バックファイア

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   1

 

まず、コーヒーを用意する。
 夕方から午後九時はIn:Dreamのカスタマーサポートセンターが戦場と化す時間帯だ。コーヒーを装備しなければ死んでしまう。
 今ごろ、仕事を終えて帰宅したユーザはわくわくとした気持ちで黒い化粧箱を開いているだろう。そっと壊れ物のように扱う者もいれば、待ちきれずに乱雑に開く者もあるかもしれない。いずれにせよ彼らは等しく「つ」を縦にしたような曲線を描くデバイスを目にする。そしてすぐに期待に胸をふくらませて装着するはずだ。
 耳の軟骨に沿うアームは始めこそ冷たく感じられるが、すぐに体温になじんで装着していることを忘れてしまう。しかしおそらくそのことに気づく前に、ユーザは鏡の前で夢中になって自分の姿を眺めているだろう。うまく装着できているか、どんなふうに見えるのか、眠るときにじゃまになったりはしないか、華奢にみえるがすぐに壊れたり歪んだりはしないか。
 でもなにも心配はいらない。様々なユーザビリティテストと耐久テストを通過したデバイスは大きすぎもせず、小さすぎもせず、耐久性は十分にあるが、だからといってデザインも犠牲にしていない。シャンパンゴールドは華やかに、メタリックブラックはスタイリッシュに、定番のように思われるシルバーも槌目仕上げ加工を施し、上品な雰囲気で所有欲を満たすだろう。ジュエリーを意識したデザインはIn:Dreamの特徴の一つである。
 デバイスの具合を確認し終わったら、ユーザは次のアクションのために箱へ注意を戻すだろう。デバイスの厚みに対して化粧箱は高さがある。側面には引き出しがついていて、指を引っ掛けるための穴がある。高揚しているユーザは間違いなく指をひっかけ、中を確認したくなるはずだ。彼らは引き出しの中にしまい込まれたピンクゴールドのラインが施された上品な箱と、充電用のケーブルを目にする。箱の中身はIn:Dreamを使用するにあたって必要な道具ひとそろい――琥珀色の液体が入った小瓶がひとつ、デバイスを収納するための黒いケース、しかし最も重要なのは、3cm四方程度の小さな冊子だ。表紙は化粧箱と同じ黒色でIn:Dreamの文字がうっすらと浮き上がるように印字されており、開くとシンプルな手順が記述されている。
 さて、ユーザがここまでたどり着くと、ようやく我々In:Dreamのカスタマーサポートセンターの出番がやってくる。ユーザは冊子にかかれている通り、デバイスをタッチしてサポートセンターに連絡を取る。デバイスの中にはクラウドSIMが内蔵されており、タッチしただけでサポートセンターにつながる。一呼吸置いて、私は落ち着いた声でこう切り出す。
 In:Dreamへようこそ。お客様の専属アドバイザーを務めさせていただきます間宮と申します――

 

郵便受けに希望が届いていた。
 今時珍しい茶封筒には「中口葉子さま」と宛名が手書きされている。裏は「高坂弁護士事務所」、こちらはスタンプだ。黒いインクがにじみ、少し傾いている。そういえば、と私は思う。あの弁護士さん、機械オンチっていってたっけ。最後に会ったときも印刷できないと焦っていた。紙がないっていうから入れたんですけどなんだか出てこないんですよね、壊れちゃったのかも。今日は事務の女の子がお休みで、参ったな。もうすぐ松崎さんもいらっしゃるのに。額に汗を浮かべた彼の顔が情けなさそうに歪んでいたので、私は見ましょうか? といってソファから立ち上がった。
 狭いが整然とした事務所だった。壁際の棚の中には案件ごとに書類がファイルに分類され、端から順番にきれいにならべられている。隙間があいたり、うっかり倒れたりしていることは絶対にない。そこに働く人々の性格がにじみ出る書類棚だ。机の上には余計なものなどまったく残されておらず、休みだという事務員の椅子にピンク色のひざ掛けが引っかかっているのが唯一の生活感だった。
 しかしプリンタ周りだけはどうにも勝手が違うらしい。乱雑に積まれたダンボール、むき出しになり、半分減ったコピー用紙の束、コピー用紙を包んでいたカバー紙は乱雑に折り畳まれて足元のゴミ箱に突っ込まれている。プリンタの上には小さな平たい空き缶があり、クリップや使用済みのホチキスの針が無数に入っている。たった半径1.5メートルくらいのカオス。そのプリンタが、使用する誰からも愛されていないことは一目瞭然だった。だからきっと、私は今でも彼のことを覚えているのだ。
 意識をしてゆっくりと呼吸をする。
 高坂弁護士事務所から連絡が来るのは十年ぶりだろうか。いきなり中をのぞくのはおそろしく思われたので、私は封筒を天井のライトにかざした。少し透けているので、たぶん――便箋紙が入っているだけだろう。もちろん便箋紙だけだったとしても、油断はできない。
 これはどちらの知らせだろうか、と考える。どちらというのはつまり、良いほうか、悪いほうか、良いほうは変化がないこと、悪いほうは変化があるということだ。あれこれ調整が必要かもしれないし、最悪の場合は仕事をやめ、引っ越すことも考えなければならないかもしれない。
 空っぽのポストの中に銀色の光が居座っている。不意に私は思い出す。高坂弁護士事務所の立派な応接室でじっとしていた日のことを、手の甲に押し付けた親指の爪の硬さを、当事者が口を挟む余地のない話し合いという名の会議の重苦しさを、ブラインドがおろされた窓から執拗に潜り込む光が、机の端に白い線を作っていたことを、そしてその時、私が繰り返し考えていたこと、パンドラの函の中に残ったのは希望だったというが、私はその存在こそが最も邪悪だと思った。暗闇に慣れた目をくらませる光は私に痛みをもたらしただけだ。峻烈な光は私のような人間には暴虐以外のなにものでもない。でも、十八歳の春、私はそれを手にしてしまった。だからこんな目に遭っているのだ、と。

 

まずコーヒーを用意する。モニタ上ではちょうど、表示されているリストに新しい行が挿入されたところだ。名前欄は初期値のランダムな八桁の英数字、新規ユーザがデバイスをタッチしたのである。空欄になっているリストの項目をすべて埋めるのが私の最初の仕事だ。
 In:Dreamへようこそ。お客様の専属アドバイザーを務めさせていただきます間宮と申します。
 いつものように定型句を口にしながら、私は耳をすます。背景は静かか、誰かがそばにいないか、動物や、テレビや、あるいはその他の音はないか。相手は大人か、子供か、男性か、女性か、年老いているのか、若いのか。私が知りうるユーザの情報は音だけである。音から家の状態を推定し、精神状態を予想し、顔の見えない人物の表情や、体格、性格、In:Dreamを買った動機、良い睡眠を得られない本質的な原因を特定しなければならない。最初のインストラクションは特に重要だ。ユーザは新しいデバイスを手に入れたことに浮かれ、総じて機嫌がいい。彼らはいいことならなんでも話す。しかし悪いことは口をつぐんでしまう。新しいガジェットを手に入れた高揚感に水をさされたくないという心理が働くせいだ。
 ヨウです、とユーザは答えた。葉っぱの葉で、ヨウ。よろしくおねがいします。少し不安が混じった小さな声だ。私はボールペンで記入シートに走り書きをする。少し神経質かも? しかし疑念は声にださず、私は手順通りにカウンセリングを続ける。まずはいくつかご質問しますね、と私がいうと、ヨウさんははい、はいとせっかちな調子で相槌を打った。
 性別は女性、三十代、身長は150cm~160cm、体重は50~60kg、一人暮らし、社会人。In:Dreamを買った理由は軽い不眠、夜中に何度も起きることがある。仕事は激務だったりそうでなかったりと波があり、今は激務が終わった直後である。基本的にはデスクに向かっている仕事で、慢性的な運動不足、でも運動はほとんどしていない。今のところ薬でアレルギー反応が出たことはなく、効きにくいとか効きやすい体質であると思ったこともない。酒はあまり飲まない。コーヒーやお茶は一日五、六杯くらい。甘いものが好き。In:Dreamは会社の同僚とかかりつけの病院から勧められた。言葉の聞き返しは少なく、やや早口、よく笑い声をたてる。
 愛想のよいユーザだ。こちらが聞きたいことに対して的確なレスポンスがあるし、先進的なガジェットにも慣れているという。
 いいユーザにあたった、と私は思った。たぶん彼女は手間がかからない。調整剤の量さえ決まってしまえば、あとはほとんどチャットボットにまかせておけるだろう。ケア指数の項目に「低」としるし、私は笑顔を作った。

 

茶封筒はとりあえず指の間にはさみ、玄関のドアをあける。左手に食い込む荷物が重く、一向に弱まらない雨足のせいでいつ紙袋が破れるか、気が気でなかった。やっと手に入れたささやかな楽しみを過去の亡霊にうばわれたくない。
 先に厄介事は片付けてしまおうと荷物を上り框において、私は玄関の明かりをぱちんとつけた。靴を脱ぎつつ、雑に茶封筒の封を切る。中身は――やはり便箋だけだ。一枚を四つ折りにしてある。
 昼白色の光の向こうから雨の音がする。雨樋を伝って落ちるしずくの音がやけに響くので、ここに越してきたばかりの頃はどこかに水が流れ込んでいるんじゃないかと心配した。でも今は静寂を際立たせるこの音が好きだ。
 ショック死しないよう便箋を薄目で眺めていると、数字が見えた。090から始まる携帯電話番号だ。
 結婚のおしらせ――
 突然視界がクリアになって、文字が頭の中に流れ込んでくる。直接結婚のおしらせをしたいと希望されています。誰が? もう一度先頭に目を戻す。時候のあいさつ、それから、松。突然文字が拡大されたような錯覚をして、慌てて私は背筋を正した。左肩下がりの忙しそうな松だ。その次は崎。上のほうはぐちゃぐちゃして、最後のハネだけやけに大きい。治。人。
 松崎治人はるひと
 さんからご連絡があり、中口葉子さんに直接結婚のおしらせをしたいと希望されています。もしよろしければ下記の番号をお使いください。当事務所を経由していただいても構いません。
 癖の強い字だが、縦の線は揃っている。本当はだめなんですけどね、と行間には書いてある。松崎さんたってのご希望ですし、中口葉子さんにはなんら罪はないのでお知らせした次第です。
 ケッコンカア、と口から声が漏れた。いつも独り言をいうときと同じような声の高さ、音量だったが、空虚な響きがあった。私はほっとして便箋をもう一度丁寧に折りたたんだ。そしてまたケッコンカア、と言った。
 高坂弁護士を通して私に連絡を取ろうとしている松崎治人は、私の大学時代の恋人だ。別れてずいぶんながいのに、律儀なところは昔のままだな、と私は懐かしく思った。そしてその思いを噛み締めながら、便箋をぽいとゴミ箱の中に投げ込んだ。

 

隣の席からコーヒーの香りが漂ってくる。私が視線をあげると、二ヶ月前に入ったばかりの同僚が右手の親指を立て、左手でカップを指さした。たぶん、昨日開発部の誰かが旅行土産で持ってきたコーヒーだ。後で飲もう。でも今はユーザの対応に集中しなければならない。
 どんな夢が見れますか、とヨウさんは控えめな口調で尋ねた。
 マニュアル通り、まずは見たい景色を想像してみてください、と伝える。たとえば映画とか、写真とか、好きな場所とか、昔行った場所、そういったイメージを眠る前に思い浮かべると夢に出現する可能性が高いです。もちろん具体的なイメージがなくても、当社のデバイスが夢を検知してコントロールを始めますから、どうぞご心配なく。
 楽しい夢がいいな、とヨウさんは少し砕けた口調になった。旅行。旅行はいいですね。青い海とか白い砂浜とか。行ったことないけど。私が笑うと、彼女もアハハとすこし親密さの含まれた笑い声を立てた。
 私たちは少しリゾートの話をする。私も彼女もリゾートの知識に乏しく、薄っぺらな情報しか出てこない。それを笑う。あとは寝る前に飲む調整剤の量を伝えれば初日のミッションは終了だ。
「これって」
 私が会話を切り上げる前に、ヨウさんは遠慮がちに切り出した。これって、なんですか? なんですかっていうのは、えっと、どういう薬なんですか?
 薬を摂取することに対して拒否感を示すユーザは少なくない。だからそういうときのための説明は十分に練ってある。私は短く息を吸い、笑顔をひきしめた。
 体の中には交感神経と副交感神経がある。どちらも自律神経系に含まれており、ざっくりいえば活動時は交感神経が、リラックス時は副交感神経が活性化して体内の器官を制御する。In:Dreamはこの両方に働きかけてコントロールするデバイスだ。
 しかし、自律神経に限らず神経を外部から非接触でコントロールするのは簡単ではないし、やろうと思ったら痛みを感じるほどの刺激を与えなければならない。そこで、ユーザの眠りを妨げないよう、In:Dreamでは調整剤と呼ばれる電気刺激を受け取りやすくなる薬を飲んでもらうことになっている。
 あー、なるほど、とヨウさんは私の説明に相槌を打った。触媒ってことですね。どうやら化学の知識は多少あるらしい。
 私はそのとおりだと答え、調整剤のもう一つの効用、眠りやすくなることも伝える。寝る直前に飲むようにしてくださいね。飲んでからお風呂に入るとそのまま眠ってしまうかもしれませんし、車の運転や、機械の操作もご遠慮いただいています。他の鼻炎薬や風邪薬と同じと思ってください。
 なるほど、とヨウさんはまた短く相槌をうった。なるほど、が彼女の口癖のようだ。コントロールするっていうのはWebに書いてあったやつですよね。それがうまくいくと、えっと、夢が見れる、んですか?
 どうやらIn:Dreamの制御の内容にも興味があるらしい。私は製品の説明を続ける。
 睡眠中は交感神経と副交感神経の活性化が交互に起こることがよく知られている。交感神経が活発になっていて特徴的な眼球運動が起こっている状態をレム睡眠と呼ぶが、このときに人は夢を見るのだそうだ。交感神経が活性化していることは心拍数や呼吸数、体温で判別することができるし、眼球運動は筋電位を計測して判定する。
 一方、副交感神経が優勢になると、眼球運動は収まり、心拍数や呼吸数が減る。体温も下がり、ノンレム睡眠が始まる。
 このふたつの睡眠状態はおよそ90分間隔で交互にあらわれ、一晩あたり数回観測されるのが一般的だ。In:Dreamはまず心拍数、呼吸数、体温、そして眼球運動を計測して、レム睡眠・ノンレム睡眠の判定を行う。そして個々のユーザの睡眠傾向にあわせて交感神経が活性化してきたらそれをサポートし、副交感神経が活性化してきたらそれをサポートするよう電気信号を送って快眠を提供する。自律神経の制御に関してはアセチルコリン受容体活性化法の詳細まで踏み込まねばならないのでここでは割愛するが、医療現場ではすでに一般的な治療方法のひとつであり、眠りの制御程度なら副作用がないことが確認されている。
 ヨウさんは私の噛み砕いた説明で満足した様子である。ありがとうございました、よくわかりました。今晩早速試してみます。明るい声であったが、私は念のため注意事項を続ける。効き目には個人差がありますから、初回からうまく夢を見られるとは限りません。場合によっては悪夢になってしまうかもしれないので、もし目がさめてしまったらデバイスは外しておやすみになってください。なにかあればご連絡くださいね。明日の同じ時間でしたら私、間宮が対応いたします。
 いつもの、すっかり舌が覚えた決まり文句だ。けれどもヨウさんが妙に親密さのある相づちをうつせいで、心から彼女にいい夢を見てもらいたいという気持ちになる。耳の奥でぷつんと音がとぎれて通信の終了がモニタに表示されても、私はしばらくその魔法の中に漂っていた。不思議な気持ちだった。

 

   2

 

外からはまだ雨の音がしている。音は等間隔にきこえるようでそうではなく、私は目を閉じてその音を数える。
 今日はお風呂にゆっくり入った。子供のように肩まで湯船に浸かって百まで数えたので少しのぼせた。帰りにドラッグストアで買った入浴剤の花の匂いが、まだ鼻の奥に残っていて心地よい。髪の毛はちゃんと乾かしたし、あとは夢を見るだけだ。
 サポートの女性が見たい夢をイメージするといいと言っていたな、と思い出しながら寝返りをうつ。どんな人なのかなとちょっと考える。彼女もリゾートに行ってみたいとか考えるんだろうか。青い海に白い砂浜――誰と行く? 会社は何日休む? 安く上げたいなら東南アジアだが、治安が少し気になる。映画で見た地中海やギリシャもあこがれるが、すこし高い。ハワイだとちょっとつまらないかな。あとは――そういえば沖縄もリゾートだ。パスポートがいらないし日本語が通じる。沖縄で思い出したが、瀬戸内も行ってみたかったんだった。そんなことを考えながら、タオルケットの中に腕をしまう。
 雨音はまだ聞こえている。音に合わせて息を吸い、吐く。目をとじて、体の力を抜く。リゾート、南の島、白、青、強い光――
 カチカチ、と眼の前がまたたいて私ははっと我に返った。いつの間にか目の前にパソコンの画面があり、白い矢印のポインタが文字の邪魔をしていた。慌ててマウスを握り直し、ポインタを横にずらす。
 息を呑むエメラルドグリーンの海と、風にはためく白いピーチパラソル。セブ島。南国リゾートを満喫できます、という文字。机の上にほったらかしているコンビニの袋がその文字の一部を隠している。
 私はため息をついて少し笑った。一生懸命参考資料を探したはいいが、それがそのまま夢に出てきてしまったらしい。南の島でくつろいでいるところではなく、まだ旅行先を選んでいる段階だ。いかにも優柔不断な私らしい感じがするし、こういう現実そのものを繰り返す夢ならよく見る。あまり楽しくないし、疲れるだけのやつだ。でも、私らしい。
 笑いながら画面をスクロールする。南国の繁茂する木々、サイパン、ビーチに並べられた長椅子、天蓋のあるベッド、ヤシの木、極彩色の魚たち、イルカ、断崖絶壁、マングローブの森、プーケット、三角屋根のコテージ、モルディブ――さっきまで座っていた椅子の上にあぐらをかき、机に頬杖をついて私はどれもいいなと思っている。東南アジアはお値打ちだけど、たぶん新婚カップルが多いんだろう。そういうところはちょっと――
 ケッコンカア。
 不意にその言葉が口をついて出た。瞼の裏を染めていた鮮やかなコバルトブルーがするすると減色し、目をいじめる青いブルーライトだけが残る。ケッコン。結婚。このまま一人で生きていくつもり? なにかあった時にどうするの。子供を生むのはタイムリミットがあるんだよ。三十歳前後の独身女性なら、一度ならずともそんなことを言われる。焦っていても、全く鷹揚にかまえていたとしても絶対に言われる。でも、三十五を過ぎたらぱったり言われなくなったと知り合いは言っていた。だから大丈夫。歳とったら絶対楽になるから。こわばった胸に優しい言葉が染み込むまで、私は画面に目を凝らす。
 よくみると粗があるな、と私は思った。白い余白は目にチカチカとするし、彩度を上げすぎて下品だ。ただの加工しすぎた写真じゃないか。きっと現地にいったらがっかりするんだろう。だったらどこだったいい。一人で行って話のネタになるところにしよう。モルディブ。モルディブはいいな。モルディブの水上コテージ。絶対勇者だって笑ってもらえる。私はまた画面をスクロールする。シチリア島、ニューカレドニア、フィジー、グレートバリアリーフ、モナコ、ドゥブロヴニク――羽田から出る便がいいな、と私は頭の中で計画を思い浮かべる。絶対に羽田のほうがいい。成田は遠いし、それにお母さんにバレるかも――
 母のことを思い浮かべた瞬間、体中に電撃が走ったような錯覚をした。しびれや痛みより先に心臓の鼓動が早くなり、忘れていた肩の凝りが現実のものとして迫ってくる。お母さんにバレるかも。海外なんて無理だ。だって急に電話がかかってきたらどうする? すぐに帰ってこいって命令されたら? お母さん、お父さんを殺しちゃうかもしれない。もしお母さんが殺人犯になったら、帰ってこなかったあんたのせいだからね。
 パソコンの光が遠くなる。かわりに深い闇が頭の上にのしかかり、体を押さえつける。私は悲鳴をあげ、そして夢からさめた。

 

まずコーヒーを用意する。
 担当しているユーザの状況をチェックする。社内の情報共有ページをひらくと、リストの中に赤いマークがついている。ユーザ名は「ヨウ」。昨日の新規ユーザだ。
 In:Dreamで収集されたデータは、LPWAN[i]経由で定期的に私たちのところへ送られるので、私達はユーザがどんな睡眠体験を得たのかすぐに把握することができる。赤いマークがついているのは、入眠制御が一度も成功しなかったか、ごく短時間で覚醒してしまった場合だ。かなりよくない。
 私は慌てて詳細情報を開いた。彼女が睡眠状態に入ったのは午前零時半、現代の独身女性としては特に遅い方ではないだろう。入眠後はすぐにレム睡眠に移ったようだが、二十分ほどで覚醒している。入眠失敗。そのあとの記録はない。多分デバイスを外して眠ったのだろう。悪夢だったのだろうか。
 ユーザの体質によっては調整剤の服用量を決めるまで時間がかかることがあるし、どうしても体に合わない場合もある。だからもし、一ヶ月の無料サポート中にユーザが返品を申し出れば、全額返金したうえで返品対応を受け付けることになっている。初日で失敗したユーザの返品率は80%を超える。
 登録されているメールアドレスにメッセージを送る。入眠制御に失敗したことを詫び、調整剤の量のアドバイス、疑問や質問があればいつでも連絡をしてほしいこと、調整には時間がかかること、いつでも全力でサポートするつもりでいるということ、もうデバイスを使う気になれないという場合は返品も可能だが、調整剤の服用量が決めるには平均して三回か四回はかかるので気楽に考えてほしいこと。押し付けがましくなく、できるだけ親身に、定型文を少し崩して書く。どうか読んでほしいと願ってメッセージを送信する。
 机の上のコーヒーを口にして、私は気をもんだ。CMを多めに打って知名度が増してきたこともあって、この数ヶ月、ユーザの離脱率が高い。特に初日の入眠制御失敗は私達にとっても、ユーザにとっても非常にナーバスな事態だ。眠りほどパーソナルな領域にあるものはないし、期待に反して悪夢を見るとユーザは普段以上に腹を立てる。思っていたような夢が見られなければがっかりする。不満を一番最初に受けるのはカスタマーサポートのチームであり、苦情が増えるとチームの士気低下につながる。とにかく初日の入眠制御失敗は致命的だ。
 ヨウさんもきっとがっかりしただろう。昨日、彼女は言っていた。ずっと不眠で悩んでるんですけど、病院ではストレスをためないようにっていうだけじゃないですか。ストレスをためない方法知りたいんだよねって同僚と話をしてたらIn:Dreamがいいって聞かされて。病院でも勧められたし。
 よくある理由だ。In:Dreamの元となった制御手法はすでに医療現場で実績のある方法であり、高齢者の睡眠改善には特に効果があるとされている。交感神経と副交感神経、さらに神経に作用する薬物を投与する医療にまで領域を広げれば、心療内科の分野でも十分に効果が認められており、気分障害や発達障害の症状改善例も多くある。定期的に薬を飲むことができないユーザにはIn:Dreamのような装着型ではなく、簡単な手術で体内に制御装置と電動薬剤注入器インジケータを埋め込むことが多いというが、やっていることは同じだ。
 だが、どんなに実績のある方法でも、すべての人に対して有効であるとはいえないのが医療および生体工学の宿命なのだった。
 ヨウさんから折返し連絡があることを祈りつつ、技術からのメールも確認する。昼の時点で問題はすでに共有されており、サポートエンジニアの大磯さんからメッセージが届いていた。
 超短時間での入眠制御失敗はユーザ自身の問題と思われます(たとえば当日嫌なことがあったとか、体の調子が良くなかったとか)。まずは夢よりも深い眠りに入れることを優先したいですね。十時くらいまでは電話取れるようにしておくので、なにかあったらよろしくおねがいします。
 私はほっとした。大磯さんが対応してくれるなら心強い。
 そうこうしているうちにヨウさんのデバイスがアクティブになっていた。メッセージを確認したかどうかはわからないが、昨日の失敗にはめげずにいてくれたらしい。私はすこし安堵して手元のボタンを押して受信承諾を待った。
「あれ、え? あ、これって……音声でつながるんですね」
 ヨウさんの第一声は困惑だった。特に不機嫌だというわけではないようだ。チャットでのやり取りの仕方も案内するが、このままで大丈夫だと彼女は笑った。なんか赤く点滅していたので充電できてなかったかなって思ったんです。昨日はすぐに目がさめちゃったし、もしかして初期不良なのかなと思って。
 ひとまず私はほっとした。もう一度謝罪をし、手順通りに状況の確認をする。
「なんか――」言いよどんで彼女は息を吐いた。「夢は、見たんですけど、旅行先を全然決められない夢で、三十にもなってなにしてるんだろうなと思ったら目が醒めちゃって……」
 話には飛躍がある。けれどもそもそもの正体があやふやな夢の説明をするのだから仕方のないことだ。悪夢というほどではなさそうだが、たぶん本人にとってはあまり良くない夢だったのだろう。
 しばらく話しているうちに、どことなく暗かったヨウさんの声に明るさが戻ってきた。考えすぎないほうがいいですよ、と私はアドバイスする。良い夢が見られるに越したことはないですが、まずは一晩しっかり眠れるように調整していきましょう。
 短い沈黙のあと、ヨウさんはぽつりと「そうですね」と言った。奇妙に寂しさのある声だった。

 

本当は気が進まなかった。昨晩突然あらわれた馴染みある恐怖に、心臓が耐えられるとは思えなかったからだ。目を覚ましたあとも動悸がひどくて、明け方まで眠れなかった。だというのに、今日もなんとなくデバイスをつけている。貧乏性のせいだろうか。
 昨日とは一転してずっと息苦しさがある。眠りが浅いことはわかっている。ベッドの上に横たわっている自分をはっきりと感じているのに、覚醒しているとも言い難い。眠れない夜の典型的な状態だ。多分しばらくしたらカラスの鳴き声がして、窓の向こうが明るくなるだろう。朝日はちりちりとまぶたを焼く。すると私の身体は突然眠りに落ちる。あと数時間で起きなければならないと思うのに、強烈な眠気にはあらがえない。そのせいで寝坊したのは一度や二度ではないのに、だ。
 たぶん治人の件もあるだろうと私は思った。彼からの突然の連絡が私の神経を昂ぶらせたのだ。
 治人と初めて会ったのは大学の入学ガイダンスの日だった。構内ではあちこちに新入生を勧誘するサークルが待ち構えていて、通りがかる新入生に無理やりチラシを押し付けようとする。私はうつむいて、その手から逃げていた。春は明るくのどかで、希望に満ちている。垢抜けない新入生は春の日差しに負けず劣らずきらきらと輝いているのに、私は日陰に紛れていた。
 今までかろうじて保っていたバランスが崩れ、まるで暗いトンネルの中にいるような気分だった。学校は家から遠く、一限の授業に出ようと思ったらまだ薄暗いうちに家を出なければならない。必修の授業が五限に入っていたら、授業が終わり次第走って電車に飛び乗っても、家に帰る頃にはとっぷりと暗くなっているだろう。夜の中にそびえ立つ家は、不穏な空気をまとっている。家の扉を開ける前に私は逡巡する。心臓が痛い。もし扉が空いていなかったら、鍵を開けた途端、また閉められたら、あるいは奥から荒い足音がやってきて私の名前を呼んだら――朝出てくるときになにか粗相はなかっただろうか。大きな音を立ててしまったとか、昨日なにかをし忘れたとか――帰りが遅くなった言い訳も必要だ。乗り継ぎの時間は本当に最短だっただろうか、不整合はないだろうか。
 そんなふうに周りに気を配る余裕のない私の視界に、治人は押し入ってきた。にゅっと私の前に体を半分乗り出して、顔色悪いけど大丈夫? と言ったのだ。私はとっさに視線をあげて、彼の顔をうかがった。どうやって逃げ出せばいいのかわからなかった。
 大丈夫? とまた彼は言った。ミリタリーテイストのブルゾンを羽織っている以外、印象の薄い人である。私はトートバックの肩紐を握りしめ、大丈夫ですと言葉を引っ張り出した。サークルの勧誘だ、と私は自分に言い聞かせる。手にちらしの束を持っているし、とにかくなんでもいいから声をかけて足を止めさせたというところだろう。彼を押しのける意気地がなかったが、私は一歩足をひき、本当に大丈夫です、ともう一度言った。声はかすれて小さかった。
 眼鏡の奥でまぶたを少し落としている治人の顔は少し不機嫌そうに見えた。逆さまつげが目を隠し、なにを考えているかわからない。猫背で頬骨が浮き出るほど痩せて、顎の下にポツポツと無精髭が生えている。彼はそのままの表情で、別にとって食いやしないから少し休んだほうがいいと思うよ、といった。このチラシの束、持ってたら勧誘されないから、そこのベンチに座ってな。なにか飲み物買ってきてあげるから。それが彼との出会いだ。

 

まずコーヒーを用意する。
 モニタの中ではまた赤いマークが点灯している。ヨウさんの睡眠はまだよくない。初日に比べれば制御時間は長いが、レム睡眠が五時間も続いたあと、深い眠りに一時間だけ移行し、レム睡眠に戻らず覚醒している。質の良い睡眠とは言いがたい。
 大磯さんからもメールが届いていた。お疲れさまです。大磯です。彼女、やっぱりよくないですね、と彼のメールには書いてある。眠りが浅い状況を改善したいので、一旦デバイスの使用をやめてもらいましょう。もしくは睡眠導入剤をお持ちのようなら、併用していただくという手もあります。どちらかをおすすめしてみてください。
 それはそうだろうな、と私は思う。激務が終わったあとだと言っていたし、そもそも睡眠に入りにくい状態なのかもしれない。それならばまずは体を休めることに専念すべきだ。In:Dreamはただの健康用品だから状態を良くすることはできるが、治療はできない。
「昨日に比べたら……」ヨウさんの語尾はしぼんでいる。「そんなに悪い夢じゃなかったと思いますけど、目が醒めちゃって……すみません」
 わたしはあわてて謝ることではないと告げる。調整に手間取ってしまって申し訳ないこと、エンジニアにエスカレーションして最適な方法を考えてもらっていること、もしまったく眠れないようならまずは睡眠導入剤や市販の睡眠改善薬を使ってよく体を休めてほしいことを伝える。彼女はまた少し笑って、このくらいは珍しくないんですという。ちょっと嫌なことがあったせいかも。でも、わかりました。とりあえずよく寝ますね。私はもうだめかな、と思う。彼女はIn:Dreamを返品するだろう。バツひとつ、ユーザ取り逃がしだ。

 

ココアを手に戻ってきた治人は、目を丸くして、口を「あ」の形にした。チラシをどうすべきかわからずじっとしていた私は、視線だけをあげて彼を仰いだ。彼は照れたように、コーヒー飲めないからココアにしちゃったんだけど、飲めます? と弁明しながら紙コップを私に差し出した。
 どう答えればよいのかわからなかった。うまい返しも思いつかない。なんとか作った愛想笑いはたぶん引きつっていただろう。治人がきまり悪そうに私の隣に腰をおろしたので私はまたうつむいてチラシを手のひらで撫でた。
 のちに治人は、私はもうとっくに姿を消しているだろうと思ったと白状した。だから自分が飲むものを、念のためふたつ買って戻ったのだという。けれども私はベンチに座って葛藤していた。それで驚いたらしい。
 若葉芽吹く桜の木の下は肌寒く、日差しが遠のけば冬の気配がすぐそこに控えている。私はチラシの束と引き換えにココアを受け取り、ぼそぼそと礼を言った。沈黙の気まずさを埋めるように彼はサークルの説明をする。少し説明しては、ごめんね、勧誘しないっていったのに、と詫び、それからまた話を始める。私たちの間を介するものは彼が手にするチラシ以外なにもなかった。私は曖昧に笑みをうかべ、彼の表情を伺った。
 彼らは夜間に山手線を一周する散歩サークルらしかった。別に大したサークルじゃないんだ、と言い訳じみた声で彼は説明している。中身なんて全然なくて、紙の地図を探して、読んで、歩く。やることはそれくらいで、ええと、いいところはバイトのあとでも参加できることと、お金がぜんぜんかからないことかな。そこで私は声をたてて笑った。
 人の話を聞くのはきらいじゃない。どういう時にどんな顔をして欲しいか、視線の動きや表情を見ているとすぐにわかる。それを的確に提示してやれば、みんな満足してもっと喋る。話して、笑って、怒りを爆発させて、そして自分の話のうまさに満足する。それを引き出すことだけが私の役割であり、私のいる意味だと、当時の私は思っていたのだった。
 でも彼は他の人と同じような反応を示さなかった。私が声を立てると彼はまた目を丸くして、それから急にぎゅっと眉根を寄せた。おびえている犬のような表情だった。私はあわてて視線をそらし、なにを間違えたんだろうと後悔した。
 しばらく彼は口を開かなかった。
 彼の指先に、忘れ雪のような桜の花びらがはりついている。日は落ち、橙色の光が校舎の隙間に手を差し込み、彼の髪の毛を透かしている。口をぎゅっと結び、彼は私を見ていた。私は口をつぐんでうなだれ、罰が下るのを待った。紙コップの中に花びらが舞い降ちて、茶色の水面の上をくるくる回っても、まだ黙っていた。
 沈黙。
 遠くからはしゃいでいる人々の声が聞こえる。みんな自分のことを喋っている。どこから来たのか、どこに住んでいるのか、東京は怖いところだってばあちゃんに脅かされた。寮は門限が。サークルどうする? あの授業、ガイダンスから死ぬほど眠かったわ。ううん、お姉ちゃんと一緒に住んでるんだ。このあとどうする? ご飯行く? たくさんの人生が一箇所に集まっている。本当は口にできないこともあるかもしれない。けれどもみんな笑って、それらしいふうを装っている。
「もし、うちに、興味があったら――……」
 治人の声はかすれている。私は彼の言葉が終わるのを待った。興味。興味とはなんだっただろうか。そんなものは私に必要ないんじゃないか。遊ぶことなんて許されるわけがない。高校の時の友達は、葉ちゃんの家って結構厳しいよね、といっていた。高校生は子供じゃないんだからさ、ちょっと寄り道するくらいいいじゃんね。優しい声が耳によみがえり、私は少し勇気を取り戻す。そうだった、と思う。外の人たちはいつもみんな優しかった。だから私はなんとか人間をやっている。私はみんなに報いなければならなかった。そのためには顔をあげて、勇気を振り絞らなければならなかった。
 息を吸って顔をあげると、私を見つめている治人と目があった。彼は心なしか顔色が悪いように思えた。黒瞳はせわしなく動き、表情を読んでいる。どこからか飛んできた淡い色の花びらがひらひらと視界を横切って消えていくまで、私たちはお互いに視線を逸らさなかった。彼の視線の動きは見覚えがあり、だから余計にどうすればよいかわからなかった。

 

コーヒーに手が伸びない。
 私、やっぱりいい夢が見たいんです、とヨウさんは言った。
 まだ彼女がIn:Dreamに期待を寄せている事実に安堵する一方、頭がいたいとも思う。
 一週間が過ぎたのに、彼女はまだ夢を見ていない。私がデイシフトの間は調整剤を飲まずに寝てもらったが、それでもだめだったようだ。
 彼女の名前を見ると、胃がしくしくする。大磯さんも首をかしげているが、人体相手のデバッグは計算機のようにはいかないものだ。しかも手がかりがないときている。調整剤を上限マックスまで試してうまくいかなかったらお詫びして返金するしかないですかね、と彼は情けなさそうに眉を八の字にしてぼやいた。これ、軽い不眠症ってレベルじゃないですよねぇ。医療用のじゃないとだめなのかも。
 私達の苦悩をよそに、ヨウさんは楽天的だ。実はこれに似た方法の治療を母が受けてうまくいったんです。なんでしたっけ、なんとか活性法? でもあれって結構副作用がきついじゃないですか。自動インジケータを使うと手術しなくちゃだし、ちょっと目立つから働いている人には辛いですよね。親子だと体質が似てるから、私くらいならIn:Dreamで改善するんじゃないかなって思ったんですけど。
 大磯さんはわしゃわしゃと白髪交じりの髪の毛をいじった。まいったなぁ、と顔にかいてある。
 大きなお腹をしている彼が机にもたれかかっていると、本人が自称する通り、まったく大きなクマのぬいぐるみだ。そっかぁ、と心底困ったように大磯さんは言って、ぽちゃぽちゃした手をさすった。
「うーん……できるところまで試してみたら、僕が対応しましょうか。もっと詳しい説明をしたら理解してくれるかもしれないし……」
 こういうことは時々ある。女性は詳細を理解せずマニュアルを読んでいるだけだと思っている人は男女問わずいる。男性の、できればある程度年配で、かといって年を取りすぎていない声が同じ説明少し早口ですると、すっと納得するのだ。それを悔しく思うこともあるが、いちいち気にして神経をすり減らす必要はないと大磯さんはいう。僕だともっと怒られてますよ、わかんないとか、難しいこと言うなとか。わかってくれない人はほんの一部だし、うちのデバイスとおなじで誰にでもぴったり来るやり方ってのはないんです。どうしようもないことだから、気にしなくていいですよ。
「普通はもっと早い段階で諦めてくれるんだけどなぁ……よっぽどお母さんの副作用が強くて困ったんですかねぇ」
「これって副作用あるんですか?」
「うちのは副作用出るほど強くないから心配ないですよ。医療用のだって睡眠制御では症例ないんじゃないかなぁ」
 わしゃわしゃとまた大磯さんは頭を掻いて、まいったなぁと何度目かになるため息をついた。ぶっちゃけ僕たちにはどうしようもないんですよ。ここまでくると病院に行ってもらわないと。たぶん――そこまでいって大磯さんは黙り込んでしまう。ご本人に問題があるんだと思います、というのはやはり言いにくいようだ。

 

   3

 

夜になると声が聞こえる。両親の部屋からずっと母の声がする。なにかについて父に話している。いや、話しているのではない、詰っているのだ。
 週に何度かそんなことがあった。声は夜通し続き、時々大きくなったり小さくなったりする。丑三つ時に静かになることもあれば、明け方からはじまることもある。時々声は足音を伴って廊下を歩き、バタンと音を立てて子供部屋に押し入る。私はぎゅっと目をつぶり、夢でありますようにと祈るが、その思いも虚しく闇の中に引きずり出される。そうなったら最後、その夜は眠れない。そんな生活が続くうちに、私は眠れなくなった。声がするだけで目が覚める。大きな音がすると筋肉がちぢこまり、心臓が細かく拍を刻む。
 夜は恐ろしい。外が明るくなり、学校に行く時間が来るまでの時間は私のものではない。意識が朦朧とすると容赦なく手や棒や本が飛んできて、ますます事態は悪くなる。私は頭を少し垂れ、集中力を切らさないように手の甲に爪を突き立ててじっと耐えた。それが私にとっての夜だった。だから東京で確保したボロアパートに週三で泊まるようになったとき、闇から人の声が聞こえないことに驚いた。天井には丸いシーリングライトのカサがぼんやりとうかびあがり、壁際のカラーボックスの上では小さな炊飯器が赤いランプを点灯させている。大通りを車が通るたびに家中ががたがたとゆれ、窓のすぐ向こうにある街灯の光がカーテンをふくらませている。
 けれども、世界は静かだった。
 眠っている人々は声を発しない。呼吸の音は高くなったり低くなったりなどせず、沈黙の一要素になっている。私は天井を仰いだまま静寂の豊かさに浸った。誰も、誰かの眠りを妨げない。そんな世界の優しさを思った。私の知らない夜が、穏やかで人を包み込む夜が、そこにはあった。すっかり朝になるまで私は耳を澄ましつづけ、そして窓が明け方の色に染まるのを見届けてから、さめざめと泣いた。
 In:Dreamを購入して三週間が経ったが、いまだ私のもとには夢が来ない。もしかすると私自身、夢を理解していないのではないかとさえ思う。だから夢をみようとしても、現実や過去を思い出して目が覚めてしまうのではないか? 日に日にサポートの女性の声は重くなり、詫びの声には諦観が濃くなる。そんな彼女に申し訳なくて、どうにか良い夢を見れないかと私は焦っていた。焦っているのに、夢を見るのが怖い。起きたあとは辛くて泣いてしまう。
 どうしたの、と彼は言った。また笑ったでしょ。その癖、まだ抜けないんだね。
 こんなの絶対におかしいと憤っていた若い治人の声が耳に蘇って、私はまた笑った。今、実際に聞こえているのはもっと穏やかな声だ。言い回しがやわらかくなっても、私の中に蘇る彼の声は変わらない。けれども私はそれを告げず、昔と声が変わらないから、懐かしいなと思って、と弁解した。
 見覚えのない電話番号がスマートフォンに表示されたのは、ちょうど家の鍵を開けたときだった。カバンの中から振動音が聞こえ、焦って出ったのですぐには治人だとわからなかった。だから声に思い当たったとき、私は笑った。どうして番号知ってるの。確かにあれから変えてないけど。そしてまたケラケラと笑ってしまった。
 手短に近況を交換する。彼も私も会社員で、ある程度忙しく、ある程度は余暇がある。ふたりとも東京に住んでいて、まあまあな生活だ。平均的な東京の会社員。同じような愚痴があって、同じような達成感があり、しかし片方は独身で、もう片方は結婚を控えている。おめでとうと私は言う。良かったね。あのせいで恋愛恐怖症とかになってたらどうしようかと思った。責任感じちゃう。
 ふ、と電話の向こうが静かになる。私はその間にベッドサイドを確認し、In:Dreamのデバイスが点滅しているのを発見する。またメッセージが入っている。このところ毎日返品をすすめられる。彼らが私を厄介に思っているのがわかる。なのに、毎日メッセージを確認してしまう。
「ごめん」
 電話の向こうが急に深刻になった。私は視線をあげ、さすがに冗談にしてはどぎつかったかなと反省した。
「俺は」短く治人は息を吸った。言いにくいことを言う時に息を吸うのは彼の癖だ。怒ったように顔をしかめ、ぎゅっと両手を握る。俺は、と彼はまた言った。葉ちゃんのせいだと思ったことないから。
「そんなことよりさぁ、彼女にはちゃんと話してる?」
 音を立てないように膝をつく。毛足の長いカーペットを空いている方の手でなでて私は正座になった。しかし思い立ってすぐに崩した。言葉は姿勢に影響される。正座すると私は卑屈になる。卑屈になると治人はきっと心配して、これからもずっと私のことを気にかけるだろう。私は元気に生きていることを示さなければならない。過去は忘れていいと、彼に思ってもらわなければならなかった。
「うちは離婚したから、親父とはずっと会ってないよ。彼女には全部話してるし、理解してくれてると思う――」
「ならいいけど、テンパると口調きつくなるんだから気をつけなよぉ」
「時々言われる」彼の声がすこし笑った。でもなんだか泣いているようにも聞こえた。
 葉ちゃんのは、と彼は続ける。どうなの? 近況はちょっと教えてもらったけど。
 治人の声は遠慮がちだ。多分彼だって、そんな声を出せば私が気を使うとわかっているはずだ。でも気持ちを隠せない。あのときも彼はそうだった。見たことのない茫洋とした表情で私を見つめ、唇を震わせていただけだった。それまでずっと私の庇護者のように振る舞っていた彼と私の立場は、もしかしたらあのときに逆転したのかもしれなかった。
「んーとね、示談の条件で治療しろってことになったじゃん? いろいろ試したんだけど、興奮したら自動で落ち着くお薬いれるやつがうまくいって、普通のひとみたいになったよ」
 喉の奥で声がひっかかる。そうなんだ、という治人の相槌を押しのけて私は言葉を続けた。
「ほんとに普通の人みたい。夜は寝るし、急に怒らなくなったし、なんか普通のお母さんみたい」
 声が引っかかる。なぜだろうと私は思う。喉の奥が熱い。
「こないだもさ、急にりんご送ってきてさ、なにかと思ったら、お父さんと二人じゃ全然減らないから送ったってメールしてくんの。あんたりんご好きだったでしょって。あとカイロとかお金とかも入ってて、帰ってこなくてもいいけど、たまにはいいもの食べなさいよってさ」
 いいお母さんみたい、と私の口が勝手に動く。いいお母さんみたい。確かに時々そんなことを思う。ほんとうは幸せな家庭で育ってきたんじゃないかと錯覚する。眠れない夜は私の記憶間違いだったんじゃないかとさえ思う。認知がゆがんでいるのは私のほうじゃないか。そしてぞっとする。
「なんかこういうの、親がするって聞いたことあるからさ、テンション上がっちゃって」
 違う、と私は目をつぶったまま思う。テンションなんか上がらなかった。荷物が届いたときは悲鳴をあげて放り出してしまったし、りんごはまだ台所に放置している。触れない。怖くてさわれない。だいたいりんごなんか好きじゃない。りんごが好きなは私の姉だ。私じゃない。昔りんごケーキを作るって張り切って焦がしたのは姉だ。私じゃない。小さい頃にリンゴのすりおろしを喜んで食べたというエピソードは私のものじゃなかった。お姉ちゃんはそうだったのに、あんたは人のものばっかり欲しがって卑しい。そういって母は私の頬を叩いたはずだ。なのにいつのまにか母の中で私はりんごばかり食べていた子になっている。プリンとかゼリーじゃなくていいの? って聞いたらりんごがいいって言って。風邪をひいたときはいつもりんごのすりおろしだったよね。違う、それは姉の話だ。どうしてあんたはお姉ちゃんみたいに我慢できないのと何度も繰り返し叱られたから覚えている。
 でも母は全部忘れてしまった。
「ふつうのお母さんってこんなんなんだね」
 あの人は普通じゃない。薬が切れたら普通ではなくなる、と私が言っている。ずっと恐怖がある。治療のせいで記憶は混乱しているし、そのうえ十年前、治療のきっかけとなった事件はさっぱり忘れて、昔からずっといいい母親だったつもりでいる。しかも私は時々、今のお母さんは優しいと思う。もしかしたら子供時代の私は幸せだったんじゃないかと思ったりする。おかしいのは私のほうで、幻に恐怖を抱いていたんじゃないかと――
「あなたのお父さんには感謝してるんだよ、だって」
「葉ちゃん」
「あの頃の、私たちってさ、子供だったよね。だって今の新卒の子たちより若かったんでしょ? 私なんて未成年だったし、完全に子供じゃん。よく示談にしてくれたと思うもん。それにさ――」
「葉ちゃん、ちゃんと聞こえてるよ」
 今度こそ喉に言葉が引っかかって前にも後ろにも進まなくなった。私は腹に力を入れ、息を吸った。こめかみのあたりを中心として世界がゆっくりと回っている感覚がある。
 治人の声はまたかすれている。あの時と同じようにかすれている。あのときも彼は私をじっと見つめ、葉ちゃん、と言った。でもそれ以上言葉は出なかった。目のふちに涙がもりあがり、くちびるがひび割れて白くなっていた。ただでなくても痩せ気味な体はますます薄くなり、威圧的な父親の隣にいる彼はポキンと乾いた音をたてて折れてしまいそうだった。でも私はその目をぼんやりと見返すことしかできなかった。
 あれから十年だ。私達は十年ぶん成長した。だからあのときのようになにも言えないまま終わったりはしなかった。沈黙のあと、治人は静かに、ごめん、と言った。なにもできなくてごめん。葉ちゃんにはちゃんと幸せになってほしい。俺はなにもできなかったけど、傷はもうほとんどわからないから、だから、忘れてほしい。ちゃんと幸せになってほしい。
 話すことがすっかりなくなって挨拶をすませても、私達はなかなか電話を切らなかった。お互いに黙り込んで少なくとも一分はすぎてから、ぷつりと電話は切れた。私は目を閉じ、私の神様にさようならと言った。

 

出会いから私と治人が付き合い始めるまではほぼ半年、早いとも遅いとも言えないタイミングだ。でも私はちっとも驚かなかった。治人が少し緊張した面持ちで付き合わないかと言ったときでさえ、私はすこしも戸惑わなかった。あの日、目があったときから、いずれもっと深い仲になることを直感的に理解していたせいかもしれなかった。今でもまだ娯楽を忌避する癖のある私だが、不思議なことに治人との距離を詰めるにはなんの抵抗もなかった。生活が破綻していることの反動だったのかもしれない。
 あのころをどうやって生きていたのか今もまだよく思い出せない。昔から突然怒り出すことがよくあった母は、更年期にさしかかった影響か、全く予想できないポイントでカッとすることが増えた。高校生のころまでは私にもわかりやすい過失があった。片付けをきちんとしなかった。靴下が裏返しのままだった。わすれものをした。お弁当箱を帰ってきてすぐ出さなかった。皿を割った。石鹸に泡がついたままだった。私は一日にいくつも過失を犯す。未熟なのだからガミガミ言われるのは仕方がない。たまに叩かれたり、ヒートアップして徹夜で小言を聞くことになっても、私が悪いのだから仕方がない。なにが悪かったのかわかるし、謝ることもできる。まともな大人にならないと言われると、そうかもしれないと素直に思った。けれども時々理解できないこともあった。友達と遊びに行った休日の夜は機嫌が悪いとか、部活で遅くなって帰ると家を閉め出されるとか、修学旅行のお土産が多すぎても少なくても寝ずの説教が待っているとか、思い返せば楽しい記憶には憂鬱な記憶が必ずセットでついて回る。かといって母と一緒にでかけてもなにかしら機嫌を損ねてしまうことが多く、いまわしい記憶がついて回る。
 大学に入ってからはさらに理不尽な叱責が増えた。テレビをつけてもいないのに、いつまでテレビを見ているのかと怒鳴る。風呂掃除まで終わっているのに、いつになったら風呂にはいるのかと暴れる。夕食後の皿洗いを私がしていると、嫌味かと皿を叩き割る。これ見よがしに勉強して腹が立つと教科書を捨てる。言動にはまったく予想がつかず、機嫌がいいと思ったら急転直下で爆発することが増えた。しかも一度スイッチが入ると嵐が過ぎ去るのを待つしかない。事実を言えばヒートアップする。やみくもに謝るとなにが悪かったのか言えと迫られ、口ごもるしかなくなる。そうしてあきらかな非がうまれたら、母のシナリオどおりにすべてが進む。私はひたすら黙る。頭をさげてうなだれ、あらゆるものを甘受する。尊厳や意思は必要ない。ただ過ぎ去るのを待つしかない。
 おかしいよ、と治人はいった。じゃない。私は気持ちを紛らわすために少し反論する。やめてよ、じゃないなんて言ったらまた怒り狂うよ、あの人。
「俺はふつうじゃないって言ったんだよ、まともじゃないなんて言ってない」
 思いのほか強い口調で治人はいう。私は反射的に黙り込み、なにも言えなくなってしまう。私が黙り込むと治人はあわててごめん、という。ごめん、つい。そういうときの治人の顔は青白く、怯えている。
 私たちはあまりにも不健全だった。そのことに目をそらしつづけ、一年が経った。夏が来ようとしていた。

 

一年生の後期も残すところあとわずかというころから、実家に帰る頻度より東京に泊まる頻度のほうが上回るようになった。試験の準備で、実験で、アルバイトの終わり時間が、という言いわけで帰る時間を次第に遅め、心配する父にボロアパートの一室を借りてもらったからであった。姉が東京に住みたがっていたのもよい口実になった。
 こうなるまで、ほぼ一年の血の滲むような努力があった。確かに母はアルバイトをしろとうるさく言った。いい大人が親のすねをかじっているなんて恥ずかしくないのか。確かにそのとおりだ。けれども私がアルバイトを始めると母は激怒した。帰る時間が遅い、アルバイトといって遊んでいるんだろう、証拠のために家にお金を入れろ。本当は怪しい仕事をしてるんじゃないか、世間知らずの学生に、こんなになんにもできない子に誰が給料なんか払うの、ちょっと稼いだからっていい気になるんじゃない。外面ばっかりよくなって。そのうち全部バレるよ、あんたが怠け者だって。どんなに取り繕ったって外から見てたらわかるんだから、謙虚になりなさい。
 這うように四月は通り過ぎ、五月が来て、六月になった。家に帰る頻度が下がるかわりに、私は頻繁に携帯電話を埋め尽くす母からの数百件の着信におびやかされるようになっていた。着信のランプが点滅しているのをみるだけで心臓が縮み上がり、今すぐ帰ったほうがいいと体の中から声がする。小さな爆発はまだいい。数時間怒鳴って母の気が済むのなら、私は耐える。耐えられる。でもその不満がたまり溜まって大きな爆発になったら、止められないのではないか? それこそ母は私を殺しに来るのではないか? 実家にいたときも何度か命の危険は感じた。中華鍋で頭を殴られたとき、真冬に上着もなく裸足で外に放り出されたとき、馬乗りになって首を絞められたとき、買ったばかりの靴で、靴が崩壊するまでなぐられたとき、もうだめかなと思った。それ以上の爆発があることがこわくて、母から連絡が来ると私は授業を放り出し、アルバイトも休んで実家に戻る。大きな爆発になる前に自分から失敗して小さな爆発を誘発する。小さな爆発を前にすると私は安心した。平穏が続くと怖くなった。嵐が通り過ぎて東京へ戻ると、私は決まって治人の肩甲骨に額をおしつけ、うとうととまどろんだ。
 白いレースのカーテンが床に波線を作っている。午後の光はレースに手足を絡めて眠っている。まだクーラーは必要ない季節だ。昨日の雨がベランダに水たまりを作り、そこに空が映っている。
「言うこと聞くからつけあがるんだよ。あっちが謝ってくるまで無視すればいいのに、どうして帰っちゃうかな」
 治人はまた腹を立てている。彼は母に対して腹を立てている。わかっていても、私はなにも言えなくなってしまう。誰かが怒っている声は、全て自分を責めている気がする。罰を与えられるまで、私に口をきく権利はない。その習慣がすっかり身に染み付いている。
「葉ちゃん、聞いてる?」
「…………」
「別に怒ってるわけじゃなくてさ、おかしいでしょ、こんなの」
 私は膝を抱えてじっとしている。私の隣で治人は私の携帯電話を見ている。青い顔をしている私の手から端末を奪って、彼は次々に送られてくるメッセージを読んでいる。あんた、誰かに洗脳されてんじゃないの。絶対におかしい。すぐに帰ってきなさい。今日、大家さんのところに話をつけに行くからアパートで待ってなさい。
 これは別にはじめての事態ではない。母が来る前に私が実家に戻れば週明けにはつかの間の平和がやってくる。たった二十四時間か三十時間か耐えればいいだけだ。前回は耳を強く引っ張られて頬の薄皮が破れたから、今回は多分見えないところの傷になるだろう。誰にだって傷の一つや二つはある。大したことじゃない。
 でも治人は行かなくていいという。失踪すればいい。二人で住める家を探そう。保証人はうちのおじいちゃんに頼めるから大丈夫。今帰ったら本当にまずいことになる。
 でも、と私はぼそぼそと言った。
「おじいちゃん、年金生活でしょ……」
「頼ればいいだろ、お金なんてふたりともアルバイトしてんだからどうにかなるよ。これ、怖いなんて言ってる場合じゃないし、本当に逃げないとまずいよ」
 でも、と私はもう一度口にした。しかしそれ以上は言葉を続けられなかった。大きなため息をついた治人の存在がむくむくと大きくなって、拳を振り上げている錯覚をする。
「でもじゃないでしょ」
「…………」
「どうして逃げないの」
「……別、に」
「別にじゃない」
「…………」
 治人がまた音を立ててため息をつく。やめて、という言葉が唇の端に引っかかってつっかえる。私は手の甲に爪をたて、沈黙に耐える。手の甲には無数の小さな痕がある。爪をたてたあとが痣になって残っている。シャツで隠れた腕と肩には大きな痣がある。赤かったり、黒かったり黄色かったり青かったりする。カラフルでしょと私が冗談でいうと、治人はぎゅっと顔をしかめ、無言で私に服を着せた。そして私の携帯電話をとりあげ、母からのメールを見たというわけだ。彼が見ている間にも着信が何度かあり、メールが数件入っている。私はそわそわする。帰らなければ。なにか失敗成果を持ち帰って気をそらさなければ、私は永遠に未来を失うかもしれない。大学をやめさせられたらどうしよう。アルバイトをやめさせられたらどうしよう、やっと手に入れたボロアパートの一室がなくなったらどうしよう。母はそのすべてを捨てる人だ。躊躇なく、私のためだと捨てる。あんたはなにもできないんだから、お母さんの言うことを聞いてればいいの。自分でできるなんて思い上がって。
「葉ちゃん」
「…………」
「葉ちゃんが頑張らなきゃはじまらないんだよ」
「そんなの」
 思わず声を発してから、私はしまったと思った。私はいつもそうだ。なにも考えずに言葉を発して、そのせいで墓穴を掘る。いつも後悔するのに、いつも間違える。今のは絶対に間違いだった。するすると気持ちがしぼんで、私はまた爪を手の甲に押し付ける。
「なに? そんなのなに? 言いたいことがあるならちゃんと言わなきゃ。葉ちゃんが黙っちゃったらなんにもわからない――」
「そんな、に、どんどん言われたって」
「俺はそんなのの続きを聞いてるんだけど」
「わかってるよ」
 ずきん、とこめかみに痛みが差し込まれて私は顔をしかめた。薄暗かった室内が急にあかるくなり、心臓が音を立てて鳴っている。震える指を隠すために私は両手を握った。今のも間違いだった。絶対に間違いだ。治人はどんな顔をするのだろうと私は手を握ったまま思った。彼の両手はまだ視界の中にある。私の携帯電話を握り、じっとしている。人差し指の爪の際にさかむけができている。痣のない骨ばった手だ。どうする、と私は思う。彼はどうする? 怒って携帯電話を壁に投げつける? 壊す? それとも放り出して――
「ごめん」
 勝手に口が謝っている。でも違う、と私は思った。こんなのは健全じゃない。治人の言うことのほうが正しいはずだ。母はおかしい。どんどん変になっている。言ってることもおかしいし、ありもしないことをでっち上げている。言葉を曲解して、それを理由に怒鳴って、怒鳴っていることに興奮してさらに怒る。けれども、同時に私は治人が間違っているとも思う。私は家に帰らなければならない。そうすれば全部丸く収まる。一時的な嵐は頭をさげて耐え忍べばいい。いつか、多分、きっと、時々は、母だってまともになるはずだ。だからその時まで頑張れば――
 私は顔をあげ、そっと治人の顔を伺う。
 治人は唇を噛んで目尻をつりあげている。俺、と彼は息を吸った。葉ちゃんと一緒に行く。やめないと通報するって言う。こんなの。絶対におかしい。
 そして私についてきた彼は私をかばい、激昂した母に刺されたのだった。

 

   4

 

コーヒーは入れ直そう、と私は思った。すっかりさめてしまったし、それに休憩がほしい。このまま仕事を続行してもユーザに迷惑をかけるだけだ。
 でも、動けなかった。頭が締め付けられるように痛むし、背中もこわばっている。
 こめかみをもんでヘッドセットを外す。離席にチェックを入れ、私は椅子にもたれかかった。白い作業デスクの上のメモ用紙には、悶え苦しむ蛇のようなボールペンの線だけがある。たった五分の通話だったのに、今日の残りの仕事はできる気がしない。
 また、だ。
 いや、「まだ」と言ったほうがいいのだろうか。
 まだ、ヨウさんは夢を見ていない。だというのに諦めずに連絡がある。次はどうしましょうか。なんだか実験みたいですね。そのパターンはもうやりましたよ。あとなにがあります? 最近区のジムに行ってるんで、そっちの方向のパターンをためそうかなとおもいます。だとしたら――
 大磯さんの声が思い出される。そりゃ相手はユーザさんですからね、だめです、あなたのサポートはできませんなんて言えないですけど。どうしたらわかってもらえますかねぇ。別にクレーマーでもないし悪い人でもないんでしょうけど、だから困るんですよね。しかも追加で調整剤買っちゃったみたいだし。ま、でもあと一週間で無料サポート期間が終わるんで、間宮さんが取らなくてすむように協力しますよ。うまくいってないのにサポート延長はしないでしょう、たぶん。
 ありがたいと顔を覆って私は思った。ヨウさんと話したのは一週間ぶりだったが、もし毎日だったらとっくに体に変調をきたしていたに違いない。彼女はかわらず穏やかで、攻撃的な素振りは少しもない。ずっと前向きで――そこが理解不能なのだ。不気味で怖い。話していてもどこかに地雷があるのではないかとビクビクしてしまう。ついさっきも彼女は言っていた。一ヶ月経ってもうまくいかないってこと、あんまりないって前に言ってましたよね。つまり私は変ってことですか? 異常ってことですよね。だったら他の人と同じアプローチじゃだめなんじゃないですか? 私、そういうことをずっと言ってるんですけど。
 口調が柔らかいのでその場では流してしまうのだが、あとで思い出すとかなり表現がきつい。しかも誘導尋問的だ。だから通話を終えたあとはどっと疲れ、興奮状態になってしまう。なまくらの剣でひたすら殴打されているような気分だ。
 怖い。彼女からの連絡が怖い。
 あと一週間だ、と私は自分に言い聞かせ、私はまたこめかみをもんだ。立ち上がるにはもう少し時間がかかりそうだ。

 

知らない老婆が私の背中をさすっている。鼻の奥に染み込む不快な体臭をはなつ老婆は、かわいそうに、かわいそうにねぇ、と繰り返している。手が血だらけだよ、かわいそうに。あんたも怪我したの? あたしはね、膝が痛くてねぇ。でもここの先生、全然聞いてくれないの。ああ、かわいそうにねぇ。泣いちゃって、かわいそうだよ。
 まただ、と思う。
 いや、「まだ」と言ったほうがいいのかもしれない。
 私はまだ、あの夜の中にいる。夢の中の病院に腰を下ろしている。ロビーは電気が落とされ、いくつかのスポット照明がライトピンクの待合椅子の上に光を放っている。リノリウムの床に反射するのは非常口の緑色のランプだけで、ベンチに座っているのは私と、その知らない老婆だけだ。足をひねっちゃったのよ、と老婆はいつの間にか自分の話をしている。でも真っすぐ伸ばしてたらそんなに痛くないの。先生はそれくらい我慢しなさいって、ひどいのよ。ああ、かわいそうに、痛かったら横になればいいんだからね。
 母が刃物を出したのは脅しでしかなかった。人を殺すような度胸のあるひとではない。それが幸いしたのか、私をかばってさされた治人の傷もそれほど深くなく、臓器は傷がついていないらしかった。テレビドラマのようにVネックのユニフォームを身に着け、白衣を羽織った中年の医者がそんなふうに言った。ご家族の方ですか? 念のため今晩は入院してもらいますけど、明日には退院できますよ。不幸中の幸いでしたね。警察にはどう――弁護士を通してください。
 はっとして私は顔をあげた。いつのまにか医者の顔がかわっている。シルバーグレーの髪の毛をオールバックにした初老の男性が私を見下ろしている。目がいやにぎらぎらして、薄い唇は斜めになっている。厚ぼったいまぶたからはえる逆さまつげと少し突き出た頬骨の様子が治人に酷似していなければ、きっと誰なのか見当もつかなかったはずだ。
 彼は無機質な口調で私に告げる。息子に近づかないでいただきたい。彼の後ろで治人は唇を噛み、黙している。
 手が。
 手が、私を拒絶する。私をはじき出し、外へ追いやろうとする。中山だか中口だか知らないけど追い出してやった、ろくでもないやつだな、挨拶もまともにできないくせに示談は立派に求めてきやがって。私の手のひらに冷たい病室の扉が振れている。私は呼吸をしている。吸って、吐いて、吸って、吐いて、その間隔はどんどん短くなる。ほんとうにまともなやつじゃない、ブスでぬぼっとしてて、あんなのどこがよかったんだ? そういって嘲笑する声がある。よっぽどあっちが、と男が言ったとき、ようやく治人は震える声で葉ちゃんは、といった。でもその後の言葉は出てこない。大人の声がいう。中口だろ。誰だよ、それ。葉ちゃんは、とまた治人が言う。くるしそうだ。苦しいのは彼のはずなのに、私までぎゅっとつかまれたようにみぞおちのあたりが痛くなった。壁を一枚隔て、私はその声に耳をそばだてている。彼らの声はどんどん遠ざかる。治人の声はもうほとんど聞こえない。
 彼はあまり語りたがらなかったが、父親が強い家庭に育ったということは白状した。暴力はなかったけど、口が悪くて気分屋で、母親になにかと文句をつけて、俺にも言わせるんだ。もっと言え、もっと悪いところがあるだろって。できてないこと見つけて報告したら褒められるから――言いにくそうに視線をそらして、彼はそれ以上語らなかった。
 想像はできる。私の母もよく家族の中に標的を作った。標的に指定されるのはたいてい私か父だ。標的は他の家族からも批判される。良くないところを母の前で本人に向かって言わねばならない。口ごもったら平手打ちが一発。黙ってしまったらもう一発。心がこもってないとさらに一発。そういうときはこんな家族でお母さんはかわいそうと間髪おかずにいうのが一番賢いやり方だ。でもいつも同じセリフでは見透かされる。父は私よりずっと賢い。もっともらしい顔をしてみんなの話を聞き、だめじゃないかと言うのが得意だった。悪い子にはお仕置きだな。そして私を叩く。
 ずるい、と子供の私は思った。お父さんはずるい。大人だから、お父さんだから、だからなにも言わなくていいんだ。叩かれないんだ。ずるい。いつもお母さんに怒られてるくせに、自分の番じゃないときは一番偉いみたいな顔して、ずるい。お父さんはずるい。お姉ちゃんはずるい。お姉ちゃんだからって何でも許されて、ずるい。治人だってそうだ。ずるい。勝手についてきて、勝手に刺されて、私のことを守ってくれなかったくせに、幸せになってほしいなんて。いまさらそんなの。ずるいよ。
 でも、一番ずるいのはお母さんだ。
 またあの老婆が私の背中をなでている。かわいそうにねぇ、かわいそうに。こんなに泣いちゃって。誰か来てあげればいいのに、ああ、かわいそうに。
 苦しい。息が詰まって苦しい。首を絞められているときと同じだ。世界が遠のいて、やけに光が眩しくて、写真の背景にあるみたいに丸い光の玉が浮かんでいる。もうダメかもしれないと私は思う。私の頭は仕方がないという。ダメかもしれない、受け入れるしかない、じっとしていたほうが生きている確率は高いという。けれども私の体は違う。瞳孔は開き、あらゆる光を受容する。首に食い込むものに爪をたて、私は歯を食いしばる。死にたくない。このままでは死んでしまう。その思いが私の頭から乖離して私を突き動かすのだ。腕を振り上げさせるのだ。
 体の中を息が通っている。私は息を切らしている。腕をふりあげ、体に引き寄せると硬い感触がある。肘までじんじんとしびれる反発がある。私は息を切らせ、また腕を振り下ろす。叫び声をあげ、半狂乱になって何度も、何度も拳を打ち据える。私の拳の下でうずくまる影が助けを求めている。やめて、もうやめて、俺が悪かったから、もうなにも言わないから、それじゃあいつと同じだよ。やめて、葉ちゃん――
 私は怒鳴った。お母さんのこと、あいつなんて言わないで! 気に入らない人のことをそういうふうに呼ばせるの、あなたのお父さんがやったことでしょう!
 ガツン! と夢にヒビが入る。それでもまた、私は腕を振り上げる。

 

うちのはね、と大磯さんは、太く短い指で缶コーヒーのプルタブを押しあげた。こんなことはありえない、覚醒してるんじゃないですか? 本当にねむってるのかな、と早口で言っていたさっきまでとはうって変わって、いつもどおりの落ちついた声だ。
 レム中って副交感神経しか制御してないんです。交感神経の方に働きかけるのはノンレムからレムにスイッチするときと覚醒のときだけで、そのあたりはその人のパターンを覚えてやってるんです。いずれにせよ交感神経に働きかけるのは、少なくとも一度ノンレム睡眠に入ったあとで、心拍数と呼吸数がすごく減っているはずなんです。しかも副交感神経系の方に比べてすごくゆっくり活性化させるので、覚醒状態に近い睡眠にはならないんですよ。一応制御エンジンチームのほうに確認しないとわかんないですけど、調整剤をマックスまで使ってもこんなふうにはなるかどうか。もしかしてマックス以上飲んでるのかもしれませんね。
「毎日調整剤を飲んでるせいってことはないですよね……?」
「ないはず、ですけど……規定量を飲んでるにもかかわらずこうなったということなら、他の人にも影響が出るかもしれないので、すぐに対策を考えないと。でもそうだったとしても、そうじゃなかったとしてもとにかく間宮さんのせいではまったくないので、気に病まないでください」
 私は気をもむ。ヨウさんのことを恐ろしく感じられるのは確かだ。でも同時に私は彼女にいい夢を見てほしいとも思っていた。厄介なユーザがおとなしくなるにはそれが一番だ、という意味ではない。いや、いっそいい夢でなくてもいい、彼女にこれ以上苦しまないでほしい。不思議と私はそんなふうに思うようになっている。
 いい夢をみるより良い睡眠を目指しましょうと私が言ったときの沈黙が、奇妙に寂しそうな同意の声が今も思い出される。どうして、と私は思う。どうして彼女は眠れないんだろう。本人はその理由をわかっているフシがある。けれども私に話してはくれない。一人で抱えて、だれにも苦しみの一端を分け与えないでいる。だからこんな歪んだ形でそれが表出しているのではないか。私はヨウさんの声しかしらない。整形されたデータ上での睡眠リズムしかしらない。けれども、たったそれだけでも、彼女に大きな問題があることはわかる。彼女がなにかを抱え、苦しんでいることはわかるのだ。
 大磯さん、と私は言った。あんまり彼女を責めないでくださいね。本人だって不可抗力でしょうから。大磯さんは笑って、僕がそんなことすると思います? とお腹をたたいた。In:Dreamのテディベアを信じてください。大丈夫ですよ。

 

疲れている気がして昼下がりにベッドに潜り込んだのが最大の悪手だったのかもしれない。飛び起きると喉がカラカラだった。Tシャツは汗でじっとりと湿り、手のひらで顔を撫でると毛穴から浮き上がった脂がぼろぼろと剥がれ落ちる。ああ、と私は習慣的に耳に手をやって思った。熱が出てる。だから悪夢を見たんだ。
 ベッドから出て床に足をつけるとがくんと膝の力が抜けた。頭痛はなく、体の怠さもない。むしろどこかに飛んでいってしまいそうなくらい体が軽い。息切れがして、ただ、とにかく不快だった。カーペットの上に沈み込んだ自分の両手をまじまじと観察する。血はもちろんついておらず、あざもない。少し肉がついてむくみ、キメは粗い。二十歳から十年分年をとった手だ。皺が多いのは昔からだが、三十になって急に肌のハリがなくなった。私は泣くことしかできなかった少女ではなく、それなりの成功体験成果を積み上げた大人になっている。
 冷蔵庫まで這っていって、飲み残していた炭酸水を口にすると少し夢が遠のいたようだ。よかった、と私は冷蔵庫の扉に額を押し付けて息を吐いた。まだ動悸はおさまらない。体の中を冷たい水が通っている。
 Tシャツを脱ぎ捨て、干しっぱなしの洗濯物を引っ張って新しいTシャツに着替える。脱いだTシャツを洗濯機に放り込みに行くついでに洗面所で顔を洗う。鏡の中の私は真っ白な顔をしている。むくんだ顔の上には昔できた傷が点々とシミになって浮いており、目がいつもの半分くらいの大きさになっているせいでいつもより老けて見える。シミを見るたびに私はあの頃のことを思い出す。いまやあの頃のことを覚えているのは私だけだ。だからあれを幻だった、自分の認識が歪んでいるだけだと言ってしまうこともできるはずだ。でも傷跡はシミになって私の現実を突きつける。だんだん濃くなって、もうコンシーラでは隠せない。毎日、毎朝、鏡を見るたびに過去と対峙させられる。こんな気持を誰もわかってくれない。
 前髪から垂れ落ちる水が手の甲に当たっている。私は鏡を睨む。睨みつける。目のキワ、頬、額、口元。キメのあらいあれた肌、そしてシミのある場所を睨みつける。
 どうして今まで腹を立てずに来たのかがわからない。みんなずるい。ずるいじゃないか。特権的な場所にいた姉、自分の番じゃないときは嬉々として母の側に立つ父、怪我を見なかったふりをする教師、逃げ出したくせに幸せになってほしいという治人、みんなずるい。でも一番ずるいのはお母さんだ。どう考えたってお母さんだ。都合の悪いことは全部忘れ、忘れた分は姉のエピソードを埋め込んでいる。母にとってのは私は、あいかわらず気に入らない子供で、暴力を振るう代わりに完全に記憶から抹消することにしたらしい。昔から、そして今も母は自分に非があるとは考えない。薬のおかげで苛立ちがおさまってそれで幸せになって、いいお母さんになったつもりになっている。葉子は毒親ってしってる? 最近図書館で本を見つけたんだけど、ひどい親もいるもんだねぇ。まぁでも子供のわがままもありそうだし、アメリカの話を日本に持ってこられてもね。母の口からその言葉を聞いて、私はなにも言えなくなった。母はなにもわかっていない。これからもきっと理解することはないだろう。
 示談の条件として治療を受けることが決まったあと、父は私にいった。最近はずいぶん葉子につらくあたってたけど、全部病気だったんだな。お母さんはかわいそうなんだよ。だから許してあげなさい。な。私は助手席でそっぽを向いて、窓を流れ落ちる雨を眺めていた。
 そんなの。
 あのときも、私はそれ以上の言葉を思いつけなかった。でも今やっと言葉が出てきた。
 そんなの、ずるい。
 白眼が血走っている。血管も見えないほど充血している。洗面台の上から落ちてくる光がまつげの影を作り、まぶたの縁に涙がたまっているように見える。頭は不安定に揺れ、そのたびに前髪からしずくが滴り落ちる。鏡の中の私が私を睨んでいる。
 母は病気で、でも病識がなくて、薬を飲んだら頭がおかしくなると信じていた。高坂弁護士から説教されて毒づき、医者のことはヤブだと誹り、それで当時はまだ珍しかった自動インジケータを使ったアセチルコリン受容体活性化治療でようやく穏やかになって、私は頭を下げて回る必要がなくなった。それがどうして喜ばしいことではないのか。
 私は怯えなくて良くなった。怪我をしなくても良くなった。楽しいことを考えても、遊びに行っても、それを非難する人はいなくなった。だから自由になったはずだった。母が過去の出来事を改ざんしていたとしても、実害がないのならどうだっていい。元に戻ってしまう可能性が少しでも低くなるなら、むしろ姉と混合しておいてくれたほうがいい。けれども私の細胞はそう思っていないらしかった。心の奥底では納得していないらしかった。ずるい。許せない。私はまだまともじゃないのに。まだ怖いのに。私の人生を滅茶苦茶にしたのに。私はまだ眠れないのに。まだ夢を見れないのに。まだ。まだ。まだ。たくさん謝ってほしいことがあるのに。なのに。
 体の中が熱い。鼻をすする。体は熱いのに、頬は冷えている。鏡の中私はあいかわらず紙のように白く、まぶたの中に収まりきらなかった涙が頬をかすりもせず洗面台の上に落ちる。
 熱が出ているせいだ。だから悪夢を見たのだと頭が言う。腹が立っているような気がするのも、体が熱いのも全部熱のせいだ。薬を飲んで寝たら、朝には忘れてしまうだろう。しかし、体はそれに反抗する。熱くらいなんだ。In:Dreamの制御のせいだ。あの装置のせいで私は奇妙な夢を見た。あるいは治人の結婚報告のせいだ。彼を思い出したせいで、蓋をしていた過去が蘇ってしまった。そもそもはみんながずるいせいだ。私に謝らないからだ。謝れ。私にばっかり。サポートの女性だってそうだ。オブラートにくるんで体調のせいだとか、気がかりなことがあると夢に出やすいとか、まずは睡眠サイクルを整えることからだとか、とにかく私はじゃないってことを繰り返していた。だったら、と私は背中をまげて息をする。もっとまともじゃなくなってやる。みんな死んでしまえばいいんだ。私の前から消して――私が消えてしまえば――
 死にたい。
「死にたくない」
 頭の中に溜め込んでいた「死にたい」があふれる。でも鏡の中私が発したのは「死にたくない」だった。私の体は死にたがっていなかった。死にかけたことのある体はその恐怖を忘れていないのだった。足は動いて鏡の前から逃げようとする。頭をおいて逃避しようとする。足を踏み出すたびに床がへこむ錯覚をするが、私は背中をまるめてふらふらとベッドのそばへ戻った。
 ベッドサイドに茶色の小瓶がぼんやりと光っている。カーテンの隙間から控えめに入ってくる光は夕方の色を残し、ベッドサイドを照らしている。寝なければ、と私は思った。頭も体も同じことを思った。寝なければ。衝動にまかせて飛び出していかないように耐えなければならない。そのための一番有効な手段は横になり、目をつぶる事、すなわち眠りだ。私は机の上に放り出したままの調整剤を手に取り、キャップにあふれるほど中身を注いだ。まずは一杯。頭がまた死にたいを取りこぼす。もう一杯。今度は体が死にたくないと泣く。一日一回の服用量のことは覚えていたが、私の手はとまらない。手が震え、キャップを取り落としそうになるが、つづけざまに三杯を一息に喉の奥に流し込んで、私は咳き込んだ。胸がムカムカする。胃の入口あたりが膨張して息を飲み込んでもせり上がってくる。甘いはずのシロップが苦く感じられ、私は体を折って咳き込んだ。頭がぐらぐらする。でも、もう一杯、飲まなければ――もっとたくさん飲まなければ――
 ベッドサイドで赤いランプが点滅している。In:Dreamのデバイスの向こうで誰かが待っている。そんなことはどうだっていいのに――

 

不機嫌な声でヨウさんはなんですか、と言った。いつもよりさらに小さい声だ。ちょっと風邪を引いたみたいで、もう寝ようと思っているんです。大磯さんにとってこの言葉は予想外だったのか、詫びは早口になった。申しわけありません。こちらに送られてきたデータがかなり乱れていたので心配になってしまって、えっと、体調は大丈夫ですか? もし必要でしたら、救急車も――
 後ろで会話を聞いていた私は、大磯さんの椅子を軽くノックした。さすがに慌てすぎだ。ヨウさんはしぼりだすように笑い声をもらし、熱があるだけですからご心配なくとそっけなく応答した。
 低い平板な声、投げやりなため息。私、もう寝ますから。すみません。本当に辛くて、私、なにか変なこと言ってますかね、言ってたらすみません。ろれつは怪しく、声はとぎれとぎれだ。
「とにかく」
 息を吸う音がする。その音に私はいつのまにか息を止めていたことに気づく。ヘッドフォンに手をあて、大磯さんは小首をかしげている。彼女が最後まで言葉を吐き出すのを待っている。
 一秒、二秒、三秒――
 視線を横にずらした大磯さんはメモパッドにさらさらと「寝ちゃったのかな?」と書いた。私は首を横に振る。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。リストの中ではIn:Dreamがアクティブになり、データを受信している。ステータスは覚醒にあるが、睡眠制御はすでに始まっている。
「とにかく」
 ヨウさんの声は突然響き渡った。先程までとは違い、固く、なにか確信めいた芯が感じられる声だった。突然のことに私はおもわず両手で口をおさえ、大磯さんも珍しく目を丸くした。
「謝ってください! なんで起こすんですか、寝ようと思ってたのに!」
 きょときょとと黒目を動かした大磯さんだったが、反応は早かった。丁寧な口調で詫び、デバイスを外してゆっくりお休みくださいという。お大事になさってください。本当に申しわけありませんでした。
「お大事に?」
 ヨウさんはケタケタと不自然な声を立てて笑っている。ヒステリックなほど大きく、高い笑い声だ。私と大磯さんが顔を見合わせると同時にその声はぷつりと途切れ、また不気味な沈黙がはじまる。私は息を止め、指を折って数を数えた。一、二、三……十、十一、十二……九十八、九十九、百――
 大磯さんがそっとマイクをオフにする。
 一覧の先頭はデータ受信を知らせるマーク。その隣には識別名。はじめてのユーザの場合は八桁の英数字が自動的に生成されて表示されるが、二回目以降のユーザは名前が表示される。今、先頭にいるユーザの名前は「ヨウ」。ヨウさんだ。
「……外す前に寝ちゃったのかな」
 絞り出すように大磯さんが言ったが、私は答えられなかった。なにも答えられなかった。

 

   5

 

「線路脇に道がないこともあるからさ、たとえば上野から日暮里にかけてって内側の方は墓地でしょ、谷中墓地。で、反対側は鶯谷で、線路脇はちょっと歩けないかなって感じで。そういう時は大通り沿いに進んだり、線路から遠ざかって内側をショートカットするんだけど、きちんとルート決めとかないと道がわかんなくなっちゃうんだよね。地図見てたりキョロキョロしてたら職質されるし」
 泣き笑いの表情で治人は言った。地図を見て、ルートを決めて、それをたどるという単純な作業は失われて久しい。出発地点と到着地を決めれば、手のひらの中の誰かが全て教えてくれる世界に私達は生きている。だからこそあえて、自分でルートを決め、迷わないように歩くのが楽しいのだという。そんな話を私達は長くベンチに座って話していた。あまりにも長く座っていたせいで体の芯まで冷えてしまっても、私は立ち上がれなかった。
 今時珍しい紙の地図には色とりどりの付箋がはられていて、細かな字と蛍光ペンのマークが付いている。彼は私にそれを見せ、直近に行われた夜間散歩のコースをひとつひとつ丁寧に説明した。「道が細い、注意」「街灯なし」「通り抜け禁止の可能性有」「私道」「夜は門が閉まる」。
 私は付箋の走り書きを十分にまぶたの裏に焼き付け、彼の説明をひとつ残らず聞いた。それからあくまでも丁寧に、家が遠いし実家から通うことになっているので夜のイベントには参加できそうにないと伝えた。彼は頷いて、また状況が変わって気が向いたら連絡を下さいと言った。もしイベントに参加しなくても、ルート調査は昼間にしているから、それだけでも構わないよ、と付け加えるのも忘れなかった。連絡先を交換するための、いかにも回りくどい手段だ。私達は大真面目にその手順を踏んだ。
 瞼の裏で、あのときの付箋の文字が揺れている。足の裏に強い力がかかるたびに私の視界はゆれ、まぶたが上下する。視界がまぶたに遮られるたび、私の中のなにかは激怒して、ますます前かがみになる。闇の中から私を追い立てる声がする。闇を突き破って迫ってくる電車の轟音が聞こえる。背後から噛みつかれないように、私は無我夢中で走った。足を前に出せばぐんと身体は前に進み、腕を振れば空気が体の中に入ってくる。不安定に揺れる視界はずっと前をみていて、荒れたアスファルトが見えているのに、背後から迫ってくるのは電車の音だ。背後を振り返る暇さえないのに、わたしにはその音が電車だとわかる。
「道が細い、注意」
 左足に体重をかけ、体を振り回して急回転する。飛び込んだ細い路地は両脇に壁が迫り、蔦と思しき草がその壁を登っているところだ。足元には小石が散らばり、前方には街灯がぽつねんとたって先の路地を照らしている。背後からはまだ轟音が迫っている。早く、早くと私の身体は急かす。知らぬ間に両の手は地面を掴んで走っている。ぐん、と先程よりずっと早く身体は前に進むのに視界はゆれなくなっている。息を吐く、足を蹴り出す。息を吸う。地面を掴む。息を吐く、足を蹴り出す――
 ああ、と私は歓喜した。頭の中にぎっしりと詰まっていたブロックがボロボロとこぼれ落ち、歓喜の色がその空白を埋める。景色が動くたび、前方の闇の中に形が現れる。うっすらとした線が太くなり、固くなり、物体となって私の横を駆け抜けていく。光を順繰りに送る街灯の下には艶っぽく光る街路樹があり、舗装の状態もばらばらなアスファルトがあり、車道と歩道の境目はあったりなかったりする。軽々と坂道を駆け上り、道を塞ぐ障害物や壁を飛び越え、私は走っている。追いかけてくる電車の音はもうない。もちろん、闇の中に突如響くモンスターの足音も、静かに途切れることなく聞こえる怒気を孕んだ声もない。雨上がりの空気は湿り、鼻先は凍っている。けれども吐き出す息は熱く、手足を動かすほどに固くなっていた関節に火が入る錯覚をした。気持ちがいい。体と自分がピタリと合っているような感覚がある。こんなふうに体を動かすのが気持ちいいなんて思ったことは今までなかった。もっと、ずっと走っていたい。ずっと遠くまで――
 しかし私の思いを遮るようにわっと闇が大きくなって私の前に立ちふさがった。
 闇の質量が増している。足がずぶりと柔らかいものに沈み込んで、私はカッとなった。喉が震え、獣のような唸り声が闇をぶるぶると震わせる。けれども、闇はますます大きくなって私を押しつぶそうとする。体を押し、私の意思とは無関係なところへ運んでいこうとする。抗えない。力。まるで満員電車の中にいるときのように自分の意思では体を動かせない。押しても引いても手応えはなく、なのに抵抗できない。出してよ、と私は吠えた。邪魔しないで、離して、離してよ、どうしていつも邪魔するの! けれども闇は私を圧迫する。骨をすりつぶし、体を平たくしようとする。体がぎしぎしと音をたてて砕けたとき、私は悲鳴をあげた。

 

インスタントコーヒー、昨日挽いたコーヒー、近所の保存食専門店で買った外国のココア、誰かが旅行のお土産で買ってきた北欧のコーヒー、有名ブランドの紅茶、真紅のパッケージは中国茶。カフェスペースに並んでいるパッケージを何度も繰り返し眺めて、私はまた天井を仰いだ。
 帰る気分になれない。でも定時はすぎている。大磯さんは帰ったほうがいいという。モニタリングはずっとしているし、なにかあったら救急に連絡が飛ぶようになってるから安心してください。念のため割り込み処理ができないか開発に確認してみます。土曜だけどまだ夕方だからみんな対応できるはず、大丈夫です。
 だというのに私は観葉植物の間でうろうろとして、時々わけもなく泣きそうになっている。
 これは仕事だ。パーソナルな部分に踏み込まなければならないから、だから余計にユーザ個人には踏み込まないようにしてきたはずだ。よく眠ってくれればそれでいいし、手がかからないほうがいいユーザで、できれば時々使用して、時々チャットボットと話してくれる程度でいい。ヨウさんはその対極にあり、面倒なひとだと思っていた。扱いにくい。ちょっと怖い。どうして返品してくれないんだろう、合う合わないは絶対にあるんだから諦めればいいのに。そう思っていた。
 金切り声に近い「謝ってください」の声。思い出すだけでぞっとする。彼女は絶対におかしくなっている。それがIn:Dreamのせいでないとどうして言えるのだろう。
 ガラス壁の向こうではサポートにせいを出す同僚の姿がある。去年改装したばかりの社内は明るく、ガラス壁で区切られているので見通しはいいが声は通らない。でも同じ部屋にいればやり取りは聞こえる。カフェスペースでうろうろしていれば、当然彼らの目にも入る。
 だめだ、と思う。帰らなければ。情緒不安定になるのは家に帰ってからだ。今日は夫も休みで家にいるはずだし、洗いざらいぶちまけてこのまま働くのは無理かもしれないと言おう。私のせいで。もしかしたら私のせいで、彼女は――
「間宮さん、大磯さんが呼んでますよ」
 カフェスペースの扉を少し開けて、二ヶ月前に入ったばかりの同僚が私の方を手招きしている。思わず前髪を引っ張って、私はすみません、と反射的に言った。背中を伸ばしてガラス壁の向こうをみやると、サポートルームの中で大磯さんが短い腕をぶんぶんと振っている。
「救急……?」
「え? あー、えっと、いや? 笑ってましたよ」
 私が通れるように扉を押さえて肩を引き、彼は少し口をとがらせた。サポート中も「えっと」を連発して焦るところがある彼だが、そんな不器用さを好ましく思うユーザは少なくないようでアンケートでは常に高評価を獲得している。たしかに少し気の抜けた彼の声の調子に、張り詰めていた気持ちが少し楽になった。私は礼を言ってサポートルームに走った。
「彼女」私が椅子に収まる前に大磯さんはこそこそと言った。「ノンレム睡眠に入りました」
 彼の指がモニタを指している。見慣れた睡眠深度の時系列グラフが彼の指の先にある。一番上の赤い線は覚醒のしきい値、その下にある緑色の線はレム睡眠とノンレム睡眠のしきい値だ。線と線の間をカクカクと細かく振動しながら、彼女の眠りは旅している。赤い線に漸近したかと思うと急に頭の向きを変え、緑の線を突っ切って落ち、今は地面を這っている。かなり長い時間深い眠りに入っている。
 嫌な予感がする。まさか――
「……心拍が」黙っていた大磯さんが突然マウスを動かして生データを表示させた。四つ並んだグラフの一番上を指し、もう一度心拍が、という。
 心拍、呼吸数、体温、眼球運動の順に縦に並んだグラフは横軸が時間、縦軸は強度インテンシティだ。リアルタイム表示のチェックを外した大磯さんが時間を少し巻き戻し、見てくださいという。しかしそういわれなくても不可解なグラフであることが私にもわかった。
 In:Dreamで計測する心拍グラフには心房と心室の収縮それぞれのピークが現れる。できるだけ正確を期すために両側のデバイスでそれぞれ計測し、その結果から心拍グラフを描画し直している。しかし、今表示されているグラフにはピークがみえない。周期的な立ち上がりはみえるが、グラフの上側に線が張り付いて、平らになっている。
 しかし、少なくとも彼女の心臓は動いているらしい。ほっとして私は額に手をやった。
「心拍のインテンシティが飽和してサチってるんです。もしかしたら片方が外れてるのかも……」
「そうなると、どうなるんですか?」
「どういう挙動になるかは僕もわからないんですけど、数字を見ると通常はふたつでカウントされるはずの心拍を1としてカウントしてるみたいですね」
「つまり、すごく心拍が遅いって誤認してる……?」
 そうです、そうですとせわしなく大磯さんはうなずいて、すぐ下の呼吸のグラフも指した。こっちもおなじです。片方はちゃんと測定できてるけどもう片方の値が信用できないのでグラフがおかしくなってる。体温は高めなのでおいといて、眼球運動の方も外れている分が計測できないので、こっちはすごく小さく値が見積もられてます。
 私は口元に手をあててグラフを睨んだ。
 デバイスは彼女が深い眠りに落ちていると判定しているのだ。
「どれくらいこの状態なんですか?」
「少なくとも二時間くらい……なんですけど、ログを見ると交感神経を活発にする方の制御をしてるんです。だいたい――ええと、三十分前からかな」
「それ、まずいですよね。もっと心臓の動きを早くするってことですよね?」
「はい。僕もそう思っていよいよまずいなと思ってたんですけど、見てください、これが今の状態です」
 リアルタイムモニタリングにチェックを入れて、大磯さんはボールペンのお尻でことこととモニタを叩いた。横にスクロールした画面の中では、相変わらず奇妙な心拍グラフが表示されている。上は平らで、でも平らな頭の一部はへこんでいる。ふたつのピークが見える。心拍数は――約二秒で一回、およそ三十前後、覚醒時の半分だ。
 深い眠りに入っている。
 まばたきをして、私はもう一度グラフの横軸を確認した。指で数えてみるが、やはり心拍は二秒に一回、眼球運動も完全にフラットだ。
 大磯さんと視線が合う。寝てますよ、彼女と声をひそめて彼は言った。ぐっすりです。なにが起こったのかよくわからないですけど、制御に成功したんですよ。

 

息を吸って目がさめた――と思ったが、すぐにまだ夢の中にいることがわかった。木の生い茂る場所に私はうずくまっていた。ここがどこかはわからない。そう遠くないところに高速道路の高架が見えるし、街灯が隙間なく立って闇を追い払っている。多分都内だろうと思うも、場所に心当たりはなかった。
 私の頭上には木がたくましい枝を広げている。その枝の間をすり抜け、若葉を透かして街灯の光が降り注いでいる。立ち上がると、高架の少し手前にぽっかりと黒い穴が空いていた。会社か、公的な施設、大学、病院、公園、どれでもかまわない。とにかく、そこは夜の根城だ。私を拒んでいる。
 いつの間にか夢の中の東京も眠りについている。ひっきりなしに走っていた車は途絶え、オレンジ色の街灯が道を照らしている。時々タクシーや、エンジンをふかした配達ピザのバイクが通り過ぎていく以外、人っ子一人いない。東京は眠っている。いつだったか私が驚きを持って受け止めた夜が今日も、当たり前のように存在している。
 街灯の明かりが逃げ、闇が私の胸元に迫った。活路を求めて空を仰ぐと、星が出ていた。星明りが私の足元を照らしている。
 星明りを明るいと思うことなど、山奥の空気の澄んだところまでいかねばないのだと思っていた。でも私の足元にできているのはまさしく影だった。私は外を歩いている。空の色は黒というには少し薄く、まだ夜が明けていないというのにカラスはもうどこかで鳴いている。その体が闇とほとんど同じ色のせいで私からはどこにいるか認識することはできないが、たしかにそこには生き物がいて、かすかな光を享受しているのだった。
 混乱を混乱として頭の中にとどめたまま、私は空の色を確かめるために背をそらした。空気は晩秋のように冷え込み、私は両腕を抱いて白い息を吐いた。息を吐くたびに体の中の淀んだ空気が掃き清められていくような錯覚をした。うっすらと白み始めた東側の空は徐々に濃い色に変わり、まだ西側に残る夜に溶けている。深い藍色の空は弧を描き、靄のようにうっすらと筋雲が線を引いているのが見えていた。夜と昼の継ぎ目はどこにもなく、朝に追いつかれつつある星ぼしが姿を消そうとしている。夜明けが近づいているのだ。その光景はいかにも静かで、整然としたさまを保っていた。ただひたすらに美しかった。
 夜に満ちる光は闇と絡み合い、決して私の目を刺さない。優しく、慎ましく、豊かな夜の中に私を迎え入れてくれる。この夜の中に、恐ろしい足音を響かせるモンスターはいない。
 夢が。
 星明りが少しずつ迫ってくる。闇の天幕が降り、私を夜の中に招き入れようとする。世界の輪郭は闇の中に溶け、小さな、幾万もの星々の明かりがまぶたに溶ける。私は目をつぶり、その色に身を任せる。腕をだき、息を吐いて、力を抜く。夢が落ちてくる。頬をなで、まぶたを焼く峻烈な朝が来るまで私を――

 

   6

 

 地下鉄の窓ガラスに映る自分を見て、自由じゃないなと思った。なぜ急にそんなふうに思ったのかはわからない。ただ、自由じゃないなと思った。夢の中でもそんなに自由じゃなかった。結局東京を出られなかったし。
 子供の頃からこの感覚はかわらない。なにかをクリアしたとたん世界が一変するんじゃないかと思っていろいろ試してきたが、なにも変わらなかった。夢だってそうだ。うまく眠れない自分はまともじゃないから、だから自由になれないんだと思っていた。In:Dreamのおかげで確かに朝起きるのは少し楽になった。寝て疲れが取れるという感覚も理解した。けれども夢は銀の弾丸[ii]ではなかった。夢を見たところで私の中にある問題はまだ片付かないし、母と対峙する勇気もわかない。全然自由じゃない。がっかりだ。
 でも、そんなものかなとも思う。人生ってそういうものなのかもな。良い方向に劇的に変化するっていうドラマはほとんどない。悪い方には簡単に転がり落ちてしまうのに。
 そんな事を考えながら清澄白河駅の地下鉄のホームから改札階へあがると、雨の匂いがした。薄暗く感じられる地下道を抜けて地上に出ると、繁茂する木々が目に入った。雨は降っていない。地下に染み出す水の匂いが私に雨を錯覚させたのかもしれない。
 超高層ビルが林立するエリアから隅田川を挟んだだけなのに、清澄白河にはあまり高層の建物はないんだな、と私は思った。あまり降りたことのない駅だが、嫌いではない雰囲気だ。下町で、庭園があって、最近はおしゃれなカフェが増えて、じわじわと人気があがっているエリアらしい。深川めし、つくだに、紅茶専門店、おしゃれなパブ、トンボマークの看板はカフェだろうか? 入り口のせまい花屋、古本屋、本格的なパン屋と昔ながらのパン屋、シャッターが半分おりている肉屋からはコロッケをあげる匂いがする。いかにも下町な店と、お寺と、ディスプレイに趣向を凝らした小さな新しい店が境界もなく入り乱れていて飽きない。そぞろに眺めつつ歩いていると、あっというまに目的地にたどりついてしまった。
 三階建ての冴えない風貌の建てものだ。入り口の横には今時珍しい木札に会社名が焼き付けてある。
 (株)In:Dream。
 あの美しいデザインのデバイスを作っている会社とは思えないセンスに、ほんとうにここだろうかと地図をもう一度チェックして、私はおそるおそる引き戸を開けた。
 最初に目に入ったのは床だった。日に焼けて色あせた無垢の床板には黒い足跡がついている。入り口脇には観葉植物があり、視線を上げるとすぐに灰色の壁、そしてその前にぽつんと華奢な机がある。机の上にはタブレットがあって、担当者を呼ぶ仕組みになっているらしい。急にハイテクになったが、このほうが私には対応しやすい。
 タブレットを操作して担当者を呼び出してから、入って左側にあったミッドセンチュリー調のおしゃれなアームチェアに腰掛けてそわそわしていると、二階が騒がしくなった。やばい、渡辺先生まだいらしてないよ。とりあえず応接室にお通ししてお茶だけでも出さないと。私、まだコーヒー入れてるんで誰かお願いします。悪いけど大磯さん、ちょっと対応してくれる? こっちもまだ資料が印刷できてない。渡辺先生は紙じゃないとだめだから。
 ちょっと来るのが早かったかな、と私は携帯電話を確認して思った。五分前だから不調法ではないが、ちょっと遅れるくらいのほうがよかったかもしれない。
 バタバタとした足音が階段を降りてきて、奥から顔を出したので慌てて私は立ち上がった。ぺこり、とシルエットの大きな人物が頭をさげ、おまたせしてすみませんと汗をふきながら挨拶をする。大きな男性だ。人のよさはまったく隠せていないし、本人も隠す気はなさそうである。
 私は頭を下げ、道に迷わないようにって思って早めにきたんですけど、早すぎましたね、すみませんと詫びた。彼はますますペコペコと頭を下げた。
 一階は作業場なんです、作業機械とか在庫とかが置いてあって、いずれショールームにするとは言ってるんですけどなかなか手が足りなくて、と男性の言い訳じみた説明をうけつつ二階へ足を踏み入れると、建物の外観からは想像もつかない洗練されたデザインの内装がほどこされている。圧倒される暇もなく通された応接室もやはり隙がない。黒い壁のパーテーションには大きな内窓がついていて、それ以外の三面は壁一面のホワイトボード、机と椅子は北欧調だ。私は思わずため息をついた。なんかベンチャー企業みたい、とうっかり言うと、ベンチャーですからね、と男性は笑った。
 初めて夢を見た数日後、彼らは私にメールを寄越した。「ご愛用ありがとうございます」から始まるメールには、今までの私にどんな睡眠傾向があり、睡眠制御に成功した日になにがあったのかということが詳細なデータを交えて説明している。そして今後の製品開発に活かしたいので来社して詳しい話を聞かせてもらえないか、とあった。In:Dreamを監修した生体工学の教授もぜひ話を聞きたいと言う。
 謝礼ありの文字につられてうっかり引き受けてしまったが、よく考えればあの日、私は服用量を全く守らなかった。それに風邪を引いていて普段どおりではなかったはずだ。本当に私でいいのかと思い悩む悪い癖から抜け出せないまま今日が来て、ここまで来てしまった。そのことを思い出すと喉の奥に硬いものが引っかかっているような錯覚をする。
 大柄な男性は名刺を出し、大磯ですと自己紹介した。何度か対応させていただきましたけど、サポートエンジニアです。あと三人来る予定になっていて、中口さんのサポートを担当している間宮と、開発の中村、あと弊社製品の監修をしている渡辺先生も今日はいらっしゃる予定です。ちょっと遅れてるみたいで、すみません。私はあわてて頭をさげ名刺を受け取った。
 間もなく資料を携えて女性も来る。彼女が間宮さんだ。艶のある黒髪を前さがりのボブにしていて、よく似合っている。色白でタレ目で、体つきはほっそりとしているのに福々しい。その後にやってきた作業着姿の中年男性は中村さん。すぐにテキパキと説明を始めたがかなりの早口で、私が首をかしげるたびに大磯さんと間宮さんが彼を責める。早いですよ。僕にもわかるレベルで話してください。そうこうしているうちに、黒々とした髪の毛が印象的な初老の男性がやってくる。彼が渡辺先生だ。彼の持参したお菓子を食べ、近所の店で売っているというお茶とコーヒーを飲み、ホワイトボードやスライドを使った詳しい説明を受ける。
 私は正直に告白した。あの日、実はキャップ三杯か、もしかしたらもっと飲んだかもしれません。熱があったせいか夢が最悪で、自暴自棄になっちゃって。大磯さんは大丈夫ですよという。うちのは三倍くらいじゃ死んだりしませんから。それより甘すぎて気持ちが悪くなりませんでした? 飲みすぎないようにそういう味付けにしてるんです。私はほっとして手をあわせる。怒られちゃったらどうしようかと思って、今日ここに来るの怖かったんです。あはは。人々は和やかにわらい、私は良かったと安堵する。みんな優しい。ここは怖くないし、私は客人のつとめを果たした。
 それから丁寧なデータの説明がある。どうやら私が右耳用のクリップを握りしめたまま眠りに落ちてしまったのが、今回の事態を招いたらしい。In:Dreamは私が深い眠りについていると誤認した。一定時間が経ったのでレム睡眠へ移行させようとして交感神経を活発にする制御を行ったが、実際のところその時の私はレム睡眠の真っ最中だった。だというのにさらに交感神経の活性度レベルをあげようとする制御が働いたのである。
 これはあまりにも身体への負荷が高すぎる。私の脳は危機感を覚え、副交感神経を活性化させる物質を体内で大量に生成した。その結果、身体は自然に睡眠状態へ落ちていき、深い眠りへといざなわれたということらしい。
 説明は半分くらいしかわからなかったが、私は頭の中を整理しながらあれみたいですね、と言った。えっと、なんていうんでしたっけ、山火事を消すために火を逆方向から放つやつ。
 向かい火ですね、と私の隣に座っていた渡辺先生が答えた。彼は大学の教授だそうだ。産学連携の一環として大学の先生がベンチャー企業の相談役となったり、自分たちの研究を製品化してもらったりすることはよくあるから私は特に驚かなかった。彼はよく通る声でよくご存知ですね、オーストラリアの山火事を鎮火するときに使う手法ですね。古い話になりますけど、古事記にも焼津の由来として記されていますよね。昔の人達がどうやって思いついたのかわからないですけど、経験なんでしょうねぇ、今回みたいに。
 首を傾げていた大磯さんが、急に大きく首を縦にふった。その様子をみて中村さんはにやにやしている。渡辺先生はにこにこして全くその様子に気づいていないようだ。向かい火は英語でバックファイアっていうんですよ、とうきうきした声でまだ説明をしている。今回の事象がちゃんと立証されたら、バックファイアを名前の一部に取り入れたいんですよね。今のはスティミュラス法とかいってるんで、バックファイア法なんてどうかな。かっこいいでしょう。
 その声がどこか子供じみていて私は笑った。

 

   (了)

 

[i] LPWAN:Low Power Wide Area Networkの略。LPWA(Low Power Wide Area)は低電力消費で遠距離通信を行うIoT通信規格である。

[ii] 厄介ものを一撃で倒す魔法の比喩表現。狼男や悪魔を退治するのに使用するという信仰から来ているが、ソフトウェア工学では「万能な解決策は存在しない」という意味で使用する(『人月の神話』フレデリック・ブルックス)

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内容に関するアピール

梗概とコンセプトは同じですが、前回の講評をうけてSF要素を強めた方がいいかなと思ったのでバックファイア法が開発されるきっかけのほうに話をシフトしました。

一年間いろんな話を書いてきましたが、毎回、遠い星に向かってメッセージを送っているような感覚がありました。見える星や光っている星には狙いを定めやすい。でもここから見えない星にもきっと誰かがいて、もしかしたら物語を必要としているかもしれない。なので今回は見えない場所にむかって撃ちます。どっかにいつか届くといいなと思います。

文字数:236

課題提出者一覧