案山子守

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案山子守

 あの人の素晴らしい文章(映像、もしくはその他の虚構)は、現実にその文章が表すほどの素晴らしさが存在しないことを教えてくれる。しかし、その文章は現実によって生み出された言葉(もしくは何らかのピース)がなければ生まれなかったのだから、現実がなければその文章も存在しない。その程度の現実を生きている。もしくは、それ程の現実を生きている。

1.

 顔は、頭からずり落ちた麦わら帽子がそのままに覆ってしまいっている。痩せた身体は、見た目以上に頑丈だ。その身体は黒いコートに包まれている。おろしたての頃は、分厚くて重いわりに暖かくない生地だった。その質の悪さのせいで、彫刻のような趣きを備えていた。しかし、そのコートも何年も雨風にさらされて、いまやクタクタになって旗のように風にたなびいている。黒いけれども、漆黒の黒ではなく、色が抜けた煤払いのように、黒全体がぼやけてしまってから久しい。

 カカシは、もはやその姿を見られることが仕事ではなくなった。カカシの姿を見ると逃げ出していく雀が、長年放置された田んぼに、やってくる事がなくなったからだ。カカシに時間だけが経っていき、目立たず冴えない格好になった。けれど、そうかと言って、カカシは顔を隠したい訳で帽子を顔に被っている訳ではなく、ただ、去年の台風の時の強い風で帽子が顔の位置に落ちてしまって、それを整え直す術がなかっただけだった。帽子の網目も所々に穴が開き、そこから視界が広がっている。仮面の様で悪くないとカカシは思っている。

 だいぶん前の事、昼間の夏の力強い太陽の光と暑さで、緑色の稲が田んぼを覆う夏の夜にだった。カカシの前を、お面が通り過ぎたことがあった。その日、近くの神社は夜遅くまで音楽が鳴り、太鼓の音と歌う声が遠方にして、賑やかだった。夜はいつも暗い空が伸びていたけれど、その時は神社の辺りの明かりが、ぼんやりと空に向かって浮かんでいた。

 遠くで響いているとばかり思っていたしゃべり声の一部が、近くに聞こえてきたと思ったら、地面から低いところを、それまで見たことがない生き物が、目の前を通り過ぎるのが見えた。顔は動物、体は人の子。握っていた親の手を急に解いて、お面を被った童が駆け出そうとしたものだから、親は慌てて懐中電灯で童の行く先を照らしてやっていた。

「じいじに、はやくお面を見せたい」

面の下の、童の顔の表情は判らない。暗闇にいる親の顔もわからない。けれど、聞こえて来た親の声は笑っていたし、童の返事をした声も笑っていた。カカシはお面とは嬉しいものなのだ、とその時思った。

 その夜の日から、どれくらい経った事になるのか。その年の収穫を終えて以来、ぱたり、カカシのいる田んぼに人がやってくることがなくなった。もう春になり、水田に水を張らなければならない頃にも、ほったらかしだったのは、田んぼ同様、カカシも、であった。もしくは、カカシ同様の、田んぼでもあった。

 それまで田んぼに毎日やって来たのは、1人の老人の男性だった。

 老人がやって来ていた頃の田んぼは、一年の流れる時間は水のようになめらかだ。人の力で変化する田んぼは、綺麗に姿が整えられる。春、田んぼの長方形は、角が丸くなり、ふちが灰色の泥で固められる。畦塗りが施された田んぼに、たっぷり水が張られ、その水はとても澄んでいる。水面の下の田んぼの中の灰色の泥も、でこぼこしているのが見える。平らな水面がただ光を反射するだけではなく、水中の泥の角度が、光を大きく反射していた。その水田に並べ植えられた草は、初めは小さく、それが同時にだんだんと成長する。田んぼの一面が、はっきりとした色と形と大きさで変化する。

 老人は夏になると、毎日細かく草を引いた。毎日老人は草を引きにやってくるのに、毎日引く草はどこかにあった。田んぼにやってくるのは老人だけではない。植物の間に合鴨や鷺もやって来た。田んぼにいる小さな虫を食べていく。

 「波」。カカシは本物の波を見たことがない。しかし、カカシの周りが夏になり、田んぼの植物が急に勢いよく成長し、細長い茎が一斉に生えそろい、緑色に伸びた稲穂が風に撫でられて姿を変えていく光景を指して、人々が「海」や「波」というのをよく聞いた。風が吹いて稲穂が倒れ、またそれが通り過ぎると稲穂が起き上がる。寄せて返す。その動きを「海」や「波」という。「海」や「波」は本当は、田んぼに張ってある水、空から降ってくる雨、田んぼのすぐ側で音を立てて流れている川と、同じ水でできている。しかし、それらの水のことを「海」や「波」とは言わない。雨粒や川よりも、もっと量が多い水。それらが寄せて返す。カカシは、自分の周りに散らばる世界から、見たことのないさらに広い世界を想像する。風によって滑らかに揺れる運動を繰り返す稲穂には、太陽の光を反射する角度を巧みに変化させる。白い波が立つ。

 田んぼという平面でない一面が、季節ごとに光を反射するスクリーンになっていた。

 夏は毎年2度ほど大きな台風がやってくる。凄まじい量の雨と風は、激しい音を立てて、カカシにもぶつかる。田んぼの植物を、押さえつけて、倒したり、飛ばしたり、散々にあたりを散らかす。それを老人は、すっかりと晴れた青い色の空の下で、もう一度植物が自分の根を頼りに、生き戻せるように、手を掛ける。

 初秋には、広がる稲穂の先だけではなく、カカシの頭に鼻先に、腕にはめられた軍手の先に、肩先に、代わる代わる蜻蛉が休憩していった。そっと蜻蛉はやってくるので、くすぐったくないけれど、嬉しくて笑いたくなる。あんまりたくさんの蜻蛉にモテる日は、真面目に突っ立ていることが勿体無いくらいだ。カカシはいつも眺めているだけのあっち側の世界の中に、突然自分も入り込んだような気分になるのだった。

 その頃になると、雀が田んぼにやって来る。カカシは雀を見ると、とても懐かしい気持ちになった。それと同時に、苦い気持ちにもなる。

 それはさらに年を遡って、案山子が田んぼに立った最初の年の秋のことだった。老人は、大きなカカシを抱えて連れてくることに、それほど苦労もなかった。老人がもう少し若かったからだ。そして同じだけカカシは新しいだけでなく、その年はカカシにとっての初めての田んぼ仕事だった。カカシは秋生まれだった。

 カカシには右も左もわからない田んぼだ。丸々としたお腹の小さな雀たちが田んぼの周りにやってきて、カカシから離れて少し遠くでうろうろとよそよそしく、稲穂の米をついばんで食べている。しかし、その次の瞬間、カカシよりもはるかに雀が驚いた。老人が大きな音を立てて、雀を追い払ったからだ。それ以来、カカシは雀たちがなかなか自分に近づいてこない事を理解した。雀が近寄ってカカシとの距離が縮んでくると、雀はある瞬間にそそくさと逃げていってしまう。

 カカシはまだ仕事にも慣れない、立っているだけで退屈な田んぼ仕事に友達が欲しかった。それなのにカカシが友達になりたい雀からはどうやら嫌われているらしい。

 ある日、一羽の雀が、カカシのそばまでやって来る。その雀は他の雀と違うところが3つあった。1つは、声が他の雀よりも軽やかで、よく通ることだ。無邪気に鳴くととても愛らしい。2つめは、カカシにとって驚くべきことに、カカシの一本道になった肩をひょこひょこ飛び歩くことだ。初めてカカシの肩にその雀が乗った日のことを、カカシは覚えている。雀はカカシは近づいて来て、ひょっこりとカカシの肩に乗ったのだ。

 それから、3つめは、雀はカカシの肩に乗って、詩を読むことだった。雀はカカシの肩で、雀が見てきた遠くの街の出来事を、詩にして聞かせてやった。「ここだけの話」と前置きをするのは、雀の口癖だ。詩は秘密の話なのだそうだ。それから雀は、目の前のことをよく観察することで、詩の言葉が出来上がる喜びがあるとカカシに言った。

 カカシは、田んぼを見守ることを苦に思わなくなった。雀はカカシが読む詩をいつか聞かせてくれるようにと、約束をした。

 

 それまで何度も吹いていた風が、次第に黄緑から黄色、さらに黄金色の風になって噴き出す頃、稲は刈り取られる。稲架掛けに稲穂が並ぶ。短く切り残った稲の跡に、現れた土の地面の上で、溢れた稲粒を最後まで食べていた雀たちも、白く霜が降りるようになった地面には、間も無くやって来なくなった。

 とうとう冬になり、鹿を追いかける猟師や冬鳥が肩を寄せる。

 それからカカシの目の前で、何度も同じ季節に同じ風景が目の前で繰り返された。見慣れる前の新しいものは、見慣れてからのものとはまた別のものだ。同じものなのに、不思議に思う。繰り返される風景の中に、たくさんの雀たちがやってきても、再び「あの雀」がやってくることはなかった。

 カカシはいつかまた、自分の肩にあの雀がやってくるところを想像する。

 カカシのズレ落ちた帽子が直されることがないまま、年月が過ぎるようになってからでも、カカシはそれでも変わらず目の前にある風景の変化を見続けた。

 自然の力で形を変えていく田んぼは、一年を弾けるような変化で回転する。自由に広がって成長する植物が、春にポツリポツリと芽が出て伸びていき、朝露をつけて光る。夏は高さが増す植物によって、緑色の厚みに覆われた地面に雨が弾く。気温が朝晩急に下がりだす秋口から、大きな一年草は枯れ始め、茶色の草ばかりになり、冬になると霜柱で持ち上げられた土の上に、年を跨いでも平気な植物がよく見ると少なからず平気な顔をして居座っている。

 どの草も自由に生えて伸びながら、季節を楽譜にしたように、合わせて伸びたり、縮んだり、枯れてなくなったり、また現れたりする。一年を通してうねっている。

 

 また新しい春がもう少しするとやってくる。白いシロツメグサの蕾がカカシの周りを取り囲み覆っていた。

2

 ガイコツは眩しさに目を覚ます。さて、いつからそこで寝ていたのか。思い出す事が出来ない。

ガイコツの目に、光はあるが、目の前が白くぼやけている。目のところに空いた穴に、蜘蛛の巣が張っているからだ。巣を張った蜘蛛はすでにいなくなっていた。代わりに蜘蛛の巣には、砂と埃が引っかかっている。頭の上の棺桶の蓋が少し開いている。その隙間から入り込んだものだった。さらに溢れ入る光がある。

 ガイコツには、周りを見渡すための眼も、見たものを考える脳も、固まった体を動かすための筋肉もすでにない。せいぜいが、ほとんど削げ落ちているが、部分的に残った皮と肉の欠片が骨にへばり付いているくらいだ。しかし、ガイコツの身体は全てを覚えていた。生きていた時に身につけた、筋肉の動かし方や、視覚による光の捉え方、脳の動かし方などのことだ。

 幻肢痛の要領だ。右腕をなくした者が、時折思い出した右腕が痒くなったり、右足を無くした人間が、狭い部屋の中を歩きながら、実際にあるはずもない右足を机の角にぶつけて痛みを感じるような具合に、ないはずのものの感覚が、ガイコツの体の中にすっぽりと残っている。骨が架空の器になって、仮想の肉体を動かす。

 ガイコツは長い間同じ姿勢で寝ていた。そのため、身体中が氷の様に硬く凝っていた。ガイコツは慎重に体を起こしながら、目の前を瞼の様に覆っている棺桶の蓋をずらした。外には明るくて完璧な景色があり、それを空洞の目に入れる。

 自分がいつからガイコツになったのか、ガイコツになる前の死体、死体になる前の生物の生命。辿っても仕方がない。今ガイコツでありガイコツという未来なのだ。

 ガイコツは死を生きることにした。

 

 久しぶりの棺桶の外だ。ガイコツには、娑婆というには相応しくない。しかし、ガイコツは一服の煙草が吸いたくなってくる。酒も飲みたくなってきた。もはや人間でもないのに、人間時代の煙とアルコールの安っぽい願望は、骨にまで染み付いてしまっている。

 ガイコツが着ているボロの茶色い上着のポケットを探すと、胸のところに煙草が入っていた。しかし、火がない。

 どこかに火が落ちてやしないものだろうか。

 

 ガイコツは山道を歩き出す。ガイコツが歩く足音は、一歩ごとに「カタカタカタ」と細かい音が重なる。足の裏は1つなのだが、足の裏の骨となると、5つに分かれているからだ。馬が歩く時に馬の蹄の真ん中に空洞があるせいで、空気を含んで籠って響く、間抜けな音がするように、足の裏が変われば足音も変わるものだ。

 ガイコツが彷徨っていると、遠くの方でじっと立っている人間がいる。ガイコツが近づいていくと、頭の帽子がずれ落ちている。人に見えたのは、ボロボロのカカシだった。足元には白い花が咲く。それは、本当の季節よりも早く咲いている。白い花は死の花だ。このカカシはもうすぐ朽ち果てる。片方しかない片足を死に突っ込んでいる。

 ガイコツは白くて硬い指先で、つまんで帽子をひょっと持ち上げる。すると、カカシはしゃべりだした。

 

「ありがとうございます。帽子のお面も気に入っていたのです。でも、頭に乗せてもらった方が、見やすくて、すっきりします」

 ガイコツは言われたように、帽子をカカシの頭の上に乗せ直してやる。カカシは低い声でナメクジが這うような間延びしたしゃべり方だった。カカシは初めて他人としゃべったのだ。カカシは、カカシが過ごした長い時間感覚でしゃべってみたので、そうなった。

「ところで、カカシ君、君はマッチや何かの火は持ってないだろうか」

「火ですか?そういえば、だいぶん前にこの田んぼを手入れしていた老人が、よくタバコを吸っていました。ちょうど私の隣で、農作業の合間に。それで、吸い終わると私のコートの左上のポケットにライターを仕舞うのです。まだあるかもしれません。どうぞ探してみてください」

「それでは失敬して」

と言って、カカシのコートのポケットを探してみると、湿気にやられた煙草とライターが出てきた。ガイコツはライターだけを取り出して、自分が持っていた、かろうじて形の残っているような煙草を、歯が並んだ口にくわえる。ガイコツは煙草に火をつけようとするが、なかなかつかず、何度目かでようやくついた。ガイコツは煙草を吸うにはスカスカした厚みの自分の顔に、懐かしい煙草の煙を燻らせて一服した。ガイコツはその一服に一息つけるかと思いきや、嗅覚ほど過去の馴染みを想起させるものはない。しかし、生きていた頃の過去に戻るわけにもいかないガイコツは、記憶に翻弄されるなど糞食らえ、と苦し紛れにカカシを相手に世間話を始める。

「こんなところにずっと立っているだけで、退屈だろう?」

「そんなことはありません。ここにいれば、ずっと風景が見れます」

「それではただ突っ立っているだけの事を、何も疑問を持たずに運命を受け入れているだけじゃないか」

ガイコツはカカシを鼻で笑うと、カカシは意外にも言い返す。

「そうではありません」

「どう違うんだ?目の前の世界を見ているだけで満足するなんて、やっぱり退屈だ」

「私がここに居続けているのは、目的地がない寄り道で時間を潰す途中なのです。死を生きることは永遠を生きることです。死は永遠に未来であり続けなければなりません。風景はそこにあり続ける未来そのものです。それを楽しめなければ、死を生き続けることなんてできません。過去と現在を比べて、満足か不満足かを問いながら、死を生き続けることなんてできません」

 このカカシは朽ち果てようとしているのではなく、いつの間にか、すでに死を生き続けていた訳だった。

 

「ところで、君は歩きたいと思ったことはないのかい?」

「私が歩くのですか。そんなこと考えたこともありません」

「考えたことがない事を考えてみたらいい。火を貸してくれたお礼に、歩き方を教えよう。存在しないもう一本の足を想像する方法だ」

「私は歩かなくても、ここに立って風景を見ながら、死を生きることができます」

「だけど、それなら、歩きながらでも風景をみることができる」

「確かにそれはそうですね」

「歩くのは簡単さ。まずは、存在しないもう一本の足を想像してみたらいい」

 ガイコツがカカシに教えたのは、ガイコツが体を動かす時と同じ幻肢痛歩行法だ。それでも、ガイコツは生前の体の記憶を頼りにしていたが、カカシにとっては記憶のない、本当にもう1つの幻の足を想像する。永遠のうちの一瞬だけの暇つぶしの様な想像だ。

 カカシの歩いた第一歩は、本来ある一本足を踏み出されたのか、見えない足で踏み出されたのか。本来ある一本足で地面を蹴って、もう片方の存在しない足を前に出して、体を支える。だけど慣れない不在の足は、カカシの大きな体を支えるにはいつも頼りなさ過ぎて、すぐに本当の一本足が、見えない足を支えるために前に出る。足音は地面にドシンと響く。それは変なリズムの歩き方だった。

3

 ヘビは振動で目を覚ました。もしかすると地震かもしれない。目を覚ましても真っ暗ということは、今冬眠中のスタイルで眠っている。それがこの振動によって目が覚めたのだ。今はいつだ。土の中は冬でもいつも、たっぷり暖かい。しかし冬の穴の外の世界は最悪だ。雪とか降っていたら危険極まりない。寒さで動けなくなり、凍えて死ぬだろう。そうならないための冬眠だ。動かないので、腹の減り具合で時間経過もわからない。いつから揺れているのか。まだ揺れている。あまりに揺れが続くので、だんだんと平衡感覚が刺激されすぎて、酔い始めている。

 しかし、これだけ振動が続くとなると、もしかすると、様子を見てどこかに逃げた方がいいのかもしれない。どこかとはどこへ?大地から逃れることは出来る手はないし、それに少し眠い気もするが、寝起きが眠いのはいつもと変わらない。揺れのせいで調子が狂う。もう十分に暖かくなったのだろうか。ちょっと外を覗いてみる価値はありそうだ。顔だけ出して、地震の様子を確かめてみよう。

 ヘビは揺れる穴から恐る恐る顔を出した。鼻先に当たる風はまだ少し冷たさを感じる。しか、も、雪はない。地面に霜も降りていない。最低最悪の寒さの心配は免れて、一安心する。もしくは、ここまで気候に問題がなさすぎると、今度は寝坊の心配が湧いていくる。

 だけど、穴の出口は林の中。木の影になっているとやはり冷んやりとする。これはまず、日光浴をして、体温を上げてから対策を考えよう。少しでも暖かい場所を求めて日が照る場所へ向かってヘビはそそくさ移動を始める。雑木林を抜けるまでのひんやりとした木陰は、木漏れ日がまばらに溶ける蛇の道になって、ヘビがゆっくりと抜けていく。

 林の果ては草原だ。ここまで来ると太陽が見える。日の高さは昼過ぎだ。ヘビは日に照った草の間に、蕗の薹の蕾やおでこまで出掛かったいくつもの土筆の頭を横切りながら、ひとまずそれなりに暖かい陽気が続いている事を知る。しかし、イヌノフグリやレンゲ、スミレの花の影を探してみたけれど、どうも見当たらない。蕗の薹の蕾もカッチリとレゴブロックの様にまだ固そうだ。これが本当の春なら、蕗の薹はふわっと薄い黄色の花びらを咲かせて、全てを数え終わる前に夏がやってくるくらい、たくさんの花が咲いているはずだった。

 土筆は本当の春が来る前の、早起き組がいるのだ。どうやら、彼らは早起き組だろう。これはまたもう一度寒くなる日がやってくる。ヘビが土の中から起き出すには早い頃合いのようだ。「チッ」とヘビは長い舌で舌打ちをする。

 草原を脇に歩道が続く。歩道の方から、振動はやってくる。そしてますます、より強くなって音も大きくなってくる。

ドシン、ドシン。

その後すぐさま、乾いた、揺れる様な音が聞こえてくる。

カラカラカラカラ。

音には変な拍子だがリズムがある。これは地震ではなく、何かが道を歩いているのかもしれない。どうせまた穴の中に潜るにしても、道を戻るために日を浴びて体温を上げておく必要がある。道をやってくるのが何か確かめるために、待ってみることにしよう。場合によっては、振動被害の文句の1つでも言ってやりたい。待つには石垣の上が良さそうだ。ここは石が熱を集めて他よりも数倍暖かいし、他所より高いので眺め良いので、道がよく見える。

 ヘビは器用に身体をくねらせて、石垣の定位置に着いた。じわじわとお腹から体温が上がってくると同時に、ヘビも調子を取り戻し、気持ちよく、自分には無いまぶたまでも落ちてきて目が細くなるかのように道を眺める。道に沿って2体の物体がこちらに向かってやってくるのが見える。

 おや、やってくるのは2体とも人間ではないか。これは厄介だ。寒さの次に人間は苦手だ。ヘビは一本足の身体の反対側、頭に強力な歯と毒を持っているが、それ以上に人間は手という武器を持っていて、それによって殺られた仲間の話はよく聞いた。やれやれ、問題の震源が人間となれば、下手に手を出すのは賢明ではなさそうだ。このまま奴らが通り過ぎて、大地が静かになったのを確認してかたら、早々にまた、もう一度穴に帰って本当に春になるまで、寝直そう。気を取り直して考えれてみば、二度寝ほど気持ちがいいものはないではないか。

 石垣の日光浴で気分を良くしたヘビは、そう考えていたけれど、2体の体がいよいよ近づくと、それがどうやら人間ではない事に気がつく。驚いて今度は目を大きく見開いてよくみると、1人は一本足のカカシではないか。

 ヘビは同じ一本足の物知りだった。ヘビと同じ一本足の生命を見ると、声をかけたくなる。一本足の生命は至る所にありすぎて、蛇は忙しくて仕方がない。大きな木は至る所に生えているし、草も花も全部一本足で立っている。一本足はだいたい歩かない。だけど、ミミズも一本足で、こいつはヘビと同じで動くやつだ。一本足系の生命は、動かないやつと動くやつがいて、カカシは動かないやつのはずだ。それが、動いている。隣の白いやつも人の形をしているけれど、全然人ではないじゃないか。奇妙なやつらだ。人間でないなら、1つ冬眠の眠りを起こされた文句を、言ってやっても良さそうだ。それでこそ、わざわざここまでやって来た甲斐があるってことだ。

 ヘビはおかしなカカシとガイコツにむかって声を掛けた。

「おいおい、そこの2人」

だけど、ヘビの声はカカシの足音によって殆どかき消されてしまった。カカシはガイコツに尋ねた。

「なんか言いましたか?」

「いや何も」

「そうですか。それなら良かったのです」

ヘビはさらにもう一度大きな声で、今度はカカシに向かって呼びかける。

「おーい、カカシ君。君はカカシなのに、どうして歩いているってんだ」

ヘビの言葉にガイコツが受け答える。

「初めてにしては、なかなかうまく歩ける様になってきたじゃないか」

「そうですか。それはありがとうございます。」

ヘビは懲りずに

「いやいや、もっと静かに歩けないのかい?」」

「だけど、君が言う通り、もう少し静かに歩いてくれれば、私の身体もカタカタと、余計揺れずに済むんだが。あんまり揺れるもので、自分の身体ながらに、破片がどこか外れて、飛んで行ってしまわないか、心配してくる」

「それはすみません。しかしながら、私は静かに歩くことなんて考えたことありません」

「あれ?今、君、自分で言ったじゃないか」

「その歩き方、なんとかならないものなのかって言ったのは僕だよ」

 ガイコツは、カカシの声とは違う、聞き慣れない声にようやく気付いた。ガイコツは、「シッ」とカカシの歩みを制した。カカシは突然の静止にちょっとよろける。ガイコツは慌ててカカシの背中を支えてやると、意外にカカシは体重があって、ガイコツも危うく余波でよろけそうになる。

「僕はここだ、石垣の上にいる」

カカシがバランスを持ち直し、ガイコツは辺りを見回した。石垣の上に茶色い縄が落ちていると思っていたら、ヘビがいた。

「そうそう、静かにしてくれよ。2人とも。特にそのカカシ君の歩く振動をどうにかしてくれないか。冬眠から目が覚めてしまって、落ち着いて寝られやしない。振動ですっかり酔ってしまったじゃないか」

ヘビがここぞと文句を並べる。

「それは申し訳ないことをしました」

カカシが申し訳なさそうに謝っていると、隣でガイコツが

「そういえば、酒を飲んで酔っ払いたいところだな」

と言い出す始末。

「やれやれ。こらちの気も知らず、呑気なもんだ」

と呆れたヘビは、カカシに尋ねる。

「ところで、カカシ君。どうして君が歩いているんだ」

「こちらのガイコツさんに、歩き方を教えていただいたのです」

カカシはここまで来た経緯を説明する。

「しかし、久しぶりに歩くのも骨が折れる。少々くたびれたものだな」

そう言ってガイコツは、石垣に腰を下ろして考える。

 カカシはガイコツが座るのを見て、ガイコツの座り方を真似る想像をしてみようとしたけれど、カカシの足は物理的に伸びたままで、それが出来なかった。仕方がないので、石垣に体を立て掛けた。

「あれは何ですか」

しばらくして、カカシがガイコツに尋ねる。カカシが指差す方を見てみると、空には飛行船が浮かんでいる。ガイコツは閃いた。

「なるほど、あれは飛行船てやつさ。あの飛行船を使って空を移動できたら振動も起きないのだが」

「だけどどうやって、空の上のあの飛行船に乗るのです?」

「それが問題だ。あの飛行船にたどり着ける、鳥の様な羽があったらいいがな」

ガイコツはため息を吐いた。遠い飛行船を眩しく眺めながら鳥という言葉に、カカシは雀を思い出して郷愁を覚え、ヘビは舌なめずりをした。

「あれは何ですか」

 またしばらくして、カカシが言う。ガイコツがカカシの指差す方を見てみると、道には錆びて茶色くなった、放ったらかしの自転車が転がっている。ガイコツは閃いた。

「なるほど、あれは自転車ってやつさ。あの自転車を使ってこの道を移動できたら振動も起きないぞ」

「だけどどうやって、あの難しい形の自転車に乗るのです?」

「なに問題ないさ。随分と久しぶりだが、自転車の乗り方のコツはわかっているさ」 

 ガイコツは自転車のところへ行き、小さなサドルに腰掛けペダルを漕いでみた。錆びた部品は漕ぐたびにギーッギーッと音をいうけれど、ガイコツ1人が乗る分には問題はなさそうだ。ガイコツがぐるぐると自転車を走らせていると、長縄跳びに入る要領で、空いた後ろの荷台にカカシが飛び乗る。ガイコツは再びペダルを漕いでみた。大きくて重いカカシが不安定に揺れると、10メートルも進まなかったのではないか。後ろのタイヤが“PON!!”っと音を立てた後、自転車がガタガタガタと言い出して、丸いタイヤが四角形になったのではないかと思うくらい、ガイコツの漕いでる足が重くなったと思うと、自転車本体から2つの車輪が前と後ろ、タイヤは外れてしまって、そしてそのまま、ガイコツもカカシも“ドテン!!”という音を立てて道の上に放り出されてしまった。自由になった2つの車輪は、くるくるとどこまでも回転して離れていった。

 あわや大惨事といったところ。重くて大きなカカシの下敷きになる、という最悪の事態は免れたガイコツだけれど、あまりの衝撃に、ガイコツは肋骨にヒビがいったし、足と手の指の骨が数欠片が飛んでいきき、ヘビの頭の上にも白い欠片が落ちてきた。カカシは左腕がわずかに曲がってしまった。危険な自転車移動は諦めることにした。

 ガイコツは方々に飛んで行った骨を必死で集め探した。

「おうい。ここにもあるぞ。頭の上に落ちてきて、痛いじゃないか」

ヘビはガイコツに飛んできた骨を教えてやる。

「どうもすまないなあ。ありがとう」

「やれやれ」

けれど、ガイコツはどうしても自分の体の骨の、2つの小さい部位がなかなか見つからない。カカシも一緒に探しているうちに、赤く光る透き通った光る石を1つ見つけた。

「ここにもあります」

「色が違うじゃないか。サイズは丁度いいんだが」

仕方がないので、代わりにその赤い石を拾い中指の無くした骨の位置にはめ込んだ。太陽に透かして光る石は、指輪をしている様にも見えたし、そこだけ血が流れている様にも思えた。ガイコツはそれを気に入った。

 

 それから、カカシの曲がった腕をガイコツが戻してやろうと四苦八苦していると、またカカシが言い出した。

「あれは何ですか」

 カカシが指差す方を見てみたが、これと言って変わった様なものはない。

「あれとはどれだ?何もないじゃないか」

「あれですあれです。私の曲がった腕の、曲がったまま指す方向ではなく、曲がらなかった時に指先さす方向です」

 ガイコツはそう言われると、カカシの曲がった腕をようやく元に戻してから、その指の指す方向を見た。大きな樫の木の下で、棺桶を裏返した様な、小さなうつ伏せの小舟が置きっぱなしになっている。ガイコツは閃いた。

「なるほど、あれは小舟ってやつさ。あの小舟を使って川を移動できたら振動も起きやしないぞ」

「だけどどうやって、川に運んであの小舟に乗るのですか?」

 そばに寄ってガイコツは小舟をよく見る。木製の小舟の底は雨ざらした挙句、白だったペンキが灰色に変色し、さらにペンキが剥げた表面を中心にしながら、緑色の小さな苔が所々に薄く張る。でこぼことしたその絨毯の上を黒い蟻が散歩をしている。小舟のそばに落ちている櫂は、半分朽ちて無くなってしまい、残った半分も虫食いの穴がたくさん空いている。小舟も櫂も、川から離れたその場所に放ったらかしにされてもうだいぶんと時間が経ち、森のものになっていた。

 ガイコツは、まずは小舟を裏返す。それから表に向けた小舟の両側面に、先程飛んで行った自転車の車輪を拾い集めて、取り付ける。すると、後ろを押すだけで簡単に地面を移動出来る車の様になり、そばを流れる川べりまで、小舟を運ぶことができた。丸太だって運べそうな小舟だ。重いカカシも余裕をもって乗せてやることができるぞ。今度こそうまくいきそうだ。

 

 いよいよ出発の準備が整った。ガイコツとカカシは、石垣のヘビに向かって挨拶をした。

「それじゃあ、ヘビ君、私たちはそろそろ出発するよ。冬眠の邪魔をして悪かった。」

「ゆっくりおやすみ。穴に戻ったら、いい夢を見ておくれ」とカカシ。

「そうとも。死んだら夢は見られない。生きているうちに、いい夢をたくさん見るといい」

ガイコツはそう言って、小舟の尻を最後にひと押し。小舟が陸地を離れる瞬間に、ガイコツは小舟に飛び移った。

 しかし、いつの間にか、スルスルっとヘビも一緒に小舟の中に乗り込んできた。

「君、忘れ物だよ」

ヘビは口にくわえていた白い欠片を床に置いた。それはガイコツの無くした、最後のもう1つの骨の欠片だった。腹で張うヘビにとって目線のまっすぐ先の地面の上、水平の先にその骨は光っていたのを、ヘビは見つけたのだった。

5.

 三体の、人でもない、うち半数以上は生き物でもない者たちが川を下り始めた。

もっと山奥、川の上流付近では、積もっていた雪が徐々に溶け始めていた頃だった。そのため、流れ込んできた水に嵩を増した川の流れは勢いもよく、小舟はどんどんと川を運ばれていく。

 カカシは、初めての川の上にいた。水田に貯えられた留まった水とは違い、川の水の層はもっと分厚かった。それがひと所に止まらずに、絶えず流れている。川の水の塊は同じ様に見えるのに、一瞬も同じものではない。滑らかで透明な水にあふれた。

 一方ヘビは、小舟に乗り込んだのはいいけども、今度は船の上がまた揺れる。成り行きで勝手に乗り込んでしまったけれど、何だか騙された様な気分だった。

「船ってのは随分揺れるものなんだな。僕はどうやらまたこの揺れに酔ってきたみたいだ。君達に関わると酔ってばかりだ」

「わたしも酒を呑んで酔っ払いたいのだが」

「こちらの気も知らないで。あんたはずっと酔っ払いみたいな事ばかり言ってるじゃないか」

「いや、どうもこれは失敬」

「僕は地面とお腹がぴったりとくっついているから、振動が直に伝わって酔いやすいんだ」

「それなら私の肩に乗ってみてはどうでしょうか。舟が揺れるのと同時に、反対側に私も肩を傾けます。そうすると、常に私の肩の上だけ、地面と同じ水平が保たれるのです」

「へぇそれはありがたいぞ!ではちょっと失礼して」

ヘビはカカシのお腹をつたって登っていき、カカシの長い一本柱の肩に水平に体を這わした。

 カカシはやじろべいの様に船の揺れに合わせて、自分は反対側に揺れながら、ヘビに水平を作ってやった。ヘビはカカシの分厚い肩の上は、揺れない訳ではなかったが、揺り籠の様な穏やかな揺れが心地よく、日光浴をしながら昼寝をしてしまった。

 

 ヘビが眠ている間も、小舟は川の流れに沿って進んでいった。そのうち、進行方向から、不思議な水音が聞こえてくる。何重にも束ねた厚みのある音にも関わらず、よそよそしく遠くに響いていて、それが小舟の進む速さに合わせて、とてもゆっくりと大きくなる。それが、いよいよ、いきなりパノラマのように大きな音が聞こえてきたかと思うと、小舟は滝を落下していた。落下した滝は1つだけではなく、2つだった。それから、突発的な春一番の襲来があったり、多少の冒険はあったものの、川下にどんどんと進んでいった。その間、ずっとヘビは安定したカカシの肩の上でぐっすりと眠っていた。

 しかし、だんだんと河口に近づいてくると、両岸が遠ざかって川幅が広くなり、川の流れが穏やかになると同時に、小舟が進む速さは次第にゆっくりになっていく。おそらくは海はもうすぐそのあたりで、というところまでやって来た。そこから小舟がなかなか前に進まなくなってしまった。

 事態の改善のカギを握るのは、森の中で小舟のそばに置いてあったボロボロの櫂のように思われた。目の前の床に置かれた一本の櫂を、試しにガイコツは、水を漕いでみた。しかし、使い方に慣れていない櫂に、ガイコツが何度漕いでみてコツが掴めず、船はうまく前に進まない。募る焦りに任せて、ガイコツは櫂で水をバシャバシャと蹴っていると、とうとう櫂は折れてしまった。櫂は役に立たつ前に、すっかり役に立たなくなった。

 ガイコツは途方に暮れかかろうとしていたとろ、

「クシュン」

くしゃみをしたのはカカシの肩に乗ったヘビだったが、隣で川を眺めるカカシに、ガイコツは閃いた。

「そうだ、カカシ君。君、船の真ん中に立って、君のコートを大きく広げてくれないものかな」

カカシはガイコツに促されて、小舟の真ん中に立ってみた。

「こういう具合でしょうか」

それから、言われた通りにコートをいっぱいに広げた。すると、たちまち風を受けてたコートは、中に風を溜め込んで膨らんだ。

「君のコートが帆掛け船の帆になったのさ。風を布に溜め込むと、両側に気圧の差ができるのを利用して、舟が進み、速さや方向をコントロールしようっていうわけさ」

「それはとても便利の良い風です。稲穂を揺らす風、台風の風、小舟を動かす風。風は透明だとばかり思っていました。しかし、とりどりに吹く風は、秘めた色と重さを持ち合わせていたようです。風の重さがコートのポケットから溢れていきます」

 

 カカシのマストの帆掛け舟は、ガイコツの舵取りによって、また川を推進し始めた。川の水面は傾きかけた太陽の光を反射して、赤と黄色が混ざりつつある。程なくして、三者を乗せた小舟は河口から広がる海へとつながりたどり着いた。

 

6.

「さあ、海だ」

「どれが海ですか」

「この目の前にあるのが全部海さ。大きな水の塊さ」

「それじゃあ波はどことですか」

「波は海の水が上下に動いている形と現象のことさ」

 畑の面積と比べ物にならない量の水で出来た海の、境界線を作る時の副産物、それが波だった。海は、巨大な機械のように、常に自らの境界線探しをする。

 水面と空の境界線を引く作業にも、自分と砂浜の境界線を引きなおしていく作業にも、飽きずに白い波を拵えいた。それは大き過ぎて見えない海の、遠い果ての終わりと始まりを、絶えず入れ替えるために、境界線を引く作業は端を発していた。

 カカシは初めて本物の波を見た。それから、波の音を聞いた。だけど、本物の波は、カカシが知っている、いつもの稲穂の波とは違っていた。カカシにとっての波は稲穂の波が本物で、海に寄せているのは、波ではない全く別の新しい「ナミ」ではないだろうか。

 丁度それは、いつもカカシが聞いていた、老人が歌う鼻歌を、ある日唐突にラジオから流れてくる同じ歌を聞いた時に感じた違和感に似ていた。

 カカシがずっと聞いていたのは、老人が田んぼの草引きや稲刈りなどの間に繰り返し歌う歌だった。それがある日偶然、通り過ぎていく、どこかの誰かの車の中の、大きく鳴らしたラジオから、同じメロディが流れてきた。カカシにとってのその歌は、すでに老人の鼻歌で形作られたもので出来上がっていたので、ラジオの中の知らない誰かが、上手に本物の歌を歌う、偽物に聞こえることがあった。海の波を見ていると、そんなことを思い出して、カカシは柄にもなく、そのメロディが急に懐かしく思えた。

 

 川から海に流れ込む入り口には、岩がゴロゴロと積み上げられていたので、小舟はその岩肌に沿って、一度沖へ出てからぐるりと旋回して、ようやく砂浜へとたどり着いた。

 三者は砂浜に降り立った。砂浜に降り立ったのだが。

「やれやれ、砂の地面がこれほど歩きにくいとは思わなかった」

ガイコツは独り言の愚痴を言う。三者とも歩くのに必死だった。

 砂の地面は、カカシの一本足にしっかりと食らいつく。止まっているうちはその安定感に重宝するのだけれど、前へ進むにはうんと想像の足に力を入れる必要があり、一歩を進めなければなならいので、歩きづらくてカカシは想像の汗をかき出した。

 カカシの歩く振動は砂に吸収するので、振動で酔うこともなく済んだヘビは、横飛び捻りで移動する。お腹の鱗で移動するヘビは、砂の地面はとっかかりがなく、前に進むよりも横飛びに進む方法がよく進むのだ。

 ガイコツは、砂の地面にいちいち食い込む骨が歩きにくく、加えてカカシの開けていく深い足跡の穴に引っかかって、その度に転けそうになる。

「あれはなんですか」

ガイコツが足元に気を取られているうちに、カカシがまた何かを発見した。カカシが指差す方を見ると、波打ち際に、四角い琥珀色の瓶があった。中にはちゃぷちゃぷとたっぷりの液体が入っていて、蓋もきちんと閉められている。

「あの色と形の瓶。中に入っているのは、ウィスキーかもしれないぞ」

ガイコツはもしやと思い、目を光らせて近寄った。瓶の栓を開けてみた。

 すると瓶の中からゆらゆらと揺れた煙が立ち上がった。煙は空気中で密度を変えながら、白い人の顔を形作った。現れたのは、顔の皺までもはっきりと数えられる老人の顔だった。髭の長くのびた口元がもそもそと動いている。口の動きとはずれた音声が後からついてくる。

「彼は世界の予言について語っているようです」

カカシは興味深そうに老人の話を聞いている側で、

「しかし、死者に向かって予言といわれてもいかに役立てるべきか」

と、ガイコツはどうでも良さそうに相槌をうつ。

「俺はまだ生きているぞ」

ヘビが口を挟む。

 結局酒でなかったが、煙草のようで煙草でもない。変な瓶だった。酒が飲めると思って期待したガイコツは、がっかりして肩を落とした。

「またあそこに光っています。」

 カカシが波打ち際に打ち上げられたもう一本の瓶を見つけた。青い瓶が転がっている。やはり中には液体が入っている。ガイコツはまさかとは思いながらも、淡い期待に瓶にまた駆け寄った。ガイコツは、瓶の蓋をあけると、再び煙が立ち込めた。次に煙が形作ったのは、とても美しい女性の像だった。ガイコツはため息のような声をあげた。

なんと綺麗な人だろう」

ガイコツは煙の女性の美しさに酔いしれた。

「この方も何か言っているようです」

カカシが言うように、女性の口はパクパクと動き、何かを言っているようだった。しかし、女性の声は、元の音声が小さく波の音に消されてしまったのか、それとも、その煙には何も音など初めからしていないかように、ガイコツにもカカシにも彼女の声が何も聞こえななった。ところが、ヘビには女性の言葉が聞こえるようだ。

「なんだあいつ、これは招待状だって言っているぞ」

「なんのことだい?」

「もうすぐ迎えに来るからここで待っていろって言っている」

「それは本当かい?」

ガイコツは目を輝かせてヘビを見た。

 煙の像は一通り再生されるとスーっと消えてしまった。ガイコツはもう一度未練がましく、空洞の闇の目で瓶の中を覗く。瓶の中は、すっかり空っぽになっていた。

「本当にあの美しい人がここで待っているように言っていたんだな」

ヘビは特別に興味もなさそうに頷いた。

「それならしばらくこの海岸で、私は彼女を待ってみることにしよう」

ガイコツは胸の前に手を組んで、二者には有無を言わせないような、あたかもロマンスに浸り、祈るように宣言した。ガイコツは新しい希望を手に入れた。

 その後も瓶はいくつか海岸に流れついた。

 そのどれも、煙の中に顔が浮かび上がって、何かを訴えては、跡形もなく消えていった。

 3本目は自信溢れる顔をした男性がなにか商品の説明をした広告だった。だけど顔だけ浮かんだ煙には、なんの商品の話をしているのかわからない。

 4本目は女の子が誰かの誕生日、それは少女の弟かもしれないし、彼女の祖父かもしれない、大事な人がこの世界に存在したことを祝う言葉を述べる。

 5本目は目を伏せた若い男性だった。もう少年でもない顔付きだ。泣いているようだ。5本目の瓶の中にだけ、煙が消えた後にも底にわずかな液体が残った。すっかり当てを外していたガイコツも予想外にその瓶を口元で傾けた。甘酸っぱい味が口の中に広がる。初恋に敗れた涙の味は、淡く苦さを残して消えていった。

 死ではなく溢れる生を語る瓶を、カカシは静物画のように順番に並べた。形と色の様々な瓶底をしばらく眺めた。

 じわりと色を変えていく空に合わせて、海も色を変える。空の真ん中で白く光っていた太陽が、赤い夕日に姿を変え、紫、青、灰色と、雲を染めながら、水平線とは反対の山の地平に沈んでいく。とうとう夜の空をまとった海は、ひんやりと冷たい巨大な金属のように、青と銀色が混ざった色になった。相変わらず波を作り出しては、月と星の光を反射していた。

「寒くなってきた」

と言い出したのはヘビだった。春先の気温はまだ低く、夜は海岸の砂の温度も放射冷却で冷え込んだ。

「冷え性なんだ。どうにか暖かくする方法はないだろうか」

「流木を拾い集めて、焚き火でもしよう」

ガイコツとカカシは海岸に打ち上げられた、枯れ木を集めた。火はカカシのコートに入っていたライターで火をつけた。流木に火がつくと、今度は砂の地面はすぐに熱を吸収して熱くなりすぎた。そこでヘビはカカシのコートの上に登って、ちょうど良い暖かさの居心地を手に入れた。夜行性でもないヘビは、また眠気につられてうとうとしたのだった。

 2者は夜通し眠ることもなく、焚べた火を囲んでいた。面白いのか面白くないのかわからないような話を、2人が知っている限り交代に話あった。それはまるで生きている時間のようだった。

7.

「あれはなんですか」

朝はまだ来ない。カカシが目を凝らす先の、陽が出ていない薄暗い時間、白く立ち込めた海上の濃い靄の中に、遠く微かに灰色の影が現れた。だんだんとこちらに近付いてくるに従って、影は大きく広がっていくが、それが何なのか、しばらくはガイコツにも見当がつかない。

「はて、なんだろう」

 それから間もなくして音も立てずに姿を見せたのは、大きな船だった。船は滑る様に海岸に近づいてくる。まだ細部が闇に沈んだうちから、それはかなりの大きさだとわかった。浅瀬の海岸にやってくるような大きさではない。しかし、様子がおかしいのはそれだけではない。船体は、マストの折れかけた柱に、裂けた帆、かなり破損の箇所が目につく。船の輪郭がぼやけているのは、白い靄のせいだけではなく、はがれかけた白い装飾と、蜘蛛の巣と埃のせいでもあった。

 そして、船はピタリと止まり、同時に焚き火の火がフッと消えた。しばらくすると、船からはスローモーションのようにタラップが降ろされてくる。

 焚き火の火が消えて温度が下がると、寒さにヘビも目を冷ました。

「きっと招待状の主がやってきたんだ」

ヘビは静かに言った。ガイコツはようやく合点がいく。

「なるほど。あの船にいるというわけか」

まあ、何も問題はない。自分たちと同じじゃないか。

「チッ。また船に乗るのか」

ヘビはやれやれとため息をついた。

 

 ガイコツは跳ねるように階段を登り、カカシもヘビも後に続く。甲板にたどり着いた頃には、海岸線からゆっくりと太陽が昇り始めていた。海の表面は太陽の光を受けて、床に落として割れたガラス瓶の粉砕した欠片の様に、細かな銀色に光っていた。

 船は19世紀英国様式の豪華客船だった。3者が甲板に上がると、デッキは再び音もなく消えてしまい、後戻りができない様、船はいつの間にか海の上を滑りだしていた。

 船内は通路が迷路のように伸びていった。

「たくさんの部屋が並んでいます」

ヘビは砂とは違って進みやすい床をスキップするように移動する。

「船の上でもこの船は酔わない様だ」

廊下に並ぶたくさんの部屋の扉の1つが空いていた。客室を覗くと、ボロ船だった外の様子とは正反対に、部屋の中はチリ1つなく整えられ、調度品は年代物で懐古趣味的な趣はあるものの、手入れされた品物はどれも高価で貴重な物であることがすぐわかった。

「これはなんだろう」

カカシが見つけた扉を、ガイコツが思い切り開けると、それは衣装棚だった。奥行きが合わせ鏡のように広がり、どこまでも果てがない、様々な衣装が万華鏡のように、こぼれそうな程並べられている。

軍服や作業着、同じ黒でも濃さや素材の質が違うデザインの多様なスーツもあれば、凝った刺繍の入ったマントもある。石や金属の装飾品や勲章もあれば、軽さで浮かび上がりそうなシルクのスカーフ、どこの民族のものかわからない鳥の羽で出来た装飾品もある。帽子も麦わら帽もあれば、ベレーそれから竹で編まれたアジア風の三角笠。

「なんとも、これらのどの服も素晴らしい」

ガイコツは喜んだ。

「ボロを着てご婦人に会うわけもいかないので、一着拝借させてもらうとしよう」

 

 ガイコツは墓場から何年着ていたかわからないその服に、そろそろ飽き出していた。早速あれこれと一着ずつ吟味し始めた。気になる服は片っ端から試着をしているうちに、ガイコツはカカシにも一着当てがい、似合うかどうかの具合を見る。

「カカシ君、ぼうっと立っていないで、君も服を探してみなよ。君には、これなんか似合うんじゃないか。こっちの鏡で確かめてみるといい」

 そう言われてカカシは鏡の前に立って、自分の姿を初めて見た。初めての服選びにガイコツがカカシに勧めた服は、唐茶色のコートだった。豊作の秋の田んぼを思い出させるようなコートの色は、カカシがかつての田んぼに立っていた頃の一枚の風景を、鏡の中に映していた。

 ヘビは自分も真似して服を着てみたいと思った。

「やあガイコツさん、僕にも一着見繕ってくれよ」

「待ってくれよ。うーん、これなんてどうだろう」

ガイコツが広い衣装ダンスの中を探ると、ヘビにも丁度良さそうな長細い形があった。引き出しの中に並んだ、様々な色や模様の靴下だった。試しにその1つ、色鮮やかな靴下にヘビは身体を入れてみる。ヘビはすっぽりとその中に収まった。

「見た所なかなかいいんじゃないか」

ガイコツが言うので、新しい服に嬉しくなった。ヘビはそれを着て前に進もうと試みた。けれど、上手く進むことができない。なぜなら服が邪魔をして、前に進むことができないからだ。ヘビはお腹にある鱗を摩擦させて前に進むところが、服を着るとお腹にある鱗に引っかからない。それならば、と砂地のように、横飛びしてみようとしても、ゴワゴワした腹ではそれもうまくいかない。

「チッ。動き辛くてちっともよくないじゃないか」

舌打ちしたヘビは、がっかりして着ていた靴下の服を脱ぎ捨てた。

 服選びを諦めたヘビは、にょろにょろと部屋を出て、甲板に出た。海からの風は冷たさを含んでいたけれど、天気はよく晴れて、日向は暖かい。一匹で退屈な日光浴をしているヘビの元へ、しばらくして着替えを済ませたガイコツとカカシがやってきた。

 ガイコツは紺色のスーツで決め込んでいた。スレンダーなガイコツの身体が余計にほっそりと、前よりも背が高く見える。袖口から覗く赤く光る石が映える指で空をさした。

「やあ、虹が出てるじゃないか」

見ると空に浮かんだ七色の虹が浮かんでいた。

「そういえば、虹は一本足で細長く伸びていて、ヘビ君によく似ていますね」

「なるほど、それはいい。ヘビ君にぴったりの服は擬態ってやつだね」

「なんだいそれは?」

「擬態っていうのは、周りの環境に合わせて身体の色を変える方法だ。あの虹に合わせて君が虹色に身体の色を変えれば、それが擬態さ」

ヘビはガイコツが言う様に、長い身体を虹色に変化させてみせた。

「あの大きな空はヘビ君の鏡ですね」

ヘビはとても嬉しくなって、船酔いしている訳ではないのにカカシのよじ登った。首に巻きついたヘビは、カカシの新しい唐茶色のコートによく似合う、七色のスカーフになった。

8.

 太陽が真南に登った頃、三者のいる甲板に、音楽が流れてきた。それを伝って音楽が聞こえてくる扉を開けると、そこには広いダンスホールがあった。まるでヨーロッパの一昔前の劇場だった。天井には豪華なシャンデリア、壁には最高級の素材で設えた暖色の布の舞台装飾。高価な木材で贅を尽くした床。その空間に流れていたのは、楽団の見みないオーケストラの奏でる荘厳な音楽だった。その音楽に合わせて、若い男性と老いた女性と男性が庭を散歩する花の様に、ゆったりとまわりながら踊っている。

 見ているだけでは飽き足らず、カカシも混ざって踊りはじめた。見様見真似のカカシの身体の動きは、はじめこそ、つい田舎風に鈍った、どことなく盆踊りの様な仕草だった。それは人間味のある動きだった。けれど、そこに流れている音楽には似合わない。次第に、身体の中に音楽の流れに溶け込んでくる、不思議な感覚が訪れる。音楽がカカシの体を動かし始めると、カカシの大きな身体も、牡丹のような大輪の花が揺れる優雅さを思わせる動きになった。

 ヘビは首元からカカシに話しかける。

「音楽とは、まるで生き物の血のようです。空間に流れるだけでなく、耳を通して身体の中に流れていく。音楽を聴いていると、生き物になった気分になります」

カカシが首元のヘビに話し掛ける。一方、ヘビは首をかしげる。

「だけど、あの人たちはどこかおかしいんだよ」

「どういうことですか」

「温度がないのさ。あれだけの人がいるのに、ここにはさっぱりとひと気がない」

 ヘビの視覚は赤外線で温度が見えた。生き物は識別することができたのだ。だけど、このたくさんの綺麗な人々が、体温も実態も持たのない空虚なただの幻の像である事をヘビは不思議に思った。

「音楽の方ははどんどんと流れているけれど、肝心なのは、あの人たちは一定の期間で同じ動きをただ繰り返しているだけなんだ。これには何か訳がありそうだぞ」

 カカシとヘビの会話は露知らず、恋に夢中のガイコツは、招待状の主を見つけ出そうと広いホールをあちらこちらと彷徨っていた。ホールの床は、ガイコツが履いた革靴で歩くと、それだけで特別に良い音が響く。革靴はさっき見つけたものだったけれど、靴擦れの心配などお構いなしの、ガイコツはタップを踏むように歩き回る。

ホールの脇に若い男性が1人、庭師の格好をして立っていた。ガイコツはこの船の主人の在り処を教えてもらおうと、声を掛けようとしたところだった。すると、ガイコツは後ろから肩を叩かれたので、振り返る。そこにいた女性は、あの瓶に姿を現していた女性だった。浜辺で見た煙の像よりも若く見える。そして美しい。ガイコツはすかさず紳士を気取って挨拶をする。

「あなたはこちらの船のご主人ですね。このような素晴らしい船にお招きいただいて光栄です」

「あなたはどうしてこちらの船に?」

「いえ、なに、あなた様からの招待状を頂戴いたしました」

「そうですか。それは少しばかりおかしな事です」

女性はガイコツの姿を見て、多少なりとも驚きながら、女性は訝しげに首を傾げる。

「もしかしてヘビ君が言っていた招待状の話は聞き間違いだったのでしょうか?」

「ヘビですか?」

「はい、ヘビ君はあなたが我々を招待してくれているといっていると聞きました。それで我々は来たのです」

「他にもこの船に誰かが乗っているのですか?」

「あそこにいるカカシ君とヘビ君ですよ」

ガイコツは女性に、カカシとその首に巻いているヘビを指差して言った。

「実のところ、私もカカシ君も我々2人には全くあなたのその黄金の蜂蜜が流れ出すような美しくて甘い声は聞こえなかったのです」

「まあ、あちらの方が首に巻かれているのはスカーフではなく、ヘビなのですか?それも本物の生きたヘビなのですね?」

女性は、自然とパッと明るい笑顔になった。

「そうです、言うなれば、ヘビ君は我々の恋のキューピッド」

ガイコツはどさくさに紛れて女性の手を思わず握る。女性は心得のあるお愛想程度の意味を込めて、ガイコツの白い骨よりも白い彼女の手は握り返した。

「それでは是非、その可愛い天使様を私にご紹介くださいませ」

 ガイコツに連れ立って、女性がカカシとヘビの前に現れる。カカシが音楽とダンスを楽しんだお礼をしようとした瞬間、サラはヘビに懇願した。

「どうぞあなたの生きた血を、私にくださいませ。生きた音楽のためには、本物の生きている血が必要なのです」

「どういう事でしょうか」

ガイコツは丸く空いた目をさらに丸くした。

さっきまで優雅に揺れていたカカシもヘビも、突然の申し出に棒の様に固まった。

「私は永遠に記録映像の中で死後を生き続ける運命を強いられていた者のでした。しかし、私はそこから自由になれた代わりに、私は今ではこの船に流れる生きた音楽によって、死後を生きているのです。そして、私の最愛の人たちを永遠の死の世界のトンネルから救い出し、共に死後を生きたいのです。」

女性は1人語りを始め出した。

9.

 ラウンドヘイ・ガーデンは1888年に私の友人であるフランスの技術者ルイ・ル・プランスによってイギリスで撮影された映画史最古の作品です。12コマ記録映像で2.11秒。そこに映るのは、彼の家族と撮影のために遊びに来るように呼ばれた私と、当時の庭の風景です。

 ルイの妻エリザベスの友人だった私は、普段からその屋敷によくお茶に呼ばれていました。そして映像にも写っている彼らの息子であるアドルフも交えて、たわいもない話をしたものです。彼の気持ちは、当時の私には思い当たるところもありましたが、一方で10も年上の彼に対して、私の気持ちは特にありませんでした。彼はただ心地の良い暖かい家族の一員なのです。

 ルイの老いたの義母はその撮影の10日後に死にました。

 しかし、彼女は死ぬ前に撮影された約2秒間の過去の庭の中を、残された私たちの前で、繰り返し生き続けました。撮影当時はすでに高齢でしたが、映像の中では生き生きとした姿でした。

 
そして、その後、当たり前のように私自身の死後に訪れたのは、老婦人と同じ「繰り返しの2秒間の日常」でした。 

 

 生前の1日の24時間であれ2秒間であれ、時間の長さは問題がないのです。問題は、意志のない繰り返しが強要されることです。初めはその永遠の平和な2秒間が、いつまでも続くことが心地よくありました。まさに永遠なのです。

 しかし、私はふと、ある一瞬の出来事の様に、気がついてしまったのです。私はその意志のない繰り返しという「一瞬の永遠」に苦痛を感じるようになりました。

 今思えば、おそらくもうその時には、私は「生きた音楽」に知らない間に発見され、侵食されていたのだと思います。私はなんとかその繰り返しの中から抜け出せないものかと、方法を考えるようになりました。もう一度死を生き直すために。

 そして、私の方も「生きた音楽」を発見したのです。ある日、音楽が私の身体の中を流れてきました。空間だけでなく、身体の中に血のように流れていく音楽です。その時はピアノソナタでした。記憶の中のピアノソナタの音の流れに従い、私は身体をその流れに従わせたのです。繰り返しの日常から、そっと抜け出す術をこうして見出しました。血のように流れる音楽を手に入れて、その流れに身を任せることで、私は再び死後の自由を手に入れることに至ったのです。

 

 

 それから私はこの船に乗り、彼の家族の映る映像を写しながら、海を漂い始めました。生きた音楽とともに、私は1人で研究を続けるためです。それは、私だけでなく、愛おしい、あの家族が生きるための術を得るために、彼らの身体の中にも流れる事が出来る、生きている音楽を作る研究です。

 しかし、時間のループの中から抜け出して、自由な意識と身体を手に入れることが出来たのは、いつまでたっても私だけでした。生きた音楽によって私の身体には流れる血が、彼らには流れ出すことはないのです。

 しかし、そのうちにただ一度、1人にだけ、生きた音楽の血の流れが、有効に働いた時がありました。ある日、ひょっこりとかつての屋敷の庭師だったポールが、私の前に現れたのです。

 それにはとても驚きました。彼の仕事は庭の手入れと、屋敷の来客者の案内役でした。私と年も近い彼はいつも礼儀正しく、真面目な仕事をして、いつも恥ずかしそうに私に対して寡黙な言葉を差し出したものでした。

 どうして彼だけが。おそらく、彼が映像の中に直接的に写り込んではおらず、捉われている映像からの磁場が弱かったのかもしれません。撮影当時は、映像に映り込んでいた左画面の建物の影の中に間接的に写っていたのでしょう。または、繰り返される生きた音楽に、ポールが死を生きるための波長の合う生き方をした音楽があったのではないでしょうか。それとも、私が彼に対して、生前より自分でも気がつかない程の好意を寄せていたからかもしれません。

 ですがポールとの2人だけの幸せな時間は、長くは続きませんでした。そのうち、ポールはまたピタリと動かなくなってしまったのです。映像の外に飛び出したままに。

 再び1人になった私は、気がつきました。生きた音楽が私の中を血のように流れることで、死を生きる喜びを得たはずが、必死になって、生きた音楽を生かすために、生きた音楽を作らされていたのです。いわば私は音楽に寄生されていたのです。おそらく私がポールとの時間を過ごせた幸福のために、「生きた音楽」を生かすための時間が十分でなかったのでしょう。

 この船は私の自由な意識と生きている音楽の相利共生で出来ていたのです。

 ポールに音楽が流れなくなってしまった理由。血は空気中で固まります。同じ血でも、血が生き物の身体を流れている時の音楽と、空気に触れて固まってしまった血のように、同じ音楽であるにも関わらず、違う物質になるのでした。

 しかし、たった1人でも私以外に有効に作用した生きた音楽は、他の家族の身体の中にも流れる事が出来る音楽が必ずあるはずだと、一層思えるようになりました。それに、またあのポールとの時間を過ごすという希望を手に入れることができたのです。

 私はそれでもうよいのではないかと思うようになりました。なぜなら、死にながら生きる日常は、もともと始まりも終わりもないウロボロスなのですから。

 そして、生きた音楽をより生き物に近づけ、最愛の人々の身体に流れるための音楽を探すために、本物の生き物の血が欲しいのです。

 かつて彼の地の神話で、人身供儀をやめさせるために自らが生贄になった、羽毛のある蛇のように、私にその血を捧げてくださいませんか。

10.

「他の命を奪おうとするってことは、彼女はもう死を生きているのではなくて、生き物だね。彼女は生きた音楽に寄生されているだけでなく、家族や恋人への欲望に寄生された、つまり人間なんだよ」

ヘビはそういうと、

「とにかくここは逃げましょう」

カカシとヘビと一緒に逃げ出した。

 一方ガイコツは女性の話には懲りず、元生き物、元人間として申し出る。

「あなたの寂しい心の隙間を埋めるのには、この私ではダメでしょうか。私ならきっとこのあなたの心という船が、安心して停泊出来る穏やかな港になれる事でしょう。共に永遠に死を生きようではありませんか」

しかし、女性はガイコツの話はもう耳に入ってこずに、逃げ出したカカシとヘビを必死に追いかけようとした。ところが、女性は音楽が流れているこのダンスホールから離れて、音がだんだんと遠のき小さくなってしまうと、女性もだんだんと生きた音楽の血の流れが滞り、また、女性を逃したくない「生きた音楽」は強引に女性を引き止めるように作用するらしく、女性はダンスホールの扉から5メートルも離れないところで、気絶して倒れてしまうのだった。

 朝の虹は悪天候の兆しだった。外はすっかりと雨と風との嵐で、荒れていた。おまけに甲板に出たところで、海の上ではカカシとヘビは、逃げるところがなかった。遅れてガイコツがやって来た。自分のことを全く眼中に入れない女性を口説くのは、骨が折れるので諦めたらしい。

「やあ、すまん。すっかりひどいことになった」

ガイコツが謝る。

「だけど、外もすっかりとひどい嵐だ。船がこんな海の上じゃあ、どこへも行けやしない」

ヘビが困って、雨の中で声を張り上げた。

ガイコツは閃いた。

「カカシ君は身体が木製で出来ているから、海の上を浮力で浮くことができる。それで、ちょっと失敬して僕たちを乗せてくれないだろうか。それでこの船からは脱出が出来る」

「私にそんなことができるでしょうか」

「よし、それじゃあその方法をやってみよう」

ガイコツとヘビはしっかりとカカシに捕まって、船の上から海へとジャンプした。

船上の音楽も、3者が海へ飛び込む音も、もはや波の音が全てをかき消してしまった。

11.

嵐が去って、風と雨を引き連れていた何重もの灰色の雲は退散した。水平線の続きにすっかりと晴れた空が残った。なにもなくなった青空は、透き通った厚みのない膜が永遠に積み重なって出来ていて、視界には青がまぶしくのし掛かってくるようだった。

 カカシはお腹の上にヘビとガイコツを乗せて、静かな海を漂うのがとても気持ちが良かった。しかし、途方もなく穏やかな海だったが、櫂もなく、マストもないカカシ船は広い海を漂うばかりで、どこへどうやって向かえば良いものかと、3者は思案していた。

「カカシ君も私も、死を生きている我々は、十分に時間があるのだが、限られた時間を生きているヘビ君にはこのままでは申し訳ない気持ちになってくる」

ガイコツは頭を悩ませる。

「何か良い方法がないものでしょうか」

カカシも心配そうに呟く。

どれくらいたったのか、カカシの上をパタパタと羽ばたく影があった。それは小さな雀だった。「やあ疲れた。少し休憩しよう。丁度良いところにガイコツを乗せた船があるなんて。難破船からイカダで脱出したけれど、結局お陀仏になったってところか。今年は最高に運がいい。ちょっと失礼して」

雀はそう言って、座っているガイコツの頭の上にチョンと乗る。

「私は難破船から脱出してお陀仏になったのではなくて、幽霊船に乗る前からお陀仏だったんだが」

とガイコツが訂正する。

「やあ、驚いた。ガイコツがしゃべっている」

雀が驚いていると、カカシも

「僕もイカダではなくて、カカシなのです」

「これはまた驚いた。イカダだとばかり思っていたら、カカシがしゃべっている。田んぼに立っているはずのカカシが、どうしてこんな海の真ん中で、ガイコツを抱えて寝ているんだ?」

「これには長い訳があって。とにかく先ずは陸に戻りたいのですが、風がなくて海の上で動けなくて困っているのです」

「それは難儀なことだ。僕はね、このところ少し春めいてきて暖かくなってきたから、南から北にちょっとした移動をする途中だったんだ。渡りってほどのかっこいいものではないのだけれど。陸地を目指しているのなら、行く先は丁度同じ方向だ。僕が、そのロープをくちばしで引っ張って、運んであげよう」

「あ、雀さんそれは・・・」

雀がロープをくわえるために、カカシのお腹に降り立とうとすると、ロープに見えていたヘビが突然、雀に牙をむいて襲いかかった。

「ひゃあ危ない。びっくりするじゃないか。何をするんだ」

雀は驚いて飛び跳ねる。慌ててガイコツがヘビを捕まえて、悪さができないようになだめる。

雀が大好きなカカシは、ヘビに向かって怒りだす。

「雀さんを食べようとするなんて、いくらなんでもひどいですよ」

「仕方がないじゃないか。美味そうな雀がやってきたんだ。しかも、もうすっかり目が覚めてお腹もすいてきた丁度良い頃に。生きているってそういうもんだ」

ヘビは言い訳をするけれど、ちょっとやり過ぎたような気もしてくる。ガイコツも昔生き物だったよしみでヘビの気持ちもわからないでもなく、ため息をつく。

「やれやれ。そこをちょっと我慢してくないと、我々はいつまで経っても陸に戻れやしないない。

それじゃあこうしよう。私がヘビ君の頭の方を持っておくので、雀さんには尾っぽを持って、引っ張ってもらえないでしょうか」

雀はドキドキしながらヘビの尾っぽを引っ張った。ヘビの尾っぽは先が細くなって、雀の小さいくちばしで咥える分には丁度良かった。雀はずっと生きた心地はしなかったし、ヘビも美味しそうな匂いにうずうずしていた。

 ようやく浜辺についた頃には、夕暮れが迫っていた。4人はそれぞれクタクタになった。

カカシもガイコツもヘビも、浜に打ち上げられた鯨のように身動きが取れなかった。しかし、雀は先を急ぐ。

「それじゃあ僕はこの辺で。もう少し先を進んで森の中にでも、今夜の安心した宿を見つけるよ」

「雀さん、雀さんは詩を読む雀の事を知りませんか?私は生前、詩を読む雀さんに会いました。また会いたいと思っています。ご存知じゃあないですか?」

「詩は雀の嗜みだよ。誰にも言わない自分だけの「ここだけの話」が好きなんだ」

「じゃあ、カカシと詩の話をした仲間のことは?」

「きっとそんな素敵なことがあれば、詩にしてしまってそいつは誰にも言わないよ」

「そうですか」

「そうだとも。それじゃあ僕は行くよ」

「それじゃあ僕もそろそろ」

そう言いだしたのは、ヘビだった。

「また夜になって寒い砂浜でお腹をすかせて眠るのは嫌だからね」

「そうですか」

「そうだよ、それじゃあね」

生き物たちは去っていった。残ったカカシとガイコツは、急に共に眠たくなってきた。

「このまま死を眠ったら、また起きるでしょうか」

「どうだろうね。でも時間はたっぷりあるんだ。試してみよう」

文字数:27140

内容に関するアピール

案山子守は日常を詩にしながら生きる雀のことです。詩は何かを奇抜に表現するものではなく、個人が自分の生きる日常の中で観察して発見した些細な自分だけの言葉という意味で使っています。そのため、伝わりにくさに他人に奇抜さを感じさせて誤解される場合もありますが、そういうつもりはありません。案山子守も特別な存在ではなく、実は普通の雀だった、というオチです。しかし、誰かにとって特別であること、ということが物語の物語たる所以です。

登場する者たちが移動をしているのでロードムービー仕立てですが、登場する者たちの「死を生きる」という日常の視点を意識して書きました。「生きること」や「生き物」(もしくは人間)を表すために、それとは反対の「死」や「死者」や(人間でない者)を寓話化させて対比させることで表現できないだろうか、という試みです。「現実から地続きの白昼夢を生きている感覚」という言葉があり、その感覚を物語化できないか、という試みでもあります。

実際の案山子守には、大阪で見た展覧会のボルタンスキー展で会いました。案山子の声の作品があり、死に向かう声の聞き方を私に教えてくれたお兄さんがいました。(名前も知らない知らない人です)。その人が旅行先の北浦和で見た、路上告知された尋ね鳥のインコの写真に似ていたところからの着想です。

それから、小説の書き方については、受講当初の目標だった、4年ほど書いていた日記エッセイを基にしたアイデアから小説を書く事や、自分が好きなあらゆる人や事や美術作品や映画を詰め込んで書く事、1年間で沢山のいろんな人に戴いたアドバイスも出来るだけ活かす様に心掛けました。

読んでいただけると幸いです。よろしくお願いいたします。

文字数:715

課題提出者一覧