One Last Move
その人型機械は、吹き荒ぶ風雪の中、まるでバレエを踊るように、しなやかに天を目指した。
ごくごく、ありふれた登攀機だ。アマチュアの機械登山家を中心に使用者の多い、アルプテック社製の<アイスマンⅢ>。関節の数は人間の半分にも満たず、その可動域も決して広いとは言えない。5m余りのボディを支える骨格にも、過酷な登攀に耐える剛性こそあれ、舞踊を表現するほどの柔軟性は備わっていないはずだ。人型機械の完成度が、人間の身体的な特徴をどれだけ上手く表現したかで計られるのなら、この登攀機はとんだ出来損ないに違いない。
だが、美しかった。
無慈悲にそり立つ崖の上、僅かに点在するホールドポイントに、手をかけ足をかけ身を引き上げる。一歩間違えれば詰むことすらあり得るその一連の動作には、しかし一遍の迷いすら感じられない。まるで全身のパーツの一つ一つが、己の進むべき道を熟知しているかのような、そんな正確無比な舞踊。
その踊り手たる操縦者の名は、エミーリオ=ナガノ、38歳。天才の名をほしいままにする、機械登山家だ。彼のステージを最終キャンプで見守る仲間たちは、この同僚の雄姿に、畏敬の念すら抱いていた。
オリオン座β星の最高峰、アンナプルナ・ノヴァ。その昔、地球で初めて征された8000m峰、処女峰の名を冠するこの山は、高度2万8749m。当時、前人未踏だった2万m峰だ。この化け物じみた高度を相手にしてもなお、男は終始物怖じせず、公演最終日を迎えたバレエダンサーのごとき練度で、超絶技巧のステージを演じ続けていた。
正規の登山訓練を経ずにプロ入りした、辺境の貧乏コロニーの出身者である彼を、最初は嘲笑する声もあった。だが、ここまでくると彼の才能にはもはや疑う余地はない。全宇宙の機械登山ファンが、みな彼の偉業達成を確信し心待ちにしていた。
しかし、彼のステージは意外な幕切れを迎えることとなる。高度2万7900m、登頂を目前に控えた地点でBCに通信を入れたのを最後に、彼は消息を絶ったのだ。
その後ブラックボックスが回収されたが、映像データは破損しており、残っていたのは機体の動作履歴だけだった。解析チームの見解は、彼が『頂上に達するまえに壁上で足を踏み外し、激しく回転しながら墜落した』というものだったが、これには懐疑的な声も多かった。あの天才が足を踏み外すなどという初歩的なミスで命を落とすだろうか。
この「アンナプルナの悲劇」から10年。夭折の天才機械登山家、エミーリオ=ナガノの最期は、いまだ謎に包まれたままである。
× × ×
ほの暗いクレバスの奥底。まるでドジョウすくいを踊るような滑稽なポーズのまま、哀れな登攀機がジタバタしながらひっくり返っていた。
全長は約4m。ドングリに手足が生えたような不格好なフォルムが、あられもないポーズにより一層の面白みを添えている。アルプテック社製<アイスマンⅡ>。このドングリボディがかつて「コロコロしていてカワイイ」「コンパクトかつスマート」などと持てはやされた時代があったことは、今や殆ど知られていない。
その手に握られたアイスアックスは、一応登攀機メーカー大手、サウスフェース社の最新モデルだ。だが、この20年落ちのドングリにはまるで似つかわしくない。このオンボロに装着されると、どんな最新ギアでも、ドジョウをすくう竹ビクほどの役にも立たなそうに見えるのだから不思議だ。
「すみませーん!誰か助けてくださぁーい!」
そのコックピットには、すがるように無線を送る少女、ナオミの姿があった。不安に歪む日焼けした顔には、外気マイナス10℃以下の環境にもかかわらず冷や汗がしたたっている。
万一マスコミにインタビューされた時のためにと、いちおう流行りのスタイルにセットした髪型も、落下時の衝撃でもみくちゃにされ、見る影もない。こんなピンチの時、彼女をサポートしてくれるはずのサポートAI<テンジン>は、さっきから沈黙を保っている。コックピット全面のHUD表示も、一切消えてしまった。そして何より、ひっくり返ったボディを立て直す、重心制御ユニットもなぜかフリーズしている。バッテリーの一部がイカれたのだろうか。
このままでは埒が明かない。しかし、必死に助けを求めるナオミを嘲笑うかのように、ズシン、ズシン、トォンと、軽快なステップで少女の頭上を跳躍していく音が、いくつも生じてはクレバス内に木霊する。
「お願いしますよーっ!誰かーーっ!」
ナオミは齢18にして、生まれて初めて『お池にはまったドングリ』の気持ちを知り、大いに同情した。ドジョウが出てきてコンニチワするまでの間、どんなにか心細かったろう。ああ、私もドジョウに会いたい。
だが、必死の呼びかけにも関わらず、クレバスにハマったドングリを救い出す者は現れなかった。当たり前のことである。今はレースの真っ最中なのだ。
みずがめ座α星の最高峰、ダウラギリ・ノヴァ、高度2万1573m。現在人類の生活圏内にある14の2万m峰のうち、唯一未踏のまま残されていた山に、ようやく登山許可が降りたのは半年前のこと。これは瞬く間に宇宙中の機械登山家たちの知るところとなり、宇宙山岳協会には登山申請が雪崩のごとく押し寄せた。
このビッグウェーブに目をつけた登攀機メーカー各社が急遽『初登頂を賭けたサバイバルレース』を共同企画したのは当然といえた。いまや機械登山はメジャースポーツであり、機械登山家は子供たちの憧れの職業のひとつだ。宇宙全域の機械登山ファンが注目する、この未踏峰への挑戦を見逃す手はない。
各登攀機メーカーは、その技術力の粋を集めた最新の登攀機をこのレースのためだけに開発し、名だたる機械登山家たちに託した。今、ナオミの頭上を通過しているのは、そんな各メーカーの期待を一身に背負ったレジェンド級の実力者たちばかりなのだった。
ナオミが落っこちたクレバスは、スタート地点たるベースキャンプ(標高約1万2414m)から1kmも離れていない。しかも、深さはせいぜい15mほど。登攀機にとってはなんてことない高さだ。もっと高所から落ちたなら、自動的に安全装置が働き、推進剤が噴射されたことだろう。十二分に受け身がとれるほどの深さで、コロコロ転げ落ちている雑魚を気にかけて、みすみす初登頂を逃すバカはいない。
「あーあ、なんでこんな事になっちゃったんだろ……」
深いため息をつきながら、ナオミはうらめしそうに天上の亀裂を眺めた。暗いクレバスの底から眺める空は、ウンザリするほどコバルトが濃く、明け方にも関わらず既に星が瞬いていた。
手持ち無沙汰に機外カメラをテレ側にスイッチし、星の一部を拡大する。と、ナオミはそこに見慣れた星座を発見した。いまの時刻ならその方角に彼女の故郷、コロニー235Bがあるはずだ。
最新鋭の高級登攀機が跳梁跋扈するこの大会に、どうしてこんな場違いのドングリが出場することになったのか?話はレースの半年ほど前に遡る。
× × ×
その日、ナオミはドングリに乗って、235Bの外壁補修作業を行っていた。
宇宙開拓すらAI搭載の無人機に任される時代に、なぜ有人機に危険な外壁メンテをやらせるのか?理由は簡単、コロニー長が金を惜しんだからである。最新鋭の無人機を買うより、人を機械に乗せてこき使ったほうが安くあがる。その機械も、ジャンクの登攀機を修理して使えば、タダも同然で仕入れられる。こうした理由から、235Bでは通称『窓拭き』と呼ばれる中古登攀機部隊によって、外壁メンテが長年手作業で行われてきた(235BのBが貧乏Bなどと揶揄されるのは、こうしたドケチ体質ゆえである)。
ナオミは親子代々この仕事を続けている、窓拭き部隊のエースだ。特に仕事の速さには定評があり、断熱パネルと耐衝撃フィルムの張り替えスピードは歴代最速と噂されるほどである。
さて、ナオミが、第16居住区を清掃していた時のことだ。235Bの中でも比較的裕福なものが多く住むこの区画の外壁は、星空が見やすいよう、強化ガラスの上から透明度の高い特殊な耐衝撃フィルムが貼られている、という構造になっている。
ナオミがこのフィルムを剥がし、新品と交換しようとしていると、
「ナオミ、落ですよ、ラ~クッ!」
ドングリに搭載されたパートナーAI、テンジンがいつになく大きなデブリ警報を出したのだ。
「嘘、デブリ予報じゃ今日は快晴だって……」
「AIは嘘つきませんって!」
半信半疑で背部レーダーを入れるナオミ。と、そこに映し出されたのは……デブリの雨だった。
「やばい、ぶつかるッ!!」
咄嗟に回避機動をとり、なんとか事なきを得た。しかし。ナオミをすり抜けていったデブリたちはと言うと……対衝撃フィルムの外されたスッピン状態の強化ガラスと、激烈なランデヴーを果たしていた。
こうしてナオミは、1日にして給料3年分に相当する額の負債を背負うことになったのだった。
「すごい量のデブリだったんですよ!」
と息巻く彼女の弁明は、ついぞ聞き届けられなかった。「デブリの飛来時には、自らの安全よりコロニーの壁の保護を優先せよ」という、非人道的な契約がまかり通っているのが、この235Bである。235BのBは、BlackのBでもあるのだった。
幼くして両親を失っているナオミには、返済を助けてくれるような身寄りもいない。
「22歳から3年間の青春を、借金返済に費やすことになるなんて……最悪だ」
と絶望のクレバスに転落するナオミに、
「正確には3年と2ヶ月です」
とテンジンが追い打ちをかける。
「もういい、みなまで言うな」
ナオミは致し方なく、借金の早期返済のため、窓拭きのシフトを倍にする覚悟を決めた。が、そんな状況の最中、「ダウラギリ・ノヴァで機械登山のレースがある。各種費用は負担するから出場してみないか」
と、助け船を出したのは、なんとドケチで有名なコロニー長だった。確かに、レースの優勝賞金は、彼女の借金を返済してもお釣りが来る額だ。一般的に考えれば悪い話ではない。
しかしナオミは、彼が出してきたオファーの真の意図が、単なる人助けとは別の所にあるということを十二分に理解していた。コロニー長は、ナオミに機械登山界に復帰し、英雄の代役を演じてほしいのだ。この辺境の貧乏コロニーが唯一輩出した、宇宙規模の英雄。ナオミの父、エミーリオ=ナガノの代役を。
× × ×
ダウラギリ・ノヴァのクレバスの底。半年前の事故に思いを馳せながら、ナオミは自分の下した決断を深く後悔していた。借金を返済したい、という思いももちろんあったが、
「そろそろあの頃の感覚を取り戻せるかも」
と少し期待していたのは、やはり浅はかだったか。
父がまだ生きていた頃、ナオミは無敵だった。父に憧れ、はじめて登攀機の操縦桿を握ったのは、まだ3歳の頃だった。父譲りのセンスでメキメキと頭角を現し、6歳にして史上最年少でプロ資格をとると、8歳でマシンボルダリング競技のジュニアチャンピオンに。12歳になる頃には、やはり史上最年少で、8000m峰の頂を極めてみせた。
「私も、いつか父さんみたいな無敵の英雄になるんだ」
と、その頃のナオミは信じてやまなかった。だが『アンナプルナの悲劇』が、全てを変えてしまったのだ。
幼いナオミが物怖じせずに山に向かうことができたのは、無敵の父がいたからだ。無敵の父の娘であるという強力な自負と自己暗示とが、彼女の勇気の源だった。
しかしその父が登頂に失敗し、死んだ。
これは、あれだけ勇気りんりんで山を駆け上っていた少女が、山で臆病風に吹かれるようになるのに、十分な衝撃だった。こうして、天才少女ナオミは、英雄エミーリオとともに宇宙の登山史から姿を消したのだ。
父の遺志を継いで頑張ってみないか、と声をかける者は多かった。だが、雪を見るだけで足がすくみ、崖を想像しただけで頭痛がするような人間に登れる山などあるはずもない。ナオミは復帰へのオファーを断り続けた。
が、その後も窓拭きの仕事だけは続けようと頑張ったのは「ずっと登攀機に触れていれば、いつかまた山に登れる日が来るのでは」と少し期待していたためだ。<アイスマンⅡ>に乗り、仕事をしつつ臆病風が凪ぐのを待ち、いつかまた山に登ろう。
そして、風を読み続けること10年。ナオミは、ダウラギリ・ノヴァで復帰の可能性を占うことにした。いきなりコロニー長の期待に応えられるとは思えないが、10年もたてば、少しはマシになったかもしれない。
だが、その結果は思った以上に残酷なものだった。案の定、山に対する恐怖心は拭えておらず、BCにいたるまでの道のりで既にナオミの精神は疲弊。さらに、サポート体制の貧弱さがそれに追い打ちをかけた。
「各種費用は負担する」
などと言っていたくせに、結局コロニー長は登攀機本体への投資は惜しみ、そのサポートはアイゼンやアックスなどの各種ギアを提供する程度に留まった。このせいで、ナオミは発売後すでに20年が経過し、父から譲り受けてから10年間、窓拭き専用機となっていた、この“ドングリ”こと<アイスマンⅡ>で出場するハメになってしまった。
最新のミリ波レーダーで雪に隠されたヒドゥンクレバスを華麗に避け、ずんずん進んでいく最新機たち。それに引きかえ、ドングリにはそもそも、そんな高性能な機器は搭載されていない。まともなルートファインディングもできぬまま、新雪をかぶったヒドゥンクレバスを踏み抜いたのだった。
「やっぱり、ダメか……」
そう独りごつと、ナオミは推進剤噴射スイッチの封印カバーに手をのばした。この体勢でも、推進剤を吹かせばとりあえず外には出られるだろう。
他の登攀機にクレバスから引き上げてもらった後の登攀継続は認められているが、推進剤でクレバスの外へ飛んだ途端、ナオミは失格となる。『推進剤を使わずに登頂した場合のみ、正式な登頂記録とみなす』というのが、機械登山の基本的なルールだ。
「ごめんね、お父さん。やっぱり私、無理みたい……」
言いつつ、スイッチカバーを開いたその時である。それまで、消えていたはずのHUD表示が一部復活し、サポートAIの動作を示すランプが再度、点灯した。
「テンジン……!もう大丈夫なの……?」
慌てて呼びかけるが、返事はない。音声認識が上手くいっていないのだろうか。マイク端子にゴミでも詰まったか……?不思議に思っていると、突然、ガタァン、と大きく機体が揺さぶられた。
「ぎゃッ、な…何……?地震!?」
ビビるナオミの視界から、天井のクレバスが消えた。ドングリが身を起こしたのだ。それも、ひとりでに。
「ちょっと、テンジン!ねえ、あなたの仕業なの!?」
その可能性は無いと分かりつつも、呼びかける。この20年落ちのオンボロには、最新機のような自律運動する機能は搭載されていない。
ナオミの声を一切聞く様子のないままに、暴走ドングリは次の行動を開始した。クレバスの壁面に正対すると、右手に持ったアイスアックスを頭上の氷に打ち込む。足元に装備したアイゼンの刃を蹴り込み、氷の表面にステップを作って登る。これをリズミカルに繰り返しながら、ドングリはひとりでにクレバスからの大脱出を図りはじめたのだ。
「なにが、どうなってるの……?」
事態を飲み込めないでいるナオミをよそに、ドングリの脱出行は黙々と続く。AIのバグか誤作動か、とナオミは勘ぐる。しかし、それにしては、このドングリの動きは美しすぎた。
氷の凹部を狙い、的確に打ち込まれるアックス。ひざから下を振り子のように運動させ、必要最低限の力で蹴り込まれるアイゼン。一連の動作のどこをとっても無駄がないのだ。とても、誤作動によって偶然引き起こされた動きだとは思えない。
さらに気になることに、ドングリは右手のアイスアックスしか使わず、左手を空けたまま氷壁を登っていた。腰部のギアラックに、アイスアックスがもう1本備わっているにも関わらず、である。
登攀機を用いたアイスクライミングにおいては、左右の手に1本ずつアックスを持ち、それを交互に打ち込んで用いる<ダブルアックススタイル>が一般的である。このご時世にシングルアックスでグイグイと氷を登っていくドングリの姿は、まるで「これくらい腕1本で充分だろう」とでも言わんばかりだ。結局、ドングリは1分たらずでこのピンチを脱してしまった。
「よくわからないけど、とりあえず出られたし。よしとしますか……」
ナオミはほっと胸をなで下ろし、全システムをシャットダウンしようとする。どうせ、今の状態ではレースは続行できないし、上位250位以下までは足切りだ。ここは潔くリタイヤして助けを待とう。
だが。
「あれ……?システムが……落ちない!?」
ガシャッ、ガシャッと強制停止レバーを何度も引き下げるが、止まる気配がない。それどころか、ドングリはキョロキョロと何かを探すように小刻みにカメラを動かしはじめると、ルート外れの森林帯に向け雪上を猛然とダッシュし始めたのだった。
「ちょ、ちょ!止めて、誰か止めてくださいー!!」
反応、なし。どうやら、無線がイカれているようだった。参加者のほとんどは、もうずいぶん先に進んでいる。後ろで異常行動を起こしている登攀機を気に留める者など、誰もいない。
「ぎゃーーーーーーーっ!!」
素っ頓狂な声をあげるナオミ。それにお構いなしにドングリはズンズン進み、森林帯に到着。背嚢から刃渡り20cmほどの登攀機用ナイフを取り出すと、目の前に生えていたある植物を、一文字に切り落とした。ダイダイオオマダケ、この地域の高山帯に自生する、真竹状の植物である。
ドングリは、このダイダイオオマダケを器用にナイフで10m長に切りそろえると、2本の竹竿のような物をこしらえてみせた。
「登攀機が、勝手に工作するなんて……」
さすがに、誤作動やバグでは説明がつかないレベルだ。明らかに、何かしらの目的を持って、自律行動をしている。ナオミの知らない間に、登攀機のOSがアップデートされたのか?それにしても、登山中に竹竿などこしらえて、いったい何の意味が。
その答えは、すぐに明らかになった。
ドングリは2つの竹竿を平行に並べると、その中央に移動し、左右の手で竹竿を持ちあげ……果敢に走り出したのである。
「バ、バカ、何やってんの!?そっちは……」
さきほど落下した氷河である。せっかく抜け出したのにまた戻るとは、どういう了見か。このままでは、またヒドゥンクレバスの餌食である。しかし、ドングリの猛進は止まらない。そして、
ズボズボッ、ドッシャーッ!
「どわあああああッ!!」
案の定、また雪を踏み抜いた。ナオミの身体が、コックピットの中でふわりと宙に舞う。
「落ちる、死ぬーーーーッ!」
目をつぶり、衝撃に備える。が、しかし。
「あれ……死んでない……」
予期していた衝撃がこない。おそるおそる目を開く。と、機体がクレバスの中央で宙づりになっていた。なんと、両手に持った竹竿がクレバスの両端に引っかかり、ミシミシとしなりながら落下を食い止めていたのだ。
ドングリは竹竿をクレバスに架けたまま、リズミカルに左右の腕を動かして、しなる竹竿の上を前進していくと、クレバスの対岸に到達。丁寧に竹竿を回収して持ち直し、また勢いよく雪の斜面を駆け出すのだった。
走ってはクレバスに落ち、また走り出す。登山と呼ぶには、あまりに破天荒な作戦。が、ナオミはこれに似た手法について、昔聞いた事があるのを思い出した。
「ナオミ=ウエムラの、マッキンリー……」
かつて、人類がまだ地球で登攀機を使わずに登山をしていた頃のことだ。ナオミ=ウエムラという冒険家は、ヨーロッパアルプスの最高峰たるモン・ブランの登山中、ヒドゥンクレバスに落下した。この反省から、彼が考案したクレバス回避法が「旗竿を束ねて、それを腰につけて歩く」というものである。落下しても、竿がクレバスに引っかかって助かるという寸法だ。
一見眉唾にも思える方法だが、実際に彼はこの方法を北米大陸の最高峰、マッキンリーを登る際に実践し、見事その頂を極めている。ドングリの竹竿作戦は、このナオミ=ウエムラの手法を、登攀機向けにアップデートしたものと言えなくもない。
だが、ナオミ=ウエムラの話は、いまや機械登山以前の登山史に興味を持つ一部のマニアが辛うじて知っているレベルのトリビアだ。そして、そんな物好きは、ナオミの周囲には死んだ父親くらいしかいなかった。なにせ、父はナオミ=ウエムラから、娘の名前をつけるほど、あの冒険家を敬愛していたのだ。このドングリの異常行動は、父と何か関係が……?
ナオミが訝しむ間にも、ドングリは落ちては走りを繰り返し、とうとう最後尾を進む登攀機集団に追いついてしまった。それもそのはずである。ミリ波レーダーを照射し、ヒドゥンクレバスの有無を慎重に確かめながら進んでいく他の登攀機たち。対して、ドングリはなにも考えずに全速力で斜面を駆け上がっているのだ。この方法なら、たとえ20年落ちの機体でも分がある。
このドングリの暴走は、結局目的地であるC1(1万5584m)に到達するまで続いた。蓋を開けてみると、ナオミはレースに参加している800機中250位。C1より先に進める、上位300位までの足切りラインを奇跡的に突破していたのだった。
× × ×
ダウラギリ・ノヴァを擁するみずがめ座α星には、後から入植した地球人以外にも、ガナラという先住民たちが住んでいる。真っ白な長い体毛に覆われた猿のようなその姿は、かつて地球のヒマラヤ山脈に住んでいると噂されたイエティの姿にそっくりで、初めてこの星を訪れた人類を多いに驚かせたという。
レース1日目の目的地であるC1は、もともとガナラたちが山に祈りを捧げるために作った神殿を間借りしたもので、キャンプというよりは、大規模なシェルターに近い。
みずがめ座α星の気候はかなり地球に似ている。が、標高1万mを超える環境では、宇宙服を着込まなければ歩くのも厳しい。ほとんど普段着同然で過ごせるシェルターの存在は大きかった。レース参加者のほとんどは登攀機を降り、しばしの間戦いを忘れ、ガナラの神官たちの用意した食事に舌鼓を打っている。
そんな彼らの中で、ナオミはすっかり話題になっていた。エミーリオの秘蔵っ娘が<アイスマンⅡ>などという超旧型機で電撃復活したうえ、竹を使った珍妙な戦術でヒドゥンクレバス帯を越えてきた。結果は250位と、トップランナーたちからすれば恐るるに足りない成績だったが、その目立ち方は上位入賞者たちをゆうに凌いでいる。レースをライブ中継しているマスコミ各社も、彼女に熱視線を浴びせはじめたのは言うまでもない。
この状況に、ただならぬ苛立ちを見せる少年がひとり。ラインホルト=メルクル、18歳。1年前、弱冠17歳で2万m峰のひとつ<ニュー・ガッシャブルムⅡ峰>を極めた、機械登山界のエースである。
金髪碧眼の整った顔立ちを強ばらせながら、彼は愛機<アイスマンXV>のスタイリッシュな、ロボットアニメの主人公機のごとき8等身ボディを見上げていた。全身ショッキングピンクの塗装は、趣味の良し悪しはともかく、目立っている。これは、彼のメインスポンサーであるアルプテック社が、彼のダウラギリ・ノヴァ初登頂のためだけに制作したニューモデルである。
「よりによってあの登攀機で、僕のXVより目立つなんて……クソッ!」
登山者が山に賭ける思いは人それぞれである。昔ながらの「そこに山があるから」登るというのがもちろん基本ではあるが、今や機械登山はメジャースポーツ。己の自己顕示欲を満たさんがために、山を登るという者も少なからずいる。中でも、このラインホルトという少年は、目立つことに人一倍のこだわりを持つ機械登山家だった。
彼の夢は、14座ある2万mを全て登りきり、完全登頂者になること。そしてそのすべてを、人々の語り草になるような、目立つ方法で登り切ることなのだ。彼にとっては、このダウラギリ・ノヴァは通過点に過ぎない。こんなところで、初日を250位で終えた雑魚に話題性で負けているなどという状態は、あまりに屈辱的だった。
「待ってろよXV。明日こそ、誰よりも目立たせてやるからな……!」
まさか首位を走るトップランナーが、250位の自分に対抗意識を燃やしているとは露しらず。ナオミはマスコミの取材を避けるように、ひとりシェルターの隅でドングリに籠もっていた。
「コーヒーが入りましたよ、ナオミ」
「ありがとう、テンジン」
コックピット内、ナオミは足下に備えられたコーヒーメーカーから、淹れ立てのコーヒーを受け取る。<アイスマンⅡ>の登攀機としてのスペックは時代遅れだが、コーヒーマシンとしての性能は、いまだ評価されていたりするのだ。
コーヒーをすすりながら、窓のHUD表示、そこに表示されている膨大な文字列に目を通していく。
「テンジン、本当になにも覚えてないの?」
「すみません、スタート直後にヒドゥンクレバスに落下した所までは覚えているんですが……あとは何も思い出せないんです」
ナオミが目を通しているのは、機体の動作履歴である。ログを辿れば、あのドングリが暴走している間、内部的にどんなプログラムが走っていたか、どんな処理が行われていたかが分かるはず。そう踏んだナオミだったが、テンジンの言うとおり、該当する時間帯の動作履歴に、有効なデータは残されていなかった。正確にいえば、履歴が壊れていた。
動作履歴と思しきデータはあるのだが、文字化けしているわ、タイムスタンプが乱れているわで、まともに情報を読み取れる状態ではない。
「明日に備えて、早く寝ないと。というか、本当にレースを続けるつもりですか」
「うん……そうしようと思ってる」
自分でも不思議だった。依然として、ナオミの臆病風は吹き止んでいない。ドングリが暴走している間、本当に恐ろしかった。二度とあんな思いをしたくないとも思う。だが、あのナオミ=ウエムラの件が、頭を離れなかった。父ぐらいしか知りそうもない、あの竹竿作戦を<アイスマンⅡ>がひとりでに実行するなんて……。
自分でも、そんなバカなと思いつつ、ナオミは死んだ父がこの<アイスマンⅡ>を通じて、何かを伝えようとしていたのではないか、という思いを持ち始めていた。自分が、あの頃の感覚を取り戻すため、知らなければならない何か。
このダウラギリ・ノヴァでレースを続けていれば、また父が自分にそのヒントを与えてくれるような、そんな気がしていたのだった。
× × ×
レース2日目、早朝。ガナラの神官たちが、毛むくじゃらの身体を激しく震わせながら火の周りをぺちぺちと跳ね踊り、山の神々に祈祷を捧げる。「神聖な神の領域に、よそ者が立ち入ることをどうぞお許しください」というのが、祈祷の趣旨だそうだ。
「ガナラの教えによれば、よそ者を神さまの聖域に入れると、空が落ちてくるそうです!」
ライブ中継しているアナウンサーの声が、ナオミのコックピットの無線にも響いてくる。
「明るい声で、またずいぶん物騒なことを……」
マスコミの無神経にあきれつつも、ナオミの精神状態は、比較的落ち着いていた。テンジンのアドバイス通り、さっさと寝たのが功を奏したようだった。だがそのすぐ後方、<アイスマンXV>に乗った天才少年は、興奮した様子で目をギンギンに血走らせ、
「どうやって目立とうか考えていたら、結局朝になってしまった……。くそ、あのアマ……!!」
と、大いに苛立っていた。
「坊ちゃん、さすがにそれはトバッチリでさぁ……」
サポートAIの<タルケー>も、ご主人さまの興奮状態に若干呆れ気味である。そして、こういうときのラインホルトはなにかと空回りしがちだった。タルケーの最新鋭AIは、わずか0.5秒のうちに200通り以上の嫌な予感を覚えたが、自身とご主人さまの精神の安寧のため、とりあえず黙っていることにした。
祈祷が終わりレースが開始されると、300機の登攀機たちの多くが一斉に2人1組のペアになり、ザイルをつないでC2(1万6905m)へと続く道を登り始める。これはもちろん、安全確保のためだ。
登攀機の安全装置はここ数十年で格段に進歩を遂げているが、それでもいまだ単独行での機械登山は一般的ではない。1日目のナオミのようなことにならないよう、滑落の危険がある場所では互いの登攀機をザイルで繋ぎ、万一の場合には一方が救助にあたれるようにしておくのが普通である。特に2日目のルートの最難所では、この工夫はほとんど必須といっても過言ではなかった。「うわああ……、これ、本当に全部氷なの……?」
言いつつ、呆然と立ち尽くすナオミ。その視界に広がるのは、<天国への階段>とも称される、宇宙最大規模の大滝がそのまま凍り付いて生じた氷瀑である。全長1.5kmにも及ぶこの難所を、パートナーの補助なしに登り切るのは至難の業だ。しかし、単独参加のナオミは無理にでもやるしかない。
「ナオミ。無理せず、ダメそうなら途中で推進剤を吹かしてリタイアしましょう」
「そうだね……。まあ、とりあえず頑張ってみるよ」
千里の道も一歩から、天国への階段は7合目からである。ナオミは両手にアイスアックスを構えると、それを交互に打ち込むダブルアックススタイルで、おそるおそる登攀を開始した。
「こ…こわいけど、昨日に比べれば平気かも」
235Bは、いわゆるシリンダー型のコロニーだ。窓拭きたちは、その回転方向に逆らいつつ外壁上を延々と移動することも多い。その時の感覚は、不思議と山で垂直面を登っている時の感覚に近いものがあるという。
カチカチ、セコセコと少しずつアックスを打ち込んでは、一定間隔でアイススクリューを打ち、ザイルを通して万一の墜落に備える。少しずつではあるが、ナオミは着実にC2へと高度を上げていった。
「もしかして、このコース私に向いてる……?」
今回の足切りラインは上位100名だ。だが、この調子なら……?と、わずかに希望の光が差す。
だが直後、ナオミのすぐそばを現実が横切っていった。
ドシュルルル、ドシュルルル、と、甲高い掘削音を響かせながら、1組の登攀機が氷瀑を登っていく。なんとその手には、アイスアックスが握られてない。
「んな!どうなってるの、あれ……!?」
ナオミが驚くのも無理はない。10年前には、あんな装備など存在しなかったのだ。最近実用化されたばかりの<パルムスクリュー>というギアである。構造としては、シンプルそのものだ。登攀機の手の平の中央部に埋め込まれたアイススクリューが、氷に触れる度に隆起・回転し、氷に食い込む。手の平を離せば、スクリューが逆回転し、元の場所に収まる。これを両手で交互に繰り返しながら、氷の壁を登っていくのだ。
「これは、出来レースですねえ……」
テンジンの言うとおりである。このレースの主要スポンサーである登攀機メーカー各社は、この氷瀑の存在を見越し、レースのタイミングに合わせて<パルムスクリュー>搭載型の登攀機を次々と発表したのだ。このレース中継の途中には、これらの登攀機のCMがジャンジャン流れているに違いない。
驚異的な速さで、次々と通過していく登攀機たちの行列を見ながら、ナオミは思わずアイスアックスを振る手を止めてしまった。ダメだ、どうやってもアイツらには追いつけない。ナオミの心の中に生まれたわずかな希望は、ポキリと折れてしまった。
「残念だけど……帰ろっか、テンジン」
今度こそ、と彼女が決心したその時である。ドオッ、と身体の芯にまで響いてくるような振動が、ドングリのボディを震わせた。反射的に操縦桿を握り込み、身構えるナオミ。何事かと思い周囲を見渡すと、なんと氷瀑の最下部から、水が噴き出している。まるで巨大な鉄砲水、いやバズーカ水である。
「ちょ、ちょっと、どういうこと……?」
「どうやら、氷瀑が……溶けているみたいです」
ありえない。天国への階段の周囲の気温は、1年を通じてほぼ変わらないはず。入念な観測の結果、安全性が確認されたからこそ、この山に入山許可が降り、レースの開催が決まったのだ。
しかし、噴き出す水はどんどん範囲を広げ、ナオミの足元へと迫ってくる。
「このままじゃ、飲まれる……!!」
即座に緊急脱出を決め、推進剤のスイッチを入れようとする。全噴射させれば、3分くらいは飛んでいられるだろう。その間に氷瀑を離れ、安全な場所に退避すれば難を逃れられるはずだ。だが。
「な、なんで反応しないの……!?」
「すみませんナオミ……大きな壁が、あんまり長く続くものだから……私のプログラムは、この機体が“コロニー外壁で作業中”だと誤認しているようです」
「は、はあっ……!?」
なんたるポンコツか。プログラムの老朽化がひどいのか、もともとの完成度が低いのか。壁を離れたいというナオミの意思に反し、この愚かなAIは『今は仕事中だから、むやみに壁から離れるな、宇宙に飛び出したら死ぬぞ』という気遣いをしてくれているのであった。
「誤認してると分かってるなら、なんとかしてよ!」
「その手の自己修正プログラムが搭載されているのは<アイスマンV>以降でして……」
まさに「荷物見といてね」と頼まれたあと、荷物が盗まれるまでの一部始終を眺めているがごとき、ポンコツぶりであった。飛べない、降りられない、どうしようもない。ナオミの脳裏を
「ひょえええええええっ、死ぬうううっ……!!」
との思いがかすめた刹那。窓に表示されていた、HUD表示が落ち、テンジンの声が聞こえなくなる。
からの、再起動。依然としてテンジンの声は聞こえないが、AIの作動ランプだけが点灯している。
まただ。ナオミは、このドングリが1日目にクレバスから脱出した時の、あの暴走状態にあることを即座に理解した。そして同時に、1日目には気付かなかったとある文字列が、HUDの右下で小さく点滅しているのを見つけた。
「“OTZI”?なんだ……これ」
と、ナオミがそれ以上の詮索を続ける間もなく、ドングリはまた1日目同様、突然に行動を開始した。
「ちょ、ちょっと、何して……!?」
なんと、安全確保のために機体と確保支点をつないでいたザイルを機体から外し、勢いよく放り捨ててしまったのだ。
地球3人目の14座登頂者となったスイスの登山家エアハルト=ロレタンは、生来のスピードクライマーとしてその名を馳せた。
その速さはなんと、あのK2に2日で登頂するほど。そのほかにも、8000m峰であるガッシャブルムI峰&Ⅱ峰、ブロードピークの3座を、わずか17日間の行程の中、それぞれ2日で登り切るという偉業を成し遂げている。
だが、彼のスピードの秘密は至ってシンプル。固定ロープをほとんど使わず、余分な持ち物を持たず、昼も夜も止まらず、寝ずに登り続ける。それだけである。
この時のドングリは、まさにダウラギリ・ノヴァのロレタンと化していた。安全確保のためのロープを一切使わず、わずかばかりも身体を休めることなくひたすら上昇を続ける。アイスアックスを氷に打ち込む暇すら惜しんでいるようだった。先に通過していった登攀機たちが<パルムスクリュー>で開けた穴にアックスの先とアイゼンの前爪を引っかけるようにして、まるで梯子をのぼっていく鳶職のように器用に、素早く登り続けた。余談であるが、先述したナオミ=ウエムラは、渡米の資金を稼ぐため鳶職のバイトをしていたという。
結果、ドングリはC2へと至るこの1.5kmの難所をわずか1時間で駆け上がってしまったのだった。
氷瀑の崩壊に気付いた瞬間、難をのがれるために多くの参加者は推進剤を用いた。その数、320。ナオミは、残った参加者の中では最後尾だったが、結局80位という成績で、足切りを免れたのだった。
一方その頃、朝まで寝ずに目立つ方法を考えていたラインホルト氏はどうなったかというと、見事に1位でC2にゴールインしていた。が、奇跡の大脱出を演じたナオミほどには、またもや目立っていなかった。彼の考えた目立つ方法とは「パルムスクリューを使わず、高速のダブルアックスさばきで氷瀑を制する」というもの。見事にナオミとドン被りしていたのだった。
× × ×
「リタイヤしろだって……何言ってるんだ!?」
ラインホルトは、スポンサーであるアルプテックの担当者の連絡を受けるなり、激高した。
「ですから……。これは全社的な判断でして。危険がある以上、レースの続行は避けていただきたく……」
「危険……?あの神官どもの空が落ちるなんてバカを信じてるのか」
天国への階段の崩壊は、幸い一部に留まっていた。衛星からの観測の結果、他のポイントに異常は身受けられなかったため、レースは続行することとなったが、この事態を重く見たのはガナラの神官たちだった。最後まで登山者を受け入れることに否定的だった保守派の反応は特に大きく、
「聖域によそ者を入れたから神がお怒りになった」
「やはりよそ者をいれると、空が落ちる」
などと騒ぎはじめていたのだった。
「ガナラの方々とは関係なしに、皆あなたの事を心配しているんですよ……きっとお父様だって……」
この言葉に、彼はさらに怒りのピッチを上げる。
「他に登るやつがいる限り、僕も登り続ける。ヤツらより目立たつためにね。明日は予定通りアレを使う。以上だ」
一方的に通信を遮断し、押さえ切れぬ感情を拳に込め、コックピットのシートを殴りつける。
「畜生。見てろよ、次こそ、誰よりも目立ってやる」
「これってさ、レギュレーション的にいいのかな……」
ナオミは、氷瀑を235Bの外壁と誤認していた、へっぽこプログラムを修理しつつ、ドングリの不思議な暴走によって勝ち進んでいることに、若干の後ろめたさを感じ始めていた。
「まあ、AIのサポートは、全面的に禁止されていないわけですし……私が認められてるくらいですから」
「テンジンは、大して役に立ってないけどね……」
「それは言いっこなしですよ……」
完全自律型の人型登攀機プログラムなど、存在していない。かつて開発が試みられたこともあったが、作るのが大変な割に大して需要がなく、すぐに打ち止めになってしまったはずだ。
とすると、暴走時に作動していると思われる、あのプログラムはいったい何なのだろう?表示されていた“Otzi”というのは、自動登攀プログラムの名だろうか。どんなに検索しても、引っかからないが。
「ま、せっかくここまで来たんだし、続けるか……」
謎はつきないが、ナオミは3日目のレースへの参加を決めていた。ドングリの暴走がショック療法的な効果をもたらしているのか、ナオミは着実に山に対する恐怖心に慣れつつあった。このままいけば、本当に臆病風が凪ぐ、かもしれない。それに、まだまだ、この登攀機は私に何かを教えてくれようとしている。そんな気持ちが、彼女の背中を押していたのだった。
× × ×
レース3日目、快晴。結局この日、C3(1万9018m)を目指す登攀機の数は、46機にまで減っていた。ラインホルト氏のように、各スポンサーからリタイアを進められた参加者たちが、素直に勧告に従った形だ。
この3日目のルートから先は、ガナラ神官ですら殆ど踏み入れたことのない聖域である。C1、C2までのレースで『足切り』があったのは、この聖域に立ち入る人数を制限すべし、というガナラ神官たちの要請によるものであった。
さらに、ガナラのシェルターに間借りしていたC1やC2とは異なり、C3以降は、参加者たちが簡易シェルターを自ら設営する必要があった。ここからが、本格的な機械登山の始まりともいえる。1日目、2日目に比べると、参加者たちの表情に若干の緊張が混じっているように見えた。
そんな中、鼻息を荒げながら、一番乗りでC3の設営予定地に到着することを確信している者が1人。ラインホルト氏である。
「ふふふ……タルケー。いよいよだ……。いよいよアレを使う日が来たぞ……!目立つ、絶対に目立つ!」
「いいすけど……本当にいいんすかね、坊ちゃん……」
どうやら、彼にはこの3日目のルートを完全制覇するための秘策があるようだった。
C2からC3へのルートは、そのままダウラギリ・ノヴァの山頂へと続く稜線上にある。その名も悪魔のノコギリ。ノコギリの歯のように急峻な尖塔が幾重にも連なりながら高度を上げていく宇宙屈指の難所である。この場所の難しさは、最大700mにも及ぶ、そのアップダウンの急激さばかりでない。丁寧にヤスリがけを施されたかのような、その凹凸の少ない岩質にもある。
このため、ナオミを含めた多くの参加者は、岩にとりつこうにも、なかなか手がかりがつかめなかった。
岩に少しでも亀裂があれば、そこにナットやカムといった用具を挿入し、ザイルを通す確保支点にできる。だが、肝心のクラックがあまりに少ない。
美しい岩肌を傷つけるのは忍びないが、こういう場合はわずかばかりのクラックに鉤を打ちこむことも戦術のひとつである。しかし、
「かあっ……たーっ!一体なにで出来るの、これ」
「まるでダイヤのようですね……」
超硬質の岩肌が、鉤の刃すら弾いてしまう。参加者たちは各々、事前に情報を仕入れ準備をしてきているが、ここまで岩が硬いのは想定外だった。こんな場所、いったいどうやって通過すればいいのか。多くの参加者が、開始早々立ち往生している中。全登攀機が受信できる周波数で、その無線は送られてきた。
「僕が活路を開く!みんな、続けーー!」
ラインホルト氏である。彼は登りあぐねている他の登攀機たちを押しのけるようにして前に出ると、背嚢から、全長1mにおよぶ刃の無い電動ノコギリのような機械を取り出した。それを片手に持ち、壁に押し当てた刹那、
ズドォォン……!という鈍い爆裂音が山を揺らす。そして、機械を壁から離すと……そこには、なんと鉤が打ち込まれていた。これこそが、ラインホルトがこの悪魔のノコギリを攻略するために用意した、圧縮鉤。圧縮空気の爆発力でハーケンを乱打する、秘密兵器である。
ここで、また地球の昔話をしよう。パタゴニア南氷床の端にある幻想的な岩峰、セロ・トーレの南東稜には、通称「コンプレッサールート」と呼ばれている悪名高いルートがあった。これは、1970年にイタリアの登山家、チェザレ・マエストリが築いたルートである。難攻不落として知られたこの幻想的な岩峰を制するため、彼のとった行動は当時、登山界に大きな議論を巻き起こした。
なんと彼は、重さ180キロにも及ぶガソリン駆動のコンプレッサーを山に持ち込み、手がかりのない岩肌に穴をぶち抜き、そこにボルトを挿入しながらルートを開拓したのだ。この行為は当時「岩への冒涜」とまで呼ばれた。登山に酸素ボンベを持ち込むことすら好ましくないとされた時代があったことを思えば、登山をめぐるこの手の倫理的な問題は結局、神学論争でしかないわけだが……。
話をダウラギリに戻そう。レース参加者たちは、心に少々の倫理的な後ろめたさを感じつつも、ダウラギリ・ノヴァに突如あらわれた、究極のコンプレッサールートを進みはじめた。
「最近のトッププロはえげつないなあ……」
しぶしぶ順番待ちの列に加わりつつも、なるべく岩を傷つけずに山を登ろうとする自然派の父の薫陶をうけて育ったナオミの心中は穏やかではない。そして、それはガナラの民も一緒だった。
「よそ者が入る、神がお怒りになる、お怒りになる」
「空が落ちる、空が落ちる」
ガナラの神官たちが、このラインホルト氏の岩への冒涜を見ていたのかは定かではない。しかし、まさに彼らの言葉通り「神」の「お怒り」とも思える現象が、この後起こってしまったのである。
最初に、参加者たちがその異変に気がついたのは、悪魔のノコギリの中間地点へと続く、最後の崖を登っていた時の事である。突然、示し合わせたかのように登攀機たちのペースが上がったのである。
「ねえ、テンジン。なんかさっきから、やけに登りやすくなってる気がしない?」
「もう3時間経ちますからね。慣れたんでしょう」
「いや、そうじゃなくて。なんか、こう身体が軽くなってる気がするの。コロニーの重いとこから軽いとこに移ったときみたいな……」
235Bはシリンダー型のコロニーだが、設計不良のためか綺麗には回転しておらず、外壁上で遠心力によって生じるGの感じ方が場所によって微妙に異なる。決して大きな違いではないが、ナオミのようなベテラン窓拭きになると、その違いにはかなり敏感なのだった。
「うーん、重力場は一応計測してますけど、特に異常はないようですよ」
テンジンはボロだから、その手の計器の感度は大分老朽化してるんだよなあ……と思いつつ、ナオミたちはそのペースを維持し、予定より少し早く、悪魔のノコギリの中間地点に辿りついた。
しかし、事件はここで起きたのである。ラインホルトが連続使用した圧縮鉤をクールダウンさせている間、崖上で各登攀機が待機していたときのこと。
そのうちの1機が、なんの前触れもなく滑落した。何事か、ナオミが立ち上がったその時、
「ぐうっ……重い……!?」
突然、全身を押しつぶすような圧力の波が、断続的に機体を覆った。軽くなっては重くなり、重くなっては、軽くなり。なんとか耐えしのごうとするが、力が重くのしかかる度に、機体が崖側に引きずられていく。
「重力場に乱れが発生していますっ……!!」
テンジンのポンコツ計器でも、その異変は観測できたようだ。身体が重い、言うことをきかない。ひとつ、またひとつと、重力の虜になった登攀機たちが墜落してゆく。
そして最後に、ドングリが宙を舞った。
× × ×
ラインホルト=メルクルは、英雄エミーリオを憎んでいた。『アンナプルナの悲劇』以前に、彼が1万m峰を中心に打ち立ててきた記録は、もちろん賞賛に値するものである。しかし、彼が人類初の2万m峰を極められないままに命を落としたこと、それがラインホルトにとっては全てだった。
ラインホルトの父は、登攀機開発の第一人者だ。
「パパの作った登攀機が、宇宙ではじめて2万m峰に立つかもしれないんだ」
「<アイスマン>っていうんだぞ。地球最初の登山家の名前からとったんだ」
「ドングリみたくコロコロしていて、かわいいだろう」
そう言いながら、自ら開発した登攀機を得意げに見せびらかしてくる父が、ラインホルトは大好きだった。
だが『アンナプルナの悲劇』が全てを変えてしまったのだ。父の開発した<アイスマンⅢ>に搭乗していたエミーリオが死んだとき、真っ先に疑われたのは、エミーリオの登攀ミスではなく、機体側の不良であった。多くの人が「あの英雄が初歩的なミスを犯すはずがない」と信じ、<アイスマンⅢ>の販売元であるアルプテックと、父を糾弾した。
その結果、父は開発現場を追われ、アルプテック一番の売れ筋であり、それまで数々の歴史的な登攀記録を打ち立ててきた<アイスマン>シリーズの売り上げは激減した。
その後、他の登山者によって2万m峰登頂がなされたが、その時使用されていたのはサウスフェース社の<ハンニバル>である。この輝かしい記録によって<アイスマン>シリーズの栄光はすっかり影を潜め、目立たなくなってしまった。
そして、再起の機会を得られぬまま、ラインホルトの父は失意のまま、病に倒れたのである。
ラインホルトは、すべての元凶であるエミーリオの失敗を恨んだ。失敗したくせに、英雄、英雄と彼だけが称えられる状況も許せなかった。
結果、彼は血のにじむような努力の末、機械登山家になったのだ。登山史に目立つ記録を残せぬまま、亡くなった父のため。父の<アイスマン>が最高の登攀機だったことを証明するため。誰よりも、目立つ登攀機乗りになってやる。そして、エミーリオをも越える英雄になってやる。
そんな思いに突き動かされ、挑んだダウラギリ・ノヴァ。しかし。
「なんで、よりによってコイツを助けてるんだ、僕はあああっ!!ぐおおおおっ……!」
父のレガシーを受け継ぐ最新鋭の<アイスマンXV>は、悪魔のノコギリの中間地点に打ち付けられた圧縮鉤から、ザイル1本で宙づりになっていた。さらに、その腰部から垂らされたザイルの先には、あろうことか憎きエミーリオの娘を乗せた<アイスマンⅡ>がぶら下がっていたのだ。
「坊ちゃん、これ以上は機体が絶えられないっす!」
しかし、ドングリは幼き日のエミーリオと父の思い出の名機である。搭乗者親子は憎いが<アイスマンⅡ>に罪はない。ドングリが落ちる寸前、エミーリオはほとんど反射的に、自分に繋がったザイルを、アイスマンⅡの足部に絡ませていた。
「わかってる……!でもできないっ、この芸術品を墜落させるなんて……!」
「こんな時にまで何言ってるんすか!落としたってきっと噴射剤が自動で……」
「バカヤロウ!この重力じゃ全噴射したって、まともに飛べやしない!崖下に落ちてペシャンコだ!あの美しいドングリの畸形が……」
たった1本の鉤に、2機分の重量がほぼ直線的にかかっており、しかも、重力がいつもより重い。このままでは鉤が抜けるのも時間の問題である。
鉤をもう1本でも増やせば、いわゆる流動分散支点を形成でき、鉤にかかる荷重を半減させられる。だが、荷重が半分になるのは、2つの支点と、そこに繋がれた登山者、この3点を結ぶ角度が30度以下の時だけ、というのが登山力学の常識である。今の位置でラインホルトが新たな鉤を打ち込んでも、この角度はゆうに120度を超えてしまう。この場合、最初の鉤にかかる荷重は98%に減じる程度である。
ズルズル、ギリギリ、と重力に負けた機体が、だんだん谷底に引っ張られ、その度に鉤が抜けていく。
「くそう、親子そろって……父さんの機体を、これ以上墜とすなよ……チクショウがああああっ!!」
そう、ラインホルトが叫んだ時。フッ、と機体にかかる重力が軽くなった。下を見ると、さっきまで宙づりだった<アイスマンⅡ>が崖にとりついていた。
「ふぅ……ようやく目覚めやがったか」
「おい、タルケー!あのアホ女に聞こえるよう、周波数を合わせろ」
「はいよ、坊ちゃん!」
そう命じると、ラインホルトは大声で、
「起きたかアホ女!いいか、僕がいまから上に戻って、圧縮鉤を取ってくる、それまでそこでじっとしてろ!」
と偉そうに伝え、元いた場所に戻るための準備を始めた。しかし、次の瞬間。なんと、動くなと命じたはずのドングリが、もぞもぞと動き始めたのだ。
「おい、何をやってるんだ……!動くなと……」
言いかけて、ラインホルトはある違和感に気付いた。さっき<アイスマンⅡ>は岩にとりついた、と彼は認識した。しかし一体、どうやって?彼女は、この超硬質の壁に、確保支点を作れるようなギアを携行していないはずだ。
しかし、ドングリの次の行動を見て、彼は全てを理解し、戦慄した。このドングリは、確保支点を作っていない。完全に素手のまま、岩にしがみついている。そして、そのままC3の方角に向け移動を開始したのだ。
「この状況で、フリーソロだとッ……!」
地球で、登山技術が飛躍的に向上した頃のことである。人工登攀のためのギアが次々と生まれ、これまで登頂不可能とされてきたルートがいくつも開拓された。セロ・トーレのコンプレッサールートは、その極致ともいえよう。しかし、行きすぎた人工登攀は自然の美しい景観を壊してしまう、という悲劇をももたらした。
その最たる例が、クライマーの聖地、カリフォルニア州ヨセミテ国立公園の花崗岩巨壁である。クライマーたちがボルトを埋めるための穴をドリルで空けまくり、見るも無惨なデコボコ岩になってしまったのだ。
この反省から生まれたのが“フリークライミング”という概念である。なるべく岩を傷つけないように、自然の造形のみをホールドしながら登るというその斬新なスタイルは、登山界に多大なる影響を与えた。なかでも、確保支点や命綱なしでこれを遂行する「フリーソロ」は、その究極形ともいえる。
ラインホルトも、もちろんフリークライミングの概念は知っている。フリークライミングの技術の一部は、通常の登攀技術にも逆輸入されているからだ。
しかし、登攀機がフリーソロをしているのは、初めてみたのだった。しかも、この2万m峰で。思わず、魅入ってしまった。
一見素手で取り付くことが不可能にも思える岩肌、そのわずかな隆起に指をかけ、ホールドし、少しずつC3に近づいてゆく。アップダウンの激しい悪魔のノコギリの刃に沿って移動するのではなく、刃の根元の部分に取りつきながら横切ってゆく。こんなルートがあったなんて。
「魅入ってる場合じゃないっすよ、坊ちゃん。異常重力はおさまったみたいす、さあ今のうちに……」
タルケーが忠告する。ラインホルトには圧縮鉤がある。あんな危険なルートをとらずとも、予定していたルートを進めばよいのだ。だが。
「旧型機の分際で、僕より目立とうなんて。許さないぞッ……!」
「ぼ…坊ちゃん、何をッ!?」
なんと、この男はあろうことか、圧縮鉤をおいてけぼりにしたまま、<アイスマンⅡ>のフリーソロルートを追いはじめたのである。
「Ⅱにできて、XVにできない道理なんてないだろ!」
「そりゃあそうっすけど、でも……!」
並の機械登山家であれば、計画していたルートへ戻っただろう。というより、突然計画していないルートに進むなど、機械登山家にあるまじき愚行である。しかし、いま<アイスマンⅡ>が見せているフリーソロには、彼にこんな非常識な決断をさせるだけの凄みがあったのだった。移動中にもしまた、あの異常重力が発生したなら、ひとたまりもない。しかし不思議なことに、前をゆくオンボロ登攀機の背中は「もうアレの心配はないさ、ついてこい」とでも言うような安心感に満ちていた。
「見てろよ。僕も、目立ってやる、目立ってやるぞ!」
ラインホルト氏の自己顕示欲が、ここぞとばかり大爆発を見せる。
こうして、悪魔のノコギリの下部を舞台にした驚異のフリーソロ横走地獄がはじまったのだった。
× × ×
驚異のフリーソロをはじめたドングリに揺られながら、ナオミは落下時に気を失ったまま、夢を見ていた。最後に父に会った日の夢である。
ナオミが父エミーリオに最後に会ったのは『アンナプルナの悲劇』の1年前。アンナプルナ・ノヴァの登頂準備に出発する直前、ショッピングモールの日本食フードコートで、一緒にお子さまランチを食べた。父は、山を終えて、たまに235Bに帰ってきては、
「お子様ランチ、食べにいくか」
とナオミを誘いだすのが常だった。
母はナオミの物心つく前に亡くなっていたため、父の遠征中、ナオミは学校の寄宿舎に預けられっぱなしだった。お子様ランチ作戦は、そんなナオミに対する、父なりの罪ほろぼしだったのかもしれない。ナオミは、すでにお子様ランチなどという年齢ではなかったが、子供ながらに父の意図を汲み取り、素直に受け入れ喜んだ。単純に、たまに父と過ごせる時間が嬉しかった、ということもある。
フードコートの席に着いてしばらくすると、宇宙船を模したプレートに乗せられた、かわいらしいお子様ランチがやってきた。どんなに時が経とうとも食文化というのは大して変わらないもので、このお子様ランチには、昔ながらの山型オムライスに、爪楊枝の旗が立っていた。
「お父さん、なんでお子様ランチの山には旗が立ってるの」
何気なくナオミは疑問を投げかけると、父は
「昔の人は、山に登るとよく国旗を立てたりしたんだ。いまでは、あまりやらないけどな」
と教えると、さらに
「ちなみに、ナオミ=ウエムラはその旗竿を束ね……」
と、続けようとしたが、この話は20回目くらいだったので、ナオミは右峰から左峰へ聞き流した。その代わり、いいことを思いついた。爪楊枝の旗をつまみあげると、ポシェットからペンを取り出し、ちょっとした落書きをすると、
「これ、今度山に登ったとき、頂上に立てて」
と、喋っている途中の父にさしだしたのだ。父は豆鉄砲を撃たれた鳩のような顔をしていたが、ナオミが
「私、いつもおいてけぼりなんだから。これくらい家族サービスしてよ」
などと大人びたスネ方をしてみせると、慌ててそれを受け取り、
「ああ、きっと立てておくよ」
と約束したのだった。人類初の2万m峰の頂に、自分の小さな旗が掲げられる。そんな想像を膨らませ、ナオミの胸はワクワクでいっぱいになった。その後、ナオミは父の「旗を立てた」という報告を心待ちにしていた、だが、結局父は帰らず、アンナプルナ・ノヴァからその旗が見つかることも、ついになかったのだった。
× × ×
2機がフリーソロを始めたなどとは知る由もなく、BCに設置された大会の運営本部は大混乱に陥っていた。
みずがめ座α星全体で観測された重力異常はいったん収まったものの、今度は磁気が異常な乱れを見せ始めたのだ。
あらゆる機器の通信は遮断され、α星は宇宙の孤島と化した。
C2を出発した登攀機たちの安否は確認できておらず、予定されていたレースのライブ中継も、当然のごとく中断。BCから捜索隊を出すことも検討されたが、突如としてBC周囲を覆いはじめた雪嵐が、それを妨げた。誰もが、この星がなにかただならぬ事態に見舞われていることに、気づきはじめていた。
相変わらず、
「空が落ちる、空が落ちる」
と騒ぎ立てるガナラ神官たちの言葉も、あながち馬鹿にできないような、そんな重たい空気がBCに滞留しはじめていた。
× × ×
「じ…自分で登ってたワケじゃない、だって!?」
C3(1万9811m)、ラインホルトの設置した簡易シェルターの中に衝撃が走った。実に12時間に及んだフリーソロ地獄の果て。ようやく機体から出てきたナオミは、その事実を殆ど覚えてすらいなかったのだ。
「ズルですよね……ごめんなさい……」
一瞬でもライバルと認めた相手のズル宣言に戸惑いつつ、
「いや、ズルいとか、そういう問題じゃないだろ……。お前が動かしてないなら、どうやって動いてたんだよ」
と問い詰めるラインホルト。対するナオミは、わからないながらに、なんとか簡潔に伝えようとする。
「なんか、この山に入ってから登攀機の調子がおかしくて。時々、勝手に動き出すんです……」
「勝手に動き出す……?自動操縦の類か?」
「いえ、見ての通りのオンボロで、発売時から殆どいじってませんし、そんな高度な機能は……」
この芸術品をオンボロ呼ばわりとは……。と、苛立つ気持ちを抑えつつ、ラインホルトは原因究明のため、質問を続ける。父から受け継がれるエンジニアの血が、この手の謎を放置することを許さない。
「……何か、こう変わったことはないのか。動作履歴はどうなってるんだ」
「それが、暴走中の動作履歴は何故かいつも壊れちゃってて。ただ、その時はHUDに“Otzi”って表示が……」
「オーティーゼットアイ……」
アルファベットを思いうかべたラインホルトは、その意味するところをすぐさま理解し、驚嘆した。
「それは……Ötzi……Ötziだ!紀元前3000年ごろ、ヨーロッパアルプスを登ったという地球最古のアルピニストの名前」
「地球最古の……アルピニスト」
ナオミは、昔、父に聞いた話を思い出した。アルプスの氷の中から見つかった氷漬けの遺体。時代を超えて紀元前の登山者の姿を現代に伝えた、氷漬けの男。
「そしてエッツィは<アイスマン>シリーズの生みの親である僕の父が試作していた、登攀技術継承プログラムの名前でもある」
「登攀技術継承……?」
「要するに、搭乗者の登攀データをAIにラーニングさせて、次の世代に、その登攀技術を体験・継承させるためのプログラムだ」
へえ、そんなものに需要があるのかと思いつつ、
「そんなものが……はじめて聞きました」
と不思議そうにしているナオミに、ラインホルトが悔しそうな顔で伝える。
「……それはそうだ。エッツィは、エミーリオの登攀技術を後世に伝えるため、父がわざわざ作ったようなプログラムだからな」
「お父さんの技術……っ!?」
突如として飛び出た父親の名前に驚き、つい声が変な裏返り方をしてしまう。対するラインホルトは「うちの父さんは君の父親のファンで……」といいかけたが、なんだか負けた気になるので、やめた。
「うちの父は、どんなに優れた登攀技術も、映像でしか記録できないことを問題視していた。エッツィは、それに対する父なりの解答だったんだ。エッツィなら、登攀者の技術を直接体感できる」
その昔、地球の日本で、ヒロシ=イシグロという工学博士が、人間国宝の落語家、三代目桂米朝を模したアンドロイドを作り、その業を後世に伝えようとしたという。エッツィシステムも、似たような発想のもと作られたプログラムなのかもしれなかった。
ラインホルトの言葉を聞いたナオミは、ドングリによってレース中引き起こされた、さまざまな事態に納得がいった。いままで登攀機を勝手に動かしていたのが、父の技術の記録なのだとしたら。機体を通じて、父が何かを伝えようとしていた感覚は、あながち間違いでもないのかもしれない。
「なあ、もしかしてこの<アイスマンⅡ>は、君の父親のお下がりだったりしないか?」
「ああ、はい。アンナプルナ・ノヴァの高度には耐えられないからって、直前で乗り換えたらしくて。亡くなったあと、同僚の方から送られてきたんです」
ラインホルトは、やはりな、と納得した顔を見せた。
「僕の知る限り、エッツィはアンナプルナで墜落した<アイスマンⅢ>にしか搭載されていないが……<アイスマンⅡ>にはその試作型が搭載されていたのかもしれないな。でも……」
言いつつ、ラインホルトはやはり納得がいかない、といった様子で頭をかく。
「それにしても、不可解な点がある」
「何が……ですか?」
「エッツィが実用化に至らなかった理由の一つは、汎用性の低さにあるんだ。結局、ある山でラーニングさせた登攀技術は、同じ山でしか再現できない。もし、君の登攀機の動きが、本当にエッツィによるものなのだとしたら<アイスマンⅡ>は、1度このダウラギリ・ノヴァに登っていることになる」
たしかに、それは変だとナオミは思った。ガナラの民が重い腰をあげ、宇宙山岳協会にダウラギリ・ノヴァの許可を出したのは、つい最近である。父が<アイスマンⅡ>で登っていたとしたら、それは、無許可登山にあたるのでは……。
と、ここで、ナオミはまたも、父から聞かされていた、あの人物の逸話を思い出した。
「ナオミ=ウエムラの、マッキンリー……!!!」
かつて、ナオミ=ウエムラという冒険家は、地球に存在する五大陸の最高峰をすべて極めるという記録を打ち立てた。この記録を樹立するにあたり、最後に登った山こそが、マッキンリー。レース初日にナオミ、もといエッツィが披露した、竹竿作戦の舞台である。
彼はこのマッキンリーに単独登頂を果たしたわけだが、実は国立公園法によって、この山での四人以下での登山は禁じられている。では、どうしても単独登頂したいナオミ=ウエムラがどうしたかというと、書類上、同時期に入山しようとしていたアメリカ隊の一員である、ということにしてもらったのだ。もちろん、これにやましい点はなく、便宜を図った公園長も、ナオミ=ウエムラを快く送り出している。しかし、結局のところ単独登山の許可はでていない。ある意味、無許可登山である。
エミーリオが、登山家というよりは、冒険家として知られるナオミ=ウエムラに惚れ込んでいたのは、こういう破天荒さゆえであった。そのスピリッツを受け継ぎ、ダウラギリ・ノヴァに何らかの方法で潜り込み、登山に挑戦していたとしてもおかしくない。そして、もしかすると。
ナオミは、決意に満ちた表情で、
「私の<アイスマンⅡ>、もっと詳しく調べていただけませんか。そっちの登攀機のAIを使えば、きっと、もっと詳細に調べることができると思うんです」
と、ラインホルトに依頼するのだった。
× × ×
この頃、このレースのために数を増強されていた、みずがめ座α星の観測衛星は、重力の乱れ、磁場の乱れに続く、新たなる異常を感知していた。この惑星を取り巻く、大気の厚さに、変化が現れつつあったのだ。この星の重力が、雲を、空気を、少しずつ宇宙空間へと手放しはじめたのだ。
その結果。標高2万mを超えるダウラギリ=ノヴァの頂は、ほんのわずかではあるが、少しずつ、少しずつ、宇宙空間へと飲み込まれていった。大気が薄くなり、空が落ちていく。この時これに気付いていたのは、ガナラ神官たちだけだっただろう。
× × ×
翌朝。激しい風雪がわずかに弱まるタイミングを見計らい、2機の登攀機がC3を出発した。目指すは、高度2万1573m。ダウラギリ=ノヴァの頂上である。いまだ磁気嵐のごとき強大な磁気の乱れは続いており、BCや他の機体との連絡は取れていない。だが、ふたりには状況が好転するのを待っている時間はなかった。
登攀機最大の弱点たるバッテリーの問題が、ここに来てふたりの前に立ちはだかったのである。
<アイスマンⅡ>は主に太陽光を、<アイスマンXV>はこれに加えて、衛星軌道上のモジュールから放射されるマイクロ波を受けとり動力源としている。
しかし、続く異常気象のせいで太陽光は充分に得られず、磁気の乱れの影響でマイクロ波の送信も滞っていた。このまま待ち続けていても、途中でバッテリー切れになるリスクのほうが高かった。推進剤の全噴射で移動するのも、風の強さを考えると現実的ではない。
それに引きかえ頂上には、BC帰還用の無人機が待機しているはずである。行動する体力がある限り目的地を目指して動き続けよ、というのが登山の原則だ。ふたりは頂上を目指すことにした。C3から頂上へと続く稜線上、ふたりはカミソリのように鋭く切り立ち、雪をかぶったナイフリッジの上をおそるおそる歩いて行く。
もちろん、この時も、依然としてナオミに恐怖心はあった。だが、
「本当に昔、父さんが、ここを通ったんですよね!」
その声色からは、レース初日のような弱気さは感じられない。
「間違いない。エッツィの記録が正しければな……!」
ラインホルトも、もはやレースの勝敗や、目立ち方など、全く気にしていなかった。
彼らの心はただひとつ。<アイスマンⅡ>が果たしてダウラギリ・ノヴァに登頂したのか。それを確かめたいという気持ちが、彼らを強力に後押ししていた。
ラインホルトがタルケーで<アイスマンⅡ>を解析した結果「エッツィ」は確かに「アンナプルナの悲劇」より前のタイミングで、ダウラギリ=ノヴァに挑戦していたことが判明した。おそらく、岩やコースの性質が似ているダウラギリで、登攀機の調整をした(そして、無許可登山ゆえ、公式な記録は残っていない)のだろうというのが、ラインホルトの見解だった。
肝心のエッツィシステムは、後から付け足された窓拭きプログラムと見事に競合し、正しく動作しなくなっていたうえ、凶悪な自動アップデートを重ねる窓拭きプログラムの影響で、記録が歯抜けになっていることが判明した。
結果、たまたま残っていた、クレバスからの脱出、竹を使ってのヒドゥンクレバス回避、天国への階段の高速アックス登攀、悪魔のノコギリのフリーソロの記録が、それぞれ然るべき場所で強制再現されたようだった。
ラインホルトは、
「窓拭きプログラムなんかのせいで貴重な記録が失われてしまったなんて……」
と大いに憤慨したが、エッツィシステムにもう1つだけ記録が残されていることに気付くと、
「これは歴史的発見かもしれないぞ……!」
と多いに歓喜した。その、記録とは。
「よし、着いたぞ……」
全長2kmに及ぶ、巨大な岩と雪のオブジェ。その巨壁は、頂上に近づくほど反り返り、最上部がほぼ水平のオーバーハングになっている。地球の地質学的常識を逸脱した、異様な山容。そのあちこちには、雪と氷がはりつき、大蜘蛛の形を浮かび上がらせている。
ついた名が<大蜘蛛の巣>。このダウラギリ・ノヴァの頂上直下に聳える最後の難所である。
「本当に、ここを、父さんが……?」
「ああ。エッツィには、君の父がここの頂上近く、2万1000m付近で何かをしたと記録されている。詳しくは行ってみないと分からないが」
聞きつつ、ナオミは今までの事を思い出し身構える。
「暴走して、落っこちたりしないですよね」
「大丈夫だ。エッツィが意図したタイミングで起動できるよう、プログラムは修正してある」
ふう、と安心しため息を漏らしつつ、ナオミは胸を躍らせる。
「もし、それが登頂につながるような行動だとしたら」
「君の父は、非公式ながら人類で初めて2万m峰を制していたことになる。そして、僕の父はその偉業をささえた登攀機を作っていたことになる」
ナオミは聳える巨壁を見上げると、ゴクリと唾をのみ、立ち尽くした。
「登山史が、書きかわるかもしれない……」
「感傷に浸る気持ちはわからないでもないが、時間が無い。さっさと登り切るぞ」
言いつつ、ラインホルトはさっそく<大蜘蛛の巣>にとりついた。
「オーバーハングまでは、リードする。高度が2万1000mになったら、前に出てエッツィを起動しろ」
「……わかった、やってみる」
ナオミは、操縦桿を握る手が小さく震えているのをごまかすように、勢いをつけて壁にとりつき、アイスアックスを振り下ろした。
× × ×
ふたりが<大蜘蛛の巣>に取りかかり始めたころ。引き続きBCでは参加者の安否を巡る混乱が続き、ガナラ神官たちも相変わらず、空が落ちる、空が落ちると、長い体毛を右に左にゆらゆらしていた。
が、その中に、ひとりだけ落ち着き払った老神官がいた。彼は、ヒゲのように長く伸びた体毛を、クリスマスの玩具屋のサンタのように手で持て遊びながら、ダイダイオオマダケの葉を煎じていた。そしてふと、10年ちょっと前にこの星を訪れた、ある人間のことを思い出していた。
通訳すら雇わずに単身で乗り込んできて、どうしても山を登らせてくれと懇願してきたあの変わり者の人間。あまりの情熱に気圧され、ほかの神官たちに内緒で、こっそり聖域に送りだしたっけ。あの時も、こんな感じに空が落ちてきたなあ。
結局の所、よそ者を入れるから空がおちるのか。空がおちる時に限って、よそ者が来るのか。どっちなんだろうなあ、などとぼんやり思いつつ、老神官は茶をすするのだった。
× × ×
吹雪が勢いを増していることを除けば、<アイスマン>シリーズ2機の登攀は順調といえた。
大蜘蛛の巣は、岩と氷とが混じった、いわゆる混合ルートである。天国への階段のように氷だけのルートであれば、アイスアックスとアイゼンを使って登攀するのが普通である。逆に、悪魔のノコギリのように、岩だけのルートであれば、素手にクライミングシューズというセッティングが一般的だ。では、混合ルートはどう攻めるか?
答えは、アックスとアイゼンを岩にひっかけながら登る、である。これはドライツーリングという技術で、主に競技クライミングの世界で発展した。ただ、機械登山の世界に導入されたのは比較的最近である。
幸い、ラインホルトはこの技術にいち早く触れており、その成果がこの岩場で十全に発揮される結果となった。おまけに、悪魔のノコギリでのフリーソロ地獄がいい影響を及ぼしていた。<アイスマンⅡ>が再現したフリーソロの自由な発想とテクニックが、ラインホルトのドライツーリング技術をアクロバティックに進化させていた。
一方のナオミも、ラインホルトのルート取りやムーヴのひとつひとつを真似ながら、なんとか最新鋭機にくらいついていた。ラインホルトほどのスピードはないものの、着実に高度を上げていく。
「順調ですね、ナオミ」
「うん、なんだか今日は落ち着いて登れてる気がする」
ラインホルトの存在が大きかった。今までと異なり、万一の時には手を貸してくれるリードクライマーがいる。この安心感が、ナオミの恐怖心を大分和らげていたのだ。
世代を隔てた2機の<アイスマン>シリーズは、まるで息のあった兄弟のように、リズム良く岩壁をするすると駆けあがっていった。その姿は、かつてドイツが生んだ歴史的フリークライマー兄弟、トーマス=フーバー、アレックス=フーバーの名コンビの再来のようであった。
そして、とうとう2万1000m地点。ふたりは体育館の天井のような大スケールで岩が反り返った、最後のオーバーハング部分に到達しようとしていた。
「ナオミ、そろそろだぞ、エッツィシステムの準備を」
ラインホルトが登るのをやめ、ナオミを先に行かせようとする。父がかつてこの山で、最後に見せた動き、エッツィに刻まれた最後の記録が明らかになる時が来たのだ。
「わかりました、今いくから待っててください」
ラインホルトを追い越し、ザイルの処理をした後、オーバーハングに取り付く。機体の背が谷底に向かい、岩と向かい合う。そして、
「テンジン。エッツィを起動して!」
確信を持った声で、呼びかける。きっと何かすごいことが、起きるはずだ。
「了解しました!」
ラインホルトの期待も高まる。英雄がこの山に刻んだ、最後の一手。いったい、何を見せてくれるのか。
× × ×
「おい、大蜘蛛の巣に登ってるやつがいるぞ!!」
BCで待機していた、ある山岳カメラマンが、超望遠レンズで頂上付近の姿を捕らえることに成功したのは、ようやく周囲の風雪が和らぎ、雲の切れ目が見え始めた時のことである。
ちょうどこの時、悪魔のノコギリ付近で行方不明になっていた登攀機たちが、命がけの野営を経て、続々とC2に戻ってきた、との報がBCに入っていた。レースは中止になったが、最悪の事態は避けられそうだ。そう、BCの人々が、胸をなでおろした矢先の出来事。
「あれは……、例のドングリと、ラインホルトだ!」
カメラマンが、喜びをにじませながら叫ぶ。豆粒以下のサイズではあったが、<アイスマンⅡ>の特徴的なフォルムと、<アイスマンXV>の派手なショッキングピンクのカラーリングは視認性が高かった。
C2に帰還した者たちに加え、残る2人の無事が確認できた。しかも、登頂寸前ときている。BCは歓声がまきおこり、にわかに祝勝ムードすら漂いはじめた。
「なんとリードしてるのは、ドングリか。やっぱりエミーリオの娘は伊達じゃなかったなあ」
カメラを覗きこみながら、笑顔を浮かべるカメラマン。しかし、次の瞬間。コメディ映画の主演俳優のごとく、彼の口が縦に大きくあいたまま塞がらなくなった。彼の見つめる先。オーバーハングにとり付いたドングリの背中から、背嚢が、スットーンと切り離され、谷底に落ちていったのだ。
× × ×
ナオミは最初、自分の身に何が起きたのかわからなかった。エッツィシステムを起動した瞬間、背中側から、ガコン、と何かが外れ、身体が軽くなったのだ。同時に、無線で
「どわあああああああああああっ!」
とラインホルトが叫び声をあげるものだから、てっきり彼の身に何かが起きたのかと思い、足元のカメラから、彼の様子をうかがう。だが、特に異常は見当たらない。しかし、テンジンが
「内蔵電源:残量10分」
などとやけに無機質にアナウンスをはじめたところで、ようやく状況が飲み込めた。背嚢が、落っこちたんだ……。
背嚢を、登攀機から切り離す。これが、父がエッツィに刻み込んだ最後の記録らしかった。しかし、いったい、なぜ。背嚢はバッテリーも兼ねている。捨てたせいで、もうこの機体は10分ともたない。そしてそれは、ナオミの生命維持装置も同じだった。そして高度2万mでは、生命維持装置なしでは10秒ともたずに息絶えてしまうだろう。
「速く行け、ナオミ!バッテリーが上がる前に、頂上の無人機まで、速く!!!」
ラインホルトの言うとおりだ。無人機の中には、独立した生命維持装置がある。なんとかして、10分以内に辿り着けば、助かるだろう。でも、どうやって?
このまま、普通にクライミングを続けていたって、どう見積もっても10分は越えてしまう。もっと速く、もっと速く登る方法は……。と、その時である。突然、ナオミの周囲が暗くなっていった。じわじわ、じわじわとその範囲はひろがり、とうとうラインホルトの所にまで、暗がりは達した。
一体なにが……と考えを巡らせはじめた時。ナオミは、背嚢を捨てたときよりも、もう一段階、身体が軽くなっていることに気付いた。さらにナオミは、それが自らの質量の変化によってもたらされた物ではなく、重力の変化によるものであることを、咄嗟に感じ取った。計器の類を見たわけではない。山を離れ、窓拭きとして過ごしてきたナオミの直感が、そう伝えたのだ。「空が……落ちてる。宇宙が、近づいている」
ナオミは理解した。大気が薄くなり、空が落ちているということを。そしてそれが、重力が弱まっていることの証左であることを。そして、ナオミはまた、あの男の名前を思い出した。父が愛した、あの破天荒な冒険家の名を。
× × ×
その頃、ナオミたちの様子を、カメラ越しに固唾をのんで見守っていたBCのカメラマンは、<アイスマンⅡ>のあまりに常軌を逸した動きに、我が目を疑った。それは、まるでドングリが重力に逆らって、空に転がり落ちていくような、異常な光景だった。
カメラマンは、ドングリが空に飛び出していくまで、ひたすらシャッターを切り続けた。そして、その最中。かつて、頂上付近で回転した登攀機の話を聞いたことがあったことに気付いたが、それが誰のことだったのか、ということまでは思い出せなかった。
× × ×
「そうだ、ナオミ=ウエムラは“ドングリ”だった」
そうつぶやきつつ、ナオミは一か八かの賭けにでた。平らな天井のように広がるオーバーハング。谷底に背を向け、手足で岩にしがみついている状態からスタート。
岩にしがみつく手を支点に、足を離して思い切り揺らし、その勢いで足を手の向こうにまで振り切る。足を勢いよく岩に衝突させ、アイゼンをガッチリ打ち込む。こうして、岩にブリッジ状態でしがみつく。
続いて、今度は足を支点に身体を揺らし、手を足の向こうに持って行き、岩を掴む。
これをクルクルと繰り返しながら、オーバーハングを転がり上がっていく。日本のからくり人形に「段返り人形」というものがあるが、ちょうどあのような感じの動きである。
のちに型破りの大冒険家として名を馳せたナオミ=ウエムラも、大学の山岳部時代は、しょっちゅう転ぶことからドングリとあだ名されていたという。
ダウラギリ=ノヴァの空落ち、要するに頂上付近の低重力化現象を利用し、さらに重い背嚢を切り離して重量を削り実現した、登攀機にしかできない、型破りな最後の一手。
父が本当にこんな動きをしたか、ナオミには知る由もない。しかし、もしもそうだとしたら、型破りのナオミ=ウエムラを敬愛していたエミーリオにとって、こんなお似合いの一手はなかっただろう、とナオミは思った。
そして、ナオミがオーバーハングを転がり抜け、頂上に達すると。
そこは、もう宇宙であった。
眼下には、みずがめ座α星の、水が、大地が、すべてが広がっている。頂上よりも低く落ちた空のあちこちに、巨大な雲が幾重も層を作り、渦を巻いている。
かつて、日本人初の8000m峰14座完全登頂者となったヒロタカ=タケウチは「登山とは歩いて宇宙に登っていくようなものだ」と言ったらしい。
しかし、宇宙へ転がっていったのは、きっと自分と、父だけだろうなとナオミは思った。
残り時間は5分。予定通り、頂上にはちゃんと帰還用の無人機が、おすましして待っていた。さっさと乗り込んで、ラインホルトがやってくるのを待とう。ふわふわと、低重力の中、無人機への道のりをホップステップしていくナオミ。
と、無人機の扉のほど近く。岩の上に、何かが落ちているのを、ナオミは発見した。なんだろう、と思いカメラで拡大してみると、それは「ナオミの山」と書かれた、小さな、小さな、お子様ランチの旗だった。
それを見たナオミは、遠い日の記憶に思いを馳せ、懐かしそうに顔をほころばせると、
「そうだね、お父さん。ここはもう、私の山だね」
と、小さくつぶやき、無人機の中に消えていった。
ダウラギリ・ノヴァ、高度2万1573mの頂の上。
凪の中、小さな旗が胸を張っていた。
了
【参考文献】
「世界の山岳大百科」英国山岳会・英国王立地理学協会編、山と渓谷社
「青春を山に賭けて」植村直己著、文春文庫
「登山技術全書③雪山登山」遠藤晴行著、山と渓谷社
「登山技術全書⑥アルパインクライミング」保科雅則著、山と渓谷社
「標高8000メートルを生き抜く登山の哲学」竹内洋岳著、NHK出版新書
「高みへ大人の山岳部」笹倉孝昭著、東京新聞
「アンドロイドは人間になれるか」石黒浩著、文春新書
文字数:34142
内容に関するアピール
広い宇宙には、エヴェレストよりも高い山が、それこそ山ほどあります。そこそこご近所でも、火星のオリンポス山などは21,230mもあるそうです(といっても、なんてことはない楯状火山なので、登ってもあまり面白くなさそうですが)。
きっと、人間は道具とルールさえ与えられれば、宇宙でも登山を楽しもうとするはず。そして、地球型の惑星なら多分、人類がいままで培ってきた登攀技術も通用するはず……という想像のもと、この話を考えました。
また有人人型ロボットの登場する話は常に「別に無人でええやん」とツッコまれがちですが、登山の世界で、あえてのハードル、競技ルールとして「人型ロボットを用いるべし」としておくなら、設定としてありえなくもないなと考えました。
ボルダリングがせっかくオリンピック競技になったのに、いちおうの関連分野である登山そのものはフィーチャーされていない感があり、その一抹の寂しさも、執筆のきっかけとなっております。
プロ登山家の竹内洋岳さん曰く、山とは単なる「地球の出っ張り」にすぎません。しかし、剱岳などがいい例であるように(1907年に前人未踏だと思って測量しにいってみたら、頂上に奈良~平安時代の剱と錫杖が遺されていた!)その出っ張りをめぐって実にさまざまな人間ドラマがおこっています。
その人間ドラマやロマンの一端だけでも、感じていただけるような作品を目指しました。
文字数:584