父たちの荒野

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父たちの荒野

 わたしがはじめて父を見たのは、一面に霜が下りた寒い冬の日だった。

 地面を覆った霜に冬の薄日が差し込み、水晶の粒を撒いたようにきらきらと光っていた。明るい灰色に曇った空、薄雲を通して光る白いオパールの玉のような太陽。何もかもが白い景色の中だけで、二本の後ろ足で立ち上がった父の姿だけが影のように黒かった。そびえたつようにおおきく、いかめしく、そして物悲しく、冬の日差しの中に立っていた。
 腹を裂かれて足元に転がった鹿のはらわたからは、まだ、白い湯気がたちのぼっていた。全身を覆う黒い毛はお互いにからまりあい、毛なみは深く分厚く、前足はあたたかい血に濡れていた。二対の脚が地面を踏みしめていた。冠のように頭に頂いた枝角は十六枝に分かれ、長い尾は大蛇のようにとぐろを巻き、逆光の中に消えた面差しの中にうす水色をした双眸だけが光ってみえた。
 わたしはあのとき小さな子どもで、男と女の違いも、獣と人の差も分かってはいなかった。けれどこのおそろしい、そして物悲しい生き物が、わたしたちと同じ種族に属するものだということだけは理解していた。羊と山羊を見間違えることがないように、ふくろうと鷹とを見間違うことがないように、たしかに彼はわたしに近しいものだった。わたしと同じ赤い血の流れる生き物だった。
 わたしは両手を精一杯に伸ばした。きっとわたしは、笑っていたのだろう。
「おとうさん!」 そう呼びかけると、父は、驚いたように目を見開いた。たてがみがゆっくりと逆立ち、金緑の目が大きく見開かれた。わたしを見た。わたしはその手に触れたかった。まだあたたかい血を滴らせている白い爪、毛深い前足。
 けれども父がわたしを見ていたのはほんの一瞬で、すぐに体をひるがえすと、長い尾の先で地面を強くたたいた。そして声のひとつもあげることはなく走り出し、冬枯れの森の奥へと消えてしまった。

 

 わたしは自分のことをわたしと呼ばなければいけないだろう、そうでなくてはフェアではないから。

 わたし自身が自分を一体何者だと考えていたとしても、あの頃のわたしはどこにでもいるような普通の娘に過ぎなかった。娘であり、女であり、つまりは人間だった。牙もなく爪もなく、毛皮もなければ尾もなかった。それが当たり前だと思わなければいけない。そう気づいたのは、いったい、幾つぐらいになったときだったのだろう。

 わたしは13歳。
 川岸にひろく広がった草原の中に寝っ転がって、空を見上げている。
 初夏の空は青く青く晴れ上がって千切れ雲は高く浮かび、視界を縁取ってふわふわとゆれる菅草の綿毛と同じ白をしている。
 冬にはあらかた水が引いて干潟になる広い河川のほとんどが、今の季節は満々と水に満たされ、川岸に茂った背の高い草原から川辺の深い葦原との境目をあいまいにしている。短い草の葉はちくちくと頬を刺し、よく日焼けした手足へ、頬へと、金色をした初夏の日差しが照らしている。
 冬の狐のような銀色の髪を草の間に広げていると、目の端に溜まった涙を吸いに、黄色い蝶々がひらひらと近づいてくる。わたしはぱっちりと目を開く。蝶がふわりと舞い上がり、空のかなたへとふわふわ舞い上がってゆく向こうで、ぱしゃん、とかすかな水音が聞こえた。
 わたしは腰にゆわえていた袋の中へと手を入れ、同時に、腕に巻き付けていた投石紐を片手で解いてだらりと肘まで垂らした。しげみの陰に身をかがめたまま目を凝らせば、高く茂った葦の間に長い足をした鷺が何匹も水の中を嘴で漁りながら歩いている。羽根を広げ膨らませ、嘴で丁寧に突きまわし、大きく身震いをして身づくろいをする。わたしは投石紐へとあらかじめ岸辺で拾っておいた石をつがえた。
 鷺たちが何かの気配に気づいた。
 一斉に羽ばたき飛び上がった。
 わたしは腰と膝のばねだけをつかって跳ね起きると、頭上に構えた投石紐を勢いよく振り回した。遠心力を受けた紐の片端が指から外れたのと同時に、手のひらほどもある石が百舌鳥の飛ぶような鋭さで放たれる。ばしっ、と音が聞こえるような勢いで、石は狙いたがわず一羽の鳥の頭を打ち砕いた。
 鷺の群れが悲鳴を上げて宙ではげしく羽ばたいた。一羽の鳥がそれこそ石のように落ちてゆく、けれど、それは白い羽をした鷺ではない。そのまま水の中へと落ちてゆく鳥の方へと歩いてゆく。ざぶざぶと水に踏み込めば、水面はすぐに膝の深さを超える。そのまま抜き手を切って泳いでゆけば、水の上でもがいているのは一羽の若い鷹だった。
 これは収穫だ。待っていた甲斐があった。最近、まだ巣立ったばかりらしい若鷹がこのあたりをえさ場にしている様子があると思って狙いをつけていたら、思った以上の大物がかかった。
 泥に足を取られそうになりながら水から上がってくると、「ハイラー?」と大きな呼び声が聞こえる。どうやら、鷺が騒いでいる様子に気付いてこちらを見に来たらしい。濡れた髪を絞って岸辺に上がってくると、籠を背負った灰色の髪の娘がひとり、もうすこし背が低いのがひとり。灰色の髪をしているのがアイ、背が低い方がニーラ。二人ともわたしと同じ年頃。二人の娘が呆れたようにこちらを見ていた。私は投石紐で足をくくった鷹をひっかけるようにして肩に担ぎ、土手に放り出していた籠を背負った。
「何やってたの、こんなとこで。またサボってたの?」
「サボってなんかないって」
 何を言ったって、煩いことを言われるに決まってる。ニーラがまた何かを言いかけたのを、アイが「まあまあ」と苦笑交じりになだめてくれる。
「ずいぶん立派な鷹だね、ハイラ。最近よくこのあたりにいると思ってたけど、狙ってたの?」
「まあね。まだ飛ぶのが下手な間に仕留めとかなきゃいけないと思ってたんだ」
 とはいえ、やるべき仕事をさぼっていたのは事実なので、褒めてくれというわけにもいかない。二人の背負った籠の中には野山で刈ってきたわらびの根、山芋の根がいっぱいだけれど、わたしの籠にはその半分も入っていない。「悪かったよ」とぼそぼそと答えると二人は顔を見合わせ、それから、声をあげて笑った。赤毛の方が「いいんだよ」とわたしの肩を叩く。
「これだけ立派な鷹があれば、大ばあ様たちも喜ぶだろうし」
「アイはハイラに甘いよ」
 もう一人がぶつぶつ言う。鷹の羽の尾羽、風切り羽は、いろいろなことの役に立つ。飾り物にすることもあるし、祭りで神酒を捧げるときの酒匙を作るのにも使うし、大きな村の殿様たちが使うような矢の羽根にすることもあるという。
 土手を昇れば、あとは村までは笹百合の揺れる野原が広がっている。わたしは背後を振り返り、村の周りに広がる景色を見渡した。
 ついさっきまで白鷲の群れていたあたりから向こうへと河は河口へと向かってはるかに広がり、冬には水が引いて一面がゆたかな干潟となる。露わになった川底を赤紫色に染めて撫子が咲き乱れるのは一瞬のこと、降りだした雪があたり一面を白くするのは間もなくのことだ。
 河を背にして山の方を仰げば、そこに広がるのは何十年もかけて整えられた豊かな里山。お互いに慎重に距離を開けるようにして枝を伸ばした栗の木、椎の木、胡桃の木は、自然に生えたものではなく、代々のばあ様たちが注意をして世話をしてきたもの。秋には冬中たっぷり食べられるぐらいにどっさりと木の実を落とし、夏にはすずしい木陰を作って旨い根をつけるうばゆりややまゆり、山芋やかたくりの群生を育てる。
 初夏には河をさかのぼってくる鱒の群れ。
 冬には群れを成して飛んでくる鴨や雁。
 春には冬中かけて根を太らせたわらび、ふきのとう、ぎょうじゃにんにく、他にもさまざまな青いもの。
 河の傍に深く積もった泥炭をざるで洗えば、金色をした琥珀が湧いて出る。黒イタチやテン、リスは毛皮を剥ぎ、鹿や熊は袋角や胆嚢も集めておく。この辺りには渡り鳥が多い、野ネズミも兎もたくさんいる。狩場を狙って鷹を取れば見事な羽根を切り取ることができる。
 豊かな村なのだろう、おそらく。
 けれどわたしの目線は、どうしても実り豊かな里の森、百合の花咲く川岸を通り越す。黒々と茂った古代の森、河の向こうに広がる荒野を見てしまう。
 あそこには、いる。
 わたしたちの父が、―――『男』がいる。
「ほら、ほら。帰ろう、ハイラ」
 アイが私の腕をゆすった。ようやくわたしは我に返る。
「帰らないと晩御飯に間に合わないよ。収穫が足りなかったら、その分は私のをわけたげるから」
「アイったら、本当にハイラに甘いんだから」
 もう一人が、そんな様子を見てぶつぶつ言う。
「ハイラみたいなのとつがいになったって、寝る時ぐらいにしか村に帰ってきやしないのに」
 アイはつんと鼻をそびやかしただけで、聞こえないふりをした。
 村に近づくと、丸い広場を囲んだ幾つもの建物の向こうから、煮炊きの煙がほそく上がっているのが見えた。村と外とを隔てる境木の下をくぐれば、広場にはおしゃべりをしながら糸を紡いでいる小母たち、子どもらをあやしてやりながら粥を煮ている祖母たちの姿。そして。
「……タイシャ!」
 火の回りをぐるりと囲んで座った女たちの中に、ひとり、織りのマントを羽織った女の姿がある。こちらを振り返って目を見開き、それから笑って大きく手を振る。頬に施された入れ墨、大きな耳飾りをしたわたしたちとは違う風情の衣装。
 地面を蹴り飛ばすような勢いで走ってゆき、立ち上がりかけたタイシャに飛びつこうとすると、「まって、まって」と笑って静止される。よく日焼けした顔に赤毛、目じりにできる笑い皺が優しい。
「あたしに大怪我させる気かい。猪みたいな娘だねえ」
 こんなに大きくなっちまって、とわたしの肩を、腰を、尻をたたく。わたしは自分よりもずっと長身だったはずのタイシャの目線が、わたしのもよりも低くなっていることに気付く。
「お久しぶりです、タイシャおばさま」
「ああ、久しぶりだね、アイ。それにニーラ。本当に大きくなったこと」
 地面を叩いて、横に座るように促す。見れば地面にはよくなめされたあざらしの革が広げられ、その上には様々な小間物が並べられていた。ビーズ、赤や黄色に染められた布、皮の小袋。それに何本もの針。
「ずいぶんと間を空けちまっただろ。その分、いいものをたっぷり仕入れてきた」
 タイシャはわたしたちの仲間ではなく、河をずっと下ったところにある集落に住んでいる。それがときどき船に帆をかけて河を昇ってきて、さまざまな珍しいものを持ってくる。わたしたちの村で採れたものと交換するために。
「おやハイラ、立派な鷹だ。あんたが獲ったのかい」
「ハイラったら、狩りばっかりどんどん得意になっちまってねえ」
 火の回りに座っていたオバの一人が笑いながら言う。交易品は虫に食われたり痛んだりしないように、いつもはひとまとめにして家の梁のところに吊るしてある。こちらのオバたちが革の上に積み上げるものは、クロテンやイタチ、白キツネのやわらかい毛皮や、黒く強い毛でおおわれた熊の毛皮、袋角や熊の胆、川岸で拾い集めた琥珀の玉。ひとまとめにして束ねてある鳥の尾羽から一枚を抜き取ると、「見事な羽根だ」とタイシャは目を細める。
「最近はいい羽根がよく売れる。東の方でいくさでもあるんだろうね」
「どうしていくさがあると羽根が売れるのさ?」
「さぁねえ。矢羽にしたり、被り物の飾りにしたり、色々らしいね。まあ、今回は奮発して金物をたくさん仕入れてきてよかったよ」
 鉄の針がなくては毛皮を縫うことはできないし、鍋がなくては煮炊きをすることもできない。だとしても、と嬉しそうに針を指先でつまみ上げていたアイが首をかしげる。
「でもタイシャ、何年もどうしたの。熊の胆だって山猫の脳石だって、蔵から溢れちまうとこだったんだから」
 オバたちとタイシャは顔を見合わせた。どうやら、そういう話をしていたところらしい。やがてタイシャは苦い顔をして、がりがりと後ろ頭を掻いた。
「来なかったわけじゃないよ。何回も船を出そうとはしたんだ。けどねえ」
 あたしらの方で、『男』がね、とタイシャは言う。
「老いぼれちまって、手当たり次第に女を襲って殺して回るようになっちまって、手におえないことになってたんだよ。何年も、一人も子どもが産まれなくってね――― 大変な思いをした」
「おやまあ。じゃあ、あんたのとこの誰が次の男になったの」
「あんたらは知らない娘だよ。目が青くてね、力が強くて、いっとう良い漕ぎ手だった。幼馴染は泣いてたよ。つがいやくそくをしていたのにって。あのこの娘に乳をやって、あたしの娘に乳をやってもらうはずだったのにって。けど今じゃその子も孕み腹をしててね、多少『稼いで』良い物のひとつも着せてやりたいと思ったもんでね」
 ずいぶんとやる気なはずだ。オバたちは笑って、「タイシャ、その子はあんたの何なの」と肘で脇腹をつつく。タイシャはまた照れた顔で頭を掻いた。
「いや、歳が離れてるのはわかってるが、あの子に赤んぼが産まれたらあたしを養母にしてくれないかって頼むつもりでね。だって、あたしの子どもらはとっくに大きくなっちまってるだろ? 働き者でいい子なんだ。あたらしいつがいが欲しいんだよ。あたしじゃもう乳の出もよかないだろうが、赤んぼにもあの子にもひもじい思いはさせないつもりさ」
 わたしは思わず、タイシャの胸元を見つめた。
 舟をこぐためによく引き締まって鍛えられた腕。刺繍を施した襟の袷、その下のふくらみはいささか垂れ気味になりながらもまだまだたっぷりと豊かだ。この乳を赤子に含ませる。乳を吸わせる。その赤子の母親とは、産み親と乳親の関係になる。その赤んぼが立派な娘になり、子を産みオバとなるまでの間、二人で育てることになる。
 タイシャが視線に気づいてこちらをみた。わたしは思わず目をそらした。オバたちの賑やかなおしゃべりのなかで、アイだけはそのことに気付いたらしい。針をより分けていた指を止めてハイラを見る。
「さあ、さあ、あたしのことはもう良いだろ。毛皮も琥珀も何年分もため込んでたんだろ? ありったけ出しておくれよ。でないと、とっておきの金物は見せてやれないよ」
「とっておきって何なの、タイシャ?」
 からかうような口調に、タイシャは、歌うように答えた。
「とっておきは、とっておきさ。見たいんだったら、あたしのことを口説き落としておくれよね」

 その日は歓迎のごちそうになった。普段のように栃の粉を練った粥を作るだけではなく、そこに川魚を干したものを磨り交ぜ、ほっくりと旨い百合の根を灰に埋めて焼き、穀粒で作った酒もふるまわれた。明日にはムスメ衆皆で水辺に出て鳥を取ってきてくれ、と賑やかにオバ衆は言い合った。なにせひさしぶりの客人だ。骨惜しみすることなくたっぷりともてなさなければ村の沽券にかかわる。
 噂話、歌、語り話。けれども皆が盛り上がるなかで、わたしは、一人だけタイシャの話を何度も反芻しつづけていた。
 死んだおとこの話、代わりに男になった娘の話。その娘を諦め、孕み腹をかかえてタイシャを待っているという娘の話。
 どこの村であっても、そこに人間が住んでいる限りはかならずある話だ。女がいるところには、かならず一人は男がいる。皆の父となるために。そうして男は老いぼれて弱くなると狂暴になり、自分に取って代わるものが現れることを恐れて、手当たり次第に女たちを殺し始める。けれどもきっと、そうなると、代わりの男が現れる。ムスメたち―――まだ子を産んだことのない若い女―――の中でもいちばん強いものが、ある日、己の父である男を殺し、代わりに男へと成り代わる。
 タイシャの言っていたムスメは、たぶん、男になってしまったというムスメと所帯を持つつもりだったんだろう。
 その娘はどうなったんだろう。
 今は何を思ってるんだろう。
「ハイラは本当に男が好きだよね」
 アイの口調がからかっている風でもないのに、すくわれる。私はアイと一緒に寝台にもぐりこみ、二人を覆うように掛け布を引っ張り上げる。細長いかたちをした小屋のあちこちから寝息が聞こえる。あるいはまだ寝付けない誰かの小さな声で何かを言いあい、小さく抑えた声でくすくすと笑う気配。わたしがそっと抑えた手の下で、アイの乳房がやわらかくつぶれる。まだ芯があって硬い乳は、まだ熟しきらない胡桃の実を連想させる。
 同じように、一枚の布で体を覆いあって横たわっている女たちは他にも何人もいた。こうやってお互いにむつみあい、抱き合って眠れば、冬はあたたかいし、夏はおたがいの汗ばんでひんやりとした肌で肌を冷やし合うこともできる。わたしはまだアイの胸が平たかったころから、ふくらみはじめた乳房にぽっちりと椎の実のように硬い芯ができはじめたときまで知っている。アイだってわたしの脚の間や脇の下がまだすべすべとした素肌だったころから、やわらかくたよりない毛皮に覆われ始めたころまで、全部を知っているだろう。
「何を考えていたの?」
「タイシャの言っていた、殺された父について。あと、あたらしく男になったっていう娘について」
「ふうん」
「どんな気持ちなんだろう、歳をとって女を殺さなきゃいけなくなったり、若い男に殺されたり。だって、そうやって殺したり殺されたりする相手もみんな、もともとは自分の子どもだったはずでしょう」
「何にも思ってないと思うけど。一度も乳をやったこともない子でしょ? 男なんて、何にも考えていないと思うけれど」
 アイはわたしの胸元に顔を摺り寄せ、足の間のやわらかい毛を撫でる。アイはわたしは髪も体毛もゆたかで、ふかふかとよい香りがするところが好きだという。脇の下に鼻をつっこむように顔をこすりつけられて、すこしくすぐったい。
「男が、自分の子どものこと見分けられるなんて思えない」
「でも、元は女だったんでしょ?」
「ああ、それは…… そうかも。でも、自分で産んだ子どもも一人もいないし、乳をあげた子もいないなんて、可哀想」
 でも、『男』もおんなじ風におもうとはかぎらないでしょう? とわたしはいらいらと言いかけた。でもそこで、わたしだって女なのだから、男の気持ちなんてわかるわけがないと思いだす。
「アイはほんとうに男が大好きなんだね。お話でも、男が出てくる話ばっかり聞きたがるもの」
 アイの声はやさしかった。わたしがこんな話をする相手はアイだけだったし、わたしのことを笑わないのもアイだけだった。アイはわたしのお母さんの乳を吸い、わたしはアイのお母さんの乳を吸って育った。わたしたちは姉妹だ。みんなきっと、わたしたちがお母さんたちのようになるだろう、なってほしいと思っていることだろう。
「アイはおぼえてる? わたしに毛皮を作ってくれたこと」
「うん、おぼえてるよ。草をいっぱい集めてきて、草のつるで縛り合わせてね。でも、すぐにバラバラになっちゃって」
 アイはくすくす笑う。わたしはとがめるようにアイの鼻先をかるく噛む。
 たわいのないままごとだった。あの子はみんなのばあちゃんになる、あの子は大人のおばさんになる。でもわたしは男になったので、みんなからワイワイ言われて遠くに追い出された。わたしは草をたばねた尻尾を引きずって川岸まで逃げていき、うずくまってそこで泣いた。でも、やがて迎えに来てくれたアイが手をひっぱって連れ戻してくれても、草でつくった皮は着たままだった。アイは途中で木の枝を折り、まるく輪にして、わたしの頭にのせてくれた。まるで角みたいに見えるように。
 わたしたちはみんな、年頃を迎えればムスメとなり、つがいを作って子をもちオバになり、さらには孫が生まれてバアさまと尊敬されるようになりもする。それ以外を考えるなんて、おかしい。そう思わないでくれるのは、アイだけだった。
「もうすぐハイラも大人になるんだよ。すぐそばで男が見られるでしょう」
 ごろごろ薪の上をころがりにいけるでしょ。アイはオバたちの言い方をまねて、わざと、冗談のように言う。わたしはムッとして、文句を言う代わりにアイの肩にかぷりと噛みつく。
「そういう意味で見たいわけじゃないよ」
「そう? わたしは見たいけどな。赤ちゃん、ほしいもの」
 ごろごろ、薪の上を転がる。
 子どもが欲しければみんなそうする。ごちそうを持って森の中に入っていって、何日か過ごしてもどってきて、しばらくすると腹がまるく膨れてくる。そこで何が起こるのかぐらいわたしだってわかっている。
 でもわたしが言いたいのは、そういうことじゃない。
 それに、わたしはとても近くで男を―――父を見たことがある。誰にも、アイにすら言ったことはないけれど。
 あれはわたしがまだちいさな子どものころで。
 あのころわたしは、夜ごとに遠く、近く、森の向こうから聞こえてくる笛のような鳴き声に、一晩中眠ることができなかった。
 あれは鹿の鳴き声だよ、とばあさまは言った。鹿は恋をするとああやって鳴いて恋人を呼ぶ。角があるのが姉鹿、角を持たないのが妹鹿。春になると姉鹿は高い声で鳴き、妹鹿を希う。
 違うんじゃないかしら、とわたしは思った。人間と違って、動物には牡と牝が一対になって恋をする。あれは牡と牝ではなく姉と妹なのだとお話の中ではいうけれど、実際は、姉と称されているのは牡の鹿であったり、妹と称されているのが牝の鹿であったりした。わたしは牡鹿が見たかった。伝説に出てくる角冠のように、人間の男に似ているという生き物が見てみたかった。
 そうしてわたしは、夜の森で、男を見た。
 まるで同じ人間だとは思われなかった。黒く毛深い毛皮、長い尾、そして枝角。後ろ足で立ち上がれば、歳経た木のように巨きく見えた。枝分かれした角の間に満月が光っていた。
 わたしがもし十分に育っていたのだったら、あの男は、わたしを『薪の上で転がる』ために来たのだと思ったかもしれない。けれどわたしはまだほんの子どもで、草の上に尻もちをつき、呆然とあの男を見上げていただけだった。わたしのことを金色の目で見降ろしていた男は、やがてゆっくりと前足を地面に降ろすと、踵を返して去っていった。恐ろしくて追いかけることができず、けれど、あの男が去ってゆくのが哀しくて、泣き喚いたことをおぼえている。
 おとうさん。
 
 お、とぉ、さん。
 お―――とぉ―――さぁ―――ん。
 
 あんな風に叫んだ気持ちは誰にも言えない。きっとわかってはもらえないから。
 おとうさんだなんて、お話にでてくるだけの言葉じゃないか。産みの親でもない、乳を与えられたこともない、そんなものをこいしく思ってどうする。いつ、いなくなってしまっても、いつ、別の男と入れ替わってしまっても、誰も気にしない、きっと男どもだって気にしない、そんなことを考えてどうするのか。その通り、わたしはおかしい。『おとうさん』が恋しいなんて、誰にも言えるはずがない。
 あの時の気持ちをどこへやればいいのか、わたしは未だに計りかねている。

 翌朝。
 まだびっしりと草に朝露が宿っているころに、わたしたちは村を出発する。
 小鹿を狩ろう。タイシャに腹いっぱい肉を食わせてやり、赤ん坊を包むためのやわらかい皮を剥いでやろう。それは取引を少しでも有利に進めるためでもあったし、純粋にタイシャを祝福したいという気持ちでもあった。どちらにしろまだ母親のそばを離れて間もないような小鹿の皮は、今回の取引のために準備していなかったものでもある。ちょうどいい。
「ハイラ、あんたが母鹿を見かけたというのはどっちなの」
 森に差し掛かったあたりで一度足を止めると、村を出た五人の中でも一番年上のオバが問いかけてくる。まさか聞かれると思わなかったので驚いた。目をぱちくりしているわたしをみて、「あんたが一番狩りが上手いから」と笑う。
「わたしが? どうして?」
「あんたは狩りにばっかり出ているでしょう。このあたりで一番遠くまで鳥を取りに行くのはあんたよ、ハイラ。まさか気づいてなかったの?」
 そのとおり、気づいてもいなかった。わたしが首を横に振ると、皆がどっと笑った。首から下げた角飾りがふれあって音を立てる。
 狩りにでるときには、首がついたままなめした毛皮を頭から被り、首には牙を連ねた飾りをかける。こうすると仲間が森に踏み込んだのだと思って獣が逃げ出さない、と言われている。でもその出で立ちは獣というよりは男に似ていて、わたしはほんの少しだけ、胸がときめくのを感じる。
 去年は冬がはやく来たせいか、今年は孕み鹿の数が普段よりも少なかった。子連れの妹鹿は警戒心が強いので、平原で捕まえることはむつかしい。罠をかけるのだったら山のほうだ。
 道すがら、美味い草の芽はむしって食べ、蜜の入った花は萼ごとちぎって口に運ぶ。密に茂った木々の間には霧がうす青くただよって、梢に茂った針のような葉からは露が滴った。
「ハイラ、あんたはまだタイシャみたいになる気はないのかい?」
「何が?」
「あの子はあんたのこと待ってるだろ。別にアイが産んだっていいけれど、あんたのほうが背丈もあるし、尻も胸も育ってるじゃないか。あんたが産んであげた方が早いと思うんだけどねえ」
 自分はもう二人も子供を産んでいるからって、勝手なことを言う。「まだその気はないよ」と低い声で答えると、わたしは足を速めた。おやおや、と呆れ笑いをする気配がする。振り返ってやりたいとも思わない。「でもねえ」と別の誰かがつぶやく。
「最近、あの男の様子がおかしいって言うんだけど、あんたたちも聞いてる?」
「ああ、ニーラが山へ行ったっていう話」
 わたしの知らない話だった。聞かないでもいいと思っているのに、勝手に耳がひそめた声でのおしゃべりを聞いてしまう。膝まで茂った笹が音を立てるたびに、露のしずくがこぼれおちる。
「一晩も二晩も待っていても、誰もあらわれなかったんだって」
「それは、ニーラがまだ子どもだからじゃなくて?」
「もう十分大人でしょう、ニーラは。それにあたしのときは何にもしなくたって『寝台』まで付いてきたんだから」
 寝台、と呼ばれているのは村はずれにある平べったい岩のことだ。子どもが欲しくなった女は、栗のかゆから作った酒なり、鹿の肝なり、ともかくおいしいものを持って岩のところへ行き、男を待つ。もう何十年も前からそう決まっているので、岩へ向かう道は何十人、何百人もの女に踏み分けられた小道になっている。だとしても、ニーラのもとに男が現れなかったというのは奇妙な話だ。あの子は若くて肉付きもよくて、いかにも食べごろといった風をしているのに。
 もっとくわしく、と聞こうと思った時、わたしは足を止めた。
 鹿の足跡だ。屈みこんで指で大きさを計る。これは妹鹿のもの。もうすこし詳しく周りをさがすと、小鹿の足跡も見つかる。わたしは立ち上がり、皆へと呼び掛けた。
「見つけた。ここに、親子鹿がいる」
 わたしたちの狩りは、基本は罠での狩りだ。ちいさな獲物には弓矢を用いることもあるけれど、大きな獲物を取るにはその道筋に罠をかける。わたしたちはお互いに顔を見合わせてうなずき合い、笹薮の間で別れた。ここからそれぞれ罠を掛け、山を下りた後でお互いに場所を教え合うことになる。わたしはゆっくりと鹿の痕跡を追いながら、ちょうどよい太さの笹竹を選び出し、たわめて輪にしたものに縄を掛けた。鹿猟をするのだったらくくり罠が良い。この輪の中に鹿が足を踏み入れると笹竹の作った輪が外れ、冷水に何度もさらして編んだ頑丈な藤蔓の縄が絞まって獲物の脚を捉える。これが熊相手だったら落とし罠、丸太を何本も使った頑丈な罠を用いることになる。こちらは数人がかりの大仕事になるが、小鹿相手だったらそこまで大げさなことをする必要もないだろう。
 鹿の痕跡を追うと、次第に足跡が谷川へと下る方向へと続いてゆく。所々で罠を掛けながら、慎重に斜面を下ってゆく。聞こえるのは鳥の鳴き声と木々のざわめきだけになる。―――と。
 水際で、何かが動いた。
 わたしはとっさに笹藪の中に身を伏せた。斜面の下を見れば、一番下には流れる谷川。深緑色に澄んだ細いけれど深い淵。
 その傍らに何かがいる。
 首をかがめて水をのんでいる。
 わたしは腰に下げた投石紐を抜き、同時に、腰紐にかけていた小袋に手を差し入れた。音をたてないように毛皮を内側に縫い合わせた袋の中には、いつも、ちょうどいい大きさの石がいくつか入れてある。けれど、あのおおきさの鹿を仕留められるだろうか? 木漏れ日を照り返してまだらに光る、あんなうつくしい毛皮はみたことがない。
 けれどそのとき、その生き物がふいに首をあげた。わたしを見た。
 鹿ではなかった。
 滑らかな、金色の毛皮をしていた。尾から背中、首まで続くなだらかな線が優美だった。木漏れ日を鮮やかにはじく毛並みは長く、長い爪を備えた四本の足を覆うぐらいに伸びて、頸から頭のあたりではとりわけ長くなる。角はまださほど長くはない。四つに枝分かれしているだが、根元には十分な太さがあり、何より、皮をむいた榛の木のように白い色をしている。
 獣で、男だった。それも、見知らぬ男だった。わたしの父ではない。ずっと若く、また、繊細で優美だ。笹薮にうずくまったまま呆然としているわたしを見上げる、そのふたつの瞳。ぶどうの粒のように丸く、涙をたたえたように甘く潤んだ、そう、おんなのようなひとみ。
 夢の中ですら、見たことがないぐらいにうつくしいおとこ。 
 その男は哀しげなひとみでわたしを見つめた。みすぼらしい毛皮をかぶった自分に、ふいに、はげしい羞恥をおぼえる。やがてこらえられなくなったわたしはもぎはなすように目を背けた。そのまま両手両足を使って斜面をがむしゃらに駆け上り、逃げ去ってゆくわたしを、見知らぬおとこはいつまでもみつめていた。

 

 思い出した話がある。

 わたしがまだ小さかったころ、夏至の祭りで大バアさまの家に集まり、昔語りを聞かされたことがあった。大ばあさまは途方も知れないぐらいに年老いていて、しわくちゃになった小さい体は切り伏せ刺繍を施した衣で何重にも包まれ、首にも頭にも幾重にもかけた玉飾りの重さでくしゃりとつぶれてしまいそうだった。けれども大バアさまの声はまだ村のどのバアさま衆よりもはっきりとしていて、物語る声は永遠に途切れることがないかのようでもあった。
 あの時、大バアさまの家の前に広げられていたのは、いくつもの物語を紋様として織り込んだ古く分厚い織物だった。びっしりと編みこまれた唐草模様や連続模様のひとつひとつに物語があった。鳥や木々や太陽、魚や嵐や波、さまざまな姿をした神々や人間たち。何代も、何代もかけて女たちがそこに織り込んだ、はるか古代から今へと続く物語たち。
「おぼえておきなさい。これは愛の物語だ。人間たちはかつて、愛しあうことにおいて完全だった。どの人間も皆鳥のように美しく、愛しあうときにはつがいの鶴や白鳥が己に似たものを選ぶように、己と同じぐらいに優れたものと愛しあった。そうして愛するものとのあいだに子どもが生まれれば、一対の烏や鷹のように慈しんでそれを育てた。私たちが完全だったころ、私たちは鳥のように愛しあっていた」
「けれど、あるとき人間たちは、大枝角の鹿がさかりを迎えているのを見てこう言った。『さかりの時には誰よりも強くなり牝を取り合って殺し合う、あんな風につがいを得ることができればどれだけ誇らしいだろう』 
 またある時には、子熊を抱えた母熊を見てこう言った。『母となれば誰の助けも要らぬほど強くなり、たった一人でも子供を産めるようになれば、どんなに心強いだろう』
 また三度目の時には、獅子という生き物の群れを見てこう言った。『たった一匹の牡が、おおくの逞しい牝すべてによって愛されている。あんな風になればどれだけ嬉しいだろう』と」
「そこで人間たちは、己らの中からまだ愛を知らぬ若いものを選び出し、お互いに争い合わせた。そうして最後に一人、最も強いものが残ると喜んで、大角鹿の角で作った冠をかぶせ、熊の毛皮を着せ、獅子のたてがみをその上から着せ付けて、『この者をわたしたちの男としよう』と言い合った。角の冠をかぶせられ、獅子と熊の毛皮とを着せられたものはひどく嘆き、神に向かってこう呼びかけた」
「神様、神様。わたしはこの者たちによって、獣とさせられようとしています。この者たちは、男というのは獣のようなものだといいます。ならばいっそ私を男に、そして獣にしてください。他のものすべてを女にしてください。私無しに愛しあうことはできず、子をなすこともできないようにしてください」
「神はたちどころに願いをかなえたので、獅子の毛皮、熊の毛皮は体に張り付き、角の冠は頭に張り付いて、その若者はたちまち獣の姿となり、荒野へと駆け去っていった。神は残された者たちにこう言った。お前たちが荒野に放逐したものが『男』である。そしてお前たちは皆、『女』となった。『女』は『女』だけではお互いに愛しあうことも子をなすこともできない。お前たちはふたたび、若者たちの中でもっともすぐれたものに毛皮を着せ、角の冠をかぶせ、繰り返し荒野へと放逐して『男』とするだろう。それがお前たちの望みだったのだから。」
「……こうして私たちは、鳥のように互いを愛しあうことができなくなり、代わりに、愛しあうために男を必要とするようになったのだよ」
 大ばあ様の話によれば、角の冠を戴いた若者はその後も神々の間をさまよい続け、最後は、とうとう海の彼方にある神々の元まで行ったのだそうだ。角冠の話は大バアさまの昔語りの中でもわき筋で、たいていの子どもたちは可愛らしいおてんばのカワウソ娘の話を大バアさまにねだったし、もう少し年かさの娘たちは美しい浮かれ女の鷹女とその恋人たちの物語を、大人の女たちは角冠を追放した後にはじめて子を成したアイラ刀自とじが、勇敢な娘たちと共におこなったさまざまな冒険や試練の話を聞きたがった。人間が鳥のように愛しあうことが出来た時代を終わらせてしまった憐れな角冠についての話は、さして、人の興味をひくものではないようだった。
「ハイラ、あんたは変わってるね。男の話なんて聞いてどうするの」
 ちょっと年上の娘たちは、そう言って私のことをからかった。
「かわいそうな角冠つのかんむりを荒野に追い出して、そのせいでアイラ刀自とじがあちこちの神様のところへ行って乳母子を作って、鷹娘は真実の恋人を見つけるための恋を繰り返すんでしょ。角冠がいなくなった後が本番じゃない」
「でも、わたしは、角冠の話が聞きたいんだもん!」
 わたしはむきになって言い返した。それが本心だったのだ。わたしは角冠が何を考えて、どんな気持ちで、どういう風に生きたのかを知りたかった。この世で一番はじめの男。誰よりも強くすぐれていたため、毛皮を着せられ角をかぶせられ、荒野へと追放された最初の『男』。
 たしかに、男が何を考えているのかなんて、考えない方が普通なのかもしれない。彼らはけっきょくよそ者で、子どもがほしい女が『薪の山の上をゴロゴロしに行く』ときぐらいしか関わり合いを持つことのない存在だ。もしわたしの村に誰も男がいないのだったら、みんなちょっとは違う考え方をしたかもしれない。けれどもわたしの村の周りには豊かな森があり、十六枝に分かれた角を持つ父が夜ごと森の中を歩き回っている。世が平穏で豊かであるかぎり、誰にとっても男のことなどよそ事だ。それよりも一緒に娘を育て、孫を見守り、果ては生涯を共にするのは誰なのか。そのためにはだれとつがいを持ち、将来『この子に乳を吸わせてください』と頼むんだったら誰がいいのか、ということのほうが、よっぽど大切な関心事なのだった。

 ハイラは一体どうしたの?
 わからない。鹿の罠を仕掛けにいったっきり、あんな調子なのよ。
 何か悪いものでも見たのかねえ。でも、あの子もそろそろ誰かに乳を含ませようって年頃でしょう。いろいろと不安定なのよ。
「―――ハイラ」
 百合の花咲く村はずれで片腕を枕に横になり、誰の話も聞きたくない、顔もみたくない。そんなわたしに話しかけようとするやつなんて、アイしかいない。膝をたたんでしゃがみ込み、わたしと背中合わせになるように地面に腰を下ろす。そうすると背の高い百合がすっかり周りを囲んでしまい、わたしたちの姿を隠してくれる。
「何か見たの? タイシャも心配していたよ」
「……男」
 アイが身じろぎをすると、首にかけた数珠玉の飾りが、しゃら、と音を立てる。予想もしない答えだったのだろう。
「あの男に会ったの?」
 ちがう。あれは、わたしたちの父ではなかった。
「ううん、しらないおとこだった」
 アイも驚いたはずだ。このあたりはもうずっと、たったひとりの男の縄張りだ。わたしたちはみんな同じ男のもとへゆき、子どもを作ってきた。何十年も、ずっと。
「はぐれ者? でも、そんな話、誰も」
「たぶんわたし以外、まだ誰も会ったことがないんだと思う。金色の毛並みで、黒い目をしていて―――とてもきれいだった。まだ若くて、榛の木みたいにほっそりしていて」
 あのおとこの目に、わたしはどう見えた? みすぼらしい毛皮をかぶって、牙の首飾り、脚に括り付けた樹皮の靴。角もなく尾もなく毛皮もない。そう思うと恥ずかしさで胸の中のどこかが引き絞られるように苦しくなる。どうして逃げ帰ってしまったのだろう? せめて真っすぐ立って、向き合うことができなかったのだろう。この銀の髪で。緑の目で。
 アイはしばらく考え込んでいた様子だった。やがて開く、口は重たい。
「……たぶん、私たちの男が、歳を取ったせいだよ」
 わたしは驚き、身をよじって振り返る。アイの表情は硬い。
「歳を?」
「だってもう、何十年もこのあたりはひとりの男のものだったでしょ。もういい加減、歳をとって弱くなってきたんだと思う。だからどこかから流れてきたはぐれものが、村の近くに住み着いた。あの男が縄張りを守り切れなくなったことに気付いたから」
 おとうさん、とわたしは口の中でつぶやいた。そして自分でぎょっとした。この言葉を使うのはいつぶりだっただろう? おとうさん、が、歳を取った? あの大きく、強い、おとうさんが? けれどアイの考えていたことは違うようだった。急に手を握り締められてわたしはぎょっとする。
「ねえハイラ、わたしたち、子どもを作るのはしばらくやめにしよう? 危ないよ」
「危ない? どうして。だって、わたしたちのおとうさんだよ?」
 アイは眉をひそめる。聞きなれない言葉が耳にひっかかったのだろう。けれども、それよりも、話を続ける方が大切だと思ったらしい。
「忘れたの? タイシャが言ってたでしょ。歳をとった男は手当たり次第に女を殺し始めるって。だってニーラが何度森に行ったって、男に会えなかったって言ってたでしょ」
 もう何十年も、そんなことは一度も起こらなかったはずだ。子どもが欲しいと望んだ女が、何かそれぞれ捧げものになるようなものをかかえて森へ行く。寝台と呼ばれる平たい石の上に横たわる。そうすると森から現れた男があの黒々した深い毛皮で女の上を覆う。そうして女は『薪の上をごろごろと転がりまわる』。そうやってみんな暮らしてきた。この村の暮らしは続いてきた。
 でも、とわたしは唐突に思う。たしかにわたしたちより下の世代だと、急に子どもの数が減っている。わたしと同じぐらいの年頃の娘は何人もいるけれど、母親の乳房にしがみついていることしかできない年頃の子どもはいない。まだ母親たちの乳に甘えている子どもたちだって、乳を握ったもう片方の手にあけびの実なり二つに割った胡桃の実なりを握りしゃぶっているような年頃だ。
 わたしたちのおとうさんは、もう、子どもを作るような歳ではなくなってきている?
 わたしは草の上に半身を起こす。押しつぶされていた百合の茎が元通りに立ち上がって揺れる。
「じゃあ、流れ者がやってきたっていうのは、わたしたちのおとうさんを倒して代わりになるためだっていうの?」
「どうなんだろう……」
 アイは髪のひとふさを指に巻き付ける。ふたたび解く。なにかを深く考え込んでいるときのアイの癖だった。
「そもそも、流れ者っていうのが不思議だよね。どこから来たんだろう? 見たことがない男だったんでしょう」
 わたしはうなずく。見たことがない、あの滑らかな金色の被毛。日に照らされた場所は秋の日差しにゆれる草の穂のような真鍮色で、顎の下や腹の下で陰になったところは琥珀のように赤みがかかって深い色をしていた。
「ばあさまのお話だと、たくさんの女が一緒に暮らしているところだと、娘のうち誰かひとりは男に『成って』しまうんだよね」
「うん。なりたいとか、なりたくないとかじゃなくって」
「戦をはじめたり、神様が大切にしている鹿や熊を打ち殺したり。あれはきっと、言葉通りの意味じゃないんだよ。誰よりも大きくて強い、若くて未婚の娘。あんまりに強くて戦が好きだったり、狩りが上手すぎたり……それが男になってしまう条件なんじゃないかな」
 いつもアイには驚かされる。いつだって、わたしには予想もできないようなことを考えてくれる。
 口元に髪をひとふさ押し当てていたアイが、ふと、上目遣いにわたしをみる。小さく笑みを漏らす。どこかさみしそうな笑みにわたしはひどく面食らう。
「だったら、ハイラも男になっちゃうかもしれないね」
「わたしが?」
「だって、ハイラは誰より強いじゃない。背が高くて、足が速くて、狩りが好きで。ハイラみたいに遠くまで、確実に石を投げられるひとは誰もいないよ」
 お願いだから、そうならないでほしい、という意味なのはすぐに分かった。
 毛むくじゃらの、とがった枝角と長い尻尾の生えた、男という生き物。村のまわりを遠回りにうろつきまわり、月が昇る夜には悲し気に鳴き、森の中をさまよいつづける。アイには、男というのはそういう生き物にしか思えないんだろう。そうしてアイは何も間違っていない。大切なひとの腕に抱かせてあげるための子が産みたい。それ以外のどんな理由でも、男というものに興味を持つ必要はない。
 でもわたしにとっては、そうではなかった。
「ハイラ」
 アイが腕を伸ばす。二本の腕を私の首に絡め、長い髪に顔を埋め、頬に頬をこすりつける。わたしの耳元で深く息を吸う。
「私、ハイラのための赤ちゃんを産んであげたい」
 わたしもだよ、と返すのが正しかったのは分かっていた。
 でも。
 わたしはアイの背中にそっと腕をまわす。わたしよりも一回りも華奢な体を、そうっと抱き寄せる。
「うん、ありがとう、アイ。わたしもアイのこと、大好き」
 でもわたしの『だいすき』はきっと、アイの『すき』とは違う。
 それどころか、他のとも違っている。そのことがわたしには、痛くて苦しい。

 わたしたちのおとうさんは、一体いつから『おとうさん』でいるんだろう?
 少なくともわたしの母さんも、それよりも年上のオバたちも、みんな、おなじおとうさんと一緒に岩の上に横になったことがある。おとうさんは、わたしたちの男は、とても古くて年を取っているというのは確かなことだった。鹿の角が歳を重ねるごとに枝の数を増やしてゆくように、男たちが頭に頂いた冠角も年を経るごとに枝の数を増やしてゆく。
 タイシャはこともなげに言った。あたしたちの男は歳を取りすぎた。でも、タイシャと、タイシャの母親は違う男の元に生まれているはず。タイシャのおとうさんはわたしのおとうさんよりもずっと若く死んだのだ。それも自分の娘に(あるいは息子に?)殺されて。惜しまれもせず、あっさりと。
 それが男として生きるということだ。
 祖母たち、母親たち、娘たちの暮らす輪の外をひとりぼっちでうろうろとさまよいつづけて、最後は老いぼれて何の役にも立たなくなることの恐怖から娘たちを殺しはじめ、そのせいで、最後は狩り殺されることになる。さもなくば他の獣に殺されて死ぬか、崖から落ちるとか、大水に飲まれるとか、そんな事故で死んでしまうか。あるいは自らとぼとぼと何処とも知れず去って行き、二度と帰ってこないとか?
 男の考えてることなんて分かるわけないじゃない、とアイは言う。アイだけじゃなくて、ニーラも、タイシャも、同じことを言うだろう。向こうだって女の事なんて考えてもいないよ。自分の子どもにおっぱいをあげたこともないんだから、あれは自分の子ども、これも自分の子ども、だなんて分かるわけがないだろうし、そもそも考えたいだなんて思うような生き物じゃない。……本当に?
 歳を取った樫の木のように、大岩のように大きく見えた、わたしのおとうさん。逆光の中で陰になった顔。どんな目をしていたかなんてわからなかった。それこそ獣のように、どんな言葉も通じるとは思えなかった。
 でも、あの日見た美しい生き物は、違う。
 金色の毛並みと白い角、うつくしい目をした若い男。あの男を、わたしたちとはまるで別の存在、ほとんど人間ではないような存在だと思うことはできなかった。わたしを怯えさせたあの優美さと哀しさ。あの男はどこから来たんだろう? なんでわたしたちの村の傍にとどまっているのだろう。あの日どうして、わたしのことを見つめたりしたんだろう。まるでわたしがあの男の姿に目を奪われたのと同じであるかのように。

 わたしはあの男の、あのひとのことを、知りたかった。
 まるで恋のように。

 ―――夜中に村を出るのは、ほんの小さな子どものころを別にすれば、これが初めてだった。
 首には硝子や琥珀の玉を連ねた飾りを掛け、腕には貝の腕輪、触れ合うたびに涼やかな音を立てる腕輪を帯びて、赤い花をつぶして五本の指を赤く彩った。竹筒の水筒には栃の実のかゆに麹とつぶした木の実とを混ぜて作った酒が入っていた。
 夕暮れに紛れるようにして花嫁の装いをするわたしを、もし見かけたものがいたとしても気付かぬふりをしてくれたはずだ。それが習わしというものだ。皆、岩のうえに横たわりにゆく娘を見かけたときは、何もみなかったような素振りをする。万が一それで子どもが授からなかったらその娘の恥になる。
 だからこそわたしは、誰にも不審に思われずに村を抜け出すことができるわけなのだけれど。
 昼間にはそこにあることすら気付くことができなかった月見草の花が、空に向かって白く咲いて揺れていた。もう充分に村から離れたはずだ。草ぶきの屋根を連ねた建物を丘の上から見下ろすことができた。わたしはひとつため息をつくと数珠玉の首飾りや貝の腕飾りをすべて外して袋に入れ、大きな洞のあるブナの木に登る。中に隠してあったのは狩りの時にはおるための頭と尾をつけたままの毛皮、それに、牙を連ねた首飾りだった。わたしはブナの枝を切り取って丸く曲げる。そうしてつくった枝の冠をかぶると、夜の森めがけて走り出した。
 会える確信など何処にもなかった。
 それでも、女たちの群れに混じっておとなしく眠っていることなど、とてもできるわけがなかった。
 月はまぶしいほどに明るく、木々の葉は月光を照り返して銀のように光った。浅瀬の水を蹴立てて走れば、水晶を踏み割ったようにきらきらとしぶきが散った。木々の間を駆け抜け、岩から岩へと飛び、笹の茂る斜面を一息に滑り降りた。ふくろうの鳴き声が聞こえた。両手両足を使って大岩の上によじ登った。とうとう岩の上の平たいところにたどり着いたとき、唐突にすべての気力が切れた。わたしは呆然と、眼下はるかに広がる景色を見渡した。
 今、遠い山から流れ出して海へと注ぐ広い河は、満々と水をたたえてゆるやかに流れている。秋から冬にかけて水量が減ってゆき、川床のほとんどが露わになってから雪が降るまでの短い間、この河は咲き乱れる色とりどりの花が作り出す長く色鮮やかな帯に変わる。その時分にはわたしたちは皆、老人も子どもも皆総出でブナの実や椎の実、コナラの実、森中にどっさりと実った木の実を拾うのに忙しい。拾った実はよく干して屋根裏に上げておけば、そのまま次の一年の主食となる。茸も木の実も糸でつないで軒下に干して乾かしておき、山芋や里芋、海老芋の類も掘り上げて村の傍へ生けておく。川床に途切れ途切れに残った河に集める水鳥の類などは、夜に眠っているところだったら手づかみでもいくらでも獲ることができるほどだった。
 この土地は豊かだ。哀しいぐらいに。
 子を産んで、可愛い女にその子の乳を乞うてはつがいになり、愛しい女の産んだ子には同じように乳をやり、お互いによりそい、助け合って生きてゆく。そうやって世々限りなく続くように定められた生き方を選べばいくらでも幸せになれようものが、どうして、わたしは満足することができない。そしてどうして、男たちだけが、孤独に野山を彷徨わねばならない。わたしの故郷は朝な夕な、臼で木の実を突く音が聞こえる村だ。どうしてそのあたたかな輪の中にとどまることができぬのだ。
 わたしは、哀しさに鳴いた。どうしてそんな声が出せたものかは分からない。ただ仰向いて空を向き、高く低く、また遠く近く、鳴き、吼えた。この声はいつか聞いたことがあると、心のどこかで訝しんだ。
 これは女の喉から出る声ではない。
 これは、男のような声、なのではないだろうか?
 そうして、わたしが応えに気付いたのもまた、唐突だった。
 誰かがわたしのように、高く遠く、澄んだ声で、鳴いていた。
 わたしはひどく驚き、それから、痛いぐらいに奥歯をかみしめた。岩の端ぎりぎりに両手をついて、四つん這いになるようにして身を乗り出した。再び鳴く。応えが返る。わたしは確信する。これはわたしに答える声。
 そして、深く茂った木々の間から、おずおずと歩み出てくる何者かがある。
 月光を浴びて、金色の背中が白金のようになる。前へと曲がった、まだ二つに枝分かれしているだけの角。こちらをそっと見上げる、うつくしい男。
 わたしは泣きたいような気持ちになって、もう一度だけ吼えた。その男もまた、同じように鳴いて返した。
 わたしは岩の上から飛び降りた。草を掻き分け、そちらへと駆けて行っても、男は逃げようとはしなかった。すぐそばで見れば、わたしのおとうさんの半分もないような男だった。わたしは手を伸ばし、すべらかなたてがみに触れようとした。男は首を前へと倒して、わたしの顔へと顔を近づけてくれた。
 四本の脚。そこに五本づつ備わった爪。背中から首にかけての毛並みには、近くでみなければわからない、野ばらの花のようなかたちをしたごく薄い斑が散っていた。わたしは彼の頬に頬を摺り寄せ、彼はわたしの頬に濡れた鼻づらをおしつけた。わたしは手を伸ばし、すべすべとした白い角に触れた。
「この前は、逃げてしまってごめん。あんまりあなたがきれいだったから、怖くって」
 彼はわたしを見下ろし、ゆっくりと目をまたたいた。かまわない、というように、小さく喉を鳴らした。
「わたしはハイラ。この、川岸の村に住んでる。あなたは? あなたは一体、どこから来たの」
 彼はかるく首を振ると、ゆっくりと後ずさった。何をするのだろう、と思っていると、彼は慎重に首を低くして、角の先で地面をひっかいた。そこに描かれた複雑な線の意味することを、わたしは理解しなかった。わたしが困惑顔をしていることに気付いたのだろう。彼は何度か首を横にふると、自分が一度書いた線を前足で踏みにじるようにして消してしまった。
「とても遠くから来たの?」
 わたしは彼の首に腕を回した。彼が一体何をしようとしたのかは分からない。ただ、一瞬のはげしい苛立ちと、それを上回る哀しみを感じただけ。
 金色の毛皮はすべらかでまた深く、指通りはなめらかだった。そうしてわたしの指先は、何か、毛並みの中にうずもれていた硬い物に触れる。何か滑らかに丸く磨かれた、硬く小さな粒のようなもの。わたしは彼の顔を見上げるけれど、むしろ、彼はわたしの指へとそれを押し付けてきた。どうやら、紐に通して首にかけてあるらしい。結び目は簡単に見つかった。解いてみれば、それは、紐を通せるように穴をあけた小さな緑の石だった。
 表面はなめらかに研磨されている。楕円をもう少し長くした玉の、その尾を丸く曲げたような不思議な形をしていた。月の光に透かしてみれば、透き通るようにうつくしい緑色をしていた。見たことのない石だったし、見たことのない形の玉だった。
「……本当に、とても、とても遠くから、来たんだね」
 わたしの言葉に、彼は頭を垂れた。黒くつぶらな目から、大粒の涙がひとつぶ落ちた。一粒、もう一粒。こぼれる涙がおもわず差し出した手のひらを濡らした。
「ああ、ごめんね。泣かないで。あなたに泣かれたら、わたし、どうしたらいいか分からない。あなたに、どうしてあげたらいいか……」
 胸が苦しく、そして甘く、目の前のこの気の毒な男が、いとしくて仕方がなかった。
 にんげんの、男と女が出会った時、何をするものなのかは知っている。けれどもわたしのこの男への気持ちは、普通の男と女の間にあるようなものとは、きっと、違っていた。女は平たい岩の上で重たい毛皮に押しつぶされ、男はその後二度とその女のことも己の為したことの結果も知ることはない。それが男と女の間にあることだとしたら、わたしは、この男にとっての女になりたくはない。
 どうしたらいいのかわからなくて、わたしは、首に結び付けていた牙の首飾りの紐をほどいた。緑の玉の首飾りのかわりに、金色の首に結わえ付ける。わたしは緑の玉を貫いた紐の両端を、首の後ろで結んだ。
「これでわたしたち、おんなじだよ。ね?」
 彼はわたしを見下ろした。そうして、その重みを確かめようとするように、そっと首を横にゆすった。わたしは手を伸ばして小さな金色の頭に触れると、濡れた鼻にわたしの鼻を押し付けた。
 
 

 名残惜しくはあったけれど、わたしは村に戻らなければいけない。朝が東の空をうす白くし、あたりに靄が立ち込めるころ、わたしたちはお別れをした。最後に彼は角を使って木に模様を刻み付けて見せた。脇腹を押すように促されてわたしが同じ模様を描くと、彼は満足気に前足で地を掻いてみせた。だからこれが、もう一度会うための合図なのだということがわかった。
 半ば夢を見ているような気持ちのまま、わたしは木のうろから数珠玉の首飾りや貝の腕輪を取り出し、毛皮の外套を代わりにそこに押し込んだ。首に巻いた緑の玉の飾りだけは服の下に隠した。これだけは肌身離さず身につけておきたかったのだ。
 けれど、村に近づくにしたがって、様子がおかしいことがわかってきた。
 松明の火がいくつも、村を囲む草原のなかに灯っている。誰かを探す声が聞こえる。風の中に混ざる燻るような臭い。初めは歩いていたものが、次第に足が速まり、わたしは、気づけば一心に松明の灯る方へと走り出していた。わたしのことに一番に気付いたのは誰だろう。「ハイラ!」と悲鳴のように呼ぶ声がする。そのままへたへたと座り込んでしまいそうになるのは、わたしのお母さんと同じ年頃のオバのうちのひとりだった。あわてて腕を伸ばし、抱えるようにして立ち上がらせる。「どうしたの」と問いかけると、「ニーラが」と声を絞り出す。
「ニーラが、男に殺された」
 わたしの視界が一瞬、真っ白になる。
 ニーラのことに最初に気付いたのは、今朝はやくに罠の見回りに行った女だったらしい。カラスの群れがけたたましく鳴き騒いでいるから、初めは、罠にかかった鹿が暴れすぎて首でも折ったのかと思ったそうだ。死体にカラスがたかっているのだと。
 けれども彼女が見つけたのは、引きずり出されたはらわたが木の枝に絡まって千切れたもの。それにたかるカラスの群れ。食いちぎられた腕に嵌ったままの貝の腕輪と、引きちぎられて散らばった硝子や琥珀の数珠玉だった。
 村の中にまで持ち込むことはできなかった。穢れを呼び込んでしまう。けれども、精一杯かき集めてきたのだろうニーラの体は、もう、半ば人間の形をしてはいなかった。顔はえぐりとられて赤黒い穴のようになっていたから、最後にニーラがどんな顔をしたのか、苦痛に叫んだのか、それとも何が起こっているのかもわからないうちに殺されてしまったのか、そんなことも分からなかった。
 いつもニーラが眠るのに使っていた布を無残な肉と骨の塊になった体にかけてやって、一人の女が声を上げて泣き崩れた。あたしがいなければ。あたしがあんなこといわなければ。いっしょになりたいなんて言わなければ、こんなことにならなかった。
「ハイラ、あんたが無事でよかった」
 いつの間にか、わたしの隣にはアイがいた。わたしの腕を握り締めた手は冷たく、震えは私の手にまで伝わってくる。わたしはアイの手に手のひらを重ねてやる。どうしても実感が分からなかった。
 ニーラの様子を確かめていたのはタイシャだった。やがて掛け布を元通りにしてやったタイシャは、「あたしのところと、おんなじだよ」と苦々しげに言う。
「男どもはみんな同じやり口をする。獲物を角で突き刺して放り上げた後、倒れた相手を踏み殺すんだ。この子も同じさ、背骨が折れてた」
「じゃあ、ニーラのことを……」
 ニーラの肉を食ったのは、誰なのか。言葉にならなかった問いかけに、タイシャはそっと首を横に振った。そんなむごいことは口にしたくないのだろう。
「……あたしたちの男も、古くなりすぎたということなんだろう」
 そうつぶやいたのは、ひとりのバアさまだった。皆が退いてバアさまのための道を開ける。長のあかし、幾重にも重ねて首にかけた数珠玉を重たく揺らしながら、杖をついたバアさまは、ゆっくりとニーラの傍まであるいてゆく。途中で折り取った青紫色の花を、ニーラの胸の上だったのだろう場所においてやった。
「古くなって子どもを作れなくなった男は、自分を殺し、取って変わろうとする息子をなにより恐れる。息子になりそうな年頃のムスメを手当たり次第に殺して回るようになる」
「ばあさま、息子って、何」
 誰ともなく問いかけられた言葉に、ばあさまは首をそっと横に振った。頭にも首にも飾られた数珠玉が、しゃらしゃらと音を立てた。
「『男の子ども』という意味の言葉だよ。どの母親にとっても、男に変わってしまった娘は『息子』と呼ばれるようになる。男が父として一番恐れる存在だよ。……さあ皆、見ていないでニーラを弔う準備をしておくれ。このままではあんまり可哀想だ、はやく魂を安らかにしてあげないと」
 タイシャをもてなすための宴の準備は、そのまま弔いの支度になってしまった。わたしたちの村では死んだ者は河に流すことになっている。生きている間ずっと使っていた敷布で体を包み、その上から幾重にも筵を巻いて、最後はいくつもの花を編んで作った大きな花輪をかけてやる。敷布の中には生きている間につかっていた匙や針入れ、釣り針なども入れてやり、後に残すのは剃り取った髪の房だけになる。
 あんなひどい死に方をしたとしても、やっぱりニーラは、霊だけになって戻ってくるのだろう。この人のために子どもを産んであげたいとまで思ったムスメを残して逝ってしまった。どれだけ未練なことだろう。
 弔いの振舞い酒にするために、オバたちが広場でトントンとトチの実をついていた。どうすればよいのかもよく分からないまま、わたしはひとりでぼんやりとカヤを編んでいた。きっと、一歩間違えれば自分の方がああなっていたと、そうショックを受けているのだと思ってくれているのだろう。他の子どもたち、ムスメたちは、弔いに編むための花を摘みに、あるいは、潰して酒にいれるためのキイチゴを摘みに行っていた。
 ひとり、小屋の裏でカヤを編みながら、思い出していたのは昨夜のあの人のことだった。
 わたしがあの人と一緒にいるあいだに、ニーラは、おとうさんと会っていたのだ。そうして殺された。ニーラが見つかった場所は鹿の罠をしかけていた場所、寝台の岩からはかなりの距離がある。おとうさんは踏み殺したニーラを……あるいはまだ生きているニーラを……わざわざあそこまで引きずっていった。
 おそらくは見せしめにするために。
 ……おとうさん。
 年老いて古くなり、子どもを作れなくなった男は、自らの息子を何よりも恐れる。自分を殺して取って代わろうとするかもしれないから。まだ子どもを産んだことがないムスメは皆、息子へと姿を変える可能性がある。このままにしておけば、おとうさんは、この集落中のムスメを殺して回ろうとするだろう。
 死にたくなければ、おとうさんを殺すしかない。けれども誰が? 
 やるとすれば、この村で一番大きく、強いムスメだ。
 力を入れすぎた手の中で、くしゃりとカヤの葉が折れ曲がった。
 わたしは若いムスメの中では一番背も高く、走るのも速い。投石紐を使って飛ぶ鳥を撃ち落とすことができるようなものは、オバたちすべてを含めて考えてもわたし一人しかいない。おとうさんを殺す役割を果たすとしたらそれはわたし。男の姿に変わるのも、きっと、わたしの役割だろう。
 でも。
「おやおや、ハイラ。手が止まってるじゃないか」
 ふいに、背後から声が聞こえた。わたしが振り返るよりも先にかたわらに腰を下ろしたのはタイシャだった。耳飾りをつけ、織りのマントを羽織っている。わたしはタイシャが頑丈な木皮のサンダルを履き、その上から布を巻きつけていることに気付いて目をまたたく。
「タイシャ、どうしたの、その恰好」
「いや、今回ばかりはできるだけ早く引き返した方が良いと思ってね。一度荷を預かってもらって、高値が付きそうなものだけを持って帰ることにした」
 ずいぶんと急な話だ。私が目をまたたくと、タイシャは、困ったような顔で頭を掻いた。
「あたしはもうムスメじゃないが、……やっぱり、おっかなくてね。あたしのところの集落でもずいぶん恐ろしい思いをしたから」
 そういえば、タイシャの集落では、まったく同じことがおきたばかりだったのだ。
「人を殺すようになった男はね、怖いよ。あたしは何度もおなじ男の腹の上で転がりまわったことがあったけど、あれが人を襲うとあんなに怖いんだなんて思ったこともなかった。熊と同じぐらいに強いのに、頭がいい分熊よりずっとたちが悪い。ムスメたちがみんな殺されてしまうじゃないかと思ったぐらいだ」
「けど、あたらしい『おとこ』がそいつを倒したんでしょう?」
「相手が老いぼれて弱くなっていたから、勝てたんだよ。でもハイラ、この森に棲んでる男は、このあたりのどの男よりも大きくて強くて、そうして長生きだった。あたしはこんなに長く生きた男の話なんて聞いたこともない。一人の女の産んだ子、その子が育って産んだ子、さらにその子が皆、同じ男の世話になっているだなんて、聞いたこともない」
 ほかの時だったならば、きっと自慢に思ったことだろう。誰よりも大きく強い、わたしのおとうさん。
「タイシャ、もしムスメたちが全員殺されてしまったら、その集落はどうなるの。その男を殺すことができる『息子』になれるムスメがいなくなってしまったら?」
 タイシャはまっすぐに私を見て、言った。
「ムスメたちを襲うようになった男は、もう子どもを作れないんだよ、ハイラ。そうなったら新しく子どもが生まれてくることもない。まとめて皆で死ぬしかない。だからね、それよりも先に誰か息子が父を殺すしかない」
「じゃあ、はぐれ者は? どこか遠くから旅してきた男はどうなの」
「はぐれ者? そんなものをよく知ってるね、ハイラ。……はぐれ者というのはね、父と戦って負けてしまった息子が生きて逃げ出したなれの果てなんだよ。さもなきゃ、何かの間違いで二人の息子が生まれてしまったうちの片方が追い出されたのか。たいていの場合、はぐれ者が住み着くのは、何かの事故や病気で男が死んでしまった集落だよ。さもなきゃそこの男が歳をとって弱ってきていることに気付いて留まることもある。そもそもはぐれ者はよわいから、普通、他の村の男に勝つことなんてできやしない。そもそも『はぐれ者』なんていう連中に出会う方が、めずらしい」
 そこで一度言葉を止めたタイシャが、「ああ、そうだ」とつぶやく。
「無駄話をしてたら、忘れちまってたよ。ハイラ、これをあんたに預けようと思って」
 タイシャが何かを懐から取り出す。それは、彫刻を施された木鞘に収まった剣だった。柄には皮が巻いてあり、受け取ってみるとずっしりと重い。わたしの肘から手首ぐらいほども長さがある。
 抜き放ってみれば、やや湾曲した刃を持つ片刃の件だった。青黒い色をした剣のうち、刃の部分だけが銀色に研がれている。
「重たくて荷物になるし、道中で落としたらとんだ大損になる」
「鉄剣?」
「いいや違う、鋼剣だ。鉄の剣を焼いてたたいて作る物らしい。鉄よりも硬くてずっと鋭い。ここよりもずっと西の方でしか作られていないものだそうだ」
 鉄はひどく高価な金属だ。だから集落にひとつしかない鉄鍋は皆が丁寧に使いまわしているし、一家に一本しかない針は木彫りの針入れに収められていつも首にかけられ、大切に持ち歩かれている。まさか、その鉄よりも強い金属だというのだろうか?
「信じちゃいない顔だねえ」
 タイシャは茶目っ気たっぷりに笑う。立ち上がる。そうして束ねてあった細木の束へと、無造作に剣を振った。
 細木はあっさりと斜めに切り落とされた。タイシャはわたしにその切り口を見せてくれる。滑らかさに目を見張る。
「西人の中にはこいつを使って、一撃で人の首を切り落とすようなやつもいる。けど、何しろ高いものだし、使いどころがむつかしい。狩りをするなら弓矢で充分だし、肉や魚を切り分けるのに向いた形の刃物でもない」
 預かっといとくれ。タイシャは鞘に納めた剣をわたしに差し出す。わたしはこわごわと受け取った。木鞘に収まった剣はずっしりと重い。鞘を払って光にかざすと、鋭く研がれた刃、その輪郭線が日差しを浴びた氷のように光る。
 タイシャはふいに、真顔になった。
「ハイラ。もしあんたが凶暴な男と戦うんだったら、その剣を使うといい。角や牙を使っちゃいけない」
 角や牙? ……どうして。
「あたしはこれで、あんたのことが結構好きなんだよ。男なんてただのけだものだ。口も利けない、理性もない。子どもだっていないんだ。育てることができないからね。あんたがそんなものに成り果てて、森をさまようだけのものになっちまうところなんて見たかない」
 ―――そうなのだろうか。
 男であるということは、そんなにも、不幸なことなのだろうか。
「このあたりには、はぐれ者が流れてきているんだろう? 運がいい話じゃないか。そいつがここいらの男を殺して代わりに居座ってくれれば、みんなが女のままでいられる。あんたも誰かとつがいを作って、可愛い子どもに乳をやることができる」
 ちゃんとやるんだよ、ハイラ。タイシャは剣を握った手の上から、わたしの手を握り締める。わたしは唐突に思う。タイシャは年下のムスメとつがいになりたいと言っていた。本当は違うんじゃないか? つがいになる約束までした相手に取り残された不幸なムスメを、放っておけなかっただけなんじゃないか。乳親の乳を知らない、不幸な子どもを作りたくないだけだったんじゃないだろうか。
 トントンとトチの実を臼で突く音が聞こえてくる。風は百合の花の香りを運んでくる。タイシャはこれを幸福だと思っているのだろう。アイもまた、きっと。

 

 ニーラは長い髪をそり落とされ、せめても腹の上で重ねる形に置かれた腕の間に履物と匙とを置かれ、その上からいつも使っていた敷布で丁寧にくるまれた。特別のやり方で編んだ菰で何重にも巻き、その上から紐で縛り、最後に大きな花輪をかけられた。
 腰まで水に浸かって深みまで運んでゆき、そっと流れへと押し出してやると、ニーラは流れに乗ってゆるゆると下流へ流れてゆく。声を上げて泣いている女がおり、笛を吹いている女がいる。できるだけたくさん泣いて送り出してやるほど、死者のためによい、とされる。
 落とされた髪は細く編まれて半分は先祖たちの髪がすべて掛けられている枝へと掛けられ、残りの半分は紐を編み込んだ首飾りにされ、生涯母親が身に着けることになるのだ。
 葦は水際に深く茂り、遠くに見える鷺の群れは水面に白い花を撒いたようだった。もしおとうさんを殺さなければ、とわたしはぼんやりと思う。これが最後の弔いにはならないだろう。わたしやアイのほかにも、集落には何人ものムスメがいる。ムスメとも呼べない年頃の子どももいた。そのうちの誰かが息子として自分を殺すかもしれないと思えば、おとうさんは、誰一人として見過ごすことはしないだろう。
 自分の娘たちなのに。子どもたちなのに。
「ハイラ」
 ふいに、アイがわたしの腕にぎゅっと抱き着いてくる。やわらかい乳房が腕に押し付けられる。アイの目はゆっくりと流れてゆくニーラを、じっと見送っていた。
「ニーラがかわいそう。ムスメのまま死んでしまった」
「アイ……」
「私はやだよ、そんなの。子どもがほしい。好きなひとと一緒にいたい。……今すぐにでも」
「駄目だよ、アイ。危ないよ。ニーラだって子どもを欲しがってたじゃない。それが、ああなってしまったんだ。だから待たないと、しばらくは……」
「しばらくって、いつなの。今の男が死ぬまで? あたらしい男が現れるまで?」
 わたしはひどく驚いた。アイがこんな風に声をあらげたところなんて、見たことがない。
 アイの目はすこし変わった色をしている。ふちのあたりは濃い茶色をしていてるけれど、瞳孔に近づくにしたがって緑色に透き通ってゆくひとみ。銀色から灰色の髪、緑から茶色にかけてのどこかの色をしているひとみはこの集落の特徴だ。白に近い銀色の髪に、青みがかった緑の目をしたわたし。濃い灰色の髪に茶と緑の交わる瞳、濃い色の肌をしたアイ。
 でも、これから先はきっと、わたしたちと同じ色の子どもは生まれない。
 この髪の色、ひとみの色をした子どもたちは、わたしたちのおとうさんからしか生まれなかった。次の男が一体何者だとしても、まったく同じ色を受け継ぐことだけはありえない。前、タイシャから聞いたことがある。ここよりも下流にある集落のひとつに、濃い色の肌の女たちと、生白い肌の子どもたちが住むところがあると。そこの集落の男が、どういう理由で入れ替わってしまったのかは分からない。けれども少なくとも、白い肌の子どもを産ませる男が、濃い色の肌の女を産ませる男に成り代わった、ということだけは確かだった。
 アイの子どもだったら、きっと、かわいいはずだ。どんな色の髪をしていても、目をしていても、肌をしていても。
 わたしたちはゆっくりと、ひとり、またひとりと川岸を離れてゆく。最後までニーラを弔う資格があるのは、ニーラのお母さんたちだけだ。
「ねえ、ハイラ。私たち、どっちもはやく子どもを作ってしまえばいいんだよ。ムスメじゃなくなれば、もう、男に殺されることもないもの」
 わたしはびっくりして、まじまじとアイのことを見下ろした。
 アイの目は、興奮でわずかに緑の色を増していた。わたしの腕を握り締めた指に力がこもる。
「だから、だめだって言ったじゃない。もう、おとうさんには子どもを作る力がない……」
「ながれ者がいるんでしょう? その男にすればいい。男は男だもの、どっちだって同じだよ」
 なんでアイがあの人のことを知っているんだろう? 「そんな顔をしないでよ」とアイが泣きそうに笑う。わたしはどんな顔をしていたんだろう?
「男は男だもん。ここに来たってことは、縄張りが欲しいってことなんでしょう。自分の子どもをこのあたりに住み着いてる女に産ませれば、それだけその男を引き留めやすくなるはずだよ」
「でも……それは……」
「大丈夫、古い男に見つからないようにすればいいだけ。一緒に行こうよ、ハイラ。二人で子どもを産もう。二人で育てよう。私はハイラの乳を飲んだ子どもが欲しい」
 胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
 アイはかわいい。わたしだって、そう思っている。
 でも違うのだ。どう説明したらよいのか分からない、けれど、わたしはアイとつがいになりたいわけじゃない。アイの子どもに乳をあげたいとも思わない。わたしのこのわけのわからない欲望を、アイだけはちゃんと分かってくれているはずだ。だってアイは昔、わたしに草の外套をつくってくれた。枝を編んで角にして、長い尻尾だってつくってくれた。
 きっとアイは、わたし自身よりもずっと、わたしのことを分かっている。
 でも、わたしはアイにこう言わせてしまった。
 それだけ追い詰められている、そういうことなのだろう。だってこのままでは、わたしが男になってしまうから。息子として、おとうさんを殺さなければいけなくなるから。
 わたしはおとうさんが好きで、アイのことを大切に思っていて、けれど、角も尻尾もない、ただの女に過ぎなかった。
 いつかはそれを受け入れることになる。この腕に誰かの子どもを抱き、乳を含ませ、親として生きてゆくことになる。そう思っていた。諦めていた。
 あれは諦めだったのだと、あの人に出会って、わたしは初めて思った。
 白い角、金色の毛皮、ほっそりとしてしなやかな体。うつくしく、哀しげなひとみ。
 縫い合わせ、剥ぎ合わせた毛皮を羽織り、枝の冠を頭に被って、それでもあのひとといると幸せだった。わたしはあの人の鼻づらを舐めて、あの人はわたしの頬に濡れた鼻をくっ付けた。あの人の子どもを産みたいとはおもわない。そんなものは、わたしたちに対する冒涜だ。わたしはあの人の女になりたいわけじゃない。
 男であるというのは、どういうこと? 永遠に荒野をさまよい、子もなく、仲間もなく、孤独の中で年老いてゆくということ? だとしたら、どうしておとうさんはあんなにも大きく、恐ろしいまでに大きく見えたのだろう。あのひとはあんなにも美しいのだろう。
 どうして自然は、男たちをあんなにも美しく作ったのだろう。
 まるで牡鹿のように、獅子のように、熊のように、強く、美しいものとして、作ったのだろう。
 今夜は忌み夜となる。
 ニーラの弔いだから。
 日が沈めば皆小屋の中に閉じこもり、椎の実で作った酒を飲み、一晩中物語して過ごす。ニーラの霊が村に戻ってきたとしても、見るものは皆が硬く扉を閉ざし、その中で楽し気に語り合い、酒を酌み交わしている様子だけだろう。ニーラは落胆してとぼとぼと帰ってゆくだろう。もうここは自分の居場所ではないと理解し、先祖たちの国へと歩み去ってゆくだろう。
 バアさまたちは交代で物語をし、皆はひとつの椀で酒を分け合って大いに笑う。大いに騒ぐ。そうしてお互いにお互いの体を自分の掛け布で覆いあって眠る。もう歳を取って体が冷たくなっている年寄りの女たちは子どもたちと一緒に眠る。ニーラとつがいになりたがっていたムスメのことは、彼女に乳をやったことがないオバの誰かが慰めるのだろう。
 今回はニーラが辛い死に方をしたからか、バアさまたちはわざと明るい話や滑稽な話を選んで物語をしてくれているようだった。とくに浮気ものの鷹女の物語は恋物語が多くて人気が高いから、特に物語の上手なバアさまは、ありったけの鷹女の話をしてくれるつもりのようだった。
 けれどもわたしはどうしても、人の輪に加わる気持ちになれなかった。
 だって物語には、女の物語しかない。英雄も、神も、愚か者も、皆人間だ。つまり女だ。わたしはとても孤独な気持ちになる。歳を取ってひとりぼっちの、男の話なんて誰もしない。わたしは物語を聞きたくなくて、大バアさまに酒をふるまうふりをして、そっと皆の輪から離れた。
 子どもを産んだことのない女がムスメなら、一人でも子を産んだことがある、さもなくば己の乳で養った乳子を持ったことがある女はオバになる。そうして孫がうまれれば、オバはバアさまとよばれるようになる。そして孫に子が生れた女は大バアさまだ。けれどもそれだけの長生きをできる人間はめったにいない。だからこの村にいる大バアさまはひとりだけ。
 大バアさまはいつものように数珠玉を幾重にも首にかけ、数珠玉を縫い付けた頭飾りをつけて、毛皮にくるまったままうつらうつらと眠っていた。大バアさまは最近ほとんど目がみえなくなっている。わたしが何を言っても気づくまい。
「大バアさま、大バアさま。振舞い酒だよ」
 わたしがそっと肩をゆすると、大バアさまは目を開けた。ほとんど見えなくなった目がわたしの存在をさがす。わたしは大バアさまのかたわらに座り、椀に組んだ酒をさじですくってやる。
 あたたかい椎の実のかゆに麹を加え、木いちごやすりつぶした胡桃、蜂蜜なんかを加えて甘味をつけた振舞い酒は、特別なお祝いの時にしかつくらないごちそうだ。大バアさまは匙で酒を飲み、わたしもおなじ椀から酒を飲んだ。そして大バアさまの邪魔をしないようにそっと離れようとすると、「まちなさい、ハイラ」とかすれた声が聞こえた。
「となりにお座り、ハイラ。見せておくれ。おまえ、見たことのない玉を、首飾りにしているね?」
 心臓が胸の中で跳ねた。
 どうして分かったのだろう。
 わたしはどきどきしながら大バアさまの隣に腰を下ろす。誰にも気づかれないようにあたりをそっと見まわしてから、首に結わえていた紐をほどいた。紐に通して身に着けていたのは、緑色の石で作った奇妙なかたちの玉飾り。大バアさまは手のひらに乗せた玉を撫でさすり、指でかたちを確かめ、「ああ」とそっとため息をつく。
「おまえ、良いものをもらったね。これは翡翠という石だよ。西の人々には大切にされている。この玉の形はね、向こうだと人間の霊のかたちだと信じられているかたちだ。……おまえ、たいせつな人から心を預けられたのだね」
 どうして、それを大バアさまがわかるのだろう。どこでそれを知ったの? けれど、そう聞くよりも先に、喉の奥がぐっと苦しくなる。目の奥が熱くなる。わたしは大バアさまの肩に顔をおしつけた。
「大バアさま、それをくれたのはね、たいせつな人なんかじゃない。男からもらったものなんだ」
 きっと大バアさまは、わたしがタイシャのような旅人からこの玉を貰ったと思っているのだろう。そうでなければ言うはずがない、心をあずけられたなどと。
 けれど。
「ハイラ、勘違いをしてはいけないよ。男も女もない。人間から生まれたものは皆、人間だ。違う形をして、違う場所に暮らしているけれど、皆が心を持っている。魂を持っている。あの人だっておんなじだ。獣なんかじゃない、人間だ。あんまり長いこと生きすぎて、あんまり長いこと孤独すぎただけの、人間だよ」
 わたしは顔をあげる。大バアさまのことをまじまじと見る。今ではすっかり白くなってしまった髪。そして、黒いひとみ。
 わたしたちとは違う色のひとみ。
「物語をしてあげようね。お前の好きだった、角冠つのかんむりの話だよ。一番最初の男だった角冠は、その後いったいどうしたか。
 ……女たち皆に放逐された角冠は、それから長い間、足を折って座り込み、ひとりになってしまったことを悲しんでいた。なぜならもう、角冠はほかの女の誰にも似てはいない姿になっていたからだ。角冠を見ても誰も仲間だとは思わなかったし、誰も角冠を愛そうとはしなかった。
 けれど悲しむことに飽きると、角冠は立ち上がった。『ここにいても仕方がない。おれは、おれのあるべき場所へと行こう』と言った。
 そうして角冠は旅に出た。とても遠くまで旅をした。角冠は鹿たちや馬たちはこぞって早く駆けることを角冠に教えたし、熊に餌を与える木々は角冠が現れると自分から枝をしならせて実を落とし、河は角冠のために大きな鱒や鮭を吐き出した。
 そうして角冠は駆けて駆けて、とうとう、地の果てにまでたどりついた。そこには神々が住んでいて、そして、角冠を見て驚いた。ここは人間の世界よりもはるかに遠い場所にある。どうしてお前は来ることができたのかと。
 角冠は言った。『おれは男です。女のように子どもを産むことも、乳を分け合うこともできませんが、誰よりも強く、辛抱強く、遠くまで駆けることができます。女にはできぬことが、おれにはできたのです』
 そうすると神々は、角冠の事を褒めたたえて、ひとつ願いをかなえようといった。女に戻りたいのならば戻してやろうともいった。けれど、角冠の望んだことは違っていた。
 『長い長い旅をするあいだに、おれは旅することがすっかり好きになりました。あなたがたに望むことはひとつだけ、これからもずっと、おれを荒野を駆けるままにしておいてください』
 すると神々は言った。『ならばお前は、これからは天を駆けなさい。お前がけして飢えることがないように、空には乳の川を流そう。好きなだけ飲みなさい。いくら食べてもなくならない果実をひとつ与えてやろう。好きなだけ食べなさい。そして男たちの群れをあなたにあげよう。天の野はあなた方が望む限り、永遠にあなたたちのものだ』
 そうして角冠は天へと上った。角冠は今も、月を食べ、天の川の水を飲み、好きなだけ空を駆け巡っている。月が痩せるのは角冠がかじるせいだし、一度かけた月が元通りに太ってゆくのは、角冠に与えられた果実はけっしてなくならないようにと決められているからなのだよ。そうして男たちは皆、最後は角冠の野へと迎えられるのだよ」
 ―――一度も、聞いたことのない話だった。
 大ばあさまはわたしの髪を撫でた。しわくちゃで冷たく、小さい、やさしい手だった。
「これはね、息子たちにだけ教えられる秘密の物語だ。恐れることはない、男たちは皆、勇敢な角冠の子どもたちだ。わたしたちは毛皮もなく、爪もなく、角もない。けれども男たちは違う。冬は雪野を駆け巡り、夏には木々の間を走り抜ける。そうして死ねば魂は空っぽになった毛皮の塊を離れて空へ舞い上がり、天の川の水を飲み、月の果実を好きなだけ食べ、星の間を思う存分駆け巡る。自由であること、旅をすることはね、ハイラ、男たちにだけ与えられた恩寵なのだよ」
 大ばあさまはどこまで知っていたのだろう? わたしのことを、そして、おとうさんのことを?
「ねえ、大ばあさま。大ばあさまは、おとうさんのことを、どれだけ知っているの」
 私がちいさなちいさな声で問いかけると、大バアさまはこっくりと前にうなずいた。数珠玉の飾りが涼やかに鳴った。
「わたしが知った時、あの人はもう、男だったのだよ。あの人の前にここにいた男は、嵐の日に河に押し流されて死んでしまった。そこにやってきたのがあの人だった。どこから来たのか、誰も知らない。けれどもみんな喜んだ、あの人のおかげで皆あたらしく子どもを産み、つがいを作り、しあわせに暮らすことができるようになった。わたしたちはあの人を愛している。あの人の言葉をわかるものはいないけれど、あの人がこの森にとどまっていてくれること、わたしたち皆に子どもたちを、わたしたちの間に愛を与えてくれることを、よろこんでいる。……」
 大ばあさまにとっては、長すぎる話だったのだろう。
 大ばあさまは咳き込むと、そのままがっくりと前へとうつむいた。わたしは大ばあさまの背中に手を添えて、何枚も毛皮を重ねたやわらかい床の上へと横たえてやった。
 わたしはやわらかく握られたままだった大ばあさまの指をそっと開いて、緑色の玉を取り出した。元通りに首に紐を結わえ付ける。魂のかたちなのだという玉は、わたしのふたつの乳房の間に収まった。
 わたしは立ち上がった。
 暗がりに紛れて外へ出て行っても、気づくものは誰もいなかった。
 肩から斜めに紐を掛け、タイシャから借りた剣を帯の間に挟み込む。使い慣れた投石紐を腰にくくりつける。狩りの時に使う毛皮の外套はどこにも見当たらなかった。理由はすぐに検討が付いた。
 アイだ。
 アイは焦っている。わたしはおとうさんの息子。このままでは男となり、村を駆け去って、出て行ってしまうと。そんなアイのことを思うと胸が痛む。痛むけれど、どうすることもできない。わたしはアイのことが大好きだけれど、アイがわたしを愛するように、愛することはできない。
 月はもうだいぶ細くなっている。にもかかわらず、遠くうずくまった木々の影を、はるかに広がる百合の花野を、その向こうに流れる大河を、わたしはありありと見晴るかすことができる。ふと気づく。歯がぐらぐらとして不安定になっていた。舌で押すと、ぽろりと簡単に抜け落ちる。その下にはもう、以前よりもずっと尖ったあたらしい歯が、生え始めている。

 わたしは走り出した。
 夜の大気の中を。

 空気の中に、豊かな香りがある。水が薫り、木々が薫り、土が薫った。踏みしめられた草の薫りが森の方へと続いている。きっとアイだろう。わたしはアイの足跡を追って、一心に駆けてゆく。地面を強く踏めば、跳ね上げるようにして反動が体に伝わる。次第に歩幅が大きくなってゆく。半ば跳ぶようにして走る。笹がしげりきつく傾斜した斜面では、ひとりでに体が前傾し、二本の両腕が地についた。足だけでなく全身の力を使って真っすぐに駆け上がる。高い岩の上まで登ってゆけば、一気に視界が開ける。眼下に広い森を見渡すことができる。そうしてわたしは気づく。あの日、あのひとが爪で地面に刻み付けたのと同じ模様が、岩の上に細い線で刻まれている。
 あの人もここに来たのだ。
 わたしは、吼えた。
 高く、また低く、節をつけて。長く長く尾を伸ばして吼え、そして息が切れ、声が途切れると、耳を澄ます。応えはない。わたしは再び吼える。天に向かって。
 すると、返事があった。
 森の向こう、川辺のほうから。
 わたしは顔を上げる。じっと耳を澄ます。鳴き声はふたたび聞こえた。わたしは天に向かって吼え、答えると、一気に岩から滑り降りた。
 風の中にあたらしい臭いが混じった。獣脂の匂い、乾いてこびりついた血の臭い。人を喰った獣の臭いだ。複雑に入り組んだ木々の間を駆け抜ける。膝の高さよりも低い枝の下を駆け抜け、胸の高さよりも高い枝を飛び越える。耳元で風がびょうびょうと鳴る。やがて、唐突に森が途切れる。視界が開ける。森の中、広場のように丸く開いた場所がある。中央にはまだ、雷に打たれて枯れた木が焼け焦げたまま立っている。そして、そこに。
 あの人と、おとうさんが、いる。
 黒い男と金色の男が、お互いの間をめぐり逢い、飛び跳ねながら向かい合っている。まるで二頭の小鹿がたわむれているようだ。けれども、違う。わたしは知っている。あれは戦いなのだと。
 わたしは走りながら投石紐に石をつがえた。複雑に枝分かれした角での突進を、あの人は、入り組んだ灌木の間を目まぐるしく飛び回ることでどうにか交わし続けている。けれども一度角にかかった灌木は、そのまま無造作におとうさんが首を振るだけで、根元から根こそぎに引き抜かれてしまう。あの角に突き刺されれば終わりだ。そのまま高く放り投げられ、地に打ち付けられて動けなくなったところを踏み殺される。ニーラが殺されたのと同じ方法。
 狙いをつける。わたしは大声で叫んだ。
「おとうさん!!」
 おとうさんは振り返った。その頭蓋へと、わたしは、正確に石を撃ち込んだ。
 空飛ぶ鷹をも叩き落とす威力で撃ち込まれた石が、おとうさんの左目へと食い込んだ。おとうさんは凄まじい絶叫を上げて後ろ足で立ち上がった。剣の束のような枝角が振り回される。その下をかいくぐるようにして、あの人が、木々の間から飛び出してくる。わたしは投石紐を投げ捨てる。あの人の後ろにかばわれるようにして、一人の女が隠れていた。頭と尾のついた毛皮を着て。
 アイ。
「ハイラ……!!」
「アイ、それを!」
 わたしが叫ぶと、アイは、すぐさま毛皮を脱ぎ捨てた。わたしは代わりにアイに向かって鞘ごとの剣を投げ渡す。木から放り捨てられた毛皮を頭から羽織った。
 そして、銀色の毛皮が、そのまま、わたしのあたらしい肌となる。
 深い毛皮が背を覆い、首を覆い、顔へと被さってそのままわたしの毛皮となる。前にのめって両手を地面に突けば、そのまま白い爪が土を掻いて二本の前足となる。長く伸びた尾が血を打つ。色は銀色。銀狐のように、銀狼のように、灰色を帯びた暗い銀色。
 開いた口が耳まで裂ける。抜け落ちた歯がぼろぼろと地面に落ち、その下からは牙があたらしく現れる。そして、枝角。頭に被った樫の木の冠がそのまま、四つに枝分かれをした短い角となる。
 わたしは二本の脚で走る勢いのまま前にのめり、そのまま四つ足になった。そして、『おとうさん』の横腹へと角を突き入れた。
 絶叫が響く。
 長い尾が力任せに振り回され、避けそこなったわたしはそのまま背後へと吹き飛ばされ、したたかに地面に体を打ち付けた。こうやって見上げると、おとうさんはやはり、わたしの倍も、あるいはそれ以上も、身丈がある。開いた口には長い牙があり、首を覆う分厚い被毛がある。
 けれど、想像していたほどに、記憶に残っていたほどに、大きくはない。
 これならば倒せる。殺せる。よしんば、一人では無理だとしても。
 二人ならば。
 わたしへ向かって大きく前足を振り上げようとしたおとうさんの背に、すかさず、あの人が駆け上った。金色の毛がなびいて一陣の風のようだった。大きく口を開き、後ろから首へと噛みつく。おとうさんが唸り、前足を踏み下ろすタイミングが一瞬遅れた。わたしはその隙を逃さず、足の間をすり抜けた。
 おとうさんの首はふとく、密に茂った黒いたてがみと、分厚い筋肉とに覆われている。どれだけ力を込めても後ろからかみ砕けるような首ではない。けれどもあの人はおとうさんの首に噛みついて決して離れず、二本の前足の爪を深く背中に打ち込んでいた。おとうさんは唸り声をあげ、後ろ脚を蹴上げ、地面へと転がり、あの人を背中から振り落とそうとする。だがあの人はけして離れない。一瞬見えた腹の毛皮は背中のものよりもずっと薄い。わたしは暴れる脚の間を潜り抜け、腹の下をかいくぐるようにして二本の角でやわらかい腹を切り裂いた。絶叫と共に血しぶきがあがり、わたしの毛皮を濡らす。
 もうわたしたちの血の臭いで消えかかっている、けれど、その場には確かにアイの臭いも残されていた。そしてかすかな血の臭い、そして体液の臭い。アイは自分で言っていた通り、あたらしい男としてあの人のほうを選んだのだろう。そして、自分の群れの女を奪われた以上、もう、おとうさんには新参者であるはぐれの男を殺すか、自分が殺されるか以外の選択肢は無くなっている。
 殺させるわけにはいかない。
 あのひとはわたしの男だ。
 巨躯と地面の間に挟み込まれ、潰され、あの人が甲高い悲鳴を上げた。たまらず口を開いた瞬間、激しく後ろ足を蹴上げた勢いで背中から弾き飛ばされる。背中の肉がたっぷりと一口分食いちぎられ、毛皮のあいだに血まみれの傷がひらいて桃色の肉を見せていた。わたしは鼻の頭に皺をよせ、低く唸ってたてがみを逆立てる。あのひとはよろよろと立ち上がる。大丈夫、背骨を折られても、四肢を砕かれてもいない。
 お互いに身を低く伏せ、唸り、また激しく吼え、互いを威嚇し、牽制しあう。もしあの太い脚で一薙ぎされれば、わたしの頭蓋など簡単に砕けてしまうだろう。だがこの牙にもおとうさんの鼻づらを引き裂き、片目を抉り出す程度の力はある。
 わたしの放った石はお父さんの左目を完全につぶしていた。わたしが左へとじりじりと移動すると、おとうさんはそれ以上に大きく体を動かしてわたしを視界に入れようとする。左側の隙をかばおうとしているのだ。
 頭を低く下げ、角をこちらへ向けた姿勢。複雑に入り組んだ大枝角は、何本もの槍を束ね合わせたようなもの。同時に絶対の盾としても働く。
 前足が地面を掻いた。
 五本の爪が深く土をえぐった。その突進から、わたしは身をかわそうとした。けれども最後におおきく振り回された首にとらえられ、右の角の先に体をひっかけられた。そのまま振り回される。体が何度も地面に叩きつけられ、そして、尖った角が全身を引きむしった。わたしはたまらず絶叫する。最後におとうさんは大きく前足をたわめた。そのままの上体を跳ね上げた勢いで空高く放り投げられる。死の予感がざらりと脳裏を舐めた。背骨を踏み折られたニーラの死骸を咄嗟に思い出す。無残な死にざまが脳裏をよぎる。
 だが、前足を高く上げた姿勢そのものが、決定的な隙だった。
 わたしの背後から猛然と突進してきたあのひとが、跳ね上げられた二本の前足の間をかいくぐった。そのまま突き上げた二本の角、四つに枝分かれをした白く長い角で、そのままおとうさんの胸を刺し貫いた。
 角の片方が、折れた。
 おとうさんの旨を深々と貫いたまま。
 わたしは地に叩きつけられるのではなく、灌木の中へと落下した。体の下で何本もの木の枝が折れ、クッションになってくれる。おとうさんは胸を掻きむしるようにして暴れていた。角の先端が背中にまで突き出し、もがく口から呼吸のたびに血泡が吹きこぼれた。わたしは、叫んだ。
「アイ!」
 これがわたしの口にした、最後の、人間の言葉だった。
 わたしは再び駆け出す。もがきながら暴れる、地を掻きむしり転がりまわるおとうさんの身体へとのしかかり、首へと噛みつく。口の中に獣皮と血の味とが広がる。全身の力を込めて押さえつける。あのひとがそれに続く。凶暴な爪を持った前足にかじりつく。黄金の毛並みが血に染まった。
 二頭がかりのちからで、ようやく抑え込むことができる巨躯だった。動くことができなくする、それ以上は不可能だった。
 けれども、わたしたちには、アイがいた。
 抜き放った剣の切っ先が、月の光を弾いて強く光った。走ってくる、走ってくる。目元には涙が光っている。けれども、アイは抜き放った剣を腰だめに構え、最期の悪あがきに振るわれた爪に肩を引きむしられても、ためらうことなく、その切っ先をおとうさんの喉へとつきたてた。
 どんな牙も爪も貫くことができなかった分厚い毛皮を、鋼の剣は、あっさりと切り裂いた。
 そのまま力を込めて振りぬいた剣が、あごの下から喉の下にかけてを、真一文字に切り裂いた。血が勢いよく吹き出した。それでもおとうさんは息をしようとしたが、そのたびに切り裂かれた器官からひゅうひゅうと空気が漏れ、また、大量の血泡を吐くだけの結果に終わった。
 わたしたちは、完全におとうさんが動かなくなるまで、その首に、また前足に食い込ませた牙を、緩めようとはしなかった。
 心臓がうごきを止めるまで、血は強く、また弱く、喉を切り裂いた傷から吹き出し続けていた。けれどもとうとう、切り開かれた喉から最後の息が押し出される。目から光が消え、全身の力が失われる。
 おとうさんは、そうして、動かなくなった。
 アイは返り血で全身を真っ赤にしたまま、呆然とその場に座り込んでいた。わたしはおとうさんの首にかじりつき続けていた顎をようやく開く。のろのろと巨大な体から降りると、アイのところまで這ってゆき、血まみれの頬を舐めてやった。
 アイの腿の間には、返り血ではない、乾いた血の一筋がこびりついていた。
 もうアイは、ムスメではなくなっていた。
「ハイラ、……私、わたし」
 アイはひとつ、しゃくりあげるような息をする。そうして次には、声を上げて泣き出した。両腕でわたしの首にかじりつき、銀の毛皮に顔を埋め、泣いて、泣いて、泣き続けた。その間わたしは、ずっと、アイの顔を舐め続けてやった。この世でたったひとりの、大切な、幼馴染の顔を。
 あの人は、よろめきながら立ち上がり、そんなわたしたちの様子をしずかに見つめていた。
 片方の角が折れていた――― きっと、生え変わるだろう。来年の春には。それを見ることができないのだと思うと、胸が切なく、また、苦しくなった。どんなにか、一緒にいたいことだろう。
 けれども、ひとつの縄張りに、ふたりの男が住むわけにはいかない。
 女たちは、ふたりの男を同時に持つわけにはいかない。
 アイが産む子は、この人の子だ。だとしたら、ここを出てゆくべきなのはわたしのほうだ。
 アイがようやく泣き止んだころ、わたしはそっとその腕を振りほどいた。地面に放り出されたままだった剣を、鼻づらでそっとアイのほうへと押しやってやる。これはわたしが預かったものだけれど、今ではもう、無用のものだ。タイシャに返すなり、アイが持ち続けるなり、相応しいようにしてほしい。
 そうしてわたしは、あの人の前に立つ。
 わたしの毛皮は銀色だった。冬の狐のように分厚く、毛は強く、首の後ろから肩にかけてがとりわけ深く茂っていた。角は短く、後ろへと張り出すように伸びていた。四肢はあの人のものよりも太く頑健で、尾はいくらか短く、代わりに長い毛におおわれていた。
 わたしはあの人の肩に鼻づらを寄せた。あの人もまた、わたしの肩に顎を乗せた。たてがみとたてがみが触れ合った。目を閉じて、金の毛並みに鼻を埋め、あの人の匂いをふかく嗅いだ。きっと生涯忘れることはないだろう。さらさらと滑らかな金色の毛並み。遠い、異国の森の匂い。
 濡れた鼻に鼻を押し付けた。思いを込めて大きく口を開き、そっとあの人の鼻づらを噛んだ。あの人も同じことをした。胸元にはわたしの掛けてやった牙の首飾りがゆれていた。わたしたちのお別れはそれだけだった。
 体中、まだ、傷だらけだったけれど、走ることができないほどではない。わたしは何歩か歩んでゆき、最後に一度だけ二人のほうを振り返った。そうして死んだおとうさんのほうを。死んだおとうさんの体はもう空っぽのただの黒い毛皮の塊になっていた。魂はもう空へと飛んで行き、他の男たちと共に、星の間を駆けていることだろう。
 わたしは最後に、天へ向かって吼えた。高く低く、また、長く尾を引いて。あの人もまた空を向き、高く吼えた。わたしと同じように。
 そしてわたしは―――おれは、走り出した。もう二度と、振り返ることなく。
 これから長い旅をすることになるのだろう。はぐれとして。
 けれどそれは、どんなにか、胸の躍ることだろう。おれはこれから生きてゆくのだ。男として。多くの男たちが生きてきたように、誰も愛さず、誰からも愛されず、たった一人で。そしてかぎりなく自由に、そして孤高に。荒野を生きるよう定められた男たち、無数の父たちと同じように。

 さあ、これからどこへ行こう?

 
 

文字数:39952

内容に関するアピール

私は15歳で小説を書き始めてからこのSF創作講座に参加するまでの間、ずっと女性向け同人の世界に身を置いて小説を書いてきました。

女性向け同人の世界はとても広く、現在メジャーな同人小説の投稿用SNSとして活動しているpixivだと、今のジャンルだけでも最低32万作の作品が投稿されています。細分化された棲み分けは女性向け同人の世界の独自かつ厳密なルールですので、実際にはさらに多いはずです。しかもこれで1ジャンル、常に読者にも作者にもまったく不自由することのない広い世界です。私は何の疑問もなくその世界だけで暮らしていました。

ですので、私は自分の書くものが女性向け同人の読者以外に評価されることなど、想像もしたことがありませんでした。

ジェンダーを扱ったどの論説をよんでも、「男性ではないもの」が女性として位置づけられている、と書かれています。ですが物書きとしての私に取っては自体は真逆でした。そして読者として想定したこともない《女性ではない人々》のために小説を書いて何度か失敗し、もうこれは仕方がない、普段通りに書こう、と思って作品を提出し始めてから、はじめて評価を受けるようになりました。

SF小説を読んでいると奇妙な気持ちになることがあります。この作品はあきらかに男性のために書かれているのに、なんで、特に知らない女の子に好かれることが『ごほうび』になっているんだろう? だとか。よく知らない人にいきなり好かれてうれしいのか? だとか。そしてそちらの世界から見たときも、疑問は山のようにあるのだろうなあと思っています。たとえば女性向け同人にありがちな、男子に恋愛感情を向けないとても素敵な女の子の存在とか。

《女性でない読者》は私に取ってエイリアンのような存在です。

にも拘わらず、性別を問わない読者が私の作品を面白がってくれるのだとしたら、それが一番SFなんじゃないかなあ、と今は考えています。

文字数:795

課題提出者一覧