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理論から遠く離れて、その結果、

 

平田オリザを論じるには困難が伴うように思う。それは平田自身が自らの演劇理論を緻密に構築し、正確に言語化し、それをもとに演劇を制作するため、平田批評は平田の理論の後追いに読めてしまうということである。平田の演劇に批評を加えても、平田自身の理論を突き抜けるものには見えないのだ。それは、平田の演劇における人間の内面・精神や「リアル」を問題にしたとしても同様である。

 

というわけなので、僕はそれらの問題を堂々と回避しようと思う。平田の理論につかまらないために。その代わりに、平田にとって重要だと思われるもう一つの問題系について徒然なるままに書いてみよう。すなわち、言葉・日本語について。

 

私は、できうるならば、日本語の構造と、人間の発語に普遍的な構造の双方を明らかにして表現へと結びつけたいと考えている。

 

平田は自身の著書『平田オリザの仕事2 都市に祝祭はいらない』でこう述べている。そして、この文の後には日本語についての分析が続く。どうやら日本語は助詞、助動詞という表意語句で人物の関係が明晰になるらしい。そして、日本語、特に表意語句の変化に意識的であることによって、現代人の精神を問題にできるらしい。

 

うーん、本当にそうなのかなあ、と、のろまに立ち止まってみよう。まず、平田が明らかにしたい「日本語」とは何を指すのだろうか。おそらく、現在使われている日本語だろう。だからこそ、日本語の変化に意識的であれと説くのだ。だが、「変化」に意識的であった結果、演劇は何を表現できるのか。まあ、変化「後」の日本語だろう。だからこそ、変化の中を生きる現代人の精神を問題にできる。

 

いや、でもさ、と、さらにのろまに立ち止まる。「変化」を通じて現代人の精神を問題にするならば、変化「前」と変化「後」の両方を表現できたらもっとよくない?と思うわけさ。だって、変化を通じて何かが切り捨てられたという事実こそ、現代人の精神にとって問題になることなのでは、とか思うから。

 

あともうちょい言えば、新しい日本語を使うとして、そこで表現できるのは「現代」であって、現代人の「人」の方、すなわち人間については一部のみしか表現できてないのではとも思うわけ。宗教学とか、人類学じゃないけど、人間の精神構造ってあんま変わんないと思うんだよね。というか、人間の精神は重層構造をなしていて、現代口語で表現できる範囲は表層部分に限定されるんじゃないかな。

 

という具合に屁理屈をこねてみたわけだが、屁理屈は屁理屈に過ぎない。平田のいう表意語句の変化は、人間関係の変化であり、関係から人間が立ち上がるという平田の人間観に従えば、僕の屁理屈は全く問題にならないだろう。「関係がなければ言葉は生まれない」という平田の考えにならえば、関係の変化は言葉の変化を導き、それは人間の変化をも意味する。平田にとって「リアル」な人間は現在の関係の中にしかおらず、現在の下に眠るかもしれない精神の古層など問題にはならないのである。

 

ああ、「リアル」とか、精神の話は回避するって最初に決めたのに。いつの間にかそちら側に迷い込んでしまったようだ。人間の話は強引に断ち切って、日本語の話に戻そう。

 

平田が演劇中で使う日本語について話そうとしてたんだ。いわゆる「現代口語」というやつ。言うまでもなく、平田は現在使われている日本語に意識的だ。それは具体的な作品にも表れる。『日本文学盛衰史』では現在使われている日本語は作られたものだということが言われているし、『S高原から』では堀辰雄の小説『風立ちぬ』中の今は使われなくなった表現についての会話がなされる。「風立ちぬ、いざ生きめやも」という表現がどういう意味かを考えることで、現在の日本語を相対化して意識の俎上に乗せていると言えよう。

 

とするならば、「現代口語演劇」は変化「前」の日本語についても考えているってことになりやしないか、とふと思う。さっき、変化「前」と変化「後」のどっちも扱おうぜ、的なことを言ったけど、どうやらどっちも扱われているぽい。でも、これは平田の思惑通り、日本語の構造を明晰にして表現によって伝達することができているのかな。堀辰雄の一文から日本語に対して意識的になるなんて、深読みしすぎやしないか。別に、登場人物たちはそんなことを表現、伝達しているのではないのでは。

 

いや、そうではない。舞台上の登場人物が日本語の構造を伝えようとしているかどうかが問題なのではない。日本語の構造を意識化させる可能性があるものとして受け取れるという事実が問題なのだ。この時点で僕は平田の理論に踊らされている。平田の演劇は登場人物の意図に関わらず、彼らの発話や行為という表現によって意味を仮構するものだからだ。平田の演劇を見て、日本語の日常性が揺さぶられてしまったのならば、それは平田の思うつぼなのだ。平田の描く「リアル」な世界によって、観客の日常性を揺さぶるのが「現代口語演劇」なのだから。

 

あれれ、もしかして平田の理論の後追いになってる?ああ、またもや最初に回避した「リアル」について考えてしまっていたようだ。なんてこった。きりがないのでもうやめようか。

 

この文章において、特段目立った主義・主張はない。ただ、表現したいがままに書き進めてきただけだ。平田風に言えば、伝えたいことはないが、表現したいことはある、とでもなろうか。

 

だが、結果的に伝えてしまったことはある。それは平田オリザにおける言葉・日本語の問題を考えると、人間やリアルという問題に行き着いてしまうということだ。つまり、平田の演劇はこれらの要素が関係しあって、一つの全体をなしている。だからこそ、平田の演劇について論じようとすると、平田自身の理論に回収されてしまい、その後追いにしかならないのかもしれない。

文字数:2359

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