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批評ゆえNot Tech but Batと唱える

 

 

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2018年11月現在、マーベルスタジオ最新作の『ヴェノム』が公開されている。物語の内容にも増して観客たちを驚かせたのは「約20分間」というエンドロールの長さであった。マーベルの映画制作に参加する人々は膨大な数に及ぶにしても、それはやはりエンドロールなのだ。観客が20分も席を立たないという不思議な光景が現れるのはなぜか。

理由は簡単で、エンドロールの間に長くても2分程度の映像シークエンスが2度挿入されるためである。そしてこの短い映像は、マーベル・シネマティック・ユニバース(以降MCUと表記)に接続される。当日に放映された作品に関わらずとも、MCUの次回作やこれまでの作品に関係する断片的なヒントが数分のうちに披露されるのである。

ご存知でない読者のために補足しておくと、MCUとは、マーベル・スタジオが製作するスーパーヒーロー映画が共有する架空の世界のことだ。マーベル・コミックを原作とした物語が実写映画化され、2008年の『アイアンマン』以降、複数のヒーロー映画は全て同一の世界観をもつクロスオーバー作品として扱われるようになった。「アイアンマン」「ハルク」「ソー」「キャプテン・アメリカ 」「アントマン」「スパイダーマン」など異なる映画で描かれるヒーローたちが、同じ世界環境を共有して物語を繰り広げていく、ということである。

MCUは現在最も大きな興行的成功を収めている映画シリーズであり、単独作品の世界歴代映画興行収入のランキングを見てみても、上位10作品の中にMCUから4作品が入っている。ヒーローたちを集合させた戦いを描きMCUそのものを体現するような『アベンジャーズ』3作品に加えて、2018年には『ブラックパンサー』もランキングの仲間入りを果たした。同作は黒人の主人公が務める初めてのヒーロー映画としても話題を呼んだことが記憶に新しい。2018年は、マーベルが大きな映画的枠組みの中での存在感をさらに強めた1年でもあった。

もちろん、作品群はただ人気だから特段評価されるわけではない。重要なのは、MCUが現代の新しい観客、新しい映画鑑賞方法を制作に反映しているという点である。背景には、現在の映画を取り巻く環境において、映画の「空間操作」が容易になったことが挙げられる。

本論では、主に「観客」の動態を通して映画についての分析を展開していく。つまりここでの映画の「空間操作」とは、元々はVHSやDVDがアップデートさせた観客体験のことだ。例えば『スター・ウォーズ』シリーズのエピソード1から6がDVD化されている時、映画の観客はテレビの前でそれらを好きな順に二度見三度見することができる。少しぐらい前作の内容を忘れてしまったりしても、シリーズへの「フリーアクセス」を通して映画世界はたびたび横断され、再構築される。映画の完成した順番に限らずに作品世界を整理、混入させる観客のその身振りを、映画の「空間操作」と呼んでみることにしたい。

そして、VHSやDVDが可能にした「映画の空間操作」を、テクノロジーの進化により押し進めたのがNetflixなどのサブスクリプションサービスになるわけだ。現在当たり前のように映画が宿る支持体とは、スクリーンやテレビの画面以上に、PCやスマートフォン画面などの「グラフィカル・ユーザー・インターフェイス(以降GUIと表記)」である。デジタル画面が日々の生活の中に当たり前のように存在する状況の中でNetflixも流行を強め、映画のネット配信は莫大な作品データベースに支えられる。観客はGUI上にずらりと並ぶ作品群の中から、長大なシリーズ作品でも気軽に、好きな順番で鑑賞することができる。

そのような新しい映画の鑑賞体験に即して、プロデュースや制作方法を適応させてきたのがMCUなのではないだろうか。『アイアンマン』を皮切りにこれまで公開された映画の数は20本以上、未だにシリーズは継続している。さらに映画以外のドラマシリーズ10作品以上を加えることで、MCUはさらに厚みを増す。これだけ作品がなぜ毎年大量に公開され続けるのか。それは現代人がデータベースから映画を見ること、そして映画の「空間操作」に慣れていることを、マーベルが理解しているからに他ならない。

 

 

 

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しかしながら、過去を辿れば、映画はある時期には気楽で雑な仕方から見られるようなものでもなかったし、鑑賞体験においても映画の「時間操作」の方が先に発展し始めたことがわかる。

たとえば近年日本において最も影響力を強めた映画「観客」の姿勢とはどのようなものか。ここで批評家の蓮實重彦が提唱し、特に1980年代以降効果を強めた「表層批評」に注目する。

1979年の彼の主著『表層批評宣言』において主張されたのは、まず物語の主題や社会的背景、製作者の履歴といった映画を囲む様々な外的要素へのいっさいの参照をやめること。そしてその上で、観客の瞳に映る具体的で物質的な画面のみを頼りに映画を鑑賞し、議論を組み立てようということであった。批評家の渡邉大輔によれば、「かつてならば、「フィルム断片」や「表層」、そしてごく近年ならば「テクスト的現実 réalité textuelle」などとさまざまにいいかえられはしてきたものの、こうした「画面」(表層)のもつ不透明な物質性と観客主体との無媒介的な「遭遇」や「不意打ち」にこそ批評的倫理を見いだす蓮實の姿勢は、二◯一◯年代の現在にいたるまでほぼ一貫」している。[i]

観客にはとにかく画面の細部を「見る」ことが求められた。ゆえに蓮實にとっての映画の画面とは、細部の断片を強調する劇場のスクリーンに対応していたのだ。この「表層批評」がアカデミズムの枠を超えて観客のあり方に大きな影響を及ぼし、数多くの映画愛好家たちの態度を変化させたことは強調するまでもない。

しかしながら、1990年代にはVHSによる映画観賞も流行を強める。そこから観客の在り方も変わっていった。ビデオの流行に対して、蓮實が映画を見る際の「動体視力」や「反射神経」などを強調し、映画分析の拠り所を、断片から「運動性」の方へとずらしていったことが、当時の状況を説明する。

ビデオを通して観客は、映画の「時間を操作」することができるようになったのだ。先に映画の「空間操作」についても触れたが、VHSが登場した際に大きなインパクトをもたらしたのは、何よりこの「時間操作」の観点である。簡潔に言えば、映画を途中で止めたり、早送りしたり、巻き戻したりできると言うこと。その過程で観客には、蓮實が映画館での一度の鑑賞で見つけるより多くの断片を発見する機会が与えられる。

「画面の細部を見ること」の解体。初期「表層批評」的姿勢の解体。そして同時期のある映画作家たちは、観客の「時間操作」に対応させて、複雑な物語構造を導入していった。1990年代から2000年代にかけて注目を集め始めた「パズルフィルム」がその良い例である。

 

 

 

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1990年代中盤から『パルプ・フィクション』(1994年)、『ユージュアル・サスペクツ』(1995年)など、サスペンスとの相性の良さを見せながら物語の時系列を錯綜させる作品が増加した。作品の中には時に共有世界が複数存在し、順番が入れ替わり提示されることもある。また時にはフラッシュバックが多用され、映画内には信用のおけないナレーションが存在する。映画は、観客を複雑な説話構造に困惑させながら、放置するよりも、むしろ解読のプロセスに直接的に関与させようとする。映画研究者のJ.J.Murphyによれば、例えばこのような映画の特徴に対して「パズルフィルム」という言葉が当時当てはめられたわけである。

「パズルフィルム」の隆盛を決定づけたのは、紛れもなく映画監督のクリストファー・ノーランだ。アカデミー賞やゴールデングローブ賞など数々の賞にもノミネートされた彼の『メメント』(2000年)は、まさに「パズルフィルム」特有の性質を強調する。

主人公のレナードはある日、自宅に押し入った何者かに妻を殺され、自身も頭部を激しく打たれたことで前向性健忘症にかかる。記憶がおよそ10分しかもたない身体になってしまうのだ。映画はレナードが犯人を見つけ、殺した場面から始まるが、殺しの次の瞬間、彼はなぜ殺人を起こしたのか思い出すことができない。

そこから、大枠の原則として時を遡りながら、過去の中で物語の時系列は前へ後ろへいったりきたりする。主人公の断片的な10分の記憶に連なるように、複数のシークエンスが過去の真相へ向かうようにして並べられていくのだ。物語を駆動するトリガーも過去の中に用意され、時間を逆流しながら、観客はパズルを組み立てるようにして物語のクライマックスを発見する。『メメント』では登場人物による感覚の失調、アイデンティティの複数化に対応するようにして「パズルフィルム」が構成される。

いわば「バラしてモザイク状に組み替える」ような演出。『インセプション』(2010年)に代表されるように、これが現在まで多用されている事実が、クリストファー・ノーランという映画作家の輪郭をも強調する。

 

 

 

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ここまでの話を時系列に沿って整理してみよう。

1990年代から2000年代にかけて登場したのは、観客による映画の「時間操作」だった。これはVHSやDVDなどテクノロジーの発展に足並みを揃えていた。「時間操作」をうまく利用した作風として「パズルフィルム」も現れる。

2010年代になると、映画の「空間操作」が目立つようになった。デジタル画面とGUI、さらにはサブスクリプションの流行により、映画内の「時間操作」に加えて、作品を見る順番を組み替えるような「空間操作」が容易になったのである。そして、このような環境を活かしてシリーズ作品を展開するのがマーベルなのであった。映画だけで約20作品に及ぶ物語世界には、数多くのマーベルヒーローたちが偏在する。そして彼らは時に『アベンジャーズ』として「集合」する。この時観客は、サブスクリプションを通し過去の作品空間を自由に呼び出すことで、「このヒーロー誰だっけ」といったような状況を容易に避けることができる。

映画の「時間操作」と「空間操作」、両者はともにテクノロジーの発展によって生まれた概念とも言えるのだが、しかしここで、もうひとつの重要な変化に目を向けたい。

2010年代を中心に流行するMCUはまた、複数作品の集合がみせる「パズル」の様相を明らかに見せていないだろうか。「空間操作」を足場にして壮大な物語世界が組み立てられる身振りは、まるでパズルを組み立てるようでもある。

1990年代から2000年代にかけての映画の「時間操作」、2010年代にかけての映画の「空間操作」。実は、両時代をリンクさせるのはテクノロジーの問題だけではない。「パズルフィルム」に加えて「MCUのヒーロー映画群」もまた「パズル」の動態を内包するのであれば、両時代をつなぐものの正体が新たに浮かび上がるのではないか。

その重要なピースとは、「パズルフィルム」を得意とするクリストファー・ノーランが手がけた最初のヒーロー映画、『バットマン・ビギンズ』(2005年)であると断言しよう。

 

 

 

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『バットマン・ビギンズ』は、DCコミックスの『バットマン』を原作とした実写映画作品、そしてノーランによりリブート(再起動)された「ダークナイト・トリロジー」の第1作目でもある。

物語の主人公はウェイン産業を運営する大富豪ブルース・ウェイン。舞台は悪がはびこるゴッサム・シティだ。ブルースは幼少期に両親を強盗に殺されたこと、そして不注意で落ちた深い井戸の底で覚えたコウモリへの恐怖から、成人してからもトラウマを抱えている。コウモリのトラウマを乗り越えるため、彼はむしろ「バットマン」というダークヒーローになり、ゴッサムシティの犯罪を影から取り締まるのである。

冒頭から30分程度だけを見ても、主人公を取り巻くシークエンスが過去から現在、現在から過去へと激しく揺れ動いていることがわかるのではないだろうか。

映画は①主人公ブルースが幼少期に井戸に落ちた場面で始まり、暗闇の中でコウモリに襲われるのをきっかけに、②成人したブルースがどこか山奥の留置所で捕らえられている場面に移行する。「影の同盟」に属する男が牢獄にやってきて、釈放後は探し物を見つけにヒマラヤ山脈へ行けとブルースに命じる。③画面は幼少期の回想へと再び移り変わり、ブルースの両親が射殺されるまでが映される。その後④ヒマラヤ山脈の奥でブルースが「影の同盟」に入り、修行するシークエンスが描かれる。そして、⑤すでに修行を終え、現在を生きる主人公は裁判所へ向かう。両親殺しの犯人を自分の手で始末しようと思っていた彼の目の前で、犯人が暗殺される。そしてその帰り道に⑥再び過去の回想へと戻る。しかしここで描かれるのは「影の同盟」での修行期でも幼少期の時間でもなく、ブルースが盗みを働き、留置所まで連れて行かれる様だ。つまり、②の直前のシークエンスなのである。そして⑦修行時代の最後、ブルースが組織を裏切る場面に飛び、それが終わると⑧裁判が終わった現在の時点まで戻ってくる。

ブルースが生きた時間順に並び替えれば、「①→③→⑥→②→④→⑦→⑤→⑧」となるにも関わらず、ブルースの不安定な精神状態が「①→②→③→④→⑤→⑥→⑦→⑧」というリアルで生々しい語りの順序を導く。むしろ①から⑧までのリニアな並びが、ブルースの「現在形」を表しているのだ。そのことから明らかなように、トラウマを抱えた主人公の存在によって、観客の前には錯綜する時系列が現れている。「パズル」を読み解くようにして、観客は物語の筋を追う。ヒーロー映画でありながら、この作品もまたノーランがこだわる「パズルフィルム」なのである。

さらに言えば、物語で敵役を務める「影の同盟」の生き残りは、強力な幻覚剤をゴッサムシティにばらまくテロ計画を立てる。ヒステリーを起こす人々の幻覚が示唆するように、通常の世界認識が脱臼されるようなモチーフを作品自体が内包していると言うことができる。

『バッドマン・ビギンズ』において、精神的な問題を抱えているヒーローと、「パズルフィルム」は相性の良さを見せ、共存関係を強めているのは明らかなのだ。

こうして、2010年代のヒーロー映画がパズルのような「空間操作」性を足場にしていることに、「時間操作」を特徴とした過去の「パズルフィルム」からの〈継続〉が見出される。つまりその結節点に『バットマン・ビギンズ』が置かれるわけだ。「パズル」を担保にして展開されるMCUのような2010年代の新しい映画群に、前時代から引き継いだ「パズルフィルム」の特徴をドライヴさせたからこそ『バットマン・ビギンズ』は現代ヒーロー映画の起源となる。クリストファー・ノーランが、ヒーロー映画における「パズルフィルム」演出の有効性を今作品で示したことが最も重要なのであり、現代のヒーロー映画はそこから始められるのである。

 

 

 

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2010年代のマーベルヒーローたちもまた、内省的な性格を持っている。度々描かれる回想シーンは各キャラクターのトラウマにも関係するし、各々が「正義」との葛藤から悩み苦しむことで生まれるものでもあるだろう。2010年代のヒーロー映画は『バットマン・ビギンズ』と類似する演出を、より大きな規模、MCUという「パズルフィルム」の中で行っているのである。

SF要素の強いMCUでは、発達したテクノロジーの効果により、過去、現在、未来の視点移動が激増するわけだが、2010年代にMCUが「パズルフィルム」を構成するための理由は他にもある。

まず21世紀のヒーロー映画では、しばしば「死なない敵」もしくは「よみがえる敵」が描かれること。彼らの存在により、現在から遡って過去の視点が入り乱れる可能性が増加する。ネットを経由して「拡散する敵」も場面を分散させる。

さらに重要な点として「正義」の多様性にこだわらなければならない。現代ではヒーローによってそれぞれの「正義」が立ち現れる結果、「悪」の姿も多様化する。いくつものMCU作品をパズルのように組み合わせ「謎解き」をしていくことで、観客は「悪」との戦いの様相を複層的に認識するのである。

これらの理由からも、MCUが、散らばったパズルピースのような複数作品を通して語られる背景が明らかになるはずだ。マーベルは、ヒーロー映画の特徴にマッチした大きな「パズルフィルム」=MCUを作り上げることで、映画史の蓄積を引き継いでいる。

 

 

 

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これまでに述べてきたのは、「新しい=未来の」映画史ではないし、そうであるかもしれない。はっきりいえるのは、本論で映画が新たな価値を宿すとすれば、それはあくまでもパースペクティブの組み替えから生まれるものであるということだ。

現代では、作品を支える無意識の足場それ自体を検討することが映画作りに求められている。ならばこれは映画批評においても同じことだろう。

ビデオ鑑賞からサブスクリプション鑑賞へという旧来的なテクノロジー発達の視点だけをもって、映画の「時間操作」と「空間操作」、1990年代 / 2000年代と2010年代のある様相が結びつけられるのではない。「パズルフィルム」を得意とするクリストファー・ノーランが、同じやり方でヒーロー映画『バットマン・ビギンズ』を制作したことこそが事件だったのだ。2005年に「パズルフィルム」とヒーロー映画が交わり、そこから2010年代のMCUという巨大な発展系が誕生する。「映画」それ自体の力が、2つの時代の映画体験を接続する事実を見逃してはならない。

MCUは、ただ商業的に大規模の作品として存在しているわけではなく、むしろある映画史の先端を模索しているのではないか。観客の変化をみれば、蓮實の「表層批評」的な態度[ii]から90年代の「パズルフィルム」的な態度、そして現在の「MCU」的な態度が一つのラインの上に配置される。映画を操作なしでみること、映画の時間を操作すること、映画の空間を操作すること[iii]。さらにそれに対応する映画館のスクリーン、VHSやDVDとテレビ画面、NetflixとGUIの関係。クリストファー・ノーランの『バットマン・ビギンズ』を映画史のピースとして当てはめたとき、映画の鉱脈は過去と未来の両方向へと瞬きを強めていく。

 

 

 

 


 

参考文献

 

蓮實重彦『表層批評宣言』、筑摩書房、1985年

『ユリイカ総特集*蓮實重彦』、青土社、2017年

 

 語注

 

[i]渡邉大輔「『歴史的 / メディア論的展開』の帰趨をめぐって – 『ポストメディウム的状況』と蓮實重彦」(『ユリイカ総特集*蓮實重彦』所収 p209より)

[ii]蓮實の「表層批評」を取り上げるのは、それが「映画を操作なしでみること」というごく一般的に受容されてきた鑑賞スタイルを究極に研ぎ澄ませたようなものであり、当時の蓮實の言説の変化がまさにビデオ登場前後の観客の変化を強調するように思われたからである。ちなみに、たとえば動画を取り込み細部を研究することなどが可能になるため、「時間の操作」は当時の「表層批評」をアップデートする可能性を持っていた。にも関わらず、蓮實自身はそのような方向に積極的には進まなかったということになる。

[iii]後続世代の観客は、もちろん前の時代の鑑賞方法を選択肢に抱えることもできる。本論ではそれをふまえた上で、時代特有の観客像の整理を行なっている。

 

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