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ファシリテーター型劇作家

平田オリザはもちろん劇作家であるが、ファシリテーター型劇作家であるという方がふさわしいのかもしれない。

ファシリテーションとかファシリテーターといった単語を最近は目にすることも増えてきたように思うが、一般用語とまではまだなっていないだろう。ファシリテーションは「促進する」とか「円滑にする」といった意味となるが、異質性の高い社会を前提に、人々のプラスの相互作用を集団内で促進するといった概念で誕生した。そして、そのようなファシリテーションを担う役割の人を、ファシリテーターと呼ぶようになっていった。

これらの概念はもともとは教育系の分野で活用されていったともいわれているが、現在では学びやトレーニングの場だけでなく、問題解決や新規サービスなどの創造の場といった多様なコミュニケーションの場においてもファシリテーションが求められるようになってきている。

演劇とは、人と人とのコミュニケーションや相互作用を演じて見せるものである。劇作家であれば、さまざまなコミュニケーションのパターンを認識したり構築したりしていく中で方法論を構築し、他人に伝えるすべを持っている存在ともいえる。さらに平田のように国内外に認められた影響力の大きく、演劇の言葉として日常的に使われる口語に着目している劇作家ともなれば、小学校や中学校の国語教科書に平田のワークショップの方法論に基づいた教材が採用されるようにもなり、子どもたちが教室で演劇を創作し実演する体験を通じてコミュニケーションを学ぶようになっていく。

さて、ここまではファシリテーションを、人々のコミュニケーションを円滑にしたり促進したりするものというくらいの定義で話してきた。ここからは、もう少し深掘りしていってみたい。コミュニケーションに類する日本語として、「会話」「議論」「対話」といった言葉がある。ほとんどの人は意識しないかもしれないが、ファシリテーターという役割の人たちは、この言葉の定義の違いに、とくに「議論」と「対話」の違いに少しセンシティブになっていく。

会話とは雑談であり、とりとめもなく話題もあちこちに飛んでかまわないものである。しかしファシリテーターのいる場では何かしらの目的やテーマがあったりするため、会話だけに着目することはない。では議論と対話の違いは何だろうか。これについて平田は次のように説明したことがある(実際は筆者が参加した哲学者の鷲田清一の講演で平田の言葉として紹介されたものではあるがわかりやすいので引用したい)。

  • 議論は話の前後で自分の考えが変わっていたら負け
  • 対話は話の前後で自分の考えが変わっていなかったら負け

「負け」という言葉はいささか強い表現ではあるが、ファシリテーターの認識としては、議論はその場で最終的に一つの結論を生み出す目的で行われるので、意見を対立させて戦わせて勝ち負けという判断をするというのはわかりやすいだろう。一方対話はその場で共通了解可能な考えを生み出す目的で行われると認識しているので、対立する意見があったとしても、お互いが歩み寄れる第三案を生み出す、つまり参加者の従来の考え方とは違い、かつ納得できる考えが生まれていなかったら対話の目的は果たせていないということである。

ファシリテーターは議論と対話を目的に応じて柔軟に切り替えながら場を運営していっている。そして議論は感情的対立を生みやすいからこそ、対話を重視しながら進めていくことが多い。

このように見ていくと、劇作家には、ファシリテーター型というタイプがあるように思われてくる。ファシリテーターは、対話で具体的に話される内容や成果などのコンテンツにこだわるのではなく、コンテンツを生み出すプロセスに徹底的にこだわる。きちんとした対話が行わるプロセスが担保されさえすれば、その過程で生み出されるコンテンツは極論すればなんでも良いというスタンスともいえる。

このような意味で、ファシリテーター型劇作家は提示した物語が正しく伝わることよりも、演者や参加者の多様な解釈からどんな対話が生まれるのかというプロセスを設計することにこだわる。その逆として、伝えたい物語がしっかりと伝わることにこだわり、むしろある意味どうとでも解釈できてしまって多様な解釈が生まれてしまうことを望まないビジョナリー型劇作家というタイプもいるといえるのかもしれない。

そして平田は、明らかにファシリテーター型劇作家に近い。

アンドロイド演劇『さようなら』は、ファシリテーター型劇作家の特徴を端的に示しているように思う。この演劇は、ロボット研究の第一人者である石黒浩による精密なアンドロイド「ジェミノイドF」が登場する20分程度の舞台であり、同時に舞台に登場するのはジェミノイドFと俳優一人という極めてシンプルな演劇である。

『さようなら』ではアンドロイドが俳優に求められて詩を朗読し、その詩に対してアンドロイドと俳優が会話する場面があるのだが、アンドロイドと俳優の会話という状況において、そこで朗読される詩は物語上と何か関連があるようにも見えるし、ほとんど関係ないようにも見える。これは舞台上で会話というプロセスを生むための、また、観客同士の対話というプロセスを生むための仕掛けのように見え、舞台上の会話の内容は何でもいいとも解釈ができる。次に引用したのは『さようなら』ではなく『東京ノート』の内容に関してなのだが、ここでの平田の発言を見ると、やはりコンテンツを正しく伝えることよりも、多様な解釈からどんな対話が生まれるのかというプロセスの設計を重視しているということがいえそうだ。

武田 平田さんの舞台を見ると、登場人物の行動がひとつひとつ腑に落ちるんです。たとえば、『東京ノート』に人生の一大決心をした次男が出てきますよね。何気ない一言に彼の心の深い葛藤が表れている。強烈なリアリティを感じます。平田オリザという劇作家はどこまで役になりきって台詞を書いているんだろうと驚愕します。

平田 じつはですね……、ぜんぜん深く考えてないんですよ。

武田 それはウソですよ(笑)。

平田 いやいや、本当なんです(笑)。武田さんみたいに、観客が勝手に共感して、編集してくれるんです。だから、脚本はギチギチに計算するのではなく、ランダムなほうがいいんですよ。

【平田オリザ氏×武田隆氏対談】(前編)決して同じ気持ちになれなくても、つながることはできるんです。 平田オリザが語る、演劇とソーシャルメディア|識者に聞く ソーシャルメディア進化論|ダイヤモンド・オンラインより

さらに、2014年11月23日に東京芸術大学 音楽学部第6ホールでの『さようなら』上演後のアフタートークで、平田は興味深い発言をしている。彼は感情表現を演出することがほとんどなく、「0.2秒の間を開けて」など具体的な指示が大半を占めるとのこと。そしてなんと、『さようなら』においてもアンドロイドに対する指示と、人間の俳優に対する指示に差がまったくなかったことで、俳優たちはいつもとの一貫性にある意味納得したという。これはファシリテーターが場の設計において、どんな状況で何秒間話してもらうかというプロセスを設計することと極めて似ているともいえる。

ここで改めて、ファシリテーションという言葉を定義してみたい。ファシリテーションとは、場の目的に応じた問いを投げかけることで対話や議論を方向づけ、参加者の内的気づきを促したり、集団の問題解決や意思決定や合意形成のプロセスを支援したりするための手法である。そしてファシリテーターとは、ファシリテーションを担う役割の人である。

そして平田がファシリテーションしているのは、演劇という舞台ではなく、演劇はあくまでも問いとして観客に投げかけられるものであり、それを鑑賞した観客同士が対話をしていける舞台である。

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