印刷

<魂>の抜けた[非現実]を<世界>だと勘違いするのには無理がある?-旧石器時代人に似た21世紀の人類は<神>を捨てても生きていく!

■歴史を記述すること

生きるとは過去をでっちあげることだ。歴史を記述することの厄介は、水平性と垂直性を同時に企てることにある。水平性が強まれば、飼いならされた博識に頽落し、垂直性が強ければ、妄想と紙一重の代物になってしまう。とはいえ僕は、垂直性を擁護したい動物なので、空想じみた散文を書くわけだけれど、共有可能な言説を歴史や思想と呼び、限りなく共有不可能な言説を哲学と名指すものだと漠然と判別すれば、多様な歴史や思想が流通しにくくなった現代では、もっぱら哲学に勤しむほうが危うくも健全にも思える時代状況だと認識している。唐突ではあるけれど、そういった時代において必要なのは<魂>であって、表層的な[性格]を探ることは、穴の開いたバケツに水を注ぎこむようなものなのかもしれない。人格において<魂>がなければ、表情豊かな[性格]は生まれないのであって、<魂>なき<世界>の代用品としての[非現実]は、現実を生きるための[性格]を強くしないように思うのだ。(※[性格]は「気質」と違って、現実に適応し生き延びるための術だとも言っていい。) もちろん、宮崎駿が「夢のない現実主義者は最低だ」といっていたことも付け加えておきたい。

あたりまえのことを書いているように思われるかもしれないけれど、そういう感覚がずいぶん怪しくなってきたことを、2018年公開の劇場版『フリクリ プログレ』にみたことをここに書き留めておきたい。OVA版『フリクリ』から18年、それは不吉でもあるけれど、なにか変化の兆候にもみえるわけで、歓迎するしないにかかわらず、そういう時代の人格というべきものが姿を現わしはじめたことを予感せずにはいられなかったのである。20世紀に生まれたひとにとっては幸か不幸かはわからないけれど、手短に言えば、21世紀の(新しい)[性格]が<世界>を[非現実]で覆いつくそうとしているのだ。

■人類芸術史における映画の精神

人類と芸術の歴史を振り返ってみれば、300万年前に類人猿と人類のあいだのアウストラロピテクスが所有していたヒトの顔に似た小石を視覚芸術の起源とするか、50万年前に人間が制作したとされる小立像「タンタンのビーナス」を最古のアートとするか、2万5千年前の南部フランスの洞窟画に現代に続く絵画の様式を認めるか、芸術の起源をめぐる言説は様々あるけれど、ともあれ120年前に誕生した映画/映像技術は人類にとってあまりに新しい発明といえる。仮に、自然への帰依と模倣を志向した旧石器時代の精神と、現実を支配し操縦する-定住により[概念]を獲得した-新石器時代の精神とを、大雑把に人類芸術史を分類することが許されるなら、映画の精神は後者にあるだろう。映像技術が可能にしたことが-時空間の貯蔵-だとすれば、農耕により資本を貯蔵した精神との地続きを思うのはありうる解釈だろう。(そういう意味で、映画は資本主義的欲望の極みだと言えなくもない。) 別の見方をすれば、子供の発達段階において、絵画技術が逆戻りしないことを考えれば、映画が新石器時代の精神の延長にあることは自然の理だともいえる。さて、時空間を支配する映画的欲望と精神がわれわれに何をもたらすのかを考えれば、僕が先日みた映画は(人類と芸術の歴史において)奇妙な精神を示していた。

■<魂>の抜けた[非現実]を<世界>だと勘違いするのには無理がある?

今秋公開の劇場版『フリクリ プログレ』(以下『プログレ』)は、2012年公開の映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を思い出させる駄作だった。難点をいくつかあげれば、冒頭の数分間は『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』以上に低調で退屈あり、終盤の高速展開は駄作感を誤魔化すだけの説得力を欠いていた。なにより致命的なのは、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』と比較しても、(ある意味で)二次創作に失敗している点にある。手短に言えば、OVA版『フリクリ』(以下『フリクリ』)にあった<世界>が揮発してしまっているのだ。もちろん、何十分かに一度『フリクリ』を思い出させる場面があったことは否定しないが、『プログレ』の問題点は、『フリクリ』と同じ<世界>が存在しないことではなくて、全く<世界>を感じさせない[非現実]だけが描写されていることにある。[非現実]が<世界>を覆いつくし、<世界>の時間が静止していたともいえる。直観としては、全く<世界>に興味がない空気を漂わせていた。(※そもそも映像作品においては「アウラ」などないのではないかという批判があるかもしれないが、「アウラ」と<世界>は別物であり、「アウラ」に関しては、岡本太郎美術館の常設展にある岡本太郎の制作風景を撮った映像をみてほしい。)

別の言い方をすれば、[非現実]は<世界>の代替品になりうるのか、<魂>を抜きにした[性格]だけでひとは現実に耐えられうるのか。そんな疑問が湧いてきた。脱中心的で水平的な表現描写は、一切がすべてと無関係で-なにか全体と接続する法則を持たない。彼/彼女が彼/彼女以上の意味を持たない表現に、一体全体どんな慰めがあるのだろうか。

もし『プログレ』を評価するならば、<世界>を喪失した[非現実]は(遠い)時間を貯蔵しないがゆえに、新石器時代的な映画の精神を拒否するという点で、現代社会の精神情緒を投影している。<理念>に対する[概念]の勝利。ある言語学者が「言語はウイルスだ」といっていたらしいけれど、自然支配の(概念的)発明である映画(『プログレ』)は、<自然>ではなく[概念]を模倣し帰依する人類の変調を裏書している。進化なのか退化なのかわからないけれど、『プログレ』の主題歌「Spiky Seeds」で、the pillowsが「進化しないまま 僕ら原点回帰の真っ最中」と謳っていたことは、劇中、尖った奇跡だったのかもしれない。<魂>は宿っていて、降りてくるもの、思考するもんじゃない![※映画の終盤もこんな感じの幕引きだった。] キャッチコピー「セカイは、テキトーに出来てんじゃん。」を信じれば、そんなものなのかもしれない。[あの世]も<神>も信じなかった原始人類がまったく不幸にも思えないのだから。

文字数:2486

課題提出者一覧