然、お店のドアが勢いよく開けられ、マチムラミナとシマダリサ、そして5名ほどのスーツ姿の屈強な男たちが入ってきた。
「手を上げろ」
同時に裏口の扉からも数名の男たちが入ってきた。
男たちは皆、僕と師匠に銃を構えている。
「照屋宗徳、あなたをレフター拉致監禁罪で逮捕する」
カウンターの正面に立つマチムラミナが言った。
師匠は手に持った菜箸を置いて、無言のまま両手をあげた。
目はマチムラミナを睨みつけている。
「私が拉致監禁? どういうことでしょうか?」
師匠のその言葉にマチムラミナは一度鼻で笑ってから、
「それを訊くのよ。あなたの弟子たち4名も今、他のメンバーが逮捕してる」
僕は両手を上げたまま、頭が真っ白になっていた。
逮捕? 連行? 何を言ってるんだ?
目の前で起きていることも、会話の意味も分からない。
「目黒署に連行します」
マチムラミナは決然と言った。
「マ、マチムラさん、ちょっと、これはどういうことですか?」
僕はこんがらがった頭の中から、初めて言葉を紡ぎ出すことができた。
マチムラミナはCIAのメンバーなのだ。日本で逮捕などできるはずがない。
「お前、この女を知ってるのか?」
師匠が目に怒りをたぎらせて僕を見た。
僕がどう返事していいものか困っていると、
「馬鹿野郎、この女は日本の秘密警察だよ」
僕は愕然と目をみはった。
秘密警察……? どういうことだ?
「何をどう言いくるめられたのか知らないけど、お前は馬鹿だよ」
「でも師匠、昨日……」
「なんだ」
「天王洲橋の下で……」
「見たのか?」
「……」
僕は師匠の力強い視線に耐えきれず、まな板に目を落とした。
「余計なことに首を突っ込むなと言っただろう」
「でも……」
「つけこまれやがって」
師匠は悔しそうに呟いた。
「それ以上喋るな」
銃を構えた男のひとりが僕たちの会話を制した。
「タケルさん、あなたのご協力に感謝します」
マチムラミナが僕に言った。
「あなたも来てもらうわ」
「僕も?」
「ええ」
「どこへ?」
「あなたは芝浦に連行します」
「やめろ!」
師匠が怒鳴った。
「こいつは関係ない。巻き込むんじゃない!」
師匠のその言葉をマチムラミナは無視するように、
「手錠を」
と一言指示を出した。
銃を構えた男たちの中から数人が機敏に動き、師匠と僕に手錠をかけた。
僕と師匠は表に停めてあった2台の車に別々に乗せられた。
僕は後部座席の真ん中に座らされ、スーツ姿の男たちに挟まれた。
僕はどこへ連れて行かれるんだろう。師匠はどうなるんだろう。昨夜、本当は師匠は何をしたんだ。
それに今日は8月22日。明日から盆々が始まる。明日から一週間ほど、火星日本人が降りて来て、おそらくお祭りが始まるはずだった。予約もいっぱい入っていた。このお店もどうなるんだろう。
火星日本人の姿をチラッとでも見てみたかったが、それも叶わない。僕はこの後何をされるんだ。アメリカの父や母のもとに僕は帰れるのだろうか。
6
まるで実験室のように壁も床も白い無機質な部屋で、白いテーブルを挟んで僕はマチムラミナと向き合っている。
「タケルさん。申し訳ないけどあなたは今日失踪したの。もうこの世にあなたはいない。あなたはいなくなるの」
丸い目に冷酷さを浮かべ、マチムラミナは言った。
「どういうことですか?」
僕は何も理解できずに、ただ不安と恐怖に苛まれてしまっている。
「色々とこちらでも話し合ったのよ。協力してくれたあなたをどうするのか。だけどごめんなさい。リスク管理上の観点からあなたには消えてもらうことになったの」
マチムラミナはわざとらしく残念そうなため息を吐いた。
「何も分かりません! 僕はただあなたの言うことを聞いただけだし、師匠が何をやったかもよく知らないし、あなたたちが秘密警察だということもさっき初めて知ったばかりだ!」
僕は底冷えするように震えていた。
「ごめんね。決まったことなの」
「師匠はどうなったんですか?」
「照屋はブランドレフターをどこかに監禁してる。それを吐いてもらわないかぎり外には出れない」
「師匠は本当は何をしたんですか? 人を誘拐したのではないんですか?」
「あなたが知る必要のないことよ」
「あなたは日本の秘密警察なんですね」
「そうね、それだけはもう隠せないわね。でも私たちの存在は公表されてない。あなたは知るべきではなかった」
マチムラミナは面倒臭そうに言葉を続けた。
「でも、もうそんなこともどうでもいいの。照屋があなたを連れて失踪した。世の中ではそういうふうに処理される。あなたは新しく生まれ変わる。意識を消して、整形して、別の人に身体を明け渡してもらう」
マチムラミナはそう言って立ち上がり、見下すような目で、
「さよなら」
一言言うと、部屋を出ていった。
僕は後ろ手に手錠をかけられたまま、スーツ姿の男たちに別の場所へと連行された。
7
「おお、新入りだ」
部屋に入ってきた僕を見て、ピンクのモヒカンをした男が好奇の眼差しを浮かべて言った。
窓のないこの大部屋は先ほど尋問された部屋とはうってかわって学校の教室ほどもあり、二段ベッドが正面の壁際に5つ並べられている。右手にトイレのドアがあり、その隣に手洗い場がある。
モヒカンの男は20代の後半あたりだろうか、左端の二段ベッドの上段であぐらをかいている。もう一人、真ん中の二段ベッドの下段にいるが、こちらに背を向けて寝そべっている。
僕はまだ自分の置かれた状況がただ絶望的であること以外、よく理解できない。僕がドアのそばに立って何をどうしていいか戸惑っていると、
「心配しなくていい。俺たちは仲間だから」
モヒカンの男が皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「仲間? どういうことですか?」
「俺たちはレフターだよ。お前もそうだろ?」
「レフター? ここはなんなんですか?」
「収容所だよ」
「収容所?」
「ああ。人生の行き止まりだ」
頭がおかしくなりそうだ。何も分からない。何から何まで分からない。師匠は何をやったんだ、僕が何をしたというんだ、なんで僕はここにいないといけないんだ、僕がいなくなるってどういうことんなんだ、ここが人生の行き止まりだなんて、この人は何を言ってるんだ。
僕が頭を掻きむしっていると、モヒカンの男が、ここは芝浦食肉市場の一角にあるレフター収容所で、食肉化されるレフターとは別に隔離されている場所なのだと教えてくれた。
「俺はミツアキ。ジビエだ」
また意味の分からないことを言う。
「ジビエ?」
僕が思わずおうむ返しすると、
「ああ、街にいる普通の市民だ」
ミツアキは唇の端を釣り上げ、皮肉な笑みを浮かべた。
「いや、普通というのはちょっと違うな。取りようによっちゃあ過激派でもある」
「過激派?」
「俺はレフターの解放運動をやってた。照屋さんの片腕だ」
「照屋さんの片腕? 師匠のこと知ってるの?」
「やはりお前も知ってるのか。ここに入ってくるくらいだから知ってると思ったよ。だったら話が早い」
「でも僕は照屋さんが本当は何者か、何にも知らないんだ」
僕が肩を落として言うと、ミツアキは丁寧に説明してくれた。
「照屋さんは『マルーンズ』というレフター解放運動グループのリーダーをしていた。全国の生産地から芝浦食肉市場にブランドレフターが運ばれてくる時にその運搬船や輸送トラックを襲撃し、レフターを強奪してたんだ。『マルーンズ』は照屋さんの過去の弟子たち4名を中心に組織されていて総勢17名いる。メンバーはニジューサ9名、レフター8名」
ミツアキのこの言葉に、僕は自分がとんでもない過ちを犯してしまったことを痛いほど理解した。ひとしきりミツアキの話を聞いた後、僕は自分が日系アメリカ人で一年前から照屋さんの弟子として修行をしていること、マチムラミナから録音の誘いを受けたこと、昨夜の襲撃を目撃したこと、今日照屋さんが捕まったこと、すべてを懺悔するように話した。
「照屋さんも捕まっちまったのか、クソッ!」
ミツアキは初めて苦い表情を浮かべた。
「すみません、全部僕のせいです」
胸が押しつぶされそうだった。
本当なら照屋さんに謝らなければいけない。いや、誤って済む話ではない。
「今更言ったって仕方がない。でもなんで照屋さんはそんなに無防備だったんだろう。それが信じられないよ。いつも秘密警察を警戒して行動してたのに。油断してたのかな」
ミツアキは浮かない顔をして言葉を続けた。
「日本シジューサ政府は裏でレフター肉を密輸してるんだよ。それがレフターの屠殺量を増大させてる。俺たちはブランドレフターの食肉化をゼロにすることはできないかもしれないが、できるだけ数を減らすように活動してたんだ。だけど照屋さんが捕まっちまったらおしまいだな」
ミツアキはあぐらをかいていた足を崩して、悔しそうな顔を浮かべて壁に背をもたせかけた。
その時、真ん中のベッドの下段で背を向けていた男が、毛布をはいでこちらに向き直った。
「僕はショウタ。改宗派だ」
ショウタと名乗ったその男は太陽を浴びたことがないのではないかと思うほど青白い顔をしていた。その表情はすっと吸い込まれそうな病的な魔力を持っているが、決して不健康には見えない。身体は痩せてもいず、太ってもない。ジムで鍛えられたというような隆々とした筋肉ではないものの、肉づきはいい。10代後半くらいだろうか、幼さがまだその顔に残っている。
「じろじろ見ないで。霜降りなんだ」
「え、その、つまり……」
僕が口ごもっていると、
「僕は但馬のブランドレフターだよ。おいしそうでしょ?」
ショウタはさらりと言ってから、
「改宗派ってのは、洗脳教育が解かれた悪しきレフターのこと」
自己紹介するように右手を自分の胸に置いた。
「悪しき?」
「そう。照屋さんに救われた、悪しき、だ」
ショウタは表情の乏しいその顔に薄い笑みを浮かべた。
「意味が分からないよ」
僕はこんがらがって頭を振った。
「君は何も知らないんだな」
「ごめん。僕、アメリカ人だから」
あわてて言い訳をした。
「照屋さんたちに匿われている間にレフターは洗脳を解かれ、再教育されるんだ。もう一度当たり前の人間として生き直すために。そしてニジューサの偽造パスポートを受け取り、アメリカに飛ぶ。君、アメリカ人なんでしょ? 僕たち捕まらなかったら、いつかアメリカのどこかですれ違ってたかもね」
「アメリカ? アメリカのどこ?」
胸騒ぎがした。
照屋さんと父の関係がそこにあるのではないかと思ったのだ。
「分からない。もう知る術もないしね。僕はバカだったよ。洗脳が解けて嬉しくなってさ、禁止されてるのに外出しちゃったんだよね、一人で。原宿の竹下通りで捕まったよ」
ショウタはその時の光景を思い返すように一瞬、瞳に喜びをにじませた。しかし失ったものの大きさに苛まれるようにすぐに空虚な顔に戻った。
「もう僕は肉になることはない。食肉化される際に必要な“本人が強く望んだ場合”という法律の文言に抵触するんだ。だけど、肉になることが愚かなことだと知ってしまったレフターもまた、この世で生きていくことを許されない」
「どうなるの?」
僕はおそるおそる尋ねた。
「肉になる代わりに、この身体をシジューサに提供するんだ」
僕は目を見開いた。
「君もそうだよ。ミツアキもね。だからここに集められてるんだ」
「僕も? どうやって?」
「さあね。でも照屋さんたちに匿われている間に、色々と教えてもらったんだ。だから外に出るな、捕まっちゃだめだって言われてたのにね」
ショウタは自分の運命をまるで他人事のように話している。
「怖くないの?」
「そういうのよく分からないんだ。ずっと肉になるために生まれてきたって教えられてきたから。洗脳が解けても、なぜか受け入れられるんだよね。君には理解できないかもしれないけど」
僕は言葉を返せない。
「盆々が関わってる」
「盆々?」
また分からない内容が出てきた。頭の中が痒くてむずむずする。
「明日から盆々の日が始まるだろ?」
「うん」
「そこで何かがある。僕はそう踏んでる。なんか日本政府は焦ってるんだよ」
ショウタは言った。
「そんなことどうでもいい!」
僕は耐えきれず爆発してしまった。
「僕はどうなってしまうんだよ! 死んでしまうの? マチムラさんが言ってた『僕が消えてなくなる』ってどういうことなの! ショウタもミツアキもなんでそんなに普通にしてられるんだよ!」
二人はじっと黙って僕を見た。
するとミツアキがぼそっと、
「ウィルスに乗っ取られるんだよ」
すれた目で言った。
8
朝が来た。
朝だと分かったのは、天井に据付けられたスピーカーからベルが鳴り、「7時です。起床」という低い男の声が聞こえたからだ。その声は続けて「本日11時から健康診断を行います。各自準備して待つように」と言った。
健康診断? そんなの嘘だ。僕は意識を乗っ取られるんだ。昨日、ミツアキに全部話を聞いた。日本シジューサ政府が何を企んでいるか、レフターをどう活用しようとしているかを、聞いたんだ。
意識ウィルス『ペルソナ』————
それはシジューサの意識をインストールしたウィルスのことだ。日本シジューサ政府が開発したそのウィルスに僕は感染させられる。『ペルソナ』に感染すると脳炎を発症する。二週間ほど発熱しているその間に僕の意識は掻き消え、その代わりウィルスにインストールされた意識が脳に定着する。短命のシジューサは自分の意識を身体から抜いて、僕たちレフターの不老不死なのか超長寿なのかよく分からない身体に移管したいのだという。それが日本シジューサ政府の長年の悲願なのだという。ミツアキがかつて師匠から聞いたという話を語ってくれた。
僕は右端の下段のベッドから起きて、手洗い場で顔を洗い、歯磨き液で口をゆすいだ。この後朝食があるのかどうか分からない。もうすぐ僕は僕でなくなるのだからどっちでもいいけど、最後になんでもいいから口に入れて、味を感じたいとも思った。
僕はベッドにもう一度横になり、上段のベッドの背をぼんやりと眺めた。もう二度とアメリカに戻ることもなければ父や母に再会することもできない。師匠とももう会えない。料理人の道も志半ばで終わりだ。いいのか? こんなところで人生を終えていいのか? 本当に僕は消えてしまうのか?
怖い。怖いはずなんだけど、まだ現実味が湧いてこない。だからといってショウタのように諦観を持つことなんて一生できない。ミツアキは覚悟を決めているのかなんなのか、ただ憮然とした表情をしている。僕は自分の態度なんて決められない。不安だし、怯えているし、自分の置かれた状況を受け入れるなんでできない。だけど、どうにかここから脱出するんだと決死の行動を起こすような勇気もない。そんなこと不可能だって分かりきっているから。
数時間後、天井のスピーカーから再びベルが鳴り、声が聞こえた。
「医務室へ移動します」
簡潔で事務的な声だった。
ドアが開けられ、肩から自動小銃をさげた軍人が6人入ってきた。僕たち3人に2名ずつ付き、部屋の外へ連れ出した。
とうとうこの時が来てしまった。この現実からは逃れようがない。僕はもうこの世からいなくなるんだ。そう思うと足がすくみ、胃が痙攣した。
「しっかり立ちなさい」
脇に立つ軍人に小さく恫喝された。
僕はその瞬間、その場にしゃがみこんでしまった。
「いやだ、行きたくない」
みずおちが震え、歯がカチカチ鳴る。
「大丈夫。健康診断をするだけだから」
軍人が言う。
「そんなの嘘だ! 僕たちは消されるんだ! ウィルスを吹きかけられるんだ!」
僕が膝を抱えると、二人の軍人が僕の両脇を抱え、無理やり立たせた。
「いやだ! 歩きたくない! やめて!」
僕は見苦しく振り乱した。
軍人は押し黙ったまま、僕の脇を抱えて無理やり僕を引きずり歩いた。
「やめてくれ! やめてくれ!」
涙のたまった目で後ろを歩くミツアキとショウタを振り返る。
二人の顔はどこか強く引き締まった表情をしていた。僕のこの胸の痛みに共感してしまったら、自分自身が崩れてしまう、そんな脆い自分を守るかのように。
白いだけの廊下を引きずられ、白いドアを開けるとそこには昔何かの映像で見た電話ボックスのような一人で立って入る小さなブースが正面の壁に四つ並んでいた。その手前に医師が1人、看護師が4人いて、診察机や横になれる診察台、ベンチがある。
「これから健康診断を行います」
医師がそう言うと、看護師はそそくさと僕たちの体温と血圧を計った。僕は急に気力が萎えてしまい、暴れることもできなかった。絶望に打ちひしがれるとはこういうことなのかもしれない。脱力してしまっている。だけど採血される時だけはどうしようもなく腕が震えた。その震える腕を自分で見てしまうと、再び涙がこみ上げた。医師も看護師も、一言も慰めの言葉をかけようとはしない。
冷血! ひとでなし! 地獄に落ちろ!
僕は奥歯を噛みながら心で叫んだ。
「鎮静剤でも打ちますか?」
看護師がこそっと医師に耳打ちするのが聞こえる。
わざとらしい、聞こえてるよ!
「いや、大丈夫。あとは心電図だけだし」
医師が気のない返事をした。
僕は診察台で心電図をとられ、心音に異常がないことが確認された。
30分後、ベンチに座っている僕たちに、
「これからあのブースに入ってしばらく立っていてください。呼吸器系の検査を行います」
医師が僕たちに告げた。
僕たちは隣どうしで顔を見合わせた。
とうとう来た————
ミツアキはふてくされたような顔をしている。ショウタはどこかバス停のベンチでバスでも待っているかのような、そしらぬ顔をしている。医師も看護師も僕たちが立ち上がるのを待っているが、誰も立ち上がらない。ミツアキもショウタもそれぞれ表情は違うものの、心の中で抵抗しているのかもしれない。そりゃあそうだ、当たり前だ。何が嬉しくて自分から立ち上がらなくちゃいけない!
するとドア口に立っていた軍人がつかつかと歩み寄り、廊下の時と同じように僕たちの脇を抱え、立ち上がらせ、ブースの中に無理やり押し込んだ。
外側からロックされる音がした瞬間、恐怖が全身を襲った。
僕は目が覚めたように震えあがり、その透明なドアを力のかぎり叩いた。足が伸ばせないので、膝で思い切り何度も何度も蹴った。
「出せ! 出せ! ここから出せ!」
右隣からミツアキの怒鳴り声も聞こえる。
「ふざけやがって! 覚えてろよ! お前ら全員皆殺しにしてやるからな!」
左隣からショウタの落ち着いた声がした。
「一人ずつ、個室で噴射するのか。一人分の意識ウィルスを一人の身体に徹底的に感染させるんだね」
僕はその言葉にゾッとした。
「じゃ、はじめよう」
医師はそう言うと、ショウタ、僕、ミツアキの順にブースのドアに据え付けられたスイッチを押していった。
その途端、上部のメッシュの噴射口からシューシューと音をたて、白い蒸気のようなものが出てきた。
僕は思わず息を止めた。
「大丈夫。心配しないで。その蒸気が白いのは見えやすいように色付けしてあるだけだから。人体に害はないよ」
人を馬鹿にしたような医師の言葉に僕は瞬間的に殺意を覚えた。
そんなことを心配してるんじゃない! このウィルスを吸ってしまえば、僕が僕でなくなるんだ! 白い色に驚いているんじゃない!
僕は医師を睨みつけながら息を止めた。しかし、それが意味のないことだとも薄々気づいている。息を止めてみたところで、いつか我慢できなくなるはずだし、これだけ狭い空間でウィルスを浴びせられれば目や鼻の粘膜にも付着するだろう。耳の穴からだって入ってくるかもしれない。
僕はとうとう我慢できずに一度大きく息を吐いてしまうと、そこからゼエゼエと吸っては吐いてを繰り返した。しばらくするとブース内が完全に白い蒸気で埋め尽くされ、ドアの向こうも見えなくなった。悔しくて悔しくてたまらない。このまま僕が消えてしまうなんて嫌だ! こんなのおかしいだろ!
気づけばドアを殴っていた。何度も何度も、割れることなんてないと分かっていながら。
激しく息をしていた。その避けようのないウィルスを体内に取り込みながら。僕は分かっていた。いつかこの僕が消えてなくなり、この身体を別の誰かが自分のもののように動かし、人生を楽しむことを。
だから。だからこそ、今だけは、抗わないといけない。最後の最後、もう無駄だと分かっていても、今だけは抗わないといけないんだ。
「鎮静剤も投入しよう」
最後に聞いたのは医師のその言葉だった。
バナナのような甘い匂いがしてすぐに僕は気を失った。
9
どれだけ意識を失っていたのだろうか。
尻餅をつき、膝を折るようにして崩れ落ちていた。
すでにブース内は白い蒸気が消えている。
「タケル! おい、タケル!」
僕を呼ぶ声がして目が覚めると、ぼんやりした頭で立ち上がった。
声の主はミツアキだった。
「ミツアキ」
僕がミツアキに聞こえるように答えると、
「大丈夫か?」
この状況で何のことを大丈夫と言っているのかさっぱり分からないが、
「大丈夫だよ」
不思議と即答できた。
まだ僕は僕のままだ。それだけで大丈夫なような気がした。
「俺の方が一足先に目が覚めたようだから教えてやるよ。さっき医師が『殺滅』と言ったら白い蒸気が消えていった。このブース内の殺菌、滅菌が行わているんだろう。上からスースーする空気が出てるだろ」
「ということは……」
僕は敗北感でひたすら気持ちが沈んだ。
「ああ、ウィルスが十分体内に取り込まれたってことだろ」
「だけど、どうしたんだろう。看護師も医師もこの部屋を出たっきり帰ってこない」
ショウタの落ち着いた声が左のブースから聞こえた。
「ああ、そうなんだ。それからかなり時間が経つ」
ミツアキも怪訝な声音をしている。
「どれくらい? 30分? 1時間?」
僕が尋ねると、
「40分くらいは経ってる」
ミツアキが答えた。
僕たちは持ち物を没収されていない。没収することにたいして意味がなかったからなのだろう、ミツアキは腕時計をしたままだった。
その時、この医務室のドアが勢いよく開けられた。
その激しい音に僕は一瞬身をすくめた。
と同時に、ダダダっと入り込んできた人たちに目を疑った。
なんなんだこの人たちは?
人? ロボット? アンドロイド?
それは人間のようだが、銀色だ。
ロボットやアンドロイドのようだが、まるで人間だ。
全身銀色の人間。
それが10人以上はいる。
彼らは銃を構えて、室内を見渡し、僕たちがブースの中にいることを確認するとロックを解除した。
「間に合わなかったか」
一人が歯噛みして言った。
僕はその人の歯も銀色なことを見てとった。
「君たちはオオモリミツアキ君、ミヤザトタケル君、コウダショウタ君だね?」
「そうです」
「私たちは火星日本人。元シジューサだ」
「元?」
「ああ、でも詳しいことは後で教えよう」
銀色の火星日本人のひとりが僕たちに、
「まずはここを出よう。行くよ?」
言うや否や、駆け出した。
僕たちは銀色の火星日本人に前後を囲まれながら、わけも分からないまま走った。
視界に飛び込んでくる光景は惨劇、ただただ恐ろしいものだった。
死体、死体、死体、死体に次ぐ死体。
僕の脇を抱えて医務室に連れてきた兵士、医師や看護師。みんな血を流して倒れている。
遠くでレーザー銃の甲高い音がする。銀色の兵士たちと日本軍が戦闘が繰り広げているようだ。
僕たちを閉じ込めていた大部屋の前を通り過ぎて少し行った辺りで、血生臭い匂いが鼻をついた。近くに屠殺場があるのだろう。そこには廊下よりも多くの死体が転がっている。僕たちを守りながら走る銀色の火星日本人たちは、レーザー銃を構えながら的確に日本軍の兵士を撃ち抜いていく。
建物の外に出て空を見上げると、巨大な十字架のような宇宙船が浮いていた。
青空の下でその宇宙船はほぼ影一色となり、よく目を凝らすと棺桶のような長方体に翼が伸びていた。
「あれが私たちの船だよ。今日降りてきたばかりだ。今からあそこに帰還する」
ひとりの銀色の火星日本人が言う。
そこで初めて彼らに表情もあることに気づいた。それにみんな同じ顔をしているのかとばかり思っていたが、実はそれぞれ顔の作りも違うことが分かった。
宇宙船に気を取られているところに、一台のスカイカーが颯爽と降りてきた。日本では禁止されているはずなのに。
僕たちは車体後部のドアから4人の火星日本人と一緒に乗り込んだ。座席空間は天井が高く、立っても頭がつくことはない。どうやら軍用車両のようで、中は向かい合って8人くらいが座れるほど長いベンチが二つ窓際に並んでいる。扉が閉められ、僕を挟むようにミツアキとショウタが座り、向いに4人の火星日本人が座った。
心臓が強く脈打っている。
僕たちは芝浦食肉市場から助け出された。だけど意識ウィルスを吹きかけられてしまった。僕たちはどうなるのだろう。これから行く宇宙船はどんなどころなんだろう。この銀色の人たちは味方なのか、それとも敵なのか。おそらく味方に思えるけれど、確かなものは何もない。
びくびくしながら窓から炎上する芝浦食肉市場を見つめていると、急に眠くなってきた。あまりにも不意だったため、抵抗するタイミングすらなかった。
視界が徐々に曖昧になっていく。
目の前に座る銀色の人たちの輪郭が歪んで見える。
銀色の目がいくつもじっと僕たちを見つめている。
その異様な光景が大きくたわみ、僕は再び意識を失った。
10
目が覚めると、ベッドに横になっていた。
ミツアキもショウタもいない。ひとりきりだ。
そばに白衣を着た男が立っている。
人間……かと見紛いかけたが、そうではなさそうだ。
おそらくは銀色の本体の上にうっすらと皮膚のようなものを顔に貼り付けている。白衣から覗いている手は金属の素材そのままだ。
「おはよう。目が覚めたかい」
そう言われて、ええ、と返事をした時、口の動かし方がうまくいかないことに違和感を感じて右手を口に持っていったところで、
「うわっ!」
手が銀色になっていることに気づいた。
顔を両手で触るとカチカチと音がなる。
金属だ。僕の顔が金属になっている。
身体に目をやった。全身が銀色のボディになっている。
「君の意識をアンドロイドに移管したんだ。緊急手術だった。君は一晩丸々寝ていたんだよ」
「勝手に何を……」
言いながら僕は、機械の口から上手に言葉が出てくることにも驚いた。
「仕方なかったんだ。君たちは『ペルソナ』を吹きかけられてしまったんだから。君の意識は二週間後には消えてしまう運命だった」
「ええ、それはミツアキから聞いてましたけど……」
「君を生かすには、君の身体から君の意識を抜くしかなかった」
そう言って白衣を着た男は自分のことをモリタと名乗った。
モリタは鼻を掻きながら語り始めた。
「我々、火星日本人は肉体を離脱した人類なんだ。アンドロイドのCPUに人間の意識をインストールさせることに成功したんだよ。火星日本人はシジューサだけでなく、ニジューサもレフターもみんなアンドロイドに意識を移管させている。永遠の身体を手に入れたんだ。正確にはアンドロイドヒューマンと言うが、銀色の人間だからみんな『銀人』と言っている。新しい人類の種族だと思ってくれ」
モリタは話しながら僕の額に電子パッドを当て、デバイスの数値を読み取っている。
「それは?」
「もう君に脳波はないんだけど、脳波に相当するものが君のCPUで正常に作動しているかどうかを測っている」
僕はベッドに横たわったまま、自分の銀色の手をまじまじと眺めた。
指の一本一本が、動かしたいように動く。
足の指を動かそうとしてみる。
できる。今まで中指や薬指は単独で動かしにくかったけど、全部一本一本スムーズに動く。
鼻の穴を、鼻の力で広げてみようとする。
できる。
深呼吸をする。
できる。息をする感覚すらある。
「息もできるんですか?」
「できるよ。火星は二酸化炭素でいっぱいだから、二酸化炭素をエネルギーに変換する装置が肺にセットされてある。地球では酸素をエネルギーに変換する装置に組み替えてある。君の肺にも今は酸素変換装置を入れてあるよ。それで君は充電せずとも持続的に稼働することができる。それと顔は以前の顔を3Dプリンターで再現した難燃性の樹脂マスクを用意している。髪の毛もね。明日にでも装着できるはずだよ」
「3Dマスク? あなたの顔もそうなんですか?」
「ああ、そうだよ」
モリタの顔は人間とほとんど変わらないが、どことなくマネキンのようなマットな質感がある。しかし短くて濃い眉や目尻の下がった柔和な目はリアルそのもので、唇の柔軟な動きは人間と遜色ない。
「芝浦で助けてくれた軍人は、何でそのマスクがなかったんですか? 服も着ていませんでした」
そう呟いた自分の声も、きっとデジタル変換されているはずなのに以前と何も変わらないように自分の耳には聴こえる。
「彼らは軍人だから、樹脂マスクも髪の毛も服もいらないんだ。戦闘に無駄でしょ?」
「そういうことですか。それにしても、いったいあの時何が起きたんですか?」
自分の身体の変化に戸惑うあまり、大切なことを訊くことを忘れていた。
「芝浦食肉市場は壊滅された。銀人の手によってね。壊滅しなければならなかったんだ」
モリタは悩ましそうに短い眉を寄せ、言葉を続けた。
「私たちが銀人になったのと同じ頃、地球の日本シジューサ政府でも同じ動きが見られた。火星のシジューサも地球のシジューサも同じレベルの知能を持っているから、考えることはたいてい似ている。人間が永遠の身体を手に入れるためには、アンドロイドに意識を移管するのが最適なソリューションなんだ。だけど地球日本でアンドロイドヒューマンが誕生すると、知能が拮抗している以上、火星日本人の優位性がほとんどなくなる。地球日本政府はアンドロイドヒューマン化を火星日本の侵略に利用しようと画策していたんだ。そもそも火星日本シジューサと地球日本シジューサは仲が悪かったからね。地球日本は、火星日本にリベンジする機会を虎視眈眈と狙っていた。言い方を変えれば、私たち火星日本人は地球日本による権力の転覆を避けなければならなかった。だから、火星日本は地球日本と国交を断絶し、火星からコンピューターウィルスを使って地球日本の様々な活動を阻止したんだ。言葉は悪いが妨害工作を行っていたんだよ。スカイカーが飛べないようにしたり、シルバーピジョンをハックしたり、アンドロイドの過度の技術的進歩を阻害したりね。端的に言えば『鎖国』と『破壊活動』だね。そうしたら日本シジューサ政府は次に、ウィルスを使ってレフターの人体への意識移管計画を立てたんだ。だけどこれは火星からは防げない。人間の意識をウィルスに移管する技術は通信では妨害できないんだ。だから、折を見て地球に降りてこなければならなかった。それを今年の盆々の日に設定したんだ」
「そんなタイミングよくできるものなんですか」
「そこだよ」
モリタは一度微笑んで、言葉を継いだ。
「今回の作戦に最も貢献してくれたのは君の師匠、照屋さんだよ。私たちはいつもシルバーピジョンを通じて連絡を取り合っていたんだ」
「し、師匠が?」
思わず言葉がうわずった。
「ああ、そうだ」
「それにシルバーピジョンって、あの、仕込みの材料を運んでくるやつですか?」
「そうだよ。シルバーピジョンをハックすることで、照屋さんと連絡を取っていたんだ。マルーンズは火星日本政府の出先機関みたいなものだ。マルーンズがいなければ、今回の壊滅作戦もうまくいかなかっただろう」
モリタの言葉がにわかに信じられなかった。
師匠があの店で料理人をしながらそんなことをしていたなんて。
そもそもマルーンズのリーダーとして解放運動をしていたことも知らなかったし、その奥で火星日本と繋がっていたなんて、想像のしようもなかった。
僕は感嘆のあまり何度も目をしばたたかせた。
「何から何まで突然のことだから戸惑うと思う。だが誇りに思ってくれていいんだよ。私たち火星日本人は遺伝子差別を克服した初めての人類なんだ。人類に残された最後の差別は遺伝子差別だったけど、私たちが遺伝子を卒業した以上、遺伝子差別は火星日本にはない。火星の各国もこの動きに同調してくれていて、まもなく火星全体の人々が銀人化する」
「僕はこの身体で地球で生きていけるんですか?」
「まだ地球ではアンドロイドヒューマンに対する技術サポートができない。つまり私は、君たちは火星にくるべきだと思っている」
「強制ではないんですか?」
「強制ではない。だけど、もし君たちが故障してしまったら、正しい知識を持って直せるものがいない」
僕は言葉につまった。
火星に行くだなんて、現実のこととして考えられない。まだ『ひとんちゅ』での修行も道半ばだ。この先師匠と一緒にあの店を再開できるのかどうかも分からないけど、このまま言われるままに火星に行くだなんて、荒唐無稽すぎる。そもそも師匠はどうなったのだろう。目黒署に連行されたはずだけど……。
「タケルくん、君はひとまず一週間ほどこの宇宙船のトレーニングセンターで身体を動かす訓練をした方がいい。まだ少しはその身体に違和感があると思うから。でもね、アンドロイドの身体は肩こりもない、かすれ目もない、腰痛もない、骨折もない、風邪もひかない。定期メンテナンスをすればいいだけだから。きっと気にいるよ」
「師匠はどうなったんですか?」
「安心して。ちゃんと匿ってある」
その一言を聞けてほっとした。
「ミツアキとショウタはどうなったんですか?」
二人のことを思い出し、この部屋に僕しかいないことを途端に淋しく感じた。
「別室にいるよ。君と同じように、手術を受けて銀人化している」
「やっぱり二人も、そうなんですね。ところで僕の元の身体はどうなったんですか?」
「ウィルスに犯されてる」
「つまり……」
「手遅れだ。一週間もすれば、誰かシジューサが君の元の身体を乗っ取るということだ」
「……」
僕は返事を返せなかった。
「いったんこの宇宙船に君の肉体は保管してあるが、いずれ東京拘置所に移送される。裁判にかけるためにね」
「裁判?」
「ああ、そうだ。君の身体を乗っ取った罪だ」
あまりにもたくさんのことを聞いた僕は、頭が疲れてしまった。
頭、という感覚があるのも不思議だ。CPUが頭にセットされているのだろうか。それとも人間の身体を持っていた時の名残りでそう感じるのだろうか。
僕は、おそらく銀色に違いない両目で窓の外を見た。
窓はマンホールくらいの大きさの円窓で壁の端から端まで一列に並んでいる。
外は真っ白だ。きっと雲の中にいるのだろう。
この宇宙船は上空何メートルくらいなのだろう。僕はこの宇宙船から降りた後、今までと同じような生活を再開できるのだろうか。この銀色の僕にそんなことができるのだろうか。やっぱり火星に行った方がいいのだろうか。それよりも何よりも、まずはトレーニングをしなければいけないみたいだ。
11
甘い匂いがする。
ラフテーの匂いだ。
銀人になっても匂いは感じる。いや、本当は匂いを数値化してコンピューターが再現しているだけだ。これは本当の匂いではない。だけどまるで本当の匂いのように感じる。
感じる————
そう、感じることができるのが何より嬉しい。
僕はあれから一週間、宇宙船でトレーニングを行なった。そこで身体を自由に動かせるようになり、五感とも以前と同じようにフィットした。
僕が一番気になったのは味覚だった。味覚は嗅覚と同様、数値化されたものを感じるだけだ。食べ物を口に運び、人工歯で噛み砕き、食べ物の成分を数値化していく。その数値をもとに味覚再現機能が僕に味を感じさせる。それは人間の時と同じように噛み始めから十分に噛んだ後までの咀嚼度に合わせて、味の変化を楽しめる。そこには代替唾液も役に立っている。それに人工舌には人工味蕾が8000個もあり、人間として食べていた時とおそらくは何も変わらない味覚があるように思える。
しかし排泄ができないから結局お腹に落ちた食べ物をまるでゴミ箱を捨てるように処分しなければいけない。胃袋がゴミ箱なのだという事実は悲しかった。火星の銀人たちはそうした手間を厭わしく思うあまり、食事は『ミールスティック』という味の付いた棒を舐める人も多いのだそうだ。
でもそれではあまりにも味気ない。食べること、それは僕にとって大きなものなのだ。こうやってアンドロイドヒューマンになってしまって、改めて自分が料理人を志した意味をひしひしと感じていた。
師匠が豚バラブロックをじっくりと煮込んでいる。
師匠は僕が助け出されたのと同じ日に目黒署から救出されたということだった。
しかしあれから一週間経ったが、まだ営業を再開していないようだ。これからこのお店をどうするつもりなのだろう。僕は今日、この銀色の身体で初めてこの店に来た。営業しているのかどうかも分からなかったが、やっていればいつも通り仕込みをやるつもりだった。だからいつもの午後2時に来て、持っていた鍵で店のドアを開けて調理台で仕込みの準備をし始めた。だけどいつまで経ってもシルバーピジョンが食材を届けに来ない。どうしようかと思っていたところに、師匠が調理場にやってきたのだった。
師匠は僕の姿に少しは驚いたが、僕の目を見て、「タケル」と呼んでくれた。僕はたったそれだけで涙が出た。
いや、実際に出たのだ。胸が震えるような感覚が押し寄せ、涙が堪えられなかった。この、感情と涙の結びつきはどういう風にできているんだろう、泣きながらそんなことが頭をよぎった。
僕は師匠と抱き合った。
師匠も泣いていた。
初めて見る師匠の涙だった。
「俺も歳だから、案外涙もろいんだよな」
そう言って照れ臭そうに鼻をすすって笑った。
そして師匠はいつものようにラフテーを作り始めた。
食材は冷蔵庫にストックしてあるものを使うようだ。
師匠が鍋の中の肉を見ながら、
「秘密警察がつけてくると思ったが、まさかお前が釣られるとはな」
太い眉をクイッと上げて、皮肉な笑みを浮かべた。
「俺はあの日、秘密警察にわざとつけさせようとしてたんだ。盆々の日に合わせて俺が捕まって、秘密警察のアジトを銀人に教える。そして襲撃させる。そういう手筈だったんだ。だけどそれがまさか目黒署だなんてな。そんな大胆な場所がアジトだとは思ってなかったよ」
師匠は驚いたような声を出した。
「ま、そっちはうまく行ったんだが、もうひとつ芝浦食肉市場からお前たちを奪還してもらわなければいけなかった」
「すみません、迷惑かけちゃって」
「いいんだよ。お前だけじゃない、ミツアキもショウタもいたしな」
「僕たちの前に意識ウィルスに感染させられた人はいるんですか?」
「お前たちが初めてらしいよ」
「そうですか」
この銀色の体を持つ人間は、火星日本人を除くと、僕、ミツアキ、ショウタの3人しかいないようだ。その事実は重かった。もっとたくさんいれば気持ちも違うのかもしれない。僕はどこでどうやって暮らすのがいいのだろう。ここで修行を続けていいのだろうか。誰も、どこにも、生き方の手本がない。
「師匠、レフターをアメリカに逃していたって本当ですか?」
それはずっと気になっていたことだった。
「お前が知らなくていいことだ。余計なことに首突っ込まなくていい」
「そりゃあないですよ。こんな身体になったんですから」
「親父さんに聞けよ。親父さんはいい男だよ」
師匠は決して自分から口を割ろうとしない。
「父とはどうやって知り合ったんですか?」
「俺が若い頃にカリフォルニアのリトルオキナワにいる知り合いに会いに行ったんだ。そこにお前の親父さんがいてな。お前の親父さんはリトルオキナワの日系レフターを守ってたんだ。デモを先導するような感じではなかったけど、みんなの面倒をみてたんだよ。俺はそれに感銘を受けたんだ」
僕の知らない父親の一面だった。
だとしたらやはり父は師匠と一緒に日本人レフターを助けていたのだろうか。父はそれを僕に打ち明けてくれるだろうか。もう隠す必要はないように思えるが、少なくとも師匠は自分が秘密にしていることを簡単に明かすような人ではないことだけは確かだ。
その頑固さが師匠の人柄そのもので、料理人としての腕の確かさでもある。僕はこの人の下でまだまだ勉強したいと思った。
「師匠、こんな僕ですけど、まだここに置いてもらえますか?」
不安な気持ちを抑えて、訊いてみた。
「そうだなあ。水や油を使うからなあ、お前が故障したら困るなあ」
はっきりとは答えない。どちらなのだろう。
「働くにしても、いったんアメリカに帰って両親に会って来い。それからだ。俺だけで決められるもんじゃない。そもそも俺やお前が勝手に決めていいものかどうかも分からない。火星日本政府の意向もあるだろう。今後日本でお前たちが生きていく道があるのかどうか、これから見えてくるものもあるだろう。残念ながら、お前たちはこの地球では特別な存在なんだよ」
師匠は剛直な顔に似合わず大人な意見を言う。
僕はそんなことが聞きたいわけじゃない。
「ここに置いてください」
もう一度、目を見て言った。
強い気持ちを込めたつもりだった。
こんな機械の目で伝わるだろうか。
師匠は僕の目をじっとみつめ返した。
そして、
「いいよ」
嬉しそうに微笑みを浮かべた。
12
その後数ヶ月の間で、火星日本政府は地球日本政府に日本統治の是正を迫り、それまで地球日本政府が行ってきたレフターイーツを廃止し、ブランドレフター市場の解体を進めた。地球日本政府は火星日本政府の監督のもと、シジューサの権力の横暴が発生しないように憲法を改正することを発表した。さらに秘密警察の存在を明らかにし、解体することも明言した。そしてレフターの身体を手に入れた政府高官の元シジューサ3名、意識ウィルス計画を首謀した計24名、およびマチムラミナを含む秘密警察のメンバー16名は裁判にかけられることになった。
12月、ある晴れた日の朝。
僕は僕の身体を手に入れた元シジューサの裁判で、重要参考人として裁判所に呼ばれた。ミツアキとショウタの身体を乗っ取ったシジューサの裁判も行われるという。
裁判所前にはメディアが数多く待っていて、僕がタクシーを降りた瞬間に方々からフラッシュが激しく瞬いた。僕はまるで夕立に会ったかのような気分で高い塀に囲まれた敷地に走って行き、塀の裏側に隠れた。そこに懐かしい顔を二つ見つけた。ミツアキとショウタだ。
僕はミツアキを見て、思わず笑いがこみ上げてきた。
ミツアキの頭にトレードマークのピンク色のモヒカンが立っている。ミツアキは銀人になって三日後に担当医師に「こんなさらさらヘアーの俺は俺じゃない。頼む、モヒカンにしてくれ」と懇願して、受け入れられたのだ。翌日、特別に超極細の金属繊維束を頭部にセットしてもらって、「ピンクに塗ろ」と銀色の奥歯を見せて大喜びしているのを昨日のことのように思い出してしまった。
ショウタはと言えば、相変わらず表情が薄く、樹脂マスクだというのにどことなく切なさを称えている。
「元気か、ショウタ?」
僕が尋ねると、
「比較的ね」
そう言ってさりげない笑みを浮かべた。
「これから俺たちに会うんだな」
ミツアキが言う。
「うん」
僕たちは裁判所の扉にスマートアームをかざした。
IDを確認した扉が開き、僕たちは建物の中に足を踏み入れた。
もう冬だというのに、中はエアコン温度の設定が低いのか肌寒い。
「俺は許せねえ。死刑にしてほしいね。お前は?」
ミツアキが6-Cの法廷を探しながら、ショウタに訊いた。
「僕はどうでもいいよ。僕の身体を乗っ取ったその彼が、人の役に立ってくれるんなら、それでね」
ショウタは表情を変えずそう言うと、近くの案内板で6-Cの法廷を見つけ、
「エレベーターで行こう」
と僕たちを促した。
「タケルはどうなんだ?」
エレベーターに乗り込むと、憤慨気味のミツアキが訊いてきた。
「僕は……」
僕は、僕をどうしたいのだろう。決して僕の意見がそのまま裁判で通るわけではないが、多少は考慮してもらえるのかもしれない。
僕は、僕と対峙した時に、どんな気持ちになるのだろう。
僕の身体をした誰か。誰かの意識が動かしている僕の身体。僕は僕に死刑を求めているのか。僕の身体は禁固刑を受けるのか。
これから初めて過去の自分に対面する。しかしそれは今もなお生き続ける自分の身体でもある。僕はその人を、その身体を、他人として断罪できるのか。
逡巡している間に、エレベーターは6階に到着した。
法廷の扉は開いている。
あそこに見知らぬ僕たちがいる————
ミツアキもショウタも口を開こうとはしない。
僕たちは肌寒い廊下を静かに歩いていった。
文字数:40339
内容に関するアピール
梗概の講評をいただいて、かなり内容を変更しました。
前回の講座のトーク序盤に山田さんから「水平伝播」の話があり、トークをお聞きしている間に水平伝播を調べてみたところ、「これ使えそうだな」と思っていました。そして講評で大森さんから「なんで人間だけ進化したのか、SF的にそこが気になる」というご指摘をいただき、また小浜さんから「ある時人類が何かの理由で分岐した、でいいんじゃないかな」とアドバイスをいただきました。
大森さんにご指摘いただいた点は、安直ですが「水平伝播」を活かすことでクリアできたのではないかと思います。
また「シジューサ、ニジューサ、レフターという三人類がいる世界」という舞台はそのままですが、天皇に関するエピソードは一切なくしました。小浜さんの講評をお聞きして「これは無茶だな」と率直に感じた次第であります。
主人公のタケルも日系アメリカ人の料理人で、東京の沖縄料理店に修行に来ているという設定に変更しました。
講評をいただいたことで実作は梗概から随分進歩できたかなと思います。
一年間、ご指導ありがとうございました。実りある時間になりました。
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