ホモ・シリコニー

印刷

ホモ・シリコニー

1. コスタリカ沖

 熱帯特有の水分を多く含んだ粘り気のある空気が、船橋に充満している。青木真治は、木製のハンドルが突き出た操舵盤の横に立ったまま溜め息をつき、窓外に広がる景色を眺めた。周囲は360度の海面で、他の船も陸地も全く見えない。風はなく海は凪いで、天上にとどまっている太陽が、海面にゆらめく光の帯を作っている。中央アメリカのコスタリカにある最大の貿易港プエルトカルデラの港を出て2時間、船はおよそ15ノット(時速25キロ)のゆっくりとした速さで、ココスプレートに設定された沖合470キロの地点に向かっていた。
 ココスプレートは、メキシコ南部からコスタリカにかけての太平洋岸に位置するプレートで、太平洋プレートに沈み込んで中央アメリカ海溝を形成している場所だ。地球の表面を覆う地殻が比較的薄いことから、海底を掘削するには最適だと考えられている。

 青木は48歳。文部科学省所管の国立研究開発法人海洋研究開発機構(通称JAMSTEC)に所属する掘削支援船『なつしま』の船上代表(OSI)を務めている。わざわざ中米のコスタリカまでやってきたのは、半年前から始まった地球深部掘削プロジェクトのためだ。このプロジェクトは21世紀最大となる人類未踏の挑戦といわれ、マスコミにも連日派手に取り上げられていた。なにせ地下を2900キロも掘り進もうというのである。地球の外核からコアサンプルを引き揚げるという、青木のキャリアの中でも最も野心的な試みだ。

 外核到達には、3つの大きな壁が立ちはだかる。それは、「深い水深」「硬い岩石」「熱」だ。掘削には、海底に建造した掘削基地から長い管を下ろし、その中にドリルを通していく。掘削場所の水深は約4000メートルあるが、海底下の岩石は硬く、ドリルの刃がすぐに摩耗するので頻繁に交換が必要になる。交換だけでも4,5日かかるので、目標地点に辿りつくまで2年以上作業を継続しなければならない。ドリルが到達する外核最上部は、4400度以上の高温と地表面のおよそ350万倍の高圧になると予想され、この条件に耐えられる部品は5年以上の歳月をかけて開発された。

 彼らの船『なつしま』は全長220メートル、全幅70メートル、重さ6500トンに達する双胴船で、船体中央に高さ130メートル、30階建てビルに相当する巨大なデリック(櫓)がそびえ立っている。一見、海に立つ高圧電線の鉄塔といった趣きだ。この櫓は、実際の掘削を行う深海ラボと支援船の間を往復するシャトルボートと呼ばれる小型潜水室を吊り下げる装置だが、この櫓が立っているおかげで、なつしまは日本のどの橋の下もくぐることができない。
 掘削支援船はスタッフ構成も通常の船と異なる。海洋掘削の現場では、OSI(オペレーション・スーパー・インテンデント)と呼ばれる船上代表や、OIM(オフショア・インスタレーション・マネージャー)と呼ばれる現場責任者が最高責任者になる。一般的な船舶では船長が絶対的な権限を持っているのに対し、掘削船の船長は掘削責任者の指示のもと、船の運航に関する指揮だけを取る。つまり現在、なつしまを統括しているのは、船長ではなく青木なのだ。

 プロジェクトの始まりは、JAMSTECの横浜研究所に設置された地球規模の環境変動を予測するスーパーコンピュータシステム「地球シミュレータ」が、21世紀の中頃から地球の地磁気は弱まり続けていて、地球の大気が減少していることを明らかにしたことだった。このまま磁場が縮小すれば太陽風によって、次第に大気は剥ぎ取られ、地球は生命がほとんど住めない火星のような星になってしまうというショッキングな内容だった。
 地球の外核の液体金属が対流することによって生まれる磁場は、上空数千キロにまで存在し、いわば地球を守る天蓋となってこれまで太陽風を跳ね返してきた。仮に太陽の放射線が磁場の防御が弱まった地球に降り注ぐことになれば、異常気象が増加し、生物のDNAは傷つけられ、人類の生存そのものに影響を与えかねない。それを防ぐには地球深部で何が起こっているのかを調査する必要があり、そのためには外核を直接分析することがもっとも確実な方法だと考えられた。こうして地味な地球惑星科学という分野に、突然、人類の未来をかけた桁違いの国家予算が投入されることになったのだ。

 それにしてもなんていう湿気だろう。重苦しい熱気で息が詰まりそうだ…。3年前に発生した気候ジャンプによって地上の気温は平均8度上昇してしまったので、赤道付近での作業はことさら辛いものになっていた。額には汗が玉になって噴き出し、それが蒸発しないでいつまでも皮膚をべとつかせる。そのうえ、気温は45度。現場に着いてしまえば作業に追われて気が紛れるのだが、移動中の肌を刺す日射は、痛みさえ感じるほどだ。目的地までの延々長い道程が、せっかちな青木には苦痛でたまらなかった。
 船橋の右舷側では、現場責任者(OIM)の杉山が、そのぎょろりとした大きな目に双眼鏡を当てて、前方を注視している。杉山は、長く青木と同じ支援業務に携わり、口は悪いが何事もそつなくこなす男として頼りになる存在だ。
「ほんとクソ暑いよなあ。クソだよ、クソッ」双眼鏡を両目に当てたまま、にやついた顔で杉山が言った。「ひと雨来てくんねーかなぁ」頭を傾けた瞬間に、もみ上げから汗の滴が流れ落ちた。
 もはや天気の話に反応する者など誰もいない。4月だというのに、さわやかさなど少しもない甲板では、半袖シャツの男が血色のいい腕をむき出しにして昼寝をきめこんでいる。移動中の船の上では、時の流れも停滞してしまうのだ。

「あれ…あれじゃねえかな」突然、杉山がうわずった声で叫んだ。
 青木もびくっとして顔を上げ、杉山の視線を追ってガラス越しに水平線を眺めた。しかし肉眼では何も確認できない。「見えるのか?」
「2時の方向。デリックでしょ、あれ。トゲみたいに海面から飛び出してる」
 青木も双眼鏡の先に目を凝らし、かろうじて米粒ほどの突起を捉えて肯いた。「ウォルター・ムンクだな。間違いない」
 アメリカが所有する『ウォルター・ムンク』という名の掘削支援船が停船しているその場所が、なつしまの目的地だ。地球深部掘削は国際プロジェクトなので、各国の船が順番に掘削支援業務に就くことになっている。すでに8ヶ月間、この地点に留まって深海ラボの支援任務についてきたアメリカの掘削支援船に代わって、今日からなつしまがその任にあたる。海底に建造された掘削スタッフの居住兼調査施設である深海ラボに食料などの物資を供給し、ラボから送られてくるデータを分析し、サンプルを輸送するのだ。

 船内に停船準備を告げるサイレンが鳴り響いた。
「アメリカ人も、これからが外核のコアリング(試料採取)本番ってときに交替じゃあ、くやしいでしょうね」杉山が薄笑いを浮かべて言った。
「そいつあどうかな。こんなところに8ヶ月も居たんだ。早く乾いた土を踏みたいって思ってるよ」時計に目をやりながら、溌剌とした声で青木が返事をする。
 青木が船橋内部をぐるりと見回すと、隣に立つ白い制服に身を包んだ船長が声を張り上げた。「待機位置に近づくぞ、スターボード・テン(舵を右に10度)」
「引継ぎ時間が決まるまで、待機位置に留まる。定点保持の電波を確認」青木はそう言って、メッシュのアポロキャップをかぶりなおした。生まれながらの仕事人間である青木の眼は輝きを取り戻し、遠足前の子供のように胸がときめいていた。

 掘削支援船はその任務の間、アジマススラスタといって横方向についた船底のスクリューで船位置を保ちながら、深海ラボの直上に留まることになる。GPSはもちろんのこと、海底に沈めた超音波発信器から音波を受けて位置測定を行う自動船位確保装置や、波で船が上下しても問題がないようにヒーブコンペンセーターも備えており、とにかく、同じ場所に静止するのが仕事という、珍しい船だ。
 青木は笑いながら船橋の杉山に背を向け、通信設備のある掘削管理室に向かう階段を降りた。手すりを掴み、しかしその時になって、自分の手のひらに汗が浮いているのに気がついた。現地に到着して緊張しているのだろうか。深呼吸してから、階段を一気に駆け降りた。
「スローアヘッドスターボード(右舷微速前進)!」掘削管理室のスピーカーから、船橋で指揮をとる船長の声が響いている。
 青木は通信士の肩をたたいた。「さあ、選手交代だ。ウォルター・ムンクを呼び出してくれ」
「了解」通信士が振り返りながら、マイクのついたヘッドセットを左耳に当てた。
 青木は壁にかかったタオルを手にとって、首の汗をぬぐった。いま青木のいる掘削管理室は、掘削に関する情報が集約される、支援業務の心臓部だ。船橋が航行に関する指揮所だとすれば、船橋の下に設けられた掘削管理室は掘削に関する指揮所である。窓はなく、壁一面モニタで覆われていて、赤や黄色の表示がチカチカと点滅している。通常の船舶では、指揮系統の中心は船橋だが、航行よりも掘削が作業の主役である掘削船の場合、掘削管理室の重要性は船橋よりも高い。
 青木は部屋の隅にある冷蔵庫から、炭酸水のペットボトルを取り出した。
「それ、まだ冷えてないと思いますけど…」通信士が声をかけた。
 青木がスクリューキャップに手をかけたその時、スピーカーからビリビリとノイズに混じって、割れた音声が響いてきた。「…しま、な…しまか、はやく、はや…」
 青木はボトルに口をつけ、ゴクリと一口飲み込んだ。さらに、どこからか、かすかに規則的なパタパタという音が聞こえてくる。その音はますます大きくなり、振動が伝わってくるようになった。おそらく、ヘリコプターだ。なつしまの頭上を旋回でもしているのだろう。そのうち、音はまた小さくなり、しばしの静寂が訪れた。
 再び無線から声がした。「なつしま、きこ…か…」
 だしぬけにサイレンがけたたましく鳴り、非常灯が点った。いちはやく、我に返ったのは通信士だ。あわてて、通信機のキーをたたき始めた。「ウォルター・ムンク、ウォルター・ムンクですか?」
 スピーカーからはガリガリとノイズばかりが聞こえてくる。
 青木は泡が湧いている液体を一気に飲み干して、叫んだ。「どうしたっ?」
 室内がざわつき始めた。通信士が肩をすくめて青木を見た。青木はあごをしゃくって言った。「カメラだ。船外カメラの映像を出せっ」
 なつしまには船橋や甲板、水中に32台のカメラが取り付けられていて、掘削管理室から映像を確認することができる。壁に並んだモニタに、次々に船外カメラの映像が映し出されていく。そのうちの一つに飛び去るヘリコプターが映り、すぐに画面外に消えた。ウォルター・ムンク号が停泊している右舷とは反対側の甲板カメラだ。青木はレーダーを覗き込んだ。緑の点で示されるヘリコプターの位置が、真っ直ぐ南東の方向、なつしまが経由してきたココス・アイランドの方向に移動していく。緑の点には、矢印で認識記号が表示されている。
「ウォルター・ムンクから飛び立った機体です」通信士は興奮して声がうわずっている。
 青木は一歩後ずさり、壁一面を埋めているモニタを順に見渡した。ウォルター・ムンク号の船尾を映したカメラ映像から、蜘蛛の子を散らしたように、救命ボートが離れていくのが映しだされている。船体からは、蒸気ともホコリとも見えるような粒子が舞い上がっている。
 青木は眉間に皺を寄せながら、マイクを手にとった。「ウォルター・ムンク、よく聞こえない。もう一度」
「…つしま、シャトルボ…」息の荒い男の声が聞こえてくる。
 青木は無線のボリュームを上げた。
「わからない、もう一度…」相手の声はくぐもったままだ。
 青木は通信士と目を見合わせ、首をかしげた。青木は再びマイクに向かって、大声を張り上げた。「説明しろっ、何が起こってるんだ!」
 声の主はよほど焦っているようだった。他の乗組員にうわずった声をかけている。
「もっと、落ち着いて話せ」青木の汗は冷や汗に変わっていた。一度、呼吸を整えて、通信士に向き直った。「尋常なあわてぶりじゃないな…」
 そのとき、船首を映していたモニタが、一瞬ホワイトアウトした。強い光が瞬いたのだ。青木は双眼鏡を手に取り、掘削管理室をとびだした。足がもつれそうになりながら階段を駆けのぼり、甲板に立った。甲板は、まだ相変わらず南国のけだるい空気に包まれていて、遠くで甲板員たちが大声でわめき散らしている。青木は手すりを握り、前方海域を注視した。船橋で見たときには米粒ほどだった突起物は、完全に肉眼で捉えられるほど大きくなっている。船体中央から櫓が突き出ている構造は、間違いなく掘削支援船のウォルター・ムンク号だ。その櫓の底部がパチパチと光を放っている。
「あれは…」と、青木は目を凝らした。
 暗闇の深海から打ち上げられた花火のように、その光はますます輝きを増して、櫓を覆い尽くしていく。同時に船体の周囲の海面がぶくぶくと泡立ち始めた。船上では船員らしき人影が手を振っているのが見えた。青木は再び双眼鏡を構えた。突然、OSIが甲板に姿を現したのに驚いた甲板員は、日光浴用の椅子から上半身を起こして青木の後ろ姿を見つめている。
 青木は目を剥いて黙り込み、双眼鏡を握り締めた。ウォルター・ムンク号の船員たちは、手を振っていたわけではない。手をバタつかせながら、次々に海中に飛び込んでいたのである。
「ああ…」青木は思わず情けない声をあげた。
 いま、地球深部掘削のクライマックスを直前に控えて、重大な事故が起こっているのは間違いなかった。青木は一瞬のうちに、これまでプロジェクトの準備に費やした5年間を思い起こしていた。頭がぐるぐる回り、倒れそうになった。ほどなく船体に振動が伝わり、断続的に金属の軋む低い音が腹に響いてきた。甲板がざわざわ騒がしくなった。音の方向を見やるなつしまの船員たちの目に映ったものは、前方で火炎を上げ、黒煙を吐きながら沈んでいく、ウォルター・ムンク号の船影だった。

2. 南極・アムンゼンスコット基地

 見渡す限りの白い氷原を1台の雪上車が轍を刻んでいく。雪上車の車内には、フロントグラスを通して、オレンジ色の陽光が差し込んでいる。運転席で、二重のナイロン製ダウンジャケットに身を包んだ植田は、大きなくしゃみをした。マイナス50度の気温に吐く息はたちまち凍って、日の光を反射してキラキラと輝き、足元に落ちた。
「ちょっと時間を食いすぎた。日が暮れる前に帰れるかな?」植田はギアを入れ替えると、右足でアクセルを踏み込んだ。
 植田は、アメリカが進めている南極ドリリング計画の日本からの派遣隊員である。もともとは民間企業の日本コアクエストに所属する研究者なのだが、地球深部掘削のためにJAMSTECに出向し、そのまま南極に派遣されてきた。専門は機械工学で、有名な冒険家の名を冠した米国基地で働くようになって半年間、ずっと掘削機器の保守と運用を任されている。
「前の丘を越えれば基地が見えるはずだ、このナビがマトモなら」
 色の濃いサングラスをかけて助手席に座っている大柄で筋肉質のジャタス・カルロスが、氷が張りついたナビ画面を、人差し指でコツコツと叩きながら答えた。カルロスは伸びた口髭に張り付いた氷を払い落とし、コンソールからオーディオ・ファイルを呼び出して、再生ボタンを押した。突然、スピーカーからパーカッションのバックビートとともに、大音響のボサノヴァが流れだした。

 2人が参加する南極ドリリング計画は、厚い氷に閉ざされている南極大陸の氷とその下にある地層を採取して、太古の地球の姿にせまろうというプロジェクトで、地球深部掘削計画とあわせて、チャレンジングな二大掘削計画といわれていた。内陸のテラノバ観測拠点で、向こう3年で深さ5000メートルまで掘り下げ、150万年前に出来た氷の酸素同位体比や、氷の中に閉じ込められた空気を調べることによって、気候の変動過程を明らかにすることが期待されている。実際に急激な気候変動を体験した人類にとって、気候変動の仕組みを出来る限り解明することは、大気の減少とあわせてまさに緊急の課題なのだ。

 雪上車は氷片を跳ね上げながら、猛スピードで緩やかな丘を上っていく。ふたりは5キロごとに設置された気象観測所をまわってデータを集めながら、南極バーン岬の近くにある、アメリカ合衆国のアムンゼン・スコット南極基地に向かっていた。かつては南極点近くにあったアムンゼン・スコット基地だが、気候ジャンプによる海面上昇で南極大陸の西半分が水没してしまったから、昨年この地に引っ越したばかりだ。
 21世紀前半までの南極大陸は、南極点を中心に、およそ南緯66度30分以南の南極圏内に広がる円形の大陸だった。南極半島が南アメリカ大陸にむかって長くのび、ロス海とウェッデル海の2カ所で大きく湾入して、大陸の95%以上が氷床とよばれる厚い氷の山でおおわれていた。氷床の厚さは3000メートル以上、これは当時、世界の淡水の約70%に相当した。しかし、気候ジャンプによる気温上昇によって氷床が溶け出し、大陸の西半分は水没して、南極は半円形の大陸と、いくつかの島を指すようになっていた。
 雪上車が雪のコブをこえて跳ね上がり、2メートルほどジャンプした。助手席のカルロスが声をあげた。「見えたっ、見えた」
 カルロスは大袈裟に天を仰いで、十字をきった。「ああ、神サマ、帰ってこれました」
「神を信じてもいないくせに…」植田はカルロスの顔を見つめて、にやりとした。
 こんもりとした丘を越えた雪上車の前方に、3つのドームが三角につながったアムンゼン・スコット基地が姿を現した。ドームの後方には、10階建てのビルにも相当する巨大なレーダー設備を持った観測所が建ち、観測所は20本の脚で支えられ、積雪に対応して上下するようになっている。雪上車のガラス越しに、植田は目を見張った。基地のはるか彼方には、ガスに煙る海岸線が太陽に照らされて輝いている。すでに太陽は地平線ギリギリの高さまで落ちて、基地を取り囲む氷山が白銀の大地に長い影を落としていた。
 雪上車はうなりをあげて、ドームのひとつに向かっていく。
 カルロスはナビシステムの操作パネルをいじりながら言った。「ホント、最近のナビは正確だよな」そして、植田の方に振り向いて続けた。「けどさ、なんでもかんでも狂いなくわかっちまうから、スリルがなくなったよな」
 「昔のほうがよかったのか?」
 「この南極だって、イカレ冒険野郎のアムンゼンやスコットの頃は未開の大地だったんだぜ。ブリザードのなか、犬に引っ張ってもらって、命がけで南極点を目指すんだ。話を聞くだけでワクワクする」
 植田は空に人差し指を立てて、ぼそりと言った。「今や空は衛星だらけ。どこにいっても何メートル先をどっちに曲がればいいか教えてくれる。南極もペルーも東京も変わりないよ」
「便利になったもんだよな」
「いや、お前の言うとおり、つまらなくなったのさ」植田は男を見て、ふふふと含み笑いをした。

 ほどなく雪上車は、基地に横づけされているもう1台の雪上車の隣に停車した。カルロスは集めたデータを書き留めたファイルを掴んで、雪上車を降りた。雪がうっすらと積もった地表に、防寒靴の跡がつく。
 植田はイグニションキーを抜き取りながら言った。「俺は、ドリルルームを覗いてから行く。もうそろそろ目標深度に達してるはずなんだ」
「ようやく掘削も完了か?」カルロスは口笛を鳴らした。
「になるかもしれない、とりあえずの現場作業は…」植田は雪上車のドアを閉めて、雪よけの車両カバーをかけた。

 ドリルルームに入ると、必要以上に暖められた空気が、息苦しく感じられる。部屋の中央には、アメリカ軍が開発したメイントレンチが鎮座して、掘削ドリルを回転させつづけている。植田は、泥水循環システムのステータスモニタを覗きこんでから、隣の制御室の扉を開けた。もともと石油掘削のために使われる掘削ドリルの開発者だった植田は、設計図面とにらめっこの毎日がいやで、現場に飛び込み、さまざまな掘削現場を経験してきた。ベトナム沖の大規模油田から始まって、ユカタン半島の海中掘削、チチカカ湖の掘削、台湾沖、サハリン沖の海底油田、南海トラフのメタンハイドレート試掘と、特に海底を掘削するライザー掘削システムを専門にしていた植田の知識は実践の中でさらに磨きがかかり、荒くれものばかりの掘削現場でも一目置かれるドリラーへとなっていた。そんな時だった、南極行きの話が舞い込んだのは。

「寒いね」植田は、すっかり煮詰まって炭のようになったコーヒーをマグカップに注ぎながら、分厚いファイルをチェックしている赤ら顔の男に声をかけた。
 男はコンソールのキーを叩きながら答えた。「ああ、最近暖房の調子が悪くってさ。どうだった、久々のピクニックは?」
「カルロスといっしょじゃ、気分が出ないよ」
「そりゃ、そーだ」
「コーヒー飲む?」植田は湯気のあがっているカップを差し出しながら言った。
 男はコップを受け取って、ふうふうと息を吹きかけながら、きいた。
「事故が起きたって、聞いた?」
「どこで?」
「ココスプレート」
「深海掘削の?」植田は尋ねた。
 男は口を尖らせてコーヒーをすすりながら答えた。「全然、ニュース見てないんだな」
「ワイドショーは見るけど、ニュースは見ないんだ」と、植田。「こんなひとけのないところじゃあ、唯一のエンタメは他人の噂話だからね」
 男は心配そうな顔をして言った。「あそこが事故ったとなると、こっちにも影響があるんじゃないの? 同じライザー掘削だし」
。「同じって言ったって、ぼくらは氷を掻いてるだけなんだし――」植田は顎の無精ひげをつまんで続けた。「こっちの作業は、もうおしまいだ」
「ああ、そーだった」
 男は立ち上がり、植田に席を譲ってドアを開けた。「これでたぶん最後のサンプルだ。頼むよ」
「わかった」
 植田は油圧レバーを引いて高さを調節し、アザラシの革でできた防寒靴を脱いだ。
 ライザー掘削用のドリルは、岩石を破砕しながら進む最下端のドリルビットと、ビットを深部に送り込むために延長していくケーシングパイプからなっている。ケーシングパイプは1本9メートルほどの鉄柱で、その太さや数は、掘りぬく地層の状況や深さによって異なる。地上のドリルルームで、ドリルの回転を止めることなくパイプをつなぎながら、掘削作業を進めていくのである。ケーシングパイプは、パイプと呼ばれるように、中空のストローのような構造なので、その中にコアを入れるコアバレルをワイヤーで上下させて氷床サンプルを引き上げることができるのだ。
「ドリルルームからコントロールルーム、サンプルの引き上げを始める」植田は大きく息を吸って言った。
「OK、サー」テーブルの上に無造作に置かれたスピーカーから、カルロスのふざけたしゃがれ声が聞こえてきた。
 植田はマイクを手前に引き寄せた。「カルロス、これが最後の1本だ。準備はいいか?」
「ちょっと待った。孔内のコンディションをチェックする」
 植田は掘削用の端末が並ぶ席についた。メイントレンチを介して、ドリルを掘進させているモーターの振動が伝わってくる。
 しばらくして、カルロスの声が聞こえてきた。「こちらコントロール、いつでもどうぞ」
 植田はケースを開き、安全装置解除の赤いボタンを押してから、机から突き出している2本のスティックを握り締めた。掘削といっても、その現場はほとんど昔テレビで見たSFだ。ドリラーと呼ばれる掘削技師は、宇宙船エンタープライズ号でキャプテン・カークが座るようなシートに腰掛け、データが映し出される液晶パネルを眺めながら、操縦桿に似たスティックでドリルをコントロールする。液晶パネルの中央に映し出されているのは、白い氷床を貫いて、地殻を掘り進むドリルと、その中を昇降するコアバレルのグラフィック表示だ。いままさに、そのコアサンプルが詰まったインナーコアバレルがワイヤーに引かれて、ゆっくりと上昇を始めた。

3. 横須賀・海洋研究開発機構

 全長100メートルほどの海洋調査船が接岸している横須賀の岸壁に、1機のヘリコプターが着陸態勢に入りつつあった。ローターから吹き下ろす強風が、ヘリポートの周囲に生えそろった芝生の間から、砂埃を巻き上げる。降下を続ける機体の腹には波をかたどったJAMSTECのブルーのマークが描かれている。ヘリコプターの車輪が地面に接するや否や、扉が開いて、ずんぐりしたスーツ姿の男が姿を現した。ローターの巻き起こす風にはためく胸元を押さえながら、男は部下を従えて、玄関に向かってまっすぐ歩きだした。掘削計画ジェネラル・マネージャーの堀野は、地球深部探査センター長の笠井と一緒に本部棟玄関で彼らを出迎えた。
「いやあ、ご苦労さん」男は、笑顔を作りながら笠井とそっけない握手を交わし、つづいて堀野に右手を差し出した。JAMSTECは文部科学省の外郭機関で、男は担当局長の清水敏文。その権力は絶大で、機構の理事長でさえ頭が上がらない。
 堀野は簡単な自己紹介を済ますと、応接室を用意してある建屋に誘った。清水は見たところ、50歳なかば。黒いイタリア製のスーツ、のりで固めたカラーシャツに細身のネクタイを締め、薄いブリーフケースを下げている。しかし、いくら薄手の生地でも、このクソ暑いのにスーツだなんて、浴室の外に姿見を持っているようなナルシストに違いない。
 建屋に向かいながら、清水はいきなり本題に入った。「その後、新しい情報は入ってるの?」眼鏡の奥には、キャリア官僚独特の抜け目ない眼が光っている。
 白シャツにブラウンのサスペンダーをした笠井は、小難しい顔つきで一枚の写真を取り出し、清水に渡した。「なつしまのカメラがとらえた映像です。スチールにすると解像度が足りないんで、ちょっとわかりにくいんですが…」
「この船は?」清水は写真を指差してきいた。
「ウォルター・ムンクです。その手前に火花が写っています。火災の直前にシャトルボートを吊り下げていた櫓から出火したという話もでています。まだ未確認ですが」
「フーン…」その声にはかすかに緊張感が感じられた。「それだけ? 他にはない?」
「ええ、今はまだ」笠井が言いにくそうに答えた。「交信記録はお送りしてると思いますが…」
「それは見た。それより事故から半日も経ったのに、スチールしかないとはねえ」
「はあ」笠井が情けない声をあげた。「映像を送らせてるんですが、ただ、通信状況が悪くて…」
「これじゃあ、マスコミの方が早く嗅ぎつけるよ」清水は威嚇するように言った。
「すみません」笠井はすっかり縮み上がってしまい、顔から血の気が失せている。
 堀野は歩きながら、注意深く清水と笠井を交互に見つめた。笠井は明らかにうろたえて、額には玉の汗が浮かんでいる。
「最新の情報を整理しといてくれる。今日中に記者会見をやらなきゃならない」清水が言った。
「どこまで話しましょうか?」
「なつしまの今後の作業日程に変更があるか、とか、そういうことだね」
「深海ラボは?」
「連絡がつくまではなんとも言えないでしょ」
 笠井は爪を噛んで、言葉を詰まらせた。いつもの癖だ。笠井は言いづらいことを言うときには必ず爪を噛む。「…事故の原因は何だってきかれますかね」
「そこは調査中で押し通せばいい。この絵はまだ出しちゃダメだよ」清水は2本の指で挟んだスチールを突っ返した。
 清水を先頭に、笠井と堀野、その後から文部科学省の役人たちが玄関のガラス扉を通りすぎた。玄関ホールの両サイドには、これまでJAMSTECが開発した支援船や潜水艇の模型が並んでいる。清水は展示には目もくれないで、2階への階段を上っていく。清水は両手を握り合わせながらきいた。
「ウォルター・ムンクが沈んだのは、浮上したシャトルボートと衝突したからなの?」
 堀野は目をそらしたまま、平板な口調で言った。「救助された乗組員によれば、そのようです。ブレーキが作動しないままぶつかったので、すごい衝撃だったと。シャトルボートは、コバルト合金の金属球なので、それがデリックに高速で衝突したとしたら、沈没に至る可能性はあります」
 清水は不意に立ち止まり、天井を見上げて言った。「今、ラボには何人残ってるんだっけ?」
「コアの保管を担当する技術者と研究者の2人です」笠井はハンカチで額の汗を拭いた。「予定では、今日にも交代するはずだったんですが…」
「シャトルボートはおシャカなんだよね。もう深海との間を往復できないし、ケーブルは断線したわけだ」
 笠井は大きく2回うなずき、溜め息をついた。

 深海ラボは電力も水も自給できる掘削基地だが、食料や工具、掘り出した試料をやり取りするために、海上との連絡船が必要になる。深海用の潜水艇でも可能だが、より安全確実にやり取りできるように、ラボとの人員と物資運搬用にはシャトルボートが用意されていた。これは、FRPのボディーに覆われた直径10メートルほどのコバルト合金製の耐圧船殻が軌道をつたって上下する深海用エレベーターである。耐圧殻の下部には昇降のための駆動装置が付いていて、さらにその下にムカデの足のような放熱板がくるくると回るしくみだ。櫓の中のクレーンから海中に吊り下げられたアンビリカルケーブルは、シャトルボートの軌道であると同時に、電力供給機能を備えている。電力用線芯を強い強度を持つ鞘で包み込んだ構造のケーブルで、ボートの重みで強い張力がかかっても切れることはない。
 ところが、そのシャトルボートが深海から高速に浮上し、ケーブルを吊り下げていたウォルター・ムンクと激突したというのが、限られた情報から推測される事故原因だった。

 笠井は唇をなめた。「ですので、まずは救助を優先しようと思います」
「潜水艇を出すの?」清水は冷静な口調で言った。
「問題は人選なんですが…」笠井はもったいぶるように腕を組み、まばたきせずに、じっと堀野を見つめた。堀野は下唇を噛み、黙り込んだ。
「ここに至っては、堀野君がベストの選択肢だと考えています」笠井はメガネを額の上までずり上げて、続けた。「こういう状況のときこそ、堀野の深海に関する広い知識と、指揮官ぶりを見せてもらいたい」笠井はさらに言葉を継いだ。「これはもちろん、私だけの考えじゃありません」
 清水はそばに立ち、にやにやしている。「らしいよ、堀野くん」
 堀野は笠井と清水の顔を見てから、咳払いをして言った。「じゃあ、オレの意見なんか聞く必要はないでしょう。で、いつ行けばいいんです?」
「今日明日中には出発するのがいいと思ってるんだけどね」と、笠井。
「今日!?」堀野はうっかり大声を張りあげた。「用意周到じゃないですか!」

 窓外で国旗掲揚台に日の丸が翻っている。堀野は、今度の事故について、なかなか整理できずにいた。深海底が宇宙以上の、最後のフロンティアであることを知っているのは、他ならぬ堀野自身だ。未開地の開拓には、とんでもないリスクが付きまとう。たとえ、どんなに金と才能を使い、どんな新技術を投入したとしても、支配できないものがあることは承知していた。そんなときは、幸運に恵まれることを祈るしかないのだ。
 堀野はためらいがちにつぶやいた。「南海トラフの掘削みたいにならなきゃいいんですが――」
 一瞬、静寂が訪れ、通路の先の窓から差し込む光でシルエットになった清水はゆっくりと振り向いて、無邪気な表情で堀野を眺めた。「堀野くん…酷い経験をしたのは聞いている」
「あの時は、とっとと退去すればよかった。そもそも無理な作業だった上に運にも見放された」堀野は困惑した顔で言った。
 清水はじろりと鋭い視線を堀野に向けた。「コスタリカではできるだけのバックアップをする。経験豊かな君に助けてほしいんだよ」

 堀野は25年間にわたって世界の現場で海洋開発に関わってきた掘削のベテランだ。これまで『しんかい3』や『かいこう5』といった、日本が誇る高性能潜水艇を潜水地域まで運搬し、深海底を調査指揮して海底に転がっているマンガン団塊を発見したり、地下深部に棲む微生物の探査に大きな成果を上げた。また、有機物が堆積してできた層の存在を立証し、今から1億年前に地球が温暖化した時代があったことを明らかにした。
 そんなときに起きたのが南海トラフでの掘削作業中の死亡事故だった。それまで毎年2,3回は深海底にもぐって、日本の海洋研究を実践していた堀野も、事故の責任を取らされて、デスクワークに追いやられたのだった。今回のコスタリカ沖の地球深部掘削での彼の肩書きは、地上に引き揚げたサンプルの分析と保管を管理する事務管理職であるジェネラル・マネージャー。掘削現場を仕切ってきた堀野にとっては、ストレスの溜まる仕事に他ならない。しかし…今や、この緊急事態を現地で処理できるのは堀野しかいないということを、文部科学省が認めざるをえなくなっていた。堀野の前に、現場への道が再び開けてきたのだ。

 突然、清水が低い声で呟くようにきいた。「堀野君にとって、今や掘削は弔いのようなものかね…」
「弔い?」笠井はぎょっとして尋ねた。訳がわからないといった顔だ。
 清水は不思議そうに笠井の顔を見、視線を堀野に移して続けた。「おや、センター長はご存じなかったのかな? 南海トラフで亡くなった女性の研究者のこと…娘さんだよな」
 笠井は横目で清水を見た。
「堀野君の娘さんなんだ」と、清水。
 堀野はむっとして、清水を見た。役人には、頭のいい夢想家と頭のいい実務家がいる。どうやら、この清水という男は後者の方らしい。妙に取り澄ました態度に、自己啓発セミナーの勧誘者のような胡散臭いところはあるが、こういうタイプには、はっきりモノを言ったほうが話は早い。
 堀野は奥歯を噛みしめながら言った。「もちろん、掘削現場で娘のことを忘れたことはありません。だからこそ、これ以上掘削現場で誰も死なせたくない…これほど事件解決に高いモチベーションを持っている人間は他にいないでしょう。自分にとって、掘削は理屈じゃないんです」
 清水はうーんと唸ってから、視線を堀野に向けた。「わかった、任せるよ。何か要望があったら言ってくれ」
「じゃあ、ひとつだけ。一緒にドリラーを連れて行きたいんです」
「ドリラー?」
「実際に掘削装置を操作する人間です」
 清水は、スーツによった皺を伸ばしながら言った。「現地でスタンバイしてるスタッフじゃ、役不足だと?」その声は太く、落ち着き払っている。
 堀野は身をこわばらせた。「はっきり言って、その通りです。掘削っていうのは、いってみれば地球に内視鏡を差し込むようなもんです。その担当がヤブ医者じゃあ、地球が腹を立てちまう」
 清水は作り笑いを浮かべた。堀野がつづけた。
「深海掘削を、地上で温泉を掘るのと一緒にしちゃいけない。いまやってるのは未踏の地を開拓するってことです。まして、危険があることがはっきりした。そういうところでうまくやれるのは、日常的に危険と隣り合わせに暮らしてる連中だ。欲しいのは、私の意図を汲んで、働いてくれる一流の掘り屋なんです」」
「ああ、なるほど」そう言って、清水は虚空をにらんだ。しばらくして、抑揚のない声で話し始めた。「ぼくらの目的は至極単純なんだ。日本がこのまま衰退するか、再び興隆の歴史を再現させるか、ふたつにひとつを選ばなきゃならない。だからこそ、今度のプロジェクトは失敗させられない」
 幾度となく聞かされてきた官僚の講釈。堀野は床を見つめて、嘆息した。周囲の人間は、清水の堂々としたさまに、突っ立ったまま聞いている。
「ドリラーが必要というなら手配するし、予算がないんなら金をかき集めてくる。ただ失敗は許されないということだけ肝に銘じてくれ。研究者の作業に影響が出てはまずい」
「もとから、そのつもりです」堀野はまっすぐ清水を見た。
清水は顎をしゃくりながら言った。「で、そんな優秀なドリラーがすぐ見つかるの? まして危険を伴う現場だし」
「ええ」堀野は言った。「危険は金で買えるんです」
「心当たりがあるんだな」
「まだ意向は聞いてませんがね。ただ清水さんの力をお借りしないといけなくなると思います」
「例えば?」
「たとえば、掘削から足を洗って、田舎の試験場でのんびりしたいと思っている奴がいるかもしれない。たとえば、金はもう十分貯まったから、この分野でちょっとした商売を始めたいと思ってる奴がいるかもしれない。ま、ささやかなもんです」
「他には?」
「それ以上は自分でやるでしょう」
「結構だ。人集めを始めてくれ」
 堀野はうなずいた。清水は両手を大きく広げ、政治家のような芝居がかったしぐさで、堀野の手を握った。「でも、どうしてそこまでドリラーにこだわるんだ?」
「掘削は個人技じゃないんです。チームワークなんです」
「気心の知れたスタッフとやりたいってのはわかる。それだけか?」
「いけませんか」
「そういう仲間の集め方は一般的なのか、掘削の世界では」
「少なくとも、これまではそういう人間関係を作ってやってきたつもりです」
 清水は堀野に顔を寄せて、にやりとした。「私はスタッフは基本的には取り替え可能だと思ってる」
 清水はきっぱりと言った。「誰がやっても同じ結果が得られる。組織っていうのは、そういうもんだ」
「なら私は時代遅れの石頭なんでしょう」堀野はさりげない口調で言った。「どうして今度は構わないんです?」
「あなたに行ってもらわなきゃならないほど、追いつめられてるってことだ」
 堀野はふふんと鼻を鳴らして答えた。「わかりました」そしてこれ以上、清水と意見を戦わせる必要はなかった。彼の戦場は、もはや横須賀でも虎ノ門でもない。コスタリカの深海底になったのだから。
「よろしく頼む」清水は堀野の肩をたたいた。
 隣りにいた笠井は2人のやりとりに、銀ぶち眼鏡の分厚いレンズをクリーナーで拭きながら、いらいらと不機嫌そうな顔をしている。
 堀野はこれから起こるであろうことを予測し、左手に巻かれたトノー型のクロノグラフに視線を落とした。変わらぬ時を刻んでいる機械式の複雑時計のガラス面に、理事長室に消える清水と笠井の影が映り込んでいる。

 そもそも堀野が海の仕事に就いたのは、海が人間にとって最後の秘境だったからだ。若いころは、日常生活に疲れた人々を斜眼に見て、海と共に生きる未来の暮らしを夢想していた。結婚して10年目にできた娘にも、海洋探査の魅力を語って聞かせたし、家族旅行はいつもマリンリゾート。海は、彼の好奇心を刺激し、癒しを与えてくれる掛け替えのない存在だった。しかし、そんな「夢」の中味はすっかり変わってしまった。もう海にひとかけらの冒険心も感じたことはない。
 堀野は、清水の連れてきた役人たちとスケジュールの打合わせを済ませ、JAMSTECのバンで羽田に向かった。真夏の強い日差しが、敷地前のコンクリート道路を歩く人の群れを容赦なく照りつけている。堀野はバンの窓から、ぼんやりと風にそよぐヤシの葉を見つめていた。今晩中に、コスタリカの首都サンホセに飛べば、そこからジェットヘリに乗り換えて、明日中にはココスプレートの現地に停泊している、なつしまに着けるはずだ。

4. 南極・アムンゼンスコット基地

 アムンゼンスコット基地の巨大冷凍室では、マイナス40度に保たれたサンプル保管庫に、50センチずつに切り分けられた氷床深部の氷柱が、深さ順に並べられている。ところどころ曇っている以外は、普通の氷と変わりない。
 植田が最後のサンプルを取り出して、日付と時間のタグを付けた。顔面の皮膚にちくちくと冷気の刺激が伝わってくる。植田はこの冷凍室が気に入っていた。空気清浄器の作動する室内は澄みきって、呼吸するたびに肺に送り込まれる冷気が、体にたまった生ぬるい汚染物質を追い出してくれるような、不思議な感覚があるからだ。
「この中に封じ込められてるんだよね。その、かつての地球の気候変動の記録ってのが…」植田はそう言いながら、手袋で氷をなでた。
 その隣で気象学者の大島が、サンプルの一部を削りとっている。「おかげで今回はなかなかいいサンプルがとれた」
「分析は進んでる?」と、植田。
「とりあえずは酸素と二酸化炭素の濃度データをとり始めてるけど、なかなか面白い結果が出てるんだ。予想以上に、地球上の大気組成がダイナミックに変化してたみたいなのよ」
 植田は首を傾げてきいた。「そう、もったいぶらないで下さいよ」
「現在の大気の組成って、酸素21%、二酸化炭素は0.2%ってところだよね。でも、時期によったら酸素は今の半分、逆に二酸化炭素は今の倍くらいだった頃も存在してたみたいなんだ」
「それって、いつごろ?」
「だいたい1億年くらい前だから、恐竜がいた白亜紀だね」
「それが原因で、恐竜が絶滅したとか?」植田は鼻を鳴らして笑った。
「そいつは、なかなか独創的な説だねえ…」大島は相変わらず、氷柱を睨みつけている。
「大島さんと話してると、いつも歴史は気象が作ったってことになっちゃうからなあ…白亜紀の後はどうなるんです?」
「それが妙なことに、ほんのわずかな期間で今の組成になってるんだよ」サンプルを取り終えた大島は、氷柱を元の棚に戻しながら言った。
「原因は?」
「わからないね、今のところは。もう少し詳細に検討してみないと」
 植田の背後で、扉が開く音がした。振りかえると、カルロスがドアを開けて入ってきた。
「こいつらの分析もあと、ひと月もあれば終わるんだってさ」と、植田。
 3人は並んで、2年半にわたる南極ドリリングの成果に向き合った。南極大陸には貴重な鉱物資源が大量に埋蔵されているといわれる。石炭は商業ベースの採掘が可能なほどみつかっているが、それ以外の鉱物は利用できるほどの埋蔵量は確認されていない。しかし、ここにある氷と地殻のサンプルは、そうした鉱物資源とは違った、人類に有用な情報をもたらしてくれる。

 これまで植田やカルロスが経験してきた現場は、ほとんどが石油などの資源掘削で、まさに宝の山を当てる一発勝負だった。掘削対象地域の事前調査から始まり、可能性があるとわかれば鉱業権を取得、さらに地質調査、磁力探鉱、地震探鉱などを経て、ようやく試掘が始まる。十分なリサーチがおこなわれるが、それでも鉱脈に当たる確立は1000本掘って2、3本。その数本に運よく当たれば、掘削スタッフは大金持ちというわけだ。リターンが大きいぶん、もちろん、リスクもまた大きい。7年前のベトナム沖では、ドリルが天然ガスの層を貫いて高圧のガスが噴出し、あわや大事故になりそうだったし、5年前は地層が崩れて、ドリルを放棄するしかなかった。そんな博打打ちのような暮らしをしていた2人が、いつのまにか、研究掘削に携わっている。新しい資源獲得競争の流れは、明らかに変化して、この有限な地球をどうやって長持ちさせるかということが考えられるようになっていた。

 3人は冷蔵庫から出て、マスクと手袋を脱いだ。
「じゃあ、あとひと月くらいは、氷とにらめっこの毎日って訳だ」植田はダウンジャケットを脱ぎながら尋ねた。
「そういうことだね」と、大島。
「その間、ずっと白亜紀の酸素の異常増加の調査をするわけ?」
「それもあるけどね。やんなきゃいけないのは、この地球の気候モデルを作るためのデータ集め。これまでの気候変動のメカニズムを再現するためにね」
「氷河期がどうやってできるか、とか?」
「最近のいろんな証拠を総合すると、地球上ではここ70万年は冷たい氷期と暖かい間氷期がほぼ10万年周期で繰り返されてるんだ。となると、今は約1万5千年前から始まった間氷期の末ってことになる。氷期と間氷期のサイクルが続くなら、地球はやがて氷期を迎えることになる。まあ、平均気温は今より10度くらい下がることになるはずなんだ」
「こんなに地球は温暖化してるってのに?」
「これまでだって氷河期と間氷期は10万年くらいで繰り返されてきた。その間にも周期の短い変動がいくつもあるんだけどね。例えば2万年くらい前までは、北極の温度が短い間に7度から10度も上昇する変動が何回もあったことがわかってる」
「じゃあ、3年前の気候ジャンプも別に特殊なことじゃないっていうこと?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「どっちなんです」
「ホントのところ、気象学者にもわからないのさ。オゾン層の破壊とか排気ガスとか、人間の生産活動が原因かもしれない。あるいは、これはごく普通の地球の気候のブレかもしれない。ただ、10度程度の気候ジャンプが大事件になるほど、最近9000年くらいの間、気候変動がさっぱりなくなっていたほうが異常だったってことは言えるね」
「でも、その9000年があったから、人類は繁栄できたんでしょ。大島さんも、そう言ってたじゃない」
「そうそう。でもさ、数万年単位で気候変動を調べていくと、いつドカンとくるのか、心配になってくるんだ。それがボクの生きてる間でないことを祈るだけだね」
「ドカンって?」
「明日、突然氷期になるかもしれないし、灼熱の地獄がやってくるかもしれない」
「避けようがないわけ?」
「ない。ボクはこの異常に安定した環境が恐いよ」
 植田と大島は顔を見合わせた。植田はダウンジャケットをロッカーに投げ込み、カルロスと共に冷凍庫を後にした。

「終わったっていうのに、なんだか物足りないって顔してるね」カルロスが顎ひげをさすりながら、植田に声をかけた。
「そんなことないよ。岩相調査、化石調査、氷質調査…調査、調査でもうお腹いっぱいだね」
「わりとここが気に入ってるように見えるぜ」と、カルロス。
「バカいえ。カルロスはどうすんの、このあと」
「まだ決まってない。植田は?」
 そのとき、インターホンから通信員の声が聞こえてきた。「植田、そこにいる?」
「ああ、なんだい」と、植田が応じた。
「日本から連絡が入ってる。文部科学省の…名前はちょっとわかんねえけど」
「文部科学省?」
「さっそく次の仕事が決まったんじゃねーか?」と、カルロス。「例の深海掘削だったりして」
「コスタリカの?」
「それそれ」カルロスが下品に笑った。
「まさか」植田は肩をすくめて言った。「冗談じゃない。ぼくの報告書に不備でもあったんだろう」
 通信員が口をはさんだ。「いや、そういうことでもないらしい。急いで通信室まで来てくれないか、直接話したいそうなんだ」
「ほらみろ、やっぱりそうだよ。事故が起きてすぐなんだぜ」
 植田はインターホンとカルロスの顔を代わる代わる見つめた。
 どういうことだろう。たしかに植田をこの南極くんだりまで派遣したのはJAMSTECの上部組織である文部科学省だ。でも、このプロジェクトが始まってからこのかた、文部科学省のお役人と話したことなど一度もなかった。毎月、月末にはメールで報告書は送っているにしても、それに対する反応も全くなかった。それが、また直接話したいだなんて妙な話だ。カルロスの言う通り事故がらみかもしれない。
「行ってこいよ。きっといい話だよ」にっこりと笑いながらカルロスが背中を押した。
「そうは思えないけどね」植田はため息をついて、通信室へ通じる扉に手をかけた。

5. コスタリカ沖

 堀野を乗せたヘリコプターが、なつしまのヘリデッキに着陸しつつあった。HLO(ヘリコプター・ランディング・オフィサー)と呼ばれるスタッフがあわただしく行き来していて、ウォルター・ムンクが沈没した非常事態の余韻がまだ残っている。堀野は、寒くもないのに身震いして扉を開けた。強烈な日射に焼かれたデッキからは、ゆらゆらと熱気が立ち上っている。
「ドリラーはいつ到着することになってる?」
 堀野は片足を着いて、後ろを振り返り、パイロットにきいた。パイロットは首をかしげて、聞こえないというふうに耳元で手を振った。
 堀野は声を張り上げてきいた。「植田だよ。南極からやってくる」
「あ、ああ。今日の夕方には」
「わかった」
 堀野が勢いよく扉を閉めると、ヘリコプターは再び大空に舞い上がった。堀野が見送っていると、制服がはちきれそうなほど、でっぷりと下腹が突き出している男が歩み寄ってきた。目をぱちつかせながら、人を探るような視線をこちらに向けている。その男は杉山と名乗って、堀野を船橋に案内した。

「しんかいの潜航準備は進んでいるか?」堀野は尋ねた。
「はい、急がせてます」
「ラボの状況はわからない?」
「は、はい、全く」
 堀野は杉山に鋭い視線を向けて言った。「ウォルター・ムンクが沈んだ原因も調べなきゃならない。本当に明日、潜れるんだろうな」
「ええ。今夜じゅうには、充電も完了しますから」
「何があっても明日には深海ラボに入る。みんなの尻を叩いてくれよ」
 杉山は鼻の頭に浮かんだ汗を拭いた。
「しんかいは標準設定でいいんでしょうか? なにか特別な装備が必要であれば…」
「いや、その必要はないよ」
 堀野はこれ以上言う事はないというふうに、手をあげた。2人は船橋に向かって黙って歩きつづけた。

 堀野は船橋への階段を上りながら、自分に言い聞かせていた。こういう非常事態に至って必要なのは、汚い肥溜めに平気で手を突っ込んで、中からダイヤをつかみ出せる男だ。危機に陥っても、恐れずに的確な判断を下せる男。いまこのなつしまに向かっているのは、そういう男のはずだ。
 3年前、堀野が指揮していた南海トラフの深海掘削でブローアウト事故が発生した。死者の出たこの事故で、堀野は自分の掘削人生も終わりだと観念した。しかし、結局、罪は問われなかった。調査委員会で、当時ドリラーだった植田の、事故は防ぎようがなかったという証言があったからだ。現場にいた植田は、火災の消化を手伝っただけでなく、炎に囲まれたドリルフロアに単身乗り込んで、取り残されていた4人の作業員を救い出し、掘削孔の封鎖を成功させたのだった。その植田の証言の信憑性が高いと判断されたのだ。堀野の責任は回避された。一方、文部科学省内に事故調査委員会が組織されたにもかかわらず、納得できる事故原因は解明されなかった。
 しかしあの日、火の海と化したリグで、堀野は自分の娘の瞳が黄色く輝いていたのを目にしていた。あの時の娘は、既に彼の知っている娘ではなかったような気がしている。

 船橋では、青木が堀野の到着を待っていた。
「搭載カメラの映像をたち上げて、仮につないでみました。ご覧になりますか?」青木が咳払いをして言った。
「ああ、お願いします」
 青木が目配せすると、レーダーの後ろの壁に埋め込まれたモニタに映像が映し出された。画面の中の海面には、間違いなくウォルター・ムンクが浮かんでいる。
「それぞれのカメラから撮影された映像のタイムコードを合わせてあります。時間にそって、ウォルター・ムンクが沈む様子がわかるはずです」
 船橋にある6台のモニタに、さまざまな角度から撮影されたウォルター・ムンク号の映像が映し出された。ばらばらと甲板から海中に落ちていく船員たち。支離滅裂な交信内容。
「ひどいもんだな」堀野がつぶやいた。
「その後の爆発はデリック全部を覆うほどでした」青木が言った。
「深海ラボが意図的にシャトルボートを切り離したってことはないかね」そう言ったきり、堀野は押し黙った。
「乗組員から聞き取りした結果を持ってきました」堀野が振りかえると、杉山が汗だくになって山ほどのファイルを抱えてきた。
「ここはひどい暑さだ。下に降りよう」青木が言った。
 堀野は青木に付き添われて、階下の会議室に向かった。会議室に入ると、設置されたPCの前に腰を下ろし、スイッチを入れて動画を再生した。そこで2時間を過ごし、ウォルター・ムンクのデータにはすべて目を通した。全長143メートル、9700トンのウォルター・ムンク号は船体中央部から浸水して、わずか1時間ほどで沈没してしまっていた。乗組員96人のうち、なつしまに救助されたのは、58人。行方不明の25人を含む38人は、ウォルター・ムンクとともに、海に消えてしまった。

6. 南太平洋

 植田を乗せた輸送機は、イギリスのハリーベイ基地を中継して、アルゼンチンのエスぺランサ基地に到着した。ここは、かつて南極半島の突端だったが、気候ジャンプの後は南極群島のひとつの島になっている。そこから双発のジェットヘリに乗り換えた彼は、一路コスタリカに向かった。
 電話はカルロスの予測どおり地球深部掘削プロジェクトへの参加要請だった。ヘリの円形窓には、身を切られるような凍てる世界から、焼き焦がすような熱帯へ移動している自分自身の黒く日焼けした顔が映っている。
 ジェットヘリは海岸線を低空で飛び続けた。植田は窓から複雑な海岸線に砕かれる波涛をじっと見つめていた。海風にゆれる針葉樹の森が一瞬のうちに後方に飛び去っていく。

 植田は、ここまでして掘削現場を渡り歩く理由は何なのだろうかと考えていた。太古の地球の環境を研究する、地底生物を探索する、地下資源を探査する、地震ゾーンを観測する、地殻深部のダイナミクスを解明する…学問的な貢献や、知的好奇心といった理由はいくらでも付けられる。しかし、科学の進歩のために掘っているのかといわれると違う気がする。飯を食うためでもない。安全で割のいい仕事は他にいくらもある。考えてみれば、20世紀は身体を改造した世紀だった。人はすばやく移動するとか、重いものを持ち上げるとか、空を飛ぶとか、自分の肉体ではできないことを可能にした。21世紀は知能の改造に取り組んだ。その結果、AIはまるで直感や勘を働かせているように、すばやく、独創的で、的確な判断を行うようになった。22世紀が近づいてくれば、やることはひとつしかない。自分の存在を明らかにすることだ。そのためのひとつのアプローチが、人類を生んだ地球について深く知ることだ。人間の住んでいない極地での暮らしは、自分がなぜここにいるのかという問題を切実に問いかけてくる。

 キャノピーにぽつりと雨粒が落ちてきた。いつのまにか、空は灰色の雲で覆い尽くされている。植田は南太平洋に近づくにつれて、気持ちが高揚している自分に気がついた。まだ見ぬ深海底で巨大なライザー掘削装置を操って、地球の正体を明らかにする想像が膨らんでいる。植田が空を見上げた時には、空に雷鳴が轟いていた。

7. なつしま

 なつしまの船内放送がヘリコプターの接近を告げた。堀野は通信士に向き直り、短くうなずいて背もたれに手を置き、席を立った。扉の前まで来た堀野は、ふと立ち止まり、テーブルの上に置かれたタブレットをつかんで、掘削管理室を出ていった。
 なつしまの甲板ではしんかいの潜航準備のため、徹夜の作業が続いている。クレーンの下でHLOを目に留めた堀野は、頭から反射テープのついた合羽をかぶって、一緒にヘリデッキに向かった。
「堀野さんが呼んだっていうドリラーですね?」オフィサーがきいた。
「やっと来たみたいだな」
 2人は並んで近づいてくるヘリコプターを見上げている。上空はあっという間に黒雲で覆われて、どしゃぶりになった。この雨がもう少し早かったら、ヘリコプターは着艦できなかっただろう。
「わざわざ南極から呼び寄せるなんて、そうとう腕利きなんですか」堀野はゆっくり首を縦に振った。
 ヘリコプターは熱帯独特のスコールの滝に機体を洗われながら上空に舞いあがり、再び降下に転じた。いつのまにか、真下にヘリデッキのHマークが見えている。着陸地点の周囲ではライトが明滅している。パイロットはキャノピーから下を見下ろし、位置を修正してから着陸灯をつけた。さらに、ヘリコプターは高度を下げていく。メインローターの回転が落ち、ヘリコプターのスキッドが甲板に接地した。帽子を押さえながら、男が駆け寄ってくる。男はドアを開け、植田に声をかけた。
「おつかれさまです。足元に気をつけてくださいね」
 熱気と湿気を含んだ空気が植田を包み込む。
「このベタつく空気…暖かい所は久しぶりだな」植田は身をかがめ、荷物を詰めてきたアルミケースを引っ張り出した。「さっきまで冷凍庫の中にいたと思ったら、今度はサウナ風呂の中だから、調子が狂っちまう」
 植田は片方の眉を吊り上げて、プロジェクトへの第一歩を踏み出した。

 なつしまは、確かに巨大ではあるが、外見は普通の石油掘削船とそれほど変わらない。違いといえば、船上に広い研究室が設置されていることくらいだ。植田はクレーンを見上げながら、船首方向に歩いていった。
「ニュースは見たかい?」櫓の足場の下までやってくると、後ろから声がした。植田が振り向くと、見覚えのある男が立っていた。
「堀野さん」
「悪かったな。わざわざ出向いてもらって」
 堀野は歩きながら、脇に挟んでいたタブレットを取り出し、ニュースの見出しを植田の目の前に掲げてみせた。

 【深海掘削で爆発事故】

 画面いっぱいに掘削支援船の事故に関する動画レポートと関連記事が掲載されている。そこには、船の金属片と乗組員の衣服が波間に漂う写真に添えて、いかに掘削が危険な作業かが熱心に描かれていた。
「ここで起こってるのは、こういうことだ」
 植田はタブレットを手に取り、ざっと目を通した。
「作業員はみんな死んでしまったみたいな書かれ方ですね。本当ですか?」植田がきいた。
「まあ半分は正しいが…」堀野はぴりぴりしている様子だ。「残りの半分は、デッチ上げだ。もっとも、事実なんてものは読者にとってはどうでもいいことだ。どのみち昨日のことなんて、誰も覚えちゃいない。読者がいちばん気になるのは、深海という過酷な条件で、作業員を救い出す英雄が誰かってことだよ」
「そいつが俺だって言いたいんですか?」ぶっきらぼうに植田が答える。
「そういうことになる」堀野はにやりとした。
「いちいち説明が大袈裟ですね」植田は言った。「英雄になるのはいいけど、事故直後なのにホントに深海に潜れるんですか?」
「今のところ、ウォルター・ムンクが沈んだ以外は、計画に異常は起きていない」
「それだけで十分異常事態だと思いますけどね」と、植田。
「それだけこの計画を潰したくないんだよ」
「誰が?」
「関係者全員が、さ。もう少しでドリルが外核に届くってところまでやってきたのに、今ここで方針転換できるような勇気のある人物がこの国にいると思うか?」
 植田は肩をすくめた。「じゃあ、作業は予定通り進めるんですね」
「予定外なのは、俺と植田が深海ラボに行くことになったことくらいかな。今晩中に潜航艇の準備をさせる」堀野は低い声で続けた。「ここで英雄になっておけば、国に貸しを作ることになる。これが終わって穴掘りに飽きたら、好きなことをするといい」
 植田が南極でカルロスと話していた転職話まで調べてあるなんて、いつもながら堀野は抜かりない。植田はしげしげと甲板作業を観察した。
「で、いつ潜るんです?」植田がきいた。
「明日の朝イチだ。今晩はゆっくり休んでおけ」そう言って、堀野は掘削管理室に戻っていった。

8. しんかい

 オレンジ色の朝日を浴びながら、堀野と植田を乗せた潜水艇は固定台に載ったまま格納庫から後部甲板に移動していく。船体の横腹には筆文字で「しんかい12000」と書いてある。12000はもちろん海面下12000メートルまで潜ることができるという意味で、世界で最も深くまで潜ることのできる有人潜水調査船である。クレーン・オペレーターの合図を受けてウインチが回ると、それまでたるんでいたチェーンが緊張し、船体がゆっくりと吊り上げられていく。船体上部に太いロープがくくりつけられ、いったん2メートルほどの高さまでくると、甲板後方に10メートルほど移動して止まった。
 堀野はしんかいの上部ハッチに掛けられた梯子を上り、続いて植田が乗り込んだ。内径2メートルほどの耐圧殻でできたコクピット内部の空気はよどんでいて、むっとする。植田は狭い艇内で体をよじってハッチを閉め、ハンドルを10回ほど回してロックした。ギュッと水密ゴムが扉に押しつけられる音がして、ハッチが密閉される。シートに座ると、目の前にメーターの埋め込まれた制御盤が迫ってくる。何回乗っても慣れない狭さだ。植田はインターホンのスイッチを入れた。3つある覗き窓のひとつから、甲板作業を見守っているうちにブーンという低いモーター音がして、しんかいの電源が入った。しんかいはバッテリーで動くからから駆動音はほとんどしない。
 甲板にあるスピーカーから植田の声が響いた。「電源チェック」
 ラスタバウト(甲板部員)が艇の下部と後ろを覗き込んで、両手で大きくオーケーの円を描く。堀野と植田の2人は、難燃性で防寒を兼ねたノーメックス生地で作られた潜航服に身を包み、着水の時を待った。宙につられたままなので、コクピットはぐらぐらと揺れ続けている。クレーン・オペレーターがしんかいを吊り下げているクレーンの操作盤の前に陣取って、声を出した。
「しんかい12K、着水用意!」
 甲板に潜航艇着水準備を知らせるサイレンが響き渡る。ゴムが切れるようなピシッという音がして、ボートはケーブルをつたって下降を始めた。手動でロープが繰り出されると、白い塗装がまぶしいしんかいの船体がゆっくりと海面に近づいていく。高強度樹脂でできた船体がゆっくりと着水し、覗き窓も水中に潜った。海上のゴムボートでスタンバイしていた、ウェットスーツに身を包んだスイマーたちが、波で左右に振られているしんかいに近づき、乗り移ってロープをすべて取り外した。

 植田はシートベルトを締め、ハンドルを掴んだ。「さあ、準備はいい?」
「OKだ。待ちくたびれた」堀野がジャケットの袖をめくりながらつぶやいた。
 植田が静かに頷いた。「バラストタンクブロー、潜水する」
 ベント弁が開き、シャトルボートの上部にあいた2つの孔から、細かな泡が勢いよく吹き出しながら、潜水艇は浮力を失ってゆっくりと沈降を開始した。植田は延長コードで手元まで伸びる推進操縦装置を引き出して、しんかいの姿勢を整えた。それから椅子を座り直し、投光器を点灯させた。

 水深10メートルほどまでは、太陽の筋状の光が海面近くを泳ぐ熱帯魚を照らしている。直径12センチのアクリル樹脂製の窓の外は、スキューバダイビングで馴染みの風景で、鮮烈な海の群青色に魚たちの群れが光を受けてキラキラ輝いている。2人の乗ったシャトルボートは水中とは思えないきびきびとした動きで海中に消えていった。目指すは深海4000メートルで掘削を続けている深海ラボだ。

 しんかいは群れて泳ぐ回遊魚の群れを分け入るように、水深50メートルの海を降下していく。突然カマスの大群が向きを変えて、視野を埋め尽くした。二股に分かれた尾ビレが光を反射している。

 水深100メートルにもなれば、光が全く届かない闇が訪れる。本当はかすかな光が届いているはずなのだが、さっきまで燦燦と輝く太陽の下にいたのだから、目はなかなか海の暗さに慣れない。漆黒の暗闇の中に、突然グロテスクな深海魚が照明に照らし出された。
「あっ!」植田は思わず声を出し、息を吸い込んでふうっと吐き出した。それほど深海魚の形相は間近で見ると不気味だ。
「問題か?」正面のモニタに心配そうな青木の顔が映っている。
「いや、深海魚にびっくりしただけ」
 笑いながらノイズ交じりの声が言った。「それよりソナーつけてくれ、位置を探知する」
「了解」
 堀野はいぶかしい表情で暗黒の世界を見つめていた。深度計のカウンターがハイスピードで繰り上がっていく。どんな高層ビルのエレベーターよりも早い速度で潜水しているはずなのに、比較の対象が全くないので、その実感がなかなかわかない。照明に照らされて窓の外を一瞬のうちに飛び去るマリンスノーだけが、唯一、潜っていることの証拠だった。
「何を考えてるんだ?」堀野はそう言って、植田の前の窓に近づくため、立ち上がろうとした。
「だめだめ、いま動いちゃ」植田は堀野を押し返した。「潜水中の重心移動は厳禁ですよ」
「ああ、そうだった」堀野は両手をあげた。
「ラボに着いたら何から始めます?」
「自己紹介、かな」堀野は植田に顔を向けて、笑顔を交わした。
 双眼鏡のように大きな目をした深海魚が、悠然とシャトルボートの前を通り過ぎていく。光の届かない海で餌をとらなければならない深海魚には、この双眼鏡型の目玉を発達させているものが多い。腹に並んだ発光器が弱々しい光を放っている
 やがて暗黒の世界にぼんやりと白色の規則的な照明の列が見えてきた。深海ラボの誘導灯だ。しだいにライトの数は増え、ラボ本体が真夜中のメリーゴーランドのように浮かび上がってきた。

 2人の乗ったしんかい12000は、水深4000メートルにある深海底に降りていく。ラボは、中心部に位置する居住区に、3つの建屋が衛星のように取り囲んだ構造をしている。各建屋と居住区は渡り通路でつながっていて、上から見ると昔の宇宙ステーションのようだ。潜水艇は、潮の流れに波打つケーブルに沿って、居住区に向かっていった。
 ラボに接近すると、居住区の一部が開き、凹んだドックが姿を現した。潜水艇がドックに接近すると、ロボットの腕のようなアームが伸びてきて船体の頭に突き出た固定フックを掴んで固定し、圧縮空気がそれまでドック内を満たしていた海水を押し出していった。ゴロゴロと海水の排出される音が響き、扉の開放可能を占める緑のランプが灯った。

 植田はロックを解除して、扉を開いた。ここまで闇の中を自らのヘッドライトの明かりだけを頼りに進んできた植田は、ドック内のあまりの明るさに軽い目眩を覚えた。機械油の匂いが、つんと鼻を突く。
 「深海ラボへようこそ」
 女の声に顔を上げると、植田の前にモデルのように頭が小さく手足の長い女が立っている。小さな頭と小ぶりな胸、がっしりした腰からすらりと伸びた足がアンバランスだが、それが逆に魅力になっている。白目の青さも生まれたばかりの純粋な子供を思わせた。

9. 深海ラボ

「待ちくたびれたわ」
 出迎えてくれたのはニコニコと妙に笑顔が馴れ馴れしい、モデルのように長身の中国系の女だった。モデル女史は真っ直ぐ植田の目を見つめて、右手を差し出してきた。
「エイダ・カオです、よろしく」
 はだけたブラウスからは、乳房の谷間がのぞいている。
「シャトルボートを失ったっていうのに、ずいぶんのんびりしてたのね」
 その皮肉たっぷりの言葉に、堀野が答えた。「こっちの様子はどうなんだ」
「シャトルボートを失った以外は特に変わりはない…上は大変なことになってるんでしょ?」
 海上では巨大な支援船が沈没してしまったというのに、その緊迫感はこのラボにはまったくない。情報も、情動も、厚い水の層に遮られているようだ。
「人ごとみたいに言うなよ。プロジェクトが継続するかどうかの瀬戸際なんだ」堀野は眉をひそめた。
「そうなの?」髪をまとめながら、エイダは他人事のように淡々と言った。
 目が慣れて内部構造がはっきり見えるようになってきたので、植田は周囲を見渡した。ドック内部は、天井が高く、パイプや照明が鍾乳石のように垂れ下がっている。
 植田は口をはさんだ。「こっちは平和なんだね。上の喧騒と比べると、まるで別世界だ」
「こちらは植田くん。ドリラーとして、これからの掘削を担当する」堀野が植田を紹介した。
「よろしくおねがいします、植田です」エネルギッシュなその声は、好奇心いっぱいの目を輝かせた青年のようだ。
 エイダは植田の方に振り返り、やれやれといった顔で片眉を上げた。「始めまして」
 植田は女のつるんとしたむき卵のような肌にしばし見とれながら、微笑み返した。生物学者はアメリカ人女性だとは聞いていたが、中国系だとは思わなかった。
「ともかく、内部をざっと見ておきたいんだが」堀野は煙草を1本抜き出しながら言った。
「ごめんなさい、ここは禁煙なの」
「そうだった、失礼。悪いが植田を案内してやってくれないか?」堀野は煙草を踵で踏みつけた。「研究の方の成果はあがってるのか?」
「ええ、もちろん」
「黒木はコントロールルーム?」
 エイダは言いよどんで、堀野を見つめた。
「彼はドリルフロアにいる」エイダは両手をポケットに突っ込み、落ち着いた口調で答えた。「そこで彼を監禁してるの。シャトルボートを破壊して、ラボを孤立させようとしたから」
 植田は目をむいた。堀野も憮然とした表情で、エイダを見た。「もう少し詳しく説明してくれ」
 エイダは植田の横を通りぬけ、ウインクして階段を降りていった。動物性のエキゾティックな香水の香りがほのかに広がってくる。
「ええ、でも立ち話で済むようなことじゃない。居住区で荷物を置いたら、コントロールルームで話しましょう」
 歩いて行くエイダのミニスカートから黒いレースが覗いている。彼女を見送るふたりは目を合わせ、同時に肩をすくめた。
「俺はしんかいの状態を確認してから、直接コントロールルームに向かう。先に行ってくれ」堀野はためらいがちに言った。
「じゃあ植田さん、ツアーに出ましょう。ついてきて」エイダに促されて、植田は後を追った。

 深海に建造された構造物というと、もっと金属の構造がむき出しの冷たい感じを予想していたが、ここは壁も柱も緩やかなカーブを描いていて、まるで大きな生き物の体内にいるようだ。通路の天井にいくつもぶら下がったライトが、エアコンから吹き出す風にかすかに揺れている。
「深海ラボっていっても、わりと未来っぽくないもんですね。それに明るい」丸窓の並んだ通路を歩きながら、植田が言った。
「イメージと違った?」エイダはしっとりと濡れた唇で微笑んでみせた。
 窓の外に見える深海底はラボからの強力な明かりに照らされて30メートルくらい先まで見通すことが出来る。通路のライトも必要以上に明るいように感じる。
「陸の時間と合わせてね。昼は明るく、夜は暗くしているの。ここでの暮らしも長くなるから、できるだけ地上のリズムを崩さないようになっているの」
「生物学者なんですって?」植田がきいた。
「ええ、地球深部に生き物がいないか調べてる」
 ふだんあまり人の通らない通路は、センサーが人を感知すると照明が灯るしくみになっている。2人が通路を歩いていくと、その先のダウンライトがしだいに点いていく。
「寂しいところでしょ」エイダがきいた。
 植田は戸惑ったようにエイダを見つめかえした。
「この深海ラボよ」
「いや、この間まで南極にいたから、全然」
「寂しくないの?」
「ええ」
「そうか、そうだよね。南極のほうがもっと寂しいよね。外が見えるし」
「外?」
「地平線が見えるところって寂しいじゃない」
「そんなふうに思ったことはありませんけどね」
「朝、太陽が上ると、周りに誰もいないことがわかっちゃうでしょ」
 エイダは何か、心ここにあらずという感じだった。自分の中に閉じこもって、何かを考えつづけていた。植田は隣を歩きながら、エイダの表情をそっと見つめた。たしかにマネキンのように美しい。しかし、近づきがたい雰囲気があった。男に媚びを売らず、自信たっぷりで、ひとりで十分生きていけるだけでなく、男を手玉に取る女。そんな風に思えたからだ。
「あなたは優秀な学者だって聞きました」植田が尋ねた。
 エイダは意外そうな顔をして、ききかえした。「誰から?」
「堀野さん。なつしまの青木船長も」
 エイダは首を振った。「冗談でしょ」
「最初から微生物の研究をしてたんですか?」
「大学を出てからよ」

 エイダは中国の山西省平遥市でカオ家の2人兄弟の長女として生まれた。かつての中国大陸では都市とは、城壁で囲まれた区画を指していた。20世紀後半に中国共産党が指導した重工業化によって工業都市として発展した太原市の南、およそ90キロにある平遥県城は、明代の城壁が残る数少ない都市だった。エイダが生まれた当時、のどかな田園風景の中にぽつんとある平遥は、城壁だけでなく、街路や市場、商店などがほぼ原形をとどめる形で残っていて、城壁内も荷運びはもっぱらロバが引く荷車が使われていた。都市の中心には寺の山門のような2層の市楼が建っていて、上にのぼると、町中の屋根をうめる灰色の煉瓦がきれいな曲面を作っているのが見えた。
 その後、近代化の波はすぐに平遥にも達し、市楼の周囲の古道具屋や食堂はあっというまに鉄筋コンクリートのビルに生まれ変わっていった。周囲の山もみるみるうちに禿山になった。政府の開発政策に反対した両親は、ある日行方不明になり、2ヶ月後死体がエイダによって発見された。すでに死体は白骨化が進んでいたが、エイダは骨ではなく、腐って土と同化しつつある肉から目を離す事が出来なかった。それが彼女の心に、深い爪痕を残したのは間違いなかった。
 中学に進んだエイダの数学の才能を認めたのは、数学教師だった。彼は、共産党総書記が平遥を訪問する1ヶ月前に、地方行政官に手紙を書き、エイダは平遥の代表として総書記の前で歓迎の挨拶をする栄誉を認められた。彼女の才能の説明を受けた当時の総書記は、北京の高校で学ばせ、アメリカのプリンストン大学への留学を認めたのだった。
 プリンストンを卒業したエイダは、研究者の道を選んだ。専門は、かつて両親を腐敗させた微生物だった。地球に自然の力を取り戻す方法として、微生物に着目したのである。エイダは自分がこれから何をしなければならないか、はっきり理解していた。両親を腐らせたミクロの生命体は、驚くべき力を秘めた生き物だった。その力は、生命の起源そのもので、今の世界に一番必要だと彼女は信じていた。

「ディープバイオスフィアって聞いたことある?」エイダが言った。
「いいえ」と、植田はかぶりを振った。
「深海に存在する生物圏のこと」
 植田は首を傾げた。
「これまでの研究で、深海から、200℃以上の高温とか、高塩濃度にも耐える微生物が発見されているの。彼らは、極限の環境で生存出来る特別の適用力を持ってる。そういう特殊な環境で生きている微生物を調べるのが私の仕事。光合成で酸素が生み出される前の地球にだって生命はいたんだし、地下深くはそういう時代の地球環境に近いのよ」
「地球深部にも生き物がいるかもしれないってことですか?」
「地球の堆積層にいて、その下にいないという理由はないわ」
「なるほど、だから掘削ラボに生物学者なんですね」
「なにが、なるほどなの?」
「いや、この掘削プロジェクトが始まるときの宣伝がすごかったんですよ」植田はエイダに向き直って言った。「生命の進化の謎を解くんだとか、地球の危機を救うだとか」
「そうなの?」
「もしも地下に生物圏があったら、地球の危機は避けられますか?」
「それはわからないけど、人類の進化には関係あるわね」エイダは伏し目がちに言った。「あなたは信じてるの? このプロジェクトが成功すれば、地球が救われるって」
「それはわからないけど…」と、植田。「最近なかったでしょ、科学の最先端が明るい人類の未来をひらくなんてこと。魅力的ですよ、とっても」

 エイダはツアーの添乗員よろしくラボ内を引率してまわった。2人がコア・プロセシング・デッキの前に立つと、自動ドアが音もなく開き、天井を埋め尽くす40Wの蛍光灯が並んだルーバー照明が一斉に灯った。ハロゲン投光器のまばゆい光が、大きくカーブした実験テーブルを照らし出している。植田は室内を見回した。低音冷蔵庫や試料保管室、テーブルの上には、タグのついたシャーレや試験管、実験のための道具がところ狭しと並べられていて、片隅にはモニタのついた巨大な顕微鏡が据え付けられている。
「でも未知の生き物を探すなんて、僕にとっちゃあ、なんだかリアルじゃないですね」
「そうかもね」エイダは植田を見た。「微生物って目に見えないけど、地球上での物質の循環には欠かせない生き物なのよ。微生物には親も子もないの。微生物は分裂によって増殖するけど、その瞬間に親は消えて、同時に若い2つの双子の微生物が生じる。人間みたいに老化したり、死んだりしない。あるのはただ、豊かな栄養があるときはどんどん増えるし、栄養がないときはずっと飢餓状態で活動が停止するということだけ。放射線照射も、1000℃以上の高温も、冷凍も、ホルマリン漬けも関係なく生き延びる」
 植田はエイダをまじまじと見つめた。
「地球の底に、新しい生命がいるって信じているんですね」
「生命に必要なアミノ酸とかDNAって高分子ができる条件は3つあってね。まず高圧であること、次に高温であること、そして金属イオンが存在すること。つまり地球深部には生命に必須の高分子を生む条件が揃ってるのよ。地球深部は生命のゆりかごかもしれないの」
 エイダは笑って、じっと植田を見つめた。「ね、面白いでしょ?」

 エイダは歩きながらミネラルウォーターのキャップを開いて、ごくりと一口、飲み込んだ。一筋の水滴が首をつたって、胸の谷間に流れ込んだ。
「それに、動物や植物などの高等生物の祖先は古細菌なんだけど、古細菌のほとんどは好熱菌なの。熱いところが好きなのよ。生命は、地球深部の高熱の場所で生まれた可能性がある」
「それのどこがスゴイことなのか、いまいちピンとこないけど…」
「地上の生き物は、最終的には植物に依存してるし、その植物は太陽の光に頼って生きてるでしょう? 太陽の光に背を向けたところで、多様な生命が生まれたとしたら、光がないところでも生命が生まれる可能性があるってことでしょ。地球内部の恵みだけで生き続けているんだから。地球深部の可能性は、宇宙で生存するためのヒントでもある」
「ぼくには壮大すぎる話ですね」
「そう? 長くここにいれば、そんなことを妄想したくもなるわよ」

 エイダは植田に背を向けて歩きつづけた。X線分析室を通り過ぎ、1階上がったその先に、黄色の放射能マークの扉が近づいてきた。
「あれは…?」植田がきいた。
「扉の向こうが原子炉。原子炉建屋は居住区とはちょっと離れていてね。渡り通路になってるの。行ってみる?」
「ええ」植田は言った。
「そうね、一度は見といたほうがいいかもしれない」
 エイダは放射能マークのついた扉に向かってずんずん歩き出した。扉を抜けると、モニタの並んだ小部屋があった。2人はそのまま小部屋を通り過ぎて、窟のような通路を歩いていく。天井には太い海蛇のようなケーブルが這っている。通路を渡り、もう1枚の分厚い扉を開くと、エアロックが見えた。
「ここからが原子炉区画。原子炉の上に上がってみましょう」
 ふたりはエアロックを開けた。エアロックの先にある5階ぶんの階段を上り、こんもりと盛り上がった丸い耐圧容器の上に出た。容器は赤いペンキで塗られている。
「これが深海用原子炉?」植田が床をあちこち踏んづけながら言った。
「深海専用だから、高い水圧に耐えられるのと、小人数で動かせるようになっている」
 水深6500メートルでの水圧に耐えるために、直径5メートルの球がふたつつながったようなチタン合金の二連球のなかに、原子炉容器、タービン、発電機が入っている。また、通常の原子力発電で用いられるような原子炉容器内の圧力を制御する加圧器はない。深海用の原子炉には、水の温度を飽和温度まで上げると、蒸気ができて圧力が一定になることを利用した、自己加圧方式が採用されている。制御棒の駆動も、高温、高圧でも正常に作動するような特殊設計のモーターが使われている。
「電気出力が800キロワット、原子炉熱出力で4000キロワット。ま、この子がこのラボの命綱でね。電力も、空気も、飲み水も、この子に頼ってる」エイダはコンコンと壁を叩きながら言った。
「排水はどうしてるんです?」植田がきいた。
「タービンを回した蒸気は、復水器で冷やされて、海水に逃がしてる。もちろん、放射能漏れの心配はない」
「心配したって逃げようがないですよね」
「まあ、深海じゃ原子力を使うしかないから。今回のプロジェクトでも支援船からライフラインを伸ばすことも検討しただけど、結局、原子力ってことになったのよ」
「どうして?」
「こんな嵐の多いとこじゃあ支援船がずっと同じところに居られないでしょう。空気がないから化石燃料を燃やすわけにもいかないし。たぶん、この原子炉のほうが私より長く働き続けることになる」

 2人は原子炉区画を離れて居住区画まで移動し、いかにも立体成形という有機的な曲面扉に、真鍮製の部屋番号が下がっている扉の前までやってきた。
「ここがあなたの部屋。荷物を置いたらコントロールルームに向かいましょう」
 植田は扉を開けて中に入った。壁にベッドが固定されていて、手洗い場のある6畳くらいの部屋だ。窓は直径20センチくらいの円窓がひとつ。窓には円錐型ガラスがはめ込まれている。アルミケースを足元に下ろし、ベッドに腰掛けて、窓から外を眺めてみると、マリンスノーが降っている。それ以外に生き物らしいものは見当たらない。無数の生命を育んでいる惑星なのに、わずか数千メートル潜っただけで生命の姿が見えない、というより死骸が降り積もるゴーストタウンが広がっている。
 植田はその風景を眺め、1人でほくそえんだ。こんな極地にまで危険を冒してやってきたことに、妙にハイな気分になっていた。

 ラボ内に堀野のだみ声で放送が流れた。「エイダ、そろそろコントロールルームに来られるかな?」
 エイダがスピーカーの下に飛び出しているボタンを押して答えると、すぐにプッという答え代わりのノイズが聞こえた。
 2人は螺旋階段を上り、深海ラボの最上階にあがった。広い踊り場の先に頑丈そうな扉があり、<コントロール>の文字が描かれている。エイダが扉の横に突き出しているレンズに顔を近づけると、認証されてドアが開いた。中からひんやりとした空気が流れ出してくる。室内は学校の教室くらいの部屋で、テーブルが3つ。椅子はどれも、衝撃で倒れないように、テーブルの足につながっている。壁じゅうにモニタが張り付いていて、地形図や、掘削のドリルのコンディション、さらには深海に張り巡らされたセンサーからの情報などが、極彩色のグラフィックで表示され、映像は刻一刻と変化していた。
 がらんとした部屋の一段高くなっているところにあるツールプッシャー(現場監督)の席があり、そこで堀野が待っていた。他にスタッフは誰もいないが、掘進は続いている。深海ラボは出来るだけ少ない人数で運営することを前提に設計されているから、掘削作業はすべてコンピューターが制御している。人間はただ監視しているだけでいいのだ。

 堀野は体の向きを変え、植田と目を合わせて言った。
「ラボの印象は?」
 植田はことさら意外そうに言ってみせた。「割と環境はよさそうですね」
「環境がいい? いままでどんなところにいたんだよ?」くぐもった声がスピーカーから聞こえてきた。
 コントロールルームの壁には大型のスクリーンが取り付けられていて、掘削パイプがずらりと並んでいる掘削エリアが映し出されている。フロアの中央に座っていた男が、大あくびをしながら陰気な顔を上げていた。音声はコントロールルームのスピーカーから流れるようになっている。
 植田は無表情な顔で男を見た。縁なし眼鏡をかけた小男で、色は浅黒く、東南アジア系と言われても違和感がない顔をしている。頬のこけた顔に、大きな目玉が付いていて、いかにも神経質そうだ。彼の背後には掘削パイプが下ろされる開口部であるムーンプールが見えている。
「彼はコアテクニシャンの黒木くん」と堀野が言った。「こちらは今日着任した植田くん。ドリラーだ」
 その男は眼鏡の鼻当てをずり上げて、植田をジロリと見た。
「植田です。よろしくお願いします」植田はスクリーンに向かって声をかけた。
 黒木と紹介された男は椅子からひょいと腰を上げ、中腰のまま会釈した。きれいに折り目のついた白衣を着て、薄いブルーのレンズをはめた眼鏡をかけ、7:3分けの髪がてらてらとポマードで光っている。
「それで、いつここから出してくれるんだ?」黒木は口元を歪めて言った。
「まあ、そう慌てなさんな」堀野は壁に埋め込まれた冷蔵庫を開けて、ゼリー飲料を取り出して口に含んだ。
「で、シャトルボートはどうなったんだ?」黒木が吐き捨てるように言った。
「どうなったって?」堀野は壁に体重をかけてよりかかり、足を組んだ。
「ラボからシャトルボートを切り離してから3日経って、あんたたちがしんかいに乗ってやってきた。しんかいの母船はなつしまだ。なぜウォルター・ムンクの船じゃなく、なつしまの船なんだ」
「ウォルター・ムンクを心配してるのか?」堀野はうつむいて床をみつめたまま言った。
「動けなくなったのか?」
「沈んだよ」
 黒木は首を振りながら腕組みをした。
「あんたがやったのか?」堀野はまじまじと黒木を見つめた。
 黒木は黙っている。
 堀野が冷静に黒木を見つめて、繰り返した。「シャトルボートが衝突して、ウォルター・ムンクが沈んだんだ」
 黒木は落ち着かない様子で、肩を回した。まるで闘牛が土を蹴ってとび出す準備をうかがっているようだった。
「ああ、そうだ」黒木は悪びれもせずに言った。「俺がやらなきゃ、もっと酷いことになっていた。仕方がなかった」
「仕方ない?」堀野はまばたきして、そのふてぶてしい男を見つめた。
「おいおい堀野さん、状況がちっともわかってないのは、あんたのほうなんだぜ」黒木が言った。
 堀野は額に皺をよせた。黒木はタオルで手を拭きながら続けた。
「このラボには微生物の採取と現場培養機能があることは知ってるよな? そこにいる生物学者さんに聞いてみるといい。1週間前にわれわれは外核から微生物を回収したんだぜ」
 コントロールルームに堀野の声が響き渡った。「待て待て、生物を発見したっていうのか!?」

6. なつしま

 海上は白波が立ちはじめていた。船体の鋼鉄板を叩く波音が聞こえてくる。「ハリケーンが近づいています」杉山が眼鏡を上げながら声をかけた。
「入りそうなのか、暴風雨圏に?」大きく動揺する船内にあって、青木はシートに腰掛けながら、コーヒーをすすっている。
「おそらくは。入るとしたら明日の夕方あたりですね」
 ふたりは、なつしまの掘削管理室で端末に向かっていた。杉山が眺めているのは、気圧の変化と雲の動きを重ねて見ることが出来る気象端末だ。掘削管理室は掘削支援船の中央に位置していて、壁一面にモニタが張り付いた船の司令室である。室内はコンピューターで埋め尽くされているが、柱や什器はどれもFRPを使った曲線の多い有機的なデザインなので、刺々しい印象は全くない。
「一時的にこの場から待避することも考えとかないとな」と、青木は言った。
「ええ」杉山は気のない返事をして、「それより、われわれはここでしんかいが浮上するのを待つしかないんですかね…」と言いながら、隣の端末に座り直した。
 青木は片手を上げ、杉山を押しとどめようとした。「いや、俺はしんかいが浮上しなかったときのことを心配してる」
「深海ラボ内でトラブルが起きているってことですか?」
「それはまだ何ともいえないけどね。でもそういうことも考えて、あの2人が行ったわけだろ」
「われわれには手に負えないかもしれないってことですか」
 うんざりした顔で、杉山はため息をついた。堀野は残ったコーヒーをごくりと一気に飲み込んで言った。「そういうことだ」

7. 深海ラボ

 エイダは堀野に視線を投げ、低い声で話し始めた。
「4日前のこと。ドリルが外核に到達して最初のコアサンプルが深海ラボに上がってきた。コアは保圧コアシステムで、外核内と同じ状態を保ったまま取り出して、分析を始めることにした。このシステムは、希釈装置、分離装置、培養槽、観察装置の4つのサブシステムからなっている。今回の調査で、外核の温度は3500ケルビン、大量のシリコンと水素を含むことがわかったけれど、発見はそれだけじゃなかった。コアの中に微生物群が含まれていた」
 堀野と植田はお互いの顔を見つめあった。エイダは苦い顔つきをしながら続けた。
「それを最初に見つけたのが、コア資料から採取した間隙水を分析していた黒木さんよ。報告を受けて、私が詳細に調べることにしたの」
 堀野は上目遣いでエイダを見た。「で、どんな生き物なんだ、その外核からやってきた微生物ってのは」
「彼らの特徴を一言で言えば、集団で行動すること、かしら」
「彼ら?」堀野がつぶやいた。
 エイダは息を接ぎ、堀野を一瞥してから、かまわず語を継いだ。
「様々な条件のもとで観察していて気付いたの。まず彼らは、仲間を見つけて網の目のように互いを連結しようとする。そして、ひとつの個体が刺激を受けると、活性化して活動電位を発生させ、他の個体に伝達しているらしいの」
 植田が割って入った。「そりゃはまるで神経細胞じゃないですか」
 エイダはにやりとして答えた。「このラボの設備ではまだ十分な分析ができないけれど、彼らはネットワークを形成して情報をやり取りしているように見える。それから外核の組成を調べてわかったのは、そこがシリコンの海だってこと。そこに炭素はほとんど存在しない。地球上の生命は炭素を中心に出来ているし、ケイ素生物ってSFにしか登場しないって思われてたけど、彼らは半導体の論理回路みたいに働いている可能性がある。これは地球の未来じゃなく、人類の未来に関わる大発見かもしれない」
 植田はうんうんとうなずいて言った。「ちょっとゾクゾクしますね」
 堀野は椅子に腰掛けて、話を聞きながら腕を組んでいたが、はっと視線を上げた。
「それは、微生物が意思を持っていると言いたいのか?」
 エイダは首を振った。「堀野さんは、コンピューターが意思を持っていると思うわけ? 私はそうは思わない」
 植田は顔をこわばらせ、遮るように言った。「それからどうしたんです?」
 エイダは少し考えてから口を開いた。
「黒木さんにお願いして、マウスにその微生物を感染させることにした。標準的な手順に従ってマウスに注射して、記憶力と知能の変化を観察した」
 スクリーンの黒木はテーブルに肘をついて頭を乗せ、ちっと舌打ちした。
「それで?」植田は身を乗り出した。
 エイダは何食わぬ顔で答えた。「複雑な迷路を使って、知能の向上を確認したわ」
「すごい…」植田は声をあげた。
「このラボで出来ることはここまで。これ以上は高知コア研究所あたりで、ゲノム・元素分析やメタゲノム解析をしたほうがいいと思っている」
「だめだ、だめだ」スピーカー越しに黒木が声を張り上げた。「そんな話を信じちゃだめだ。確かにマウスの脳に微生物を注射したのは間違いない。でも、その時に使用した注射針が彼女の手袋を貫通して、手に小さな傷ができたんだ。彼女は微生物に感染した可能性がある。私はマニュアルに従って、生物学的な封じ込め対策がなされているケアユニットに隔離することが妥当と判断した。実験室の隔離ユニットには、独立換気システムが備わっているし、気密性の高いドアで他の部屋から隔離されている。だから、その微生物の曝露が発生していないことが確認できるまで、彼女をそこに留めようとしたんだ」
 エイダは思わず立ち上がり、目を見開いて言った。
「黒木さんは相変わらず妄想を語っている。そもそもケーブルを切断した上に、シャトルボートを強制的に浮上させるなんて、まともな判断力がない証拠でしょ」
 あからさまな言い方に、黒木はむっとした。「それは彼女が隔離を拒否したからだ。彼女自身も、コアサンプルも、今の状況で地上に上げるなんてとんでもないことだ」
 黒木は椅子を蹴飛ばし、両手で頭をかきむしりながら言った。「その女のでまかせに付き合ってる場合じゃない。俺はこの目で見たんだからな」
「落ち着くんだ、黒木」堀野が片手をあげて、割り込んだ。
 黒木は堀野をにらみ返した。「この微生物を最初に見つけたのはこの俺だ。生物が集団を作るってことの意味をもっと真剣に捉えるべきだ。その微生物の生命現象はまだ何もわかっちゃいない。ラボにいる人間をここから外に出すべきじゃない。その女は危険な微生物を地上に持ち出そうとしてるんだぞ」
 黒木はごくりとつばを飲んで、話し続けた。
「堀野さんも知ってるとおり、ここはバイオセーフティレベル4の封じ込め施設だ。エボラウィルスとかエイズウィルスとか、特に人類に危険なウィルスを扱うことができる設備が整ってる。万が一、外核から生命を発見した場合、我々には慎重な作業が求められる。実験室に入る場合は、少なくとも2つの気密ドアを通るし、スタッフは入室にあたって完全に更衣して、汚染除去用シャワーを浴びなきゃいけない。実験室には周囲に対して常時陰圧で、再還流しない換気システムが設置されていなきゃならない。そこまでやってるのに、支援船が沈んだくらいで、ラボのスタッフやサンプルを地上に上げるべきじゃない」
「それは違うわ」エイダが言った。
「何が違うってんだよ。ここにはルールがある。コアサンプルを地上に持ち出すことは許されない。私はルールに従ってこのラボを隔離しただけだ」黒木はヒステリックに叫び声をあげた。
「そもそも私は感染してないし、コアサンプルは気密容器に厳重に保管して運搬すればいい。たかが技術者に科学の進歩を妨害する権利はないのよ」
 エイダは、目にはっきりと侮蔑の色が浮かべている。黒木の顔が見る見るうちに紅潮していった。いやいやをするように頭を振り、鼻をすすって、ぼそりと言った。
「クソったれ」
 
 堀野は大きく息を吐き出して黒木を見た。
「だからシャトルボートを使えなくしたのか?」
「監禁されて、できることはそれしかなかった」黒木はあえぎながら言った。
「俺たちは、君たちをここから救出に来たんだよ」と、堀野は言った。
「黒木さんの精神状態は限界なのよ。早く浮上する準備を始めましょう」エイダが笑って言った。
「俺は見たんだ、この女がコアサンプルを持ち出そうとしてるところを」黒木はますます動揺して、吐き捨てるように言った。その声が掘削室じゅうに反響した。「ちくしょう」
 黒木は小声で毒づきながら、ドカドカと音をさせて床板を踏みしめ、金網で囲まれたドリラーズハウスに入っていった。
 一瞬、コントロールルームが静まり返った。換気口から温風が吹き出す音がやけに大きく聞こえる。どのくらいたったろう。エイダが眉間に皺を寄せて口火をきった。「堀野さん、どうするの?」
 長い沈黙があった。堀野は椅子に座り込んだまま、じっと思いをめぐらした。
「俺はみんなを連れて地上に戻るつもりだ。ただし、コアサンプルは置いていく。とりあえず黒木と話してくるから、俺が入ったらドリルフロアの扉をロックしてくれ」
 堀野は真っ直ぐ、植田の顔を見た。「ドックでしんかいをスタンバイしてくれ。ラボを離れる準備を始める」植田はうなずいて、深呼吸してから、コントロールルームを出た。

8. ドリルフロア

 堀野はドリルフロアの入口に立ち、掘削システムを仰ぎ見た。深海ラボの掘削エリアは、5階分のフロアが吹き抜けになった大空間の中央に、掘削用のパイプが高々とそそり立っている。そのうちの1本がライザテンショナーによって吊り下げられている。部屋の広さは60㎡だから2LDKのマンションくらい。ガーガーと天上と床をぶち抜いている大きな円筒形の柱が大音響を響かせている。この円筒のなかで特殊鋼の軸が高速で回転しながら、海底下数千メートルを掘削しているのだ。ひっそりと静まり返った深海で、このドリルルームはひときわ騒々しい。
 堀野は巨大なドリルを回転させるドライブモーターに目をやりながら、ゆっくり立ち上がり、制御盤のある一角に歩き出した。制御盤の中央に設置された掘削コンソールには、ドリルの先端が到達している現在の深度が、地層のグラフィックとともに表示されている。画面上で見ると、地球という大きな風船にゆっくり針を刺し込んでいくように見える。モーターがうなりを上げ、ターンテーブルが回転している。その回転がドリルに伝えられ、ドリルの先端に取り付けられたビットという掘削刃が回ることで、地層を削り取っていくのだ。堀野はゆっくりと、掘削機器を見渡した。掘削の構造は、海底油田のための掘削だろうと、氷床掘削だろうと大して変わりない。掘削孔の大きさと、差し入れるパイプの長さが違うだけで、扱う機器はほとんど同じだ。やがて、地下深くから運ばれてきた掘削屑が、排出パイプの中をドロドロと流れる音が聞こえてきた。ドリルが崩した泥や砂利などの屑は、パイプ内を循環するライザー液によってラボまで運ばれてくる。地球深部から引揚げる(ライズする)から、ライザー掘削装置である。運ばれた屑は、ラボの排出口から海中に投棄される。

 黒木は憤懣やるかたない様子で、ドリラーズハウスにある掘削機械の操縦席の背もたれに体重をあずけていた。うつろな目つきで、窓の外の暗闇を眺めている。ラボの周囲を照らす照明が、白い海底を浮かび上がらせている。無彩色の世界を見続けていると、自分が色づいているのが奇異に感じられる。
「太陽の届かないところに長くいれば、俺たちの色も抜けちまうんだろうか」黒木はブツブツと独り言を言っていた。
「なあ、そろそろ明るい太陽の下に帰ろうじゃないか」
 黒木はその声に振りむいた。キャップを被り、ゴーグルとヘッドフォンをした堀野が重い扉を押し開けて、ドリルフロアに入ってきた。堀野が入るや、再び扉にロックがかかった。
「俺の話を信じてないんだな」怒りの口調で、黒木が言った。「ラボのクソどもはみんな頭のイカれた研究者の話を信じて、何事も起こらないと思い込んでいるんだ」

 堀野は上着の袖をまくりあげ、黒木に向き直って言った。
「今から10年前のことなんだが…」
「こんなときに昔話か?」黒木は頭を掻きながら尋ねた。
「南海トラフを掘削したんだ。おれが現場責任者だった。そこで事故が起きたんだ」
 堀野は、黒木の顔色をちらちらとうかがいながら続けた。
「植田もそのリグのドリラーだった。やつはその場で冷静に判断し、他のスタッフをいち早く非難させた。俺は最後まで、ガスが噴き出している現場でなんとかしようと必死に作業を続けていた。俺にとって最初の現場責任者だったし、気負いもあったんだな」
 黒木は片手を頭の後ろにあてながら、堀野を見つめている。堀野は続けた。
「吹き出したガスに引火して、大爆発が起きた。俺は観念した。熱さで肉が焼けていく臭いがしたのを覚えてる」堀野は袖から片腕を抜いて藤原に見せた。「これは、そのときの火傷だ」
 左腕の上腕から脇にかけて紫色に変色した火傷の痕が広がっていた。
「それが、どうしたってんだ」黒木は鼻をこすりながらきいた。。
「何人ものスタッフが死んだんだよ。植田がいなければ、何倍もの犠牲者が出ていた。あのときに、もう自分のプロジェクトでは1人の死者も出さないことに決めたんだ」
「そりゃあ立派な決意だけど、あの女の狙いはコアサンプルを地上に持ち出すことだ。そんなこと、絶対にさせちゃダメだ」

 黒木は額からだらだらと冷や汗を流している。突然、ドリラーズハウスの中に駆け込んで、入口を内側からロックした。
「黒木、何をしてるんだっ」堀野が大声で叫んだ。
 黒木は黙って操縦席に着座すると、シートベルトを締め付けた。制御盤には、現在のドリルの深度や温度、圧力などを示すグラフが上下している。黒木が両手でスティックを握ると、壁際に伸びているケーブルが緊張して、めりめりと音をたてた。
 ドリルフロアには1本9メートルの掘削パイプがスタンドという3本繋がったかたちで収納されている。ラックに立てかけられた無数のパイプが、がたがたとウインチや壁にぶつかっている。
「なっ、なんだ」堀野は金網に掴まりながら、なす術もなく立ち尽くし、掘削パイプを移動させるパイプラッカーが動き出すのを凝視した。
 ドリルフロアには非常時にライザーパイプを爆破切断するために、起爆部と火薬をユニット化した発破薬が用意されている。黒木は30メートルほどのパイプ内部に工業火薬を装填しはじめた。さらにそのパイプを海底につながるムーンプール近くに配置し、深海用電気雷管と導爆線をつないでいく。
 堀野は、不意に全てを理解したというように、驚きの表情を浮かべた。「馬鹿なことはやめるんだっ」そして拳をテーブルに叩きつけた。
 黒木は堀野を見向きもしないで言った。「俺は本気だ。このラボにあるものを、地上に上げちゃいけない」
「黒木…」堀野は突然寒気を感じ、言葉を飲み込んだ。
 ドリラーズハウス近くの壁に設置されたインターホンが鳴った。
「堀野さん?」植田の声だ。「そこでなにをしているんです?」
「黒木がドリラーズハウスに立て篭もって、掘削装置を動かし始めた。雷管と導爆線もつないでいるから、ここで発破するつもりかもしれない」
「ドリルフロアで? そんなことしたらラボは持ちませんよ」
「わかってる。植田はしんかいをすぐに動かせるようにしておけ」
「でも、堀野さんは?」植田は心配そうに堀野を見た。
 堀野はうんざりしたように片手をあげた。「黒木をひっぱってそっちに向かうよ」
「わかりました」
 堀野は通信を切った。そしてしばらくうつむいたまま、考えていた。

 だしぬけに循環装置のポンプから泥水が吹き出した。堀野は突然のことにうろたえた。同時に共同管が折れて、2人の目の前に落下し、そこからも海水が漏れ出した。
 堀野は、はあはあと肩を上下させながら黒木にきいた。「黒木、あの微生物は…」
「いいか、彼らはマウスの脳に入りこんで共生したんだ。あの女自身も、もう人間じゃないかもしれないんだぞ」と、黒木は言って、堀野を見た。勝ち誇った、訳知り顔の笑顔だった。
 その瞬間、ドリルフロアに並んだ火薬が起爆した。一面の強烈な光で目が眩んだ。ドリルフロアの壁がひび割れて、深海の冷えた海水がなだれ込んでくる。壁のジョイント部分に打ち込んであるボルトが次々水圧ではじけ飛んでいく。流れ出る海水はあっというまに、濁流となって堀野を飲み込んだ。流れに押された堀野は、圧縮空気のボンベに頭をしたたか打ちつけた。ビービーという警報音が耳をつんざく。
「くそっ」堀野はよろよろと水の中から立ち上がり、ドリラーズハウスに歩み寄った。
 金網の内側で、黒木は身をよじって堀野を見上げ、荒い息をしながら、噛んでいたガムを吐き出した。ぜいぜいという自分の呼吸音が聞こえてくる。フロアのあちらこちらから、雨のあとの河川のような泥色の水が、ゴボゴボと音をたてて湧き出している。
「堀野さん」再びインターホンから植田の声が聞こえてきた。堀野は腰まで水に浸かりながら、壁に沿って歩きだした。目指しているのは、ドックに向かう扉だ
「ドリルフロアには来るな。絶対に来ちゃダメだ」堀野はあわてて言った。
 堀野は青ざめた頭を振った。「ちっ」舌打ちして、溜まった泥水を蹴り上げた。しぶきがはねて顔にかかった。
「しんかいで脱出しろ。ここの浸水は止められない」堀野は声を荒げた。
「ああ、わかった」植田は陰鬱に答えた。
 堀野は、濁流となって流れ込む海水から逃れようともがきながら、巻き上げ装置の下までやってきた。振り返ると掘削機器が水中に没していく。次いで、ひときわ大きく金属の裂けるような音が響き、ラックに立てかけられていた様々な太さのパイプが崩れ落ちてきて、堀野の下半身を押しつぶした。
「ぐぁぁ…」堀野の顔が恐怖に引きつった。すでに海水は下半身を覆っている。
 もはや足の感覚はない。いったい俺は何をしようとしてたんだろう。いったい何をしていたのか、思い出せない。足が重い。ちょっと休もう。そのうち助けが来てくれるかもしれない。
「参ったな…」堀野はがっくりと肩を落とした。
 堀野は久しぶりに母親のことを思い出した。口の中に苦い液体が広がった。フロアの精密機械は水圧に潰れて、部品がばらばらに飛散し、黒い潤滑油と、赤い血液が交じりながら流れ出した。金属の折れる音が響き、トップドライブが頭上に落下してきた。頭蓋骨が割れ、白い豆腐のような脳が深海の冷たい海に拡散した。

 黒木のいるドリラーズハウスは水没しつつあった。深海にむき出しになった黒木の胸は、たちまち水圧に押しつぶされ、まるで巨大な万力で体中を締め付けられているような痛みが襲ってきた。必死に右手で宙をかいたが、下半身の力が抜けて、床に膝をついた。目も霞んでくる。海水はあっというまに黒木の顔面を覆い尽くした。水圧で喉と鼻腔がつぶれるのがわかった。床に両手を突き、大声で叫んだ。
「誰か!」
 しかし、声は出ることなく、泡だけが喉をぬけていった。ばったりと倒れて、床に転がった。ごつごつとした床のタイルの感触を頬に感じる。頭がぼんやりして、底無し沼をどこまでも落ちていくような感覚が襲ってくる。起き上がろうとするが、体を動かす気力が続かない。息が切れてしかたない。まるで産道を通るときのような息苦しさだと思った。とめどなく、よだれが流れていく。視界は薄暗くなり、全身から力が抜け、ついに暗黒の闇が覆い尽くした。

9. 格納庫

 格納庫のインターホン前で、植田は通話スイッチを切った。モニタには、ドリルフロアに設置された監視カメラの映像が映し出されている。植田はため息をつき、目を閉じた。
「冗談だろう…」植田は顔をしかめて立ち上がると、ドアの手動切り替えレバーを引いて、格納庫の扉を閉鎖した。
「どうしたの?」しんかいの充電ステータスを確認していたエイダがきいた。
 植田は唇を噛んだ。「俺たち2人だけになった」植田はまんじりともせず、エイダを睨みつけている。
 エイダはまばたきして言った。「どうするの?」
 そのとき、ラボ内に金属の擦れる音がこだました。エイダは植田を振り返った。
「今のは?」エイダがきいた。
 植田は再びモニタの前に立つと、堀野の死体が浮かんでいるのが見えた。それを見た植田が床にへたりこみ、突然笑い出した。
「何がおかしいの?」と、エイダ。
 植田は笑うのをやめなかった。
「2人とも死んでしまったんでしょ?」エイダは再びきいた。
「だからおかしいんですよ」植田が言った。「何のために死んだんですか」植田はやれやれといった感じで頭を抱えた。
 エイダは顔を上げてニコリともせず、植田を見つめた。
「そんな風に感情的になっても問題は解決しないわ。今、あなたのすべきことは何なの?」
 エイダは植田にビンタを食らわせた。植田の瞳からは、涙がこぼれ落ちていた。泣いているわけじゃないのに、後から後からとめどなくあふれ出る。エイダは植田の腕を掴んで引っぱり上げた。エイダに促されて、植田はゆっくりと立ち上がり、しんかいのハッチに向かい、2人は耐圧殻のコクピットに体を埋めた。
「さあ、生き延びるのよ」エイダは静かに語りかけた。「しっかりしてちょうだい」
 植田はわかったという顔でうなずいた。
「浮上、します」植田はシートにもたれて、エイダの顔をまじまじと見つめた。
「お願い」エイダは口を半開きにしたまま微笑んで、植田に手を差し伸べた。
 植田は空を、いや深海を仰いだ。二人はしんかい12000の補助タンク内を排水し、すべてのウエイトを切り離して暗黒の深海に跳び出した。

10. しんかい

 植田とエイダの乗ったしんかいは、暗黒の深海で全ての投光器を点灯させ浮上を始めた。投光器は1灯で自動車のヘッドライト5個分の明るさがあるけれど、懸濁物が少ない比較的条件のよい海中でも10メートルほどの視界しか得られない。
 しんかいがドックを離れて浮上をはじめるやいなや、大音響と共に深海ラボの崩壊が始まった。建屋の下から大量の泡があふれ出し、巨大なカーテンとなって、海上にむかって吹き上がっていく。コクピットの左右についた覗き窓から、2人は最後の姿を見届けた。しんかいは毎分およそ50メートルの速度で上昇していく。海面に浮上するまで2時間ほどかかる見込みだ。

「ありがとう」植田は遠くを見ているような目を瞬いた。「さっきは感情的になって、マトモな判断ができなかった」
「いいのよ、そういう感情があるから、人間は惹かれあうんだし」エイダは組んでいた足をほどいて、不意に植田の口にキスをした。
「でももう少しで、ぼくたちも生きて出られなかった」
「ねえ、どう思う」と、エイダ。
「何がです?」植田はちらりとエイダの顔をうかがった。
「深海においてきた微生物のこと」
「貴重な試料を持ち出せなかったのは申し訳ないけど、仕方がありません」
「彼らと、人類は共生できると思うの」
 植田が視線を下げると、小ぶりの乳房の先が、固く盛り上がっているのが見えた。エイダは顔を上げて植田の腰に手をまわし、体を引き寄せた。エイダの甘い香りが植田を包み込んだ。エイダは、赤くふっくらとした唇を濃厚に押し付け、植田の舌を音をたてて吸った。
「地球の支配者って、基本的には体が大きい生物なのよ。大きくて力の強いものが、小さくて弱いものを力づくで牛耳ってきた」
「人類はそれほど大きくありませんけど?」
「人類は体を大きくする代わりに集団を作ることで、この星の支配者になったの。私が彼らに興味を持つのは、知能が高いとか、運動能力があるとか、そういうことじゃなくて集団で行動するところなのよ。世界の人口は70億人というけど、微生物は星の数の1億倍あると言われてる。それがネットワークでつながったらと思うとワクワクするの」エイダは足を振って、靴を脱ぎ捨てた。
「地球の支配者が代わるってことですか?」植田は息をはずませて答えた。
「そうじゃない。彼らの多くは1~2ミクロンと小さいから、人類を支配することはできない。でも、その増殖力と適応性は素晴らしい」
 植田はエイダの欲望に満ちた目を見つめ、エイダを押し倒した。
「ひとつ、アイデアが浮かんだのよ」エイダは自分のシャツを手早く脱ぎ捨て、ブラジャーのフロントホックをはずして、柔らかい乳房と勃起した乳首があらわになった。
「私たちはこれまで知能を拡張しようとAIを発達させてきたけど…」エイダがさらに腰のジッパーを降ろすと、ショーツが足元に落ちた。乳房がゆさゆさと揺れている。植田もまた、シャツのボタンを外し、トランクスを降ろした。
「それよりも、マウスのように人間の知能を上げる?」
「たしかに、彼らは脳内にネットワークを張り巡らした。あなたも見たでしょう? 合理的に行動するマウスなんて、冗談みたい」エイダは肩をすくめて、微笑んだ。
 ガードルとストッキングだけになったエイダは、Mの字に足を開いた。それから片手で植田のペニスを強く握りしめた。植田はエイダにのしかかり、植田は熱くなったものをエイダの奥深くに差し込んだ。
「でも彼らには神経ネットワークを形成するだけじゃない、もうひとつの能力があるの。人間の神経細胞に共生して、私たちの感情を抑制する」
 植田が前後に激しく動くたびに、エイダの腰は細かく震えた。
「私たちは理性的に判断できるようになる」エイダの体が高ぶって行くのがわかる。
「感情を抑える?」と植田。
「吹き上がったり、他人を叩いて満足したりすることはなくなる。悲哀や孤独で心が折れることもない」
 植田の顔からすっと血の気が引いた。エイダは気にならない様子で言葉を続けた。
「彼らに感染することで、人類は進歩する。感情みたいな無駄なものに足を引っ張られることもなくなる」
「そんなことが…」
「できるのよ」
 やがて、エイダの中のものはひときわ固くなってぴくぴくと痙攣した。植田はゆっくりとそれを引き出して、荒い息をついた。エイダは自分の顔を植田の股間に押し付けて、ペニスを口に含んだ。
「感情をなくしたら、人を素敵だって思うこともなくなってしまうでしょう?」植田がきいた。
「それでいいじゃない」エイダはうなずいた。
「それじゃあ、生きている意味がない」
「もっと神の視点で考えてみて。これは新しい進化なのよ」
 植田は言いよどんだ。心がざわざわと波立った。もう一度、植田は達し、エイダは吐き出されたものを飲み込んだ。
「ごめんね」エイダは一息ついてから続けた。「あなたも感染してしまった」
 しんかいはギシギシときしみながら、海上を目指して浮上を続けている。
 植田は唇をなめた。しかし口の中はかさかさで、少しの湿り気も無くなっていた。しんかい12000はまるで引き寄せられるように海上に向かっていく。植田は暗闇の中で、遠くから聞こえてくる鯨の歌に耳を傾けた。

 植田はゆっくりと体をおこして、救難信号を発信しつづけるビーコンを発射した。

11. コスタリカ沖

 気がつくと、植田は海上に浮かびあがっていた。目の前には、一点の曇りもない濃紺の空が広がっている。変わらぬ白波と、太陽の輝き。船体を洗う波涛が砕けて、ちっぽけな潜水艇の船体を弄ぶように揺さぶっている。海面がしんかいの窓を洗って、ピチャピチャと音を立てる。植田は前方で、点滅灯が規則正しい明滅を繰り返しているビーコンを確認した。
「戻ってきた…」
 植田は手を伸ばして上部ハッチを開き、潜水艇の上に立ち上がった。湿気を含んだ空気が流れ込んでくるのがわかった。冷静さを取り戻した植田の目には、懐かしい光景が広がっていた。それから、思い切り大きく息を吸い込んだ。続いてエイダも船体上部に顔を出した。植田はエイダを引き寄せてキスをした。
「いずれ愛という感情を抱くこともなくなるのかな?」植田はきいた。
 エイダは振り向いて植田に告げた。「私たちから人類の頭脳はアップデートされる。私はもう愛など感じることはない」
 エイダと植田の瞳は日の光を受けて、黄色く輝いている。
 しんかい12000回収のために、なつしまのゴムボートが近づいてきた。

文字数:46279

内容に関するアピール

 SF創作講座第三期がAIをテーマにスタートしてまもなく一年、最後もまたAIをテーマにして締めくくろうと思っています。AIというのは、人間の理性の部分を取り出して、人間よりも効率的に“正しい”判断をしてくれるもの…でしょうか。実際、私たちは小さい頃から学校で理性的に振る舞うように教えられますし、科学を学び、根拠を示して、文脈を確かめ、整合性を説明することを求められます。そういう意味では、AIとは、私たちがかくありたいと願う目標でもあるのかもしれません。

 とはいうものの、学校を卒業して社会に出てみると、そこは無法地帯です。ルーム無用の残虐ファイトで勝ち残ることこそ、社会人に必要なスキルだったりします。理屈なんか説明している暇があったら、どぶ板営業で土下座して涙を流して共感を呼ばねばなりません。メディアにおいても、人々がネガティブな感情をぶつけ合っているし、学校で科学を指導しているような人々でさえ、自身のアイデンティティを否定された途端に感情的に吹き上がっています。経験を積めば積むほど、大人になればなるほど、地位を確立すればするほど、その度合は大きいようにも思えます。

 そんなわけで、もう感情なんかなくなったほうがみんな幸せになるんじゃないの? 人間の脳から感情を取り除き、新しい人類に進化しようぜって話です。いや、もちろん感情をなくしたら大変な副作用があるわけですけれど、そこはまたの機会に…。

 この1年はとても愉快な時間を過ごしました。
 講師の先生方、受講生の皆様、OBの皆様、運営の皆様、どうもありがとうございました。

文字数:667

課題提出者一覧