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虚構の家族史 ~つながりのつらなりのために~

 

二〇一八年に公開された是枝裕和監督の『万引き家族』は、カンヌ国際映画祭において最高賞であるパルム・ドールを受賞し、日本国内でも高く評価され話題になった。東京の下町の貧しい家に暮らすひとつの家族を中心にえがいたこの映画は、貧困ゆえ犯罪に親子ぐるみで手を染める親子をえがきながら、家族というもののありかたをラディカルに問うものであった。日雇い労働者の治とクリーニング店で働く信代の夫婦、二人の息子の祥太、信代の妹の亜紀、治の母で年金暮らしの初枝という五人の家族は、貧しくはありながらもそれなりに笑いのある毎日を送っている。しかし後半になるにつれ、じつは彼らはみなさまざまな縁で一緒に暮らすことになった他人どうしであったことがあかされる。この偽装された家族が血縁や戸籍などで結ばれたいわゆる「本物の家族」よりも家族らしく見えるということが、本来わたしたちはなにをもって家族というのかということを観るものに感じさせる。

是枝監督はそれ以前の作品でも、家族のありかたについてくりかえしテーマに取り上げてきた。出生間もなく取り違えられてしまった息子をめぐっての二組の家族の葛藤をえがいた二〇一三年公開の『そして父になる』では、親子を成立させるのは血のつながりなのか、それともともに過ごした時間なのかが問われている。そして、親と子が「似ている」のか「似ていない」のかということについて何度も言及される。

血のつながりにもとづいた関係は、その当事者だけではなく見ず知らずの他人の目から見てもあきらかであることが少なくない。顔や骨格といった外面的な特徴にその共通点が少なからずあらわれるからだ。本人たちが望むかどうかにかかわらず、親と子、あるいは祖父/祖母と孫、兄弟姉妹はどことなく「似て」しまう。

しかし『万引き家族』に登場するいくつもの血縁関係者たちはどうなのだろうか。治と祥太、あるいは信代と祥太は似ていない。治と老いた母・初枝も似ていない。信代と妹・亜紀も似ていない。スクリーンに映し出されたまったく似ていないものたちで構成される家族。考えてみればあたりまえのことで、彼らを演じる樹木希林とリリー・フランキーは親子ではないし、安藤サクラと松岡茉優は姉妹ではないからだ。では『万引き家族』ははたして最初から「ネタバレ」している映画ということなのだろうか。

 

工場からあふれ出る労働者たちの集団や、駅に到着する列車を題材にしたように、最初期には写真が「動いている」ことそのものに驚きと価値があった映画も、しだいにものがたり性のある内容をもつようになる。ものがたりがなんらかの事実の連なりすなわち関係性をえがくものだとすると、家族や親子の関係というものがくりかえし扱われる代表的なテーマとなったのは当然のことといえる。けっして短くはない映画史において数えきれない親子がえがかれてきたが、しかし彼らはその見た目において親子としての相似性を示さない。まれに血のつながった実の親子である俳優が親子役で共演するとなれば、逆にそのこと自体が話題になるほどだ。

『万引き家族』のように疑似家族をえがいた作品に限らない。そもそもスクリーンのうえにわたしたちが見ることができる家族というのは、巧みに捏造された疑似家族にほかならない。もちろん、わたしたちが生きる社会においても家族とは所詮なんらかの類似性にもとづいて仮象されるものにすぎないが、スクリーン上の父親と息子は似てもいない。映画史とは、外見上もまた生物学上もなんらつながりのないものたちを家族だと見せるという、その虚構をなりたたせているフィクションの歴史である。

古今東西、ほとんどすべての家族をえがいた映画において、本来は他人どうしである俳優たちがみせるそのフィクションを、彼らがたがいにまったく似ていないということを目の当たりにしながら、なおそれでもわたしたちは当然のごとく彼らのことを家族だと認識し、その前提を無条件に受け入れて映画を観る。技術・技法的な発展のなかで演劇よりもより「リアル」に世界を切り取ることが可能になったはずの映画において、それでもなおわたしたちが盲目的に括弧に入れてきた「映画的宗教性」(三浦哲哉)ともいえる習慣だと云えるだろう。そしてその習慣を生み出すのは、スクリーンのうえにうつしだされた目に見える俳優たちの顔という表層をこえてわたしたち観客の内面でわきおこる、目に見えない関係性の構築への欲望なのであり、その欲望が映画史のなかでつくりあげてきた「装置」なのである。

人は見た目が九割であるなどといった本が売れたこともあったが、わたしたちは視覚的な特徴でかんたんに類型化する。そしてそれはあらぬ差別を生む。しかし目に見えるものにとらわれがちなわたしたちに、見た目を括弧に入れるという映画史を暗黙のうちにささえてきたこの「装置」が教えてくれるものはけっして少なくない。

 

『万引き家族』が公開された今年、出入国管理法改正案が日本の国会に提出された。専門技能を持つものに限られてきた外国人労働者の受け入れを、単純労働などへも拡大するためのものだが、経済の発展をうながすという見方もあれば、将来的な移民受け入れにつながるという慎重な意見もあり、見通しは不透明だ。だが好景気のおりに受け入れた大量の外国人労働者も、いざ不景気になれば日本人の仕事を奪うものとして批判の対象になりかねない。そのときにそれら外国人を手のひらを返したように追い出すことは人道的にも国際政治上も容易ではない。そうなれば将来的にはこの法改正が永住する外国人、すなわち移民受け入れをどう考えるかという問題につながる。

戦後間もない混乱期の日本においては、養子縁組は珍しいことではなかった。血のつながりをこえて、自分と似るところもない他人と家族になることを受け入れることが求められた場面も少なくなかったことだろう。一九五三年に公開された小津安二郎監督の『東京物語』の終盤において、笠智衆演じる周吉が次男の嫁である原節子演じる紀子にむかって云うセリフはきわめて象徴的だ。「妙なもんじゃ。自分が育てた子供より、謂わば他人のあんたの方が、よっぽどわしらにようしてくれた」

いまわたしたちが直面しているのは、もっとグローバルな家族の問題だ。歯止めの利かない少子化傾向にある国が、その経済力を維持しながら生き延びていこうとするならば、積極的に外国人を労働力としても、また国を構成するあらたなメンバーとしても受け入れることは不可欠だ。それはいわば、家と財産を受け継ぐために血のつながりのないものを養子を受け入れる家族のようなものである。まさに「疑似家族」的なつながりが、家族レヴェルでも、また国家レヴェルでもこれから増えていくことだろう。

スクリーンのうえの家族の姿が変わるのかもしれない。あるいは見た目は似ても似つかぬ家族を見せる映画に、現実が近づいていくのかもしれない。血縁という意味でも、外見的な相似性という意味でも、本来なんのつながりもなかったものたちが、いままでになかった関係を結ぶことになるだろう。そのとき想像されるさまざまな軋轢や拒否反応をこえて、あたらしいつながりがつらなっていくために必要なものはなにか。映画というフィクションを成立させているその「装置」が、わたしたちにヒントをあたえてくれるのである。

 

 

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