梗 概
珠の裔
平正三十年、128代天皇が譲位。200年ぶりの上皇となることが決まる。
高齢を理由に平正天皇が生前退位を決める一方、皇太子、その弟にあたる親王はどちらも還暦を迎えた現在も男子をもうけておらず、男子皇族の減少による皇統の維持の困難さが再び議論の俎上に上っていた。有識者の間では次々代の天皇として女皇の存在を認めるか否かが盛んに議論されている。つけっぱなしのテレビから議論の様子が流れる中、海洋研究所に勤める藤原一子は同僚である陵子がポツリとそうつぶやいたのを聞いた。
皇統ハ途絶エマセン。女神ノ血統ヲ持ッテ皇統トイウノナラ。
陵子の名は正式には誓宮陵子内親王といい、今上天皇の末子にあたる。皇后70歳の時に誕生した娘であった。
現在の議論においては次の皇位継承者候補としてもあげられてもいる陵子だったが、研究所の同僚としての付き合いしかもたない一子にとっては天皇家の一員という意識を感じさせない相手だった。陵子と一子は共に助手として海洋哺乳類の研究に携わっており、近年、個体数の減少と共に牡・牝の区別のつかない個体が連続されて観察されているとあるクジラの調査をおこなっていた。
その数年前、今まで観察されていたのみだったクジラ群の個体が原油の流出事故により複数死亡、サンプルとして研究所へと運び込まれていた。クジラ個体を調査したところすべての個体に性グラデーションが確認され、同時に妊娠の兆候が見られた。これらクジラの持つ性決定遺伝子は他のクジラ亜目とは異なっており、ある種の魚類と同じように環境による性転換・単為生殖を行っているのではないかという仮説が立てられていた。
もし陵子が立太子すれば、共にフィールドワークに当たることは不可能となる。友人としてそのことを残念に思っていた一子だったが、陵子の口にした『女神ノ遺伝子』が頭に引っかかっていた。一方有識者の間では皇統の男子継承の根拠として「Y染色体説」というものが唱えられはじめていた。皇統を万世一系として考えた場合、性染色体XYのうちY染色体を受け継いでいることが天皇が初代天皇の血統を継承していることを意味するというものである。
その場合、聖母マリアの処女懐胎により生まれたイエスはどうなるのか。男性が媒介しない懐胎において神の子が生まれた以上、Y染色体の役割を有無を神性の条件とすることは不自然だと笑う一子に対し、ソノ通リデスネ、と陵子は答える。もしイエスに子が存在していた場合、おそらく、その血統を保証するものはマリアの遺伝子となるのだろう。その会話を最後に、公務に追われるようになった陵子は長い休暇を取ることになり、一子と連絡がとれなくなる。
翌日、複数の女性皇族の懐妊の報が報じられる。その中には十代の少女から、七十代というの高齢の内親王までが含まれていた。
一子は以前より陵子との連絡に用いていた私書箱への手紙の投函により、陵子もまた妊娠しているということを知る。私タチハエランダノデス、と陵子は言う。陵子が机の中に残していった髪の一房から分析された遺伝子には、あのクジラから新しく発見されたのと同じ性決定遺伝子が含まれていた。
皇統は天照大神へと遡り、彼女たちは女神がかみ砕いた勾玉から産まれてきた。ゆえに初めから天皇が受け継ぐ遺伝子とは女神の遺伝子であり、それは、人間のように性に縛られるものではなかったのだ。女子のみでは血統を残すことができないという強いストレスにさらされた結果、陵子たちは単為生殖を果たすこととなった。一子は陵子の言っていたことをようやく理解する。陵子は人々から望まれ、神の血統を残すために産まれてきた。ゆえに次代の天皇は人ではなく、再び神として産まれてくるのだと。
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内容に関するアピール
皇統は天武天皇以来継承されつづけるY染色体を根拠として維持されるべきである。そのため女系天皇は容認することはできない。
この理論は女系天皇論争が盛んだったころに、実際に男系男子による継承以外を否定する論拠として唱えられていたものです。これら議論は親王の誕生により立ち消えになり、その後に続くことはありませんでした。
ですが、今年はとうとう紀元2679年、そんな昔の染色体に論拠を求めるのだったら、そもそも日本の皇室は天照大神の勾玉を噛み砕いたものから生まれた神々に由来したんじゃなかったかなあ、単為生殖だよなあ、そのほうがいっそややこしい議論に巻き込まれずに済んで助かることも多かろうになあ。人間宣言を無視した議論をするのだったら、こういうことになってしまうのではないかなあ、というお話になります。
またこの話は聖母マリアは母親である聖アンナが高齢となった後、神の奇蹟により誕生したとする伝説を下敷きにしています。聖アンナもまた処女懐胎により聖母マリアを授かったという別伝もありますが、この二代にわたる処女懐胎は、さすがに迷信として否定されているようです。
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