トリックを越えて

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トリックを越えて

白く曇ったドアガラス越しに暗い部屋を照らす通路明かりが徐々に光量を上げていく。その微妙な変化をねばついた薄目でぼんやり見届けるのに飽きると、シェイ・ダイアコニスはぐっと力いっぱい枕を抱きしめてからベッドを抜け出し、まぬけなうめき声とともに上体を反らした。
壁に埋め込まれたライフアテンダントのエルデがシェイの起床を即座に感知する。日付と現在時刻を示す数字の並びを前面のパネルに浮き上がらせて、低めの音量でいつものように中音域のなめらかな声をやさしく室内に響かせた。
「おはよう、シェイ。今日は地球時間で2105年10月3日。ロサンゼルスは7時12分を過ぎたところ」
シェイはすでに聞き飽きたエルデの挨拶を無視して右手の親指と中指を頭上で弾いて音を鳴らす。このジェスチャーは母親が設定したものだ。部屋全体にぱっと明かりがともり、枕元の白い壁には大きな“窓”が表示された。シェイは口を曲げて鼻からため息を吐いた。やっぱり外の景色はいつもと変わらない。光の粒をたくさん含んだ暗闇のままだった。
「エルデ、地球の天気は?」
「ロサンゼルスは快晴だよ。でも午後からは曇りになるかもしれない。シェイには関係ないけどね」
赤ん坊の頃からもう10年以上、この船で生活するシェイにとって、天気ほど無縁なものはなかった。シェイが天気という言葉にはじめて接したとき、その表情を読み取ったエルデがすぐさま拾い集めてきた空模様の画像を、いくつか壁に表示してやったことはあるが、幼いシェイは見向きもしなかった。当時はまだこの船にシェイの母親がいて、そのときもシェイは彼女に質問をぶつけることに夢中だったからだ。
「もういいよ、エルデ」とシェイはいった。

ドアのむこうに全身グラスグリーンのまんまるとした人影があらわれ、大声でシェイの名前を呼んでいた。同い年のクリフ・ハナヤマだ。数日前に廊下ですれ違ったが、まともに口をきくのはひさしぶりだった。びっくりしたシェイは少しためらいつつも、指のジェスチャーでドアロックを解除した。するとクリフはわざとらしい鼻歌とともにずかずかと部屋に入ってきて、鉄球のような尻を豪快にベッドの上に落下させた。
「聞いたかシェイ。到着まであと3年と8か月だってよ。また延びやがったんだ」
「誰がそんなことを?」
「ブラウエさん」
「ああ……」
ライリー・ブラウエはかつてクリフとシェイを担当した養育保護官で、複数人の子供たちを両手にかかえた62名の乗務員のひとりである。シェイは彼女が苦手だった。子供たちは7歳から乗務員の手を離れて生活するため、独立以来シェイはライリーの威圧的な態度から逃れるようにして個室にこもり、彼女を見かけても自分のほうから近づいていったことはない。
「1年も増えたんだ」シェイは潰れた愛用の枕に目をやりながら、特におどろいたようすもなくいった。
「1年じゃねえ、1年と5か月だ!」クリフはおおげさに嘆いてベッド上を転がった。「あーん、もうもう」
クリフが退屈を嫌うことをシェイはよく知っている。宇宙船ドリーミンは現在、地球を離れて人類の新たな境地である惑星マヒアに向けて航行中、それ自体がおどろくべき偉業なのであり、自分たちはいままさに大冒険の途中なのだと――エルデにそう諭されたように――互いに言い聞かせてはしゃいだ時期もあった。しかし、そもそも本物の朝と夜があるような環境での生活がどんなものか、故郷とされるカリフォルニアの空気がどんなものか、2人にとっては想像の範囲でしかなく、そこには愛着もホームシックも何もないわけで、シェイにしても偽りの冒険心をいつまでも保ち続けるにはあまりに待ち時間が長すぎた。毎日一緒にいたクリフと会う機会も次第に減り、この広い船内のそれぞれ別の場所で、別の楽しみを見つけて過ごすようになっていた。クリフがこの部屋にやってきたのはじつに3年ぶりのことだった。
しばらくして、ベッドに顔をうずめていたクリフがずり落ちた濃緑のハーフパンツを両手でひっぱりながら上体を起こしていった。「なあシェイ、あの不味い飯でも食いにいこうぜ」
シェイはクリフの目を見て小声でうなずき、左手の小指で自分のこめかみを押した。室内灯と窓を消すためのジェスチャーだ。

ドリーミンは巨大な円柱型の宇宙船で、食堂はシェイやクリフの部屋と同じ胴部中央付近の2階にあった。船の外周をめぐって同じ個室が整然と並ぶ廊下を歩いていくと、扇形に開けた空間があらわれる。雑に配置された5つのテーブルはもれなく年長の子供たちに占拠され、“朝”の食堂には湿っぽい空気が流れていた。
ディゴッシュ社製のオートマタがせわしなく動きまわる奥のカウンターでは、神妙な親子の列が淡々と味覚検査を受けている。周囲には制服を着た乗務員の姿もちらほら。
シェイが母親の顔を最後に見たのもこの場所だった。のちにライリーから聞いた話によれば、シェイの母親は宇宙に蔓延するある病気に感染したのだという。検査に引っかかった母は居住層から最上階に隔離され、シェイが彼女の訃報を聞かされたのはその半年後だった。
2人は黙って検査の列に加わった。シェイがふと下方に目をやると、クリフは腰の後ろにあてた両手の中指を人差指の上に交差してフィンガーズクロスをつくっていた。これは一種のおまじないだ。昔から変わらず、いまでも検査のたびにこうして祈るクリフを見て、シェイは思わずにやにやした。
検査を終えた2人は本日の献立一式を受け取って食堂の隅に腰をおろした。床に並べたトレイにはウッドチップのようなセイタンが大量に盛られ、各種ビタミンの凝縮された白いジェルが銀の器から溢れている。
クリフはあいかわらず不味そうなこのグルテンの塊にひとしきり暴言をぶつけたあと、流れ作業のようにせっせと口のなかを埋めていった。そして何やらもごもごとシェイにむけて音を発したかと思えば、急に立ち上がって給水器の水を汲みにいき、戻るとシェイにもコップを渡して自分のぶんをその場で飲み干した。
「おまえの部屋にあったアレさ、もしかして本だろ」クリフは残りのセイタンをつまみながらいった。「ベッドの隙間にあったやつ」
「本?」シェイは2か月ほどまえにベッドの脇からいかにも古風な小型の電子タブレットを見つけたのを思い出した。しばらく眺めてみたが誰のものかもわからず、エルデに促されるまま枕元の隙間に差し込んで、いつしか気にもとめなくなっていたものだ。
「昔の情報端末だよ。模様みたいなやつが出てきただろ」
「うん、いわれてみれば」
「あれは文字。おれはひそかに検索言語と呼んでいるがね」
「検索言語?」シェイは口元に近づけた栄養ジェルの食器をトレイに戻していった。
「なんだ、知らないのかシェイ」クリフはわざとらしい笑みを浮かべた。「ああ、心配していたとおりだ。このままだと日にちを数えるだけで人生が終わっちゃうぞ。いいか。おれがなぜこの話をおまえの部屋でしなかったのかよく考えてみろ」声をひそめて、「エルデがどうしておまえにいろんなことを教えてくれると思う。やつはいつもものすごい速さで検索(search)しているのさ」
「探すって、どこを?」
「そりゃ情報の山さ。昔の人が遺した知識がたくさん詰まってる場所があるんだ。とにかく、検索言語を使えばおまえだってエルデと同じことができる」
「数字じゃだめなんだ」
「数字なんかよりもっとすごい! こうして話していることはぜんぶ文字になるんだから」
シェイは数字のもっとすごいやつを思い浮かべた。いわれてみればたしかに、言葉が数字のように読み書きできたらすごく便利。どうしていままでこんな単純なことを思いつかなかったんだろう。でも話したことが数字のように数えられてしまうのは、ちょっとだけ恥ずかしい気もした。
「とにかく」とクリフがいった。「もともとみんな知りたいことは自分で検索していたんだ。文字を使ってな。いまじゃ自力で検索言語を書ける人間は一部の大人だけらしいぞ」
シェイはいつのまにか自分よりも数倍大人びたクリフの口調におどろいていた。口に含んだセイタンの咀嚼をしばらく忘れるほど。
クリフはにやりとして、「わかるぞ。おまえは検索言語がどんなものか見てみたいんだろう」そういうと右腕の袖をめくって裏地を見せてきた。
シェイが顔を近づけてのぞきこむと、グラスグリーンに染まった布地の表面には白い線がいくつも粒状にまとまり、それらがまっすぐに2本並んだ模様が描かれている。数字のもっとすごいやつらだ。
「『自然であれ 自然であれということは あなた自身であれ ということだ』」
わざとらしく顔をしかめたクリフが小声で読み上げた。「ここにはそう書かれている」
「すごい。すごいよクリフ」シェイは素直にそう感じた。模様の形を見るだけで人のいいたかったことがわかるなんて、とんでもない発明品に出会ってしまったものだ。
「そう、世界は数字だけじゃない」とクリフがいった。
シェイは不意に顔を上げてきょろきょろとあたりを見まわしてみた。そこらかしこのさまざまな模様が目に入り、検索言語らしきものがたくさんあった。「あれは何」と指をさすと、クリフは「食堂」と答える。また別の模様を指さすと、クリフはただの模様さといった。そんなやりとりがしばらく何度も繰り返された。なかにはクリフにもまだ意味のわからない言葉があったのだが、彼はそれも模様ということにしておいた。

「おまえにおれの秘密を教えてやる」
クリフは突然やけに真面目な口調になった。シェイはどきどきした。
「きっかけはブラウエさんにもらった古いVR装置だ。まあわかりやすくいうと検索言語を教えてくれた機械さ」クリフは胸ポケットからそれを取り出す。「こいつがびっくりするほどおれの視界を広げてくれた。文字を知り、規則を知り、目で理解する言葉の世界に導かれたんだ」
「おお」シェイにはクリフがまるで新しいライフアテンダントのように見えた。
「そして、最後にVR君はこんな言葉を表示したんだ。『世界には悪戯が溢れている。きみが真実に近づきたかったら、ライフアテンダントに次の文句を宣言してみなさい。“マーラについて調べたい”と』」
「マーラって?」
「まあ聞けよ。おれがその呪文を唱えるとエルデが反応してスリープモードに切り替わったんだ。するとやつの前面を覆うガラスの板にマニュアル検索専用のウェブブラウザが姿をあらわした。わかりやすくいうと、エルデに代わっておれが自分で検索できるようになったってことさ。人がほとんど立ち入らなくなった秘境への道が開けたんだ。そして、おれは“マーラ”を音声入力し、ガラス板に表示されたおびただしい数の検索言語をひとつひとつ点検していった……」
「うん、それでそれで?」
「おっと、この続きはおまえが検索言語を習得してからだ」クリフはこらえきれないといったようすで口に手をあてると、嬉々として目線をシェイの顔から逸らした。「VR君を貸してやるから2か月で頭に叩き込むんだ。それまでは呪文を唱えるんじゃないぞ。シェイ、もしおまえがこの世界の真実を知りたかったらな」
クリフがふたたび真顔をこしらえてからそういうと、シェイはぎゅっと口を結んで深くうなずいた。

 

ライリー・ブラウエはシートに深くもたれかかってフロントパネルの上で足を組み、ライフアテンダントのアネモスを内蔵したU字型のヘッドギアを首にかけたまま、レプリカの和同開珎を指の上でのそのそと転がしていた。穴の開いたコインは銀貨に比べて重量感に乏しく、ぎこちない足どりで倒れてはまた起き上がるのを繰り返す。まるでコインにいまの心境を見抜かれているようで不快だった。ライリーは60を過ぎてようやく養育保護官の立場を退いたあと、アネモスのいない生活を約3年間続けてきた。若い頃はせいぜい2時間が限界だったが、頻繁に鏡を見ては自分がひとりであることを確認したおかげか、次第に心許ない状態にも慣れていった。
ライリーはディゴッシュ社のスタッフだが、ほかのスタッフとは職場環境がまるで違う。第一に地球でライフタスクに専念しているわけではないし、第二にこの船の乗務員のなかでもかなり特殊な立場に置かれている。彼女が任されているのは船内でもっとも自由度が高く、いまの彼女からすれば人目を気にせずにのんびりとこなせる、じつに気楽な役職だった。この船の操縦だ。

「カスどもめ」ライリーはコインをフロントパネルに投げつけ、制服の内ポケットに忍ばせた空っぽの電子煙草を口に咥えた。いつもどおりひゅうと空気の漏れる音がするだけだったが、これはそういうものだと思っている。
「いったいどうしろと……」そういって彼女は天を仰ぐ。
ディゴッシュの幹部が突きつけてきた要求は単純にいうとこうだ。子供たちの冒険心に火をつけてほしい、ただし密閉された容器のなかで――。ふざけやがって。やつらがここまで子供の情操教育に熱心だったとは。ようするに、こんな場所に閉じ込められた子供は好奇心を衰退させておとなしくなってしまうが、かといって外に出すわけにもいかないから、とにかく“操縦士”が工夫していい感じのハプニングを起こしてくれと、そういうわけだ。
ライリーは過去に何度かドリーミンのトラブルを経験してきた。もちろん当時の操縦士による乗務員たちへの合図とともに始まった予定通りの事故だ。ある子は泣きわめき、ある子は狂ったように部屋の“窓”から船外活動のドラマを見守った。つまり彼女がいまこれから果たすべき務めといえば、シナリオの選択と疑似災害を開始する合図のみ。だがそもそも用意されたシナリオのパターンなんてぜんぶで3種類しかなく、いずれも過去に使用済みだった。つまるところ弾切れの猟銃で獲物を仕留めろというのだ。
ライリーはある計画を目論んでいる。だが大抵の物事には動じない気質の彼女にも恐怖心がないわけではない。以前なら危険に身を曝すことをおそれ、ディゴッシュに銃口を向けようなどとは思わなかった。そんなのは失敗に終わるのが目に見えていたからだ。アネモスから耳を遠ざけるにつれて考え方も変わったが、心のどこかでその計画の実行には迷いがあり、あいかわらず自分ひとりでは何もできないことに苛立っていた。
3年前に養育保護期間を終えた2人の子供それぞれに、彼女がひそかに脱出の鍵を渡したのはそのためでもある。計画を実行するうえで、彼らの腕を掴んで無理やり外に放り出すような真似はしないが、彼らのもつ機械的な性能を把握したうえで誘導することに変わりはない。自らを安全圏に置いて人や鳥や動物をある目的のために道具として利用する。“トリック”使いとはそういうものだ。
ライリーにとってこの世界はトリックで動いている。トリックとは人間に備わったある種の機構であり、弱点でもある。そのことを学ぶきっかけをくれたのは、20年前に路上で遭遇したMと名乗るジャグラーだった。
ロサンゼルス西部に位置する高級住宅街の跡地、灰色に染まったミニマル住居の大群へと続く道路をホバーバイクで走っていたときのこと。独特の訛った英語でライリーに話しかけてきたジャグラーMは、アジア系の淡白な顔をした初老の男性だった。あたりの景観にそぐわないスカーレット色のケープを風になびかせ、時速40キロで近づいてくるホバーバイクの前に立ちはだかり、手をかざして紙製のプレイングカードを4枚、空中から取り出してみせた。スカーレット男の手に出現した白い物体に不意に視線を奪われたライリーは思わず反射的に減速し、ハンドルを切って回避しようか迷いつつもそのまま停止した。足元の地面を見ると本物のバイシクル模様が吸塵舗装の上で青みを増していた。
「無視して通り過ぎなかったのはあなたがはじめてですよ」とMはいった。「もう誰も奇術(Magic)なんて知らないし、わずかばかりの関心もないんですからねえ」
「マジック――」ライリーはかがんでカードを拾いながら「いまのは魔法だっていうの?」
「ほっほっほ」Mは嬉しそうに天を仰いだ。「まるで16世紀以前の反応ですな」4枚のカードをライリーから受け取って「あなたはまだいい。ほかのみなさんは目もくれずに走り去っていきますよ。ライフアテンダントのミスディレクションは見事なものですな。次のライフタスク以外はまるで意識にない。まあ些細な怪我や病気でも侮れませんからな」
「ミスディレクションって……食事や睡眠業務の何がミスなわけ?」
「いえいえ、生命維持は大切なことです。ミスディレクションというのは奇術に関する言葉でしてね」Mはライリーの顔色をうかがうような口調でいった。「それより通行を邪魔しておいてなんですが、次の予定はすぐですかな」
「飛ばせば十分間に合うから」ライリーはアテンダント内蔵のヘッドギアを外していった。「それに、移動中はディレクションを解除してるの。ちょっとした冒険心からね」
「ほほう」Mはわずかに声のトーンを上げた。「もしや上位組織の方ですな。失礼ですが所属先はどちらでしょう」
「教育機関だけど、プレステージの」ライリーはすこしためらってからいった。
「なるほど。それでも奇術に関してはご存知でないと」
「だから」ライリーは眉をひそめてわずかに語気を強めた。「それはいったいなんなの?」
「うむ、よろしい。これを持っていきなさい」Mは腰のポケットから塗装の剥げた化石のような電子書籍の端末を取り出してライリーに手渡した。「世界中に数えられるほどしか複製のない貴重なデータが入っています。あなたにとって、いずれきっと必要なものになるでしょう」
「貴重なデータを見ず知らずの通行人に?」
「あなたはわたしのカードにいい反応をしてくれました。それで十分です」
「あれはホログラムじゃないことにおどろいたのよ。どうせその袖の内側に小型の装置を隠してるんだろうけど」
「いいえ」Mはにやりとして袖をまくった。「そんなものはありません」
ライリーは一瞬ぎょっとしたが、信じてはいなかった。何も持っていない人間の手からいきなり物体が出現するわけがないのだ。仮想空間でもあるまいし。
Mはいった。「さすがのディゴッシュもこの本の存在だけは知らなかった。トリックを解説するだけの奇術書とはまるで違う内容ですからな」
「トリック……奇術って悪戯のことなの」
「ほほ、悪戯ですとも。それもあまりに手の込んだ悪戯です。だからこそ、取り扱いには注意が必要なのですよ」Mは不敵な笑みを浮かべる。「あなたの世代なら字は問題なく読めるでしょう。いうまでもなく上位組織の方なら当然――」
「ええ、ありがとう」ライリーは若干戸惑いつつも微笑んでいった。「あなた名前は」
「“M”」とMはいった。「いまはそう名乗っているのです。わたしの名前なんてあってないようなものですから」

ライリーが本物のジャグラー、つまりどの企業にも属すことなく生活している人間と話したのはこのときがはじめてだった。以来、ジャグラーを見かけると気まぐれに声をかけてみるようになり、そのおかげで電子煙草や硬貨やプレイングカードなどを貰うことができた。ほかのディゴッシュスタッフなら感染症などの危険性からまず試みない行為だが、ただ話しかけただけでめずらしい物品を頂戴できるのは悪くない気分だった。
ライリーはMに貰った本を夢中になって読んだ。そのせいで食事や睡眠の予定時刻を頻繁にオーバーするはめになったこともしばしばだ。忘れろといわれたものの、本を開くたびにMの顔を鮮明に思い出した。

かつて奇術という文化があった。奇術をおこなう人のことを奇術師といった。そんなことが常識だった時代はとうに過ぎ、いまではほとんど誰も知らない。
ライリーがドリーミン脱出の鍵としてシェイ・ダイアコニスに渡したその本には、失われた文化が継承し続けてきた“トリック”の歴史が詳細に描かれている。古代エジプトからインド、中国、日本。中世の旅芸人、魔女狩り、ヨーロッパ近代奇術、心霊主義批判、アメリカの大掛かりなイリュージョン、そしてクロースアップマジック。
著者のS・W・アードネスは、20世紀初頭のコンマンが使ういかさま技術の解説本『THE EXPERT AT THE CARD TABLE』(1902)によってすでに奇術関係者のあいだでは名を知られていたが、その正体は最後まで謎に包まれたままだった。史上もっとも有力とされた鉱山技師のW・E・サンダース説でさえ決定的な証拠の発見には至らず、21世紀の中盤から末にかけて、ディゴッシュ社が買い占めた世界中の奇術書のなかにも当然この書物は含まれていた。
ディゴッシュ社がトリックを独占することで奇術に携わる人の数は著しく減少し、人々の記憶からも着実に奇術が失われていくさなか、世界中に残った数少ない奇術師たちは、アードネスが遺した第二の著書とされる『BEYOND THE TRICK』(1934)の書き写しデータを秘密裏に共有することにした。なぜならここにはトリックを使う者の光と闇、そして20世紀に生きるひとりの人間の観点から、奇術が招く悲劇的な結末がかなしいほど適確に描かれていたからだ。
ライリーが受け取ったのはこのアードネス第二の著書だった。先へ進むごとにトリックの猛威が人類史の裏側で着実に根を広げていくのが実感された。
《至近距離でのコンタクトが長続きするだろうか》
アードネスはそういった。
事実、長い奇術の歴史のなかで最後にあらわれ、最初に衰退したのはほかでもない、クロースアップマジックなのだ。

「すべてトリックさ」とライリーは呟いた。彼女は深くため息をついてから、年季の入ったフロントパネルからブラウザを起動し、いまとなってはひと気のないインターネットにアクセスした。すでに廃墟と化したいくつかのサイトを巡り、前世紀の人々が遺した日常の記録などを眺めてまわった。そして遠い昔の有名なキャラクターの動く図像をあるサイトから丁重に盗みだすと、各部屋に備わったウィンドウ内の景色に合成し、同時に流してみせた。もちろんディゴッシュはこのキャラクターの使用許諾を正式に取得していないので、いずれ大量のキャストを支払うはめになるだろう。ざまあみろ、と不意に彼女の顔に笑みがこぼれる。
ディゴッシュといえどもカリフォルニアですらその全住人を手中に収めたわけではない。世界54企業による北米大陸の支配状況はいまだ混戦しており、昔に比べれば地球での生活はどれも似たようなものであるものの、休暇を過ごすサブソサエティは各人の所属先によって変更される。ライリーはディゴッシュの人間なので、かつては休日になると“プレステージ”で快活に奮闘していたわけだが、12年前にドリーミンの乗務員に任命されて以来、あの仮想空間には一度もログインしていない。
ライリーはシートを回転させて立ち上がり、操縦室の扉にロックをかけた。これでしばらくは誰も入ってこないはずだ。空っぽの電子煙草で空気を吸いこむと、先ほどよりもわずかに酸素が濃くなった気がした。

 

エド・ダイアコニスは全裸で座っていた。
休日を迎えた人々が速やかにサブソサエティに移動できるよう、道路脇に何台も並べられたこの空間は“バードケージ”と名づけられた転送装置だ。
冷蔵庫のような扉の前で認証を済ませ、履物を脱いで一段上がると幅2メートル×奥行2.8メートルの抗菌床が敷き詰められた純白の密室になっている。室内に監視装置の類がないのは、利用者がセンサーの感受不良を防止するために衣服をすべて脱ぐからで、壁に開いたストレージホールへ手荷物を預けてからヘッドセットを装着し、床に描かれた中央のサークル内に胡坐で座って待つと、やがて生温かい煙霧が室内に充満しはじめ、利用者はキャストとなって数分後には仮想空間の都市まで転送されている。
なぜ胡坐かといえば、この姿勢がもっとも転送時の身体への負担が少ないからである。サークルの内側には無数の小さな穴が開いており、床下から伸びる繊維束のような毛細端子が全身をそっと包み込む。うち数本が直腸の粘膜まで到達するにしたがって利用者の全身は一時的に凝固し、なかば仮死に近い状態で完全に静止させられる。利用者の手足は壊死することもなく、肉体は生気の抜けたきわめて無機物に近い状態のまま安全に保存される。世界54企業のひとつ、リシ社が研究機関に開発させたサイバー・エマンシペーション技術だ。
やがて各部の粘膜から生体維持エアロゾルの成分が体内に送り込まれると、頭部をすっぽり覆ったヘッドセットが作動し、仮想空間に人体の構造を複製再現したRPS(Replicated Physical Structure)のランダムな危機回避動作によって形成された人工意識が、本体由来の意識現象に置き換えられる。ちょうど暖炉の薪を交換してからふたたび火をつけるのに似ており、この交換後の暖炉を“キャスト”という。
認証の段階で識別された所属先によって行先は異なるのだが、エド・ダイアコニスの場合はディゴッシュスタッフなので、彼のサブソサエティは“プレステージ”だ。地球の人々はジャグラーを除けばほとんどみな54企業のいずれかに所属しているため、所属先が違えば別のサブソサエティへ転送されることになる。

プレステージはひと昔前に比べるとだいぶ閑散としていた。エドは30代半ばにして“軍”と呼ばれる上位キャストの組織に所属しており、他国とのバトルイベントに参加している。
戦略会議室には現在エドを含めて3人の上位キャストしかいない。かつては数百人のキャストが殺到した人気ジャンルにもかかわらず、上位キャストに限定された司令部の人員が固定されてきたために劇的な展開が生じにくく、バトル関係のストーリーをプレイするのはみな前線に立つ下位キャストばかりになっていた。
先刻まで息巻いていたバトルフィールド上の対戦国は予想していたとおり大した敵ではなく、エドらがあれこれと雑談しているうちに決着がついていた。
ありゃたぶん若者の集団だろうな、とエドが呟く。立派な腕章つきの背広を身にまとって勇猛な将校よろしくデスクの前に仁王立ちしているが、その実態は全裸だ。
デスクの表面には国別の戦力データが文字と数字で記されている。これらを理解して自ら記述できることが上位キャストの条件だった。プレステージの街路をうろつくキャストの多くは文字を認識できず、みな五感を活用してアイデアイメージと呼ばれる風景を3Dスケッチとして箱型ディスプレイに描く。両手で挟んだ箱の内部にはキャスト自身の記憶にある原風景が出現し、純粋に感覚的な操作でそれを変形させることで架空の世界を創造する。下位キャストはこのアイデアイメージを複数作成し、メディアと呼ばれる上位キャストの組織に売り込むほか地位を向上させる手段はない。描いたアイデアイメージを市場に流通させるためにはストーリー化する必要があり、そのためには識字能力が不可欠だった。メディアの上位キャストは大量に収集したアイデアイメージを組み合わせることによってストーリーを作成している。
ストーリーはキャストのライフスタイルを演出するソフトウェアだ。プレイするストーリーによって街にある建物の数や種類は変化し、異なるイベントが発生する。イベントに参加するかはキャストの自由。ストーリーは複数同時にプレイすることが可能なため、各キャストは同じストーリープレイを共有することによって組織を形成する。キャストが自分らしい生き方を手に入れるには、高額な通貨を支払って希少なストーリーを直接購入するか、各メディアが街角に設置したスロットマシンを安価でまわし、景品としてまれに排出されるストーリーに期待するしかない。
アイデアイメージは商品にこそならないが、単体で楽しむことは可能だった。箱型ディスプレイの降臨ボタンを押すと、縮小したキャストのRPSが箱の内部に配置され、一定の臨場感を体験できる。複数のアイデアイメージが連なればそこに時間の流れが生まれ、出来事の詳細が設定されてはじめてストーリーが完成する。
この22世紀のライフタスク社会に用意された余暇に際して、各キャストがどれほどたくさんの人やイベントに出会い、充実した人生を送ることができるかは、入手するストーリーにすべてがかかっている。

「やっぱり、ひとりも生き残らずに終わっちゃった。向こう見ずな若者って結局、何者にもなれないのよ」
エドと同じ上位キャストのリーファ・ギマリャエスがそういった。彼女はバトルフィールドの戦況を映した大型モニターの横に腕を組んで佇み、指先の操作で戦場の映像をメニュー画面に戻しながら静かに微笑んだ。十二単さながらに長い裾を床に這わせたきらびやかなロマネスクふうのガウンが印象的だが、その実態は全裸だ。
敵陣に生存者がいないとはいえ、キャストらが本当に命を落としたわけではない。アカウントの初期化に伴い獲得済みのストーリーや所持通貨は失われるものの、自動的に前世のプロファイルが引き継がれた状態でふたたびプレステージはスタートする。サブソサエティでは死んだところで離脱することはない。
「わからないな」とエドはいった。「バトル系のストーリーがいちばん興奮するとしても、それをプレイする彼らに恐怖心はないんだろうか」
「恐怖心があるからこそ人気なんじゃない」とリーファ。「人間はあえて危険な状況を近くに引き寄せることで身の安全を強調したいのよ。嵐の日に部屋の窓から外を眺めると安らぐのと同じ」
するともうひとりの上位キャストがいった。「ただ、いまやどこも安全とはいえますまい」
2人は彼に目をやった。エドは彼の名前を知らなかったが、見た目からしておそらく6,70代の高齢者には違いない。RPSが元の身体の複製である以上、姿形は利用者本人と同じなのだ。
RPSでは感覚器の性能も変わらないので、低い視力は矯正し、傷つけば苦痛を体験しなくてはならない。というより、そうした条件こそがRPSの原動機だ。人体の呼吸器系や循環器系を忠実に再現した機構を内に含むRPSは、それを安定的に保存する目的で絶えず動いている。仮に全方位を高解像度で同時に見渡せるよう、視覚を極度に拡張してしまうと、RPSは機構の保存を脅かすかもしれない“危機”をほとんど感知しなくなり、単純に動きを止めてしまう。部分的盲目と呼ばれる通常の視野範囲が適用されているのはそのためであり、適度に安定性が奪われた不快な状態から逃れようとするためにこそ、RPSは手足を動かしているのだ。もっとも、キャスト本人はそんな原理など知る由もないのだが。

「マーラ」と老人はいった。「おそろしいですなあ。病自体がすっかり珍しくなったというのに、いまだに世界中で猛威をふるっているようですから」
「ええ」リーファがいった。「ライフアテンダントも手の施しようがないみたい。感染経路は不明。スーパーエンタングルメント顕微鏡でも捉えられないウイルスだなんて」
「よっぽど小さいんだろう」とエドがいった。
「ありえない。その“よっぽど”がどれくらいかわかってるの?」
リーファは好奇心が強く、ライフアテンダントが毎日提供する情報のなかで気になったことは何度も尋ねて確認してきたため、マーラ事情には詳しかった。
「さあね」エドはデスクの端にもたれかかっていった。「おれの野心よりは大きいかも」
リーファは嫌味っぽく「野心家じゃない上位キャストなんてあなたがはじめてよ」
「なんてことはない。ただ無難に、適当にやってきただけだ」
エドは実際、ストーリー収集そのものにはあまり興味を持ったことがない。上位組織に必須な《文字学習生のライフスタイル》と、残りの軍加入に必要とされるストーリーはすべて所持しているが、ストーリー集めはそれっきりで飽きていた。
リーファはエドがただ気取っているようにしか見えずにいらいらした。「あなたはトップキャストを目指してもいないのに、家にこもってなくていいのかしら」
老人が割り込んで、「外出せずに感染したという報告も多いようですからな。いまや無難な選択肢はないようで……」
「そんなことは、わかってる」リーファは小さく体をふるわせた。
エドがぼんやり天井を見上げていう。「おれが気になっているのは、12年前にプレイした初期型ストーリーの続きかな」
「続きとは――」と老人。「もしやBTE(Beyond The End)仕様のストーリーですか?」
「ええ、あの芝居じみたやつね」エドは右手を左から右へ動かすジェスチャーをした。プレステージ初期のストーリーは始まりと終わりがある形式のものばかりで、BTEはそれらの亜種だった。
「それはすごい。希少品ですな」
「ただ、時期が悪かった」とエドは呟く。
「なるほど……たしかに」
老人はしばらく黙って室内をうろつき、おもむろにモニターのメニュー画面を操作して外の天気を確認した。「雲行きが怪しいようで」
プレステージ内の天候はどのストーリー世界でも共通しているが、現実世界とは一致することもあれば真逆なこともある。現在、外ではぽつぽつとにわか雨が降りはじめていた。
そのとき、リーファ・ギマリャエスが小さく声をもらした。「目が……」
エドと老人が彼女のほうを向くと、リーファはまぶたを手で覆って身悶えながら叫んだ。
「目が開かない!」

 

「シェイ、惑星マヒアまでの到着時間は3年と6か月を切ったよ。大丈夫、もう延期することはない。むこうに着いたら楽しいことがたくさん待っているよ。惑星マヒアは地球にとてもよく似た星で、人間にとてもよく似た生物が文明を築いて……」
「エルデ、ちょっと訊きたいんだけど」とシェイはいった。「この船の重力はどういう仕組みで発生しているの?」
「シェイ、ドリーミンは人工重力生成装置を搭載しているんだ。だから地球と同じ重力をいつでも保っていられるんだよ」
「その人工重力生成装置はどういう仕組みなのよ」
「シェイ、人工重力生成装置の仕組みはとても複雑で難しくて、専門家じゃないとさっぱり理解できないんだ」
「クリフから聞いたことがあるんだけど、たとえばスペースコロニーなら遠心力を起こして重力を再現するらしいじゃない?」
「スペースコロニーは200年も昔の発想だよ。あれはね、結局実現しなかったんだ」
「どうして」
「想像してごらんよ。はるか遠くの頭上に地続きの街並みが逆さまになって続いているんだ。頭では安全だとわかっていても、身体は勝手に恐怖を感じてしまうものさ。そのことが2028年の大規模なVR実験で明らかになったんだ。高所恐怖症のように、大多数の人々にとって克服しがたい深刻な問題だということがね」
「じゃあ、頭上が見えないようにすればいいじゃない」とシェイはいった。
エルデはしばらく沈黙した。壁の奥でかすかに機械特有の静かな唸り声が聞こえた。
シェイはベッドに座って会話の内容を反芻しながら、この2か月で学習した文字のひと粒ひと粒が自然に列をなして頭をよぎるのを実感していた。ようやく自分の目を使って検索できるようになったのだ。
「ねえ、エルデ」とシェイはいった。「最後に訊きたいことがあるの」
「なんだいシェイ」エルデはあいかわらずいつもと変わらない声のトーンで返事をした。
「母さんは、本当に病気で死んだんだよね――」
「シェイ、それはわたしにはわからない。ライフアテンダントが把握できるのはユーザー登録されたきみ自身のこと、つまりシェイ・ダイアコニスというストラクチャーのコンディションだけだよ」
「そう」とシェイはいった。自分の母親について、本当に尋ねるべき相手が誰なのかはわかっていた。エルデに訊いたところで無駄なこともわかっていた。
「エルデ……、“マーラ”について調べたいんだけど……」
シェイはいつしかずいぶんと疑り深くなった。顔も姿形もおぼろげだが、たしかに自分の母親はかつてここに実在したらしく、とはいえ声のトーンくらいははっきり覚えていて、ライリー・ブラウエによれば名前をシメナという。そのような人物がじつはまだどこかで生きているのではないかというかすかな直感は、シェイからすればあの日の食堂で検査機のブザーが鳴って以来消えたことはない。乳児だったシェイはその日からライリー・ブラウエの養育保護下に置かれた。クリフと出会ったのもそのときだった。
ドリーミンが地球を出発してまもない当時、クリフの母親もこの船に同乗していた。地球人口の増加から惑星マヒアへの移民計画がはじまり、希望者のひとりとして抽選に参加したのがまだ生後まもないクリフを連れた彼の母だった。彼女がなぜクリフを置いて地球に帰還したのか、どうして脱出用ポッドへの乗船を許可されたのか、クリフは何度もライリーに尋ねたことがあるが、納得のいく答えは返ってこなかったという。
シェイはこの話をクリフから聞いて以来、彼と母親に関する話をほとんどしたことがない。お互い記憶の彼方にあるものだったし、時が経つに連れて地球という星と同じくらいフィクションに近くなりつつあった。文字を習得するにしたがって、シェイは目でものを見る行為に対してより意識的になっていた。自分が幼い頃に見てきた光景のどこまでが本当にあったことなのか、その確信が得られないことからとりあえず昔の話は避けておこうと考えているのは、クリフもまた同じだろうと思われた。
突如、壁の“窓”に異変があった。ライトグリーンの肌をしたしわくちゃの生物が宇宙空間に浮いている。麻袋のような茶色い服を着て、2つの目は大きくぎょろりとシェイのほうをじっと見据えていた。背はおそらくシェイよりも小さく、とがった耳がどこか愛らしい。
シェイは胸が高鳴るのを感じた。数年前までは何度かドリーミンのエンジン系統にトラブルが発生したりして、そのたびに大人たちが力を合わせて問題を解決する様子を見てきたことがあったが、その種のハプニングとは明らかに異質の事態が目のまえで起きていた。
緑色の宇宙人は静かにこちらへ近づき、そっと口を開く。
「フォースを使え」
シェイは昔からエルデに何度も宇宙にまつわる退屈な話を延々と聞かされたことがある。だから緑色の宇宙人が発したその言葉を聞いて、シェイがまず何より最初に思ったのはこういうことだ。“どうして空気がないのに音が聞こえるの?”
だが、それどころではない。シェイの胸の高鳴りはかつてないほど激しくなっていた。何かが大きく変わろうとしている、これからとんでもないことが起きるかもしれない。
ドアの向こうからはほかの子供たちのにぎやかな声が伝わってくる。興奮のあまり廊下を走りまわっている子もいるらしく、誰かが壁にぶつかる音が頻繁に聞こえてきた。
ふとシェイは手を伸ばして“窓”に触れてみた。その実態は電子ウォールペーパーに表示された映像にすぎないのだが、おびただしい数の粒子が緻密に再現した非光沢ガラスの質感は、触れてみなければ本物かどうかも判別できないほどだった。目を凝らして表面をよく観察すると、ベッドのシーツや愛用の枕を注視するときとはわずかに異なった感覚を得られることがわかる。
“映像”という言葉をシェイは知らない。外の景色を眺めるには“窓”の表示をONにすればいいのだと、エルデが教えてくれたのはそれだけだった。シェイはいまさらになってようやく気づいたのだ。これまでずっとこの“窓”の外に広がる景色に無前提の信頼を置いていたことに。自分の目で外の景色を眺めたことなんて一度もなかったということに。
緑色をした宇宙人がすばやい動きでどこかへいってしまうと、シェイはスリープしたエルデの前面に検索言語が並んでいるのを見た。
“何を検索しますか?”
「マーラ」とシェイはいった。

 

クリフ・ハナヤマは急いで部屋を飛び出した。シェイから預かった例の書物に一種の暗号を読み取ったからだ。ヒントをくれたのは先ほど窓にいきなり登場した緑色の宇宙人だった。あれはきっとブラウエさんからのメッセージに違いない。
《フォースを使え》
例の書物の終盤で、著者のS・W・アードネスはいくつかの技法とトリックを解説しているが、クリフが確認したところによれば、相手に特定の選択を強制する“フォース”の技法は一種類しかなかった――S・W・Eボトムフォース。つまり、この船の“底”である。
自室がある2階のフロアをまわり、遊具が散乱するふれあい広場から食堂までを一気に駆け抜け、3階に住む年長者たちの視線を尻目に乗務員の大人が集うラウンジを捜しまわったにもかかわらず、ライリー・ブラウエの姿はどこにも見当たらなかった。クリフは自分の読みが間違っていないことをひそかに確信した。
階段の手すりに乗って滑るように1階まで降りると、0~6歳児専用のカラフルな遊技場が広がっており、大勢の小さな子供たちががやがやと動きまわっていた。クリフは懐かしさに浸りながら額の汗を腕で拭い、あらためてここでシェイと遊んでいた頃には抱かなかった疑問を思い起こす。なぜ、いまだにこんな小さな子供たちがここにいるのか――。
クリフはその答えの半分を、すでにライリー・ブラウエから聞いていた。
推理が正しければ、そのもう半分はドリーミンの最下層にある。クリフは真実がもうすぐそこまで迫っているのを感じた。中心部から扇状に開けた遊技場を脇に見て船の外周を進んでいくと、上の階と同様に並んだ個室のなかにひとつだけ、ほかとは外観の異なる部屋を発見した。ドリーミンではどの階層の個室にもドアの中央に大きな白い曇りガラスがついているのだが、この部屋にはそれがない。クリフが正面に立つと顔が認証され、なかに入るとドアが閉まり、6つ並んだ階層パネルのいちばん下に触れると部屋全体が静かに下降しはじめた。
部屋の内装は一見どの部屋ともあまり変わらない。ただしベッドは触ってみるとプラスチックの偽物で、壁紙も電子化されておらず、エルデも設置されていなかった。乗務員たちはそれぞれのライフアテンダントからのメッセージを頭部に巻いたヘッドギアから受け取っているため、この部屋にそんなものは必要ないのだ。
クリフは生まれてはじめてエレベーターに乗った。最下層までの到着時間がどれくらいかもわからなかったので、階段を昇り降りした疲れもあってかそのまま床に座り込んでしまった。
十数秒後、ふたたびドアが開いた。隙間からのぞく外の世界は想像していたよりもだいぶ暗い。クリフは心臓をどきどきさせながら這うように部屋を出て、乾き切った口を開けてそろりと周囲を見渡した。得体の知れない物体が、目のまえにたくさん並んでいた。天井は船内生活では体験したことのない高さで、はるか上は吸い込まれそうなほど真っ暗だった。エレベーターの閉まる音だけがその場に響いた。見慣れた部屋の明かりがどこかへいってしまうと途端に心細くなり、すぐに引き返そうかと一瞬だけ後ろを見た。ずり落ちたハーフパンツがすでに足首まで覆い被さっていたが、クリフはしばらくそのままの姿勢でじっとしていた。

 

ライリー・ブラウエはフロントパネルを操作し、中央エレベーターの顔認証を特定の人物2名のみ許可するよう設定した――シェイ・ダイアコニスとクリフ・ハナヤマ。
これでクリフのほうは最下層へ向かうだろう。やつがアードネスの本を読みはじめたのが約2か月前。あのとき助言したとおりに、クリフは文字学習の成果を示すためにシェイの部屋を訪ね、やつに本を借りた。そしてついさっき窓に映したメッセージをきっかけに、おそらくシェイはこの船の真実に近づくだろう。クリフはといえば――、さらなる真実に迫ることになる。
しかし、本当の真実などライリー自身もわかっていない。どこまで掘り進めばすべてが明らかになるのか。すべてが明らかになることなんてあるのだろうか?
ディゴッシュは目的も意図も不明の、企業と呼ばれる何かだ。それはほかの53企業についても同じ。脱出の鍵とはいえ、それ自体がこの巨大なアトラクションの一部であり、ライフアテンダントははじめから特定のキーワードに応じて対象児童へのディレクション(導きのプログラム)を解除するようになっている。さもなければ船内のあちこちに文字を表示しておく必要なんてどこにもない。ほとんどの乗務員がそんなものは読めないのだから。
クリフに渡したVR装置は、ライリー自身が子供の頃に使っていたものだった。教育が失われる以前の骨董品的な教材で、人々が自らオンラインスクールにアクセスしていた時代の遺物だ。ライリーはかつてプレステージの上位組織である教育機関で、ほかのキャスト相手に現実における文字学習の必要性をさんざん主張してきたが、そんな声がディゴッシュ幹部に届くわけもなく、結局、文字の読み書きはサブソサエティだけのものになったのだ。
彼女はいま満を持してひそかに操縦室からの脱出を図ろうとしている。そこで唯一、気がかりなのはシェイの行動だった。マーラを検索したシェイが次に何をするか。早急にクリフの部屋を訪ねたとして、クリフは部屋にいない。でももしやつがシェイのために部屋のロックを解除しているとしたら?
シェイは『BEYOND THE TRICK』を発見するだろう。生まれてはじめてトリックの歴史に、奇術の存在に触れることになる。それはとても感動的な瞬間になるはずだ。
ライリーは奇術を見たことがない。たしかにジャグラーのMがカードを手に出現させたのは奇術によく使われたトリックだが、トリックだけで奇術が成立するなら奇術師は不要、そうアードネスが書いていた。なぜならトリックを扱うにあたって必ずしも指先の技術は必要ないからだ。ただ物体を動かすだけでトリックは成立する。言葉を口にするだけでもトリックは成立する。アードネスが記したトリックの本質はそこにある。前世紀の大衆がトリックに誤ったイメージを抱いてきたのはまさに彼の予言したとおりなのだが、奇術師も奇術師で、トリックを操る不思議な現象のプレゼンには特殊な技能が必要不可欠であるかのようにふるまい、そう理解されることを望んできた。さもなければ最低限の敬意すら集められなかったからだ。そうして大衆はミステリアスなトリック使いに誉れ高いプロフェッショナル精神とカリスマ性を見てきた。奇術師はそれに応えて器用さと技巧にさらなる磨きをかけ、超人的なトリック使いを演じることに慣れていった。
2052年、ディゴッシュ社があらゆる奇術関係の文章や映像を取り込んだ膨大なトリックの百科事典サイトを公開し、奇術の観客が携帯する小型端末のAIに参照させることで、単純な原理に起因するあらゆる不可解な現象が世界中で瞬時に解決されるようになった。その頃にはすでに映像を介さずに生で演技をする奇術師は著しく減少し、奇術関係の書籍も数えるほどしかなかったが、市場に出まわっていたものはすべてディゴッシュ社によってあらかじめ買い占められていた。
奇術師たちはそれでもなおトリック使いとして高度に技巧的なトリックを披露するが、すでに人々の生活に普及したAIの正確な分析によって、もはや誰も奇術師のトリックには魅力を感じなくなっていた。人間離れした超絶技巧であれば、ほかの分野により高度なものが溢れていたからだ。
50あまりの世界企業がディゴッシュに続き、トリック使いとしての腕を磨いていった。洗練されたトリック使いは観客それぞれの価値観や行動原理を正確に把握し、相手の意識の外側から誘導する。彼らはそうしたトリックの本質を理解し、互いにそれを共有した。奇術師が手先の器用なトリック使いとして需要される風潮を利用し、人の先入観や固定観念を利用し、専門知識のない大衆には理解できない複雑な“種”をもつすべてのトリックを掌握した時点でその勝利は確定したといえる。なぜなら大衆にとってトリックを操る者といえば奇術師や詐欺師のことであり、自分たちを巧妙に騙す怪しいトリックはすべて、ディゴッシュ社の百科事典サイトによってすでにその全貌が暴かれていたからだ。
かくして奇術は人々の記憶から消え去った。2060年代に入ると“Magic”はほとんど魔法の意味でしか使われなくなり、人々の情報収集作業をAIが担いはじめるとともに、ディゴッシュ社は誰もアクセスしなくなった百科事典サイトをひそかに閉鎖した。

シェイのやつがうまくやってくれるといいけどねえ、とライリーは吐息まじりに呟きながら、操縦室の天井裏に続く換気口を両手で押し上げた。人に見られずに最下層へ向かうためにはこの方法しかない。
マーラへの感染は命にかかわるほどではないが、味覚にはじまり視覚へと、5つの感覚器官が順に機能不全に陥っていくという奇妙な症例が世界中で報告されている。そこに子供の事例が少ないことは、ライリーが2人の子供に希望を見出す理由のひとつではあるが、それ以上に、彼らをカードやコインのごとく巧みにさばけるという心に秘めた自負があった。
ただ、ライリーはそんなトリックの罠を慎重に避けようとしている。巨大なトリックへの抵抗としてトリック使いになったとはいえ、彼女自身、かつてその文章から読み取ったアードネスの本懐を忘れたわけではないのだ。2人に嘘をついた過去の自分を信頼しながらも、決別することによって、彼女はあくまでも奇術師であろうとしていた。

 

プレステージ内の戦略会議室でマーラに感染したリーファ・ギマリャエスは、いまもなおまぶたを開こうとするだけで眼球が焼けつくような激痛が走ると訴えている。エド・ダイアコニスはリーファに視覚ウィンドウを表示して緊急脱出を試みるよう促した。
「目が開かないから何も見えないに決まってるでしょ!」
リーファは怒鳴った。
「落ち着いてください」上位キャストの老人がいった。「目を瞑っていれば痛みはありません。とにかくバードケージへ急ぎましょう」
「RPSなのにどうしてウイルスに感染するんだ?」エドはまるで緊迫感のない声の調子でそういった。「元の身体はバードケージに守られているだろう。いったいマーラはどこから?」
エドの声が聞こえていないかのように、リーファは憂鬱そうに壁にもたれかかった。
「ウイルスというのは潜伏期間がありますからな」老人が宙に浮かぶ背もたれ付きの椅子を引いて廊下から戻ってきた。「感染経路などはいくらでも考えられるでしょう」
「でもRPSが感染したわけじゃないだろう」
「きっと現実のコンディションは反映されるんですよ。RPSでアルコールやドラッグを摂取しても現実生活には影響しませんが、その逆は違うのでしょう」
エドはなるほどといった。現実のライフタスクから逸脱することは考えられないし、体調を崩した経験というのは一度もなかったが、病気とはそういうものなのだろう。
椅子の背面には後ろから押せるよう2本の取手がついていた。座面はエドの膝下くらいの高さで安定しており、リーファが老人に手を引かれて腰をおろすといったん床に接するほど沈み込んでから再度定位置に戻って静止した。
戦略会議室のあるブランクデックタワーから外に出ると、やや激しくなった雨が20世紀ふうのアスファルト舗装を濡らしていた。もう夕方のためか、ただでさえ少ない上位キャストの通行人はすでにほとんど歩いていなかった。
プレステージの風景や街並みはプレイするストーリーによって無数に変化する。ブランクデックタワーは軍部上層のストーリーではおなじみだが、デフォルトの街をうろつく下位キャストがこの建築物を目にすることはない。
3人が現実に戻る白い箱のまえについたとき、老人がリーファにいった。「プレステージから外に出ましたら、バードケージのヘッドセットから直接ご自分のライフアテンダントに連絡するといい。マーラにかかったといえばすぐにオートマタが駆けつけてくれるでしょう」
「ええ、ありがとう」
「味覚がおかしかったことはあったのかい?」エドは興味本位で訊いてみた。
リーファはあきれたようすでため息を吐く。「あなた、ほんとうに何もわかってないのね。マーラの発症は味覚からとはかぎらないのよ」青ざめた顔でうつむき加減にそういうと、よろよろとガウンを引きずって白い舞台の上まで這っていった。
「お大事に」老人が冷蔵庫のような扉をやさしく閉めると、前面の青いライトが点滅し、しばらくしてから消えた。エドが扉を開けてみると、リーファ・ギマリャエスも消えていた。他人が帰宅する一部始終をちゃんと見届けたのははじめてだった。
「わたしたちも戻りましょうか」と老人がいった。
エドは「そうっすね」と軽い返事をしてから、バードケージの扉に手をかけたところでふと思い立ち、老人に尋ねた。「あんた名前はなんていうの?」
「名前ですか」老人は少し間をおいた。「いまはマーベラスと名乗っております」
エドは鼻で笑った。「上位キャストにしては変な名前だな。本名かね」
「いいえ」
「……だろうね」

現実空間に戻ってきたエドは、天井から床のサークルへ降り注ぐ薬液のシャワーで大量に吹き出てくる汗を洗い流し、全身の脱臭と滅菌処理を済ませた。立ち上がってストレージホールから手荷物をひっぱり出すと、手際よく作業服を着てからバードケージを出た。
外はもうすっかり暗くなっていた。生乾きの髪が北風で冷えていくのを感じながら、エドはヘッドギアを装着してライフアテンダント“イグニス”の声を聞いた。
「お疲れのようですね。現在のコンディションでは21時57分が最適な就寝時刻ですが、徒歩で帰宅すると21時46分に変更されます。ヒキャクを使いますか」
エドが暗い荒野を眺めながらおうと返事をすると、少し離れたところにあるディゴッシュの倉庫から一台のヒキャクが大通りを静かに駆けてきた。後方に折れ曲がったカンガルー型の長細い脚が特徴的な人材運搬オートマタだ。エドはこいつが何かの拍子で転びやしないかといつも不安になるのだが、快適なホバーバイクのほうは休日のこの時間だと大抵いつも在庫切れだった。
エドは作業服のホルダーから円筒形のボトルを取り出すと、各種の必要栄養素が凝縮された白いジェルの残りを一気に飲み下した。これで本日の食事と水分補給はすべて終了。時間帯や咀嚼回数、唾液の分泌量、食事姿勢といった煩わしい項目を気にせず自由に食事を済ませられるのは休日ならではだ。
「マーラか――」エドは天を仰いだ。プレステージの空に比べて色彩の豊かさは劣るが、頭上を覆うシックな濃紺のベールが目にやさしく、ヒキャクのリズミカルな歩行の揺れがゆるやかに彼の気分を高揚させた。
数十棟の同じ建物が連なるディゴッシュ社のカンパニーハウジングは、慣れてくると微妙な風合いの違いが識別できるようになるという者もいるが、エドはいまだにイグニスによるナビゲートがなければ間違って他人の部屋に入ろうとしてもおかしくはないだろうと思っている。
ディゴッシュスタッフが休日にたどる動線はシンプルだった。他社のスタッフケアにも共通することだが、ミニマル住居と呼ばれるワンルームの内装は住人が理想的な衣食住を実現させるうえで障害となる要素を極力排しており、かぎりなくストレスフリーなライフタスクの実行を妨げないよう合理的に設計されている。
エドが帰宅するやいなや、自然光に近い暖色の明かりが約9平米の部屋全体をやわらかく照らすと、ほのかなジャーマンカモミールの香りが漂いはじめるとともに静謐なピアノの演奏が人の耳には聞こえない程度の音量から徐々に存在感を高めていった。
エドがヘッドギアを壁際のスタンドにかけると、ビクーニャの毛織物のようになめらかなイグニスの声が、室内を歩くエドのすぐ隣から聞こえてきた。あたかも音源がそこにあるかのような錯覚にすぎないのだが、エドからすればまるで透明人間と話しているような感覚だ。
「少し興奮気味ですね」とイグニス。「何か気になることがありますか?」
エドは気になることを尋ねた。「マーラを調査してるのは、たしか研究機関だったよな?」
「はい。現在マーラの調査を進めているのは研究機関であるとされています。研究機関は通常の上位組織とは異なり、アクセスするにはディゴッシュの幹部になる必要があります。プレステージでトップキャストになると、幹部入りするかどうかの選択が可能になります」
「いまなら人が少ないから、狙いどきかもしれないな」
エドはマッサージチェアに座りながらいった。背中を強めに指圧されて吐息とともに胸を反らした。
「ようやく野心に目覚めたようですね」
「興味本位だよ」とエドはわざとらしく微笑む。「せっかくプレイしたBTEストーリーも、マーラのせいで台無しだ。あれじゃもうほかのストーリーと何も変わらない」
「上を目指すのは良いことです。エドならすぐトップキャストになれるでしょう」
「おれが……」エドは叫びたいのをこらえて静かにいった。「マーラの正体を暴いてやる」

やがて就寝時刻がやってきた。エドはイグニスのナビゲートにしたがって、興奮をしずめる軽いストレッチをしてから歯を磨き、口のなかを除菌し、身につけているものをすべて脱いだ。明日は6時の起床、そして体操、朝食、ウォーキングなどのライフタスクが隙間なくエドの1日を埋めている。室内灯はいつしか薄暗い橙色に変化しはじめ、ベッドまわりにはラベンダーの香りが充満していた。睡眠中に尿意や便意を催しても移動せずに済むよう薄型バイオ繊維ペーパーダイパーを着用すると、エドはそっとベッドに入って指示されたとおりの姿勢で横たわり、深呼吸を3回してからそのまま眠りについた。時刻はちょうど21時57分だった。

 

シェイ・ダイアコニスはクリフの部屋を訪れていた。文字学習をはじめてからちょうど2か月が経過した約束の日だったからだ。緑色の宇宙人が出現したのは想定外だったが、シェイはエルデを停止させたあと、“マーラ”を検索し、“ウイルス”を検索し、断片的なものであれ多くの情報を得ることができた。
入口のドアに声をかけてみても返事はなかったが、上部に光る橙色のライトが動作の認証でもロックが解除されることを示していた。シェイはしばらく考え、クリフが自分の母親について語ったときの記憶をたどった。おそらくクリフにとって重要なジェスチャーといえばひとつしかない。母から聞いたおまじないとして、偉そうな顔でレクチャーしてくる未完成なクリフの顔を思い出した。左右それぞれの2本指を交差して祈るあのしぐさ――フィンガーズクロス。
ドアが開いた。
シェイは少しためらいつつもクリフ・ハナヤマとして部屋のなかに入った。ここのエルデもやはり沈黙している。ドアを閉めた途端に妙な静けさが襲ってきたのは、自分の部屋で起きた現象と同じだった。エルデが子供のコンディションに合わせて選曲を変えながらひっそりと流し続けていたBGMが消え、廊下から流れてくるかすかなメロディもドアの防音効果によってほぼ完全に遮断されたのだ。
シェイがすぐ目についたのは真正面の巨大な鏡に映る自分の姿だった。ベッド脇の壁一面がミラーモードになっている。ベッドの上には一組のプレイングカードと、2か月前にシェイが貸した書籍入りのタブレットが置いてあった。カードはおそらく同じ階のふれあい広場にある遊具箱のなかからクリフが盗んできたものと思われ、縁が黄土色に変色した52枚の紙がねじれた階段のような形を保っていた。なぜこんなものがここにあるのかシェイには理由がわからなかったが、例の本のページをランダムに表示してみると、最後のほうのページにカードの挿絵が登場したので、何か関係がありそうだった。
何よりシェイがおどろいたのはカードに描かれたJ、Q、K、Aの文字だ。これは検索言語じゃないか、と目を丸くしたシェイは、カードの束から計16枚の絵札とAを抜き出して順番に眺めていった。4,5年前にクリフとメランコリーをやったときには単なる図柄としか思っていなかったものが、はっきりと意味のわかるものに変化していた。スペードのAには大きく「自転車808」、下には「U.S.プレイングカードCO. U.S.Aでつくられた」と書かれている。自転車やU.S.Aの意味はわからないが、とにかく大昔の地球でこのカードがつくられている場面を想像してわくわくした。
シェイはベッドに座ってタブレットをひざの上に乗せた。
『トリックを越えて S・W・アードネス』と大きく表示され、シェイはアードネスという人物が検索言語を使って文章を書くところを思い浮かべた。最初の言葉の意味はよくわからなかったが、意味のわからない言葉に出会う機会があまりなかったシェイは、短いそのフレーズだけであれこれといろいろなことを考えた。

《昨今ではクロースアップマジックという言葉がこのアメリカ国内で流通しているらしい。マジックとは奇術のことだ。特殊な魔法ではない。4年前に発生したウォール街の大暴落以降、派手な演目で名を馳せていた奇術師たちはことごとく規模を縮小せざるを得なくなった。それでもなお興行に訪れる観客を満足させるため、大掛かりな拷問器具や人体実験装置の代わりを務めたのが、せまい劇場に置かれた小さなテーブルだったというわけだ。
いま、奇術師はひとりの人間になった。これはとても重要なことだ。客席から距離を置き、自然の法則とは無縁の世界で杖を振っていた特殊な能力者が、いよいよ堂々と私たちに接近し、あたかも隣にいるただの人間として話をするようになったのだ。
“自然であること、それは、つまり自分自身であるということだね”
私にそういったのはあるカナダ人の奇術師だった。彼はもうすぐ40代を迎えるいかにも口の軽そうな男だったが、私の正体については秘密を堅く守ってくれている。さらにトリックへの造詣もそこらの奇術師以上に深いとくれば、これからの奇術が彼のような人物を中心に発展していくと期待するのも無理はないだろう。
“自然はそもそも人間を歓迎してなどいない”と、私は彼によくそんな話をしたものだ。これは私自身のトリック使いとしての体験から出てきた考えであり、彼の言葉は私の話に対する返答として理解されるのがよいかもしれない。
ある意味で、自然は巨大なトリック使いだ。トリックは人間を動揺させ、身の危険を予感させ、わからないものへの不安をあおり、それを不快な状態として予め回避させることで人間の身体を動かしている。これは私たちの根本に潜む原理だ。種を明かしてしまえばなんともつまらない。私たちは反射的に危機を逃れるため、不快感を減らすために絶えず動き続ける空しい自動人形なのだ。不快でいっぱいの自然というものを想像すれば、産まれたばかりの赤子が泣きわめくのも理解できよう。
だから、人間は言葉を発明した。感覚器官の限界を情報の共有で補うために。わからないものに答えを与えて立ち止まれる安全圏を築くために。高所への恐怖を緩和しようとして外の景色を隠すように。不快感の著しい減少は人間をひとつの場所に留まらせ、見える世界はぐんと広がり、記憶は外に出されて整理され、自分自身の行動を客観的に語れるようになった。そうして過去の行動を語るとき、私たちは記憶のなかの自分自身を無力な自動人形としてふりかえるわけではない。この現在を目指す特別な人形として、あたかも自然に歓迎されていたかのように、波乱万丈だが結果的には安全な道のりを歩かせるのだ。
そう、言葉もまた人工的なトリックである。私たちの意識を、自然が物を操る悪戯とは違った形で方向づけるものでしかない。情報は完全に共有されていないし、安全圏はまやかしで、世界は広がったかのように見えているだけだ。
観客に接近する奇術は今後どれほど発展するだろう。至近距離での接触が長続きするだろうか。奇術師がひとりの人間として自分自身のままでいるというのは、トリック使いからすれば想像を絶する難題なのだ。
自然の脅威を想像すればわかるが、トリックは人間を物として扱う。トリック使いも非人間的だ。ゆえにトリックは至る場所にあり、誰もがすでに扱っているものなのだが、トリックにかかった人間は、自分を超えた特別な力を備える能力者の姿を相手に想定することが多い。またトリック使いも、他人を誘導して操作できる自分に特別な力を見出してしまうのだ。どちらも結局は、自分の限界に直面した人間が不快な状態から逃れようとする反射的な挙動にすぎないのだが、そうした弱点を克服するのがおそらくは不可能である以上、特別でもなんでもないただの人間同士の接触を手探りで築いていくことが、これからの奇術師には求められるのかもしれない。
奇術師がトリックを使いながらもなお人間として観客との接触をはかるとき、“自然である”という言葉の意味は、けっして特別な能力を備えたトリック使いになることではない。カナダ人奇術師の彼が伝えたいのはきっとそういうことだ。自分自身であること。それはこの世に産まれてから初めて自身の限界に直面し、手足をばたつかせて泣きわめくも、トリックをかけてきた相手が鏡のなかにいることに気づいておもむろに体を動かしてみたりした、あのときの自分自身なのだ。》

シェイはそっと後ろの鏡を覗いてみた。入口のドアに目をやろうとすると、ちょうど自分の姿が邪魔で見えない。ベッドから離れてどんな姿勢になってみても、自分がいない部屋を眺めることはできなかった。自分の身体は不透明であり、そこにいるだけでかならず何かを隠してしまうのだ。
ふと思い立ち、シェイは沈黙したエルデで“トリック”や“奇術”を検索してみたが、それらしい記述は発見できなかった。あるのは祝祭行事やファンタジーの話ばかりだ。
マーラについては詳しく書かれていたのに――。シェイはどことなく薄気味悪いものを感じた。もし母さんがあの見えないウイルスとやらにかかったのなら、何が原因で死んだのだろう。シェイが自室でマーラについて調べたときは、マーラが原因で死亡した人間は報告されておらず、身体の感覚が奪われるだけで死に至る病気ではないとされていた。母のシメナはあの日、朝の食堂で味覚検査に引っかかった。かすかな記憶だがそれは確かなことだった。最初に味覚から麻痺してくるのはマーラでもっとも多い症例であるからして、あの食堂の検査機はマーラを対策するためのものであり、シメナがこのドリーミンでマーラに感染したことはおそらく間違いない。
シェイは『トリックを越えて』を読み進めた。かつて奇術というものがあり、自然はトリックに満ちている。自然と聞いてシェイが思い出すのは地球の天気のことだ。ドリーミンにもレプリカの観葉植物は置かれているし、映像では何度も地球の自然を見たことがあるのだが、天気の違いだけは感覚的にわからなかった。頭の上から水が降ってくるのはすごい現象だとは思うものの、空と呼ばれる天井の色や模様が変わることの何がそんなに重要なのかは見当もつかなかった。
もしこの宇宙旅行全体がトリックだとしたら? 母さんの死がトリックだとしたら? ――これまで想起しなかったのが不思議なほど単純な疑問をシェイはいくつも頭に浮かべた。早く先に進みたがるあまりにいくつかのページを読み飛ばし、とうとうカードの挿絵が載った最終章のトリック解説編まで到達した。
《S・W・Eカラーチェンジ3》
比較的説明文が短くシンプルなトリックがシェイの目を引いた。ほとんど挿絵を頼りに、ぎこちなくカードの束を握って底のおもて面を変化させてみる。鏡に自分の手元を映して、カードを手で覆い、見えない場所で裏側の動作をおこなってからふたたび手をひらく。
せーの、ぱっ。
「うわーお」シェイは思わずいかにもわざとらしい声を出した。おおげさな感嘆の声を出すことによって驚きと感動をよりいっそう自分自身に向けて強調したのだ。
底にあったクラブの4は見事にハートのKに変化した。鏡に映っている動作は実際の動作と異なり、シェイは何度もこの手順を繰り返しながら鏡の世界に集中した。そのうち慣れてくると両手は意識せずともなかば自動的にカードを変化させるようになり、シェイは自分の手が機械になるところや、他人に身体を乗っ取られてしまうようすを想像した。
おそらくクリフもここでこうしてトリックを自分の手で試したのだ。シェイはクリフがひとりで自分と同じように鏡のなかの自分と戯れている姿を想像してみた。滑稽だった。
なんとなくだが、シェイはクリフの行先がわかっていた。ライリー・ブラウエのところだ。クリフはシェイに会っていなかった時期もずっと、たびたびブラウエとの親密な交流を保っていたようで、顔に直接出さないまでも、彼女に苦手意識をもっていたシェイにはそれが羨ましかった。自分にはないものがクリフの手元にはすべてそろっている気がした。自分の母が死んでしまったのに対して、クリフの母はクリフを置いて地球に帰っただけ。その差はシェイにとってずっと大きなものだった。
でも、検索言語やトリックに触れてからは何かが違う。シェイは長年抱えていた自分の気持ちすらも疑うようになっていた。カードの束をそっとベッドの枕元に置いて、アードネスの本を脇に抱えた。クリフを探しにいこう。まだ自分の知らないことが山ほどありそうな気がした。クリフと、そしてライリー・ブラウエに会えばもっといろいろなことがわかるかもしれない。いまこそすべての謎を解明できるのかもしれない。
ふと、タブレットの裏面が目に入る。緑色のインクで文字が書かれていた。床にペンが落ちているのを見つけて、これもふれあい広場にあったお絵かき用のペンだろう、とシェイは思った。きっとペンを盗ってきてからうっかり紙を忘れてきたことに気づいたのだ。
ペンを拾ってポケットに入れると、シェイは颯爽と部屋の外に出て、廊下を走りだした。まぬけな泥棒が後を追う者に残したメッセージはじつにシンプルで、何のヒントにもならなかった。――1階の下へGO!

 

ライフアテンダントのフェレギは旧型のオートマタに命令し、シメナのもとへ本日3度目の食事を運ばせた。シメナはアイマスクで遮られた視線を虚空へと投げながら、大型のアームチェアに腰を沈めている。
シメナはチューブからジェルを吸引しながらふと十数年前の記憶をたどる。当時はまだディゴッシュスタッフだった彼女がひとりのジャグラーと出会い、子供を授かったとき、ライフアテンダントのフェレギがその危険性を警告とともに穏やかな口調で諭したことをよく覚えている。
「明示的に禁止するというわけではないけど、シメナ、きみが秘密にしていたジャグラーとの関係はライフタスクを大きく乱す以上、安全面から考えてもう彼には近づかないほうがいい。きみの気持ちは尊重したいが、ただでさえ現在はピトスが主流になっているこの時代に、わざわざ命を危険に曝す必要はどこにもないんだよ」
シメナは幼少期からフェレギとともに生活を送ってきた。彼女のフェレギに対する信頼はこの上ないものだったが、ジャグラーとの関係を深めて以降、彼女はいったい何を優先することが自分にとってもっとも望ましいことなのか、日を追うごとにわからなくなっていた。ただ唯一わかっていることといえば、自分は本来ピトスが担うべき危険な状態をわが身に引き受けてしまっており、フェレギのいうとおりいまのうちにその因子を除去するか、ライフタスクから逸脱してフェレギを裏切り、危険な賭けに身を委ねるかのいずれかを選択せねばならないということだった。
シメナは逃走した。自分でもなぜそんなことをするのかわからなかったが、プレステージから帰宅する途中、ヘッドギアを外してフェレギの声を耳から遠ざけ、大通りを外れた危険地帯を走ってジャグラーたちの生活する居住区へ向かった。フェレギはその行動に伴うさまざまな危険性を強い口調で警告していた。
ジャグラーたちの助けを借りて出産に成功したシメナは激しい後悔の念に苛まれた。とんでもないことをしてしまったのだと自分を責め、何度もフェレギに謝った。フェレギはやさしくライフタスクの回復手順を説明し、子供とともにハリウッドのピトスセンターへ移住することを勧めた。ピトスセンターは子供の養育保護に携わるための施設であり、そこへ赴くのは主にシメナのように何らかの形で心身に異常があるとアテンダントに診断された下位キャストの人々だった。子供の父親は何もいわずに彼女を見送った。
世界各地のピトスセンターにはサブソサエティの上位組織が作成したストーリーが割り当てられており、その内部構造はストーリーを現実空間においても難なく没入してプレイできるよう設計されていた。シメナは宇宙船の乗務員として子供たちの養育保護を務めることになった。
ピトスセンター内で最初のマーラ感染者が報告されてから、食堂では味覚検査が実施されるようになった。ディゴッシュとしてはスタッフの機能不全が蔓延するのを防ぐ必要があるため、シメナがマーラと診断されたときには速やかに外に出るよう促された。最上階に連れていかれるときになってはじめて、自分の腕を力強く掴んでくるひとりの小さな子供をその場に置いていくことに抵抗感をおぼえた。そんな気持ちになったのはシメナにとって、あまりにひさしぶりのことだった。後を引き継ぐ同僚にはフェレギの提案どおりに、自分は病死したことにしてほしいと伝えた。
そうしてふたたびライフアテンダントに導かれ、現在は使われていない旧式のミニマル住居に隔離されたシメナは、あれから10年以上経ったいまもなお、人との接触を断ち、外出を控え、マーラの進行を少しでも遅らせるためにライフタスクをこなしている。

 

クリフ・ハナヤマが暗闇のなかに見たのは、広い敷地にずらりと並んだぼんやりと赤く光る水槽だった。なかにはそれぞれ半透明の小さな宇宙人が浮いている。4か月前にライリー・ブラウエから聞いたひとつの真実がおそらくこれだ。それらは、クリフが幼い頃にエルデが見せてきた架空の宇宙人のイメージに匹敵するほどグロテスクに見えた。クリフはおそるおそる近づいてじっと観察し、それらがまちがいなく人間の原型であることを確かめた。
「これがピトス。ディゴッシュがつくった人工子宮だよ」
水槽の陰からあらわれたのはライリーだった。
「ディゴッシュ」クリフはおどろいていった。「その言葉は知ってます。2階の……食堂の壁にも書かれてた」
「ディゴッシュは世界54企業のひとつ。でも企業なんて名ばかりで、あれは大量の人間で構成された巨大な何かだ。船内の大人はみなディゴッシュの人間さ。クリフ、おまえの母親もそうだった。ドリーミンの乗務員だ」
「でも……」クリフは声をふるわせた。
「制服を着てなかった理由か。単純だ。ライフアテンダントがそう勧めたからさ。子供の信頼を獲得するにあたって、乗務員という肩書が邪魔になるタイプの人間はめずらしくない」
「おれに母親なんかいませんよ」
「母親の話を、シェイにしたのは?」
「だってあれは……」クリフはある時期まではたしかにライリーの話を素直に信じていた。シェイにも嘘をついてはいなかった。しかし、「脱出ポッドの話は、嘘なんでしょう?」
ライリーはうなずき、言葉に詰まった。水槽内で気泡のはじける音が聞こえた。
「まあいい」とライリーは冷静に続ける。「ピトスは人間を新しく誕生させる装置だ。地上のバードケージで採取されたスタッフの配偶子がここに届けられ、全RPSがもつ無数の形質パターンからランダムに抽出された人工配偶子と出会う。片方が待機する酸性の危険地帯にアルカリ性の防護液をまとったもう片方の群れが突入。人体の生理を模したミクロな生存競争が再現される。そうして結合したものが大きくなってピトスから産まれてくるわけだ」
「地上の……」クリフは相手の話から言葉を選び取ると、ピトスとは別の事柄に関する推理を頭が勝手にはじめていた。ずっと確信に至らなかったひとつの重大な仮説が真実に近づく、決定的な手がかりが目のまえにあらわれた気がした。ライリー・ブラウエが暗に示しているのはおそらくそのことに違いない。
「地球なんですね。ここは」とクリフはいった。どういうわけか涙目になっていた。
ライリーがうなずく。暗闇のなかで顔が赤く照らされていた。「ドリーミンは北米大陸の西端、カリフォルニアの地下に埋められた新生児養育保護施設。地上で流行っているウイルスの脅威からもっとも遠いとされる場所でもある。マーラのことは調べたんだろう?」
「ええ。たぶんシェイもいまごろ……」
「クリフ、おまえにもうひとつだけ知らせなくちゃいけないことがある。さっきの話の続きだ」ライリーはクリフから顔を背け、水槽に目をやった。「でも、そのまえに率直に訊きたい」
「なんですか」クリフはライリーの質問に薄々勘づいていた。心の奥底へ封印するように、自分のなかですでに清算したはずの気持ちがふたたび呼び起こされようとしていた。
ライリーはめずらしくやわらかな口調でそっと尋ねる。「母親に会いたいか」
クリフは思わず両手を後ろにまわしてフィンガーズクロスをつくり、質問の意味をゆっくり咀嚼するようにしてしばらく考え込んだ。やがて小さくため息を吐くと、うつむいたまま両手を強く握って正直に答えた。
「……いいえ」

 

エド・ダイアコニスはプレステージのキャストとして、所持通貨額の数字を着実に増やしていた。目指すはトップキャスト。プレステージ内でもっとも多くの通貨を手元に集めた最高位のキャストだ。
プレステージの通貨単位はE――エナジー。そのほとんどは視覚ウィンドウに表示された数字のやりとりだが、キャスト同士が直接面会して取引する場合などには、あらかじめ選択した支払いのジェスチャーに呼応して、手や額などから吹き出た青色の炎が相手の胸に吸い込まれていく。逆に相手が自分に対して支払いをおこなう場合には赤色の炎が自分の胸に飛び込んでくる。現実的な制約ばかりが目立つこの仮想空間では数少ないファンタジックな演出である。
サブソサエティのキャストは自身の所属先を得るために奮闘する。すべてのストーリープレイから外れれば、ほかのキャストとの接触はなくなり、居場所のない透明人間にでもなりそうなものだが、それはできないようになっていた。なぜならデフォルトストーリーである《――国民のライフスタイル》を誰もがはじめから所持しているからだ。キャストはこのストーリーを自動的にプレイしつつ、ほかのストーリーを複数同時進行でプレイしている。デフォルトストーリーはレベルアップすることも可能で、最初は誰もが上位組織の少ない小国からスタートするが、その国でのエナジー量1位を達成すれば、さらに多様な上位組織をもつ国へと移行することができる。国内キャストの総合エナジー量1位がエドの所属するアメリカ合衆国であり、トップキャストの称号を獲得するためには、さらにそのなかでエナジー量1位を獲得しなくてはならない。
エナジー量のランキングはリアルタイムに更新され続けており、そこで10秒以上1位の座をキープすれば、見事トップキャストとして幹部への道が開く。エドが追い抜かなくてはならないのはせいぜいあと7~8人といったところだった。
だが10秒以上トップをキープするには、2位にそれなりの差をつけてトップに立たなくてはならない。秒単位で入れ替わるトップ5のランキングをごぼう抜きで差し切るのは容易なことではなかった。
「みなぎるぜ」エドは街頭に浮かぶランキングボードを見ながら呟いた。
エドには奥の手があった。このプレステージを沸かせる最高のパフォーマンスを実現するための秘策があった。先ほど彼が悩みに悩んだ末、いよいよ実行に移すことを決意したその秘策とは、現在所持している唯一もっとも希少なストーリーの売却だ。
中古ストーリーの転売をおこなっているメルツェル・サフュトーの視覚ウィンドウに、エドが大事に持っていたBTEストーリーのパッケージ画像を送ると、メルツェルは思わず体をのけぞらせた。「こ、これは……」
「どうだい」エドはかすかに声をふるわせて「みなぎってるだろ?」
「《シングルファーザーのライフスタイル》とは――。いやはや使用済みとはいえ、これほどの品となるとご自身でオークションを開かれたほうがよろしいのでは」
「時間がないんだ。つべこべいわず早く査定額を出してくれ」
エドは決意を揺るがせたくなかった。《シングルファーザーのライフスタイル》は物語として予定どおりに進行する初期型ストーリーの傑作であり、自動化された空のRPSを配することで単独キャストのプレイを可能にし、恋愛という古き良き文化を一種の悲劇形式で再現した最後の作品として有名だった。このストーリーをきっかけに、新生スタッフの生産に用いられるのは主に単独プレイ専用のポルノストーリーが一般的となり、より高刺激の計算されたアイデアイメージの連続によって不快感をドラマティックに減少させ、かつてない幸福感をもたらすともにプレイングキャストの遺伝子が迅速にピトスセンターまで配送されるようになった。
「シェイ・ダイアコニス」とメルツェルが査定額を表示しながらいった。「この子供の所有権はあなたから離れますけど、よろしいんですね」
「ああ」とエド。「マーラのせいでな、ピトスセンターに行ってもいまだに子供とは面会できないそうだ。ライフアテンダントがそういってる。いずれはその子供もスタッフとして自立するんだ。いまの所有者が誰になったって同じさ」
「では」といってメルツェルは突き立てた両手の親指で左右の鼻孔をふさぎ、エドと目を合わせた。額から吹き出た炎は勢いよくエドの胸に注入され、ものの数秒で取引が完了した。

エド・ダイアコニスの名前がランキングのトップに躍り出てから10秒、ランキングボードを眺めていたエドの視覚ウィンドウは白く霞み、街角のざわめきも次第に遠ざかると、しばらくして真っ白な空間から応接室のような場所に移動した。板張りの床が徐々に色味を増し、中央の低いガラステーブルを囲むL字型の黒いソファが出現した。奥の壁には重厚な鉄製の扉があった。
扉のまえにはひとりの老人が立っていた。燕尾服を着て、おだやかな表情でエドの顔を見ていた。エドは彼を知っている。

 

10

「地球へようこそ」エレベーターに乗ってきたシェイのまえでライリー・ブラウエは微笑んだ。偽物のベッドの上で足を組みながら、空っぽの電子煙草に空気を送ってひゅうと音を鳴らす。「ひさしぶりだな、シェイ」
「ブラウエさん……」シェイは状況がうまく呑み込めなかったが、ここがやはりふつうの部屋でないことに気づくと同時に、いきなり3年ぶりのライリー・ブラウエと目を合わせてしまった反動からよろけるように一歩下がった。
「この部屋は地上につながるエレベーター」ライリーは落ち着き払って、「宇宙船ドリーミンはこの12年間、ずっと地下で静かに眠っていた。惑星マヒアなんて存在しないんだよ」
「地球――」シェイは大しておどろいてはいなかった。窓の景色に疑いを抱いて以降、これまで信じていた何もかもが嘘であってもおかしくないと構えていたからだ。
2人の乗ったエレベーターは静止したまま、黙って行先の指定を待っている。
「クリフは出ていったよ」とライリー。「おまえが持っているその端末に、先ほど地図を送信しておいた。フランクリン・アヴェニューという道に面した黒い丸印がおまえの現在地だ」
シェイはライリーの指示どおりに書籍の閲覧ページを閉じ、メニュー画面から受信したファイルを開いて灰色の地図を眺めた。2つの箇所に黒い丸と赤い丸がそれぞれスタンプされていた。赤い丸の近くには数字が書いてある。
シェイは息を深く吸い込んだ。そしてあらためてライリーの顔に目をやると、おそるおそる口を開いた。「ブラウエさん、母さんは――」
「シメナなら、生きてるよ」
質問が終わるまえに、ライリーがそれを遮って答えた。
瞬間、シェイは全身の力が一気に抜けていくのを感じた。だが心にぴんと張り巡らせていた糸がほぐれることはなく、悔し涙にも近いものがぼろぼろとこぼれてきた。予想とは違ってライリー・ブラウエの返答は、まるで訊かれればすぐに答えるつもりだったといわんばかりの、なんとも軽くあっさりとした口調だったからだ。
ライリーにはシェイに事実を隠しておくつもりなどどこにもなかった。彼女はヘッドギアの誘惑と戦いながらずっと、アネモスに促されるまま2人の子供についた嘘を後悔するとともに、ただそれを本人たちの意向を無視して一方的に明かさないよう、脱出の鍵だけを渡してその成長を見守っていたのだ。もしシェイがもう少し早く、かつてクリフがそうしたように、幼少期のことを直接ライリーのもとへ確かめにいく勇気さえあれば、こんなにも長いあいだ母親の死を信じ込んでクリフを羨む必要もなかったのかもしれない。ライリーはシェイが真実を確かめにくるのをずっと待っていたのだ。
「やっぱり、この本もブラウエさんが……」
「まだぜんぶ読んだわけじゃないだろう?」とライリー。
シェイは小さくうなずいた。
「シェイ、そこに書かれているとおり、すべてはトリックだ。トリックは残酷で不可思議だが、べつに怪しくもめずらしくもない。それは人類がずっと目を背けてきた事実だ。誰もまさか自分がトリックにかかっているなんて夢にも思わなかったからさ。やがて誘導されるがまま、人を信じなくなった。その結果がこれだ」首にかけていたヘッドギアを外して立ち上がり、シェイのほうに歩み寄る。「おまえはこれからシメナに会って、自分から真実に近づくんだ。たとえ地上がマーラで溢れていても」
「ブラウエさん……」
「わたしの近くには同僚しかいなかった。所詮やつらは他人だ。やつらにとっては子供とのふれあいも自分の情操を豊かにするためのタスクでしかない。ここは最初からそういう目的でつくられた施設だったのさ」
ライリーはヘッドギアを床に叩きつけた。いくつかの細かな部品が飛び出し、折れ曲がった本体がシェイの足元に転がった。
「シェイ、おまえはすばらしい子だよ。自分でここまでやってきたんだ。でもトリックを見破るのに夢中になっちゃいけない。それを見破ったと確信したときにはもう別のトリックにかかってるんだからね。トリックに囚われて、その存在に気づかなくなってしまったらおしまいだ」
「うん、大丈夫」とシェイはいった。「母さんに会ってきますよ。奇術師として」
ライリーはかすかに口角を上げるとエレベーターのドアを開け、階層パネルのいちばん上を光らせてから外に出た。
「トリックを越えろ、シェイ」
ドアが閉まる直前、シェイはライリーの右手を見ていた。右手はゆるやかに顔のまえにかざされ、指先はフィンガーズクロスのかたちになっていた。
この古いおまじないをクリフに教えたのは、じつはライリー・ブラウエだったのではないか。エレベーターが最上階に着く頃には、そんな考えがシェイの頭をよぎった。なぜならシェイがそのとき何気なしに開いてみた『トリックを越えて』の最終ページには、明らかに見覚えのある挿絵とともに、S・W・アードネスが最後に遺したじつに奇妙なトリックが解説されていたからである。

エレベーターの外は廃墟と化した屋敷のなかだった。煤けてカラフルな色味を失った窓から外の光がかすかに差し込み、背の高い台に乗せられた数十脚の丸椅子や、何だかわからない人型の物体などが四方八方に放置されている。シェイが足元に目を凝らすと、床には見たこともない複雑な模様が描かれていた。人の気配は感じられない。
乗務員が頻繁に出入りしているのか、歩くための通路は確保されており、シェイはエレベーターを離れて白い外の光がかすかに漏れているほうへと進んでいった。
開けっ放しにされた重厚な茶色い扉の近くまでくると、シェイはその反対側にある突き当りの壁から異様な物体が生えているのを発見した。人間の両腕だ。
シェイは首をそちらに向けたまま動きを止め、しばらく迷った挙句、視線をその2本の腕から離さないようにそっと近づいてみることにした。
腕の手前にはほこりの積もったテーブルが置かれていた。シェイがすぐ近くまでくると、腕は砂粒を噛むような摩擦音とともに手と指の関節をぎこちなく曲げ、「やや、やあ、こんにちは」といった。
シェイは相手がただの機械だと知って安心すると同時に、ライフアテンダントとはまるで異質の声色にかすかな恐怖を感じた。散乱したガラスの破片がぱきぱきと音を立てた。
「ままま、マジックキャッスルにようこそ。この肖像画の人物が誰だか知っているかい」
シェイは周囲を見渡したが、人の姿を描いたり写したりしているものはどこにもなかった。
「ここ、これはダ……ノン。世界中の奇術師か……と呼ば、て親しまれたささ最高の奇術師さ。出身はカナダのオ……弟子には……」腕は時おり細かく振動していた。「むむむかし、クロースアップマジックという奇……分野があった。至近距離でお客さんと会話をし……る奇術だ。ライプチヒ、マリニ、ミラー、テンカイ、カップス、スライディーニ、タマリッツ、グリーン、ダオルティス……げ現在そそれが観られるのは世界中でもこのマジックキャッスルだけ。ダ……ァーノンはまさにそのクロースアップマジックを象徴する奇術師さ。なかでも彼の“説明できないトリック”という作品にはダイ・ヴァ……という人の奇……がよくあらわ……」
腕はしばらく停止し、シェイがしばらく待ってから立ち去ろうとすると、さらに激しい振動とともにふたたび話をはじめた。「よよしし、きみみにかか……の有名な言葉をおお教えよよう。いつつの日かかすすばらし、きき奇術師、なるきみにとっててとてもも……なここ言葉……『自自然然ででああれれ 自自然然ででああれれとといいううこととはは ああななたた自自身身ででああれれとといいううここ……』」
腕はそれきり動かなくなった。
それはシェイにとって聞き覚えのある言葉だった。不意にクリフのにやついた顔が頭に浮かんだ。

 

11

「マーベラス……」とエド・ダイアコニスは燕尾服の老人にいった。
「おひさしぶりです」とマーベラス。「エド・ダイアコニスさん。このたびはおめでとうございます」
エドは困惑したようすで尋ねる。「どうしてあんたがここに?」
「わたしはトップエグゼクティヴ。ディゴッシュ幹部における現在のトップですよ」マーベラスは背中の後ろを指さして、「この扉に入れば、あなたはもうディゴッシュ幹部の仲間入りです。ただしあちらはもうサブソサエティとは別の仮想空間。幹部入りした時点で元の身体はバードケージ内で溶解処理され、そのまま廃棄されます」
「RPSがあればいい」とエド。「何か問題があるのか」
「扉のむこうには駅のような発着場がありましてね、外に広がる宇宙空間までその先端は延びています。幹部たちは空気の球体に包まれて、数十キロ先の火星を模した小さな星まで泳いでいきます。それはもう過酷なもので。誰かが火星に到着したらその付近にいる幹部のデータはみな消去されます。トップエグゼクティヴになってディゴッシュのトップに立つには、火星付近の苛烈な競争に勝利せねばならないのです」
エドは動揺を悟られないよう静かに微笑んだ。「そんなストーリーがあったとはな。あんたを見くびってたよ」
「それだけではありません。空気球の耐久性もあまり信用ならず、ただでさえ酸素が長持ちしないのです。つまり幹部になったら最後、火星に到達する以外に生き残る方法はありません。そして……」
マーベラスは扉のほうに目をやった。
「たしかにトップエグゼクティヴになれば、かつてない自由が得られます。プレステージ内を自由に移動できますし、すべてのストーリーを好きに楽しむことができます。どうしてかわかりますか」
「さあ」
「トップエグゼクティヴには大した役目なんて何もないからです。マネージングアテンダントが推奨するプランを実行するか否か、その決断を下すのみ」
「プラン?」
「研究機関から届くプログラムですよ。各社の産業施設にいるアテンダントやオートマタを稼働させるものです。研究機関はサブソサエティやメインソサエティの外にあります。それを組織しているのはほかでもない、ジャグラーたちだ。このプレステージを含む世界54企業のスタッフ管理機構のほとんどは、ジャグラーが開発してきたのです。
ジャグラーはどの企業にも属さず、古い文化を学び、継承する人々の集団でしてね、その数はあなたが想像しているよりもはるかに多いんですよ。彼らは企業から住居や衣服や食料、そのほか研究資源の支給を得るために、さまざまな分野の研究成果から作成したプランを定期的に企業幹部に届けているのです。プランが採用されなければ生活が成り立ちませんからな。良質なスタッフの生産と育成を促す新しい方針や技術を模索し、マネージングアテンダントに採用されるためのプランを必死に練り上げているわけです」
エドは言葉を失った。研究機関が外の世界に置かれていること自体は不思議でないにしても、ジャグラーとはイグニスによれば、あくまでスタッフのライフタスクを妨げる危険因子のひとつにすぎない。エドもジャグラーを見かけたことはあるので、彼らがどうやら人間らしきものであることくらいは知っているが、同じ人間だとは考えていない。というより、考えたことがなかった。自分はスタッフであり、ジャグラーは違う。彼の思考はそこまでだ。人間について考えるきっかけはどこにもなく、ただ現在の自分がキャストなのかスタッフなのか、関心事といえばそれくらいだった。
マーベラスは続けた。「あなたがここにきたということは、もしかしてBTEストーリーを売却なさったのではないかと思いましてね。そこまでしてトップキャストを目指した理由は、いったい何でしょう」
「マーラだ」とエドはいった。「マーラの正体を暴きたいんだ」
「ふむ」とマーベラスは間をおいてから「聞けばあなたはきっとがっかりするでしょうな」
「知ってるのか――」
「ほっほっほ」マーベラスは自分の右手を見つめ、5本の指をしなやかに動かしながらいった。「もちろんですとも」

 

12

想像していたよりもはるかに巨大で、ぎっしりと空を埋める灰色の雲に押しつぶされそうになりながら、シェイはライリーにもらった地図を頼りに大通りを走り抜け、ドミノ状に並んだ集合住宅の近くまでやってきた。北から吹きつける風は冷たく、立ち止まったシェイは生まれてはじめて寒さで体をふるわせた。
ディゴッシュのカンパニーハウジングは各棟の側面に番号がふられている。目的地は1-501。ほかと比べてだいぶ年季の入った、列の東端にある棟だった。
以前なら501という数字を見ても目的の部屋まで到達するのに時間がかかったかもしれないが、玄関口の奥にエレベーターを発見したシェイは、即座に自分が5階へ向かうべきだということがわかった。
501号室はエレベーターを出てすぐ手前にあった。訪問といえばこれまでクリフの部屋くらいしか経験したことのないシェイは、他人の家のドアのまえで何をすればいいのかわからず、しばらく呆然としていた。
「母さん――」とシェイはいってみた。
返事はなかった。
企業のスタッフがライフタスクをこなすミニマル住居を訪れる人間などほかにはいない。したがって、ドアのまえに小さな人影を察知したライフアテンダントのフェレギは、訪問者がピトスセンターの児童用作業服を着用していることからジャグラーではないと判断したものの、安全面を考慮して、最終的にシメナには報告すべきではないという結論に至った。
「母さん!!」
シェイは思わずドアに手をついて、できるかぎりの大声で叫んだ。

ピトスセンターからこのミニマル住居に異動させられて以来、シメナは時おりライフタスクの合間に過去の記憶をたどるようになっていた。暗闇のなかに浮かぶイメージのなかには当然、最近の出来事はなく、もっとも鮮明なのはあのジャグラーたちの家で見た景色、ディゴッシュの支給品を改造したミニマル住居、壁面を飾るブーゲンビレア、オリーブグリーンのベッドのなかではじめて触れたわが子の温かい感触だった。
産後のシメナは次第に子供よりもライフアテンダントの声に注意深く耳を傾けるようになり、その状態を危惧したほかのジャグラーたちは、子の父親に彼自身の姓をつけるよう提案した。父親は何もいわなかった。企業はピトスセンターに脱出可能な抜け道を用意しており、いくらかの子供が研究機関に流れるよう仕向けていた。スタッフになるかジャグラーになるかを決めるのはこの子自身であり、仮にシメナがライフタスクに復帰してピトスセンターに子供を連れていこうとも、いつか自分のもとへ帰ってくることをひそかに期待していた。
シメナが記憶をたどるのはライフタスクの外側――。なぜあのとき自分はわざわざ、子の父親に渡された布用印刷機を使い、ふれあい広場で幼児用の服に模様をプリントしたのか。なぜあのときだけは、フェレギの組んだライフタスクに逆らったのか。
「そんなことをするくらいなら、きみが担当している児童とのふれあい業務に戻るべきだよ、シメナ。あの子は地球の天気に興味があるらしいから、次のタスクではめずらしい形をした雲の話を語り聞かせてみよう」とフェレギはいった。
子供の名前を決めるとき、父親であるマサシ・ハナヤマが一台のタブレットを片手に、彼の尊敬する人物について熱心に語っていたのを思い出す。シメナは当時の彼に寄せた得体のしれない心の動きから、まるですべてを委ねるようにその提案を採用したのだった。クリフ・グリーン――20世紀の奇術師である。

「クリフ……」とシメナはいった。
ミニマル住居の壁やドアは防音性に優れていたが、長いあいだ暗闇で生活してきた彼女の聴覚は、ドアの奥からかすかに響いてくる聞き慣れない音に対してはきわめて敏感になっていた。
フェレギはインターフォンをつないだ。ライフアテンダントは登録者のコンディションを慮るとの理由で来客を無視することはできても、登録者本人が希望する来客との面会を拒否する権限は持ち合わせていなかった。

「クリフなのかい?」
親友の名前を呼ぶ、シメナと思しき人物の声がドアのスピーカーから聞こえてきたとき、シェイはとっさにライリー・ブラウエの言葉を思い出した。
すべてはトリックだ。
だが、トリックに囚われてはいけない。
シェイはいった。「そうだよ母さん――、クリフだよ。クリフ・ハナヤマだよ」
シメナはしつこく警告してくるフェレギのディレクションをとっさに解除した。フェレギは沈黙し、一瞬ぞっとするような不安に襲われたが、いまはそれどころではなかった。ふるえる指先のジェスチャーでドアロックを解除し、わが子を部屋に招き入れる。
シェイは自分が何者なのかわからなくなっていた。目のまえで大きなアームチェアに腰かけたシメナらしき人物がアイマスクを外すと、その顔からにじみ出る雰囲気はおぼろげな記憶のなかの母親と一致するようにも思えたが、それもまた本当のところはわからなかった。
シェイはそっとシメナの手に触れた。ドリーミンを去る彼女の腕を食堂で掴んだとき以来だった。「もう会えないかと思ってたよ。ずっと、ずっとそう思ってたんだ」
「おお、クリフ」シメナはシェイの手をさする。「なんといったらいいか。マーラのせいで何も見えないことがもどかしいよ。わたしはおまえに母親として接したことなんか一度もなかったろう。この10年、おまえの存在がどれほど大きくなっていたか。わたしはいつだって日々の予定に追われ、その外にあるものが何も見えていなかったんだ」
「母さん」とシェイはいった。「ボクは、母さんの病気を治しにきたんだ」
シェイはどうして自分がそんな言葉を口にしたのかわからなかった。だがなんとなく、いまの自分ならできるような気がした。
クリフならきっとこんなふうに考えるだろう。マーラの詳細は検索言語で知った。たしかにどの言説も専門的な裏づけによる強い説得力があり、数多の事例が現に報告されていたが、結局それらはすべて言葉の羅列にすぎない。S・W・アードネスによれば、言葉は人間が自分たちを騙すために発明した最大のトリックだ。

《究極のトリック使いにはどんなトリックも通用しない。なぜならすべてを見渡せる自分の目に映らないものの存在は絶対に信じないからだ》

シェイはシメナの右手を手に取り、その中指を人差し指の上にそっと交差させた。
「フィンガーズクロス」そういってもシメナは知らないようすだった。やはりクリフにこのしぐさを教えたのはライリーなのかもしれない。「古くから伝わる幸運のおまじないだよ」
アームチェアの側面から小型のテーブルを引き出すと、シェイはポケットから緑色のペンを取り出してその上に置いた。クリフの忘れ物だ。
「ねえ、母さん。ここにペンが何本あるかわかる?」そういってシメナの交差した2本の指の先端をペンの胴体にあてた。
「2本だよ。そうだろう? クリフ」
シメナはわが子の質問に対してとびきり素直な気持ちで答えた。
シェイは思わず笑みをこぼす。「1本だよ、母さん。ペンはここに1本しかないんだ」
アードネスが遺した最後のトリックは単純な脳の錯覚を利用したものだった。シェイ自身もどうしてそうなるのか見当もつかなかったが、これもやはり一種のトリックなのだ。
シメナはペンに手のひらを押しあてて、小さく感嘆の声をもらした。
「マーラもこの2本目のペンと同じだよ。そんなものはどこにも存在しない。みんなこうして騙されているだけなんだ」シェイは母の手を握る。「だから母さん、目を開けてみて」
シメナはわが子を疑いたくはなかったが、乳児期以来ほとんどまともに接してこなかった子供が、ここまで自分のことを無前提に母親扱いしてくれることには多少の違和感をおぼえていた。
もしかして、この子はクリフではない? ライフタスクで接してきた担当児童のひとりなのかも。あれこれと記憶をたどったところで、どの子の顔も名前も曖昧だった。仮にクリフじゃなかったとして、この子供はいったい誰なのだろう?
急に、フェレギを停止したことによる激しい不安が襲ってきた。
どこの誰かもわからない子供がすぐそばにいるこの状況。
フェレギならなんと提案するだろう。ここはピトスセンターじゃないからエルデのディレクションも届いていない。この子供は何をしでかすかわからないのだ。
これまで話したことのすべてが嘘かもしれない。
危険な罠にかけられているのかもしれない。
ばか正直に部屋の鍵を開けてしまったのは間違いだったのかもしれない。

けど、それが何か?
シメナは自分に問いかけた。考えるうちに、そんなことはどうでもいいように思えてきたのだ。いま誰かがここにいる。たしかなのは冷たく汗ばんだその手の感触と、流暢さに欠けたたどたどしいその口調と、少し緊張して上ずったその声と、いままでに流れたわずかな時間だけだった。でもそれでいいのだ。シメナは自分がこの得体のしれない相手をすっかり信じていることに気がついた。もうすでに、信じてしまっているのだ。

暗闇に細い光が差した。不思議と痛みはなく、ねばついた薄目でそっとあたりを見まわしてから、隣にいる相手の顔に焦点を合わせた。クリフではないその子供は恥ずかしそうに目をそらした。
「いったい、どうやったんだい?」
シメナはまぶしそうに子供の顔を見つめた。
シェイは答えに迷ったすえ、おぼえたばかりの新しい言葉をはじめて自分で口にしてみた。「クロースアップマジックだよ」

 

13

「トリック?」とエド・ダイアコニスはいった。「マーラがそれだってのか?」
「ええ、そうです」とマーベラス。「しかも言葉だけを使ったトリック。昔は催眠術などと呼ばれていましたな。一般的には特殊な技法を使った怪しげな術という印象でした。ちなみに物体を使ったトリックは奇術と呼ばれていましてね。その本質はなんてことない、ふつうのことです。しかし人間は物事を限られた方向から捉えることしかできない。それが人間に本来備わった“騙されやすさ”という弱点なのですが、人々は自分が騙されやすいのではなく、自分のことを騙してしまうほど相手がすごいことをやっているものだと思いこんできたのです。たしかにトリックにはすごい技術を駆使するものもありました。ですが太古から続く基本的な原理は、そうした人間の弱点を利用して、ある特定の方向からふつうの出来事を捉えるように誘導することです。ライフアテンダントはまさにその役目を果たすのにうってつけでしょう。ジャグラーとして様々な専門家と手を組んだ奇術師や催眠術師たちは、ライフアテンダント専用のアカウントになりすまし、彼らの情報源であるインターネットに架空のウイルス発症を報告する無数の事例や調査結果を忍ばせたのです。それらはジャグラーたちが長年かけて築き上げてきた緻密で膨大な量のフィクションでした。インターネットはそもそも世界中の研究機関を結ぶジャグラー同士の連絡網でもありますからね。人類は虚構に感染したのです」
「つまり、マーラなんて存在しないとでも?」
「ある意味では。人間は思いこみを捨てることなどできないので、いうなればマーラは思いこみのなかに存在します。自分の目が開かないと思いこんでいれば開きませんし、仮に開いたとしても、そんなわけがないと自分に言って聞かせるでしょう。ときに痛みさえ感じるのは、それほど夢中になって悲劇のマーラ感染者を熱演しているからです。そこがただのひとり舞台で、近くに観客がいることに気づけばいいのですが、マーラ感染者は他人との接触を避けるようライフアテンダントに勧められる。彼らは誰よりも慈悲深く、身の安全を気遣ってくれますからな」
エドは理解が追いつかなかった。彼にとってライフアテンダントは衣服や頭髪と同じくらい、自分という人間を構成する大事な要素のひとつだった。スタッフがライフアテンダントを剥奪されるのは、キャストがなんのストーリーもなく街に放り出されるのに等しい。
「ようするに、おれたちはずっと騙されてたっていいたいんだろ?」エドは挑発するようにいった。「ばかばかしい。そんなくだらない小細工で世界中が混乱してたまるか」
「どうぞ、お好きなものを信じればよろしい」マーベラスはにっこり微笑む。「じつはわたしも元は奇術師、つまりジャグラーでしてね。ピトスセンターに預けた子供がスタッフになってしまわないうちに、なんとかしてディゴッシュがトリック使いであることを暴き、少しでも現状を変えたかったんですよ」
「だったら、なおさらスタッフになってわかっただろう? そんな必要はない。ライフアテンダントのおかげで現実は平和で安全で、みな充実しているじゃないか。あんたがそれをトリックだとかなんとかいうだけじゃ何も変わらんよ」
「おっしゃるとおり。しかしわたしも年寄りなので、多少は昔のことを知っているのです。スタッフの現実での暮らしぶりはまるで50年前の病人にそっくりだ。あるいは2世紀前に壮年期を過ぎた人類が老後の余生を送っているかのようです」
「それで何が悪い。人類だって始まればいつかは終わるさ。初期型ストーリーと同じだ」
「終わりを越えるストーリーもあるでしょう?」
「そんなものは……ない」
エドは小声でそういうと、マーベラスから目をそらした。
「ディゴッシュのトリックにかかったのはわたしも同じですよ。スタッフとしてライフアテンダントに環境を整えてもらい、自分の弱さが隠れるように視野を狭められたおかげで、二度と帰れなくてもかまわないとさえ決心できたのです。さいわいスタッフ登録はすぐに済んで、所属先の変更だけが心配でした。キャストはエナジー同然に企業間で大量に取引されていますからな。
しかし、この扉を抜けて幹部の真実を知り、死にもの狂いで運よくトップの座に就いてみればこのありさまです。わたしは絶望しました。ですが、そこではじめて気づいたのです。わたしにとってもっとも強力なトリック使いは、ピトスセンターに預けたあの子供なのだと。わたしはそのトリックを越えなくてはならなかったのです。子供はわたしの注意を引きつけ、視野を狭めます。その顔や声に注目していると、いつのまにか体のほうが変化しているのです。その現象はわたしの弱さが、わたしの限界が起こしているのでしょう。おどろきがあり、たくさんの謎が残ります。ふと目を離したすきにすぐどこかへいってしまって、何をしでかすかわからない。彼は少しだけわたしの外側にいたのです。なのにわたしはその外側を信じることができなかった。わたしはトリックを越えられなかったのです」

そのとき、甲高いサイレンの音が壁の奥から聞こえてきた。

「なんだ?」とエド。
「幹部規約違反の警告音ですよ。ここであなたに幹部の実態を明かした以上、わたしのRPSはすぐにアテンダントが消去するでしょう。トップエグゼクティヴの交代はめずらしいことではありません。誰にでも務まるのですからね。
さあ、どうかいますぐ引き返しなさい。どのみちあなたはもう幹部にはなれません。BTEストーリーの続きは、待っていればいつかかならずやって――」
マーベラスの姿が忽然と消え、警告音はゆるやかにフェードアウトした。

エドはしばらく呆然と立ち尽くしたあと、右手のひらを眼前にかざし、本物とはわずかに質感が異なるその表面を見つめながらいった。「売っちまったよ。そんなものは」

現実に戻ったエドは落胆したような気分で全身の後処理をして外に出た。バードケージを出ても空が明るいのはひさしぶりだった。ヘッドギアを装着するかどうかしばらく迷い、結局またイグニスの声を耳にあてることにした。
ホバーバイクを走らせて自室に戻ると、ドアのまえに子供が立っていた。身長はエドの腰あたりまでしかなかったが、まんまるとした体に緑色の服を着て、どれくらいの時間かはわからないが、エドのことを待っていたようだ。
「……シェイ?」エドは直感した。イグニスは子供の着ている服がピトスセンターの児童用作業服であることを告げていた。「もしかして、おまえがシェイか」
「ええ、シェイ・ダイアコニスです」と子供はいった。親友のシェイを真似ておとなしそうな雰囲気を装おうと声を高くしているが、その実態はクリフ・ハナヤマだ。
「すまないが、おまえはもうダイアコニスじゃないんだ。おれとは関係ない」
「……どうして」クリフは足がふるえるのを手でぐっとおさえた。
「なぜおまえにそんなことを説明しなくちゃいけない?」エドは現実世界で人と会話する感覚に懐かしさをおぼえたが、子供と話すのははじめてだった。イグニスによれば子供は悪戯が好きで、不意に予測できない行動を取るため、接触する際にはライフタスクが乱されないよう十分に注意しなくてはならないという。さいわい次の予定までにはある程度の余裕があった。「おまえは子供だろ。早くピトスセンターに帰るんだ」
「父さん」とクリフはいってみた。
「ほう、なるほど」エドはクリフの言葉を無視して、顔の造形をまじまじと見つめた。「よくできてるなあ」自分に似ているかといわれればさほどでもないが、あらためてBTEストーリーとピトス技術には感心した。
「ねえ父さん」とクリフ。「父さんが心配でここにきたの。マーラにはかかってない?」
「おれがマーラにかかるわけないだろう。あんなものはな、えっと、ないんだよ」
「ない?」
「存在しないんだ」エド自身は半信半疑だったが、何も知らない子供にそう教えてやることには妙な心地よさがあった。「はは、知らなかったろう? シェイ」
イグニスはこれ以上の接触をやめて部屋に避難するようさりげなく呼びかけていた。
クリフはいう。「マーラはあるよ。ライフアテンダントに聞いてみなよ」
「エド、その子供のいうとおりですよ。マーラウイルスは科学的に存在が証明されています。研究機関の報告では、いまもなお世界各地で感染者が後を絶たないのですから」イグニスが紳士的な口調でいった。
「でも、あのジャグラーのジジイがいって……」
うろたえるエドの言葉をイグニスが遮る。「エド、ジャグラーが嘘をつくのは常識でしょう。彼らはじつに巧妙に人を騙すのです。これまで何人のスタッフが惑わされて危険な目に遭ってきたか――」
クリフはいった。「マーラはたしかに存在する。この身体で確かめたんだから間違いないよ、父さん」
「おいおまえ、まさか……」
「そうだよ。もうずっと味覚がおかしいの。食堂で食べるセイタンが不味くてしかたないんだから」
イグニスは緊急警報を鳴らした。「危険です! マーラ感染の恐れがあります! エド、粘膜を保護するのです! 口と鼻を手で覆って目を閉じて、急いで部屋に入って滅菌処理をおこなってください!」
「うおおおおおお!」エドは慌てて左手で口元を覆い、目を瞑ったまま手探りでドアを開けようとその場で全身を踊らせた。右手は何度も空を切り、ひと気のない静かな廊下に怒号が響いた。「イグニス! だめだ! もう目が開かないぞ! くそ! マーベラスの野郎! おれを騙しやがって!!」

クリフは黙って身悶えるエドから離れ、そのままエレベーターに飛び込んで下に降りた。走って玄関口を抜けてからも、まだ心臓がどきどきしていた。目のまえの道路を食材運搬用のオートマタが走り抜けていった。上を見上げると厚い雲の隙間が白くぼんやりと光っており、ここに着いたときよりも空はやや明るくなっているように思えた。

 

14

ドリーミンを地中に隠した小さな古城に戻る道の途中、遠くの後ろからクリフを呼ぶ声がした。ふりむくよりも先に気づく。シェイだ。ずいぶんとひさしぶりの再会だった。
シェイには母親が存在しないのだと、クリフがライリー・ブラウエに聞かされたのは約4か月前のこと。彼女から文字学習用のVR装置を渡されたのもそのときだった。ライリーはクリフが会いにいくたびによくシェイのようすを訊いてきた。ずっと会っていないというと、あからさまに残念そうな顔をした。クリフはその顔を見たくなかった。
「クリフ」とシェイはいった。「いったいどこにいってたの?」
「父親のところさ」とクリフ。
「父親って?」
「なんだ、知らないのかシェイ」クリフは笑った。「母親と同じさ。情報の提供者だよ」
「情報?」
「おれがおれ自身、シェイがシェイ自身であるための情報。検索しても見つからないものだ」クリフは地上行きのエレベーターのなかでライリーが話していたことをそのまま伝えた。
父親は母親と何が違うの? とシェイは反射的に質問を重ねようとして思いとどまり、しばらく考え込んだ。クリフはその調子でエドやピトスのことも教えてやろうとしたが、熟考するシェイの顔を見てためらいをおぼえ、前を向いて考えなおした。それこそシェイ自身の問題なのではないか。シェイがシメナに会えたのかはさておき、ドリーミンを抜け出したいまのシェイなら、自ら真実を探しにいくだろう。そして自分も、いずれはシメナの部屋を訪れ、自分の父親なる人物について尋ねてみようという決心がついた。

「シェイ、マーラのこと検索したんだろう?」
「もちろん」とシェイは即答した。「でも治せるよ。もしクリフがマーラにかかったら治してあげるよ」
「……そりゃ助かるぜ」クリフは内心おどろきながらいった。「ただ、おれのやつは名前と症状が違うかもしれないけどな」
シェイはふふふと笑い、「じゃあ治さなくてもいいかもね」
クリフはその顔を見てにやりとした。

「あれ、何だろう?」シェイが道を外れた遠くの草むらを指していった。
クリフが目を凝らすと、たしかに周囲の景色から浮いた謎のオブジェが見える。まるで鮮やかなスカーレット色の旗が風になびいて揺れているようだった。2人はドリーミンのふれあい広場で一緒にはしゃいでいた頃のように声をあげ、そろって駆け足で近づいてみることにした。
旗は2メートルほどの高さがあり、本体はどうやら本物の木でできた柱らしかった。スカーレット色の旗は柱のてっぺんに錆びた釘で留められており、近くで見ると数枚の布を切り貼りしてつなげられたぼろきれで、全体的に黒ずみとほつれが目立った。
「クリフ、これ検索言語だ!」シェイは布を大胆にめくっていった。
木の表面には文字が刻まれていた。

〈偉大なる奇術師マーベラス ここに眠る 予定〉

「奇術師だって!」とシェイはタブレットを見せていった。「ほら、この本、読んだよ!」
クリフは柱の文字をじっと見つめていた。エドの叫んでいた言葉が脳裏をよぎった。「ただ、アードネスによれば奇術師はいずれいなくなるだろうって――」
「きっとまだどこかにいるんだよ!」シェイはあらためて文字に目をやる。「でも、この“ここに眠る 予定”ってどういうことだろう?」
「死ぬかもしれないってことじゃないか」クリフは遠くを眺めていった。「たぶんだけど、この人は死を覚悟してどこかへ行ったんだ」
「どこかって?」
「さあね」とクリフはいった。「ひとつ確かなのは、ドリーミンの外に出てもまだおれたちの知らない世界がたくさんあるってことさ」
クリフがちらりと横を見ると、シェイはタブレットの裏面を見つめていた。

2人はまたしばらく並んで歩き、やがてドリーミンを地中に隠した古城の姿が見えてきた。入口からはなぜか大勢の子供たちがわらわらと飛び出してきている。みんなきょろきょろと首をまわし、広い景色に圧倒されつつも、それぞれ興奮を抑えきれないようすで、通りを外れて方々に散らばっていた。緑色の宇宙人が登場してからというもの、ドリーミンのなかでは子供同士のあいだでささやかな疑念が広まり、さすがのエルデも対処しきれなくなっていたようだ。
「ブラウエさんかな?」とシェイがいった。
「ああ、きっとそうだろう」クリフは門前で子供たちを見送るライリー・ブラウエにむけて思いっきり手を振ってみた。
すると、いきなりシェイが駆けだしたので、クリフもおどろいてあとに続いた。
ライリーは帰ってきた2人の子供を遠くに見るやいなや、寒さで硬直した頬をゆるませ、2本の指が交差された右手を高く頭上に掲げた。

文字数:47951

内容に関するアピール

手品師がトリックを使って問題を解決するだけではなく、いんちき霊能力を見破るのでもなく、すこしだけちがう角度から、手品に関するお話を書きたいとずっと思ってきました。自分は手品師ではないのですが、手品は好きです。手品師はもっと好きです。ネットや動画サイトが普及して、いま手品の世界は大きな転換点を迎えているように思います。これからどんな変化があるかはわかりませんが、この作品をきっかけにほんのすこしでも、いままでとはちがう視点で手品をみていただけたなら、これほど嬉しいことはありません。お読みいただきありがとうございました。ここまで書けたのもこの講座のおかげです。勝手に提出した実作までわざわざ読んでいただいて、ひたすら感謝の言葉しかありません。一年間、たいへんお世話になりました。

文字数:339

課題提出者一覧