重なりあう不可視なるものたち
そのコルクを抜くまで中のワインがあたりかはずれかわからないというのは、なにもシャガールの書いたエチケットをその顔に持ちながらも、肝心の中身がその評価に見合うものではないと酷評された七〇年のシャトー・ムートンに限ったことではない。数年のうちに消費されることを想定した比較的安価なワインとは違って、長期熟成を前提としたボルドーの格付けクラスのワインは、収穫したブドウの状態や気候、出荷されるおりに発表されるシャトー自身やワイン批評家のコメントなどから、ある程度はその味が想像できるとはいえ、ボトル詰めの際に少なからず混入する細菌の働きや保管状況などによって、栓を抜くまでどのようなワインなのか、誰もそれを正確に予測することは不可能だ。
未開栓のボトルを前にして、想い描くことが可能なさまざまなワインの味。けっしてひとつではないそれらが無数に重なりあっている状態は、生きている状態と死んでいる状態が閉じられた箱のなかで重なりあっているという、量子力学を説明するのにもちいられる有名な猫を思い出させる。ワインコレクターが貴重なワインを集めながらなかなかそれを呑もうとしないのは、もちろん記号化されたワインの所有欲ゆえという面もたしかにあるが、それと同時に、開栓してしまえば消えてしまう無数に重なりあったファンタジーを楽しんでいるからだろう。
現代演劇を代表する劇作家にして演出家である平田オリザは一九九七年に著した『都市に祝祭はいらない』において、みずからの演劇観について次のようにのべている。
世界をありのままに記述したい。
私の欲求はそこにあり、それ以外にない。
すなわち私は、現代演劇の役割もまた、この「私に見えている世界を、ありのままに記述すること」のみだと考えている。
(『都市に祝祭はいらない』より)
その後も著書やインタヴューで繰り返しのべられてきたこの平田の基本的なポリシーを支えているのは、作り手のなんらかの価値観や意図を観客に示すことがあたりまえに行われていた、従来の演劇に対する違和感であろう。このわたしたちが生きている世界はいかようにも見える。わたしに見えている世界と、あなたに見えている世界は同じものではない、少なくとも同じであるということは誰にも保証できないという、現代人にとってはもはやあたりまえの前提に立ちながら、それでもなおわたしには世界はこう見えているというそのままを切り取って舞台化する。
一九九四年に初演された『東京ノート』のなかでフェルメールの絵画についてかわされるセリフは、そんな平田自身の劇作のスタンスをあらわしているように聞こえる。
平山 あれ、窓から光が入るでしょう。
由美 えぇ、
平山 それで、光のあたってる部分だけが見えるでしょう、明るく。
由美 はい。
平山 そうやって、世界を切りとるんですよね、たぶん、生活から。
由美 あぁ、
平山 あと、全部、他は影で。
由美 あぁ、えぇ、
平山 なんか、たぶん、そんな感じで。
(『東京ノート』より
もちろん、そこに切り取られているのは「書き手に見えている世界」の個的な記述にすぎず、観客ひとりひとりが見ているものとはちがう。そもそも、それが一致することは前提とされていない。前出の『都市に祝祭はいらない』のなかで平田は「もはや現代芸術に観客同士の共感は必要ない」とのべ、そこに共有可能なものとして提示できるものは、目に見える出来事と関係性にすぎないと云う。
平田の初期の代表作である『S高原から』は、ある高原にあるサナトリウムのロビーを舞台に、不治の病に冒された患者や面会者、サナトリウムのスタッフなどをえがいた作品である。具体的になにかは明かされないその病は確実に患者に死をもたらし、それはときに突如として訪れるため誰もが死ととなりあわせに毎日を生きているのだが、不思議と悲壮感のないゆっくりとした時間がそこには流れている。なにげなく繰り返される日常と、いつ訪れるかわからない死というものが、いかに継ぎ目のない連続した時の流れのなかで隣り合っているかを観るものに感じさせるこの傑作は、同時に平田がどのように世界を見ているのか、いいかえればどのように演劇を作っているのか、ということを考えるうえでさまざまなヒントをあたえてくれる。
このサナトリウムでは、宣告契約をしていない患者には死期がせまっていることを告知しない。しかし本人が知らなくても「医者とか家族の感じで」なんとなく周りの人々はそれを察しているのだという話がかわされる。
村西 さっき、彼女、ちょっと風たちぬみたいだって言ってたでしょ。
大島 うん、
村西 いいカンしてるよ、それ。
大島 そういう意味で言ったんじゃないんだけど。
村西 あ、そう。
大島 でも、周りみんな知ってるっていうのも、やよね、狭い病院とかだと。
村西 やもなにも、本人は知らないんだからいいじゃん。
大島 でも、やじゃない。
村西 だって、やだとか思えないでしょ、知らないんだから。
大島 だけど、なんか、やでしょ。
村西 だから、知らないっていうのは、何にも、知らないんだから。
大島 うーん。
村西 ナッシング!
大島 うん。
村西 うん。
(『S高原から』)
ふたりの意見がすれ違うのは、その人にとって知り得ない情報はその世界には存在しないのだと云っている村西に対して、大島はその情報を知るものも知らないものも共有する可能性のある「なんか、や」だと思えるものがあると感じているからだ。村西の立場は、世界はそれを認識している主体にとっての世界であるとしかいえず、見るものの数だけ世界は存在するという立場であり、平田の云う演劇論はきわめてこれに近いように思われる。作り手は自分に見えている世界を舞台のうえに提示するが、それはこの観客に見えている世界とも、あの観客に見えている世界とも一致しないし、そこには観客どうしの共感はない。
しかし、大島の云う「なんか、や」だと思えるもののように、観客どうしがなんらかの世界を共有するという可能性は、そこにはほんとうに残されていないのだろうか。
『S高原から』の幕切れ近く、福島という入院患者の男性がロビーにあらわれ、急に眠くなったがなかなか眠れないと云って、観客に完全に背を向けてソファに横たわる。はじめは福島もロビーにいる他の人々と会話をしているが、次第に話しかけてもあまり反応を示さなくなり、やがて人々がロビーから去ると、まったく動かなくなった福島だけがのこされ、ややあって静かに幕となる。この終結部にいたるまでの平田の巧妙な仕掛けにより、観客は福島が死んでしまったのか、それとも眠っているだけなのか、決定的に判断することができない。それは、ある観客にとっては死んだように見え、別の観客にとっては眠っているように見える、ということとは同じではない。むしろ観客ひとりひとりがそのなかに、その「どちらもあり」なイメージを幕切れまで、いや終演後にいたるまで重ねあわせたままでいることを巧みに強いられてしまう。(台本にト書きで「死んだように眠る」という記載があることを知っていたとしても、それが観客に見えていないものである以上、それはいささかも揺らぐことはないだろう)
いま目の前にあるもの云わぬ俳優の身体の声は、死んだ福島と生きている福島が属しているすくなくともふたつの世界が重なりあうさまを、わたしたちに雄弁に語っている。そしてわたしたちは、その重なりあった世界のいずれかが正しく、いずれかが排除されるなどということが原理的に不可能だということにたじろがざるを得ない。つまり平田が「自分に見えているままに」示す世界とは、じつはいくつもの世界の重なりあう「Khôra(場)」そのもののことであり、その決定不可能な世界の重なりあうさまを受け入れるという経験の共有によって、観客は劇場という「Khôra(入れ物)」のなかでたがいに共感することができるのだ。
他人の気持ちになってみることなどできはしない。他人の価値観を共有することも究極には不可能だ。入れ換え可能ないくつもの世界のなかで、「たまたま」わたしに見えているものを「わたしの世界」と呼ぶことでひとは生きている。それを知っている現代人にとって、それでも他者と共有できるものが残されているとすれば、それは「わたしの世界」と「あなたの世界」が同じ時間と空間のなかで重なりあっていることを受け入れることではないだろうか。重なりあうままに複数の世界を見ることのできる視線のみが、それを可能にしてくれる。世界が重なりあっているなど幻想かもしれないし、なんの証明もできはしない。しかしそれを理念として想定することが、他者を理解しようという欲望の根底にあるものであり、現代における「共感」をささえるものである。
平田オリザが九〇年代からすでに舞台のうえでわたしたちに見せていたのは、それまでの演劇が作り手と受け手のあいだに前提としていたものとはまったく別の意味での、あらたな「共感」の可能性だ。もちろん平田以後も、演劇はさまざまなかたちでその重なりあう世界を示してきた。しかし、それを平田がいまなおリアリズムという形式のなかでわたしたちに見せ続けていることに意味があるのだ。「コトバ」という、つねにわたしたちを欺く裏切り者を道具にして。
のちにはいくつもの続編を生むことになる代表作『ソウル市民』は、テーブルのうえのワインを開栓しようとしたところでいささか唐突に幕が下りる。けっしてコルクが抜かれない閉じこめられたままにされたそのワインが示すものは、観客の数だけそれぞれにものがたりの続きがあるのだというような、凡庸なメッセージではない。そこに見ることのできたいくつもの「かもしれない」をそのままお持ち帰りくださいという、きわめて贅沢な余韻を味わうことのできる幕切れなのである。
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