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観客たちの稲穂(オリザ)の束ね方

oryza. ae. f.《植》稲、米 『羅和辞典』(研究社)

 

0.  問題の提起
 平田オリザの戯曲は、まるで「楽譜」のように各場面ごとの会話の速さや重複部分が「☆」「★」「◯」などの記号として「記譜」されている。平田の戯曲において特徴的な「同時多発会話(舞台の端々で別個の集団が、同時に異なる会話をおこなう現象)」は、あたかも小さな合唱がおこなわれているかのように展開されていく。逆に言えば、こうした「楽譜の読み方」を心得ていなければ、平田の戯曲は読むことが難しく、その意図することはなんとなく分かっても、演出効果の妙はなかなか読者に伝わってこない。
 こうした戯曲の書き方は、平田の演劇と観客に対峙する姿勢から不可逆的に生まれてきたものだが、それではなぜこのような「記譜法」がおこなわれなければならなかったのだろうか?

 このような問いに答えるために、本稿においては、「現代口語演劇」と呼ばれる平田の戯曲において「見えるもの」と「見えないもの」がどのように観客の想像力を喚起させるかについて概観し、それがどのような背景から生じてきたのか、そこからなぜこうした「記譜法」が必然的に要求されるのか、更にこのような戯曲の書き方によってどのような演出効果が得られるかについて、考察しなければならない。

 

1.「現代口語演劇」という方法
 平田オリザの演出法は、俳優の内面を吐露する、というやり方を徹底的に否定することから始まった。
 またその戯曲においても、表面上はこれといった大きな事件は起こらず、登場人物の会話を通して、日常の平坦な出来事が繰り広げられる。
 しかしそれらは「ただの”日常”ではなく、虚構=演劇としての”日常”をそれとして観客に届けるための戦略的な方法を介して、”日常”を「芸術」(演劇)へと変換して提示すること。しかもそれを、不可視の何かではなく、具体的かつ可視的なものとして、提示すること。」(1)が要求される。
 ただし、演出においてはすべてを可視化させるのではなく、一定の「見せる」「見せない」線が引かれて、そこから先は観客の想像力にゆだねられることになる。

 演出家平田オリザと、平田が主催する劇団「青年団」のドキュメンタリー映画『演劇1・2』を監督した想田和弘は、同映画の創作過程についての著作『演劇vs.映画』において、平田と対談をおこなっている。
 そこで平田は、今回の映画に関してはドキュメンタリーなので撮影にあたって特に制約をもうけなかったが、かつて自作品のDVD化に際して唯一、注文をつけたのが『ソウル市民』の一場面であり、カメラが舞台の後ろを回り込んで撮影しようとした時であった(2)、と述べている。
 その場面においては、朝鮮人の女中さん役の女優が客席に背を向けて座っているため、観客は女優の表情を見ることができない。周りの日本人たちは彼女を意識せず、差別的な会話を悪意なく続ける。

 こうした「見せる」「見せない」という演出について、佐々木敦は想田と同様の指摘を『東京ノート』の一場面においておこなっている。美術館のロビーで偶然再会した女子大生と元家庭教師は、かつて付き合っていた。過去に彼と別離したあとで、「あのね、あのあとね、子どもできたんですよ」と今告げて、「え?」と驚く彼に向かって、彼女は「うっそ、」(3)とうそぶくのだが、ここでも女優は客席に背を向けて台詞を発するのだ。
 こうした「情報の極端な制限こそが、観客の想像力を駆動する」手法によって、平田が近年において取り組んでいる「ロボット演劇」においては、表情に乏しいロボットの顔が「観客の想像力を映し出すスクリーン」(4)として演出効果をあげている、と佐々木は指摘する。

 観客にとっては「見える」ものと「見えない(が、想像力を喚起させられる)」ものの演出効果は、舞台の上に提示されているものに対してのみ、おこなわれているのではない。
 光石亜由美は松本の上掲書の書評において、『ソウル市民』には「「小文字の歴史」=一つの在朝日本人の認識地図から、「大文字の歴史」=植民地主義を「わかるように見せる」という、「「見えないものを見る」という主題」(松本102頁)」があり、「観客にも「植民地問題」をめぐる「記憶」に向き合うことを要請するという意味で、現代的な問題認識を扱ったものとして」(5)松本の同作品に対する分析を紹介している。

 

2.  どのような背景から「現代口語演劇」は生じてきたのか
 いったいなぜ、「現代口語演劇」が平田オリザによって発明され、日本に普及したのか。
それは、今までの近代日本の「演劇」がリアルなものではなかったから、という理由に尽きる。
これは戯曲の創作をおこないつつ、同時に演劇論を積極的に発表してきた平田オリザ自身が詳しく解説している。
 明治維新後、日本社会が急速に西洋化の段階を踏んでいくにあたり、外国の翻訳劇を直輸入したのだが、それらが日常会話ではない口語劇であったこと。また、1920年代以降に近代演劇が本格的に導入される過程において、日本の演劇界がイデオロギー活動(左翼運動あるいは体制翼賛時代における活動)と密接に結びついていたことが前提にある。
 そして、口語訳の翻訳劇により、「こんなふうに人間を描けるんだという、ある種の素朴な感動」が生じたため、「いまの「新劇調」と言われるセリフ回しのもとになるような、非常にゆがんだ口語表現のかたちができてきた」。したがって「それをリアルだと信じ、日本人の体の中に刷り込ま」れていったためだとする。(6)

 私たちは日常生活を営むうえで、「自分」や「他人」そして「世界」についてのイメージを念頭に置く。
 一人一人の頭の中では、その統一された自己である「自分」は戯曲を「黙読」するように考え、台詞を「しゃべる」ように滑らかに他人と話をしている、と思い込んでいる。
 しかし実のところ、私たちはそれほど統一的に思考を展開している訳でもないし、他人と滑らかに会話をしている訳でもない。
 私たちは自分自身が「どうあるか」について、どのようにすれば、もっと良く知ることができるのだろうか?

 

3.  なぜこうした「記譜法」=戯曲の展開法によって平田オリザの戯曲は描かれるのか?
 まず平田の演劇と観客への向き合い方について、検討しなければならない。
先に挙げた想田和弘のドキュメンタリー映画『演劇1』の演劇のワークショップ場面で、平田は演劇においては、舞台と客席のあいだで「イメージの共有」が成立しており、観客は日常生活において他者とイメージの共有が見出しにくいものを、演劇から受け取りたいと望んでいるのだ、と説明する。そして、人々のあいだでもっともイメージの共有が難しいのは他人の心の中である、というのが平田の主張である。

 平田オリザは2000年代後半よりロボット演劇プロジェクトへの取り組みを開始し、2010年以来実際に上演され、さまざまな反響を呼んでいる。
 2011年に開催されたTEDxSeeds会議において、平田は「人間らしさとは何か?」という題目で、ロボット演劇の可能性についての発表をおこなった。
 そこでは、アウトサイダーアートの一種である障害者(ここでは色の三原色を認識するための各脳細胞を、さらに統合する機能を持った脳細胞が壊れてしまった人の例)のアートに対して、なぜ健常者が感動を覚えるのかという疑問について、平田が作家としての解読を示している。
以下に該当箇所の略述を記す。
 「とりわけ色使いが特殊であるとされている障害者のアートに、感動を覚えるのはなぜか。
 それは彼らが描く色が、私たちの脳細胞が最初に見ている色だからである。
 私たちは、そのような強い色を刺激として受け取ることは不可能であるため、世の中を丸く収めるために、何となく統合している。
 これは音についても同様であり、本当に脳細胞が知覚している音を、そのまま私たちが受け止めようとしたら、多分何かを犠牲にしなければならない。
 だからそれらの音を緩やかに受け止めるような機能を、私たちの脳は持っている。
モーツァルトは多分そうだったと言われており、モーツァルトの楽譜にはほとんど書き損じがないことから、こうした推測がおこなわれている。つまり、彼は音を聞こえたまま、記譜している。
 しかし作家や演出家は、そうした能力を後天的に得ようと努力する。
どうしてそうした能力を得ようとするかというと、それは常識にとらわれずに、物の本質を見る訓練をするためである」(7)

 つまり平田オリザの「記譜法」とも言うべき複雑な戯曲の書き方、および俳優に「負荷を掛ける(=台詞の発話と同時に身体的な動作を要求する等の)」演出の仕方は、作家・演出家として、観客に対して物をあるがままに見せて、あるがままに聞かせて、願わくばあるがままに感じさせたい、という要求から発生したものだといえる。
 上述した想田の著書『演劇vs.映画』には、宇多丸(ライムスター)と想田和弘の対談が掲載されているが、そこで宇多丸も同様の指摘をする。
 「現実に悲劇的な出来事が起こっても「悲しい」という感情すら出てこなかったりするのに、映画で見ると簡単に泣いたりする。それは人間というものが、一旦物語っていうか「解釈」を通さないと、いろんなことが認識できないってことなんじゃないかと思うんです」。(8)

 

4.  結論:平田オリザの戯曲の記述法によって、どのような演出効果が得られるか
 ここで再び、想田のドキュメンタリー映画『演劇1』のワークショップ場面における、平田の人間観を確認することが、参考となる。
 平田は黒板に「(((((       )))))」という記号を書き、彼の想定する「人格」とは何かについて説明する。
 日常生活を送るうえで、私たちは「教師」「父親」「夫」などのさまざまな役割を演じながら生きている。

 ところが子供に対しては、「本当の自分を見つけなさい」とか「本当の自分の意見をいいなさい」と言うわけですね。
でも、本当の自分の意見なんか言ったら困るじゃないですか、私たちは。普段私たちは、社会的な生活や他人との関係の中で表現ってのは生まれてくるわけで。
ま、これを私たちはよくタマネギの皮に喩えるんですね。タマネギってのはどこからがタマネギでどこからが皮ってことはないですよね。で、こういうのを演劇の世界では「ペルソナ」というふうにいいます。ペルソナというのは、仮面という意味と、パーソンの語源になった「人格」という意味の両方を兼ね備えているんです。要するに仮面の総体が人格なんです。だから私たちは演じる生き物なんですね。(9)

 一個人としての人間の中には多くの「仮面」「人格」としての「タマネギの皮」がある。
俳優は舞台の上で、さまざまなペルソナをまとっている「かのように」演出されているのだが…舞台のこちら側にいる客席の私たちは、各人がさまざまな思いを、舞台の四方八方や、俳優たちの重なる会話などに、投影していく。
 瞬間瞬間における「稲穂(オリザ)」という名の演出家の演出に対して、観客はその都度ごとにさまざまな思いを統合し(=束ねながら)、ひょっとすると同じ会場の他の客たちは、目の前の一つの舞台の演出について、自分とは違う印象を持っている「かもしれない」という確信めいた予感を抱き続ける。

 

【引用文献】
(1)松本和也『平田オリザ <静かな演劇>という方法』(2015)彩流社 p.79.
(2)想田和弘『演劇vs.映画 ードキュメンタリーは「虚構」を映せるか』(2012)岩波書店 p.150.
(3)平田オリザ『平田オリザ 1 東京ノート』(2007)ハヤカワ演劇文庫 pp.182-183.
(4)佐々木敦「アンドロイドはロボット演劇の夢を見るか?」『文藝別冊 平田オリザ 静かな革命の旗手』(2015)河出書房新社 pp.131-132.
(5)光石亜由美「書評 松本和也著『平田オリザ <静かな演劇>という方法』」『ゲストハウス 7』信州大学人文学部人文学科松本和也研究室(2015) p.47.
(6)平田オリザ『「リアル」だけが生き延びる』(2003)(株)ウェイツ pp.20-23.
(7)平田オリザ「人間らしさとは何か?」
(http://www.ted-ja.com/2015/12/ren-jian-rashisa-tohahe-ka-ping-tian-oriza-tedxseeds.html)
(https://www.youtube.com/watch?v=36NCa31nUlM)
(8)想田和宏 同上 p.111.
(9)想田和弘 同上 p.61.

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