さしずめここには何かがありそうで
のどの渇きを覚えた。何気なく手を伸ばした先の紙コップは、手ごたえからするともうすっかり空になっているようで、ふとそちらに目をやり、ただ紙コップに何も残っていないということを確認すると、しみじみと両目に熱っぽい疲れが溜まっていることを強く感じた。眼鏡をはずし、目頭を強く揉む。首をゆっくりと右に回し、ゴリゴリと音を鳴らしながら同じように左に回す。両肩をぐるぐると後ろに回し、ぐっと力を入れてしばらく堪え、溜まった息を吐きだすと今度は前に向かって回し始める。しばらくすると凝りがほぐれ、淀んでいた血行がどうにか流れ始め、雪解け水の流れるさまなどイメージするが、全体にこの重たく張り付いたような疲労感は少なくなるという訳でもなく、そう言えば夕食を取り忘れたなと思い出し、目の前の画面に映る宇宙ステーションのイラストと画面右下に表示されている時刻を見ながら、ああ、俺は一体何をやっているのだろうと、今度は組んだ両手をくねくね動かしながら考える。おそらくは深夜、照度の落とされた室内、プラスチックの衝立で仕切られたブースの中、灰色のスチールデスクの上開かれたノートパソコン、その周りに乱雑に広げられた書類やら図面やら、空っぽの紙コップの底にはすっかり干からびてしまったコーヒーの記憶が茶色く張り付いている。そのまま両手を前方に伸ばし、ゆっくりと上部へと引き伸ばす。首の付け根あたりに軽い疼痛を感じるがそのまま組んだ手のひらを後頭部に当てて、両肘を側頭部に向けて絞ったり開いたりを繰り返しているうちに次第に風景に意味が付加され始めて、そして俺はこののどの渇きを何とかしようと考えた。ウォーターサーバーで水を飲むか、階下の喫煙コーナーの自動販売機で缶コーヒーでも買うか。ブースを出て、誰もいないオフィスを抜け出す。それまで暗かった廊下の照明がセンサーで明滅しながら、俺の行方を先導する。指の動きに先行する影絵のような違和感があるのだが、不思議と嫌な感じはない。
水墨画の様といえば聞こえはいいが、ただ色彩がないだけの風景だ。濃淡様々ではあるが、どこまでもいってもグレーの視界が広がっている。たまに見る嫌な夢の色合いに酷似している。
対岸のシルエットまで続く川面はなだらかで波一つない。河口のそばであるこの辺りでは流れも静かで、だから、浮かべた精霊舟も先ほどから同じ場所に揺蕩っているだけだった。それはまるで成仏できずにいる母の魂のように僕には思え、バランスの悪い手作りの舟体が行き場所もなく足止めされているのをじっとりとした焦燥をもって見つめていた。多分この僕が心残りになって、ここから飛び立つことができないでいる。
その年の春に母を亡くしたのだった。僕が十五、母はまだ三十五歳の若さだった。心臓のちょっとした欠陥が、早すぎる母の死を演出した。それは全く容赦なく振り下ろされる指揮棒の様に、僕の新しい人生を奏で始めた。
それまで僕たちは二人きりで暮らしてきていて、頼るべき係累などなかった。僕は父親を知らずに育ったし、母は父親を早くに亡くしていた。存命しているとは言え、その母親は痴呆症を患い施設に入っていた。葬儀を終え後日、報告に行くと、上半身を起こし上掛けに埋もれるようにした祖母が、昆虫の複眼めいた無感覚な眼差しでこちらを見つめ、
「お若いのにお気の毒様」
そう言って、笑った。
一年後、その祖母も逝った。
小さくひねこびた緑色の宇宙人の様な死顔だった。
ともあれ、大体そんな行事をやるような川ではなかったのだ。他には一艘もそんな舟の姿などなく、まして僕の他には誰もおらず、たまに空を行く黒い鳥の影が水面に映るだけ。このまま永劫が過ぎていくに違いないと、そう思った。このままではここから誰も解放されることはない、誰もどこかへ行くことなど叶わない。
僕は手ごろな大きさの石を探した。着水の瞬間、それなりの水の動きを生んで、舟を淀みから解放してくれるようなそれを。よく見れば周りには、それこそ賽の河原めいた丸石がごろごろとあり、事も無く一つを手に取り、舟の少し先を目掛けて放り投げた。狙い通りの位置に石が落ち、思っていたよりも大きな波が立った。舟は若干水をかぶり、けれどもしぶしぶ首を川下へと向け、少しではあるが流れを掴もうとしている。勢いづいてさらに数個の石を投げ入れると予期していたように、そのうちの一つがもろに船にあたり、もとより薄い板でできた造り、ぱっとはじけて割れて、あっという間に沈んで消えた。ちゃぷちゃぶと水の音が聞こえ、潮が満ち始めてきたのか、心なしか川の流れが強く勇壮になった
気がした。僕はもう、ただ無心に石を投げ続けているだけだった。
ごとんと音がしたので取り出し口に手を入れる。生暖かく毛むくじゃらな感じがしたので目をやるが、銀色のアルミ缶が斜めになってプラスチックの蓋に引っかかっているだけだった。水平にし、取り出す。ごく普通のよく冷えたコーヒー飲料だった。猫でも犬でもネズミでもない。
そばのベンチに腰を下ろし、スタンド型の灰皿を引き寄せる。胸ポケットを、そして尻ポケットを探すが煙草もライターも見つからない。
あれ?
そう言えば、禁煙して何年がたつのだろうか、煙草を止めるのにさほど苦労した記憶もないが、それを言うなら、煙草を吸っていた記憶もない。煙草だけに煙に巻かれた気分で、苦笑いを浮かべ、とりあえずコーヒーをすすった。
エレベーターホールの方から光がさしてきて、誰かがやってきていることには気づいていた。特に凝視しないように視界の隅でとらえていると、そのメガネの青っ白いあんちゃんが軽く会釈すると喫煙コーナーに入ってきた。見るでもなく見てるとミネラルウォーターのボタンを押し、手を差し込んでぎょっとして、取り出し口をのぞき込み、首をかしげながら商品を取り出し、一口飲んだ。
「なんか変な感じだったろ、あんちゃん」
と声をかけると、ちょっと引いた感じはしたがせいぜい愛想よく、
「ガサガサして細長いものがずるずると手の甲に這って行ったような感じがして」
と答えた。猫でも犬でもネズミでもなかったらしい。
誰かいるのはわかっていたが、薄暗いシルエットの様にしか見えなかった。お互いこんな時間までオフィスにいるのだから、仕事が好きなのか、仕事の効率が悪くて残業しなければ間に合わないのか、家に帰りたくないのか、そもそもここ以外に存在する場所がないのかと、様々な場合を考えるが、コインを入れて商品を取り出し、まぁ実際にはその手前で何かこう爬虫類の尻尾的な何かで手を撫でられたような気がしたのではあったのだが、キャップを開けて一口飲んで、其の水気を口にした瞬間、ああ、俺はこんなにものどが渇いていたのだと今更のように得心し、そこへおやじの声がしたので、ちょっと白けた。適当に何かを答え、そして本格的に水を飲む。ごくごくごくごく、あっという間に一本目を開け、コインを入れて、ボタンを押して、先に取り出し口を確かめておいてからペットボトルを取り出し、キャップをひねり、ごくごくごくと、それをかれこれ四回くらい続ける。
ああ、でも俺は缶コーヒーを求めてここに来たはずではなかったか。水なら上の階にもウォーターサーバーがあったのに、二リットルほどもミネラルウォーターを腹の中に収め、後悔にも似た思いを今更のように味わう。
文字数:3010
内容に関するアピール
未完です。すみません。
情緒空間、そこではデータ化されたすべての意識が、緩やかに一体化するための前室のようなところ。
割り振られたリソースの多寡により、そのリアリティが左右される。時制についてはすべてが同じ手触りで再現され、そして必ずしも時系列に沿わない。強烈な感情をノーマライズして穏やかな気持ちに統一化してゆく。
俺、僕、私の人称代名詞によるキャラクターと、一人称の文体から人称代名詞を抜いた文章とでるつぼ感を出して、最終的には私小説にするのが狙いです。
文字数:226