小町八十八歳

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梗 概

小町八十八歳

※注釈は「内容に関するアピール」に記載しております。 

2089年1月7日金曜日、東京都千代田区の喫茶店・以呂波いろは にて。
 午前十時の店内はまだ余り人がおらず、閑散としている。その中に、一人の老婆がいる。その名は<小町>。2001年生まれだから、数え八十八歳になる。一人の若い男が喫茶店にやって来る。深草、職業は歌人。今日は2089年の宮中歌会始なのだ。千年の伝統があると言われた宮中歌会始の参加者も、皇族からは小町一人、そしてネットでの告知を見てやってきたという自称歌人の計二人になってしまった。【注1】
 彼女たちは、外の雑踏に目をやる。ものすごい数の人々が、かつて皇居があったところに向けて怒鳴り声をあげている。中年の男が中心だが、老若男女、様々な人がいる。ただ小綺麗な恰好をしている者は一人もいない。階層としては中の下といったところか。今日は昭和帝崩御百年として、右翼団体主催の昭和帝追悼行事が行われ、その中の一環として<宮城奪還>デモが行われているのだ。参加者は一様に片方の手にゴムボール のような物を握っている。【注2】
 小町は青年にあれは何だと尋ねると、深草青年は自分のゴムボールを取り出し、小町に手渡す。歳をとってすっかり流行りものには疎くなってね、と言いながら彼女がそのボールを握ってみると、ボールから骨伝導により男の声が聞こえてくる。聞いたことのある声、更に小町のかけた眼鏡を通じてその男の姿が現れる。その男は小町の親族であり、昭和帝の曾孫を名乗って知名度を上げることで、今では民間右翼団体の幹部となっている男だ。そしてボールを通じてあたかもその男が小町の手を握り締めているように感じられるのだ。気色悪いね、と言いながら小町は深草にボールを返す。でも外で群がっているあの人達みんな、ボールを通じてそいつの<外国人を殺せ、宮城を乗っ取っている外人のビルを焼き払え>っていう演説に聞き入って、そいつと手を握り合って励まされながら、ここまで来ているんですよ、と深草は解説する。
 「私と手を握った男は、皆死んでしまった」と小町は呟く。興味津々の深草は、自分のボールは最新型で、掌を通した神経接続が可能となっている。このボールをあなたと私が同時に握れば、ボールを通じてあなたの記憶に接続アクセス出来るのだ、一度あなたの記憶を見せてくれないかと頼み込む。小町は嫌々ながら再度ボールに手を触れる。

 深草の目の前には、どこか眼前にいた老婆の面影を残した美女がいた、65年前の小町だ。まだ皇居が接収される前の幸福な時代。二人はマスコミの追っ手を振り切りながら、逢引きを重ねる。熱に浮かれた振りをしながらも、冷静な小町の頭は自分が手を取り合っているこの男が、自分と結婚する利得メリットなど何も無いことは良く分かっている。自分が結婚して臣籍降下したところで、高い収入の仕事に就けるわけでもなく、単に大衆にその私生活を好奇の眼で見られるだけだ。小町は男を試してみることにした。
 男は幼い頃にかかった病気により、子供を作る能力が無かった。男は「このことを知っているのは両親と医者以外は君だけだ」と、ある夕食の席で小町の手を握りながら告白してくれたのだ。彼女はそんなことは気にかけなかった、むしろ話してくれて嬉しかったくらいだ。しかし小町は新聞社に勤めている知人にその事を話してみた。男に対する、小町の結婚相手としてはふさわしくないという各種メディアからのバッシングはすぐに始まった。でも小町は期待していたのだ、男がそんな非難を乗り越えて、小町の手を取ってくれることを。
 しかし、小町のところに男から「僕は君に相応しくない」と一言だけ書かれたメッセージが届いた。急いで男の住む部屋に行ってみると、男は首を吊って死んでいた。悲鳴をあげる小町。

 以呂波に座っていた小町がふと気づくと、目の前に座っていた青年はテーブルの上に突っ伏して死んでいた。神経接続の出来るボールはまだ試用段階のものだったから、極めて濃度の高い小町の感情が深草の神経に伝わることで、彼の脳細胞は異常な活動を起こしてしまったのだ。
 外では皇居跡に陣取る多国籍企業が有する私設警備隊が、暴徒に向って発砲を始めていた。そして正午になり、定刻通りに小町は一人で歌会始を始める。

文字数:1767

内容に関するアピール

物語の骨子は前回に続いて三島『近代能楽集』収録の「卒塔婆小町」からです。以下、梗概に対する注釈となります。

【注1】21世紀半ばに日本国は財政破綻デフォルトし、米中露を中核とする国際機関による構造改革を命じられる。国際機関は日本国が東京都千代田区に保有している莫大な不動産、つまり<皇居>に目を付け、皇居を民間企業に売却し、その利益で財政再建を行う。それに伴い、皇族―日本国籍を持たない人々―はそれぞれ各地に分かれて暮らし、儀式の際には式場や貸会議室、場合によっては喫茶店などに集って儀式を執り行っていた。しかし一夏ごとに盆に田舎に集まる親族の数が減っていくように、儀式の出席者も次第に減っていった。
【注2】ゴムボールのような物とは、21世紀終盤の携帯電話兼小型PCです。現在のスマートフォンは、我々の視覚と聴覚を満足させてくれることは出来ましたが、まだ触覚を満足させてくれるには至っておりません。21世紀終盤の技術で作られたボールは、骨伝導によって聴覚を、眼鏡又はコンタクトレンズを通じて視覚を満たしてくれるのと同時に、そのボールの触感によって、人々の触覚―それは主に他者と疑似的に握手をしている感覚―を満足させてくれます。

文字数:514

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