ミチュエーリのカノン

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ミチュエーリのカノン

うわぁ、すてき、すてき。
 あたり一面、緑の世界。ずーっと向こうの森まで、草原が続いている。といっても、生えているのは芝生ではなくって、コケとかシダのように背の短い木。途中、緑のじゅうたんが一度切れて、きらきらと川の水が光っている。近づいてみると、水は透明で、その底に細かい石や砂がさらさら転がっていくのが見える。
 草原の周りには大きな深い森。背の高い木が密集している。太くて長い幹がすらっと伸びて、てっぺんにはショートカットした頭みたいにぼさっと葉っぱが茂っている。森の奥が見えないのは、葉っぱで隠れているのではなくって、たくさんの幹が生えているから。すごい数の幹。そして、それぞれの幹にまとわりつくような白い靄。森のてっぺんにずらっと並ぶ緑のショートヘアが、風に吹かれてさらさらなびいている。
 森の入り口には、中ぐらいの背丈のシダの木が、やはり何重にも大きな葉を重ねて、足元を隠していた。
 カノンは真っ青な空を見上げた。まぶしくて、小さな手でおでこに庇を作った。雲一つ見えない空に輝く太陽は、心なしか大きく見える。
 と、大きな影が頭上を横切った。見上げると、巨大なトンボのような虫が頭上をなめるように飛んでいく。メタリックな体節が動きに合わせて虹色に輝く。バリバリとも何とも形容のしがたい羽音を残して、目の前の森に吸い込まれるように消えた。
 うわ~~~! すっげー! なに、今のやつ!
 リュックサックを背負った子どもたちが、一斉に走り出す。カリンも負けじとダッシュした。後ろから、先生の声が聞こえる。
「待ちなさーい! 走らない! 騒がない!」
 体中にまとわりつく空気が暖かく、重い。水の中を走ってるみたい。全身から汗が流れるのを感じながら、でも、なんて体が軽いの! どこまでも走っていけそう。気が付くと誰よりも先に、森から10メートルぐらい離れたこんもりとした木の影に走り込んでいた。後ろを振り返ると、葉っぱの向こうに黄色い帽子が見え隠れしている。よかった。みんな一緒にきたんだ。
 外から、先生の呼ぶ声が聞こえる。先生は虫が大っ嫌い。ここまで入ってこれないね。みんなでくすくすと笑った。
 大丈夫。森に入ってはいけない、と言われたことは忘れてないから。ほら、森までまだ少しあるでしょ。ここで虫が出てくるまで、待とうよ。誰からともなくそんな提案があった。息をひそめてじっと待つ。
 じっと待って、……出た! やっと黒いのが一匹。……なんか、小さかったね。
 またしばらくあって、あっ! 向こうに一匹……。遠くて見えない。走るよ! と、みんなで走るが、途中で飛んで行ってしまった。
 なかなか、出てこないね。
 振り返ると、先生は大きな椰子の木みたいなシダの下で、座って汗を拭いている。虫なんてどうでもいいの、と口にしていた数人が、そのとなりで早くもお弁当を広げていた。
 こんなことしてたら、あっという間に遠足が終わっちゃう。もっとたくさん、簡単にみられる方法はないかな? カリンは汗だくの顔をぬぐおうともせず、考えた。
 ふと、隣にいたアキラと目があった。一緒に走ったのに、全く汗もかかず、涼しい顔をしている。アキラはいつもこう。カリンがあーでもないこーでもないと四苦八苦しているそばで、全く平気な顔をしている。そして、さらっと上手に解決してしまうのだ。それも、カリンが、もしかして、と思いついた瞬間に。別に悪い子でもいじわるでもないんだけど、負けん気の強いカリンは、どうしても許せない。仲よくしなさいねって言われても、なんとなく張り合ってしまう。
 アキラの目が、ぼくがいい方法教えてあげようか、とカリンに言っているように見えた。
 むかっ。言われなくったってわかってるわよ。どうにかすればいいんでしょ。どうにか……。あ、そうだ!
「エサをまけばいいのよ!」
 カリンは立ち上がった。周りの子たちの動きが、ピタッと止まったのが目に入った。こういう時のためにっと……リュックの底を探る。手に何かがあたった。つかんで引っ張りだすと、白い小さなキューブの入った袋だった。これこれ。カリンは一人にんまりと笑う。そして、中から粒をいくつか取り出して右手で握り、大きく振りかぶって――。
「やめなさーい!!!」
 先生の叫び声が、後ろの方から聞こえた。その時には、白いキューブの固まりはカリンの手を離れて、高くまあるい放物線を描いていた。頂点を過ぎて、そのまま、森の入り口、子どもの背丈ほどのシダの茂みの手前に、バラバラ、と落ちた。カリンはかたずをのんで見守る。子どもたちも先生も、誰一人として声をあげない。
 一、二、三、……、何も起こらなかった。へへへ、やっぱ、だめだったか、と頭をかきながらゆっくり後ろを振り向いたカノンは、大きく口をあけたまま全く動かない子どもたちと、その後ろに立ち、血の気の引いた顔をした先生に気づいた。
「みんな、どうしたの?」
 カノンの声を合図に、それぞれが悲鳴をあげながら、一目散に逃げ出した。なに? どうしたの? ぼうっとしているカノンの腕を、アキラが強引に引っ張った。
「逃げろ、カノン!」
「え?」
 引きずられるように走りながら、横目で後ろの森を見ると……。シダの大木ががさがさと揺れ、中から大量の黒い虫が(こんなにいるのか! と思うぐらい)飛び出してきていた。今まで立っていた辺りは、あっという間に文字どおり「黒」山の「虫」だかりとなった。

★  ★  ★

≪介入実験1終了≫とモニターに文字が現れる。
 モニターの左上には『仮想世界β』と小さく記載されている。
 原始太陽系から惑星が形成され、第三惑星『地球』に生命が発生、知的生命が生まれ独自の文明を築いた。その仮想生態系に実験的介入を開始したのは、石炭紀。
 巨大なシダ植物が密集して生い茂り、巨大な森を形成していた。大気中の酸素濃度は高く、生息する昆虫は大型化が進んでいる。初めて空を飛ぶ昆虫も出現した。
 その条件下で、本来の環境にはない条件を付加した。
 時空間移動が可能になった未来から、大型の昆虫を目当てに、好奇心旺盛な子どもたちたちがタイムエクスカーション――時間を越えた遠足――でひっきりなしにやってくる。サファリパーク気分で。そして、事故を装って介入実験を行った。
 カリンの投げた小さなキューブ。未来の地球で開発された、生存力・繁殖力を極限まで高める超高栄養価のブースターフード。人類の反映の影で、そして度重なる厄災で、多くの生物種が絶滅の危機に瀕した。生命の多様性を維持するため開発され、数々の絶滅危惧種を救ってきた、奇跡のサプリメントだった。
 アキラは画面下のスケールを操作して、一気に経過時間を進めた。
 特定生物に有利な栄養状態を提供した結果、当該生物は大繁栄し、その影響は地球時間でAD1900年ごろまで続いた。介入がない場合の歴史とこの時点で合流する。それを確認し、アキラは満足げに微笑んだ。
 未来予測研究所。国家をあげて未来予測に取り組む、一大研究拠点である。様々なパラメータを駆使した数多くの仮想世界を構築し、可能性のある数々のリスクを投入、近未来の予測をしている。アキラは仮想世界構築にかけては、右に出るものがいない優秀な研究者である。研究所で使用されている仮想世界のほぼすべてにアキラの手が入っているといっても過言ではない。
 次の実験の準備を始める前に、アキラは上司であるゼルグラード教授へ一報を入れた。仮想世界βにおいて生態系の可塑性と恒常性が確認できた。仮想世界は使い捨てではなく、何度も実験に使うことが可能。したがって、仮想世界βを次の介入試験に使用することは妥当である。
 そして、続けた。
 仮想世界βは、現在AD二三世紀。人類を含む地球上の生物は順調に進化し、気候変動と人類過多の影響で若干生物種を減じてはいるが、総じて状況は許容可能である。次の介入実験2(疫学研究)に進む。介入には、異なるアルゴリズムとパラメータで構築した仮想生命を使用する。当該仮想生命は、介入実験1において、その特性が確認されている。

★  ★  ★

異星間コンタミネーション疫学研究所の附属図書館は、見晴のよい小高い丘の上に立つ。南にはかつて軍港として栄えた港を見下ろしていて、光る海には今でも貨物船や客船に混じって軍艦や潜水艦の往来がある。
 大きな窓に近いテーブルには、午後の日差しが木漏れ日となって差し込んでいた。目の前に座る同期の新任検疫官は、テーブルに両ひじをつき、ほっそりとしたあごの前で手を組んでいる。まっすぐな髪は、光のぐあいで茶色にもオレンジ色にも映る。その下から覗く、強い意志を宿している黒い瞳。その左目の下にある泣きぼくろが、かろうじて愛嬌を添えていた。
「だから、新米のくせに(なぜか棘がある)、時空間移動監視課の特捜官に抜擢されたキミに、一生のお願いなの!」
 新米の自分に聞ける「一生のお願い」はない。ピリオド。立ち上がろうとして、ふと聞き捨てならない言葉が耳に入った。
「ミチュエーリ病原体が初めて見つかった時代に行きたい、だって?」
 アキラはゆっくりと繰り返した。早急に反応すると相手の思うつぼ。今までの長い経験がブレーキをかける。
 学校では常に1、2を争う成績の二人だったから、超エリートの集まる時空間移動監視課と時空間コンタミネーション防疫課への配属は誰も疑問を抱かない。カノンの時空間コンタミネーション防疫課への配属は、すでに学生時代から切望されていた。彼女の強みは、その際限のない好奇心と突拍子もない行動力だ。業務の大半を人工知能がこなしている疫学研究や防疫の分野で、いま必要とされているのはリスクを冒すこと。前例にとらわれない発想をすること。AIは、こと医療に関する分野では前例主義を貫いていて、リスクがあると判断すれば回避に向けて舵を取るし、そもそも前例がなければそれまでだ。しかし、それでは新しい分野や未知の事件に対して、対応が不十分となる恐れがある。つまり、カノンのように枠からはみ出すヒトが必要なのだ。
 対して、アキラの性格は生真面目でむしろ頑固でさえある。感情もめったに表には出さない。ハチャメチャな幼馴染の後ろでいつも静観し、きわどいところに切り込んで解決を図る。それが、アキラの立ち位置だった。そう考えれば、アキラの時空間移動監視課への配属もまた、十分に予想されていた。
 しかし、幼馴染という関係性が二人の精神的垣根を低くさせている。特にカノンにとってアキラはただの幼馴染以外の何物でもない。頼みごとがあれば、カノンはいつもアキラを呼びつけるのだ。最先端科学を結集させたが故に、遵守すべき厳しい規則や守秘義務が課される最高機密情報があるというのに。
 OJTが終わり、二人が配属先でやっと戦力とみなされるようになってきた五月。今回のカノンからの呼び出しである。
 ミチュエーリ症候群の最初の発症時期まで、時間遡行調査をしたい――。つまり、時間をさかのぼって、最初に感染が成立した原因を特定したい。そうすれば、完全制圧に道ができるのよ。それができるのは私だけなのに、過去に行って調査ができないばっかりに、中途半端な結果しか出せないの。国家全体の、いいえ、地球人類全体の損失なんだから。カノンはそういう。
ミチュエーリ症候群とは、人類が初めて遭遇した太陽系外生命体ミチュエーリが、地球上の生物に“感染”することによって発症した症状の総称である。便宜上ミチュエーリ病原体と呼ばれたそれは、ウィルスのように地球上の生物の遺伝子に入り込み、複製過程に影響を及ぼす。その進行は緩徐ではあるが、約10年から30年で生物を死に至らしめる。
 原因究明に時間がかかったため、人類はその数を三分の一まで減らし、また、地球上の生物では数を減らしたばかりでなく、絶滅した種も数知れない。太陽系外縁部以遠を探査し帰還した探査機に貼りつくように見つかった太陽系外の物質から偶然ミチュエーリ病原体が分離され、その治療法が開発されたため、地球の生命は絶滅を逃れた。
「確か、君は時空間移動が許可されてないよね」
 忘れたわけではないだろう? と、カノンを覗き込む。
 わかってるわよ。忘れられるはずがないじゃない。カノンは深いため息とともに小さく答えた。
 過去にさかのぼることが可能になってから、あらゆる分野の学術調査には時空間移動が必須だ。そのため、時空間移動禁止を言い渡された人々が研究の第一線に踏みとどまるのは難しい。つまり、検疫官で疫学研究を専門とするカノンの立場は厳しいということだ。優秀さと好奇心を買われ配属となったカノンが、現状に耐えられない状況なのはわかる。
 時空間移動禁止は、そもそも幼稚園時代のカノンの軽はずみな行動によるものだ。重々承知なはずなのだが、それでも、カノンはじっとアキラを睨み続ける。
 敗走の時間を知らせるようにカノンの携帯が鳴った。
「検疫係からだわ。ちょっとごめんなさい」
 アキラに断りを入れて電話を取る。
「今からすぐ向うから、そこから一歩も外に出さないでちょうだい」
 カノンは低い声で応答しつつ、電話を切る。
「また、サエだわ・・・」
 その返事を聞いて、アキラも同情を隠せない。二人の同級生でカノンの親友である冴子は大人気のタイムトラベルガイドだ。裕福な家庭で育ち、首が座るやいなや両親に頻繁にあちらこちらと連れ出され、好奇心旺盛な性格を育んだ、というより、好奇心100%に育ってしまった。己の好奇心を満たしながら、持ち前のサービス精神をフルに発揮できるタイムトラベルガイドはまさに天職。参加するツアー客は冴子自らの体験を交えたガイドっぷりを大絶賛、そのため家にいるのは一年のうち数えるほど、という超人気ガイドとなってしまった。
 ところが、冴子の奔放な体験ツアーには毎度毎度何らかの落ちがついていて、時空間特捜部の二人には大得意様となった。
「お前に電話なら、どこかの時代から感染症でも貰ってきたんだろ?」
 アキラは何の気なしにこたえて、すぐにそれが失策だったと悟った。怒りに打ち震えるカノンに、さらに油を注いでしまった。
「ありえない。簡単に予防できる病気を次から次へと……」
 桜色の唇が怒りに震える。アキラがまた始まったとばかりに腰を浮かせたその瞬間、
「どうしていつもこうなのかしら!」
 春の光を浴びて女神かと見まごうばかりだった少女は、突如荒れ狂う山の神と化し、椅子を蹴飛ばして立ち上がると、アキラを睨み、叫んだ。
「そういうのは防げるんだから! コンドームを使いなさいって、いつも言ってるでしょ!」
 制止しようとするアキラには目もくれず、カノンは検疫所に行く、と勢いよく飛び出した。

カノンはコンタミネーション検疫所に猛烈なスピードで走り込んでいた。第一検疫室、と表示のある大部屋のドアを壊れんばかりに開き、突進する。
「サエ!」
 大部屋の一角に鎮座する十数人の人影から、一人が立ち上がり大きく手を振る。
「カノン、来てくれたのね。ありがとう」
 その声を聞き、やっとスピードを落としたカノンは、こみ上げてくる怒りを面に出さないよう、感情を殺して返事をする。
「サエ、そのグループに症状が出ている人はいないわね」
 タイムトラベルで感染した十七名全員に治療を施し、きつく注意を言い渡して帰宅させた後、カノンは冴子を執務室に呼んだ。烈火のごとく荒れるカノンに、冴子は怯えながらもトラベル記録を手渡す。
「まぁ、今回は現地の人たちのおもてなしが予想以上に手厚くて……」
 弁解しながらも、どこか楽しそうな冴子である。その写真、見てみて。とってもかわいいから、といわれ、覗いたカノンはそれまでの怒りがどこかへ吹き飛んでしまった。
「かわいい! これ、絶滅危惧種になってるイエネコよね」
「そうなの。あの時代はどこにでもいるのよね。家族同然にかわいがられていたから、ミチュエーリ病原体にも感染しやすかったんだろうけど」
 ミチュエーリ病原体は人畜共通感染症だ。人にも動物にも感染したため、ペット、家畜、さらには野生動物まで万遍なくミチュエーリ症候群を発症した。人間に対する治療薬の開発が最優先され、食料となる生物以外の動物は二の次となったから、人間のすぐ近くにいた犬やネコの被害は特に甚大で、現在でも絶滅危惧種として手厚く保護されている。
「その頃のネコってね、人間の家の中を我が物顔で歩き回ってるの。気が向けば人間にすり寄ってくるけど、あとは気ままにごろごろしてるんだよ。ほんとに気楽」
「うらやまし~い。たまには気楽にのんびりした~い。誰かさんのせいで、頻繁に大変なお仕事さえなければ、のんびりできるのに~~~。……私もネコになりた~い!」
 再び旗色が悪くなってきたのを感じた冴子は、話題の矛先を変えようと必死に頭を働かせた。
「そうだ! ネコになれるよ!」
 え? と目を丸くするカノンに、冴子はとっておきの超機密情報だからね、と笑いながら話し始めた。
「小学校で一緒だったイロハ、覚えてる? 彼女、飛び級に飛び級を重ねて、今は変態学の教授になってるんだよ」
 イロハ。確かに飛び抜けて優秀な子だった。小学校では授業に飽き足らず、図書館にこもりっぱなし。いつの間にかいなくなったと思ったら飛び級で、同級生が中学校を卒業するころにはすでに大学院に通っていた。かくいう冴子も、もちろんカノンもアキラも優秀で、飛び級を重ねているが、イロハのスピードにはかなわなかった。
「変態学?」
「変態って言っても、人間のヘンタイじゃないよ。例えば、さなぎが蝶になる、あの変態だよ」
 聞けば、イロハは昆虫をはじめ、あらゆる生物を研究し、それらの機能を詳細に明らかにした。のみならず、人間にはない生物の機能を利用した美容外科の技術を開発、富裕層を相手にビジネスで成功し、現在では凄腕の経営者でもあるという。
「それがね、どうも人間の知能を保ったまま、他の動物に姿を変えるっていう技術も開発に成功したんだって。まだ発表前だから誰も知らないんだけど」
 いつもお世話になってるお礼だよ。カノンとは気が合うと思うな、と一言添えて、イロハの連絡先を教えるとそそくさと帰っていった。
 ネコかぁ~。
 騒がしい冴子が帰って静まり返ったオフィスで、椅子の背もたれに身を預け、天井を眺めながらカノンは考えた。サエの事だから、今度は「ネコになってタイムトラベルツアー」とか目論んでいるんじゃないでしょうね。そうだとしたら、人畜共通の感染症対策を事前にきっちり仕込んでおかないと。治療薬はどこに保存してあったかな……。きっと保存庫の奥底よね。ああ、私はサエのためにこの仕事に就いたようなものだわ。自分では時空間移動禁止なのに、あんな人騒がせツアーガイドのために…。私もネコになりた~~~い。
「そうだわ!」
 サエ、ありがとう! 座っていた椅子からものすごい勢いで立ち上がり、カノンは携帯を取り出した。

ネコの身体とは、結構不自由なものね。前足と後ろ脚、どのタイミングで出せばいいのか、二足歩行に慣れた頭で考えると、どうも動きがぎくしゃくしてしまう。あ、これはダメなパターンね。何も考えないで、自然に任せてって言われてた。無よ、無。何にも考えないで、ただただ歩く。……そうそう。いい感じじゃない。郷に入れば郷に従え、じゃなくって「ネコに入ればネコに従え」ってことか。
 サクサクと自然な歩行を続けているうちに自信がついて、塀の上に出ている枝が気になった。ネコなら、上るよね。そう意識したとたん、軽々と飛び上がって、気が付くと塀の上を歩いていた。
 へぇ。……あ、なにこれ。ダジャレじゃないよ。さすが、ネコね。身軽だわ。なんて気分爽快。もう少し、……そうね。あの屋根の上とか、行けそうじゃない? 枝を伝って行けば。
 塀の上に出ている枝に、ひょい。そのまま屋根に、ひょいっと。なんて楽しいの! なってみるものねぇ、ネコって。
 切妻屋根のてっぺんに座って辺りを見回すと、西の空には真っ赤な夕日の名残りが少しだけあって、三日月が輝いている。それ以外は真冬の漆黒が空を覆ってきている。東の空には一等星がいくつか。
 銀の月は、お魚に見えなくもないわね。きときとのお魚。おなか、すいてきたなぁ。
 密集するように立っている家々からは、おいしそうなにおいが漂ってくる。そういえば、食べ物のこととか、聞いてなかったよね。どうするんだろう? 何か、探す??? もしや、ごみ箱、漁る??? うわぁ、やだやだ。
 勝手な妄想を打ち消すように、激しく頭を振ったその時。不意に天地がひっくり返って、――そのまま屋根を滑り出した!
 こんな所から落ちたら、けがだけじゃすまないよ。無我夢中で手足をばたつかせ、なんとか雨どいに手がかかって止まった。
 ネコは二階の屋根から落ちても大丈夫? いや、だめでしょ。まずは一階の屋根に何とか着地して、……そうよ。一階の屋根までだったら、なんとかなる!
 思い切って手を離し、うまく着地、とそうは問屋が卸さない。気温が下がって夜露が凍り始めている。滑る、滑る。スキーのジャンプ台と化した屋根を滑りながら、カノンの脳は超高速起動した。
 た、たしか、ネコが飛び降りるときの掛け声って、教えてもらったよね。どうしてもうまくいかないときには、これを言えって。なんだっけ? えーと、……思い出した!
 にゃん、ぱら、りん。
 誰かが見ていたら、屋根の端から高速で打ち出されたネコが、空中で見事に体をひねり、両手両足を地面に向けて、無事着地した……ように見えただろう。しかし、いかんせん、高度がありすぎた。

寒い……。
 北風が吹きつける夜の道端で、カノンは朦朧とした意識の中、冷たくなっていく自分のからだを感じていた。自分のからだ? 否、ネコのからだ。
 重い衝撃を感じて、どのぐらい時間がたったのか、気が付くと道端に倒れていた。
 誰も通らない。外は雪が舞いそうなぐらい寒いのに、まわりの家々の窓からは暖かい光がこぼれていて、楽しそうな気配が感じられる。自分はこんなところで一人死んでしまうのか……。誰にも知られず。そう思うと涙があふれてくる……はずなのに、一滴もこぼれない。そうか、ネコは涙をこぼしませんって。自分で突っ込みを入れてみるが、心に寒い風が吹きすさぶだけ。
 毛皮をまとった自分の身体に顔をうずめる。まるで綿のようだわ。ふかふかの暖かいお布団ね。あぁ、おなかがすいた。そうしてカノンはまた眠りについた。
 気が付くと、男の子が心配そうに覗き込んでいた。目の前に霞がかかったようで、誰かわからない。アキラ? ……違う?
「ママ! ネコが目を開けたよ!」
 男の子が誰かを呼んだ。ママ? ネコが? 頭の中で繰り返しながら、気づいた。そうだ。ネコになって時間をさかのぼって、屋根から落ちて、気が付いたら寒い道端に倒れて、そして、今は? 頭をあげようとしても体が言うことを聞かない。パタパタと誰かが近づく音がする。
「ね、ママ、目を開けてるよ!」
 男の子がうれしそうに言う。
「よかった。気が付いたのね」
「ねえ、ママ、この子、元気になったら飼ってもいいかな? サンタさんがプレゼントって、連れて来てくれたんだよ」
「そうねえ、ママ、お仕事でいつもあなたを一人にしちゃってるから、ネコちゃん、一緒に暮らしてもらいましょうか。新しい家族になってくださいって、お願いしてみたら?」
「うん! ネコちゃん、早く元気になって、家族になって、僕と一緒に遊んでください」
 小さな手が、ネコになったカノンのこれまた小さな頭をそっと撫でる。
「さあ、ハルト。明日までそっとしておいてあげましょ。あなたも早く寝て、また明日、ネコちゃんのお世話をお願いしますね」
 小さな手が頭を離れ、二人が部屋を出ていく気配。そして電気が消え、また暗闇にカノンは一人残された。暗いけれど、心地よい暖かさに満ち溢れた部屋の中で、カノンの意識はまた遠のいて行った。
 翌朝は暖かい布団に包まれているような、幸せな気分で目が覚めた。
 ややうつ伏せになっていて周りはよく見えない。頭を起こそうとした途端、身体中に激痛が走り、思わず声が漏れそうになる。微かに目を開け、頭だけを動かすと、白い毛皮に顔を埋めていたことがわかり、どおりでふわふわなんだわ、と合点が行く。少し離れた窓に白いカーテンがかかり、青空が透けて見えていた。
 と、突然巨大な男の子の顔が覗いて、ふくよかな掌が伸び、驚くカノンの頭を撫でた。
「ママ、ネコちゃんも起きたよ!」
 弾むような声で呼びかけると、その背後からのっそり、エプロンを着た女性が近づいて来て、同じようにカノンを覗き込む。
「ほんとだ。よかったね。ミルク、飲めるかな? あげてみて」
「はーい!」
 うれしそうに準備をしている気配を感じながら、カノンは自分の置かれた状況を理解した。半分成功、半分失敗……。

時空間移動が禁じられている身で、どうしたら過去に遡れるか。
 解決策は思わぬ形で現れた。トラブルメーカー・冴子の一言。
「ネコになれるよ」
 そうだ。ネコになろう!
 カノンは渡されたイロハの連絡先に、間髪を入れず電話をかけた。技術は確立されていた。ヒトで確かめたいイロハの思惑と、カノンのたっての希望が見事に合致し、実験台ね、との一言でネコへの道は確定した。
 ただし、とイロハは断りを入れた。
 ネコの姿でいる時間は一週間に制限すること。長時間にわたると、元の動物の性質が失われる傾向がある。ヒトではデータがないのでなんとも言えないが、おそらく長時間の使用で悪影響が出るのは必須だろう。というわけで、必ず一週間後には戻って来ること。それが条件。

家の前で拾った子ネコが心配で、ハルトは帰宅するとすぐに二階に走って上がった。窓のそばの、カーテン越しに日当たりが感じられるにわか作りのベッドの上で、白い小さなネコが丸まっている。ドアのそばに立って、そっと様子をうかがう。白い毛皮の、おなかの辺りが上下している。
 生きてる!
 それだけ確認すると、小走りでキッチンに行き、冷蔵庫から牛乳を取り出すと、小さなカップに入れて電子レンジで温めた。人肌程度ってママが言ってたけど、どのぐらい温めればいいのかわからない。チンッとなった電子レンジのドアをあけて、そっと指を差し込んでみる。あちっ! ちょっと温めすぎた。じゃあ、これはぼくが飲む分。テーブルの上において、別のカップに牛乳を入れ、もう半分の時間で、チン。今度はいい具合になった。ママが準備してくれたスポイトも一緒に持って、急いで二階へ。
 そぉっと近づいて、顔を覗く。真っ白なネコ。鼻の頭と手足の肉球は鮮やかなピンク。左目の下に、まるで泣きぼくろのように黒い点がついている。すーすー寝息を立てて寝ているその姿を見て、温かいミルク、持ってきたけど、起こしたらかわいそうかな……と、ハルトはちょっとだけ遠慮した。でも、かわいさに負けてそっと白い毛並みに触れてしまう。
 ちょっと緑がかった茶色の丸い目が、開いた。
「ユキちゃん、ミルク持ってきたよ。飲む?」
 そういって、少しだけスポイトにとって口元に持っていった。ネコは舌でなめるように飲み込んでいく。用意したカップのミルクは、あっという間になくなった。飲み終わって、前足の辺りを身繕いして、ネコはまた眼を閉じて静かになった。少しだけ、そっと体をなで、ハルトはキッチンに降りていった。そっとしておいてあげなくっちゃ。元気になるまでは、と。
 三日目には少しだけ歩けるようになって、四日目には自力でベッドの上から飛び降りることもできるようになった。ハルトは学校から戻ると、夜までずっとネコと一緒にいた。どんどん動けるようになって、床の上で横になっているハルトの背中にのぼる。ハルトはそれがうれしくて、じっとしていると、いつの間にかそのまま一緒に昼寝になった。猫じゃらしを取ってきて、ネコの前でゆらゆらと揺らしてみる。その動きにつられてネコが一緒に顔を動かす。手が出る。ハルトが引っ込める。ネコがつられて動く、そのまま追いかけっこをする……。
 兄弟のいないハルトは、ネコのいる生活が楽しくてしょうがない。毎日、学校から家に帰るのがうれしくて、友だちの誘いも断った。部屋の中を移動したり、身繕いをしたり、気ままに過ごしているネコが、まれにハルトのところにやってきて、ごろごろ喉を鳴らす。足にすり寄って、何かをねだる。ハルトの腕の中で、前足を交互にムニムニする……。偶然生活に入り込んできたネコは、あっという間にハルトの大切なもの、なくてはならないものになった。

カノンもわかっている。しぐさが、だいぶネコらしくなった。人間の意識を感じないでいる時間も増えた。
 ――そう。イロハにくぎを刺されたように、ネコでいられる時間も限界が迫っている。そろそろ戻らないと。思いのほか、ネコである自分が快適だった。だけど、本来の目的、ミチュエーリ症候群の調査は何一つできなかった。こんなに容易に過去にさかのぼれるなら、何度でも来ればいいけれど、喜ぶハルトを残して元の時代に戻るのは、ちょっと気が引ける。
 私がいなくなったら、ハルトはきっと寂しくなるだろう。家の前の道路で拾ってくれてから、毎日心を込めてお世話をしてくれた。真っ白だから、と「ユキ」ちゃんと名前を付けて。
 後ろ髪をひかれる思いで、しかしカノンは元の時代に戻っていった。

時空間移動用ゲートを出ると、イロハが目に入った。あ、イロハ。迎えに来てくれたのね。ありがとう。という間もなく(ネコだから、言えないのではあるが)、イロハはカノンを速攻で抱え、研究室に飛んで戻った。
 予定していた時間を超えたら人間の脳に異常が出るかもしれないのよ。どうして、もう少し余裕を見て早めに帰ってこないの。そう、文句を言いながらも、手早く作業を済ませる。
 カノンは、と言えば、イロハの小言を聞きながら、ハルトのママもこんな感じだなぁとすでに懐かしく思い出した。元の体に戻っても、ハルトの家の温かい心地よさに、いつまでも心が引き寄せられていた。また時間をさかのぼるなら、ハルトのところへ、そう思いながら、久しぶりにオフィスに戻った。イロハはいろいろ聞きたいことがあるようだったけど、まずは休みの間に何もなかったことを確認したい。
 ドアを開けたとたん、電話が鳴った。冴子からだとわかって、少し気分がしおれる。
 ミチュエーリの調査はうまくいかなかった、そう口を開こうとしたカノンをさえぎって、冴子は興奮して話しだした。
「ピンポイントで感染源に向かってたよ! なんでわかったの?」
「へ? どういうこと? 私が、感染源にいたってこと? なんでって、それはこっちが知りたい。どうして私の行ったところが分かるのよ」
 冴子の回答まで、ほんの一瞬、間があった。
「――アキラくんよ。イロハのところにカノンが行ったことがばれちゃってさ、私のところに聞きに来たの。で、ちょっと隠し通せなくってさ、カノンが過去に行ったって言っちゃったんだよね。そしたらさ、すでにモニターされてたの。どの時代の、どこの場所に行ったかが」
 アキラが? 私をモニター?
 あの時、とカノンは振り返った。アキラに過去に行きたいといって断られたわけじゃないけど、うやむやにされて、――そうこうしていたらサエの事件が発生していて。ネコの話を聞いたのはサエからだから、アキラは知らないはず。なのに、サエが気づいた時にはすでにアキラは私をモニターしていたということは、予想していた? どうしてだろう。時空間移動を禁止されている人物だから?
 それにしても、感染源まで特定していたとは、まるで私がそこに行くってわかっていたような。どうして? 全く訳が分からない。
 冴子と電話していることも忘れ、カノンは一人悶々とする。頭の中で疑問符が嵐のように吹き荒れた。目が回りそう……。机に両手をついて、気を取り直そうと深呼吸をしたその時。オフィスのドアが開いて、アキラが姿を現した。廊下から入る日の光で逆光になってはいるが、その表情はいつもの通り冷静なはずだ。
 アキラと目を合わせられなくて、カノンは静かに目を伏せた。言いたいことはわかってる……。
「私に、お説教しに来たんでしょ」
「説教? そんな簡単なことじゃない」
 アキラが冷静に答える。何か悪いことがあるときは必ず、感情の一かけらも込めずに話すのはアキラの癖だ。長い付き合いだから、わかっている。
「君は、自分のしたこと……」
「わかってるわよ! 時空間移動、禁止されてたのに、……その、過去に行ったってことでしょ?」
 始めこそ激しい口調で答えたものの、自分の非を認めるにあたって、カノンの声は段々と小さくなった。カノンとアキラのやり取りは、つながったままの電話を通して冴子に聞こえていたのだろう。冴子の声が何かを叫んでいる。でも、小さすぎて聞こえない。アキラはカノンの追及をやめない。あくまでも冷たい声で、続けた。
「カノン、時空間移動の禁止されている君が過去に行った。重大な違反だ」
 ほらね。私の言う通りじゃない。だから、何? 罰金でもなんでも払えっていうなら、払うわよ。声には出さず、カノンは表情のないアキラの顔を、憎々しげににらんだ。
「ぼくの用事は、これで終わり。ついでに、教えておくけど、カノン、君はとんでもないことをしているよ」
「何? とんでもないことって。時空間移動は確かにしたけど、別に向こうで何かをした覚えはないわ。けがをしてずっと寝てたんだから。ほんとは調査がしたかったのに、何もできなかったのよ。この悔しい気持ち、アキラにはわからないでしょ! いつにだって、どこにだって、自由自在に行けるアキラには!」
 カノンは一気にまくし立てる。自分の頬が熱くなるのが分かる。きっと顔が真っ赤だ。髪も振り乱してるに違いない。でも、そんなこと構うもんか。小さいころからずっと一緒なのに、私の気持ちがわからないアキラなんて、大っ嫌い!
 ぎっとにらみつけるカノンの目を、アキラはふっと外して、つながったままの電話を取る。冴子に小さな声で、悪い、とつぶやき、そして電源を切った。ごめん、冴子。いつも心配かけてしまって。
 肩で息をしながらカノンは考える。どうしたら、この状況を打破できるのか。真面目一辺倒の、歩く規則みたいなアキラを、どうしたら?
 アキラがゆっくりとカノンに近づいてくる。カノンは手元をにらんだまま、顔があげられない。殺風景なカノンのオフィスで、アンティークの時計がカチカチ音を立てている。
「冴子が言ってただろ。君が感染源とピッタリの場所に時空間移動したって。なぜだか、わかる?」
「わからないわ。それより、どうして私がその場所にいたって、アキラはわかったの? 私をずっとモニターしてたの? 黙って、ネコの体を借りて過去に行ったこと、どうして知ってたの?」
 カノンがゆっくりと顔を上げると、憐れむようなアキラの目があった。
「カノンをモニターしてたわけじゃない。時空間移動監視課の警報が鳴ったんだ。そこに、ミチュエーリ病原体が突然現れたって」
「どういうこと?」
「簡単だよ、カノン。君が、運んだんだ。この世界から過去に、ミチュエーリ病原体を」
 なんですって? 私が、運んだ? ミチュエーリ病原体を? 過去に? 
 アキラの言葉が頭の中をぐるぐる回る。何度繰り返しても、理解できない。私が、ミチュエーリ病原体を、過去に運んだ。そんなこと、あるわけないじゃない。だって、私は最初の症例が確認された時代に、調査に行ったのよ。
 追い打ちをかけるようにアキラは続ける。
「冴子とイロハには事情聴取済みだ。二人とも、認めていたよ。君が、ネコになった君が、あまりの嬉しさに研究棟の中を走り回ったって。そして、ミチュエーリ病原体を扱っている実験室にも、ネコの足跡が見つかった。……そのまま、病原体を足につけたまま、君は過去に行った」
 はしゃいで研究棟の中を走り回ったのは事実だ。いつもと目線が違うから、どこをどう通ったかは、定かではない。あの実験室には入室制限がかかっている。入室可能なのは私も含めて、ほんの数人。入室には意識認証が必要で、……ということは、ネコの私の意識――まだ人間の意識部分――を読み取って、入室可能となった?
 私が、ミチュエーリ病原体を、過去に運んだ。ほんとに、そうなのね。……ミチュエーリは、人為的に感染が確立して……、その、最初の患者は? ハッとカノンはアキラを見て、飛ぶように詰め寄った。
「ハルトなの? 最初の患者は、ハルトなのね!?」
 アキラの目が厳しさを失って、一瞬、戸惑いが現れた。そして、ゆっくりと首肯した。
「なんて、……なんてこと」
 カノンはゆっくりと頭を振り、そのまま崩れるように座り込んだ。けがをしたカノンにずっと付き添ってくれたハルト、満月のように真ん丸な顔でカノンに笑いかけるハルト、温かいミルクをスポイトで少しずつ飲ませてくれるハルト、ネコじゃらしを見つけてきて一緒に遊んでくれたハルト、暖かい腕の中にだっこしてくれたハルト! ……私のせいで、ミチュエーリに感染してしまったなんて!
 アキラが、そのあと何を言ったか覚えていない。いわれるまま、身支度をして、カノンはオフィスを後にした。

拘置所というところに、初めて入った。
 想像していたところとは違う。部屋全体がクリーム色で明るくて、ビジネスホテルのようだ。プライバシーは確保されているように見えるが、部屋中にくまなく張り巡らされたセンサーが、カノンの一挙手一投足を監視しているはずだ。
 監視してても、私が動かないんだから、甲斐がないわよね。カノンは投げやりに思う。心底、自分が嫌になっていた。どうして私はこうも軽はずみなんだろう。黒い虫騒動の時もそうだった。ほかの子は全然そんなことをしないのに、なぜ私だけ、思いついてしまうのだろう。
 ミチュエーリ症候群の致死率は、ほぼ100%。人類に感染するだけではなく、ほかの哺乳類にも感染する。感染が確認されて、人類は三分の一に数を減らした。生態系にも大きな影響を与えて、絶滅する種が後を絶たなかった。それから二〇〇年、何とか治療法も確立し、予防さえできるようになって、何とか絶滅は逃れた。だけど、その間、私のせいで、いったいどれだけの人が命を落としたの? 地球上の生命に、どれだけダメージを与えたの? 私が、過去に調査に行きたいって思いさえしなければ!
 どれだけ悔いても、過去は変わらない。ミチュエーリ症候群の最初の死亡者リストをくまなく調べれば、ハルトの名もそこにあるのだろう。そう考えただけで、胸が締め付けられ、激しく動悸がする。このまま、私も死んでしまいたい……。
 白く明るい部屋の中で、カノンはひたすら苦しんでいた。
 面会が申し込まれています。そう言って、監視担当者がカノンを部屋から連れ出した。文字通り、引きずって。そうでもしなければ動けないほど、カノンは憔悴しきっていた。
 面会室では、冴子とイロハが待っていた。特別にアキラに許可をもらったのだという。カノンの顔を見ると、二人とも表情が曇った。何とか気を取り直して口を開くが、会話は弾まない。カノンの反応のなさに、それでも二人は気丈に話しかける。黙ったままのカノンに向かって、どうでもいい話を延々と続ける。二人のガールズトークに花が咲いているように見えたそのとき、監視の目をくぐって、小さな何かがカノンの胸元にそっと滑り込んだ。
 驚くカノンに目配せをして、二人は何事もなかったかのように陽気に話を続ける。そして満足げに、二人は帰っていった。
カノンに預けられたのは、ミチュエーリ症候群の治療薬とネコに変態するためのタブレット。治療薬は、普通では医師でも手に入れられない。開発者に直接掛け合って、おそらく多額の賄賂と引き換えに入手したか。冴子が交渉して、イロハが資金を出したのだろう。
 カノンに共犯意識を持っていた二人が、せめてもの償いに、とリスクをとって渡してくれた大切な贈り物。手の中で静かに転がしながら、カノンは心に誓った。
 これを無駄にしてはならない!
 拘置所の夜は暗い。暗くても、センサーは働いている。なるべく動きを悟られないように、カノンは準備を進めた。チャンスは、朝食が運ばれてくるとき。そう狙いを定めて、まんじりともせず夜を過ごした。
 翌朝。カノンの逃亡に気付いた拘置所内は大騒ぎとなった。
 時空間移動監視課に一報が入ったころ、アキラは過去に開いたゲートを感知していた。

カノンはてくてくと道を歩いていた。ここは、間違いなく、ハルトのうちの近く。季節が移ってたくさんの花が咲いている。その中から、かすかなにおいを嗅ぎつけたネコの嗅覚がそう告げていた。
 あった!
 忘れもしない、初めて上った屋根。そのまま滑って落ちた歩道。そうよ。この近く。そこの角を曲がったら……。カノンは思わず走り出す。
 そこに、ハルトの家はあった。ハルトの部屋のカーテンはひかれたまま。昼間なので、誰もいないのか。いてもたってもいられず、カノンは近くの塀と庭木を伝って屋根に上った。ネコの体には思ったより早く慣れ、カノンは軽快にハルトの部屋の窓まで上って行った。
 カーテンの隙間から、中をのぞく。薄暗い部屋の中で、誰かがベッドに寝ている?
 カノンは窓ガラスを爪で掻いた。にゃ~ん、と甘えた声が出た。ベッドがゆっくりと動いて、顔がこちらを向く。
 ハルト!
 よかった、間に合った。もう大丈夫よ。私、治療薬持ってきたからね。すぐ治るよ。カノンは待ちきれずに一段と大きな声で鳴く。ハルトはゆっくり立ち上がると、窓に向かってよろよろと歩いてきた。
 ハルトの顔は青白く、頬もこけていた。ごめん、ハルト。そんなにつらい思いをさせてしまって。私が病原体を持ってきてしまったばっかりに……。近づくハルトの顔を見ながら、カノンは後悔の念に駆られる。でも、治すからね。絶対、治るから! そして、地球上の誰も、ミチュエーリでは死なせない!
 ハルトがゆっくりと窓を開け、窓の外のカノンに手を伸ばした。小さな手が、さらに細くなって力なくカノンの頭をなでる。
「ユキちゃん、お帰り。戻ってくると思ってた」
 そう言って力なく笑いながら、ハルトはカノンを抱き上げた。うれしさのあまり、カノンは喉を鳴らし、体を摺り寄せる。ハルトは黙って窓を閉め、ゆっくりとベッドに戻った。
「僕ね、病気なんだ。遊んであげたいけど、ちょっと無理かな。ユキちゃん、ごめんね。おなかすいてる? 何か持ってきてあげたいんだけど……」
 ベッドに座りながらカノンを抱いているハルトは、肩で息をしている。少し動くだけで、相当苦しいのだろう。黙ってて。何もしなくていいから。そう言いたいけど、伝えるすべは何もなくて。
 カノンは首にかけていた治療薬のアンプルを口にくわえた。皮膚に押し当てるだけで薬を注入できる、子ども用のアンプルだ。それをみて、ハルトがほほ笑む。
「ユキちゃん、何くわえてるの? おなかすいてるのかな。遊びたいのかな。僕、もう少しよくなるまで、待っててくれる?」
 そういうと、力ない咳を数回した。カノンの目の前に、口を押えるハルトの手の甲があった。
 ――今!
「ハルト、大丈夫? 何か物音が聞こえたけど……」
 ドアが開く音がして、覗いたのは、見たことのない女性だった。
「おばあちゃん、あのね、ユキちゃんが……」
「駄目よ、ネコなんて入れたら! 病気が悪くなっちゃうじゃないの!」
 ヒステリックに叫んだかと思うと、カノンは首の後ろをつかまれて、ハルトの腕から持ち上げられていた。
「お前、どこから入ってきたの! もう二度と来たらダメ!」
 窓が開き、カノンは勢いよく放り出された。宙を舞いながら、カノンは思う。ダメだった……。もう少しだったのに。冴子もイロハも、頑張ってくれたのに。私のせいで、台無し……。
 道路に思いっきりたたきつけられた。衝撃で息ができない。動けない。意識が遠のく。
 ちりん。
 ハッとして目を開けた。アンプルが、治療薬の入った大切なアンプルが、目の前に転がった。二階の窓から落ちても、割れないで。私の目の前に!
 助ける! ハルトを、絶対助ける!
 力を擦り絞ってカノンはアンプルににじり寄った。体が痛くて立ち上がれない。それでも、這うようにして移動した。もう少し、もう少し。自分に言い聞かせた。もう一歩でハルトが助かる!
 アンプルにネコの小さな爪がかかった。ゆっくり、胸に引き寄せる。ああ、これで!
 ――?
 カノンの体がゆっくりと持ち上げられた。胸に引き寄せたアンプルは、そのまま地面に落ちた。抵抗しようとするが、体は動かない。地面に落ちたアンプルが、どんどん遠くなる。手を伸ばしても、届かない!
 アンプルが、見えなくなったと思った瞬間、パリンと音がした。唖然と眺めるカノンの目に映ったのは、無残に砕かれたガラスのかけら。そして、それを踏んだ黒い靴。
 なぜ!?
 眼だけを動かして、カノンをつかむ人影を見る。そして、息をのむ。
 アキラ!
 ゆっくりとカノンを目の前に掲げ、アキラは言った。
「過去は、変えちゃいけないんだ。ミチュエーリは、ここから始まった。それは、変えてはいけない歴史なんだ」
 カノンの力が抜けた。

死刑にならないのが不思議ね。どれだけの人が私のせいで死んだと思ってるの。生かしておく理由はないでしょ。
 カノンは太陽系外縁部にある収容所に向かう輸送船の中で、暗い宇宙空間を見ていた。禁止されている時空間移動をし、人類をミチュエーリの脅威にさらした罪で終身刑、いわゆる島流しの刑となった。
 カノンの罪は、公になってはいない。時空特捜部内で秘密裏に処理された。処分も表向きは配置転換。最前線といえば聞こえがいいが、太陽系最果ての地での検疫業務だ。ミチュエーリが太陽系外からの侵入者であることが分かってから、同様の事態が引き起こされないように設置された検疫所。
 最前線の検疫所。今となっては無意味だからこそ、カノンの流刑の地としてふさわしい。そう、アキラは言った。
 宇宙船のエンジン音がかすかに響く。それ以外に聞こえるものがないこの長旅で、カノンを慰めるものは何もなかった。

★  ★  ★

アキラはモニター越しにカノンを見ている。罪の意識を感じている自分に、少し驚きながら。手元には地球外生命による感染症の発生から、生物の回復までのデータが、詳細にわたって吐き出されている。
「アキラ、研究の進み具合はどう?」
 ぼうっとしていたアキラの後ろから、声がかかった。
「ゼルグラード先生」
 アキラは立ち上がり、振り向いて礼をする。黒く長いガウンを着て、フードを目深にかぶったゼルグラードの表情は見えない。高い背と広い肩幅の割には中性的な声が問いかける。
「だいぶデータもそろったみたいですね。研究も終わりと見えるけど」
 ゼルグラードはアキラの指導者だが、同時に預言者としてこの世界を統べる。未来学と呼ばれた一種の確率論を体系立て、あらゆる事象について、パラメータと方程式を駆使して仮想世界を構築し、原因から結果を導き出すことに成功した。その研究成果を現実世界に応用し、預言として公表したところ、その確度の高さに民衆は驚愕し、いつの間にかゼルグラードの助言なしでは政治も動かなくなってしまった。
 アキラは直立不動の姿勢のまま、答える。
「はい。先程、感染症発生から生命の回復まで、すべてのデータがそろったところです」
「では、そのβ世界も終わりにして、ラボは空けるように。使用希望者が長いリストになっていますから、急いで、お願いしますね」
 それだけいうと、アキラの返事も待たず、ゼルグラードは黒い衣の裾を翻し、去っていった。どのような結果が出たかなど、全くと言っていいほど気にしていない。ただ、ラボが一つ空くことだけを確認しに来た。――アキラはゼルグラードが見えなくなるまで、立ったままじっと見つめていた。
 当初からこの研究はゼルグラードの望むものではなかった。それは、アキラにもわかっている。地球外生物による感染症の研究など、ただの道楽。時間の無駄です。そう、何度となく言われた。それでも研究を開始できたのは、アキラが仮想世界構築に抜きんでた才能を持っていたから。いくらAIの精度がよくなっても、生命発生から知的生命体――特に人類――を、社会生活までそっくり作り上げることは、アキラ以外のだれにもできなかった。
 ゼルグラードには興味のない研究だが、ひとたび起これば大災害をこうむる事象の研究だ。いつか理解が得られる日が来る、とアキラは祈るような気持ちで研究を継続した。
 研究成果については、側近から耳に入っているだろうに、一向に良い反応はなかった。そればかりか、ちょうどデータがそろったこの時期に本人自らが足を運び、その口からターミネートを言い渡すとは。アキラの心に言いようのないさざ波が立つ。アキラが誇る仮想世界構築の手腕も、今ではすっかり研究所の巨大コンピュータに学習された、とのうわさも聞こえる。もうお払い箱、というわけか。
 アキラはモニターを覗き込む。カノンの横顔はそこになく、ただ真っ暗な宇宙といくつかの小さな光点が見えるだけ。今まで多彩な様相を示していた社会は、実験が終われば監視対象から外れる。そこには、地球上の都市も、人間も、ネコも、何も映ってはいない。
 β世界を終わらせる。――それはたわいもない。Deleteキーを押せば、すべて消え去る。このまま、押してさえすれば。また、新しい研究課題を見つけて、一から仮想世界を作り出して。そして、終われば?
 お払い箱、か。自嘲気味につぶやいた。この仮想世界に似てるじゃないか。いらなくなったら、即お払い箱……。
 モニターの中の暗い宇宙は、のぞきこむアキラの気持ちなどかまわず、そこに存在するだけ。――そして、ひとたびズームアップしさえすれば、あの騒がしいやつらが、そこに変わらず暮らしているんだ。ぼくがDeleteを押さない限り。この、β世界に住む人たちは、ぼくがこの世界の命運を握っていることさえ、気づかない。
 カノンは、傷心のまま太陽系外縁部に流されて、今もずっとうつむいているだろうか。ぼくの研究のために犠牲になった、かわいそうなカノン。――その他の仮想生命人類とは使用するアルゴリズムとパラメータを、ほんの少しだけ変えてカノンを作成した。好奇心と無謀さが人一倍強い、お利口さんばかりの仮想世界に投げ込まれた、スパイスのような彼女は、アキラの研究のために最適な存在だった。
 カノンはアキラの計画通りにミチュエーリの感染を成立させ、研究を前進させた。たたえられてしかるべきなのに、かの世界では犯罪者扱い。挙句の果てには凍えた精神を抱えて、太陽系外縁部の流刑地へ。翻って自分は、研究成果を上げ、いざというときには役に立つデータもあるというのに、お払い箱。笑わせてくれる。
 アキラはじっとモニターを見つめた。アキラの作った仮想世界――β世界の、暗黒の宇宙に、いつしか幻のようにカノンの後ろ姿を見ていた。
 翌日、ゼルグラードに簡単な連絡があった。
 アキラのラボが空きました。次の使用希望者には連絡済みです。なお、アキラはβ世界をデータごと奪って失踪した模様。
 伝えた側近に、これも予定通り。特に何もする必要はありません。放っておきなさい。そういうと、ゼルグラードは笑みを浮かべて空を見上げた。考えすぎなのだよ。地球外から、感染症の原因が降ってくるなど。そして、人類がほとんど死滅してしまうなど。

★  ★  ★

エッジワース・カイパーベルト天体オルクスにあるEKBO最前線基地J08通称HITACHI。カノンの流刑地として選定された、太陽系最外縁部の中でもさらに辺鄙な場所にある、異色の基地である。
 太陽系周辺をくまなくカバーするために、各国の経済比割で基地がおかれている。日本は47基地を運営していて、それぞれは県に由来する名称がつけられている。J08基地は元の名をIBARAKIといい、その場所柄、定員割れが常態化していた。それを第三代所長に水戸家光が赴任し、基地名をHITACHIと改め、基地中の電化製品を一新、地球上のどこよりも便利な住空間を提供したことで、39年間独走していた人気のない基地第1位を返上した。現在、総勢18名の職員が滞在している。所長はすでに八十八歳となったが、依然現役であり、職員からは『黄門さま』の愛称で呼ばれている。日本昔話に登場する翁のように、長いあごひげも眉毛も真っ白な、好々爺だ。その姿で、巡航艦ツクバを繰ってゴールデンゲートと名付けたEKBO天体間ルートを自ら気ままに巡回する。
 近頃、その水戸にしぶしぶ付き合って天体間を巡るカノンが観測された。罪を犯したとはいえ、若いカノンが打ちひしがれた日々を送る姿を目にして、水戸が強引に外に連れ出したのである。
「ほら、カノン。見るがよい。あれが冥王星の第一衛星『カノン』じゃ」
「……所長。お言葉ですが、それは『カロン』です」
「はぁ? 聞こえんなぁ」
「カロン、……カロンです!」
「そうそう。カノンじゃ」
 このやり取りを、何度繰り返したことか。カノンは冥王星が近くなるたびに、うんざりする。そして、次にはこういうのだ。
「カノンや、冥王星のには心があるのじゃ。あのハートマークを見よ……」
 もはや、返す言葉がない。太陽系の最果て、辺境の基地に飛ばされたが、恵まれた住環境と支給された家電製品の山(高価で手が出せなかった美容器具までそろっている)を見て、もう二度と地球に帰れなくてもいい、とさえ、カノンは思っていた。それなのに、爺さん所長の小惑星行脚に同行させられ、どうでもいいダジャレを受け流す日々。この精神的苦痛が刑なのでは、と思うと、心の底から寒くなってくる。カノンに抗うすべはないのだ。

流刑地に滞在して、八カ月。
 太陽系外縁部で系内に侵入する謎の宇宙船が発見された。
 至近の最前線基地は、急ぎ探索艇を発進させよ。近くを航行中の巡回艇があれば、急行せよ。
 地球からの緊急通信を受け、J08基地の職員は安堵した。一番近い基地は、J09TOCHIGI。宝くじより当たる確率は低いよ。大当たりじゃないか。餃子パワー、期待してるよ。などど、どうでもいい話をしながら、J08基地の職員が朝食の納豆を食べていた、その頃。折しも基地から遠く離れた最奥部を航行していた巡航艦ツクバは、地球からの緊急通信を受信し、進路を大きく変更していた。
「向かうは、太陽系に侵入中の無国籍船。とぉりか~じ!」
 水戸が嬉々として叫ぶ。カノンは操縦席に座り、計器に肘をついてながめていた。操縦席とは名ばかりで、人間が何をしなくてもAIが勝手に操舵してくれている。面倒なことに巻き込まれたくはない。調査に行くなら爺さん一人でどうぞ。そう、思いながら。
 一時間後、謎の侵入船に邂逅したツクバから、宇宙飛行士が一人、命綱ひとつで放出された。無論、カノンである。刑期中のカノンが適任という地球側の判断で、侵入船の調査に抜擢された。本来は疫学の研究者なのだから、検疫ぐらい朝飯前だろう、と。
 本人は、全く寝耳に水である。無気力無感動の日々が続いていたものだから、仕事と言われても体は動かない。ボーっとしている間に、船内装備ロボットに宇宙服を着せられ、ハッチが開いて、そのまま投げ出されてしまったのである。
 侵入船がみるみる近づいてくる。ずいぶん古い型の宇宙船だ。アルファベットが見える。
「カノン、何か気が付くことがあれば、報告、忘れるな!」
 水戸の声がヘッドセットを通して大音量で聞こえてくる。耳を押さえても、宇宙服ごしで手は届かない。腹立たしく、わかりました! と怒鳴り返し、それにしても、と首をかしげた。アルファベットを見れば地球の船に違いないのに、なぜこんなところに? カノンは持ち前の好奇心がふつふつを湧き上がってくるのを感じて、しかし、ふっと気持ちが冷めた。……だからって、どうなの。私には関係ない。
 侵入船から目をそらし、ツクバから放出された初速度そのまま、慣性で飛ぶ。カノンには減速するすべがない。気が付くと目の前に侵入船が迫っていた。通り越したかと思うと、ツクバからのびる命綱が侵入船に接触し、カノンは船体に巻きつくように止まった。
「嬢ちゃん、何やらきな臭いべ」
 水戸の、押し殺したような声がヘッドセットから聞こえる。無関心を装ってスルーしたカノンだが、疫学研究者の血が騒ぐ。なにか、起こっている。この侵入船、普通じゃない。
「黄門さま、ちょっと入ってみてもいい? ……こういう船って、どこに入り口があるのかな?」
 侵入船の壁面を、侵入口を探しながらゆっくり移動した。流線型の頭部から流れるように広がった裾に、外部からのアクセスを受け付けるハッチを見つけて、カノンは中へ入る。宇宙服なので、密閉は保たれている。万が一、何かの感染源があっても、問題はない。
 内部に侵入して、宇宙服の袖口にある汚染物質アラートが発光していることに気付いた。やはり、何かある。カノンは、その隣のシールを一枚はがす。汚染物質検出シートである。即座に一本の赤いラインが光った。一瞬、目を疑う。
 ……! 
 まさか! ミチュエーリ病原体!?
 耳の中で、心臓がバクバクいう音が聞こえる。
 落ち着け。落ち着け、カノン。自分に言い聞かせ、再度シートを確認するが、赤いラインは確かにミチュエーリ病原体の検出ラインだ。しかも、空気中の濃度はかなり高い。生身でさらされれば、一瞬にして感染が確立してしまう。
「黄門さま。ミチュエーリ病原体よ。ものすごい濃度。……もう戻るわ」
 水戸に報告して、もう一度船内を見回す。こんなに古い宇宙船が、どうして太陽系外から侵入してくるの? しかも、船籍不明で、不法侵入船のような扱いで……。
 え?
 カノンは自分の目を疑った。血の気が引き、めまいがしそうだった。ふと覗いた船室に、誰かが寝ている。非常灯の明かりに照らされた室内の中で、恒星間飛行用冬眠装置のような箱にはいって、確かに誰かが。
 船室内の壁を伝い、おそるおそる近づくカノンの目に、一人の少年の生気を失った顔が映った。
「嬢ちゃん!」
 突然耳元で大声がさく裂し、カノンは飛び上がった。心臓がとまるかと思った。呼吸が異様に早くなり、鼓動が頭の中で割れんばかりに響いている。慌てて船室から出て、廊下の壁に背中をつけて身体を安定させた。血中ではアドレナリンが沸騰中に違いない!
「爺さん! びっくりするじゃない! なんて声出すの!」
 カノンも負けずに叫び返す。声が割れて、意味をなさないが、一向に構わず。
「カノン、落ち着いて聞きなさい」
 水戸がなだめるように言う。脅かしたのはそっちでしょ、とぶつぶつこぼすカノンの声は聞こえているはずだが、かまわずに続ける。
「その宇宙船の軌道を変えなさい。そのままだと地球に墜落してしまう」
 ミチュエーリ病原体は、高温でも変質しない。原始惑星のマグマにでさえも存在できるという説もある。このまま大気圏に突入すれば、宇宙船は燃え尽きるかもしれないが、病原体そのものが大気中にばらまかれる可能性が高い。
 現在の地球人は、ミチュエーリ病原体が自然界から根絶されたため、免疫を持たない。一度大気圏に散布されてしまえば、過去のパンデミックの再来となる。人類は局所的に密集して居住しているため、感染が拡大するまで時間はかからない。
「地球の命運は、お前さんの肩にかかっとる!」
 水戸の声は聞こえる。だが、カノンの心には響かない。地球がどうなろうと、知ったことじゃない。もう、誰かを助けるなんて、まっぴらごめん! 地球人類なんて、勝手に滅んでしまえ!
 そう思う反面、子どものころからの無邪気なカノンがほんの少しだけ顔を出す。みんなを助けられるのは、私だけ。人間は、人のために生きているのよ。さあ、何か手を考えましょう!……だが、固く目をつぶって、カノンはいやいやをする。もう、何もしたくない! 私がしなくても、誰かがするはず……。
 カノンは目を開けた。さあ、帰ろう。一歩踏み出したその時、船室の冬眠装置の中に横たわる少年が、かすかに動いたような気がした。相変わらず、顔色は青い。生きているようには見えない。カノンの背中に、一筋、冷たいものが流れる。慌てて廊下に身を隠す。
 ――病原菌が蔓延する宇宙船の中に、死体と二人なんて!
 早いとこ、お暇しないと。だが、船外に出るためには、その船室の前を通って行かなければならない。……幽霊見たり枯れすすき? とかいう言葉があったじゃない。きっと、なにかの見間違いよ。ちゃんと見たら、動かないって。
 そうっと船室内に視線を戻す。――船室の壁をなめるようにして、奥までのぞきこむ。冬眠装置の箱があって、ガラスの蓋がかかっていて、そして例の少年が、寝ている……。ゆっくりその顔に目をやると。
 ――え? 目が、合った!?
 叫び声も出ない。ぱくぱくと、口が開いたり閉じたり。あえぐ金魚のようだと自分で思う。しかし、そうなのだ。少年はしっかり目を開いて、カノンを見ている。
 生きている!? 
 こんな病原体が蔓延している宇宙船の中に!? 早く助けないと!
 衝動的に飛び出そうとするカノンの脳裏に、突然、衝撃的な光景がよみがえった。ハルトに投与するはずだったアンプル。眼前で靴に踏みつけられ、もろくも砕け散った。船内に踏み出した足が、凍りついたように動かなくなった。
 あの時だって、だめだった。私には助けられなかった。
 今回だって、こんな状況じゃ、もう無理。感染末期だし。助からない。無理だよ。絶対に、助けるなんて無理……。そうよ。このまま地球に突入して燃え尽きたって、誰も知らない……。
 カノンの逡巡は、ほとんど一瞬だったが、その間、少年はずっとカノンを見ていた。カノンも、無意識に少年を見ていて、そして。
 ――ま、まさか。……ハルト?
 成長して、そしてやつれてはいるが、幼いころの面影が、カノンに思い出させるに足るだけ、しっかりと残っている。冬眠装置の中に横たわっていたのは、まさしくハルトだった。
 よろよろと、カノンは危うげな足取りでハルトに近づく。ガラス越しにハルトを見て、そこでへなへなと体中の力が抜けた。今度こそ、立ち直るのは不可能だと思った。自分が感染の原因となったあの日を思い出し、そして、その後に引き起こされた大惨事を想像し、カノンは自分の罪の重さに、今更ながら打ちのめされてしまったのである。
 見ないことにして立ち去ろうとした、私自身への罰ね。私も一緒に、このまま、地球に落ちて、燃え尽きてもいい……。カノンはハルトの傍らに寄り添って、静かに目を閉じた。ヘッドセットから聞こえる水戸の怒鳴り声は、そのままスルーされた。
 宇宙船は速度を上げて地球へ向けて飛んでいる。水戸からの呼びかけは、太陽系外縁から離れるにつれて弱くなり、木星軌道を越えてからは、その磁界に邪魔をされて、ほとんど雑音にしか聞こえなくなった。
 これで、やっと静かになる。そう思った矢先、地球からの無線がききなれた声を運んできた。
「カノン。聞こえてるんだろ」
 いつものように冷静な声。忘れもしない、アキラの声だ。この期に及んで何? あんたの声なんて聴きたくない。放っておいて。
「答えたくなければ、答えなくっていいが。……君はいつもそうだ。望まれないときに無謀な事件を起こすが、期待されているときには全く動かない。今回も、起死回生のチャンスをそうやってみすみす逃すのか?」
 ばかアキラ。勝手に好きなように言ってればいいのよ。あんたになんて、私の気持ちがわかるわけない。すべてが順調に行っている、エリートコースのあんたなんかに!
「そこにいるのは、ハルトだろ。きみが助けたかった。違うのかい?」
 え? カノンは耳を疑った。どうして、アキラがそれを知ってるの? ハルトが宇宙船に乗っているなんて、水戸にさえ、知らせなかった。自分以外に誰も知らないのに……。
「もう一度助けるチャンスが巡ってきたんじゃないのか。それなのに、君は何も手を打たないのか。まあ、それも君の好きにすればいいけど。やってもやらなくても、時間は過ぎるよ。そうして、取り返しがつかなくなる。やらないで後悔するなら、やってから後悔、それが君のモットーだろ。……少しでも迷いがあるなら、動け、カノン!」
 動け? 動けって言ったって……。
「……だめ。わからない。どうやったら動けるのか。もう、わからなくなった!」
 アキラにこたえるカノンの声は次第に大声になり、最後には叫んでいた。わからない。わからない。わからない!
「しっかりしろ、カノン。まず、宇宙船の最上部に行け。そこには補助エンジン調整のシステムがある。主力エンジンは既に切れていて慣性飛行中だから、飛行経路を変えるためには、補助エンジンで……」
 カノンはゆっくり立ち上がり、アキラに言われるままに壁伝いに移動を始めた。こんなことしてもダメかもしれない。だけど、何もしないであきらめてしまうのは、やっぱりいやだった。
 宇宙船は、火星軌道を過ぎ、一直線に地球を目指していた。

★  ★  ★

α世界でそれが観測されたのは、火星軌道の内側に入ってきてからのことであった。飛行スピードがあまりに大きく、発見の一報から再確認まで時間を要している間に、気づけば地球の間近にあった。軌道は、地球へのコリジョンコース。大部分は大気圏で燃え尽きると予想されたが、一部は確実に地上到達が見込まれた。
 ゼルグラードは空を見上げながらも、特に問題になることはないだろうと高をくくっていた。たかだか二〇メートル程度の飛行物体だ。人口密集地域に落ちれば多少の被害はあるだろうが、その程度ですむだろう。
 ただし、それは一つの事実が明らかになるまでの話。
 火星軌道に展開していた彗星探査衛星が、飛行物体にプローブを打ち込んで詳細を調べた。岩石と鉱物が主成分だが、中に核酸の形跡が見つかった。太陽系外生物の痕跡か、と科学者は興奮した。核酸分析と並行して、地球上のあらゆる生命との類似点が検索された。もちろん、地球上の生命とは全く関連はない。しかも、核酸と当初報告されたが、どうやら誤報だったらしい。使われている塩基が似てはいるものの、機能するとは考えられない。
 大気圏への突入コースが計算され、太平洋上での消滅と推定された。人々は一様に胸をなでおろす。しかし、ゼルグラードだけは、不思議な胸騒ぎを覚えていた。
 やがて、ゼルグラードの側近の一人が、血相を変えてやってきた。
「ゼルグラードさま。この小惑星から検出された核酸様の物質について、ご報告があります」
 ゼルグラードの耳元で、耳打ちをするように伝える。
「見たことがある? 誰かが研究に使っていた、とか?」
 ゼルグラードは眉一つ動かさずに答えた。そうであれば、そのものを連れてくれば良い。
「それが、不可能なのでございます。そのものは、先日データごと持ち去って、今どこにいるかもわからない」
「アキラか!」
 ゼルグラードは小さく舌打ちをした。これ以上の貢献は望むべくもないと判断し、お払い箱にした、あの男か。しかし、とゼルグラードは特別の感慨もなく思った。特に特筆すべき研究成果はなかったではないか。やつの取り柄は、現実そっくりの仮想空間構築であった。それ以外、ゼルグラードの気を引くような成果はなかったはず……。
「それがどうした。その物質がどうかしたとでも?」
 側近はほんの少し後ずさりをしながら、小さな声を絞り出すよう発した。
「恐れながら、……アキラの研究結果では、感染すれば地球人類の大半が死滅するという病原体でございます」
 ゼルグラードは高らかに笑いながら言う。
「大気圏に突入すれば、高温で燃え尽きる。何をそこまで心配を……」
「太陽系外からの飛来物ゆえ、地球上に到達させるため、真空はもとより、高温高圧の過酷な条件でさえ、耐えることのできる、そういう仕様です」
 初めてゼルグラードの顔が側近に向き、凍るような冷気をまとった言葉が浴びせられた。
「なぜ、お前がそこまで知っている?」
「本当にお忘れなのですか? ……恐れながら、その指示をなさったのは、ほかでもないゼルグラードさまです。私は、それをアキラに伝えておりました」
 ゼルグラードの全身の力が抜け、思わず傍らの机に手をついた。
 まさか!
 確かに、そう言われてみれば、戯れに、そのような研究をさせたことがあった。しかし、それは仮想世界でのシミュレーションにすぎないはずだ。現実に、そのようなものが。
 ゼルグラードは空を見上げる。未来を見通すというその目に、金星よりも明るい光点が音もなく火の粉を撒き散らしながら空を二分し、引き続く衝撃波が世界を揺さぶる光景が幻のように浮かんだ。
 アキラの研究結果が真実ならば、太陽系外からもたらされた病原体による感染症は人類の大半を死に至らしめるであろう。皮肉なものだ。私ともあろうものが、何を見間違えたのか。窓ガラスに映るゼルグラードの顔に、暗い笑みが一瞬現れて、消えた。なすすべは、何もない。
 飛行物体の軌道を変えようと、地球近傍に配置されている各国の軍事衛星から、ミサイルが放たれた。その結果に特筆すべきものは何一つなく、ただ思いのほか命中率が低い、ということだけが明らかになった。飛行物体は、一直線に地球の大気に突入し、まぶしく光る長い痕を残して、真っ青な太平洋に吸い込まれるように消えていった。
 地上から人々がどのような気持ちでながめていたかは、誰も知らない。

★  ★  ★

モニターは、すでに何も映してはいなかった。そこまで見れば十分だった。
 アキラはソファに静かに身を沈めると、ゆっくりとまぶたを閉じた。胸いっぱいに吸い込んだ空気を、細く長く吐き出す。
 仮想世界の一つが幕を下ろした。ただ、それだけ――。仮想世界αは終わった。あの世界にミチュエーリ対応のパラメータはない。勝算のないα世界は幕を閉じたのだ。
 だが、ぼくはもう一つの世界――β世界にいる。
「アキラさん、面会が可能になりました」
 面会可能になったら知らせて、と頼んでおいた検疫官が、連絡をよこした。
 太陽系外から侵入してきた宇宙船は、過去の地球から近傍の星系を旅して戻ってきたもの。元はと言えば、アキラがミチュエーリ症候群を発症したハルトを載せて打ち上げ、地球への航路を指定した。アキラの幼馴染と設定したカノンの打ちひしがれた姿を見捨てられなくて、つい小細工をしてしまった。
 自分の作った仮想生命であるカノンに、情が移ったというか。あの、天真爛漫で根拠のない自信に満ちたカノンに戻るきっかけを仕込んでおいたというか。……まあ、自分とは正反対の彼女に、ある種の憧れを抱いていたのは否定しようのない事実。
 そして今、ぼくはカノンと同じ世界に存在する。
 モニターでのぞいていた世界は、中に入ればこんなにも色鮮やかで豊かだ。窓から差し込む日の光を浴びて、アキラは大きく深呼吸をした。ぼくに残された、たった一つの世界が、ここでよかった。

カノンはEKBO最前線基地J08にいた。宇宙船は、地球の大気圏突入直前に進路変更に成功し、フライバイをして、そのままEKBO最前線基地の宙域まで引き返した。巡航艦ツクバに搭載された、水戸が開発した納豆由来の天然カーボンナノチューブを編んで作った網で捕獲された。
 カノンとハルトはそのまま隔離され、地球からの医療班を待たずして、ミチュエーリ病原体は除去された。納豆菌を遺伝子組み換えした強力な解毒作用を持つ微生物が、ミチュエーリ病原体を無毒化していた。納豆が体に良いことは認めるが、どうも食べづらいといってカノンが暇に飽かして遺伝子操作をしていたものの、副産物と言ったところだ。
「さすが、納豆。昔の人の知恵って、すごいわね」
 一足早く様子を見に来た冴子が感心したようにつぶやいた。おみやげに、と藁苞納豆を一抱え、職員から譲ってもらっていた。地球では既にお目にかかることがなくなった食品だけに、これだけの効用を謳えば案外大ヒット商品になるかもしれない。イロハに研究させて、売り出そう。儲けは山分けね、と冴子はカノンにウィンクした。
 ハルトを載せた宇宙船がなぜ太陽系に戻ってきたかについては、冴子が話してくれた。アキラは仕事に忙しそうだから、と。アキラが自分で言うのは、気まずかったのかもしれない。あいつも、悪いやつじゃないのよね。小さい時から、なんとなく張り合ってきたけど。
 ――ハルトが元気になったら、紹介してやるか。コイツのせいで、長い間苦しんだけど、生きてられるのも、やっぱりアキラのおかげだよって。

回復したハルトは、EKBO最前線基地から地球に移され、身体的にも社会的にもリハビリが行われていた。ハルトの存在は機密情報になっているため、異星間コンタミネーション疫学研究所の附属病院に入院している。
 ミチュエーリ病原体付きの宇宙船による被害を食い止めたと、カノンの終身刑は取り消しされていて、元の職場に復帰していた。
 カノンは時々ハルトを見舞う。宇宙船の中で数年過ごしたのだろう。回復したハルトは少し成長して、しっかりとした少年になっていた。しかし、ハルトにはカノンがあの時のネコだったと知るすべはない。それが、カノンは少し悲しい。すっかり変わってしまった未来の地球で、誰も知らないこの場所で、なにか心を紛らわすものは……。

外には雪が降っている。
 アキラは附属病院に入っていくカノンを見つけた。手に大きな紙袋を持って。
 また、よからぬことをたくらんでいる。アキラは一人苦笑した。久しぶりにとれた休暇だ。カノンの悪巧みに加担するのも、一興。あとをつけるようにハルトの病室を覗く。そこには、白いネコのぬいぐるみを着込んだカノンが。予想通り。窓辺に立って、鳴いていた。
「ほら、ハルト。雪が降ってるにゃ~ん」
 ハルトは凍りついたように、微動だにしない。笑いを取りたい必死さが、カノンからひしひしと伝わってくる。……しょうがない。助け舟でも出すか。
 アキラはハルトのベッドの隣に立ち、カノンを指して言った。
「ユキちゃんだよ」

「ひどい、アキラ。あれはない。ハルト、爆笑してたし」
 病院を後にして、カノンはアキラと帰路についていた。
「いいじゃないか。ハルトも気が付いてただろ。きみの……」
「泣きぼくろが、ユキちゃんの毛色と同じって、散々笑われたし」
 カノンはふくれながら、そっと左目の下にあるほくろに手をやった。不思議と、このほくろはネコになっててもあったのよね。まあ、いいか。ハルトが笑ってくれたなら。そして、隣を歩くアキラを横目で見る。
 こいつも、いつの間にか性格が明るくなった。今までは、少し距離を置いたように冷めた目で見ていたけど。つきあいやすくなった。やっと、仲間になったっていう感じ? ……アキラも成長しているんだなぁ。
 翻って、自分のことを考える。なんとなく、満たされてるなぁ。今の私。久しぶりに戻ってきた職場では、研究が楽しくてしょうがないし。少し離れていただけなのに、充実感あふれる日々。あれほどうらやましかったアキラの時空間移動でさえ、いまはどうでもいい、か。
 ふと顔をあげると、いつの間にかアキラの背中が数メートル前にあった。開いたアキラとの距離を縮めるように、カノンは小走りし、隣に並んで顔を見上げて言った。
「アキラさ、どうせ帰っても一人でご飯でしょ。一緒に食べてかない?」

 

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内容に関するアピール

1年間にわたって『内容に関するアピール』を毎回書いているわけですが、最後までアピール文は上達しなかったと思います。ほぼ、作品制作に関する感想文と化していたかと。

最終実作に当たって、何がアピールできるかを考えてみました。
まず私には、知的格闘技のようなSFは書けない、ということが明らかになりました。
ただ、内容の良しあしは別として、たぶん、さらっと気軽に読める。そして、ありがちですけど、最後はちょっと上がった気分で読み終われると思います。
うまく伝えら得たかどうかは?なのですけど、私の中では妙に面白い世界が生まれていて、書きながら思いのほか楽しかったのがうれしい驚きです。ただし、梗概に助言いただいた、ネコの気ままさが宇宙を救う「ネコメディ」にはなりませんでした。すみません。

 

 

文字数:337

課題提出者一覧