東の風神、西の雷神

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梗 概

東の風神、西の雷神

1600年、「天下分け目の戦い」と呼ばれる関ヶ原の合戦が地上で行われている時、天上でも世紀の大軍おおいくさが行われていた。東の風神、西の雷神が関ヶ原上空で激しくぶつかり合ったその戦は、俗に「天上分け目の戦い」と呼ばれる。しかし、短時間で勝負のついた「天下分け目の戦い」とは異なり、「天上分け目の戦い」は、いつまでも決着がつかずにいた。1603年に江戸幕府が成立し、天下が平定されても、天上では依然争いが続いていた。
 東の風神、西の雷神が互いに技の強さと種類の多さを競い合い、その度に地上は暴風雷雨に悩まされた。或いは、風神が雨雲をつくらなければ、雷神は雷ひとつ鳴らすことができぬのだという事実を思い知らせんがため、長く雨風がもたらされぬこともあった。下界は日照りにも悩まされた。そして1619年、ついに地上で大飢饉が発生する。

1611年より天皇に即位した後水尾天皇は、頭を悩ませていた。歴史上これまでにないほど天皇の権威が失墜し、天下は徳川によって治められたと雖も、民は米の一粒も口に出来ず苦しんでいる。どうにか天皇の威信を回復させつつ、世の安寧のためにできることはないか。

民が飢饉に苦しむ一方で、豪商と呼ばれる一部の商人たちは、大変に羽振りがよかった。
 ある時後水尾天皇は、京都の豪商、角倉了以の遺品の中に、何とも不思議な「俵屋の扇」があったらしいとの噂を聞く。俵屋といえば、扇絵をはじめ、掛け軸や屏風、和歌巻、色紙、本などの制作を手がける京都一の工房である。なんでも、その扇を手に煽ぐと、扇絵に描かれた人物と話ができるということであった。源氏物語の夕顔の巻のほか、幾つかの絵図が揃っているとのこと。
 当時宮廷文化人の社交場となっていた妙光寺に頻繁に出入りしていた後水尾天皇は、そこで俵屋の主人、宗達とも親しく交流があった。ある日後水尾天皇は、宗達にこっそり噂の真偽を確かめてみたのである。
「時に、角倉殿の扇のことだが。扇絵に描かれた人物と話ができるという噂はまことか」
 宗達は少しの間を置いて、「ほんとうの事に御座ります」と答えた。宗達は人を騙して楽しむような趣味の男ではない。後水尾天皇は彼の言葉を信用した。

数日後、後水尾天皇にある名案が浮かんだ。宗達に頼んで例の扇に風神雷神を描いてもらえば、神々と交渉できるのではないか。上手くゆけば、神々を治めたことで天皇の威信は保たれるだろうし、民の生活も安定するだろう。
 宗達は後水尾天皇の依頼を受け、「神々となれば、流石に扇で済ますわけにはゆきませぬ。時間はかかるかもしれませんが、なんとかしてみせましょう」と承諾した。
 そして1634年、ついに〈風神雷神図屏風〉が完成する。この屏風を使えば、風神雷神の住まう天上界へ行けるとのことだった。

すでに天皇を譲位し、院政を敷いていた後水尾上皇は、早速屏風を立て、祈りの文句を唱えた。すると、光の柱が伸びて身体が浮き上がり、気付けば雲の上の天上界にいた。神々の住まう立派な社があり、その傍に二つの工房があった。風神樣がお使いになる風袋を制作する風神工房と、雷神様がお使いになる雷太鼓を制作する雷神工房である。
 後水尾天皇は、二つの工房を見学した後、風神雷神のもとを訪ねた。
 風神曰く、「下界の民の生活に必要な風雨をもたらしているのは、私である。雷神など、騒々しいお飾りでしかない」
 雷神曰く、「我の打ち鳴らす雷こそ、音と光の妙技。この芸術性を理解せずして神を名乗るとは、風神の御門違いも甚だしい」

天上界の状況を悟った後水尾上皇は、地上に戻り、どうにか二神の手を結ばせる方法はないかと思案した。妙光寺にて宗達に相談をもちかけたところ、住職が「真偽の程は分かりませんが」と前置きし、次のようなことを言った。
「東の風神、西の雷神と昔から言われておるそうです。風神は将軍家の、雷神は天皇家の守り神であると、先代から聞いたことが御座います。地上で天皇様と将軍様が手を結び、祈りの儀を執り行えば、天上界も鎮まるやもしれませぬ」

それを聞いた後水尾上皇は、時の将軍家光に協力を要請した。風神雷神を鎮め、天下に安寧をもたらすため、共に天上界へ御百度参りを踏みましょう、と。
 しかし、天皇に指図されたことが気に喰わぬ家光は、すげなくその要請を却下した。事態は暗礁に乗り上げ、そのまま時ばかりが過ぎ、1642年、ついに寛永の大飢饉が起こった。流石の家光も、この状況を放置することはできず、風神雷神への御百度参りを承諾した。
 W字型に置いた屏風の凹みの、風神の描かれている側に将軍家光が、雷神の描かれている側に後水尾上皇が座し、祈りの文句を唱える。二人は共に天上界へ飛び立った。この参拝の儀を、二人はきっかり百度行った。風神雷神和合の願いはついに聞き入れられ、それから長きに渡り、地上には安寧がもたらされたという。

文字数:1993

内容に関するアピール

歴史上最も権威を失った時代の天皇の姿を描き出したいと考え、時代設定を江戸初期にしました。その時天皇は何を考え、どう行動するのか。実際の後水尾天皇は、和歌を通じて権威の回復を図ろうとしたようです。

また、後水尾天皇と交流のあった俵屋宗達の〈風神雷神図屏風〉には、不思議な力を感じます。中国の敦煌莫高窟の第二四九窟に、6世紀に描かれた風神雷神の画があるのですが、それが宗達の屏風の構図とかなり似通っているらしいのです。しかし、宗達がその壁画の存在を知っていた可能性は限りなくゼロに近いと、読んだ本にありました。ならばこんなこともあってもよいかと、ストーリーを考えました。

文字数:282

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東の風神、西の雷神

 

足もとに広がるのは、見渡す限りの黒雲。辺りには一切何もない。戦の開始は、満月がちょうど真南に上がったとき。まだ二時間ほど時間がある。
 誰もいない雲の上を、風神はひとり駆け回った。本人としては身体馴らしのつもりで、あくまで軽く。しかし、端から見れば、それは目にも止まらぬ速さである。なびく黄金の鬣が光の筋となり暗闇に浮かび上がる。地上で走れば一帯に砂埃がたつところ、天上では一面に雲の欠けらが舞う。砂埃と違って氷晶であるそれは、月の光を反射してぼうっと輝き、幻想的な光景をつくり出していた。
 風神の身体は、太陽の下では緑青色に見えるが、月光の下では黒鉄色になり目立たない。岩の如く盛り上がる胸板やふくらはぎ、二の腕、屈強な身体は、まさに黒光りする鋼のようである。戦では、黄金の髪を兜で覆ってしまえば、彼は夜の闇に紛れて自在に動くことができる。
 風神は次第に走る速度をゆるめ、今度は、六尺の堂々たる体躯からは想像出来ないほど軽やかに飛び跳ねた。正面から顔を覗き込めば、黄色い目をかっと見開いて笑っているのが見える。久しぶりの雷神との戦とあれば、気合も準備も十分。自信の漲った笑みである。顔の半分を占める大きな口に、黄金の歯がずらりと並ぶ。
 風神はしばらくして動きを止めると、腰に巻いていた白い布を解いた。縦三十尺、横三十尺。この日のためにつくった下ろし立ての風袋である。この大きな袋を自在に操り、風神は、そよ風突風暴風竜巻と、あらゆる種類の風を起こすことができる。
 彼が風袋を東から西へ大きく一振りすると、ごうっと風が鳴った。それを合図に、キュルキュルキュルキュルというけたたましい鳴き声が東の上空から聞こえ、やがて風鳥の大群が到着した。総勢三千羽。淡黄色の透けるような羽に青い頭をもつ。羽を広げた大きさ三尺。風神の起こす風に乗れば、音速で飛翔することができる。鋭い嘴で雷神のもつ雷太鼓の皮を突き破り、また三千羽で隊列を組んで風を起こせば、風神の風力に加勢することも、風を予測不可能な方向へ変形することもできる。
 さて、満月が真南に掛かろうとする頃には、雷神軍も戦の準備を整えていた。赤いアーチ型の柱に太鼓が幾つもぶら下がった、通称雷太鼓。それが千本、まるで千本鳥居のようにずらりと雲上に並ぶ。その奥に、陶器のように白い肌の雷神が、今にも放電しようと全身をびりびりと鳴らしながら控えている。周囲には狼のような姿形の雷獣が約二千、牙を剥き出しにして吠えている。

慶長五年(1600年)九月十五日、「天下分け目の戦い」と呼ばれる関ヶ原の合戦が地上で行われている時、天上でも世紀の大軍おおいくさが行われていた。風神軍、雷神軍が関ヶ原上空で激しくぶつかり合ったその戦は、俗に「天上分け目の戦い」と呼ばれる。しかし、すべては分厚い雲の上での出来事。下界の者たちは知る由もない。経緯いきさつはこうであった。
 風神雷神による「天上分け目の戦い」が行われることになったそもそものきっかけは、地上の暦でいう元亀二年(1571年)にまで遡る。
 その年の九月十二日、天上の風神界と雷神界の間にたなびく雲の上に、一人の御子が誕生した。神の御世継子である。
 雲上に時々生まれる神の御世継子は、生まれた時点では、どの神になるとも決まっていない。その赤ん坊を一番に取り上げた神の世界へ迎えられる仕来りである。要は早い者勝ちである。神は永遠の命をもつゆえ、どの神界にも歴代の神々が控えているが、体力を要する戦の陣頭指揮を執るのはなるべく若い者の方がよいということで、いずれの神界も御世継子の獲得には熱心である。
 さて、このとき最初に御子を取り上げたのは、風神と雷神。ぴたり同時であった。二神はその場で奪い合いを始め、うっかり手を滑らせて赤子を地上に落としてしまったのである。地上に落ちた神の赤子は、人間の姿になり、人として生きることになる。人として地上でその命を終えてしまえば、その魂はもう神に戻ることはできない。しかし、命ある間に天上へ戻ってくれば、神となり永遠の命を手に入れることができる。だが、その人をどの神として迎え入れるかは、天上で定めてから迎えにいくのが仕来りである。その事で小競り合いを繰り返していた風神雷神であったが、「天上分け目の戦い」は、いよいよその決着をつけようと始められた戦であった。

元亀二年(1571年)九月十二日、地上では織田信長による比叡山焼き討ちが行われた日である。比叡山から南西に三里、下京東山の蓮華王院三十三間堂にて。東の空が白みはじめる暁の頃、本堂内に赤子の泣き声が響き渡った。朝の勤行でお堂に入った住職は、約千体の千手観音像が並ぶその手前に安置された風神雷神像の足元に、一人の赤ん坊を発見する。昨夜住職が本堂の扉に鍵を掛けに行ったときには、赤ん坊などいなかったはずである。以降今まで、堂内に入ることは不可能だったはずである。如何にしてこの赤ん坊はここへ連れて来られたのか。不思議なこともあるもんやと、住職は首を捻りながら、淡青うすあおの一つ身の着物にくるまれた赤子をそっと抱き上げた。元気な男児であった。
 風神雷神は、五穀豊穣をもたらす神と信じられている。住職はその子に「稲」にちなんで「伊年」と名付けた。
 伊年は類い稀なる絵の才に恵まれ、六つのとき、上京小川に見世みせをかまえる「俵屋」という扇屋の主人のところへ養子にもらわれていった。後に伊年は、主人の期待どおり俵屋の後継ぎとなり、「宗達」と名乗るようになる。宗達が二十六で俵屋の主人になると、見世は益々繁盛し、扇絵のみならず掛け軸や屏風、和歌巻、色紙、本などの制作を手がける京一の絵屋に発展していった。

その頃天上では、宗達の地上での活躍ぶりを知った風神雷神が、宗達をどちらの神とするかを巡って、幾度目かの争いを始めていた。争いは次第に大きくなり、ついに「天上分け目の戦い」にまで発展する。しかし、短時間で勝負のついた「天下分け目の戦い」とは異なり、「天上分け目の戦い」は、いつまでも決着がつかずにいた。慶長八年(1603年)に江戸幕府が成立し、天下が平定されても、天上では依然争いが続いた。
 それから経つこと十余年。ついに戦では勝負がつかないことを悟った風神雷神は、別の方法での決着を試みる。風神が幕府の側に、雷神が朝廷の側につき、宗達がどちらの側に取り込まれていくかによって決着をつけることと相成った。宗達の地上での仕事ぶりから、彼が風神雷神のどちらに相応しいのかを判断すべしとて。

 

* * *

 

風神雷神が戦を続けていた十余年、地上は暴風雷雨に悩まされた。慶長七年(1602年)から慶長十九年(1614年)にかけて、六度もの大洪水に見舞われ、とりわけ尾張、美濃、伊勢、山城、近江の地域の被害は甚大であった。続く元和年間には、陸奥での度重なる凶作により、飢饉が発生した。
 慶長十六年(1611年)より天皇に即位した後水尾天皇は、度重なる水害や凶作に心を痛めながらも、目下自らの身の振り方に頭を悩ませていた。
 慶長二十年(1615年)五月、徳川軍に攻め入られ燃え盛る大坂城内で、淀殿・秀頼母子が自害。ついに豊臣家は滅亡する。その直後のことであった。二代目将軍徳川秀忠および前将軍家康、前関白二条昭実の連署で、禁中並公家諸法度が公布された。天子の修めるべきものの第一は学問である、云々。要は幕府から朝廷に対する、以後政治への口出し無用との宣告であった。怒髪天を衝く勢いの後水尾天皇だったが、表向きは平静を装う。歴史上これまでにないほど天皇の権威が失墜した今こそ、自らの一挙手一投足が今後の朝廷の盛衰に大きな影響を与えると考えた後水尾天皇は、長期的な威信回復の策をめぐらし、眈眈とその機を狙っていた。
 そんな折のことである。元和五年(1619年)二月、落雷により養源院が焼失した。養源院は、三十三間堂の東向かいに建つ浅井家の菩提寺、豊臣・徳川そして天皇の政略が複雑に絡んだ寺である。もともとは文禄三年(1594年)、秀吉の側室淀殿の父浅井長政の二十一回忌の際に、淀殿たっての願いで秀吉が建立した。慶長二十年(1615年)に豊臣家が滅亡すると、養源院は、浅井家の三女であり徳川秀忠の正室であるお江の手に渡る。元和二年(1616年)には、お江が養源院にて淀殿と秀頼の一回忌を執り行っている。徳川にとっては厄介払いしたい寺の一つである。そんな矢先の焼失であった。
 後水尾天皇は、徳川が養源院の再建に手を貸すことはなかろうと踏んだ。秀忠とお江の五女和子が女御にょうごとして入内することが決まっていたこともあり、後水尾天皇は、ここで養源院再建に噛むことが或いは将来への布石となるやもしれぬと考え、慎重に動き始めていた。しかし、事はそう真っ直ぐには進んだ訳ではない。

元和八年(1622年)、桜の散る頃であった。数日前に醍醐寺の桜会さくらえを終えたばかりである。今年は桜会用の扇の制作に加え、期間中醍醐寺に臨時に設営される舞楽堂に飾るための「舞楽図屏風」の受注制作もあり、何時にも増して大童おおわらわだった俵屋も、平生の調子に戻ったところであった。
 宗達は見世の奥の作業場で、見世先で常連のお客が番頭の平八と冗談を言い合うのを聞くともなく聞きながら、俵屋の絵職人たちが描いた扇絵の中から一級品として売り出すものを選別し、絵の手直しを行っていた。腰窓の出格子から差し込む光がふっと眠気を誘う、うららかな午後だった。
 すると突然、見世先の笑い声が止んだ。宗達を含め作業場にいた六人の職人たちは、急な静寂にはっとして、絵筆を止めた。少しして、男にしては甲高い声で何か言うのが聞こえ、続いて平八が「はあ、奥に」と答えるのが聞こえた。見世の畳の上を歩く足音が、すさりすさりと近づいてくる。作業場に現れたのは、若草色の直衣のうし指貫さしぬきの袴、黒い立烏帽子を被ったお公家さんであった。宗達がぽかんと口を開けていると、彼は
「あんたが、俵屋宗達はんどすか?」
 と言って、宗達の作業台の前に腰を下ろした。
——なんでこないなお方が訪ねてきたんやろう?
 宗達が訝しげに思いながら返事をすると、
「なんも怪しいものやあらしまへん。中立売門なかだちうりもんの烏丸の屋敷に住んでる者どす。光広言います」
 と、長い睫毛を瞬かせて言う。中立売門の烏丸家と言えば、洛中で知らぬ者はいない十三名家の一つである。
——なんでこないなお方が?
 宗達は益々意味がわからなくなった。
「俵屋はんはきょうびえらい評判どすなぁ。そう言えば、角倉はんのとこの高瀬川で、しばらく前にやった扇面流し。あの時も、大変な噂になってましたなぁ」
 高瀬川で扇面流しをやったのは、もう八年も昔のことである。
——なんで今更そないな話をするんやろう?
 宗達には、光広の用件がまったく読めなかった。だが、久しぶりに扇面流しのことを言われ、当時のことをあれこれと思い出しもした。もう二度と見ることはできないであろう、あの光景。
 高瀬川は、またの名を角倉川という。慶長十九年(1614年)、角倉了以・素庵親子が開削した、伏見–二条間を流れる人工運河である。二条大橋から鴨川の水を引き入れ、伏見から宇治川へと注ぐ。主に物資輸送に利用され、今では百艘を超える高瀬舟が常時行き交っている。
 高瀬川が開通した折に、宗達と素庵で企画したのが「扇面流し」であった。三百の扇を高瀬川の上流から流したのである。川面に浮かぶ色とりどりの扇の一つ一つには、源氏物語や伊勢物語などの有名な場面が描かれており、人々は高瀬川沿いに歩きながら、ゆるゆると扇の流れゆく眺めを楽しみ、またそこに描かれた物語を読み合っては、お喋りに興じた。一日限りの、幻の祭りであった。
 宗達と素庵は幼馴染みで、これまでに幾度となく仕事も一緒にやって来た。慶長十三年(1608年)に素庵が刊行した嵯峨本の装丁を手がけたのも宗達である。高瀬川の開通に際して、素庵から宗達に、もう先の長くないであろう父了以へ何か贈り物をしたいとの相談があり、あれこれ考えた挙句、贈り物ではなく「扇面流し」の企画を思いついた。了以は大いに喜んでくれ、しかし、それから間もなく年の変わる前に亡くなった。
「宗達はんも覚えてはるやろ? あの頃、毎年のように洪水が起こって大変どしたよなぁ」
「へえ、そうどしたな」
 依然として光広の話の流れはまったく読めなかったが、宗達は、当時素庵が、度重なる洪水で運河の開削工事がなかなか進まないとぼやいていたことを思い出した。だがお陰で、氾濫しにくい構造を徹底的に追求することができ、結果的にはよかったのかもしれない、とも言っていた。
「せやけど、扇面流しがあってから、洪水がぴたっと止んだんどす。以来いっぺんも起こってまへん。それどう思う?」
「どう思う? 言われましても……」
——そないなのは単なる偶然としか思えまへんが。
 口元に薄笑いを浮かべ、執拗に瞬きをくり返す光広の顔を見て、このお公家はん、大丈夫やろかと、宗達は少し不安に思った。
「それはそうと、今日訪ねて来たのは、あんたに頼みたいことがあったからや」
 光広は供された茶碗に手を伸ばし、お茶をひとくち口に含んでから、ゆっくりと置いた。
「東山の養源院、あそこの障壁画を描いてほしい。さるやんごとなきお方からの頼みどす。悪い話とは思いまへんが、いかがでっしゃろか?」
 三年前に焼けた養源院は、昨年に徳川の手で再建された。後水尾天皇の思惑とは異なり、徳川が再建の話を持ちかけたという。その本堂の襖絵・杉戸絵を描いてくれないかという依頼であった。宗達は、それは徳川お抱えの狩野派の絵師がやるべき仕事だと言い、断った。絵師と絵屋は違う。絵師は、一点物の絵を描く。絵屋は、すでにある絵や図柄を組み合わせて売り物に仕立てる。俵屋は絵屋である。烏丸光広ほどのお方がそんなことを知らぬはずはないと、宗達が怪訝な目を向けると、
「もっとも、はじめはそないしたんやろうけど。狩野派の絵師はんも、それから土佐派の絵師はんも、できひん言うよって」
「なんででっしゃろか」
「さあ? 忙しいんとちゃいますか」
 光広はとぼけたが、宗達にも見当はついた。いま京の町では、養源院にまつわる怪談が方々でささやかれていたのである。
 徳川が養源院再建の話をもちかけたとき、それには条件があったという。伏見城の血染めの板を天井に使うこと。慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦と言われる伏見城の戦いで、徳川の家臣鳥居元忠ら以下八百名が討ち死にした。夏の盛りに、腐乱する夥しい数の遺骸が放置されていた伏見城の板の間には、その後何度洗い清めても、くっきりと人型の血痕が浮かび上がってくるという奇怪な現象が起こっていた。徳川のために死んだ家臣たちの魂を鎮めんがため、その血染めの板を養源院の天井に使い、供養してほしい。そのような幕府の意向のもと、養源院は再建された。
 しかし、今や養源院に近づく者は誰もいない。日暮れて養源院のそばを通ると、恐ろしい呻き声が聞こえる、甲冑姿の武士たちが逆さ姿で天井を歩くのが見える、云々。様々な噂が流れていた。
「どうでっしゃろか。よう考えて返事をおくれやす」
 光広は「表に牛車ぎっしゃを待たせてあるよって、ほなこれで」と言い、ひらりと立ち上がった。それから見世先まで見送りに出た宗達を振り返って、光広は付け加えた。
「そうそう、この話は、天皇はん直々のご指名どすよって」
 今どき珍しい牛車が俵屋の前に止まっているというので、見世先にはすごい数の人が集まっていた。一体何事か、何の話かと、宗達は質問攻めにされ、あっという間に噂は広まり、ここまで大事おおごとになってしまっては断れない、光広にしてやられたな、と宗達が気づくのは、時間の問題であった。

その後宗達は、襖絵と杉戸絵の制作のため、度々養源院を訪れるようになった。宗達が寺を訪れるのはいつも日中だったが、噂どおりに、呻き声を耳にしたり、甲冑の擦れる音を聞いたり、何かの気配を感じたりすることもあった。しかし不思議と、宗達はそれを恐ろしいとは思わなかった。
 宗達は絵を描くとき、いつも様々な声なき声や、音なき音を聞く。例えば、慶長七年(1602年)に福島正則公の命で安芸国へ赴き、平家納経願文の見返し図の修繕にあたった際もそうだった。修繕とは言うものの、完全に消えてしまった絵を蘇らせるのが、宗達に課せられた使命だった。宗達は、四百年前の平安時代に溢れていた声や音に耳を澄ませた。厳島神社の鹿が草を喰む音。平清盛がいた六波羅の町の人々の声。聞こえてくる音に耳を澄ませば、自ずと描くべき絵は見えた。そこに描かれるべきはこれ以外にあり得ないという絵が浮かんでくる。後はただ、見えた絵を描くだけである。そこに必要とされている絵を見つけることこそ、自分のやるべきことだと、宗達は常々思っていた。
 養源院とて同じであった。そこにはたくさんの声が溢れている。その声に耳を澄ます。彼らが何を求めているのか。何に苦しんでいるのか。宗達は寺へ何度も通い、じっと耳を傾けた。やがて描くべき絵は見えた。普賢菩薩の乗る白象、文殊菩薩の乗る獅子。そして、たくさんの大きな松や岩。彼らには負傷した身体を運ぶ乗り物がなかった。身体を休める場所も必要だった。彼らはそれらを欲していた。だから宗達は、それらを描いた。
 宗達の障壁画が完成して以来、例の噂はぴたりと止んだ。ぼちぼち人が訪れるようになり、養源院は徐々に活気を取り戻していった。

宗達は養源院へ赴く度、斜め向かいの三十三間堂にも寄った。六つの頃まで育った場所である。
——あんたは、風神雷神像の前で泣いとった
 と、住職から何度も聞かされていたせいだろうか。宗達が手を合わせるのは、いつも風神雷神像の前であった。

養源院の障壁画を皮切りに、宗達はその後、烏丸光広の紹介で度々仕事を受けた。では宗達が朝廷の側に取り込まれていったのかと言えば、そうではない。それは烏丸光広という人物の特殊性に因る。彼は、正規の武家伝奏とは別に、裏で公武間の調整役を担っていた人物である。彼が宗達にもってくる仕事は、先の養源院のように、朝廷の側とも幕府の側とも言えないものが大半であった。つまり、天上での風神雷神の争いの決着は、ここでもつけることができなかったのである。

 

* * *

 

寛永四年(1627年)、三代将軍家光から後水尾天皇に対する嫌がらせの事件が、立て続けに起こった。七月の紫衣事件と、九月の春日局かすがのつぼね参内事件である。紫衣事件とは、元和元年(1615年)以降に天皇から下された、大徳寺・妙心寺などの高僧への紫衣着用の勅許を、幕府が無効とした事件である。つづく春日局参内事件とは、家光の乳母であるお福が、家光の病気平癒の祈願のために伊勢神宮に参った際に、ついでに御所に参内しようと思い立ち、しかし無位無官のためにその資格がなかった彼女は、急遽遠縁の公卿三条西家を頼り、三条西実条との猷妹の縁組をし、公卿の家の娘として参内する手はずを整えて、後水尾天皇や中宮和子に拝謁、従三位の位階と春日局の局名、天酌御盃を賜ったという事件である。いずれも、天皇の存在意義を蹂躙する屈辱的な嫌がらせであった。
 徳川幕府から度々受ける侮辱にいよいよ耐えられなくなった後水尾天皇は、ここで二つの企てを画策する。一つは、寛永六年(1629年)十一月八日に突如行われた天皇の譲位表明である。通常天皇が譲位を表明する際には、事前に公卿や江戸幕府、京都所司代に話を通しておくものである。それを完全に秘密裡に進め、何の前触れもなく突然公表した。これは、徳川の嫌がらせに対する報復行為である。
 これに対し、もう一つの策は、天皇の威信回復に向けての長期的な視野に立った戦略であった。以前より着々と布石を打っておいたもので、それをいよいよ実行に移す時がきたと踏んだのである。いくら我が物顔の幕府と雖も絶対に抗えないものがこの世に一つある。それは天災である。天災は人知の及ばぬ現象であり、時に幕府の求心力を危うくするほどの甚大な被害をもたらす。天災に見舞われたとき、もしも天皇の力でその窮状を救うことができたなら、その一点を以て将軍は決して天皇を蔑ろにできないはずである。
 さて、そのようなことは如何にして可能か。つまりは、天皇が風神雷神を司ることである。五穀豊穣をもたらすのが彼らなら、天災をもたらすのもまた彼らだ。天皇が風神雷神を鎮める力を持てばそれは可能になるが、では、それはどのように実行可能か。
 そこで天皇が目を付けたのが、俵屋宗達であった。彼には人知では推し量れない特別な能力がある。それが何かは分からない、しかし彼には何かがある。そのことを嗅ぎ当てたのは、他でもない、天皇自身であった。以来烏丸光広に命じて、彼の観察を続けた。いつでも頼み事ができるよう、光広が上手く関係を築いてくれていた。
 寛永六年(1629年)、宗達は、らい病に罹って嵯峨野に隠居した角倉素庵に代わって『本朝文粋』を刊行した。その功績に対し、後水尾天皇は宗達に「法橋ほっきょう」の位を授ける。この位があることによって、宗達は以降禁中への立ち入りを許される。後水尾天皇は、禁中門外不出の「西行法師行状絵詞」の模本作成を依頼するため、宗達を御所に呼び寄せた。これは勿論、懐柔の策である。堂上した宗達に、いよいよ天皇は、本命の依頼を直々行ったのである。

風神雷神を鎮めるための絵を描いてほしい——これが天皇から宗達への命であった。どこに何を描くかは宗達の裁量に任されていた。風神雷神そのものを描くことに決めたのも、その絵を屏風に描くことを決めたのも、宗達である。「風をふせぐ」ための屏風に、風を起こす風神の絵を描くとは、一体どういうつもりなのか。宗達には、そういう絵が見えたから、としか言いようがないのだが。
 さて、一方。風神雷神の肖像画を宗達が描くと知った風神雷神は、次なる勝負の方法を考え出していた。それは、宗達の描く肖像画のどちらの出来映えが良いかで勝負しようというものだった。
 今度こそ勝負をつけようと必死の風神雷神は、絵を描く宗達の前に度々姿を現した。そして彼の描く絵に口出しをする。そないな貧弱な身体はしてへん、この大胸筋を見いや! うちん角は二本や、一本ちゃう! 牙があるのんはうちだけや、あいつにはあらへん! 腕はもっと逞しゅう! 髪はもっと輝かしゅう! 特大の雷太鼓を描きなはれ! 服装はもっと煌びやかな方がええーな! 等等等。あることないこと、喧しいことこの上ない。どんどん現実とかけ離れ、派手で悪趣味な怖い形相の風神雷神図に仕上がってゆく屏風の前で、宗達はついに「やかましい! 二度と出てくるな!」と一喝した。
 宗達は、今までに描いた絵はすべて反故にして、再びまっさらな屏風に向かった。心を静かにし、天上の音を聞く。風雨雷鳴。けたたましい鳥や獣の鳴き声に混じって、怒号が聞こえる。これが何時の時代の音なのかは、宗達には分からない。ただじっと耳を澄ます。次第に焦点が合い、聞くべき時代の聞くべき音が聞こえてくるはずだ。しばらく音の中をうろうろしていると、辺りが急に静かになった。眩いほどの光が射している。それから突如、歓声があがった。その瞬間、宗達には見えた。風神と雷神が、左右から満面の笑みで駆けつけて来る絵が。二人とも、何か同じものを見つめている。二人が目指す先にあるものは何か。宗達には、残念ながらそこまでは見えなかった。しかし、描くべき絵は分かった。それは彼らに描かされた厳めしい形相とは正反対の、嬉しそうに笑いながら駆け寄る風神雷神の姿であった。
 寛永十年(1633年)、徳川家光が鎖国令を出したその年に、〈風神雷神図屏風〉はついに完成する。

すでに天皇を譲位し院政を敷いていた後水尾上皇は、宗達から納められた屏風を早速立て、その前に坐した。ある位置に坐って見上げると、風神雷神双方と目が合うように設計されている。
——うちを見て風神雷神はんが喜んではるとは、何ともまあ、不思議な気もちになることよ。
 後水尾上皇はひとり呟き、それから屏風の前で祈りの儀を執り行った。
 一通りの儀式を終え、再び風神雷神と目を合わせると、後水尾上皇は何だか身体が軽くなったような気がした。それから急に眩暈がして、次に目を開けたときには、雲の上にいた。目の前には朱塗りの大きな鳥居が聳え、その向こうに同じく朱塗りの社殿がでんと建っている。方々で稲妻が光り、風がごうごうと吹き荒れる中、しかし数え切れぬほどの風神雷神たちが楽しそうに行き交い、大変な賑わいぶりであった。大小様々の雷太鼓や風袋を売っている見世も出ていた。
 後水尾上皇が一礼をして鳥居をくぐると、風神雷神たちが物珍しそうに上皇に話しかけた。
「地上から来はったんやろう? 遠いとこよういらっしゃった」
「今はちょうど一年にいっぺんの嵐会あらしえの最中どすえ。ええ時に来たなぁ」
「あっちの神楽殿も見に行ったらええで」
 雷神の指差す方を見ると、ちょうど目の前に稲妻が走った。社殿の左後方に、黄金の神楽殿が見える。そこでは風神雷神の舞が見られるという。
 神楽殿の前はすごい人集り、いや、神集りだったが、舞台は高い位置に設けられているため、鑑賞に支障はなかった。人の舞う神楽とは異なり、風神雷神の舞は随分と激しい動きで、まるで曲芸を見ているようだった。しばらくの間、風神雷神の動きに気を取られていた後水尾上皇だったが、ふと舞台の奥に目を遣ると、そこには風神雷神図屏風があった。なんと宗達の風神雷神図屏風にそっくりの絵である。後水尾上皇は呆然となった。
——もしかして、宗達はんはこれを見たことがあるんか?
 後水尾上皇が近くにいた風神雷神に屏風のことを尋ねると、「ああ、あれは」と言って、経緯を語ってくれた。
 あの絵に描かれているのは、雲上に御世継子が生まれ、風神も雷神もまだ喜びに満ちていた瞬間なのだという。あの直後から、風神雷神の間には争いが絶えなくなった。関係は悪化する一方で、依然決着は付かない。普段風神雷神たちは別々に暮らしており、風神は風神界に、雷神は雷神界に住んでいるのだが、年に一度嵐会のときだけは、全風神雷神が一堂に会し、お祭り騒ぎをするのだという。この時だけは平生の諍いのことも忘れて、仲良くやることになっているのだが……と話している途中、突然近くで大声がした。
「あんたは地上の上皇はんやな」
 大声の主である雷神が、後水尾上皇の方へと寄ってくる。
「上皇はんが宗達はんに屏風絵を描かせて、上皇はんが天上に来たちゅうことは、宗達はんは雷神ちゅうことやないか」
 と、彼が後水尾上皇には何やら意味の分からぬことを言うと、周囲の雷神たちも「そうやそうや」と加勢した。それに対して風神は、
「家光はんは地上を離れられへんねん。民の生活を守っているよって。我々風神とおんなじや。下界の民の生活に必要な風雨をもたらしてるのんは、風神どす。雷神なんて、騒々しいお飾りでしかあらへん」
 と怒鳴り返すと、
「雷神の打ち鳴らす雷こそ、音と光の妙技。この芸術性を理解せずして神を名乗るとは、風神の御門違いも甚だしい」
 と、今度は雷神が負けじと言い返す。あっという間に辺りは揉み合い圧し合いの大騒ぎになった。
 後水尾上皇が風神雷神たちの言い争いから理解したのは、風神と雷神の間でどうやら宗達の取り合いをしているらしいということ、風神が将軍の側に、雷神が天皇の側についているらしいということ。このまま放っておけば、何かの拍子に再び戦が始まるのは目に見えている。そうすれば、今度はどれだけの水害、凶作に見舞われるか分かったものではない。風神雷神を鎮めるためには、風神雷神を和解させる必要があることを、後水尾上皇は天上界にて悟った。そのためには、地上で天皇と将軍が手を結ぶ必要があることも。そうしない限り、風神雷神和合の道はないのである。

 

* * *

 

寛永十一年(1634年)、家光上洛の折、後水尾上皇は家光に天上界の事情を話し、風神雷神の和合に力を貸してくれるよう頼んだ。風神雷神を鎮め天下に安寧をもたらせんがため、後水尾上皇と将軍家光が手を結び、共に天上界へ御百度参りを踏みましょう、と。
 しかし、後水尾上皇に指図されたことが気に喰わぬ家光は、すげなくその要請を却下した。事態は暗礁に乗り上げ、そのまま時ばかりが過ぎていった。

やがて宗達は、病床に臥せるようになった。宗達の寿命が尽きるまで、もうあまり時間が残されていないことを悟った風神雷神は、ついに最終手段に出ることを決めた。風神雷神が宗達のもとを訪れ、宗達自身にどちらの神になりたいかを決めてもらうのである。
 ある日風神雷神は、宗達の枕元に立ち、彼に告げた。
「あんたは、神の御世継子として雲上に生まれた。うっかり天上から落ちてもうたせいで、地上で人として生きることになったけど、命尽きる前に天上に戻れば、あんたは神となり、永遠の命を手にできる。命尽きれば、もう天上へは戻れまへん。あんたは、風神と雷神、どちらになりとおすか?」
 宗達は、生まれ故郷の風神雷神が、死ぬ前にこうやって迎えに来てくれたことを嬉しく思った。しかし、彼には風神となる気も、雷神となる気も起こらなかった。生まれてから今まで、人として生きてきたのである。このまま人として一生を終えたい。宗達の意志は固く、風神雷神は我が子の意志を尊重しようと、肩を落としつつも素直に天上へ帰っていった。

それから間もなく、宗達は亡くなった。寛永十九年(1642年)春のことであった。風神雷神は悲しみのあまり涙を流した。天上の戦のせいではなく、涙のせいで、地上では大飢饉が起こった。長きに渡る異常気象で凶作がつづき、米の値段が約三倍に跳ね上がり、農村はもとより、江戸・大坂・京都の三都でも、乞食や餓死者が大量発生、全国的に混乱状態に陥った。その対応に追われた家光は、流石にこの状況を放置することはできず、以前に後水尾上皇から話のあった風神雷神への御百度参りを、ついに承諾したのである。
 W字型に置いた屏風の凹みの、風神の描かれている側に将軍家光が、雷神の描かれている側に後水尾上皇が座し、祈りの文句を唱える。二人は共に天上界へ飛び立った。この参拝の儀を、二人はきっかり百度行った。風神雷神和合の願いはついに聞き入れられ、それから長きに渡り、地上には安寧がもたらされたという。

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