走馬灯アイドル

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走馬灯アイドル

 

世界はいつだって変化しつづけている。けれども、やはり決定的な変化の瞬間というものは存在する。それは、時折発生する大規模な地殻変動のようなものだ。これまでひとつづきだった地層にずれが生じ、平らな地面の上をただ前の人に倣って歩いていただけのはずの人々が、突如見慣れぬ地平にまで押し上げられたり、高い崖に行く手を阻まれて方向転換を強いられたり、分断されたりする。
 やっかいなのは、その断層が常に物理的に知覚できるものだとは限らないということだ。自分ではいままで通り歩いていたつもりで、だいぶ先へ進んでしまってから、あるときハッとなにかがおかしいと気づいたりする。

 

大学ではじめて東京に出てきたときも、ビルと車と人の多さに圧倒されたが、マニラはそれ以上だと都築春生ハルオは思った。まだ三月だというのに、照り付ける太陽が襟首を焦がし、あたりに充満する排気ガスの熱気が、息を吸うたびに鼻の奥を刺激する。クラクションがほうぼうで飛ぶように鳴り、この街にまだ慣れない春生は、音がするたびにいちいち顔を上げてしまう。
 春生の暮らす仙台では、ついこの間まで雪が降っていた。システムエンジニアという仕事柄、パソコンにかじりつく生活を送っている春生の白い顔や腕は、マニラの街には馴染まなかった。強い陽射しをたっぷりと吸い込んだ、道ゆく人の焼けた肌を眺めながら春生は、店の庇のつくる日影を選んで歩いていった。
 大通りには雑多な店が並んでいる。食料品店や雑貨店、果物屋やジューススタンド、揚げ菓子の店、ファストフード店もあれば、両替所や土産物屋もある。建物はいずれも古びて煤けていたが、ピンクや黄色、水色や赤茶などのカラフルな壁面が、通りを賑やかに演出していた。
 ひと昔前だったら、春生はカメラを手放さなかっただろう。しかし今はもう、その必要もない。便利な世の中になったものだと、春生は思う。視界に入ったものはすべて、春生の脳内のチップを経由して手元の端末に記録され、必要に応じていつでも好きなときに検索して見ることができる。
 春生は八年前、大学三年生のときにサークルの先輩に誘われて、当時日本に入ってきたばかりのライフログ・サービスを利用するようになった。インターネット関連のサービスと製品を展開するアメリカ最大手の多国籍テクノロジー企業と、アメリカの国立精神衛生研究所が共同で開発したサービスで、頭部に注射器で注入した米粒大のマイクロチップを経由して、手元の端末装置で記憶のすべてを瞬時に分析・検索・編集することができる。現在日本国内での普及率は、六割に達している(成人に限ればもっと高い)。
 春生は早速、目にした風景の記憶映像の中から幾枚かをピックアップして、仙台にいる妻の里子サトコと娘の里香リカ宛てに、「こちらの気温は32℃、とても暑いです」という音声メッセージとともに送信した。
 クラクションが鳴る。信号は赤だ。いくらクラクションを鳴らしたところで動けるようになるわけではないのにと、春生は音のした方を見遣った。車はずっと後ろの方まで並んでいる。車の合間を、子どもたちが歩いていた。薄汚れた青いタンクトップを身に付けた十歳くらいの男の子が、車のフロントガラスを雑巾で拭いている。終わると車の横の窓が開き、運転手がその子に小銭を渡した。黄色い花束をもった小さな女の子が、すかさず開いた窓に向かって「花は必要ない?」と声をかける。運転手は「花はいらない」と言って窓を閉めた。女の子の足もとは裸足だった。
 信号が青に変わると、子どもたちは歩道へ入った。“路上の子どもたちに何かあげる場合は、現金ではなく口に入れられるものを”--春生が渡航前に確認した旅の注意書きにはそうあった。子どもたちが手にした現金は、大半が後で大人たちに吸い上げられてしまう。だから子どもたちに何かあげる際は、すぐその場で腹の足しになるものにしたほうがよいという。路上の子どもたちの背後に控えている大人の姿は、表には見えない。
 春生はナップザックからソーダ味の飴玉をふた粒つかみ、ひと粒を自分の口に入れた。それからもうひと粒を、黄色い花を売っている女の子にあげた。彼女は窪んだ大きな瞳を春生のほうへ向けて、何も言わずすばやく飴玉を口に含んだ。
 女の子は嬉しそうな顔もせず、礼も言わなかった。春生はほんの一瞬、彼女のそのような態度に失望した。しかし、すぐに思い直した--いや、むしろ彼女が無愛想でよかったのだ。彼女にあげようと飴玉を取り出したとき、春生の脳裏にある疑念がよぎったことを彼は自覚していた。強き者をより強く、弱き者をより弱くすることによって成り立つ資本主義というシステムのおかげでもたらされた経済的繁栄の上に胡座をかき、日々のうのうと暮らしていながら、気まぐれに飴玉ひと粒の施しをしたくらいで、お前は善いことをした気になっているのではないか? それは偽善的行為である。だからこそ春生は、別に舐めたくもない飴玉を自分の口へ放り込んだのだ。あくまで君にはついでにあげるだけなのだ、という体裁をとるために。それでも、もし彼女が好ましい反応を見せたなら、春生はつい嬉しくなってしまったことだろう。そうすればしかし、次の瞬間には、先刻の「偽善的」なる咎め立てが戻ってきて、却って嫌な気分になったに違いない。
 春生の脳内をこのような一連の思考が駆け巡っているうちに、彼はいつの間にか子どもたちに取り囲まれていた。春生のほうへ無言で突き出された黒い腕たちは、遠慮がなかった。
「ダメだよ!」
 近くで中年女性の太い声がした。春生が振り向くと、小さな食料品店の店先で、水色のキャミソールから太い二の腕をむき出しにした大柄の女性が、まだ五、六歳かと思われる男の子を睨んでいた。男の子は手にスナック菓子の袋を握っている。
「ちゃんとこれくださいって言ってから持って行きな。つけとくから」
 男の子は黙ったままだった。それからあっという間に駆けて行き、すぐに姿が見えなくなった。
 春生は、目の前の子どもたちの手に、ひとつずつ飴玉をのせてやった。飴玉をもらった子たちは、さっさとその場からいなくなった。何をしているのかと思えば、もう他のお客探しを始めている。全員に飴玉をあげ終えた春生は、道端にひとりぽつんと取り残された。

春生がチェックインを済ませてホテルを出てから、まだ十五分と経っていなかった。なのに春生は、すでにマニラの空気に気圧されていた。
 春生は昔から、必死な人の前を素通りすることができない質だった。宗教の勧誘にしろ、募金にしろ、あるいは個人的な頼みごとにしろ、必死に自分になにかを訴えかけてくる人を無視することが苦手だった。宗教の勧誘に遭えば話を聞いたし、募金箱には百円玉を入れたし、大抵の頼みごとは断らなかった。必死さという点において、春生はいつも彼らには到底かなわないという気もちにさせられた。彼にはそこまで必死になれるものも、なる必要が生じることもなかった。その点に関して、彼は何かしら引け目のようなものを感じていたのかもしれない。
 春生は、パサイ市のショッピングモールへ向かっていた。その日はそこで、マニラのアイドルグループ〈Soft Bomb〉のステージが予定されていた。Soft Bombは、平均年齢が十二歳という女の子たちのグループで、中でも春生は、スラム出身の十歳のアイドル〈アビー〉に入れ込んでいた。今回春生がマニラに来たのは、ほかでもない、彼女のステージを観るためだ。二日後には、劇場でSoft Bombの単独ライブがあり、それに行くのがこの旅の主な目的だった。ついでに今日のステージも観て、明日はNPO主催のスラム街ツアーに参加する予定だった。そのツアーの見学ルートには、アビーの家族が住んでいるというスラム街が含まれていた。
 ステージの予定時刻までまだだいぶ時間があったので、春生は少し通りを歩いてから、適当なところでジプニーに乗って行くつもりだった。ジプニーは、昔米軍が使っていたジープを乗合バスに改造したもので、赤や黄や緑や青にペイントされた派手なバスが、先ほどから何台も、歩いている春生のすぐ脇を通過していった。
 春生は、大通りの喧騒の中で、自問自答をつづけた。もし先ほどの行為を偽善的と呼ぶならば、アビーに入れ込んでいるのもまた、偽善的と言われるのだろうか? いや、断じて違う、と春生は思った。春生にとってアビーは、崇拝の対象に近い存在だ。アビーは幼い子どもながら、自ら人生を切り開く猛烈な努力をしており、春生はその生き様を純粋に尊敬していた。春生は、アビーが七歳の頃からかれこれ三年ほど彼女を応援しているが、その間に結構な額の金銭を落としてきた。彼はそれを善行だと思ってやったことはないし、決してうわべだけの行為でもない。彼女の成功を心から願い、そのためにできる限りのことをやってきた。それは彼が自信をもって言えることだ。
 しかし、現にこの街には、アビーと同じく生まれながらにして恵まれない境遇の子どもたちが、こんなにもたくさんいる。彼ら/彼女らはアイドルでないために、その存在が固有名で知られることがないというだけで、彼らだって路上でこんなにも頑張っている。なのに、彼女たちは旅行客の気まぐれによる飴玉ひと粒で済まされ、アビーだけが尊敬の眼差しと金銭を集められるというのも、なんだか理不尽な気がした。しかしまあ、世の中というのはそもそもそういう不平等なものだし、もしすべての子どもたちを救おうなどと本気で考えるなら、当たり前だが、それは春生ひとりの手には負えない問題である。結局のところ、春生にできるのはアビーを応援することくらいなのだ。

ところで、なぜアビーなのか。そのきっかけを思い出すとき、春生はいつも少しだけ解せない気もちになる。その解せなさを、春生は「運命」という言葉に託していた。
 あれはいまから三年前、春生が里子と結婚してから、ちょうど一年が経った頃だった。春生が仕事から帰るなり、玄関で里子が「子どもができたみたいなの」と言った。里子はぺったんこのお腹に手を当てて、笑っていた。
 春生と里子の関係が、決定的に変化した瞬間だった。それはもちろん、無上の喜びと、少しの緊張を帯びた、好ましい関係への変化だった。春生と里子は、海沿いの小さな町で、それこそ赤ん坊の頃から一緒に育った。幼稚園も小学校も中学校も高校もずっと一緒で、大学だけは別々だったが(春生は東京に出て、里子は地元に残った)、大学を卒業して春生の就職先が地元に決まると、二人はまた自然と一緒になり、そのまま結婚に至った。二人にとって、二人が一緒にいることは、生まれたときからそうである、ごく自然な当たり前のことだった。その二人の間に、子どもが産まれるとわかった。これは、二人の間にはじめて意識的な結束力が芽生えた記念すべき瞬間だった。二人はこの好ましい変化を、無言のうちに完全に共有していた。
 春生は、この決定的瞬間の記憶映像を〈走馬灯〉に加えようと思った。〈走馬灯〉というのは、記憶映像の中から自動でフォトアルバムを作成してくれるライフログのフォトアルバム・サービスのひとつで、人生のベストアルバムのようなものである。手動で画像の追加や削除など編集をすることもできる。
 その晩、春生が端末装置で〈走馬灯〉を編集していると、サイド画面に「以下の画像を〈走馬灯〉に追加しませんか?」という文句とともに、オススメの記憶映像が複数表示された。里子や友人の画像にまじって、見知らぬ外国人の赤ちゃんの画像があった。裸でまだ目も開いていない状態の赤ん坊だったが、睫毛はすでに濃く長く、鼻筋も通っていた。
 春生の記憶にはまったくなかったが、記録に残っているということは、きっとどこかで目にしたことがあるのだろう。しかし、人生のベストアルバムである〈走馬灯〉に入れるほどの画像なら、記憶に残っていてもよいはずである。春生は少々解せない気分だった。
 春生がその画像をライフログ検索にかけると、大学二年生のときの記憶映像で、〈アビー〉という名前のフィリピン人の女の子だということがわかった。春生がライフログをはじめる前の出来事なので、それ以上の詳細は記録に残っておらずわからなかったが、少なくともその翌年にライフログをはじめたときには、アビーという名前とあの赤ん坊の姿を春生は記憶していたということになる。だからこそ記録に残った。しかしその後すっかり忘れてしまったというのは、どういうことなのか。
 里子のお腹に里香の生命が宿ったとわかった日に、春生の〈走馬灯〉に登場したもうひとりの赤ん坊。それがアビーだった。春生は、これは「運命」と呼ぶべき何かなのだと思うことにした。その後、アビーがアイドルになっていることを知ると、春生は彼女を応援するようになった。「運命」と呼ぶ以外に、この事態をどう説明できただろうか。

マニラ滞在二日目。春生は、NPO主催のスラム街ツアーに参加した。
 春生は前日にSoft Bombのステージを観にショッピングモールを訪れていただけに、それとの落差を目の当たりにし、愕然とせざるを得なかった。明るく清潔で整然としたショッピングモールと、薄暗く不衛生で混沌としたスラム街。これら二つの対照的な空間が同じ街に平然と同居しているということが、春生には俄かには信じられなかった。
 アビーはまだほんの小さな子どもなのに、この両極端な空間の双方を行き来しながら、大きな世界と戦っているのだ。十歳と言えば、日本ではほとんどの子が、守られた安全な檻の中でのほほんと遊んだり勉強したりしている年頃だ。昨日ショッピングモールのきらびやかなステージ上からアビーが発した魂を爆発させたような歌声と、キレのいいダンスとともにみせた力強い眼差しは、ぬくぬくと育ってきた子どもからは到底出てきようのない圧倒的なパフォーマンスだった。まだ十歳なのに、大人顔負けの色気が漂っていることに、春生は彼女の苦労を思って涙が出そうになった。
 スラム街とは一口に言っても、その様相はまちまちである。一応家と呼べるような建物の中に暮らしている地域もあれば、それこそ土管を家代わりに雨露をしのいで生活しているような地域もある。ツアーの一行はその日、三つのスラム街を訪れた。
 ひとつは、スモーキーマウンテンと呼ばれる、おそらく日本でも最も有名なスラム街だ。ゴミの売買で生計を立てている人々が、巨大な町を形成して暮らしている。町中至るところにゴミが溢れ、凄まじい臭気が漂っているが、町には、売店もあれば保育園もある。電気も通っている。もうひとつは、数え切れないほどの土管が並ぶエリア。使われずに放棄された下水用の土管の中に人々が住みつき、寝起きをしている。食い扶持はそれぞれに路上で得ているという。そして最後に訪れたのが、廃墟の中につくられたスラム街だった。アビーがかつて暮らしていた場所だ。アビー自身は、いまはアイドル養成所の寮に暮らすが、彼女の家族は未だにそこに住んでいるという。
 日本のNPO主催のツアーだったので、引率のスタッフも参加者も、日本人ばかりだった。参加者は春生を含めて六名いた。都内の女子大学生三人組と、フィリピンには何度も来ているという福岡の年配の男性と、もうひとり、春生と同じくSoft Bombのライブを観に北海道から来たという四十代の男性がいた。米田と名乗る彼は、Soft Bombのリーダーを務めるセラのファンらしかった。
「僕はアビーのファンなんです」
 と春生が言うと、米田は、
「都築くんは、このツアーに参加するのは初めて?」
 と尋ねた。米田は恰幅のいい身体を揺らしながら、豊かな声量でしゃべる。
「マニラに来たこと自体、初めてで」
 と春生が答えると、「そっか」と米田は言って、ツアーのスタッフに、アビーの生家に寄ってくれるようすぐに話をつけてくれた。
「寄ってくれるってさ」
 米田は色艶のいい顔に人のよさそうな笑みを浮かべ、春生の肩を叩いた。

ツアーの一行は、主催者側がチャーターしてくれたマイクロバスを表通りで降り、三つ目の見学地へと向かって歩いていた。春生は、すでに見学した二つのスラム街のあまりの臭さと汚さに吐き気をもよおしかけていたが、三度目にバスを降りた辺り一帯は、スラム街というよりは、のどかな貧しい町という印象だった。煤けた黄色い壁の家々が並び、砂埃が舞う中を、小さな子どもを連れた女性がのんびりと歩いていた。
 十分ほど歩いたところで、大きなコンクリートの朽ちた建物が現れた。かつて米軍の施設があった場所だという。その建物の前まで来ると、引率スタッフは歩みを止めた。
「ここが入り口です」
 スタッフの人が指し示したのは、人ひとりがやっと通れるかというくらいの、狭い通路だった。廃墟と化したコンクリートの建物の中に、数百世帯が不法に住みついているという。
 春生たちは、黒ずんだコンクリートの高壁に服が擦れるほどに狭くて暗い通路を進んでいった。通路の片側に、四畳ほどに間仕切られた住居スペースが連なる。ドアがないため中は丸見えである。部屋の片隅に、布団代わりに使われているのであろう布類が積んであり、鍋が転がり、あとはこまごまとした日用品が置いてあった。
「日中、住人のほとんどは出払っていていません。大人も子どもも、路上で労働をしています」
 引率スタッフの男性の説明する声が、コンクリートの壁に反響して、高いところから聞こえた。この廃墟で暮らす者たちのために、日用品や食料品をバラ売りしている店が数世帯おきにあり、そこで店番をしている老女と、狭い通路で、金だらいで洗濯をしている女の子を時々見かけるくらいで、他にほとんど人はいない。しかし夜になれば、この廃墟は、あまたの老若男女がうごめく無法地帯になるのだろう。春生はその蒸した闇を想像した。
「このような場所では、夜にどこかの世帯で火事が起こると、千にのぼる住人がほぼ全滅すると言います。逃げ道が、狭い通路の一本しかないからです。マニラには、このような貧民窟が未だに無数に存在するのです」
 スタッフの男性の声が、どこか遠い国のドキュメンタリー映画のナレーションのように響いた。春生の前を歩いていた米田が、神妙そうな顔つきをして振り返った。
「僕にできることなんて何もないんだけどさ、こういう現実があるっていうことだけは忘れちゃいけないと思って、僕はライブでマニラに来るたびに、こういうツアーに参加してるんだ」
 米田の言葉に春生は無言で頷いたきり、特になにも言い返さなかった。それよりも春生は、先ほどから出くわす老婆や女の子たちが向けてくる無関心な眼差しが気になっていた。昨日通りを歩いていたときに見た路上の子どもたちは、周囲の人々に対して積極的だった。春生のもとにも、飴玉目当てでたくさんの子どもたちが寄ってきた。路上では、春生たちは彼らの関心の対象となっていた。なぜなら、食糧なり金銭なりを与えてくれるかもしれない存在だからだ。路上は、彼らにとっての仕事場だった。しかし、コンクリート塀の廃墟の中は、そうではない。ここは彼らの生活の場なのだ。ひとたび廃墟の中に入れば、春生たちは、彼らにとって全くの役立たず、用無しの人間であった。ここは、自分のような者が無闇に立ち入るべき場所ではなかったのかもしれないと、春生は後悔しはじめていた。
「ここに生まれた人のほとんどは、ここで一生を終えます。アイドルグループSoft Bombのアビーさんは、ここの出身ですが、例外的に幸運な事例ですね」
 引率スタッフの男性が、春生のほうを見て言った。
「ここがアビーの家族が住んでるところ」
 米田が春生に耳打ちした。米田が指をさしたほうを見ると、濃いピンク色のノースリーブを着た五十歳くらいのほっそりとした女性が、座って編み物をしていた。手の動きが随分とゆっくりだった。黒い縮れた髪や、目鼻立ちのはっきりした顔が、どことなくアビーに似ていた。しかし、意志の強そうな目をしたアビーとは対照的に、彼女の目つきはぼんやりとして、焦点の定まらない感じだった。
 ラジオが小さな音でかかっていた。SONY製のラジカセだったが、ずいぶんと旧い型のもののようだった。タガログ語の放送でなにを言っているのかはわからなかったが、話し声の調子から、ニュース番組だろうと春生は思った。
 スタッフがその女性に何やら言うと、その女性は、春生のほうを見て頭を下げた。
「ハニさんっていうんだ、アビーのお祖母さんだよ」
 米田が言った。まだお祖母さんと言われるような年齢ではないだろうと春生は思ったが、この人もこの人の娘も、きっと若くして子どもを産んだのだということに思い当たり、納得がいった。
「アビーの家族が住んでいるスラムに来たよ。これがアビーのお祖母さんのハニさん」
 春生は里子に、数枚の映像とともにメッセージを送った。しかし、すぐにエラーメッセージが返ってきた。
 どうしたのだろうと春生が思った、その直後だった。ハニがスタッフになにかを言った。するとスタッフの顔がハッとこわばり、それから彼は「サラーマッポ」と言った。「ありがとう」という意味だ。
 深刻な表情をしたスタッフが、ツアー参加者たちのほうを向いた。
「いまこちらの方が、ラジオのニュースの内容を教えてくださいました。少し前に、日本の東北地方太平洋沖で、かなり大きな地震が起こったようです。マグニチュード9.0、最大震度7、津波の被害も出ているとのことです」

 

 

東日本大震災と呼ばれる大地震が起こってから、ちょうど二年が経った。
 春生はクリニックの診療室の椅子に腰かけ、ぼんやりする頭であたりを見回していた。春生の白い顔はやつれ、無精髭が伸びていた。やけに白い室内が、春生には眩しく感じられた。なぜ自分がここにいるのかはよく思い出せなかったが、目の前にいる石崎という医師の顔を、春生は覚えていた。初老に差し掛かった石崎の頭は半分以上が白髪で、額には深い皺が刻まれていたが、眼鏡の奥の小さな瞳は、彼の誠実さを表すように濁りがなかった。
「気分はどうですか」
「頭が重い感じがします。悪い夢をみて、起きた直後みたいな感じ」
 石崎の横には巨大なスクリーンがあり、そこには刻々と変化する何本もの折れ線グラフと、幾つかの数字が表示されていた。春生は、自身の頭や腕から伸びているコードを見て、スクリーンに表示されているのは自分の脳波や心拍数なのだろうと察した。
 石崎はスクリーンをしばらく眺めてから、
「いまから都築さんご自身の〈走馬灯〉をみてもらいます」
 と言った。
 もうひとつ別のスクリーンが上から下りてきて、春生の前に川沿いの景色が映し出された。懐かしい風景だった。春生はその日のことをよく覚えていた。

海と山に挟まれた海沿いの小さな町で育った。
 小学四年生の夏休み、春生たちは仲のよかった男女六人で、日焼けした肌の黒さを競い合うように、来る日も来る日も海や川へ入って遊んだ。
 その日は、近所の河原ではなく、家から自転車で三十分以上行ったところにある山の中腹まで来ていた。川の真ん中に、高さ二メートルほどの巨大な岩があるところがあって、春生たちは岩のてっぺんから川に飛び込むという遊びを何十回とくり返していた。疲れると岩の上に寝そべり、太陽の熱で皮膚から水滴がじりじりと蒸発していくのを感じながら、いろいろな話をした。話がふと途切れたとき、
「自由研究」
 と誰かが言い、
「どうしよう」
 と四人が言った。夏休みも終わりの頃だというのに。ひとり里子だけが、
「走馬灯をつくった」
 と答えた。
「走馬灯ってなに」
 とみんなが言い、その日の夜、みんなで里子の家に走馬灯を見に行くことになった。真っ暗なところで見たほうがきれいだからと、各自夕飯を家で食べてから里子の家に集まった。
 通された和室は、子どもたちで溢れかえった。里子には弟妹が三人もいて、そのうちのひとりはまだ赤ん坊だった。一歳の赤ん坊に走馬灯など見せてもなにも分からないだろうに、里子の一つ下の妹が赤ん坊を抱えて輪の中にまざっていた。
 里子ははじめ、上昇気流がどうの、と走馬灯がまわる仕組みを説明してくれようとしたが、春生たちはあまり聞いていなかった。それよりもはやく見せて、と誰かが言ったのかもしれない。里子は説明をやめ、黙って準備をはじめた。
 アルミ箔で覆われた支柱の立っている台座の上に、蝋燭をおき、火をつける。支柱の上に、アルミ皿でつくった羽根車の蓋のついた回転筒をかぶせる。円柱型の回転筒の側面は、魚や水泡や海藻の形にくり抜かれ、くり抜かれた部分には、カラーのセロファンが貼られていた。回転筒に六角柱型の行灯をかぶせると、里子は部屋の明かりを消した。
 部屋は急に静かになった。真っ暗な和室の真ん中に置かれた行灯の障子紙に、赤や黄の魚、青や緑の水疱や海藻が、ぼうっと浮かび上がった。春生は息をひそめて、目の前の赤い魚を見つめていた。しばらくすると、赤い魚がゆっくりと動きだした。黄色い魚が現れ、橙色の魚が現れ、ゆらめく海藻の合間を、色とりどりの魚たちが回っていった。
 暗い海の底で幻影をみているようだった。
 春生がふと顔を上げると、正面に赤く照らし出された里子の顔があった。毎日一緒にいるはずの里子の顔を、まじまじと見るのはこれがはじめてのような気がした。彼女の小さな顔があまりにも精巧につくられていることに気づき、春生は驚いていた。奥二重のすっきりした目元も、すっとした鼻先も、薄い唇も、隅々まで、雑なところのない繊細な曲線の連なりから成っていた。里子の顔の造形を担当した神様がいるとして、その神様はよほど手先が器用だったに違いない。
 青くなったり黄色くなったり次々に変化する影の色の中で、走馬灯を見つめる里子の瞳だけは何色にも染まらなかった。春生はその眼差しに引き込まれ、それから、なぜだか猛烈に恥ずかしい感情におそわれた。この感情を恋と呼ぶのだということに気づくには、このときの春生はまだ幼すぎた。自分が理由もなく恥ずかしい想いをしなければならないことが理不尽な気がして、このときの春生は、どちらかというと里子に対して反発を覚えたのだ。

スクリーンの映像が消えると、石崎が尋ねた。
「これは都築さんの初恋の記憶ですね」
 春生は頷いた。
「これを見て、どう思われました?」
 石崎は、折れ線グラフや数字の表示されたスクリーンを横目で確認しながら、春生の答えを待った。スクリーンには特に変化は現れていない。春生は黙ったままだった。
「都築さんの初恋の相手の里子さんですが、一昨年の震災で亡くなられましたね」
 石崎は、静かな声で言った。春生は反射的に一瞬びくっと身体を痙攣させたが、すぐに落ち着いた。
「そうですね。あの震災では、本当にたくさんの友人や知人を亡くしました。彼女らのことを思うと……」
 春生は言葉を詰まらせたが、涙は流れなかった。涙はすでに枯れるほど流したような記憶が、春生にはあった。
「震災のあったあの日、都築さんは仙台にいらっしゃらなかった」
「そうです、僕は日本にいませんでした」
「どちらにいらっしゃったのですか」
「フィリピンのマニラです」
「なぜマニラへ?」
 春生はそこで一度、深く呼吸をした。
「アビーのライブを観にいくためです」
 春生はうなだれ、石崎は優しい表情になった。
「そうですか、アビーさんのライブに」
 石崎はスクリーンのグラフと数値を確かめ、春生に、もう少し話をつづけてもいいかと尋ねた。春生は、構わないと答えた。
「では都築さんは、アビーさんのおかげで、震災に遭わずに済んだとも言えますね。アビーさんは命の恩人だ」
「そう、言えますね」
「アビーさんも、もしそれを知ったら、喜んでくれるんじゃないですか?」
「ええ、でも……」
「でも?」
「でもアビーは、そもそも僕のせいで大変な生活を強いられているから」
「……ほう」
 石崎は額にぐっと皺を寄せて、春生のほうへ身を乗り出した。
「都築さん、その話をもう少し詳しく聞かせてもらえますか」
 春生は「わかりました」と答え、訥々と語りはじめた。

あれは、僕が大学一年のときでした。
 僕は、生まれも育ちも仙台で、大学ではじめて、東京へ出ました。憧れの東京は、遊ぶところも、働くところも、とにかくなんでもあって、僕が暮らしていた小さな田舎町とは、比べものにならないくらいデカくて、刺激に満ちた場所でした。まあ、僕にはちょっと刺激が強すぎたんですかね。自分をうまく律することができなくて、大学一、二年の頃は特に、羽目を外していたと思います。家族の目も、近所の目もない、いつどこで誰となにをしていようと、誰からもなにも言われない。そんな自由を得たのは、生まれてはじめてでしたから。僕は大学の授業もそこそこに、まあ、学費を稼がなきゃいけないという言い訳もありましたが、アルバイトに明け暮れていました。大学一年のときは、大学近くの居酒屋で働いていました。
 その居酒屋のアルバイト仲間に、フィリピン人の女の子がいました。フィリピン人だけじゃなくて、中国人や韓国人、確かベトナム人の子なんかもいたんですけど、とにかく色々な国の人たちがいて、片言の日本語と片言の英語を使って、みんなでワイワイ楽しく働いていました。みんな仲がよかったですね。僕は外国人と知り合うこと自体はじめての経験だったから、積極的に交流しようと思って、よくアルバイト仲間と仕事終わりに、朝まで飲んで帰っていました。
 外国人の子たちは、タフでしたね。僕なんか、朝まで飲んだ日は、いいや、大学の授業休んじゃえって、帰ってから寝るんですけど、彼らはそうじゃなかった。大学に通ってる子とか、日本語学校に通ってる子とか、アルバイトをかけもちして働きまくってる子とか、色々でしたけど、みんな寝ないでそのまま学校に行ったり働きに出たりしてましたね。みんなそれぞれ必死に勉強したり稼いだりしていて、僕はそんな彼女たちのことを、心から尊敬していました。
 中でも、フィリピン人の女の子とは、特に親しくなりました。カレンっていう名前の子でした。お互いの家に泊まったりもしていました。付き合っているというわけじゃなかったんですけど。彼女はアルバイトを三つかけもちしていて、アルバイト代は、東京での最低限の生活費を除いて残りは全部、フィリピンにいる家族に仕送りしていると言っていました。
 あれは確か、十二月の半ば頃だったと思います。クリスマスどうするなんていう話をしてたので。カレンが、ある日突然、フィリピンに帰るって言い出したんです。なんでって訊くと、子どもができた、と。おめでとうと言ったら、あなたの子だ、と言われました。確かにそれまでに何度かそういうことはありましたが、だからと言って、その子が自分の子だという保証はないだろうと思ったので、訊いてみると、私は春生以外とは、そういう関係をもったことはないのだと、彼女は言ったんです。僕は正直に、申し訳ないけれど、自分はこの子の父親にはなれないと、謝りました。堕ろすなら費用はもつと、提案もしました。けれど彼女は、絶対に堕ろすことはしないと、強く言い張りました。フィリピンに帰って産むから、と。
 それ以来、カレンとは会っていません。ですが、彼女がフィリピンに帰った翌年に、赤ちゃんの写真がメールで送られてきました。そこには、アビーという名前の女の子です、と書いてありました。

室内に、しばしの沈黙が流れた。春生はこのときはじめて、部屋にクラシック音楽が小さな音量でかかっていることに気づいた。口の中が異常に乾いていた。
 石崎は、春生にもうこれ以上話をつづける意思がないことを見て取ると、
「つまり、アビーさんは都築さんのお嬢さん、ということですか」
 と、話の結論を確認した。
「はい、そうです」
 石崎は「つまり」を繰り返した。
「都築さんは、震災の災禍から自分だけ逃れることができたのは、もちろんご自宅が流されるという大変な被害には遭われていますけれども、でも、あの本当に恐ろしい光景を目の当たりにせずに済み、周りでたくさんのご友人が亡くなっている中、日本にいなかったおかげで命拾いしたのは、他でもない、ご自分の過去の過ちのおかげだったという、その逆説に苦しんでらっしゃる、ということですね」
 そう、そうなのだ。春生は思わず、「うぅっ」と呻き声をもらした。地元の人たちは、決して口に出しては言わないが、なぜお前は一番大変なときにここにいなかったのか、お前だけが災難から逃れられたのはなぜなのか、それだけの幸運に値するほどの善行を積んできたのか、お前にその資格があるのかと、責めの眼差しを春生に向けた。少なくとも、春生にはそのように感じられた。もちろん、春生の過ちのことなど誰も知らないはずだったが、それでも時折見抜かれているように感じることさえあった。春生には、その無言の眼差しが恐怖だった。
 そうだ、そうなのだ。春生は、この二年間自分が何に苦しんできたのかということを、いまはっきりと自覚することができた。
「都築さん」
 石崎が、心配そうに春生の顔を覗き込む。春生は激しく咳き込んだ。石崎は春生の咳がおさまるのを待って、言葉をつづけた。
「ひとつだけ、お伝えしておきましょう。都築さんの過ちと、震災のことは、分けて考える必要があります。その二つの事柄の間には、本来なんの関係もありません。関係があるように思えてしまうのは、たまたまタイミングが重なったせいです。都築さんは、本当は、異なる二つの問題と、それぞれに向き合う必要があるのです」
 石崎はそれから静かに、
「あなたが父親であることを、アビーさんに打ち明けたらどうですか」
 と言った。

診察を終えた石崎は、コンピューター画面に向かい、春生のライフログからログアウトしようとマウスを動かした。ログアウトボタンを押す前にもう一度だけ、一番下まで画面をスクロールし、〈secret memories〉のファイルに二重にロックがかかっていることを確認した。それから〈new memories〉のファイルの内容も再度確認した。
 滑り出しはまずまず順調だと、石崎は安堵のため息をついた。

仮設住宅に戻ると春生は、日暮れて薄暗い部屋の明かりをつけた。電灯ひとつで家中を眺め渡せる広さしかない。ダイニングキッチンと、ベッド。トイレとシャワー室。あるのはそれだけだ。
 もう二年もの歳月をここで過ごしているが、なんだか今日はいつもと部屋の様相が違うと、春生は思った。木製の小さなダイニングテーブルの上には、スーパーの袋、新聞、テレビのリモコン、ティッシュボックス。ベッドの上の洗濯ロープには、洗濯物がぶら下がり、布団の上には、脱いだ寝間着が丸めて置いてある。普段となんら変わらない光景だ。なのに、なにかが違って感じられるのは、石崎が最後に言ったあの言葉のせいかもしれないと春生は思った。心なしか部屋の空気の淀みがいつもより少ない気がした。
 春生はダイニングの椅子に腰かけると、アビーの新着ムービーを確認した。「アビーの宝物」シリーズの最新ムービーで、紹介されていたのは、二年前に彼がスラムを訪れたときハニが震災のニュースを伝えてくれた、あのSONY製のラジカセだった。そのラジカセは、アビーのお祖母さんが大切にしているもので、スラムでラジオをもっている家は多くないが、アビーは幸いそのお祖母さんのラジカセで小さい頃からラジオ放送を聞いて、たくさんのポップソングに触れることができ、それがアイドルを目指すきっかけになったという内容だった。
 アビーの笑顔がアップになって映し出される。十二歳になったアビーは、すでに十分に大人として通用する顔立ちになっていた。頬のラインは、もうふっくらとした子どものそれではなく、くっきりとした二重の目にゴールドのアイシャドウが映え、真っ赤な口紅とサイドに流した長い髪が、さらに大人っぽさを強調していた。
 マニラには、二年前のあの日以来、春生は行っていない。もうそろそろ、行ってもいいかもしれないと思った。石崎医師も言っていた。アビーのことと、震災のことは、別々に考えなければならない。自分はアビーの父親として、できる限りのことをしてあげなければならない。アビーに自分が父親であることを伝えたら、状況は少しでもいい方向へ動き出すだろうか。春生は少しだけ、前向きな気もちになっていた。
 それから春生は、アビーのファン交流サイトをチェックした。チャットの履歴を追っていくと、誰かが例のラジカセの型番を調べていて、一九七〇年代に発売されたSONYのモノラルラジカセであることがわかった。春生は、そんなに昔のラジカセが未だに使われていることに、軽い驚きをおぼえた。

ゴールデンウィークの少し前、四月の中旬に、春生は約二年ぶりにマニラの地に立っていた。
 あの後春生は、まずカレンと連絡を取ろうとしたが、連絡先が変わってしまったようで繋がらず、仕方がないのでアビーの所属する事務所宛にメールを送った。簡略に事情を説明し、ぜひアビーと会って話がしたいと、面会の依頼をした。あの手この手を使ってアイドルと個人的に接触しようとするファンの迷惑行為と思われ、無視される可能性が高いだろうと半ば諦めていたのだが、意外にも事務所からの返事はOKだった。
 約束の時間の午後六時ちょうどに、春生は指定されたビルの前にいた。茶色い四階建ての目立たないビルは、大通りから一本入った雑居ビルや商店の立ち並ぶ細い道沿いにあった。もう少し立派なビルを想像していた春生は、現実を見せられた気がして、不安な心もちになった。春生の姿がビルの中に吸い込まれるように消えると、夕暮れの薄暗い通りに、外燈の明かりがいっせいに灯った。
 狭い階段をのぼり二階へ行くと、そこは思いのほか清潔で明るく、コンクリートの壁沿いに水色や緑や黄色の扉がずらりと並んでいた。春生が指定されたEの部屋番号の扉は、クリーム色だった。レバーハンドルのドアノブは錆びてひんやりと冷たく、扉はすっと開いた。
 そこは、黒いソファとガラスのテーブルと観葉植物が置かれた応接室だった。白いワンピース姿のアビーと、オレンジ色のシャツを着た色黒の若い男が、満面の笑みでソファから立ち上がる。春生は、自分がどうやら歓迎されているらしいことがわかり安堵したが、彼らの話す英語はほとんど耳に入ってこなかった。男の異常に太い二の腕にばかり目がいき、アビーのほうをなかなか直視することができなかった。春生はアビーに腕を引かれ、黒いソファに腰かけた。グラスに入った冷たい紅茶を勧められ、ストローで一口飲むまで、春生は一言も発しなかった。ついに春生が意を決して、
「ツヅキハルオです、アビーの父親です」
 と名乗ると、
「知ってるわ、あなたは私のパパ」
 と、アビーはにっこり笑った。今日の彼女は真っ赤な口紅を塗っていないせいか、子どもらしい笑顔だった。
 二の腕の異常に太い男は、アビーのマネージャーだと言い、それからアビーとマネージャーの二人は、春生を質問攻めにした。マニラに来るのは何度目か、仕事はなにをしているのか、歳はいくつか、どこに住んでいるのか。震災が大変だったでしょうと気の毒そうな顔をし、復興作業は進んでいるのかと、心配そうに尋ねた。
 ひとしきり喋ると、マネージャーの男が、今後のことについて事務的な話をはじめた。春生がアビーの父親であることを疑ってはいないけれど、それでも法律的に正式な父親ではないのだから、今後勝手に訪ねて来るようなことがあっては困る。会いたいときは、必ず私を経由して、面会の予約を取ってほしい。面会には、私も必ず同席する。自分がアビーの父親だということも、公言しないでほしい。アビーは、父親のいない貧しいスラム出身の頑張っている女の子というイメージで売り出しているから、いや実際にそうなんだけれど、実は金持ちの日本人の父親がいたなんていうことが世間に知れたら、どんな噂が流れるかわからないからね。これでもアビーは、国内でそこそこ名の知れたアイドルだから、そこは慎重に願いたい、と。
 春生はマネージャーの言うことのいちいちに、真妙に頷いた。マネージャーの話が終わると、春生は遠慮がちに尋ねた。
「ひとつだけお願いがあるのですが」
 なんでしょう、と言うマネージャーのほうではなく、アビーのほうを向いて、春生は、
「君のお母さんに一目会って話がしたいんだけど、ダメかな」
 と言った。
 アビーとマネージャーは早口のタガログ語でなにやら相談をし、それからアビーが春生のほうを向いて言った。
「今晩、久しぶりに家族に会いに行くの。パパも一緒にどう?」
 マネージャーが春生に向けてウィンクをした。春生は「ありがとう」と答えた。
「ちょっと着替えて来るから待ってて」
 アビーはそう言って、部屋から出て行った。

デニムのショートパンツと古びた黄色いTシャツに着替え、黒いキャップを目深にかぶったアビーと、春生はタクシーに乗った。タクシーに乗り込むなり、アビーが「ラッキー」と呟いた。
「この運転手さんね、この界隈じゃ有名人なのよ、楽しみにしてて」
 タクシーが走りはじめるとすぐに、春生にはアビーの言ったことの意味がわかった。人通りが多く、ごちゃごちゃと混み合った夜の道を、タクシーはものすごいスピードで駆け抜けていった。窓ガラスのすぐそばを、人々の肩が流れていく。大通りに出ると、タクシーは、車を抜き、ジプニーを抜き、トラックを抜き、さらに加速していった。けたたましいクラクションの音が四方から鳴り響き、車窓から見える通りのネオンが、流線形に流れていった。
 運転手が車を三台ジグザグに抜くと、アビーがヒューと声をあげた。
「パパは、ママと東京で出会ったの?」
「そう、居酒屋で一緒に働いていた」
 スピードにつられて、春生の声が自然と大きくなる。春生が運転手のほう見ると、彼の眼球が猛スピードで左右に動いているのがわかった。アビーと春生の運命は、いままさに、この運転手の眼球運動に委ねられている。しかし、この運転手にも、アビーと春生にも、生命を賭して先を急ぐ、いったいどんな必要があるというのか。
「もう十年以上前でしょ、ママね、もう日本語忘れちゃってると思う」
 アビーがすまなそうな顔をして、春生を見た。クラクションが、ほうぼうで鳴りつづいている。
「わかった、英語で話してみるよ」
 春生は、運転手の眼球運動を祈るように見つめながら、いつの間にか「もっと行け!」と応援していた。運転手が、一台、二台、三台と、一直線に車を追い抜いた。タクシーの中には、高揚した妙な一体感が生まれはじめていた。

二年ぶりに訪れた夜の廃墟の中は、人々の熱気と話し声と、食べ物と酒と煙草の匂いに蒸していた。狭い住居スペースから溢れた人たちが、狭い通路を埋め尽くすように座り込み、飲み食いしたり、煙草をくわえながら賭け事に興じたりしていた。
 アビーと春生は、人々の上を跨ぎ、合間をすり抜けながら、薄暗い通路の喧騒の中を進んでいった。
「おっアビーじゃねえか、久しぶり」
「色っぽくなったね」
「あとで一緒に飲もうよ」
「あっ、アビー姉ちゃんだ」
「元気にやってるかい?」
 老若男女がアビーに声をかける。笑顔で一人ひとりに受け答えをするアビーは、やっぱりここでもアイドルだった。
「チャイニーズか?」
 陽気な酔っ払いが、春生に絡んでくる。
「アビーはいい女だろ」
「彼女はまだ十二歳の子どもですよ」
 春生が少しムッとして答えると、
「バカ言え、十二歳といやあ立派な大人だ」
 男はアルコール臭い息を吐いて、春生にも一杯どうかと勧めた。春生が首を振って断ると、男は面白くなさそうに、
「こいつも十二歳だよ」
 と言って、隣にいた男の子に酒を渡した。男の子が口をつけようとすると、部屋から女が出てきて「やめときな」と言い、子どもから酒を取り上げ男に返した。
 アビーと春生は、人で溢れかえる通路を少しずつ進んでいった。やがて前をゆくアビーの足が止まった。
「ちょっと待ってて」
 アビーは春生にそう言うと、部屋の中へ入っていった。アビーはすぐに戻ってきて、
「どうぞ」
 と言った。

春生の目の前に、カレンがいた。その右隣にハニがいて、左隣にアビーが座って、四人は狭い部屋の中で車座になって座った。部屋の入り口の隅に、裸電球のランプがひとつ置かれていた。座った四人の影が塊になって、部屋の奥の壁板にまで伸びていた。
「日本から来たツヅキハルオさん、私のパパよ」
 英語で喋ったアビーは、すぐにタガログ語でハニに向かって同じことを言った。ハニは、以前と同じぼんやりした目つきで春生を見て、頷くような仕草をした。
「カレン、僕のこと覚えてるかな」
「覚えてる」
 カレンは正面から春生の顔を見つめ、小さな声で呟いた。
「どうして?」
 春生はカレンに、アビーがアイドルになったことを知ってから、ずっと応援してきたこと、二年前アビーのライブを観にマニラへ来たときに、ちょうど地元で震災があったこと、津波で家は流されたけど、アビーのおかげで命拾いをしたこと、多くの人が亡くなった中で、自分だけ命が助かった、自分にはそんな資格があったのかと悩んでいたこと、これからはアビーの父親としてできる限りのことをしたいと思って、今日ここへ来たのだということを、拙い英語を駆使して懸命に語った。
「そして何より、カレン、君に謝りたかったんだ」
 春生は「ごめん」と言って、深く頭を下げた。しばらくの沈黙があった。アビーが春生の背中に手を置く。春生がゆっくり顔をあげると、昔と変わらない働き者のカレンの、強くて優しい眼差しが光っていた。それからカレンは、
「二人とも、ご飯がまだでしょう。大したものはないけど、食べてって」
 と言って、支度をはじめた。ハニは依然ぼんやりと座ったままだった。
 春生は、ハニの背後の床の上に置いてあるラジカセに目を留めた。
「そのラジカセ、この間の『アビーの宝物』で紹介してたものでしょう? ハニさんの大事なラジカセだっていう」
 春生が英語で話しかけると、アビーが間に入って通訳をしてくれた。
「そのラジカセは、どこで手に入れたんですか? 一九七〇年代に日本で製造されたものだと思うのですが」
 アビーとハニがタガログ語でしばらくやり取りをし、それからアビーが春生のほうに向き直って、ハニの話を伝えた。
「お祖母ちゃんはね、ルバング島の出身なの。二十歳のとき、まだ赤ん坊だったママを連れて、マニラへ来たのよ。そのラジカセは、島にいた子どもの頃に、お父さんにもらったんだって。お祖母ちゃんのお父さんは、日本人の軍人さんだったって言ってるわ。ミキオという名前で、お祖母ちゃんが十二歳のときに日本へ帰った。それ以来一度も会っていない。もう亡くなってるかもしれないし、生きていたとしても、結構な年のはずだって」
 ハニとミキオ、カレンとハルオ--偶然とはいえ、奇妙な符合に春生は多少の引っ掛かりを覚えた。ハニがラジオのスイッチを入れた。ザザーというノイズの合間から聞こえてきたのは、Soft Bombの最新曲「Follow Me」だった。

日本に帰国してすぐに、春生は石崎の診察を受け、マニラでの出来事を報告した。今日も春生の頭と腕からは何本かのコードが伸び、モニター上には折れ線グラフや数値が表示されていた。
「どうですか、いまの心境は」
「今回、自分はアビーの父親だと、彼女の前に姿を現して宣言したことで、父親としてできる限りのことをしなければならないという自覚が生まれました。責任は増したはずなのに、むしろ気もちは少し軽くなったような気がします。こう言っていいのかわかりませんが、震災で命を落とされた方々に申し訳がたつように、これから父親としてやるべきことをしっかりやらなければと思っています」
 石崎は優しく「そうですか」と言った。
「都築さんは、独身ですよね。もしご家族がいたら、なかなかそうもいかないかもしれませんが、あなたはいま、アビーさんにできる限りのことをしてあげられる状況にある」
 春生は「そうですね」と答えた。モニター画面のグラフや数値は、穏やかな状態を示しつづけている。
「そういえば、アビーのお祖母さん、と言ってもまだ五十歳くらいですが、彼女のお父さんも日本人だそうです。なんだかね。フィリピンのルバング島にいた日本の軍人で、十二歳のとき以来会っていないと言っていましたけど」
 春生はそれを余談のつもりで話したにすぎなかった。しかし、石崎からは思いがけぬ反応が返ってきた。
「ルバング島にいた日本の軍人……四十年くらい前ですよね。それってもしかして、小森幹郎ミキオさんじゃないですか?」
 驚く春生に対して石崎は、「そうか、都築さんの年代じゃ知りませんよね」と言って、小森幹郎という人物について語りはじめた。
 第二次世界大戦中、陸軍中野学校二俣分校で遊撃戦や諜報の教育を受けた小森幹郎は、一九四四年、陸軍少尉としてルバング島に着任した。一九四五年にその地で終戦を迎えるが、終戦の報を敵国の調略だと思い込んだ彼は、それから三十年もの間、ルバング島のジャングルに隠り、たった数名の部隊で戦いをつづけ、最後にはひとりになった。日本にいる家族らが度々ルバング島を訪れ、彼を探し出して日本へ帰るよう説得することを試みたが、いずれも失敗に終わる。最終的には一九七四年、上官からの命令下達という形で、小森に任務の解除を言い渡し、ようやく帰国の運びとなった。当時彼は、「最後の日本兵」「真の軍人」と呼ばれ、マスコミに騒がれたという。
「それにしても、ルバング島で小森さんに子どもがいたっていう話は初耳だな」
 石崎はひとり呟いた。
「あの、その小森幹郎さんていう方は、まだご存命なんでしょうか」
 春生が尋ねると、石崎は、
「亡くなったっていうニュースを聞いた覚えはないから、多分まだ生きてらっしゃるんじゃないですか。相当なお年だとは思いますけど」
 と答えた。春生はそれを聞いて、小森幹郎に会いに行ってみようかと考えた。会ってどうするわけでもないが、ハニがマニラにいて、ラジカセを未だに大切に使っているということは、小森に伝えなければならないような気がしたのだ。

ようやく夏の暑さの引いた十月になって、春生は、東京都世田谷区にある小森幹郎の自宅を訪ねることができた。小森との面会の約束を取り付けるのに、春生は半年近くの歳月を要した。春生は、小森が日本帰国後に設立したという財団法人にはじめ連絡を取ったが、相手にされなかったため、小森のことをよく知っているルバング島出身のフィリピン人のことで話がある旨を伝えると、今度は返事はあったが、小森は体調がすぐれず療養中のため面会はできないとのことだったので、仕方なく、ハニの名前とラジカセのことを小森に伝えてほしいと依頼すると、今度は向こうから、小森はなんとか会いたいと言っているが、如何せん体調がすぐれないので、面会可能な状況になったらまた連絡するとの返事があり、それからしばらくは音沙汰がなかったが、九月の終わり頃になって突然、十月の初旬で会う算段をつけたいとの連絡が入った。
 小森の自宅は、駅から十分ほど歩いた、緩やかな坂道沿いの閑静な住宅街のなかにあった。秋晴れの日の、陽の高く昇った時刻だった。坂道の並木を通り抜ける風が、木漏れ日のなかを歩く春生の、色白の額を撫でていった。
 白い薔薇が咲き誇る手入れの行き届いた西洋風の庭の奥に、レンガ造りの小洒落た家があった。インターネット上で見られる小森の写真から受ける印象--色黒で鋭い目つきの野生的な感じ--からは、とても想像できない趣の住まいだった。
 玄関で春生を出迎えてくれたのは、三十代と思しき上品な佇まいの女性と、きれいなピンク色の肌をした子ブタだった。小型犬ほどの大きさの子ブタだ。
「よくおいでくださいました」
 小森は帰国後、歳の離れた日本人女性と結婚し、一女をもうけたはずなので、この女性がその娘だろうと春生が思っていると、果たしてそうだった。
「小森幹郎の長女の佳子ヨシコです」
 しかし、それよりも子ブタだった。春生は、家畜以外のブタを見るのは初めてだった。家畜の豚なら、地元の町にいくらでもいた。大きくて黒ずんだ、うるさい豚だ。しかし、これは違う。ピンク色の小さな置物のような子ブタを物珍しそうに見つめる春生に向かって、佳子は、
「ペット用のミニブタです。可愛いでしょう? まだ一歳になったばかりなので、いまは小さいですけど。あと一、二年で、五〇キロくらいになるらしくて」
 と言った。
「それでも、ブタにしては小さいほうですよね」
「ええ、ベトナムのミニブタを品種改良したものらしいんです」
「家のなかで飼うんですか」
「いまのところは、そうですね」
 それから春生は、挨拶をしそびれていたことに気づいて、
「都築春生です、本日は無理を言ってすみませんでした、お邪魔します」
 と頭を下げた。
 フローリングのひんやりとした廊下を、佳子の後ろに春生が、春生の後ろに子ブタが、とことことついて歩いた。おとなしいブタだった。
「どうぞこちらへ」
 と言って春生が通されたのは、庭に面して大きな窓が切られた明るい部屋だった。窓辺に置かれたベッドの上に、小森幹郎が寝ていた。ベッドの脇に、背もたれのついた木製の椅子が一脚と、小さな丸いサイドテーブルがひとつ置かれていた。
「身体は自由に動きませんけれども、意識は割合はっきりとしていますので、ゆっくりお話をされていってください」
 佳子はそう言って、部屋を出ていった。春生はベッド脇の椅子に腰かけた。子ブタが春生の足元に来てうずくまった。すぐに佳子が戻ってきて、アイスティーのグラスとクッキーののった小皿を置いて、静かに部屋を出ていった。
 ベッドの上の小森幹郎は、春生が思っていたよりもひと回りもふた回りも小柄だった。ベージュ色の半袖シャツから出た腕は、棒切れのように細く、頬はこけ、目は落ちくぼんでいた。しかし、眼差しは確かだった。
 春生には、小森に訊いてみたいことがたくさんあった。一体なにから話し出せばいいのかと逡巡している間に、小森が先に口を開いた。
「都築さん、あなたがハニに会ったというのは本当ですか」
「はい、本当です」
 春生は、記憶映像の中からハニの映っている画像を数枚選び、印刷して持ってきていた。春生が小森に写真を手渡すと、彼は手にした写真をゆっくりとめくりながら、
「確かに面影がある」
 と言った。
「彼女とは、どこで」
「マニラの、スラム街です」
「彼女はそこに住んでいるんですか」
「はい」
 なぜ春生がスラム街に行ったのかということを、小森は尋ねなかった。彼はただ、「そうですか」と呟いただけだった。春生は小森に思い切って尋ねた。
「ハニさんは、小森さんのお子さんなんですか」
 佳子に聞こえないようにという配慮から、春生は声のトーンを一段落とした。小森は春生の質問には直接答えず、
「ハニがそう言っていましたか」
 と言った。
「はい、彼女が未だに大切に使っているラジカセがあって、子どもの頃にルバング島で日本人のお父さんにもらったものだと言っていました」
「……」
 小森がなにも言わないので、春生は、「実は、ハニさんの孫が、僕の娘なんです」と打ち明けた。しかし、小森は春生のほうをちらりと見ただけで、その件に関してはなにも言わなかった。
「あなたもそのラジカセを聞きましたか」
 そう言ってから、小森はすぐに言い直した。
「カセットテープを聞きましたか」
「カセットテープ?」
「カセットテープは聞いていないんですね、そうですか」
 小森はそう言って、窓の外に目をやった。秋の日差しが、庭の白薔薇を金色に輝かせていた。春生の足元にいたピンク色の子ブタが起き上がり、とことこと窓辺まで歩いていき、陽だまりにうずくまった。
「大事なカセットテープなんですか?」
 春生が尋ねると、小森はゆっくり頷いた。
「終戦後の三十年もの間、私はルバング島で誰のために、なんのために戦っていたのかと、自問自答をつづけてきました。だが、あの日々が無駄だった、無意味だったと思ったことは一度もない。ただ、唯一の後悔があるとすれば、あのカセットテープを公にしなかったことです。あのテープには、私がルバング島で目にした出来事の数々が記録されています。しかし結局、私はそれを島に置いてきた。あえて置いてきたのです。以降、一度もその出来事について、私は口外しませんでした。口をつぐんだのです。でも、もし未だにハニがあのテープをもっていて、あなたがそれを聞くことがあるならば、ひょっとして事態は動き出すかもしれない。そう思えることは、私にとって救いです。あるいは、あなたもまた、口をつぐむかもしれない。それはそれで仕方のないことだと思います。あなたにとっては甚だ迷惑な話かもしれませんが、私はあのテープの処置を、全面的にあなたに委ねたい」
 このことを伝えたくて、今日は来てもらったのだと、小森は言った。
「近々マニラに行って、ハニさんにカセットテープのことを訊いてみます」
 春生の応答に、小森は頷いた。
「ところで、あなたもライフログを利用されているんでしょうね」
 春生が「ええ」と返事をすると、小森は春生の目をしっかりと見つめて、
「私はもうマニラに行くことの叶わぬ身体ですから、もし都築さんが今後ハニに会うことがあったら、よろしく伝えてください。私の写真は印刷しなくて大丈夫だと思いますよ。ハニの頭には、チップが入っている」
 と言った。春生は首を傾げた。ライフログは、アメリカや日本などの先進国では普及しているものの、いまはまだ、途上国のましてや貧困層が利用できるものではないはずだった。

春生が小森の自宅を訪ねてから二ヶ月が経った十二月の初旬、春生は再びマニラに赴いた。小森の言ったとおり、ハニの頭にはチップが入っていて、春生が専用の端末で小森の映像を送ると、ハニは「タタイ(お父さん)」と言って、懐かしそうにそれを眺めた。それから春生がカセットテープのことを尋ねると、ハニは箱の中から一本のカセットテープを取り出した。日本語で、なにを語っているのかさっぱりわからなかったけれど、なにか重要なことが録音されているのだろうと思ったから、大事にとっておいた、このテープはハルオさんに預けます、と言って、ハニは春生にそれを渡した。

春生は、仮設住宅のダイニングテーブルの前で、このために購入した新しいカセットプレイヤーを手に、いま一度深呼吸をした。再生ボタンを押すと、ザーというノイズがしばらくつづいた。ほどなくして、ノイズの向こうから、男の咳払いが聞こえた。それから男は、ぽつりぽつりと語りはじめた。小森幹郎のくぐもった声だった。

 

 

私、第十四方面軍第八師団参謀部付小森幹郎予備陸軍少尉は、館山義雄師団長の命を受け一九四四年十二月三十一日フィリピンのルバング島に着任して以来、三十九年間、遊撃戦指導の任務に当たって参りました。着任当初この島にいた日本兵は、陸軍百四十四名、海軍五十五名の総勢百九十九名でありましたが、一九四五年二月二十八日に米軍が上陸、その戦闘で大半の兵士が戦死いたしました。四日後に生存の確認が取れたのは、自分を含め二十名でありました。二十名がひと所に集住していては全滅する恐れがあると判断した我々は、その後五つの部隊に分かれて活動することに決め、私は島中伍長、小柴一等兵、赤井一等兵の三名とともに、山中の密林での生活をはじめました。
 その年の十月中旬に、我々の部隊は山中で五、六人の島民と遭遇しました。米軍の上陸以後敵側についていた島民たちは、腰にさした蛮刀を抜きかけましたが、我々が銃をもっているのを見て諦め、一枚のビラを置いて逃げていきました。それは投降勧告のビラでした。そこには、「八月十五日に戦争が終わったから、山を降りてこい」と書かれてありました。しかし、我々はそんなものに騙されはしません。なぜなら、ついその数日前に、別の部隊が米軍のパトロール隊と遭遇し、撃たれていたからです。もし戦争が終わっているなら、彼らが攻撃してくるはずがありません。
 その年の暮れに、我々は二度目に投降勧告のビラを目にしましたが、そのビラに書かれた日本語には多々おかしな点が見られましたので、敵国の調略であると一目で判断がつきました。しかし、他の部隊には、ビラの内容を鵜呑みにして投降した者たちがいると聞きました。翌年の三月に入ると、ビラの数が増えはじめ、すでに投降した者たちの直筆の紙も置かれるようになりました。このとき我々四名は、こんな腰抜けどもの手には乗るまいと、改めて最後まで戦い抜くことを誓い合ったのです。
 しかし結局、私はひとりになりました。
 四名での生活をはじめて四年目の九月のことでした。ある日赤井一等兵が、我々の前から黙って姿を消しました。最も体力のなかった彼にとって、二十キロはあろうかという荷物を担いで山中を移動しつづける日々は、耐え難かったのだろうと思います。ひと所に留まっていると敵軍や島民に見つかる可能性が高くなるため、我々は絶えず島の中を移動しながら、生活をしておりました。島民のほとんどは農民で、島の北側に住んでおり、南側にはごく少数の漁民が住んでいるだけでしたので、私たちは危険の少ない南に面した山並みを中心に、一ヶ所の滞在期間は三日〜五日と決め、移動をつづけておりました。赤井一等兵の脱走から約十ヶ月後、島の東部を流れるアガワヤン川付くの椰子林で、彼がフィリピン人の兵士とともに歩いているのを目撃しました。彼は投降し、敵の手先になっていたことがわかりました。
 赤井一等兵が脱走してから三年半後の一九五四年五月、島中伍長が討伐隊に撃たれ、戦死いたしました。私と小柴一等兵は、彼の亡骸の前で号泣しました。ルバング島へ来て初めて流す涙でした。その後の十八年間を、私は小柴一等兵とともに過ごしました。しかし、一九七二年十月、ちょうど雨期が終わった頃でしたが、私は小柴一等兵までをも喪いました。私たち二人は、雨期の隠れ小屋を始末した後、生活に必要な品々を手に入れるため、山を下り集落を襲いました。無論島民の命は狙わず、威嚇射撃をして、島民が逃げ去った隙に盗みを働くのですが、このとき島民の呼んだ国家警察軍の到着が、いつもより随分と早かったせいで、我々は逃げ遅れました。小柴一等兵は、警察軍の銃撃の弾に当たり、命を落としたのです。二十八年もの間、ルバング島で共に戦いつづけた彼の最期を思うと、悔やむに悔やみきれません。
 こうして私は、ついに一人になりました。私の数えてきた暦が正しければ、現在は一九七三年十一月一日です。
 私はたったひとりになっても、可能な限り生き延びて、いつか友軍が上陸してきたときに備え、情報収集の職務を怠らない所存ですが、しかし、命はいつ果てるともわかりません。もしこのまま、友軍が上陸してくる前に私の命が尽きてしまえば、この島で我々が収集した情報の数々は人知れず闇に葬られてしまいます。そこで私は、万一のときに備え、記録を残すことにいたしました。
 先日雨期が終わり、生活用品の調達の必要から、私は島の北東部に広がる田園地帯に下りて行きました。畑仕事をしている島民たちを威嚇射撃して追い払い、山裾の小屋に入ると、そこでトランジスタラジオに似た機械を発見したのです。そのほかにも、きれいな靴下やズボン、ワイシャツなどがありました。ナイロン製の上等なもので、明らかに島民のものではありません。そこから程近いテリックの港に、いつも小型の定期船が出入りしている港なのですが、先日ついぞ見かけたことのない白塗りの大型船が停泊していましたので、あるいはそれと関係があるのかもしれません。いずれにせよ、思いがけず新しい機械を手に入れた私は、あれこれといじくっているうちに、それを使って音声を録音できることに気がついたのです。
 さて、いまからここに報告申し上げるのは、一九六五年〜一九七三年現在までの約八年間に、いまは亡き小柴一等兵と私がこの島で目撃した出来事についてです。

ルバング島は、東西十キロ、南北三十キロ、伊豆大島のほぼ二倍の面積をもつ細長い島で、南側四分の三を山岳地帯が占めています。そのため、約一万二千いる島民のほとんどは、島の北側四分の一の平野部に集まって暮らしています。山の上から平野部を見下ろすと、森林地帯と田園地帯の境目がくっきりと見え、森林を切り開いて開墾した土地だということがよくわかります。村に初めて電気が通ったのは、一九五一年の雨期に入る前、六月頃だったと記憶しています。テリックの町に一斉に電燈の光が灯りました。それから徐々に、周辺の農村地帯に点在する民家にも明かりが灯りはじめ、島の北部全体に電気が行き渡ったのは、一九五五年の十二月でした。その頃といまとで、夜に灯る明かりの数はほとんど変わっていません。つまり、ここ二十年近く、島民の人口にほとんど変化はないようです。
 この島の最北端に、米軍基地があります。一九六五年、この基地の東側に、巨大なコンクリートの建物が建設されました。私と小柴一等兵は、いったいなんの施設だろうかと、山の上から軍用双眼鏡を用い、その建物の観察を定期的に行うようになりました。
 広々とした中庭付きのコの字型の建物は四階建てで、周囲に高い建物などひとつもないこの島では、異様に目立っていました。施設のまわりは高い金網で囲われ、それが、この建物がなにか特殊な施設であることを強調しているようでした。
 ある日、基地に米軍の大型輸送機二機が着陸しました。そこから百名を超す米軍人が降りてきたのです。彼らはそのままシャトルバスに乗り、基地を出ていったかと思うと、そのバスは例のコンクリートの建物の前で止まりました。百数十名の米軍人は、その建物のなかへと入っていきました。
 それから数日に渡り観察をつづけましたが、彼らはその施設のなかで、随分のんびりとした生活を送っているようでした。午前中や夕方のあまり日差しが強くない時間帯に、彼らは中庭へ出て、キャッチボールをしたり、ジョギングをしたり、思い思いに身体を動かしていました。服装は普段着で、厳しいトレーニングを受けている様子もありません。白衣を着た人をしばしば見かけましたので、軍の療養施設ではないかと私たちは考えました。しかし、目立った外傷を負った人はあまり多くいませんでしたので、おそらくは精神的な障害を負った軍人のための療養施設だろうと推測がつきました。
 そうとわかれば、特に綿密な観察をつづける必要もないと判断し、我々は再び移動生活に入りました。私たちはだいたい一〜二ヶ月で島の山岳地帯を一周していましたので、次にその施設を見たのは、一ヶ月半後でした。アンボロンという農村から四キロほど離れた山奥に、簡易な寝床をこしらえて、数日間観察をつづけましたが、施設には特に変わった様子も見られませんでした。そろそろまた移動しようと荷物をまとめはじめたときでした。私たちはそこで、不可解な光景を目にしたのです。
 米軍の療養施設であるはずの建物のなかに、四十名ほどの島民が入っていくところでした。米国の軍人と島の農民では、体格も着ているものもまったく違いますから、一目でわかります。陽が高く昇り、一日のうちでも一番暑さの厳しい時間帯でしたので、中庭に出ている米軍人はひとりもいませんでした。だから余計に、島民の集団は目につきました。米軍の療養施設にいったいなんの用があって島の農民たちが入ってゆくのか、私たちには皆目検討がつきませんでした。
 それから長いこと、建物にも中庭にも、一切の動きがありませんでした。双眼鏡でのぞいているので、実際に音は聞こえませんが、しんと静まり返っている様子が、レンズ越しに伝わってきました。やがて日が沈み、私と小柴一等兵は交代で夜通し観察をつづけましたが、結局その日は、島民が建物から出てくることはありませんでした。
 私たちは危険を承知で、しばらくそこに留まり観察をつづけることにしました。米軍人たちは、次の日からいつも通り、午前中や夕刻に中庭に出て身体を動かしていましたが、建物のなかに入った島民たちは、次の日も、その次の日も、一切建物の外には姿を現しませんでした。いったい中でなにが行われているのか、私たちは気が気でなかったのですが、近づくわけにもいきません。とにかく観察をつづけました。
 来る日も来る日も山の上から平野部を見渡していると、次第に、建物のなかに消えた四十人の農民たちが、あるひとつの集落に住む人々であることがわかってきました。平地の中央南部に位置する川と椰子林で隔てられたところに、人影の一切ない小さな集落があったのです。手入れのされない田畑は、みるみるうちに荒れていきました。周囲の集落とはかなりの距離があり、人の行き来もなく、誰もそのことには気づいていないようでした。
 その集落は、私たちの居る場所から、山を下りて林の中を伝っていけば、他の集落のなかを通らずに行ける場所にありました。私が山に残って監視をつづけ、小柴一等兵がその集落へ偵察に行くことになりました。もともと体力に恵まれている上に、日々の登山で鍛えられた小柴一等兵は、普通の人なら往復四時間はかかるであろうところを、両手に衣類や食糧などの大荷物を抱え、二時間足らずで戻ってきました。
 物品を調達できた以外には、つまり例の施設に関する情報という意味では、特に大きな収穫はありませんでした。ただ、民家の食卓の上にあったという小柴一等兵がもち帰ってきた手紙には、「PTSDで苦しんでいる兵士たちのために協力をしてほしい」という趣旨の簡潔な文章が、日時と場所とともに、タガログ語で書かれていました。例の施設が米軍の療養施設であるという私たちの推測が正しかったということは明らかになりましたが、それ以上のことはわかりませんでした。島民はあの建物のなかで、いったいなにをしているのか。あるいはされているのか。
 結局、島民が出てきたのは、建物のなかに入っていったあの日から、三週間が経った後のことでした。外見からは、特に変わった様子は見受けられませんでした。入っていったときと同じように、特に嬉しそうでもなく、悲しそうでもなく、普段と変わらぬ様子で、ぞろぞろと出てきました。しかし、建物に入っていったのは、確かに四十名を超えていたはずですが、出てきたのは三十七名のみでした。よくよく観察してみると、いるのは高齢者と女子どもばかりで、若い男性がひとりもいませんでした。つまり、子どもたちの父親にあたる世代の男性がひとりも見当たらないのです。消えた男性数名は、我々の知る限り、その後も建物から出てくることはありませんでした。
 そこでいったいなにがあったのか、未だに確証はありませんが、その後に起こったいくつかの出来事から、私なりの推測は立っています。それをお話するためには、この後の出来事について、まずはお伝えする必要があるでしょう。

家に戻った島民たちは、男手を欠いたまま、あくる日から荒れた田畑を耕しはじめました。男たちがいないということを特に気にする様子もなく、彼女たちは日常の生活を営んでいるようでした。我々はその様子をしばらく見届けてから、一ヶ月ぶりに移動生活を再開しました。それからは、一〜二ヶ月ごとに同じ場所へ戻ってきて、そこでしばらく観察をつづけるということを、くり返していました。私たちはその場所を「監視塔」と呼ぶようになりました。
 その集落の住民たちは、その後も定期的に、おそらくは月に一度のペースで、施設へ行っているようでした。しかし、以前のように何週間も出てこないということはなく、いつもその日のうち、もしくは一日、二日で戻ってきていました。我々がその集落の様子に異変を感じたのは、例の出来事から約一年が経ったときのことでした。
 集落にいる三十七名のうち、十九名が子どもでしたが、そのなかのひとり、まだ四、五歳かと思われる女の子に対する人々の態度が、あるとき突然変わったのです。施設から出てきた農民たちの行列のちょうど真ん中をその子は歩いていて、まわりの人たちは、その子に対してうやうやしい態度で接しているようでした。村に戻ってからも、人々のそのような態度はつづきました。正確な時刻はわかりませんが、おそらくは昼の十二時と午後の三時と夕方の六時、日に三度、人々はその時刻になると農作業の手を止めて、その女の子のまわりに集まり、祈りを捧げました。人々が祈りを捧げている間、女の子は、右手の中指と薬指を折り曲げ、残りの三本の指を突き立てて、なにやら文句を唱えているようでした。
 私と小柴一等兵は、あの村でいったいなにが起こっているのかと議論を交わしましたが、結局そのときは結論に辿り着くことはありませんでした。私たちは、再び移動をつづけました。
 その後雨期を挟み、しばらくぶりに「監視塔」に戻ってくる途中の出来事でした。私たちは木々が鬱蒼と茂ったジャングルのなかを、かき分けながら進んでいました。すると、草葉の擦れる音がして、前方に人影が見えました。我々は咄嗟に銃を構えました。しかし、人影は構わずこちらに向かってきます。相手はひとりのようでしたので、すぐに撃つことはせず、様子をうかがっていました。
 小柴一等兵が私の腕を押さえ、「あの女の子だ」と言いました。よく見れば、例の集落で人々から崇められるようになった、あの女の子でした。彼女がなにも武器をもっていないことを確認してから、我々は銃をおろしました。しかし、子どもだからと言って安心はできません。いったい我々になんの用かと、私はむしろ警戒心を強めました。女の子は、我々から五メートルほど離れた地点で足を止め、じっとこちらを睨んでいました。目鼻立ちのはっきりした顔で、意志の強そうな目が印象的でした。薄汚れた白いTシャツに赤い半ズボンという出で立ちでした。
「ここへなにしに来た」
 私は拙いタガログ語で、女の子に話しかけました。女の子はなにも答えませんでした。
「名前は?」
 と尋ねると、今度は「ハニ」と返事をしてくれました。ですから私も、「私はコモリミキオだ」と名乗りました。するとハニは、「どこから来たの?」と言いました。私は「二十年以上前に、日本から来た」と答えました。それから私はもう一度、「なぜここへ来たのか」と彼女に訊きました。彼女は今度も、その質問には答えませんでした。代わりに、「ミキオはなぜここにいるの」と訊いてきました。ですから私は、「私たちは二十年以上このジャングルに住んでいる」と正直に答えました。彼女はなにも言いませんでした。しばらくの間沈黙がつづきました。
 やがて小柴一等兵が慎重に口を開きました。
「お父さんとお母さんは?」
「お母さんは家」
 とハニは答えました。
「お父さんは?」
 と訊くと、ハニは首を傾げ、「お父さん? いないよ」と言いました。
「もしかして、二年前にいなくなった」
 と訊くと、「いや、昔からいない」とハニは言ったのです。私たち二人は、顔を見合わせました。
「君のお友達のお父さんはどう? 二年前にいなくなった人たちが何人かいるだろう」
 と尋ねると、
「友達のお父さんも、昔からいないよ」
 と言うのです。「私の住んでいる村には、お父さんはひとりもいない」と、ハニはそのとき確かに言いました。私は、なにか只事ならぬことが起きているのではないかという予感に、ぞくりとしました。
「君は、飛行場の隣にある、大きなコンクリートの建物に行ったことがあるね」
 と私が確認すると、ハニは頷きました。
「あそこで、いったいなにがあったんだろう」
 しばらくの沈黙の後、ハニが言いました。
「男の人たちが殺された」
「……」
「あそこでは、悪い人たちが処刑されたの。私たちはそれを見た」
「……それは、アメリカの軍人さん? それとも、この島の人たち?」
「この島の人たち」
 とハニは答えました。「知っている人?」と訊くと、「知らない人」という答えが返ってきました。私たちはこれ以上、あの建物のなかのことについて尋ねるのをやめました。
 それから、「君はあの村で、いつもなにをやっているんだい?」と話題を変えました。するとハニは、「私はあの村のアイドルなの」と答えました。
「村のアイドルがなぜここへ?」
 私は試しにもう一度、最初の質問に戻ってみました。するとハニは、「会いに行くように言われたの」と答えました。「誰に?」という質問に対して、彼女は「先生」と答えました。

我々は、その後も定期的に「監視塔」からの観察をつづけました。現在までの六年間に、ハニの村で起こったことと同じようなことが、計五ヶ所の集落で起こりました。ひとつの疑問は、施設に行った島の人々には、これまでに述べたような顕著な変化がみられるのに対し、何年も施設に暮らす米軍人には、傍目にはその変化がわからないということでした。彼らは相変わらず、健康的でのんびりとした生活を送っているようでした。
 私たち二人とハニは、あの日以来、時折ジャングルの中で会うようになりました。私たちは相変わらず移動生活をつづけていましたので、ハニのほうから、我々のやってくる時期を見計らって会いに来たのです。
 あれは確か、四度目に会ったときだったと記憶しています。ハニが、我々の姿を見つけるなり飛ぶように駆けて来て、私に抱きついて「タタイ、お帰りなさい!」と言ったのです。「タタイ」とは、タガログ語で「お父さん」の意味です。どういうことなのかまったく理解できなかった私は、しかし、思わず「ただいま」と言ってしまいました。それから彼女は、私の手を引っ張って、「早くうちへ帰ろう」と言うのです。どういうことだろうと思いながら、私はしばらく彼女に手を引かれるままに歩いていました。小柴一等兵も、不安そうな顔をしながら後を付いてきました。しばらくして、彼女があまりにもどんどん山を下っていくので、どうやら本当に彼女の家に向かおうとしているのではないかと思い、私は慌てて立ち止まりました。
「私はこれ以上は先に行けない」
 と言うと、ハニは、「どうして?」と心底不思議だという顔をしました。
「ハニの家に行くんだろう?」
 と訊くと、
「そう、うちに帰るの」
 と言いました。
「私が村に入ることを、村の人たちが許さないよ」
「確かに、お父さんの服はだいぶ汚れちゃってるけれど、そんなことでみんな嫌がったりなんかしないよ」
 私とハニの会話は、一向に噛み合いませんでした。私は小柴一等兵と相談し、私のみがとりあえずハニに付いていくことに決めました。私は銃を手放しませんでしたし、ハニにぴったりとくっついている限りは、島民も私に向けて弾を撃ってくることはないだろうと考えました。
 陽が地平線に沈む頃、私とハニが集落に着くと、村人たちが外へ出てきて、口々に「お帰りなさい」「お疲れさま」と歓迎をしてくれました。よくわからないままに、私はハニの家にあがり、そこで新しい衣服を与えられ、夕飯をご馳走になりました。
「お父さんはいつまで家にいられるの?」
 とハニが言うので、とりあえず
「明日には出るよ」
 と答えると、全員から非難を浴びました。全員というのは、ハニと、彼女の兄二人と、祖父母と母親です。
「いくら山の仕事が忙しくたって、一週間はいられるでしょう。子どもたちだって、お父さんに会えるのを楽しみにしてたんだから」
 とハニの母親にたしなめられ、結局私は、四日間をハニの家で過ごすことになりました。
 四日後に「監視塔」へ戻ると、小柴一等兵が「いったいどうなってるんでしょうか?」と笑いながら言いました。山の上から村を観察していて、特に私が危害を加えられている様子がなかったので、安心して見ていたということでした。私は小柴一等兵に、ハニの母親が用意してくれた新しいズボンとシャツを差し出しました。彼は喜んでそれに着替えました。
 次にハニに会った際、私の手を引っ張る彼女に、「小柴一等兵も一緒に泊まっていいだろうか」と尋ねると、「お友達も一緒にどうぞ」とのことだったので、有り難く二人で彼女の家にお邪魔しました。それ以来、私たちの移動ルートには、ハニの家が加わったのです。

以上にお話した一連の不可解な出来事に関する、私と小柴一等兵の解釈を最後に述べておきたいと思います。これから私がお話することは、あくまで推測であり、確証があるわけではありません。ですが、このように考えれば、すべての出来事の辻褄が合うということです。
 まず、一九六五年に米軍基地の東側に建設された施設が、PTSD、心的外傷後ストレス障害に苦しむ米軍人の療養施設であるということは、間違いないでしょう。PTSDは、強いストレスを受けた後に起きる精神障害で、不安・睡眠障害・抑鬱がみられ、夢や錯覚によりトラウマをくり返し体験するものです。つまり、この障害は、強いストレスを受けた記憶、、に起因して発症するのです。ですから、障害の原因となっている記憶そのものを消すことができれば、PDSTの症状はおさまるはずです。医師たちがこのように考えたとしても、不思議はありません。そして彼らは、その治療法を研究し、開発した。おそらく初めは動物実験が行われたのでしょう。動物実験がうまくいき、次に実際に人間で効果を試すという段になって、いきなりPTSDを患っている米軍兵士に試すのは問題があると考えたのです。そこで、このルバング島で、島民を使って人体実験を行う話がもち上がったのではないかと思います。
 はじめに被害にあったのは、ハニの集落の人々です。四十数名の村民全員が施設に集められ、あの建物のなかで、まずは強制的にトラウマ体験がつくられたのではないでしょうか。ハニが言っていた、そこで処刑された人たちというのは、おそらくハニの父親を含むその集落の男たちだと思います。その場にいる全員に戦争並みの強いストレス体験を与えるには、手っ取り早い方法です。その上で、殺された男たちが彼女らの家族であるという記憶を消したのでしょう。だからハニは、「お父さんは昔からいない」「私の村にはお父さんはひとりもいない」とあのとき言ったのです。
 最初に彼女たちが施設に行ったとき、三週間ほど建物から出てきませんでしたが、それは、記憶を操作するのに必要な装置かなにかを埋め込む開頭手術が行われたからではないでしょうか。その後、彼女らが定期的に施設を訪れていたのは、装置が正常に作動しているか、消したはずの記憶が戻っていないか、PTSDが発症していないかを確認するためだったのだと思います。
 それから一年ほど経過観察をつづけ、実験の成功を確信した段階で、医師たちはさらなる実験を試みました。それは、記憶の改変に関する実験です。村にいるただの女の子を、宗教的な崇拝の対象に変える。これは単に事実的な記憶を改変するだけでなく、記憶のなかのある特定の人物に対し、特定の感情を抱かせるよう操作しなければなりません。あの村の人々には、ハニに対し崇拝の感情を抱くよう処置が施されたのです。それゆえ、彼女は村のアイドルになった。
 そしてその実験がうまくゆくと、最終段階として、彼女たちの脳内にまったく新しい記憶を挿入する試みがなされたのではないかと思います。米軍施設の関係者には、我々が山中に潜んでいることが知れていたのでしょう。一方、村の人たちは我々の存在を知りませんでした。そこで、我々もまたこの実験に利用されたのです。医師はハニに、二人の日本人を探しにジャングルへ行くよう指示を出した。そして、ハニに私の存在を記憶させました。その後、私がハニの父親であるという偽の記憶を、全員の脳内に挿入したのです。どうやら実験は成功し、「山中を巡回する仕事をしているミキオは、村のアイドルであるハニの父親だ」という偽の記憶が、村民全員に共有されることとなりました。
 このような島民を利用した人体実験の末、米軍兵士に対するPTSD治療において、どの程度記憶操作の手法がとられたのかはわかりません。しかし、彼らがすでにそのような治療法を開発し、かなりの精度で実現しまっているということは、否定しにくい事実なのではないかと、私は考えております。

 

 

小森幹郎の肉声の録音テープを聞き終えた春生は、ダイニングテーブルの前で、しばし放心状態にあった。それはただ単にぼんやりしているというのではなく、春生の頭のなかに、あまりにもたくさんの疑念や疑問がいちどきに湧いてきて、処理しきれなかった結果の放心状態であった。これは果たして事実なのか。小森のつくり話ではないのか。三十年も山中に隠っていた小森が見た幻覚なのではないか。いや、きっとそうだ、とは、残念ながら春生には思えなかった。なぜなら、春生は思い出していたからだ。ハニが小森のことを「お父さん」と呼び、彼女の脳内には確かにチップが入っていたということを。
 小森は事実を語っている。そして小森の推測はおそらく正しい。ではそうだとして、そこから導かれる帰結はなにか。春生はまだそれを十分に自覚できていなかった。しかし、自分の身になにか良からぬ事態が起こっていることは感じていた。
 この事実にどう反応し、なにを考え、どうような行動をとるべきなのか。春生には、よくわからなかった。混乱していた。だからとりあえず春生は、小森幹郎にもう一度会おうと考えた。会って、とにかく手当たり次第に疑問をぶつけてみれば、この混乱は解消されるのではないかと考えた。
 しかし結局、春生が小森と再び会って話をすることは叶わなかった。春生が小森の自宅に連絡を取ったとき、小森の娘の佳子が電話口に出て、「父は都築さんと会った一週間後に、入院しました」と伝えた。もうほとんど意識がないので、父と話すことはできないと、彼女は言った。春生は見舞いに駆けつけたが、果たして彼女の言うとおり、会話が成立することはなかった。血の気が引き、拳ほどに小さくなった小森の顔を見て、春生は黙ってその場を去った。
 それから一ヶ月後、年が明けて間もなく、小森が亡くなったという知らせが春生のもとに届いた。享年九十一であった。数奇な人生を歩んだ小森の訃報は、ひとしきりマスコミを賑わせた。しかし、一本のカセットテープが春生のもとに残されていることは、まだ誰も知らない。春生はたったひとりで、このカセットテープと向き合わなければならなかった。

春生はあれから何度も小森のテープを聞いた。もう小森に助けは求めることは許されないのだという状況が、春生を幾分冷静にさせた。春生は次第に、テープを初めて聞いたときにすでに薄々感じていた良からぬ事態の輪郭を、はっきりと自覚するようになった。小森は実はハニの父親ではなかった。同様に、もしかしたら春生もアビーの父親ではないのではないか。そのような疑念が、いまやはっきりと春生の心に自覚されていた。
 そう思ったら、春生は居ても立っても居られなくなり、その事実をどのように確認できるのかという考えもなしに、マニラへ飛んだ。そして、面会の予約も取らずに、アビーのいる事務所へ押しかけた。
 大通りから一本なかへ入った路地裏の四階建ての茶色いビルを見上げ、春生は大きく息を吐いた。それから階段を一歩一歩上っていった。上るにつれ、春生はいよいよ覚悟を決めた。二階へ出ると、コンクリートの壁沿いにカラフルな扉が並んでいる。水色、黄色、緑、ピンクの扉の前を通り過ぎ、以前と同じEと書かれたクリーム色の扉の前で、春生は足を止めた。中から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。アビーが「タタイ(お父さん)」と言った。タガログ語で男がなにかを言う。もう一度アビーが「タタイ」と言いながら笑い声をあげた。春生は、ノックをせずに扉を開けた。黒いソファに腰掛けた三人が一斉に春生のほうを見る。アビーとマネージャーの男と、もうひとり、知らないフィリピン人の男だ。白いポロシャツを着た、上品で金もちそうな男だった。アビーの目が大きく見開き、なにかを言いかけた。オレンジ色のシャツを着たマネージャーの男が、アビーが立ち上がろうとするのを制し、「どうされました」と落ち着いた足取りで春生のほうへ向かってきた。春生はなにも言わず、走ってその場を去った。表へ出て、細い道の人混みのなかを、人や看板や店先のパラソルにぶつかりながら走った。マネージャーの男もアビーも、追いかけてくることはなかった。

「僕がアビーの父親じゃないって、いったいどういうことなんですか」
 いつものとおり静かで清潔で、春生の怒りもあっという間に浄化してしまいそうなほど真っ白な診察室のなかで、春生は石崎に迫った。
「予定よりも随分と早く気づきましたね」
 石崎医師は、よくできた生徒を褒めるような調子で、春生にそう言った。
「馬鹿にしてるんですか」
 春生はさらに食ってかかった。石崎は、
「違いますよ、都築さん、治療の一環です」
 と言って、春生の前に一枚の紙を差し出した。「同意書」と書かれたその紙には、次のようにあった。

都築春生(以下、甲という)は、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の治療にあたり、担当医石崎(以下、乙という)の指導のもと、以下の条件で記憶操作を受けることに同意する

それから石崎は、手元のパソコン画面に表示された春生のライフログをスクロールし、二重にロックのかかった〈secret memories〉のファイルのロックをひとつ外す手続きをした。
 春生はその同意書を前に、なにかを思い出しかけていた。耐え難いほどの悪夢からようやく覚めたような重たい頭で、この席に座り、里子のつくった走馬灯を見た日の記憶映像を再生して見た、あの日。あの直前に僕は、この同意書に署名をしたのだろうか。春生は覚えていなかった。しかし、そういうことなのだろうと思った。春生は、いったいなんの記憶を失っているのだろうかと、必死に思い出そうとした。だが、頭の芯が重たくなるばかりで、思い出すことはできなかった。
「都築さんは以前、とても強いストレスを受ける出来事を経験されました。それが原因で抑鬱状態になり、夢でそのトラウマをくり返し体験されたり、日中にも発作が起こったりと、大変苦しんでらっしゃいました。いわゆるPTSDの症状です。そこで治療法のひとつである、記憶操作に踏み切りました。原因となっているつらい記憶に一時的に鍵をかけ、つまりその出来事を忘れた状態にして、症状を抑えるのです」
「一時的に鍵をかけるということは、記憶が消えているわけではないんですね? またいずれ思い出すことができる」
「そのとおりです。記憶を消すことは禁じられています。記憶を消すと、確かにPTSDの症状はおさまりますが、今度は虚脱状態になるという後遺症が残るらしいんですね」
 春生はこのとき、いつも虚ろな眼差しをしたハニのことを思い出した。彼女のあの感じは、もしかして、ルバング島で行われた例の人体実験の後遺症なのではないか。
「ですので、記憶を消すのではなく、記憶に一時的に鍵をかけるのです。先ほど二重にかけられた鍵のひとつを外しました。これで以前よりも少し思い出しやすくなるはずです」
 春生は石崎の説明を聞きながら、頭ではハニのことを考えていた。彼女は、いま現に自分が受けている治療法の開発の犠牲者だ。小森幹郎の推測が正しければ、ハニはルバング島の米軍の療養施設で、目の前で父親を殺されている。そしてその記憶を消された。おかげでPTSDは発症していないが、別の後遺症が残った。彼女の場合、もしも記憶が戻れば、到底理不尽で納得のいかない残虐な記憶に苦しむことになる。だから、小森幹郎を「お父さん」だと思ったまま、後遺症を抱えて過ごすほうがまだマシなのかもしれない。しかし。春生は身震いをした。人間の残酷さには、歯止めが効かない。自分もまたそういう人間のひとりで、そういう残酷な世界にのうのうと生きているのだ。
「記憶に鍵をかけるというのは、単に症状を一時的に和らげるためだけにやっているのではありません。思い出すという作業そのものが、つらい体験を受け入れ、乗り越える過程になるのです。都築さん、先を急ぐ必要はありません。これから一緒に少しずつ思い出していきましょう」
 石崎は、眼鏡の奥の小さな瞳をまっすぐ春生に向けた。
 春生は思った。ハニだけではない。アビーもまた、このシステムに利用された犠牲者だ。この世界には、いったい何人アビーの父親がいるのだろう。彼らは一時的にアビーの父親になり、いずれそうではないことに気づき、アビーから離れていく。アビーはその一人ひとりに「タタイ(お父さん)」と呼びかけるのだ。

春生はそれから四年の歳月をかけて、石崎医師の協力のもと、忘れていた記憶を取り戻していった。かつて春生の〈走馬灯〉に入っていて、治療のために抜かれていた記憶映像が、石崎の手で、少しずつ戻されていった。そのなかに、大人になってからの里子と、彼女によく似た小さな女の子が写った映像が、しばしば交じっていた。
 また春生は定期的に、彼の初恋の記憶である、小学四年生の夏休みの夜に里子のつくった走馬灯をみんなで見た、あの日の映像を観させられた。
 映像はいつも同じところで終わる。
 暗闇のなかで、赤い魚がゆっくりと動きだし、黄色い魚が現れ、橙色の魚が現れ、ゆらめく海藻の合間を、色とりどりの魚たちが回っていく。
 暗い海の底で幻影をみているようだった。
 春生がふと顔を上げると、正面に赤く照らし出された里子の顔があった。里子の顔を照らす淡い光は、青くなったり黄色くなったりした。
 ある日春生は、この場面にはまだなにかつづきがあるような気がした。それを石崎に伝えると、彼はゆっくりと頷いた。
「そろそろ思い出してもいい頃でしょう」
 石崎はそう言って、春生にもう一度映像を観せた。
 様々な色の明かりに照らされる里子の顔に見入っていると、部屋の開け放たれた窓からサァーっと、夏の夜の涼しい風が入った。走馬灯の明かりが歪み、なかの蝋燭の炎が大きく揺れたのがわかった。次の瞬間だった。ジリジリと小さな音がしたと思うと、行灯の障子紙の下部に小さな炎が上がった。その炎は、音もなく、一気に行灯の上まで這い上がり、そこで突然、大きく燃え上がった。ほんの一瞬、みんなが叫び出す前のほんの一瞬、全員が燃え上がる炎を見つめ息をのむ瞬間があった。暗闇のなかの炎に、目を奪われる瞬間があった。
 そのときだった。春生はすべてを思い出した。里子が自分の妻であったこと。里香という娘がいたこと。二人は、春生がマニラに行っている間に、津波に流され亡くなったのだということ。暗い海の中は、あんなにきれいな光で満ちてはいない。
 春生は激昂した。なぜだ。なぜだ。なぜだ。許せなかった。なにが許せないのか。それはわからない。でも、なにもかもが許せなかった。春生は泣きながら激昂した。
 その直後のことを、春生はよく覚えていない。おそらくは、石崎の手によって薬を投与され、なだめられたのだろう。
 春生はその後もまた、石崎のもとへ通いつづけている。あんな風に激昂することはもうなかったが、悲しかった。こんなことなら思い出さないほうが、とは、しかし思わなかった。春生は、もし自分があのまま二人のことを忘れてしまったらと思うと、ぞっとした。思い出すことができたという事実は、二人を想う気もちの強さを証明してくれたようで、唯一そのことに春生はかすかな希望を見出すことができた。

春生は石崎の助けを借りながら、一歩一歩前へ進むことができたが、最後にひとつの疑問が残った。治療の一環として、春生の里子と里香に関する記憶にはロックがかけられた。代わりに、春生はマニラのアイドル、アビーの父親であるという記憶の改変が行われた。日本で震災が起こったときに春生がマニラにいたのは、娘のアビーに会い行っていたからだということになった。この記憶の改変は、もともと春生がアビーのファンだったがゆえに可能となったのである。アビーは、一時期春生の娘になったように、世界中の多くの人の娘になったり妹になったりしているのだろうが、そもそも春生が、すでにこの記憶操作という医療ビジネスに取り込まれているアイドルのファンになったのはなぜなのか。春生に残された疑問というのはそれだった。
 これは春生が石崎に確認してわかったことだが、春生が大学一年生のときにアルバイトをしていた居酒屋には、確かにフィリピン人の女性がいて、フィリピンに帰って娘を出産し、春生にその画像を送ったが、それは春生の子ではなかったし、その娘はもちろんアビーでもなかった。つまり、カレンがフィリピンに帰ってアビーを出産し、アビーの画像を春生に送ったというストーリーは、その記憶をもとに捏造されたものであった。しかし、記憶のすり替えに使ったアビーの画像自体は、すでに春生の記憶のなかにあったものだという。その画像は、里子が妊娠したとわかったとき、春生の〈走馬灯〉のおすすめ画像のなかに突如現れたものである。それをきっかけに春生はアビーの存在を知り、いつの間にかファンになっていたのだ。
 この疑問を単なる偶然、、で片付けることは、春生にはもはやできなかった。この疑問について考えるとき、思い出すのはまたしてもハニのことだった。小森の目撃談によれば、ハニはある日突然、村のアイドルになった。小森の推測が正しければ、村の人々にそのような記憶の刷り込みが行われ、ハニに対して崇拝の感情を抱くよう何らかの操作が施されたのだ。春生にそのような操作が施されていない保証はなかった。
 春生はアビーのファンたちと積極的に交流をもち、密かにインタビュー調査をはじめた。インタビュー調査とは言っても、そんなに仰々しいものではないし、公式に発表する当てがあってのものでもない。ただ、どうしてアビーのファンになったのか、どういう経緯でアビーのファンになったのかということを、会う人ごとに聞き出し、その話を記録していっているだけのことである。
「偶然なんですよ」
 という回答が多かった。確かに、誰かや何かを好きになるきっかけは「偶然」であることがほとんどかもしれない。しかし、よくよく話を聞いてみれば、〈走馬灯〉に画像が入っていて、という事例がかなりの数にのぼったのは事実だ。春生は、アビーやアビーの他にも実はたくさんいるであろうそのようなアイドルたちのことを、〈走馬灯アイドル〉と密かに名付けた。人々が「偶然」という物事のなかには、装われた「偶然」というものがかなりの確率で混じっているのではないか。春生はその可能性を否定できずにいる。
 因果関係というものを考えると、春生はいつも混乱する。〈走馬灯アイドル〉のせい、、で、震災のときに里子と里香のそばにいてあげることができなかった。しかし、〈走馬灯アイドル〉のおかげ、、、で、里子と里香を失った苦しみから発症した病気の効果的な治療を受けることができた。「せい」と「おかげ」の行き着く先が、どちらも〈走馬灯アイドル〉であるという事態をどう受け止めればいいのか。しかも、〈走馬灯アイドル〉自体が何らかの大きなシステムの犠牲者であることは明らかであり、怒りの矛先を〈走馬灯アイドル〉に向けるのも、彼女らに感謝を捧げるのも筋違いなのだ。
 春生ひとりには、到底どうすることもできない。彼もすでにしっかりと、その強大なシステムのなかに取り込まれてしまっている。しかし、春生に向けられた小森幹郎の最期の言葉が、それでも春生をどうにか動かそうとするのだ。

終戦後の三十年もの間、私はルバング島で誰のために、なんのために戦っていたのかと、自問自答をつづけてきました。だが、あの日々が無駄だった、無意味だったと思ったことは一度もない。ただ、唯一の後悔があるとすれば、あのカセットテープを公にしなかったことです。あのテープには、私がルバング島で目にした出来事の数々が記録されています。しかし結局、私はそれを島に置いてきた。あえて置いてきたのです。以降、一度もその出来事について、私は口外しませんでした。口をつぐんだのです。でも、もし未だにハニがあのテープをもっていて、あなたがそれを聞くことがあるならば、ひょっとして事態は動き出すかもしれない。そう思えることは、私にとって救いです。あるいは、あなたもまた、口をつぐむかもしれない。それはそれで仕方のないことだと思います。あなたにとっては甚だ迷惑な話かもしれませんが、私はあのテープの処置を、全面的にあなたに委ねたい。

 

文字数:40991

内容に関するアピール

東日本大震災が起こったあの日、私はマニラの貧民窟にいました。当時大学院生だった私は、大学教授とともに、インタビュー調査をする目的で廃墟のなかに形成されたスラムに入ったのです。そこは、あまりにも異世界の生活空間でした。インタビューの声が空々しく響くほどに、私たちは彼らにとって全くの役立たず、用無しの人間でした。そこは、私たちが無闇に立ち入るべき場所ではなかったのです。
 私たちは震災のことを、移動の車のなかで知りました。運転手がタガログ語のラジオの報道を英訳して伝えてくれました。
 帰り着いた東京はもう、以前と同じ東京ではありませんでした。成田空港から電車を乗り継ぎ、見慣れた駅のホームに降り立った瞬間、眼前にあったのは私の見知らぬ光景でした。空気の粘度が違う。彩度が違う。靴音の残響が違う。ホームの片隅で私は、マニラの貧民窟にいたとき以上に、この東京で異物の存在でした。私は、日本の(東京の)人々が共有すべき決定的な何かを、共有していなかったのです。
 八年前のあの日、私はいるべきでない貧民窟にいて、いるはずの東京にいませんでした。あの日からずっと、私は、この事態を思考するための枠組みを探してきたような気がします。

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