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「ポストVR」時代における映画の享楽

夜行バスの風景とVR

夜行バスには視覚的な風景が存在しない。何故なら車内の照明は落とされて暗闇になり、車外の風景はカーテンに覆われて見ることすらできないからだ。そして光を放つスマホ、タブレット、ノートパソコンなどの使用が禁止された車内では、瞑想か妄想の世界に旅立つか、音楽を聴くか、寝るかしか選択肢がない。しかしそんな絶望的な状況を一変させたのが、2018年5月に発売された「Oculus Go」と「Mirage Solo」などの一体型VRヘッドセットである。一体型VRヘッドセットとはスマホ、PC、ゲーム機などと接続しなくてもVRコンテンツを体験することができる装置であり、持ち運びも可能であり、価格も比較的安価なことから一般レベルにまでVR体験を普及させる引き金となった。そしてこの一体型VRヘッドセットによって、夜行バスの風景は暗闇から広大な映像空間へと書き換えられることになる。

「新しい映画史」の見取り図

このような書き出しは一見「映画」や「映画史」とは無関係なものと映る可能性もあるだろう。しかし実は「新しい映画史」の指標となるのはこの一体型VRヘッドセットの普及とそれに伴うVR的映像空間の浸食であり、それらの観点から「映画」や「映画史」を捉え直すことで新しい見取り図が見えてくるはずだ。そして最初にその見取り図について大雑把に語ってしまえば、一体型VRヘッドセットやVR的映像空間はあらゆる映像を没入感の強い移動式映画館の内部に閉じ込める。そしてその体験は映画館や遊園地が担ってきた機能の一部を代替するだろう。しかしそういった一連の体験を経た後、つまり「ポストVR」時代における「映画」は今までの「映画」とは違う形態を取るはずだ。その未来から過去にまで遡った観点からの「映画史」について今回はまとめてみたい。

「VR史」

まず手始めに「VR史」について振り返ってみる。VR元年は2016年と言われているが、これは「Oculus Rift」、「HTC Vive」、「PlayStation VR」などのVRヘッドセットが一般レベルに普及し始め、商業施設などでVR体験が気軽にできるようになったことに由来する。つまりVR元年とはその普及率に強く依存する言葉であって、VRという概念、もしくは技術自体は当然それ以前から存在したことになる。遡ればバーチャルという言葉自体は1400年代から存在していたと考えられているが、VRの概念はSF作家であるStanley G. Weinbaumが1935年、『Pygmalion’s Spectacles』で予言的に描いたものが最初の登場であると考えられている。それから約30年後の1962年、Morton HeiligによるVR試作機である「Sensorama」が発表され、1965年、Ivan Sutherlandによってヘッドマウントディスプレイ(HMD)である「The Sword of Damocles」が発表されたことでVR研究は一気に加速する。

そして1989年にVRという言葉が登場し、一般的に普及し始める中で、1990年代に第1次VRブームが訪れる。しかし当時はVR機器の処理能力の低さ、コスト面から実現できないアイディアの存在から「Virtuality」、「Jaguar VR」、「バーチャルボーイ」といった死屍累々が積み上がることになる。そんな当時のトラウマ的な記憶も忘れ去られた2012年、「Oculus Rift」が発表されたことにより第2次VRブームが訪れ、先程の2016年のVR元年へと繋がっていくことになる。このような「VR史」は人工知能史とも重なり合う部分があり、特に第1次〜第3次AIブームの流れはVRの歴史のバイオリズムとの一致を見ることができる。また軽量化、小型化によって持ち運び可能となり、低価格化によって普及する流れはスマートフォンの歴史にも重なり合う部分があり、技術革新と普及の関係性はそのジャンルや時期とは無関係な類似性を見出だすことが可能だ。

「VR史」と「映画史」の交差点

しかしここで改めて検討したいのは、この「VR史」と「映画史」が交差する点についてだ。よってここからは没入感と映画館というキーワードを通して、「映画史」を振り返ってみたい。技術論的に「映画史」はWilliam George Hornerによるゾートロープ、Thomas Edisonによるキネトスコープ、Lumière brothersによるシネマトグラフなどにその起源を見ることができる。例えばゾートロープは静止画を回転させることで動画として見せる技術であり、アニメーションを始めとした映像の起源とも言うべき技術である。またキネトスコープはVRの起源であり、シネマトグラフは映画館の起源であると言える。何故ならキネトスコープは箱の中を覗く1人専用の機械であり、そこに没入感を進化させていったものがVRと言えるからだ。一方でシネマトグラフは映像をスクリーンに投影する技術であり、大人数で鑑賞可能という点で後の映画館に繋がっていく。

ここで重要なのは、映画館というシステムは歴史的に没入感を増すように進化してきたということだ。例えば大音量、大画面、解像度の上昇は全て没入感の増加に役立っている。しかしここで疑問なのは、そもそもシネマトグラフの革新的な部分は一つの映像を同時に多数の人に届けることにあり、それによって人々のコミュニケーションを促す可能性があったことだ。しかし没入感はそれとは逆に他者との遮断を促す。その上没入感の増加を目的とするならば映画館はVRに敵わないはずだ。またインターネットに接続することでVR内部で不特定多数の人と上映会を行うことは可能であり、さらに一体型VRヘッドセットが持ち運び可能な移動式映画館として機能するのであれば、映画館の必要性はますます消失する。CDやDVDが衰退したのはその内容がデータ化可能であり、持ち運び可能なものになったからだが、映画館が衰退したのもそれと同様の理由に加えて没入感で勝負するという間違った方向に進化してしまったからだ。その意味において映画館は既にリッピングする価値すらない箱に成り下がってしまっている。

VRと遊園地

ここまでで映画館が衰退し、VRが没入感の強い移動式映画館として台頭してきた歴史が「VR史」と「映画史」の交差点として明らかになった。その論旨を補強するために、ここでは一旦VRと遊園地を比較することで映画館の衰退の歴史をさらに深く掘り下げてみたい。結論から言えばVRは遊園地の機能の一部を代替するが、映画館ほど衰退することはないだろう。例えばVRコンテンツとしてジェットコースター系の映像は人気があり、VR酔いの問題はあるとしても並ばずにいつでも体験できることは魅力的である。また遊園地における映像系のコンテンツの大半はVRで再現することが可能だろう。しかし例えば人が東京ディズニーシーに行く場合、必ずしもアトラクションを体験しに行っているわけではない。雰囲気、ブランド、コミュニケーションを含めた体験に加え、視覚や聴覚以外の要素も含めて楽しんでいるのである。もちろん東京ディズニーシー自体が外界から遮断された没入感のある場所として設計されていることは確かだが、映画館のように個々の人々が没入感によって遮断されるような設計にはなっていない。最近は野外上映会が流行しているが、そのような交流を前提としたコミュニケーション設計こそがシネマトグラフから発祥した映画館の正当進化系であり、3D、4Dといった没入感の強化を新しい体験と呼んでしまう勘違いと貧しさこそが映画館の衰退を招いている。

「ポストVR」時代における映画の享楽

本論考では現在と過去の「映画史」をVRの観点から捉え直し、それを没入感と映画館というキーワードによって整理してきた。これにより「新しい映画史」の指標としては既に見取り図が描けたわけだが、最後に「ポストVR」時代における「映画」について語ることで、未来の「映画」についても言及しておきたい。まずこれまではVRというメディア論の立場から「映画史」について整理してきたわけだが、ここで表現論についてのキーワードとしてアルゴリズム的脚本という概念を追加したい。一般的にも知られていることだが、ハリウッド映画の脚本は統計的に緻密に計算された上で制作されている。それはもちろん長い歴史の中で自然と効果的な型が決まってきたこともあるが、最近では観客の反応を元にして統計的にウケの良い方に脚本が書き換えられることが多い。またEpagogix社は脚本段階での興行収入を予測する脚本解析アルゴリズムを提供しており、それに沿って脚本が決定されることも多いだろう。このような技術によって決定されるアルゴリズム的脚本は多数決的、興行収入的な観点から判断するという意味で類似した作品を量産し、最終的には表現の自殺とも呼べる状況を形成する。

また先程のVRの議論で述べたように、「映画」や映画館も没入感を追求していく流れがある。しかしその結果生まれる3D、4Dなどの体験は慣れることで刺激が減少し、また没入感には現実世界のリアリティという限界値が設定されている以上、そこには無限の可能性が広がっているわけではない。よって「ポストVR」における映画とはアルゴリズム的脚本に沿ったものでも、没入感だけに頼ったものでもないものが想定される。そしてその可能性についていち早く気付き実践している映画監督は既に存在している。それが松本花奈である。彼女は3D、4D、VRといった没入感を増加させる装置が日常化した時代を踏まえ、その上でそれとは違った映画ならではの表現を目指したいと語る。また彼女の映画館をコミュニケーションや記憶の場として捉える視点もキネトスコープではなく、シネマトグラフの進化形としての映画館を想定しているという点で従来の映画館像を覆すものだ。

『レディ・プレイヤー1』では仮想世界ではなく現実世界に生きろといったVRに対する忠告とも取れる台詞があった。しかしVRも一つの現実であることを認めた上で、アルゴリズム的脚本や没入感とは違った方向を探索してみることがむしろ「映画」の進化にとって重要だ。没入感という意味で言えば仮想も現実も変わりなく、その区別に拘ることでむしろ時代の現実感覚とのずれが生じてしまう。またアルゴリズム的脚本だけでは人々は自動機械的な快楽を享受するだけの存在に成り下がってしまう。さらに没入感が「映画」にとって最重要であるならば、人が文学作品を読み、感動し、涙する理由が説明できない。一体型VRヘッドセットとVR的映像空間によってあらゆる映像に没入し、移動式映画館を所有する経験を経た後の我々は、それらとは全く別の「ポストVR時代」における「映画」に享楽することを欲しているのだ。

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