酔来酔去

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梗 概

酔来酔去

漢の武帝のころ、天より墜ちる不吉な光があった。これをうけた改元の後、武帝は匈奴の討伐へ熱をあげ、およそ十年をかけてついにこれを破った。匈奴より取り返した土地には馬に混ざって走る白い麒麟があり、とらえられ都へ献上された。これをもって武帝はふたたび年号を改めたとされる。

武帝は秦の始皇帝と並び称されるが、実際は、性小胆、邪推深く、何事も怏々として楽しまない。ところが白い麒麟のこととなれば常にまぶしい視線を注ぎ、四霊の一柱として賛美を惜しまなかった。感嘆の吐息を漏らしながら体を覆う白い鱗をそっと撫でることもあったそうだ。麒麟は特に気にせず、話し相手になった。あるとき武帝は言った。あらゆる生き物の中で最も心優しい麒麟でありながら、どうして民が匈奴に蹂躙されるのを黙していられるのか。民とこの国のため、大長城の増築に力を尽くしてはくれまいか。麒麟は迷わず答えた。

「酒をくれるならやってもいい」

実はこの麒麟、宇宙人である。地上の酒はヤマタノオロチにすすめられ覚えた。酔っては宇宙にながされ、醒めればまた戻ってくるという生活をしている。彼の寿命は人間の千倍以上、時間の感覚があまりにも違うため、酒をすこし嗜むうちに十年が過ぎてしまう。実際、彼が壁を作り始めたのは紀元前111年頃、しかも途中で飽きたと言ってふらりと消えた。後年、武帝が不老長寿に傾倒したのは、麒麟の存在のためであろう。

時はうつろい、麒麟は西暦2019年の地球へ巡りあわせた。なつかしい青い星を見た時、彼は突然武帝との約束を思い出した。封禅の儀ののち、武帝が元号を定めたことを覚えていた彼は、改元に沸き立つ地へ降りた。しかし武帝がみつからない。麒麟は、元号がいまや武帝の国のとなりでしか使われていないことをしらないのだった。あの絢爛かつ空虚な王宮は砂に埋れ、跡形もないことを知らないのだった。しかもこの地には多種多様な美酒が存在し、彼を誘惑する。いろいろ馴染めないこともあるがどうにかありついた酒をちびちびと飲みながら、彼は思った。

かつて武帝は何度も元号を変えた。元号とは帝が土地と時を支配していることを示すための手段であった。いっぽう、武帝は小心者で寂しがりで、自信がなく、故に短気であった。だからすぐに恐れを抱き、腹を立て、あるいは自身を奮い立たせるために改元した。天子であっても彼は人間であり、だから麒麟は武帝が理解できなかったのだ。

こんなことならもっと武帝の話を聞いてやればよかったとその時初めて麒麟はさみしくなった。人間というのはあっという間に年をとって、消えてしまう。麒麟を追いかけては、ごうごうと説教を吠えた武帝を思い、彼は少しだけ泣いた。薄い月の光る、昔と同じ美しい夜であった。

文字数:1126

内容に関するアピール

「君主が特定の時代に名前を付ける行為は、君主が空間だけでなく時間まで支配するという思想に基づく」という記述を読んで、SFだなあ、ニンゲンと違う時間で生きてるやつが現れたら面白そうだなと思って中国の歴史を探したら、前漢の武帝のころに謎の白い麒麟(ユニコーンとも)捕獲による改元が行われていたので宇宙人ということにしてやりました。あまり大きな事件は作らず、軽めの食感に挑戦したいです。

タイトルの酔来酔去は「酔っ払ってばかりいる」または「酔っ払って行ったり来たりする」という意味、つまり「帰って来たヨッパライ」です。

文字数:255

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酔来酔去

漢武帝劉徹の頃、天より墜ちる白い光があった。光を天よりのしらせと直覚した武帝はすぐさま宿敵匈奴へ兵を差し向け、ついにこれを破った。
 漠北へ散逸した匈奴が残したのは屍山血河の荒野と馬だけである。頑強な馬たちは蹄を鳴らし、押し寄せる兵を威嚇する。馬たちが嘲弄したのは漢の国の脆弱な馬たちであったのだが、人間は何万もの蹄が地を蹴る音を威嚇と見たのであった。
 その馬群に、かがやく一頭の白馬が紛れている。
 体は白銀の鱗、龍がごとし面構えで、頭に鹿の角を戴いた馬の容貌は四霊の一柱、麒麟にほかならない。麒麟は土からわずかばかりか浮き上がり、赤い目を炯々とひからせて兵を見守っている。おそれる素振りはなく、他の馬たちのように忙しく足を動かすこともない。兵が堂々たるさまに驚声をあげると、彼はすこし頭を持ち上げ、滑るような足取りでまっすぐに将軍衛青えいせいのもとへ来た。そして尊大な態度で酒をねだったという。
 古代より麒麟は瑞兆である。しかし傷つければ不幸が身を襲い、誠に礼遇せねば国を傾けるともいわれる。衛青は丁重に麒麟をもてなし、長安へ連れ帰った。顓頊せんぎょく暦79年(紀元前121年)、のちにこの年代は元狩げんしゅと呼ばれ、武帝の威光を示したという。

「あんた、どっかで見たことある気がするんだけどなぁ……」
 おもそうに垂れ下がるまぶたを指でもちあげて、赤ら顔のよっぱらいはそんなふうに言った。男が手にしているのはキリンビール、そのラベルには麒麟が四足で駆ける絵がプリントされている。
 麒麟は笑って答えなかった。酔っ払いというのはとにかく話を聞いてほしいのだ。それを遮って言葉を奪うと、すっかり機嫌を損ねてしまう。機嫌の悪い人間は気前が悪く、酒など絶対に恵んではくれない。
 ベンチの座面にしなだれかかった酔っぱらいは、今にも横になってしまいそうだ。しかし倒れそうで倒れない。まるで背中がしなる柳でできているのかと思われるような動きであった。口調は千鳥足、時々意味もなく麒麟にビール缶を差し出すのに、麒麟が受け取る前にすいと手を動かして缶に口をつける。
「あーる! あるぞ、ぜったいだ、ある……あー、あんた」
 麒麟はしょんぼりとして麒麟のマークを見つめた。金色に縁取りされたたてがみと眼が勇ましく夜の中に輝いている。
「それで? ええ? 誰をさがしてるって?」苦しそうにげっぷをして男はベンチに片肘を乗せた。「ん、安心しろ。しーろ! おっちゃんな、ん。さがしてやっからな、おっちゃん、知り合いはたっくさんいるんだ、な」
「劉徹です」
「んだあ? 誰だって?」
「劉徹です」
 むにゃむにゃと酔っぱらいは口の中でなにか文句を言ってまぶたを落とした。汚い歯が街灯の下でにやにやとひかっている。
「おっちゃん知り合いはたくさん……あー、安心しろって! ちゃぁんと見つけてやる。ん、やるぞ……」
 どうやらこの男には期待できそうにないと麒麟はため息をついた。探し人のつてがないとなるとあとは酒だ。酒をもらうしかない。酒をのめば――
 しゅんと肩をおとして麒麟は地面に視線を落とした。そして劉徹の言うことをもう少し聞いていれば、今もまだ腹いっぱいに酒をくらっていただろうとかなしく思った。

 

はじめは光であった。
 暗く広い宇宙を彼は意識も輪郭も持たず漂っていた。12光年をかけて体は回転し、無極に広がっては、涅槃寂静がごとし光球になる。ちょうど2の1024乗回転したとき、彼の体は地球の引力につかまって地面に墜ちた。
 地におちてしばらく、彼は目を回して動かなかった。やがて気持ちがはっきりすると急に好奇心が湧きたって、おそるおそる落ち葉の上にたちあがった。輪郭はあいまいで、体はかすかに発光している。彼を包むまだらな霧の中には泳ぐ影があり、足元をかすめる風もある。
 不思議な場所だと彼は思ったが、恐れは抱かなかった。しばらくはぼんやりと梢を眺め、少し興味を持って落ち葉をくだく。彼がそんなふうに過ごしている間、雨はふり、日が照り、また雨がふり、草木は芽吹き、そして枯れ、また芽吹いた。
 彼が獣の姿から学んで足を手にいれたころ、変化が訪れた。若い龍が彼を訪ねてきたのである。龍は闇色の鱗をかまびすしくうち鳴らしながら、猛々しく斜面を駆け下りてきた。その音をもってして闖入者をみだし、麾下きかに置いてやろうというのである。しかし禍々しい緋色の目がその先頭にひかって霧を引き裂いていることをのぞけば、龍は一里にも満たない、まったく大蛇といってよい風貌であった。
 やあやあ、と龍は風を吐いて怒鳴った。われは山の主なり、いましいずくよりこの地に参ったか、まずは名を、次いで用向きを、山の主に畏み申せ。
 初めて聞く音であったにもかかわらず、不思議と麒麟はことばを理解した。彼は少しもむっとせず、正直にわからないと言った。いつのまにかここにいたよ。それより山ってなに? 天真爛漫な口調であった。
 若い龍は呆れたが、彼を子分にしてやることにした。一人前になったら名前をやるぞ、と砕けた口調で龍はいう。実は口上ってのはどうにも苦手でさ。堅苦しくてなにを言ってんだかわかんなくなるんだよな。でもこれがあるとみんないうことを聞くから覚えたほうがいい。よく教えてやるから、うまくできるようになったらそれらしいかっこいい名をやる。
 彼は喜んで龍のあとを懸命においかけた。川を溢れさせ、山を崩し、人をさらうところも見物した。しかし口上はおぼえず、肉をもらってもすぐに吐いてしまう。谷にはまり込んで抜け出せなくなり、龍のしっぽに弾き飛ばされ、またあるときは山津波にながされて泥だらけになる。龍はそのたび心配した。彼をざぶざぶと洗いながら、そんな調子じゃ一人前になれないぞ、と龍は説教した。まだ当分、名前はやれそうにないな。
 結局彼は龍とは違うのだ。彼は心優しく穏やかな気性で、明け方に草木にたまる露を飲めば十分だった。肉はのぞまないし、いたずらも好まない。あらっぽい遊びは苦手で、夜が明ける音を聞くのを好む。
 そんなふうに一向に龍の望む通りには成長しなかったが、彼の纏う光は姿をかえ、やがて龍の鱗のように体を覆った。顔の周りにはぽわぽわと柔らかな毛が生え、顔は長くなり、口には立派な牙がはえ――どうやらだんだんと顔つきだけは龍に似てきたようだ。
 彼の変化よりもはやく龍は二又になり、三叉になり、手足が生え、しまいに頭を八つも持つオロチとなった。体は二つの山よりもおおきく、腹は血色にそまり、息を吐けば炎が木々を焼く。龍はいつしかヤマタノオロチと呼ばれ、山々にその名を轟かせるようになった。

 

酒とやらがあるらしい、とキョトンとした顔をして龍は言った。飲むって言ってたから水みたいなもんだろ。なんだろうな、怪しいものかな。それから龍は八つの顔を相談するように見合わせた。麒麟は彼の顔をかきわけ、じゅんじゅんに十六の目を覗いた。彼に見つめられ、龍も腹を決めたらしい。どうせいつもの供物さ、と龍はごまかすように言った。くれるっていうんだから、全部飲み干してやろう。まずかったら焼き殺してやればいい。いくぞ。
 彼は龍の言うことにはなんでも賛成だ。喜んでついていった。指定された河原には八つの門があつらえられ、門の向こうにはそれぞれ桶が備えられている。桶の中身は白く濁った水であった。龍はおそるおそる首を突き出し、水をなめた。
 げ、と低い声で龍はうめいた。この水、腐ってるぞ。やけに甘いな。あれ、なんか変だ。頭がくらくらする。おかしいな、なんだか楽しくなってきた。
 龍が「甘い」といった時にはもう、彼は頭を桶につっこんでいた。一口飲めば体中に力がみなぎり、二口飲めば体が熱くなる。彼が喉を鳴らすたびに、ぽつ、ぽつと光の粒が体から飛び出し、虫になって河原を照らした。
 桶からあぶれてしまった龍の頭の一つは怒って彼を弾き飛ばしたが、桶の中身は半分も残っていない。腹を立てた龍は彼を振り返りもせずがつがつと桶の中身を呑んだ。彼は河原にのびて笑っていた。空がぐるぐると周ってなんだか気持ちがいい。体が浮き上がっているような錯覚をする。まるで地球に辿り着く前、宇宙を渡っていた時のようだ。
 彼は目をとじ、懐かしいあの日々を思い出した。なにも知らなかったあの頃――体が揺れるのにまかせ目を閉じ、ひらき、また閉じるだけの器官であった頃を思い出すと耐え難い眠気がやってくる。やがて彼の体はうきあがり、球となって空へ昇っていった。
 彼がふたたび地球に戻ったのはそれからずっと後のことだった。光となって宇宙をさまよううちに月に衝突し、酔いからさめたのだ。目が覚めると、無性に喉がかわいて甘い水が飲みたくなった。彼はふたたび地球へ向かい、地面に墜ちた。
 そんなことが何度もあった。
 武帝が見た白い光は、彼が現在の内モンゴルあたりに墜落した時のものであろう。東アジアは三度目、しかし草原は初めてだ。彼は鹿の足を伸ばし、しばらくは広い荒野を駆け回った。大地は広く、なだらかな丘陵をいくら越えても背の低い草木があるばかり、人の姿はない。そこは汗血馬とよばれる馬の土地であった。
 汗血馬たちは彼をあやしみ、大勢で取り囲んでしげしげと眺めた。体に纏うのは毛ではなく白鱗びゃくりんだ。いくら走っても息切れせず、汗さえもかかない。赤い目はやさしげに潤んで、虎のような恐ろしい牙が大きな口からのぞいている。すらりとした足に立派な太いしっぽ、頭に冠を戴き、いかにも王者の風格だ――馬たちはやがて誰からともなく我が王になってほしいと彼に頭を下げた。彼はいい気になり、しばらく馬たちと行動をともにした。
 馬たちとの日々は悪くなかったが、酒はなかった。彼が生活に飽いた頃、南東から不吉な黒い水が押し寄せてきた。近づいてみれば、それは人間の大群で、手に武器を、体に防具を身に着けている。
 馬たちは人間の大群に怯え、人間に従う馬たちを侮罵したが、彼はひとり心を踊らせた。彼にとって人間とは酒である。ついに酔えるときがやってきたのだ。この機を逃す手はない。
 こうして彼は武帝と出会った。

 

ひと目彼を見るなり、武帝は「麒麟」と短く口にした。それからほうと白い息を吐き、硬い椅子からずり落ちるように体を斜めにした。
索冥さくめいではないか……」
 玉座から黒檀の床に滑り落ちた武帝は、定まらない足どりで麒麟のもとへとやってきた。目と口をだらしなく開き、腕を突き出してまるで病人のようだ。その不気味な様子に麒麟はたじろいだが、酒をもらうためにぐっと顎を引いて逃げるのはこらえた。
 現存する絵画によれば武帝は恰幅が良く、豊満な頬に鳳眼、凛々しい眉毛に描かれていることが多い。しかし中国文明の基礎となる制度をととのえながら、匈奴征伐を成功させたこのころ、彼は三十半ばでありながら心労のためか常に青白い顔をして、いつも具合が悪そうに肘掛けに体をもたせかけていることが多かった。瓜実顔の中心には老人のように深い皺が刻まれ、のちに司馬遷が史記に記録する通り、短気かつ独断的な性格の影も認められる。麒麟の出現はそんな彼の光となった。
 おお、とため息をもらし、武帝は震える指で麒麟の首に触れた。麒麟の顔まわりに生えるたてがみが武帝の指先をなで、白い、鱗粉のような光がはらはらと暗い玉座の間に散った。
 古代より麒麟は良政の時代にのみ出現するという言い伝えがある。くわえて武帝が信奉する儒家の始祖、孔子との縁も深い。武帝が麒麟を手厚くもてなしたのは、この神獣に仁を尽くせばますます自分の権力が強固になると確信したためであろう。
 しかもこの麒麟はただの麒麟ではない。白い麒麟、索冥だ。体に蓄えられた白い光がうっすらと表出し、まさに天の生き物と思われる容貌をしている。体は常に地面から少しばかり浮き上がっており、赤い目は虎のような凶暴さをひそめながら潤んでいる。龍のような大きな口には立派な牙も生えているが、だからといって恐ろしげなことはなく、人に噛み付くこともない。誰かを呼ぶときは顔を甘えるようにこすりつけ、たてがみをなでれば気持ちが良さそうにくうくうと鼻を鳴らす。酒をやけに好むのは奇妙だし、腹を出してぐうぐうといびきをかいているところなどまったく威厳は感じられないが、麒麟は麒麟だ。きっと麒麟の事情もあるのだろう。
 武帝が彼を麒麟とよんだので、彼はようやく自分をひとつの獣であると理解した。しかし他のことにはあまり興味がなかった。武帝は酒をくれる装置にすぎず、武帝の元から去らなかったのは酒を飲んで暮らすだけの生活を手放したくなかったからだ。
 酩酊している間に光になってしまわぬよう、彼は酔いが訪れるたびに喉を鳴らして水を飲み、千鳥足で武帝が麒麟のために誂えた邸の庭を散歩した。彼が最も好んだのは池の上であった。彼の影を見ると小さな赤い金魚たちが藻の隙間からあらわれて蹄の先をつつくからである。金魚が作った波紋に沿って彼があ歩いていると、人間たちは、小さな虫や草さえも避けている、なんと徳の高い生き物かと涙して彼を讃えた。
 ある日、麒麟は頭を窓に乗せてうとうととまどろんでいた。邸は庭の池に張り出しており、対岸には梅の木が二本、対になって生え、丸い窓から蕾がほころんでいるのを眺めることができる。
 夢うつつに聞こえる小鳥の声に、麒麟はいい気持ちだった。春のうららかな光が北向きの窓からさしこみ、冷たい床も今だけは少しあたたかい。麒麟は丸い窓枠に頬ずりをした。鱗が石を削ると雪を踏む音がする。その音の輪郭を彼は好んだ。
 彼が夢うつつの線を踏み越えようとしたその時、邪魔が入った。いつもは四隅に像のように立って動かない衛士たちが一斉に膝をつき、激しい武具の音を響かせたのである。まもなく門から声がして、人の足音が入ってきた。静寂は蹴散らされ、麒麟の夢もどこか遠くへ飛んでいってしまう。麒麟は初めて少しむっとした。ぼやけた目をしばたいて、彼は文句でも言ってやろうと頭をもちあげた。
「さがっておれ」
 声は武帝であった。かすれて、疲れ切っているようだ。その声をきくと、麒麟の心までしなしなとしてしまう。麒麟はぐったりとして顎を床においた。
「そなた、昨晩は蔵の酒を全部飲んだそうだな」
「…………」
 しらを切るつもりだな、と声をぐっとひくくして武帝は言った。太い眉の片方をぐいと器用に中心によせ、口を斜めにしている。しかし頬はつやつやと輝いて、いつになく機嫌が良さそうだった。
「父上の頃は倉に腐るほど食物があったというのに、今ではすっかり空だ。だが――まぁよい。足りなければまた申せ。そなたの気がすむまで飲めばよい」
 喉の奥で笑いながら、武帝は床に膝をついた。彼が膝をつく相手は麒麟だけだ。天から遣わされた神獣は天子よりも尊いからである。それをどういうわけか武帝は喜んでいるようにみえた。
 跪坐し、叩頭すると、彼は少年のように地べたに腰を下ろして麒麟のたてがみに触れた。彼のたてがみは錦糸のようだと武帝はいう。柔らかくしなやかで、触るとしっとりと冷たく、肌にすこしもひっかからない。麒麟もたてがみを撫でられるのは嫌ではなかったので、目をとじてそのままにしていた。
「今日はそなたに相談したいことがあって参ったのだ」
 麒麟は目をあけた。武帝の顔は二重になり、どうにも定まらない。しかし武帝が満面の笑みを浮かべていることはわかった。武帝の前にはいつのまにか絹布の端切れが並べられ、それぞれに黒い墨でなにかが書かれている。麒麟は文字がわからない。しかし同じ形かそうでないかはわかる。
「年号に名をつけようと思う。いずれ天へも報告するが、その前にそなたの考えをきかせてほしいのだ」
 麒麟は首をひねった。
「匈奴は征伐したが、いまだ漢に抵抗する勢力は少なくない。ここで天子の威光を知らしめるため、領土だけでなく時も支配することを示せば、国も盤石になろう」
 ますます訳がわからないと麒麟は逆側に首をひねった。いつもならすぐに顔を赤くして、ムキになって言い募る武帝だが、今日は機嫌が良いのか顎をそらして闊達に笑う。そうかそうか、と彼はまた麒麟のたてがみをなでた。
「そなたは政や権力のようなつまらないことには興味がないのだな。よいよい、忘れろ。そんなことよりそなたはどの字が好きだ。この中から選べ」
 ふむ、と麒麟は鼻をならした。武帝の指は布を指している。たくさんある布の中から一つ選べということだろう。面倒だが、これからも酒をもらうためだ。背に腹はかえられない。
 目を皿のようにひらいても、線はボケたり結んだり、突然ほどけたり、とにかく容易ではない。しかし麒麟は辛抱強く墨ののたくった線を眺めた。一本線、斜めの線、鋭く曲がる線、終わりも始まりもない線――
「足がはえてるやつがいる」
 麒麟が目をとめたのは黄色の布の上にある線であった。真っ直ぐな線が二本横たわり、その下に足がある。前足を伸ばし、後ろ足は蹴り出すように後ろにはねている。まるで麒麟の足のようだ。彼は気に入って横っ面を布に擦り付けた。
「おお、そなたもか! 余も『元』がよいと思っていたのだ」
 喜々として武帝は声を高くした。この文字は冠をのせた人が由来で、首領、ひいては天を意味する。まさに余のためにある文字ではないか? そなたも天から遣わされた神獣であるから、きっとこの文字が気に入ったのであろう、そうだろう、きっとそうだ。
 武帝のよくわからないおしゃべりはいつものことだ。小言であることがほとんどで、そうでない時は酒をくれる。麒麟は顎を布の上に載せたまま黙って聞いた。聞いているうちにまたとろとろと眠りがやってきて、武帝の姿がぼやける。彼の声は適度に低く、しかも耳の中を優しく撫でるので、ずっと聞いていると眠くなってしまう。
「そなたが選んだといえば臣どもも納得しよう……なるほど、こう見るとたしかに鹿の足に似ている……そなたと話していると驚くことばかりだな」
 武帝は麒麟の顎を膝の上に載せ、鼻っ面をなでてはじめた。手が往復する間もずっと彼の口は動き、難しい言葉を紡ぎ続けている。だが麒麟はしあわせなまどろみに体を委ね、ちっとも話を聞いていなかった。
 顓頊暦88年(紀元前112年)、武帝は銅鼎が発掘されたことを理由に元号に「元鼎」という名を与えた。諸説あるがこれが元号の始まりであるとされる。この時、武帝が過去に行った改元にはすべて名が当てられ、初元から順に、建元、元光、元朔、元狩となった。元朔は北に落ちた星を、元狩は麒麟を手に入れたことに由来する。もっとも「元」の文字を選んだ麒麟はなにもわからず、ただいつもより多く酒をもらって喜んでいただけなのであった。

 

麒麟以外と話す時、武帝は自らを「朕」と呼ぶ。しかし麒麟と話す時は「余」だ。それ以外に「天子様」や「光子様」、あるいは「帝」と呼ばれたり、かとおもえば麒麟には「劉徹」であるとか、以前は「膠東こうとう王」であったなどといったりする。全て彼の名前であるそうだ。
 麒麟は急にその理由がしりたくなった。
 そもそも、名前とはいったいなんなのか? どうしていくつも名前があるのか? 武帝はわらっていろいろと説明をしたが、麒麟にはさっぱりわからない。結局わかったのは、麒麟のほうが「えらい」ので呼ぶときは劉徹と呼べばいいということだけだった。
 武帝のひみつがわかると、彼は次に人間にも注目した。彼がはじめに注目したのは文字であった。「元」の魅力が彼を惑わせたのである。
 麒麟は武帝を、部屋にいる衛士を観察し、前足を変形させてものをつかめるようにした。武帝から筆をもらい、彼はしばらく夢中になって線を引いた。倒れ伏す二本の棒、その下から足がはえ、天を駆けている様を練習したのである。しかし「元」の文字がかけるようになると急速に興味を失い、再び酒にふけるようになった。
 この頃、武帝は南東にある南越国を滅亡させ、前漢の皇帝としてははじめての封禅の儀に臨もうとしていた。敵を鎮圧し、天下泰平の世を築いたことを天に報告しようというのである。麒麟を遣わせたことについても謝意を示すつもりであったようだ。
 顓頊暦90年(紀元前110年)、武帝の封禅の儀をもって漢は絶頂期を迎えた。武帝の権力は不動となったが、史記によれば彼の独善性はこの後急速に強まるよう描かれる。臣の諫言には耳を貸さず、すこしでも異を唱えれば極刑に処し、戦に負ければ入国を許可しない。あやしげな道士の言ばかり耳に入れ、不老不死の術を追い求めたともある。しかし実際、武帝が神秘主義へ依存するようになったのは封禅の儀よりもずっと以前からであった。
 漠北の地へ光が墜ちたとき、彼がまだ二十歳になるかならないかの青年であった。才気煥発な若い皇帝は、政治を牛耳るとう氏ほか、前代より重用された権力争いに勤しむ大人たちに不満をつのらせており、同時に中国王朝の皇帝という立場に重責を覚えていた。彼は救いをもとめ、書物に没頭した。のちの中華文明に多大な影響を与える儒家思想もあるにはあったが、実務において必ずしも役に立つわけではない。結局彼の絶対的なよすがとなったのは神秘主義だけであった。
 武帝は残念ながら、その功績から想像するような豪放磊落な人物ではなかったようだ。小胆、邪推深く、何事も怏々として愉しまず、戦況が悪くなれば麒麟のもとへきて愚痴り、臣民が思うようにならなければ麒麟のたてがみをなでて涕涙し、新貨幣の偽物が出回って悪貨が市場を席巻すれば顔を真っ赤にしていつまでも愚かな臣民の悪罵を垂れ流す。でもそれだけなら麒麟は我慢した。困ったのは、だんだん麒麟が酒を呑むのに文句をつけるようになったところだ。飲み過ぎだとすぐに文句を言い、酔っ払って眠っていると体によくないと小言を垂れるのである。
 麒麟はやがて武帝を疎んじるようになった。彼が来る気配があればさっさと厩舎に逃げ込んで馬たちにちやほやされ、逃げ遅れれば丸くなって眠ったふりをした。麒麟に疎んじまれていることは武帝も敏感に察知し、あまり麒麟のもとを訪ねなくなった。
 ある日のことである。武帝が珍しく酒を携えて麒麟の元を訪ねてきた。おりいって頼みたいことがあると武帝は言う。まじめな、落ち着いた声だ。寝たふりをしようとしていた麒麟はぱちんと目をあけて、匂いを嗅いだ。
 甘い。美酒の香りだ!
 黒いひげを少しうごかし、武帝は笑った。以前みせた少年のような笑みは失せ、呆れたような、嘲るような笑みであったが麒麟は気づかなかった。
「近頃、匈奴がたびたび北方にあらわれるとの報告がある。奴らめ、余が使者を殺したと思い込んでおるのだ。あの者は都についたときにはすでに手遅れだった、丁重に埋葬したとなんども申しておるのにまったく聞きもせず、野蛮な奴らよ……」
 麒麟はげんなりして、鼻の先で武帝のくるぶしをつついた。武帝の愚痴は長い。ずっと聞いているとまた眠ってしまう。その間に酒がどこかへ運ばれてしまったらと思うと気が気ではなかった。彼はちらちらと赤緋の目を酒瓶に送り、武帝の顔を伺った。
「退屈か。そうだな、そなたに政の話は退屈であったな。頼みというのは――」
 麒麟は顎を引き、じっと武帝の顔色を伺った。彼の頬はたるみ、畏れに震えながら麒麟を撫でた頃は遠い過去だ。年相応の貫禄はうかがえるが、そのからだが若い頃のまま痩せて頼りないことを麒麟は知っていた。筋力がおちたせいで腹回りこそでっぷりとしているものの、胸囲や背中は寂しいほどに薄く、彼の立場が、あるいは地位が彼の肉を喰らい続けているように思われた。
「そなたの知恵を貸してもらいたいのだ」
 息を吐いた武帝は不意に声音をかえ、少し優しい口調になった。いつかのように地面に尻をおちつけ、頭の冠を剥ぐ。背後に控えていた記録係がうめき声に似た悲鳴をあげて壁の向こうに隠れてしまったが、武帝はそれを振り返りもしなかった。ただ、昔のようにそっと麒麟のたてがみに触れただけだ。
「かねてより北方の長城の修復をさせているのだが、さらに増強したい。河西回廊のあたりの長城を北進させ、匈奴がふたたび攻め入らないよう守りを固めたいのだ。このところ北は寒さも厳しく、家畜が多く死んでいるというから、奴らめ、追い詰められているはずだ。出来るだけ早く、奴らの侵入を防ぐ壁の建設方法を――」
 麒麟は待ちきれずに答えた。
「酒をくれるならやってもいい」
 時は顓頊暦98年(紀元前108年)、ふたたび宿敵匈奴との戦いが始まる予兆が武帝の瞳をかげらせている。第一次匈奴討伐で傑出した戦果をあげた霍去病かくきょへいはもういない。財政は行き詰まっており、民の不満もたまっている。
 このころの武帝はたしかに覇王であった。この世の春を楽しんでいるように思われた。だが絶頂があればあとは下るだけだ。世はゆっくりと陰り、歴史が示すとおり漢は滅んだ。そのことを予感していたのかいないのか、しぶとく燃える根拠のない憂慮と、神経質な執念が彼をつき動かしている。しかし武帝の膝に顎を乗せて酒をねだる麒麟は未だ無知のままである。

 

あのときの約束がまだ心の中に引っかかっている。
 麒麟は約束をしない。約束をよく理解しないからである。だから彼から求めることはない。彼が約束をしたのは武帝ただ一人であった。
 すっかり寝入ってしまった酔っぱらいの手からビールを拝借して、麒麟はちびちびと考えた。
 最近では容易に酒が手に入らない。酔いから覚め、戻ってくるたびに世の中は大きく変わってしまって麒麟にはなにがなんだかさっぱりわからない。
 武帝がよく愚痴をもらしていたので麒麟は貨幣のことを知っているが、貨幣がむずかしいこともよく心得ていた。武帝はよく声を荒げて言っていた。偽物が横行している。悪貨のせいでなにもかもがメチャクチャだ。断じて取り締まらなければならない。彼は酷吏こくりとよばれる官吏を各地に起き、厳しく見張らせた。そのかいあって中国の貨幣制度は中央集権化し、後世の貨幣制度に影響を与えているわけだが、麒麟にとってはなんとも都合が悪い。もし変な貨幣を出して騒ぎになったら、武帝に捕まって首をちょん切られてしまうかもしれない。怒った武帝は恐ろしい。それに首を切られたことは以前もあったが、とにかく痛い。だから貨幣には手を出したくなかった。手っ取り早く武帝を見つけて酒をもらったほうがいい。安全だし、簡単だ。彼さえ見つかれば――そこで麒麟は考えた。それにしてもいったい武帝はどこへ行ってしまったのか?
 こんなことなら少しくらい長城を建設してやればよかったと彼は後悔した。武帝が怒ったのは麒麟が酔ってばかりいたからだ。でも武帝にだって責はある。麒麟は長城を知らない。建物だって作ったことがない。なのにどうしてうまくできるのか? よくわからないのでとりあえず酒を飲んでから考えようと思ったら眠ってしまうし、起きて考えてもやっぱりよくわからないので酒を飲んでしまうし、とにかくそうするうちに武帝は怒り始めた。ごうごうと怒鳴り、麒麟をいじめる。彼は心底いやになった。酒をくれるならやってもいいとは言ったが、すぐにやるとは言っていない。武帝は短気がすぎる。すぐにやれという。どうして時間がたっぷりあるのに急ぐ必要があるのか? 武帝はその説明を怠っている。だからぜんぶ武帝がわるいのだ。
 離別は突然だった。少なくとも麒麟にはそう思われた。武帝が足音もいからせてやってきたことはわかっていたが、麒麟はまだ危機感を持っていなかった。いつものように小言を言われるだけかと思っていたのだ。
 しかし武帝は怒っていた。怒髪天といってもいい。髪の毛を逆立て、顔を真っ赤どころか赤黒くして武帝は怒鳴った。右手は剣の上にあり、周りのものが必死にそれを止めようとしている。このときになってようやく麒麟は危険を感じた。
 彼は慌てて身を翻し、池の上に逃げた。人間は水の上に立ち上がることはできない。どこよりも安全な場所だ。
 武帝は窓から身を乗り出して喚いている。おまえは――武帝が麒麟を「おまえ」と呼んだのは後にも先にもその時だけであった――仁徳に優る霊獣ではなかったのか? どうして北の民が匈奴どもに踏みにじられるままにしていられるのだ、己はこれほどまでに心を痛め、おまえに頭まで下げたというのに毎日、毎日、酒ばかり飲んで――!
 麒麟は蹄で水面を蹴った。池に住む赤い金魚たちと戯れるときの合図だ。緑の藻に隠れていた金魚は餌を期待して彼の足元に集まっている。しかし太刀をふりまわしている武帝は少しも気づいていなかった。わなわなと全身を震わせて武帝はさらに怒鳴った。もうよい、もうおまえのことなど知らぬ、どこへでも行ってしまえ。居座るなら斬り捨てるまでのことだ。おまえを麒麟と勘違いした己が間違っていた、おまえはただの偽物だ、のろまで頭が悪くて、少しも仁義につうじておらぬではないか、本当は饕餮とうてつなのであろう、我が財産を、税を貪り尽くすつもりだな、そうに違いない、叩き切って化けの皮をはいでくれる――!
 これは激烈な脅迫だ。しかし麒麟は腹を立てなかった。ただ恐ろしくてぶるりと震えた。武帝がどうしてそんなふうになってしまったのか麒麟には理解できなかった。理解できないので、彼は悲しかった。しかしこのまま武帝の元へとどまっても事態が収束しないことは明らかだ。彼は頭を振った。感情のたかまりとともに、彼の体からはプツ、プツ、と白い光の粒が飛び出している。光はぶつかりあい、鈴のような甲高い音を立てた。
 武帝の腕にとりすがった衛尉は必死の形相でやめるようにと諌めているが、門のあたりで目をまるくして見物しているまだ若い門兵たちはただ面白がっている様子だ。麒麟に見捨てられたらおしまいかな、こんなふうになるのは国が傾き始めたしるしだっていうじゃないか。おい、やめろよ、太子様の耳に入ったら首が飛ぶどころじゃすまないぞ、塩漬けにされるかも。おまえなんかが塩漬けにされるもんか、外に捨てられておしまいさ。とにかく口は謹んだほうがいいぜ。喚いている武帝には幸いその声は聞こえていないようだ。
 彼は悲しかった。蹄をつつく金魚たちはいつものように餌をねだっている。麒麟の体から放たれる光に驚いたようにヒレをうごかし、水面に真円の線を作っている。いつもなら彼はその線を踏んで金魚と戯れただろう。でも今はそんな気分にならなかった。
 彼の目からは光をまとった水がこぼれ落ちている。彼がまばたきするたびに涙がはじけ、池に墜ち、彼の足元を濡らした。麒麟は首を振り、その場で二度足踏みをした。ついに涙で金魚が見えなくなった時、彼はくるりと踵を返した。
 それきり武帝には会っていない。
「……?」
 ふと脇を見ると、酔っぱらいがなにかを枕にしていた。頭が邪魔でよく見えないが、灰色で字がたくさんかいてある。字があるということは紙だ、と麒麟は思った。木簡にしては灰色すぎるし、それに薄い。
 紙の歴史は長い。すくなくとも前漢の頃にはすでに製紙方法が考案されており、その二百年前には原型となる「紙」が発明されていたという説もある。実際、麒麟も武帝に紙を見せびらかされたことがあった。これは紙というものだ。天子以外は触ることは許されておらん。しかし天上ならばもっとよい紙があるのだろうな、と羨望と自嘲の混じった声で武帝は言った。そして彼は麒麟のために「元」の文字を書いてくれたのだった。麒麟が文字に興味を持ち始めた頃のことである。
 しかし麒麟が驚いたのは紙の存在ではなかった。何度も地球を訪れ、人々を観察している麒麟はすでに紙が珍しくない存在であることを知っている。その辺によく張ってあるし、束になって持ち歩いているものもいる。風が吹いたら飛び、雨に濡れて地面に張り付き――とにかくありとあらゆるところに紙は存在するのだ。だから珍しさは感じなかった。彼が驚いたのは紙の上に浮かび上がる文字のほうだった。
 花曇りの空の下にぽつねんと街灯がひかっている。無機質な白い光だ。麒麟の光にも似ているが、銀の具合が少し足りない。それで光は麒麟に遠慮するようにそっと彼を避けていた。ちょうど彼のすぐそばにある紙が、光にとって一番いい終着点だったに違いない。男の脂ぎった髪の毛をそっと指でよければ、紙の上で黒いインクがギラリと光った。
 元。
 たくさんの文字の中に、麒麟の知っている文字が紛れている。
 棒が二本横たわり、その下に細い足がついている。前足は伸び、後ろ足は蹴り出してまるで野を駆けているようだ。
 とっさに彼は酔っ払いを揺り起こした。これ、なんですか。なんて書いてあるんですか。読んでください。
 先程までの上機嫌とはうってかわって顔をしかめた酔っぱらいはケッと鼻をならして麒麟を追い払おうとした。うるさい。おれは寝てんだ、ちくしょう、いいところだったのに邪魔しやがって、あっちいけ。しかし麒麟は諦めなかった。二十回ばかり読んでくれと懇願するとついに酔っ払いは諦め、ようやく灰色の紙束を手にとって目をこすった。
「ちくしょう……あんだよ、こんくらい自分で読めよ……どれ。これ? 『明日正午、新元号発表』だよ。あんた、こんなのも読めねぇのか……」
「劉徹が改元するんですか?」
「え? なんだって? なに? ああ、誰が改元すっかって? んなの天皇に決まってんだろうがよ、天皇が変わるから元号が変わんだ。あったりめぇだろ、昭和のときは急に天皇がなくなったからそりゃぁもう大変で、なに? しらねぇ? これだから若いやつは……」
 ふん、と男は鼻をならした。そして心底面倒だという表情で紙束を麒麟に押し付け、ぱたんと眠ってしまった。あとはつついても揺すってもちっとも起きなかった。

 

「元号かわるのはじめてなんで、よくわかんないんスよね」
 麒麟の隣で若い男は手のひらの皮を引っ剥がしてつついている。皮はうっすらとひかり、麒麟の体のようだ。なんとなく親近感を覚えつつも、麒麟はだまって花壇の縁にこしをおろし、指の爪を食んだ。
 酔っ払いが寝込んでしまって動かなかったので、麒麟はあきらめて話しかけられそうな人物には誰にでも改元のことを聞いた。白い花が咲き誇っているおかげで、すっかり日が落ちても道や池の畔に人が溢れている。酒をのんで陽気になった人々はかっこうの話し相手だ。麒麟の疑問を完全に理解しているわけではないが、ペラペラとよくしゃべる。
 だというのに、誰も武帝のことをしらなかった。
 今の「天皇」と呼ばれる人間の名が劉徹でないことだけは明らからしい。親切な者が絵を見せてくれたが、武帝とは似ても似つかなかった。最近では薨去と同時に改元が行われるのが通例であるが、基本的には皇位の継承時に改められるらしい。これを一世一元というのだそうだ。
 つまり。
 若者は耳障りな笑い声とともに言葉を吐き出した。その人の名前は聞いたことないですけど、元号が変わってるってことはもうこの世にはいないんじゃないですかね。え? この世じゃないならどこだって? そりゃあの世でしょ。
 はじめ麒麟はこの情報に喜んだ。考えてみれば武帝はしょっちゅう改元していたので男の話はあやしいのだが、ともあれ「この世」とやらではなく「あの世」にいるというのなら話は早い。会いに行けばいいのだ。
 彼が最後に地球に帰ってきたのは西暦1796年、中国ではちょうど清の嘉慶帝が嘉慶の元号を発布した年であった。ちょうどこの頃中国で麒麟に似た家畜がうまれたという記録が集中しているのは、武帝に切りつけられることを恐れた麒麟が人間を避け、家畜に話を聞いて回っていたからである。武帝の手がかりはつかめないまま、世は乱れ、兵が西へ行き、東へ行き、戻ってきてさらに東へ行った。
 戦乱をきらった麒麟は山に籠り、あるときは水の上を渡り、霧に沈む森に隠れ、時々酒を求めて人里に降りた。時代が下るに従って麒麟の姿をしていると騒ぎになることが増えたので、だんだんと彼は慣れ親しんだ麒麟の姿をとらなくなった。人間のフリをしている方が酒を手に入れやすいからである。
 ともあれ、二百年あまり武帝を探し続けている彼にとって、「あの世」に武帝がいるという情報は重要な手がかりだ。「あの世」とやらがどれくらい広いかはわからないが、いずれは見つかるだろう。彼はしんから喜んで、どうやったらあの世に行けるのかと男に聞いた。男は、死んだら行けるじゃないっスか、と甲高い声で笑った。おっさん、死にたいんスか?
 男は戯れのつもりであったのだろう。しかし麒麟は真剣だった。あの世へいく方法を男が知っていると思い、熱心に聞き出そうとする。男はだんだん麒麟が気味悪くなった。まるで恐れることなく、目を輝かせて死ぬ方法を聞きたがる男だ。しかもいかにも純朴で、まったく疑うところを知らない。
「いや、やめたほうがいいと思いますけど、死ぬのなんて……」男の声音は麒麟にもわかるくらい不穏になった。音がバラバラに口から飛び出し、慌てて整列したようなリズムの乱れがあった。麒麟は急に不安になって灰色の紙束を胸に抱いた。「だって、死んじゃったら、終わりですよ。生き返ったり、とか、できないんだから、命は大事に、しないと」
 いい終えて男は青くなった。
 彼らの頭上では、白い花が風をはらんで枝をゆらし、夜の空を泳いでいる。武帝と過ごした日々に、この白い花はなかった。彼の庭には紅色の小さな梅が咲き、甘く健やかな匂いを漂わせて麒麟を楽しませたものだ。花は麒麟が酔っている間に旅に出て、寒い季節になると帰ってくる。季節や昼夜と同じように行ったりきたりしているものだと、ずっと麒麟は思っていた。
 しかしこの白い花は違う。
 第一に、音が違う。重く、闇を振り払うような音をたてる。花の音が風をおこし、木がそれを受け止めてしなる。
 第二に、色が違う。この花は白く輝く。夜の中でも色をうしなわない。まるで麒麟がそうであるようにうっすらと発光しているようにさえ見える。
 第三に――
 突如、麒麟は理解した。
 紅い花と白い花に違いはない、どの花にも命がある、と。
 彼の頭上にある白い花は、命そのものだった。競い合うように花を開き、散る。木から離れた花弁は骸であり、花弁を手放した木は二度と同じ花を咲かさない。それが花の死だ。死んだ花はやがて木から離れ、地面に落ちて土になる。木は幾万もの死を枝にぶら下げて立っている。万物は行って帰ってくるのではない。去っていくだけだ。
 いままでどうして死を知らなかったのかと麒麟は思った。兵の死体が累々とあふれかえる荒野を見た時に、生まれてきたばかりの仔牛が動かないのを見た時に、彼の庭で金魚が腹を見せて泳いでいた時に、いつ気づいてもおかしくなかった。だというのに彼はずっと、彼らは眠っているだけで、いつのまにか見えなくなったのはどこか旅に出たのだろうと疑わなかった。麒麟を置いていってしまったのだと少し恨むことはあったが、いつか会えるだろうと気に留めていなかった。
 麒麟が黙り込むと、頭上の花たちも沈黙し、世界が静かになる。木々の間には紅白のあかりが吊るされ、白い花の下では人々が酒を酌み交わしている。その間も花は死に続けている。楽しげにさわぐ人々は一瞬後には死ぬかも知れなかった。木々は突然倒れ、死ぬかも知れなかった。明かりは落ち、葉は吹き飛ばされ、死ぬかもしれなかった。かつて麒麟と遊んだ金魚も、もしかすると彼を子分にした龍も、みんな死んだのかもしれなかった。彼一人がそれを知らないのだった。
「あのう……マジで死ぬのはやめたほうがいいっスよ……っていうか、なんか、よくわかんないスけど、騙されてるんじゃ……?」
 男の声に麒麟はまばたきをした。彼の声はばたついて、麒麟の中にさざなみを与えた。麒麟のまつげから光が飛び、白い花に混じって空に舞い上がる。男はまだ異変に気づいていない。麒麟はふたたびまばたきをした。ずしりと体が重く感じられる。こんなことははじめてだと麒麟は思った。粗いアスファルトが彼の足裏を刺している。腰をおろした花壇の縁は肉に食い込み、しかも冷たくて、体の芯まで凍えてしまいそうだ。
 最初の変化は指だった。彼の手についていた五本の指先が黒く変色し、中指と薬指がぐう、と生き物のように伸びた。指先は固く、手のひらは伸び、しかも紙のようにペラペラだ。頭上でうなる花風に煽られ、彼の身体はゆっくりと前のめりになった。背中がしなり、腰が限界まで伸びた時、枯枝を折った音が彼の背中と首から聞こえた。彼の頭は膝の間におさまり、もはや動かない。尻が持ち上がり、身体は少し浮いて、頭が地面に向かって回転する。隣に座っていた男が悲鳴をあげても、麒麟にはもう音は聞こえなかった。彼は目を閉じ、動きに身を委ねた。
 彼の皮膚からプツ、プツといつかのように光が沸き立っている。花見にかまけて麒麟に注意を払っていなかった人々も異変に騒ぎ始めたが、麒麟はすでにしろい光球となって宙にうかびあがっていた。彼の周りを死んだ花びらがおよぎ、銀色の光を夜に散らしている。
 その時である。
 突然彼の上に目に見えぬ巨大な塊が出現した。巨塊は無極の質量を持って彼にのしかかった。
 地に落ちた彼の体は地面にめり込み、激しい音がした。人々が悲鳴をあげてその場から逃げると、巨塊は静かに彼の体を押しつぶし始めた。潰れた光球からは薄い光のベールが溢れ出す。薄く、遠くどこまでも広がる光のベールである。光は音もなく広がり、地球を幾重にも覆った。あらゆる場所は昼になり、すべての影が地上から失われた。決して明るくなく、かといって暗いわけでもない、しろい光は際限なく湧き出し、重なり、空を埋め尽くしてもなお止まらなかった。麒麟はもはや意識を持たない光だった。その光が地球を、太陽系を、銀河系を覆い、ついに宇宙の果てまで届いた時、麒麟の存在はそれが生まれたときと同様、一瞬にして世界から消えた。
 あとに残ったのは古代から変わらぬ、花夜を照らす青白い月だけである。
 以後、麒麟を目撃したという記録はどの地域にも残されていない。

**

麒麟がいなくなってしばらく、武帝はせいせいした気持ちであると人目をはばからず豪語した。そして瑞兆が失われても天子の力は衰えることはないとばかりに改革に傾注した。たとえば秦代から続く顓頊暦から太初暦へあらためさせたのもその一例だ。たしかに暦が実態にそぐわなくなりつつあるという事実もあったが、天より与えられる暦に新しく名を与え、さらにその暦名を天子の権力として元号名にしたのであるから、彼の意思は自ずと明らかであろう。
 しかし麒麟を追い出した影響は武帝が思っていた以上に臣に及んだ。あんなふうに霊獣を追い出したのは国が傾く前触れではないかという噂はとどまることをしらず、ついに武帝の耳にも入った。彼は怒り狂い、記録書の中から麒麟の存在を徹底的に抹消した。麒麟と武帝の逸話が今に一つも残っていないのはこのためである。
 あの獣を麒麟と呼ぶのも腹立たしい、と武帝は思っていた。まったく憎たらしい獣だった。一晩で蔵一つを空にするのを許すくらいなら、川に年貢や朝貢をすべて流してしまったほうがどれだけ利があったかしれない。あの獣ときたら本当に、朝から晩まで酒を呑むことしかしなかった。酒を飲んでいない時は、なにが楽しいのか直線に歩いたり、円を描いたり、あんなものが天からつかわされた霊獣であるはずがない。きっと誰かがすり替えたのだ。今度こそ本物の麒麟を手に入れなければ――
 彼は衛青が麒麟を邂逅した時の話をもう一度掘り返し、麒麟とともに行動していた馬たちに目をつけた。馬は汗血馬とよばれる中央アジア原産の馬であった。大型で頑丈で、しかも足が早いので、この馬を手に入れれば匈奴たちとの戦いが楽になる。それにもしかすると、本物の麒麟はいまもまだ汗血馬たちと行動をともにしているかもしれない。
 彼は大宛フェルガナへ使者を送り、まずは汗血馬を買い付けようとした。しかし大宛はこれをことわった。大宛との関係が悪くなれば、漢は匈奴の情報を手に入れられない。西方との貿易もままならないはずだ、と漢の足元を見たのだ。武帝は激怒し、大宛へ兵を差し向けた。一度目は大敗、二度目は十分すぎるほどの兵を用意したので大宛王は降伏した。
 二回の大宛遠征は全盛期を迎えた漢の強さを誇示するものでもあったが、臣の中にはここまでする必要があったのかという声もあった。やはり天子様は麒麟がいなくなってからどこかおかしい。どうしてそこまでして汗血馬にこだわるのか? 口では麒麟など追い出して正解だったなどというが、麒麟に見捨てられたことを誰よりも恐れているのは天子様なのではないか?
 その後、漢は緩やかに衰退し、太初暦109年(紀元5年)に滅亡する。しかし武帝の世の後年にあってもすでに衰退はあきらかであった。たとえば紀元前105年頃からはじまった匈奴との小競り合いは、紀元前100年に第二期匈奴征伐へと進展した。しかし戦況はおおいに悪く、紀元前89年に漢が戦から手をひくことによって終結している。漢は武帝とともに年老いたのだ。
 さらに晩年、武帝はあやしげな道士に惑わされ、皇太子を死に追いやった。のちに巫蠱ふこの乱とよばれる事件である。息子の死を知り、彼はようやく目がさめた気持ちになった。しかし死した者は取り戻せない。せめて魂だけでも帰るようにと思子宮を建立するも彼の心が慰められることはなく、しばしば酒にふけるようになった。酔うと彼は決まって月を相手に、麒麟の話をしたという。
 いまとなってはあれが麒麟であろうとなかろうと、余にはどうでもいいのだ。あれは純朴ないきものだった。もしあの者が帰ってきたときに余がいなければ困るに違いない。
 その口調は麒麟のたてがみを撫でながら愚痴をこぼしていた武帝そのものである。彼は酒をすすり、きまって垂泣する。あれのように何時間も自分の話をきいてくれる者はどこにもいない。みな、なにかしら見栄を張る。知ったかぶりをする。自らの才をひけらかす。嘘をつく。濡れ衣を着せる。利を得ようとする。謀略を巡らせ、陥れようとする。
 しかし、あれは違った。己というものを意識さえしていないように思われた。それを若い頃の余は歯がゆく思っていたのだ。どうして仁徳高い霊獣でありながら、人を説き、導かないのか。霊獣と呼ばれるほどの身であるなら、世の理も、向後の在りようも一目瞭然であったであろう。どうしてその才を使わず、酔ってばかりいるのか?
 だが、酔っていたのは余のほうであった。権力に酔い、世を失う恐れに酔い、五常の徳性から目をそむけたままであった。こんな浅はかな人間であるから、麒麟に見放されたのだ。それどころか我が妻、我が子、臣民の心さえも失ってもいまだ酔いから覚めやらない。
 あのものが余のもとを去ったのは当然だ。あれはなにも言わなかった。なにもしなかった。余が斬りかかったときでさえ罵声ひとつあげず、涙をこぼしただけであった。あの悲しそうな目! 余はあれにもう一度まみえなければならない。なにも許されようというのではない。ただひとこと、あれに侮蔑されねばこの酔いから覚めることもできないように思われるのだ。
 紀元前87年、武帝は後悔とともに一生を終えた。麒麟はとうとう現れなかった。

 

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