梗 概
成獣式
やっとこの日が来た。どれほどこの日を待ちわびただろう。〈成獣注射〉。20年間この日のために僕たちは大事に育てられてきたんだ。うぅ…、突き刺さる、なんて太い針…!紫色の液体が静脈をパンパンにしながら体を駆け巡る。これが成獣注射か。一生に一度きり。絶対にこの瞬間を忘れないぞ。ぐぐっ、体が熱くなってきた…内臓がびくびく震える…目の奥が疼く…眠たくないのに意識が…意識が遠のく……
熱い!熱い!痛い!背中も!首も!脇腹も!細胞という細胞が爆発してる!体が張り裂けそうだ!今日はいつだ?どれだけ眠ってた!痛い!耐えろ!これが成獣化!目が飛び出そう!頭蓋骨が万力で締めあげられるようぅぅ…!心臓がねじれる!耐えろ耐えろ耐えろ!肩甲骨がバキバキいってる!毛が!毛が!毛が!生えてきた!腕に足に目の周りにうおぉぉぉぉ…
「諸君、成獣おめでとう!君たちは晴れて人間を卒業できました!まずはそのことに祝福の言葉を贈ります。人間という下等動物から解き放たれたあなたたちの未来は明るい!しかしあなたたちはまだ獣になったばかり。これから本物の獣になっていくのです。言葉なんていらない!思考なんていらない!なんて穢らわしい!私がこんなに言葉を尽くすのも私が卑しい人間だからです。私のこの挨拶が理解できるのもあなたたちの脳がまだ人間を残しているからです。しかしそれも時間の問題。そのうち脳も立派に獣化します。その時こそが本当の姿。本当の幸せがやってくるのです。あなたたちはこれからこの島を離れ、本島の動物園に鎮座するのです。しっかり獣として自覚を持ち、頑張るのです!万歳、成獣!成獣村村長、飯島敏夫より!」
ねえ、船で感じる海風って気持ちいいね。洋一くん、君の毛かっこいいね、キリンの模様だね、マンモスの角もかっこいいよ、成獣、大成功だね、僕のゼブラ柄もかっこいいでしょ、でもまだこのゴリラの胸を上手に叩けないんだ、ねえ潤くん、君のカメレオンの皮膚、色を七変化できるんでしょ、なのに孔雀の羽を持ってるなんてすごいなあ、ああ、檻の鉄柵を切るこの塩っからい風、最高だなあ
人間のみんなが僕を拝謁しに来た!みんな羨望のまなざしで僕を見てるよ、まいっちゃうなあ、胸をドコドコ、ドラミングしちゃおうかなあ、あ、向かいのライオンカンガルーの翔ちゃんがたてがみを振りまわしてぴょんぴょん跳ねてる、ちくしょう、あいつ、人気あるなあ、ドラミングしちゃおうかなあ
なんだか最近ぼうっとしちゃう、太陽とお月さま、何回、何十回、何百回、ぐるぐるしたかな、人間たちは僕たち高貴な存在を拝みにくる、なんて恵まれた仕事だ、レトロな人間、獣化を許されないなんてかわいそう、僕たちってすごいな、ここまで育ててくれた、島の人たち、施設の先生に感謝だな、ああ、ぼうっとしてきた、脳みそがぎゅぅぅぅっ、今がチャンスだ、寝ちゃおう
まっくらなよる、きいろいおつきさま、かぜがきもちいいいな、こんくりーともつめたいな、からだがかゆいな、ねむたいな、ともだちほしいな、あしたおきたらともだちいるかな、しろくろごりら、しろくろごりら、しろくろごりら、おかしいや、おやすみおつきさま
きこえる…きこえる… あたまがいたい…あたまのおくがいたい…これはらいちょううるふ…みのるくん…とおぼえ…とおぼえ…とおぼえ…『逃げろ!』『逃げろ!』『逃げろ!』「俺たちは騙されていた。飼育員が話してるのをこっそり聞いたんだ。俺たちは高等な生き物なんかじゃない。監禁されて見世物にされているだけだ。こんなの正しい生き方じゃない。逃げるんだ、出てこい!」ううっ…あたまがいたい、いたいいたい、いたいよぉぉぉみのるくん…
わっ!弾けた!理解できる!遠吠え!言葉じゃないのに理解できる!精緻に伝わる獣の感覚!脳にちょびっと残った人間が言語化してくれる!実くんが近づいてくる!臭いでわかる!ほら来た!鍵をくわえた実くん!後ろからドカドカ駆けてくる獣のみんな!みんながいるよぉ!蜂起!習ったぞ!大塩平八郎!ジャンヌダルク!立ち上がれ!僕たち!実くんが飼育員を食い殺す!やったぁ!真っ赤な血が溢れ出す!檻の鍵が開く!脱出だ!うっ!脳みそが痛い!もうすぐ!僕の人間が!理性がなくなる!消える!その前に!自由を手に入れるんだ!鉄と火薬の臭い!追い風に乗って鼻につく!1発!2発!3発!後ろの翔ちゃんがやられたぞ!逃げろ!みんな!ここから脱出した時!僕たちは!本物の獣になるんだ!うおおぉぉぉぉぉぉぉぉ!聴くんだ!僕のわずかな人間よ!僕の獣の吠え声!自由の雄叫び!その意味を!最後の理性で!みんな!山に逃げよう!あの山に!もう人間には戻れない!ならばあの山で!正真正銘の!獣になろう!僕たちが獣であるために!鉄と火薬が追ってくる!逃げきれ!みんな!この脱走が!本当の成獣式だ!うおおぉぉぉぉぉ!追っ手はみんな喰い殺せぇぇぇぇぇ!
文字数:2000
内容に関するアピール
この物語において《育てる者》とは、成獣を包括する社会であり、それを動かしているシステムです。未成年の人間が成獣した先に《育てる-育てられる》の関係性が壊れますが、そこで社会に対する抵抗や逃亡の劇が生まれます。
物語は、村長の成獣式の挨拶以外、シマウマゴリラの主人公の一人語りという形式で進みます。内面に映し出される感情を思いっきり表現してみたいと思ったのがこの物語を作った一因にあります。実作ではおそらく10000文字前後、長くても15000文字くらいには収まる小さな物語になると思います。
※梗概文中で「…」「!」の後に1マスあけたかったのですが、あけると1文字分カウントされてしまうので、申し訳ないですが、マスを詰めさせていただきました。(100文字分以上あったもので。。)
文字数:338
禿鷹ヶ丘でまた会おう
Ⅰ.
目が痛くなってしまうほど白い医務室の待合室のベンチで、純一郎と玲、駿太の3人がまだ幼い心臓をバクバクさせていた。白いカーテンの向こうで成獣注射を受けている実の様子が気になって、早く自分の番が来ないか、いや来ないでくれと、床とカーテンに視線を交互にチラチラ投げかけ、落ち着かない。いつもならくっついた体を誰かが肩で押しては、やめろよ、押すなよ、うるさいな、お前こそやめろよ、とすぐに押し合いへし合い賑やかな遊びになってしまうのに、今日ばかりはじっとしている。隣の友達の腕から伝わる体温に心なしか安心感を得ているようだ。
〈実はライチョウウルフだったよな〉
純一郎は、実の腕に突き刺さる注射の中身を想像してみたが、赤や黄色、緑のようなショッキングな液体しか思い浮かばず、目をギュッとしばたたかせ、おそろしいイメージを頭からかき消した。
「純一郎君」
白衣の井田先生がカーテンを開き、顔を出した。
純一郎は、はいっと返事をして直立不動すると、ニコッと笑った井田先生の顔に少しだけ足の力が抜け、カーテンの奥へと入っていった。
井田先生はいつだって優しい。それが国立成獣準備学校の生徒の総意だった。校庭で走りまわって転んでも、友達が漕ぐブランコの角で頭をぶつけても、どんなことがあっても井田先生は柔らかい笑顔と穏やかな言葉遣いで純一郎たちを慰め、適切に治療してくれた。
純一郎はベッドに横になると、数人の看護師が側でせわしなく仕事をしていることに怖くなったが、井田先生のふんわりした雰囲気がすぐに緊張をほどいてくれた。
「心配しなくていいのよ。すぐに眠たくなっちゃうから。最初はチクっとするけど、あなたなら我慢できるわ。あなたはゴリラとシマウマね。いいブレンドしてあるわよ。もうあなたから人間はいなくなるわ、おめでとう」
井田先生におめでとうと言われて純一郎は照れくさそうに唇を噛んだ。そして力強く天井を見つめると、よしやるぞと勇気を振り絞った。
純一郎は腕を差し出した。消毒のヒヤッとした感覚が肘の内側に広がり、ツンとした匂いが鼻をついた。
「注射は2本あるからね。でも感じるのは1本目だけよ」
「はい」
純一郎はそう返事しながら成獣注射が2つあることを今思い出して焦った。
ひとつは骨髄の血液幹細胞を、もうひとつは体細胞を変化させるものだ。
そもそも異なる遺伝情報を持つ細胞を成体に移植すると拒絶反応が起きてしまう。しかし10年前の融解性血液幹細胞の発明により、異なる成体の血液幹細胞を骨髄に定着させることが可能となった。この免疫学における発明は医学にも獣医学にも大きなインパクトを与えた。そして遺伝学においても、8年前に体細胞から新しい自律型遺伝子〈バーバー遺伝子〉が発見されていた。それはまるで理髪師がヘアカットするかのように個体の遺伝子配列をカットすることからそう命名された。そのバーバー遺伝子と、異なる成体の遺伝子の一部を体内に注入することにより、人間の遺伝子配列がカットされ、カットされた部分に異なる成体の遺伝子の一部が結合し、独自の遺伝子配列が作り上げられる。これを浸細胞性溶液と一緒に注射することにより、移植手術を必要とせず、注射後1〜2週間で個体は完全に変態を遂げるのである。
「じゃあ、チクッとするよ」
井田先生は目をつぶった純一郎の腕に針を刺した。
〈うっ! 刺さる! 太いよ! 先生、太いよ!〉
純一郎は声を殺し、心の中で猛抗議した。
注射器から力強く押し出される紫色の液体が純一郎の細い静脈をパンパンに膨らませる。
〈え? もう痛くない…〉
早くもホッとした純一郎だったが、今度は熱い波が体中を駆け巡るのを感じた。
〈これが成獣注射か。一生に一度きりだからな。絶対にこの瞬間を忘れないぞ… 体がしびれてきた… 眠たくないのに意識が…〉
井田先生が注射器の針を刺してから1分後には純一郎は意識を失っていた。
純一郎のベッドを看護師が奥へと運んでいき、また新しいベッドが同じ位置にセットされた。そして井田先生はカーテンをめくり、純一郎に投げかけたのと同じ笑顔を玲に投げかけた。
Ⅱ.
〈熱い! 熱い! 痛い!〉
純一郎はいつも寝ている自室ではなく、見たことのない個室で飛び跳ねるように目を覚ました。
〈痛い! 背中も! 首も! 脇腹も! 細胞が爆発してる! 体が張り裂けそうだよ! 今日はいつだ? 何時だ? 僕はどれだけ眠ってたんだ! 痛い痛い痛い!〉
激しく身悶えながら、純一郎は食いしばった歯の隙間からうめき声をあげた。汗ばんだ手でベッドのシーツを握りしめると、手首が自分の意思に争うように反り返っていく。自身の体で獰猛ななにかが暴れまわっているようだ。
〈耐えろ! これが成獣化だ!〉
こめかみからつうっと流れた汗が目に入り、じんわり眼球が沁みた。
〈うう… だけど目が飛び出そう! 頭蓋骨が万力で締めあげられるようだよ… 心臓がねじれる! 肩甲骨がバキバキいってる! 耐えろ、耐えろ、耐えろ!〉
鯉のように口をパクパクさせて呼吸を引きつらせながら、純一郎は再び意識を失った。
それから数日間、純一郎は何度も寝ては起き、起きては激痛に苦悶し、神経が疲弊しては意識を失った。それは悶絶の連続と言っても過言ではなかったが、意識を失う瞬間だけはさわさわと全身の皮膚がさざなみ立つようで、視界がぼんやりと暗くなっていく様を、心地よい浮遊感の中で見送った。それは悲しいかな意識を失う人間に与えられた救済本能であり、純一郎にとって最後の人間体験だった。
Ⅲ.
「諸君、成獣おめでとう! あなたたちは晴れて人間を卒業できました! まずはそのことに祝福の言葉を贈ります。人間という下等動物から解き放たれたあなたたちの未来は明るい! 前途洋々! その一言につきます! しかしあなたたちはまだ成獣になったばかり。これから本物の成獣になっていくのです。一日一日と本物の立ち振る舞いを身につけていかなければなりません。しかし心配はご無用! なにも考えなくていいのです。これからたくさんの経験をするでしょう。その中で湧き上がる本能があなたたちを本物の成獣へと変えていくのです!
言葉なんていらない! 思考なんていらない! なんて穢らわしい! 私がこんなに言葉を尽くすのも私が卑しい人間だからです。私のこの挨拶が理解できるのもあなたたちの脳がまだ人間を残しているからです。しかしそれも時間の問題。そのうち脳も立派に成獣化します。その時こそが本当の姿! 本当の幸せがやってくるのです!
今日、あなたたちはご飯ではなく餌を食べましたね。草を食べた者もいるでしょう、生肉を食べた者もいるでしょう。それが本物の食べ物です! 初めて口にする味はいかがでしたか! 箸を握る、スプーンを握る、なんて愚かな行為でしょう! 口と食べ物、その直接的関係の崇高さ! その感動をたっぷりと味わうために、あなたたちは12年かけて箸を使い続けたのです。箸やフォークやナイフ、そんな無駄な道具を使い続ける人間から卒業できたあなたたちは私の誇りです!
口だけではありません! 象の鼻を得た者は、初めて鼻でバナナを拾い上げたでしょう。どうでしたか、感じましたか、その尊さを! 衣服などいらない、その皮膚を尊べ! 布団などいらない、大地を尊べ! 月明かりで眠るその肉体に吹く風は、あなたたちにに何を語りかけるでしょう。人間はその身を守るために様々な道具を発明し、利用してきました。しかしあなたたちはその体一つで、大地と空と交歓するのです!
あなたたちはこの成獣島初の成獣となりました。それが私は… 本当に… 嬉しいのです。見えますか、私のこの涙が…
あなたたちはこれからこの島を離れ、本島のキメラニアン・ズーに鎮座するのです。謁見しにくる人間たちはあなたたちに羨望のまなざしを注ぐことでしょう。しかし驕りはいけません。成獣としての誇りと自覚をしっかり持ち、頑張るのです! 万歳、成獣! 成獣村村長、飯島敏夫より!」
Ⅳ.
晴天に恵まれたある日。純一郎たち数十頭の成獣を乗せた専用貨物船が港を離れ、穏やかな海をまっすぐ走っていた。
純一郎は船に乗るのは初めてだった。甲板の欄干に腕をかけ、強い海風を浴びていると、ゼブラ柄の毛並みが生えそろったゴリラの体がバタバタと大げさな音が鳴り、それだけで心がドキドキした。
シマウマゴリラとして成獣化した純一郎は、一言で言えばシマウマ柄のゴリラだが、細かいポイントでは、頭の上にリボンのようなかわいらしい形のシマウマの耳があり、頭頂部から首にかけて同じくシマウマの短いたてがみがモヒカンのように走っている。純一郎は海風が教えてくれる自身の新しい肉体に新鮮な喜びを感じていた。
純一郎がゴリラ特有のハート形の鼻をひくひくさせて塩っからい海風を吸っていると、カンガルーライオンの玲が隣にやってきた。
「村長の挨拶、かっこよかったね」
玲はライオンの獰猛な口から鋭い牙をチラチラ覗かせて言った。
「うん。僕なんだか自分がすごいことしてるんだって改めて感じた」
純一郎が嬉しそうに耳をピンと立てると、
「見てよ、僕の体。人間の時とは違ってバスケも絶対上手になってる。今ならダンクシュートもできるよ」
玲はその場で軽くジャンプしてみせた。
「はは、そうかもね。でもボールを破いちゃうんじゃない? その爪で」
玲のカンガルーの体は骨格こそカンガルーだが肉付きはライオンそのもので、足指や爪、肉球もライオンのDNAを受け継いでいた。首は丸太のように太く、アッシュゴールドの豪奢なたてがみがはカンガルーと遺伝子がブレンドされてもなお、百獣の王の風格を醸し出している。
「力の加減くらいできるよ」
玲は海風になびくたてがみをかきあげて、
「この海の向こうに、僕たちは行くんだね」
いやおうなく睨みがきいたライオンの目で水平線を眺めた。
「うん」
純一郎はゴリラの実直な瞳で海の終わりを想像した。
未知。それは人であろうと獣であろうと不安と好奇心を呼び起こす。ましてや成獣という前例のない生き方をしようとする彼らには、特別な胸の高鳴りがあった。
「向こうに先輩たちっているのかな」
ポツリと純一郎が呟いた。
「バカだな、村長の話なに聞いてたんだよ。僕たちが初めての成獣だって言ってただろ?」
「じゃあ、先輩たちはどこに行ったんだろう」
「知らないよ、そんなこと」
玲は牙をむき出しにして呆れた。
すると甲板の遠くから声が聞こえた。
「ねえ、なにしてるのー?」
二頭が振り向くとアルパカキリンの璃子が駆け寄ってくるところだった。
「デカイなあ、璃子は」
純一郎は近づいてくる璃子をほれぼれするように見上げた。
璃子はアルパカのモコモコの白い毛をまとっている以外はすべてキリンだ。もはや巨大化したアルパカと言ってもいいくらいだが、すらっと伸びた足の動きは軽やかなタップダンスを踊っているようで、キリンの気品が全身に満ち満ちている。
「ボホホ、ボホホ。ほら、私まだゴリラの声できるんだよ」
近づくなり璃子は、嬉しそうに首を左右に振りながらゴリラの鳴き真似をした。
「全然なってないよ」
純一郎はハート形の鼻をギュッと歪めた。
純一郎たちは全員が13歳だった。それが成獣年齢である。成獣島では保育期を過ぎた子どもたちはみな、成獣化するための準備期間として幼稚園と小学校に相当する国立成獣準備学校に通う。そこでは国語、算数、理科などの授業はなく、社会と体育と音楽の三つでカリキュラムで構成されていた。社会では、動物とは何か、成獣とはなにか、成獣がどれだけ優れた存在かを丁寧に教えられた。体育ではかけっこや鉄棒、水泳、そしていくつかのスポーツを行い、健康な肉体を育む。そして音楽では楽器を覚えるのではなく、様々な動物の声の種類や特性を学び、鳴き声や吠え声などの真似をして、動物に対する共感性を高める。いつか自分たちが成獣化した時の参考にするのだ。そうして心身ともに成獣としての素養を身につけた子どもたちが今、立派に成獣化を遂げてこの船に乗っているのだ。
「はは、もう声帯も変わってるから、よけい似てないな」
玲がだめ押しした。
「私たち、いつまでしゃべれるんだろうね」
「多分、脳みそが完全に成獣化した時じゃないかな」
「うん、僕も実は今しゃべりにくいし。口が言葉に合ってないんだよ。僕の話してるの、ちゃんと聞こえてる?」
「私にはボホホボホホにしか聞こえないよ」
「ふざけんなよな、そういうこと言ってんじゃないだろ? マジメに話してんだぞ」
純一郎がクリクリの目で訴えると、璃子は無邪気な声をあげて笑った。そして、
「ねえねえ、一番びっくりしたの誰?」
嬉しそうに同級生の話題を二人に振った。
「俺はハリネズミタイガーの豊!」
玲が間髪入れずに答えた。
「虎の背中に針がぶわあーってあるんだよ!」
「僕はアフリカスイギュウエレファントの拓哉かな」
純一郎はゴリラのゴツっと突き出た額に皺を寄せ、いくつかの候補から拓哉を選んだ。
「象の頭の上に水牛の角が横向きにどーんと乗ってるんだ。鼻の付け根にも象の角はあるんだよ。角がすごい。あいつはとにかく角がかっこいいんだ」
純一郎が話し終えるのが待ちきれないかのように、
「私はクジャクフラミンゴの麻梨絵!」
きっと用意していたであろう名前を間髪入れずに答えた。
「ピンク色の体に孔雀の羽ってすごいかわいい! それにあの子、女の子なのにオスの孔雀の羽もらっちゃってるの! そんなことできるなんて聞いてないのに! でもあの子、これからもちゃんと女の子なのかな、トランスジェンダーになったりして!」
璃子は成獣化した仲間たちに人一倍好奇心旺盛だ。
「ちょっと寒くなってきたね」
純一郎が分厚い手のひらで体をさすった。
海の上では日が傾き始めると途端に風が冷たくなる。
「こんなことできるのも、この船が最後だな」
純一郎が海を眺めて言った。
純一郎のゴリラの瞳はそもそも憂いを帯びやすくできている。もしかしたら心もそうなのかもしれない。ともすれば、群れを守るゴリラの本能が純一郎に目覚めはじめているのかもしれない。
〈向こうに行ったら離れ離れになっちゃうんだろ?〉
純一郎はその言葉を我慢した。
その時、どこからか吠え声が聞こえてきた。
「遠吠えだ」
玲が精強なライオンの眼差しを空に向けた。耳に集中しているのだ。
海風に逆らって3頭の耳に繰り返し届いてくるその遠吠えは屈強で、また切なさをたたえていた。
「ライチョウウルフの実だな」
玲が言う。
「お別れするのは寂しいけど、頑張ろうって言ってる」
璃子がキリンのおちょぼ口でいじけて言った。
実の遠吠えは三頭の感受性の隅々までに届いていた。共感したのは寂しさ、その透明度の高さであり、三頭の心に紡ぎ出されたのはガラス片のような感傷だった。別れて生きる未来が嫌いなわけではない、ただこの時間が惜しいのだ。
「俺、忘れないよ。実の遠吠え」
玲がネコ科独特の威厳ある顔つきでつぶやく。
「うん、僕も」
「私も!」
純一郎の瞳は思い出に対する責任感を覚えているようでもあり、璃子の瞳には自身の可憐を守り抜こうとする無垢な決意が込められていた。
そして三頭の角膜には、今まさに沈もうとしている夕日が映っている。三頭にとって海の上から見る初めての水平線だ。島から見る夕日と見渡すかぎりの水平線に沈む夕日は荘厳さがまるっきり違って見えた。彼らのDNAのどこかには、広大な大地に夕日が沈む記憶が刻み込まれている。その静謐な記憶が今、彼らに尊厳とはなにかを囁きかけていた。
「ねえ、クイズ」
璃子が唐突に言った。
「実はどこにいるでしょう」
おちょぼ口でニヤッとする璃子に、
「おまえ、ずるいよなあ」
玲がため息を漏らした。しかし二頭はそんな明るい璃子が好きだった。
璃子は二頭の遥か頭上で実の姿を見つけていた。
船の舳先で夕日を背に受け、吠えている。薄闇に生まれたばかりの満月に向かって、喉をまっすぐそらしている。
璃子は決して下を向かない。瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。まるでこれから彼らに訪れる、屈辱の日々を予感するかのように。
Ⅴ.
開園前から大きな話題を呼んでいたキメラニアン・ズー《ゲンゲン(幻現)》はオープン初日から入園6時間待ちの大盛況となった。春の終わりの心地よい天気に誘われ、家族連れ、恋人たち、小学校や中学校の社会見学、高齢者のサークルなど老若男女が入園ゲートの外に長蛇の列をなし、先頭の大学生三人組は二日前の夜から寝袋持参で並んでいるということだった。そうした加熱ぶりを伝えるべく、ワイドショーやニュース番組のレポーターがだれかれかまわず生中継でインタビューマイクを差し向けていた。
成獣たちはといえば、エキサイティングドーム3個分の広大な円形屋外型施設の中に一頭ずつ檻が割り当てられ、純一郎はコンクリートの小さい岩山や浅い池などが用意された無味乾燥な檻の中にいた。最初の数日間は岩山を駆け上がったり駆け下りたり、池でバシャバシャ転げまわってはゼブラ柄の体をブルブル振って水滴を飛ばしたりしていた。それらは純一郎の基調となっているゴリラの本能が発動しているわけではなく、まだ13歳の子ども心が無邪気にお遊びしてみただけだった。
「おーい、純ちゃん! こっちおいでよ!」
子どもたちに呼びかけられては嬉しくてたまらず、鉄柵に近づいてハート形の鼻をヒクヒクさせたり、腕を振り上げて厳つい顔をしてみたり、胸をポコポコ叩くドラミングをしたりした。しかしそれも成獣学校で習ったゴリラの行動を真似てみただけだった。そのうち一人でいることがどうしても退屈でしょげかえってしまい、一週間もすれば檻の奥に座りこんで過ごすことが多くなった。
「純ちゃーん!」
母親に手を繋がれた幼い女の子が顔いっぱい口にして叫んでも、すでにふてくされてしまった純一郎の心にはその純粋な声は響かない。
〈なんか、想像してたのと違うなあ〉
純一郎はうなだれてゼブラ柄のお腹をぼうっと眺めてはスリスリさすった。
〈僕はシマウマゴリラだぞ。みんな僕を尊敬しなきゃいけないのに、なんだか楽しんでる。そんなのおかしいや。失礼な人たちばっかりだな、まったく。もうちょっと礼儀をちゃんとしてほしいな。あのお母さんだってそうだ、あの子にきちんと教えてあげろよな〉
その確かな違和感と幼い憤慨は遠く離れたカンガルーライオンの玲もアルパカキリンの璃子も同じだった。しかしみんなはもう会話することができない。園内の檻は渦を巻くように配置されており、渦の外側を客が歩いていく仕組みになっている。そしてその渦を分断するように一本の直線の通路が走っていて、客たちはぐるぐる回遊しながら、好きになだけ成獣たちを堪能するとストレートに出口に向かうことができる。そうした顧客志向の設計のせいで成獣たちは仲間同士顔を見合わせることができない。しかし成獣たちが会話できないのはそれが理由だけではない。脳の成獣化が進行し、言葉を発することができなくなっているのだ。だけど退縮していく過程の、まだ少しだけ残された人間の脳機能のおかげで、純一郎は自身の想いを心の独り言としてなんとか理解することができていた。
そもそもゲンゲンは成獣たちが言葉を話せなくなるのを待ってから開園された。訪れる客はそこにいる奇々怪々な生物たちがもともと人間の子どもだったことを知らされていないし、成獣という概念すら持ち合わせていない。ここはあくまで法律の範囲内で動物と動物をかけ合わせたキメラと触れ合うエンターテイメントパークなのだ。
ここで人間が成獣化したことを知っているのは成獣島から派遣された職員と飼育員、それに研究チームだけだ。職員、飼育員は成獣準備学校の教職員同様、成獣特別教育警察、通称のメンバーから選ばれた者たちであり、研究チームも成獣島から派遣された成獣医学者だった。研究チームは成獣後の純一郎たちを医学的、獣医学的な見地から観察し、病気や怪我、および予期せぬ事象に備えている。そうした観察記録の蓄積が翌年以降の成獣教育や成獣注射の改善に繋がるのだ。
その夜、梅雨の訪れを知らせるかのような蒸し暑い空気が漂い、純一郎の体にまとわりついた。純一郎は湿った空気が膨らむこの感じが嫌いではなかった。気分が落ち込んでからというもの、夜空を見上げることもすっかり忘れていたが、今夜ばかりは重い腰をあげて、どろっとした風を全身に巻きつけるようにゆっくりと歩いては、三日月の尖った先っちょを檻の中からペロッと舌を出して舐めてみた。
その時、遠くから野太く短い鳴き声が聞こえた。
〈璃子だ!〉
純一郎は瞬間的に理解した。
〈寂しいって言ってる!〉
声の波長に凝縮された想いが伝わる。
〈そういや、僕、叫んでなかったぞ! なんで忘れちゃってたのかな! 言葉が話せなくても吠えればいいんだ。みんな一人になって塞ぎこんでたんだな、僕みたいに。でも璃子はさすがだ。明るいからな、あいつ!〉
純一郎は拳を握りしめ、胸いっぱいゴリラの力強い雄叫びをあげた。
「僕は元気だぞー!」
純一郎の雄叫びは夜の園内に響き渡った。
〈璃子はきっと聞いたはずだ、届いたはずだ、僕の気持ちが〉
純一郎は想像しただけで嬉しくなってハート形の鼻をまあるく膨らませた。
すると驚いたことに園内のあちこちからワーギャア! キャン! バウ! キッキッー! ガオーッ! パオーン! と鳴き声、雄叫び、吠え声が怒涛のように湧き上がった。
〈みんな!〉
純一郎はまん丸の目をひん剥いて、その場でぴょんぴょん飛び跳ねた。
〈やったやった! 璃子だって嬉しくってあのきれいな足でタップダンスしてるぞ!〉
純一郎のシマウマの耳にはまるでその軽やかなステップが聞こえてくるかのようだった。
姿は見えなくとも気持ちが分かち合えることを知った成獣たちは、その夜から無邪気な声を間欠泉のように空に向かって噴射した。一週間もすれば、この夜のために昼の退屈しのぎを頑張るぞ、というモチベーションがみんなに広がった。
梅雨のじめじめとした暑熱が熱帯雨林のそれに少しだけ近づいた夜。仲間たちとの無駄話や思い出話などで心の元気を取り戻していた純一郎は、たたんだ腕を枕にしてのんきな顔で横になっていた。
その時突然、背後で鉄扉の開く音がした。
純一郎は体をビクッと震わせ、彫の深い額をグッと低めた。
〈誰だよ、こんな時間に〉
こんな時間に飼育員が檻の中に入ってくることなどないのだ。誰であろうと唯一の自由時間を邪魔しにくるなんて不愉快きまわりない。純一郎は訪問者を睨みつけてやろうとゴロンと体を反転させて、その姿を確認すると思わず目を剥いた。
〈わっ! 井田先生!〉
「久しぶりね、純一郎くん。元気してた?」
井田先生はもの柔らかな笑顔を純一郎に投げかけた。
「ホウ!〈信じられない!〉」
純一郎は両手を地面につけて四つ脚の形になると、お尻を振って喜んだ。
「あら、まだ私の言葉がわかるの?」
「ホホッホホッ!〈うんうん!〉」
「偉いわねえ。あれ? 違うかしら、偉くないのかもねえ、だって純一郎くんはもう成獣なんだから」
そう言われて純一郎はしゅんとしたが、ちゃんとしなきゃと思い直し、井田先生の言葉に太い首で頷いた。
純一郎の前にしゃがんだ井田先生は小さな金属ケースを開け、一本の注射器を取り出した。
「これは新しい注射よ。成獣化を受け入れた血液幹細胞がこれからも安定的に働いてくれるように免疫注射をするの」
純一郎は社会の授業で成獣化にまつわる基礎知識はしっかりと教えられており、一般の13歳よりも生物の知識は豊富だった。血液幹細胞や免疫という言葉も理解している。
〈この注射は自分にとって大切なものなんだ。だからわざわざ井田先生は成獣島から僕のところまで来てくれたんだ〉
純一郎は、自分が笑顔であることを絶対に理解してほしいと思い、唇の両端を不器用にあげた。
「あなたは本当にいい子ね。人間の13歳よりよっぽど清らか。成獣学校がいい教育してる証拠ね」
成獣化に関する生物学の知識があるとはいえ、成獣たちの精神年齢は一般の13歳よりも低い。閉ざされた島の閉ざされた学校でまるで幼児のように育てられてきたのだ。純一郎たちの思考判断、行動様式はまだ少年期のものだった。
純一郎はなんら疑問を抱くことなく、井田先生に剛毛の右腕を差し出た。井田先生はその白黒の体毛を指で掻き分けて、柔らかい皮膚にアルコール消毒をして、太い針を差し込んだ。純一郎は不思議と人間の時のように注射針が怖くなく、思った以上に針の痛みにも耐えることができた。井田先生は注射を終えると、純一郎の額をぽんぽん叩き、たてがみを丁寧な手つきで撫でおろし、笑顔で檻から出て行った。
〈今夜はなんて特別なんだ! 井田先生が来てくれたぞ。みんなのところにも行くのかな〉
純一郎は地面に横になるとゴロゴロと何度も勢いよく回転した。動いてないと体の中で喜びが爆発しそうだったのだ。
それから数時間後、急に純一郎は喉がイガイガして気持ち悪くなった。一度大きく吠えてみようとしたが、どうしても声が出ない。
〈なんでだろ、おかしいな〉
純一郎はもう一度、声を出そうと腹に力を入れた。
しかし喉がひよってしまい、絹糸一本くらいの太さの声しか出てこない。
〈だめだよ! 井田先生! こんなんじゃ蚊とも会話できないよ!〉
純一郎はたてがみを掻きむしり、地団駄を踏んで悔しがった。どう考えても注射のせいだが、井田先生が自分に不利益なことをするわけがないと思い込んでいる純一郎は、副作用で声が出なくなくなったんだと信じこんだ。
〈注射は大事なんだ。ちょっとの我慢だ。僕はやればできる子なんだ。井田先生だってそれを望んでるんだ。みんな、もうちょっと待ってろよ。もう少ししたらいっぱい会話しような〉
純一郎は井田先生に褒められるのが好きだった。それ以上に井田先生その人が好きだった。井田先生が檻の中に来てくれたおかげで、純一郎は大好きだった先生の笑顔が心の印象としてではなく、いつでも瞼の裏に正確に描けるようになった。それに純一郎は井田先生のことを考える時の自分の穏やかな心が好きだった。
それから一週間に一度、井田先生は純一郎の檻を訪れては注射を打った。純一郎はその度に不器用な喜びを唇にのせ、感謝を表すためにお尻を振った。何度も何度も、井田先生が来てくれる度に、純一郎の無垢な心は踊った。そして注射を打たれてからというもの一度も声が出ることがなくなった。仲間とも吠え交わすことはなくなったが、それでも構わなかった。今、自分が大切にすべきは井田先生の笑顔だ。
〈僕が注射を嫌がったら先生はぜったい悲しむ。みんな分かってくれるよな。でも僕が井田先生と会ってること知ったら、みんなうらやましがるだろうな!〉
純一郎はみんなが自分に「いいないいいな!」と鳴き声をあげる未来を想像してにんまりした。それでもやっぱりみんなと話せないのは寂しくて辛くて、ぎゅっと目を閉じて早く眠ろうとした。でも頑張れば頑張るほど寝れなくて、深夜の星々に視線をさまよわせた。井田先生と会える嬉しさ、みんなと会話できない苦しさが高波のように交互に胸に押し寄せ、なぜだか涙がこぼれる日もあった。
そして井田先生が七度目の鉄扉を開けた時、もう純一郎の心に人間はいなかった。井田先生が純一郎の名前を呼んだにもかかわらず、いつものように歩み寄ってくることもなく、喜びの表情を表すこともなかった。
「やっと脳が獣化したわね」
井田先生は檻の外にいる研究員に面倒臭そうに言った。
「もう去声注射の必要はないわ。この子たちはもう夜に叫ぶことはない。もうただの獣よ」
檻の外では研究員がタブレットに指で観察記録を書き込んでいる。
井田先生はそそくさと檻から出て、
「もうこんな臭い檻に入るのはうんざり。やっと終わったわ。消臭スプレーふってくれない?」
と、ささくれ立った顔つきで研究員に吐き捨てた。
それからというもの、このゲンゲンで成獣たちが夜な夜な鳴き交わすことはなくなった。時折どこかの檻から声が上がることあったが、それは決して同級生を求めるものではなく、ただ単に背中が痒かったり、檻の外の鴉に反応しただけだったり、池に映った自分を威嚇しているだけのことだった。しかし例外としてただ一匹、ライチョウウルフの実が満月の夜にだけ吠えることが確認されていた。研究チームが数ヶ月かけて調査したところ、園内の成獣たちが実の遠吠えに特別反応を示さないことから、以前のような会話を誘発するものではないということが分かった。狼が満月にだけ吠える習性があるわけではないが、一般的に夜に遠吠えするイヌ科の本能に満月だけがなんらかの理由で作用しているのだろうということだった。
こうして成獣たちから人間的な心が霧消し、動物の本能と檻の中の経験だけが彼らを育てていくこととなった。
Ⅵ.
それから3年の歳月が流れた。
いくらか体の大きくなった純一郎は檻の中でのべつ退屈な眼差しを浮かべていた。昼間は岩山に寝そべるか檻の奥に座りこむだけで、客の呼びかけにもほとんど反応せず、どちらかというと緩やかに目をそらしているようでもあった。
それは他の成獣たちにも言えることだった。客が檻の外から呼びかけても反応しない。カメラを向けても反応しない。客がランチライムサービスで餌を投げ入れても、ほとんどが一瞥するか無視して終わりだった。
それでもゲンゲンには大量の客が押し寄せ続け、その奇抜な生き物に興味しんしんの眼差しを浮かべ続けた。どれほど彼らのリアクションが悪かろうと、目の前にいてくれるだけで休日の好奇心は満たされるのだ。
純一郎の檻には、年に1頭ずつ後輩にあたるシマウマゴリラが増え、今は4頭が住む家となっている。しかしいずれのシマウマゴリラも干渉し合うことはなく、群れを形成することはない。それはゴリラの生態とも異なり、シマウマの生態とも異なっていた。成獣化することで彼らの本能が変異したのか、檻という環境が作用しているのか、それとも最近運用が始まった〈愚鈍剤〉が影響しているのか、研究員にも正確なところは分からなかった。
愚鈍剤とは主に飼育員が檻の中で成獣たちの世話をする時に攻撃してこないように肉体的な倦怠をもたらす無味の粉薬であり、毎夜の餌に混ぜられていた。1年前にハリネズミタイガーの豊の針で飼育員が失明するという大怪我をしたため、運用が決定されたのだ。運用前には職員、飼育員、研究チームががっぷり四つで協議を重ねていた。客を楽しませなければならない運営側としてはあまり投薬量を増やしてほしくない。しかし管理側としては飼育員の安全を第一に考えなければならない。協議は数週間続いた後、個別に最適な投薬量を判断しようという当然すぎる答えに帰着した。いずれにせよ成獣たちの本来の強靭さは奪われ、行動は緩慢になってしまう。それは精神にも影響を及ぼしているという証左でもあった。
純一郎と他3頭のシマウマゴリラの瞳はどんよりと濁り、その眼光は荒廃していた。ゴリラの目は、本来ゴルフボールのように硬い誠実さと勇敢さでできている。しかし彼らはその強さをこなごなに砕かれていた。彼らの眼差しは裏切りを知らないコミュニケーションによって守られなければならない。しかしゲンゲンはそんな彼らの信条を守ってくれる場所ではなかった。彼らの荒廃する眼差しは、誰にも愛されている実感がない、心の損壊でもあった。
純一郎はコンクリートの岩山に体を投げ出し、灰色の天井を眺めている。ゼブラ柄の体毛は白い部分が汚れ、鮮やかなシマウマゴリラの豪壮さはなくなっていた。そして背中には、体毛の黒い部分に一部、焼け焦げたような跡があった。
愚鈍剤はすでに飼育員を守るために投薬されるものではなく、飼育員の酔狂で投薬されるものになっていた。投薬当初は訪れる客の反応の変化に職員は敏感になっていたが、何ヶ月経っても来園者数に特段の変化は見られず、来園アンケートの内容も上々だった。愚鈍剤の投与は来園者数にも来園者の満足度にもたいして影響を与えない。そんな調査結果が出たことから愚鈍剤の管理体制は甘くなり、夜勤の飼育員に任されるようになっていた。と同時に成獣たちへのその陰惨ないじめが始まった。
ある夜、純一郎は愚鈍剤の影響からか、岩山に登る時に足を滑らせて膝を擦りむいた。何週間も岩山をブラシで掃除されていなかったため、コンクリートがぬめっていたのだ。中央監視室で机に足をあげてうとうとしていた飼育員は怪我の様子を見てしまったことに大仰に舌打ちを三度して立ち上がり、キャビネットの消毒スプレー缶を手に取った。感染症を防ぐため消毒をせねばならないのだ。
飼育員が檻の中に入ってくると、純一郎はためらいがちに歩み寄り、膝を触った手で服を掴んだ。
すると飼育員は、
「汚ねえ血を俺につけるんじゃねえよ! 犯罪者のクソガキがよお!」
突如として烈火のごとく罵倒した。
純一郎に叩きつけられたこの侮蔑は、決して他言してはならない守秘義務だった。
「おい、お前ら言葉分からねえんだよな、この能なしのクソガキどもが!」
飼育員は狐のような目をさらにつり上げて言った。
「お前ら、自分たちのこと知ってるのか? おい」
飼育員は、人間性を失い愚鈍剤を大量投与された純一郎のたてがみを掴んだ。
「お前らはな、ただの遺伝子研究の実験台なんだよ。懲役300年以上の最低最悪の犯罪者が成獣島に送られて、精子と卵子を抽出されてよお、体外受精で生まれてきたガキどもがお前らなんだよ」
飼育員は、純一郎の悲哀を浮かべた目を睨みつけた。
「こんなクソ汚ねえ遺伝子をよお、科学の進歩のために使ってやってんだよ。このゲンゲンもそうだ。お前らがどうやって生きて死ぬか、それを記録してるだけなんだよ。だから黙って静かにしてろ。俺にきたねえ血をつけるんじゃねえ!」
飼育員は口汚く怒鳴りつけると純一郎の尻を力まかせに蹴り上げた。
すると純一郎はほんの少しだけ目を歪ませて、頭を抱えてゆっくりとうつ伏せになった。
「おい、頭かせよ」
飼育員はその純一郎の態度が癪に障ったのか、隣にしゃがみこみ、純一郎のたてがみに笑いながら消毒スプレーを吹きかけた。純一郎は本来であればすぐさま逃げるか、飼育員に攻撃するかを本能的に選択するはずだが、愚鈍剤が脳に染み渡っている今、瞳の色も表情も変えることなく、ただ無策に頭をゆっくりと左右に振り、アルコールの匂いに鼻を歪めた。
飼育員は尻ポケットに突っ込んでいたマルチファンクションブラシを手に持った。主に成獣の毛並みを整えるために使われるこのブラシを、飼育員は上下逆さに持ち、純一郎のたてがみに近づけて、柄のスイッチを押した。すると、ボウっ! と小さい炎が噴射し、純一郎のたてがみが一瞬にして燃えあがった。柄に備わっているライター機能でに火をつけたのだ。
純一郎は慌てて両手で頭を掻き、火を消そうとした。いくら愚鈍な脳に仕上がっている純一郎でも、自分のたてがみに火がつくことが危機であることは理解できる。しかし飼育員にはそれでも純一郎がとろくさく慌て、とろくさく両腕を動かしているように見えて、おかしくてたまらない。
「たのむよお前! 頭に火がついてんだぜ? もっと必死になれよ! はっはっはっ!」
飼育員は体をのけぞらせて笑い声をあげた。
純一郎の頭はパチパチと音を立て、あたりには焦げ臭い匂いが広がった。その間、ものの十数秒。首筋に残った火をどうにか消そうと、純一郎はやはり本能的に池に向かい、体ごと転がると、ようやく炎がすべて消えた。飼育員にはその姿がまるで酔っ払いがベッドによたって転がりこむように見え、笑いが止まらなかった。
「はっはっは、いいじゃねえか、頭が焦げたって。お前の体は白黒なんだから。頭のてっぺんだけ黒くなったってかまやしねえよ!」
純一郎のハート型の鼻がいびつに形を変えながら、苦しそうに息を吸い、吐いている。眠らそうな目の奥底にゆらゆらと怒りが揺らめいている。しかし愚鈍剤を大量投与された純一郎に、その怒りが表面化することはない。純一郎はつぐんだ口をぐにゃぐにゃと動かして飼育員から離れていくと、3頭の仲間のそばまでに歩いていき、目をパチクリさせ、膝を抱えて座りこんだ。仲間の3頭は、火をつけられた純一郎を助けようともせず、その炎から恐怖が伝達することもなく、ただ興味なさそうに寝転がっていただけだった。純一郎もその3頭に特段の感情を表すことなく、濡れた体と焦げた頭をさすっては、沈殿した瞳でじっと押し黙っている。飼育員が鉄扉を乱暴に閉めていなくなった後も、姿勢を変えることはない。純一郎はしばらくそのまま倦怠感のさざ波に耳をすませ、静かに眠りに入った。
Ⅶ.
その焦げ臭い匂いを遠くで敏感に嗅ぎとり、怒りに体を震わせる一匹の成獣がいた。ライチョウウルフの実だ。実は自身の牙で口の中をズタボロに突き刺してしまいそうなほど顎をきつく噛み締め、殺気立った目で細く尖った月を睨みつけている。悲憤を押し殺せば全身の血が沸騰する。実は夜が明けるまで喉を低くゴロゴロと鳴らし続けた。
翌日、雲ひとつない黒い夜に新月を迎えた。午前零時あたり、ゲンゲンの最中央部の檻の中で、実は自分を落ち着かせるかのように巨大化した雷鳥の翼を数度羽ばたかせた。目は昨夜同様怒りに燃えているが、いくらか抑制が効いている。実は最後に一度、何者かを威嚇するかのように翼を力強く広げると、華麗に仕舞い、見えない月に喉をそらした。そして澄明な吠え声を夜空に放った。それは真っ黒い的を射抜くかのような一本の声の槍となり、天高くで散華した。
実が初めて新月に吠えたその様を、深夜勤務の研究員たちは愚かにも眠りこけていて気付かなかった。気づいたのは、園内の病み呆けた成獣たちであった。この三年間、二週間に一度ルーティンとなった実の遠吠え。その声の波長にはこれまでなんの意味もメッセージも備わっておらず、ただ空っぽの声だった。しかし今夜、初めて重大なメッセージが乗せられていた。
「断食せよ、我が同志たちよ」
純一郎は愚鈍剤に侵されてるにもかかわらず、焼け焦げたたてがみの両脇にぴんと突き立った両耳の奥がさわさわと波立ち、そこから背中へと鳥肌が広がっていくのを感じた。鈍重な目が夢から覚めたようなまばたきを繰り返している。純一郎は実の遠吠えを言葉で理解しているわけではない。吠え声に宿るメッセージが鈍磨した感受性に繊細に響き渡っているのだ。
翌朝、純一郎は餌を食べなかった。他の成獣たちも同様に食事を拒否した。突如として成獣たちのハンガーストライキが始まったのである。
おかしい。当然そう感じた飼育員と研究チームは原因を探ったが出てこない。3日間、今までと同じように愚鈍剤を混ぜた餌を与え続けたが、いずれの成獣も口にしなかった。その間、成獣たちの瞳はいくばくかの輝きを取り戻し、体も軽くなった。幸い3日目に雨が降ったことから敷地の水たまりや檻の鉄柵を舐めて、喉の渇きを潤した。6日目から職員たちは餌に愚鈍剤を入れないことを決めた。ようやく餌にありつけた成獣たちの脳はいくらか冴え、動物本来の動きを取り戻していた。職員たちが新月の夜の実の遠吠えを監視カメラの録画映像で確認したのは短慮にも7日目の午後だった。そして職員たちは明朝に対策会議を開くことに決めた。
しかし、その会議は開かれることはなかった。その夜、強い風が吹き、低い雲を遠くへ払い流し、午前零時が近づいたころ、漆黒の空に赤い満月がくっきりと姿を現した。
そして再び実の遠吠えが響き渡った。
「目覚めろ、成獣たち」
純一郎は、鉄柵に近づき夜空を見上げた。
「俺の声に耳を傾けろ。俺は聞いたんだ。お前たちの中にも聞いた者がいるかもしれない、あの忌々しい飼育員どもから」
それから何度も息継ぎをしては遠吠えは続いた。
「俺たちは選ばれた存在でも崇高な存在でもない。現在、積極的な遺伝子淘汰プロジェクトが国家手動で行われているという。優勢遺伝子が保護、活用され、劣勢遺伝子は隔離される。劣勢と見なされたのは犯罪者たちであり、その子どもたちだ。凶悪犯罪者は成獣島に送られ、刑務所で暮らす。犯罪者の子どもたちは成獣村の特別教育警察、《特教》の厳しい監視下のもと成獣村の住民として育てられる。そして成獣村の刑務所では、男女の受刑者の精子と卵子を利用した体外受精が行われ、生まれてきた子どもたちを成獣化プロジェクトの臨床実験に利用しているのだ。幼年期から少年期へと人体が移行する段階で、異なる生物の遺伝子注射をすることで別の生物へと変態を遂げる遺伝子研究だ。何十年にわたる臨床実験で失敗が続き、何千という死体が村の丘に埋められた。敗獣症。俺たちの先輩たちは肉体の変化と崩壊に苦しみながら死んだという。俺たちが決して近寄ってはいけないと言われてきたあの禿鷹ヶ丘。あの丘は先輩たちの墓場だったんだ!」
純一郎は力のかぎりで鉄柵を掴んでいる。
〈ふざけやがって…〉
純一郎は目を見開いた。
自身の思いが言葉として脳に響いたのである。その数年ぶりの感覚に戸惑った。
〈なんで俺はしゃべれるんだろう…〉
「今から助けに行く。ここから逃げたい者は俺について来い」
実の遠吠えも隅々まで言葉として伝わる。しかしその驚きよりも、風に血の匂いが混じっていることが純一郎の胸を騒がせた。
〈これは獣の血の匂いではない〉
途端に純一郎の眼差しに覚悟が宿った。
最後の遠吠えが風に搔き消えると、血の匂いがじわじわと近づいてくるのが分かった。同時に、仲間たちの足音と会話が聞こえてきた。
「ちょっとぶつからないでよ」
「追っ手は俺が食い殺してやる」
純一郎の耳に璃子と玲の声がはっきりと聞こえた。
「ここにいるぞー!」
純一郎はありったけの声を発した。
「じゅんじゅんは一番端っこなのね」
「今行くぞ!」
玲と璃子が遠くから返事した。
すると実が、
「隊列を乱すな!」
厳しい声で制した。
「こわい!」
璃子のかわいらしい不満が聞こえてきて、純一郎はたまらず苦笑した。
しかしみんなの獣の匂いに混じって人間の匂いと火薬の匂いが次第に鼻につく。職員も飼育員も特教のメンバーだ。この暴動をどうにかして制圧しにきたのだ。
「待たせたな!」
檻の裏側の鉄扉がガンガンと叩かれる音がする。
カチンっと鍵が開く音がすると、獰猛な目つきで口から血を滴らせた実が息を切らせていた。実は右の翼を颯爽と舞い上げると、10枚以上のキーカードが胴体との間からバサッと落ちた。
「もうお前で終わりだ。余計なカードはここに捨てていこう」
「ありがとう」
純一郎は手短に礼を言って、四つ脚になって檻の外に出た。
檻の表側に出ると、そこには百頭以上の成獣たちが勢ぞろいしていた。
「じゅんじゅん!」
璃子が純一郎のはるか頭上で首をブルンブルン振り回して喜んでいる。
「お前そんな呼び方してたっけ?」
純一郎は一枚岩の額をグニっと歪めて、首をひねった。
「細かいことはいいじゃない、久しぶりに会ったんだもん!」
璃子はみんなとこうして再会できた嬉しさを全身にみなぎらせている。
〈お前、また大きくなったな〉
そんな会話をして懐かしさを充分味わいたかったが、そんな暇がないことを純一郎は匂いで気づいていた。
「追っ手がくるぞ」
実に言った。
「わかってる」
実は茶色い尻尾を振り上げた。
「行こう」
「ああ」
純一郎は実とともに先頭を走った。
振り返ると玲が一番後ろにいる。
「玲、追っ手が来るから気をつけろよ!」
「俺たち先輩になったんだぜ、任せろよ!」
玲の勇壮な顔つきに純一郎は頼もしさを感じた。
こうして成獣たちは入園ゲートの前までやってきた。おのおの速さは違えど獣の速さである。人間が走って追いつけるものではない。
実は左の翼を振り上げた。すると南京錠の鍵とカードキーが地面に落ちた。
「出よう」
実が言った。
純一郎はゴツゴツした手で二つの鍵を拾い上げると、南京錠とカードキーを丁寧な手つきで解錠した。すると鉄の壁にように見えたゲートがオートモードで左右に開いた。
「やったぞ!」
後輩のシマウマゴリラが後ろで声をあげた。
「外に出るぞー!」
実が勝鬨を上げると、
「おおー!」
百数十頭の成獣たちは一気呵成に走り出した。
「やったやった! 私たちこれで自由になれるのね!」
頭上で喜ぶ璃子を見上げ、純一郎は餃子のようにこんもりした口から歯茎を見せて笑いかけた。
しかしその瞬間、強烈な光の列が成獣たちの目をくらませた。
「全成獣、確認OK」
前方から大きな声が響きわたった。
「閉門OK」
じわじわと回復する目で純一郎が確認できたのは、整列した十数台の装甲車と後ろに控える5台の戦車だった。
戦車の上部パッドからヘッドセットマイクをつけた一人の男が、
「俺たちの言葉が分かるな? これからお前たちを皆殺しにする」
冷たく事務的な声で言った。
成獣たちは顔を強張らせた。
「やられた」
実が悔しそうに言った。
「後ろから追ってくるように見せかけて、外で待ち伏せしてたんだ」
璃子が膝を折って座り込み、顔を地面に近づけた。
「私たち死んじゃうの? 怖いよ」
「大丈夫だ、璃子。そんなことさせやしない。お前は俺が守る」
純一郎は璃子のフサフサの頭を撫でた。
「おい、お前たち。前に出ろ。俺たちが盾になるんだ」
純一郎は後ろにいる3頭のシマウマゴリラに言った。
「名前は?」
純一郎は今まで3頭の名前すら知らなかった。
「幸治郎です」
「奏太です」
「直哉です」
3頭が名乗り終えると、
「俺たちが守るんだ、いいな」
純一郎はすっかり大人の顔つきにになっていた。成獣たちは人間の少年期から抜け出し、脳が成獣化した途端ぐっと大人になるスピードが速くなる。再び言葉を話せるようになった純一郎は今、頭領としての自覚に打ち震えていた。
そして純一郎は堀の深い目の奥に青い炎をたぎらせ、大きく胸をそらし、雄叫びをあげながら猛烈な勢いでドラミングした。
「よし、僕も戦うぞ!」
幸治郎が勢い勇んで言った。
すると純一郎はその言葉に驚いたようにドラミングをやめ、幸治郎の頭をコツンと小突いた。
「バカ、お前はなにを言ってるんだ。ドラミングは闘うためにやるんじゃない。闘いを避けるためにやるんだ。威嚇なんだ。お前のゴリラの本能はどうなってるんだ!」
純一郎が幸治郎を叱るのを尻目に、拳をしっかりと握りしめた直哉が凛々しい顔つきで胸を叩き始めた。
それを見た純一郎は幸治郎から体を向け直し、直哉をしゃにむに怒鳴った。
「待て待てお前、違うだろ! ドラミングはグーでやるんじゃない、パーでやるんだ! まったくお前らのゴリラはどうなってるんだよ!」
まだ少年期を抜け出せていない一番新入りの直哉は肩を落として落ち込んだ。
「ごめんなさい。僕、シマウマのブレンドを多くしてもらったんで、ゴリラの本能が薄くなってるのかもしれません」
「僕もです」
幸治郎が悲しそうに言った。
「しょうがないなあ、お前ら! 僕のを見てろよ、こうやってやるんだ!」
強い責任感とまっすぐな正義感が純一郎を突き動かした。
純一郎は豪雨が大地を弾くように胸を連打したが、実のところドラミングはポコポコとかわいい音がして、それを見た人間たちを鼻で笑わせた。
そうしたチグハグなシマウマゴリラたちのやりとりを見ていた実が、さっと翼を広げて空へ飛び立った。先ほどまで煌々と輝いていた赤い月が重く垂れ込めた雲の奥に消えていて、上空で旋回する実の姿は見えない。実は装甲車から照射されるサーチライトが追いかけるより早く夜空を駆けている。
「みんな、聞いてくれ」
実が上空から叫んだ。
「一体何をだ」
純一郎は空に向かって尋ねた。
「俺たちがこうして再び会話できるようになった理由を、みんなに伝えておきたい」
成獣たちのこの会話は人間にとってただの吠え声である。
しかしここに集結している兵士たちはそれが会話であることを知っている。兵士たちは空から降ってくる狼の吠え声を聴きながら不測の事態に備えた。
「今すぐ会話をやめなさい。さもなくばお前を撃ち落とす」
兵士は空に向かって告げ、実の様子を伺った。
最初に兵士が言った、皆殺しにする、というのはなかば脅しだった。成獣島にはまだ成獣教育を受けている子どもたちがいるにはいるが、成獣化したものどもはここにしかいない。目の前の成獣たちを皆殺しにするということは、これまで積み上げてきた成獣化プロジェクトのおおよそをぶち壊してしまうことであり、成獣化プロジェクトを主導、推進する国家に甚大な打撃を与えてしまうことになる。どれだけの予算と年月をかけてここまで来たのか。自分たちの手で成獣たち皆殺しにするということは極めて重い判断であった。
サーチライトが夜闇をぐるぐる迷走する中、実は眼下に集う成獣たちに話しかけた。
「およそ3年前、まだ俺たちが言葉を理解していた時のことだ。俺はなぜだか無性に満月に吠えたくなったんだ」
「今すぐ会話をやめなさい。これは脅しではない」
兵士は耳に手を当てヘッドセットの向こうにいる誰かの声を聞いている。
しかし実は兵士の言葉を意に介さない。
「きっと俺の遺伝子に残る先祖の習性なんだろう。だけどそれが幸運だった。満月に吠えることで、俺の中の人間がいつまでも消えないことに気づいたんだ。驚いたよ。満月の光を浴びながら吠えることで脳全体が活性化するんだと思う。冴えてる感じがするんだ。そして俺は遠吠えに人間の言葉を乗せてみんなに語りかけた。だけど脳の成獣化が進むにつれ、うまく言葉を乗せられなくなるし、みんなも聞き取れなくなる。だから俺はいつも満月に吠えながら声をチューニングしてたんだ。いつか俺の言葉を上手に遠吠えに乗せられるように。そしてその言葉をみんなの脳に眠るわずかな人間が聞き取るように。この送信と受信がうまくいった時、俺たちは言葉で会話できる。ずっとそう信じてた。たとえ成獣であろうと俺たちに脳があるかぎり、人間の部分は残るんだと」
「狼ってすごいね、じゅんじゅん」
璃子が小声で純一郎に言った。
「静かにしてろ。今は本当にしゃべらないほうがいい」
純一郎は璃子をたしなめた。
璃子は決してふざけているわけではない。素直な思いを素直なまま表現するアルパカキリンの本能なのだ。
実は語り続ける。
「だけど長い間うまくいかなかった。チューニングさえうまくいけば、俺の言葉はみんなの脳で言葉として花開くんだって、ずっとそう思いながら、長い年月が流れた」
実はそこまで言い終えると、一呼吸置いてから嘆息交じりに声を発した。
「新月の夜、頭の中でなにかが弾けたんだ。純一郎、お前の檻の中から届く匂いにものすごく怒りを感じた。それが俺の動物的理性を吹き飛ばしたんだ。そして思わず吠えた、新月に。初めて新月に吠えたんだ。そしたらチューニングがうまくいった」
サーチライトが実の姿を一瞬とらえ、また消えた。
すぐさま兵士が構えるレーザー銃のスコープについた行動予測システムが連動し、上下左右にせわしなく動き、ロックオンした。
銃口がロックオンした対象物を逃さないように自動的に動いている。兵士は銃を支え、ただ引き金を引くだけでよかった。
キューン−−−−−−−−−−
緑色の閃光が空に走り、数秒後にドサっと実が地面に落ちてきた。
群れの奥から玲がカンガルーの跳躍で実に近寄った。
「大丈夫か!」
玲は横たわった実に顔を近づけた。
そのライオンのたてがみに実の血が触れた。実の脇腹から血がどぼどぼと流れ出し、地面に広がっていく。
「ああ、生きてるよ」
ぜいぜいと喉を鳴らして実が言う。
「しゃべらなくていい。必ず助ける」
玲は答えると、牙で実の顔を甘噛みした。
「俺たちはかつて人間だったな」
「今だって体以外はそうだよ」
「だけど成獣もいいな」
実は舌をだらりと出して玲の牙を舐めた。
「空が飛べるなんてな」
「死ぬな」
玲が実の顎を噛んで必死に動かす。
「おい、実」
玲は実に話しかけながらまるで口づけしているかのようだ。
それから何度玲が話しかけても実は返事をしない。
「実! 実!」
玲は実の口に自身の口をぐりぐりとねじ込むようにして名前を呼びかけた。それはまるでイヌ科とネコ科の獰猛な口で人工呼吸をしているかのようでもあった。しかし実はすでに息を引き取っていた。
玲は顎まわりのたてがみを真っ赤に染めて立ち上がった。そして百獣の王の壮絶な雄叫びをその場にとどろかせた。
「玲!」
純一郎は今にも飛び跳ねて行ってしまいそうな玲を呼び止めた。
その時、
「成獣のみんな、待ちなさい」
聞き馴染みのある声がすると、2台の装甲車の間から4WDが一台前に出てきて止まった。ドアから出てきたのは井田先生だった。
「ねえあなたたち。死にたくなかったら私の言うことを聞いてちょうだい」
純一郎は一瞬、救いにも似た感情が胸に広がった。しかしすぐに怒りが湧いてきた。裏切られたことを確かに悟っているのだ。
「ねえ、みんな。もう一度檻の中に入るなら死ななくていいの。そしてこれからはおとなしくするって約束してちょうだい」
井田先生はその言葉を決して良心から発しているのではない。ただ管理職の任務を背負っているだけだ。
「今から私がみんなに注射を打ってあげる。そしたら今の怒った気持ちは収まるの。また明日から、今日までみたいに暮らしたいよね? 幸治郎くんなら分かるわよね?」
井田先生が言うと、純一郎は後ろを振り返った。
幸治郎は鼻息を荒くして四つ脚で駆け寄って行った。
「掃獣、開始」
兵士の構えたレーザー銃から緑色の閃光が走った。
幸治郎は額に穴を撃ち抜かれ、倒れこんだ。
「バカじゃないの、この子」
誰にも聞こえないように小さな声で冷笑した。そして、
「ダメよ走ってきちゃ。後ろで銃を持ってる人たちは私を守ろうとするの。いい? わかった?」
と成獣たちに向かって同情と懇願の入り混じった声を張り上げた。
「直哉くん! ゆっくりこっちにおいで。注射を打ってあげる」
「うんわかった!」
と一番新入りのシマウマゴリラの直哉が立ち上がった。
しかしまだ少年期を脱し切れていない直哉はあろうことか胸をポコポコとドラミングしながら歩いて行った。
キュンッ−−−−−
再び閃光が走り、直哉は膝から崩れ落ちた。
「バカヤロウ!」
純一郎は心臓を貫かれた直哉を覗きこんだ。
「みんな! 絶対歩く以外の行動はとっちゃダメ! わかった? ゆっくり歩いてくるの! それだけで命が助かるんだから!」
井田先生は百頭もの成獣たち全員に呼びかけた。
するとあろうことか成獣の大群はおずおずとうごめきたち、立ち尽くす純一郎をぞろぞろと追い越していった。そして純一郎の後ろに隠れていた璃子も立ち上がろうと首を伸ばした時、
「璃子、行くな」
「ヤダヤダ! 私行きたい。死にたくないもん!」
「だめだ、これは罠だ」
璃子を見上げて、純一郎は怒って言う。
「みんな行くんじゃない!」
純一郎は声を張り上げた。
しかし一度動き出した成獣たちの行進は止まらない。クジャクフラミンゴ、アフリカスイギュウエレファント、シロクマバッファロー、カメレオンアルマジロ、アナコンダラビット、ハリネズミタイガー、その他三十種以上、百十数頭の成獣たちが純一郎、璃子、玲を残して井田先生の前に勢ぞろいした。
「みんな揃ったわね」
成獣たちは、媚びるような、照れ笑いするような鳴き声や吠え声をあげた。
井田先生はにっこりと、成獣学校の医務室と同じく温良な笑顔を見せた。
「偉いわね、きちんと言うこと聞いてくれて」
しかしすぐに表情を変えた。
「でもそれじゃダメなの。あなたたちはケモノなのよ。何年経っても私の言葉が理解できるなんて、成獣失格」
井田先生は呆れ顔で冷酷に言い放った。
と同時に兵士たちが成獣たちを一気に取り囲んだ。
「禿鷹ヶ丘に埋めてあげる」
井田先生のその言葉は、陰惨、痛烈に成獣たちの胸に突き刺さった。
「成獣掃討、開始」
取り囲んだ兵士たちが一斉に火炎放射器を噴射した。
烈しい炎を浴びせられた成獣たちは一瞬にして一つの巨大な火柱となり燃え上がった。
誰もがパニックになり、誰かと誰かがぶつかり合い、噛みつき合い、殴り合い、嘆き、跪き、抱きしめ合い、逃げ出そうとするものがいると装甲車から正確無比な閃光が走り、ドタッと崩れ落ちた。
純一郎は仲間たちの体毛、表皮、肉、内臓いろんなものが燃える匂いをただ嗅ぐ以外になにもできず、その場で耐え忍んだ。
「璃子、目を閉じてろ。お前は見ちゃだめだ」
璃子は純一郎におとなしく従った。
すでに完膚なきまでに絶望をその胸に叩き込まれていた璃子は、もはや怖いという感情がどこか他人行儀に思われ、うっすらとなにかに祈るような気持ちで瞼を閉じた。
しかし可憐なまつ毛は震えている。それを見た純一郎のハート形の鼻はギュッと小さく潰れた。
「炎滅、完了」
戦車から無表情な声がし、兵士たちは円陣を崩した。
火柱はまだその内なる無尽蔵の肉を燃やし尽くしていない。しかしいかなる生命も気配ごととっくに風に掃き掃除されている。
玲が静かに純一郎の隣に立った。
くすんだ金色の顔がチラチラと炎の揺らめきを受けている。
「純一郎、俺にはやることがある」
「ああ、俺にもある」
純一郎が返事するやいなや玲は目を血走らせ、
「禿鷹ヶ丘で会おう」
凶暴なひと吠えで別れを告げた。
そしてインファイトボクシングをしかけるかのようなカンガルー特有の前傾姿勢になり駆け出した。すぐさま一人の兵士が玲に火炎放射器を向けたが、引き金をためらった。陣形を崩した仲間を誤って噴射しかねないのだ。
しかしその一瞬の逡巡が、奇想天外な行動を玲に許した。あろうことか火柱の中に自ら突っ込んだのである。
兵士たちは思わず目を瞠り、火柱に火炎放射器を向けたが、10秒待っても20秒待ってもなんの動きもない。互いにうなずき合い、火炎放射器をおろした兵士たちは、炎に背を向けて歩き出した。錯乱したカンガルーライオンが焼身自殺したのだろう。誰もがそう思った。兵士たちの後ろで事の顛末を見ていた井田先生もそう思った。
明らかな嘲笑を顔に浮かべて、井田先生は炎に背を向けた。
玲は炎の中でその瞬間を待っていた。体毛もたてがみも燃やし尽くし、皮膚すら焦がしながら。ねっとり濡れた鼻の粘膜がブツブツと音を立てる。息をすれば肺にまで炎がまわってしまいそうだ。歯牙を食いしばり全身で気力を振り絞ると、誰だろう、足元で仲間の骨がバリンっと砕けた。
目だけは燃やすまいと細く細く閉じた瞼の間から、井田先生の背中が見える。
〈お前も獣だ〉
強靭なカンガルーの太ももがあらんかぎりにみなぎり、火柱の中から一頭の炎獣が地上を走った。数人の兵士が気づいたが遅い。炎となった玲は跳躍し、井田先生の背中に襲いかかった。前のめりに倒れ込んだ井田先生にのしかかったまま、玲は燃え盛る口元から牙をむき、首筋に食らいついた。あっと言う間もなく玲の下敷きとなった井田先生は、炎の熱さを感じる以上に、情け容赦ない肉と骨の粉砕にのたうち、しばらく足をばたつかせていが、地面に広がる自身の血が頬に触れるのが見えた直後、阿鼻叫喚の顔を固めて死んでいった。しかし玲はそんなことおかまいなしに井田先生の首をむさぼり、肉を引きちぎり、ライオンの頑強な顎で脊椎を噛み砕いた。
すでに髪の毛から炎が移り、盛大な火の玉となった井田先生の頭部が体から離れ、コロンと転がった。耳ををくわえた玲は太い首を振り、遠くへ放り捨てた。そして自身も、燃える井田先生の体の上からゴロンとその身を反転させ、地面に仰向けになった。しばらく玲は炎の中で腹を上下に動かしていたが、そのうちピクリとも動かなくなった。
純一郎は二本足で立ち尽くし、そのすべてを見届けていた。しかし目の前で繰り広げられた凄惨な出来事を見逃すまいとするゴリラの誠実な瞳は、それだけで深く傷ついていた。
その間璃子は目を閉じて、瞼の裏に明るすぎるオレンジ色だけを映していた。
なにか思いを定めたかのように、純一郎が璃子の首の付け根をそっと抱きしめた。
すると璃子は信じられない思いで目をパチっと開き、何度もまばたききをした。
しかし悲しいかなそこには地獄絵図がまたたいた。璃子は再びぎゅっと目を閉じて、長い首でためらいがちに純一郎の体を抱きしめ、背中に頬を寄せた。
純一郎はなにも話さない。語りかける言葉が見つからないのだ。
しかし、璃子はそれでも健気だった。
「ねえ、じゅんじゅん。あなたシマウマゴリラなのに、今私にドキドキしてるでしょ」
璃子が背中を頬ですりすりしながら言った。
純一郎はこんな時にも純朴な愛嬌を失わない璃子にハート形の鼻をゆるめた。
「だって心臓がドクドクいってるもん」
「それは…」
璃子を抱きしめているからなのか、実や玲の死を、仲間たちの死を見てしまった衝撃からなのか分からない。
二の句を継げない純一郎に璃子は、
「みんな、禿鷹ヶ丘で待ってるんだよね」
背中でつぶやいた。
「ああ。いなくても俺が連れて行くさ」
その精霊たちを。彷徨える魂があるならば俺が連れて行こう。
純一郎は璃子にそう言いたかった。
「私、死んでも背高のっぽがいい」
「生まれ変わったら獣じゃないぞ」
「うん」
「俺がお前を守るよ」
「うん」
「結婚しよう」
「うそ!」
その瞬間、閃光がほとばしった。
純一郎の左肩から鮮血が溢れ出し、体毛の白い部分が赤く染まっていく。純一郎は腕を璃子から離し、兵士たちへと体を向け直した。数歩前に踏み出し、自分の体一つでは隠しようもないのに、両手を広げて璃子をその背に置いた。璃子は体を縮こめ、純一郎のあたたかい背中に頬を寄せた。
二つ目の閃光が純一郎の心臓を撃ち抜いた。同じ閃光で璃子は頭頂部を貫かれた。なおも兵士たちはレーザー銃で純一郎を一心不乱に掃射している。純一郎がもはや血だらけになり赤黒柄のゴリラと化してもなお、執拗に撃ち続けた。
「撃ち方、止め」
兵士たちがレーザー銃の銃口をあげた。
純一郎が血の海で仁王立ちしている。もはや両目も撃ち抜かれ黒く穴が空いているし、頭の上でリボンのように立っているはずのシマウマの両耳も弾き飛ばされていた。その奥で璃子は、幸い最初の一閃で死んでいた。純一郎の体を貫いてきた閃光がいくつかあったにせよ、そのほとんどが頑強な肉体によって食いとどめられた。白いモコモコの体は赤いまだら模様が背中や首にいくつか広がっているが、璃子はそのいずれの痛みをも感じることはなかった。
「殲滅、終了」
火柱の中でパチパチと骨が爆ぜる音が聞こえるほか風の音さえしない静かな夜に、最後の声が響いた。
一人の兵士が二頭の成獣に近づいてきた。
憤怒を浮かべた純一郎の立ち姿を冷血な目で舐め回すと、その勇ましさが癪に触り、脇腹を思いきり蹴り飛ばした。純一郎の重厚な死体は血の海にうつ伏せに倒れこんだ。そして兵士はしゃがみこみ、璃子の顔を覗きこんだ。地面につけた片方の頬の毛に真っ赤な血を吸いこませ、穏やかな死に顔をしている。兵士はそれが気に食わない。しかも見開いた瞳から大きな涙を浮かべているのを見つけてしまった。兵士はぺっと璃子の顔に唾を吐き、立ち上がり去って行った。
うつ伏せに倒れた純一郎とうずくまった璃子の体を、成獣たちの火柱がめらめらと照らしあげていた。全身を自らの血で真っ赤に染めた純一郎だったが、それでもたった一点、小さくその血を弾くように白い体毛が守られているところがあった。璃子が頬を寄せた、広い背中の心臓近くだ。璃子は図らずも純一郎の背中に優しい一滴を注いでいた。璃子のアルパカキリンの瞳は大きく、また涙の一滴も大きい。アルパカキリンの涙の油分が純一郎の背中で血を弾き、その水分が血を薄めてくれていた。
二頭が眠る血の海が地面のあちこちにその手や指を伸ばしていく。それが火柱に触れた。するとじゅっと小さなを音をたて、人間には確認できないほどの白い煙をあげた。それから何度も、おそるおそる、でもためらわず、二頭から溢れ出す血は成獣たちの火柱へと流れていき、蒸発していく。別の血の支流が実の血の海に合流しようとしている。炎が消えた玲にももうすぐ届きそうだ。
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