印刷

「映画」の映画史

 

「映画」という文化活動についての映画を撮るということは、メタフィクションであるという意味ではさして特別な技法ではないように思えるが、さらに進んで考えれば、これらが決して一様ではないことも明らかである。また、このような「映画」についての映画は、私たちが映画を現実世界の中でどう位置付けているか、あるいは反対に、映画の中で、私たちの現実世界がどう位置付けられているのか、という映画と私たちの距離感を測るには大変役立つものである。

 

 

 

1.「映画」を撮るということ、についての映画

 

『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』はニューヨークブロードウェイを舞台にした映画であるが、主人公がかつて『バードマン』という「映画」で大ヒットした俳優であったが、今は落ちぶれてしまい、復活のために未経験のブロードウェイミュージカルに挑戦する、というストーリーである。ここで面白いのは、主人公リーガンを演じるマイケル・キートンはまさにリーガンと同じ境遇であり、かつては『バットマン』シリーズで一世を風靡したものの、当時はこれといった話題作がない俳優であったということである。他にも、エドワード・ノートンやナオミ・ワッツなど俳優の経歴を意識した配役や、ゴダールの『気狂いピエロ』のオマージュと監督本人の経験、ワンカット撮影に「見える」という撮影技術など、多数のメタな構造があり、ミュージカルや映画制作に関わる人とそうでない人では、意味の取り方に大きな差異が生まれることが容易に予想できる映画である。

 

『ラ・ラ・ランド』は、ここでは『バードマン』のハリウッド版といっていいだろう。タイトルの言葉に「おとぎ話」という意があるように、「ハリウッド」で女優を目指す女性と、ジャズ音楽を志す男性の、幻想的でロマンチックなラブストーリーである。全体的にミュージカル調の陽気な雰囲気を保ちながら、時に露骨で残酷なオーディションシーンを挿入するなど、映画制作の舞台裏を随所に意識させている。夢より現実を優先させるべきか、夢を追求するべきか、もがき苦しむ主人公たちの姿は、俳優志望でなくとも、多くの人が共感できる姿であろう。

 

『カメラを止めるな!』は、2段構えというより3段構えの、「メタ」メタフィクション映画である。序盤は、「ゾンビ映画」製作現場におけるゾンビパニック映画として描かれるが、中盤からは翻って、その「ゾンビパニック映画」の制作過程が描かれる。とは言え、例えば『インセプション』のような複雑多層な世界観があるわけではなく、中盤以降の作風は三谷幸喜のようなドタバタコメディの作品である。『ラヂオの時間』との類似は指摘するまでもない。しかしながら、映画評論家の町山智浩が「三谷幸喜より面白い」というように、序盤の「ゾンビパニック映画」の不自然さが、終盤に大変滑稽な形で伏線として回収されていく様や、俳優のわがままに応える監督の苦労にスポットを当てるなど、三谷作品とは一線を画する表現が多々ある。くどいとも言える「メタ」メタ構造をあまり意識させずに、すっきりと終わる秀逸な作品だ。

また、公開後の反応として、木村拓哉が「ありがたい作品」述べたように制作現場を励ますような作品として歓迎されたり、インディーズ作品から大きく躍進したことから、閉塞感のある日本映画の希望の光として扱われていることもメタな観点としては見逃せないだろう。

 

これら3つの作品に共通する制作陣を描くという技法は、最初に言ったように決して奇抜な発想ではなく、むしろ使い古された感のある設定でさえあるが、しかしその一方でメタな構造をうまく機能させるのは簡単ではないはずだ。

一つの理由として「制作」の過程が周知の事実ではない可能性がある。例えば、世には数学映画なるジャンル(『ビューティフルマインド』など)があるが、劇中ではほとんど数式を解くシーンがない、そんなシーンを見せられても一般の観客には理解不能である。また、ハッカーを主役にしたサイバー映画は多数あるが、ディスプレイを眺めて、キーボード入力するシーンにはあまり時間は割かないのが普通だ。これに対して、『バードマン』では舞台裏や楽屋どころか、実際のブロードウェイ劇場の裏口から入場口の道筋を描いたり、『ラ・ラ・ランド』では前述のようにオーディションの生々しい描写や道端でのロケ、『カメラをとめるな!』に至っては、カメラを撮影しているカメラのカットなど、撮影機器や舞台装置、演出方法などを積極的に描いている。

これがなぜ可能なのかというと、観客が事前に映画の舞台裏というイメージを持っているからだ。映画製作や映像制作に関わったことがない人でも、なんとなく映画ができる過程を知っている。メガホンを持った監督、忙しく動きまわるAD、メイクされながら談笑する俳優など、常識といっても差し支えないほど、「撮影」に関する知識を一般人は多く持っている。

これがまず第一の、私たちと映画の近さである。「映画」を撮るということは、私たちの仕事の如何によらず非常にポピュラーな存在なのだ。

 

 

 

2.「映画」を見るということ、についての映画

 

映画とは普通一般の人にとっては、基本的に単に見るものであり、それは大多数の現代人にとってはあまり意識されることではないが、「映画」を見ている姿を見る、というメタな視点は少し勝手が違うようである。

 

『ニューシネマパラダイス』は、そのあまりにも有名すぎるラストシーンによって、すべてが語られる映画であり、またそうすべきでもある映画であるが、この映画もまた、「映画」についての映画であることに疑いようがない。主人公トトは映画に対して様々な顔を持っている。時に鑑賞者として、時に映写師として、そして最後は映画監督として描かれる彼の「映画」との関わりは、その印象的なラストシーンで完結する。劇中で映る数々の名画は、その背景を知っている人とそうでない人とは違った印象を与え、またその当時の「映画館」の雰囲気を知る世代には、やはり格別なものであることは想像に容易い。

だが単なる郷愁映画になってしまってはあまりにも惜しい映画だ。「映画館」に息づく活気、今か今かと上映を待つ観客の高揚感、映画のフィルムの切れ端で遊ぶ子供、仮に時代背景やどこの国かを知らなくても、これらが手に取るように想起できるのはこの映画の力であろう。劇中、トトの師であり友人であるアルフレードが、トトに郷愁について指南する場面は、郷愁を誘う映画だからこそ、深い含意を持つ。ラストシーンにおけるアルフレードの意図については、ここでは深く考察はしないが、郷愁がもつ二重性(自分が経験したことと、自分が経験してないこと)を強く意識させるような作品であることに間違いはない。

 

さて、そのラストシーンであるが、これは一見すると、「スクリーン」に重点があるように見えるのだが、実際は、トトが「映画」を見ているということ、およびトトの表情がこのラストシーンの肝である。しかし、この誰かが「映画」を見るという構図、『ニューシネマパラダイス』では多く使われるカットであるが、劇中の人物が文化的表象を感受するという構図は実際には普遍的な現象でない。

例えば本を読むシーン、実は本を読んでいる表情や実際の本の活字を映すことは少ない。それよりも内容がわかるように、ナレーションを入れたり、音読させるほうが良い。音楽を聴くというシーン、これは映画と同様に劇場でも構わないだろう。しかし、音楽に聞き耽るというのは描写がやはり難しいように思える。なぜなら実際の観客にも音楽は聞こえてしまうので、映画のなかで「ある人物が音楽を聴いている」ということを強調するには、やはり違った装置が必要なのだ。

 

では、映画において「映画」を見るというシーンは、殊に『ニューシネマパラダイス』において「映画」を見るという表象が観客に強く印象付けるということは、なぜ可能なのだろうか。

映画は言わずもがな、劇から派生した芸術である。劇が持つインタラクティブ性は映画に引き継がれている。演者はそこにはいないのだが、観客は喜怒哀楽をもって劇場を盛り上げる。しかし他の芸術であっても、喜怒哀楽することがあるではないか。本を読んで泣くこと、音楽を聴いて笑顔になることだって当然想定できるではないか。そう思いたくなるところではあるが、ここで言っているのは映画にはそういうイメージがあるという話である。つまり、私たちはあらかじめ、映画を見るという現象の中に、観客の表情を含んでいるのである。

これが『ニューシネマパラダイス』を「映画」の映画たらしめる理由である。ラストシーンで、強く印象に残るは映像だけではない。エンニオ・モリコーネの音楽もまた甘美である。そして、この映画主題曲は、最後にトトが頭を抱え軽く唇を噛むとき、甘く、ほろ苦い郷愁に変わるのだ。

 

 

 

3.「映画」の中で生きるということ、についての映画

 

『トゥルーマン・ショー』で描かれる世界観は大変わかりやすい。人生は実はすべてが映画であったら?日常生活は実は仕組まれているものだとしたら?このような発想は非常に陳腐であるが、実際に映画になってみると、いくつか面白いことがわかる。

ジム・キャリー扮するトゥルーマンは、田舎町にある保険会社のしがないセールスマンである。どうにかしてこの田舎から出ようとするが、なぜかいつも阻止させてしまう。そして徐々にこの町が壮大な映画のセットであることに気づき始める。この映画の特徴は、まずなによりその巨大な映画スタジオであろう。ドーム状の天蓋が一つ町を丸ごと収め、町民は全員エキストラ、風や雨、太陽までも制御されているという完全な作り物の世界を構築している。その中でトゥルーマンは一人そのことを知らずに生活しており、「現実世界」では世界的なスターとして、彼の生活は全世界に放映されている。

この偽の町での出来事は、1.で言ったように、観客である私たちが映画の制作現場をそれなりに知っているからこそ成り立つ。予想外の場所に入ってきたトゥルーマンに慌てふためくエキストラや「俳優」たち、エレベーターを開けたら控室があり、戸惑うトゥルーマンを急いで追い出して、適当な言い訳を聞かせたりと、撮影現場を想起させるギミックが数多く詰め込まれている。

 

ここで指摘しておくべきことは、トゥルーマンの周囲にいるメインの「俳優」たちの演技がいかにも芝居がかっていて、不自然であることだ。会話中に急にCMのための商品を宣伝したり、トゥルーマンにしか知らないはずの情報を赤の他人が知っていたり、死んだ設定になっている父親が紛れ込んできて、トゥルーマンが仰天したりと、30年間も番組を続けているはずなのに、出来が悪くハプニングばかり起こる。

これによってわかることは、私たちが映画における出来の悪さ、非現実性をよく理解しているということだ。映画における「現実」は大抵現実性を誇張したものでしかない。さらにそれがうまくいかないと、自然なものを求めたわけではないのに不自然に感じる。そもそも映画が現実を映すものと期待していないからこそ、映画の中の「現実」という描写が成立する。リアリティショーが本当のリアリティを追求するならばそれはドキュメンタリーと呼ぶべきだろう。

しかしだからこそ、トゥルーマンが最後にこの偽りの町から脱出を決意するとき、視聴者がトゥルーマンを祝福するのは、すこし違和感がある。彼らは自分たちのつまらない生活の慰めとして「トゥルーマン・ショー」を見ているはずなのに(実際はトゥルーマンの生活も凡庸であるが)、結局トゥルーマンが「本当の世界」に行ってしまっても構わないのだ。

 

 

 

4.映画の中の“現実”に生きるということ、についての映画

 

ここまで、「映画」の映画という虚構の中の虚構ついての話をしてきたわけであるが、最後に話題にしようと思う映画は、これらとは少し違う。映画が虚構でなく“現実”を映そうとすれば、それはどのように私たちと関わることができるのかという問題である。

 

『海は燃えている』は難民問題を扱ったイタリアのドキュメンタリー映画だ。イタリア南端の小さな島ランペドゥーザ島には、アフリカから多くの難民を乗せた船が漂流する。その過酷な現実の映像と並行して、弱視の少年が無邪気に生きる様子をカメラは追っていく。自分の腕を銃に見立てて遊ぶ姿は、普遍的な幼い少年の姿だ。少年は、驚くほど映画の本旨であるはずの難民たちと関わらない。そして難民たちも、島の施設が許容度の限界にありながら、この島とは一切無縁であり、ただただ次の目的地に運ばれていく。

 

この映画にメタな視点などない。しかしながら、少年の視点が不条理な島の実情から逸れていく様子は、事実として描かれるドキュメンタリーでありながら、非常に虚構性の高い映画のように感じられる。弱視の少年は、身近に残酷な世界情勢の一端がありながら、ちょうど『トゥルーマン・ショー』でトゥルーマンだけ“現実”を知らないでセットの中でほのぼのと生きていくように、少年は何も知らないまま生きていく。

あえて難民たちと少年の接点をあげるなら、少年の目の検査をする初老の医者が一人いる。彼は、少年の前では優しい医者でしかないが、難民たちの治療も行っており、難民船の悲惨な状況を痛いほど知っているのだ。医者はわざと隠すわけではないのだが、少年は難民の存在にきづくことはない。当然、それなりの年齢になれば、島の現実に気づくだろう。しかし映画では描かれることはない。少年にとっての“現実”は、地中海の温かく牧歌的な情景として、その“舞台裏”で何が起きているかを想起することなく、弱視の眼差しによってただただ映るだけだ。

劇中、少年はカメラに目を向けることはない、インタビューをするようなシーンもない。しかし一度だけ、まるでセッティングされたかのように祖母と会話するシーンがある。ここで祖母は「海の炎」の話をする。昔もこの島は今と同じようにのどかな漁村であり、祖父は昼間に漁をして暮らしていた。しかし夜は漁にでなかった。なぜなら戦時中だったからだ。軍艦が放つ曳光弾が「海の炎」となって夜を照らした。

実際に、この島は第二次世界大戦中、対イタリア作戦の一環として連合軍に占領されている。祖母がさりげなく伝えるこの「海の炎」は、この映画では決して交わらない二つの“現実”と現実、少年と難民を結びつけるものなのだ。

 

少年が見ている“現実”が私たちの自身の現実でもあると気づくことは簡単なことであろうか。『カメラを止めるな!』において、私たちは前半の「ゾンビパニック映画」から後半のドタバタコメディ劇へのシフトをスムーズに理解できる。『バードマン』や『ラ・ラ・ランド』は、観客がハリウッドやミュージカル産業について多くの教養を持っていた故に大成功した。『ニューシネマパラダイス』のラストシーンは、「映画を見ている姿」という表象が持つ力強さを物語っている。『トゥルーマン・ショー』は演技の不自然さという共通感覚があるからこそ、成り立つ世界観である。

しかし、このような複雑怪奇とも言えるメタな「映画」構造を理解できるにもかかわらず、私たちは、弱視の少年の“現実”と自分自身の現実を突き合わせることが容易ならざるものとなっている。

 

 

5.“現実”を現実としてとらえ直すための、映画

 

『映画』の映画についてみてきたように、私たちと映画の距離はいまだかつてなく接近している。しかし、その映画の「背後」を描くことができても、その「背後」に思いを馳せることができなければ、それは単なる“現実”として我々に立ち現れるだけだ。現実世界を描くこともまた同じである。

難民問題のことは皆よく知っている、難民がいかに悲惨な死を遂げているかという“舞台裏”も『海は燃えている』を見れば知ることはできるだろう。しかしその“現実”が何を意味するか、“舞台裏”でなぜこんなことが起きるのか、自分自身の世界の出来事として理解できるとは限らない。また難民問題と無縁に生きてきたとしても、自分たちの現実として理解することができる。それはちょうど、「映画」の映画を見たときに、実際の撮影現場に行ったことはないが、撮影の裏で何が起きているか、思いを馳せることができるのと同じである。「カメラ」をカメラで映すことによって、映画産業という巨大な「背後」の物語を悟るように、弱視の少年の「眼差し」を見ることで、私たちは現実世界をもう一度とらえ直すことが可能になるのである。

文字数:6721

課題提出者一覧