ヒポクラテスの丘に静穏の鐘がなるとき
ヒポクラテスの丘に静穏の鐘がなるとき
それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、
練られた品性が希望を生み出すと
知っているからです。
(新約聖書:ローマ人への手紙 5章:2~5節)
夕陽が染める稜線が徐々に消えはじめ、天鵞絨が山々を包むようにしてその輪郭が周囲に溶けていく。徐々に広がっていく闇の中に吸い込まれるように、小型風乗船はテイクダウンを開始した。重力に身を任せながらカイトは深い感慨に包まれていた。ついにここに来ることが出来たのだ。そこまでの長い道のりを考えると気が遠くなりそうだった。今、施設へ入るチケットは確かにカイトの個人チップにダウンロードされている。あとは、無事に「島」に降り立ち、積年の望みを遂げるだけなのだ。深くヘッドレストに頭部をもたせ掛け、目を閉じた。着陸して船を降りるまでまだ20分はかかるだろう。それまでにもう一度、この世のすべてと別れを告げる日までにやっておきたいこと、やらねばならぬことを整理しておくべきだった。
とはいえ、ここに来るまでにほとんどのことは済ませている。借りていた家は解約し、多いとはいえない数の友人たちにも送別会を開いてもらった。毎日家を訪れていた黒猫が最近食が細くなっていることが気がかりだったが、それも猫からすれば要らぬ心配かもしれない。「島」に上陸できれば、あとは何の心配もなく、好きなことだけしながらこの病魔に蝕まれた身体におさらばできるのだ。「着陸に備えてください」と船からのアナウンスが流れるのを聴きながら、自然と唇から笑みがこぼれた。
ここ「イル・デスポワール(希望島)」は北海道の山間部に作られた、巨大な施設だった。楕円型のドームの中に大小の商業ビルと、居住部があり、1万人ほどの人々が生活している。外壁はセラミックで白く塗装され、空から眺めてみれば、見渡す限りのエゾマツの林の中に突如ポッカリと浮き上り本当に島のようだとカイトは思った。居住部には杉材をふんだんに用い、無機質さから最大限に距離をとる姿勢が見える。内部にアーティストヴィレッジがあり、世界中で活躍するデザイナーやアーティストたちが創作しつつ生活しているのだという。冥途の土産にひとつ、肖像画でも描いてもらうかな、などと考え、自分がいなくなった後に誰がそれを一体必要とするのか?と一人笑ったものだ。アーティストというのは死後に何か形になるものを世に残していく人々のことを言うのだろうが、自分のやってきた仕事は、常に誰かに上書きされて目に見える形では残らない。巨大なメカニズムの中に静かに埋もれているプログラムをどれほど美しく書いたとしても、それは人の目には触れない。以前同じ現場で働いていたグエンが「世の中には内臓の配列が驚くほど美しい人間がいる。だけどそれは、他人には見えないし、本人だって、確かに自分はあんまり病気をしないほうだ、と感じるくらいでその美しさを目にする機会はない。俺のつくるものはそういうものでいい」と言っていた。グエン自身は、脳の細胞に異常があり、薬を飲まなければ一部が壊死してしまう病気と長年戦っているのだと言っていた。配置替えですぐに会わなくなってしまったが、人の目に触れない複雑なプログラムをなるべく美しく整形しようと苦心している時、必ずグエンの浅黒い肌に光っていた悪戯っぽいふたつの瞳を思い出すのだった。
「カイト・ウエムラ?」
女性ガイドの姿をしたAIがゲートで出迎えてくれた。「ええ、そうですが。あたなはもしかして…?」期待をこめてカイトが尋ねると相手は果たしてこう名乗った。「はい、私がミノリです、あなたのゲートキーパーの」
カイトは感慨をもって相手を見つめた。18歳で初めて希望島ゲートキーパーとの対話プログラムに登録をしてから、担当は二回変わった。途中からAIを通じた対話に変わり、思想や生い立ちを含むプライベートな内容について深く話し合いを重ねてきた。その都度カイトの本音を引き出すミノリの巧みな会話術に感心させられ、実は人間によって操作されているのではないかと思っていたのだ。だが、目の前にいるのは精巧に作られてはいても、正真正銘のアンドロイドだった。
驚いたことに、街はお祭りのような騒ぎだった。露店が立ち並び、街頭ではミュージシャンや大道芸人たちに群がる人々の姿があった。色とりどりにガーラントを張り巡らせられた店先はどこも華やかで、銀座に本店のある料亭やフレンチの有名店の名前も見える。イル・デスポワールの内部は以前に雑誌などで特集されていたものを見たことがあったが、実際に街を歩いてみると、そこは想像以上に賑わっていた。
「テーマパークみたいでしょう?」
カイトの心を知ってか知らずか、ミノリが発語した。
「ここに来て、新しい楽しみとコミュニティを見つけて、ずっと住み続けている人は多いんですよ」
「何年くらい?」
「長い人だと、20年くらいですかね?」
「20年?だって、彼らは『試験』に合格してパスをもらった人たちでは?」
「そうですね…。ここでは『本土』では行うことができない特殊な医療を施すこともでき
るので、まれに回復する場合もあるのです。まあ、政府としてはもともと、その目的で
こちらの施設を作ったわけで…」
「それは、表向きの理由でしょう…。静穏死に反対する人たちからの風当たりを少なくす
るための…。だいたい、回復したならその人たちはどうしてもといた場所に帰らないん
ですか?」
「あなたは、帰りたいと思いますか?もし病が完全に治癒したら」
「愚問だ。僕のは治る見込みなんかない」
ミノリが真顔のまま何かを考えているようだったので、少し不安になってカイトは尋ねる。
「僕は…ちゃんと死なせてもらえるんですよね?」
「…ご心配なく。すべてはドクター・キタバヤシの判断で決められておりますので」
アンドロイド特有の張り付いたような笑顔が妙にカイトを落ち着かなくさせた。
日本政府が、北海道の山間部にイル・デスポワールを作り、そこを「静穏死特区」と定めたのは2020年。首都で行われたオリンピックの閉幕とほぼ同時に静穏死特区特別法案が衆議院を賛成多数で通過し、限定的とはいえそれまで日本では不可能だと言われていた「医師の静穏死幇助」が認められるようになった。それまで「安楽死」と呼ばれていたものと「尊厳死」と呼ばれていたものをひとまとめにしてしまう危険があるとして大きな議論が起きたものの、この命名が法案の策定に大いに奏功した。それまで「安楽」という言葉によって安易に死を選ぶようなイメージが付きまとっていたそれを、「静穏」と置き換え、さらにこの意味で使うときのみ読み方を「じょうおん」とした。
法制化の為に尽力していた北林医師のことは、カイトもよく覚えている。当時、城輪峰大学病院の緩和ケア科にいた北林は、カイトの叔父・上村朝雄の主治医であった。プロジェクトの説明の為に北林がメディアに登場するたびに、靴職人だった叔父は作業の手を止めて、画面に見入った。
「ですから、医療施設には世界中から一流のスタッフに来てもらって、手厚いケアを施すことになりますが、このプロジェクトの中核は、コミュニティの中で患者自らが、自分の命と向き合っていく豊かな時間を取り戻すことです。つまり、特区はひとつの大きな街として、しかも既存のどの街とも異なり、里山ののどかさ、自然の豊かさに、都市機能や先進医療などを備えた新しい街として誕生することになります。」
9年前に起きた災害により、現在も帰宅が叶わない人々には、政府の支援の下で積極的にこの新しい街への移住が推奨された。特徴的だったのは、カウンセラーの役割を果たす看護師の大量配置と、芸術家の移住推進である。看護師らは街角ごとに「談話カフェ」を開設し、住人の特に精神的なケアにつとめた。また、一定の基準を満たしたアーティストらは、街に開いたワークショップやパフォーマンスなどを行うことを条件に、住居も兼ねた個人のアトリエを与えられた。
「医療機関のスタッフはもちろんのこと、そこに住む人々はそれぞれに、ご自分の『命』と徹底的に向き合うことでしょう。自分の望む形の死を迎えるその日まで」
北林の話し方には独特の熱気があり、よく響く低声で語られる終末医療についての彼の見解には、多くの人々が共感を示していた。カイトは、叔父のところに訪問してくる医師が北林が個人的に信頼して訪問看護医療の事業を任せているスタッフであることを知ってはいたが、もの静かなその医師からは北林の熱量の十分の一も感じることは出来なかった。
カイトは幼いころから、叔父の営む靴屋に遊びに行っては、作業をする叔父と話をするのが好きだった。毎晩遅くまで接待で帰らない父親より多くの時間を一緒に過ごしていたこともあるが、職人気質の叔父とは妙に馬が合うのだった。
ある日、いつものように学校帰りに叔父の仕事場に立ち寄ったカイトは、叔父が倒れているのを発見する。急いで救急車を呼んだが、脳溢血で倒れた叔父は、右半身不随となり靴を作ることができなくなった。学校でプログラムを学んでいたカイトは、叔父の助けになりたくて自分で考えたソフトウェアにより動く冶具を製作する。カイトが生まれて初めて書いた実用プログラムだった。汎用性のあるものではなかったが、ただ叔父を助けたいという純粋な思いからつくられたそれは、叔父の仕事の癖までを把握して満足に動いてくれた。何よりもカイトの思いを喜んだ叔父は、働けるようになって最初にカイトの靴を作ってくれた。
「本当は、俺はあの時、死のうと思ってたんだ」
後日、カイトと静穏死について語り合ったときに叔父はこの時のことを持ち出したものだ。
「独り身で、仕事だけが面白くて生きてきたような人生だったからな。利き腕が動かなくなったときには、これはさっさと死んでしまった方がましじゃないかと考えたもんだ。でもお前はそんな俺を生かしちまった。たいしたやつだよ」
「でも、今度は本当に死を選ぶの?」
「死を選ぶ?違うな。人がどんな風に死ぬかってことは、どんな風に生きたかってことだ。
つまり死に方を選ぶってのは生き方を選ぶことなんだ。例えばその靴…」
叔父は、棚の上に置かれていた黒ずんだ靴を指さして続ける。
「こいつは、持ち主が二十年履いてた代物だ。大事に履いてたんだな。寿命はとっくに尽きてるが、持ち主の愛着によって生き延びてた。死んだ奥さんが選んでくれたんだよ。だが、ついに先日、持ち主がここに持ってきた。ようやくお役御免だ。ところで、お前足のサイズはいくつになった?」
カイトは自分の足元を見た。叔父が手作業で残してくれた靴はボロボロだったが、最期を迎えるためにやってきたこの「島」に降り立つ履物として、他の選択はなかった。叔父が亡くなってから、ちょうど二十年が経つ。叔父は最後の仕事として、イル・デスポワールに旅立つ前にカイトに靴を残していってくれた。
その夜は、ドミトリーの個室に案内された。ミノリの説明では、新しく特区に入区した人間はしばらくここに住んで様子を見るのだそうだ。翌日は、医師との面談もなく、自由に街を散策するように言われた。ひょっとすると自分は楽観的すぎたのかもしれない、「入島」すれば自動的に静穏死への切符が手に入ったものと思い喜んでいたが、事態はそれほど簡単なことではないのかもしれない。カイトは頭の中で様々な憶測を巡らせた。役目を終えようとしていた演算装置に急激に大量の計算命令が送り込まれたかのように、脳細胞は眠い目をこすりながら活動を始めた。
2.
翌日、カイトはミノリからの指示に一応従う形で、街の散策に出た。早朝にもかかわらず、街には多くの人が溢れている。昨夜歩いた時よりも老齢者が多い印象だが、単純に朝が早いせいかもしれない。比較的年の若い連中とすれ違うと「おはようございます」と声を掛けられた。なんらかの秩序とルールがあるようだった。ミノリから渡されていたタブレットに入っている説明を聞けば、そのあたりのことはわかるのだろう。太陽が高くなってくると、小さい人影が街に増えてきた。静穏死特区に子供?と訝しんでよく見ると、彼らはすべて子供の姿をしたアンドロイドだった。
翌日も、カイトは街を歩いた。タブレットに入っているのは必要最小限の事務連絡のみで、検索機能も街のレストランや映画館の情報ばかりが出てくる限定的なものだった。とにかく自分の足で歩いてみなければ、何も情報が入ってこない。医療センターがあるという西街区は、ドミトリーのある場所からは少し離れていた。個人用モビリティの使用は、飲食店の利用などと同様にフリーパスだったが、他にすることもないのでゆっくりと歩いて行った。小高い丘の麓に広がる白く大きな建物は病院というよりも、リゾートホテルを思わせた。中へは簡単に入ることが出来たが、特に受付のようなものもなく、同じような個室が並んでいるばかりだった。手あたりしだいに触れてみた扉はすべて施錠されており、カイトはあきらめて外に出ると、近くにあるカフェに入った。コーヒーを運んできたのは若い女性店員だったので、カイトは施設について尋ねようと声をかけた。
「今回の船で着いた方ですね?」
「そうだが」
「センターの方は、当分空きそうにないですよ。近頃誰も死ななくなっちゃったから」
「…というと?」
女性は、他の客が周囲にいないことを確認してから少し声を低めて続ける。
「北林先生、ご病気だって噂ですよ。それで、静穏死の最終判断ができなくなっちゃってるから、誰も静穏死させてもらえないんだって」
「なんだって」
「私の姉も、もうあそこに入ってから5年経つわ」
「病名はなんだ」
「強い希死念慮」
「それだけでは、ここへ入れないだろう」
「そうでもないんですよ。姉は、恋人を事故で失ってから合計10回、自殺を試みました。ひどい時にはひと月に3回。たくさんの医者にかかったけど、どこでも希望は見つけられなかった。そんな時、北林先生のところにいた先生がやっているクリニックに出合ったんです。あの先生は姉を『うつ病じゃない』と診断してくれました。極めて明晰で、論理的思考ができる状態であると。そして彼女が救われる方法は、死ぬ以外にないと。それで、姉はゲートキーパーとの例のプロセスを無事に通過して、ここに来ました」
カイトが驚きの表情で見つめているので、彼女はさらに話した。
「私たち家族はみんな、姉のことを愛しています。生きていて欲しいけど、でももう、あんなことは嫌です。地獄みたいに真っ赤な浴槽から血だらけになって姉の身体を引きずり出すのも、断崖から身を投げようとする姉を必死で捕まえて誰か姉を気絶させてくれる人が現れるまで叫び続けるのも。ここに来ることが決まったとき、恋人が亡くなって以来初めて幸せそうな姉の顔を見ました。自殺しようとするのもパッタリとやめました。不思議なものですよね。死ねるという希望が、彼女を生かしたんです」
「君は、どうしてここにいるんだ?」
「私、こう見えてもヘブンアーティストなんです」
「Heaven Artist?」
「そういうとここにふさわしく聞こえるでしょ。ただの大道芸人」
彼女が送ってきたネームカードには「ミサキ」と名が刻まれ、アコーディオンとフルー
トを演奏する姿が再生されていた。
「姉が逝く時には私の音楽で見送るって約束したの。こんなに長くいることになるとは思
わなかったけど、アーティストにとっては住みにくい街ではないわ」
「へえ」
「あの丘の上に鐘があるでしょう?静穏死が実施されると、あれが鳴るんだって。私は一
度も聴いたことがないですけどね」
ミサキが指さした方を振り仰ぐと、青い空を映し出した天井に白く霞が棚引き、その先
に丘の頂が続いていた。あれはどこまで本物なのだろうか。鐘があるというが、天気のせいか肉眼では見ることが出来なかった。
「土日は南街区のストリートに出ているから、また何か聴きたいことがあったら来て」と言い残してミサキは仕事に戻っていった。
聴きたいことは山のようにあったが、まずは思考の整理が必要だった。北林医師が病気?静穏死が実施されていない。一体何年の間そんな状態が続いているのか。調べたくてもここでは「本土」のようには情報が集まらない。まずは信頼できる情報を集めなければ…。靴のかかとを不思議なリズムで鳴らしながら、カイトはドミトリーの部屋へと引き返した。
3.
週末を待って、カイトは南街区へ足を運んだ。初めてカイトがこの街に着いた時に降り立ったポートもこの街区にある。このエリアに限って観光客の受け容れもしており、週末は特ににぎわっているようだった。アーティストビレッジは非常にうまく設計されており、路面にむかって開いたアトリエと、飲食店や雑貨店がバランスよく配置されている。公道にもテーブルや椅子が設置されており、互いに交流のある年配者たちが「いつもの」といった感じでめいめいに談笑しているのが目に入る。この光景はメディアでイル・デスポワールが紹介されるときに必ず使われるもので、カイトにも既視感があった。辺りを見回していると、前日に話を聞いた老人と目が合い、軽く会釈をした。
「ああ、あんたか。調子はどうだい?」
「はい、悪くないです。昨日はどうも」
「空気だけはいいからな、ここは。何か探してるのか」
「ええ、大道芸なんかやってたら、ちょっと冷やかしてみたいと思いまして…」
すると別の老人が「ヘブンアーティスト達はだいたいあっちに集まってる」と教えてくれた。礼を言うと、「同じ場所が夜にはレッドライトになるよ。あんたくらいの年ならモテるぜ」と言われたので、カイトは苦笑いしながらその場を後にした。ここ数日の調査でわかってきたことは、最後に静穏死が実施されたのはもう20年も前だということと、この街で神のように崇められている北林医師の「不予」は一般には知らされていないことだった。この街の静穏死実施の体系を作り出したのは、北林が組織する先進医療チームであるということしかわからず、そのメンバーについては公表されていなかった。緩和ケアに重点が置かれていることは終末医療の常識から言っても間違いないが、誰がそれを中心になって行っているのかはわからなかった。話を聞いた老人たちはたいてい、ここに来た当初の目的を忘れていないまでも、期限なく伸ばされていることに特に文句を言うでもなく、享楽的に過ごしていた。余命を宣告されている人間も多いはずで、明らかに緩和ケアの力が奏功しているように思えた。
街区の中心がサークル状になっていて、中央に設えられたステージでヘブン・アーティストと呼ばれる大道芸人たちが入れ替わり立ち代わり、洗練されたパフォーマンスを見せている。ざっと見たところ、ミサキの姿は見当たらなかった。カイトは歓声をあげている観衆の間を潜り抜けて、少し離れたところにある花壇のへりに腰かけた。軽快なリズムがステージの方から流れてくるが、よく見ればカイトが刻んでいるかかとのリズムはそれとは全く合っていない。
「お前、ここで何をしているんだ?」
その男が不意に雑踏から現れてカイトの前に立ったのは、十五分ほど貧乏ゆすりに近い足踏みを続けた頃だった。逆光の影の中でもよく光る二つの丸い黒い瞳。年をとってはいてもすぐにわかった。
「グエン・キム・ガンじゃないか」
「そうだとも。ウエムラ・カイト」
「こんなところで何をしてるんだ」
「こんなところにいる奴に何をしてるんだも何もないだろう。お前こそ…、大道芸人枠…じゃなさそうだな。相変わらず変なステップ踏みやがって」
二人は肩を抱き合った。敵地で同胞に会ったときはこんな気分になるのだろうか。人生に別れを告げるつもりで来た場所で、過去の記憶に住む友人に邂逅するとは。ニヤリと白い歯を見せてグエンが笑い、眉を上げてショットグラスを口元に掲げるジェスチャーをする。
「今からか?まだ日は高いぜ?」
「何か問題があるのか?」
「いや…、まるでない」
グエンに連れられて来た店は、いたるところに客が寝そべりながら長いパイプで煙を吸引しながら酒を飲んでおり、まるで19世紀の小説に出てくる阿片窟といったような風情で、一歩足を踏み入れたカイトは面食らった。
カウンターに腰をかけようとすると、グエンがちらりとこちらを見て言った。
「気を付けろよ。そいつを吸い始めたら、文字通り腑抜けになって、死ぬまでここに入り浸ることになる」
「どうせすぐに死ぬんじゃないか」
「甘いな。あれで痛みを忘れると、一緒に死ぬ気も失せていくんだ」
「じゃあ、本物か…?」
「純度は保証付きだ」
「なんでわかる」
「俺の店だからな」
ショックを隠せないカイトに少し顔を寄せてグエンは続ける。
「表向きはお上に協力してることになってる。この店は彼らとの協働で経営されてるんだ。だが俺は死ぬのを諦めてはいない」
カイトの心臓は跳ね上がった。
「あんたはいつからここにいるんだ…?なぜ…」
「おっと。今はよくない。なんせ今はこの街のゴールデンタイムだ。誰かに聴かれでもしたら面倒だからな。夜にまた、来てくれないか。紹介したい奴がいる」
3.
店を出たらまだ日は高く、頭がクラクラした。グエンのおごりでシュナップスのソーダ割を一杯飲んだが、もともと強い方ではない。病気が悪化してからは酒をやめていたのでそのせいかと考えたが、これは精神的なものだと思いなおす。紫煙の中にいた老人たちの表情からは感情を読み取れなかった。自分が思い描いてきた「最高の人生の終わり方」の前に立ちはだかる大きな障壁がある。北林医師はいったいどこにいるのだ?あの白い建物の中で病臥しているとでもいうのか。だとしたら、彼のチームは機能していないのか?アジアの近隣の国からも静穏死を希望する人々が訪れて、最期を待っているというのに。
日が落ちるのももどかしく、カイトは再びグエンの店の戸を叩いた。それまでに、自分でも調べられることは調べた。店の中には相変わらず横になりパイプを吸う人々が寝転んでいたが、もはやこちらに関心を持つ様子はなかった。グエンが手招きする方へ行くと、奥にある階段から二階に案内された。
「VIPルームか」
「そんなもんだ」
鍵のかかった扉を開けると、そこには一人の男がいた。ずいぶん顔色が悪い。カイトの方を見て、すこし目を伏せたが、すぐにグエンが間に入って男を紹介する。
「ドクター・モリカワだ。北林の下で希望島プロジェクトのチーム員として長年働いていた」
「いた?」
「現在は、ステージ4のすい臓がんに侵されて、お役御免だ」
今までだまっていた男が口を開いた。
「ドクター・モリカワは2年前まであそこにいたんだ。脳科学の専門家で、俺の担当医でもあり、良き友人だ」
「北林先生にはどうしたら会えるんですか。俺は今すぐに会って、現状が多くの人に混乱を与えていることを伝えなければ」
「彼に会いたいのか?」
「もちろんです。グエン、悪いがディスプレイを貸してくれ」
「おう」
「これが、政府が公表している希望島での静穏死実施数だ。2020年、静穏死特区法が施行された年には3名。翌年は5名。その翌年にはいきなり20名の人がここで静穏死を遂げている。その後もコンスタントに同じくらいの執行がある。ところが、この2030年のところでその数字が下がり始める。30年は10人、31年は6人、35年からは毎年1人ずつで、そのあとは2、3年に1度という頻度でしか行われていない。そして最後に静穏死が実施されたのは、2050年。この年を最後にこの国では一度も静穏死が行われていない。注目すべきはその施術方法で、20年前までは薬の投与が行われていたが、その後は静穏死を行う『マシン』のようなものが作られ、それに被体が入って内部から命令を出すようだ。つまり、それはもう静穏死が医術の範疇に収まらなくなっていることを示していて…」
グエンが眉を寄せてカイトを見つめる。だが、隣の老医師は当然そのことを知っていたようだった。
「どうやってその事実を把握したのだ。実施人数はともかく、『マシン』の件はトップシークレットになっているはずだが」
「ここのコンピュータは外部からの侵入にはえらく厳密なプロテクトがかかっているわりに、内部からのアタックにはもろい。死を求めてやってきた惰弱な人間がまさか枢密にアクセスしようなどとは考えていないらしい」
「ここに入るときにあらゆる機器の持ち込みが遮断されているからな。どんな魔法を使ってシステムに入り込んだ」
「この靴のかかとは特殊なゴムと合金でできていてね。それ自体に基板が組み込まれている。普段は電気的にプロテクトされているが、外からの振動で内部だけで操作ができるようにあらかじめプログラムされているんだ。あとは、ネットワークへの入り口を見つけてプロテクトを外すだけだ。私の装着しているコンタクトレンズにハッキングした情報が自動的に送られてくる」
「あのへたくそなステップはそれか。道理でまったく音楽的に成立していないわけだな。ドク、こいつは自分の叔父キのために、まばたきだけで靴が設計できるシステムを構築しちまうような変人だ」
「それならなぜ、まばたきひとつで人を殺せるシステムを創って自分で実験してみないのかね」
「ドク」
老医師はわずかに眉を開くと、口元を緩めた。
「すまないね、年をとると皮肉っぽくなるというが、病で老い先も短いとなると無駄に鋭い舌鋒を自分自身が制御できやしない。北林医師に会いたいと言ったね」
「はい」
「彼はとうの昔に死んでいる。今、あそこで静穏死のジャッジをしているのは、AIだ」
頭を殴られたような衝撃だった。AIが、人間の終末を判断しているというのか。
「ちょっと…待ってください。なぜそんなことになっているんです、北林先生の優秀なチームは?そもそもは人間だけで作られたチームだったんでしょう?」
「これを話すには随分時間がかかるぞ。私にまだ記憶を遡るだけの正気があることを喜べ。なにせ20年も前のことなのだからな。彼が死んだのは…」
カイトは息を詰めて、森川医師を見つめた。
「もともとあのAIは、このプロジェクトを補佐する目的で政府から送り込まれてきたんだ。そもそも死を選ぶというのは最終、最後の手段でなければならない。それよりも最適な治療の見込みが0.1%でもあるならば、そちらが先に選択されなければならない。それが危険を伴うものであるとすれば、その成功確率や実行の可能性を算出するのは、人間よりもAIの方が得意だからな。そして一番難しいのはここだが、人間は自分の感情にすら嘘をつく。その可能性までも加味して、最終的にどのような治療を施すべきなのかどうかということを、提案する役割をあのAIは担っていた」
「我々はD……あのAIはそう呼ばれていたんだが、Dのことを信頼していた。感情を持つ我々には判断が出来ない部分を冷静に算出して答えを出し、それは計算上はミスのないものだった。それでも、北林はいつも最後までDと議論をしていたよ。その理路整然とした言葉の選び方、尽くし方を見ていると、しばしば北林がAIで、Dが人間であるように感じることもあった。メビウスの輪のように、表も裏もなく彼らはつながっているように思えた。我々の理解を超えてただ美しかったのだ。やがて、北林自身がガンを患い、自分の後継者として静穏死のジャッジをするものを選ばなければならなくなる。その時に彼がDを選んだのは、自然の成り行きと言ってもいいだろう」
「でも、同じチームには先生のような熟練の医師もいたんでしょう?なぜ、人間でなくてAIでなければいけなかったんです」
「君は、静穏死を行うことで医師が背負う重荷…リスクと言い換えてもいいが、それに思いを致したことがあるかね?」
「……」
「北林はスタッフをとても大切にしていた。わたしには彼の真意はわからないが、静穏死の決定を下すことは心を殺すことになりかねない。若いスタッフにはそれこそ荷が重すぎるし、わたしなどは、そもそもそんなたいそうな決定を自分自身の判断で行えるほどの容量の器をもっていないんだ。実際、北林と一番議論を重ねた経験を持つのはDだったしな。政府には、暫定的にAIが後継者を務めることで今まで通りこのプロジェクトを遂行できるという彼の意志が伝えられ、その通りになったのだ。」
「それが20年間ずっと続いてるってのかよ。」
グエンが口を挟む。彼はこの話をどこまで知っていたのだろう?そんなカイトの心を読むようにグエンは「俺が知ってたのは、折々に触れてこの島のメディアに登場する北林先生が、ホログラムで合成された偽物だってことくらいだよ」と言った。
「それで、あなたとグエンはここで何をしているんです?」
「私の寿命も残りはわずかだ。せっかくなら自分が生涯をかけて関わってきたプロジェクトでの静穏死を遂げたいと常々考えていた。だが、今のままではその願いはとうてい叶いそうにない。私がこの島へのパスを出したグエンがまだ生きていることは知っていた。だから私から連絡をとったのだ。君が看破したようにこの島の内部のコンピュータ・システムは脆弱だ。優秀なプログラマならひょっとしたら、Dへの命令体系を書き換えることができるかもしれない」
「俺は二つ返事で承諾したよ。ここに来てなかなか静穏死に至らないことにイラついていたからな。だが、ハッキングを開始してすぐにある問題に突き当たった。」
「医療センターのメインマシンへのアクセスは、まったく同時に二カ所からのキー入力が必要になる」
「やはり試していたな」
「君のハッキングは形跡を残しすぎだ」
「向こうに怪しまれるようなヘマはしていないはずだが」
「向こうには見えなくても、おなじ目的で入ったハッカーには確実にわかる。なんだってあんなにアクセプタを残すんだ。あれだけ内部の美しさにこだわってた君らしくない。」
グエンは声をあげて満足そうに笑うと「そうだ。同じ目的で入る奴を見つけたかったからな」と言った。「で、俺は見つけた。どんな奴かと顔を見に行ったら、お前がいた時にはたまげたな。」
「それで、その敏腕ハッカー殿は我々に協力してくれるんだろうな。ぜひともお手合わせいただきたいものだ」
「それは願ってもないが…。俺としてはそちらの博士が、全面的に協力してくれるのかどうかのほうが気になるところだ。今、北林の後継者の…D?のチームはどんな構成なんですか。最終決定に関与する人間はどのくらいいるんですか?」
「20年の間に、Dは静穏死を執行する判断をまったく行わなくなった。それは、ひょっとすると北林の人間らしさの部分をもくみ取ったAIが如実に北林の老化した姿をも再現しているのかもしれないが。だが、静穏死チームの枢軸からはすでに人間がいなくなり、現在はAIのみが人間の生き死にを判断している状態だ。このままだと今後ますます静穏死は実行されなくなっていくだろう。それでも、システムによってこの島には静穏死を求めてやってくる君のような人間が後を絶たない。私は北林が生きていたら聞いてみたいよ。これが、君が描いていた理想なのかと」
4.
実際、医療センターの情報を書き換えるためには、ネットワーク上からの侵入だけでは難しかった。首脳部は完全に外からのアクセスを遮断している状態なのだ。実際にAIと目の前に対峙して、対話を進めながら侵入できる隙を作り、リアルタイムに更新された書き換えプログラムを走らせなければならない。外と中の完璧な連動が必要な上、物理的にもあの白い建物の中に侵入しなければならず、それには内部のことをよく知っている人間が必要だった。森川博士は見た感じではだいぶ病状が進んでいて体調が悪そうだ。若くて、共に施設内に侵入できる人間が必要になる。ミサキが誰かを知っているかもしれない。カイトがミサキの容貌を話すと、グエンはすぐに思い当たったようだった。
「ああ、あの娘か。土日にはいつもケンの店の前でアコーディオンを弾いている」
「ケンの店?」
「サンドイッチを売る店だ、けっこううまいぞ。明日の朝メシにでも行ってみるといい。」
次の日、言われた通りの店に言ってみると、確かにミサキが演奏をしていた。病院の近くのカフェで店員をしていた時と異なりメイクも衣装も派手だったので一瞬わからなかったが、ミサキの方からカイトに気が付いて「あと30分経ったら休憩するから」と合図を送ってきた。
「悪いね、仕事中に」
「いずれにしても休憩するんだもの。問題ないわ」
衣装とメイクそのままにサンドイッチ店のベンチに腰を掛けたミサキは以前に逢った時よりもずっと魅力的に見えた。
「君は、医療センターの建物の中に入ったことがある?」
「あるわよ。」
「中はけっこう入り組んでいる?」
「そうね…、たいていの病院はそうだけど、控えめに言っても迷宮みたいよ」
「僕が中に入っていって、誰にも見とがめられず出て来られる可能性が少しでもあるだろ
うか?」
「何がしたいの?」
「これから話すことは、嘘のように聴こえるかもしれない。それにたいしてアクションすることは君に危険を及ぼすかもしれない。だから、僕の独り言だと思って聞いてほしい」
カイトはかいつまんで話をした。それを熱心に聞き、ミサキは少し考えていた。そしておもむろにこう言った。
「月に一度、ミュージシャン仲間で医療センターのホスピスを訪問するの。ホスピスはセンターの一番奥にある。楽士のふりをすれば、そこまでは入れると思う。何か楽器はできる?」
「残念ながら…」
「じゃ、シンガーってことにしておく」
「僕がシンガー?」
「タップダンサーでもいいけど」
「…お任せする。次の訪問はいつ?」
「次の新月の日。」
新月までは10日あったので、その間にカイトはプログラムをいくつか精査することが出来た。グエンのところには旧式のコンピュータがあり、それを使えば自分の「ヒールトップ」を使わなくても仕事ができた。その間にグエンが一人の男を連れてきた。
「こいつはジェイだ。なにを作ったやつだと思う?」
「さあ?見当もつかん」
「静穏死マシンだよ。ヒポクラテスの丘の先に鎮座しているあいつさ」
カイトは口をあんぐりと開けてしまった。いったいどこからそんな男を見つけてくるのだ。
「簡単だ。あんなもんを創るやつの心理を考えれば、ぜったいにそいつはこの島の中にいる。そして、そのマシンを使うのを阻止する奴がいるなら、それを取り除こうとする。だから俺はおまえの時と同様に、Dの謎を探ろうとするやつを張ってただけだ」
「あんたはむこう側に居た方が百倍稼げたんじゃないか…」
「稼ぎ?お前からそんな言葉を聞くとは思わなかったな。おい、ジェイ、こいつがカイトだ」
ジェイは、目深にかぶったキャップを少し上に上げてあいさつした。彫りの深い顔立ちをしていて、ぶかぶかの服で隠されてはいるが、筋肉質で鍛えられた身体をしていて、あまりプログラマーっぽくない。ギョロリと大きな目を動かしてカイトを見るとぼそっと「オジサンに似てるな」と言った。
「オジサン?」
「アサオッサンの甥なんでしょ、あんた。俺、昔あんたの叔父サンに靴を作ってもらったよ」
思わずジェイの足元を見るが、彼は量販店で良く売っているスニーカーを履いていた。
「ここで会ったんじゃない。『本土』に居た頃だ。アサオッサンはよくあんたの話をしてたよ。俺と同じくらいの年の甥がいて、とても賢いんだと」
「君は、深川の出身なのか?」
「いいや」
「叔父は深川からほとんど出なかった。旅行にもめったに行くことはなかったはずだが…」
「そうだよ。俺たちはネット上でしか会ったことはない。でも俺は、アサオッサンの作る靴が好きだったし、いつ話しかけてもアサオッサンは丁寧に相手をしてくれた」
ジェイの話を聞いているうちに、叔父がネット上で「アサオッサン」というハンドルネームを使っていたことを思い出した。アナログだった職人の叔父が、ネット上で靴の販売をするようになったのは、半身が使えなくなってからで、そのセットアップをしたのはもちろんカイトだった。
「俺がプログラミングに興味を持つようになったのは、アサオッサンから甥の自慢話を聞かされていたからで、静穏死に興味を持つようになったのも、アサオッサンがそれで逝ったからだ。あのマシンの開発の話が合ったとき、俺は自分こそがその任にふさわしいと思ったよ。あんたはどう思うか知らないけど、おれはアサオッサンに憧れてたし、大切な『友達』だった」
叔父にこんなに年の離れた「友人」がいたとは。カイトは不思議な感慨を覚えた。自分も叔父も、あまり人づきあいが得意な方ではなかったが、それでも心がつながる相手はいた。特に、自分の得意なプログラミングを通じて自分自身を知ってもらうことができることがわかってからは、無理して自己表現をしなくなった。ジェイも、表には出てこない部分にきっと何か叔父とつながるものがあったのだろう。
「こいつの書くプログラムは芸術的だぜ、何度読んでも、意味がよくわからん」
「誰かにソースを読まれても意味がわからないものを創ることに意味があることもあるんだ」
「それでソースを全公開してるのか?あんな危険な代物を」
「隠してたって、盗みたい奴は盗むんだ。ヘタに書き換えられて、悪用される方が困る」
「な、変態だろ?カイト」
「いや、まあ、一理あると思うな」
大ききな双眸が再びカイトの方に向いた。その眼差しには叔父への思慕が湛えられ、先ほどまでは皮肉っぽく見えた彼の口元も、心なしか上がっているように見える。
「だが、君は体の方は大丈夫なのか?」
カイトの質問にジェイはいともシンプルに答えた。
「おれは不法滞在者だ。だからあんたたちのチームでいちばん健康なんだ。せいぜいこきつかってくれ」
5.
カイトとグエン、ジェイ、森川は新月の潜入作戦に向けて入念に作戦を練った。ミサキにもチームに入ってもらうことになった。これにはカイトは反対だったが、ミサキの方が希望したのだ。姉の具合があまり良くないらしい。
「静穏死ができるときまって、一時は落ち着いていたのに。あまりに待たされるからまた、再発しちゃったみたい」ミサキは悔しさをにじませた。
「協力できることがあるならなんでもしたい。無理はしないから」
森川の調子も良くなかった。もともと悪かった顔色は日に日に土色になっていく。彼がいた頃とはシステムが大きく変わっているとはいえ、在りし日の北林の言動などを聴くことはチームにとって意義のあることだった。
「滑りやすい坂道という言葉を知っているか?静穏死の議論で必ず持ち出された言葉だ。北林は施設の裏手に大きな丘が来るように設計し、その一番上に象徴的な鐘を作ってその議論に対するアンチテーゼを示したんだ」
「坂道を上った先に、かつては処置室があったのか?」
「そうだ」
「人力で鐘を鳴らしたの?」
「ボタン一つで鳴らせるようになっていたがな。人力は人力だな」
「俺が設計したマシンでは、鐘まで全部がシームレスだ」
「特区で一番天国に近い場所か」
「そこにヒポクラテスの名を冠する当たり、北林もたいがい狂ってるな」
「だが、彼は本当に真剣に考えていたよ。静穏死を望む君たちは、自ら死にたいからといって、最初から生まれなければよかったと思うか?」
それぞれが口をつぐむ。
「彼がいなければ、この特区も生まれなかったし、ひょっとしたらわが国ではいまだに成熟した議論も行われないままだったかもしれない。それに関しては君たちは彼に敬意を示してほしいものだ。ただ、後継者選びだけが、彼の晩節を汚したのが残念だ」
月の欠けるのをこれほど心待ちにしたことはない。毎晩月を見上げては動悸が高まるのを感じた。そして、ついにその日は翌日となった。
「では、作戦を説明する。明日1100ちょうどに、俺はここから、ダミープログラムAを走らせる。これは陽動だ。アタックされていることに気が付いたDが入所者のプロテクトの為に他のAIを施設内に送り込む、その逆経路をたどってカイトとジェイはDの居場所を突き止め、奴にたどり着くんだ。ケサランパサランの施設慰問は1030から。カイトとジェイはミサキに同行して1000には施設の中にいる。ミサキからの情報によると、施設の奥に侵入できる可能性のあるポイントは二か所ある。人間の物理的侵入が可能なのはおそらくどちらか一カ所だろう。二人のうちどちらか一人でも、Dと直接対峙することが出来たら、その心臓部にこの制御棒を入れろ。その間にこちらから正規のプログラムを走らせる」
「了解した」
「ドクはかなり調子が悪い。おそらく今夜がヤマだろう。彼からメッセージを預かっている」
グエンが手をにした透明のシートを振って手に載せると、森川の姿が浮き上がり、喋り始めた。記憶形態をもとに再生されるホログラムで、現実の森川はもう起き上がることはできないということだった。
「親愛なるグエン、カイト、ジェイ、ミサキ。私はおそらくもう逝かなければいけない。人生の最後に君たちに出逢えたことは、嬉しい。ここに来てよかったと心から思う。私たち科学者というのは、なぜこんなにも貪欲なのだろう。人間の生き死にに関してすら、それが科学の歴史を一歩でも前に進めるものかどうかということに、いかなる時にもこだわらずにはいられない。私は永遠の命などというものを欲したことはないが、それを欲する者の気持ちを理解することはできる。なるべく人を殺さずに生かしたいという医者の気持ちを理解することもできる。ひとりの脳科学者として、自分の研究の成果が社会を変えていくことに喜びを見出したし、そのための研究ができることが何よりも大切だった。脳科学はここ50年でさして目覚ましい発展を遂げることはできなかった。人工海馬の開発による認知症治療は、新たに静穏死を迎えたい人口を増やすことにつながった。すべては、メビウスの帯なのだと思わないかね?苦心して裏だったものを表にしたとして、別の処は表が裏になっているのだ。私は、北林の医師としての貪欲さ、あきらめの悪さに自分と似たものを感じていた。私は彼に協力を惜しまなかったし、その結果、このような事態を招くことに加担したと言える。
君たちにまだ話していないことがある。北林は確かに死んだが、やはり静穏死を阻止しているのは彼本人なのだ。Dのもとにたどり着くことが出来たなら、君たちはその意味を知るだろう。
グエン、君がいつか私に尋ねたことがあったな。あれは、君の脳を手術するかどうかを決定するために我々が話し合っていた時だ。「その手術を受けて他人の脳を移植した場合、俺は俺であり続けることが出来るのか」と君は聞いた。私のあいまいな答えを嫌った君は対処療法を望んだ。自分が自分でなくなってまで生きることにまったく興味がないと言った。私は君の優秀な頭脳を失うのが嫌だった。手術を受けなければ君の脳は半年以内に半分以下の大きさになっている見込みだったのだから。私はすがる思いで、その時私が開発していた脳波位相同期ネットワークに君の脳波を同期させてみた。私がそれを思いついたのはほんの偶然だったが、それをもとにして私が作ったパッチをあてることで、君の脳は実際には収縮していても、見かけ上正常に動くことができるようになった。だがこの方法にはひとつ問題があった。確実な同期のためには、誰か半径5キロ以内に居る人間の脳波と常につながっていなければいけない。君のそばに常にいられる生きた身体が必要だった。まだ実験段階で正式に公表されていない方法なのだから、私で試すしかない。選択肢はほかになかった。君は静穏死を迎えることを前提にこの島に来て、あの店を私と共に経営し、通常通り生活できるようになったのだ。私が生きてここにいる限りは」
グエンが苦笑いする。
「というわけで、おれの寿命には時限装置がかかっていたらしい。まあ、とっくに死んでいるはずの俺が、静穏死するために生かされてたんだから、へんな話だな」
「あんたの体調は大丈夫なのか」
「なんの問題もない」
「ドクが死んだら、電気が切れるみたいに逝くのかな」
「お前の作った静穏死カプセルと、どっちが楽しく死ねるかね」
「考え得る中でもっとも『静穏に』死ねる環境を創ったんだ。これ以上の死に方があってたまるか」
グエンとジェイが軽口を交わすのを、カイトはどこか遠くで響く音楽のように聴いていた。ここ数日で自分の身体にも変化が起きているのを感じる。ミノリから供給される薬は日一日強くなってきた。
「だからな、すまんがカイト、明日Dのところにはお前とジェイに行ってもらう。本当はお前にこっちを任せて、おれはDの首根っこをこの手で掴んでやるつもりだったんだけどな」
「ドクの面倒をしっかりみておけよ。無事にプログラムを書き換られたら、ついでに列の先頭にお前を入れておくから」
人の命を操作することは、キリスト教においては大罪で、かならず地獄に落ちるのだとミサキは言っていた。そうしたら、我々は静穏死したあと、みんな地獄で再会するのだろうか?地獄の責め苦は、この世の病の苦しみとどちらが過酷なのだろう。
6.
朝、集合時間よりも少し早くミサキのカフェに行くと、店は定休日にもかかわらず既にミサキが来ていた。彼女はフルートを吹いていた。その後ろ姿にはなぜか話しかけてはいけないような雰囲気があり、カイトはしばらく黙って演奏を聴いていた。ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」。透き通るような木管の響きに耳を澄ませるうちに、ミサキの悲しみが直接胸に響いてきた。姉が死んだのだ、とカイトは直感的に思った。
カイトが後ろにいることに気が付いていたのだろう。ミサキは演奏を終えると、振り向きもせずにしゃべり始めた。
「姉は昨日の晩、亡くなったわ」
「なぜ…きちんとケアされていたんだろう?」
「施設から連絡があって、駆け付けたら、その時はまだ息が合った。衰弱していたけど。恋人が、迎えに来たの」
「…え?」
「幻を見た、と思う? でも私には見えた。姉の見ているあの人の姿」
「…」
「姉はとっても幸せそうだった。ずっと待っていたんだもの、また会える日を。まるで天使に召されていくみたいに嬉しそうに死んでいった」
「それは…」
良かった、という言葉をカイトは飲み込んだ。明らかに的確な言葉ではない。小刻みに震えているミサキの肩に手を触れることも、カイトにはできそうになかった。ミサキはフルートを握りしめて、振り向く。
「カイト、私たちの生命っていったい何なんだろうね。静穏に死ぬってどういうことだろう。良く生きて、悲惨に死ぬのと、惨めに生きて、良く死ぬのと、どちらがいいものなんだろう。姉は、幸せだったのかな」
「生は本人のものだけど、死は他人のものなのかもしれない」
自分の口をついて出た言葉に、カイト自身が驚く。ミサキは顔をあげて、カイトの顔を見た。
「いや…。思いつきにすぎないんだが」
言い訳するようにカイトは言葉を探す。誰かの心に届く言葉を見つけるというのは果てしなく難しいと、カイトは思った。
「森川博士も言っていたとおり、生と死は表と裏だ。わけることはできない。だから、静穏死は本来、医師が介在するのではなく、自分の死を引き受けてくれる人と一緒に判断しなければいけないんじゃないか」
「あなたは、これからDに会って、静穏死が出来るようにプログラムを書き換えるんだよね?」
「ああ」
「それで、あなた自身がジェイのマシンに入って、鐘がなれば、作戦終了の合図」
「そう」
「あなたの死は、誰のものになるの?」
ミサキは涙を目に溜めていた。それは姉のための涙であるとカイトは思っていたから、とっさにミサキに抱き着かれたときには、何が起きたのかよくわからなかった。華奢な身体を抱きとめたまま、風が通り過ぎていくのを感じていた。
遠くから数人が話すざわめきが聴こえてきた。ミサキのミュージシャン仲間たちがこちらにやってくるのが見える。その後ろに、ジェイの姿も見える。ミサキは風に同化するように身体を離すと小さな声でつぶやいた。
「作戦の成功を祈ってるわ」
施設の中は、迷宮以上だった。入り口こそ、グエンが偽造したIDを体内のチップに上書きことですんなりと通過することが出来たが、案内役のアンドロイドがいなければ、とてもではないが、前に進めない。壁に見えるところが通路だったり、その逆だったりする。森川博士によると、全てが可変の壁と可動の部屋からできていて、2日に一回迷宮を創り出すアルゴリズム自体が変わるのだそうだ。
「そのアルゴリズム自体を創り出してるのもAIなんだろうな、恐ろしい時代だぜ」
といいながらジェイは妙に嬉しそうだ。
ホスピスにはミノリとそっくりのアンドロイドがざっと3~4人は働いていて、それもカイトを驚かせた。そこで生活している人たちは、やはり無表情だった。
時計が1125を回った。お世辞にもうまいと言えないコーラスを披露していたジェイとカイトは、他の奏者に代わって耳の内部に装着しているインカムからの通信に耳を傾ける。小さな擦過音がした。グエンが「内部」に打ち上げた花火だ。ジェイの書いたプログラムは、内部の動きをすべて言葉にして耳に伝える仕様になっている。外にいるグエンとも、直接音声でやり取りすることはできないが、彼がリアルタイムに打ち込むコマンドは、瞬時に言葉に変換されて二人に伝わる。
「優秀なプログラマーふたりが書いたコマンドのパラメータになった気分だな」
「そうか?おれはオセロの駒になった気分だ」
「その心は?」
「裏返されたら死、表で生き、果たしてどちらの状態で終えることが出来るか。それでも駒ひとつひとつの生き死には全体の勝ち負けには関係がない」
「哲学者にでもなったつもりか」
「次の人生ではそうする。」
すでに数体のアンドロイドがこの部屋に向かっている、その経路はやはり、ミサキが予想した「出入り口」を目指している。カイトとジェイは二手に分かれた。
「Dのところで会おう」
「先に着いた方が、Dを煮て食うなり、焼いて食うなり、してもいいんだったな」
「絶対にうまくないぞ、やめておけ」
片方の回路に集中することで、鮮明に命令が聞こえるようになった。「出入り口」を出てきたばかりのアンドロイドを不意をついて襲い、チップを抜く。それを書いてきたプログラムで上書きすると、アンドロイドがもと来た道を案内してくれる。だが、なぜ敢えて二つのルートがあるのだろう?
ふと頭の中に、ミサキの声が聴こえた。
「よく生きるのと、よく死ぬのでは、どちらが幸せ?あなたはどっちの扉を通りたい?」
カイトはかぶりをふって先に進んだ。
次には、叔父の声がどこからともなく降ってきた。
「人がどんな風に死んだかってのは、どんな風に生きたかってことだ。どんな場所で、何を見て死ぬかっていうのはな」
遠くから、ジェイの声も聞こえてくる。
「おれがあのマシンを作ったのは、医者の奴らを重荷から解放してやりたかったんだ。俺の親父は、あいつみたいに眉ひとつ動かさずに静穏死を実行できるような医者じゃなかった。あの大量執行を担当した後、精神を病んで、一人ぼっちで自殺したんだ」
これは、人生の最後に見るという走馬燈というやつだろうか。実際さきほどから、眩暈がひどい。血圧がだいぶ下がっているのが自分でもわかる。だが、Dと対峙してこのプログラムを走らせるまで、倒れるわけにはいかない…
そして、何かが弾ける音がした。
急に目の前が開けて、その光景が目に入ったとき、カイトは自分が既に地獄の扉を開けてしまったのだと思った。低いうなりをあげて何か巨大な金属が回転しているのか、生ぬるい風が起きている。そして、目の前に、ジェイの靴が転がっている。まぎれもない、あの量販店で売っている白いスニーカー。それにはまだ二本の足らしきものが収まっているが、膝から上のジェイの姿は見えない。辺りは薄暗く、細く天井から差し込む光は部屋の全体を照らさない。
「ジェイ!どこだ!返事をしろ!」
いくら呼んでも返事はない。
後ろの暗闇から機械音とともに合成された不自然な音声が響く。目を凝らしても闇の中は暗すぎて何も見えない。それは、どうやら笑っているようだった。
「Dか。ジェイに何をしたんだ!」
「何も」
「何もしていないのに、ジェイが足だけになるわけがないだろう」
「その男は、自分自身の希望でそうなったんだ。お前も私に近づくなら、そうなることを覚悟していた方がいい」
少しずつ、目が慣れてくる。目の前にあるものの意味を飲み込むのに、さらに数秒が必要だった。そこには一体のアンドロイドがいた。その後ろには人間の脳が保存液に浸かった状態で浮いている。あれは、誰の脳だ?考えるまでもない。北林に決まっている。
「断っておくが、今、お前が観ているのはイメージだ。君のコンタクトレンズのマイクロヴィジョンに投影させてもらった。実際はもう少し即物的な形をしているよ。私は北林であり、Dだ」
「俺は、ずっと静穏死を求めて生きてきた。どうして…。静穏死を実施しないんだ。みんな、ここに来れば望む形の死を遂げることができる、その思いでみんな、ここに来ているんじゃないのか。北林先生、あんたはどうしてここを作ったんだ。ここはあんたが夢見た誰もが穏やかな終末を迎えることが出来る希望の島じゃなかったのか。もしも望む形の死を与えることができないのなら、特区なんかあったって意味はないじゃないか」
「なぜ、そうまでしてお前は死を望む。お前のそのプログラムの能力は、滅びていくには惜しいものだ。病魔に蝕まれた身体を厭うなら、選択肢として肉体が滅びたのちに、このようにして生き延びるという選択肢もある」
「このようにして?絶対にごめんだ。ミサキの姉さんは、ずっと静穏死を求めていた。恋人に会いたかったからだ。それなのに、この世にとどめて苦しませなければいけなかったのか?」
「そこなんだ、問題は」
D/北林の声は沈んでいる。それはまるで苦悩する一人の人間の姿だった。「特区を作ったのは私の間違いだった。今はそう思っている。」
カイトが反論をしようとすると、すぐにまたD/北林が口を開く「いや違う、私がしたかったのは遺された家族の悲しみを和らげて、よりよく生きたという証を残すための安らかで静穏な死」「いや」「だが」「それは結局」「医師としての本来の」「使命を」「義務を」「倫理を」「超越」
「今だ」
確かに、カイトの耳に、グエンの声が聴こえた。
カイトはD/北林のビジョンの胸元に飛び込んだ。轟轟と音を立てていた重金属同士がぶつかる音が大きくなり、軋みを伴って止まった。同時に耳元にもピーという高音が響いた後に、静寂が訪れた。森川博士が、こときれた合図だった。間に合ったのかどうかわからない。カイトは、全身の骨が抜かれたような心もとなさと痛みの中で起き上がり、周囲を見渡した。
少し先に、一体のアンドロイドが倒れていた。
「北林…先生!」
冷たい機械の身体を抱き上げると、静かに北林の声が響いた。
「本当に書き換えてしまうとは。地獄からの吸引力の恐ろしさだな。それこそが人間が抗えない大いなる力だ…」
それは、カイトに向かってしゃべっているようで、そうではなかった。彼が守ろうとしたすべての人々に語り掛けるような温かみがあった。
「これで、お前はあの丘への鍵を手に入れたことになる。私の脳はこの扉と融合し、Dはあのマシンと連動していた。私が動けなくなった今、この身体を乗り越えてあの扉を開け、道に沿って登っていくだけだ。だが、これだけは覚えておいて欲しい。最後に判断するのはお前たちが改変したプログラムだ。今度は、私とDに成り代わって、お前が命の重さを判断する「神」となることをお前はわかっているのか。その「神」がお前に望む死を本当に与えてくれるのかどうか、たとえ与えてくれたとして、そのとき、幸せが、本当にそこにあるのかどうか」
カイトは重い扉を開けた。目も眩むほどの光が差し込んで、一瞬何も見えなくなった。その光に吸い込まれるように、踏み出していく。
7.
それは、たった1キロほどの道のりにも関わらず、果てしない旅路に感じた。想像以上に体力を使っていた。今、明らかに、自分の命の蝋燭は尽きかけているのだということがわかる。それでも俺はこの丘を登り、あの鐘を鳴らさなければ。一緒に戦ってきた仲間の顔が胸に迫る。今まで一人で生きてきた、少なくとも叔父が死んでからは、誰にも頼らずに孤独を善しとして生きてきたのだ。それなのに、突然自分の命と同じくらいに大切に思う仲間ができた。グエン、ジェイらと一緒にここに来たかったと思っている自分に気づき、妙な気持ちになった。死ぬ直前になって人生で経験するすべてのことが一気に降りかかってきたかのようだった。
一歩足を踏み出すごとに、脂汗が噴き出した。喉の奥に血の味も混じる。このままここに倒れては、静穏死を遂げることはできない。道の両側には見渡す限りケシの花が咲いている。薄紫の花弁が風に揺れて、甘い香りが漂う。見たこともない極楽浄土を歩いている幻想で、カイトは目がくらんだ。この坂を登れば、すべてのことが終わる。2500年も前に医学の原型を切り開いたと言われるヒポクラテスは、「依頼されても人を殺す薬を与えない」と神々に誓ったという。その誓いを順守するかのように、この丘の先に待っているのは、薬ではなく機械なのだ。その機械に入り、身体の中にあるチップを読みこませれば、ガスが噴き出してあっという間に魂をあの世まで運んでくれるはずだ。その時、丘の上の鐘はどんな音を響かせるのだろう。麓のカフェでこちらの様子をうかがっているであろうミサキにどうしてもその音を聴かせてやりたい。
ついに、頂上に着いた。二対になっている鐘は光を受けて煌き、そのすぐ足元に小さなロケット型のカプセルが見えた。それはイル・デスポワールに初めて来たときに乗ってきた小型風乗船と瓜二つの外見だった。
カイトが近づくと船は自動的にコクピットの扉を開け、乗船者がシートに深く腰かけるのを待って再び閉じた。操作ボタンなどは特になく、マシンが指紋とチップを自動的に読み取っているようだった。カイトは目を瞑って荒くなっていた呼吸を整えた。忘れかけていた母親の声で、質問が聴こえてくる。「あなたの命日が今日になることに承服できますか?」「この世界に、もういちど会いたい人はいませんか?」「今、心の中は平穏ですか?」ひとつひとつの質問には声で答えずとも、その時の心の動きはすべてマシンが読み取っている。その質問の内容についても、それに対してどのように心が動いたらNGとなり、自然にこのカプセルの扉が開いてしまうのかについても、カイトは既に知っている。あとはただ、その時を待てばいい。
猛烈な眠気。薄れていく意識。遠くにフルートの調べが風に乗って聴こえてきたような気がするが、このカプセルの中にプログラムされている、最期に観たいヴィジョンを投影する機能に含まれている効果なのだろう。きぼう、という小さな声がカイトの口から洩れた。最期に話した言葉は、静穏死が無事に遂行された場合、生前に希望した人に伝えられることになっているが、カイトは特に誰の名前も記載しなかった。その力は残っていなかった。静かにカプセルの扉が開く。
初めてカイトと出会った日と同じように、霞がたなびく空を見上げて、ミサキは鐘が鳴るのを待っていた。だが、何時まで経っても、それが聴こえることはなかった。
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内容に関するアピール
この一年間この講座に通って、一番自分にとって「ワンダー」だったことは、自分には「SF種」がない、ということでした。SF作家と言って思いつくのは田中芳樹さんと筒井康隆さんくらい、という人文系の本読みだったのでまあ、当然といえば当然かもしれません。それでも、この講座のお陰でグレッグ・イーガンを読み、ケン・リュウを知り、テッド・チャンが面白いと思うところまでは来ました。まだそんなレベルですが。いくつかの課題にチャレンジしつつも、本業が忙しくていつも梗概だけ。それでも、この講座に参加したのだから、必ず最終課題だけは出す、という目標がありました。しかし、SF種のない私が何を書いても、やっぱり中途半端なファンタジーにしかならない。サイエンスのとっかかりと説得力がないのです、サイエンスが。もともとはSEなのに、おかしいなぁ。
そんな時、街で親しくさせてもらっているお医者さんが、SFのネタを思いついた、というのです。安楽死については一家言も二家言もある人で、そのSFのテーマは「人は安楽死や科学技術などで生死がコントロールできることで幸せになれるのか」ということだという。めちゃめちゃ忙しい中でプロットまでしっかり立ててしまうような人で、たぶん本人がちゃんと書いたらきっともっとすごいものになるんだろう、と思いながらも、情熱に任せて、是非それで書いてみたい、とお願いすると快く承諾してくれました。SF種のない私も「生と死」のつなぎ目を見つめるというテーマはずっと扱ってきたもので、楽しく書くことが出来ました。他にも彼から同じネタをもらってアニメーションを描いている方もいるそうで、オープンソースとしての小説ネタを、みんなで色々なジャンルの創作物に仕立てる、という作品創りの仕方は、この時代ならではで面白いような気がしました。
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