エイジ・オーバー

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エイジ・オーバー

 行方をくらますためにはうってつけの市場を抜け、破れた下水管から溢れるヘドロの池の向こうに、路地裏に影が引っ込んだ。俺の前を横切ろうとした自転車が無理やりハンドルを切り、鋭角を描いた腰を持つ老人を巻き込んで、飛び込んだヘドロの池が激しくしぶきをあげる。

 薄気味悪い路地裏に二人の足音が響く。奴は両端に積み上げられたゴミ袋の山に触れて雪崩を起こし、腐ったりんご、形を残した粥状の米、大量の真っ白なティッシュの屑、へし折られたような椅子の脚が散らばる。俺は呼吸を止め鼻孔にこびりつく酸っぱい匂いを、軽々とそれらを飛び越える。

 大通りの手前で右手がポケットに入っているところが見えた。ダストボックスの影に隠れると、銃弾の抜ける音がすぐそばで響く。相手との距離は十四メートル、ハンドガンで十分狙える距離だ。ダストボックスの上から相手の足をめがけて、間違って太ももを貫通して出血死されないよう相手の立ち位置を狙って二発撃ち、奴の右のふくらはぎから赤い飛沫が飛ぶのが見えた。

 大通りに抜けず、狭い路地裏をジグザグに進む。遠くでカラスが鳴き、夕日がマンションの禿げた塗装を濡らし、半分削れてしまった壁面の数字がキラキラ輝く。奴の脚の様子まで確認できないが、地面を濡らす血痕に大きな模様が混ざり始めた。

 T字路を右に曲がったところで、目の前に大きな壁が立ち塞がっていた。

 駆け寄ろうとするが、奴は高く飛び上がって避難路の階段に手をかけ、蟻地獄でもがくアリのように這い上がっていく。螺旋階段をぐるぐる周り、四階、五階へと登るたびに視界がぐんぐん開けていく。階段の出口から顔を突き出す直前、屋上の縁に一発の銃弾がめり込む。

 「俺たちの組織のルールは二つ。一つ、上司の命令は絶対」

 縁にめり込んだ銃弾を押し込むように、コンクリートの穿った箇所が何度も屑を飛ばす。一発一発、何かを噛みしめるように間を開けて、既に四発は続けて打っている。

 「二つ、返事は”はい”のみ」

 奴は何を向きになっているのだろう、と思う。少なくとも、感情的な動機に動かされていることは確かだ。

 「俺は”はい”を言い続けてきたんだ」

 五発目、ヒビが作った小さな石ころと銃弾のかけらが階段の上に落ち、俺は奴に向けて銃を身構えた。屋上の反対側で立つ奴は、右手に握った回転式拳銃の先を、こめかみにぴったりとくっつけている。

 「右手に駒を握りしめている俺は、既にチェックメイトを告げられた盤面の駒だ。尋問は最後の裁判で大いにやればいい。人生にピリオドを打つこと。これは人間にとって普遍的な自由であり、この世で生きる者に与えられた正当な義務だ」

 「お前は既に、八発は銃弾を撃っているはずだ。その銃に弾は残っているのか?」

 頭皮から滲み出た汗が大きな粒となって額を避けるように伝う。自分の肺に溜め込んだ空気が抜け切ると、伸びた両腕にかかる力がゼロになる。もう一度脚を狙おうとした時、奴の拳銃は右手を離れて地面に落ちた。

 奴は俺を見つめて微笑んだ。モナリザを連想させるような静かな微笑みだった。重心が奥にずれていることに気づくまで、一秒はたっぷりかかった。

 拳銃も身体も、欠かさず俺たちを押し付ける重力も、機能的には人間の道具にすぎない。

 鉄球が芝生に着地した時のような鈍い音が耳の中でこだました。屋上から見下ろすと、奴は脳天から遥かなる大地に突進し、瞼をくっきり開いて大空を見つめていた。

 死体処理、報告書作成という仕事が夜のスケジュールを押さえた。

 

 

 電話を受けたのは、黄砂嵐が去った翌日の朝だった。

 ロンの店でササガニのフライを食べていた俺には、嫌な予感があった。犯罪を嗅ぎつける能力と刑事時代のコネを頼りに、刑事から新聞記者の社会部へ暖簾を変え六年が過ぎようとしていた。大手新聞社とはいえ、世間でいう三流記事を追いかけるだけの自転車操業であることに間違いはない。しかし、東京で俺が得られる仕事としては、身の丈にあっていると考えていた。

 あまり乗り気のしない事件が起きているのだろうと思った。なぜなら、黄砂嵐トゥイリンが訪れる時は普通家の外に出る人はわずかだから、親密な間柄で起こるゴタゴタや手の込んだ凶悪な強盗に当たることが多い。そして、そんな日に起こる事件は大抵陰湿で後味が悪い。小屋が壊れて家宝の赤毛牛ブラウン・キャトルが逃げ出した、という事件ならまだ笑いの種になっただろう。

 「よお、目覚めはどうだい?」電話の相手は、情報屋のチャンだった。音声が掠れているのは、黄砂嵐の影響かもしれない。

 「良くないね。黄砂嵐が来ることをすっかり忘れて、洗濯物を干しっぱなしにしてたら全部持ってかれてしまった」

 「おいおい、呆けたようなことしてるなあ。酒を飲みすぎてるんじゃないか?」

 「余計なお世話だよ。何かあったのか」

 一呼吸を置いて、チャンは話を始めた。今日の朝、ワンタン・サーカスというサーカス団の団長が、ナイフで胸部を刺された所が発見されたという。団長は出血死とみられ、警察は殺人事件として捜査を始めている。

 「ワンタン・サーカスの団長って、ポスターに出ているあのずんぐりむっくりの奴か」

 窓の外に映されたホログラム掲示板を見やる。ワンタン・サーカスの団長が両手を広げ、周りの団員が空中の紐、リング、竹竿に四肢を絡まさせている。そして、吊り下げられた鏡の破片たちが、三原色を基調にした衣装をフラクタル状に映し出す。

 「ああ。結構人気があるサーカスらしいが、団長が親の借金の肩代わりをする代わりに、無理矢理サーカスに連れてこられて働かされている団員ばかりだそうだ。借金を引き受けてくれる仏様のような人でも、恩と報いは諸刃の剣だな」

 俺の頭の中では、尋ね人のリストが下へ伸びていく。警察は機密情報隔離法CIILが通ってから事件の取材に非協力的になってしまい、私のOBとしての立ち位置も少しずつ揺らぎ始めている。まず、事件の一次情報が入らなくなってしまった。事件の起きた場所に向かおうにも、自力で(とはいえ、他人を使っているのだが)探し出さなければならない。チャンは、情報屋の中で唯一信頼を置ける奴だが、期待される見返りの大きさに遠慮がない。

 「ありがとう。情報のお礼は後で送る」

 「ぬかりなく・・・・・、よろしく頼む」

 チャンがこの語彙を使うときは、賄いをふやしてくれという暗黙の要求がある。内容から見て独自情報とは思えないが、スクープの臭いがすることは間違いない。

 刑事として勤めて得たものは、犯罪の臭いを嗅ぎつける習慣と、番犬の散歩よりも退屈な書類を書く能力だった。他人に話せるような、綺麗な思い出は少ない。夢に出てくるのは、ドミノの短辺を人差し指で弾いたようなモーション、肉体と重力と一体になる間延びした無音の時間、黒い液体を散らして真っ白な目で大空を見上げる奴の顔。

 モナリザを縦に七十五%圧縮して印刷すると、こんな顔になるのだろうか。

 追いかけることを仕事にしていた俺は、奴が空に舞った日から追いかけるものに対する執着が煙にまかれたように消えてしまった。新聞記者なら、追いかけるものを自分で制御でき、追いかけたものを得たように装うことができ、追いかけなかったものに蓋をすることができる。ただ、俺に出来ることはそれしかなかった、というだけのことだと思う。

 苦いカニみそを食べきって、紅茶よりも薄い色のアメリカン・コーヒーを喉奥へ流し込む。以前よりもさらに薄くなって、雨水のような味がした。砂が散らばった床をモップで拭く店員を避けて、ヒビの入ったガラス戸を押した。

 外の空気は乾燥し、西から吹く風は柔らかい。店の前に止めたジル二〇八を見ると、ボンネットに黄色い砂が薄く積もっている。黒い車体に相まって、警告色のように目立っていた。しかしこの街では、目立つことはあまり好ましくない。

 地べたに座って運転席の扉にもたれ掛かる若い青年がいた。

 「どいてくれ、それは俺の車だ」

 痩せこけた体型、ヨレた服、ほつれた黒のスニーカーは貧相な印象を受けるが、乞食ではなさそうだ。顔肌は白粉をぬったように白く、皮膚を引き伸ばしたような張りがある。

 「ああ……」

 その目は厚い透明な膜で覆われたように澄んでいたが、目線の先はどこか虚ろだった。声に反応したのか、お互いに顔を合わせても俺の彼方後ろを見ているように思えた。

 「おねんねは余所でやってくれ。車道側で座ってると轢かれるぞ」

 彼は右手をゆっくりと俺に向かって突出し、人差し指を立てた。私に忠告を促す預言者のような、しがないポーズを決めるヨガかぶれのような、E.T.の鮮やかなワンシーンにしては神秘さの欠片もない姿だった。

 「兄ちゃんはいくつだ」青年の声は、dの音が聞き取れなかった。舌が回っていないようだ。

 「何がいくつだって?」

 「年齢だ。この世界に生まれてから何年が経った?」

 この男は、自分の抱える悩みについて他人を巻き込むために俺を試そうとしている。自分の関心が普遍的な問題であると信じるからこそ、赤の他人である俺に問いかけることに何の疑問も持たない。<老人>の典型的な傾向だ。

 「四十四年だ。あんた、逆老化促進剤を打つのは何度目だ?」

 「これで三度目だ。生きる力がみなぎっていく瞬間を実感出来るのはいいぞ、兄ちゃん」

 細胞分裂をするたびに細胞のDNAは複製される。しかし、染色体の末端に存在するテロメアは細胞分裂をする際に徐々に短くなり、限界まで短くなるとそれ以上の細胞分裂は不可能になる。だから人間の細胞は、通常一定の回数しか細胞分裂をすることが出来ない。

 よって、テロメアが短い細胞は老けた細胞といえる。

 逆老化促進剤を投与された細胞は、一度短くなったテロメアを再生するようになる。身体全体の細胞に染み渡らせるため、点滴を通して十二時間ほどかけて血液に注がれる。逆老化促進剤の液体が黄色いことから、「イエロー・マジック」と呼ばれている。

 「逆老化促進剤を打って肉体が若返り、いい気分になるのはわかる。それで俺に何の用なんだ」

 「なんてことはない。腹が減って動けないんだよ、兄ちゃん」

 点滴を受けると、まずとてもお腹が減るようになる。新陳代謝の激しい消化器官の上皮から若返るための細胞分裂を行うからだ。食欲中枢がそこまで若返っていないのに、消化器官だけ機能が増強するため、消化器官は常に空腹の信号を出す。「腹の虫が暴れている。キリキリと痛むんだよ」

 俺にも仕事がある、よそに頼んでくれ。そう言って車のドアを開けようとすると、青年が背中に力をこめて抵抗する。もう一度、ドアに力を込めると俺の右足を掴んだ。俺の目をまっすぐに見つめている。何かもらわないと気が済まないらしい。<老人>の特徴その二、自分勝手であきらめが悪い。

 「肉体が若返ったんだ。地下労働にでも勤しんで稼ぐことだ」

 右足を高く掲げて、青年の右手を無理やり振り払った。十本のか細い指が俺の左足首を掴んだ。振り返ると、砂まみれの青年が目を潤ませながら俺を見ている。車道の俺たちを見ている野次馬も少し集まり始めた。ゆったりとした日曜の郊外に、異様な空気が流れている。

 「固いこといわないでくれ。俺は地下で四十年働いて、身を切って得た小銭を貯めてやっと逆老化促進剤を買ったんだ。俺は労働に身を焼いた、四十年間を取り戻したんだ。こんなみじめな奴でも、ほんの少しでも祝ってくれないか」

 「申し訳ないが、俺に他人を憐れんでいる余裕はない。お祝いをしたいのなら、神に手を合わせるか、もっと身近な人間と共にしてくれ」

 左足首を車のサイドステップにぶつけるようにして蹴り上げた。青年の何かを堪えたようなうめき声を出す。一度では両手が離れなかったので、もう一度ぶつけた。青年は力尽きたように左手を押さえてうずくまった。

 俺はさっさと車にのり、その場を後にした。ミラー越しに見える青年は立ち上がり、うつむきながら車とは反対の方角へ歩き始めた。

 彼の伸ばした腕はしなやかで筋肉に張りがあったが、背中はか細く右肩が垂れて、歩いているのに腰が据わっているように見えた。地下道を拡大させるためにシャベルで土砂を掬い続けてきたのかもしれないし、足場の悪い資材通路で山盛りに積まれた岩石の籠を運び続けてきたのかもしれない。細胞を若返らせても、長い間携わったのであろう重労働の跡が色濃く残っていた。

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内容に関するアピール

 往来の遅筆が祟り、全5節構成のうち、第1節のみ掲載いたします。

 完成していない作品を掲載するのは忍ばれるのですが、SF創作講座で頂いたヒントを活かす大きな機会に際して、文体や物語の詳細な流れを公開することに意味があると思い、掲載させていただきました。

 この小説の狙いは、アンチエイジングなどが掲げてきた「若さ」の維持が究極的に進んだ世界で、人々の生活や死生観はどうなるのかという思考実験です。「若さ」をコントロールできる世界では、人々にとって「老い」は理解されず自己責任と見なされ、突然やってくる死を待ち続けることが強烈な死生観を形成するのではないでしょうか

 SF創作講座では品行方正とは言えない私ですが、講座の最後までお付き合いいただいた関係者の皆様に感謝申し上げます。

文字数:338

課題提出者一覧