おもいでの聖地

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おもいでの聖地

その聖地については、渡し船の、船底近くの大部屋できいた。
 忘れられない人にあえるのだという。
 大きな湖を一晩かけて渡る木造船である。風のよわい季節ではあったが、ゆっくりと揺れ、外輪のうなりが、きしみとともに聞こえる。
 私は問うた。
「ほんものがあらわれるわけでもなし、夢にでも見るのでしょうか、よい思い出ならそれもいいでしょう、そうでもなければ、忘れて行った方がいいものはあるでしょう。」
「私にもわかりませんよ、若い人よ」
 老いた巡礼は、温和な声で声で答え、壮年にはいりつつある私は、若くもないのになと思いながらも黙って聴き続けた。
 外輪の回転から得られるわずかな電力で、藁の敷き詰められた大部屋が、かすかに照らされている。ところどころで話をする者もいるが、多くは、自前のシーツやケットにくるまって眠っている。
「とおりすぎたいろいろなものが、遠い景色のように思い出される中で、忘れられないものがあるのは、心の楽しみなのでしょうか、苦しみなのでしょうか。死んでしまえば自分ごとなくなってしまうのはひとつの救いでしょう。ひとつの思いから離れられないなら、あなたはあなたから逃れられません。生き続けるのであれば、そんな聖地に関心は持たないのでしょうね」
 あとから思えば、わけのわからない、いかにもよそよそしい答えであった。

早朝、多くのひとたちとともに私は下船し、その巡礼とも別れた。こうして、もう会うこともない人たちと、毎日のように別れ、私は旅に暮らす。
 もどる場所がないではない。その地域のおおきな寺院の、たくさんある宿坊の、その片隅に、寝泊まりするところは用意されている。滅多に帰らない。
 その寺院の系統にある、各地の小寺院の、とくに風弦の補修維持が私の仕事である。それ以外にもそれら小寺院の、ひごろの設備の維持管理も引き受けることになっていた。
 動物が入り込んで木の部分をかじったりすることもある。堂守があてにならないこともある。そういう小寺院を巡りそのまわりにたむろしては施しをうけて生きている行者も、気が向くと水をまいたり祭壇のほこりを払ってくれたりするのだが、なにもせずぼんやり空を眺めている方が多い。ちょっとしたことなら私のようなものがなんとかするのである。
 船を降りて、掘っ建てた物売りの屋台のならぶ中を通り、日干し煉瓦でつくった平屋を抜けて、すこし高いところにある小寺院にいく。この寺院はそれなりの規模があり、住み込む僧も何人かいた。
 木造3階建ての寺院から風弦の音が周りに響いていた。祈祷の時間である。
 物売りたちは、客の相手をしながらときどき見せつけるように、風弦の響きにむかって口の中で何かつぶやく。
 下船時感じたわずから冷気はいまはなく、陽の照らす小寺院の外で私は風弦の音をしばらく聞いていた。今入っても特にすることがないからである。
 風弦の音は唐突におわる。坂の下からのざわめきが耳についた。

風弦の手入れに時間はそれほど要らなかった。調子もいいようなので、そのほかに手入れのいるものはないのか僧と話をしながら、ふと私は、
「そういえば、船で、わすれられない人にあう聖地があるとききましたが」
 僧は、ほこりを払う生成りの長衣を握ったまま、私をまじまじとみた。
「行きたいのですか」
「そういうわけではないです」
 僧はすこし考えてから、
「あれは別の系統の寺院のものですが、縁遠くはないので、いきあうこともあるかもしれませんね。誰がいってもあえるというわけではないのと、会ったらそれでいいというわけにいかないことがあるのと、とにかく、ちょっと説明できない、説明のしようがないというのか」
 彼は、地名を口にした。
「バニアの寺院は、わが流派ですが、あなたいくことありますか」
 名前は知っていた。先代から引き継いだリストの、かなり下にある。つまり通う頻度は低くてもいいところで、私はまだ行ったことがなかった。大き目の寺院は何人もに割り当てられていて、ひとりあたりの頻度は低い。寺院によっては、私がいくことのないものもあるだろう。
「ひょっとしたらそのうち」
「あそこは、その、聖地とつながりがあるので、いけばもうちょっとわかりますよ」
「いやまあ、そこまでの関心は」
 まあそうでしょう、と、僧は祭壇の扉を閉じて、私に、あとはいつものようにと言い残して、出て行った。
 修理が終わると、確認のために、ハンドルを回して空気をため、レバーを操作し、基本的な和音を順番に鳴らしてみせる。ちゃんと鳴れば終了である。先代がやっていたお作法をそのままやっているだけで、その順番に理由はなかった。

何年か過ぎた。
 たまには、住処と呼べないようなところに戻り、道具の整備をしながら休む。
 一度でてしまうと、生成りの長衣のしたに腰履きを身につけ、背負子をかつぎ、一筆書きのように街道をわたって寺院を、何か月もかけて、まわるのである。
 町と町は、薪をたいてゆっくり走るバスでつながれている。
 かって、大地は飛行機や、高速列車という、長距離を大人数を載せて移動できる乗り物でつながれていた。それはみな知っている。
 しかし今の世界には、そこまでの余裕はない。都市のかぎられたところにいけば、いまだに、エネルギーをあつめてそれなりに高度な技術社会が残っているのも知っているのだが、一般にはそのほんのおこぼれがまわってくるばかりである。
 大量に生産しなければ、一般にものは普及せず、普及しないものは品質は一定せずしかも金がかかる。それらを支え続ける物資やエネルギーのバックアップは、ずいぶん前に枯渇してしまった。実際のものがなければ、知識にもありがたみはない。情報は力を失った。
 むかしの、目もくらむようにものやエネルギー、そして情報のあふれた社会は郷愁の対象としてしか存在しない。この世を実際にうごかすのは、せいぜい町工場でほとんど手動の器械を用いてつくれるものばかりになってしまったのである。
 寺のものにしても、そのむかしであれば、共通の規格通りのものがそろい、調子が悪くなれば注文して、どこかに大量に備蓄したところから届くものを交換すればよかったのだろう。そんな時代であれば、私はこうやって出て回るのではなく、どこかでじっと仕事して、遠いところからの注文を聞いては対応し、もしくはそういうことのできる工房で多くの仲間と過ごすこともあったのかもしれない。
 自分にありもしなかった過去のことを、私はなかば羨望のように思い浮かべることがあった。
 もともと私は、風弦職人である先代のところに、10歳すぎたころにもらわれてきて、そのあとを継いだ。先代はすでに高齢であった。
 じぶんの土地を持ちながら、風弦職人として受け持ちをまわるものもいなくはないが、とても珍しい。土地を持った寡婦のところに入り込むならともかく、滅多に帰らない職人を待って、物売りなどして家を守る相方が見つかることなど、まず、ない。家を守るなら、ずっと家にいる相手をさがすに決まっている。
 羽振りのいい寺院などでは、手入れした後の喜捨がそのまま回ってくる決まりもある。ただ、それを持ち歩くと狙われるから、系列の寺社共通の金札にかえてしまう。私以外のものには使えず、あまり便利な生活ではないが、一人で暮らすには困らないし、後継ぎをもらって、いろいろ仕込みながら育てるくらいは問題ない。
 金のない家の子供を、私もそのうち探すことになるだろう。
 先代は、それでも、熱心な人ではあった。
 寺院によりいろいろな伝承もあれば、そこにしかない書物もある。儀礼の詳細まで、寺院を回るたびに、すこしづつ調べるのである。風弦や調度の手入れのあいまにそれを行う姿はいかにも楽しそうだった。
 成人した私に仕事を引き継いだ後、ある程度貯め込んだ金札をかかえて、先代がどうなったのか私にはわからない。
 私も、習慣のようにそういうものを調べることもあるが、先代ほど熱心ではない。
 何を知っても、何を覚えても、私にとってはそこで終わりでしかない。先代のように、いろいろ積み重ねて、その知識の中で遊ぶすべを、私はもっていないことに、ある時気づいてしまったのだった。

旅のあいだ、宿は、寺院が用意してくれる。
 ひともいない小寺院であれば、せまい尖塔の隅で夜を明かすこともある。
 大きい寺院であると、そばに宿坊をもつこともあるし、ことによると、さらにその外の宿に回されることもあった。
 寺院にはひとが集まる。枯れたような巡礼ばかりではない。景勝地にあるところは、講をつくり物見遊山をかねてやってきて、数日拝んで過ごし、最後に大騒ぎして帰っていく。
 そういう場所には当然酌婦もいて、夜には男たちの相手をする。酌によばれてそのまま自分の部屋に男をつれてくるものもいる。あぶれたら、表に出て、ものほしげな男に声をかけて、宿に引き込む。
 私が手入れに行く場合には、その寺院に講のあつまる季節は当然避けるから、私が宿に回されるときは、酌婦たちの客もなかなか見当たらない閑散期が多いのである。
 それでも、木を塗り込めたモルタルの平屋だと、天井を超えて、どこかの部屋から、そういう声が聞こえることに、たまに閉口する。相手もいないのにそういう気分になると困るからだ。
 暇な酌婦の話し相手をさせられることも、たまにあった。多くは、年配の酌婦である。さらに、酌婦によっては、そのまま体の相手をしてくれることもある。話し相手のお礼というやつなのだろうとその都度思った。
 すこしづつ異なるいろいろな地方について語ると、彼女らは、そんなに違うんだね、もしくは、どこでも同じだね、といいながら、聞いてくれるのが常だった。彼女らにとって、客や私のようなものから、遠いところの話をきくのは、娯楽のようであった。
 彼女たちがそこに居る事情は、ひとそれぞれでもあり、似ているようでもあった。皆がみなそれを語るわけではないにしても、それに相槌をうつのが常であった。
 なかには、私が寝てしまっているのにも気づかず、耳元で、自分や、自分の家族におこったことを、つぶやき続ける酌婦もいる。
 女たちは、皆がそこに縛り付けられているわけではなかった。売られてきたとしか言いようのない女たちもいたが、たいがいは、金のない家から、出稼ぎにくるのである。寺院の暇な時期は、そのあたりの農繁期でもあって、畑をつくる手伝いに帰る女たちも多い。残された女たちは、少ない客を奪い合う。
 あるとき、客をひっかける立ち飲み小屋で、夜遅くなっても客がつかないまま泥酔するまで酒を飲んだ挙句、部屋を間違えた酌婦が、私の寝床にそのままのたくり込んできたことがあった。
 意識もなくなっている。吐かれたり、ことによると息が止まったりされてはこまるので、こういうときには、無防備な酌婦相手でも全く何かする気にならない。あかりがかなり暗くて、顔色もあまりわからないのである。
 寝床に潜り込んで、しばらく口の中でなにかつぶやいているのが聞こえた。静かになったので覗き込みに行くと、ふと体を起こした。私は、
「部屋に戻らないか」
 声をかけると、しばらくその言葉の意味を考えているようだったが、そこからこちらに向かい、なぜそんなことをいうのか、と詰り始めた。
 私の知らないことも詰り始め、履きっぱなしだったサンダルを脱いで、私に投げた。
 もうひとつのサンダルが飛んでくる前に部屋の外に逃げて、戸のところに年配の酌婦がいることに、その時気づいた。彼女は、
「あんた、すまないねえ、自分が酒飲んじゃ仕事になんないのに、ああなってしまっちゃ」
 私は応えて、
「もうちょっと待ったら、また寝込むんじゃないかね」
「ずいぶん遅くなってしまったし、あんたはまた明日お堂に仕事に行くんだろ、あの子の部屋で寝ちまいな」
 あまり気が進まなかったが、
「きのうは天気もよかったからね、マットもケットもさらしたばかりで、どうせ客を連れ込む気だったんだ、あんたくらいが寝たってかまいやしないだろうさ」
 自分が彼女のことは気をかけておいてやる、というので、道具を入れた背負子をもって、年配の酌婦の言うままに、酔いつぶれた酌婦の部屋に入り込んだ。
私が追い出された部屋とつくりはそうかわらない。奥に伸びた長方形の部屋で、ふたりがぎりぎり横になれる程度の脚付き寝床がいっぽうの壁に寄せられ、もう一方の壁の窓の方に、簡単な流しと、鏡がある。いちばん奥に窓があって、その外は、隣の家の壁との間の、狭い排水路になっている。こういうところでは排水路に直接用を足す客がいるので、窓はなるべく開けない。
 出稼ぎの酌婦が客をとる部屋は、大概の場合、生活感が非常に薄い。たいしたものを持ち込むこともないし、着飾れるだけのものがたくさんあるわけでもないのである。
 寝床のないほうの壁には、ちょっと色の派手な、聖人の立ち姿の小さな絵札が、いくつも貼り付けられていた。男前である。ものによっては、動物に変化しているものもあって、そういう顔が好きなのか、守護聖人だから貼ってあるのか、よくわからない。両方かもしれない。
 私をここに放り込んだということは、酌婦たちは自分の金をどこか違うところにおいているということだろうからそこは気にする必要ないにしても、あとでとやかくいわれるのは面倒だから、あれこれさわるわけにはいかない。
 そう思いながら、ちょっときつい香りに気づいた。鼻に抜ける、酸味のつよい香りである。薄暗い部屋を見渡して、流しの横の台に、硝子の丸い小壜があるのに気づいた。真鍮の蓋がその横におかれている。開きっぱなしのようである。硝子は厚く、ちょっとあたったくらいでは割れそうにない。
 寝床に座ったまま、この香りの中で寝られるだろうかと思っていたが、けっきょく、服はそのままにケットをかぶった。こういう宿の習慣として、うすい灯りは点けたままである。
 夢を見た。
 私は見晴らしのいい高台の上にいた。目の前の斜面はゆるやかに、ところどころ段差をつくりながらはるかむこうの緑の原につながる。高台の、私の背後には、岩がつみあげられており、そのさらに後ろに、割れた岩を積み上げて壁にして、うすく剥いだ岩を屋根にした、その土地の祠のような小さな寺院があった。壁の隅は、崩れかけていた。
 私は若かった。先代からリストを引き継ぎ、はじめに一巡した地域は、ずいぶん遠いところだった。そのときに見た景色だった。
 そして、足元にディンが座っていた。赤い上着、厚い毛糸を織ったスカートに、さらに革のかぶりものを腰に巻いて、左の腿を下にして、私を見上げていた。このあたりにその季節回ってくる部族の女だった。
 彼女は私に、
「ここにずっといることはないのね」
と訊いた。私はこのとき、私にずっといてほしいという意味だと思い込み、その思い上がりから言葉を濁した。
 彼女は立ち上がった。若いながら、おなじ部族のものに妻として娶せられたのに、孕むことがなく、戻されたのだということを私は知っていた。
「そう」
 青空は高く、青い地平線は遠かった。ディンは、
「もうじきみんな帰ってくるわ」
「見えるのかい」
「そう、あのあたり」
 彼方を指す。私には、なにも見えなかった。目を凝らしながら、ちょっとでも長く、自分の手のとどきそうな女のそばにいることしか、私は考えていなかった。
 そして、それが夢の中であることをなかば自覚しながら、私は、またディンといっしょにいられるのだ、と思った。

目覚めると、朝だった。
 私は呆然とした。壮年にもなって、すっかりどこかにいってしまった記憶のはずだったからである。
 部屋の奥の窓の向こうの、隣家の壁が、上からの光でゆるく灰色に明るい。
 自分が、酌婦の寝床にいることを思い出し、体を起こして横へどいた。軽く酔ったようにあたりがそらぞらしい。ケットを畳み、私にわりあてられた部屋に戻る。昨夜寝床から動かなかった酌婦の姿はない。
 昨夜の夢があらためて戻ってきた。
ディンは、子供ができないと、家族に戻され、草原のなかの寺院にやってきた、独り立ちしたばかりの若い私は、意味ありげな彼女に、自分からかかわっていって、孕んだ彼女は、それを土産にさっさとべつの家に入っていった。
 彼女の欠点を頭の中でならべて連れ帰れないと自分に言い聞かせたり、家で商いをしながら私を待てるだろうか考えたりという、独り相撲の時期もあったことを、その後私は、身もだえするほど恥ずかしく思った。
 自分が、相手にとって選択したい存在ではなかったことを思い知ったからだ。
 戸口から声が聞こえた。昨夜泥酔していた酌婦が、覗き込んでいた。かぶり物の下で髪は濡れている。裏庭で、タンクから水を浴び、顔を洗ってきたようだ。
「何だい」
 訊くと、
「ああ、、ごめんよと言ったんだ、久しぶりにゆっくり寝たよ」
「自分のところじゃゆっくりできないのかい」
「思い出してしまうからね、でも、思い出さずにはいられないんだよ」
 私には何を言うこともなかった。彼女は、濡れたまま体に巻き付けた衣をただす。私は、
「つよい香だね、あなたの部屋は」
「蓋をあけっぱなしだったんだね、酔っぱらってちゃいけないね、あんた、私の部屋で休んで、何もなかったかい、下着が汚れたんなら洗ってあげるよ」
 何の話だそれは、と答えた。
「あたしは、好きな人といっしょにいたときのことばかり思い出して、切なくなるんだよ、あの香をあけていると、そんな夢ばかり見るのさ、今朝はなにも見なくて、楽だったよ」
 それでも、と彼女はいった。
「夜になって、酔ったりすると、また思い出したくなるんだ、そんで香をあけるんだよ」
 それは香のせいなのかね、と私は訊く。
「おもいでの聖地の、香だっていうのさ」
 むかしきいた地名であった。
「ええと、バニアの近所にあるってやつかな」
「知ってるんじゃないか。この香の効くものはそんなにいないんだけど、効くものには効くんだよ」
「夢をみたよ」
 自分が、朝から酌婦と、夢の話をするとは思ったことがなかった。
「むかしの夢だが」
「そうか、あんたもそういう性質(たち)なんだね」
 そして、鼻で笑った。
 私は、衣の物入に入れてある、今回の行程を確認した。あと2つほどの寺院を超えると、次がバニアであった。

バニアは、大きなバス溜まりが広場になっている。周囲に、物売りの屋台が並ぶのは、どこのバス溜まりも同じである。広場から、寺院に向かって道があり、その両側にも、ちゃんとした店が並んでいる。
 ここの寺院は、すこし大きい。建物が大きいと、手入れにも時間がかかる。設備の一部に修復の必要な時は、大きい町は便利である。ちょっとした工作ならやってのける工場があるからだ。
 寺院の僧院長は、先代のことをよく覚えていた。
「あなたにいうことなのかわからんのですがね、ビゴさんの腕がいいかはよくわからんのですよ」
 年配の僧院長は言った。ビゴというのは先代の名前である。
「ですが、いろいろ調べるのはお好きでしたな、風弦の手入れのついでに、ここの建物の一部が痛んでいたのですが、どうせ治すなら昔に戻したらどうだとか、そうやってできたのがあそこですよ」
 10層の塔があった。いちばん上の層が、すこし張り出している。
「あそこは、張り出していなかったのです。ああするほうが昔の姿だということで、職人に指図してああやって形にしたのですがね」
「きれいなものですね」
「形はそうです」
 僧院長は首を振った。
「ただ、張り出した部分に筋交いをいれるのが、足りなかったかもしれないからあまり上にのるなと言われまして」
 これは非常に迷惑な話に違いなかった。中途半端な詫び言を口の中で私はつぶやいた。
 要らないことはするまいと思いながら滞在するバニアは、にぎやかでものも多く、快適なところには違いなかった。思ったより仕事もはかどる。せかされもせず、作業できる。
 祭壇のそばで数週過ごすある日、僧のひとりが、私のところにやってきた。
「ナギアの風弦の調子が悪くて、受け持ちが遠いところにいるので、とりあえずのことに手を付けられるひとがいないか、今日のバスの伝言で訊いてきました。あそこの金札は、うちで交換できますよ」
「近いのですかね」
 僧の言うには、私の予定の道筋から直角に出て、乗り合いバスで1日である。遠くはない。
「しかし、ちょっとかわったところなので。よろしくないところという人もいるのですが、実際にはもうあなた次第で」
「さっぱりわかりません」
 僧は首を振った。
「おもいでの聖地と呼ぶ人もいるところなのですが」
「そういうところがあるのは聞いたことがありますよ」
「いろいろと思い出すのですよ。ことによると、会いたい人ではない、会いたくない人に会うこともあるといいます。そのために行く人もいます。私はそういう性質(たち)ではないので」
 ひとによるのだと、僧は説明した。
 バニアの寺院は、すこし外れたところではあるが、それなりに交通の便がいい。
 そこで、ナギアの寺院からここへ、香を持ち込んでは売る行商人がいる。香は、ちいさな丸い壜に入っている。これを部屋に満たすたびに、昔のことを思い出すようになる性質のひとが、いるのだという。
「夢にみるのだそうです」
 私は、まえに酌婦の部屋であったことを思い出した。
「そうではないものにとっては、それはそれで悪くない香りなのですがね、それを使っているうちに、ひとによっては夢のことばかり話すようになる。その挙句にナギアに向かうというひとが、経由地のここにも、それなりの頻度でおいでになりますよ」
 非常に用心深い表現だと思った。
 そういえば、と僧はいった。
「ビゴさんも、えと、あなたの先代も、その香が一時お好きだったと聞きましたよ、ここにきて、それを使ってしばらくは、修復にしてもあれをしたらどうかこれは戻したらどうかと、しきりにいわれたらしくて、一つやってもらったのが、あの張り出しだそうです、以来、風弦修復の方には、積極的にはそれをお渡ししないことになっていて」
 ふたたび、申し訳ない気分になった。
「私も一度、それで夢をみたかもしれません」
 ああ、あなたもその性質(たち)でしたか、香は外に売ってありますが、ここではあまり使わないようにしてくださいね。明日どうするか教えてください、と、僧は去っていった。
 大型風弦が鳴らないので小型の方を鳴らす夕刻、私は神殿を出た。
 香を売っているのも、神殿に隣接した屋台である。よだれかけのようなものをした元気な老人が立っている。何度も出入りしていて、私が中で作業しているのは知っているので、売りつける声はかけてこない。
 こちらから、その屋台にいった。夕刻で片づけつつある。香は台の上にいくつもない。老人が声をかけてきた。
「欲しくなったのかい、もうじき品切れだがな」
「これはナギアからくるのかい」
「そうだ」
「よく売れるのかい」
「ぼちぼちだよ」
 老人は首を振った。
「ただの香としては高価いからな。ほしいやつが買う。繰り返すやつは繰り返す。そのうちナギアに行く」
「それでどうなるんだね」
「ごくたまにいきっぱなしがいるな。戻ってきても、繰り返すものは、何度もナギアに行くし、2度と行かないものもいるし。香がなくてもよくなるというものもいるけど、ひとりでぶつぶつつぶやき続ける者もいる」
「売り物にそんなこと言っていて、売れるのかい」
 老人はにやにや笑って首を振った。
「こいつは、なにかおこることがあったら、早くそれを起こしているだけだと儂は思うんだ。結論は早めに出せばいいし、結論なんかいらないならはじめから手を出さなくてもいい。これを使ってわかることがあるならそれだな。あんたにこれの効き目ががあるなら、そういうことと思う」
「なかの坊さんは、性質(たち)といってたな」
 それだよ、と老人はいった。私は、
「むかし、これを使ってる部屋に入ったことがある」
「何か起こったかい」
「ひどく昔の夢をみたよ」
 それだけではどうなのかわからないなあ、だがそうかもしれない。買ってみるかね、もう残りはすくないのだ。老人は売り込んできた。
「ナギアに行けば、これはあるのかい」
「難しいことを言うな、、、」
 老人は、首をかしげて私を見た。
「あそこで精製したものを仕入れるんだ、またじきに行かねばならんが、あそこに行けば、満月のまえの祀りなら、こんなものはいらないから、わざわざあっちで買うのはどうだかな」
 要らない理由は行けばわかるよと、老人が言ったところに、痩せた中年男がやってきて、香をひと壜買っていった。
「そうか、私はナギアに行く用事があるかもしれない」
「おやおや、それはそれは」
 老人は、ぐっと胸をそらし、両手を開いて見せた。
「ならあちらで確かめるがいい。たぶんそれはあんた次第だろう、その前に確認したいなら、ちょっとは安くしてやる、客としてははじめてだからな、もうほとんどなくなって、仕入れに行くまでに儂も休んでしまいたいんだ」
 通るひとはまばら、あちこちで屋台が閉じられ、空は橙になっていた。

宿で香の封を開けた。その夜みたのは、昼に話にのせた、先代ビゴの夢であった。
 寺院のなかで作業していた。作業しながら、彼は、その寺院の沿革をえんえん私に説明していた。そばについている僧が、そんなこと私も知りませんよと苦笑いしていた。
「ビーノ、覚えておけよ」
と先代は私に言う。私は仕方なく、彼のいったことを繰り返した。この状況は、確かにあった。あまり物覚えがよくないのがわかるまで、どうでもいいことにまで先代は私にいろいろ口伝えで教えようとしていた。
 もう一度、というので、また繰り返した。さらに繰り返した。
 状況は変わり、我々は月夜にロバに乗っていた。先代はそこでまた、私に、もう一度、と促した。やはり私は繰り返した。
 目覚めたときも、口の中で私はその言葉を繰り返していた。作業に出ても、一連の先代の言葉は、私の頭にこびりついて離れなかった。
 そんなことがあったことすら忘れていたのに、そのときにきいた言葉をすべて思い出すのが、私には驚きだった。ぜんぶ書きのこすことすらできたかもしれない。
 昼ぐらいから、その記憶は一気に薄らいだ。そんなことがあったこと、それをすべて思い出すことができたこと、しか、もう頭に残っていなかった。
 夕方、僧がやってきた。
「ナギアは、どうされますか」
「夢に、おぼえてもいないことが出るのです、しかも詳しく」
 ああ、という素振りで僧は目を、何度か瞬かせた。
「香を使ったんですね、性質があたると、そうなるんですよ」
 使うなといったことは、蒸し返さなかった。仕方ないと思っているのだろう。
「先代が出ましてね」
「大丈夫でしたか」
 大丈夫という表現はよくわからなかった。私は、
「忘れていた、お寺の細かいことを思い出しました」
 僧は笑った。そういう人でしたかね、と、あたりさわりのない返答に、私は、
「いってみてもよろしいですよ」
 そうですか、まあ、何が起こるのも、仕方のないことではありますからと、あまり気楽ではない返事をする。
 ここバニアでの仕事はもうじき上がるというと、僧は、折り返しのバスで知らせておきます、と言い残した。
 つぎのバスに合わせてさらに時間をかけた仕事の終わりには、いつも通り、風弦で和音を順に鳴らした。僧は、これも先代同様ですな、と、言った。

バニアからナギアに向かう乗り合いバスは、月に2回出る。
 ナギアの向こうからのバスが、バニアで折り返す。つまり、目的地ではなく、経由地点である。
 座席はやや広め、前の方は仕切られて、床の上にマットを敷いた特別席になっている。金をもった客はそこに乗る。私や、ほとんどの客は、ただの座席に座る。客には、香売り屋台の爺もいて、私にうなずいて見せた。
 早朝まだ霧も深い。バニアの町の道をしばらくあちこち曲がりながら走り、橋を越えて、霧のむこうに畑の見える中を走る。
 道は、へこむごとに土砂で埋めては、重しで平たんにするのだが、いろいろな轍ですぐに凸凹がついていく。それでもこのあたりの道はましな方である。平坦な舗装は、もっと金のある都市部にしかない。固い平面は、一部が壊れるとそこだけがえぐれていって、かえって通行ができなくなっていくからである。維持ができなければ、むしろ邪魔なのだ。
 車体の前に水と薪がある。途中の町でそれを補給しながらバスは走る。
 霧が晴れていく。周囲はなにもない原野に見えるが、草むらのあいだには同じ植物がずっと生えていた。つまり、ここは畑である。
 道はずっと先まで一直線に続き、その先には、えぐれた山があった。かって高くそびえていたものが、根元のやや上からなくしてしまったようにみえる。はりついたように緑の木がびっしり生えているが、へりのあたりは岩肌がみえる。道路であろう、すじ模様も折り返して入っていた。
 一般席にいるほうの客たちは、ほとんどの男も数少ない女も、黙り込んで目を閉じる。とにかく揺れるの。
 揺れに慣れてしまっているらしい中年の夫婦が、住処のあたりの噂話をしていた。特によくしゃべる女が、膝にかかえた荷物からオレンジを取り出して皮を剥いた。半分自分の口に突っ込んで、残りを夫に差し出したが、夫は手を振った。
 すると、いきなり反対側に座る私に、それを突き出して、
「食べるかい」
と訊いた。
 ありがたく頂戴すると、今度は、夫の方が、どこに行くんだね、と声をかけてきた。
「ナギアにね、仕事なんでね」
 そうか、仕事なのか、仕事じゃ仕方ないな。彼はそう答える。
「初めていくもんでね、よくわからないのだけど」
 二人は、軽く目を合わせた。夫が、
「話は聞いてるのかい」
「思い出に会えるものがいるとはきいたよ、そのために行くのではないんだけれど」
「会えるのは、夢をみるものだけだからな」
「夢もみるんだ」
 それは最低だなと夫は口の中でつぶやき、私は非常に不愉快になった。
 妻が、
「でもまあ、お仕事なんだから、町にずっといらっしゃい、森の方におりなければいいのだから」
「森ですか」
「上の町と、下の森とお寺のあたりの町にわかれてるのよ、上の町にいたらそれでいいのよ」
 風弦は寺院にあるものだからそれは無理だなと思いながら、話すればそれだけよくない気分になりそうで、あまりちゃんと返事しないようにした。
 夫が話に戻ってきた。
「下の森には猿もいるんだな、けっこうたくさん動き回ってるし、お寺にもでてくるらしい、あれも気が荒いというからな」
「そう、あまり近づかない方がいいみたいよ」
 それが結論のようだった。
 夕方、えぐれた山の裾の集落でバスはひと休みした。水と薪を積み込み、出発は夜中である。
「あの上は、大きなすり鉢のようになっていて、ナギアは内側の、そのなかばにある」
と、運転手は私に説明した。
「すり鉢の向こうの町につく都合でいうと、ここをそのくらいで出るのがちょうどいいんだ」
 ほとんどの客にはわかりきったことのようだった。運転席の横では、交代の運転手が、目隠しをして眠り込んでいた。
 夜中に出て、すり鉢のふちを超えて中に入り、おりていく。クレーターか死火山の噴火口のようである。
 私が、揺れの中で浅い眠りから覚めたころには、車窓のカーテンの、揺れる隙間のむこうで空はすこし明るくなっていた。朝の早い時期である。すり鉢の内側は、みわたすかぎり、岩や砂で覆われていた。道路は、鉢の内側に沿って高度をほぼ変えず続いていく。
 明るくなるにしたがって、すり鉢の地表も白っぽくなっていく。乗客は、じっと揺れに耐えている。
 やがて、バスが止まった。
「ナギアだ」
 運転手の声に立ち上がるものもいれば、手荒く叩きおこされるものもいた。特別席からは誰も下りない。中年夫婦も座ったまま、夫が薄く目を開けて私にうなずいてみせるだけである。屋台の爺は、大きな荷物を棚からおろして担いだ。竹の籠に鶏を入れた男もいた。何人もがぞろぞろ下りていった。
 バスの降り場から斜面を見下ろす。すり鉢はほとんど一面灰色だが、一筋、岩や石を除けた道が、折り返しながら、すぐ下りたところにある集落につづいていた。その集落からさらに道は折り返し、降りて至るかなり先には森がはじまり。それは帯のようにすり鉢の底まで続いている。明るい灰色の中で、緑色の楔のような遠い森が目に染みた。
 森のすぐこちら側、道の終点に、中庭のある円筒状の平屋が十数軒ちらばっているのが見える。寺院らしいすこし背の高い建物もあった。
 バスから降りた人たちは、集落に入っていく。私の迎えはみあたらない。
 香売りの爺が、私のそばにいた。
「あんたの用事は下の方なんだね、はじめてなんだろう、知らせてあるならもうじきくるさ」
「あなたも下にいくのかい」
「儂は、渡すものを渡したら、ここで待つんだよ、ほれ、あれだな」
 僧衣を着た男が、若い男をつれて坂を上がってくる。僧は陽を避けるためか黒い傘をさしている。痩せもせず太りもせず、私より少し歳がいっているように見える。私の行先は寺であるから、僧が迎えに来るのはおかしくないと思い、彼らが近づくのを見守った。
 そばまで来た僧は、私に合掌して、
「風弦の職人の方ですか」
「そうです、連絡があったと思いますが。ビーノといいます」
 私は名乗る。
「ナギアの寺院をあずかっている、ラーバと呼んでください。いきましょう、泊まるところはこちらにあります」
 我々が話しているあいだに、一緒に来た、人夫のように頭を布で包んだ若い男が、香売りの爺のもつ荷物を持ち上げた。硝子容器のふれあうじゃらじゃらした音が聞こえた。
 若い男はそれを頭に載せて、坂道を戻っていった。
「儂は、こっちの宿で待つことになるのでな、この坂をおりるのはつらい」
 香売りは、そのまま背を向けて、集落に歩いていく。ラーバ師は、
「ご用事でこられる、はじめての方は、迎えにくることになっているのですよ、おききしなければならないこともあるので」
 非常に丁寧である。僧はみな似たような話し方をする。
 黒い傘をさす僧が、先に立ってゆっくり坂をおりる。私は後に続く。集落のあたりの地面はやわらかく、そのまわりには作物らしいものも生えていたのだが、坂を降りるとすぐに道が硬くなった。
下り坂は上り坂よりも、よほど脚に負担がかかる。先に行く若い男は慣れていて、すこし斜面にむけて体を傾けながら、小石を除けた道を一本歯の下駄で降りていく。ラーバ師の履物は、私同様底が厚いだけのふつうのもので、それほど速くは降りていけない。
 傘の下からラーバ師は、
「きいておきます、この聖地がどういうところか聞かれましたか」
「忘れられない人にあうとか、香で夢を見るのがそのしるしだとか、で、今までにも何度か言われたので言いますが、私はここの香で、昔の夢を見ました」
「そうですか、、つまり、あなたは、あうことができる人なのかもしれないということですね、でも、あわずにすませることもできるし、そもそも誰にあうのか実際にはわかりませんよ、来られる方はなににしても会いたくて来るのですが、あなたはそのために来られたんじゃないので、どうしたいのか訊いておこうと思いましてね、上の町から通うという手もありまして」
 そんなことをここで訊かれても、わかるわけがない。
「よくわからないのですが、この道をいききするのは大変そうですね、まずは仕事の様子見て考えるのでよろしいです」
 返事はなかった。

下の町の界隈の地表は、またやわらかい土質になっている。そこをすこし平たくして、モルタルでかためた寺院がたっている。そばには、日干し煉瓦の塀でかこまれた裏庭があり、扉がついている。中は見えないが、何本かの梢が塀の向こうに見えた。
 つかず離れずの距離で、円筒形の家が散在している。扉は閉じられたままである。窓もない。
 寺のそばに、泉がわいていた。豊かな水が、太い流れとなって森に消えていく。
 川を挟んで、四角い木造の、大き目の納屋のような建物がある。
「あちらは作業できる場所で、寝泊まりもできるんですがね、うちで働いてくれているものがいますよ」
 ラーバ師は言った。
「ですが、あなたは、夢を見るようなので、こっちのほうがいいでしょうね」
 泉を背に、寺院を通り過ぎて、ひとつめの円筒家屋にむかう。扉をあけると、井戸のように深く掘り下げた空間があった。中央は吹き抜けである。
 内側は螺旋に回廊がおりている。回廊の外側の、地中に部屋が出ている。回廊の内側には腰のあたりまで石が積み上げられ固めてあるが、強度はわからない。
 壁を触ると、軽石のような手触りである。
「これは井戸ではないのですか」
「むかしは泉がもっと森側に降りたところにありましてね、ここに井戸を掘ってみたのですが何も出なかったようで。地中の様子が変わったのか、泉の場所もかわったのですが、やはりここは、からからです、ここなら夢を見ようが少々声を出そうが大丈夫」
 一周おりてはじめに出てきた部屋に案内されたが、たしかに扉も、厚い木であった。
「閉じ込められたら息がとまりませんか」
 ラーバ師は笑った。
「ここの壁は岩に見えますが、細かい孔だらけで、音は通りませんが空気は通るんですよ、中で煮炊きもいけます。それどころか、ちょっと硬いものならほじくることだってできるので、部屋の形を変えないでくださいよ。
「いまはまだあなたしかいませんが、そのうち巡礼もきます。まだ上の町にいるのでして、あと何日かしたら人が増えますよ」
 ラーバ師は、手明かりをおいて出て行った。私は背負子をおいて、薄暗く照らされる部屋の、寝床の脇の椅子に座りこんだ。
 背負子から香の壜を出しては見たが、開ける気にはならなかった。その横に、簡易五徳に油皿をすえて火をつけ、金皿で粉を練って焼いて、食事にした。終えると、寺にいった。
 風弦は、低音部分の、金具がゆがんでいるようだった。よくいたむところである。
「治るまでは高い音でやるしかないでしょうかね」
 朝荷物を担いでいた若い男が、風弦の下のハンドルを、ぐるぐる回す。ラーバ師は、レバーを動かし音を変えていくのだが、あるレバーをうごかすたびに、きしむような音がした。
 わかりましたと、私は作業に入ることにした。ラーバ師は、若い男に、
「サタ、なにかあったら手伝ってあげてくれ」
 そして私にも、まず彼に相談してくださいといって、出て行った。なにかあったら頼みます、今はいい、と、梯子の上から私は手を振り、サタと呼ばれた若い男も出て行った。
 風弦の横の調整函を覗きこみ、いくつか仕組みを解除して、金具とそれのついた大きい木枠を外し、梯子をおりた。納屋のなかにある作業場にもっていく。
 屋根の下、こどもが軽く走り回れるほどの土間の、端の3分の1ほどには、私の背より高いタンクがあった。並んだ場所を、薪で運用する蒸留抽出装置が占めていた。銅の打ちだしでできた装置である。ひとかかえほどのタンクがいくつかそのそばにあり、さらに、そのわきに、朝、香売りがサタに渡した荷物がおかれていた。
 同じ屋根のこちらに作業台もあり、私はそこに、外してきた木枠を置いた。解体し、金具をチェックする。ゆがんでいるのは木枠のほうが割れてしまっているからだった。
 サタが、作業場にやってきた。こちらをちらっとみて、床に置かれた香売りの荷物を解いた。香入れの硝子壜がたくさん出てきた。彼はタンクの一つの液体を盥に入れて、それらひとつひとつ洗い始めた。
 私は、割れた木枠をすこし見えるようにかざして、彼に声をかけた。
「すまない、サタ、こいつのかわりになるものはないだろうか」
 サタは手を止めてこちらを見た。
「大き目の木枠がほしい、ってことかい」
立ち上がる。
「裏に、それっぽいものが積み上げてあるけど、無理なら切り出してくるよ」
「切り出すって」
「森にはいくらでも生えてるからな」
「すぐには使えないだろう」
「いま用意しておけば、あんたができなくても、次の風弦職がなんとかできるだろう、どんな木がいいんだい」
 いやその前に、おいてある木材をみせてくれといって、我々は納屋の裏に回った。建物をつくるときにつかわれた木材ののこりがかためられていた。そばには、以前切り出したらしい、細めの丸太もある。腰の万用手斧の背で叩いてみたが、かんかんに乾いていた。
「このへんを細工できるかもしれないが、、」
「じゅうぶん足りるのかい」
 大きさが半端だったし、あとあとのことを考えても、切り出しておいた方がよさそうだったが、木について、サタと話が通じない。名前が一致しないのである。
「じゃあ、どの木がいいのか、またいっしょに森に入ってくれ、教えてくれたらあとは切り出してくるから」
 働き者だなと思った。
「森にはよく入るのかい」
「とくに近いところは、そこそこ手入れしとかないと、猿がすぐ来るからね」
「猿の話はきいたことがある、怖いのかい」
「群れで森をうろつきまわってるんだけど、ときどきはぐれて出てくることもある。怖いかはものによるね、大きなやつだと、得物がないとあぶないかもしれないよ、牙ももってるからね」
 サタは私の目を見て、眉を動かしながら説明する。説明するのが好きなようだ。どこかできいた結論が続いた。
「だから、森にはあまり近づかない方がいい」
 まずは目の前の木を使って作業するよと、私はつかえそうなものを引きずり出して、作業場に戻った。私は背負子から使えそうな削り出し刃を見繕った。サタは、壜の洗浄とおもわれる作業を続けた。

夕刻、作業場をでて、坂の上をみあげていると、数人の男たちがゆっくり降りてきた。
 ちょっと明るい帽子をかぶった、太った男は、私の泊まる建物の前に荷を下ろして、私に揚げパンを売りつけた。ほかの痩せた2人の男たちは、寺院に入って、ラーバ師と出てきた。
 揚げパンと背負子をもって自分の部屋にいくと、ラーバ師に連れられた男たちが、私の部屋の前を通り、回廊を降りて行った。扉の音が響き、回廊をあがってきたラーバ師が、
「ほかにもお客が入りましたよ」
とだけ言って、出て行った。
 その夜、つよい香が漂ってきた。私の持つ壜を確かめたが、封は締っている。灯りの薄暗いなかで、私は、この香りとともにディンの夢をみたことを思い出した。
 そして、ここでもまた、夢を見た。
 まわりは背の高い草が茂っている。草のなかの道を、ディンは、片手に杖を持ち、もう片手で私の手を引いて歩く。
 草の隙間から、道を外れる。隙間を縫ってすこし行くと、まばらなところがあった。ディンは、杖を横にしてぐるっとそのあたりの草を倒してしまい、その上に座り込んで、スカートをあける素振りをした。

早朝、流れを引き込んでつくられた洗い場の下流で、私は下着を洗った。
 空気が乾いているので、部屋にもどり、寝床のよこの椅子に下着をかけた。外にまた出ると、回廊の下から、痩せた男がひとり出てきて、私にうなずいて見せた。昨夕きた客のようだった。灰色の腰履きに、白いシャツという普通の恰好をしている。
「そろそろ飛ばないか」
 私に訊いている。よくわからないと答えると、ちょうど寺から出てきたラーバ師が、今日か明日でしょうと、話を引き取った。満月まで七曜を切りました、とも言った。
作業場からサタがやってきた。
「木をさがしに行かないか、もうちょっとしたらそれどころではなくなるから」
 朝飯のまえにいってしまおうとサタはいう。私は腰に万用手斧をぶら下げ、彼は私に杖を一つ渡し、自分でももって、歩き始めた。彼の後をついて、流れの横を森に向かう。森の、寺院側には簡単な畑があり、それを過ぎて、私の背ほどの青木のあいだに、細い道ができていた。
 森の中の道は、川と、つかず離れずである。森は、つまりはこの川の水のおかげで、できていると思われた。細い、しかしかなり高い木が、手をひろげて歩ける程度の間隔で一面に生え、低いところには枝もなく、髙いところで林冠をつくっている。
 すぐに、斜面がすこしゆるくなり、流れは、小さな池になっている。池の向こうに建物があった。
「あれは何だい」
「むかしの寺だよ、むかしはこの池からが森で、そのそばに寺をつくってたんだけど、泉がもっと上に涌いたんでそっちに移したんだ、そうきいた。それが今の泉だ」
「寺を作り直したのか」
「ずいぶんな金持ちがそのころは通ってきてたらしい、だからまるまるそっくり、あたらしくつくったんだ」
 それはすごいなと言いながら、我々はもうすこし歩く。そのあたりから、木が太くなり、私はその種類をみて、サタに、この木を持ち帰ってくれと言った。彼は、目印に白い布を巻き付けた。
 遠くから、うねるようなざわめきが聞こえてきた。
「、、、何かい」
「この時期に珍しいな、気まぐれだからな、猿だよ」
 ざわめきは近づいてくる。
「頭に気をつけろ」
 サタは、そばの幹に体をつけ、枝を頭上にかざした、私も同様にかざす。べきべきいう音も聞こえ、やがて、たくさんの動物の群れがずっと頭上を、枝から枝へ渡っていった。サタは大きな声で、
「ああやって群れで動き回っては、こっちのものをあっちに、あっちのものをこっちに運んで散らかしたりするのさ」
 上から、葉や枝、幹のかけら、小さな木の実がばらばらとおちてきた。
「目につくものは持ち運ぼうとして、そのうちまたどこかで落とす連中だからな、でかいものを落とされたら危ないよ、ここからおもて側はまだまだ枝が弱いから、このへんで引き返すんだ」
 私はあらためて杖を頭上に掲げた。ざわめきは、来たとき同様、あっという間に去っていった。
「またへんなもの落としていないか、見回らなきゃいけない、いらないものが生えてくるんだ」
 嫌そうな顔もせずサタがいう。
「戻ろう」
 暗くなったらわからないような細い踏み分け道を戻りながら、私は、ふたたび、池の向こうに廃寺を見て、
「まるまるそっくり、あたらしくつくったと言わなかったかい」
「ラーバからそう聞いたと言ったんだ」
「ちょっとあそこを見に行っていいか、あそこのものそのまま使えるんじゃないかな」
 サタは、ああそうかという顔はしたが、それについては何も言わず、
「建物のなかには、樽がおいてあるから臭いよ、気をつけてくれ。あの池の、すこし下に渡れるところがある。俺は、飯を食ってきのうの仕事の続きをしたいから戻るがいいかな」
 森は外にすぐ出られるし、出なくても流れをさかのぼれば必ず戻れる、そういって、サタは帰っていった。
 いわれたとおりに池をまわると、古い道がなんとなく残っていた。ところどころに低い木が生えているが、薄暗くて育てないようだ。
 建物はそっくりだった。池に向いて入口がある。少し回り込むと、いまの寺同様に日干し煉瓦の塀に囲まれて、裏庭がある。
 廃寺の扉を開けて入ると、がんと鼻の奥に、この聖地の香がぶつかった。
 モルタルの上のほうから明かりが入る。薄暗い中に、私の胸くらいまでの樽がいくつか置かれている。そばに手動の圧搾機があった。からっぽで、横に倒された樽も2つほどあった。樽には板がかぶせてあり、香の、もとを、発酵させているようだ。この作業もサタがやっているのだろう。
 つよい香りに、腐敗したようなにおい、さらにアルコール臭もして、たしかに酔ってしまわないか気を付けなければならない。
 前方、祭壇にあけてある孔は、神様がもういなくなっていて、転地の儀式のあとであろう赤い染料砂が撒き散らされていた。けっこうな月日がたっていても、赤い色は褪せてはいなかった。
 四方の壁は、ところどころモルタルがはがれ、芯地の組み木が見えるところもある。
 上の方の壁には大小の風弦がぬりこめられている。これをおいたまま新しい寺院を作ったのだからたしかに金も人手もあったのだろう
 私は、下にあるハンドルを回してみた、空気がたまり、開放状態の風弦の、気の抜けた音がした。たまった空気を放出させながらレバーを操作すると、引っかかるような気配で動かなくなった。いきなり周囲が土臭くなった。こちらはこちらで、放置状態が長すぎたらしい。
 風弦そのものをみるのに梯子を探さねばならないが、それよりも、まわりがあまりに香りが立って、側頭がすこしきりきりしはじめた。私は建物から出て、風弦を外からみようと、塀をこえて裏庭に入った。
 塀にかこまれた狭い裏庭は、外とあまりかわらず、背の低い青木が生える中に、背の高い木も伸びている。まんなかに、ひとがうずくまったような灌木があった。
 その灌木が不自然に動く。私はぎょっとして見続けた。
 なぜそれを灌木と思ったのか次の瞬間わからなくなった。
 早朝、夢に見たままのディンが、そこに、膝を揃えて斜めに腰をおろして、私を見あげていた。

私は作業所で、朝飯も食わず、こわれかけの部品を作業台に乗せたまま、蒸留器のそばでサタが壜を笊にあげていくのをぼんやりみていた。
 私が戻ったのを、サタはちらっと見ただけだったが、自分の作業が終わると私のところにやってきた。
「あちらのものは使えそうか、あの中は臭かったろう、あとで、上の方を換気できるように開けておいてやる」
「ありがとう」
 頭の動かない私は、なんとか応えた。サタは、すこし私を見ていたが、
「あんた、思い出にあったのか、まだちょっと早いと思うんだけど、どこで会った」
 ディンのことと、何とか思い至った。廃院の塀の中と答えると、
「そんじょそこらに生えないように見回ってるんだが、俺は見る性質(たち)じゃないから見過ごすんだよ、そっちも、あとで、刈っておいてやるよ」
「、、、刈るって」
「あんたはそんなもの見に来たんじゃないんだろ、目に触れるところになければそれでいいんだからな」
「刈るって、あれはなんなんだい」
「あんたの思い出をみせてくれるものさ、俺にはそれ以上はわからないな、ラーバにきいてごらんよ」
 呼び捨てにしている。考えがまとまらず返事もできないでいると、サタは、
「ああ、ラーバ」
と、呼びかけた。むこうからラーバ師が歩いてくる。サタに尋ねた。
「タンクの中身は壜の分に足りそうかね」
「たぶん。それよりも、この、ビーノさんか、前の寺の裏庭で、野良をみたそうだよ」
「あそこにそんなものがいましたか、サタは気づかなかったのかい」
「あんなところ見に行かないからね、猿が落としていってもわかりゃしないよ。思い出にあってしまって、固まっちゃってるよ、この人。発酵樽が並んでるからね、香りがきつかったんじゃないかな」
「ビーノさん」
 ラーバ師は私に語りかけた。
「何をみられたかはあなた次第ですが、それはあなたの思い出そのものですよ、こちらでも会うことはできますが、見えないように閉め切ってますのでね。あなたに思い出をみせるくらい育ってしまっているなら、今の時期だからもうちょっとおいておいてもいいとは思いますが、邪魔なら刈ってしまいます」
「いや、刈るのはやめてください」
 何も考えていないはずなのに声が出た。
「ではおいておきましょう、一種の植物なんですよ、でも、それがあなたの思い出なのです」
 私は、気を取り直して、手元の材料で作業しようとしたが、まったく捗らなかった。
 宿の夜がまた来た。よその部屋から、ものを焦がす匂いがあった。すこし生臭いのは、魚油をなにかに使っているのだろう。そして、また、香が漂ってくる。
 夢をみるのは嫌ではなかった。
 忘れたような、ディンとのことが、夢に現れた。
 そばにいる者の、睫毛の長さに気づいたのはいつだったのか、私は思い出した。
 ずっと昔のことだったが、私のような流れ者にとって、最後がどうであろうと、思い出せる女がいるのが、夢の中で心地よかった。

つぎの朝、宿から出ると、風が香った。森からくるようだった。
 ラーバ師は、
「香り立つこれから5日、祀りなのです。4日間は語り合うための祀りで、満月のくる最後の一日は、触れ合うための祀りです」
 彼の奏でる風弦は、鳴らない低い音を略して、やや甲高く吹き流された。
 上の町から、幾人ものひとたちがぞろぞろ降りてやってくる。ほとんどが男である。
 円筒形の家は、どれも、あいかわらず閉まりきりであるが、寺院にほど近い一軒の戸の前にだけは、上の町からいっしょにやってきたらしい、髪にかぶりものをのせた中年女が、椅子を置いて座り込んだ。
 作業所であいかわらず私は気のない動作を続けていた。
 壜は磨き上げられて積まれていた。サタ自身は寺院のなかから出てこない。しょっちゅう風弦が鳴るので、ずっとハンドルを回しているのかもしれない。
 見たことのない寺男が、寺院の裏庭の入り口にたっていた。町から下りてきた男がやってきては、何か耳打ちし、寺男はうなずいては中に招じ入れる。遠くから見ている数人のひとたちに、寺男は声を張り上げた。
「おうい、予約ならまだ空いているよ、触れ合いの日はいっぱいになったらそれっきりだ、語り合うのは、線香一本分からだよ」
 その向かいでは、中年女がやはり、道行く人に声をかけている。私はそれが何に似ているのか、やっとわかった。取り持ち女である。
 空気がずっと香り立っており、わたしはどこか浮足立っていた。部品をつくるのがどうにも気が乗らなかった。
 また、その植物のところに行きたかったのである。廃寺にいく理由があるのだから、ためらう必要はぜんぜんなかった。

森の中は、空気はさらに香っていた。薄暗い。私はきのうの道を辿った。
 廃寺の中、風弦の壁には、梯子がおかれていた。サタは本当によく働く男だった。
 風弦の横の調整函まであがり、手灯りを持ち込んで、万用手斧もつかって、部品を外す。完全におなじ寸法はあり得ないが、調整して使えれば手間が省ける。
 しかし、私がいまここにいる目的がそれでないことは自分がよくわかっていた。
 裏庭で、ディンは、おなじように、そこにいた。私が近づくと、ゆっくり顔をあげた。
「やっと来てくれたのね」
 頭に、ディンの声が響いた。
「あなたはどこにでも行ける。私はここに、ずっといるの」
 私は彼女の形をしたそれを、眺め続けた。それは、私に笑いかけた。屈託なかった。
 それをはじめてみたときに、ほかになく心がときめいたことを思い出した。あれから何十年たったのだ、と思った。
 香りで、頭がぼっとした。
「ここにいるとき、私を見てくれたらいいのよ」
 本当にそれはむかし彼女にいった言葉だったのかと、また私は自問した。
「それができたらいいと思うよ」
 どこかで私の声がした。昔の私の言いそうな科白だった。ほかにどういえばよかったのかわからないが、この科白だけは違うと、私は思った。
 私は、なんということをしたのだろう、彼女がやがていなくなるのは、自分のせいではなかったのか。不要なやりとりの積み重ねを、初めての相手に、私は勿体ぶってふるまった。次の機会などどこにもないのに。
 あれこれと、とりとめのないことが頭に浮かぶ。彼女の両手が私の手を包んだ。また、ぼうっとして、わからなくなった。
 気づくと、ディンはまた、目を細め、うつむいていた。声をかけても反応しない。梢の上の空は、午後の色になっている。
 取り外した風弦の部品を持って、森から出ると、寺院の風弦の甲高い音がきこえた。夕刻の調べといわれるもので、歩くうちにその音はやんだ。
 作業所に部品を置いて、おもてから寺や家の方をみる。寺の裏庭からひとり男が出てきて、座り込んだ。泣いている。
 そのむこう、家のなかからは、取り持ち女が、客らしい、かぶりものをかぶった中年女を戸口からだすところだった。中年女は、取り持ち女に、手元の紙を振り回していた。取り持ち女は、肩をすくめた。
 寺の庭からは、数人の男たちがぞろぞろ出てきた。互いに大笑いして語り合っている。ひとりが、泣いている男の肩をたたいた。
「ああやって、自分のおもいでに会うんだ」
 耳元に声が聞こえて、ぎょっとして振り向くと、サタが、私の斜め後ろにいた。
「あの女は、なにか忘れてしまったことを、教えてもらおうと思ってきたんじゃないかな、なかなか思い通りの答えがなくて、明日また来るだろう、自分の問題なのにね」
「中に、いるのかい、その、植物というやつが」
「寺の中庭には仕切りがあって、いくつも生やしているね、ご喜捨いただいて、入ってもらうんだ。むかいの家は、中庭において、時間当たりで巡礼客を入れてる。会いたい理由にもいろいろあるさ。繰り返して入る客もいる。毎月くるものもときどきいるね。なににしても俺には見えないからわからない、見えるのは他人の思い出ばかりだ。ラーバに仕えるんじゃなきゃこんなところに住まないよ」
「見えないというのがよくわからないんだよ、ふつうは見えないのか」
 困った人だなという表情をした。
「たとえば上の町の連中は、みな、見えないよ」
 寺男や取持ち女を指していう。
「あいつらもさ、ふだんは上に住んでいるけど、本当はここにずっといたって大丈夫なんだ。でも、ここは見えるもののための聖地だからなるべくいない。ここに住んでいる、家にいる人たちは、ほとんど出てこない。ずっと夢見て自分だけの思い出の相手をしてるんだ。ラーバは、夢はみるけど、思い出は見えない、だからここにいるし、お寺をやっていけるんだろう」
 気づくと、森からの香りは、ゆるいようだ。慣れてしまってわからなくなっているのかもしれない。
「風弦のほうは、急がなくても大丈夫だ、どうせ、祀りが終わっても、すぐには帰れないよ」
 見透かしたように言葉が続いた。
「歩いて出るなら別だけれど、バスがすぐにはこないからな。みな上の町でバス待ちしてる。苦労好きな巡礼はたまに歩く。すり鉢を超えるのに4日はかかるよ」
 誰が最初にこんなところに住み始めたんだろうと私は思った。
「祀りがおわると、思い出は動かなくなるから、いまのうちに話をしておいたらいい。バスに乗る気なら、祀りがおわって3日でくる、あんた、バニアに戻るんだろう。ひと月のあいだに、2往復だ」
 それからしばらく、部品は作業台に、背負子は部屋に放置されることになった。

早朝だと、まだディンが反応しないのがわかった。寺男や取持ち女は、非常に時間に正確で、上の町から連れだってやってくる。彼らにあわせ、森に行くと、ディンはほほえんで私を迎えてくれた。
 その手を握ると、すこし汗ばんでいる。それが植物であることを忘れつつあったのか、植物でもかまわないと思ったのか、その境目がいつだったのか、よくわからない。
 私は旅の途中でみききしたことを、彼女に話し続けた。彼女は、際限なくあいづちを打ち続けた。やがて私は、自分が、ずっと独り言をしゃべり続けているような気がして、黙った。
しばらくして、ディンが、私から、座ったまま体を離し、
「ねえ、、、、どうしたの」
「なんでもない」
 植物に答える必要ないはずと思いながらもそういうと、薄暗い中庭で、ディンの声が続いた。
「弟がいたのよ」
 私は混乱した。ディンに弟がいたという話を聞いた覚えはなかった。
 彼女は私に手を差し伸べた。握ると、柔らかい。彼女は私を引き寄せ、肩のそばに口を置いて、ささやき続けた。
「元気でかわいい弟だったのよ。あるとき、生まれ変わりだってわかってね」
「どうやってわかったんだい」
「知らないわよ、何人もの、黒い服着た変な帽子かぶった男のひとがきて、こいつは、こないだ死んだ囚人の生まれ変わりだと言ったのね。刑期はまだおわってないからこいつを収容するって、連れて行っちゃったの」
 ディンは泣いていた。
「ひどいじゃないの、お父さんもお母さんもまたつくればいいっていうけど、あのコはあのコしかいないのよ」
 かすかにこの話には覚えがあった。しかしそれは、寝物語にどこかの酌婦から聞いた話で、ディンではなかったはずだった。
「それは君の話かい」
 ディンは答えない。
 私は頭がぼんやりしてきた。香りがまたきつくなったようだ、ディンは私の上腕を撫で続け、私はすこし眠った。
 夕刻になると香りがゆるくなる。ディンは反応が薄くなる。脚を抱いて眠っているようにみえるディンの姿を見下ろし、私はまた宿に戻る。
 宿でも、夢を見ながら眠るだけである。
 夢の中で、ディンはうかない顔をしていた。私が何も言わないのに、祠に見える寺院で仕事する私のところに通い続ける彼女を、夢の中で、私はひたすら愛撫していた。私はいい気になっていた。

朝。宿をでると、揚げ物売りが歩いていた。いままで朝におりてくることはなかったのだが、私の顔を見て、
「触れ合う祀りの日だからね、たっぷり食ってすごしてくれよ」
 寺の塀のそばに、すでに何人かの男たちが並んでいる。取持ち女は、
「今日は、朝は2人、昼からも2人だけだよ、あちらに予約できなかったのならこちらにおいで、あちらは、下手したら一日空かないからね」
と声をかける。
 あの中に入ってもディンに会えるのだろう、だが、自分だけの場所があるのは、気持ちがよかった。
 森を見ると、陽炎のような何かが、木立の上に、立ち上がっているように見えた。それは、こちらまで漂って、やがて降ってきた。細かい金粉のようにみえるものだった。あたりは香りも強い。
 廃寺の裏庭で、ディンは私を、微笑んで迎えてくれた。
 とても眠たかった。私は、ディンの手を握って座りながら、すこしうとうとした。
 夢を見た。夜だった。ディンの住む当たりの丘の上、祠のような小さな寺院の、まわりにも中にもかがり火があった。
 私は風弦をいじりながら、祭壇をなるべく見ないようにしていた。
 ディンが、編み上げた赤っぽい上下を着て、帽子をかぶっていた。横には、一緒になる相手が、青っぽい上下を着ていた。祭壇に向かって並ぶ。その祭壇では、司祭役の、親族の男が経文をとなえている。常在の僧のいないところではよくあることである。
 ディンの笑顔は輝くようだった。経文が終わって、祭壇に背を向けて二人は歩き始めたが、ディンはふと、すたすた壁際の私のところへやってきた。
「ビーノ、ありがとう、私にも子供ができたわ、相手してくれてありがとう、もう会いたくもないけどね」
 一同はどっと笑い、どたどたと出て行って、かがり火のともる中に私は一人残された。
 泣くことすらできなかった。泣く理由もなかった。なにかなくしてしまったことだけが心に痛かったが、それにしたってもともと私のものではなかった。
 寺院の外でのざわめきに、風弦の音が乗った。ナギアの寺院から、風の具合で細く聞こえるものだった。
 目の前にディンがいた。植物でもなんでもよかった。赤い服を着ていた。
 それは、私をみて、夢の中のように、にかっと笑って見せた。
「私は、本物なの?あなたは私にいてほしいのかしら」
 そう聞こえた。
 空からはうすく金の粉のようなものが、あいかわらず漂い落ちる。赤い服が溶けるように消えて、薄暗い中で白い体が動いた。
 そのあとはもうわからない。ディンは私の口を求め、私は彼女に触れながら衣を解いていく。あらわれた私の肌に彼女は口をつける。局所も口に含み、私の首に手をかけて引き寄せ、耳をかんだ。
 私は彼女の胸に顔をうずめ、抱きしめる。手を伸ばすと、その部分はおそろしく滑らかだった。
 風弦の音があいかわらずかすかに聞こえる。
彼女の中に入って、私は、ずっと、腰を動かし続けた。腹の下のディンに、ただよう金の粉が落ちていく。まわりにおちたそれは、そのまま消えていくのに、ディンの上では色褪せず積もっていって、やがて全身が金色になった。
 何度も達したあと、彼女の腕の力がゆるくなった。金の粉はいつのまにか空気から消え、風弦の音も聞こえない。私は彼女の上から体を起こす。
 金色の体が、染みこむようにどんどん黒ずんでいく。私は体を離した。ゆらっと彼女は状態を起こし、足を揃えて膝を抱いて、私をみて、何か言う素振りのまま止まった。
 彼女の姿が薄くなっていく。何もできないままわたしはそれを見守っていた。
 彼女のいたところにあるのは、なんの変哲もない、背の低い、灌木だった。
 それはたしかに植物だった。

日はほとんど暮れていた。
 泉の横を通り抜ける。寺院のまわりは、昼とはうって変わって、静かである。
 金の粉がここにも降っていたのに、なんの跡形もなかった。空気から、香りは消えていた。坂をみあげると、ゆっくりと、人々は、つづら折りの道を、上の町に帰っていくところだった。
 寺の裏庭の塀の、出入り口の扉から、この数日その扉の前で通行人や巡礼に声をかけていた寺男が出てきた。私をちらっと見た。すこし何か言おうとしたようだが思いとどまったようで、結局何も言わず、彼も、坂を上がっていった。
 扉から、こんどはラーバ師が出てきた。私を見て、
「中に、湯がまだすこし残っていますよ、使わせてあげましょう、体中泥だらけではないですか、野良が相手にしても、敷物ぐらいは用意するよう教えて差し上げればよかったですね」
 私は、急に恥ずかしくなったのだが、ラーバ師は、あたりまえのように
「気にすることはないですよ、人それぞれのかかわり方はありますから、何も言わないのがきまりです」
「人それぞれということは、違うかかわり方もあるのですか」
「植物にとっては、どうであっても、結果が同じならいいようです」
 さあ、どうぞと、私は塀の中に入れられた。
 廃寺の裏庭とおなじ広さなのだろうが、中も高い木塀で仕切られている。中は見えない。
 寺の壁のそばに、布で囲まれた空間がある。中には、服を脱ぐところがあり、その奥に大きな盥がおかれ、柄杓が突っ込んであった。手前に簀子がしかれており、私は、まだぬるい湯で、体を流した。
 そのあと、私は、おずおずと、ラーバ師に、次の祀りはいつなのか尋ねた。
「次の満月ですよ」
 こともなげに、彼は答えた。

次の日は一日、私は部屋で眠り続けた。夢はみなかった。
 さらに翌日からしばらく、腹の具合が非常に悪かった。
 風弦の部品作りに立ち戻りながら、毎日、私は、廃寺の裏庭に通った。灌木は灌木のままだった。
 ラーバ師は私に、
「実がなると思いますよ、なってたら、もって来なさい、あつめて流すことになっています」
 サタが香を詰めていた壜の山は、作業所からなくなっていた。
 帰りのバスの日は、ぼんやりしているあいだに、過ぎてしまった。私は、作業台で、部品を見ながら、時間を過ごした。
 夜になると、部屋にいて、手ぬぐいに香をたらして、寝転んで鼻にあてていた。勿体ないと思ったのだが、それでは香の効き目がよわいのか、うっすらとしかディンの姿を夢にみない。言葉も聞こえない。
 灌木の陰には、小さな実ができていた。育つのは早く、新月の少し前には、それが子供の頭くらいまで大きくなった。模様のない、瓜のような手触りの実である。
 灌木とつながる蔓の部分がしおれてきたので、私は、ラーバ師からいわれたように、手斧で切り離して、実を持ち帰った。
 月のない夕刻だった。泉のそばに火がたかれている。森に向かって、ラーバ師が経文をとなえていた。賢者の経とよばれるものだった。
 火の前には、私が持ち帰ったのと同様の実がいくつも置かれていた。ラーバ師の声が大きくなった。
 円筒の家の扉があちこちであいて、同様の実を持った人たちがゆっくりあらわれた。たっぷりした衣で頭も覆っているからよくわからないが、ほとんどが年輩の男に見えた。やや若い女もいたようだ。
 サタが、泉に、実をひとつひとつ投げ込み始めた。ぜんぶ投げ込んでから、私に向かって、首をひねって見せた。お前もやれ、ということらしい。
 私も、泉に実を放り込む。家から出てきた人たちも、放り込む。
 半分以上沈み込んだ実は、上下に揺れながら、やがて流れに乗って、森の方に漂い始めた。ラーバ師は経文を唱え続け、人々はいつのまにか消えていた。

翌朝、私はまた森に入った。
 池には、昨日流された実が浮いていた。池から先に流れていかないよう、網が仕掛けられているようだ。その実を、廃寺のほうへ、サタが引き上げていた。私は騙されたような気分になった。
「どうするんだね、それ」
 ちらっと私を見たが、手は休めない。
「ほっておいたら、また、どこかで生えてしまうからね、儀式を終えたものは、香に使うんだ」
 池には入らない。たも網のようなもので実をひとつひとつ、手元に寄せては掬い上げる。
 私は廃寺の裏庭にいった。ディンであった灌木は、すこし影が濃くなったように見えたが、それだけだった。
 サタは実を、廃寺のなかに運び込んでいた。中は、あいかわらず、つよい香が満ちていた。香の中でみていると、実は、いつのまにか、赤ん坊が体をかためてじっとしているように見えた。
「それ、赤ん坊にみえるんだよ」
サタに声をかけると、
「あんたが来てそうなるなら、それが、こいつの狙いなんだろうね」
 よくわからないことを答えながら、彼は鉈を振り上げた。
「おい、なにをするんだ」
 赤ん坊の悲鳴のような甲高い音が一瞬し、赤ん坊は、ふたつに割られた実に戻った。
 次から次へと、彼は実を割っては、圧搾機になっている、ふたつに割られた短い丸太のあいだに放り込む。
 彼は、ついで、圧搾機のハンドルを回し始めた。丸太の間から、赤い汁が、その下の盥に落ちていく。潰されながら、実はまた、赤ん坊の叫ぶような音を立てた。
 サタはちらっと私を見た。私は何も言わず、外に出た。
 作業所でぼんやりしていると、ラーバ師がやってきた。
「風弦はどうでしょうね」
 そういわれると何も言えない。
「むこうからもってきた部品に、ちょっと手を入れれば、当面は何とかなると思うのですが」
「あなたの印をつけた木も、裏にさらしてあります。あなたは見える性質(たち)なのですから、仕方ないのです、こういうことがないように、なるべく森のなかで近いところには、あれは生やさないようにしていたのですが」
「絞ってどうするのですか、あれは」
「醸して、精製して、香にしますよ、あなたもお持ちでしょう。醸すのはあっちでやるのです、すごく匂いますからね。きっちり搾り取ってもなかなか量がないので、おや、どうされました」
 私は、非常に気持ちが悪くなった。ラーバ師は口調を変えた。
「風弦を回るのはやめて、廃寺の裏庭で思い出と向かい合い続けるのもひとつのありようですがね。ここの家に住む人たちはそういう人たちです。でも、外から、ここに通うひとたちの多くは、ここで思い出と向き合っては、帰ってまた自分の人生を過ごすのです。もちろん思い出のありようはいろいろです。どうしたいのか考えられるなら、できる範囲で手助けはしますよ。ただ、あちらの裏庭にいつまでもいるのは考え物ですけれど、家はいま空いていないのですよ」
 ラーバ師は、素っ気なく話を締めくくった。

相変わらず、ろくに何も手がつかないまま、私はナギアにいた。
 ふたたび、香の壜を、寝るたびにあけはなすようになった。すぐに、はっきりディンの夢を見るようになった。
 朝が来ると、自分がここにいる理由を確認するように、作業場にいく。風弦の部品は、毎日なんとなく短時間いじくるだけである。本気で作業すればあっという間じゃないかと思いながら、集中力がもたない。食欲もない。
 廃寺の裏庭に出かけていく。まだだと自分に言い聞かせてから、その確認にいくのである。
 灌木は、じわじわとまた形をととのえつつあった。それを見ては、さっさと引き上げ、部屋にこもって、寝床ですごした。
 夢の中で、ディンは、いろんな姿で私を相手した。
 実際のディンとの記憶ばかりではなかった。酌婦たちとのやりとりの記憶も、夢にどんどん入り込んできた。旅の途中で、金銭の有無はともあれ相手してくれた酌婦のような女たちには、むしろ、自分にとって、同士のようなものを感じていた。それはとても都合のいい感覚だった。
「妹の具合が悪くてさあ」
 ディンによく似た顔の誰かが、夢の中でほがらかに言った。
「いとこが、迎えにきてくれるはずなのよ」
 齢のいったディンのような顔の誰かが、つぶやいた。
 彼女らが本当のことを言ってくれていたのかもわからない。自分が、本当の話をされるに値すると、自分では思っていなかったことに気づく。そんな自分に、本当のことをいってくれた酌婦もいたかもしれないと、また申し訳ない気分になる。誰かがいう。
「いろんなところにいくのね」
 その背中を私は撫でながら答えた。
「いろんなところにいっても、自分はかわらないよ」
「新しいことをみてもかわらないの」
「偏見が増えるだけだったよ」
 そうではないものの知り方もどこかにあったはずだと続いて思ったが、それきりだった。

バニアにいくバスが、上の町を通った日の、翌朝である。
 宿の部屋の戸がいきなりあいた。
「誰かいるかい」
 すこし甲高い声だった。若い、白い服の男がこちらを覗きこんでいた。
「違うな、すまないね」
 男は戸口から姿を消し、ついでラーバ師が現れた。
「失礼、止めたのですが、人を探すんだと言われまして」
 回廊を降りて行った男が、別の部屋の戸を叩く音がして、ラーバ師は苦笑いしながら、そちらへ降りて行った。
 泉の引き込みで、久しぶりに顔を洗いながら見ていると、ラーバ師だけが宿から寺に戻っていった。
 あの男が同宿人になるのかと、すこしうんざりした。なるべく遠い部屋であることを願った。
 作業所にいると、宿から、その男が出てきた。ぐるりを見渡して、目のあった私の方にやってきた。
「宿にいるのかい」
「さっき顔をみたじゃないかね」
「そうだったか」
 やや小柄で肉付きは悪くない。白い腰履きに、白いジャケットのようなものを着ている。あまり柄の良くない者の格好だが、肌はきれいで、妙な軽さがあった。
「人を探してるんだよ」
 何も言わず、私は男を見ていた。
 レームと彼は名乗った。人探しを請け負って、ここに来たのだと自己紹介した。昨日は上の町を見て回ったが、どこにもいなかったので、朝から、こちらにおりてきたのだという。
「こういう人なんだがね」
 懐から、傷だらけの薄い透明樹脂に挟み込んだ写真を見せた。やや年輩の男で、まったく見覚えがないので、
「見たことないね」
「家があるんだが、あそこには皆人は住んでいるのかい」
「空いてる家はないとかいっていたね、そういえば」
「そうか、俺もそう聞いたよ」
 ではなぜ私に訊くのだろうと思った。彼は、つよくなりつつある朝の日差しのなかで、近くの家に歩いていき、中に声をかけた。何度も声をかけていたが、返事はなかった。

灌木は、色がかなり明るくなり、うずくまった若い女の格好にかわりつつある。私はその前に座り込んで、しばらく眺めていた。
 そのうち眠くなった。夜はずっと夢を見ているような気がする。それはもちろん気のせいなのだろう。夢を見るのが、疲れからの回復に必要だと聞いた気がするのだが、ずっと夢を見ていると、ずっと起きているようである。
 少し風が動いた。
 香のような、生々しい匂いが漂ってきた。まわりこんだところで、廃寺を出入りする音がしている。サタが、作業をしに来ているのだろうと、裏庭の壁にもたれて、半ば眠りながら思った。
 つよい香りがただよってきた。ディンの声が聞こえてきた。ぼんやり目をあけても、灌木はディンになりきっておらず、これは夢なのだろうと私は思った。
眼を閉じて、なにも見えない。耳元でどんどんざわめきが強くなり、人がしゃべりながら通りすぎて行くように思えた。
その中で
「ビーノ」
 声が聞こえた。そのままざわめきは消えていった。
 眼を開ける。灌木は、さらにすこしディンのようにみえたが、うずくまったままで、それ以上はかわらない。私は、立ち上がって、おもての出入り口にまわった。
 扉はあいていて、サタが、最後の搾りかすをバケツにいれていた。
「もうじきまた祀りだからね、なんとか搾りおわったよ」
 彼はバケツを、池よりも下流にぶちまけた。橙色の搾りかすは、ゆっくり流れていった。
 その夜も、部屋に香を満たして眠った。夢にみることが、ディンとのことなのか酌婦たちのことなのか、どんどんわからなくなってきていた。おなじことも繰り返し夢に見た。私には、そんなにたくさんの思い出はなかった。
次の朝、作業場にいると、レームが宿から現れた。あまりいい顔色ではなかった。
「えらく、匂いのきつい宿だな」
 ほかに相手がいないので、また私のところに来たのである。
 たぶん私の部屋の香も入ってるよ、と思ったが、口には出さない。
「それで昔の夢をみたりすると、ここでむかしの思い出に会えるんだそうだ」
「なんだね、そりゃあ、、、」
 レームは嫌そうな顔をした。
「勘弁してくれよ、それよりそのへんに梯子はないものかい」
 廃寺から、いつのまにかサタの持ち帰ったものがどこかにあるはずだったが、
「何に使うんだね」
「誰も入れてくれない、返事もないんだ、家の中に入るにはそれがいい、入ったらなんとかする」
 相手をする気になれかった。レームは、今やっと思いついたように、
「あんたは、いったいなにをしてるんだね」
「寺の修理にきたんだよ」
「なにもやってないように見えるがな」
 その通りだった。
「ここはそもそもどういうところなんだね」
「思い出に会えるところだ、人によっては」
「俺の探す相手がナギアにいるらしいというのは、出鱈目だったのかね、未練がましい奴だったんだがねえ」
 私は黙って聞いていた。

廃寺の裏庭のディンは、さらに、はっきりしてきていたが、声をかけてもすこし身じろぎするだけだった。
 サタは、こんどは発酵樽の具合をみていた。
「祀りも近いし、しばらく、手を付けられないからね」
 森から出て、泉の引き込みで手足を洗っていると、寺のなかから、レームの大声がきこえてきた。
「誰も出てこないんだ、帰りのバスは今朝出てしまったし、なんとかならないのか、顔を見たいだけなんだ」
 そのバスは、ひと月前に私が乗ってきたものの筈だった。
 低い声で、ラーバ師は応えている。
 顔を見て、それが探す相手なら、顔を見るだけではすまないのだろうと、私は思った。
「祀りが終わればというのは、いつなんだよ」
 求める返事があったようで、レームは寺から出てきた。私の顔を見ても表情はかえず、宿に向かった。
 彼が夢を見る性質(たち)なのかどうかはわからないが、見ているのであれば、あまりいい夢のようには思えなかった。
 翌朝、扉の外を、誰かが足早に出ていく気配だけがあった。
 作業場にいると、遠いところでなにかのはじける音がした。しばらくして、森の中から、サタがだれかを肩にかついで出てきて、泉の引き込みの傍で降ろした。
 上着を脱いでいたのでわからなかったのだが、レームだった。引き込みのそばに仰向きに横たえられ、左腕に、白い上着をまきつけていたが、それは赤く染まっていた。目を閉じて、うなっている。
 サタはそのまま、大声でラーバ師を呼んだ。
「二の腕の、肉がふっとんだだけだ、血を止めたら大丈夫。骨なんかにあたらなくてよかったな」
 サタに肩のあたりをおさえさせて、ラーバ師は、香の壜をあけた。
「酒精度は60超えてるんですよ」
 誰にいうともなく、晒しに振りまき、折りたたんで創口にあてて、上から更に晒しを巻いた。
「気づけです」
 レームの口にも香を含ませた。彼は、ひどく咳き込んだ。
 血だらけの上着をよくみると、胸のあたりと、左腕に穴が開いていた。サタは、
「ビーノさん、あんたのいつもいくところで起こったんだよ、この騒ぎは」
私にはよくわからなかった。
「どこというんだい」
「あっちの裏庭だな、すごい音がしたもので、見に行ったら、この人がぶっ倒れてたんだ、たぶん、自分を撃ったんだな。あんたが待ってるやつは、変な男になってたよ、それを見て、びっくりして懐から拳銃を出そうとして、はじけちゃったんじゃないかな」
 そこは私の場所という訳ではないはずだったが、私の意識の中では、私の場所だった。
 3人に背を向けて私は森に入った。
 私やサタが森に入るので、それを見たレームは、何があるのか見にいったのか。本当に余計なことをすると、むやみに腹が立った。
 廃寺の裏庭には、ディンが、うずくまっていた。私を見ると、体を起こして、微笑んだ。
「何があったんだい」
 まだ話すことはできないようだったが、話すことができても、なにがあったか、私に説明することができたのかわからない。ディンは、ゆっくりかぶりを振って、目を閉じた。
 あたりをみると、血が地面にすこし垂れている。私は、足でそれを土に踏み込んだ。その横には、拳銃が落ちていた。触る気にならないし、拾って渡す相手も思いつかなかった。どうしようかすこし考え、数歩離れた下草のあいだに、つま先で銃把をつついて、押し込んだ。銃口は、ディンの反対に向けた。
 戻ると、レームはもう自分の部屋に戻されていた。ゆっくり歩くことができるようにはなったらしい。
 部屋中、香の匂いが満ちていた。傷にあてる晒に使われ、さらに口にまでいれられたのだから、仕方ない。レームは、目を閉じて黙り込んでいる。
「ときどき見にきてあげてくれませんか」
 ラーバ師は私に、すまなそうに頼み、レームは、要らないよと、つぶやくように言った。
 宿にはまた3人ほど客が入っていた。みな、自前の香を使わずとも夢を見たことだろう。私も、夢を見続けた。どんな話がもとにあったとしても、夢の中では、彼女と私のことになっていた。

また、祀りが始まった。
 寺男と取持ち女は、この時期だけ上の町からおりてくるのである。向かい合わせで、巡礼客に声をかけていた。
 巡礼客たちをみる余裕もできると、あらためて、齢のいった男が多いのに気づいた。
 決まった時間だけ、客たちは、仕切りの中に入れられる。うれしそうに上気した顔で出てくるものが多い。たまに、泣きながら出てくるものもいる。
 脚の悪いばあさんが、泉のそばで座り込んでいた。大丈夫かいときくと、
「死に際に、滅多なことをいうもんじゃないねえ」
とだけ言った。
 いつもは誰もいないのでにぎやかに見える。何人ものひとびとが、列を作って待っていたり、時に合わせ鳴らされる低音部を欠いた風弦に合わせて経を読んだりしていた。上の町との間には、絶えず人の行き来があった。
 ディンは、私に答えるようになった。私が話す合間に、誰についての記憶からきたのかわからないような彼女の思い出話がはさまっていく。。
 毎日、裏庭で、ディンを相手に、とりとめなく話をする。香りは森から漂う。ディンの傍で、ほとんど一日、ぼうっと過ごしては、宿に戻り、また夢を見る。
 触れ合うための祀りの日になった。私はいそいそと、敷物をもって裏庭にでかけた。
 早くきたので、まだディンは動き出していない。私は、廃寺の壁に背をつけて、すこし遠いところから見ていた。
 ディンは、すこし俯いていた。遠くから、風弦が聞こえる。
 梢がざわめいた。金の粉がただよう。ディンが、私が望んだように、私に笑いかける。
 そして、低い声で唸った。近づこうとした私は、立ち止まった。
 ディンの姿がすっと黒ずんだ。赤い服が、獣の毛のようになり、口から牙が飛び出した。目のぎらぎらした、猿のような風貌にかわった。
 私は後ろに数歩分跳ね、彼女だったものから離れた。
 その前にすとんと何かが下りてきた。私よりすこし丈の低い、毛の生えた、背の曲がった生き物が、手を地面につけて直立し、ディンに向かい合っていた。ディンだったものは、そいつに吠えかかった。そいつも、私に背を向けたまま吠えた。
 頭上ではあいかわらずのざわめきである。私は気づいた。
「猿か」
 猿と、ディンだったものは、私に目もくれず吠えあい、猿はじりじり近づいていく。私は数歩後にさがって、小さな茂みに足を取られて尻から座り込んだ。
 手元に何かあった。見ると、レームの落としていった拳銃が触れていた。それを拾い上げてみていると、向かい合う猿たちの声の調子がかわった。
 ディンだった猿が私をみて吠え、やってきた猿は私の方に向き直った。
 私は猿に、拳銃を向けて、引き金を引いた。轟音。猿は私をにらみ、近づいてくる。さらに引き金を引く。轟音。当たらない。もう一度引き金をきいたが、なにもおこらない。弾が切れたようだ。
 私の胸ほどの猿は、私のすぐ前に立ちはだかって、大声で吠え、両手を挙げた。私は拳銃を捨てた。反射のように、腰に手が行った。
 猿が私にとびつくと同時に、私は手斧をふりあげて猿の頭に打ち込んだ。猿は、動きをとめた。その体から力がぬけ、地面にくずれたが、私の手斧は外れずそのままで、私はその柄を握ったままだった。
 私はその向こうを見た。猿が、ディンに戻っていた。私を、いとおしそうな顔をしてみていた。赤い服が消えて、白い肌があらわになった。
 私は猿の頭から手斧を抜いた。猿はむこうに倒れ、頭から飛び散る血が、白いディンを頭から染めた。ディンはなんの反応も示さずに、私に手を伸ばす。私は、そのままディンのところまでいって、手斧をふりあげた。
 はじめ、ディンはあっけにとられた顔になった。血にまみれたディンに何度も手斧をふりおろすうちに、その姿は欠けはじめ、色は褪せて行った。金色の粉が降る中、私は、ディンの姿を失った灌木が、さらに根のみ残してばらばらになるまで、手斧を振り続けた。
 頭上で枝や葉の触れ合う音がした。見上げると、無数の猿が私を見下ろしていた。私はゆっくりその場を離れた。
 猿たちは私に合わせて移動し、なにかを投げおろしてきた。枝や、小さな木の実、小石もあったようだ。
 木の上から、そのあたりのものをちぎっては、猿たちは私にばらばらと投げおろし、その雨の下を、私は頭を抱えながら森から逃れた。

翌朝になった。宿の部屋の戸を叩く音がした。黙っていると、錠をかけていない戸が開いて、サタの声がした。
「いるかい、裏庭のあたりに血が垂れてるし、あれも根っこだけになってるからどうしたのかと思ったよ、怪我でもしたのか、あの血はなんだね、レームさんの血が残ってたのかい」
 廃寺に行って、裏庭のほうも念のため見に行ったということのようだった。私が、大丈夫だよとうなると、
「たまに思い余ってああする人はいるんだけど、そのあとはもう、思い出に会えなくなるんだ、ビーノさん、あれやったのなら、あんたはもう、ここにいても仕方ないよ」
 なぜか嬉しそうに言い、敷物は回収したよと付け加えて、去って行った。
 眼を閉じてまた夢を見ようと思ったが、眠れない。香の壜をみると、からからに乾いている。下着も手拭いも汚してしまって、洗わねばならない。
 私は体を起こして、宿を出た。ラーバ師が、寺から、家を見渡していた。そばに行って、おなじように家並みを見渡すと、私の顔は見ずに、
「思い出に対して、ずいぶん思い切ったことをされたようですね」
 私は、しばらく黙っていた。それから、
「いきなり、猿に変わりまして、そこに猿が来て、、」
 口にすると、何を言っているのかわからない。
「猿をどうしたのです」
「猿を打ち殺して、いっしょに、その、あれもつぶしてしまったので」
 ラーバ師は、目を閉じてすこし俯いた。
「猿にいきなりかわったということですか」
「そうです、そこに猿が来て」
 馬鹿のように説明を繰り返す。
「やはり野良はねえ、、、あの植物は、自分のところにやってくるそういう性質をもつもののなかで、一番強いものの相手をするのですよ、だから、ここの庭では仕切りをするし、みな中庭にいれて誰も近づけないのです、しかし猿もあなたも運が悪い、レームさんもそうですし、放っておくと碌なことにならない」
 首を振って、
「何も残ってなかったらしいですから、猿は、仲間が引き上げていったんでしょう、またみつけられて、頭の上からでかいものを当てられたら、ただではすまないですよ、もう森には近づけません、その必要もないでしょうが」
 私は、あまりよく考えないまま、その言葉を聞いていた。
 サタは、一軒づつ、家に声をかけて回っていた。前の満月の翌日、こんなことが行われているとは知らず、私は寝ていたのだった。
「あれはなにをしているのですか」
「祀りのあとですからね、声をかけてまわることになっているのですよ。今日になれば、顔ぐらい見られるんです、あの写真のお人はいないんですがね、私がそういうのだからそこでやめておけばいいのに」
 レームの話であった。ラーバ師は続ける。
「祀りのうちには、自分のおもいでとの間に、思いもよらないことが起こることもありますから、ほら、あなたのように」
 皮肉とも嫌味とも、ただの事実の叙述ともわからないまま黙っていると、サタが戻ってきた。
「ステアさんが、返事しないよ」
「すいぶん調子も悪そうでしたからねえ」
 ラーバ師は、サタといっしょに、3つほどむこうの家に向かった。私もついていく。
 ラーバ師は衣の裏から大きな鍵をだした。
「みな同じなんですがね」
 誰にいうともなくつぶやくのは、癖のようだ。扉の錠をあけた。
 屋根の下をぬけると、中庭がある。
 ディンとおなじような灌木が植わっており、そのそばに、老人が倒れていた。サタはそこに駆け寄って、しゃがみ込み、容態を見て、ラーバ師のほうに首を振った。
 ラーバ師は、死者に対する印を結んでから、そちらに歩き、私は遠回しに灌木に近づいた。廃寺の裏庭以外で、灌木をみるのは初めてだった。
 灌木は少しうねった。
「お」
とサタは声を上げ、ラーバ師もこちらを見た。
 灌木はディンの姿をとりかけた。最後に見た白い体だった。私に、微笑みかけようとし、いきなり大きな口を開けて白い眼をむいた。そのまま灌木に戻ってしまった。
 呆然としたまま、私は、灌木と、死体のぞばの2人を、交互に眺めた。ふたりは、
「使わなかったってことか、だから今日まで持ったのかな、もう遅いとおもうんだけど」
「ステアさんは、もともと、ずっと見ているだけの人だったんですよ」
 低い声で、私を見ないように話をしていた。
 サタは、大きな袋をもってきた。死体を押し込んで、担いで出ていき、いっしょにラーバ師も出ていく。私に、
「まだ、見ていたいですか」
 私は、立ち去りがたく感じて、戸口から灌木を眺めていた。
 宿から、レームが見ているのに気付いた。レームは、左腕が揺れないよう押さえながら、ゆっくり歩いてやってきた。
 私とは目を合わさないようにしている。彼が、私と並んで戸口から中庭を眺めると、灌木が姿を変えた。短い髪の若い女だった。
 そいつは、レームと名乗っていた男に、甘えるように声をかけた。
「、、、ダッシュ」
 私は、宿に戻った。

すぐに風弦は仕上がった。バスが通る前日には、仕組みもできた。
 サタにハンドルをまわしてもらい、いろいろとレバーをいれては、音を確認した。問題はなく、私は、仕上げを確認する和音を、いつもの順番で鳴らして、作業を終えた。
 私はラーバ師に、
「ひどい騒ぎになりました」
「いままでのなかで最もひどい騒ぎではありませんよ」
 どんな騒ぎがあったかは訊かないことにした。
「私はもう、思い出に会うことはできないのですね」
「会いたいのですか」
「わかりません、私は思い出を失ったのではなく、とっくになくしてしまっていたものに、気づいただけと思うのです」
「賢者のことばですね。あなたはもういる必要ないのですよ、この」
 ビーノ氏は、上目遣いにそのあたりを見回し、両手のひらを上に開け、初めて見る、軽蔑を思わせる表情で口にした。
「聖地に」
「あなたももう、会うことはできないときいたのですが」
 私は訊いた。
「夢は見ますよ、今でも。ですが、私ももう、拒まれているのですよ、あなた同様」
 ラーバ師は、首をすくめて答えた。
「もともとその性質(たち)でないならはじめからなにも見ないのです。ですが、その性質(たち)であっても、あれを裏切れば、もう私の前に現れてくれないのです。昔の話ですよ、私は、森のそばを、このすり鉢の下まで降りて行ったことがあります」
「森のそばを、ですか」
「森の中は歩きにくいですからね、外は外で、足場はよくないのですがね」
「川がずっと下まであるのですか」
「森は川に沿ってできていますからね。水がすり鉢の底に貯まれば大きな湖になってもおかしくないのですが、いちばん下で水は地面に吸い込まれていくだけで、そこに、流れ着いたあの実が、生えて、群落を作っていましたよ」
「たくさん生えているとどうなるのです」
「満月がくるべき日でしてね、一面に私の思い出が、私に向かっていろいろな格好で語りかけてきましたよ」
 ラーバ師にはそれ以上訊くことはなかった。訊いてもわからなかったろう。
 私は、川の行く先を想像した。そして、その果てにみるかぎり一面にディンがいて、私に向かい、語りかけ、挑発してくる有様を思い浮かべた。
 和やかに、ラーバ師は言った。
「生きていれば、これからもいろいろなことに出会うでしょう。これから先にあなたが思い出を得られたときに、それがあなたにとってよいものであることを祈りますよ。」
 背負子をかついで、私は寺を出た。見送りはない。
 上の町にあがっていこうと、歩き始めたところで、家の陰から私の前に出てくるものがいた。
 ひょろっとした猫背のその男は、私に声をかけた。
「ビーノ」
 私は呆気にとられた。
「、、、ビゴ、かい」
「調整の締めくくりにあの和音か、儂の工夫をそのまま使い続けるのは、工夫がないな」
 数十年前、私に仕事を譲った時にも、すでにそれなりの齢だったのだが、それほどかわらない姿で目の前にいた。
「ずいぶん時間をかけていたようだが、思い出にひっかかっていたのだろう」
「わかるのかい」
「見ればわかる」
 彼は、傲然と私を見下ろした。
「香は記憶を呼び起こし、この聖地でそれが実体化される。おまえは調べることも考えることも、苦手だった。その気になれば、この聖地で、求めるものをいくらでも目の前に引き出してきて、いつまでも楽しむことはできたろうに、ゆきずりの女のことしか思い出さなかったのか、まことにありきたりだな」
 それのどこが悪いのだと、言い返す気にはならなかった。ビゴは声をやわらげた。
「おそろしく狭い範囲の中で、おまえはおまえの相手をしていただけだよ。おまえは、おまえの思い出をなくした。お前以外の人間も生きていることにこれから気づくだろう、ずいぶん手間のかかったことだ」
 うしろから肩を叩かれた。
「ビーノさん」
 振り返ると、サタが、香の壜を差し出していた。
「部屋に、これが忘れてあったよ」
「これは、、、もう中身もなくなったので」
「お土産だ、入れておいてあげた」
 サタは私に笑いかけて、寺に戻っていった。
 向き直ると、そこにもうビゴはいない。私は、こじつけめいた説教が、この聖地に流れ着いた本物のビゴによるものなのか、なにかの拍子に私のなかにビゴの姿をとって生れ出たあぶくのようなものだったのか、考えながら、香の壜を背負子にしまい込んだ。そして、あらためて坂をゆっくりあがりはじめた。

文字数:38531

内容に関するアピール

ずいぶん前です。テレビを見ていました。ネイチャー番組が、蜂のたかる植物の擬態のことを解説していました。
 この擬態が、すっと消えたら、というイメージが出発点です。
 男性にとって自分にできるせいいっぱいのコミュニケーションであるものが、女性にとってはいつまでも勘違いご苦労さんでしかないことを、思ったりもします。私は男なのでそっちから話にするのです。
 主人公はよくいる、そこそこなダメ中年男です。自分のダメさが反映されていると思います。
 前に違う形で一度書き上げたのですが、書いたアプリもなくなってファイルは読めません。プリントアウトしたものだけが一部手元にあります。このたびは構想を一新して書き直しました。

文字数:302

課題提出者一覧