山水石考

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梗 概

山水石考

そこに住む生き物はかつて、個体として動いていた。そして、かつてよりあった1つの大きな山を、自分たちの手で作った様な錯覚に囚われていた。その山を登ることは到底できない。神聖な山は恐れ多いという人もいれば、蜃気楼で出来た山だという人もいた。山には境界線を引く力を持っていると信じた。他を寄せ付けることのない、山の持つその高さそのものが、力だった。

生き物は、山だけでなく、多くの他の生物を、お互いに区別をする。その方法で、世界に地図を作ろうとしていた。写し取る際の意味する線が重要だった。

しかし、山は本当はその生き物と同じ物質で出来ていた。本当はそれを山を含めたすべての生き物が知っていた。けれど、教育と盲目が、山を特別なものにしていた。

時代の教育によって、山はどんどんと高くなった。生き物たちが積み上げていった言葉の山だった。生き物1つ1つが口々に騒ぎ出す。生き物が言葉を放ると、山彦が聞こえてくる。山は何1つしゃべっていない。けれど、口々に生き物がしゃべる言葉を山は全部山彦にして、生き物に返す。生き物はそれが神である山の声だと思う。山彦により、他の生き物がしゃべった言葉をあたかも自分がしゃべった様に思うほど混乱し、もしくは、違和感を感じるものは、渦から弾き飛ばされることにもなった。

生き物は山があれば他のどんな生き物よりも強いと思い、他の生き物と戦ったりもした。結局、生き物たちは、岩には敵わなかった。山は戦いの最後に地響きを立てた。

山は、山が山で無くなり平らで平坦な世界を作りたいと思った。けれど、それは叶わなかった。岩は世界が隣の赤い海に呑まれることを恐れ、山を山のままにして、柱になれば良いと思っていたからだ。結局赤い海が蒸発するともに、山は最後に崩れ去った。

そのうちに、あれだけ綿密に線を集めた地図の地形は、もはや役にたたなくなった。

山が去った後には、山を均した。投げつけられた言葉の重さを支えるものがなくなり、言葉の重さだけを引き継いだその結果、平を過ぎて、窪地が出来た。

変化したのは、山だけではなかった。生き物たちも変化した。すでに個は個でなくなり、個が混じり合った流動的な巨大化した塊になっていた。そのうねりはさながらムクドリの集団の様だ。生き物は1つのまとまりになったが、その分大きな広がりを持つ。

窪地は山から引き継いだ、自分に与えられた役割を忠実に理解し、実行しようとした。窪地はその生き物たち全体をくまなく映し出す事を試みた。窪地は生き物たちの姿を覗かせるための透明な水を自分の体に引き込んだ。窪地には水が溜まり、山が待ち望んだ平らな世界は、静かな水面を持って実現した。湖だ。

生き物たちは、湖を覗くと水面に反射して映った生き物の姿が見る事が出来るため、その湖の水は、自分たちと大きさだと思っていたし、湖もできる限り生き物を映し続けた。湖はとりわけ、その生き物の弱い部分だけは見逃さない様に、心掛けた。それは、湖の鏡に、生き物そのもの以上の美しさを映していた。湖が作る美しい像は、尊敬と偽善への眼差しで、生き物たちの沢山の目それぞれに映し返した。

ただ、あるものを受け入れ、身を任すことをに長けた性質が、もともとあった。

しかし、湖に映し出された美しく創られた像は、生き物を映したものでありながら、湖そのものでも、生き物そのものでもない、ただの奇妙な虚像だった。揺れて実体のない像は、風が吹くと現れる水面の波紋により、それを一層際立たせた。

なぜなら、湖が生き物たちを見続けることは、湖の意志であるのか、生き物たちの希望であるのか、もはやわからなくなっていたからだ。

それ気にがついたのは、窪地だった。湖ではなく窪地が意志を持とうとした時、生き物たちは多少なりとも驚き、慌てた。そもそも、窪地、もしくは湖だったものも生き物も、そこには透明な水が溢れていると思っていた。しかし、もとの窪地をよく見ると、そのものには誰もが考えていた様な、透明で膨大な水はなかったのだ。

生き物と同じ血だった。

窪地の血を引き継ぐ者が後に続く。

文字数:1665

内容に関するアピール

最近見た実験映像作品に、カメラの身体性について探求したものがあります。それはカメラの視覚性ではなく、身体性に注目すると、そこには視覚を切り離す事ができない4つの視点が生まれます。①製作者である作家=カメラの物質的な動き(撮り方の方法論)②カメラの実際の視線(機械機能性)③作品である映像(作品・現れ方)④視覚映像を見ている視線(観客である自分)=日本人という4方向からの関係が複雑に絡みつつ、平行線を保って存在します。

①=天皇制②=天皇という役割③=天皇の存在④=日本人もしくは他の人間。それを踏まえて④にもう1つ含まれる、今回のお題に沿った私にとっての二次創作的なテキストが今回の梗概です。「天皇制」による「役割」という機能がもたらす、天皇の「人」ではなく「モノ」さ加減。「天皇には人権がない」という点に、日本人は生き物だけれど、天皇の扱いは、制度としての「モノ」という部分がある様に思えます。そして時代の憲法によってモノとしての機能が決定されていきます。現在でも世界の中で特定の1人の人物に対して起こる稀な現象です。それがいいのか悪いのか、社会的な判断よりも、そういう様に機能している点に、私には一番興味を持ってしまうので、今回の内容になりました。しかし、上記観点での考察が不十分で、また今後の天皇制のあり方の予測まで追いついていないので、もう少し考えようと思います。

文字数:586

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枯山水とは。

そこに住む生き物はかつて、個体として動いていた。それぞれが頭に目を持ち、手を使い、二本の足が立っていた。そして、口があった。その生き物は、ものを作ることが好きだった。それは、目に見えるものであることもあるし、目に見えないものであることもある。

1.古代

生き物たちの間、等しく見える自分の仲間の内で、山と呼ばれる存在が現れる。以前より存在している1つの大きな山だ。今となっては、その山を生き物自分たちの手で保存する義務を担っている錯覚に囚われる。なぜなら、生き物たちはその山を自分たちが作り上げたものと、いつの間にか考えているからだ。しかし、山の方は山の方で、元々は自らに自らの意思を積み上げて山となった事を覚えている。山は、自分が生き物と同じ物質で出来ている事を忘れていなかったからだ。

●須弥山とは、古代インドの世界観の中心にそびえる山をさす。

事の起こりを辿ってみると、まず山が山という形にこだわったのは、三角形の造形物を形成することは、古代より神聖化された形の1つであることも手伝った。

生き物たちにとって山への羨望は、珍しい成り行きではなかった。実際、山そのものが移動しない空間でありながら、生き物たちが入り込む余地のある居場所であった。

遥か遠くの時間の遥か遠くの場所では、権力を持つ生き物がわざわざ死んだ後に入る墓を三角の形にした。その墓もやはり大きな山だった。

●手水鉢とは、手を洗い、口を漱ぐための水鉢である。吾唯足知。

しかし、山は生きているうちに自ら山になる方法を考える。山には口がある。山はその口から火を噴いた。山が定期的に噴き続ける火。生き物は火を恐れる。一方、山には手があった。山はその手で農業の普及伝達を試みた。いつの間にか山は周りの生き物たちを超える力を持っていた。

生き物たちにも口がある。生き物たちは、言葉を作り、口から言葉を吐いた。次第に、生き物たちは口々に山についての世間話をする。生き物にとって、その山を登ることは到底できない。神聖な山は恐れ多いという生き物もいれば、蜃気楼で出来た見かけだけの幻の山だという生き物もいた。山は常に生き物にとって見られる存在であり、語られる存在であった。

●鯉魚石とは、激流を上った鯉は多岐になるという登竜門の伝説に基づく石である。

生き物たちにも手はあった。山が他と同じ生き物であるにも関わらず、生き物を超えた力を持続して持つ必要が山にはあった。そこで山は、自らについて、遡って古くからの成り行きを、語る必要があった。そのための策を弄する。それを語るために、山は自ら語るのではなく、自らの物語を生き物たちに作らせる事を試みた。権力とは自らなにかをするのではなく、させる事だ、と山は知っていた。作るのも語るのも、いつも生き物ばかりである必要があった。そして幾つもの書物を書き記した。

とくに、生き物たちが作った物語は、どのように生き物たちが成り立ち、その成り立ちに山がいかにして貢献し、かつてより山がいかに高く聳え立っていたかを表すことで、その偉大さを讃え、自分たちにとって、いかに誇らしいものであるか、ということが書かれていた。そうすることで、山を常になだめようとした。そして、山が噴く火とともに降り注ぐ黒い灰の中には、砂金が混ざっているとさえいい、その力だけでなく、美しさを多くの歌にして讃えた。

2.中世~近世

●鶴島亀島とは、漢の武帝が太液池に三神仙島を築いた時、島を亀の姿に象ったことから一石または多数の石で作られる。

山はそれから長い間、生き物の中で、生き物ではなく山であり続けることが出来た。

そして、山には境界線を引く力を持った。高さに比例して地面に落ちる影の線が、境界線となった。火の力だけではなく影そのものが、力だった。山や生き物たちが暮らす島の上に多くの線を引いていった。山は長らく自ら影の境界線を引いていた。

生き物たちは生き物たちの間で、長い間に集団の質を変化させていく。

生き物たちの中には、他を寄せ付けることのない、唯一無二の山の持つその力に惹きつけられ、その力を自分のものにできないものかと画策するものは、常にいた。だが、そのうちに実際に生き物たちの中にも線を引く力を持つものが現れ始める。

それには、山の影そのものを巧みにあやつる方法を採るものもあれば、全く別の方法で、影を作ろうとすることを考えるものもいた。例えば、空の上に大量のイナゴの群れを配置して、太陽そのものを覆い隠すと、地面は全てが一面濃となる。

曇ってしまうと、山の影は落ちなくなる。山の影が薄くなることは、山にとって不本意であることもあった。しかし、山は山としての存在感を残し続けた。

3.近代1

●舟石とは、宝物をとりに蓬莱島に出航、もしくは戻って来た舟の形をした石である。

大きな転機は急激に訪れた。世界が外からやって来たことだ。それまで、山を含む生き物たちは、おおかた水に囲まれた土地のみを世界の全てとして暮らしていた。しかし、ある日、水の外から別の影を乗せた船がやって来た。

一度やって来たその影は、どんどんと生き物たちの世界を広げていく。生き物たちは、その新しい世界に、自分たちのさらに新しい影を作ろうと試みた。そのためには、再び山の持つ力が必要とされた。生き物たちにとって、山が山であることは、特別なことであると、改めて考えた。なぜなら、山を特別なものにすることによって、生き物たち自体も特別なものになるはずだと思ったからだ。

生き物たちは生き物たちの間で用いられる教育というシステムによって、山をさらに特別なものにしていた。山はどんどんと高くなった。それは生き物たちが積み上げていった言葉の山だった。

●透かしとは、境界線を明確にせず、連続性を重視する文化の特性の一つ。松の葉を透かすことで透けた空を眺めることができる。植木職人のことを透かし職人ともいう。

生き物たち1つ1つが口々に騒ぎ出す。生き物たちが言葉を放ると、山彦が聞こえてくる。山は何1つしゃべらずとも、山の周りには声が響いている。口々に生き物たちがしゃべる言葉を山は全て山彦になり、生き物たちに放り返す。生き物たちは、生き物たち自体がしゃべった言葉を、神である山の声だと思うようになる。こうして、山はいつしか生き物ではなく神になっていた。山と生き物たちの間には、山彦が絶え間なく響く。混乱し、もしくは、その主のわからない山彦に違和感を感じる生き物がいれば、渦からひっそりと弾き飛ばされることになった。

神の力を持った生き物たちは、山があればどんな他者生物よりも強いと思い、他者生物と戦った。初めのうちは、威勢良く他者生物のいる領土を侵食していくことに成功した。生き物たち自体も多くが死ぬことになったが、それでもかなりの広さに生き物たちは自分たちの影を落とすために、多くの他者生物を殺して支配した。

しかし、結局のところ、生き物たちは、星を五十ばかりも固めた遠く大きな岩に住む生物たちには敵わなかった。岩は山よりも広く、分厚いばかりではなく、生き物たちの上に、大きな岩を突き落としたのだった。二つの岩によって多くの生き物たちが死んだ。

山は戦いの最後に低い音の深い地響きを立てた。その地響きは夏の暑い正午に、山と生き物たちの島の上を流れ、揺らした。その音は今も丸い板になって残っている。円盤を回せれば、いつでもその地響きを繰り返す事ができる。声の時代は終わった。

4.近代2(もしくは戦後)

●飛び石とは、上を行くものの歩幅などの歩く自由を奪う反面、歩くリズムや呼吸などをその世界に誘導する役割を果たす。

時代は変わった。はずだった。それ以来、山は再び、自らは山が山で無くなり、生き物たちと同じであることを意識するようになった。元の通り生き物に戻るために、平らになりたいと思った。地響きは立てた。そのまま、完全な山崩れをおこせばよかった。けれど、それは叶わなかった。責任、の所在と追求をもとにした理由に、裏側があるとすれば、岩による意向が強すぎた。岩に負けた山は、岩に反抗することができなかった。山は動く事が出来ない。

岩は隣の広大な赤い海を恐れていた。世界中が広大な赤い海に呑まれないように、様々な策を弄していた。その一つが、山だった。山が動き、完全になくなってしまうことにより、生き物たちに赤い海の津波が押し寄せて来る事が懸念された。赤い海の脅威は、岩を飲み込んでしまうのではないか、とも考えられていた。それよりは、山に責任を取らせて山が完全になくなるよりも、山を山のままにしておき、山が防波堤になることも可能ではないかと思った。

山には裏側がない。それならば、せめて、登山家が言い放ったような、「そこに山があるから」という実存的な意味のみ、常に同時代的なただの存在とともに成立する言葉に行き着く事を、山自らは望んだ。しかし、それは許されなかった。山は、生き物たちを象徴するという新しい任務を担うことになり、それを務めた。山自ら生き物であるにも関わらず、生き物たちを表した。「そこに生き物たちがいるから」ということを実存的に同時代的な意味で成立させる役割を担う。

晩年、山についての半生が描かれた物語が、多く作られた。円盤をめぐる夏の日の話を、山自ら年末に観たという記録が残されている。出来事の記録、記憶、再現は、過去を未来にたち表せる。

最期、赤い海が蒸発するともに、山はようやく崩れ去った。

5.現代1

●枯山水とは。

先代の山が去った後、次の山は自ら山を均した。かつて投げられたり積み上げられたりした言葉は、それを支える形がなくなり、重さだけを引き継いだその結果、山は平を過ぎて、窪地となった。

窪地は山から引き継いだ、自分に与えられた役割を忠実に理解し、実行しようとした。窪地は、その生き物たち全体をくまなく映し出す事を試みた。窪地は生き物たちの姿を覗かせるための透明な水を自分の体に引き込んだ。先代の山が待ち望んだ平らな世界は、静かな水面を持って実現した。湖だ

変化したのは、山、もしくはすでに窪地だけではなかった。生き物たちも変化した。生き物たちは個は個でなくなり、個が混じり合った流動的な巨大化した塊になっていた。そのうねりはさながら葦原に集まり空を舞いながらねぐらを探し、夜を眠るムクドリの集団の様でもあり、暗闇で金色に輝く蛍の様だった。生き物たちは1つのまとまりになったが、その分大きな広がりを持つ。

多くの生き物たちは、窪地へ赴き、湖を覗くことを望んだ。窪地と湖を眼差し、窪地と湖からの眼差しに癒しを求めた。

窪地も湖もできる限りそれに応える様、生き物たちの姿を自らに映し続ける。窪地と湖には、ただあるものを受け入れ、身を任すことをに長けた性質を元から備えていた。窪地と湖が作る美しい像は、窪地と湖の持つ生き物たちへの尊敬の眼差しで、生き物たちの沢山の目それぞれ一つ一つに映し返した。その上で、窪地と湖はとりわけ、その生き物の弱い部分だけは見逃さない様に、心掛けた。

生き物たちは、反射して映った姿を見る度に、その窪地と湖が自分たちと等しく同じ大きさを持つと認識するはずもなく、窪地と湖が正しく生き物たちを映し出す役割を遂行していることを求めた。

窪地は水の底から、いつも生き物たちを見上げた。窪地の元にやってきた、多くの生き物たちがいた。先代の山と変わらず、窪地は動くことはない。窪地はじっと湖の水を通して、水面に映る像を見た。

それは、生き物たちそのもの以上の、偽善を思わせる程の美しさを孕んでいた。風が吹くと現れる波紋は、それを一層際立たせた。水面が揺れて、歪んでかき消されるのは、実体のない像だった。

そして、映し出され、創られたその像は、生き物たちを映したものでありながら、窪地と湖そのものでも、生き物たちそのものでもない、ただの奇妙な美しい虚像となった。

窪地と湖が生き物たちを見続けることは、窪地と湖の意志であるのか、生き物たちの希望であるのか、もはやわからなくなっていた。そのことに気がついたのは、窪地だった。

あれだけ綿密に線を集めた地図も以前の様な意味はあまりない。そもそも、窪地には高さを誇り、影を落として線を引く力は既になかった。もっとも、ただの、わかりやすい火もまだ多くで燻りながら、一方では今ではもう火だけでは通用しなくなっていた。もともと言葉は権力だった。それは忘れさられた過去だった。進化した言葉は民主主義的な権力がある。独裁であれ、民主主義であれ、権力は歪められた言葉を作る。

地形も意味も変わり続ける。

窪地が再び役割ではなく、意志を持とうとした時、生き物たちは多少と言わずに驚き、慌てるだろう、と窪地は感じた。そもそも、窪地も湖も生き物たちも、透明な水が溢れていると思っていた。しかし、もとの窪地をよく見ると、そこには誰もが考えていた様な、透明で膨大な水はなかった。窪地に引き込まれた湖とは、白いただの石だった。

6.現代2

●九山八海とは、仏教における宇宙観のこと。中心の須弥山の周囲を囲む八つの山と八つの海をさす。

窪地は白い石とともに、生き物たちを眼差すために見上げる時、生き物たちの更に上に輝く太陽や月や星だけを、静かに見ることはできないものかと考える様になった。太陽や星も石である。にも関わらず、いつも砂塵の様な生き物たちを間に挟み、窪地の視界をぼやけさせる。

あるはずのない、鏡を作っていた実存の水とは、生き物たちに流れているのと同じわずかな赤い血だけだった。生き物たちと同じに流れる血は、流れる水であるにも関わらず、堆積して出来た石の様に留まって、窪地の自由を遮る身体を作る。窪地は、窪地であることを強いる赤い水ではなく、現在と未来をつなぐような、流れる水を取り戻す方法を求めた。

島の周りには海がある。海ほどの水があれば、窪地は窪地自らを全て押し流すことが出来るだろうと考えた。しかし、それでは他の生き物たちも押し流されてしまう。何よりも長年の歳月苦労をともにしてきた白い石までも流されて、どこか遠くのはなればなれになることは、あまりにも悲しく、考えられなかった。

窪地は深く考えた。どこまでも深く深く考えながら、沈むことで、あることに気がつく。いつも見上げている意識を、下に向けてみると、窪地の身体の横たわる、更にずっと奥深く下方から音が聴こえてくる。

コロコロコロ

ポコポコ ポコ

ボコ

一度気がつくと、音色は絶え間なく聴こえてくる。地下で土粒子間の間を水が移動する時に立てる音だった。地下の水にかかる空気の圧力で、シャボン玉を膨らませたような水膜ができる。それが弾ける音だった。大きな気泡は低い音。小さな気泡は高い音。水量が増すと音の強さは大きく盛んになる。曝気音と呼ばれるその音を、窪地はしばらくはずっと聴いていた。水の音は窪地の下でずっと鳴り響いていた。雨が降る日があれば、更に水の音は激しく響き、それが落ち着くとまた、穏やかに響く。窪地のはるかもっと下には、膨大な量の透明な水が流れていた。

窪地は地下流水の流れる道を通って移動する決心をした。窪地は暗い穴をひたすらに掘り進んだ。泥岩層にぶつかると、そこにようやく帯水層を迎え、水を得た。

しかし、窪地、今ではもはや、穴になった穴は、帯水層を越えて更に深く穴を掘り進めた。穴は地球の裏側まで辿り着く。穴はそこで初めて、月と星、それだけが目の前を輝いている風景を眺めることが出来た。穴の体を通って地球の裏側にたどり着いた、白い石とともに。

地球の裏側で改めて見てみると、丸い月は空に空いた穴だった。

窪地が穴になったことで、生き物たちの間では議論が巻き起こった。

「いやはや、それよりも、穴が穴になったということは、システムがなくなったということなのか。それとも、そのシステムを担っているはずのモノが無くなくなったのか」

「しかし、穴が穴としてある、ともいえるのではないか。穴がそこにあるいうことは、穴の存在によって、そのシステムはシステムとしてまだ有効なのではないか」

穴の中には風が吹いた。空洞には、反対側の生き物たちの熱心な議論が遠くに響いた。もはやどの生き物たちも穴を訪ねてくることはなかった。しかし、穴は幸せだった。穴は穴ではなく、本来の赤い血の流れる、生き物に戻っていた。たくさんの生き物たちに囲まれていたことを思えば、静かだった。しかし、孤独ではなかった。白い石だった生き物と、共に生きるふたりだけの時間を過ごす幸せがあったからだ。

ふたりは、ただ互いの手を握りあった。

文字数:6717

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