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映画という記憶装置が仮構する現実

「今、私たちの世界は危機に瀕している。映画の伝統の一つは世の中に異議を唱え、強大な権力に立ち向かう人々に代わって声を上げることだと信じている。」

これは2016年のカンヌ国際映画祭授賞式にパルム・ドールを受賞したケン・ローチ監督による言説である。第二次世界大戦と冷戦を経て、資本主義及びグローバリズムという英米(西洋)主導の世界大の経済戦略が各地に不穏を巻き起こし、その構造の歪さを露呈し始めた。再び国家主義へと回帰しようとうねり出す全体が社会の成り行きの見通しを暗くする一方で、映画は果たしてどうなるのか。ローチの言うように映画が社会を映し出す鏡だとするならば、シネマトグラフは文化として人々の娯楽や教養であったと同時に、その時代性をフィクションへと落とし込んできたはずである。映画人の政治的性格は挙げればきりがないのだが、私がここで、一貫して、土俗的になることなく、自身の作品を以て時代とそこに生きる人々を見つめ、物語として記録した作家を一人紹介するとしたら、ミヒャエル・ハネケを挙げることになる。偶然にも彼の最新作「HAPPY END」は2018年春に本邦公開されたばかりであり、それも含め彼の作品は記録される現実だけでなく、今日に至るまでの映画史のメインストリームまでをも俯瞰し、否定するかのようである。

映画の既存のコードに足を捉われることなく、挑戦を続けながらも、映画でしか表現し得ない体験価値の創造を追求するということが、どの時代の映画人にとっても共通する一側面にあるとするなら、彼はまさに各作品におけるその到達地点を以て外面越しの私たちの世界を脱構築してきた。過剰なまでに重く、渇き切ったハネケの画面は根本的に視聴者を不快にさせる何かがあるのだが、それらは全て緻密な計算によって生み出されているという点が恐ろしい。視聴者は鑑賞後に深くこの作品について考えたくないと頭を鬱ぎ込むわけだが、それはある種の思考停止状態に陥ったハネケ映像の登場人物と我々が重なる瞬間でもある。ハネケの露骨で無遠慮な社会或いは人間への洞察について考察し、炙り出された要素を「ミヒャエル・ハネケ」としてこの場で体系化、再構築することは、彼が作品で描いた全ての時代を映画史として俯瞰することたり得るのではないか。映画とは現実社会を映画という文化表象を通して仮構するものであり、移民、テロリズム、大衆の時代性を脱物語の形式に依らず記録した勇敢な芸術家の足取りは、そのまま映画史の映画を巡る状況の見取り図になる。その見取り図は映画史の一部分を超えて、越境し、今日の世界までをも説明しようとする。

 

ハネケの映画は典型として是認される技法を逸脱して、作品に込めたメッセージや芸術性を過程の脱構築によって仕上げる。つまり物語における原因、理由、背景の欠落や説明不足を感じずにはいられず、画面にはありのままに事態が映し出され、人物の行動や心情、それらに伴った一応の結果がある。映画的なカタルシスなど全く関係ないと言わんばかりに淡々と物語を紡いでいく。しかしそこには時に激情を喚起するようなエネルギーに満ち満ちている。

「セブンス・コンチネント」「ベニーズビデオ」「隠された記憶」「愛、アムール」「HAPPY END」などでは特に顕著に家族というモチーフが重要な意味を持つ。家族は社会的な共同体の最小単位であり、社会の機能不全はここ(家族)から既に始まっている。最近で言えば是枝裕和や、ダルデンヌ兄弟、小津安二郎など、家族は世界中の映画史を見返す限り多用されるテーマの一つである。そしてハネケもまた家族を観察することで現代社会を根本的に洞察し、生き心地の悪さといった歪さの正体を明らかにする。またハネケ映画に登場する家族の殆どは中産階級であり、そのまま資本主義社会のサンプルとして観る者の見せしめとなる。

「ベニーズビデオ」(1992)では無垢な少年の興味本位が行き着いた殺人という反モラル(とされるもの)を隠蔽しようとする大人の醜さが描かれる。両親の行動の由来は家族(息子)を社会的な断罪から守るため(愛情)か、或いは殺人者の両親というレッテルが貼られることから逃れるため(自己保身)か判然としないが、おそらくその両方だろう。結果的に少年の自白が両親の不純さを暴露するが、視聴者はこの結末に心から首肯できないはずである。両親の心情や行動展開に妥当性を感じずにはいられない視聴者に対して、映画は私たちに客観的な俯瞰を許さないからだ。つまり私たちはハネケの描く家族を目の当たりにした時、高慢な客体ではいられず当事者意識を否が応でも持たざるを得ない。ハネケの描く家族は常に現代社会の産物であり、象徴化された彼らの運命から目が離せない。私はこのようにはならないだろうと、胸を張れる正当性など全くないように思える。画面に提示される家族の欺瞞こそ、現代社会の、つまり私たち視聴者の写し鏡であり、それが例えオーストリアの家族であろうと国境を越えて、罷り通った今日性が普遍的に日常に侵食した私たちの意識を強制的に顧みさせる。社会を歪ませる「不通」は家族にすらも罷り通り、その点における意識改革なしではあらゆる理念や思想も意味を伴わないことを、ハネケの画面は家族という普遍的なモチーフを通して一貫して主張しているのだ。

 

「ファニーゲーム」(1997)はそれまでの「サスペンス」という映画形式に対する反省の形態を取っているという点で既存コードを破壊し、映画におけるメタフィクションの手法の有効性を映画史に刻み込んだ。上田慎一郎の「カメラを止めるな!」(2018)における映画内映画のネタバレの快感もこの路線上にある。

この映画を観て遣る瀬なさを感じない者はいない。暴力的過激さを持ち、観る者の心は掻き乱されるものの、画面に決定的な暴力は映されない。冷酷に、淡々と何の因縁もない家族を陥れる。不意に、不可解に暴行を受け、被害に遭っている家族も、それを眺める私たちすらももう止めてくれと言っているのに、何も応えてくれない招かれざる訪問者たちの執拗さが絶望を巻き起こす。メタフィクショナルな手段を以てどんな融通も許さない。彼ら訪問者が我々に話しかけるシークエンスや不可逆であるはずの映画世界を逆再生し、死と生を巻き戻すようなメタフィクショナルな部分によって視聴者もその映画世界の一部に組み込まれ、行われた暴力の参加者になる。この映画は私たち視聴者をただの観客、映画を観ている者として終わらせてはくれない。何の手出しも企てもなく暴力を看過し、一つの家庭を崩壊させた共犯者として仕立て上げられる。俯瞰していたはずの映画世界は私たちのいる現実世界と一致させられたまま、招かれざる訪問者は別の家庭を襲う企てをしている、しかし私たちはまたも彼らを止めるための為す術を持たない。まさに絶望が連鎖し、画面を去った後もその不快感は日常に尾をひく。ハネケはこの映画を通して視聴者に「真の暴力」を知らしめ、体験させたと言える。暴力を止める者がいないため暴力は連鎖し、更なる悪意が派生する。暴力は第三者に阻止されない以上継続する。しかし暴力の阻止が第三者によって断行できない理由として、第三者の「傍観者でありたい」という深層心理がある。つまり私たちは自らの日常をサンクチュアリとして守り、一切の非日常性から距離を置いた他者であろうとする。招かれざる訪問者が私たちを並行世界(現実世界)から映画世界に引き込んだことが理由で私たちは実際的に暴力に立ち会う者になり、暴力は他人事ではなくなる。無抵抗に行われる暴力の一因として傍観者による当事者意識からの(無意識的な)回避志向があり、私たち視聴者がこの映画を通して「もうやめてくれ」と願う正式な理由はそれである。「ファニーゲーム」はただの不条理映画ではなく、日頃隠された私たちの人間性の醜悪な部分を華麗に指摘し、浮かび上がらせる。誰もが胸を張って「私は関係ない」と言うことは決してできないし、それを内心理解しているがために本心を押し隠す。その連綿と続く暴力の原因一端としての人間性の暗部がこの全くファニーではない映画によって暴露された時、私たちは否定不可能に突きつけられるその事実に慄き、正気を保てなくなる。

 

ハネケの劇場用映画は「セブンス・コンチネント」(1989)から「HAPPY END」(2017)に渡り、時代も大きく変化してきた。そしてハネケは時代への洞察を欠かさず、映画はそのメッセージを込めてきた。資本主義的な消費文化(TVメディアなど)、移民、そしてインターネットなどが対象になってきた。インターネットの普及が、映画産業を疲弊させていることは周知の事実であり、動画配信サイトの台頭などによって手軽にコンテンツを消費できる今日、映画が果たすべき責任はより深刻になった。

「HAPPY END」ではフランス移民問題を象徴する街:カレーを舞台にグローバリゼーションに起因した西欧社会の没落を、グローバリゼーションの要因(或いは結果)の一つとしてのインターネットの普及を要素として描く。誰とでも電脳世界で接触することが可能になり、抑圧された声が聞こえるようになった。その反面で声を持つべきでない人が声を荒げたり、逆説的に不通が広がってしまう。特に後者に注目して以下論じたい。「HAPPY END」に出てくる家族は現代的でエゴイスティックなブルジョア一家である。この家族は今世界で起きていることに対して無関心であり、自分たちの小さな問題にばかり囚われていて社会の現実が見えていない。街の歩道を歩き、パーティーに参上した移民はこの家族にとって永遠に無関係な外部でしかない。またしてもハネケは家族という社会の核を通して、その主役である社会を描き、自閉症的になった人々のコミュニケーションの断絶を指摘した。インターネット/SNSは意見を発信することが容易であり、匿名性の下でそれは横行している。孤独な営み、後悔、後ろめたさをインターネット上に書き込み、教会で懺悔した時の罪滅ぼしのような感覚を味わう者もいれば、周囲を出し抜く優越感、麻痺した羞恥心から発せられる希薄な現実性に恍惚とする者もいる。つまりグローバリゼーションの贈物であるインターネットは人々に客観的視点を持ちにくくさせ、曖昧な世界線上で錯覚を生じ全能感を感得し、熱狂主義や人気主義へ走る。グローバリゼーションが、世界を人間中心ではなく効率的なシステム機能性の優先へと推し進め社会的不正義がまかり通る一方で、インターネットの電脳世界ではありとあらゆる情報が交錯し、人間性の暗部が暴走し、人はますます悪意を絡めて他者から逃れられなくなる。こうしてSNSに馴染んだ精神は、この世の生々しさに鈍感になり、その状態に陥ったのが本作のエヴである。エヴは自身の手でペットを殺し、薬を誤飲させ母親を入院させた。更に彼女はその様をSNSに投稿する。命に対する平然さがあり、不謹慎や人でなしといった非難をまるで常識扱いできず、匿名的で他人事の世界(インターネット)に何の気無しに立ち入る桎梏の生がエヴだ。家族はそれぞれの世代で悩みを抱え、異なる影響を受け、それぞれが内側に抱えるものに息を詰まらせている。更に見えない不浄な亀裂があり、血縁に縛られた家族は内側から崩れていく。そしてエヴは目の前で入水していくジョルジュを引き止めもせず、命が消えゆく死の予感にスマホを掲げる。スマホ越しのカメラでしか現実を補足できず生に無感覚な少女と、生き心地を悪くし自らの生を憂う老人はこのあまりにもヨーロッパ的な家族を揺るがす。社会という大きな物語は家族という一因から既に崩壊を始めていることをハネケはこの映画を通して説いている。この歪にして哀れで滑稽な家族が便利だと賛美される現代性(スマホ、SNS)によって息を詰まらせ、内側からその姿を腐らせていく様は現代ヨーロッパの縮図なのである。現代性によってますます我々が無知蒙昧になった運命の渦中にいるようになった未来に、「HAPPY END」は反語的にその意味を文字通り為すのだろう。

 

映画脚本が他メディアに依拠するということについて、ハネケは一つの到達点に達し、その可能性を私たちに示した。「ピアニスト」(2001)はエルフリーデ・イェリネクの同名小説を原作として製作された。映画には抑圧された女性音楽家(エリカ)の衝撃的な性がある。エリカは束縛の激しい母親の下で未来を限定させられるまま育てられ、音楽(ピアノ)と母親以外に依存できるものを持てず、愛すべきものを見つけられなかった。故に彼女の心中には防衛機制として抑圧が常に働いているも、本心は現実社会の人間関係や抑圧を強いられる精神の解放を求めている。また、その精神の解放には分別がつかない。車内で性行に興じるカップルの傍で放尿をしたり、自身の生殖器を傷つけたり、教え子のコートのポケットにガラス片を入れて怪我を負わす。

ワルターがエリカに好意を寄せ、関係が実際的に具現化しだすとエリカの倒錯した性は暴力的にワルターを、そして画面の前の視聴者を苛ますようになる。しかしエリカの手がつけられないほど剥き出しの愛が、今まで孤独に凍りついていた彼女の心からの叫びであることを私たちは知っているために、画面の前で困惑すると同時に非常に物悲しい思いになる。しかし映画にはどうしようもない愛の終わりが待っている。自壊要素を内包したエリカについて私たちは映画を通して観察し、彼女がまるで自殺願望と自己浮遊に囚われたシューマンであるかのように思う。そして絶え間ない愛の死の予感は、まるで(存在自体が死の印象と共に語り継がれる)シューベルトのピアノソナタが予言しているかのようであった。ピアノソナタ第20番3楽章のScherzoは軽快に明るくリズムを刻みながらも、その生真面目なピアノの空気感と私たちが人物から感得する気まずさの矛盾が、より一層二人の愛の狂気を浮き彫りしてしまう。

エリカは自傷行為によって心の痛みを身体の痛みに置換していた。最後のシークエンス、エリカはワルターの取り澄ましたような様子を見た後に、胸に刃物を突き刺し、血を流しながら画面から、私たちの前から消え去っていく。ワルター、世間、人間一般は彼女にとって複雑怪奇で理解を超越したものであり、その不信は抑制を留めず爆発したのか、幻滅した世界に対し自らの生の居場所がどこにもないことを悟ったのか。「ピアニスト」はイェリネクの物語世界を完全に再現しているわけではなく随所で改変が散見されるが、この物語は圧倒的にハネケの映画術を以て映画として再構築されている。エリカという人間の孤独な魂が、行き所を見つけようと彷徨いながらもがき苦しんでいる。厳しい音楽世界の勝者となれども、自分に正直になることは難しく、愛する者からその理解は得られない。その倒錯じみた彼女の行動に、私たちは居た堪れなく、切なく胸を締め付けられる。

 

また、ハネケは映画におけるモノクロームの利用、及び人間の歴史をテーマにするということについて、「白いリボン」(2009)で世界大戦以前のドイツでファシズムが醸成される過程を描き、映画史における新潮流を作り出した。例え最初は良いものであったとしても、ある考えが教理主義的に基準として打ち立てられてしまうとイデオロギーと化し、危険なものになり得る。当時の時代感を再現して見せるだけではなく、「白いリボンは本当に白いのか」という問いを打ちたて、物語を終始不思議に仕立て上げるためにモノクロの映像が役に立っている。当時の事情を私たちはモノクロを通してしか知ることができない。モノクロという表象は当時の引用における誠実な態度であり、ハネケは説得力を以てこの映画を疑似体験としてではなく創作物として提示することができる。同時にあらゆる自然主義的なアプローチを排し、映画と私たちとの間に距離を生むことによって、私たちはこの村で起こる不安や事件を俯瞰する探偵として、その任務を遂行するべきことを絶えず想起する。

悪意が連鎖し、不信が募り、村に対立構造が惨めに断片的に浮かび上がってくる。 「断片的」であることは、ハネケ映画の特色である。ハネケは物語で起きていること・起こったことの全体を映さない。断片的に私たちに(それ自体欠落のある要素を)提起しながら物語を積み上げていく。これは全てを説明したいという傾向が過剰な近年映画へのハネケによるアイロニーであり、同時に私たちの世界の知覚は常に断片化されている=私たちは現実の全てを知ることができないという現実についてのハネケ流の異化である。

「白いリボン」の子供たちが第三帝国時代に純粋無垢なるままにナチズムを支持してその運動体の一部となり、より社会大の殺傷を行使することとなると考えると非常に面白い。20世紀初頭の自然風景や人々の様子がモノクロながら再現され、その歴史的な視点と並行して純粋無垢(という一見すると正気)と狂気の表裏一体性が描かれている。この表裏一体性が人間性の暗部として活動を始めるのは、閉鎖的な村という環境のせいでも権威主義的で秘密裏に野生的な大人のせいでもなく、人間存在の内から普遍的に発現するものだという。その倒錯が集団によって履行された場合、どんな良識も打ち勝つことはできない。映画のラストでは人々が不穏を募らせつつ一堂に会した教会の中で、合唱隊がルター作曲のプロテスタントの賛美歌「神は私たちの砦」を歌うが、その様子は歌詞と大戦前夜という状況からまるで軍事的行為のようにも感じられる。危険を冒す最中を語り手である教師に止められた少年の、「神様に僕を殺す機会を与えたんだ。(でも)神様はそうしなかった。(ということは)神様は僕の生に満足している」という台詞、傷つけられた助産婦の息子の放置された身体の上に置かれた「お前たちの主、嫉妬深い神である私は、親の罪によってその子、孫、曾孫の代まで罰を与えるだろう」という手紙。人々は神の存在に身を委ねつつも、大人たちは行いや顕現した事態に対して常に猜疑心を抱くという矛盾を露わにし、現実世界における神の不在が皮肉にも明らかになる。プロテスタントは聖書を通して神と個人が対面するが、その信仰心が倒錯し、暴力的なまでの正義を錯覚させてしまう。そして登場人物たちも、私たちも不安を覚え、悪意に怯えながら画面はフェードアウトしていく。この映画自体フェードインから始まることを鑑みるとまるでその映画的工夫は映画全体を「悪夢」として完成させている。しかし本文において私は子供を大きく取り上げているが、その真相すらも映画は謎のままであることを貫き、私及び誰の説明においても結局それは解釈に過ぎない。ハネケ映画の曖昧模糊さが放つ後味の悪さは際立って不親切なまま、私たちが生きる世界と人間に対する問だけを残すのだ。

 

ミヒャエル・ハネケは映画というフィクションを通して、視聴者にフィクションであるということを忘れさせ、私たちを醜いリアリティの中に放り込むことができる。彼は社会を見つめ、自らの芸術によって人間存在と世界について議論を常に巻き起こしながら、既存の映画コードを破壊し、全く新しい映画を書き続けている。そして何よりもハネケは負の膠着状態が続く現代を真摯に見据え、断絶した私たちが真に血が通う瞬間を、ほくそ笑みながらきっと期待しているに違いない。彼が作品を世に出すこと、そしてそれを観ることもまた映画史における新たな頁を捲ることに等しいのだ。

 

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